|
ミユウさんからの投稿
直木賞受賞作家の熊谷達也さんの講演 秋の文化祭のオープニングで、 直木賞受賞作家の熊谷達也さんに講演していただく機会がありました。 題は「リアルに生きる」って、大して小説には関係なかったんですが、 とある部分では大いにうなずくべきことをおっしゃってました。 聞きながらああ確かにとか思っていたんですが、 とりあえず頭の隅においておく価値はあるんじゃないかと思ってメールしました。 以下、熊谷達也さんのお話です。 ******************************************************************************* 私、直木賞を受賞したということで件の役所から来なさいと言われたんですよね。 直木賞は候補に挙がった段階で打診がくるんです。 なのに役所からはいきなり来なさいと言われました。敬意も表さずにね。 今回の講演のお誘いがあったのが、受賞前のちょうどいい時期で、大変うれしかった。 受賞したから講演してくれなんていうのは嫌いですから、断ってます。 だから私は皆さんに敬意を表すために何を着るかで迷ったんです。 迷った挙句、結局このスーツに収まりました。役所には普段着で行ったんですけどね。 私、思うに若い人には敬意を表さねばならないんです。 いずれ私が30年後に老いて、 年金などで私を支えてくれるのはそのころ働き盛りのあなた方ですから。 今のうちに感謝しておこうと。 私、今までに2回ほどサイン会をする機会がありました。 私の本を読んでくださる人って、私と同じくらいか、それ以上のお年の方が多いんです。 特に男性。女性の方がいらしたと思ったら、 夫が病気で来られないので代わりにもらいに来ました、って人だった。 図書館の先生がいらしたら申し訳ないんですけど、 私の本を入れていただいて、若い皆さんに読んでもらいたい。 1冊2000円なんですけどね。買っていただくと私に印税が200円入ります。 こんなやつに200円くらいなら恵んでもいいというのなら、ぜひ一人一冊買ってもらいたい。 そして国語の先生方にも読んでもらって、テストにはすべて「邂逅の森」から出題してもらうと。 まあこんなこと言っていたら本の宣伝ばかりになるのでそろそろ本題に入りましょう。 私の人生の過程と言いますか、これを聞いて少しでも希望を持ってもらえたら幸いです。 私は仙台に生まれて、4歳のときに親父の仕事の事情で登米郡というど田舎に引っ越しました。 本当に回りは田んぼだらけで、不便でしたね。 父親の仕事が小学校の教員ということで私はひねくれ者に育ちました。 いたずらばかりをするうちに、嘘をさも本当のように言うのがうまくなったんですよね。 だから今小説家という、嘘をつく職業なんかやっているわけですけど。 小説家っていうのは中学のときに漠然となりたいなあと思っていた程度でした。 中学と高校の時にはジーパン一本買うのにわざわざ仙台まで出て行かなきゃならなかったので、 都市へのあこがれというものは強かったと思います。 けど高校でバイクにはまってしまい、ほとんど勉強しなかった。 試験の10日前になって思い出したように勉強をする、という程度でした。当然浪人しますよね。 浪人生活1年目はまず仙台にアパートを借りて塾に通い始めました。 が、授業開始時刻あたりにちょうどパチンコ屋が開店していて時間を潰したり、 仲間と一緒にロック喫茶というところに入ったり。そのころはロックにはまっていたんですよ。 そんな生活を続けていて、やっぱり受かるはずないんですよね。 二浪めは孤独だった。 実は仲間は隠れて勉強していたんですよ。 だからもうだめだ、と思って、中学のときからなりたかった小説家にでもなって、 こんな生活から抜け出てやるって、小説を書き始めたんです。 そして色々と応募して、発表号の発売を期待して待っていたんです。 けどそういう受賞って前もって通知が来るものなんですよね。 それがないなら落ちたんだな、と。棒にも箸にもかからないものだったわけです。 そうこうしているうちに三浪していました。 三浪目は6月ごろまで小説を書いていました。 これは区切りみたいな感じで。そのころは東京に出てみたいと思い始めていました。 そこで東京理科大と東京電機大の理工学部を受けたんです。 三浪もしていると、テストのときの感触で、お、これは受かるなというのがわかるんです。 先に電気大の試験で受かったと思いました。 で、次の理科大なんですけど、合格したら通うことになる学部がかなり田舎だったんですよね。 正直田舎にはもう住みたくないと思っていましたので、その試験の日は喫茶店で時間をつぶして、 さも受けたかのような顔をして実家に帰ったわけです。 いやあ、やっぱ理科大は難しいわ、合格できないかもしれない、なんて言いながら。 そしてもくろみ通り東京電機大には合格したんです。 これでやっとシティボーイになれたな、と喜んだりもしました。 けど実は通うことになるキャンパスは試験を受けた街中のキャンパスではなく、 所在地が埼玉なんて、私の故郷よりも田舎だったんです。 何が悲しくて大学生にもなってスクールバスに揺られなきゃならないんだって思いました。 同時にもしかしたら神様は私のことを見ていたのかもしれないとも思いました。 なんだかんだで単位はちゃんと取っていたんですよ。 で、卒業と言うことになったとき、システムエンジニアになりたいと思ったんですけど、 結局ムリで千葉で数学の教員になりました。 そこでは結構荒れた学校に配属され、一番目立つ生徒と始業式の日に殴りあったので、 すぐに生徒指導部にまわされました。いきなり3年を持たせられましたね。 ある日、生徒が、「あいつ、バイパスをバイクで飛ばしてたよ」と言ってきて、 車を出していってみたんです。 そしたらどこから盗ってきたか知りませんが、スクーターでジグザグに走り回っていたんですよ。 中学生のくせに。 それで車を寄せて田んぼに突き落としてやってようやく止めたりと、 そのころはそれなりに楽しかったんですよ。仕事を熱心にやっていてね。 で、しばらくして仙台に戻ってきて教員をやったと。 結局親父と同じ職業かと思っていた。 これからずっと教員をやって、教頭になって、校長になるなんて嫌だな、と思いました。 校長先生いらしたらごめんなさい。 ある年の新年に、なんだか身体の調子がわるいなあと、学校を休んだんです。 午後になると、お、これなら明日は大丈夫そうだと思うんですけど、 翌朝になるとどうしても布団から出られない。 授業も遅れる。そうこうして2,3週間さぼってました。 これは本格的にヤバイな、と思いました。そこで思い切って辞職届を出したんです。 校長は引き止めてくれませんでした。引き止めてくれよ、と思っても引き止めてくれませんでした。 不思議と辞職届けを出した翌日から復帰することができたんです。 遅れていた授業をがんばって進めて、それでやればできるなあと思っていたのに、 辞職の日が来てしまった。 次にやったのは保険の営業の仕事でした。 それまで教員をやっていたり、生来の性格も相まって私は頭を下げたりしない人でした。 けど契約をとるには一日100軒の家を回って頭を下げなくてはならない。 これは少し勉強になりましたね。 教員試験に保険の営業を3年やらせて、 生き残った奴を採用するなんてしたらいいと思うんですよね。 人に頭をさげることの意味が少しわかりました。 そしてついには代理店を任されるくらいになったんです。 そのころは契約していただいた方に説明のための訪問したりしていたんですけど、 ある日、一日だけスケジュールが空の日があった。 良く晴れた日でした。そこでふと気づいたんです。 あ、俺って小説書いていたこともあったんだっけ。今日はすることないな、書いてみるか、と。 もしかしたら神様がそうしろと言っていたのかもしれませんね。 それから1年半ほどでデビューできたのは運が良かったと思います。 それから5年ほどで、こうして直木賞をとれて、自分は小説だけで食っていけるかな、 とようやく思えてきたところです。 あるときに井上ひさしさんに言われていたく感銘を受けた言葉があります。 「小説家の究極的な目標は、自分にしか書けないものを、誰にでもわかるようにかくことだ」 という言葉なんですが、 これが素人だと誰にでも書けるようなものを、自分にしかわからないように書いてしまう んですよね。これじゃいかん、と思い、常日頃このことを頭においておくわけです。 そんなこんなで今の私があるわけです。 小説とは関係のない話ばかりで申し訳ないと思うんですが、言いたいことは、 こんなに紆余曲折してきた奴もいるんだから、皆さんは挫折したりしても、 全く悲観することはないんですよ、ということです。 これを機会に少しは将来に希望がもってもらえたら嬉しいです。ありがとうございました。 ****************************************************************************** だいたいこんな内容でした。 これで1時間くらい話していたので、結構抜けているところもあるだろうなあ・・・。 ここからはプロフィールをもらったんで、それも書いておきます。 ***************************************************************************** 熊谷達也(くまがい たつや) 1958年仙台市生まれ。東京電機大理工学部卒。 写真家と巨大ヒグマの対決を描く「ウェンカムイの爪」で、 97年小説すばる新人賞を受賞してデビュー。 最初はまだ執筆テーマが決まっていなかったと言う。 2作目で、研究者がニホンオオカミを追跡する「漂白の牙」を書き、 2000年新田次郎文学賞を受賞した。 「ここで後押しされ、軸が定まってきた、 動物や自然を書くことは自分の身体にあっているような気がした」と言う。 宮城県の穀倉地帯で育つが、田んぼが広がる起伏のない風景や、 強いしがらみが苦手で、大学は東京へ。 2作目執筆中に資料で「マタギや猟師、蝦夷など、 稲作地帯としての東北でないもう一つの東北の顔」を知る。 「昔嫌っていたところが、こんなにおもしろいじゃないか」と故郷を再発見する。 今年5月に山本周五郎賞に選ばれ、7月には直木賞に選ばれた「邂逅の森」は、 秋田のマタギ村で生まれた富治が主人公。 主人公は、マタギとして成長するが、地主の娘と間違いを起こし、村を追放され、炭鉱に向かう。 この作品では人間の情念、自然との格闘、圧倒的な自然の姿が作品からあふれる。 *********************************************************************************** ・・・・・・ああ疲れた。2時間かかりましたよ、これ。 まあこれをいい機会に、訪問者の皆さんにもラノベばかりでなく、 こういったものも読んでもらいましょうかね。 あと昨日で文化祭は終わったんですけど、ちょっと貴重な体験をしました。 男子校の文化祭になぜかロリータファッションで来ている人がいまして。 いやあ、リアルでそんな人もいるんだなあと思ってしまいましたよ。 薄いピンクのブラウスにフリルのついた黒いスカート、ソックスも黒でやっぱりフリルつき。 極めつけは日傘でしたね。真っ白で、またしてもフリル。 それでいて似合っていないわけではないんですよ。スタイルもまともでしたし。 小説に出したろかと思ったり思わなかったり^^; ▲目次に戻る |
maoshuさんからの質問
説明文が多いと、読者に共感してもらえない? うっぴーさん、はじめまして。 maoshuと申します。 自分のサイトでは、二次創作やオリジナルを作成していますが、 感想文の中で気になったのがあるので、ご意見をお伺いしたいと思いました。 それは、説明文が多い表現が多いと、共感をしにくいと言うものでした。 読者は、主人公とシンクロして、読み勧めていますが、途中で、説明が多いと、 現実に引き戻されて、他人視点になってしまう、つまり、共感ができないというものがありました。 でも、ストーリー的には、難しいテーマを扱っているので、説明を入れないとわかりにくいという考えがあったので、入れたのですが、そうやって書き始めると、説明文がどうしても多くなってしまいます。 それとも、開き直って、説明を入れないようにしたほうがいいのでしょうか? 回答頂けたら、幸いです。 ちなみに、参考として、その説明が多いという小説を添付しました。 「君が望む永遠」の二次創作です。 小説を飛ばして答えを読む↓ 六年目の真実(仮) 第一話 脳死の判定 -------------------------------------------------------------------------------- 孝之(たかゆき)は、自分を責めていた。 自分の彼女と関係を持ってしまった事について、深く落ち込んでいた。 自然のなりゆき上、恋人同士がそういう関係を持つのは、当たり前かもしれないが、彼女は病人であり、脳の状態が不安定である。 病院で、しかも、彼女が寝ているベッドで関係を持ち、その結果、昏睡状態になった。 しかも、しばらくして、恋人が妊娠している事が判明した。 恋人は、未だに意識不明の昏睡状態。でも、体の中には、新しい命が。 主治医は、当然のように中絶を勧めた。 しかし、事情を知った恋人の妹が、出産に同意してくれた。 彼女は、オリンピック出場の水泳選手、最有力候補だったのに、その夢を捨てて、生まれてくる子供のために生きようと決めていた。 自分のせいで、二人の人生を滅茶苦茶にしてしまった。 その内、一人とは、つい先日別れた。 そして、今度は恋人の妹に同じ事をしようとしている。 このままだと、彼女は二の舞になってしまう... もう、誰にも迷惑をかけたくない... 孝之は、病院のベッドにいた。 隣には、恋人遙(はるか)の妹の茜(あかね)がいた。 茜は、子供を抱えていた。 その子供は、二人の子供ではない、孝之が過ちで産んでしまった遙の子供である。 あれから、三年。 遙は無事出産したが、昏睡状態から未だに目覚めていない。 いわゆる、植物状態である。 茜は、遙が目覚めるまで、その子供の母親になろうと決めていた。 茜は高校卒業後、孝之と結婚し、子供は養子という形で引き取ることにした。 子供の名前は、遙が目覚めてもわかりやすい名前にした。 「慎二(しんじ)」 それが、子供の名前だった。 慎二というのは、孝之と遙の親友で現在は、法律事務所で働いている。 この名前は慎二のアイディアである。 遙が目覚めてもわかりやすいようにというのと、その子供を自分だと思ってかわいがってやれという2つの意味を持っていた。 子供が生まれた頃は、かなり自分を責めてたのに、今は茜の励ましもあって、なんとか立ち直っていた。 子供のために、定職にも就いた。 バイト先の店長が事情を知って、正社員に推薦してくれていた。 おかげで、孝之は、幸せな家庭を築いていた。 遙という元恋人を除いては... それから、三年後。 息子の慎二は、小学生になっていた。 孝之達は、茜の実家で暮らしていた。 いわゆるマスオさんである。 だが、苗字だけは涼宮(すずみや)ではなく、鳴海(なるみ)という元の姓にした。 遙のためを思って涼宮家の養子になるのを取りやめていた。 孝之は、茜の父から、自分の助手にならないかという誘いを受けた。 茜の父、宗一郎(そういちろう)は大学教授をしており、自分の助手として、孝之を考えていた。 でも、孝之は、自分の仕事のほうが大事だからだと言って、その誘いを断った。 宗一郎は、大学で凍結乾燥、つまりフリーズドライの研究をしている。 まだ、結婚する前、自分の発見した、フリーズドライの方法を特許庁に認可した上で、 食品会社に売り込んだ。 食品をマイナス170度ある液体窒素などの中に入れ、フリーズドライさせると、食品はミイラのように水分が抜け、固くなるが、栄養価、風味などは損なわず、湯で戻しても生で食べるのと変わらない味や触感になる。 宗一郎の熱意もあり、フリーズドライは、食品会社に徐々に受け入れられていった。 現在は、カップラーメンや、冷凍食品、ドライフルーツなどの乾物類などに利用されている。 また、NASAなどの宇宙食にもフリーズドライが用いられている。 その結果、宗一郎は莫大な特許料を得て、一部を研究、一部を家庭に使用している。 最近は、新しい研究テーマを見つけたようで、その研究のための助手を欲しがっていた。 孝之が断ると、宗一郎は、失業したら雇ってあげるよと笑いながら、この場を退き下がった。 茜は生涯孝之は職に困ることはないだろうと呆れながら、この様子を見ていた。 茜にしても、孝之を父親の助手にすることは反対だった。 この前、液体窒素を家に持って帰ってきたときは、さすがに家族全員が驚いていた。 特に、息子の慎二はまだ小学生である。 慎二が誤って、液体窒素の入ったタンクで遊んだらどうするのだろうか? また、液体窒素という危険なものを孝之が扱って大丈夫なのか? 茜に散々怒られながら、宗一郎はしぶしぶ孝之のことをあきらめたようだった。 だが、翌日、今度は液体酸素を家に持って帰ってきていた。 さすがに、茜はブチ切れた。 その結果、もう液化した気体を持って帰ってくることはなかった。 そんな、ある日、病院から緊急電話が入った。 電話を取った父親の宗一郎は、ひどく驚いていた。 その電話を聞いて、母親の薫(かおる)は泣いていた。 孝之と茜の二人も驚きを隠せない。 脳死。 遙が脳死状態に陥ったという電話が入った。 脳死に陥ると植物状態とは違い、自発的に呼吸が出来ない。 そのため、遙はベッドで人工呼吸器をつけられていた。 植物状態と脳死は同じだと混同されがちだが、実は全然違ったものになる。 脳には、大きく分けて、大脳、小脳、脳幹に分けられる。 脳幹とは、中脳、橋、延髄の総称のことをいう。 植物状態とは、大脳の機能が停止したものである。その為、損傷具合によっては、意識を取り戻す可能性もあるし、呼吸機能である脳幹は作動しているので、昏睡状態でも自発呼吸を行うことが出来る。 だが、脳幹が停止すると、呼吸機能も停止してしまうので、自発呼吸が行えないため、人工呼吸器が必要になってくる。 別室で主治医のモトコは家族全員を集めていた。 慎二は、茜の親友、千鶴(ちづる)の家に預けている。 「遙さんは、先程脳死状態にあると判断されました。正確に言いますと、小脳の機能は停止していませんが、大脳と脳幹の機能が停止している、脳幹死という事がわかりました。」 「どうして、脳死になってしまったのでしょうか?」 宗一郎が聞いた。 「理由として、考えられるのは、植物状態の期間が長い事です。その期間が長すぎると、脳障害の進行が徐々に進んでしまったことで、脳を蘇生できる限界を超えてしまい、結果、二度と元に戻れない脳死に陥ってしまったものだと考えられます。このまま、意識が戻らないと、いつかは、こういう日が来ると覚悟していましたが。とうとう、この日が来てしまって、主治医として非常に残念です。」 モトコが冷静に説明を続ける。 「わかりました。まぁ、あの事故から、今年でちょうど十年ですからね。」 「脳障害が徐々に進んでいったということは、もしかして、遙が一度目覚めたときに、時間が経ったのを理解できなかったのは、もしかして。」 「可能性はあります。記憶分野の海馬が一時障害を受けていたことから、考えても、もし かしたら、事故に遭ったときに、すでに、脳障害が進行していったとも考えられます。」 薫の質問にモトコが冷静に説明を続ける。 「それでは、本題に入ります。遙さんが、脳死状態にあると判断された以上、あなた方、ご家族には四つの選択肢があります。」 モトコの説明によると、脳死になると家族が選択する治療方法が限定されてくる。 それが、以下の四つになる。 まず、遙の心臓が停止するまで、人工呼吸器や薬物による治療を繰り返し行う、「積極的治療」 次に、新しい治療を行わずに、遙の心臓が停止するまで、従来の治療を行う、「消極的治療」 次に、人工呼吸器を取り外し、遙の心臓を停止させる「治療の中断」 先程のモトコの説明の通り、遙は自発呼吸が行えないため、人工呼吸器を取り外すと、遙の心臓は停止する。 これが、いわゆる、現在も反対派がおり、議論がされている尊厳死のことである。 最後が、脳死後か心臓停止後に、臓器を提供する「臓器提供の承諾」 孝之は、モトコの説明を聞いてひどく興奮していた。 「先生!なんなんですか、この選択肢は!これじゃ、まるで遙が死んだみたいじゃないですか!」 「まぁ、落ち着きたまえ。鳴海くん、ニュースで見たことがあると思うが、脳死は人の死かというのが一時期騒がれていたことがあって、1997年10月16日に、政府は「臓器移植法」なるものを成立させた。ここまでは、理解できるな。」 モトコの質問に、孝之は無言で頷いた。 「今も議論がされているが、現段階の日本の法律では、脳死は人の死と定義されている。つまり、脳死と判断された以上、遙さんは死んだことになる。」 死んだことになる... 孝之は、いまいち状況がよく飲み込めていなかった。 「先生!脳死というのは、脳の活動が止まっているだけで、心臓は動いているんでしょう?だったら、目覚める可能性もあるんじゃないですか?」 「残念だが、そんな症例は聞いたことがない。仮にあったとしても医者の診断ミスがほとんどだ。もし、脳死から目覚めたらそれこそ、医学界に取っては大発見になるけどね。」 「でも、人工呼吸器もつけた状態ならいつかそういう可能性も...」 「脳死の場合、人工呼吸器をつけた状態でも、最低三日で心臓停止になる。先程の「積極的治療」でもいった薬物投与で長く持たせることができるが、それでも、もって一週間が限度だ。」 モトコは、孝之の言葉を遮って説明を始めた。 「そ、そんな...」 モトコの説明を聞いて孝之は、ひどく落ち込んだ。 「それじゃ、もう姉さんは助からないということですか。」 「私もひとりの医者としてこのような事を言わないといけないのが、辛いが...その通りだ。」 その言葉を聞いた瞬間、茜はその場に崩れ落ち、泣き声をあげていた。 茜や孝之だけでなく、薫も泣いていた。 「先生、私が説明を聞きますので、続けてください。」 三人は、気分を落ち着けるため、待合室で待つことになった。 説明の続きは、宗一郎ひとりが聞くことになった。 30分後。 モトコの説明が終わり、宗一郎は、待合室に来ていた。 「少しは、気分が落ち着いたかね。」 宗一郎が三人に向かって優しく声をかけた。 三人は、気分を少しだが落ち着けてきた。 「孝之君、遙がこんな状況になって辛いと思うが...」 「そんな、お義父さんだって辛いのは同じなのに、説明を聞いてくれて...」 しばらく、四人は話し合って、気分を落ち着けていた。 残りのモトコの説明は、宗一郎が聞いていたため、慰めた後、四人は家に帰った。 第一話 脳死の判定 END -------------------------------------------------------------------------------- ● 答 ● 説明過剰となると、ストーリーのテンポが遅くなり、先が気になる読者にストレスを与えてしまうということは確かにあります。 しかも、それが聞き慣れない専門用語を駆使した難解な解説であれば、読んでいる方は途中で投げ出したくなるでしょう。 ただ、私の好きなプロ作家の作品に説明過剰と言えるモノがありますが、それほど気になるということがありません(人によって好みが分かれるでしょうが……)。 どうしてなのか、解説のために抜粋してみます。 スニーカー文庫から刊行されている浅井ラボさん著作「されど罪人は竜と踊る」 の第一巻にあった描写です。 その両掌の中の、魔剣ネレトーの回転式咒弾倉が咒弾開放の火花を吹く! ギギナの発動した生体強化系咒式第五階位 <金剛鬼力膂法(バー・エルク)> により、筋肉繊維の遅筋にグリコーゲン、速筋にグルコースとクレアチンリン酸が、両方にアデノシン三燐酸と酸素を送り込み乳酸を分解、ビルピン酸へと置換。脳内四十六野と抑制ニューロンによる筋肉の無意識限界制動を強制解除する。同時に甲殻鎧の各部を締める螺子を弾き飛ばすほどに、瞬間的に筋繊維容量が増大する。 まさに圧巻な文章密度ですね(笑)。 悪文と紙一重ですが、異様な迫力があります。 さて、この浅井ラボさんの文章とmaoshuさんの文章の違いはなんでしょうか? 私が考えるにそれは2つあります。 まず1つ目は、動きがあるか無いかです。 浅井ラボさんの書く文章は、もー、めまいがしてくるほど説明過多、描写過剰なのですが、それはアクションと連動しています。 そのため、アクションシーンの光景がありありと脳裏に浮かぶことになり、迫力を生み出すのです。 立ち止まって説明したり、章の初めや中間地点で、一気に解説を入れたりといった手法はダメです。 そんなことをされると、その間は登場人物たちの動きが見えなくなるため飽きます。 説明はあくまで登場人物のアクションと平行して行ってください。 コツとしては、走りながら舌を噛みそうな状況で説明したり、車を運転しながら説明したり、街並みを散策しながら説明したりといった手法が有効です 。特にバトルシーンで、格闘技術や魔法の説明をするのは王道ですね。 2つ目、これが最大の違いにしてmaoshuさんの欠点です。 maoshuさんは説明が多いにも関わらず、ストーリーの進行速度が異様に早いです! そのため、説明を理解する前にストーリーが進んでしまい、なにがなにやら訳がわからない状態になっています。 一方、浅井ラボさんの文章は、 説明過多なシーンに移ると、ストーリーの進行速度がカタツムリ並みに落ちます。 上の文章だって、これだけ書いて剣を振り抜くという動作を1つしただけです。 だから、読み手は内容をゆっくりとかみ砕けるのです。 最後に、失礼ながらmaoshuさんの説明文は無機質で、おもしろ味に欠けます。 添付作品の冒頭は、小説というよりなにかの記録文章のように味気なかったです。 もっと、登場人物の感情や心の動きを織り交ぜるようにしてください。 生きた人間がそこにいるような感じがしませんでした。 ▲目次に戻る |
Glaubeさんからの質問
読者を感情移入させるには? 小説を読む場合において、感情移入するかどうかはとても大切なことだと思います。 ある意味、それがあるかどうかで小説の良し悪しが決まるといっても過言ではない、と思います。 では、相手に感情移入させる文章とは、どういうものでしょうか? 私は、激しい感情の動き、例えば、身を焦がすほどの怒りや体がバラバラになりそうなほどの悲しみなどがそれに相当するのではないかと思うのですが・・・。もしくは、共感できる何かでしょうか? このことについて、どう思いますか? それと、私は小説を書くときにキャラクター、特に主人公に感情移入(というより、思い入れでしょうか?)して書くことが多いのですが、それはいけないことなのでしょうか? なんとなく、主観的で視野の狭い小説になってしまいそうな気がするのですが……。 ● 答 ● 読者を登場人物に感情移入させるためには、まず自分がそのキャラクターに感情移入して書くことが大切でしょう。 作者の気持ちがこもっていなかったら、キャラクターも生きてこないです。 この際、Glaubeさんは、主観的で視野の狭い小説になってしまうことを危惧しておられますが、これを防ぐことは簡単です。 推敲すれば良いのです。 推敲とは文章を十分に吟味して練りなおすことです。 まず、自分が小説の登場人物になりきって、彼(彼女)に感情移入して作品を書きます。 次に一日たった後に、再度その文章を読み返してみてください。 時間がたった後もう一度読み返すと、 自分の書いた小説がまったく違ったモノに映るハズです。 この時、あなたの視点は、作者の視点から読者の視点にシフトしているのですね。 まあ、完全に読者の視点で自分の小説を読むことはできませんが、読者の視点に近づくことができるのです。 すると、最初書いたときには気づかなかった問題点にいろいろ気づくことができるでしょう。 この表現は分かりづらい。不自然な言動をしている。描写不足だ。ちょっと暴走しているなコレ……などなど。 問題点を発見したら、自分で納得がいくまで徹底的に修正してください。 しかし、まだ、独りよがりになっている部分が残っている可能性があるので、 この作業を最低でも3回くらいは繰り返えしましょう。 そうすれば、視野の狭い小説になることを防ぐことができます。 また、 読者を登場人物に感情移入させるためには、 キャラクターの生理的変化や感情を描写することが大切です。 感情移入とは、登場人物に共感すること。 そのキャラクターに自己を投影して、小説のストーリーを追うということです。 これができるか否かは、登場人物に生きている質感を感じられるか否かにかかっていると言えるでしょう。 例えば、1人の美少女(笑)が真夏の暑い日にクーラーの効いている部屋から、炎天下の外に出たとしましょう。その時、彼女はどう感じるか? 「ああ、熱い……これから部活に行くなんて憂鬱だな」 なんて、セリフだけで処理してしまっては、熱さや苦しさがぜんぜん伝わってきません。 どう描写すれば良いか。具体例を書いてみます↓。 扉を開けると、むわっとした熱気が全身に絡みついてきた。 まさに天国から地獄へまっさかさまだ……別に悪いコトなんてしてないのに。 立ちすくむ私の部活へのモチベーションは、炎天下の灼熱光線によって木っ端微塵に打ち砕かれる。 「ああ、熱い……これから部活に行くなんて憂鬱だな」 でも、ずる休みなんてことをすれば、あの出戻り女教師からどんな仕打ちを受けるかわかったものではない。 クソ、すべてはこの美貌がいけないのだ。すべての女から嫉妬を受けるこの美しさが、私に苦難を与えるのだ! 私は重い足を引きずって、浮浪者のような足取りで通学路を歩いていく。 とたんに私の美しい二の腕に玉の汗が浮かび、額からダイヤモンドのごとくきらめく雫がしたたり落ちる。 さすがは私、水も滴るいい女♪ ……なんて冗談かましている場合じゃない。まだ朝だってのにこの灼熱地獄は、はんぱじゃないぞ。 ゆらゆらとアスファルトから立ち上る陽炎には目眩さえ覚える。このまま砂漠の真ん中で力つきる旅人みたく路上に倒れ込んでしまいそうだ。 ああ、夏なんて大きっらい。 クーラーの効いている部屋が恋しいよう。 生理的変化や感情を描写して、ヒロインに感情移入しやすいように工夫してみましたがいかかでしょうか? (うまくいったか、ちょびっと不安) 登場人物に生きてる質感を与えるためには、 生の人間と同じくらい感情豊かに描写しなくてはなりません。 これ、重要です。 マリさんの意見 はじめまして、マリです。 どんな人に読んでもらうのかによって、違ってくると思いますが、私がいいなと思った小説を参考に書き込ませていただきます。 まず、主張がはっきりしているキャラです。 その主張が筋の通ったものなら、共感はできなくても「そういう考え方もあるのね」と納得できます。 次に、現実味のある設定があればいいですね。 いくら言動に筋が通っていても、現実離れしすぎていると感情移入は難しいです。 苦手なことと得意なことが二つか三つあると、人間味があっていいと思います。 独りよがりな文になると書かれていましたが、心配なら他の人に見てもらってはどうでしょうか。 他の人に感情を共有してもらうなら、他の人の目で審査してもらうことが一番だと思います。 偏った主観の文章ですみません。 一つの意見として、お役に立てれば幸いです。 ▲目次に戻る |
はまさんからの意見
小説の批評の書き方 むかし文章書きの先輩に 「他人の作品を批評する時は、最低でも十回は読め」と言われたことがありまして。 いまだに、その教えを愚直に守っていたり、守っていなかったり(どっちだ)。 おかげで文章量の少ない詩の評価でも、最低三十分はかかります。 こないだの、はやしさんが投稿された長編小説『Blind』なら、 まず作品を丸ごとコピペして、携帯にメール送信。 暇があったら、一日中ずっと読む。(便利な時代になったものだ) 本当は印刷するのが一番なのですが、インクがもったいないので、ケチってます。 だから実際に批評を書く時間を加えて考えると、 休み休みで最低3〜5時間くらいかかったはずです。 あとは 「面白かった」か、「つまらなかった」か 「どうして面白かったのか」、「どうしてつまらなかったのか」 「どうすればもっと面白くなるのか」、「どうすればつまらなく、なくなるのか」 という基本の3ステップの繰り返しです。 どんなに読解力が上がっても。 それから、作者の意図とは違う読み方をしてしまうのは、仕方のないことです。 批評で大事なのは「どうして自分はこのように読んでしまったのか」を きちんと作者に伝えることだと思います。 そうすれば、作者も納得できますし。誤読であっても、役に立ちます。 ▲目次に戻る |
たなべさんからの情報提供
プロのライトノベル作家さんからのお言葉 コンニチワ、この掲示板を支配する気か!というくらい頻繁に書き込みしている、たなべです。 今日は少しお役に立ちそうな情報を。 僕はとあるプロのライトノベル作家さんに、メールで小説の批評をお願いしました。しかし、僕の作品を批評してしまったら、他にもそういうメールが増えて、大変だということで批評してもらえませんでした。しかし、読んではもらえました。嬉しい限りです。 さて、そのメールにこのようなことが書かれておりました。プロを目指している人には役に立つと思うので、ここに載せます。 以下、作家さんのお言葉。 さて、小説の批評の件ですが。 大変申し訳ないのですが、小説の批評をすることはできかねます・・・・。 理由はいくつかありますが、大きい理由は、 「たなべさんに批評をしてしまったら、今後他の人に同じ事を頼まれたときに断れない」ということがあります。 無責任に感想を述べるだけならできるかもしれませんが、それはしても意味ないし、するべきではないだろうと思います。 いろいろな考え方があると思いますが、小説というのは世間一般に思われているほど、技巧、テクニックは必要ないもののように思います。小説と一言でくくっても、純文学とライトノベルでは、何もかも違うし、またライトノベルと一口に言っても、ジャンルは様々で、求められるものが違います。 あるジャンルでは長所になっても、 少しでも対象がずれれば、その長所が短所になることもあります。 もしたなべさんがプロを目指していらっしゃるなら、 作家に批評してもらうのではなく、どんどん書き上げて応募するほうをお勧めします。 短編でしたら、電撃やコバルト文庫などでも募集していますし、最近は寸評して返してくれるものもあるようです。 ご存知だとは思いますが、長編は様々な出版社が受け付けていますから。自分のカラーにあった出版社、レーベルを選び、そこで望まれると思われるものを書いてみる。 つまりは、 読者を意識して書く、これに勝るものはありません。 自分が書きたいものを書くだけでなく、さらにその先を見てみたら、きっといろんなものが見えてくると思います。 最後に。 批評はできませんが、小説は、面白く拝読させていただきました。 一人称のノリが楽しかったです。 それでは、これからも小説執筆、がんばってください。 私もがんばります。 ▲目次に戻る |
はまさんからの意見
新人賞のあらすじの書き方について。 新人賞応募の際のあらすじは、基本的な日本語能力を持っているかどうかを問うために書かせる目的もあるようです。 あらすじの書き方ですが……コツはありますよ。 例えば原稿用紙4枚にあらすじをまとめなければならないとする。 それなら、本文全体の方を4分割してみる。 すると、あらすじをまとめやすくなる。 それでも難しいと言うのなら、 もっとまとめやすくなるまで、分割しつづける。 要は、あらすじ用の原稿用紙の枚数と、 本文の全体量とを照らし合わせながら書けば良いのです。 あぁ、それから。 「その時、彼はどうしたのか!?」と読者に呼びかけたり、 キャラクターのセリフを書いたり、さまつなことは書かない方が良いですよ。 あくまで、ストーリーのみ。 何が起こったから、どうした、と言うことだけを書く。 ちなみにこのワザを応用すると、普段小説を書いている時でも、 あと何枚くらいで終わるな、というのがわかったり。 何枚以内にあらすじを書けというのも、 文章密度を調整しながら書くことで、規定枚数の最後の行ピッタリに終わらせる、と言うようなことも、慣れれば可能になります。 割と簡単な訓練でもって。 これが出来ると、他人から羨望の目で見られるようになります。 「さっすがー、小説家を目指しているだけはあるじゃん!」って。 実際、栗本薫先生なんかは何百枚の作品を書いても、規定枚数の、最後の一行でピタリと止められるそうですし。 宴会芸のようなものですが、身につけて損はありません。 普段からテレビドラマをあらすじにまとめたりしていれば、 10回くらいで誰でも身につきます。 ストーリー構成力もアップしますしね。 ▲目次に戻る |
亜希さんからの質問
人物描写はどこまで書いたら良いか? こんにちはうっぴーさん、[JEWEL]管理人の亜希です。 ファンタジーを書くときにいつも迷ってしまうことがあるので、うっぴーさんの意見を聞かせてください。 人物描写なんですけど、どの程度まで書けば読者さんに飽きられず、かつ必要な情報を伝えることが出来るのでしょうか? 特にファンタジーを書いていると、ちゃんと伝わっているのか時々不安になってしまって。 登場キャラひとりひとりの面差し、体格(身長など)、目や髪の色など、細かい所まで決めても、それを主役級キャラだけでなく、サブキャラも描写してしまうと少しうるさくなってしまうでしょうか。 特に目と髪の色の描写にいつも迷います。 登場キャラが多いと色が氾濫してしまって、作者ですら覚えられなくなってしまうので。 だったら主役級だけ決めておいて、他は描写しないでおこうとも思うのですが、読者さんたちはサブキャラにもそういう具体的な描写がないと絵が浮かばなくてストレスになってしまうのかな。 ちょいキャラにはそんなに神経を使わないのですが。 うっぴーさんはどの程度人物描写をされますか? ご意見を頂けたら嬉しいです。 ● 答 ● 人物描写をどこまで書き込むかは、その登場人物の重要度によって変わります。 例えば、ちょっと道を尋ねただけのおじさんの描写を、事細かく書いたりはしませんよね? そういう場合は、《40代くらいのおじさんに道を尋ねた》くらいのキャラ描写ですましてしまっていると思います。 では逆に、ただ道を尋ねるだけの相手でしかないおじさんを次のように細かく描写してみたらどうでしょう。 彼は、どこか自信なさそうに背中を丸めた男だった。 身につけたスーツもよれよれで、覇気というものが感じられない。 足取りも重く、人生は重き荷を背負っていくがごとしの格言を全身で体現しているような風体だ。 「あの、ちょっとお聞きしたいのですが」 「はあ?」 こちらの呼びかけに対して上げられた顔は、疲労が澱のように積もったやつれ顔。瞳は虚ろで、この世でないどこかを眺めているようだった。 (大丈夫からしら、この人?) 私は苦笑しつつ話を切りだした。 このような彼の内面にも触れるような詳しい描写があった場合、読者はこのキャラはこれからの物語に関わってくる重要人物なのではないかと誤解するでしょう。 つまり、 キャラクターの重要度によって、どのくらい細かく人物描写するかが、 決まるわけです。 ここまで描写しておいて、このおじさんの出番がこれだけだったら、読者は面食らってしまうでしょう。 その上、主役キャラとサブキャラ、その他大勢の有象無象を区別することなく、同じ分量の文章で描写していたら、はなはだしい混乱を招きます。 このことを念頭に置けば、各登場人物たちをどれだけ描写したら良いか、だいたいの基準ができると思います。 出番が多い重要キャラクターはなるべく細かく、 出番の少ない脇役は適当な描写でいいのですね。 ただし、どのキャラクターはどれだけ描写するかはその作者さんの趣味の範疇だと思うので、ここまで描写すればよいなどという線引きは難しいです。 亜希さんの場合、キャラクターの目や髪の色が氾濫してしまって、自分ですら覚えられなくなってしまうということですが、それはおそらく主要キャラの数を不必要に多くしているのが原因だと思います。 物語を動かす主要キャラの数を多くすると、恐るべき弊害が出てくるのですね。 第一に、誰が誰だがわかなくなる。 第二に、それぞれの内面を深く描写することができなくなり、薄っぺらな人格になってしまう。 亜希さんの問題を解決するには、登場人物の数を減らすことが何より先決だと思います。 私の場合、物語を動かす主要キャラは、3,4人くらいにしているので、各キャラの特徴を忘れることもありませんし、それぞれの描写も同じくらいの分量にしてあります。 無論、それ以外の人物の描写は、いい加減ですませてしまっています。 亜希さんも、主要キャラを3、4人に絞り、それ以外のキャラクター描写は細かく書かないようにしてみてみるといいでしょう。 |
|
|||||||||||||||||||||