第4研究室 創作に関するQ&A 14P | トップへ戻る |
柊 木冬さんからの質問  
 小説におけるテクニックの必要性

 こんにちは、柊です。
 最近ここによく出没しています。
 さて、今回の質問は「小説におけるテクニックの位置づけとは?」です。

 このサイトの批評掲示板や鍛錬投稿室のほうではよく、
 「文章が〜」「伏線が〜」「構成が〜」などという批評を見かけます。
 私自身、こうした部分に特に着目して感想を書きます。
 こうした批評は作家としての成長に不可欠なものでしょう。

 ですが一方で自分の作品を読み返し、
「技術至上主義に陥ってて、いまいち面白くないなあ……」
 と、行き詰まりのようなものを感じてもいるのです。
 小説において何より必要なのは、自由な感性の広がりと自己表現の模索ではないでしょうか?
 それが自分の作品には感じられないというか。
 技術面ではそう悪いところはないと思っていますし、
 よほど苦手なジャンルでない限り、一定のクオリティに仕上げる自信はあるのですが……
 それ以上の段階に、どうやっても進めない状態にあります。
 批評では「上手い」と言ってもらえることは多くても、
 「面白い」という批評は滅多にもらえないので、
 「テクニックに依存しすぎ」というこの自己評価は客観的にもそう的外れではないと考えています。
 小説において、テクニックは大事。それは確かでしょう。
 でも、テクニックに依存しすぎるとそこで行き詰まってしまうようにも思います。
 その辺の妥協点をどう見つけ、自分の立ち位置を定めるかという問題です。

 くりかえしになりますが、小説における「技法」「テクニック」の位置づけについて、
 よろしければ皆様の意見をお聞かせください。
 皆様の意見を参考に、この袋小路状態からなんとか抜け出したいと思っています。

●答え●
 この質問に対して、大勢の方から意見をいただいたので、これを掲載いたします。
 また、私からの答えは、一番下に掲載してあります。
 
元村さんからの意見 
 あくまで元村個人の意見・感想に過ぎませんが、
 小説において「執筆技術(テクニック)」というものは、あくまでも
 『こんなやり方がある』『こうした方がいい』という“一例”に過ぎない、
 
と考えています。

 そもそも「小説」とは「文学」であり「芸術」であり「表現」だと思っています。
 そしてそこに「娯楽(エンターテイメント)」や「商売」という考えを持ち込んだ場合、
 最低限の技術――つまり「書き手」と「読み手」を結ぶ、
 ある種の共通認識(規則)としてテクニックが要求される、と思うのです。

 ただしそうした共通認識は、広い視野で捉えると必ずしも「絶対的な存在」ではない。
 文章技術の基本とも言える「起承転結」だって
 「絶対に遵守しなければならない技術」というわけではありません。
 あくまでも
「そうした方が、より作品を面白くできる」
「自分が伝えたいと思うテーマを、わかりやすい形で第三者(他人)に提供することができる」
 と言うだけの話に過ぎないんですよ。

 「技術が先行してしまっているように感じる」というお気持ちはよく理解できます。
 けれども新人賞の選考員は、むしろ「技術なんて、二の次三の次」という人がほとんどです。
 なぜなら、

 技術なんてものは身に付けようと思えば身に付けられるものだからです。

 けれども、こと「新人賞」において求められているのは、必ずしも「技術」ではなく、
 世界でたった一人しかいない「自分(作者)」が、
 小説という媒体を用いて「何を表現したいのか」という、その一点に集約されています。
 よく「キミの熱い作品を待ってるぜ!」みたいな選評を、
 マンガの新人賞などで見かけたことはありませんか?
 その言葉の真の意味は、言うまでもなく「技術は荒削りでも構わないから、強い熱意――
 『こういった作品を書きたいんだぁっ!』
 という作者の心の叫びみたいなものを発しているか否か、
 ということを遙かに重要視しているからなんです。
 ですから極端なことを言えば「技術力がゼロ」でもまったく構わないんですよ。
 演劇に例えるのであれば、腹の底から叫ぶだけでも“喜怒哀楽”を伝えられます。
 重要なのは
「この人は、こういうことを伝えたいんだな」
「こういうものを書きたいんだな」
 と言うことを「表現(アピール)」できれば良いのです。
 あとは読者がきちんと受け取ってくれるかどうか……
 間違って受け取られないために「技術」が必要とされているわけです。

 具体的に言えば『撲殺天使ドクロちゃん』なんて、そうした例の一つと言ってもいいでしょう。
 選考員にもよりますが、技術的観点から見たら、
 この作品は一次落ちでも文句は言えないでしょう。
 けれども、きちんと一冊の本になり、それが売買されているのは、言うまでもなく
「作者が書きたいこと、伝えたい物語」
「提供したいと考えている“娯楽”」
 というものをこれ以上ないほど強くアピールしているからです。
 故に元村は、

「テクニックとは、自分が表現したいテーマを最高の形で読者に伝えるための手段」

 と捉えています。
 どんなにテクニックがあってもテーマがスカスカだったり、
 無かったりしたら「ただのお話」で終わってしまいますからね。そんなものは誰も求めていません。

 
「技術ありき」でもダメ。
 「テーマありき」でもダメ。

 「技術とテーマ」の両方があって、はじめて「小説(作品としての質)」が問われます。
 どうかそのことを、心の奥にでも留めておいてもらいたいと元村は願っています。


みつきさんからの意見 
 柊さん、はじめまして。
 私の考える小説における「技法」「テクニック」の位置づけについてお話します。
 私はこれを、読者の「面白そうだ」という興味を引き出し、
 かつ「このあとのお話はどう展開するのか、この登場人物たちは一体どうなってしまうのか」と、
 読者が続きを読まずにはいられなくなるような興奮やスリル、ドキドキ感を、
 よりいっそう高めさせるための「手段」だと考えています。

 技術至上主義というのは、言うなれば書く側に立った物の見方ですよね。
 確かに、的確な文章、なるほど! と思わせるような巧妙な複線の張り方、
 主題を際立たせる印象的な構成、
どれもレベルの高い小説を創り上げるために大事なものですが、
 それらのすべては、書き手のためにあるのではなく、読者の楽しみのためにあるべきです。

 以下、ご質問の趣旨とはちょっと違ってしまいますが……。
 創作の一番のテクニックは、
 創作中に、いかに読者になりきって自分の作品を読むことができるか、

 ということにつきるのではないかと私は思っています。
 それでは。


珠翠さんからの意見
 柊さん、はじめまして。珠翠と申す者です。
 私もみつきさんと同意見ですね。
 技術的に優れたものは、必ずしも面白い小説ではない。
 技術は作品を読者に、より正確に伝えるためのものであって、
 面白い小説の補助はするけど「面白さ」の本質ではない。


 では、面白さとは何なのか?
 予想だにしなかった展開(意外性)、読者の望む展開(正義によって、
 悪は倒されるとか)キャラクターの個性、そこから生まれる人間関係、会話の面白さ……などなど。
 自分なりに出した結論ですが、正解ではないでしょうね。
 これがある小説は面白い気がするけど「面白さ」は、人によって違う。
 それ以前に、定義づけできるものじゃない気がします。
 まあ、一つの意見としてお受け取りください。

 それと、小説を書きはじめたばかりの人、
 特に若い人の小説は、稚拙ながら面白いと思うときがあります。
 けっこう無茶苦茶だったりするんですが、いきおいがあるんです。
 今じゃ書けないような恥ずかしい台詞も、彼らはやってくれます。
 書き慣れてくると、こうしたらこうなって、ここをこうすると話が破綻するとか、
 結構見えるんですが彼らは見えない。
 つまり、技術的なものに縛られない。
 無茶苦茶でも、無限の選択肢をもって時として、それが「面白さ」になる。
 正直、彼らの若さが羨ましく思うときがあります。
 昔書いたボロボロの作品のほうが、今より面白く感じるんです。

 最後、話がずれましたね。以上、未熟者の意見でした。では、小説頑張ってください。


紅月赤哉さんからの意見
 どうも。紅月です。

 僕はテクニックはあくまで「味付け」だと思っております。

 同じ食材を使ってカレーを作っても甘口中辛辛口と味が別れております。
 その中でも甘口が好きな人もいるし辛口が好みの人もおります。
 でも、これらに共通することは「カレー自体が美味しい」ということです。
 言葉悪く言えば。元があんまり面白くないものはテクニックを駆使しても、
 一定以下にしかならないだろうと、僕は思っています。

 一定のクオリティを持った作品を、おそらく柊さんは作ることが出来るのでしょう。
 なら「テクニックを全く駆使しなくても面白いといわれるような作品」を書けるようになれば、
 それに柊さんの技巧を加えることによって超傑作が生まれるやもしれません。

>「技術至上主義に陥ってて、いまいち面白くないなあ……」

 ともおっしゃっておられますし、まずは自分でこれは面白いなと思えるような話を
 ストレートに書いてみてはいかがでしょうか。
 技巧派の人に技法をほとんど使うなと言うのは厳しいかもしれませんが……
 ようは自分が書いていて楽しかったと思える物を素直に書いてみてはいかがでしょう?

 本当に自分だけが楽しいような話――自己満足な話。
 僕は自己満足作品こそ執筆する人の原点だと思っています。
 困った時は原点に立ち戻るのも手だと考えます。

 参考になればいいのですが……それでは失礼します。


maoshuさんからの意見
 同じく柊さんと同じ事を考えます。
 ストーリーのことよりも、こう書いたほうがいいのでは? という感想が多いような気がします。

 最近、面白いとはどういうことなのかを考えることがあります。
 例えば、ギャグ小説でも面白いと思った他の方の作品ポイントが伸び悩んでいたり、
 おもしろくなかったものが高得点だったりして、
 どういうのが面白いといえるのか、わからなくなることがあります。

 スランプになったときにある方から、「遊びを入れてみてはどうですか?」
 と言われたことがあります。
「例えば、他の方の視点を入れてみるとか……」
 さすがに、このアドバイスは無理がありすぎると思いましたが、
 要は遊べる作品が作れたと思えるように、気楽に書いてみることではないでしょうか。

 遊びという言葉を自分なりに言い換えますが、それは恐らく、
 稚拙だけど面白いという珠翠さんの仰っていたことには賛同できます。
 というのも、この作品が面白いと思えるのは、遊びが入っているからではないでしょうか。

 ここでいう遊びと言うのは、自分にしか出せないものですから、
 そういう意味では自分なりの個性が出せると思います。
 阿智太郎とかも、そういう個性を持っていると思います。
 でも、遊びすぎて基礎を忘れてしまうのもあまりよくないことですが。

 確かに、そういう人は技術よりもストーリーで勝負しますから、
 このような精神は見習いたいと思っています。
 参考になっていなかったらすいません。


愛里さんからの意見
 こんばんは、はじめまして、愛里と申します。
 最近忙しすぎてあまり執筆していないのですが、柊さんは私と逆の悩み? 
 を持っていらっしゃるなぁと思い返信しました。

 柊さんが技巧タイプなら、私は自分は感覚タイプだと思います。

 本当はいけないんですが、私は作品を書くときに本当に感覚だけで書いているんですよ……
 プロットも何も考えずいきなりパソコンに打ちます。
 テクニックとかも何も考えず、とりあえず思いついた言葉を思いついたままに書いてます。
 処女作の「霧雨と長い爪」なんてモロそれなんですよ……恥ずかしいです。
 自分の趣味で書いていくのならこれでいいと思うんですが、
 もっと上達したいのなら変えないといけないですよね……
 でもプロットを作って、技巧を色々考えて……
 こうやって作品を作ろうとしてもはっきり言って楽しくないんですよね……
 そんな作品は自分で読んでもおもしろくない。
 
 柊さんがどういう手順を踏んでどういった所に気を付けて執筆をされてるのかわからないので、
 何とも言えないのですが……
 私はきちんとしたテクニックは欲しいです……答えになってなくてすいません……


里山俊平さんからの意見
 こんばんは。
 はじめまして、里山俊平です。

 僕は面白いものを、自分が面白いと思ったものは面白い、と定義しています。
 
 自分の書いたものでも、他者が書いたものでもです。
 そして技法やテクニックは、
 自分が感じた面白さを、そのまま読者に伝えるためのものだと思います。


 僕は構想段階で面白いと感じなかったものは、滅多に書きません。
 自分が面白いと感じないものを書いても楽しくないですから。
 けれど、自分が面白いと思って書いたものでも、周りにウケないことだってあります。
 それは、仕方ない部分もあります。人それぞれ、感性が違いますから。

 でも、同じ題材のものでもちゃんと面白く書けていて人気のあるものもありました。
 それは、技術の差によるものだと分析します。


 自分が面白いと思ったものでも、何が面白い部分なのか、どこがどう面白いのか、
 それが読者に伝わらなければ「面白い」と感じてなんてくれません。
 どれだけ読者に、自分が感じた面白さを100%に近付けて伝えられるか。
 そのためにあるのが技術だと思います。

 ただ、技術も何も無い人の書く作品が面白いということは多々あります。それは事実です。
 それは、作者が考えている面白さから、数十パーセント欠ける作品であっても、
 読者が充分に面白いと思えるだけのパワーを持っているからだと思います。
 言ってしまえば、本当に面白いものなら誰にだって面白く書けるのです。
 そうでないものを面白く書く、もしくは、
 本当に面白いものをより面白く書くのに技術が必要なってくるのでしょう。……多分。

 ご自分の作品が面白く感じていないのなら、それは面白いと思うものを書いていないからか、
 あるいは、あなた自身の目が成長したからかもしれません。
 自分が書こうとしている理想の面白さに、今の力では届いていない。
 それが、面白くない、と思ってしまう理由の一つである可能性もあるかと。

 何にせよ、自分に満足できない状態が来るのは、
 レベルアップの兆候であると思いますので、頑張って下さいね。


色瀬戒さんからの意見
 なんていうか、壮大なお悩みをお持ちのようですね。
 ふと、感じたのですが

 「上手い」=「面白い」という公式も成り立つ可能性があるのではないでしょうか?

 また、このサイトのように作家が作家を批評するような場面では、
 特に「技巧」についての感想が集中する傾向にあるのでは無いでしょうか? 
 作り手目線からの感想・評価が多いはずです。
 あらかじめ、自分の小説が面白いか、上手いかを確認するために、
 他のホームページや友人等に意見を聞くことも必要だと思います。

 技巧至上主義で書いていて行き詰る。それはある意味羨ましいです。

 私の場合は感覚的というか衝動的に書いてしまうので技巧を凝らすところまで頭が回りません。
『技巧(テクニック)も感覚(アイディア)も小説にとって両輪である』
 とよく言われますが私はコレに疑問を抱いています。
『技巧は感覚を内包しさえすれば、いくら凝っても構わない』
 と思うからです。
 問題はアイディア含んでいない技巧を使っているケースだと思います。
 つまり、私の意見では

 『アイディアを活かすために技巧が存在している』

 と思ってます。
 技巧とは面白さを伝えるためのツールです。
 道具がどんなによくっても素材が悪ければ確かにつまらないです。
 また道具がどんなに良くても素材に悪影響を与えることがあるとは思えません。

 まあ、素人考えで所々矛盾してますが……


しゃんテンさんからの意見
 こんにちは、しゃんテンです。
 私自身はですが、

 小説を書くときはテーマが大事なんじゃないかなと。

 テーマとは
「その小説を書く動機」、
「書きたいこと、つたえたい何か」
「その小説によってどんな感情を与えたいのか」
 というようなことだと思っています。

 で、描きたいことがある、伝えたい何かがある。
 じゃあ、描きたい何かをどうやったら描けるんだ?
 伝えたい何かをどうやったら伝えれるんだ、わかってもらえるんだ?
 ということを考えるときに技術が必要になってくるのでは、と。

 「どうやって」の部分で「こうしたらつたわるんじゃないか」「こうしたら、かけるんじゃないのか」
 というのが技術だと思います。
 もちろん、何かを伝えたいときにはまず最後まで読んでもらわなくてはいけない。
 だから、最後まで読ますためのテクニックというのもあると思います。

 でも、どうやって書くか、伝えるかということにとらわれて、
 そもそもの動機の「何を」書くかを忘れちゃってはだめだと思うんですね。
 自分が伝えたい何か…言葉にはっきりとできないイメージでもいいのですが、
 それを書く際には忘れてはいけないなと。
 抽象的でわかりにくい上にえらそうですが、私自身はこう思って書いているということです。
 乱文・悪文どうかご容赦くださいませ


氷華流さんからの意見
 私も実は同じ悩みを抱えているので、貴方のお気持ちはよく分かります。
 私的な方法ですが……

1.「これは面白い!」と思った事柄をメモしておいて、そこから文章を起こします。
(この段階で、伝えたいテーマをハッキリさせてメモしておくとなおベターです♪)

2.だいたい話が出来上がってきたら、大雑把でもいいので文章を打ち込んでおきます。

3.その文章をすぐにはHPにアップせずにしばらく日にちをおいてみます。

4.そうすると書いているときに見えなかった欠点や荒が見えてくるはずです。

5.その時に納得のいくまで推敲をしてみてください。

6.伏線とかセリフ直し、ストーリーの手直し等細かい作業は5の段階でじっくり行ってみてください。

7.あとはHPにアップして出来上がり♪

 小説はテクニック、技法よりも
 「感性」「分かりやすい自己表現」「夢と遊び心のある世界」が大事です。


 たとえ、少々テクニックが劣っていても読者を惹きつける感性があれば大丈夫。
 その間にじっくりテクニックを身につけていけばいいのですから。
 まさに「ローマは一日にして成らず」ですよ。
 お互い、大変かもしれませんが頑張っていきましょう。


現代競馬なら馬だと1000mは1分以内さんからの意見
 なんというか、人生相談みたいな答えになりますが、
 私が同じことを友達に相談されたら、「もういい少し休め」と言いますね。

>小説において何より必要なのは、自由な感性の広がりと自己表現の模索ではないでしょうか? 
 それが自分の作品には感じられないというか。
 
 自己表現欲は、食欲とかの親戚みたいなもので、満たされれば、ご飯を食べれば箸をおくように、
 小説家が小説を書けば、その分減ります。
 車でいえば、ガソリンみたいなものです。
 それに対して、技術は車の外観や性能みたいなものです。

 確かに、いい車に乗れば人目もひきますが、ガス欠状態のあなたが運転すれば、
 カッコよくても、ガス欠を恐れるあまり、スピードを押さえて運転せざるをえないでしょう。
 これでは、車の運転することに行き詰まりを感じて当然だと思います。
 ここは無理にガス欠状態で走るよりは、車を降りて休むなり、
 ここはガソリンスタンドでも行って燃料を補給したほうがよろしいです。
 燃料補給のおすすめとしては、漫画家ですが福本伸行がいいでしょう。
 福本伸行は、車の外見はしょぼいですが、そのエネルギーの熱さで、多くの人を魅了しております。
 その熱さが今のあなたには必要じゃないかと、アドバイスさせていただきます。

 また、私は小説家としての技術は、2つの深さ(2種類ではなく)があると思っております。

 1つは、文章の上手さ、これは誰にでも理解できます。
 もう1つは、小説家としての生きるための技術です。


 同じじゃないの? と思う人は、読んでも感覚として理解できませんから、
 これを読むのは止めたほうがいいです。
 とはいえ、このままでは分かりにくいので、池に例えてみましょう。
 
 あなたの池は、水が澄んでいると思います。
 ですが、池に近づいて底を覗いてみたら、
「なんや、この池、底がみえてるやん。魚もおらんし、草も生えてないがな」
 と水の綺麗さに人は足をとめても、それ以上の感想はもたないでしょう。
 そして、その点に気がついたあなたは、池に魚を放流したり水草を育てたりして、
 池に特色をつけようとします。

 魚や水草の育て方は、誰に聞いても教えてくれないでしょう。
 私も2,3ぐらいはさわりで気がついていますが、絶対に教えたくないですね。
 なぜなら、これが小説家として一番重要な核となる、小説家の個性に直結しているからです。
 
 また、魚や草を育てると同時に、池の規模そのものについて工事を忘れてはいけません。
 工事の種類は2つ。
 1つは、池の大きさを広げる作業です。
 池の大きさが広くなれば、日曜にカップルが貸し出しボートで、いちゃつく光景がみれるでしょう。
 もう1つは、池の底を掘って水深を深くする作業です。
 できれば墨汁などを池にブチまけるとすごく素敵です。
 現在、私はこちらの工事中ですが、私があなたを見ながら『こっちにおいで』、
 と墨汁で濁った水に肩までつかりながら手招きしてしています。
 
 これが小説家としての生きるための技術です。
 
 あなたなら、池に施す2つの工事が何を意味しているのか、おおよそ見当がついていると思います。
 どちらを選ぶかはあなたの自由ですが、選べるのはどちらか一方です。
 ちなみに、私の家の近くの池には、底に竜が棲むという伝説の池があります。
 あなたの池も底を掘り進めれば、あるいは竜が棲む池に変貌をとげるのかもしれません。


こうもりさんからの意見 
 僕が勝手に定義する『面白さ』とは、
 『どれだけ共感したか。又は、させたか』です。


 例えば……。
 主に悪質な政治家が得意とする「記憶にございません」という言葉を聞くたびに、
 「記憶力皆無の奴は早く帰れ!」と叫んでます。
 が、仕事場で同じように開き直れない自分と照らし合わせると、
 あれはあれで、結構勇気がいるのでは?などと思い、つい口元に笑みが……。
(いや、笑い事じゃない問題だと重々承知しています)
 僕の日常の一コマですが、一部分でも共感してくれた方、口元に笑みが浮かんでませんか?
(共感できたのに面白くないと思った方は、僕の思い込み持論だと、笑ってやってください)

 まぁ、前置きはこれくらいにして、本題であるテクニックの必要性ですが、
 「テクニックより感性や熱意が大事」という意見が多いようですので、
 あまのじゃくな僕は、逆の立場から意見を。

 テクニックとは、自分の伝えたいことを、
 よりわかりやすくするために存在しているのではないでしょうか?


 たとえば漢字を使うこととか。
 そんなの技術じゃねぇ! と思われるかも知れません。しかし、

「有難う」「ありがとう」

 僕がよく使う例えですが、この二つの言葉を見比べると、漢字の方が固い印象を受けませんか?
 何も、全てを漢字に変換すればいい、というわけでもないと思うのです。
 だから、多くのテクニックが備わっていれば、
 その分確実に面白い小説が書けると思います。


 ただし、何でも詰め込めば良いとは思いません。
 その小説が何を売りにしているのかを考えて、
 使用するものを慎重に選べば、相応の結果が期待できると思います。


所長からの答え
 小説作法(テクニック・技術)というのは、言うなれば武術などにおける型と同じです。

 私は型にはまったおもしろさと、
 型にはまらないおもしろさ、
 そしてそれを超越したおもしろさというのが存在すると考えています。

 例えば、剣豪・宮本武蔵はまだ武者修行中だったころ、
 型にはまらない獣のような強さをもっていました。
 ところが、彼は吉岡剣法、槍の宝蔵院、柳生新影流といった、
 型にはまった剣術の達人たちと闘う間に、型にはまった強さというのが存在することを知ります。
 その後、彼は型の大切さを知り、型を学び、独自の型を編み出しました。
 それが天下無双となった二刀流剣術・二天一流です。
 宮本武蔵は、型が無い状態から、型を取り入れ、そこからさらに発展させることによって、
 最強の剣豪となったわけです。

 技術やテクニックを不要、と考える人もいるでしょうが、それは浅はかというものです。
 たくさんの投稿小説を批評してきて痛感したことなのですが、

 基本的な文章作法や小説作法を無視して書いた作品は、ほぼ100%駄作です。

 誰でも宮本武蔵のような、型にはまらない才能を持っているわけではないのです。
 だったら、強くなる方法は、吉岡剣法、槍の宝蔵院、柳生新影流と同じ、
 型にはまった道を選ぶのが正解ではないでしょうか?
 型になんてはまりたくないと思うかもしれませんが、その方が絶対に近道です。

 型というのは、目的を達成するために編み出された最も効率の良い方法論なのです。

 だから、型をキッチリ学べば、我流でやっている人より、はるかに上達が早いです。
 ただ、型にはまった強さというのには限界があります。
 型を学べば飛躍的に成長するのですが、ある程度まで行くと頭打ちになるんですね。
 
 そこから、さらに上を目指そうと思ったら、今度は型から抜け出す必要があります。

 他人にマネできないオリジナリティ、個性、といったものが大事になってくるんです。
 言い換えれば、いままでの枠組みを破り、自分だけの型・方法論を確立するということですね。
 
 宮本武蔵の二刀流剣術は、あまりに独特すぎるために常人には扱えないと言われいます。
 これこそが、オリジナリティの究極形態ではないでしょうか?

 まず型にはまり、次に型から抜け出すこと。このプロセスが重要なのです。 
 
 ちょっと、むずかしい話でしたね(汗)。
 今回の答えは、「芸術力」の磨き方 という本を読んで学んだことを、私なりに解釈したことです。
 技術と感性、どちらが重要か? という問題で悩んでいる人は、
 この本を一度読んでみることをオススメします。


峰しずくさんの意見
 多くの方のご意見は、技巧は小説の本質を引き立てたり、わかりやすくするものであって、
 本質そのものではない、ということのようですね。私もこれには賛成です。
 一方で、所長さんからの回答
 「基本的な文章作法や小説作法を無視して書いた作品は、ほぼ100%駄作です」も、
 まさしくその通りだと思います。

 以上の前提の上ですが、「テクニックはものすごく大切だ」というのが私の意見です。

 残念ながら、知っているのと出来るのとは大違いで、
 技巧という面で見れば私の書く小説など稚拙の域を出ません。大きなことは言えませんね。

 書き出しは「ひとます開ける」などのルールは多くの方が守っておられると思いますが、
 その次に存在するのがいわゆる作法(マナー)と呼ばれるものです。
 例えば、同じ単語の羅列はみっともないから「別の言葉で言い換える」や、
 文章の終わりに同じ母音が続かないようにするとか、
 形容詞をなるべく使わない(「赤い」と書かずに「赤さ」を書け、とよく言われるアレです)などです。
 このあたりは文章の書き方の本を読めば出てきますよね。

 そして、その上に様々な技巧があると思うのです。
 技巧には大きく分けて二つあると思います。「形」にこだわるものと「感性」によるものです。
 同じ単語を繰り返さないというのは「形」です。これは語彙力をつければ解決できます。
 しかし、「感性」とは必死になって意識して磨いても、成果があがるかどうかわかりません。

 例えば、秋元康さんの作った詞だったと記憶しますが、「キャッチホンの仲」というのがあります。
 これは元恋人同士だった男女の今の関係を示しています。
 今でも電話での連絡はとりあったりしているのだが、この2人にはそれぞれに新しい恋人がいて、
 その恋人と電話をしている。だから、「キャッチホンの仲」。
 これを参考にして別の表現を考えると、
 例えば「最初に読むのが恋人からのメール、最後に読むのが元恋人からのメール」
 なんてのもアリかもしれません。が、いかにもまだるっこしい。
 「キャッチホンの仲」のように、短いフレーズで全てを言いあらわすには、
 鋭い洞察力や普段からのアンテナの張り巡らし方、気付くという行為、
 そして豊かな感性が必要でしょう。

 プロとはこういうものだと思います。
 形のないテクニックというのが実は表現の頂点にあるものだと思ったりもします。


 一方で、では技術がなければダメなのか、というと、それを補うテクニックも存在します。
 転載自由とのことですので、一輪庵というサイトの「文芸ナイフ」というコーナーから転載してみます。

『同じ言い回しの繰り返しも、擬音語や擬態語と同様、
 文章教室ではやめた方がいいと言われると思います。単調になるからです。
 でも、単調だということは、裏を返せば一定のリズムを持っているとも言えます。
 「〜と思った。」を二回繰り返すだけならまずい文章でも、
 五回繰り返せばそれなりの文体に見えないこともないでしょう。
 ただし、五回繰り返したあと六番目の文章では、
 目先を変えた表現で全体を引き締めることを忘れてはなりません。
 動きのある表現や、時制の違う表現を持ってくるのがいいでしょう。』

 この他にも私がこだわっているものとして、ディティールの描写というのがあります。
 たとえば、ひとつの部屋をあれこれと書きつくそうとがんばったりします。
 こればっかりだとうっとおしいので、ココと決めた場所についてだけしつこく描写したりします。
 しかし、必ず思い通りに行きません。
 仮に今、自分のいる部屋を過不足なく描写しようとすれば、必ず行き詰まり、
 これがどんなに難しく、テクニックの要求されることかおわかりいただけると思います。

 一方、同じ描写でも、人物の心情によって随分かわってきます。
 カラリと晴れ渡った空の下、美しく草木が輝く草原があったとします。
 湖もあり、水面がキラキラと輝いています。
 恋愛絶好調ならさもこれが素晴らしい世界に見えるでしょうけれど、
 失恋をした直後の傷心旅行であれば、この美しい風景がさもそらぞらしく見えることでしょう。
 こういった書き分けもテクニックのひとつでしょう。

 技巧は凝らしても凝らしても、凝らし尽くすということのありえないものだと思います。
 技術至上主義に陥って、面白くないなあ、と感じるのであれば、
 小説そのものが面白くないのだと思います。
 読者が読んで面白くないのではなく、書いてる本人が面白くないと感じるわけですから、
 そこには何か問題があるはずです。
 ストーリーが納得いかないとか、キャラクターが動かないとか、
 テーマから離れているような気がするけれど軌道修正の方法がわからないとか、
 もっと根源的なところにいけば
 「どうして自分がこの小説を書き始めたかわからなくなってしまった」
 「方向性を見失ってしまった」などではないでしょうか?

 ただ、個人的な意見を言えば、「上手い」と言ってもらえるのは嬉しいことだと、
 素直に受け取っていいと思います。
 「面白い」と言ってもらえないのは、つまらないからではなくて、「面白い」が前提だからです。
 面白くなければブラウザをとじてそれで終わりです。



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ゆきさんからの質問  
 男性主人公の性格が似通ってしまいます

 うっぴーさん、こんにちは。
 日々アクションに燃えたり、美少女に萌えたり、
 ひそかにボーイズラブにも萌えたりしている一女性の質問です。
 私は主に現代を舞台にした非現実小説を書いているのですが、
 時々はたと我に返って気づくのは、
 登場人物(特に主役クラス)の性格が総じて似通ってしまっていることです。

 『自分の好きなタイプを主人公に据え、主人公に自己投影すれば小説は書きやすい』
 というのはたしかにその通りでしょう。
 けれどそうすると、どうしても同じような容姿、口調、思考回路になってしまいがちです。
 特に男性キャラが、その傾向に陥りやすい。
 美少女キャラというのはある程度記号で構成することができて、
 外見だけでもロリ・スレンダー・グラマー、
 さらに服装でスカートかズボン、ゴスロリ服、セーラー服、メイド服、
 加え髪型はおさげやツインテール等々
 (かなり個人的趣味に走った例えで申し訳ない)、バリエーションはかなり豊富です。

 小賢しい手段かもしれませんが、
 外見を変えるだけでも目くらましにはなる……かもしれないと思います。
 けれど男性キャラは、女性キャラに比べいまいち自由度が効かない。
 偏見かもしれませんが、やはり見た目的に華があるのは断然美少女だと思うのです。
 もちろん美少年、美青年キャラと呼ばれる男性は登場しますが、
 男にスカートかズボンの二者択一を迫るのはあまりに馬鹿げているでしょう。
 せいぜい選択できるのは髪と目の色、体格、髪の長さくらいです。
(それでもあまり長いのは、現代モノでは受け付けられない)
 美少女キャラと違い、男性に奇抜な格好をさせたらただの道化ですから。

 ……少し話が脱線してしまいましたが、とにかく男性キャラを記号で構成するには無理があるので、
 その手段は却下されます。
 そうするとやはり、どこかで見たような(書いたような)気がする人物になってしまうのです。
 もちろん、各人が抱える過去や目標は話によって異なります。
 ですが日常的な描写の際、こいつとあいつ、まったく同じ反応してないか……
 と愕然とすることがままあります。
 こういった事態を解消するには、やはり違うタイプの主人公を据えるしかないのでしょうか。
 でもやっぱり、自分の好みに合わなければ、
 キャラクターにシンクロして話を進めることができません。
 創作意欲とマンネリ化、どちらかを切り捨てるしか方法はないのでしょうか?
 よろしければ教えてください。


●答え●

 ずいぶん勉強されていますね。

 
キャラクターとは『記号の集合体』であり、
 その組み合わせによって様々な人物が作れる

 
ということは、漫画の神様『手塚治虫』も指摘していたことです。
 たくさんの外見パターンや内面パターンを知り、その組み合わせを試すことで、
 十人十色のキャラクターを作り出すことができます。
 ただ、ここで問題になってくるのが、女の子キャラに比べて男性キャラは、
 個性となる記号が少ないということですね。
 外見を美しくすることに力を注いできた女性は、
 髪型、体型、服装、装飾など、その人物の特徴づける様々な記号を持っています。
 よって、ゆきさんの言う通り、男性キャラに比べてはるかに多くの組み合わせができます。
 その証拠にライトノベルに限らず、漫画やアニメ、ゲームなど、
 様々なジャンルのプロの作品を見回してみても、男性キャラには類似系が多いです。

 これを踏まえて解決策は2つあります。
 まず、1つは、やはり自分の好きなキャラクターをとことん描き続けるということ。
 登場人物が類似してしまうでしょうが、そんなことはお構いなしに描いてください。
 その方が楽しいので上達も早いです。

 プロ作家でも人物造形のパターンがほぼ決まっている人がいます。
 宮城谷昌光という中国小説の大家は、どの小説でも似たような主人公が出てくることで有名です。
 プロでもそういうタイプの人がいるということは、
 数人のキャラクターの描き分けさえできれば小説は作れるということです。
 同一作家のキャラクターが似てようが似てまいが、作品のクオリティには大して影響はないでしょう。
 漫画家などには、それこそ類似系の登場人物しか作れない人がかなりいますよ(笑)。

 もう1つは、既存の人物をモデルにして登場人物を作るという方法です。
 その人物を下敷きにして、
 この人ならこういう反応をするだろうということを想像しながら描くのです。
 そうすると、リアリティが出ますし、キャラクターが類似してまうことも防げます。
 ただ、有名な映画やゲーム・漫画の登場人物をモデルに使うと、
 キャラクターが酷似してしまい盗作の疑いをかけられる恐れもあります。
 そのため、身近な人物やマイナーな作品のキャラクターをモデルするといいでしょう。
 その場合でも、参考にする人物は100%マネをするのではなく、
 そこに自分なりのアレンジを加えてください。

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ルミナスさんからの質問  
 主人公は明確に決めなくてはならない?

 こんばんは、先日はお世話(?)になりました。
 ユーモアネタに投稿したルミナスです。
 あの後も頻繁にサイトを観させてもらい、創作意欲に燃えています(笑)
 今回は質問があるのですが……
 作品において、主人公とは明確に決めなければならないのでしょうか?
 ……何だか突飛な質問で申し訳ありません、
 しかし今書いている小説で悩んでいることがありまして……
 その小説の内容を、かいつまんで説明いたします。

 4人の少年少女が『人のためになることをする』というような条件で、
 不死身の体と不思議な力を与えられます。
 この4人はそれぞれ信念や考えなどが違っていて、
 それぞれの正義を通すためにたびたび衝突するのですが……

 この4人、私の小説では全員均等に描かれています。というか、描いているつもりです(笑)。
 そのため、誰が主人公なのか明確に決まっていません。
 全体としては4人それぞれの心理や考えを描きつつ、4人の衝突を描いています。
 絶対に正しい、というキャラは1人もいません。
 この状況で主人公が誰なのかを決めてしまうと、全体のバランスが崩れてしまいそうで……
 物語を作る上で、主人公は絶対に決めなければならないものなのですか?


●答え●

 主人公不在、主人公が誰だかわからない状況というのは大きなネックです。
 
 主人公は読者が自分を投影する対象ですから、
 この対象が不明瞭だと物語に入って行きづらくなります。


 4人全員を、均等に描くというのも難しいでしょう。
 書き進めていけば必ず、お気に入りのキャラ、動かしやすいキャラ、描きづらいキャラ、あまり好きでないキャラというのに分かれてきます。
 初めのうちはうまくいっても、途中から破綻する可能性が高いです。
 主人公が誰であるかは明確に決めておいた方が良いでしょう。
 群像物語として名高い三国志でも、劉備元徳という主人公がいます。

 また、主人公が4人いて、それぞれが別行動を取っているとなると、それに付随して脇役の数が恐ろしく多くなるでしょう。
 三国志なんか、良い例ですよね。
 相当なマニアでない限り、あの作品の登場人物すべては言えないと思います(汗)。
 ここからわかるように、登場人物を多く出し過ぎると、
 
 キャラクターが把握しづらくなるという弊害が起こります。
 読み進めていくうちに誰が誰だかわからなくなるのです!

 作者であるルミナスさんは、登場人物の数が多くてもそれぞれのキャラの見分けがつくでしょうが、
 読者までそうであると思ったら大間違いです。
 読み進める間に、100%誰が誰だかわからなくなり、
 キャラクターの把握に疲れてしまってストーリーを楽しむどころではなくなります。
 タブーの「登場人物を不必要に多くしない」でも触れていますが、

 基準としては短編の場合なら、
 主要登場人物は多くても3,4人。長編でも、8人以上にはしない方が無難です。

 
 何人もの登場人物を描く群像小説というのは、かなりの筆力が要求されます。
 プロ級の腕でも持っていない限り、挑戦しない方が良いです。
 素人が安易に手を出せば99%失敗するでしょう。


アナザーさんの意見
 主人公は明確に決めなくてもいいと思います。

 成田良悟著の『バッカーノ!』という本があるのですが、
 本人曰く「誰が主人公か決まってない」そうです。


 バッカーノ!は登場人物が非常に多く、誰もが大いに活躍します。
 なので、主人公は読者の好きにしていいんです。

 しかし、少しだけ出番の多いキャラを出していいと思います。
 そしたら自然と物語りも描きやすくなりますし、読者も戸惑うことなく読めます。

 肩書きだけでも主人公、と置けば世界は変わるはずです。


ricoさんの意見
 ricoと申します。

 主人公を一人に決めなければならないとは思いませんが、複数の主人公を出すことでわかりにくくなるのは事実だと思います。
 主人公の異なる短編の連作ではなく、複数の登場人物が同時に主役を張る、というのはかなり高難度だと思います。

 平等に書いているつもりでも、いつしか特定のキャラの影が薄くなったり、扱いに差が生じてしまいがちになる恐れがあります。それを無理に均質にすれば、不自然な話になってしまうでしょう。

 ルミナスさんの場合は、いっそ4人の主人公を赤の他人同士にして、「○○の場合」「××の場合」というように4つの相互に無関係な章に分けてみてはいかがでしょうか。
 こうすればパートごとに主役が決まっているのでわかりやすくなりますし、各人の行動や考え方の違いも表現しやすいと思います。

 ちなみに、小説では難しいかもしれませんが、連載漫画の場合は毎回別な人が主役になるような構成をとることもあります。僕お気に入りの「GUNSLINGERGIRL」(の初期)がいい例です。

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