第4研究室 創作に関するQ&A 157P | トップへ戻る |
鈴山 正秋さんからの質問
 小説を書く理由とは?
 
 初めまして、鈴山 正秋と言う者です(_ _)
 ためになるので、いつも閲覧させて頂いています。
 今回の質問は、少し場違いかもしれませんが、そうだった時はすみません(- -;)
 〜本題〜
 皆さんが小説を書く理由と言うのは何でしょうか?
 自分は、最近その理由が分からなくなってしまい、泥沼にはまってしまっています。
 昔はただ単に自己満足で人の真似をして書いていただけなので、
 特に気にすることは無かったのですが、
 つい先日、ふと小説を書く理由について考えてみたところ、何もないことに気づき、
 ある種の空虚さに襲われました。
 そこで、皆さんが小説を書く理由を聞けば、何か分かるかもしれないと思い、
 この質問を書き込みました。
 差し支えなければ、ご返答願います(_ _)


● 答え ●

んぼさんの意見
 腹が減ったらメシを食い、眠くなったら眠ります。
 眩しかったら目を閉じますし、暗かったら明かりを求めます。
 忙しければ走りますし、走り疲れたら立ち止まります。
 小説も、絵も、そして曲も。
 書きたくなったら書きますし、書きたくなければ書きません。

 生きることそれ自体には何ら意味は無いのに、
 書くという行為そのものに何故意味が生じるでしょうか。

 己に欲求があるから。
 それだけです。


永久本さんの意見
 こんばんは、永久本と申します。
 ご質問のほどですが……。

 究極的には、個人の全ての行動は自己満足に繋がります。
 (極論ですが)

「小説で感動したから、自分も他人を感動させるようなものを書いてみたい!」
「自分の感じたこの感情を他人に伝えたい!」
「自分の考え、自分の価値観を本として残したい!」
「ただ書きたいから書く!」

 どれでも自己満足です。(繰り返しますが極論です)
 つまり、根本的には「書きたいから」と言えますね。
 自分の場合は、
「文章で多彩な表現が出来るようになるぞ!」
「自分の文章で他人を関心させてやるぞ!」
 みたいな理由があるような気がしないでもないです。
 曖昧なんです(笑)

 正直、小説を書く理由を全くの迷いなしに断言出来る人は、極少数ですよ。
 勿論、自分も断言出来ません。
 上記のような理由が浮かびましたが、それでも「何となく書く」が大きいです。

 物書きさんというのは不思議な物で、書きたいとは思っても、
 書くのが苦痛になることが多々あります。

 ですから、最も大切なのは、
 書きたいから書く!
 書くのが辛いから書かない!
 という相反する二つの感情のうち、どちらを取るかです。


 焦らず、のんびり考えてみてはどうでしょうか。
 こんな意見でも、お役に立てれば幸いですが……。
 それでは〜。


Mayoさんの意見
 変な夢を見たマヨ、思い出せないのはいつも通りです。

 物心つく前から、いつも頭の中で変な世界を想像してました。
 物心ついた時には、それは具体性を帯びてきました。
 小学校に上がり、文字という表現方法を知った時、腕が落書きしてました。
 中学で小説(ライトノベル)というジャンルに出会いました。

 いつの頃からか「人は死んだらどうなるのだろう?」と考えるようになりました。
 いつの頃からか「もし死んだら、いま頭の中にあるこの世界も、消えるのか」と思い至ってました。

 高校の時、友人の一人が、遊び半分でノートに小説を書いてました。
 意外にも面白かったので、自分もチャレンジしてみました。下手すぎて泣きそうでした。
 いつの頃からか「死ぬ前に、この世界だけはせめて、カタチにして残したい」と思い至ってました。

 ぶっちゃけて言うと"書くこと"自体は楽しくありません。苦痛です。
 本当に楽しいのは"面白い物語を考えること"であり、
 それをアウトプットする作業というのは面倒くさいことこの上ないのです。


 ゲームなんかでは、企画屋がストーリーを考え、
 文章自体はシナリオライターに全て任せている場合もあります(実話)。
 過不足なく設定や展開を伝えておけば、あとは自動的に話が出来上がってくるのです。
 ナンテスバラシイ。

 でも、自分の周囲にはそんな人材はいません。
 だったら、自分で書くしかないでしょうに。
 それに他人任せでは、自分の頭の中を明確に100%再現することなんて不可能です。
 ……自分で書いても100%は不可能ですけど(汗
 まぁそれを限りなく完璧に近づけるための勉強ですね。

 長々と書きましたが『なぜ書く?』という質問に対する自分の答えとしては、
 『妄想を残したいから』です(ぉ

 そのためであれば、どんな苦痛や苦労も厭いません。
 そんなものは、完成した暁の前に充実感として変換霧散されるだけです。

 あとクリエイターなんて人種は、間違いなく全員妄想癖を持っていると思う。そんなオチ。


蒼夜さんの意見
 こんにちは、蒼夜というものです。
 僕の場合、小説は書きたいから書いています。
 ですので、書きたくなくなれば、しばらくは手をつけなくなります。
 ひどく単純で参考にならないかもしれませんが、僕はそんな感じです。
 書くのが辛くなったのなら、一度執筆から離れてみるのも手だと思います。
 書くことが好きならば、きっと書きたくなるはずなので。


峰しずくさんの意見
 こんにちは。
 小説を書く理由がわからない。
 でも、そのことについて悩む、ということは「書きたい」からではないでしょうか?

 自分が、純粋にやりたい、と思うことに関して、無理に理由付けをする必要はありません。
 
 書きたくなくなったのならやめればいいし、他のことがしたくなったら、
 他のことをすればいいと思うのです。もちろん、書きたいからという理由で書き続けてもいい。
 そのことに関して、誰もあなたを褒めたり責めたりすることはできないと思うんですよ。

 さて、私が小説を書く理由は……
 楽しいから、かな。
 で、楽しいことをしながら、自己満足だけでなく、
 いくばくかでも一緒に楽しんでくれる読者の方がいてくだされば嬉しいとHPをしていますし、
 あわよくば楽しいことでお金が稼げるならと、作家を目指しているわけであります。

 仕事というのは、生活のために金を稼ぐという側面ももちろんありますが、
 やりたいことを「自己満足」だけでなく、「他人様のためにする」ということで、
 お金はあとから付いてくる、という側面もあります。

 貧乏したいわけではありませんが、好きなことを楽しんでやりながら、
 読者の方にも喜んでもらえ、結果として生計が成り立つなら、
 こんなに喜ばしいことはありません。

 しかし、楽しいことなので、プロになれなくても、書き続けるでしょうね。


夜霧さんの意見
 こんばんは、絶頂暇人な夜霧です。

 『書きたいから書く』
 それだけです、書きたくなくなったら書くのを止めますし書きたくなったら書きます。
 自分の欲求を満たすため、それ以上の理由が必要でしょうか?
 全然参考にならないと思いますが、自分はこんな感じです。


瑛仁さんの意見
 こんばんは。

 誰かの言葉で「書かなければならない何かを抱えている人が作家になる」
 というのを聞いたことがあります。

 私の場合も自己満足や真似から始まりましたが、
 考えてみると「自分の中にある何かを文章にせずにはいられないから」といえるなと思います。

 表現したい何かがあって、書きたくなるから書くのです。
 方法が小説、詩、シナリオや絵、音楽などいろいろあるなかで、
 小説という方法をとったのは縁かもしれません。

 空虚さの先に、それでも書きたいと思ったら、
 鈴山さんには小説という表現方法と縁があったんじゃないでしょうか?
 抽象的ですみません。


日路さんの意見
 こんばんは、日路です。

 小説を書く意味。
 早押し問題だったら「書きたいから書く!」と即答します。
 何秒か考える時間があるなら、「書いていて楽しいから」。
 もっと長く考えてよいなら……と、自分が小説を書き始めた頃のことを思い返してみました。
 で、思い出した初心がこれです。
 「自分が読みたいから」
 当たり前かもしれませんが、私は自分が読みたい物語を書いています。
 自分が読んで面白いもの、わくわくするもの、くすっと笑えるもの。
 私は自分の書く話、登場人物、世界、文章が好きです。
 悪く言ってしまえば自己陶酔ですが、
 自分の作品に愛があるからこそ私は小説を書いているのだと思います。

 まあ、世の中理由のない行動なんてあふれかえってますよ。
 理由なき反抗をしたくなる時期もあったり。
 理由なく蟻の行列を妨害してみたり。
 理由なく空を見上げてみたり。

 お粗末さまでした。


矢神倖千さんの意見
 意味なんてありません。
 正直書いても自慢になりません。
 いくら努力しようと、どんなに研究しようと、何作品書き上げようと、
 素人が30分小説の書き方を学べばほぼ同レベルのものが書けます。

 書いたところで何にもなりません。
 将来に生かせる可能性も極端に少ないです。
 僕はそう思って物書きをやめている状態ですから、こんなことばかりです。
 結局どんな凄い発想で物語を考えても、それを実現するのは99.99999%不可能です。
 それでも物書きを続けていられる人というのは残った0.00001%を心に信じているからでしょう。
 それが物書きなのではないかと思いますし、それがものを書くということではないのでしょうか?


senmaさんの意見
 横槍かもしれませんが、少し気になりましたので、矢神さんのレスに返信させてもらいます。
 ただ、小説を書く意味についての私見も合わせて書くつもりなので、
 本筋からはズレないとは思いますが、少し厳しいことを書くつもりですので、
 もし不快に思われた方があり、指摘してくださったならば直ちに削除する所存です。

・快楽? 苦痛?
 物を書く、という行為は楽しいことでしょうか、それとも苦しいことでしょうか。
 他の方々の意見をつまみ食いしているわけではないのですが、

 僕はそれは両方である、と解釈します。

 自分の想像の通りに物語を動かすことへの高揚感や、
 その自由自在さががんじがらめに縛られている現実への息抜きになること、
 ただ単に文字にて自分の想いを表現することそれ自体の喜びに着目するならば、
 表現微妙ですが「快楽」とも言えるでしょう。

 一方で、思い通りに表現できないもどかしさや、見直した時に感じることもある違和感や、
 他者に理解されないという葛藤、才能がないのではないかという不安に着目すれば、
 確かに「苦痛」なのでしょう。

 しかし僕はむしろ、少し長く書いている人ならば、
 どちらの感情も経験したのではないかと思うのです。
 ある意味において、その両者は表裏一体のものである。そんな気がします。

 そして、それらは書くという行為を通じて自身の中に生じてきた感情ではあっても、
 決して何かを書く、という行為そのものの動機足り得ないと愚生は思うわけです。

・書く動機
 例えば自分でも無意識のうちに音楽のフレーズが浮かんできて口ずさんでみたり、
 あるいは織田信長の肖像画をふと見て無性に落書きが書きたくなってみたりした時、
 それらの行為に明確な理由は必要でしょうか? そもそもあるのでしょうか?
 合唱コンクールの練習のために、と一念発起して口ずさんだ、とか、
 織田信長に落書きすることを何日も前から考えてそのチャンスを虎視眈々と伺っていた、
 などという風にその人が考えていたのだ、とこの場合考えることは妥当でもないでしょう。

 ではどうしてそういうことをするのか。
 健康のためか、それとも学業のためか、はたまた金儲けのためか、または恋愛のためか。
 結論から言えば、中にはたまにそういう人もいるのかもわかりませんが、
 人間の心理という一般論の部分から考察してみるならば、

 「答えが出ない」ことが答えなのだと思います。

 ちょうど子供が描いた絵と同じようなものなのです。
 それらは自分にとって食べることや、眠ることと同じの次元であり、
 表現する、という行為そのものは感情よりももっと深い部分から生ずる感情なのだと思います。
 故に書くことの意味を求めることが無意味、とは言いませんが、
 書く、という行為はそういうことなのだ、と理解していないと、
 精神衛生上にも良くない様々な弊害が生じてくるように感じます。

 そのことについては後に詳述しますが、愚生の見る限り、
 矢神さんはその典型的な症状の一つに、
 今現在とらわれてしまっているように思えてならないのです。

・目的、手段、結果
 ではちょっと視点を変えてみます。
 このように書く動機、というものは人間の感情よりも深い部分から沸いてくる物なのだとすれば、
 要するに食べる理由や息をする理由や眠る理由を誰も問わないのと同じで、
 本来理由などそこに生ずるはずが無いことになってしまう。
 しかし、現にそのことで悩んでいる人がたくさんいるわけです。
 それがどうしてなのか、ということについてまず私見を述べます。

 小説というものは、上の内容を踏まえていくならば本来極めて自己中心的なものだと思うんです。
 だって「自分」を表現するために書くんですから。
 自分を表現するために歌い、描き、作るその他の芸術とこの点においてはなんら変わりません。
 それは自分自身にとって呼吸と同じように生じてきた衝動であり、
 書く行為そのものが自分にとっての自然と化しているので、
 強いて、でしか理由を挙げることができません。

 そこに「他者に見せる」という欲求が生じてきたその時が、変化の始まりであるように思います。

 人に見せようと思った時、書きたいという欲求の対象は他者に向かうわけではないと思います。
 人に見せたい、という感情や人に面白がってもらったり、
 泣いてもらったりしたいというものは全て、結局は自分に返ってくるものだと思うからです。
 小説が自己中心的なものである、という前提に立つならば、
 僕は慈善のために書きたくもないお話を無理に書いている、という人は聞いたことがない。
 書いて、さらに人に読んでもらう、という考えには、
 結局のところ読んだ人からの反応を確認するという目的があり、
 もっと言えばそこにおいて他者から認められる、という期待の意識が働いている。
 そういう意味で自己中心的だというわけです。

 後の項に関連することですが、言うなれば「他者を介して」自己の存在を確認している。
 小説にはそういう側面があると思うわけです。


 そして人に見せた上で、自分自身と人の意見とのギャップがまず生ずるわけなのですが、
 ここが苦痛の始まりであるように感じるのです。
 人により良い評価をしてもらおうと考えたとき、
 我々はここのサイトのような所を無性に検索してみたり、
 他人の秀作を読みながら自分自身の書きたい、というモチベーションを維持しようとします。
 他者と自分との間のギャップを埋めるために技術やルールや文法作法や、
 常識などなどを学ぶのだとすれば、その過程が苦痛に他なりません。
 だってそれはある意味においては、自分が本当に表現しようとしているものが、
 うまくいっていないということになりますし、
 あるいはまるで他者のために書いているような感情にとらわれ、
 自分が書きたいから書き始めたはずなのに、という葛藤を生じてしまうからです。

 その苦痛が今の矢神さんのように絶望にまで発展しているというのは、
 ここの辺りに根っこの一つがありそうな気がするんです。

 つまり、本来の書く意志の源泉であったのは、
 「書くことによって」自己を確認するようなものであった。
 しかし他者の目というものを意識するにつれて、
 それが「書いた物への他者の反応を通じて」自己を確認する、
 という段階に移行するのが普通であると僕は解釈しています。
 この二つの段階、というのが重要です。


 そういう観点から見てみますと、矢神さんはその移行期か、
 あるいはまだ前者の段階であるのだと思われます。
 前者の段階は上で述べたとおりの極めて自己、というものが強い段階なのでありますが、
 自分自身がそういう段階であるということを認めず、あるいは理解していない状態で、
 その次の段階を求めるのはまず無理がある、と僕は思うのです。
 というのも、これは本当に感情以前の部分でありまして、
 感覚でしかわからない抽象的な領域です。
 故に前者の段階の人は、後者の段階の人が感覚的に分かっているそのことを
 感覚的に経験していないために、「他者を介する」という隠れたロジックには気がつけず、
 ただ盲目的に「読者の目を意識する」としか理解できない、と愚生は考えているのです。
 これは少なくとも、僕自身に実際に起こった心理の変化だから、このように言えるのです。

 以前矢神さんが立てた「万人に受け入れられる書き方」という主旨のスレの、
 そのタイトルを見た時点で直感しました。
 これは明らかに読み手、という存在を自己の中でどう位置づけるかを、
 上記のように誤ってしまっている、と。

 少々話がそれてしまいましたが、上の論理で色々なことを学ぶようになるとします。
 そして人に見せたいという感情の発展形が、小説家になる、ということだと思うのですが、
 ここで矢神さんのような「背伸びしてこけて拗ねた(表現悪いですが。。)」
 状態になっていたりなどすると、厄介なことが起きるわけなのです。

 小説家になる、という事柄って、思うに「結果」であり、
 多くの人に自分の作品を読んでもらうための「手段の一つ」に過ぎないのではないのでしょうか?

 1000000人が小説を書いていてそのうちの一人が小説家になったとしても、
 他の999999人はその一人を妬むのでしょうか? 
 自分もその一人になれたらいいなぁ、という夢を抱くでしょうか? 
 僕が意味しているのは、すでに例えば自分のサイトなどを持っていて、
 別にプロを目指しているわけではない人々を含めた1000000人です。
 その中に確かに魂を売ったような本気の人もいるでしょうが、
 そういう人はここでは半数以下としておきます。
 そう考えたとき、真の目的である「人に読ませる」
 (影の目的は「人の反応を介して自己を確認する」ですが、
 反論も当然あるでしょうから、ここでは置いておきます)ということを考えたとき、
 手段なんて物はいくらでもあるのではないでしょうか。
 その中で、プロになって、という道を選んだ人が小説家になるのですが、
 当然そういう視点から見た「小説を書く意味」の解釈の仕方については、
 他の人々にそのまま適応できるわけではないのです。
 
 999999人には999999人なりの自己表現としての小説観があります。
 彼らが0.00001%の、まるで抽選大会みたいな可能性にロマンを抱いて物を書いている、
 というのは、それ自体がそんな風に思っているその人の考えでしかありません。
 繰り返しますが、それは0.00001%の側の論理ではあっても、
 他の999999人全てに適応すること自体がおかしいのです。

 それでも、999999通りの手段が例え存在しようとも、現実には小説家になる、
 ということがまるで一つのブランドのように君臨しています。
 そこが重要なのです。
 そういうまやかしというか、誤った価値観というかそういったものがあるから、

 小説家という「結果」が「目的化」してしまうんです。これが厄介なわけです。

 本来、小説家になる⇒多くの人に読んでもらう(真の目的)というロジックが存在し、
 ゆえに「何故書くのか?」という問いは、
 その真の目的(影の目的)に帰結させながら考えるしかない。

 その後のロジックは割と最初の方に前述してきたとおりです。
 しかし上記のような結果の目的化により、
 そういった問いが「小説家」に降りかかることとなってしまった。

 だから、悩んでしまうんです。迷ってしまうんです。戸惑ってしまうんです。
 だって「書く」ことは感情よりも深い部分から生じた物であるがために、
 それだけで答えにくい問いです。
 にも関わらず、なんだか名声だとかそういったニュアンスまで色々含んでしまい、
 今日においては「文学」という言葉と違ってもっと「俗」っぽくとらえられるようになってしまった
 「小説家」という「職業」を表す「単語」にそんな問いを吹っかけても、
 答えられないのは当然なんです。

 迂闊に目的化してしまうから(そうせざるを得ない社会なので仕方ないんですが……)、
 ただでさえ困難な問いを余計ややこしくしてしまうんです。

・小説とは?
 「人生は○○だ」という言葉があります。
 この○○の部分に何を入れるか、によってその人の人生観がわかる、と言いますが、
 僕ならば躊躇することなく「小説」を入れます。
 当然中には愛とか金とか気合とか色々入るでしょうが、
 話を進めるためにそれらは置いておきます。
 少なくとも僕はそういう価値観を持っている。

 僕は三歳の頃から、その時は絵を描く、と言う手段でしたが
 「物語を作る」ということを始めていました。
 誰かに言われたわけでもなく、物心ついたときからそういう自分がありました。
 それが中学生になってから活字に変わっただけで、根本の部分は何にも変わっていません。
 書く、という行為そのものと共に自分が育ってきた、といっても過言ではないと思っています。
 とはいっても別に自慢しているわけではありません。
 僕はたまたまそう思うのが早かった、ただそれだけのことで、
 他の方々の動機を見下している、とかそういうつもりは一切ありません。

 僕が言いたいのは、例え一人一人の動機は違ったとしても、
 書くことによる自己の表現という道に足を踏み入れた人、というのは共通して
 「書くこと=生きること」という風になっている、ということです。
 もう一歩言い換えれば、生きること=心、と言ってもいいかもしれない。
 助動詞の一つ、その時々やそれまでの経験によって、
 人によってそれぞれ使い方の割合だとかが全く違ってきます。
 小説においては、その人自身の心が反映されると言うのはむしろ当然の話だと思います。

 そして非常に話の展開としては当たり前のことなのですが、
 書くということはその人の精神状態を反映することに他ならない。これが重要だと思うのです。

 孔子は「三十にして惑わず」と語りました。
 逆に言えば三十になるまではどんな精神年齢の高い人だって悩んでいると言うことです。
 ましてや僕を含めた、多くの中高生は、ただでさえ不安定な時期です。
 そこに今の日本の特殊性が加わり、ますます子供達は不安定になっています。
 自分の生きる価値や意味が見出せないから、やけに馬鹿騒ぎしてみたり、
 援助交際してみたり、一瞬の快楽を求めるために恋愛においても、
 体をやたらに求めなければならないと強迫観念を持っているかのように関係を急いでみたり。
 大人が子供達を自分が嫌だからという理由で排除しようとしているから、
 または単なるビジネスやら欲望やらの対象としか見なしていないから、
 あちこちで問題が起きている。
 今の教育などは論外ですが、
 スレの内容から離れそうなのでこのことへの言及は避けておきます。

 が、一つ言っておきたいことは、自分自身のことを告白してしまうのならば、
 僕はいじめられる立場にも逆にいじめる立場にも、少数派にも多数派にも、
 そして時には傍観者にさえ、全ての立場になったことがある、ということです。
 故に、どちらの心理も人よりは多くは観察してきた、という自負があり、
 そこから判断しているのです。

 自分の存在がまるで根無し草みたいに、
 非常にあやふやになってしまった子供達が非常に増えています。
 だから、世間でも様々な事件が起きていますし、
 自分をなんとか表現しようとした人の一部が「書く」ということに流れてくるのではないでしょうか?
 昨今のライトノベルの隆盛にはそういう背景もあるような気もするのは、
 二次創作だとかも含めて、一様に読み手が書き手になる、という動きが大きいことです。

 ところが、お分かりかもしれませんが、書くことがその人の精神状態に左右されるのであれば、
 今言ったような子供達が「書く」のなら、前の項であげた二つの段階で言うならば、
 強烈なまでに前者の段階、すなわち「自分のために」書いている状態にならざるを得ず、
 しかも厄介なのが、後者の段階「他者を介して」という部分における
 「自分に返ってくる反応によって自分の位置を確認する」という部分に直ちに飛び級して、
 前者主体で巻き込んでしまう、ということです。
 だから、矢神さんのように、自分の書いたものに対して他の人から少しでも厳しいものが来ると、
 それが単に技術的、表面的な指摘に過ぎなくても、「自分の位置」ですから、
 それが奈落のそこにでも落ちたような、そんな絶望的な気分になってしまうのだ、
 と僕は解釈しています。
(ちょっと前の部分と論理が食い違っているように見えるのは仕様です)

 その気持ちって、実はすごいよくわかるんです。

 しかし、矢神さんは、今書くことをやめている、とおっしゃいました。
 それなのにまだここのサイトに通っている、
 それはどうしてなのかと自問してみることをお勧めします。
 悪い言い方をすれば、まだ小説に未練がある、とも言えるでしょうが、
 そうではなくて、やっぱり矢神さんは小説を書きたいと思っている、と僕には思えてなりません。
 決め付けるような口調でしたが、もし全然誤った解釈であったのならば、謝罪します。

 が、もしそうでないならば、一旦人の評価など全く意に介さない状態で、それに縛られないで、
 自由奔放に好きなだけ書きたいだけ書いてみることをお勧めします。
 それこそ倫理的に反するようなことでも、人格を疑われるような罵詈雑言のオンパレードでも。
 でも決してそれを人に見せて自己主張をしよう、とは早まらないでください。
 一つ目の段階で背伸びをしてはいけません。

 そして気の済むまで書いてみて、そうしてからそれを全て自分の中に再び取り込むことによって、
 やっと第二の段階に完全に移行することができる。僕の場合はそうでした。
 それには何ヶ月もかかりましたが、おかげで今の自分の小説に対する決意に迷いはありません。

 小説とは人生である。人生とは心が変遷していく過程であり、
 故に小説は心が変遷していく過程である。
 そういう持論から、僕は上記に述べてきた結論に至ったのです。

 迷いがあるならば、人に読んでもらう、
 ということを一旦完全に捨ててみる必要があるように思います。
 そうしなければ例え気の済むまで書こうとしても気が済むはずがないですし、
 書くことから離れても、一度書くことによって自分を表現することを覚えた人間と言うのは、
 基本的に書くということを決定的に捨て去ることはできないと思います。
 結局書きたい自分と書くことが怖い自分とに挟まれて、辛いだけなのです。

 小説は、誰でもそのスタートは自己中心的なものなのです。
 しかも今の時代は、それをより社会的な意味合いを帯びた「文学」にまで発展させることは、
 むしろ稀なので、なおさら「≒」の関係になるでしょう。
 それがこの項のタイトルに対する愚生の解釈です。


・書く苦痛
 書くことが生きることと直結している、という観点に立つならば、
 生きていることが苦痛であると感じているならば、
 小説を書くこと自体も苦痛に感じられるのは至極当然のことだと思います。

 ここで、それでも人は書く、という点に注目すれば、
 苦痛はやはり感情である分「書く」ことの源泉よりは、
 次元が低いものであることに留意しなければならないように感じます。
 「書く」から、虚しい、苦しい、つまらない、意味がない、ウザい、 
 というわけではないのだと主張します。

 僕らのような中高生は今の世の中において特に不安定である分、苦痛を感じるのは当然なんです。
 そういう意味でも、矢神さんの気持ちがよくわかる、と僕は言ったのです。

 それに対してどう克服するか。
 僕の場合はひたすら書いて、自分の内面と向き合いながら克服していった、としか言えませんが。

 もう一つ例えるならば、成長することが生きること、
 ならば、書くことが成長すること、であると僕は信じています。


 だから、最終的な選択はやはり矢神さん自身のものだとは存じていますが、
 愚生はやっぱり、書くことを恐れてはいけないと思います。

 将来に役に立つのか、ということを考えるのであれば、
 役に立つともいえますしなんの役にも立たないのだと言えるでしょうね。。
 けれども、生きることの意味を生きているうちに理解している人が、
 どれだけこの世にいると思いますか?
 厭世気味にすごしていると人はとかく、生きる意味を妙に悟ったように感じることがありますが、
 そんなのはまやかしです。
 呼吸をするのに理由がないように(強いて言えば、生きるため)書くことなんか、
 やりたくなければやらなきゃいいし、また始めたって誰も起こるわけもない、そんなものです。
(強いて言えば、やっぱりそれも「生きる」こと)

 それにいくら技術を学んでも素人に30分で追いつかれるとおっしゃっていますが、
 技術は確かにそうかもしれませんが、その素人は所詮精神が一つ目の段階が大半だと思います。
 しかもなまじ技術がつくと、精神論的な部分の強い第二の段階への移行が阻害されますので、
 そんな人はあんまり成長しないようにも感じます。
 というか、やっぱりこの言葉にも他人の目を気にしている節がある。
 今の段階は、書きたいだけ書くべきだと改めて言います。

・終わりに

 気がついてみれば、随分な長文となってしまいました(汗。
 ここまで読んでくださった方、別に投稿作でもないのですが、
 貴重なお時間を割かせてしまい、本当にすみませんでした。


世羅 悠一郎さんの意見
 世羅 悠一郎と申します。

 私の場合は――「夢という呪いの縛鎖から解き放たれるため」ですか。
 これ以外に方法が思いつきませんで。
 他の方のように、書きたいという欲求とは少々異なるのですが。


茜さんの意見
 小学三年くらいの時に、授業で物語作ったんです。
 物語というか、冒険ものの童話みたいな。
 それを考えるのが楽しくて、今に至るのかもしれませんね。
 一応それが処女作にあたります。
 今も手元に保存していますが、見直す勇気がない……(汗

 私が小説を書く理由は、単に「楽しいから」です。
 だって楽しいじゃないですか。
 別の世界をこの手で創造するんです。
 それは今の世界に幾らかの不満があるからかもしれませんが。

 で、小学四年ぐらいから「これで食べていきたい」と
 なんとなく思うようになってきました。
 自分が楽しいことやって食べていけるなら本望だろうって。
 漫画とかそういう表現の仕方もあったかもしれませんが、
 私は文章を選びました。当時は国語が好きだったので(今は担任が嫌いなので国語嫌いですが)。

 あとはアレですね、文章で、人の心を動かすのがやってみたかったんです。
 本を読んだだけで、人は泣いたり、笑ったり、主人公と同じような気持ちになったりしますよね。
 それって一種のマインドコントロールじゃないか……と、ある日気付いたわけです。
 最近はそんなこと考えずに書いてますがw


レディマンさんの意見
 どうもこんにちは、レディマンです。
 
 自分が書く理由は『ストレス発散』です。なので、自分の気分と正反対の物語が出来ます。
 落ち込んでいるときはコメディが、明るい気分のときはシリアスが……。
 これがコントロールできればいいんですけどねぇ。
 『ストレス発散』なので疲れて帰ってきた時ほど、書きたい欲求が爆発します。
 「眠い、でも書きたい!」そんなときは生きる屍と化して執筆してます。

 スポーツするとストレス発散になるといいますが、私は執筆のほうが発散効率がいいようです。
 運動不足には気をつけないと、ですけど。もうすでに運動不足のレディマンでした。


雨杜 潤さんの意見
 まぁ、他人、特にわたしの意見を聞いても、それで何が変わるかはわかりませんが(ぁ
 わたしは、特にありませんよ。
 読者なんて気にして書こうとも思いません(ごめんなさいorz
 ただ自分が楽しかったら良い。そんな感じです。
 別に小説を書くことに意味があるとは思いませんが、敢えて言うなら、小説を書くことで、
 普段の生活では考えもしない様々なことを考えます。
 いろいろ考えて、書いて、形になったものを改めて考え直す。
 この作業に意味があるのではないかと思います。つまり、それ自体が人生経験。
 ん。なんだか、言いたいことが纏まらないと困るので、短く済ませましょう。


桜木谷 見征さんの意見
 どうも、最近スレが立つのが早いですね。
 桜木谷です。

 意味……というと大仰ですが「人に面白かった」と言って貰うことが原動力でしょうか?

 ありきたりですが。
 どんな短い作品でも作品を仕上げるというのは多大な労力ですから、
 完成したときには感無量です。
 それで、他の人に「面白かった」と言って貰えればそれに勝る物はありません。
 後自分も好きな作家さんの真似、みたいな形で始めたような気がします。
 オレもこんな文章書いてみたい!!ってですねw

 結局の所、やはり楽しいから……ですね。良くも悪くもw

 では、ご参考になりましたら……。


kkkさんの意見
 「一山あてるため」というのははずせないでしょう。

 斉藤環によると、「ひきこもり」の人で、小説家デビューによる一発逆転願望を抱く人が、
 司法試験合格による同願望を抱く人と同じくらい多いらしいですよ。

 まあ、若干痛々しいかもしれませんが、同じ「一山あてるため」といっても、
 最近周りでも増えてきた株のデイトレーダー志望者より、
 リスクが少ない分ましなのではないかと思っています。


底辺 従助さんの意見
 こんにちは、底辺 従助と申しますー。
 忘れがちですが、生きる事は戦いなのです。
 六十億の人間が飢えずに生きる為には、たくさんの家畜を殺して食べるしかありません。
 きっととても痛いでしょう。狩猟や釣りが娯楽の為に行われる事を考慮すると、
 人間はとても罪深い生き物のように思えてきます。

 でもそれは、仕方ない事なんです。生きる為ですから。
 何百年、何千年とかけず人間を肯定するには、弱肉強食を正当とする以外にないのです。
 権力や財産の奪取を二次的な栄養の摂取と解釈すると、
 殺人さえ正当化しかねない愚かで拙い思考遊びですが、
 ライトノベルのキャラになら使えない事もない事もない、と思って遊んでます。
 
 文章を書く事も、切磋琢磨を目指せば闘争に近くなります。
 誰かの作品を酷評し、自分の作品を酷評され、高みを目指す。
 中々辛く、終わりの見えない苦行です。
 何人もの人間が夢を諦め、道を閉ざし、作家として潰れていくのを、
 僕はこのサイトで、この目で見てきました。
 昔は寂しいと思って泣きましたが、今は心が乾いていて、何も感じません。

 前置きが長くなりました。
 今終わってしまっては、自分がその才能を潰してきた、幾多の作家さん達に申し訳ない。
 そう思って、僕は書いてます。


幻奏さんの意見
 こんばんわ、幻奏です。
 ぶっちゃけ、書く意味はないです。ただの自己満足かもしれません。
 まだ”趣味”という段階ですからそう思えます。

 趣味だから書く意味は?
 ない。

 自問自答ではこうです。
 もしも理由を探すとするなら、
 小説を書き始めたときの事を思い出すと、答えが見つかると思います。

 どうして書こうと思った?
 誰に影響された?

 そんなことは小説を書き続けてると忘れがちです。自分もさっきまで忘れていました。
 何か分かるきっかけになれれば。

 では。


黒尻尾の駄猫@CAMUIロケットを応援してますさんの意見
 通りすがりの野良猫です。
 数十、数百億のロケットを純国産、
 完全民間で1千万程度で打ち上げようと言うCAMUIを皆さん話題にしましょう!

 それはさておき、今回のご質問についてですが。
 ちょっと、考えてみてください。
 
 なにか、個人的に素晴らしい物を考えたとします。
 それを頭の中で何回も詰めていき、本人的に素晴らしいお話しになったとします。
 満足して終わります。 と、成った場合。それを「妄想」と言うのではないでしょうか?
 まあ、想像と言っても良いのかも知れませんが。
 しかし、それをブツブツと口にしながらやったら、単なる怪しい奴です。
 (特に異性のキャラクターの描写周りをブツブツ言いながら考えたりしたら、かなり危険ですw)。

 そうして思い描いた物を誰かに聞かせたい、知って欲しい、評価が知りたい。
 面白いと思って欲しい。

 そうは考えた事はありませんか?
 でも、何キャラも登場したり悪役が濃い奴だったりを、
 考えた自分自身が口で誰かに伝えたりするのは小っ恥ずかしい事ですよね?

 それにディティールも甘くなるかも知れないし、相手だって付き合うのは大変でしょう。
 自分のためにも誰かの為にも形にしたい。できあがった物を見て欲しい。
 これは、そんなに特殊ではないと思うのです。

 絵をの形で描きたい人は絵を描けばいいし、
 映像にしたい人はアニメでも実写でもアプローチはさまざまですよね?
 ストーリーと絵を両方やりたいならマンガでも良いですしね。

 考えついた物を得意な、或いは好きな表現方法で描けばいいと思うのです。
 言葉でそれを考えつき、その言葉をそのまま伝えたいなら文字にすればいい。

 小説って、そういう事じゃないんですかね?
 ではでは。


脂さんの意見
 うーん。
 おもしろいですねー。
 小説と限ると私なんかは作家を目指しているという動機は薄弱なので、
 何も書けなくなりますが、芸術文化一般に広げて考えをめぐらしてみます。

 何故絵を描くのか、演劇を演じるのか、音楽を奏でるのか、詩を書くのか、小説を書くのか。
 私は芸術というのは、「表現者」と「受け取り手」が居て初めて成立するものだと思っています。
 その間に生まれた「感動」なりの人の心の動きが「芸術」という名の「現象」である、
 というのが私の持論なんですがこれをいうとややこしくなりそうなのでやめておきます(汗)
 絵や音楽などのジャンルは、そのメディアが違うだけ、
 ということで無理やり論理を成り立たせています。
 この図式だけ見ると、芸術とは単純に、人間同士のコミュニケーションなんですね。
 人間同士のコミュニケーションというものを考えると、
 現在では「言葉」というメディアが大きな位置を占めていると思います。
 ボディーランゲージなどありますが、現代では言葉の比重がより重くなっていますね。

 言葉が重要になった経緯としては、言葉から哲学が生まれ、
 科学が生まれ、派生して数字など違った体系の記号が生まれるなどして、
 現在、人間社会において科学という概念が重要な位置を占めてしまっているからだと思います。
 (乱暴な言い方になりました(汗))
 また、芸術と、単なる言葉によるコミュニケーションとの違いは、
 情報が「表現者」→「受け取り手」という双方向ではないという前提も挙げられると思います。

 ここで重要なのは、一方通行なのはその作品の「情報」だけである、ということです。
 「情報」ではない、「表現者」と「受け取り手」の間に交わされるものを、
 私は「アクション」と呼んだりします。
 「受け取り手」にどんなアクションがあるのか、というと、
 例えばその「受け取り手」が、違う時代に渡っているならば、
 その時代によってその作品の見方が変わりますよね。
 また、受け取り手個人のその時の気持ちによっても、作品の印象は変わると思います。
 「表現者」から出された「作品」の情報は変わらないのに、
 「受け取り手」の(心の)「アクション」によって、その間に生まれる「感動」は別種のものになりえる、
 ということが、芸術の肝要なところだと思っています。
(こう書くと量子力学の不確定性原理にも似てますね。
 ってこれは物理専攻の私が芸術で死のうと思ったきっかけの一つでもあったりします)
 一方、言葉によるコミュニケーションの代表である哲学や、
 それから派生した学問はそういう曖昧さを嫌います。親和しないのですね。

 それでは、芸術は一方通行ではない、と考えるならば、
 「芸術」というのは、言葉による哲学など近代的知では表現できないところの、
 心のやりとりを担うコミュケーションの一つである、とも言えるという論もあります。
 個人的にはこれは違和感ありますが^^;

 まあコミュケーションの一つと考えてみましょう。
 人間というのは社会的動物です。
 生物学的な視点から人間が社会の中に生きようというのは、
 当然のことであり、いわば動物的なレベルでの本能といってもよいでしょう。
 社会を構築するのにコミュニケーションは必要不可欠な要素です。
 つまり、多数の他者とコミュケーションをとろうとすることは、本能というと語弊がありますが、
 それに近い欲求である、と言えると思います。
 つまり(やっとたどり着いた)。
 芸術を表現しようということ、小説を書くということは、
 社会的動物としての本能に近い欲求によるものの、
 一つの表出として考えることができるのではないでしょうか。

 ここで、「小説」というジャンルに限って話しをしてみると、
 小説は、あからさまに言葉の芸術ですので、比較的、
 上記の言葉によるコミュニケーションと容易に互換しやすい面があると思います。
 例えば私小説というジャンルなんかは、
 上記の言葉によるコミュニケーションに近い印象がありますね。
 だけど物語による感動などは、言葉による近代的知に根ざしたコミュニケーションだけでは、
 捉えきれない要素であると思います。

 うーん、何か他に書きたいことあったような気がするんですが、長くなりましたので、
 尻切れトンボで終わらせていただきましゅ・・・

 何かのお役に立てれば。

 追記
 金銭的なことを挙げてらっしゃる方がいらっしゃいますが、それだけが目的なら、
 文筆家ほどリスクとリターンがかみ合ってない職種もないと思いますよ・・・
 (マンガ家やアニメーターもそうですが)
 普通に大学でていい会社入るほうが、平均生涯賃金は断然上だと思います。
 あたればでかいといいますが、それなら多分株取引や起業の方がよっぽどでかいっすよ・・・
 個人的に金銭感覚狂ってるかもしれませんが・


プチミントさんの意見
 初めまして、近頃名前のプチ部分を平仮名にしようかどうしようかと
 考えることのあるプチミントです。で 本題ですが、

 演出家・宮本亜門さんは、一つなにか物語を完成させてしばらくすると、
 また新たな物語が頭に浮かんできて、それをアウトプットせずにはいられなくなるそうです。


 俺もそんな 繋がった異世界との交流をしていて、
 これをアウトプットしないのは、もったいないなと感じる。
 だから小説を書いています。他の方々みたいに書きたいから書くってのもありますが、
 俺の場合は、他の人とはいろいろと違うようなので、まったく参考にはなりませんがorz
 俺は思いついた物語は、パラレルワールドのようにしてどこかに存在している、
 それと繋がることができる才能を持った人間が、
 物書き、あるいは物を書く、もしくは物を書きたがる人なんじゃないかと考えています。
 こんな電波な自論を持っている俺ですが、意味といわれると、
 書きたいから書くってのが一番比重でかいと思います。
 ではでは、あいかわらずの乱文な、ちかごろ眠る直前にまったくなにものか知れない、
 どこかの世界の誰かの話し声が、ぼんやりと聞こえるようになったプチミントでした。
 ……あかねちゃんって誰だよ。


ティルさんの意見
 自分の理由はこの世界に生まれて何も残さないで死ぬのが嫌なのと、
 自分という名の小説家がいると言うことを覚えてほしかった、
 また自分が作品を作ってそれで誰かの心を動かせたい、
 自分の妄想の世界とキャラクター達をライトノベルという場で活躍させたいなどです。
 生きた証もなく死ぬのは嫌ですし、何よりも自分の考えたキャラクター達が、
 ただ自分の妄想の世界だけにしかいないというのは考えるととてもつらいので・・・。


麦菓子さんの意見
 私にとって小説を書くことは、自分と向き合う行為です。

 私は論理的な思考が苦手なので、いつもあやふやで曖昧な感覚でものごとを捉えています。
 ニュースで、本で、映画で、現実生活をおくる中で感じた名前の付けられない感情とか、
 そこかしこに転がっている不条理さ。容易に答えの出ない事象へのもどかしさ。
 そういったものを、一つずつ自分の言葉に変換して、租借して、自分なりの答えを出す。
 自分にとって小説は、そのための手段です。

 なので、何故小説を書くのか? と聞かれれば
 「自分の答えを見つけるため」
 と返答します。


DoZunさんの意見
 初めまして。かなりの遅レスになりますが、ご容赦を。

 小説を書く最大の理由は、それが楽しいから、小説を書くという行為が好きだから、でしょうか。
 ですが、そういった理由は後付です。
 ただ小説を書いてみたかった、書いてみたら楽しかった、だから小説を書いている。
 要するに、小説を書きたいから書いている、というような状態です。


 僕が小説を書き始めるようになった理由は、プロの作家さんの文章を読んで感動し、
 同じように自分もそういった文章を書きたいと思ったからです。


 正直な話、僕も鈴山正秋さんと同じ状況に陥ったことがあります。
 プロの真似をしてばかりいたために自分の文体・文章というものが持てず、
 パクリだと罵られ、「どうして文句まで言われて小説書いてるんだろう」と思ってしまったんですね。
 まあ、確かにパクリと言われても仕方がなかったかな、
 と今は笑い話として思い出せるのですが……。
 その後、しばらくは小説を書くことから離れていました。大体一ヶ月くらい。
 けれど、突然小説を書きたいという欲求が湧き上がってきたんですね。
 その時、やっと気付いたわけです。
 自分が小説を書くのはあくまで自分のため、他人に何を言われようとも、
 自分が小説を書きたいということに変わりはないんだ、と。

 結局の所、僕が小説を書く意味、小説を書く目的は、単純に書きたいから。
 小説を書くという行為で自分を満足させられるから。
 それ以上でも以下でもないんですね。

 また、最近、どうして自分がそんなにも小説を書きたがっているのかを改めて考えてみました。
 すると、自分自身が面白味のない人間だからだったりするのかな、とも思いました。
 誰かを楽しませられるような話も出来ないし、体を張って誰かを笑わせることも出来ない。
 けれど、自分が書いた小説によって、誰かが楽しんでくれるかもしれないし、
 笑ってくれるかもしれないし、感動してくれるかもしれない。
 
 僕はコミュニケーションが下手です。引き篭もりというわけではありませんが、軽い人見知りですし。
 だから、小説というのは一つのコミュニケーションの手段なのかもしれません。
 脂さんが仰っているように、芸術行為というのは表現者と受取手がいて初めて成り立つ物です。
 最初は一方通行かもしれない。
 けれど、感想をもらえば、一応吹くのキャッチボールになる。
 感想を下さった方々の欲求を満たすことの出来るような作品を書けば、
 キャッチボールは続いていくのです。

 単純に原始的な書きたいという欲求を満たすという意味、
 コミュニケーションの手段という副次的な意味。
 僕にとって、小説を書くことには、この二つの意味があります。

 鈴山正秋さんが陥った状態は、一種のスランプです。
 最初に自分が小説を書き始めた理由をもう一度見つめ直し、
 初心に返ってみるといいかもしれません。

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