第4研究室 創作に関するQ&A 159P | トップへ戻る |
脂さんからの質問
 小説は他人のために書くのか?自分のために書くのか?
 
 まず私事を話させてください。
 私は戯曲、舞台演劇の台本書きを主にやっておりました。
 台本というのは、書いたそばから演出から役者に読まれます。
 まして、それをもとに一つの作品をたくさんの人間で作り上げるものなので、
 私は、戯曲を他人のために書いていたと思います。
 しかし私はそのプレッシャーに耐え切れず逃げ出しました。
 作家としては失格でしょう。
 
 小説はそうはいきませんね。
 一人で作り上げる表現です。

 また、例えば、日記というものを想像してみましょう。
 日記は、他人には見せませんよね。
 しかし、将来の自分に見てもらう、または、何かのはずみで、
 時間を越えて誰かに見てもらう、という気持ちがどこかにあると思います。
 でなければ記録に残しませんよね。
 そういう意味では、未必の表現という言い方もできるのではないかと思います。
 でも、日記を文学作品というには、少し問題があるように思います。

 何が言いたいのかというと、「小説」という表現手段を選んだ時点で、
 結果読んでもらうかどうかは別として、
 他人に読んでもらうことを前提として書かれていると思うんですね。
 練習用など、例外はあると思いますが。

 その上で、執筆するときの気持ちの問題として、
 他人のために小説を書くのか、自分のために書くのか。
 完全にどちらかだと言えるものではないと思います。
 しかし、執筆する際の心構えとして、
 考えてみるには作家として損にならない問題ではないでしょうか。

 私は、作品である限りは、不特定多数の眼にとまることを前提としていると思っていますので、
 客観性が必要という意味で、
 誰かに必要とされる作品を書くということは悪いことだとは思いません。
 しかし、それも行き過ぎると、読者の意見の最大公約数に振り回されたり、
 流行をただなぞっているだけの作品にもなりかねません。
 それでは読者は飽きますし(読者というものはワガママなのです)、
 書くほうだっておもしろくないと思います。

 そこで、自分のため、という意識がでてくるのだと思います。
 自分が表現したいこととは何か、自分の心を深いところで揺り動かしているのは何か、
 などを顧みるという言い方になりましょうか。
 しかし、これも行き過ぎると自己満足な作品になってしまいますよね。

 ではそれらのバランスか、というと、単純に「バランス」と言ってよいものではないような気がします。
 すごく言葉は汚いのですが、庵野秀明さんの言葉で、
 「他人に見せるオナニー」というものがあります。
 個人的になかなか言いえて妙かな、と思っています。


 また、私の考えでは、どこかのスレでも書きましたが、小説を含む芸術というものは、
 表現者と受け取り手のコミュニケーションという考え方をしています。
 コミュニケーションだと考えれば、自分の意見や立場を述べるか、相手の意見や立場を聞くか、
 それは同時に行えませんよね。
 結局はコミュケーションの手段として、順番の問題か、というような気もします。
 コミュニケーションが成立するには、
 お互い(ここでは表現者と受け取り手)の共通の地平というものが必要になります。
 それを探しあてる際には、誰かに必要とされるものを書く、ということが有効になるのだと思います。

 また、作家論として考えるならば、他人のために書く、誰かに必要とされるものを書く、ということは、
 客観性を育てるということに関しては有効なので、
 主にテクニック論において重要になるのだと思います。
 一方、自分のために書くということは、その作品の根本的な、
 テーマや作品の存在意義のようなところに関わってくる「気持ち」なのかな、と思います。

 また、作品のテーマが「娯楽性」「エンターテイメント性」のようなものであれば、
 客観性が有効になるので、「他人のため」という意識が強くなると思います。
 そういったものと違った、「普遍性」「(あまり好きな言葉じゃありませんが)芸術性」などを
 作品に求めるならば、自分を顧みるという考えから、
 「自分のため」という意識が強めになるのかな、と思います。

 以上が私の一つの意見ですが、皆様はどう思ってらっしゃるのでしょう。
 もちろんどちらが大事、というような単純なお答えはだしにくいと思いますが、
 これらのことについて思うところがあれば、聞かせていただけないでしょうか。


● 答え ●

永久本さんの意見
 こんにちは、永久本です。

 小説を書くこと。これはやっぱり究極的には自己満足なので、自分のためなのかな、と思いますね。

 例えば、ある作家さんが読者を意識して小説を書き、
 感動させられる素晴らしい大作を出版したとします。
 これが作者の狙い通りに大ヒット。
 すると、作者さんはどう思うでしょう。
 「やったぞ〜」か、「フッ、狙い通りだぜ」か、とにかく満足すると思います。
 (こういった気持ちは仮定ですのでご了承ください)

 例え「いや、この作品の本当のテーマは描ききれていない!」と、満足し得なかったとしても、
 次回作は「今度こそ自分が満足できる物を」となりそうです。
 つまり、最終的な満足を目指しているというわけですね。

 また、誰かに奉げる本を書いたとします。
 自分の考えなど一切入れず、ただある人に奉げるために、完全に他人の為に書いたとします。
 すると、書き終えた結果、作者さんには何が残るでしょうか。
 私的には「○○さんにために書き上げたぞ〜」という達成感だと思うのです。
 もしも自己満足を完璧に排して他人のために書いたら、
 書き終えても疲れるだけで、気分は最悪です(極論で申し訳ありません)。

 とまあ、「書くことは最終的には自分が嬉しいor満足できる事だ」という風に思ったのです。

 勿論、「ほんの少しは自己満足なはずだ」程度なものです。
 というわけで、そこから考えると「自分のため」と言えなくもないなぁ、というのが自分の意見です。
 繰り返しますが、「こう思うのでは」というのは仮定ですので、ご了承下さいますよう。

 上記の意見は、極端ですが、根底に位置する物ではないかなと思っています。
 その上の段階として、「読み手を意識したハイレベルな作品」というものがあるのではないかなぁ。
 その高い段階から考えると、読者のために書く、というのは確かに理解出来ますね。
 「こうやってこうすれば、読者に新たな感動を提供出来るのではないか!?
  よし、読者を感動させるために書くぞ!」
 とまあ、そういう気持ちで(曖昧だ……)
 ふぅむ、難しい……。

 以上、浅はかな私見でした。
 それでは。

追記
 書き終えて思いました。色々な名作を生み出しつつも、
 ずっと満足できずに高みを目指す人、というのは自己満足していませんね(汗)
 文学界のために新たな分野を開拓しようとしている人なんかは、
 最早自己満足は無意識の領域で、自意識では完璧に他人のために書いているかもしれません。
 ううむ、そうすると、ますます難しいものですね。


脂さんの返信(質問者)
 さっそくのご返事ありがとうございます。
 永久本の意見を読んで一つ気付いたことがありました。
 (これだけでも私的にはスレ立てたかいがあるというものです)

> また、誰かに奉げる本を書いたとします。

 私は「不思議の国のアリス」を思い出しました。
 元は三人の少女のために書かれた物語ですね。
 作者のルイスキャロルは、初めは不特定多数に読まれることを考えてなかったのでしょう。
 しかし結果としてそれは出版され、多くの読者を得ることとなりました。

 私は、小説を含めた「芸術」というものは、
 表現者と受け取り手の間に生まれる感動などといった「現象」である、という考え方をしています。

 (こう考えるといろんなことにつじつまが合うんですね^^;)

 そう考えると芸術は表面上コミュニケーションの形式をとっていると言えますね。

 さらに、芸術作品の条件として、
 「受け取り手が不特定多数である」ということがあると考えています。
 電話や手紙での会話を芸術というには少しおかしいですよね。
 それに、「芸術性」の要素としてよく言われる「普遍性」ということを考えれば、
 同一時間ならばその受け取り手の人数が一つのバロメーターになりますね。
 表現者ならば、たくさんの人に見てもらいたい、
 ということは、一つの本能みたいなものだと思います。

 ただ、ここで一つおもしろい現実世界の状況の変化が関わってくると思いました。
 というのは、この「受け取り手が不特定多数である」という条件なんですが、
 これは本来ハードルの高いものであったはずです。
 例えば、演劇では200人程度の小屋で芝居を打つのに、数百万円のお金が必要になります。
 音楽だって、楽器や機材など必要になりますね。
 絵だってたくさんの人に見てもらう、長い時間見てもらうには保存の問題などがあります。
 小説はどうでしょう。
 めんどくさいので活版印刷以降を考えますが、昔は同人誌(コミケのやつとかじゃないですよ^^;)
 と呼ばれるものを発行して世に認められたりしなければなりませんでした。
 
 資本主義社会が発達して出版社が企業の体をなすと、
 出版によってさらに多くの読者を獲得できるようになりましたが、
 出版されるには、まずその企業に認められるような作品を書かなくてはならなくなりました。
 これは今でもそうですね。

 要するに、昔は、不特定多数に見てもらう、ということが、
 表現者の一つの戦う壁であったと思うのです。


 しかし、ITが発達した現在は、小説というジャンルに限って考えれば、
 「受け取り手(=読者)が不特定多数である」
 というハードルを楽々クリアできる状況になっていますね。
 このサイトの投稿室などは良い例だと思います。
 受け取り手の人数を広げるだけであった産業技術が、
 それまで表現者が戦っていたハードルを下げてしまった、という言い方になるでしょうか。
 
 結果、受け取り手の爆発的な増加だけではなく、
 表現者の爆発的増加という状況を生み出してしまったと。


 現在は、某ライトノベル新人賞のコピーにも似たようなのがありましたが、
 まさしく「一億総作家時代」みたいなものだと思います。
 結果、(小説というジャンルに限っては)「読者が不特定多数である」という条件は、
 数十年前とは変質してしまっているのではないか、という感覚が私にはあります。

 こういった状況の上で、客観的視点からスレタイトルの問いを、
 考え直してみるのも面白いかもしれませんね。


DoZunさんの意見
 そもそも、小説にしろ漫画にしろ、その他絵画、音楽、映画、戯曲、ゲーム、アニメーションにしろ、
 あらゆる芸術というのは、基本的にその根底に自己満足的なものが、
 横たわっているように思います。
 ただ、これは最初の動機的な部分においてです。
 自分が面白いものを創りたい、人を感動させたい、人を喜ばせたい。
 そういった動機における「〜したい」というのは、欲求です。
 その欲求を満たすために芸術活動(創作活動)をする。
 つまり、芸術活動とは自己満足のための行為なわけです。多かれ少なかれ、これは絶対です。
 誰かのためという建前(というと表現が悪いのですが)で何かをしたとしても、
 それは「誰かのために何かをしたい」という欲求を満たすための行為なのですから。

 ですが、脂さんも仰るように、小説というものが文字を媒体にした芸術であるからには、
 一種コミュニケーションの手段であることは間違いありません。

> 私は、小説を含めた「芸術」というものは、表現者と受け取り手の間に生まれる感動などといった
 「現象」である、という考え方をしています。

 
 正しくその通りですね。その「現象」はコミュニケーションの上に成り立つ共感や、
 快楽の共有から生じるものではないかな、と僕は思っています。
 小説を読んでいる時、そこには作者から読者に対して、
 一方通行的なコミュニケーションが成立します。それはダイアローグではなくモノローグです。
 そして、そこに読者のためという部分が存在しない限り、
 そのモノローグは「他人に見せるオナニー」でしかないわけです。
 
 ただ、そのモノローグが受け手に対してなんらかの影響を与えることが出来た時、
 それは一種のダイアローグになると思うのです。
 受け手から表現者に対して直接的に返す言葉がなかったとしても。
 変な言い方をすれば、モノローグは自慰行為であり、
 ダイアローグは性交と表現することも出来ると思います。
 そのダイアローグによって快楽を共有するわけです。
 もっとも、表現者にとっての快楽と受け手にとっての快楽は別物なのですが。
 自己満足のためだけの小説と、読者のことを考えて書いた小説。
 後者も勿論根底には自己満足――自己の欲求を満たす――という部分はあるでしょう。
 ですが、創作に対する姿勢が全く異なっていることは明らかです。
 快楽をただ得ようとするか、快楽を共有しようとするか。
 相手の快楽を考えない性交であれば、それは結局のところ自慰行為と変わらない。
 
 そして、自慰行為しか出来ないようでは、厳しい言い方をするなら、作家失格なのでしょう。
 ですが、同時に、相手の快楽しか考えられないようでも作家としては失格です。


 読者のことを考えることは大事ですが、行きすぎたそれは、自己満足、
 ひいては自己陶酔以外の何物でもありません。
 それは作者の気持ちの押し付けであり、偽善であり、独善でしかないのですから。

 やはり、大事なのはバランスなのかもしれません。
 作者の欲求を満たそうとする部分と、読者の欲求を満たそうとする部分。
 この二つは決して相反するものではなく、完全な別物ではないかと思います。
 言うなれば調味料のようなものでしょうか。
 作品全体を一つの料理として見立てるなら、その料理を引き立てる調味料なのでしょう。
 行きすぎれば料理の味(=作品の面白さ)を損ない、しかし欠ければ料理が淡白になってしまう。
 「作者のため」という部分と「読者のため」という部分とがバランス良く混ざり合って初めて、
 料理の味を引き立てることが出来る。
 料理というのも、料理人と食べる人間とのコミュニケーションの上に成り立つものですからね。
 (ここまで書いて、最初からこの比喩を用いれば良かったと後悔しています)。

 論旨があっちへ行ったりこっちへ行ったりしててすみません。
 長文・乱文で失礼しました。


脂さんの返信(質問者)
 なるほど!
 永久手さんも同様のことを仰ってますが、
 どーも私はこの「自己満足」という言葉に違和感があったのです。
 でも、なんとなく見えてきました。

 というのは、私は演劇畑でしたので、書いた戯曲をまず演出家に見せやいのやいの言われ、
 役者にやいのやいの言われ、スタッフにやいのやいの言われ、
 やっとそれが終わったら本番である「観客」がいる、という状況だったのです。
 この過程で「自己満足」などという言葉を出すと袋叩きにあうわけですね(汗)。
 これは私の固定観念でした。はい。
 そんなシンデレラみたいないじめに耐えつつ何故戯曲を書き続けたのか、というと、
 もちろん所属している劇団に対する「義務感」もありましたが、根源は「自己満足」なんですよね。
 お金も儲けられないし。
 
 「小説を書く意味は?」という問いをを突き詰めれば、
 「自己満足」という言葉はさけて通れない表現であるのかもしれません。


 書く動機、表現を行う動機としての「自己満足」と、その生産物である作品における「自己満足」は、
 分けて考える必要があるかもしれませんね。

 あと、余談になりますが、「芸術=コミュニケーションの一種」論について少し述べさせてください。
 自分で言っておいて非常に恐縮なんですが、私は少し違和感あるんですね(汗)。
 作家論、文学論とは関係ない、芸術文化論的な、
 論理的お遊びみたいなところなんですが、矛盾を感じるんです。

 というのは。
 まず、コミュニケーションを、「人間が社会的動物であるゆえの、
 社会性を維持するための一要素である」として捉えるとしましょう。
 芸術の表現者というのは、本能的にというか、作品に普遍性を求めがちですよね。
 たくさんの人に、時代を渡って見て欲しいという欲求の表れ。
 そう考えると、遠い違う国の人にも見てもらって感動して欲しい、
 数百年先の人に見てもらっても感動してほしい、という欲求は、
 社会性を求めるゆえのコミュニケーションという枠では捉えきれないと思うのです。
 ここがしっくりこないのです。

 ここで社会性の代わりに、抽象的な「人間愛」などを持ち出せば解決するのですが、
 芸術文化の歴史から見てもどうもしっくりきません。
 一時期、宗教学の「信仰」という要素と絡めてここを説明していた論文があって、
 少し「お」と思ってその論説に拠った時期もありましたが、私が無宗教なせいか、
 納得いく答えを出せていません。
 なので、これについては私もうまく説明できません。
 説明しようとしてもアラがでるだけでしょうし、本論とは関係ないところです。
 何となく私は「違和感がある」というだけにしておきます……。
 ここは私の不勉強なところです……。
 ってこれ完璧余談っすね(汗)。申し訳ありません。

 あ、もちろんコミュニケーションと捉えることで、芸術を上手い具合に捉えられることについては、
 そうだと思いますし、非常に有用な考え方だと思いますよ。


んぼさんの意見
 まず、小説(に限らず、芸術性のある表現技法全て)において、
 「コミュニケーション」という考え方をしていいのだろうか、という疑念があります。

 作家が書く→読者が喜ぶ

 コミュニケーション、というのは双方向でなければなりません。
 読者のレスポンスから、例えば作家が方向性を変える、というのはあるのでしょうが、
 間違いなく間に出版社が入っている以上、
 そしてその出版社が商業的視点で活動をしていることを考えると、
 作家の方向性を変えたのは読者ではなく出版社だ、という言い方が出来ると思います。
 間違っても、読者が「次はこんな企画でいきましょう」と作家に提案する、
 なんていうことはありません。
 京極夏彦の「ルー=ガルー」は、これを双方向でやってみよう、
 という試みの元書かれた物ですが、これはまさに例外です。
 そういった点から考えても、やはり「作家から読者へ」の一方通行、
 決して双方向ではない以上、これをコミュニケーションと考えていいのだろうか、と思うのです。

 確かにこちらのサイトでは双方向でのやり取りが可能です。
 しかし、これは例えば同じレーベルの作家同士が互いの作品を批評し合うような関係性に近く、
 「小説を書かない人からの観点」に欠けます。
 小説を書く人の視点では、どうしても技法・技術的なところに目が行ってしまいますので、
 小説の根本である「シナリオ自体が持つ力はどうか」というところは、
 技術的なことに比べ軽視されがちであるように思うのです。
(もっとも、このサイトには感想専門の方も多いとは思いますが)

 個人サイトでの発表であれば、比較的双方向に近いかもしれません。
 しかしながら、これはやはり特殊な環境ですので、一概に「芸術性のある表現とは、
 即ちコミュニケーションである」と断ずるのは危険であると思います。

 それを踏まえた上で、「誰かのために書く」という状況を考えると、
 クライアント(出版社など)の指示に沿って、クライアントの指示通りに仕上げる、
 というのが上げられます。


 これは、即ちプロの仕事ですよね。
 当然この場合は自分の意向など入りませんし、またクライアントの意を汲む能力、
 クライアントの期待するクオリティに仕上げる技術と、並々ならぬスキルが要求されます。
(だからこそ、彼らはプロなのですが)

 しかし、そう考えた時に、これを執筆に生かせる形、となりますと、
 「自分以外の仕様書に沿って作品を書く練習」が最も効果的、ということになります。
 しかし現実、これを行っている作家志望の方はどれくらいいるでしょうか。

 「誰かのために書くこと」と、「読者を意識して書くこと」は別だと考えています。
 
 また、「エンターテイメント性と客観性」に関してですが、これも少し違うかな、と思っています。
 エンターテイメント性、つまり娯楽性というのは、提供側ではなく受け取り側の問題です。
 受け取り側が、それに娯楽性を見出した時に、「エンターテイメント」として成立します。
 これは、今では「芸術(文学)」とされているものが、
 発表当時は「娯楽」とされていた、という例からも明らかです。
 当時の人々にとっては娯楽足り得ても、現代の感覚からは娯楽足り得ない。
 結局のところ、客観性というのは「主観の最大公約数」でしかないため、
 抽出の仕方によって答えが変わってしまう曖昧なものでもあります。
 娯楽性を受け取り側が決める以上、例えば過剰に娯楽性を追及した作品でも
 「自慰的作品」と取られることもあれば、自分のために書いた作品に
 「娯楽性」を見出される場合だってあります。
 「ほらほら、お前らこういう作品が好きなんだろ? 
 この俺がお前らの好み通りの作品を書いてやるよ」
 と思いながら書いたところで、受け入れてもらえなければただの自慰(代理満足)です。

 で、それらを踏まえた上で。

 例えば、どちらを大切にすべき、なんていう答えは存在し得るのでしょうか。
 プロであれば、「誰かのために書く」なんて当たり前の話ですし、
 それが「自分のため」にならない(=自分の時間を割いている以上、マイナスでしかない)
 にも拘らず書く人なんているでしょうか。

 「自分のために書く」のは根本原因。
 「誰かのために書く」のは必須条件。


 あくまで「プロならば」の話ですが、原因と条件は別物ですよね。
 それら二つを同じレベルに並べて考えること自体が、
 両者をちゃんと考えていない証拠に見えてしまい、
 「一体何を言ってるんだろう」と思ってしまったのですね。

 かなり蛇足になりますが、何かをするにあたり「理由が無ければ出来ない」のは、
 「それをしたくないから」に他なりません。
 しかし、それでも小説を書きたいと思って「いた」から、だから悩むのだと思います。
 自分は小説を書きたいと思っていた、だから執筆が嫌いなわけじゃない……
 一種の、アンビバレンツでしょうか。
 「自分は(少なくとも今は)小説が嫌いだ、書きたくない」と思えれば、悩まずに済みます。
 好きな食べ物でも、同じものを食べ続ければ食傷するように、
 これは一時的に嫌いになって当然なのです。
 それを受け入れれば、理由に思い悩むこともないと思います。


脂さんの返信(質問者)
 う、コミュニケーション論をつっこまれるとは(汗)。
 うーん。ここは私も少々違和感があるところなのですが、
 双方向という要素については納得しているところがあるのでお答えします。

 双方向というのは、「情報」が、ですよね。
 そう考えれば、確かに芸術表現というのは、「表現者→受け取り手」という一方通行です。
 私もそう思っていました(汗)。
 しかし、娯楽性のところで仰っているように、その情報の集合体である「作品」は、
 受け取り手によって様々な受け取られ方をします。

 Aさんが見た作品と、Bさんが見た作品は、同一のモノであっても、
 違った感動を生んでいるかもしれない。


 本来、コミュニケーションの情報と考えるなら、その情報は一義的が好ましいのですが、
 芸術においては、作品は情報というには曖昧すぎるわけです。
 この「曖昧さ」が、重要になってくるわけですね。
 受け取り手のその時の状態などその時々によって、
 全く違う意味を持ってくる情報、と言えばよいでしょうか。
 つまり、受け取り手側からのやりとりとして、その作品を見るという行為自体が、
 一つのやりとりになるわけです。
 見るという行為自体が「表現者←受け取り手」となるわけですね。
(細かく考えるなら、その時の受け取り手をとりまく現実社会の状況など、
 様々な要因が考えられますが、これを私は受け取り手の「アクション」と呼んだりします。)

 わかりやすく喩えるなら、シュレディンガーの猫で有名な、量子力学の不確定性原理ですよね。
 観測するという行為自体が観測対象に影響する。
 なので、観測しない限り、その観測対象は状態を確定しない、というものです。

 こう考えると、芸術も双方向と呼べなくもないんじゃないでしょうか。
 また、こう考えることにより、「芸術」には「受け取り手」と「表現者」が不可欠である、
 ということの論拠にもなるわけです。

 とはいうものの、違うレスにも書きましたが、
 私も一義的な「芸術=コミュニケーションの一種」という論には違和感があるのですよ……。
 そういう論説もあるよ、というぐらいの感覚で考えてください(汗)。

 次に「エンターテイメント性・娯楽性」。
 うーん。これは私の言葉が不足していますね。
 一つだけ、

> 今では「芸術(文学)」とされているものが、発表当時は「娯楽」とされていた

 これについては、私は「娯楽性」というものは、「芸術性(この言葉嫌いですが)」に含まれてる、
 と考えていますので、この論拠には同意しかねます。
 うーん、この「芸術性」という言葉がうまくいってないのかな。
 慣れない言葉を使うものじゃありませんね(汗)。
 ただ、

> 代理満足

 については、なるほど、と思いました。
 これは、二次創作などの同人誌での表現などで陥りがちなところですね。
(二次創作や同人誌活動を否定しているわけではありませんので、あしからず……)
 ここは注意すべき点でしょうね。
 これに対抗するのが、より多くの人に楽しんでもらいたい、
 という「普遍性」の希求ということになるのかな。

 私が「娯楽性」と書いたのは、娯楽という言葉の中から、
 「楽しい」という感情をなんとなく頭に置いて、風刺などの滑稽さなど、
 「楽しい」という感情を引き出すには、客観性という要素が重要になるから、ということでした。

> 「自分のために書く」のは根本原因。
> 「誰かのために書く」のは必須条件。

 
 こちらの結論については、ほぼ同意です。

 ここからは雑談なのですが、
 んぼさんは「プロ」というものに思い入れがあるように見受けられました。
 私なんかは、戯曲を書いているときは、なんとなく文章で食えればいいな、
 ぐらいにしか思ってなかったのですね。
 
 なので、風俗店のレポートや、雑誌にのせるアンケートや街の声の捏造文や、
 今はつぶれてますがタレント事務所の売り込みビデオの台本など、
 様々なものを書いた時期があります。
 果ては地域芸術文化振興の論文などまで。
 私は小説家だろうと、戯曲家だろうと、エッセイストだろうと何だろうと目指している人は、
 そういう風にとりあえずは文章でお金が稼げればいい、
 と思っているのだと思ってたりしましたが……。
 純文学で新人賞とった方で風俗記者やってる方もいましたし。
 (これは多分趣味と実益兼ねているのでしょうけど^^;)

 うーん。
 私が小説への気持ちが薄いだけなのかしらん。

 
んぼさんの意見
・コミュニケーション論
 ああ、この辺りは捉え方の違いですねw

 双方向なのは「情報」が、ではなく、「働きかけ」が、という意味での論説でした。
 つまり、表現者の行動(作品)が受け取り側に働きかけ、
 受け取り側に何らかの変化を生じさせることはあるが、
 逆に受け取り側が作品をどう読み取ろうとも、表現者自身に影響は与え得ない、
 という意味での話です。
 コミュニケーションにおいて重要な「レスポンス」が、双方向では存在しないので、
 コミュニケーション論に懐疑を呈したのです。

・娯楽性について
 あ、これは私も言葉足らずな気がw
 確か雑談掲示板の方で話題に上っていた話だったと思いますが、
 「芸術とは広義の娯楽である」という話、私はなるほどと思いました。
 が、ここではあくまで一般的に考えられるであろう「(崇高な)芸術」という意味合いで、
 それに適当な語句が見当たらなかったために使用しました。
 娯楽性は、「大衆性」と置き換えた方がより正確でしたOTL

・雑談にお返事♪
 あるかもしれませんね、プロに思い入れw
 小説家に限らず、何かしら金銭の授受が発生する「仕事」をする際には、
 私は自分に「プロであること」を課します。
 それは即ち、お客さんは自分の働きにお金を出す=自分をプロとして扱っている、
 だから意向を正確に受け取り仕事をすべき、という考えからです。
 髪を切りに行って、注文と違う型に切られたらお金払いませんよね。
 お金を出す人の注文通りに仕事をして初めてお金を貰うに値する、と考えていますので……。
 小説家に限らず、広義的な「プロ」という考えからの話でした。
 ……うん、こう書くとすごく私見っぽいw
 事実、私見なんですけどねー(ノ∀`)


縞島さんの意見
 こんにちは。縞島です。
 私からは今思い当たった点などを少しだけ……

 まず脂さんの話から思い当たったのですが、
 私も一昔前にアマチュアの劇団で役者をやっていました。
 で、アマチュアなのでお客さんは自分の友人や家族がほとんど。
 「たくさんの」人というわけではありませんでした。
 見てくれる人のために(それと料金に見合うモノを見せるために)舞台作りに励みましたが、
 やはり「自分たちがやりたいから」という意識はありました。
 ですが、公演を終わってみるとお客さんの中から
 「私も演りたい」という声が上がることがありました。
 例え素人芝居であっても、あるいは自分たちが意識をしていなくても、
 「何かしら」を感じてくれるお客さんはいるんだなと実感した次第です。

 作っている過程では一つ乃至二つくらいの目的しか浮かばないけれど、
 いざ世間に公表してみると自分では予想も付かなかった反応があらわれる、というのでしょうか。
 皆さんが仰っている「コミュニケーション」的要素の一つかもしれません。
 小説もそういうところがあるかな?と思います。
 デビューした当時は、ただがむしゃらにやっていたけれど、
 その後何冊も本を出していくうちに改めて自分の目的を見つけることもあるのではないかな、
 と思います。

 もう一つは、「他人に見せるオナニー」から思い出したものです。
 私が通っていた学校のある先生が、
「やりたいことや言いたいことがあるんだったら、まず他人に伝えなきゃ駄目だ。
 一人で頭の中で考えてるだけじゃオナニーと同じだ。
 小説を書いたら俺のところにもってきて見せてみろ!」
 と、いう風なことを仰っていたもので(私に対して言ったわけじゃないんですが)……

 小説に限らず、本、映画そのほか芸術作品などは、
 少なからず個人の「主張したい」「やってみたい」という意識で支えられてるものだと思います。
 作品の質を上げるために誰かに見てもらうのも、商品として世に出す行為についても、
 その点から言えば「自分のため」と言えるのではないかな、と思いました。

 最後に思いついたのが、最近読んだ本からですが……

 このサイトでも紹介されている「ハリウッド脚本術」より、もう読まれてる方もいると思いますが。
 中身は脚本についてですが「モノを書く」仕事全体に通じる内容もあるように思いました。
 モノはどう書くべきか?から始まって、モノを書くというのはどういうことか?
 まで丁寧に書いてあります。
 ここでの話題の参考になりそうな話もありますが、
 何ページにも渡って書かれているので、まとめることは控えます。
 機会があったら是非どうぞ。

 私自身は、この話題については明確な答えがなく、目下模索中と言うところです。
 何かしら意見を言えるわけではないですが、思いついたことを適当に述べたところで失礼します。


りゅみえーるさんの意見
 結論からいうと、これは自分のために書いているのか、それとも他人のために書いているのか、
 ということを考えながら、わたしは小説を書いていません。


 書いているあいだに考えるのは、この小説は最後まで読まれるだろうか、
 途中で飽きて放り出さないようにするにはどうしたらいいだろうか、
 この書き方は平板でつまらないな、とか、だいたいそういう事柄です。


優奈さんの意見
 こんにちわ。
 私的には、まずは自分が楽しんで他の人も楽しんでもらえればラッキーみたいな……
 結構軽く考えてます。
 プロになるならそんな考え方じゃいけないのかも、と思ったりもしますが、
 
 自分が書いてて楽しめない小説は、人が読んでも楽しくないのではないでしょうか。
 
 自分が楽しみ過ぎて、説明文が抜けていたり自己満足化してしまうと、
 他の人も楽しめないかもしれないですけど、
 自分が書いてて楽しくない物語を他人が読んで楽しめるとは思いません。
 書き終わった後は、執筆者は一種の興奮状態になるらしいですが、
 読者も読み終わった後は、結構「あー終わった!」みたいな感じになりません……か?
 私だけ……?
 まあ……好みもあると思いますが^^;

 それでは、乱文失礼します。


日路さんの意見
 こんばんは、日路です。

 私はプロを目指しています。
 なので、「自分が書いていて楽しい」というのを一番大事にしています。
 人のためとか仕事のためとかで書くのはプロ根性ではないと思っているので……
 というか、「仕事だから書かなくちゃいけない!」
 と追い詰められて書いてもいいものはできないでしょうし。
 書くのが楽しいから自分のために書く、と思えばこそいい文章が浮かんでくると思います。
 人によってプロ根性の捉え方もモチベーションの上げ方も違うし、
 確固たる執筆哲学を持っていらっしゃる方もいるでしょう。

 ただ私は、「自分はなんのために小説を書いてるのか、書く意味はあるのか」と考えるよりも、
 今書いている小説の続きを考える方に頭を使っています。


 な、なんか……空気読んでない発言になってしまったかも。


傘ブラゥン管さんの意見
 どうも、傘管です。眠いです。やばいです。

 私の場合は、箇所によって意識は違いますね。
 まずテーマは自分が描きたいもので間違いなく自己満足です。
 そしていざ執筆になると、どうすれば読者が想像しやすい表現になるかを考えるので、
 意識は他人にいきます。
 しかしこれも、結局は自分が恥をかきたくない、
 極力他人に文句を言われたくないとかの謎のプライドによって、自己ですしねー。
 直球で考えると他人意識なんですけれど、全てを踏まえて遠くから見れば自己意識なんですよね。

 まあ皆さんが言っているように議論が大切なので、
 とりあえずそういうこと考えずにある程度の推敲で投稿してみるのがいいかと。


峰しずくさんの意見
 こんにちは。

> すごく言葉は汚いのですが、庵野秀明さんの言葉で、
 「他人に見せるオナニー」というものがあります。
> 個人的になかなか言いえて妙かな、と思っています。


 これは真理をついているな、と思います。
 こういう話題がお嫌いな方は、ここで回れ右をしてくださいね、
 と予告をしておいてから、本論に入りますが。

 オナニーは自分が気持ちよくなるための行為です。
 しかし、他人に見せる、ということは、自分がそういう行為をしていることによって、
 他人にもエロい気分になってもらう、という別の目的が生じます。
 恋人や配偶者(筆者)に「自分でやってるところを見せろ」と言うのは、
 何もそういう行為をしている相手を蔑むためでもなんでもなく、
 自分(読者)もそれを見て楽しみたいからなのです。

 そうそう、柳沢きみおさんのマンガ「大市民」では、主人公は作家なのですが、
 彼の台詞に「ベストセラーは駄作」という理論が出てきます。
 これも面白いので、一読をおすすめしておきます。


蒼い人さんの意見
 私が小説を書き始めたのは、それで食べていきたいからです。
 自分の好きなことを仕事にできるのなら、それに越したことはありません。
 そして主題を定め、それにそった物語を書くことで自分の考えを整理する、
 という側面も私は入れています。
 この二つを見ても、基本的なスタンスは「自己本位」です。
 人様のことなど、考えた覚えはありません。全ては打算と思考の整理のみです。現段階は。

 しかし、他人の為を考える場合も、やはりある訳でして。
 少なくとも、読む人のことを考えて体裁を整える、ということはします。
 読んでもらう際のマナーという位置付けです。
 ですがこれは、執筆の内容に関わることではないです。
 気を遣うのは外面、スタイルだけなのであって、
 自分の中身まで他人に迎合する気はありません。

 かつて脂さんには下読みをお願いしましたが、あの時も同様です。
 自分が面白いと思った話を書いただけで、読者のニーズというものは考慮にありませんでした。
 確かにご指摘を貰った際にはいくらか修正は入れました。
 けれど、それは、そうした方が後々自分に益があると踏んだからなんでしょう。
 大学の授業でも議論しましたが、人は自分の最大利益を得る為には、
 ひとまずの自己抑制もするものです。

 自己の為のものが、他人の為という経路を辿ることはあります。
 この一方、他人の為と思ったものが、結果としてそうならないこともあるでしょう。
 そうした意向があり、それが行動に結び付いたとしても、
 その対象となる他者はどんな印象を受けるのか?
 小説の場合、作者は読者が抱く印象を、内容如何である程度は指定できます。
 が、完全にはできないのです。

 他人の為に書こうが、それが実際他人の為になるかどうか。
 これは、コミュニケーションを前提としても、結果としてそれが成立するかどうかと同義です。
 但し、その意思疎通を意図すれば、結果に反映しやすいとは私も考えます。

 ま、こんな訳で「誰の為に書くのか」という問題提起は最初だけです。
 いくら考えようとも、執筆に入れば私の場合は、
 それの破壊または混迷が起こり、ナンセンスになります。
 そして書き上げたものが他人の目を通される時、
 彼の感想が「誰かの為になったのか」という問いを築き、それに答えるのです。


世羅 悠一郎さんの意見
 世羅 悠一郎です。
 ここでは小説を料理に喩えてみます。

 私からすれば、料理は「作ったら終わり」などと自己満足だけで終われるものではありません。
 自分なり、他人の口に運ばれるものです。
 それで、不味かったら自分だって不味いと感じます。
 基本がなってなければ、自分でその料理を食べたとしても、
 「自分で作ったんだから満足」などとは言えません。
 焦げていれば焦げの味に顔をしかめる事になるでしょうし、
 しょっぱ過ぎたり甘すぎれば顔を歪める事になります。

 そこで必要なのが基本的な気配りです。
 これがなっていなければ、不味い料理が出来てしまいます。

 少し基本を外してもいいのは、それを十分に心得た上でどうすれば美味しさを保てるか、
 を考えられた人だけです。


 料理は愛情とはよく言いますが、それは愛情=気配りだからです。
 どうすればすんなり口に運べるか。素材の欠点を補えるか。素材を美味しく調理できるか。
 料理では、これをもって愛情とします。
 それが出来ない愛情はまやかしであると私は思います。

 そこから考え、自己満足で終わらない文章となりますと。
 
 そうした気配りを最大限に行い、自分が読めればいいというものではないものを
 完成させる事ではないかと私は考えるのです。


 母が不在の時に料理を作って家族に喜ばれた時の気持ちは今でも忘れません。
 ちなみに、ウチは両親とも調理師免許を持っており、
 父は店を経営しているのでその辺には身内でも容赦がないです。
 小説を書くのだって、それに通じるものがあるのではないでしょうか?

 究極的に言えば、小説は自分のために書かれるのかも知れません。
 しかし、私の場合、そんな全てを取っ払った理論でなければ
 「今まで自分の心を動かしてくれた作品が出回る業界への恩返し」
 としても書きたいと思っているのです。
 それを享受する側でなく、提供する側にも回ってみたいのです。
 それが他人のためになるのかは私には判りません。
 ですが、気配りだけはいつまでも忘れるまい……そう私は思っています。


国下 夏草さんの意見
 どうも、祭り好きな国下です。
 
 私は人間の行動で自己満足に無関係なモノなんて無いと思ってますから、
 そこは避けられないんですよね。
 ですから、そこでどう他人を意識できるかが問題なんだと思います。
 『他人に見せるオナニー』は、きらびやかに飾り立てて、
 観察者にオナニーであることを悟られないようにする、
 そしてそれでいて観察者を引き付けて止まないようなモノで無くてはならないと、思うんです。
 正確に言うなら、他人を巻き込むオナニー
 (しかし周囲の人間は行為に気が付いておらず、その異常な雰囲気にだけ飲まれている)
 って感じですかね。どこの変態だよ(笑)
 自分で書いててとんでもなく下品に見えてきたので、ここで止めます(汗)

 私事ですが、最近は久し振りに物語を生み出すのがとても楽しくなってきました。
 これがただの自己満足に終わらないように、気を付けて育てて行きたいと思います。


脂さんの返信(質問者)
 うーん、自分の表現力不足が身にしみます。

 私は今回の問いについては、芸術に関わるものとしては、答えの出るものではなく、
 考えることの方が重要な問いだと思っています。
 そして、表現者に限らず受け取り手においても、
 非常に重要な意義を持った問いだと思っておりました。
 もちろんこれは私の個人的な印象に過ぎませんが。

 まず、少し話題になったコミュニケーション云々の話について、言い訳させてください。
 これは話の展開において、私のミスがありました。
 芸術文化論として語っているところに、芸術論を混同させてしまいました。
 芸術とは、ということの定義づけ、及びそれに対する帰納的検証はするべきではない。
 定義づけではなく、表現・喩えでなくてはならかったはずが、
 喩えから本質への帰納的論理的思考をしてしまったというミスですか。
 私が芸術を現象だというのも、コミュニケーションの一種だというのも、
 そう表現することによって思考が整理される、という、
 理系学問でいう「仮説」のようなものであり、
 本来はそこから演繹的思考しか許されないはずでした。
 
 芸術は、言葉・論理により確定できないものであるが故、
 理系学問のように仮説の真偽を論理的検証することは無為である、ということを忘れていました。
(どう表現するかなど、思考すること自体は無為ではないのですが、うーんなんと言えばいいのかな)
 芸術の本質は芸術によってでしか共有できない、というところでしょうか。
 ああ、言葉にすると宗教っぽいですねえ。
 うーん。デンパな文章だなあ……。文章力のなさか。

 ということで、芸術はコミュニケーションの一種である、ということを、一つの表現として扱って、
 以降は述べさせていただきます。(これって説明しやすいんですよね^^;)
 あともう一つ、「芸術の目的は、思考の共有である」と表現しておきます。
 そう考えると、哲学などの学問も同じですよね。目的は思考の共有。
 しかし、共有する思考の形態が、論理によるもの、というところが芸術と違います。
 では芸術により共有される思考とはなんぞや、というと、うまい表現が見当たらないので、
 論理からこぼれたところの思考も(もちろん論理も含む)共有できるのが芸術、
 という表現にしておきます。
 似たようなことをどこかのレスにも書いたかな。

 コミュニケーションと考えれば、キャッチボールなどと喩えられるように、
 最初に話しかける側というのが必要ですね。
 この動機が「自分のため」というのはわかりやすいですね。
 学問なんかだと世のため人のためという動機もありえるかもしれませんが。
 んー、芸術でもありえるのかなあ。
 でも伝統芸能なんかだと、「自分のため」ではない動機もあるように思います。
 伝統を守るため。
 まあ伝統の中に自分が組み込まれているなら自分のためともいえなくもないですが。
 ここは、人はなぜ思考を共有しようと思うのか、
 という問いに発展しかねないので、これでやめておきます。
 ここでの「自分のため」というのは、キャッチボールを始める側を決める要素、
 芸術ならば「表現者」と確定するための心理的な一要素という風に考えておきます。
 コミュニケーションだとどっちが投げ初めかは重要ではないですが、
 芸術だと「表現者」という一語でうまく表現できますもんね。

 動機を心理として考えるならば、心理学的には自己顕示欲とかという話にもなりかねませんし、
 個人的にそういう話は好きじゃありませんので、動機の後の、
 私が「他人に見せるオナニー」にあたると考えているところの話をすすめたいと思います。
 この表現だとそもそもなぜオナニーを他人に見せるかということが、
 表現として違和感ありますもんね。
 なので、コミュニケーションという表現から演繹的に、
 違った表現の仕方をしてみようかな、ということです。
 早い話、以下に書く文章は全て喩え話ととっていただいて構いません、ということです。

 小説というものは、演劇や音楽と比べメディアとして形の残りやすいものですよね。
 今でこそビデオやデジタルデータなど、技術の進歩でそれらも保存できるようになりましたが、
 活動写真、蓄音機などを考えれば、そういった歴史が浅いのがわかります。
 私は単に表現者と受け取り手の間の「現象」という言葉で「芸術」を表現しましたが、
 もう少し具体的な、わかりやすい表現を考えてみたいと思います。
 作品というものが形に残りやすい小説というジャンルで話すのならば、
 表現者と受け取り手の間にある「作品」に具体的姿を与えてみたほうがわかりやすいでしょうね。

 うーん、プリズムとかどうでしょう。単なるガラスでも構いませんが。
 「作品」を「ガラス」に喩えてみます。
(本来別に考えるべきですが、以降の文には比較対照として学問に言及しています。
 学問の場合は「作品」ではなく「論文」などになりますね)

 ガラスというのは、光を全て通すのではなく、「入射角」や、「光の波長」、
 「ガラスの種類」などの条件によって、一部は反射し、一部は屈折して内部に侵入しますよね。
 平面ガラスだとガラスの中に入るときに屈折しますが、
 出るときにもとの角度に戻るようにまた屈折します。なので透き通って見えるわけですね。
 平面ではなく、出るときの入射角が変われば出るときの光の角度も変わります。
 レンズの原理ですね。
 プリズムはこの原理を応用して、光を波長ごとに分けて透過させることができるわけですね。
 (虹の原理です)
 反射した光は、というと、光を反射させるといえば、鏡ですよね。
 これが、表現者と受け取り手の間にあるしたら、ということです。

 作品は、条件により鏡になるわけです。鏡に映る自分というのは、
 本来他人しかみることのできない自分ですね。
 これにより、「自分のために」という感覚を覚えるのではないでしょうか。
 一方、作品が「ガラス」であったときは、向こうには「受け取り手」が見えます。
 これが見えたとき、「他人のために」という感覚が生まれるのではないでしょうか。

 ここで、「入射角」というのは、そのものずばり作品に対する見方と考えてよいでしょう。
 んぼさんへのレスでも書きましたが、
 作品は見る人やその時の状況によって全く違った意味を持つ、
 ということの一面も表現できていますね。
 では「光の波長」とはなんなのか。ここでは「理の度合い」としてみます。
 論理的な度合い、といいますか、
 一つの情報が与える意味は一つであるという一義的度合いが高い状態といいますか。
 波長が長ければ、反射しにくくなりますし、屈折角度も小さくなります。
 (夕焼けが赤く見える、海が青くみえるなどの原理ですね)
 理の度合いが強ければ、反射する量も少なくなるというわけです。
 学問などを、赤外線みたいな長波長と考えるわけですね。
 また、ガラスの種類、密度によって屈折率は変わり(=反射角が変わり)ますが、
 これはメディアの種類ということで、小
 説に限って話するならば同一のガラスということになりますか。

 物語という要素を考えてみましょう。
 私は、物語というのは、詩や絵など物語性の薄いものと比べると、
 理の度合いが高いものと思います。
 そう考えると、詩や絵などは、物語を扱う演劇や映画、小説などと比べると、反射しやすい、
 つまり「自分のために」という感覚が強くなるということになります。
 逆に小説は物語の芸術でもあるため、透過してしまい、
 「他人のため」という感覚が強くなると言えますね。
 物語性の薄い私小説なんかは詩や絵のように比較的反射しやすくなりますね。
 それでも小説一般は学問より理の度合いは薄いので、
 学問より「自分のため」という意識は強くなるでしょう。
 小説と詩や絵という別メディアを同列に語ってしまいましたが、
 もちろん間にあるガラスの性質が違うということになりますので、
 より反射しやくなっていたりするのかもしれません。
 ただ、詩は小説と同じ言葉の芸術ですので、
 同一とは言わないまでもかなり近いガラスの種類だとは言えそうです。
 同じ物語を扱う演劇と比べるならば、演劇の方がガラスの透過率が高いように思います。
 より「他人のため」という意識が強くなりがちなのかもしれませんね。
 もちろん、それ以前に表現者も受け取り手も見方、
 角度によって透けたり反射したりするわけですが。

 う、なんかたまたま喩えた表現が上手い具合に符号してしまって、
 興奮したのかだらだら長く書いてしまいましたが、
 これが「他人に見せるオナニー」の正体ではないかと思うのです。

 以上のように、動機の部分を除外して考えるならば、
 「自分のために」か「他人のために」というのは、小説というジャンルに限るならば、
 共有したいことの理の度合いによって変わるし、物語の度合いによっても変わります。
 同じ作品だとしても作家がその作品に対してどういう見方をしているかによっても、
 変わるものだと思うわけです。
 バランスでもなく、順番でもなく、条件によって変わる、という言い方になるのかなあ。
 しかしこういったところからメディアごとのテクニック体系が派生したと考えると、
 意外に納得できそうなところが多いような気がします。
 そこまで考えるのは少ししんどいのでやめておきます……。

 多分こういった考え方は、芸術文化論的というか、
 ここのみなさんからすれば第三者的な視点からの言い分になると思います。
 そしてもちろん私個人が思いついた一つの表現でしかありません。
 しかし喩え話でも、ただの表現の仕方でも、禅問答ではないですが、
 何か納得したり、閃いたり、皆様のお役に立つことはあるのではないかと、
 (幾分自意識過剰っぽいですが)思いましたので、記させていただきました。


九頭竜慶史さんの意見
 初めまして九頭竜慶史と申します。

 題名にさそわれて書き込ませていただきました。
 みなさんとても難しい事を書いてらっしゃってすごいなぁと素直に思いました。
 その点、僕はあまり難しい事は考えていません。

 僕は、小説を読者のためでも自分のために書いているわけでもありません。
 僕は僕の物語に出てくる登場人物たちの為に小説を書いているつもりです。
 僕は自分を語り部であると思っています。
 僕がしている事は彼らが生きられる環境を整える事と、
 彼らが語ってくれる物語を記録する事だけです。
 作り出した僕ですら彼らは簡単に飛び越えていく。

 僕はだた彼らが好きなんです。
 だから、僕は書き続けています。

 論点がずれているようでした申し訳ありません。


黒尻尾の駄猫さんの意見
 通りすがりの野良猫です。

 漠然と一般的に、出力に対し、適切な応答があった場合が、
 コミュニケーションが成立したと考えるというのが、なんとな〜く普通な気がします。

 少なくとも、双方向であっても全く別な事を無為に言い合う事は、
 コミュニケーションではない。と直感的には感じます。
 が、どうもそうではないらしい。
 一方的な演説やらスピーチも、何かを伝えようとする過程その物も、
 単なる情報伝達も、色んな諸々がコミュニケーションになってしまう。

 いえ、これは不正確で、正確には辞書ごとに様々に表現され、
 120にもおよぶ解釈があるようなのです。

 つまり、コミュニケーションとは現時点ではハッキリした実体がない、
 なんにでも解釈できる便利な言葉状態なようです。
 論旨を脱線させている、コミュニケーションの解釈自体、
 皆さんが全員正解とも不正解とも言えないのが現状らしいです。
 (なにせ、調べる辞書ごとに違う事が書かれているらしいですから)

 なので、コミュニケーションと言う言葉を使う限り、皆さんに解釈の違いが生じていくのは、
 どうやら当たり前で、纏まる方向に行くためには、既に書き込んだ方と、
 これから書き込む全ての方に「仮にこのスレッド上ではコミュニケーションは○○にします!」

 とか、前提を儲けないと話が纏まらなくなってしまう予感がします。
 (まあ、ソレによってレス間のコミュニケーションは膨らむかもですが……)
 しかし、前提を儲けても浸透は難しいと思います。
 コミュニケーション意外の別の言葉の、もう少し明確に意味が確定していそうな物を選んで、
 説明される事を強くお勧めします。

 蛇足失礼。
 ではでは。


senmaさんの意見
 脂さん、初めまして。
 早速ですが、小説を書く、ということの意味について、以下持論を述べさせていただきます。

・始めに
 いきなりですが、この問題において考えうる対立する要素を仮に
 「自己満足」と「読者満足」と言葉を置いてみます。
 するとこれはもう皆様も多く気づかれていることだと思いますが、
 どちらか一方を持てば片方があやふやになり、バランスの問題になったりします。

 また、んぼさんの述べられたように、そもそも二つは同じレベルで考えられるものではない、
 すなわち別次元の関係にある、という意見もあります。

 これらの皆様の意見を見ていて思ったのですが、僕からすればどれも正しいと思うんです。
 しかし「正しさ」がいくつもあって、
 正しいはずなのにそれぞれの要素が自己矛盾を起こしてしまう。

 実は、奇遇なことに僕もまた脂様と全く同じ主旨のスレを立てようと思っていたからなのですが、
 既に前スレの内容を受けて、個人的にこの問題について思索していたんです。
 そしてはまさん様の意見を、自分なりに噛み砕きながらその持論を固めていったわけでありまして、
 その答えに至る過程で、既に僕の中でも上の矛盾は出てきて、そして考えていたわけです。
 それは、どうにかしてこれらの複数の「正しい」を鳥瞰する、
 より高次の視点は無いものか、ということです。

 そしてそれは僕の中で、結論から言わせていただきますと、
 「自己と他者の融合の過程」という視点を得るに至った瞬間、全てが解決できたのです。

 もちろんこれは愚生自身の狭い見識から出てきたものにすぎません。
 しかし、僕にとっては自分自身の経験から来た判断を含んでいる部分もあるために、
 少なくともそこまで突拍子な意見ではないだろうとは思っていますし、
 何より独りよがりな部分もあるかもしれませんが、
 色々なことへの疑問に対する一つの解釈が提示できた、
 という意味でもそれなりの成果ではあると思っています。

 ですので、稚拙な議論かもしれませんが、
 一意見として皆様の思索の一助にして頂ければ幸いです。

・定義
 まず真に勝手ながら、僕の論を進めていくに当たりいくつかの言葉を定義させてください。

「自己」…… 1・自分自身のこと 2・自己と他者が融合した精神状態のこと

「第一の段階」…… 1の自己のために書いている状態

「第二の段階」…… 2の自己のために書いている状態

「過渡期」…… 一の段階から二の段階への移行期

「第三の段階」…… 2の自己において、一度統合された1の自己が再び前面に現れ、
 それが主体となっている2の状態

 既にこの時点で僕がどういう論議を進めていくか感づかれているかもしれませんが、
 上の定義に従って話を展開していく所存です。
 少々長くなるかもしれませんが、ご容赦くださいませ。

・自己満足
 永久さま同様に、究極的には自己満足である、と僕もまた思っていました。
 実際他人のために書く、とは言ってみても、
 その意志すらもが結局は自分に返ってくるものなんです。
 なんというか、真っ暗闇の中僕らはイルカのように「書く」という波を発し、
 それが「読者」という周囲の地形に当たって反射してきたエコーを通じて、
 今現在自分がいる位置を確認する、というとらえ方。
 割と読み手を道具的に認識している部分があるわけですが、
 この考え方はやはりどうにも、個人的に違和感が絶えないものでした。

 それこそ自慰行為だということになってしまっているのですが、
 要するにこういう考え方をしていると、書き手が示したものは、
 読み手次第でいくらでも変化するのであり、だから好き嫌いもあるのでありますし、
 なんだか書いたモノというのは、
 自分の頭の中から掃き出してきたモノを放置プレイしていると言うか、
 それに対して読み手の反応を遠くから観察している自分がいるというか。
 読み手の反応、ではなくて、読み手の反応の仕方にしか目がいっていなくて、
 (ニュアンスの違いを汲んで下さい。。。)
 でも僕が求めているのは前者なわけであって、そういう違和感が生じてくるんです。

 そこで僕は、自己満足、に読み手の存在が不可欠であるならば、
 さらに読み手の満足が自分の満足にとって必要な条件なのではないか、
 という仮説を立ててみたんです。

 読み手、すなわち他者というものを自分の中でどのように位置づけるか、
 という問題なわけなんですが、自分にとって同じ地平であったり或いは
 一段上だの下だの別次元だの何でもいいですが、
 そんな風に自分と「対」である存在として読み手をとらえると、
 どうしてもその間のやり取りについて考えなければならず、
 そのやり取りがさらに自分自身の与える影響について考えなければならない。
 読み手という鏡を通して自分を眺める、
 というなんだか回りくどい状態になっているような気がするんです。
 他者を意識する、という事象の帰結を「究極的な自己満足」という部分に求めると。

 個人的にはそこが極めて、嫌悪といってしまうと表現が悪すぎるかもしれませんが、
 そんな異様な感じを受けたんです。
 人に読んでもらいたい、という気持ちが「言葉通り」の意味と
 「所詮は自己満のツール」という二つの意味に乖離してしまっていて、
 書きたい、という純粋な感情にそんな複雑な現象が同時に起こっているのだろうか、
 と思えたわけなんですね。

 そう考えたとき、僕は上の仮説を元に、ちょっと発想を転換させてみることにしたわけなんです。
 すなわち、自己と他者を「対」として考えるのではなくて、
 両者は「合」の関係にあるのではないか、ということなんです。
 これがすなわち僕が第二の段階と名づけたものなのです。

 元々は誰も一の段階から出発すると思うんです。
 自分が書きたいんだから、書く。
 それは呼吸と同じぐらい、説明のできないほど自然な欲求という形をとって現れてきます。
 しかしそれがやがて、他者の反応を介して自分の位置を確認したい、
 という欲求が混ざってきた時に過渡期となり、そこで色々な問題が生じて、
 乗り越えられたとき初めて第二の段階になれるのではないだろうか。
 このロジックについては後述します。

 過渡期において生じる読み手への意識、というものが結局は自分に行き着く、
 ということを突き詰めてみますと、蓋し上の二つの乖離現象というのは、
 実は同一の現象を角度を変えてみているに過ぎないのではないのか、
 という考えが湧いてきたのです。
 二つを等しいものとして考えたとき、「読み手の満足≒自分の満足」という風に考えたとき、
 もしも第二の段階として、自分の中に「他者」を育てることができ、
 その他者と自分とが一つになったとき、読み手のために書くというのは同時に自分のために書く、
 ということでもあるように感じたのです。

 少々抽象的過ぎてわかりにくいかもしれませんが、そういう2の自己という状態が存在したならば、
 色々なことが説明できると思うわけなんです。

 例えば、書きたくもないものでも求められれば完全に読み手のために書く。
 その時それは自分のためか、読み手のためか、という問題があるとすれば、
 作者の満足というものが読み手の満足に直結しているわけであり、
 作者は自分の意識の中の「読者」すなわちもう一人の自分、
 あるいは自分の意識の側面とでも言える存在を満足させているに過ぎず、
 結果自分も満足できている、という風に考えられます。

 読み手とのコミュニュケーションということに関しましても、自己と他者は別々のものでは無しに、
 現実の読み手からの反応はそのまま自己の中の他者に集積され、
 そこから間接的に自己に逆の影響が及ぼされる、という風にもとらえることもできそうです。

(ちょっと書いてる自分でも混乱してきましたので、
 申し訳ありませんが他の例は割愛させていただきます)

 すると、少なくとも読み手を意識する、ということがプロの条件であるのならば、
 僕らがある意味で目指すべきは、この第二の段階であるようにも思えるのです。

 ですが僕は決して第一の段階を否定したりしているわけではありません。
 親がいなければ子は産まれないように、第一の段階も、過渡期も、
 必要な道であるように思うのですが、それもまた後述します。

 ここで僕がまず提案したいのは、自分の中での読者の位置づけとして、
 鏡だといった「道具」としての「対」なる存在ではなく、
 自分と読み手とが全く「統合」された状態があるのではないか、という視点です。

・他者の位置づけ
 この場合の他者、はもちろん現実の肉体を持った存在を半分は指していますが、
 もう半分は、たまに作家になるための本などでも良く見るような
 「自分の中に読者を」などで言われているような、半ば別人格的な「他者」です。
 それはつまるところ、自分自身とイコールになるわけなのですが。

 このような見方に立つ場合、やはり重要になるのは「過渡期」の在り方です。

 言ってしまえば、第一の段階は1の自己であり、2の自己になれていない状態を指します。
 1から2へ、とも言い換えるならば、
 それは自分の中で始めに自分自身という視点しかなかったのが、
 知識と経験と努力によって自分の中に「他者」を作り、
 それに「自己」が歩み寄っていく過程ともいえます。

 すると割と「対」としての考え方は、一の段階に限定するならば、
 それなりに説明できそうな気はするんです。

 ここで「対」から「合」へ、として考えたとき、過渡期において他者をどう位置づけているかによって、
 全くその後の経過が変わってくるように感じられるのです。

 蓋し、完全なる一の段階の人はそれこそ、引き出しに大事にしまっているような状態です。
 そんな人は、誰からどんな酷評を受けても聞く耳を持たないで自己の世界に浸っているでしょう。
 また、割とここのサイトでは多数派である、
 「読み手の意見を尊重する」という姿勢を持っている人は、
 酷評をされれば確かに気持ちは萎えはするでしょうが、
 次の書く意欲につなげることができると思います。

 しかし、ここで中途半端に一の段階の部分にしがみつきすぎていると、
 問題が生じるように思われるのです。

 すなわち、他者が「道具」言い方に語弊があれば、「過程」としか見れていないならば、
 そこから予想外の酷評が来てしまった場合、自分を守ろうという意識が強く働く結果、
 感情的になって自棄になってみたり、書くことから逃げてしまう、
 というような状況が生じる人がいる、ということです。
 小説を「他者」に否定されたために、「自己」が傷ついたという状況。

 これを僕の定義から読み解くならば、自分の中に「他者」がいないために、
 現実の「他者」からの意見を受け止め間接的に取り込むクッション的な存在が無いため、
 拒絶反応が起きてしまう、ということなのではないか、と思います。

 一の段階をこちら側の川の岸、二の段階をあちら側の川岸とするならば、
 渡ろうとするんだけれども手はこっちの川岸にしがみついたまま離れず、
 足だけは前へ進んでいくのでバランスを崩し、奔流に飲み込まれてしまいそうになって、
 命からがらこちら岸に逃げ戻る、というような状態。

 回りくどいようですが、僕が言いたいのは、第二の段階に至るには、
 自分の中に「他者」を育てることによって、それに歩み寄っていく、
 という意味での統合を目指す必要があり、「読み手への意識」をただの自己満足の過程、
 ととらえるやり方は毒なのではないか、ということです。

 そりゃ究極的には自己満足であることは認めます。
 しかし、この自己は2の意味の自己であるとき、そう言える、と僕は考えるのです。
 少なくともそうすれば、僕の中では説明がつくんですね。
 自己満足でありながら、同時に純粋に読者を意識している、ということ。
 なぜなら両者は同じものだから、というロジックになるからです。

・プロを目指すということ
 多分、僕も含めて90%以上の人は「過渡期」なのではないのか、と思うんです。
 プロでも新人賞を受賞したばかりの人ならば。
 そう考えた時、僕の分類はなんだか話をややこしくしているだけで、
 あんまり意味を成していないようにも思われるかもしれません。

 けれども、プロとは読み手を満足させることで、 
 お金をもらっている存在であるという側面を考えてみます。

 読み手を意識せざるを得ない、と考えたとしても、
 だからといって機械のように無機質な当たり障りの無い作品なんか、
 書く人はどのジャンルにもいないと思うんです。
 必ずどこかでその人自身の個性を出している。
 個性を出している、ことが、読み手を意識している、
 ということにイコールであるというロジックに発展することを考えますと、
 僕は、プロを目指すのであれば、
 僕たちは第二の段階にならなければならないのではないだろうか、と思うのです。

 少なくとも自分と読み手を「対」として、距離を保って考えている限り、自己のためか、
 他者のためか、という問題が出てくるのであり、
 そこで足踏みすることになってしまうようにも見えます。

 プロ、という部分に焦点を絞って言うならば、
 それなら自己と他者を統合させればそんなことに悩むことも無い、というわけです。
 非常に個人的な解釈なんですがね。

 或いは、自分と他者の統合された2の意味の「自己」を主眼に置いたとき、
 1の「自己」は旧体制のようなものにすぎず、そこから発展的に2が出てきているわけです。
 それが理想の到達点であるならば、そこには別に1の意味が消えうせているわけでもないので、
 そこを目指すことは百利あって一害無し、とでも言えるような状態になるように僕には思えます。
 すると、世間でよく言われる「素人」などの表現の対象は、単に1の意味であり、
 2の段階に到達、あるいは過渡期の中で2というものの存在を認識し始めた人にとっては、
 大して気になるようなものでもないのだ、と思うのです。

 従って、今スレへの回答としては、僕は「両方のために書くことは両立が可能である」
 という意見を提示します。その理由は以上に述べてきたとおりです。

 が、申し訳ありませんが、できればもう少し、僕の議論にお付き合いくださいませ。

・第一の段階の意義
 僕は以前ここに一作投稿し、またもう一作はある方に批評をしてもらいました。
 それは非常に自己陶酔的であるとの指摘を受けて、投稿するのを取りやめた作品なのですが、
 その時の自分の状況を思い起こして、
 僕は改めて第一の段階の意義について考え直して見ました。

 確かにラ研は、「プロ」を目指す場です。
 従って上の議論からすると、プロを語るには、
 第二の段階になっていなければある意味では話にもならないでしょう。

 しかし、それは少し違うのではないか、と今は思い始めました。

 もちろん最終的な目標としての第二の段階への移行はすべきだというのは、持論であります。
 しかし、だからといって第一の段階にとどまっている人間は論外、
 などという論理には決してなり得ないと思ったのです。
 もっと言えば、誰でもスタートは第一の段階であったはずでありますし、
 何年書き続けても第二の段階に達することのできる人は少数派なのではないか、
 という感触があります。

 すると、第二の段落は必要条件でも十分条件でもなくて、
 ある意味「目的」というものに分類される概念なのではないか、と思ったのです。

 考えても見れば、技術と運さえあるならば、
 第二の段階の人は誰でもすぐさま売れっ子作家になれてしまうという定義になるからです。

 するとやっぱり、第二の段階に至るための、人それぞれではあるでしょうが、
 第一の段階及び過渡期をどのように乗り越えるか、というのが一つの焦点であると考えられ、
 それがラ研の役割というか道しるべの一つであるような部分も感じたのです。

 第二の段階にならなければプロは語れない、ではなく、
 第二の段階になれたらもうほとんどプロだ、ということです。
 そういう意味で、第二の段階を目指すことはプロになるのとある意味においては同義であり、
 故になおさら第一の段階及び過渡期は「素人」であるとして切り捨てるのではなく、
 どのように乗り越えていくのかを真剣に模索してみるのが、
 僕らが取るべき道のような気がするのです。

 先にも言いましたが、第一の段階があるからそこでもがくから第二の段階が見えてくるのであり、
 そういう意味では第一の段階は、
 自分をしっかりと熟成させる期間であるようにも感じられるのです。

 ここで下手に他者という鏡を求めすぎて、
 まだ熟成が完了していないさなぎの中身みたいなどろどろの自分の醜い姿を見てしまい、
 怒って鏡を叩き壊したりすると最悪のケースになる可能性もあるように思われますので、
 しっかりと自分を熟成させる、そしてその中で鏡としてではない「他者」を見出していく、
 という展開が必要になってくるように感じます。

 そういう意味でも、第一の段階をどう過ごしていくかは、すこぶる重要な気がするのです。

・第三の段階へ
 この項は、もはやおまけのようなものになってしまいます。

 文学者がもはや読者を脱ぎ捨て、新たな開拓のために書く、という精神状態のことを指します。
 統合された自己から新たな、意味的には1の自己に近いものが生じてきて、
 超越自己とでもいうような境地に達しているような状態だと個人的には思っています。

 また、1の意味主体ではあってもその中には「他者」が吸収されていますので、
 第二の段階では自己と他者を同時に満足させる、等に留まっていたのが、ここではよく言われる、
 「読者支配」の域に達する、というものでもあるのではないでしょうか。

 そこで他者、と社会的な意味でとらえるならば、なんとなく文学というものの意味も、
 少し違う角度から見えてくるような気もしますが、
 これ以上はきりが無いので、ここらで止めにしておきます。

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