第4研究室 創作に関するQ&A 246P | トップへ戻る |
嶋さんからの質問
 「小説の視点となる人物を決める」ってどういうこと?

 こんばんは
 ライトノベル研究所に来て、小説書き始めてから7ヶ月ほどになる嶋です。

 小説を書こうと志して 7ヶ月も経ちますが、
 「小説の視点となる人物を決める」ことのイメージが全くつかめず、
 資料に目を通しても理解が出来ず、「山月記」の李徴のように気が狂って虎になりそうです。

 ほぼ、タイトルそのままなので、単刀直入に質問します。
 「小説の視点となる人物を決める」ってどういうことですか?


● 答え ●

ワルプルギスさんからの意見
 やっぱ感情とかの描写の違いですかね。

 例えばAさんが転んでBさんがそれを見てたとします。

 これがAさんからの視点からだと、
 Aは派手に転んだ。
 激しくスネを打ち付けて激痛が走った。

 これがBからの視点だと
 Bの見ているそばでAは派手に転んだ。
 Aは痛そうに転げ回っている。


 (^_^;)
 変な文章ですが見逃してください。

 この二つの文章はAが転んでいるという点では同じですが、心理表現が違いますね。
 Aは自分自身の事なのではっきり言えます。
 ですがBの場合であると、あくまで痛そうであるという予想です。
 BさんがAさんの立場になって考えたBさんの心理です。
 視点を決めるというのはこういうことじゃないんですかね?

 視点の立場になって考え、文を書くのが大事。(`∇´ゞ


Lumièreさんからの意見
 大雑把に言えば、小説の中心をどこに置くか、ということではないでしょうか。
 
 これは、誰を主人公にするか、とは違います。
 たとえば、絵で考えてみると、視点をひとつに決めるというのは、
 遠近法にちょっと似ているところがあるかもしれません。

 視点(焦点)人物をひとりに絞れば、小説の語りが安定するので、
 視点(焦点)については、読者もそれほど引っかかることなく読めるはずです。
 逆に、視点(焦点)人物が何人もいれば、その小説をつくる言葉が不安定になって、
 緊張感みたいなものが生まれます。
 すごく乱暴な分け方ですけど。


みつきさんからの意見
 嶋さま、こんにちは。

>「小説の視点となる人物を決める」
 「小説の視点となる人物」って、簡単に言うと主人公のことですよね。

 視点保持者は、その物語世界の案内役です。
 読者は視点保持者(大方は主人公)の目を借りて、その物語世界を垣間見るわけです。


 その際、登場人物の中の誰を視点保持者(主人公)にすれば、読者がその物語世界を一番楽しめるか。
 そこに重点を置きつつ、「小説の視点となる人物を決める」のが良いのではないでしょうか。

 昨夜、アニメの『おおきく振りかぶって』を見た影響で(笑)、野球にたとえてみます。
 視点保持者(主人公)をピッチャーにして、そのピッチャーの目から
 チームの様子や試合の流れを読者に見せるのと、視点保持者をキャッチャーにして、
 キャッチャーの目からチームの様子や試合の流れを読者に見せるのとでは、
 書くことも、物語の筋も相手チームのバッターや戦術についての考察も、
 自チームバックスに対する意識も、文章から何からが全部変わってくると思います。
 
 もちろん、マネージャーの視点で書いても、監督の視点で書いても、
 同じチーム、同じ試合なのに、心理描写、情景描写、試合中にどこを見ているか、
 物語の山場や谷の展 開、その他全てが全然違ってきますよね。


 ひとつの野球チームの中の、どのポジションの「誰」の目を通して、
 読者にその試合の流れやチームの皆の様子、
 また、相手チームの様子やグラウンド・天候状態等、その他様々なことを見せていくのか。
 それを考えるのが「小説の視点となる人物を決める」と言うことだと思いますよ。

 それではこれにて、失礼させていただきますね。


あんごさんからの意見
 どうもこんばんは。
 個人的には、小説は2種類あると思います。なんつってごくありがちな二分法ですが……。

1、人物、キャラクターを書くもの。
2、展開や事件、起こった物事を書くもの。


 普通1と2は一つの小説の中で交じり合うものですが、
 一応意味のある分類ですので、そういうことにしておいてください。
 おそらく、小説の7~9割は1の方に分類されると思います。

 2のほうは例えば推理小説ですとか、なんかものすごい複雑な展開で、
 あれとこれとそれとナニが結び合っておぉぉそういうことだったのか! 
 と、ストーリー展開で魅せる話のことです。

 2の場合、視点を選ぶ基準は「ストーリーと関わっているキャラ」です。

 こういうストーリーの場合、キャラより先にストーリーがあることが多いようです。
 ……と言いたいところですが、キャラにあわせて事件作る例もありますね。
 「GOSICK」とか「SHINO」とかありますが、推理は専門外なので省かせていただきます……。

 1の場合、視点は「作者が書きたいキャラクター」もしくは
 「書きたいキャラクターと非常に近しいキャラ」だと思います。

 こちらの場合、ストーリーより何より先にキャラクターがある場合が多いと思います。
 例えば、古典ですと「ドン・キホーテ」「モンテ・クリスト伯」とかですね。
 って両方3人称だったかな……まぁいいや!
 
 「ドン・キホーテ」のように奇抜な人物を書く場合は、
 その傍らにいる人物を視点にするのが主流な気がします。
 「ドクロちゃん」とか「文学少女」がそうかな?
 「ネクラ少女は黒魔法で恋をする」とか「キノの旅」のように、
 普通ではないキャラをあえて視点にするのも面白いですね。

 で、モンテ・クリスト伯型「そのキャラクターが何をするか」を書きたい場合、
 主人公は「何かをするキャラ」これで決定です。「終わりのクロニクル」とか「A君の戦争」と
 か「フルメタ」もそうですかね。
 こういう話は主人公がとても大事だと思います。

 他にも形って一杯ありますね。群像モノってのもあります。
 主人公は一応いてもそれほど特定されず、どちらかといえばストーリーを書く型に近いです。
 基本的にストーリーと関わる人物が視点に選ばれると思います。「バッカーノ」
 「銀河英雄伝説」あとはゆらゆらと揺れる海のかなた」なんかもそうですかね。「9S」も近いかも。

 恋愛ものを書く場合はカップルのどっちかでしょうねー。

 あとまんま「キャラを書く」ってのもあると思います。
 てか結構多いかも。
 目的も事件も奇抜さも全部オマケで、とにかくキャラクターを書く話ってあると思います。
 
 とにかく「こういうキャラクターが好きなんだ!」というのを一人か二人決めます。
 それで、そのキャラが視点に向いていれば視点にし、
 視点に向いていなければそのキャラ に非常に近しいキャラを視点にするといいと思います。
 いい加減分類が怪しくなりつつありますが、
 とにかくキャラを書きたい型「ゼ ロ の 使 い 魔」とかハーレムものはこれでしょうね。大好きだ。
 これの視点キャラの条件はただ一つ、男であることです。


 いくつか実例を出して説明してみたつもりですが、
 もし助けになれば幸いです…があんまなんない気もしてきました。
 長々とすいませんでしたー。


んぼさんからの意見
 ぶっちゃけどうでもいいって言えばどうでもいい、
 熟慮が必要と言えば必要な、そういう類のものですね、視点を定めるというのは。
 
 全体通しての視点となると、まあ主人公に当てておけば間違いはありません。
 というか、視点が主人公から外れることが多いと、
 大概は「……で、主人公は誰だったの?」状態になります。


 なので問題となるのは「演出上(あるいは構成上)主人公から視点を外さざるを得ないとき、
 誰に視点を与えるか」になります。

 「演出上」の場合は、比較的楽です。
 なぜなら、すでに演出(目的)が決まっているのですから、
 わざわざ「視点を(主人公から)外す」以上、
 「何故外すか」「外して誰に視点を与えるか」が決まっているからです。

 問題は「構成上」の場合。
 主人公が知らぬところで、陰謀が着々と進んでいる……
 という描写(まあこれも演出の一つではあるのですが)の場合、
 当然ながら主人公が視点を持ってはいません。

 しかし、じゃあ誰に与えるかってなると……
 別に「誰か目線の話を見せたい」わけじゃない以上、誰に視点を持たせるか選べなくなります。
 ……しかし、です。

 こういった「構成」も、即ち「演出」であるわけですから、
 誰に視点を与えるか、あるいは特定個人に与えずに、いわゆる「神視点」を使うか、
 それぞれのケースでどのように演出してやるのが効果的か、
 そういった観点で考えることが大切だと思うのです。

 悪の親玉と、その手下(名もない)がいる。
 親玉は物語の中枢に関わっているが、手下は以後出てこない。
 ここで親玉に視点を置けば、親玉の心情をちらっと見せたりして、
 以後の展開に「伏線」を張ったり出来る、という演出が思い浮かびます。

 対して、手下に視点を置いた場合、「何を考えているかよく判らない親玉」
 というイメージを明確に見せることが出来る点で、
 用途は違えども前者と比べて劣る手法であるとは言えません。

 そして、この両者のどちらが望ましいかは、たとえば話の進み具合、
 以後の展開、そういったもので流動的に変わってくるものです。
 結局、作者が作者として、そういった前後のつながりも含めた
 総合的な構成=演出として考えていくことが、理想であると考えます。
 この考え方は、群像劇であったとしても同じです。

 主人公が切り替わる=視点保持者が切り替わる、をベースに置いて、
 「演出上効果的な視点変更」を与えることが重要だと思います。



まーさんからの意見
 5W 1Hっていうのは聞いたことありますよね?
 誰が、いつ、どこで、何を、どうして、(どうやって)、行ったか。


 情報の出し方として、これは1つの模範解答とされています。
 では、文章をてきとーに作ってみましょう。

 山田太朗は、日曜の朝、自分の部屋で、洗濯物を、溜め込んでいたので、洗うことを決めた。
 そして、山田太朗は、それから1時間程して、
 洗濯機の前で、洗濯物を、朝に洗うと決めたので、洗濯槽の中へ放り込んだ。
 山田太朗は、洗濯が終わると、乾燥機がないので、庭に出て洗濯物を物干しに吊るした。


 ……とまあ、5Wを徹底すると、非常に鬱陶しい文章が出来上がるわけです。
 1つ1つの文章は、なにも間違ってなどいません。
 でもこれが連続すると、途端に目を背けたくなります。

 そこで、先人はルールを設けました。
 一度説明したことは、繰り返さなくてよろしい。

 山田太朗は、日曜の朝、自分の部屋で、洗濯物を、溜め込んでいたので、洗うことを決めた。
 そして、それから1時間程して、洗濯機の前で、洗濯槽の中へ放り込んだ。
 洗濯が終わると、乾燥機がないので庭に出て、物干しに吊るした。


 ……と、(機械的に削除したので歪ですが)いくらかスッキリした文章になって、しかも意味が通ります。
 なぜ意味が通るのか。
 それは先に敷いたルールによって、1つの文章としてはパーツが足りないものは、
 前の文章のものがそのまま当てはまる、と定義されたからです。

 洗濯が終わると、乾燥機がないので庭に出て、物干しに吊るした。

 もしこの文章単独だけを突然見たら、誰が、何を、物干しに吊るしたのか明確にはわかりません。
 これがいわゆる「文脈」そして「視点」の起こりです。


 「視点となる人物」っていうのは、この例でいえば山田太朗です。
 1つ1つの文章で、いつもいつも「山田太朗は~」なんて書いたら鬱陶しくてかなわない。だから省略する。
 それでも意味が通るのは、最初に名前が出てきたことで、
 「これ以後は何も言わなくても、山田太朗のことを語るんですよ」
 という暗黙のルールが敷かれているからなので す。
 たったそれだけ。

 根本的なところを言えば、たったそれだけのことです。

 で、面倒なのは、小説というのは大概複数の人物が同時に登場するということ。

 山田太朗は、日曜の朝、自分の部屋で、洗濯物を、溜め込んでいたので、洗うことを決めた。
 山田花子は、日曜の朝、居間で、兄の洗濯物を、花子が洗濯をしようとするのを見られたので、
 ついでに一緒に洗ってくれと頼まれたが断った。
 そして、山田太朗は、それから1時間程して、洗濯機の前で、
 洗濯物を、朝に洗うと決めたので、洗濯槽の中へ放り込んだ。
 山田花子は、兄が洗濯機を回している最中、食堂で、朝食を、お腹が減っていたので、
 同じく空腹の兄と一緒に食べた。
 山田太朗は、洗濯が終わると、乾燥機がないので、庭に出て、洗濯物を物干しに吊るした。

 さあ、どうやって省略しましょう?
 太朗と花子が交互に出てくるので、名前は省略できません。
 これもまた鬱陶しいです。

 だから、文章全体を「山田太朗は~」というルールの中に押し込める必要があるわけです。

 山田太朗は、日曜の朝、自分の部屋で、洗濯物を、溜め込んでいたので、洗うことを決めた。
 居間で、花子が洗濯をしようとするのを《見た》ので、一緒に洗ってくれと《頼んだ》が《断られた》。
 そして、それから1時間程して、洗濯機の前で、洗濯槽の中へ放り込んだ。
 洗濯機を回している最中、食堂で、朝食を、《花子も》お腹が減っていた《らしく》、《妹と》一緒に食べた。
 洗濯が終わると、乾燥機がないので庭に出て、洗濯物を物干しに吊るした。


 ……と、文頭に「山田太朗は~」という言葉が据え付けられても矛盾しないよう調節し、
 しかも同時に「山田花子は~」という言葉も含めて、省略するわけです。

 これが「視点を1つに定める」という作業。

 すべては、省略を可能とすることで、簡潔でわかりやすい文章を目指す、という手段です。
(例文が簡潔でもなくわかりやすくもない文章なのは、見逃してやってください。
 機械的に作ることで、差を明確にするためです)
 
 無論、視点をコロコロと変えることが、必ずしも悪いことではありません。
 ただしその場合、統一したことに比べて説明が多くなり、煩雑になるというリスクを負うわけです。
(それが読者の読解力を超えると、「視点が定まっていなくて混乱する 」と言われる)
 
 そのリスクが、大概の場合はメリットを上回るので、作法として「タブー視」されているのです。
 リスク覚悟で視点を定めないのも、1つの方法。決しておススメしませんが。


夜霧さんからの意見
 ケータイから失礼します。

 ストーリー構成が出来てないから、視点が決まらないんだと思いますよ。
 『誰が何をするか』これが決まっていれば、自然と解決すると感じますけどね。

 
 それに一人称なら視点を決めなければなりませんが、
 三人称なら視点を自由移動させ群像小説にも出来ますし。

 まずストーリー構成や人称を決定する事が一番だと思いますよ。
 では、駄文失礼しました。


嶋さんからの返信(質問者)
 ありがとうございました。

 「小説の視点となる人物」が感じたこと、思ったこと、行動したことを三人称で語るわけですか。
 「小説の視点となる人物」を接点として、読者と物語を繋ぐ。

 しかし、そうすることによって、制限が生まれませんか?
 例えば、「小説の視点となる人物」が家の中にいるときに、家の外観が書けない、
 視点となる人物のツラや容姿が書けない、など。

 とくに、「視点となる人物のツラや容姿が書けない」は
 ヘタをすると300ページ(予定)の中で、「視点となる人物」の姿が一度も描かれないことになります。

 こういう問題にはどう対処すればいいでしょうか?


わちさんからの意見
 どうも、こんばんは。わちです。
 確かに三人称の視点は難しいですよね。私もいろいろアドバイスを貰いました。

1.「小説の視点となる人物」にカメラ(視点ですね)を合わせる前に、神様視点で「全体像」を書く。
 そこから、視点を人物に合わせる。


2.主人公以外の視点で書く。
 確かに多視点は、「主人公に感情移入」する為にはマイナス点ではありますが、
 時には「他のキャラの視点」で書く必要がありシーンも出てくると思います。この場合は、
 読者に「視点が変わった」事をわかりやすく提示する必要があります。(例えば、章が変わった時とか)


湊さんからの意見
>視点となる人間が家の中にいた時、家の外で起きたことが解らないのではないか。

視点には大別すると、
「一人称一人の視点」
「三人称一人の視点」
「三人称神の視点」

 があります。

 「一人称一人の視点」は「私」が見聞したこと以外は知りえません。
 家の外で、殺人事件があろうと、交通事故があろうと、クラスメイトが異世界に飛ばされようと
 恋人が魅力的な異性を連れて通り過ぎようと、知りえることはありません。

 代わりに、よりリアルに描写ができます。
 
 魅力的な異性の前に立ったら、心臓がバクバク、呼吸困難に陥り、耳まで熱くなり、頭の中は真っ白、
 一生懸命に考えた言葉もどこかに消え失せ、まともな声も出ず、
 信じられないくらいにうわずった調子で、
 一分後には地球の裏側まで穴を掘って潜りたくなるようなわけの解らないことを言ってしまう。
 というのを追体験できるくらいに描写する ことも可能です。

 逆に、「三人称神の視点」はほとんど、誰の内側にも入り込まず、代わりに、
 様々なところで同時多発的に生じる現象を把握でき、描写することができます。
 すべてを知っています 。神ですから。

 代わりに、共感度は若干落ちます。常に、引き加減にカメラが構えている感じですから。

 「三人称一人の視点」はその中間的なポジションになります。
 後はメニューの視点の部分を呼んでいただいた方が解りやすいかと思いますが。

 他の所でも書きましたが、ご自分の所有する小説が、誰を主人公とし、
 誰の視点で話が進行しているか、ついでに、なぜそうなのかを意識して読むと、
 色々な部分が見えてく るのではないかと思います。

 長文失礼したした。

蛇足
 いま抱えているネタや書きためてある小ネタを登場人物三人ぐらいで絞って、
 ABCそれぞれの「一人称一人の視点」「三人称一人の視点」、
 「神の視点」で視点移動を一切しないで書いてみるとトレーニングになると思います。(体験談)

 ネタがないなら、AとBが付き合っていて、Cが共通の友人。
 ABの痴話喧嘩にCが巻き込まれる一時間なり二時間なりをしてみるとか。
 他意はないですがドラマティックな方が書きやすい人間なので。
 セリフが同じでも視点が違うだけで全く違う様相を呈するので面白いですよ。


夜霧さんからの意見
 こんばんは、再来の夜霧です。

>例えば、「小説の視点となる人物」が家の中にいるときに、家の外観が書けない、
 視点となる人物のツラや容姿が書けない


 三人称なら書けると思いますが……主人公が家の中だから、
 家の外観が書けないのは一人称での制限だと思いますよ。
 それに主人公の容姿を一人称で書きたいのなら、鏡でも見せればいいんです、
 また他のキャラと容姿についての会話をさせてみるとか。

 家の外観を書きたいなら主人公に自分の家はどんな家か語らせればいいですし、
 家を訪ねてきたキャラに『お前の家って○○だよな』とか言わせればいいんです。

 また根本的な問題ですが、制限の一切無い書き方など無いと思います、
 ある程度の制限は我慢しなければなりません。


 それに書く前にあーだこーだ悩むより、実際書いてみた方が良いと思いますよ。
 「案ずるより産むが易し」と言いますからね。

 では、駄文失礼しました。


嶋さんからの返信(質問者)
 どうもありがとうございました。
 また質問ですけど。

> 「全体像」を書く。そこから、視点を人物に合わせる

 と、あるのですが、
 全体像書いている間は、客観的な神様視点なんですよね、
 その後、AやBの視点に変わったら混乱しませんか?


夜霧さんからの意見 
 こんばんは、たぶんお呼びではないでしょうが三度目の夜霧です

 嶋さん、そこを混乱しないように上手く書く事に、書き手の実力が試されるんですよ。

 書き方なんて数多くあります。
 三人称の神様視点から、キャラの一人称に変更するなら、
 改行などで区切ってみたりすればいいと思いますし。

 人称については第4研究室の「人称・視点についての悩み」を読んだ方が良いかもしれません。

 書く前から『どうすれば良いですか?』の質問三昧では進歩できませんよ。
 最初から完璧を求めてはなんにも書けませんし、最初から傑作を書ける人なんていませんからね。
 今はまだ書きたい事を、書きたい様に書けばいいんです。

 では、三度目の駄文失礼しました。


んぼさんからの意見 
――
 そうして部屋に入ってきた人物は、まさに太郎が、昨夜夢で見た少女にそっくりだった。
 背はちょうど太郎の頭ひとつ分くらい低く、快活そうな目は、
 好奇心いっぱいといった様子で太郎を見ている。歳は、十二、三だろうか。
 彼女の母親とは話をしたことがあったが、せいぜい娘の歳は二、三歳だろうと思っていた。
 太郎が握手をしようと右手を差し出すと、少女は――


 えー、一応の例。
 この例文だと、三人称太郎視点でずっと通しています。
 一度も神視点は使っていません。
 全体像を書いているからと言って、神視点であるとは限らないのです。
 
 二度目以降の質問の内容は、書店でいくらかの小説を買って読んでいれば判る内容かと思います。

 別に質問したこと自体をどうこう言うつもりはありませんが、
 聞いて覚えるより読んで理解する方が身になると思いましたので、一応。


あんごさんからの意見
 うーん、例えばですが、

 男がいた。
 うずくまっていても、十やそこらの子供ならば見下ろすほどに体がでかい。
 男の名を、万次郎という。
(ゆくか)
 万次郎は、のそりと起き上がり、歩き出した。
 昨日の今日で、ひどく疲れている。


 神様視点から一人称チェンジの例ですが、冒頭にはよくある書き方です。

 視点の混乱というのはA→Bと、登場人物の間で視点が移るときに起こるものですので、
 ここの心配はしなくていいでしょう。



まーさんからの意見
 とりあえず、「三人称」は「三人称」です。
 「神様視点の三人称」とか「人物視点の三人称」とか、小難しい理屈は後から考えてください。
 そんな後づけの理屈は、文章能力があがれば自然に身につく「テクニック」 にすぎません。

 映画のシーンを思い浮かべてください。
 あなたはカメラマンです。

 空から町を見渡します。ズームアップして、町の雑踏を画に写します。
 そこから移動して、ある家へたどり着きます。家の様子を観察します。
 家の中に入り、男をみつけま す。男のことをじっと見つめます。
 男が突然、話し出しました。声には出していません。心の声を拾いました。

 さて、この映像を思い浮かべ、神様視点だとか人物視点だとか理屈を考えて、混乱しましたか?
 全体像から個人像へ映像がシフトして、違和感を持ちましたか?
 違いますよね?
 全体像から人物へ視点をあわせるなんて、たったこれだけのことです。難しく考える必要はありません。

 カメラは映画に用いる映像を、必要であれば好きなように拾います。
 特定の人物が映画の最初から最後まで、
 1カットも漏れることなく画面に映り続けている映画なんて、まず考えられないでしょう?

 視点の理屈なんて、そんな程度です。

 ただ、映画の評価に「カメラワークすばらしい」と言われるように、
 何の考えもなく映像を写すだけでは三流です。

 
 そこでクローズアップされるテクニックが、
 「神様視点の三人称」とか「人物視点の三人称」とかの、ある程度確立された方法論です。


 これらは、すでに一流と認められた先人が残したすばらしい遺産です。
 これらを身に着けることは創作において大きなプラスとなります。

 でもだからといって、これらを必ず採用しなければならないという話にはなりません。
 それは自由です。
 そんな既存の方法論にとらわれず、あなた独自のカメラワークの秘儀を生み出したってかまいません。
 あるいは、既存の方法にあなたなりのアレンジを加えるのもよいでしょう。
 あなたが作る作品なのですから、誰にも文句を言われる筋合いはありせん。
 それが読者にとって面白ければ。
 
 文句を言われるのは、結果として面白くなかった時だけ。
 
 「視点がコロコロ変わるのが原因で、面白くない」のではなく、
 「視点がコロコロ変わってそれが下手糞なのが原因で、面白くない」と言われるのです。
 原因のある場所を 間違えないでください。方法ではなくそれが活かせたかです。

 カメラマンである作者は、本質的には自由です。
 でも、作り上げる作品のために、自らが面白いとする方法を使って、自ら望んで枷をはめるのです。
 その方法をどうするかは自由。でも作品は自由ではない。

 自由のと不自由の意味を履き違えないように。
 あなたにはあらゆる手段が許されている。
 でも、あなたはあなたであるがゆえに、いくつもの手段を許してはならない。


 ……後半は蛇足です。
 あなたにまず必要なのは前半だけ。
 難しいことを考えるのは後で十分。

 まずはカメラを手にとって、自由に動かしてみてください。
 どうすれば面白い映画になるか考え悩み混乱して、カメラに埃を被せるよりも何倍もマシです。
 カメラを使っているうちに、必要であれば自然とテクニックは身につくものです。


わちさんからの意見
 どうも、こんにちは。

 確かに第一研究所「タブー、これをやってはいけない!」の
 「究極のタブー。視点移動をしてはならない」と書かれていますよね。
 なんかこれを見ると、「絶対ダメなんだ」 と感じてしまいます。

 でも実際は「同一シーン」の視点移動を禁じているだけで、
 「だだし、章や場面が変わった際に、別の人間に視点が変わるのは有効です」
 とも、書かれています。


 私なりの理解では、全体を見渡すシーン「神視点」が一シーンととらえ、
 「キャラに視点を合わせる」時はまた別なシーンととらえています。
 (自分の理解が間違っている可能性もありますが……)(汗)


みつきさんからの意見
 嶋さま、こんにちは。

 そういうときは、市販の小説を読んでみましょう。
 どうやって読者を混乱させないように書いているか、きちんと意識して読めば、
 書き手の工夫や苦心がちゃんと見えると思いますよ。


「そういうシーンを書いた小説を読んだことがない」
「自分の疑問にこたえるような小説がない」

 というのでしたら、それはもう、完璧に嶋さんの読書不足、勉強不足ですから、
 読書という基礎をきちんとやり直しましょう。
 質問をするのはそれからです。
 頑張ってくださいね。

 それではこれにて、失礼致します。

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