第4研究室 創作に関するQ&A 468P | トップへ戻る |
招き狐さんからの質問
 ら抜き言葉について
 
 こんにちは。こちらをお邪魔するのは二回目かな?
 招き狐です。

 「料理は不味くて食べれない」という文章があった場合、一般に
 「料理は不味くて食べられない」という文章のら抜きである、と判断されています。
 僕個人としては、他の「ら抜き言葉」に関しては別ですが、
 「食べれない」に関しては、別にこのままでも良いのではないでしょうか、と思っています。

 「ら」というのは受身の意味になります(よね?)。
 料理が食べられる、というのは料理の側に立った言葉ですが、
 料理を食べるのは人間ですので、「食べれる」という能動的な表現でも問題ないかと。
 感覚としては、「こんな料理、食えたもんじゃねぇ!」という台詞を何度か聞いたことがあるのですが、
 この台詞に「ら」と同じ意味で「れ」を入れて、
 「食えれたもんじゃねぇ!」とは、あまり聞かないのと似ています。
 人間の側に立った「食べれる」は、おかしい文章でしょうか?

 加えて、「食べられる」と表記するのが文章のルールだとしたら、
 僕はこれから訂正する必要が出てきます。
 ログには残っていなかったし、自分で考えてもどうも判断できなかったので、
 皆さんの回答に期待しちゃいます。

 よろしくお願いします。


●答え●

飛車丸さんからの意見
 そもそも基礎となる部分の解釈自体がおかしいです。

 ら抜き言葉は、『〜〜られる』という言葉から『ら』を抜いただけの単なる略語。

 別に『ら』とか『れ』とかに意味があるわけじゃないんですね。
 ここがおかしいから、能動とか食えれたとか、全ての解釈が変になってます。

 とりあえず、『ら抜き言葉』を――ひいては日本語を――正しく理解することが第一かと。


かなTさんからの意見
 結論から言うと「ら抜き」には大賛成です。
 それで助動詞「れる・られる」は、両方とも同じ意味です。この助動詞には、受け身のほかに

・可能
 「この機械は1トンまで 持ちあげ”られる”」
 「そんなこと、考え”られ”ない」

・尊敬
 「先生は夕方には帰って こ”られ”ます」
 「昨日は、なにを 食べ”られ”ましたか?」

・自発
 「当時のことが しのば”れる”」

 ……という意味があります。
 なので「れる・られる」が使われた時、それがいずれの意味に相当するのかということは
 前後の文脈から判断しなくてはならず、それ単体ではどうという判断ができません。

 そんなの不便じゃないのさ!!

 だから、可能の意味では「食べれる」、受け身の意味では「食べられる」というふうに使い分ければ、
 これはとても便利で良いことではないかと思うんです。どんどん使っていきたいところです。

 ところで本来「れる」「られる」は何ゆえに使い分けられるのかと言うと、
 これは意味の違いによってではなく、単に文法における接続法の違いによります。

 未然形の語尾の母音が「a」音で終わる動詞には「れる」がつきます。
 例えば……

 「聞く」の未然形「聞か(kik”a”)」は「聞か・れる」。「聞かられる」にはならない。
 「立つ」の未然形「立た(tat”a”)」は「立た・れる」。「立たられる」にはならない。

 未然形の語尾の母音がそれ以外の音で終わる動詞には「られる」がつきます。
 例えば……

 「食べる」の未然形「食べ(tab”e”)」は「食べ・られる」。「食べれる」は、ら抜き言葉。
 「生きる」の未然形「生き(ik”i”)」は「生き・られる」。「生きれる」は、ら抜き言葉。


 神は死んだ! そんなややこしい文法なんて滅びてしまえ。


ナナキさんからの意見
 こんにちは。
 答え:ときと場合による、たぶん。

 受動と可能が二義的になってわかりにくいと思うなら、
 地の文で「ら抜き言葉」を使うのもありだとおもいます。

 一方で会話の時は「ら抜き」がいいと思います。喋りにくいですし。
 ただ、喋るキャラクターが年配だとか、文法にうるさいタイプならば「ら抜き」はNGでしょう。


たぶろっぷさんからの意見
「料理が食べられる」
 という文を一目見ると
「料理を食べることができる」
 と判断する人が多数ではないでしょうか。

 > 「食えれたもんじゃねぇ!」とは、あまり聞かないのと似ています。
 「食えられる」なんて言葉は存在しませんよ。

 私見ですが「ら」抜き言葉は話し言葉であると思います。
 「いう」を「ゆう」と発音するのと似たようなものであると。
 

 ラノベに限らず、文章を起こす際は書き言葉で記述するのが正しいと思っていますので、
 基本的には「ら」抜き言葉は使わない方が良いのではないでしょうか。
 仮にセリフで年少キャラの幼さを表現する場合などはその限りではないでしょうが。


適広当樹さんからの意見
 後半部、良くわからないのだけれど、
(料理が食べられる、って可能になることが多くないかな、文脈上……)

 「ら」抜き言葉が問題になるのって、公式文書だけじゃなかったでしたっけ。法律とか。

 変なルールがあるんですよ、公式文書。
 「徽章」(身分表すバッチ)の「徽」の字が使っちゃ駄目だから、自衛隊では「き章」だとか。
 杓子定規なのですね。小説は違うでしょう。


 感覚で書けばいいと思いますよ。
 小説家になろうって人が、まさか間違った感覚なんて持ってるはずもないですし。

 読んだ人が理解できれば問題ではないはず。


木津谷さんからの意見
 こんにちは、木津谷です。

 飛車丸さんが言ってますけど、「ら抜き言葉」は純粋に略語であって受身云々は関係ありません。
 「料理は不味くて食べられない」とう例も受身関係なしに不可能を表していて(文脈によりますが)、
 それを略してしまったのが「料理は不味くて食べれない」なのです。
 この「ら抜き言葉」は一般的に日本語の乱れと見なされています。

 ――が、まぁ自分は「ら抜き言葉」でも問題ない、という立場なんですけどね。

 言葉ってその時代に適したものに変化していく訳ですし、
 日本語の良さが損なわれるような変化でなければ、どんどん受け入れても構わないと思うんですよね。
 これは「的」とか「真逆」などの問題でも言えることなんですが、ここまで浸透しているならば、
 もう「正しい日本語」と認めても良いんじゃないか? と、僕はそう言いたい訳です。

 それでは失礼いたしました。


真紅さんからの意見
 その「ら」は助動詞の一部だから、それ単体でどうこうって話じゃないんですよ。

 その土台も知らない人が、ら抜きでも意味が通るとか言ってもなあ。


招き狐さんからの返信(質問者)
 どうも、招き狐です。
 皆さん、丁寧なレスありがとうございました。

 皆さんの意見を読んでみた限りでは、
 『まず受身云々の話をする前に、「ら抜き」というそのものが、
 どういうものが変化して出来た言葉なのかを考えろ』
 とそういうことでしょうか。

 で、ら抜き自体に関しては、
 『そんなに肩肘張って考えなくてもよく、時と場合を考えて使え』
 と言う事なのかな、と受け取ります。

 生憎出来た頭じゃないので、質問が上手く伝わったかが微妙だったのですが、
 丁寧にレスを返してくれて感謝感謝です。

 これからは質問を変えて、
 「ら抜きは良いか悪いか」
 ということに関して、意見を集めたいと思います。

 って、難しく考えないで意識調査とかその辺の感覚で(笑)
 よろしくお願いいたします。


菊菜さんからの意見
 私自身は地の文は教科書で正しいとされる文法で書きますが、
 セリフは話している人物に合わせて「ら抜き言葉」を使うこともあります。


 理由は単純で、私自身が「ら抜き言葉」に違和感を覚えるからです。
 それは両親が共に教師で、正しい日本語で話さないと返事をしてくれないという、
 少し特殊な環境で育ったせいもありますが。

 「料理が食べられる」という表現は確かに可能と受身の二つの意味にとれますが、
 たいてい文脈からわかるでしょう。
 誤解される恐れがある時でも、可能なら「料理を食べられる」、受身なら「料理が食われる」とすれば、
 従来の日本語ではっきり区別出来るので、特に問題ないと思います。

 良いか悪いか、についてですが、私は特別悪いとは思いませんが、
 先に書いた通り、文章中に使われていると違和感がありますし、読みにくいです。
 「見落としたかな?」と二度読み三度読みしてしまうことがあります。私は使いません。
 それと、今後「ら抜き言葉」で執筆していくつもりでも、
 いわゆる「正しい日本語」は知っておく必要があるでしょう。
 
 この研究所でも何度も言われているように、
 規則を知っていて破るのと、知らずに破るのとでは、意味が全く異なります。
 

 それに「正しい日本語」を知らずに「私はこれが良いと思う!」と主張しても、
 不勉強の言い訳としか思われないでしょう。
(「正しい」を知らずに「正しくない」方が良いと判断することは出来ませんから)

 「ら抜き言葉」について批判的な感じになりましたが、言葉としては有りではないか、と思っています。
 ただ、活字の分野ではまだ市民権を得ているとは言い難いのではないか、というのが私の印象です。


七篠権兵衛さんからの意見
 そもそも、「食える」という可能動詞は「食い得る」という動詞+補助動詞を縮めたもので、
 る・らるの助動詞とは全く関係ないんですが……。
 それはともかく、ら抜き言葉なんて気にする必要はありませんよ。
 文法なんて地図みたいなものですから。


みつきさんからの意見
 招き狐さま、こんにちは。

 ら抜き言葉がいいか悪いか……は、本人が決めていいと思いますよ。
 小説の中で何を使おうと、それは自由です。


 ただ、私自身は社会人ですので、目上の方や顧客と同席することが多々ありまして、
 その場合には絶対にら抜き言葉は使いません。
 ら抜き言葉を使うと、子供っぽく砕けた感じになってしまうので、相手の方にとても失礼ですし、
 こちらの信用にも、少しずつですが影響があるかと思います。
 特に、『言葉使い』というものをとても大事にしていらっしゃる年配の方と同席するときには、
 もう、ら抜き言葉は絶対に禁句ですね。
 相手の方がそれを嫌がるかどうか、というだけの問題ではなく、
 自分の中のマナーとして、そんな失礼な話し方はとても出来ない、と、そう思うからです。
 
 それに、音の流れや言葉のイントネーション、言葉の当たりの丁寧さというものを考えてみた場合でも、
 ら抜きはあまりいい言葉使いであるとは思えません。

 というわけで、小説を書くときの自分の意識としては、ら抜き言葉は基本的にNG、
 三人称での地の文や、大人同士のちょっと距離のある時の会話では絶対に使わない。
 でも、子供の台詞や、砕けた会話の中では普通に使ってもOK、としています。

 それではこれにて。


Ririn★さんからの意見
 こんにちは。Ririn★です。

 「ら抜き」を使った作品を投稿した張本人です。
 みなさんの深い造詣を読ませていただき、触発され勉強しました。

 いわゆる「日本語の乱れ」と言われるものは以下の5つが主なものらしいです。

1 ら抜き言葉
2 ら入れ言葉
3 い抜き言葉
4 さ入れ言葉
5 れ足す言葉

 全く知りませんでした。

 話は変わり、私がなぜ「ら抜き」を使ったかと言えば、それが自然だったからに他なりません。
 私の周りでは大人も子供も「ら抜き」言葉です。
 よくよく考えてみれば方言の類なのかもしれません。

 そこに良い悪いもありません。

 私はこれからも「ら抜き」言葉を使おうと思っています。
 なぜなら「日本語の乱れ」という言葉自体が規範的な日本語と異なるじゃないですか。
 現代になってから作られた言葉に踊らされるのは馬鹿げていると思います。
 「ら抜き言葉」って江戸時代から段々と増えてきている由緒正しき変化なのですから。
(と、ネット情報に踊らされてみます)


ひすいさんからの意見
 どうも、ひすいと申します。

 ら抜き言葉自体、別に使うことに反対というわけではありません。
 ただ、小説で使う場合は、それなりの目的というものがない限りは使う必要がないんじゃないかな、と。
 たとえば招き狐さんの仰っているような「受け身」だとか「可能」だとか複数の意味を持つから〜
 みたいな理由ですが、そもそもそういった場合はおもに文脈や展開で判断するものです。
 ら抜き言葉とは少し違いますが、日本語には表記は同じでも、
 読み方が全く違うという言葉はたくさんあります。「十分」「一杯」「汚れる」「大分」等々。

 これらはたいてい、文脈で臨機応変に意味をとらえ、
 間違ったとらえかたをしないように読者は注意しますよね。同じことです。
 ら抜きだろうとさ入れだろうとれ足すだろうとのだをんだにしようと、
 読者はそのときの雰囲気や、文脈や、展開なんかでほぼ無意識のうちに判断できるのです。

 そういった判断のできない状況だからとか、
 会話文に組み込んで今時の若者の会話を表現したいからだとか、
 一人称で文をまるで語り部が実際に語っているように見せたいからだとか、
 そういったある一定の思惑があった場合に使うのならば別に全然構わないと思います。
 
 しかしながら、招き狐さんが何とお考えになられようとも、
 「ら抜き言葉」は学校教育だとかで「誤表現・誤った日本語」として定着しているわけです。
 また、それ以前にたいていの場合、読者文脈から意味を捉えることが可能ですから、
 なにかしら特殊な意図で以て使うのでないならばそもそもそれを「使用する意味」というものがない。

 ですから、少なくともその作品やシーンの雰囲気によっては、
 ら抜き言葉が雰囲気を壊してしまいかねないとか、読者に違和感を与えてしまう可能性がある、
 ということは紛れもない事実です。
 むやみに使うことは避けたり、使う場合でも事実上は「誤り」だと認識されていることを
 念頭に置いて使ったほうが良いのではないか、と思います。

 では。


玖乃さんからの意見
 こんにちは。そしてはじめまして。玖乃(くの)です。

 「ら抜き言葉」発祥の地といわれる中部圏に住むワタシからも一言だけ。

 ワタシは「(セリフ)」以外ではら抜き言葉を使いません。というか、使いたくないのです。
 ワタシの周囲で交わされる自然な会話は、ほぼ間違いなく、ら抜き言葉ですが。
 そして生まれてからずっとら抜き言葉と接してきましたが。使わないものは使わないのですね。

 単に上方志向が強いだけなのかもしれません。
 ワタシが方言などコトバというものを急に意識するようになったのは、小説を書きはじめてからです。
 ただでさえ日本一汚い方言と揶揄される地域に住んでいるから、なおさらでしょうね。
 とにかくガ行の濁音が多いのです。
 語尾に「ぎゃー」、とはつけませんが。えびふりゃー(エビフライ)も都市伝説ですよ。

 とはいえ、ら抜き言葉が現代に使われる言葉であることに間違いはないのですから、
 使用は作者に任されるはず。それが

1、すべての文で「ら抜き」
2、会話だけ「ら抜き」
3、「ら抜き」しない
 という感じに分類されるだけの話です。ワタシは必要に応じて2と3を使い分けます。

 自分のことばかり言っていますが、文法の問題は「ら抜き」以外にもたくさんあります。
 たとえば
 「〜だ」と「〜である」の統一(論文では常識)
 「います」「ます」「あります」の使い分け
 など。

 これらはやはり、文章の自然な「読み心地」でおのずと決まってくるものではないでしょうか?

 創作するにおいて「自分ルール」は必要ですが、
 それを決めるのも例外を生み出すのも破棄するのも自分で決めるべきこと。
 だと、エラソーに述べさせていただきました。

 長文失礼しました。では。


ふたばさんからの意見
 招き狐さんこんにちは。ふたばと申します。

 私はあまりら抜き言葉を使いたくないですね。
 理由は「日本語の乱れ」やら「よく間違った使い方をされる日本語」として認識されている表現の中で、
 特に違和感を感じるものの一つだからです。


 他にも、

「○○になります」
 レストランでウェイトレスが料理をテーブルに並べる時、
 「こちら、スパゲッティになります」や「こちら、コーヒーになります」とよく言いますね。
 これは「ファミコン言葉※」の一つで、正しくは「○○です」や「○○でございます」。

※ファミコン言葉とは、おもにファミレスやコンビニでよく耳にする間違った敬語です。

「おられる」
 言った本人は「居る」の尊敬語として使っているようですが、正しくは「いらっしゃる」。
 謙譲語「おる」に「られる」をつけても尊敬の意味にはなりません。
 プロの小説家の作品でも見かけることがあります。

 などがあります。


 小説でのら抜き言葉の扱いは、
 キャラの性格や年齢によってはセリフや一人称の地の分で使うのはありで、
 三人称の地の文で使うのはNGというのが私の意見です。


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