第4研究室 創作に関するQ&A 495P | トップへ戻る |
文文さんからの質問
 主観的な感想や批評について
 
 一日に三回ほどはここに来るのにあまり書き込まない文文です。
 つーか完全にインターネット中毒になってるし。
 本当にどうにかしたいんだけどなぁ……なんとか頑張るしかないんかねぇ。
 とまぁそういう個人的な事情は置いといて、本題に入ります。

 さて。

 以前から思っていたのですが、感想や批評を書くときに「個人的にはけっこう好きです」とか
 「ここはこうしたほうが個人的には好きです」とか『個人的』な意見を言うのっていいのでしょうか。

 …… 分かりにくいですか。
 ええとですね、つまり、作者が求めているのは客観的に見て自分の作品がどうであるかで、
 「個人的には面白かったです」と言われても
 「あ、そうですか。あなたには面白かったようですね。ありがとうございます。
 でも客観視するとどうなんだろう」
 と、結局その作品の真の価値が分からないのではないかと思うんです。

 小説大賞の選考での作品への批評でも、
 一番好きな作品と一番推した作品は同じであるパターンが多かったように思えます。
(ちょっと自信ないですが)
 まぁ上記のは僕の勘違いかもしれませんが、
 「個人的には〜」という言葉はその場でもわりと頻繁に見受けられます。

 で、結局自分でも何を言っているのかいまいち分からないまま質問しますが、
 鍛錬投稿室において自分の肌にあった作品に高得点、
 自分の肌にあわなかった作品にマイナス点をつけるのってどうなんでしょう。
 自分の好きなプロの作品を大絶賛して、
 自分の好みにあわなかったプロの作品をけなすのってどうなんでしょう。
 しかたのないことなんでしょうか。
 それとも僕達は出来る限り客観的に批評すべきなのでしょうか。

 なんだか最初に訊きたかったことがうまく訊けてないのですが、
 大体こんな感じなのでどなたかご意見お願いします。


●答え●

じさんからの意見

 個人的が沢山集まって客観的になる。
 そういうもんじゃないですか?


RED さんからの意見
 別に構わないのでは。

 評価は人によって派手に乱高下するくらいのほうが、作品自体が個性的である指標になります。

 書く方もマイナス評価を恐れていては、
 手堅くまとまってしまって良くないと思いますしね(思いっきり自戒)。
 肌に合わない人から思いっきりマイナスをつけられる、
 それくらいの個性はあって当然、むしろ歓迎と思うべきかと。


メイプルさんからの意見
 他人の作品を見る時には個人的にしか語れません。
 その個人的にという読者の主観が、あなたにとっての客観視なのです。


ひすいさんからの意見
 どうも、ひすいと申します。

 うーん、個人的には、主観性を排除した感想・批評は成り立たないと思うんですよねぇ。
 まず感想はもうそれ自体が主観を元につけるものです。


 辞書などで調べるとわかりますが、感想とは「物事について、心に思ったことや感じたこと」、つ
 まりは自分の主観に基づいて生まれるものです。

 じゃあ批評はどうかっていうと、こちらも主観なしでは成り立ちません。
 たとえばある要素に対して、評論家Aは肯定し、評論家Bは否定するなんてこともあります。
 それを決めているのはあくまでもその人自身の主観であり、
 どちらかが客観的な意見であるとは定めがたいものです。

 結局のところ、「私個人的には〜」などと書いていようがなかろうが、
 その作品を読んで批判しようが絶賛しようが、それを判断するのはその人の主観に基づいてです。
 「私個人的には〜」という言葉は、あくまでも強意の役割、
 或いは前置きとしての役割を果たしているだけなのです。
 ただ「私個人的には〜」と書いてあることによって、それを読んだ人が
 「ああ、これはその人個人的な意見なんだな」と再認識するだけで、
 本質は書いてないのとなんら変わりはありません。

 人間はおそらく主観を排除することなんて不可能です。

 いくら客観的に判断しようと思っても、どこかで主観が入り込んできてしまいます。
 自分が好きな話ならば自然と心が肯定的な方向へ動きますし、
 逆に嫌いな話ならば自然と否定的な方向へ動いてしまう。
 これはいくら意識下で制御しようとしても制御するのは不可能でしょう。
 そして一度肯定的に動いてしまえば、ある欠点を見つけたとしても、
 それによって否定的な方へ動きなおすことはとてつもなく難しいことです。
 逆に一度否定的な法へ動いてしまえば、
 いい部分を見つけてもそれを肯定しようなんて気にはそうそうなれません。

 たとえばこういった掲示板でしばしば見かけますが、
 どちらも譲り合わずにけんか腰になってしまうということはいい例です。
 一度自分が「これだ」と思って身につけてしまった考えや印象は、
 たとえ他人になんといわれようともそう簡単に覆すことはできないのです。

 同じように、その作品のジャンルや文体、人物の人格などを見て、一度身に付いてしまった印象や感想は、
 いくら客観的に判断するためにどうにか排除しようと思っても、どこかで表れてしまうのです。

 ただ可能な限り客観的な判断を行おうとする心構えは評価に値するのではないでしょうか。
 ただ、できるだけ主観を排除しようとして自分の思っていることとまったく合っていないことを書いたり、
 あるいは自分の意見を殺して他者の意見の引用などばかりをしていては、
 それはそれで信用のできない感想および批評となってしまうと思いますが。

 では。


魏延さんからの意見
 イイと思えば「イイ」と言い、ダメと思えば「ダメ」と言う。
 感想や批評を書く側としては、自分の主観に正直であることが一番だと僕は思います。
 もちろん、「イイ」もしくは「ダメ」と書くからには、
 そう思った理由をできる限りていねいに説明することも忘れてはいけません。

 好き嫌いで評価するかどうかじゃなく、
 その理由の解説の上手い下手こそが批評の質を左右するものではないでしょうか。


 もし僕が批評される側なら、客観的な意見や一般論よりも率直な生の声が聞きたいです。
 どだい好き嫌いが生じるのは、完成した作品だという前提での話だと思いますし。


ひなげしさんからの意見
 こんばんわ、では早速。

 まず人間は、主観でしか物事を見ることができません。
 客観的に見るには、物事を俯瞰して見なければなりませんが、神ならぬ人の身に、それは不可能です。
 どれだけ客観的に見ているつもりでも、それは客観で見たつもりの主観でしかありません。

 ではどうすれば客観を人間が得られるかというと、
 いくつもの主観を束ねることによって、擬似的な客観を生むしかないのです。


 Aという人間が見るとそれは三角だった。
 Bという人間が見るとそれは四角だった。
 二つの意見をあわせてようやく、それとは四角錐であることが分かるのです。
 さらにCやDの意見をあわせると、もっとそれの形が明確になっていくでしょう。
 そうすることによって、完全な客観を得ることはできなくても、より客観に近いものを得るのです。

 そしてこれは、小説の批評にも同じことが言えます。
 読者は自分の主観でしか作品を語れません。
 人の批評などを見てそれにあわせて作品を批評しては、
 それはその人物の意見ではなくなってしまいます。
 だから、個人的には、とか私見ですが、と前置きして意見を述べるのです。

 では、主観でしか語れない読者の意見を誰が客観にまとめるのかというと、
 それは当然、意見をもらった側の作者です。

 
 多くの主観を客観に変えるのは、結局は作者の仕事なのですよ。

 と、長々と書いてしまいましたが。
 これが私の個人的な意見です。
 ではでは。


mi-coさんからの意見
 mi-coです。

 価値観って、人によって違いますよね。
 価値観の違いって、誰しもが経験することだと思うんですけどね。
 その対象となるものが、嗜好品ならば、なおさらだと思います。
 だから、嗜好品、と呼ばれるのだと思います。
 ある小説の真の価値って、一体、誰が決めるのでしょう。
 客観的に見れば、その小説の真の価値がわかるのでしょうか。
 そもそも、小説の価値って、何でしょうか。
 読者は、はたして、小説に何を求めているのでしょう。
 それは、客観的に小説を読むことで、わかるのでしょうか。
 
 私は、作品の価値は、読者が決めるものだと思います。
 そこに客観性は求めません。感想は全て、自分にとっての、客観的な意見となりますから。


 個人的にですが、ラノベにおいて、読者は、面白い小説を求めていると思います。
 その時の感情は、主観的なものだと思います。
 面白いか、そうでないか。人それぞれに、感じ方は違うでしょう。
 でも、求めているのは、面白い小説。
 だから、もっと面白くなるように、
 その人が感じたこと、気付いたこと、思ったことを、アドバイスをしているのではないでしょうか。
 個人的には、と一言添えるのは、
 感想をした方が、自分と他の方の価値観の違いをわかっているから、
 でも、それでも何かのお役に立てればと、思っているからだと思います。
 そういう、感想人の配慮が伺えますよね。

 最後にですが、その作品を客観的に見なければいけない、その必要性があるのは、
 その作品を書いた作者だと思いますよ。
 価値とかいう前に、人が読んでどう感じるのか、そっちの方が大切だと思いますけど。
 そして、作品を読んだ方が、その価値を決めるのだと思います。

 以上です。
 個人的な意見なので、納得できない場合は無視して下さいね。
 では、失礼します。


Chirsさんからの意見
 よく「個人的に」と使ってしまう私はこのスレを見つけてしまった以上、覇王翔吼拳を使わざるを得ない。
 後半34バイトは戯言。

 「自分の感覚は明らかに他人とずれている」という確信があるので、
 そもそも客観的な意見を言う事ができないのす。
 その言い訳として「個人的に」と付けている、と自己分析します。

 
 逆に、客観的に見ると悪いかもしれないという意味を含んでいる事もあります。
 まあ、そういった言い方をする場合少なくとも高得点はつけませんね、個人的には。


風月堂さんからの意見
 まず、「客観的」という言葉それ自体に「正しい」という意味合いはありません。
 極論ですが、そもそも評価自体が主観的な判断であって、「客観的な批評」は存在しないと思います。


 本当に、厳密に主観によらないというなら、いろいろな意見を集めてその傾向を述べれば、
 客観的といえるかもしれませんが。しかし、それではデータの元になる各意見はどうなのでしょうか。

 結局、感覚は人それぞれです。
 それこそ、文章作法の誤りや、誰もが疑問を持つほどのあからさまな矛盾やご都合主義があって、
 読むに堪えなさそうというのでもなければ、感じ方はさまざまでしょう。

 どうあっても、個々人の感性の違いを抜きに評価することは困難といえます。
 たとえば、ジャンルの好みの違い(ミステリーは好きだけどラブコメは読まないといった興味の方向性)、
 注目する観点の違い(ストーリーに重点を置く人もいればキャラクターに重点を置く人もいるでしょう)、
 各観点に対する評価の仕方の違い(誰にでも好き嫌いはあります)、
 他の作品との兼ね合いで考える人もあればそれを気にしない見方もあるでしょう。
 こうしたことを考えると、どうしても主観によらざるをえません。

 たとえば、ミステリーが苦手な人ならそれに高い評価をするのは難しいでしょう。
 だからといって、そういう人の「主観的な」意見に価値がないといってしまうのは、あまりにも乱暴です。


 「予想される一般的な傾向」だけを「客観的」として、そこにのみ価値を認めるのでは、
 「売れるか売れないか」というレベル以上の話は難しいと思います。
 また、評価する側も、自分の感性よりも
 「一般人ウケしそうか否か」という観点ばかりで考えるのは面白みに欠けます。
 自分の興味関心にしたがって評価するからこそ、
 「一般人から見たら」という観点では見逃してしまうこともたくさん見つかると思います。

 自分の好みを離れて評価するというのは、せいぜい、
 「自分は好かないけど、多くの人に好まれそう」、
 「自分は好きだけど、嫌う人が多そう」といったように、
 大雑把な想定と自分の好みを相対化するぐらいでしょう。

 そういう意味では「客観的」と称しても、
 せいぜい「大雑把な方向性を推測」することしかできません。


 しかし、作者は、こういう大雑把な評価を求めているわけではないでしょう。
 また、売れた=優れてる、売れてない=欠点が多い、というのは一面的な見方と言えます。
 メディアへの露出機会の違いが原因なのかもしれません。

 多くの人が納得できそうな評価、だけではそれ以上のものは出てきません。
 個人の感性の目を通してこそ、作品のさまざまな側面や性質が明らかになると思います。


 また、「個人的には〜」という言い方こそは、
 客観性を目指した意見(たいていの人が見れば、こう思うはず)と、
 主観に基づく判断(だけど自分はこうは感じない)の違いを意識的に述べているのであって、
 こういう自覚的な意見こそ、客観性を高める工夫なのです。
 
 たとえば、たいていの人はこう思うだろうけど、個人的にはこういうところが好かない、といったような。
 むしろ、自分の感性の限界を認めつつも、他の多くの人は違ったり気にしたりはしないかも、
 ということを意識した結果が、「個人的には〜」という言い方なのです。


まとめ
・「客観的な評価」というのは、せいぜい「たいていの人はこう思うだろうといった、一般的な傾向の"予想"」  でしかない。読者にもさまざまな人はいるため、込み入った評価は難しい。
・意見感想の計量集計でもなければ、主観を一切はさまない「純粋に客観的な評価」は存在しない。
 基礎データのおのおのの意見感想それ自体主観的な評価でなければ、
 予想の寄せ集めにしかならず、主観・印象のデータを集められない。
・「一般傾向の予想」だけでは評価の質が高まらない。
 地味で見過ごされがちな観点というのは沢山あるのではないのか。
 そこにこそ、個人の好き好きが生かされるのではないだろうか。
・上記ゆえ、「個人的には〜」という意見こそ、
 「一般傾向の予測」と「個人的に好きな観点からの評価」の区別を自覚した意見である。
 客観的と称したならば、「一般的傾向の予想」以上に踏み込んだ検討は困難であり、
 観点や感覚の多様さを犠牲にすることになる。


結論
 以上のことを踏まえますと、

 読者アンケートの集計・分析でもなければ「純粋に客観的な評価」というのは不可能です。
 また、客観的と称しても、できることはせいぜい
 「一般的傾向の予測(たいてい読者ならこう思うだろう)」ができるくらいです。


 人は誰でも好き嫌いがあるのであって、特に、苦手なジャンルの場合、
 いくら世間の評価が高くても、その作品のよさ?を感じ難いのですから、
 世間的な評価と異なるのはむしろ当然でしょう。
 それでは失礼しました。


AQUAさんからの意見
 おはようございます。
 リアルではリータンピン狙うのに、パソコンだと大三元狙い……
 パソコンにはつい夢を求めてしまいます。そして挫折。

 『個人的に』という言葉、良く使います。
 ヒトサマの作品に意見を書くときは、こんなんでいいのかな、お役に立てるのかなと不安いっぱいです。
 断言できるほど作品を読みこめていないというセルフツッコミもあり、
 個人的にという言葉は逃げの意味も含まれるかもしれません。
 しかし、深く考え始めると「客観的とはなんぞや?」というメビウスの輪にはまりそうです。

>鍛錬投稿室において自分の肌にあった作品に高得点、
 自分の肌にあわなかった作品にマイナス点をつけるのってどうなんでしょう。


 問題は、ここですね……。
 コメントは、バリバリ個人的でも、得点というのはクッキリ出てしまうんですよ。
 今のところは、ストーリーは好みに合わなかったけれど文章が上手いとか、
 なるべく良いところ、気に入ったところ、自分も取り入れたいところを探して、
 その量が得点に繋がるという感じです。

> 自分の好きなプロの作品を大絶賛して、
 自分の好みにあわなかったプロの作品をけなすのってどうなんでしょう。


 プロの作品を語る場合、まずは「自分にはできないことを成し遂げた」という敬意が根っ子にあります。
 その上で、ワガママな一読者として語るので、褒めるけなすも心の赴くままに……ですね。
 ただし、ネットのような不特定多数が見ている場所だと、それなりに気を使います。

> それとも僕達は出来る限り客観的に批評すべきなのでしょうか。

 感想なら好きなように、批評ならなるべく客観的な部分も持ちたいなと考えています。
 ヒトサマの作品に意見をし得点をつける、その行為が既に大きな課題です。
 自分の中でもっともっと『鍛錬』が必要だなと実感中です。
 特に、他の方で的を射ているご意見を読むとドキドキしますね。
 きっと、たくさんの作品を読み込んできた方なのだろうなと……。
 評論家という職業があるのも納得です。

 まとめますと、(最低限のマナーを守った上で)たくさん読み、
 たくさんのご意見に触れ、自分でも書いてみることが大事なように思います。
 自分の意見に自信が持てるまでは「個人的」という言葉は手放せそうにありませんが……。

 ではでは。


冬さんからの意見
 単純な「好き・嫌い」に関しては他の方々が仰るとおり、
 客観性を持たせる方に無理があるので仕方が無いことではないかと思います。
 ですが、「『個人的』にこうした方が良くなると思う」といった類の意見に関しては、
 その限りではないのではないでしょうか。

 確かに「個人的には〜」と断ってから意見を書く人は多くいますね。
 しかしそれは本当に個人的な意見なのでしょうか? 
 そもそも個人的な意見とは先に述べた『好き・嫌い』の問題であり、
 たとえば、「自分が中二病的な展開が好きだからこうしたほうがいい」と、
 自分を基準にした意見のことを言うのだと思います。

 引きかえ、鍛錬室などでよく見かける『個人的』な意見の多くは、『個人的に』と付け加えつつも、
 『こうした方がいい作品になるとおもうよ』という意見を述べていると思うのです。
 そこに多少なり当人の好みが含まれることは事実ですが、
 それはほとんどの場合客観的な視野を含めた意見であるはずなのです。

 つまり、文文様が気にされている『個人的』という言葉は、
 『この方が【客観的】に見て良く(好ましく)なるんじゃないかと、【個人的】にそう思うよ』
 という、『他の人たちとは違うかもしれないけど』という意味ではないかと思うのです。

 さらに、「こうした方が個人的に好みです」と好みに関しての意見であっても、
 それにより作品全体がどう変わるかをちゃんと考えて、
 もっと言えば『その方が良くなると思うから』述べている意見なのだと思います。
 自分の好みの問題でも、それにより明らかに作品がつまらなくなってしまいそうな意見を述べる人は、
 あまりいませんね?

 字面だけを見れば客観的とは対極に位置しているように見えますが、
 感想を書く方々の意見をよく汲み取ると、
 多分こういうことじゃないのかなぁと冬は『個人的』にそう思うんですね。
 
 ですから、そう一つの単語に過剰反応する必要は無いと思うのです

 確かに本当の意味で『個人的』な意見を述べる人がいることも事実ですが、
 大抵の人はちゃんと『客観的』に作品を見ようと、無意識のうちにもそう努めているはずですよ。

 逆に、好き嫌いの問題であっても、
 自分の意見により作品がどう変わるかを考慮しない発言は慎むべきであると思います。
 ここまでくると主観的を通り越して自己中心的過ぎる意見と受け止められますから。


MIDOさんからの意見
 こんにちは、MIDOです。なんだか身につまされるスレッド。
 やべ。めっちゃ『個人的に』と、前置きして感想書いてるときがある……。反省しておきます。

>「あ、そうですか。あなたには面白かったようですね。ありがとうございます。
 でも客観視するとどうなんだろう」と、結局その作品の真の価値が分からないのではないかと思うんです。


 書き上げた小説を自分ではなく、第三者が見ているという時点で、
 すでにそれは客観的に見ている・客観視しているということと同じことではないでしょうか。


 自分で書いた作品は主観的に見てしまうことが多いですが、
 第三者の場合ははっきり突き放した状態でその作品に目を通します。
 感情移入することはあっても、作者が主観により見落とした点を発見することができるわけで、
 そういう点では読者はみな客観的に作品を見ているということだと思うのですが……
 どうなんでしょうね(尋ねてどうする)

> まぁ上記のは僕の勘違いかもしれませんが、
 「個人的には〜」という言葉はその場でもわりと頻繁に見受けられます。

 言い訳になりますが、わたしが「個人的には」という前置きをよく使うのは、
 「他の方が読んだら別の解釈をするかも知れない」と思うからです。
 人間は十人十色というように、全員が全員同じ考え・感じ方をしているわけではありません。
 だから自分はこう思っても、他の方はそう思わないかも知れない。
 そのことを踏まえて、「これはわたしが捉えたこのパートに対するひとつの見方です」
 という意味合いを込めて、あえて「個人的には」という前置きを使っています。
 うわ、ホントに言い訳っぽく聞こえますね(汗)

>自分の好きなプロの作品を大絶賛して、
 自分の好みにあわなかったプロの作品をけなすのってどうなんでしょう。


 うーん、これもまた身につまされる質問ですね……。
 でも、いくらか自分の好みによって判断が左右されるのは仕方がないことだと思いますよ。
 わたしは女性ですから、男性レーベル作品でもてはやされる萌えな作品などは、
 どんなにまわりが素晴らしいと言おうと、
 イラストを見ただけで「気持ち悪い」という感想を抱いてしまいます。
(お好きな方がいらしたら本当に申し訳ないです。でも、ごめんなさい、生理的に無理なんです)
 それに、肝心なことですが、こうして批評しているわたしたちは、プロではなくアマチュアです。

 プロの批評家ならば、自分の感情を切り捨てて批評することもあるいは可能なのかも知れません。
(すいません、批評家のことあまり知らないので、実態はそうなのかわかりませんが) 
 でも、わたしたちは批評家としてもアマチュアなんですよ。
 アマチュアの書き手がプロ作品を書けないのと同じように、
 アマチュアの批評家がプロ顔負けの批評を下せることはそうないわけで。
 だからこそ、自分の好みやインスピレーションに頼って、
 批評を行ってしまう部分が往々にしてあると思うんです。
 だから仕方がないこと、と言えばそうなのだと思います。
 
 プロ並みに、完全な客観的に、好みなど捨てて批評しろ、
 というのが、そもそも難しい話なんですよ、おそらく。



カルバノさんからの意見
 こんにちは。以前の質問にてお世話になりました、カルバノと申します。

 すでにおおよそ自分の主張に被る事柄は出てしまっているので、
 以下の意見も二番煎じでしかありません。が、せっかくなので書かせて頂きます。


 まず、「個人(主観)意見<客観意見」という考え方ですが、状況によっては正しいと言えるでしょう。
 しかし、文文様にとって「客観意見」とはなんでしょうか?
 
 思うに、主観とは自分自身で見て考えた事で、
 客観意見とは他者が見て考えた事全てなのではないかと思います。

 
 例外は、特定の誰かを、例えば嫌悪していることによる
 「色眼鏡」や「先入観」を基にしている場合などでしょうか。

 皆さんもおっしゃるように、客観的に物事を見ている人なんて、実は誰もいません。

 そんなことが出来るのは、おそらく自分自身ですらも「物」として捉えることができる、
 特異な精神構造を持っている方だけです。
 しかし、「個人意見」と書かれているからといって、
 それが自分にとっての「客観意見」にならないなどということはないのです。
 むしろ、客観的に見てどうこうと書かれているからといって、
 それが客観意見であるとは言えないのです。
 「客観的に見ているつもりの主観意見」ではないという確証など、ありはしないのですから。

 ひなげし様の意見を踏襲することになりますが、自分以外の数多くの主観を一まとめにし、
 客観意見を導き出すのは作者本人です。


 その客観自体もまた作者の主観と言えなくもないですが、
 少なくとも自分一人の主観に比べれば、ずっと客観的な要素を持つといえるでしょう。
 初めから客観意見を述べて欲しいというのは、少々無理な願いというものです。
 それはつまり、自分自身だけで客観的な意見を述べられるということですから。

 これもまた私見、主観的な考えにすぎませんが、とある作品に対して、

A「客観的に見て、この作品は、恋愛要素を軸にしながら、
 派手なアクションを組み込んでとても勢いのある作品ですね。
 ヒロインが主人公に引かれる過程がやや強引でしたが、面白かったです」

 と書かれている場合と、

A´「個人的な解釈ですが、この作品は、恋愛要素を軸にしながら、
 派手なアクションを組み込んでいるので、とても勢いのある作品と思いました。
 ただ、ヒロインが主人公に引かれる過程がやや強引に感じました。面白かったです」

 と書かれている場合。
 さて、A´の方だけが個人意見に見えますでしょうか? 
 元の作品なしにどうこう言えるものでもありませんが……

 重ねて申し上げますが、感想も批評も、基本的には「主観」であって「客観」ではありません。
 自分以外の主観をいかにして客観として纏め上げるのか。そこに客観意見を得る鍵があるのです。


 最後に、ここへのレスもまた、基本的には皆様それぞれの主観意見です。
 この意見を纏め上げ、文文様にとってのこの場での客観意見を纏め上げてみてください。
 それでは。


エフェドリンさんからの意見
 はじめましてエフェドリンです。
 『個人的に〜』を多用する、自信の持てない人間です。

 正直に言えば、『個人的に〜』という前置きに、『逃げ』の意味を含ませているのは少なからずあります。

 「自分はこう思うよ。でもあくまで自分が思ってるだけだから、間違っててもごめんね。責めないでね」
 みたいな意識でしょうか。
 
 一番良いのは、好みや嫌いを意識することなく、そういう『逃げ』の姿勢を取っ払って、
 良いところは褒めて評価して、悪いところは遠慮無く指摘して注意してという、プロな意見なんでしょうが、
 まだまだ自分にはできませんorz 
 『個人的な〜』という盾を備えないと、とても何か意見を言えないへたれで。
 
 それでも自分は、文文様が仰るような「好き」「嫌い」のごちゃまぜの『個人的な』意見を、
 一歩引いて冷静にまとめたものこそ、本当の作品の評価だと思います。
 新聞の世論調査なんかで総理大臣の支持率などが発表されますが、
 極端なのはないものの、あれも結構数字がばらけたりしてます。
 一社の数字だけを見て判断するのではなく、他社の数字と見比べて、
 本当はこれくらいなんじゃないかと『自分で考える』ことこそが重要なんじゃないかなと。

 うーん、なんかまとまりがないけれど、とりあえず余程ひどい意見でもなければ、
 個人の好き嫌いの意見はOKなんじゃないかということです。
 感想者様に作品に対する感想・批評などの責任を全て負わせるのではなく、
 そのような様々な意見を、作者が自分でまとめて判断することも重要なんじゃないかなと。
 こういう言葉を感想者視点から語るとか、もうね、ひどいねorz
 
 とりあえず作者としての自分は、上記のように感想者様からの『個人的な』意見を出来る限りまとめて、
 自分なりに正しい評価をだしてみたりしています。

 下手に纏めれば、自分が言いたいのは、『客観的』になるのは、
 「好き」「嫌い」な様々な『個人的』意見をもらった、『作者』のほうではないかなということでしょうか。
 高評価にやったーと喜んでばかりいるのではなく、
 低評価にうわ…と落ち込んでばかりいるのではなく、それらをまとめて見ることがいいのかなと。

 というか、以前にも感想を巡って色々事件があったと記憶してますが、
 感想投稿者様が全て悪いのではなく、
 その感想を作者が上手く纏める・捌くことのほうが大事なんじゃないかなと。
 正直、全くこれっぽっちも使えない、参考にならないなと判断した意見は
 (表ではお礼を言うものの)切り捨てたってかまわないと思いますし。それも作者の判断だと思います。
 もちろん、折角意見を投稿してくださったのだから、お礼はするべきだと。

 と、ここまで書いてカルバノ様となんとなく被った意見でした。いつもこうやって一つ遅いorz
 感想者ではなく、感想を受け取る側の意見が目立ちましたが、
 これでも何か役立てられましたら幸いです。
 使えないと思ったら心の中でポイ捨てしてくださいな。表だってやられると泣いちゃうから。

 それでは、雑多な文章でありましたが、この辺りでお暇を。


光生さんからの意見
 光生です。

 主観の集合が客観なのですよ。
 つまり何が言いたいのかというと、「個人的に好きな作品です」という意見が多く入っているものが、
 客観的に面白い作品という事です。

 そもそも、個人は客観的に判断しようとしても必ず主観が入ってしまう為、
 客観的な判断は一つの例外を除いて無理です。
 その一つの例外とは「長いものには巻かれろ」。
 
 つまりは、みんながいい作品だと思っているから、自分もいい作品だと思う、という意見です。
 これならば十分に客観的です。それが良い意見なのかは知りませんが。


遊美心さんからの意見
 文文さんの掲示は度々拝見しております。興味深い内容なので意見を書いていきます。

>以前から思っていたのですが、感想や批評を書くときに「個人的にはけっこう好きです」とか
 「ここはこうしたほうが個人的には好きです」とか『個人的』な意見を言うのっていいのでしょうか。

・この鍛錬室で書く際には個人的な意見を書いて構わない、むしろ書いた方がいいと私は考えます。
 というのも、その話を好む、もしくは嫌う人がいるという情報が実に貴重なものだからです。
 客観は主観の平均化(多少荒い表現です)してできるという考え方があります。
 著者は、コメントの個人的意見をいくつも見て客観を予想すると良いと思います。

・点数に、関しては……正直各々の判断で決めてもらった方が構わないと思います。
 良い作品なら、平均的には高い値になると思います。

・客観について
 客観は自分が所属する集団で求められる考え方、と私は解釈しています。
(斎藤孝さんの本を読んで考えた末の持論です)
 自分としては客観的な意見を言ったつもりが、実はその客観は家族内で通用する客観で、
 会社では通用しない客観だったなどということが起こります。
(女性が使う「皆言ってるよ」という皆(客観)は実はたった三人で、全然通用しないなんてことも)

 そこでこの鍛錬室なんですが、ネットの特性上コメントを書く人がどんな職業で、どこに住んでいる、
 などなど所属する集団がてんでばらばらなので、コメント者が客観を意識して書いても、
 読む人によっては「主観ばっか書きやがって〜」と思う可能性があります。
 
 そのゆえコメント者は客観を書かねば、と気負う必要はないと思います。
 友達と話す程度の客観性で十分だと思います。

・「個人的には」という表現について
 客観を棚に置いて「個人的には」という言葉について書きます。
 私もよく使います。コメントにこの言葉が入っている場合は、むしろ集中して読みます。
 それは「個人的には」という言葉の裏に、人の本音が隠れているからです。
(この「免罪句」を使うことによって、相手が傷つくかもしれない本音が言いやすくなります)
(多少傷つきますが、冷静に考えれば自分のウィークポイントの可能性高し)
 客観的な意見は、自分でも考えれば分かることが多いです。
 けれど、本音では皆こう考えてるんだよ、ということは中々自覚することができません。
(裸の王様もそうです)

 ちなみに、私がこの言葉を使う場合には、
 「これ以外の部分は客観的に書けてるかな?」と意識するのを目的にすることもあります。
 ただ、この強力な「免罪句」を使っているからといって、
 ずばずば書き散らかすのはいただけませんが……自分も注意せねば。


わちこさんからの意見
 こんばんは。
 書き始めて5ヶ月の、ド素人からの意見で申し訳ございません。
 私にしてみれば、どんな感想でも勉強になっています。

 「他人の意見」と言うものは、どんな個人的な感想が書かれていたとしても、
 すべて「客観視」されたものだと思っています。
 私の妹のご意見ですが、「ジ○ニの○ーちゃんが出てない小説はクソ」
 これでは○ーちゃんを出さない事には、話になりません。
 「十人十色」それが人間ですから、仕方ありません。

 「Aさんはココが良いと言ってくれている」でも「Bさんは、同じ所がツマラナイと言ってる」な時、悩みます。
 「削る」or「残す」or「変更してみる」or「全く違う設定で作りなおしてみる」などと色々な考えが生まれます。
 色々パターンを変えて書いてみると、全く同じ話でも全く違った話が生まれてしまうんですね。
 ちょっとビックリ。
 でも、そんな感じで鍛練出来るので、良い場所だと思っています。
 批評されてナンボ。読んで貰えるだけで、ありがたいのです!


文文さんからの返信(質問者)
 簡単にまとめてみると、

●個人的が集って客観的になる
●というかそもそも第三者の批評は全て、作者にとっては客観的である
●まぁそれ以前に、個人が客観的になれるわけがなく、なったと思ってもそれは本当は主観である
●仮にあったとして、本当に客観的な意見というのは役に立たない
●別に個人的な意見でもかまわないじゃないか! 感想や批評はもらえれば嬉しい。それだけだ。


 ってとこでしょうか。
 こういう風に納得したようなそぶりをしていますが、やはりまだつっかかりはうまく取れません。
 ずっと自分が思ってきたことですから、どうしても主観的になるんですよね。
 第四研究室にもUPされましたし、何度もみな様のご意見を読んで自分を納得させていきたいと思います。

 では、ありがとうございました。


ととさんからの意見
 何をして客観と呼ぶのか、まずそれを明らかにしたほうが親切では?
 他の方の意見をまとめているけれど、スレ主的には納得しきれない。
 じゃ、まずは自分の納得できる定義を明らかにしてみるといいんでは?

 例えば、事件を起こした加害者と被害者がいる。
 で、どっちが悪いって話で「客観的に俺は悪くない」「客観的にお前が悪い」
 互いにそんな話をしたとしていたとしよう。
 事件の当事者同士が客観とか言っても、どこが客観? と俺は思う。

 ここで、「法的に言ってお前が悪い」
 と言う。これはOK。法律は当事者間で決められるものではないから。

 つまり、客観の意見を欲しいってことは、批評者の見解や感情が含まれない意見が必要なわけだが、
 そんな意見は物理的にないよね。刊行物なら出版部数みたいな客観的価値基準あるけど。
 そもそも感情の産物であろう批評と言う行為には絶対的な基準が無いでしょ?
 もし、万人に見せて100パーセント受け入れられる評価法があるなら、人間の歴史が変わるし。
 
 好きなら絶賛、嫌いなら酷評。
 それそのものはいいんじゃない?

 大事なのは、絶賛であれ酷評であれ、
 自分なりの正当性を、論理的に、具体的に相手に伝える努力を放棄しないこと。

 たまーに、というか、結構な頻度で見たりするんだが、
 「この作者には文章力が無い」とか、「読めなかった。それはコイツの文章に魅力が無かったからだ」
 とか、客観ぶった恐ろしい感想文があるが、これはまったく参考にならないんじゃないか。

 文章力の基準を明らかにせず(例えばラノベ業界と純文学なら基準は大きく変わるっしょ?)
 ただ文章力なんて大げさで曖昧な言葉で相手を煙に巻いてるだけ。
 そもそも、発言者の客観的な能力自体明らかになっているわけでもないのに、
 客観評価は有効にはならんよね。言語学の権威として言う、とかなら、一読の価値はあるかもだけど。

 読めなかった理由を、相手の文章に求めるのはさらにひどい。
 小学生の読書感想文でさえ「読んだ本の感想を書くもの」だ、という大前提を思えば、
 読んでない人間は読者ではない。読まなかったなら感想さえ言う権利は無いんだ、本当は。
 読者でない人間に評価が可能なら、究極、表紙見て中身の文章を酷評、
 なんつー誹謗中傷さえ可能なわけだし。
 最後まで読めませんでした、読んだ部分はこうでした、というだけなら問題はないけど。
 それ以降は余計と言うか、的外れだよね。

 結局、創作物に批評文を送ろうと思ったなら、
 批評者もまた文章を書く物書きになるんだってことを自覚する、
 これが主観客観越えた批評者の前提で、それ以外は余禄じゃない?

 作品の著者には丁寧さやわかり易い文を求めるのに、
 批評者がそれをしないってのも据わりの悪い話だし。

 結局は「確証の無いことは言わない。根拠の無いことは言わない。具体的に言えないことは形にしない」
 それだけ守っていれば批評って結構フリーに書いていいんじゃない?

 逆に言えば、確証とか論拠無いことつらつらと書かれても、
 作者的には「コイツほんとに俺の作品読んでるか?」としか思えないんじゃないか、実際。
 参考にならない、っつーより、出来ない。
 エスパーじゃないんだから、批評者が何を考えて書いたのかは、分かるように書いてないと分からない。
 そんな感じ。

 これもまた、俺個人の意見って奴。
 長文で申し訳ない。以上。


サイラスさんからの意見
 あなたの質問は、作品を評価するときは、
 長所、短所の両方を見るべきではないかというので、よろしいでしょうか?
 
 まず、僕の「個人的には〜」というのは、私の好み、また、嫌いな点という意味合いになると思います。
 
 人には好みがあり、特に好きな趣味や物に対してはそれが強く出ます。
 つまり、「個人的には〜」とつく感想や批評というのは、
 こうすると私好みになるとか、そんな意味合いになると思います。
 それを踏まえて、作者は、どうすればいいかというと、そこから読者全体的には、
 どんな作品やキャラを求めているかというマーケティングができるだろうし、
 自分の考え方や嗜好についても見直せると思います。
 
 ただ、気をつけないといけないのは、子供じみた、あるいは、ヒステリーじみた感想や意見、
 つまり、自分の好きなプロの作品を大絶賛して、
 自分の好みにあわなかったプロの作品をけなすもの意見に振り回されないことです。
 
 作家を目指している読者は、比較的少ないと思いますが、そうでない読者には、かなり多いと思います。
 特にネットの中では、顔や正体がばれないことをいいことに、こういう輩が多いので気をつけてください。
 また、時間が掛かりますが、作品にかかわらず、
 物事にいい面、悪い面、両方言えるようになったほうが、僕は人間的には素敵だと思います。

 では。


地底人Tさんからの意見
 ドーモでーす。二つほどためしに掌編を投稿してみましたので、反省点を。

 第一に自分は主観的な感想こそ意義があるように思います。
 なぜなら主観的であることは、私達が小説を読む時の自然な態度だからです。


 客観的態度は主観を反省するところから出てくると考えています。

 さて、主観的な考え方は人それぞれです。
 ですから反対意見がでて、当たり前なんじゃないでしょうか? 
 
 でも、もし自分の意図がちゃんと読者に伝わっていないのだとしたら、
 そこに説明や表現の不足や、物語の欠陥が潜んでいる率が高い。

 それに素朴で直感的な指摘もあながち馬鹿にできません。
(あからさまな中傷や悪意のある場合は別として)
 
 読者がぱっとそう感じたのに理由があるはずです。
 そういうのをきっかけに考えれば、自分の盲点をつかむ糸口になったりしますし。


 万人に媚びようとは思わないけれども。
 最初から頑固に聞く耳を持たないのと、反対を聴いた上、
 それでも自分の路線を押し通すことは違うと思います。

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