第4研究室 創作に関するQ&A 554P | トップへ戻る |
青葵さんからの質問
 「恋と愛」の違いとは?

 皆さんこんにちは。
 まだまだ若輩で、右も左もわからない、皆さんに助けられてばかりの青葵(あき)です。
 よろしくお願いします。

 それで、今回のテーマなのですが・・・、ズバリ。

 「恋と愛」です。

 恋愛・・・それはもう、小説に関わらず全てのメディアに置いて重要視される、
 人類の究極的な関心事、と言っても過言ではないと思います。

 哲学者たちも恋愛について多くを語っていますが、しかし、
 人類の歴史をかけても解明できていない謎に、
 今回皆さんの力をお借りして少しでも近付けたら良い、と思っています。

 ということで、「恋と愛」について、自分の考えを教えていただければ嬉しいです。

 恋愛について語っても良し、「恋と愛」の違いについて考察しても良し、偉人の言葉を持ってきても良し。

 皆さんの自由で、このテーマについて語っていただきたいです。

 ただ、偉人の言葉については、「言葉」を羅列するだけでなく、その言葉の意味、及び、
 「それを見て自分はどう思い、どう考察したか」を書いていただけるとより嬉しいです。

 それではよろしくお願いします。


●答え●

凛さんからの意見
 えーと、よく言われている言葉で、

 「愛」は真ん中に心があるので真心、
 「恋」は下に心があるので下心、

 というのがありますよね。
 でも愛人、恋人となると逆になるわけで・・・・・・、

 私的には愛は結果、恋は過程、と捉えています。
 恋が育てば愛へと成長するって感じで。



シロさんからの意見
 シロです。また、お答えさせていただきます。

 ニックニク様のおっしゃることも一つだと思います。
 僕の場合、

1・恋は、一人でもできるもの。「恋をしてる」は、一人での行為です。
2・愛は、二人でないとできないもの。「愛をする」とは言いません。

 
 「愛し合う」、「愛する」とは、相手がいて、相手もこちらを思っている場合だけです。
(一人で「彼を愛してる」と言ってる人がいたら、危ないですよ。)

 余談ですが、付き合っているとき(大体は「恋」の段階)は、相手の気持ちを尊重しますが、
 結婚する(「愛」の状態と願いたい)と尊重の気持ちは消えるそうです。

 失礼したしました。


かなTさんからの意見
 恋は結局、自己愛だ。自分がそうするのと同じぐらい、相手から大事にされることを期待している。
 それは結局、相手の瞳の奥に映る自分をこそ愛しているということなのだ。

 
 だから、恋が発展して愛になることなどあり得ない。
 もしそうだとしたら、それは単に相手がこの自己愛の欲求に上手く応えてくれるようになった状態を、
 愛だと勘違いしているだけのことなのだ。
 そのとき、相手はこの愛しい自分像を
 もっとも良く写して見せてくれる鏡というだけのものに成り下がってしまっている。

 もし、愛するならば、恋することからはもっとも離れなければならない。
 愛に生きるならば、恋に死ぬべきだ。
 つまり僕は、こう言いたかったのだ。
 
 恋人のいるリア充、死ね!と。


ロストさんからの意見
 こんにちは。

 「恋」は性欲の延長線上に位置しているのだと思います。
 某小説の言葉を借りるのなら、「生殖活動の不完全な模倣」ですかね。

 「恋」の段階は、言葉や態度での性行為なのかな―、と自分でも思ったりします。
 しかしそれでは何も生まれないので、結果的に不完全な生殖、になるのだと思います。

 「愛」は「恋」の完全版ですかね。
 
 相手を想いがある状態での、生殖の確約または生殖後の両者の関係だと思います。
 強姦や、風俗、一夜限りの過ちとはまた異なるのだと思います。

 恋も愛も、子孫繁栄の為に脳が分泌する物質が見せる、ある種の幻なのかもしれません。
 だからこそ波乱に富んでいて、面白いのかもしれないですね。


 ……今かなり落ち込んでいるので、かなり後ろ向きな考えを書いているかもしれません。
 不愉快にさせてしまったら、ごめんなさい。


シロさんからの意見
 「愛」とは「恋」の上位の感情とは言い切れません。
 ここからは心理学者ロバート・スターンバーグの言葉に従います。

 「愛」には、三つの構成要素があります。「情熱」、「親密さ」、「意気込み」です。
 「恋」には、この構成要素のうち、「情熱」に「親密さ」が加わったもので、「意気込み」はありません。
 また、「愚鈍な恋」には、「愛」の構成要素のうち「親密さ」が欠けています。


 では、三つについて。
 「情熱」=恋愛感情や肉体的な魅力、性的な欲望が含まれる。
 「親密さ」=温かみや相手との近さ、つながり、絆といった感情。
 「意気込み」=誰かを愛する決意と、その愛を維持しようとする意気込みのこと。


 「恋」にも「親密さ」はあると思われるでしょうが、「絆」のレベルは相当難しいものです。
 また、「恋」にも「意気込み」があると思われるかもしれませんが、

 「愛を維持する」って、ただ「好き」でいるだけではなく、「異なる価値観の受容」って意味です。

 (少々僕の主観でありますが)「異なる価値観の受容」って、案外難しいと思います。
 自分以外は全て、自分とは異なる価値観を持っている人間ですから、
 目指すものも、優先順位も違うってことです。これは大きな壁です。

 そして、一人で「彼を愛してる」と言っている人がいたら、危ないですよって意味ですが、
 「愛を維持し続けられる」って、怖いですよ。それも一方的に。
 だって、「愛」には「意気込み」が加わりますから。

 ちなみに、「恋」が「愛」に変わるときは、「結婚しよう」って決意したときか、
 「未来を相手に約束する」時だと思います。


夜宵吹雪さんからの意見
 きましたね、人類の永遠のテーマにして、小説の三大主題のひとつが。
 ぶっちゃけ私は恋愛要素のない小説をあんまり読んだことがありません。
 っていうか恋愛がない小説が珍しいんです。
 また男性心理を知るためにギャルゲーとかもやってます。乙女ゲーも好きですね!
 ・・・えーと、私の考えはこんな感じです。

 恋について。
 えー、フォーリンラブって単語があります。
 日本語訳すると恋に落ちる。ええ、そのまんまですね。
 
 つまり恋は動作でもあり、現象です。好き!と反射的に思ってしまうことですね。
 その後の行動も一応恋をしていることに分類されます。
 で、少数は暴走したりしますね。ストーカーになったり。

 早い話、恋とは独りよがりなんです。
 
 互いが恋に落ちれば万々歳。でもそうでない場合が多い。
 なので一個人の現象と動作が一緒になったもの、と考えてます。
 
 勝手に落ちるものなんで、自分ではどうしようもないです。
 一種の精神疾患ですね。迷惑なものです。


 愛について。
 恋と本当に似てますが、恋は実は愛の一部です。愛は広大です。
 友愛、親愛、無償の愛、精神的な愛、肉体的な愛など、たくさんあります。
 
 恋はその中で下心のある愛です。いわゆる自分の好きなようにしたい、みたいな愛です。

 私達は生まれながらに愛されてます。例えば親から、友達から。
 いわゆる人間関係を穏やかに感じさせるものが愛なんじゃないかと。
 この辺はキリスト教にある愛の教えの方が詳しいのではないかと。

 ちなみに広義的な意味の愛で、愛するあまりに暴走することも多く、憎悪と反転することもあります。
 
 愛とは些細なきっかけで多くの人間を不幸にすることもあります。
 私としては「もらうと嬉しいけれど、もらいすぎると重いもの」と称してます。

 
 人間が人間らしい特徴であり、原初的な感情の一つです。
 人は愛が深いからこそ、色々と苦労してるんじゃないでしょうか。

 以上が私の考えになります。お役に立てれば幸いです。


毛玉さんからの意見
 こんにちは、毛玉です。
 またもや興味深いスレが立っているので、返信させてもらいます。

 涼宮ハルヒさんが言うには、精神病らしいですよw
 なんてどうでもいいことはおいといて……。

 まぁ、私の見解としては、
 恋愛というのは、
 性的な視線ではなく、知的な視線で見たときの本能とでもいいましょうか。
 ちょっと分かりにくいですね。
 
 前者は、生殖活動を目的とした付き合い。
 後者は、互いの事を知るための付き合い。

 
 の差でしょうか?

 次に、恋と愛の違いについての私の意見としては、
 対象の年齢です。
 あくまでこれはイメージです。妄想と言っても差し支えないでしょう。

 以上となります。

 まぁ、この問題は青葵さんもおっしゃっているように、答えの出ない問題です。
 採用試験に出たら、涙目な問題ですw
 ですから、私の意見も
 「変なかんがえだなぁw」
 といった感じで脳内の隅っこに記憶してもらえたら、幸いです。

 では!


クロンさんからの意見
 どうもこんにちは、クロンです。
 恋愛などしたことないですが、自分なりに書かせていただきます。

 まず、これから言う「愛」には親から子へ、あるいは友達や仲間への愛情は含みません。
 恋愛による愛に限定します。
 
 僕は、恋は愛の通り道だと思います。
 誰かに恋をしなければ、愛を与えることはできません。


 自分の中にある愛を、恋という道を通じて誰かに与える。それが、恋愛なのではないでしょうか?
 恋愛の字も恋から愛と書きますしね。
 そして相手がそれに応えてくれれば、晴れて恋人同士という訳です。
 そして、恋はあっても愛を伝えれなかった僕は未だ一人です。
 愛を伝える勇気が欲しい、クロンです。

 よく分からない意見ですが、参考になれば幸いです。
 それではこれで失礼します。


あざらしさんからの意見
 こんにちは、あざらしと申します。

 まず『恋』ですが。
 動物として子孫繁栄に必要な活動でありトリガー。
 ノルアドレナリンとドーパミンでラリって時として勘違いまでし、
 βーエンドルフィンやフェニルエチルアミンの快楽をむさぼり、
 フェニルエチルアミンの枯渇で現実に目覚め、セロトニンの助けで持続する。
 ……いやな書き方ですが、

 現象としての部分だけなら人間的感情を排除しても一応は書けてしまうのが恋。

 毛玉さんも書いてらっしゃいますが「涼宮ハルヒ」にある、
 精神病の一種という表現は脳内物質の分泌変異ということからいうと『確かにその通り』ですな。
 ちなみに『悪魔の辞典』によると「患者を対象者と結婚させるか、
 あるいはこの病気を招いた環境から引き離すことによって治すことができる、
 一時的な精神異常」だそうですw

 恋を人間的感情で支える重要な部分が、情や愛の観念、感情。
 つまりは『愛や情』が存在しない『恋』は、他者から見れば利己的な欲望に過ぎない。


 恋とは、そこに愛や情を内包して始めて美しく輝く。
 個人的には、こんな感じでしょうか。

「じゃあ魂の存在抜きに恋はないのか? 
 特定の相手だけに脳内物質が出るのは種の遺伝的多様性だけで説明がつくのか? 
 恋だけでは支えきれないのか? 動物的というが動物には魂がないと言うのか?」
 となると、イデアとクオリアが登場して本気で哲学になりそうですし、
 一冊の本で足りない話に発展するので図書館にGO!という結論になりそうです。
(哲学的アプローチでなければ、岩波文庫から出ているダーウィン
 『人及び動物の表情について』 がお勧めです。古いですがここから抑えるのが正道かと)

 ですので「恋を人間的感情で支えるのが、情や愛の観念」といたしました、


MIDOさんからの意見
 こんにちは、MIDOです。女性です。お題があれなので性別書いておきますねww

 今回は「恋」と「愛」と言うことで、作品の中でそれしか書いていない人間としては
 答えなくちゃいけない勝手な義務感に駆られたので参加します(迷惑な話ww)

 ということで答えですが……
 その前に、さだまさしの「恋愛症候群」という歌にこんなフレーズがあったので、紹介します。

 相手に求め続けてゆくものが恋 奪うのが恋
 与え続けてゆくものが愛 変わらぬ愛


 母がファンで小さい頃からさだまさしは聞いているんですが、
 最近になってようやく彼の歌がしみじみ感じられるようになってきました。
 それでよく聞いているんですが、このフレーズを聴いて「なるほどなぁ」と思わず頷いてしまったので、
 一応引用しておきます。


 さて、わたしの考え、というかイメージですが。
 
 「恋」は天気が変わりやすい山の中にいる感じで、「愛」は凪いだ海の浜辺みたいなイメージです。
 
 「恋」ってちょっとした刺激で嵐になったり、視界不良になったり、そのせいで迷ったり、
 あつくなったり寒くなったりするし、頂が見えない感じがするあたり、
 天気の変わりやすい山中を歩いているようなイメージがあるんですよね。
 見通しが悪いというか、不安だし、でも居心地がすごくいいときもあるし。
 常に危険と隣り合わせな気がするけど、ずっとここにいたいっていう安らぎ感もあって。どこか、盲目。
 そこから頂上を目指すか、それともあきらめるか、おぼれるか、生きるか死ぬか、
 そんな切羽詰まった印象が強いです。

 対して「愛」は包み込むモノ。安らぎ。見通しがよくて、安心できて、大きくて、美しい。
 でも海って時々荒れるから、残酷な運命をたどらせるときもある。
 必ずしもすべてを護ってくれる訳じゃない。
 でもいつでもそこにあって、大きくて、何者に犯されるわけではなく、確かにそこに存在する。
 そして時々無性に帰りたくなる。自分が海自体になりたくなる。それが「愛」ってものかなって思いますね。

 ……なんだか抽象的すぎて自分でもよくわかんないのですが。
 しかもどっちにしろなんか美しいイメージがない気がorz

 作中ではそんな危ない橋を主人公たちに平然と渡らせているんですから、
 ある意味わたしって残酷な作者かもしれないです。
 コメントは以上です。


猫美々さんからの意見
 その昔、日本には恋愛という概念が存在しなかったそうな。二次元に恋する猫美々です。
 高校時代に国語の先生から聞いた話です。
 
 江戸だったか忘れましたけど、愛という字が今の意味になったのは割と近代のことらしいですね。
 元々は『我がまま』とかそういう意味の感じだったとか。

 
 うろ覚えなので正確な意味は覚えてないですが、たしかこんな感じの意味でした。
 本題。恋と愛。難しいですよね。
 あいにく偉人の言葉は知らない上、学問知識も無いので主観で言って見ます。

 恋は溺れるもの。
 愛は身を焦がすもの。

 恋い焦がれるなんて表現もありますけど、個人的には恋は溺れるものという印象です。
 恋は盲目というように、感情の海に溺れて何も見えない状態。
 相手を求めてもがき、自分のものだけにしたいという心。
 振り向いてもらうために相手へ尽くす。例えば、プレゼント等。
 恋した先の究極系がヤンデレ……だと思う。

 愛は献身。ただ、与えたいと思うから与える。

 感情というよりは、母性とか父性に近い本能で、見返りを求めない無償の献身。
 相手との間で育つ絆。時には、相手のために自己犠牲も厭わない。

 そんな感じが私の主観ですけど、まとめると

 恋とは相手を独占したいという欲求。相手の特別でいたいという願望。
 相手の内側に居場所を求める行為。
 
 愛とは相手を大切にしたい、尽くしたいという感情。
 大好きな相手を慈しむ生物が持つ普遍にして不変の本能。


 あんまり上手くまとまりませんでしたね……。
 恋と愛。その違いは意識して与える好意か、無意識に与える好意かの違いのような気がします。
 私はこれだけ貴方を好きになりたいです。
 というアピールが恋で、愛は意識しなくても想っている絆を結んだ状態。

 以上。猫美々でした。
 あと余談ですが、私的には
 『言葉はいらない。ただ君がいる。それだけでいい』みたいな恋愛がしてみたいですね。
 どっかで聞いたセリフなんですけど、元ネタの記憶が行方不明……。


ぽろろさんからの意見
 ちわっす、ぽろろです。

 「小説の恋愛と同じようなものがある、それは狂信と麻薬中毒だ。
 相手を完全に信じ、相手こそが絶対の存在だという姿勢は盲目的な信仰者のそれだし、
 『相手無しでは生きていけない』など、まさしく麻薬中毒者の言い分だ」
 

 某魔王陛下の言葉です、だいぶ違った気がしますが、要約するとこんな感じだったと思います。

 ただし実際の恋愛がそんなものであるはずがありません。
 現実の恋愛狂信者というのはイコールで結婚詐欺の被害者です。


 「恋愛は誰とでも出来る」というのが、最終的な自分の考えです。
 何故なら人間には『愛着』というものが存在します。
 長年同じ物を使っていれば、長年同じ人と付き合っていれば、
 それなりに『愛着』というものが沸いてきます。
 
 仮に自分が運命を感じたとしても相手も同じ運命を感じたとは限らないのですから、
 恋愛というものは『相手に愛着を沸かせた者勝ち』なのではないでしょうか。


 愛着が沸いたからと言ってそれで相手を信じてしまえば、
 それはイコールで長期的計画の結婚詐欺の被害者です。

 そんな感じで。


ヒトツメアさんからの意見
 幼稚な考えですが、こんな自身でよろしければ……

 愛と恋。根本的には両方、ある対象が好きだということは一致していますね。
 ですがその好きの中で、愛とは自分の理解できる範囲の身近な存在に向けられる情念かと思います。
 そして逆に恋とは好きの外側にある物だと思います。

 まだ自分が理解していない領域にある存在、
 それに憧れて好きになった時が「恋」「恋する」ということなのかな、と思います。


 乱文ですが何かの足しになれば(o^∀^o)


読書好きの人さんからの意見
 「恋」と「愛」についての名言を引用してから、自分の考えを述べてみます。


 「恋」について。

   恋愛とは熱病のようなもので、意志と関係なく生まれ、消える。
      ――スタンダール『恋愛論』(フランスの作家)

 ここで言う「熱病」とは風邪やはしかのことで、突然かかってしまい、
 勝手に収まってしまうことをたとえています。
 つまり、恋とは一時的な感情の高ぶりです。
 病気ではないですが、精神が平常とは違う状態に一定期間なります。そして必ず終わりがあります。



 「愛」について。

   愛するということは、我らが互いに見つめ合うことではなく、共に同じ方向を見つめることだ。
      ―― サン・テグジュベリ(フランスの作家)

 愛とは情熱によってではなく、人間関係によって保たれるものだという意味です。
 自分と相手を結びつけているのものは、制御しがたい激しい感情ではなく、
 相手への理解と共感とある種の連帯感なのです。

 それで、私の意見です。
(以下、「恋」は男女もしくは同性間のもの、「愛」は友情や家族愛なども含めて広い意味で使っています)

 「恋」も「愛」も相手が好きで、相手を大切に思い、
 そばにいて相手を感じることを喜ぶのは同じなのですが、順番が違います。

 「恋」はただ好きという感情が先にあって、なぜその相手なのかが本質的には不明です。

 本人は一生懸命理由を考えます。
 「横顔がかわいい」「服のセンスがいい」「やさしい」いろいろあるでしょう。
 ですが、それらは全て後付けであり、
 もし相手がその特徴を持っていなかったとしても、別な美点を見出したでしょう。

 そうやって、相手に理由を見つけて自分を納得させようとようとしますが、実際は余り意味がありません。
 相手の存在自体を求めてしまうのが「恋」だからです。
 そもそも、「恋」は感情の嵐なので、理由を付けられるはずがありません。

 これに対して、「愛」は理由がはっきりしています。
 といっても、言葉にできると言うことではありません。
 実感として対象に価値を感じていると言うことです。理由が「自分の中」にあるのです。


 「なぜ、この料理が好きかって? 
 ほら、こうして口に入れると、舌が、『おいしい、好きだ、もっと食べたい』と主張するからさ」

 と同様に、

 「なぜこの小説が好きかって? 
 う〜ん、批評すればできるんだけど、言葉にすると何か違うんだよなあ。
 でも、とにかく、このストーリーとこのキャラクターとこの世界観のこの物語が僕は好きなんだよ。
 君がこの小説をつまらないと言っても、僕がこの小説に価値を見出していることは間違いないし、
 好きなことも変わらないよ」

 なのであり、

 「なぜ、彼女を好きかって。そんなの、彼女のことを考え、彼女のそばにいれば分かるさ。
 彼女を感じることを心が喜んでいるんだ。彼女の側にいることがうれしいんだよ。
 彼女に代われる存在は他にはいないんだよ」
 というわけです。

 つまり、「恋」は『理由が後から付く、というか実際は存在しない』のに対し、
 「愛」は『明確に理由が存在するが、それをうまく言葉にするのは難しい』のです。



 この差異から、「恋」と「愛」では次のような違いが起こります。

 「恋」の場合、その相手でなければならない絶対的な理由が見付からないにもかかわらず、
 好きで好きで仕方がないので、胸に漠然とした空虚感があって不安になります。
 ただでさえ激しい感情の動きに翻弄されて疲れているというのにです。
 スタンダール風に言うと、恋している時の不安は、
 なんとなく高熱の時の寒気や落ち着かなさに似ていませんか。

 一方で、はっきりとした根拠がないので、情熱が終わるとさっぱりとして、
 相手に対して、軽い懐かしさや恥ずかしさはあっても、特別な感情は感じなくなります。

(恋をすると切なくなって胸が苦しくなりますが、それは終わればあっけなく消え、心に傷は残しません。
 恋をして傷ついたとすれば、
 それは恋をして“過敏になった”心に対する配慮が相手や周りに足りなかったためや、
 自分だけは大切にされたいという虚栄心や自己愛が傷つけられたからです。
 どろどろの展開の後に残る苦い思いや憎しみも同様で、
 それは情熱自体によってもたらされたものではありません。
 恋が終わるまで相手とよい関係を続けていれば、心にほとんど何の傷も負わないで済みます)
 
 なお、恋した“きっかけ”が相手の美貌ややさしさであることは少しも珍しくありませんが、
 恋が始まった後も好意の由来するものが相手の美貌や献身であるとしたら、
 それは本当の情熱はあまりなく、かなり虚栄心が取って代わっている状態と言えるでしょう。
 そういうものは、本当の「恋」ではなく、「恋愛ごっこ」です。
 「取りあえず彼氏(彼女)が欲しいから付き合った」というのがこれに当たります。
 これは、「愛」とも違います。虚栄心の充足を求める行為です。

 「恋」のこういう特徴に対して、「愛」は、
 心の奥に確かに「対象には他にはない価値がある!」という実感があります。
 ですから、心の中が充足しており、その充足感から愛情が湧き出すことを感じることが幸福です。
 愛情を自覚することが快いのです。


   世界は彼女を有しながら彼女を知らなかった。私こそ彼女を知っていた。
   私はこの世に残って今は亡き彼女のために泣く。

      ―― ペトラルカ(ルネッサンス時代のイタリアの詩人)

 上の方で「相手への理解と共感とある種の連帯感」と書きましたが、このペトラルカの言葉にある、
 「他の誰も知らなくても、自分はこの人の価値を知っている!」
 という感情こそが愛なのではないでしょうか。
 「愛する」相手のことを語るのが楽しいのはそのためでしょう。

 音楽や小説に対する愛もこれと同じだと思います。
 対象が子供だったり家族だったり友人だったり物や事柄だったりで若干感じ方は変わりますが、
 愛情の基本は変わらないように思います。

 「愛」は「恋」と違い、相手が「自分が好感を覚える理由」を失わない限り、この気持ちは継続します。
 もう十年も会っていなくても、友達に対する好意は続きますよね?

 (とは言っても、人生はいろいろなことが起こりますから心理状態も変化しますので、
 自分の側の理由で愛情が薄れることも当然あります。)

 また、「恋」は相手の存在そのものが感情をかき立てるので細かな欠点はどうでもよくなりますが、
 「愛」で相手の欠点を許してしまえるのは、心に余裕があるのと、
 自分が価値を感じているところがはっきり分かっているからです。
 小さな欠点は大目に見るというわけですね。

 なお、サン・テグジュベリは「愛」にはよい人間関係が必要だと言いました。
 「恋」の最中にも相手との人間関係は存在しますので、相手が好感に値する人物であれば、
 「恋」している相手に「愛情」を感じることはごく普通に起こります。

 
 そして、始めのうち二人を結びつけていた情熱、つまり「恋」が薄れていくと、
 その間の交際によって互いの美点を発見し合った結果育まれた快い人間関係、
 つまり「愛情」がそれを引き継ぐのでしょう。

 以上です。
 がんばって書いたのですが、うまく書けた自信がありません。難しいですね。
 「恋」と「愛」で感じる気持ちが全く違うことはよく分かっているのに、理由を考えるのは大変でした。

 いくらかでも参考になればうれしいです。


 最後におまけです。
 自戒を兼ねて、この言葉を残します。

   世界において情熱無しに成就された偉大なものはなかった。
      ―― ヘーゲル(ドイツの哲学者)


冗 さんからの意見
 こんにちは。冗といいます。
 ごくごくシンプルに、「恋」と「愛」の違いについて自分の持っているイメージで言えば、
 
 「恋」は、手に入っていないものに対して、求める気持ち。
 「愛」は、所有に関係なく感じる好意。


 自己を愛する、ならあり得ますが、自己を恋する、ではちょっとおかしい。
 妻を愛している、というのは普通の表現ですが、妻に恋している、というと、
 通常の夫婦よりロマンチックな感じがします。当たり前の表現ではなくなっている。

 「自己」はもちろんですが、「妻」という言葉には、自分のもの、という前提が存在する。
 だから、「妻に恋する」と言うと、一般的ではない感じがするのだと思います。

 恋をしている間は、まだ、相手は自分の手中にないのだと思うのです。
 手中に収めて安心してしまうと、もう恋ではない感情に変化しているような。
 釣った魚にえさはやらないと言いますし。そういう感覚です。

 家族は、最初から自分の家族ですから、「恋」はありえない。
 惚れた異性は、自分のものではありませんから、恋。
 恋人が家族になったら、もう恋人とは呼ばれなくなります。

 「恋しい」「愛しい」という言葉もありますね。
 「恋しい」は、いま手の届かない遠いものに対して使う表現です。
 対して「愛しい」は、目の前にあるものに使える表現です。

 じゃあ、「恋愛」は? と考えてみましたが、
 「恋」と、関係が変化し家族になる直前の「愛」をまとめて言った言葉ではないかな、と。


 ここまで言葉に注目して述べてきましたが、本質について語ることはやめておきます。
 恋愛の本質を捕まえることができたら、こんなとこでウロウロしてないでさっさと幸せになってます。
 たぶん。

 ひとつだけ言えることがあるとすれば、恋を侮ると命がいくつあっても足りないってことでしょうか。
 生殖本能の暴走なんじゃないかと思います。


神野さんからの意見
 青葵さんこんにちは。神野と申します。
 それでは自分としての考えでも。
 ちなみに、ここでの「愛」は「恋愛」関連だけの内容に絞ります。


 まず「恋」ですが、「愛」に比べると浮き沈みの多い感情だと思います。

 ちょっとしたことがきっかけで薄れたり、逆に強まったりするといいますか。
 ある種、人間の弱さの象徴でもある気がします。

 そして、「愛」は落ち着いた状態でも安定して存在する強い感情。
 なので、基本的に「愛」は「恋」の後に発生する感情だと言うことが出来ると思います。


 冷めた書き方をすると、「恋」の場合、ほぼ全てが遺伝子に記述された、
 動物としての本能によって脳が見せる幻想、気の迷いという気がします。
 特定の異性に対して「あれ?」という感覚の連続、
 それにより考え事の中で占めるその人の割合の増加。
 結果「恋」という、「その人が好きなんだな」という“錯覚”を自覚するんじゃないかと思います。

 しかし「愛」までいくと、「嘘から出たまこと」という言葉のように、過程はともかく、
 既に脳が見せる“錯覚”の域を超えていると言っていい気がします。「みなし」なだけとも言いますが。
 こんな考えでは夢がありませんね。

 追加ですが、「愛」は素晴らしいものであると同時に、正直恐ろしくもある二面性のものだとも思います。
 規則や倫理なんてもの、「愛」の前には関係ないですからね。


 「愛」は「全ての許容」というものな側面もありますが、それだと「献身」だったり、
 「相手の間違いを正す」といった行為はどうなるんでしょうね?
 そう考えると、自分自身のことよりも常に相手の優先順位が高い状態、
 相手を想いやる気持ち、それらの集まりというのが、「愛」というものを表すのに近い気がします。

 ただ、「愛」だって相手の幸せが自分の幸せってことなのだから、
 結局のところは自分自身の幸せを追求してるともいえるのですが、それはさておき。
 それだと神様の愛にすらケチつけることになりますし。


 こんなところでしょうか。所々わかりにくい文章ですいません。
 それにしても、自分はラブコメ信者ですらあるはずなのに、
 こんな暗めの考えって、何か間違ってる気がします 。
 だからこそ、理想の恋愛を求めてラノベやら漫画を読んでいるとも言えますが。


ななしさんからの意見
 恋は苦しいもの。
 愛は愛しいもの。
 
 妻に恋をする、って書くと何か新鮮な感じがしませんか?


カイトさんからの意見
 自分の中では「恋」→「愛」な段階があります。
 これを説明するためにも、まず私がこの二つをどのように視覚化してるか話そうと思います。

 自分的に「恋」というのは、身も蓋もない話、利害関係の一つだととらえています。
 情的であれ物理的であれ、相手を見て何がしの利を見出した状態です。


 仮にAとBという人がいたとします。
 二人が「恋」の関係にある場合、まず二つの領域A・Bを考えます。
 その二つの間を二本の「→」で互いに結びあいます。

 これが私の中での「恋」の図です。国でたとえるなら、同盟を結んだ状態です。
 お互いがお互いに利益を見出し、その利害が一致したからこそ、「交際」が成り立つわけです。
 また、「→」がどちらか一本だけな場合、
 「→」を出している方だけが利を見出している、すなわち片思いです。
 このように、言い方が悪いですが、「恋」とは独りよがりの組み合わせであると私は考えます。

 よって、自分の求めるものが得られないと分かった途端、「恋」は急速に冷めていきます。
 言い返せば、自分の求めるものを持っていれば、程度の差はあれ代替が効くわけです。

 一言で言うなら、求め合う関係。

 この関係は不安要素もたくさんです。
 相手が求めに応じてくれない場合もあれば、手ひどいしっぺ返しを食らう時もあります。
 ケース次第では、求めや期待を裏切られたことで身勝手に怒りや憎しみを覚えてしまいかねません。
 逆にいえば、これらを乗り越えることで、「恋」は「愛」へ変化していくのだと思います。

 次に「愛」の項へ行ってみましょう。
 さっき言った気もしますが、「愛」とは「恋」の進化(?)系だと考えています。
 もう利害関係を勘定に入れる間柄ではありません。

 再びA・B両氏にご登場願うと、まずAとB二人を一本の「⇔」で結び、その二つを大きな丸で囲みます。
 これが自分の中での「愛」です。
 もう二つで一つ状態。互いが互いに、相手が存在しない場合を考えられません。

 「恋」の時の求め合いが当たり前になるというか、目的と行動がすり替わるというか。
 本人の中で、求めることより、相手の求めにこたえる…つまり与えることに利を見出している状態です。


 この状態だと、相手の存在が絶対条件です。それも誰ででもいいはずがありません。
 AはBに与えることを利(逆もしかり)としているわけですから、
 二人の間柄……いわゆる絆はそう簡単には揺らぎません。

 一言で言うなら、与え合う関係。


 なんか気合い空回りしてかなり独りよがりで決め付けがましいものになってしまいました。
 どうもすみません。

 あくまで、私個人での考えなので。


kkkさんからの意見
 二葉亭四迷が明治時代に海外ロマン小説における「LOVE」(ロマンチック・ラブ)の訳語として、
 「恋愛」という言葉をつくっただけであって、
 別に「恋」と「愛」という違う概念がくっついているわけじゃないですよ。

 「恋」が終わった後に「愛」が生まれる……といった俗説は良く見聞きしますが、
 実際にそんなことは本当にあるんでしょうかね?

 結婚して奥さんに関して異性としてトキメクような気持ちが冷めてしまった後に、
 何かそれとは違う「愛」が生まれた、というような人は私は一人も知りません。


まいちんさんからの意見
 こんにちは、まいちんです。

 ええと、迫られる側であるオンナの恋と愛について書いてみますね。
(自分が女なので、男の気持ちはようわかりません)

 私は、子供を残す行為を「遺伝子の補完」という、システマティックな捉え方をしている部分がありまして。
 んで、現代を生きるために遺伝子がいい感じに補完できそうな、
 いわゆる「ピッタリの相手」に出会うと、他の人には感じない深い深い溶け合うような安心感とか、
 この人しかいないという確信に至るのではないかと思っていたりします。
 これが、システマティックな側面から見た、愛と呼ばれるもの。

 が、人間が高度な社会性を持つ生き物である以上、
 上に書いた「現代を生きるため」にちょうどいい遺伝子がどういうものであるかは、
 その人の経験や社会認識と密接につながっていて。

 ……つながること自体はいいんですが、その弊害として、
 社会的にいい男だとされている人を「この人かも」と勘違いしてしまったりもするのです。

 また、人間はその社会性がゆえに高度な理性と感情を持つので、
 自分の理性や感情の部分を器用に刺激してくれる男性を「この人かも」と勘違いしたり。
 
 もっと悲惨な場合だと、生育過程で自分の価値観が不当に歪められていて、
 明らかにその人じゃない人を「きっとこの人だわ」と勘違いしたり、
 理不尽に耐え忍ぶために運命の人だと思い込もうとしてしまったり。

 これらに恋という日本語を当てるのはそこそこ適当なのではないかと、個人的には思っています。
(一番最後のが恋に入るかどうかは微妙ですが)

 だから、しょーもない男に恋してしまうことはめったにありませんが、
 しょーもない男を愛してしまうことはままあるんだろうと思います。
(しょーもない男に抱いた母性を愛だと勘違いしちゃう女性もいるみたいですが)

 オマケとして、私に言わせると、
 愛情は互いを社会的な存在として評価し続け、互いを存続させ続けるためのシステムであり、
 愛着は物を無意識のうちに擬人化してそこに愛情を抱いている状態、ということになってしまいます


 母性愛も、なけりゃ子供が育たないからシステムとして備わっているんだろうと考えています。
 「恋愛」は、その感情が愛であるか恋であるか、
 まだわかっていない状態のときによく使われる言葉な気がしますね。

 なんか、哲学もへったくれもなく、夢がなくてすみませんが、参考になれば幸いです。


ヤマネコさんからの意見
 う〜ん

 そもそも物語って、ありえない話が有りそうだから面白いんじゃない(^^;)?

 大事なのは
 説得力のあるウソwでしょでしょ?(=^^=)

 個人的な解釈ですが

 愛は「行動」
 恋は「想い」


 と、今のところしてます(^^)ノ

 愛犬・愛車・愛用…
 ↑
 ほら、発生する行動が目に浮かびます。

 腹立たしいことも起こるけど、嬉しいことも有るのは、ごく日常的ですよね(^^)

 恋は、心のなかに、満たされない気持ちが発生して、
 恐いエピソードに発展させやすい部品として、多くの悪投の動機にも使われてますよね〜(^^)

 事実の追求は、あくまでも「説得力の追加」と「展開の縛り」用が無難かと(^^;)

 楽しい物語が読みたいです(^^)♪


飛車丸さんからの意見
 求めるのが恋、与えるのが愛。


ばみさんからの意見
 こんにちは、ばみです。

 恋が心に部屋を作り、愛が部屋を満たします。
 
 部屋を作っては満たし、作っては満たしを繰り返すうちに心は豊かになります。
 部屋を満たすことに夢中で増築を怠ってしまったとき、
 その恋愛は終焉を迎えることになるのではないでしょうか。

 という話をたったいま思いつきました。
 それでは。


空遥さんからの意見
 こんにちは、空遥です。
 うーんすいません、上手く言葉に出来ないので意味不明なものになると思います……
 が、一応書かせて下さい。

 「恋」とは手を伸ばすもの。
 「愛」とは手を繋ぐもの。


 いやあくまで比喩って言うのか……私の脳内イメージですね(というかもう脳内出血)。
 でも私の中で一番しっくりくるんですよね、多分。
 ロマンチストじゃありません。

 私の高校時代の話なんですが、私よく友人に「○○のこと好きなんでしょ?」って聞かれてました。
 私は全くそんなこと考えたことなかったんですけど、そうなのかなって思ったりもしてました。
 意識もしちゃってメールが来たら叫んでました。
 ……若いなぁ。

 でも高校を卒業して改めて考えてみると、やっぱり違ったのかな、と思います。
 好きか嫌いかって聞かれたら好きなんですけど、「相手に対して手を伸ばしていたか」……
 って考えると、多分伸ばしてないって答えます。

 だんだん意味が分からなくなってきましたが、きっとそんなものなのかなって。

 だって、手を伸ばし続けていたら疲れますよね?
 そこで恋は冷めちゃうのかなと。
 でも手を握り続けていても疲れないんですよね。


 相手が離れないように手に力を込めてたり(ヤンデレ?)手が蒸れてきたら別ですけど(笑)

 ……だから結局何なんだと聞かれそうですが、多分そんな感じです!!(駄目だコイツ

 すいません、意味分かりませんねやっぱり。
 書きながら迷走してますね。
 以上でーす(逃げた


NASUBIさんからの意見
 こんにちはNASUBIといいます。
 哲学的って事で若干趣旨が違うかもしれませんが私も書いてみます。
 これは、前に何かのテレビでやっていたんですが心理学の中では、
 恋と愛が明確に区別されているそうです。

 まず、恋は異質性の発見。

 これは、自分と相手の異質性を意識することが、恋の始まりって意味らしいです。
 恋って相手を好きになったり、嫌いになったり(疑ったり)しますよね? 
 そういうのは自分にとって好意的なことが見つかったり、
 逆に自分にとって嫌なことを見つけたりするから起こることなんだっていってました。
 
 次に、愛は同質性の発見。
 
 これは、自分と相手の同質な部分を共有することが愛って意味みたいです。
 人と人との愛だったら、好きって気持ちを共有するっていうのがまずあげられると思います。
 他にも相手の好きなものを自分が好きになったりとかがあるんじゃないでしょうか。

 テレビで見たそのまんまですが一応自分はこれで納得してたりするので書いてみました。
 もちろん恋や愛なんてのはそう簡単に説明できる事じゃないと思いますが、
 一応参考になればと良いなと思ってます。

 では、これにて。


TOCさんからの意見
 どぉもはじめまして、TOCと申します。
 
 恋と愛、私は「生まれるモノ」と「生み出すモノ」だと思っています。
 
 恋は放っておいても勝手に生まれる感情、
 一方愛は自分が決めて造り上げていく感情と言う感じでしょうか。

 恋は、例えば自動車で言うとエンジンをかける最初の爆発「イグニッション」のようなもの、
 凄まじいエネルギーでその人を変えてしまうほどの激しい感情が伴います。
 しかも、自分の意思とは無関係に。そういうところが非常に物語に向いていると言えます。

 一方の愛ですが、これは自分の意志無くしてあり得ない物だと思っています。
 同じく自動車で言うと、ガソリンを補充し、オイルを換え、アクセルやハンドル、
 時にはブレーキをかけてひたすら走って行く事。
 
 男女が死ぬまで手を繋いでいられるかは、
 互いに愛を育てる努力をしていくかどうかだと私は思っています。


 以上、夫婦生活が5年を越えてトキメキが安らぎに変わったおっさんからの戯言です。


まいちんさんからの意見
 哺乳類および鳥類は一般的に、
 オスがメスにアプローチして、メスが応えたり応えなかったりするもののようなので、
 生物の自然な有り様としてはオスが迫る側、メスが迫られる側の役割を担っていると認識しています。

 もちろん、人間がそうある「べき」だとかは思っていません。
 俗っぽい言い方を借りるとすれば、恋愛の形なんて人それぞれの自由だと考えています。
 互いが良しとしているのなら、それこそ本当にどんな形であっても、
 否定したり良し悪しを言って裁くつもりは全くありません。
 ……こっちに迷惑が及ばない限りは(笑)


808さんからの意見
 皆さんずいぶんとロマンチックな返答をされているようなので、
 ここは敢えて無味乾燥な返答を。

 他の方もおっしゃっているように、
 「恋愛」という概念は、
 明治以降、西洋から輸入した思想です。
 
 つまり、それ以前の日本には現在のような「恋愛」の概念はなかったということです。

 もともと日本にあったのは「色と恋」という考え方でした。
 「色恋」と今でも言いますね。
 「恋」は好きになること全般で、「恋ふ」で「思い慕う」という意味合い、
 「色」はさまざまな意味で用いられた言葉ですが、
 「色気」とか「色香」の「色」として残っている、というとわかるかもしれません。

 「恋」が気持ちを表現しているのに対し、「色」は対象の情感を表現している、といったところでしょうか。
 「恋」が主観側(好きになる側)、「色」が対象側(好かれる側)と考えれば分かりやすいでしょう。
 つまり相手のかもす「色」によって自分が「恋」をする、という関係性です。
 
 この関係性からいくと、「恋」は「色」に対して受動的なものだということになります。
 そしていきおい、「色」は相手の「恋」を誘発する性的な魅力を意味することが多くなります。


 とはいえ、近代以前の日本にはプラトニック・ラブの思想なんてたぶんありませんから、
 性的な意味を持っている・あるいは受動的であるからといって、
 否定的にとられるということはなかったはずです。

 では、もともと日本には「愛」という言葉はなかったのかというと、そんなことはありません。
 しかし、意味合いは現在用いられている「愛」とずいぶん異なります。
 もともとは、愛着や執着のような、あるいは「欲」と同じような意味合いで使われていました。
 仏教的な考え方では物事に対する過度な執着は避けるべきもので、
 つまり必ずしもよい意味でだけ使われていたわけではありません。

 では、どうしてそれが今の意味合いになったかというと、
 西洋的な「恋」観、特に前述した心身二元論に裏打ちされた
 プラトニック・ラブという思想を輸入しようとして「恋愛」という言葉を作った結果、ということになります。
(ちなみに「恋愛」に限らず、明治以降に西洋思想を輸入するために作られた言葉には、
 もとある言葉を二つ組み合わせた形の二次熟語が多く存在します)
 その結果、もとの意味からはすっかりと変わってしまった(つまり、新しい言葉として生まれ変わった)。

 「愛」の方に西洋的なプラトニックな精神性・主体性のイメージが与えられ、
 もともとの意味を保持していた「恋」にはそのまま「色恋」のセクシャル・受動的な意味合いが残りました。

 
 でも日本人の考え方自体が変わってしまったので、
 「恋」にはなんだか「愛」に比べて未熟・浅薄なイメージがちらつくということになった、と思われます。
(ちなみに主流的な西洋思想では精神=主体的、身体・物質=受動的と考えられ、
 精神の方に優位性が与えられています)

 なので、一言でまとめるなら
愛=西洋由来の精神性を重んじた主体性。
恋=日本にもともとあった、「色」との関係における受動性。

 ということになるんじゃないかと思います。


凪風さんからの意見
 すいません、ぶっちゃけわからないです(何

 とまぁ、のっけからその一言に尽きるわけですが……。
 まぁ、あくまでボクの考えを一つ。

 「恋」ってのは、やっぱり下心満載のモノだと思うんですよね。

 特に、高校生くらいに多い気がします。
 何故かって?
 そんなの、ヤりたい盛りだからですよ。勿論ソレに限定するわけではありませんが。
 可愛い後輩が居る。綺麗な先輩が居る。何でもいいです。モデルでも、歌手でも、アイドルでも。
 あくまで「ああしたい、こうしたい」な勝手な感情。
 まぁ、一人でできる、勝手に想う、一方通行な感情じゃないでしょうか。
 それともう一つ。

 「心」を受け入れる過程。だと思ってます。
 
 付き合い始めて、相手を知って、それでもお互い大事に、
 一緒に居たい、添い遂げたいと思えるまでの準備期間だと、そうゆう事でもあると思います。


 ついで「愛」についてですか。
 これは、昔ボクが友人に言った、クサい事を言わせて頂きます。

 「心」を「受け入れて」「愛」と読む。

 あー、恥ずかしい。赤面必須ですね。
 見た目本人ケロッとしてますけど、実は顔から火が出る思いで言った言葉です。
 あぁ、どうでもいいですね、はい。

 まぁ、読んで字の如くです。
 相手の「心」を受け入れてこそのモノだと思ってます。
 そこに心が無ければ、愛せないでしょう?

 「恋」から「愛」に変わる過程で、少しずつ、少しずつ相手の「心」を受け入れて、
 それがやがて「愛」に変わると。
 よく、子供を「愛の結晶」なんて言いますけど、もし好きでもない人との間に子供が生まれてしまったら?
 「責任取って!」ってなるのが当然なのでしょうが……きっと、ボクは耐えられないでしょうねぇ。
 子供は愛せると思いますよ。自分の半分を受け継いでるんですから。
 
 でも、どうでしょう……準備期間もなく、ただ単に一夜限りの関係で……
 となれば、恐らく苦痛だろうなぁと。
 なにせ、相手の「心」を「受け入れる」準備ができてないんですから。
 上辺だけは受け入れる事はできると思います。
 あとは、時間が経てば解決する事でもあるでしょうけど。

 まぁ……長々と書きましたが。
 「恋」は「心」を「受け入れる」準備期間。
 「愛」は「心」を「受け入れた」結果。
 と言うことじゃないでしょうか。

 冒頭でも言いましたが……。
 ぶっちゃけわからないですw

 結局ボクが言いたいのは、、、

 そんな「愛」だの「恋」だの悩んでるリア充が羨ましすぎるんだよっ!!
 ちったぁ、その活力を分けてくれ! ……と言うことですね。

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