第4研究室 創作に関するQ&A 573P | トップへ戻る |
Mickさんからの質問
 オリジナリティとは『ネタの奇抜さ』ではなく『考え方』 (2010年)

 ほにゃにゃちわー、Mickです。
 久しぶりに来たら人がほとんど入れ替わってて、
 この挨拶で誰だか分かってくれる人はほとんどいないでしょうね(泣
 気を取り直して、本題です。


「AはBのパクリだから最悪」
 という感じのことは、いつになってもいろんな人によって言われ続けていることで、
 でも、ネタ被りなんて挙げていけばキリがないのも事実なんで、
「んじゃ、オリジナリティってなんなのさ」
 という感じの事を2〜3年前にこの掲示板にスレ立てしたことが有りましたが、
 結局水かけ論で終わってしまいました。
 ですが、やっと自分なりの答えを見つけてまいりました。
 今回は、それに対する意見を頂きたくてきたんです。

 本当に誰一人として思いついたことのなかったもの、
 なんていうものはもうほとんど無いと思います(異論は認めます)。
 
 「どんな偉大な発明も、必ず既に体現している生物や植物がある」とさえ言われています。
 だから、「AはBのパクリだから最悪」という批判は根本的におかしいんだと思うんです。


 そのBだって、なにか他の作品とネタが被っている筈なんですから。
 『先に見た(出た、ではなく)作品=オリジナル』
 っていう間違った前提があるからできる批判でもありますしね。
 ですが、確かに、思わず批判したなるような作品が有るのも事実です。

 同じネタを使っていてもまったく別物に見える作品だって有るのに、
 ネタが違うにも関わらす許しがたいほど「似ている」作品だって有ります。


 一体なにが違うんでしょうか。
 自分は、ネタの組み合わせ方だと思うんです。
 言い方を変えましょう。

 オリジナリティとは、ネタそのものではなく、
 自分の中にある無数のネタをどう組み合わせるかが重要なんです。


 個性的な文を書くプロの人達ほどたくさんの他の作品を読んでいるのは、そういうことなんだと思います。
 もし、オリジナリティが何のインプットも無しに頭にパッとひらめくようなモノだったなら、
 他人の作品を参考にする必要はまったくありませんからね。
 百科辞典で十分だという話です。

 問題は、
「如何に人より多くのネタをインプットされているか」
「個性的な‘ネタの組み合わせ方’を構築できているか」
 です。

 そういう意味で他人の作品を参考にすることは、両方を同時に鍛えられる素晴らしい方法だと思います。
 
 つまり、創作活動におけるオリジナリティというのは、
 『ネタの奇抜さ』ではなく、『考え方』だということです。


 ………なんか偉そうな文章になってしまいました(汗
 ですが、これで自分の言いたいことは以上です。
 「ここはこう考えるべきだ」や「違う、こうした方が良い」など意見あるのなら、
 コメントして下さると嬉しいです。


●答え●

烈海王さんからの意見
 キサマ等のいる場所は既に大塚英志が7年前に通過した場所だッッッ

 参考文献:【キャラクター小説の作り方】


雷さんからの意見
 僕も、真に独創的な作品は、もはや書けないと考えています。
 でも、個性的な作品なら書けるかもしれません。


 雷です。


 僕の愛読書『マンガの描き方』 で、手塚治虫がこんなことを書いています。


 物語は、はじめのうちは借り物でもいいからつくってしまう。
 そこに自分の経験や思い、想像を肉付けしていけば、
 たとえ真似したものでも奇妙に物語が新しくなってくる。

 オリジナルな話ができてくる。


 手塚治虫は、既存のアイデアやネタを自分に取り込み、
 昇華することが物語づくりに有効だと考えていました。


 この考え方は、物語そのものではなく、世界設定、人物造形にも通じるものです。
 その思想は、Mickさんがおっしゃる、ネタのインプットと組み合わせと根を同じくするものでしょう。

 漫画と小説は別物だという意見もあるでしょうが、
 「物語をつくる」という姿勢そのものに大差はありません。


 そして、僕は「ネタの組み合わせ」ではなく、
 ネタを組み合わせる「筆者の好みや趣向」こそがオリジナリティの源泉だと考えています。


 筆者の個性を反映した物語の“色”や“味”、“におい”……。
 そういう曖昧なものこそが、オリジナリティにつながると考えています。

 第4研究所でも、過去にオリジナリティについて何度も議論されてきました。
 参考にしていただければ幸いです。


Mickさんからの返信(質問者)
 ほにゃにゃちわー、Mickです。

>ネタを組み合わせる「筆者の好みや趣向」こそがオリジナリティの源泉だと考えています。

 そう、まさにその通りです。
 源泉はそこです。
 自分の意見をさらに掘り下げてくれる人がでてくると、スレ立てして良かったと思えます。

 ただ、そこでもう一つ意識して頂きたいのが、その源泉を支えているものです。
 つまり、インプットしてきたネタと、組み合わせる方法です。
 どうやって、ネタを組み合わせるかは作者によって千差万別ですからね。
 
 ショートショートの神様と言われているあの有名な方は、没ネタを紙の切れ端に溜め込んでおいて、
 その中から新たアイディアを捻りだしているそうです。


 ところで、同じことを何度も議論するのは、私はとても有意義なことだと思っています。
 議論する人や、結論に至るまでの過程が違ったりして、
 そこから驚くようなことが分かったりしますからね。
 過去の議論を参考にすることも、もちろん大切ですけどね。


REDさんからの意見
 Mickさん、こんばんわ。
 正直、オリジナリティを出すこと自体は簡単なんですよね。
 
 ただ、あまりにも突拍子もない設定やストーリーは読者がついてこれません。
 となると、万人受けそうな範囲でオリジナリティーを追求しなくてはいけない。
 こうなると幅が狭すぎて、独創的なことなんかやる余地がなくなります。


 さらに言うなら、「読者がついてこれる」は、すなわち過去からの蓄積であるともいえます。
 たとえば、江戸時代の人物は三国志や信長記といった小説は楽しめるでしょうが、
 SF小説は理解不能でしょう。
 
 いや、昔から純文を読んでいたような人の多くは、ラノベ自体が読めないでしょう。
 竜騎士07氏だったかな? こんなような事を書いていました。
 
 ラノベのお約束はラノベ読者にはあたりまえと受け取られるが、そうでない人には理解不能だ。
 落ち物で主人公が美少女を家に住まわせ、しかし親は不在。
 そんな状況はラノベ読者ならお約束だが、一般人には、どうしてそうなるのかついていけない。


 なんて感じだったかな。
 どうしてラノベ読者がそれをお約束と受け取るかと言えば、そういう話がさんざん書かれているからです。

 要するに、ある程度過去から累積された創作世界から踏み出してしまうと、
 読者はまるでついてこれなくなる。
 
 従って、小説のかなりの部分を過去からの累積に頼るしかなくなる。
 むしろ、それを入れないわけにはいかない。


 だから、どうやって組み合わせるか。がオリジナリティのキモであるという意見は正しいと思います。
 そして、組み合わせの元ネタに反応する読者がいるのも避けがたいことす。
 しかし、これをパクリとかいったら、世の中の小説はみなパクリになってしまう。

 実際問題、有名作品だって分解すれば、あれやこれやが見えてくる。
 そんなものを気にしても意味がないし、
 一部の読者がこだわったからといって、そんなものはどうでもいい。

 シドニィ・シェルダンの「ゲームの達人第一部」を読んだとき、
 こりゃ「モンテ・クリスト伯だなあ」と思いましたが、世間的には、そんなものはどうでもいいのでしょう。


Mickさんからの返信(質問者)
 ほにゃにゃちわー、Mickです。

>シドニィ・シェルダンの「ゲームの達人第一部」を読んだとき、こりゃ「モンテ・クリスト伯だなあ」

 大切だと思います。
 それは、まさに『組み合わせの元ネタ』なのかも知れません。
 「この人はモンテ・クリスト伯の影響を受けたのかなぁ」とか思いながら読むと、自分は楽しいですね。

 ところで、
『昔から累積されてきたネタを組み合わせて違うものを作っていく』
 というのは、何かに似ていると思いませんか?
 アレですよ、数学とか物理です。
 さらに言えば、

『他人のネタを吸収して、理解して、自分なりに組み替える』
 というのは、国語ですよね。
 
 自分はそのことを理解した時に、
 「勉強は将来役に立つ」という先生の言葉の意味がやっと分かりました。


REDさんからの意見
 こんにちわ。そしてはじめまして。
 「他人に伝えられる文章ってどういうものなのか」(押しつけではなく)
 という悩み(?)に悩んでいるときにここのサイトを見つけました。
(最近はゆっくり読む傾向ですが、10代の時はライトノベルはガツガツ読んでました。)
 基本的にここに立ち寄る方と趣旨が違うところもあると思いますが、大目に見てあげてください。

 全体的にこのスレはとても面白い内容だと思いました。

>創作活動におけるオリジナリティというのは、『ネタの奇抜さ』ではなく、『考え方』だということです。

 考え方も必要だと思いますが、
 もうひとつ私は感じる能力「感性」もとても大切なのではないかなと考えています。


 同じものを見ても、感じ方は人それぞれです。
 それを「表現する」ともっと広がっていくのではないでしょうか?

 どれだけ「感じたもの」を「能動的」に「表現」していくことができるか。
 わたしにとっての「オリジナルティ」とはそういう意味を持っている気がします。


 なんか、ペラペラ話していますが(すみません。)
 この言葉、まだまだ、自分のモノにしていません。
 知識にしているだけでは、あまり意味になっていない気がするので、
 ゆっくり、着実に、心がけながら味わっていきたいと思っています。
 自分の血肉になることができれば解釈もぐっと深みを増すと思いますので。

 ですが改めて「オリジナルティ」響きがいいですね。
 いろんな想像を掻き立てられます。
 
 意味がわからない文章になっていて申し訳ありません。
 参加させてもらって、ありがとうございました!


Mickさんからの返信(質問者)
 ほにゃにゃちわー、Mickです。

>もうひとつ私は感じる能力「感性」もとても大切なのではないかなと考えています。

 それはもちのろんですよねぇ(←古い
 つまり、自分だけの感覚で見える世界観を表現することも大事、ということでしょうか?
 ただ、それを確立するのはすごく大変です。

 『誰もしないような考え方』と『個性的な世界観』はイコールではないからです。

 例えば、幼稚園児の絵はどれも奇抜で、たくさんありますが、
 少なくとも自分には同じように見える絵を描くピカソは、天才と称され歴史上にたった一人しかいません。

 何故かと言えば、自分だけの感覚だと思っていた考え方が、
 実はその他大勢とほとんど変わらない考え方だった、などということは日常茶飯事だからです。


 自分はその他大勢と違うからと、
 ぐれた挙句にどこにでもいるようなヤンキーになってしまうようなものです。
 
 つまり、本当に『自分だけの感覚』というモノを確立したいのならば、
 まずはありったけの過去のネタを吸収していくことから始めなくてはいけません。

 悲しいことに、本当に個性的なモノは、王道を知りつくさないと無理なんです。

 それを知らないせいで、
 大勢の人が個性的な小説を書こうと、主人公をいきなり殺してみたり、
 異世界にとばしてみたり、なんか超能力に目覚めさせたりしていますが、
 その中で一人だけ王道モノを書いていたとしたら、皮肉にもそのたった一人が一番『個性的』ですよね。
 だから、今までの蓄積を知らないと新しいものは作れないんです。

 以上の理由から、自分だけの「感性」を道は高く険しいですが、
 その果てに磨き上げられた個性を手に入れたいというのなら、私は応援します。
 あ、「ここは違う」とかあったら気軽に言って下さいね。
 全力で土下座します(笑


夜宵吹雪さんからの意見
 どうもこんにちは。深いタイトルですね。

 盗作については某愛しの作品がパクリ呼ばわりされて、そんなに似てるなら粗探ししちゃるわい!
 と意気込み、類似作品を読み上げ、
 その類似作品のファンになった本末転倒な経験があります(ややこしい

 私もMickさんと大体同意見ですね。
 というか、小説って大体キャラクター、世界観、本筋で構成されてますよね。
 この世界観がちょっと特殊だとオリジナリティがあふれる感じになる気がします。
 その次にキャラクターがちょっと特殊だとか。もちろん逆もありますけど。

 世界観と物語、キャラクターをかみ合わせるのって一苦労します。
 読者をいかに納得させ、引き込むか。作者の文章力も大事ですしね。
 この三つの要素がいかに調和しているかによって完成度が違うと思います。

 ぶっちゃけて言うと、労力ですよね。

 簡単なファンタジー世界だけを持ってこられても、
 ちゃんと社会制度とか考えているか否かでは大違いだし。
 
 オリジナリティの中にはいかに作りこむかの考えの労力も含まれている気がします。

 百科事典のネタ(私の場合ウィキペディアさま)なんかでも、結構面白いものがたくさんありますよね。
 いつになっても知らないことを知るというのは楽しいものです。

 ちなみに私が胸張ってオリジナリティに溢れている!と思ったのは、
 やっと連載再開してくれたワンピースかな。
 衝撃的なキャラの個性に度肝を抜かれましたね。


Mickさんからの返信(質問者)
 ほにゃにゃちわー、Mickです。

 たとえば、宮崎駿はあの「カリオストロの城」を作る時に、
 タイヤの凹み方まで研究したらしいですよ。

 
 そうした地道な積み重ねって悲しいくらい一瞬で消化された挙句、気づいてもらえないものですが、
 こういうことをしっかりとやってる作品は、すごく三つの要素がかみ合ってますよねぇ。
 
 そこまで作り込むか‥‥。というくらいに作り込まれた作品はやっぱり目立ちます。個性的です。
 当たり前に、数が少ないですからね。
 努力だけでも勝ち取れる個性の良い例ですね。


 良いですよねぇ、ワンピース。
 冒険して戦う、っていう、ある意味王道な筈なのに、
 オリジナリティに溢れてて、なによりルフィが格好いいです。
 それでは。


日曜日さんからの意見
 こんにちは。

 「AはBのパクリだから最悪」という意見は、窃盗という作者のフェアでない行為に対する嫌悪の延長で、
 オリジナリティの有無はあまり関係がないと思うのですが、どうでしょうか。

 あと、ふと思ったのですが、オリジナリティがネタの組み合わせ方だとすると、
 ライトノベルが好きでライトノベル作家になりたいという人は、ライトノベルという同じネタプール内で、
 同じようなネタの断片を組み合わせて作品にしているため、
 結果として類似の作品が多くなるということになります。

 ということは、ライトノベル作家になりたい人は、

 ライトノベルを読むのを止めて、何か他のことをやったほうが、
 あまりまだ使われていないネタ(言わば、新鮮なネタですね)を手に入れることができるので、
 作家としての実りがあるように思えます。


 また、ハーレクインというアメリカの女性向けレーベルは、
 コンピューターでプロットを作っていると聞いたことがあります。
 つまり、「初恋」とか「結婚」とか「失恋旅行」とか「友達から」といった
 女性向けになりそうで端的なプロットをランダムに組み合わせて、
 面白そうなものを作家に書かせているそうです。

 これには他にも、既存の作品を端的なプロットに置き換えて保存することで、
 プロットの種類を充実させるとともに、その作品とストーリーが被るのを機械的に避けることができる、
 という利点があります。


 これによって、読者は、ハーレクインのどの作品をとっても決して
 「パクリ」作品を掴ませられることはありませんし、読む内容は常に新しい、ということになります。
 
 実際、ハーレクインはアメリカの出版不況の中、売り上げを伸ばしています。(2010年)

 もしかしたら、日本のライトノベルレーベルも同じことを考えているかもしれません。
 こちらは男性向けということになるでしょうか。
 
 まあ、どちらにしろ、コンピューターの情報量、組み合わせの豊富さは個人の能力を軽く越えます。
 この方法を使えば出版社は絶対にパクリと言わせない作品を
 作家に書かせることができるかもしれませんし、売り上げもあがるかもしれません。

 さて、ここまで書いて思ったのですが、
 どうやって組み合わせるかがオリジナリティのキモであるのならば、もう作家が頭を捻るよりも、
 コンピューターにアイデアをだしてもらったほうが良い気がします。

 作家に必要なのは出されたアイディアの中から好みのものを選び、
 上手に文章にする能力だけのように思います。
 アイデアがコンピューターで、書くのが人、というのは面白い構図ですね。

 ところで、一つ聞きたいのですが、小説を書くことって、こういうことでしたっけ?


ひすいさんからの意見
 真に奇抜な作品があるとしたら、それは作った本人以外に理解することはできないでしょう。

 たとえば「文章」という表現形式ととっている時点で、
 それは言語や文法といった制約を抱えてしまうことになります。
 「小説」というジャンルにしている時点で、物語を書き、
 そのなかでなにかを表現するという形式を守らなければならなくなります。

 「ライトノベル」というものを書いている時点で、
 それは中高生を中心とした読者のニーズに合った作品にせざるを得なくなります。

 それらから完全に解放されて、真の自由のなかで「奇抜な作品」というものを作った場合、
 それは誰にも読むことはできませんし、誰にも理解することはできません。
 場合によっては作った本人にすら。
 
 我々の創作活動というのは、そういった形式に沿っていれば沿っているほど、
 「奇抜」というものからかけ離れたものになっていきます。


 これはなにも、文章という形式や、
 小説というジャンルなどの至極基本的な要素に限ったことではありません。
 もしストーリーを真に奇抜なものにしたいならば、
 それこそモチーフにする概念そのものから自分自身で作り出さなければなりません。
 
 この世に実在しているものを用いている時点でそれはほとんどの場合、
 なにかしらの点で既に手がついている作品になってしまいます。

 となると、結局のところ本当のオリジナルというものを作りたいなら
 自分自身がまったくの白紙の状態から作り出さねばならない。
 しかし、仮にそうやって完全なオリジナル作品が作れたとして、
 作者自身が一から作ったものを読者の人たちに理解させるには
 両者ともにとてつもない苦労を必要とします。

 そう考えると、仮に「オリジナリティ」を既存の要素の組み合わせ方、と考えるのは
 単に作品を作り出す点のみでなく、作られた作品を広める上でも都合が良いんですね。

 
 その点では、Mickさんの提案は至極当たり前のことであり、
 大きく間違っていることのはずがないのです。

 しかし、昨今問題視されているのは、あまりに多くの作品が似通い過ぎていて、
 そのなかにオリジナリティを生み出そうとした痕跡すらほとんど残っていない作品が多いから、
 ではないでしょうか。

 ある一定の作品の影響をフルに受けているのはわかるのだけれど、
 それを少しアレンジしただけで、本質的にはほとんど変わっていない。そういった作品が多い。


 そういう作品の多くは、そのストーリーなり、キャラクターなりを自分のものにできていないんですね。
 だから表面上は真似ているように見せかけているけれど、中身はなにも詰まっていない、
 そんな作品が最近氾濫しているように私自身も思います。

 キャラクターなどはわかりやすい例でしょうか。
 最近のライトノベルに出てくるキャラクターは、表面上の記号だけは確立されているけれど、
 人間くささが感じられなかったり記号より深い部分がスカスカなことが結構あります。

 それはたとえば作者の視点が「ツンデレ」などの記号にばかり集中していて、よく練られていない。
 だから絵は全然違うけど、本編における性格はよく似てるなぁ、と思うキャラクターが何人もいるのです。
 場合によっては絵さえ似ているという場合もw
 まあ、これは小説自体とは少しかけ離れてしまいますのでこの辺で。

 その原因は、やっぱり体験や知識のプールが狭いんでしょうね。

 このサイトの研究室にも「ライトノベルだけ読んでライトノベルを描くべからず」という項目があります。
 幅広いジャンルの本を読むなどして組み合わせられる要素を沢山もっていたほうが、
 やっぱり新鮮な作品を書きやすいのだと思います。

 長文、失礼致しました。


回答者さんからの意見
 こにゃにゃちわ〜 Mickさん。
 
『オリジナリティとは、組合せだ!』
 この言い方ですと、弱いですね。
 ここは、より明確に、そして理論的に言いましょう。
 
『オリジナリティとは、誰もしたことのない組合せの事だ!』

 これが答えに近しいですますございます。
 
 〜雨知識〜
 パクるという言葉には、盗む、奪うという意味があります。
 しかし、盗作とパクリは違います。
 何故でしょうか?
 分かりましたか?
 盗作というのは、『盗んだ作品』の事をいみします。
 パクるというのは、『盗む』だけを意味します。
 つまり、パクった物をそのまま使ったら、『盗作』になるし、
 何かと組み合わせて使ったら、『オリジナル』になります。
 
 ですから、『オリジナル』と『盗作』は、どちらも『パクる』という段階があるのです。
 そして、その次の段階に『組合せる』があり、これをすれば『オリジナル』で、
 しなければ『盗作』となりマッスル。

 
 ちなみに、良く『学ぶ』『真似る』『技を盗む』とか、カッコ良く言ってのは、全て『パクリ』である。
 数学の公式を覚える事も、日本語を読む事も、言葉を覚える事も、全ては『パクリ』なので、
 何かを始めるには『パクリ』から始まるのである。
 もちろん、『盗作』は処刑されるべきだし、『二番煎じ』は止めた方が良いね。
 
 
 理系にわかりやすいように図にしましょう。(え? 理系なんかいないって?)
 
『パクリ』→『組合せる』
        ↓  | |
『既にある組合せ』↓ |
 |『組合せをしない』↓
 | |『 新しい組合せ』
 | |   ↓
 | ↓『オリジナル』
 ↓『盗作』┐│
『二番煎じ』│↓
 │     ↓『成功』
 ↓    『処刑』
『失敗』

 
 図がズレている人は……
 まあ、図なんかいらねぇーなら、気にしないでください。
 
 長文失礼しました。


飛車丸さんからの意見
 んー。
 個人的には、組み合わせ方すらどうでもいいと思ってます。
 オリジナリティって、結局のところただの個性です。
 
 ベタなネタ・ベタなキャラ・ベタな文章しか持ってなくても、
 抜群の構成力があれば、それだけでオリジナリティになる。

 まあ要するに、そういう尖った部分なり秀でた部分なりが、作家としてのオリジナリティなんですよね。

 とゆか、ネタの組み合わせ方にしたって、今の世の中どれも似たり寄ったり。
 そんな中でも売上を伸ばしている小説は、文章力・構成力・キャラ造詣といった、
 小説の基本となる部分の水準が高いものばかり。

 ネタというかアイデアで勝負するのなら、組み合わせとか量とかよりも、
 やはり奇抜さが鍵になってしまうでしょうね。

 結局のところ何が言いたいかというと、オリジナリティをネタにばかり求めるのはいくない、
 ってだけなんですけどね。



草薙真紅さんからの意見
 オリジナリティーの世界は広大なのだわ。
 だから、オリジナリティーよりも面白い話を書くべきなのだわ。


加藤汐朗さんからの意見
 こんにちわ、加藤汐朗と申します。
 ラノベに限らず、創作に於いて重要な考察と言えますので興味深く拝見しておりました。

 瀬戸内寂聴先生がパープルというペンネームで綴られた
 『あしたの虹』という携帯小説はご存知でしょうか。
 88歳で天台宗のお寺の住職。大学の学長経験者。文化勲章受章者。
 そんな女性が携帯小説ってのも驚きですが……。
 この作品、根底に源氏物語の生命感と人生観を置いて描かれているのですよ。

 小生が思うオリジナリティーとは、『色んな創作物に触れて』
 
 自分ならこうする、
 自分なら主人公にこうあって欲しい、
 自分ならラストはこうしたい、
 現代風にするなら、
 未来風にするなら、
 異世界にするなら、
 
 こういった、想像力と感受性によって生まれた思いの集積こそが
 オリジナリティーではないかと感じております。

 想像力の豊かな人、感受性の強い人ほど、細部で似た部分はあっても作品そのものは
 独特の世界、雰囲気を持つのではないでしょうか。ここに、年齢というものは関係ないと思われます。
 これが主であり、ネタや組み合わせはそれに付随する副だと思うのです。

 ラノベを意識するなら、ラノベ以外の文学も読み漁るのが
 最良の鍛錬法だとつくづく思う今日この頃であります。



クマ太郎さんからの意見
 こんにちは、クマ太郎と申します。
 オリジナリティですか。ふむふむ。

 自分自身で十分じゃないですか?
 あなたがご自分でおっしゃっているじゃないですか。
 テーマは同じなのに、まったく違う作品にみえるものがあると。
 書いている人間が違うから、違って当たり前ですよ。
 ていうか、自分を前面に押し出しているから、違って見えるんです。ただそれだけです。

 たとえば、ドラゴンクエストのような王道ストーリーも
 プロが百人いれば百人とも違う描き方をします。
 絵画でたとえるとわかりやすいでしょうか。
 まったく同じ絵はかけないのです。限りなく似せることは出来ても。

 ネタが、ネタがと考えるのではなく
 自分自身をどう出すか、これを考えてください。
 そうしたらネタはどこにでもあるような陳腐なものでも、たとえよく似た設定でも
 人の目をひきつけるものが出来るはずです。
 
 と、まったくかけない私が偉そうなことを申し上げました。
 コメントは以上です。少しでも、ご参考になれば幸いです。


伯爵さんからの意見
>オリジナリティとは、ネタそのものではなく、
 自分の中にある無数のネタをどう組み合わせるかが重要 なんです。


 このMickさんの考えは、すでに何世紀も以上に証明された思考研究の一つです。
 Mickさんの考え方は思考学にも、創作のテクニック/思想的にも正しいです。


 これらについては研究書、それを引用した書物も多くでています。
 手に入り易い所でいうなら、外山滋比古さんの『思考の整理学』という本の『カクテル』という項目に、
 その『組み合わせ』による発想法への考察が述べられていた筈です。

 この触媒反応のアナロジーの出典は、
 文学批評家のT・Sエリオットだったかな?(ぼくの知る限りでは )

 エリオットは『伝統と個人の才能』で、
 これらの思考法に重点的に述べていますで参考までに読んでみ ては?

 と、いってもそれらの本や論文は、海外サイトで論文を漁るしかないかも。
 有名な引用をうろ憶えですが残しておきます(笑)↓


 ― T・Sエリオット ―

●『詩の創造に際して起るのは、酸素と二酸硫黄とのあるところへ、
 プラチナのフィラメントを入れた時に起る科学反応に似ている』●



 ↑で触媒反応のアナロジーが、どう成立するか。
 これについて、説明ベタなぼくが説明するとですね。


1・ビーカーに、二つの薬品が入ってます。
(この薬品は、創作でいう所の、ネタです。まだ何も反応してない状態です。)

2・そこに触媒材であるプラチナを混入します。
(このプラチナ=作者の個性だと思ってください)

3・科学反応を起こして生まれ変わるが、その中にプラチナは存在していない。
(プラチナ(個性)は、結局は化合を起しただけだという意味)


 ――要約すると、オリジナルティーとはプラチナ(個性・個人)を見せつけるものではなく、
 プラチナ が立ち会うことでの生まれた化合結果(作品)のことだ、ってワケですね。



 結論。
 Mickさんの考え方は、正しい。
 ここでは研究結果/文学評論の観点から語らせていただきました。それでは失礼します。


思念駆動さんからの意見 
 僕は天才じゃないから、オリジナリティなんて目指さず、
 過去の偉大な作家により洗練されたエンターテ イメントにちょっとの上塗りで充分です。

 オリジナリティなんて追求してた頃も僕にもあったけど、
 ゴッホとかガリレイとかみてたら余りにも不遇なんですよね。

 オリジナリティたるものは当時、今オリジナリティ溢れる作品を書いたなら今、
 その作品を理解出来る人なんていないんだから「作者の自慰乙」で完結。


地底人Tさんからの意見
 またまた彷徨い出ました、地底人Tです。

 「遠くまで見渡せるのは巨人の肩の上に立っているから」という言葉はニュートンのもの。
(受験参考書の赤本の表紙とか)
 でもこれって歴史の研究していくと、実は中世ヨーロッパ人の言い回し。

 モンテスキューは「法の精神」でホッブズの自然状態について表向き反論していますが、
 実は「第二段階ではそうなるだろう」と大筋では踏襲していたり。

 ちょっと前に読んだウィトゲンシュタインの「論理哲学論考」にも
 言葉のループと意味の変容について書いた一節が。
 その文は研究室で既に他の人が引用しています(暇な人はさがしてみては?)。

 世の中そんなもん。
 細切れをパッチワークして、染色して。それで新製品。問題はどこまで徹底的にやれるか。


1・中古品をそのまま転売する。
2・中古品を修理・改修して売りに出す。
3・部品にまでばらして組み直す。
4・理論や設計思想を読み取って自前のものを作る。

 争点は主に段階の深さだと思う。

 参考までに。
 古くは。オデュッセイアの「冥府下り」のエピソードはヴェルギリウスのアエネーイスにパクられたもよう。
(ヴェルギリウスは読んでいないので、詳細までは不明)

 他に「冥府下り」はギリシャ神話のオルペウスのもの(恋人を奪い返しにいく話)が有名ですが、
 古代メソポタミアには「イシュタルの冥府下り」の話がありました。
(ちくま学芸文庫「ギルガメシュ叙事詩」に併録)

 現代アメリカのポーなども一面ではパロディ作家だったそうです。
(創元社推理文庫の全集第一巻解説)

 シェイクスピアの代表作「ハムレット」「リア王」は繰り返し使い古されたネタ(ハムレット伝説)を、
 新たに描き直したもの(ゲーテの大作「ファウスト」もその類です)。
 ドストエフスキーの小説でも、ロシア文学の「余計者」の系譜を引いているみたいですし。

 知る限りで一番ひどいのはデュマ。
(ペール、親父の方。わたしは岩窟王は三巻目で投げましたし、
 ちゃんと読んだのは三銃士の続編の「仮面の男」くらいですが)

 大学時代の授業で聞いたところでは、ゴーストライター使いまくりで、
 「小説製造工場」と呼ばれたそうな。
 しかも評論で他人の本を何行・何ページも丸々剽窃したりとか(そこまでやると流石にアウトだろう)。

 ぱっと思いつくのはこれくらいですが、探せばまだいくらでも出てくるはずです。
 
 つまりは、二番煎じで終わるか、さらに深化させて新境地を開けるかが天国と地獄の境目。
 「パクリ騒動」というのは要するに、大根役者へのブーイングの一変種。


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