第4研究室 創作に関するQ&A 581P | トップへ戻る |
マヤさんからの質問
 「小説」の国語授業の目的・必要性とは?

 こんにちは。いつもお世話になっております。
 質問なのですが、「現代文」の学校授業で「小説」を習うことに、どのような利点があるのでしょうか? 
 またその必要性というのはどのような点にあるのでしょうか、ということです。

 僕は現役高校生ですが、当然の如く授業で「小説」を習います。
 夏目漱石を授業でやったり、
 問題演習などでは三島由紀夫の小説を題材とした問題なんかも解いたりしました。
 僕自身、物書きの端くれとして、それなりに楽しく授業を受けたり問題を解いたりしてたんです。

 でも、疑問が湧いてきました。
 小説という分野を学問として問題演習に取り入れると
「この時の○○の気持ちを五十字以内で説明せよ」
 というような問題がさも当然のように出題されます。
 僕はこれが不思議で仕方がないんです。

 確かに表面上だけ見れば、登場人物の心情は何十字で説明できるだろうし、
 「喜び」「悲しみ」「悔しさ」という風に一般化も可能だと思います。
 
 でも小説の登場人物の心情を、問題出題者の思った通りに固定化するのは良いことなんでしょうか? 
 登場人物の心情を説明するという問題では、正解なんてものはないんじゃないかと思います。


 女の子に振られた男の子の心情を書けという問題があっても、
 男の子の心情は「悲しみ」かもしれないし「悔しさ」かもしれないし、
 はたまた恋心の苦しみから解放された「清々しさ」かもしれないわけです。
 そんな風に、読者一人一人それぞれ、
 登場人物の心情の読み取り方は違うんじゃないかと思うんですよ。

 それなのに国語の偉い方が決めたような形式的な「答え」を提示しちゃうのは、
 どうなんだと疑問に感じました。

 読者が「この時のこの登場人物はこんな気持ちだったんだろうなあ」と考えたら、
 それが答えでいいんじゃないかと思ったわけです。


 読者はそう考えたのに、問題の答えで「ここは~~という思いなんですよ」と答えが出されたら、
 創造性も独創性もあったもんじゃないと思うのです。
 十人十色の感じ方も小説の面白さの一つだと僕は解釈してるので……。
 そんな風に「小説」の楽しみを奪うような授業や問題に、
 果たしてどのような利点や必要性があるのかと疑問に思うのです。

 そういうわけで、「現代文」の授業で「小説」を習うということに対する
 皆さんの意見を聞かせていただきたいです。
 もちろん検索エンジンで探せば僕の疑問に対する参考は出ると思います。
 しかし僕はここで創作に励まれている皆さんの意見を聞いてみたいなと思い、
 質問させていただきました。
 偉そうなこと言ってすいません。

 ご意見お待ちしております。反対反論大歓迎です。


●答え●

やなぎさんからの意見
 マヤさんこんばんは。返信させていただきます。
 私も二、三年前までは高校生でしたし、小説の授業も受けました。
 当時の私は小説を書くことに全く興味がなかったので、ただ漫然と授業を受けていました。

 マヤさんの疑問について、何の本かは忘れましたが、答えていらっしゃる方がいました。

 その人曰わく、国語の小説問題というのは、
 著者の意図ではなく、出題者の意図を読み解くものなのだそうです。


 他人の意見を引き合いに出しただけで申し訳ありませんが、私はこの意見で納得できました。


ひとさんからの意見
 国語(現代文)のテストの問題は、登場人物の心情を想像して書け、というものではありません。
 登場人物の心情として作中に書かれている事を、見つけて書きなさい、というものになっています。
 だから、短い文でその心情が表現されている部分があれば、それをそのまま書くのが正解なのです。
 だから、回答欄も短いのです。

 おっしゃる通り、登場人物の本当の気持ちというのは、行間の中、つまり読者の心の中にあります。
 文章により読者が何を受け止めるかは、読者次第です。
 だから、そんな問題は国語のテストでは出題されていません(一般的には)。

 国語のテストでは、文章に書かれている事を、これは登場人物Aの心情で、こちらはBのものだ、
 というように、間違えず読み取る力が問われているのです。


 それだけ? と思われるかも知れませんが、それだけでも一般の学生には大変な苦労なのです。


スペクトラさんからの意見
 こんにちは。理系なので国語はセンター対策しかしませんでしたが、わたしなりの回答を。

 振られた主人公の心情は、「悲しみ」「悔しさ」「清々しさ」どれかわからないだろう、
 という意見がありましたね。
 
 でも、実際センター試験の中にそういう選択肢を含む問題があるときは、
 「本文のここにこういう描写があり、そこから『清々しさ』や『悔しさ』が読み取れることは絶対にない。
 答えは『悲しみ』だ」という仕組みになっています。

 
 それでも紛らわしい物があるので、センター国語は全科目中もっとも満点を取りにくいのですが。

 筆記試験は……自分より読解力のない採点官に当たると悲惨ですよね。
 わたしも中学時代、そういう時期がありました。

 わたしが思うに、教育課程の現代国語は論理学としての側面が強いように思います。
 採点して順列をつける必要上仕方のないことではありますが、
 芸術としての小説を理解する技術はどんどん切り捨てられています。

 「小説を面白く読んで、創造性や独創性を表現するテスト」ではありません。

 「複数の人物の観察記録を分析し、その記録に書かれていない部分を、
 他の場所から理論的に推測するテスト」だと割り切りましょう。
 「採点官と同じ推測にたどりつけば正解」です。

 くりかえします。現代国語とか小説問題とか名前に惑わされてはいけません。
 あれは論理学の一環です。


 思いのたけをぶつけたような文章になってしまいましたが、参考になれば。


黒羽 夜咫さんからの意見
 はじめまして! 黒羽 夜咫と申します。

 マヤさんの言う通り、小説の登場人物の正確な感情など著者にしか分からない事ですが、
 試験に求められているのはあくまで“一般的な解答の基準”だから仕方ないと思いますよ。

 しかも、解答に感情や許容範囲を入れるとその基準が曖昧になり、とある問題が発生します。
 それは丸つけを担当する人間による不公平です。


 例えば、入試を受けたCとDがいるとします。
 そして、彼らの答案を、機械的に全ての物事を決める担当Aと、
 想像力豊かで応用のきく担当Bが丸つけをするします。

 で、偶然担当Aの人に丸つけをされてしまったせいでCが大学に落ちて、
 たまたま担当Bに丸つけされたおかげで、Cと同じ解答をしていたにも関わらずDが合格したら、
 Cはどう思うでしょう?

 恐らくCは不公平に思うでしょうし、その事が原因でいちいち訴訟など起こされていては、
 大学側も大変になってきます。

 それを防ぐ為にあえて基準となる解答を決め、許容範囲を認めない事で
 より試験の丸つけをより楽な物にしているのではないでしょうか。


 あくまで学校で勉強する解答は実質的解答では無く、
 あくまで一般的な解答の例を求めているだけだと思います。

 だから、僕はテストの答案はしっかりと求められた解答を書いて、
 今度、自分がその小説を読む際にはどっぷりと感情移入すれば良いと思います。

(余談ですが、小説を書いているにも関わらず、本を読む機会が少ない僕は
 問題の小説で使われている表現や比喩、台詞回しを参考にしたりしてます)


ひすいさんからの意見
 万一、マヤさんのおっしゃるように「読者がこう思ったんだったら、それが答えでいい」
 としてしまった場合、人々の答えはこのうえなく無秩序なものになります。

 例えばマヤさんが挙げた告白して振られた男の感情の例を、
 「自分を振った女への怒り」だとか「振られたことによる絶望」だとか、極端になると
 「この男はマゾヒストかもしれないから振られて快感を覚えた」
 なんてとらえかたをする人が出てくるかもしれない。

 「独創性がある」のと「無秩序」なのは違います。
 小説を読むことには確かに読者の独創性も重要かもしれませんが、

 「書かれた文章から的確な情報を読み取り、それを昇華する能力」もまた必要なのです。
 その能力を鍛えるのが学校で習う国語なのですから、
 そういった一元的な答えを要求されるのは、ある種仕方のないことなのです。


 と、同時に、そういった問題が出題される背景には、
 小説が単なる娯楽のために存在しているわけではない、という側面があります。

 いまでこそ娯楽性の高いライトノベルや大衆小説が中心となった小説ですが、
 元々は娯楽性と同時に、文学性・学問性・芸術性も重要視されていました。
 娯楽性重視、つまりただ楽しんで読むだけ、というならば確かに
 十人いれば十通りの読み方がありますが、文学性や学問性を重視した読み方の場合、
 つまりその作品がどういったものを描いていて、なにを表現しようとしているのか、
 という読み方をした場合は、おのずと娯楽性重視の読み方よりも幅が狭くなるのです。

 学校で教える「読み方」というのはどちらかというと後者重視の読み方。
 だから多様な答えではなく、ある文章に書いてあることに基づいて、
 それがなにを表現しているのかということの普遍的な答えが求められるわけです。

 いずれにせよ、学校の国語の場合は、「こういうとらえかたをしても面白いかもしれない」ではなく、
 「この人物の性格やそのシーンの状況、その他諸々の要素からかんがえると、
 一般的にはこうなるだろう」というのが求められるのです。


文長さんからの意見
 普段の宿題程度ならともかく、センターや二次試験になると小説を楽しんでる余裕はないですね。
 段落ごとのキーワードやキーセンテンスを見つけ、言い換えの表現がないか探したり、
 感情表現にチェックしたり、対になる表現に印をつけたり、
 代名詞や指示語の指すものを明らかにしたり……。

 僕は高三の夏までフィーリングと推測だけで現代文を解いてたので、
 マーク式は引っ掛けの選択肢にしょっちゅうひっかかり、
 記述式になると惨憺たる点数になるという、ろくでもない有様でした。
 でも、フィーリングや推測を排除して作業的論理的に見るようになってからは点数も安定しました。

 物語を楽しもう! みたいなのはせいぜい小学校、あるいは中学校までの話だと思います。
 高校あるいは受験の現代文で問われたのは読解力でした。

 小説を楽しみたいなら勝手に読書しとけば? みたいな感じです。
 まぁ確かに、いつまでも感性を磨くだとか感動するだとか、
 そんな曖昧な目的だけで授業をするわけにもいかないでしょうし……。

 これは小説ではなく文字集合体によるパズルだ、とでも割り切った方が点数は取れると思います。


道化童子さんからの意見
 ふと、頭に某二病という言葉が頭に浮かびましたが、それはともかく。

 現代文で要求されているのは、「日本語を理解している」ことなのですよ。

 言語というものは、とある人の頭の中のものをエンコードして、別の人の頭の中にデコードするもので、
 そのエンコードとデコードが別の体系である場合、言語としての意味をなしえません。
 ですから、その共通デコードを学ぶ機会が現代文なのです。

 もちろん文章はコードとして完全ではないですし、非常に曖昧ではあります。
 ですから様々な陳述レトリックが存在しますし、それが面白いわけですが。
 それも共通理解あってこそなのですよ。
 共通理解による思いこみあってこそ成り立ちますよね。

 例えば書道の世界で、達人はそもそも基本から逸脱した文字を書いていますが、
 あれも基本というものがあってその上で崩しているわけです。
 そのベースというものは非常に重要という事ですね。


サッパーさんからの意見
 一言で表せば、それは『表面的な部分を読み取って、一般化しろ』という問題なんです。
 『表面に現れない部分を想像の翼を広げて補い、出題者を感動させろ』という問題ではありません。


 むしろ、そんな問題を出されたら学生にとってはより悲劇でしょう。

 「小説を小説として楽しむ」という事と、「小説に読解問題として向きあう」という事は、
 全く別の事だと考えた方が精神衛生的に良いと思います。

 読解問題の場合、必ず本文中にズバリの答えがあります。
 その「正答」が、原作者の意図した答えかどうか、読者の感じる答えかどうかは、
 問題を解く上では関係ありません。
 
 出題者の意図した答えが「正答」です。
 
 文系分野ですが、「数学的に解ける」ものです。
 逆に言えば、数式ではなく文章を「数学的に解く」ための授業と考えましょう。


 大学の文学部などで、小説本体や作者本人の研究を深くする段階になったら、
 確かに議論の分かれる「解釈」もあるかと思います。
 それこそ、小説本体とは関係の無い「作者の生い立ちや経歴」なども絡んできたりします。

 しかし、初等教育(=小学校)や中等教育(=中学、高校)までにおける「文章読解」というのは、
 高等教育(=大学)や実社会において、あらゆる文章に対して
(小説に限らず、企業の公的文書、学術論文、法律文書なども)

 「変な解釈(誤読)」をしないための能力を養う事なんです。

 例えば小説の本文中に「○○は××と思った」と書いてあれば、
(直接でなくても、そうとしか読み取れなければ)
 「○○の気持ち=××である」以外の答えはありません。

 読者(=解答者)が勝手に、「もしかしたら○○は△△と思ったかもしれない」とか
 「俺だったら○○の立場で□□と思うだろう」なんて想像を膨らませると、「誤読(不正解)」になります。

 だいたい、小説の一部分だけ切り取ってきて、
 「作者の主張」だとか「主人公の気持ち」の本当の所なんて、解る訳無いんです。
 最初から最後まで通しで全部読んで、何度も読み返しても、解らない事が往々にあるのですから。
 原作者ですら、自分の生み出した主人公の気持ちを百パーセント理解出来ているかどうか、
 怪しいものです。ですから、

 「気持ちの動きに正解は無い。十人十色の正解がある」というのは、その部分では正しいです。

 小説に限らず、生身の人間だって気持ちは揺らぐものですし、
 自分自身の今の気持ちだって完璧に理解している人は居ませんからね。

 ですが、問われてるのはそこじゃない。

 
 そういう「正しさ」を問われているのではないんです。
 「主人公がどう思ったか」について「正しい答え」を問われているのではなく、
 「主人公がどう思ったかについて問題文で問われている内容」に関して、
 「正しい答え」を問われているんです。

 ここを混同してはいけません。
 だから、その文章世界における神に等しい原作者が解いても、
 読解問題的には間違う可能性はあります。
 むしろ読者や出題者すら知らない情報を知っている原作者の方が、間違いやすいかもしれませんね。


 現代文で小説を題材にした読解問題が出るのは、
 「小説」という馴染みのある形態(しかし奥深く誤読を誘発しやすい)の文章から、
 いかに情報を正しく引き出し、書かれていない情報を勝手に補わないか。
 
 という、ある意味での「情報リテラシー」を試されています。

 そういう理論的思考を養う題材とするなら、学術論文とかの方が
 余計な感情が入り込まなくて良いかもしれませんが、中学や高校レベルで、
 専門の研究者が書いた学術論文を読解するのは無理とは言いませんが、敷居が高いでしょう。

 むしろ、小説という馴染みのある文章形式で「読解力」を養う事で、
 他人の書いた学術論文を正当に批評するための能力が身に付くとも言えます。


 それで、小説の楽しみを奪っていると言えばそうかもしれません。
(私も、読解問題はある意味で「楽」でしたが、機械的で「楽しく」はありませんでした)
 が、他に適当な纏まった現代文というのが無いですからね……。
 一般向けの教養的な新書とかから引っ張ってくるくらいでしょうか?

 ペンで身を立てるプロでなくても、社会生活を送る上で、こういう能力はある程度以上は必要です。
 当たり前ですが「小説を小説として楽しむ」ためにも、読解力は必要です。
 読解力が足りないせいで「企業約款」を「誤読」して詐欺にあうとか、
 そういう実害もありえるかもしれません。


 現代文のテストで問われるのは、「書かれていることを“過不足無く”読み取る」という事です。
 「想像力」や「表現力」を問われているのではなく、その前提となる「読解力」を問われているのです。


 「正しく文章を読み取る能力」がしっかりとあって、その先に「想像を広げる」余地があります。
 正しく文章を読まないのに読者が勝手に想像を広げたら、それは「妄想」でしかありません。

「作者が文章中に書いた事を読み落とす」
「作者が文章中に書いてもいない事を脳内で勝手に補う」

 どちらであれ、「文章読解」としては「駄目」なんです。


中行くんさんからの意見
 こんにちは。

 ちょー納得でした。意味ないですよねー「小説の授業」って。
 中途半端な場面を切り取って、作者の意図もあったもんじゃないですよね。
 伏線とかそっちのけだし、積み上げられたものも全部破棄。
 だいたい授業って名がつくだけでさえ、いろんなモノがつまんなくなる場合だってありますし。

 日本語実用講座だったら論説文とかだけで十分だと思います。
 将来的に日本語を運用する場合、小説のような長い『文芸文章』を運用することはまずないでしょうし。

 授業で小説を扱うならば、
 小説の凄さ、芸術性のわかる形にしなければまったく意味が無いと思います。
 小説なんてもともと実用的なものじゃないし、楽しむためのものですから。
 
 そして、少なくとも私の受けてきた授業、テストは読書の楽しみを削ぐものでした。
 
 だって、書いてあることだけしか答えに書けないんですから。
 それは字面だけを受け取って、想像力を使わずに、浅く解釈しろってことにほかなりません。

 時間制限を設けてのシステマティックな「作業」に「小説」を使うことで、
 なんの意味があるのかは甚だ不明です。

 小中学生だったら、家庭によっては読書の習慣がつかないので
 小説に触れる機会を作るのに役に立つのかもしれませんが、
(それでも、「要約せよ」みたいな問題は要らないと思います。小説を読むことを作業にしてほしくない)
 高校生になったらもういいんじゃないかという気がします。

 高校生で、例えばシナリオライターや小説家を目指そうとする人間がいたとしても、
 「高校の現代文の授業がきっかけです」って人は限り無く少なそうですし。

 「五十字以内で説明せよ」という問題を解くことは必要だと思います。
 しかし、その媒体に小説を使うことは私はマジで反対したいです。

 小説を授業で扱うことは悪いとは思いません。
 しかし、もっと自由に小説を扱うすべを習わせるべきだと思います。
 
 教育は「教えやすい」方法で教えるのではなく、「知るべきこと」を教えなければなりません。
 小説に関しては少なくとも「システマティックに処理すること」が、「知るべきこと」ではないはずです。
 「システマティックに処理すること」が、教えやすいだけです。
 そんなことに(「そんなこと」といっても大切な能力ではありますが)小説を使う必要はないんです。

 ということで、私の非常に偏った意見としましては
 『答えの定まった選択肢の問題に、小説を使うのはマジで意味なし』でした。

 それでは、乱文失礼しました。


いまでもろむさんからの意見
 現国では、ただの読解能力を問われているから、
 答えは判で押したように一通りにしかできないのでしょう。
 
 限られた文章から答えを導き出すだけの、個性を求めながら無個性を要求する、
 日本の教育の典型です。

 また、小説を読ませているのではなく、文章を読ませているのです。そこはお間違いなきよう。

 小説とはどのようにも解釈できるし、場面毎の登場人物の気持ちも、受け取り手によって様々でしょう。
 しかし、切り取られた文章である以上、そこには何のバックグラウンドもなければ、
 未来も求められていないわけです。
 
 文章を切り取るという行為そのものが、
 出題者のルールの下で読解をさせるという考えを示しているのですよ。


 どの作者かは忘れましたが、現国の問題で取り上げられた小説の作者が、
 その場面での登場人物の気持ちを尋ねられたところ、忘れてしまった、
 (締め切りで忙しかった、だったかもしれません)という逸話を聞いたことがあります。

 作者が設問を作るのではない以上、所詮はそんなものです。割り切った方がいいでしょうね。


マヤさんからの返信(質問者)
 皆さんご意見ありがとうございました。
 どの意見も納得するものばかりでしたが、もう少し疑問に思うことはありまして。

「もの書きとしての観点を排除する」
「基準的な解答がなければそれはただの妄想・無秩序」
「基本・ベースあっての独創性」


 つまり授業でする内容は主に
 「感動すること」「感性・感覚を育て上げること」という娯楽的な点に重点は置いておらず、
 どちらかといえば学問的、または社会に出る上で重要となってくる「読解力」「情報選択」の方が
 大事であると皆さんはおっしゃっています。これは僕も納得できます。

 作者の意図を汲み取っている汲み取っていないに関わらず、
 結局出題者が求めているのは普遍的で一般的な解答例。
 そこに自分の想像を介入させる余地などないということもわかります。

 自分が問題を解いていて「こいつはこう思ったんじゃないかなあ」と考えたとしても、
 やはり求めれるのは出題者の答え。
 出題者が何を問うているのか、文章は何を表現しているのかというのを読み解くことを
 教育としては重視していると。それらにはおおむね賛成いたしますし、
 やはり余計な物は考えず作業的に授業や問題に取り組む方が良いとも思いました。

 しかしそうなると、やっぱり「小説」の授業というものは
 一体なぜ必要なのかということに行き着きます。

 正直、読解力だけなら評論文でも十分培えますし、
 むしろ著者の意思を汲み取ることができるのはそちらです。
 小説は、読者の入り込む余地があり過ぎだと思います。


 出題者が「想像・妄想」をさせずに一般的な基準としての解答を僕ら学生に問うというのであれば、
 前者の方が最初からその余地が小説よりは少ないわけなので適していると思います。

 もちろん皆さんのおっしゃっているように、小説の問題では上手い例えを引用させていただくと
 「情報リテラシー」という面もありますよね。
 最初から想像の余地がある小説だからこそ正しい部分を読み取る力が身に付く。
 出題者は、「こういう答えに行き着いてほしい」のではなく「こういう答えになったら駄目」というのを
 ある意味で差別していると考えることができないでしょうか。

 出題者が求めている答えがある。
 その答えはその文章の中の情報を選び抜いた「一般的で基準となる答え」です。
 でも、読者が「こうなんじゃないか」と思ったという事実があったとするならば、
 そのこうじゃないかと考えた答えは間違いになってしまいます。
 出題者の考える答えとはまた別のものなので。

 でも確かにこうだと考え付いた答えが、間違いになってしまうような小説の問題や授業が
 果たして良いか悪いかということに僕は疑問を感じます。
 それが例え普遍的ではなく、どんなにぶっ飛んだ考えでも、
 それはその人の正解になりうるわけですから。

 もちろん皆さんの意見と食い違っても当然です。
 その問題の中では出題者の意図するものが答えだから、
 もう余計な物は省いて作業的になり割り切って答えろ。
 そうすることは確かに可能だし、僕の言っていることはもはやただの屁理屈です。

 ただ僕は、別に小説の問題が意味不明で難しいとか要らないんじゃないの? 
 という意味で問うているわけではありません。
 ただ理論的には要らないんじゃないかという点に達したという意味です。

 自分で書いてて破天荒になりましたが、ご意見待ってます。


ひすいさんからの意見
 実際に小説と評論の問題の問い方を見ればわかりますけど、
 小説と評論とでは問われていることが違います。

 評論では文章全体、あるいは部分部分で著者が何を訴えているのかということと、
 著者の主張の展開の仕方に重きが置かれた問題がほとんどですが、
 小説ではそのシーンで登場人物がなにを考えているのか、
 ということや個々の表現について問う問題が多い。

 シーンの状況や、作者の描き方から登場人物の心情を読み取るというのは、
 評論ではまずできないことです。

 
 また表現も、評論と小説では違う部分が少なくない。
 つまるところ、小説と評論では「読み方」も違うのです。
 ただ私たちはその両方を読むのに慣れているから違うことに気づいていないだけ。
 
 両方の読み方を習得するために、評論と小説両方を授業でやるわけです。

 ついでにいうと、その人ごとのとらえかたが出題者と違うから間違い、なんてことは当然ありません。
 ただし、たとえば絵画だって描くためにはそれなりの「基本」を身につけねばならない。
 
 小説を書く場合だってそうですよね。
 文法や小説作法といった、書くための基本は身につけなければ、
 どんな独創的な作品を作ってもそう簡単には認められない。
 読むことにおいてもそれは同じで、読むための基本、
 つまり普遍的な答えをしっかり導きだせるようになってから
 「こういうとらえかたもできるかもしれない」と考えるのはいいけれど、
 
 基本もできていないのに自由な読み方をする、というのは、単に無秩序なだけ、というわけです。


mayaさんからの意見
 はじめまして、maya(PN:マヤイチロ)と申します。

 わたしはすでにラ研から引退しており、今ではたまに企画に参加する程度のユーザーなのですが、
 同じ名前の方を見かけて、何だかいてもたってもいられなくなってw、
 こうして、スレッドに参加させていただきました。よろしくお願いします。

 さて、まずはマヤさんの「どのような利点があるのか」という最初のお問い合わせですが、
 これについては高等学校の新学習指導要領の第1節「国語」の第4「現代文」の「1 目標」にて
 きちんと書かれています――

 「近代以降の様々な文章を読む能力を高めるとともに、ものの見方、感じ方、考え方を深め、
 進んで表現し読書することによって人生を豊かにする」
とのこと。

 何だか、これだけだと身も蓋もないので付け足すとw、すでに皆さんからのご指摘も出ていますが、

 要は、文章読解力、表現力といったものが「現代文」において主眼に置かれている訳です。

 やなぎさんの「出題者の意図を読み解く能力」であったり、
 スペクトラさんの「論理学としての側面」であったりと、いわば、
 
 「出題された文章の中から、いかに合理的に最適な解答を示すことができるか」

 といったものが重要となってきます。
 それについてはどうやら、マヤさんも納得なさったようですね。

 もちろん、そうやって示される解答がマヤさんの言うとおり、
 「国語のエラい方が決めた形式的な答え」のように見えてしまうケースも多々あります。

 
 実際に、平成11年のセンター試験の問題(山田詠美さんの小説『ぼくは勉強ができない』)で、
 著者の山田さんがラジオにて「選択肢の中に正解がなかった」と発言をして、
 物議を醸したケースもあります。
(それ以降、センター試験ではしばらくの間、なるべく亡くなった作家の作品を取り上げるようにした方が
 いいのではないか、と文科省で議論がなされたというのは有名なエピソードです)。

 とはいえ、たしかに形式的であったり、適当ではなかったりといった解答もあるものの、
 「現代文」がきちんと指導要領どおりに目標を達成しているのかといった点については、
 あくまでもわたしの経験論から言いますと、ベストではないがベターぐらいにはできているんじゃないか
 と思います。少なくとも、わたしはずいぶんとそれらの能力を伸ばすことができました。


 次に、マヤさんのもうひとつの質問に移りましょう。
 たしかに、マヤさんの言うとおり、小説の楽しみ方や読み方は多様であっていいという主張は
 当然のことだと思います。ただし、先述のとおり、
 
 「現代文」はあくまでも合理的な解答を出すための読解力や表現力を養うものであり、
 評論文にしろ、小説にしろ、出題される文章はそのための単なるテクストでしかありません。


 となると、逆に、わたしはマヤさんにお聞きしたいのです。
 小説をやめるならば、他にいったい何を取り上げればいいのでしょうか? 
 どんなテクストがベストなのでしょうか?
 ――果たして評論だけやっていればいいのでしょうか? 
 申し訳ないのですが、それははなから愚問です。

 というのも、上記の指導要領にもあるとおり、わたしたちは
 「近代以降の様々な文章」を読み解く必要があるからです。


 では、作家の書いた小説ではなく、出題者の日常を逐一ツイッターなどでつぶやき、
 それをまとめブログにでも載せたものを出せばいいのでしょうか? 
 一見すると、これはマヤさんの求めるものと合致します。
 実際に、これなら「作者(=出題者)は何を考えたか」
 といった設問に様々な解釈と解答の余地を残さないでしょう。

 しかしながら、これでは単なるど素人のへたっぴな私小説みたいなものです。
 いくらわたしだって、そんなもの出されたら登校拒否しますw
  というか、この国に見切りをつけて、海外で教育を受けます。
(余談ですが、海外の母国語教育でも、
 小説を読んで作者の意図やキャラクターの心象を読み解く授業は行われています)

 そこで、そろそろ、マヤさんも、とある事実に思い至るのではないでしょうか。
 そうです、マヤさんがスレッドでも仰っているとおり――、
 小説の持っている人間描写の豊かさとストーリーの面白さや深さについてです。

 なるほど、小説の持つ豊穣さをつまらない設問とひとつの答えに集約してしまうやり方は
 無粋に感じますし、わたしも学生の頃はよく斜に構えて「けっ」と唾を吐きました。
 それでも、本当に大切なことは――

 読解力などを養うため、十分に判読と鑑賞に値するテクストとして、
 人間が産み出してきた文化の中で最良のものは小説だ、という事実なのです。


 そして、その小説の読解によって、わたしも含め、少なくない学生が
 これまでに学力を得てきたことを考えるならば、
 現代文の授業で小説を習う利点も、必要性もあるのではないかと思います。

 ちなみに、マヤさんはまだ高校生とのこと。
 実は、小学生の頃は主に思ったことを感想文などで自由に述べ、
 中学、高校としだいに合理的な読解力と適切な表現力を養い、
 大学からは、今度はテクストの様々な解釈で議論してぶつかり合います。
(これを批評、または解釈主義といいます)

 こういう言い方は慰め程度にしかならないかもしれませんが、
 所詮は、高校で学ぶ程度のものは基本でしかなく、最低限のものだったりします。


 納得できないことも多々あるかもしれませんが、こと小説に限っていえば、
 大学に入ってからの方が楽しいですよ。
 ただし、マヤさんが文学と哲学に興味を持てばといったところですが......


 最後に、皆さんのレスの中でたまに出てくる参考資料についてですが、
 おそらく、清水義範さんの『国語入試必勝法』や『はじめての国語』(いずれも講談社文庫)
 ではないでしょうか。国語教育における上記の問題などを取り上げています。

 参考になりましたら幸いですorz


文長さんからの意見
> 結局出題者が求めているのは普遍的で一般的な解答例。
 そこに自分の想像を介入させる余地などないということもわかります。


 センターはともかく、普段の授業や二次試験では自分の想像を介入させる余地などない、
 とは思わないですけど。
 読解した内容や要旨に従って論述するのも、それはそれで相当な想像力が必要ですし。

 大切な事実として、
 読解した結果の解釈が作者の意図、ひいては出題者の意図にそぐわない場合もありますが、
 純粋に楽しんで読んだ結果の解釈が作者や出題者の意図にそぐわない場合は、
 恐らくそれ以上に多いでしょう。
 木を見て森を見ないのも、森を見て木を見ないのも良し悪しあります。

 僕はなまじ創作が趣味だったために自分の感性や解釈を信じ込みすぎていました。
 それも『本文に即した読解』なんかせず、「自分がこの場面を書くとしたらこんな意図を込めるだろう」
 とかそんな手前勝手な根拠で解いてました;

 先生から「想像しすぎ」「余計なこと書きすぎ」と何度注意されても直そうとしませんでした。
 やがて痛い目を見てそのくせを直してから昔の答案を見ると……
 自分でも「これはないわw」って思えるほどの非論理的な文章が踊っていました。
 
 読書にしろ執筆にしろ、単に楽しんでるだけじゃ何の力もつきません。そのことを痛感しました。


> やっぱり「小説」の授業というものは一体なぜ必要なのかということに行き着きます。

 これはひすいさんに同じくです。評論と小説では問われているものが明らかに違います。
 小説の方は扱うのが抽象的な感情だったりテーマだったりするので、
 若干フィーリングや妄想が通じます。


>自分が問題を解いていて「こいつはこう思ったんじゃないかなあ」と考えたとしても、
 やはり求めれるのは出題者の答え。


 それが思想統制のようなことになるのも、きちんと読解した上での話でしょう。
 やはり題文しか提示されてないし、題文から答えが導けるように出題されているのですから、
 
 題文に触れられてすらいない突飛な解釈に基づく回答や、
 内容にそぐわない思い込みを持ち込んだ回答をすればペケされるに決まってます。


 題文には何が書いてあるのか、それを“できる限り”正しく読み取った上で
 「つまりこういうことではないか?」と想像する。
 論理的に正しいかどうかが問われているだけで、
 別に回答の差別が行われている、とは僕は思いません。


寒の入りさんからの意見
 簡単に言うと、論説文の授業は論理的な展開を学ぶことを目的にします。

 演繹法、帰納法、起承転結、対立するものの比較、例示と分析、類似するものの相違点の発見、
 などに代表される論理展開のテクニックをいかに論者が使っているかを見抜き、分析し、
 それを自分も使えるようになる、つまり論理的文章を読解したり書いたりできるようになることが、
 論説文の学習のねらいです。

 これに対して、小説は書かれていることから書かれていないことを推理する能力、
 いわゆる「行間を読む」力を養うことがことが大きなねらいです。

 ちょっと例がいい加減ですが、例えば、
 「彼女にだまされたことを知って、彼は怒った」とあるが、
 次に「彼女をそのことで責めなかった」とあり、
 「謝る彼女に首を振り、むしろ彼女を励ましさえした」と書かれているから、
 「彼は彼女を許すことにしたのだ」と推理するわけです   

 これは論説文では学習できません。
 論説文というのは、上に書いた通り、論理的に内容を読み取るものです。
 ですから、数学の証明の一部を省略してあっても分かるように、
 論理的に欠けている部分を補うことはできます。でも、
「ここにこう書いてあって、ここにこう書いてあるから、この時この人物はこういう気持ちだったのだ」
 と想像することはできません。

 そもそも、「彼は彼女を許すことにしたのだろう」という判断は論理的な結論ですか。

 確かに、彼の行動は怒っていない人の行動ではあります。
 でも、許しているとまで言えるのは、彼の行動や言葉を同じ人間として理解し、
 その気持ちを想像したからですよね。

 こういう判断を論理的とは言わないと思います。
 こういった解釈こそ、コンピューターなどの機械には難しく、人間だからできることではないですか。

 例えば、「罪を自覚した相手に謝られたら許すべきだ。なぜならそうでないと和解はできないから」とか
 「許してはならない、それはさっきの怒りと矛盾する」などという思考で人の心情が理解できますか。

 小説の理解が人によって深い浅いがあったり判断が分かれたりするのは、
 人間とはどういうものか、人の心とはどうなっているのか、といったことに関する知識や経験と、
 想像力の豊かさで、登場人物の心情にどれだけ迫れるかが違うからです。

 人の心情の理解は、数学や論理学のように
「彼をA、彼女をBとおき、公式αに当てはめると、彼の心情X=○○になります」
 などと機械的には処理できないのです。


 論説文はかなり論理学の記号で処理できると思いますので、是非やってみて下さい。

 一方で、この時、「いや、こんなことを人が簡単に許せるはずがない。
 だって、俺なら絶対許せないから。
 だから彼は後で復讐するつもりで彼女を油断させようとしたのだ」などと勝手な解釈をすると、
「あなたは作者ではないのだから話を自分の好みに合わせてねじ曲げてはだめです!」
 と言われることになります。

 読者は、まず、はっきり言葉では書かれていない「彼が許すことにしたこと」を、
 文中に書かれている事実から読み取らなくてはいけません。


 それができて初めて、「では、なぜ彼はそうしたのか」「それは正しかったのか」「私ならどうするか」
 などの問いを立てることができるのです。

 彼は彼女を許したという事実を読み取った後なら、
「俺は許さない方がよかったと思う」
「彼の心の広さには感動した。私もそういう人になりたい」
「僕には許すなんて想像できなくてとても意外だったけれど、こういう考え方もあるのだと思った」
「私は彼の行動から、自分の生き方を見つめ直してみようと思った」
 などと考えることは読者の権利であり、何を感じようとどう評価しようと自由なわけです。

 つまり、小説の授業の大部分は、
 感想や批評を語り合う前提となる小説の筋や内容を読み取る力を養うためにあるのです。


 小説を読んで自由な感想を持つのはその後です。
 恐らく、そういう授業もやっているはずですよ。
 受験対策の授業ではやらないかも知れませんが、必修の国語の授業などで、
 最後に読み取った内容を下地にして討論したり、読んだ感想を発表し合ったりしていませんか。
 そういう部分では自分の考えを積極的に述べても大丈夫なはずです。

 ちなみに、このように作者の考えに自分の考えを持つことは論説文でもできます。
 その意味では、小説とも共通していますが、そこで考察される問題には違いがありそうですね。

 それと、これは質問とは若干ずれますが、語彙の問題があります。
 小説で使われる語彙と論説文で使われる語彙は結構違いますので、
 文章を読むことで新しい言葉に出会ってその使用法を身に着けていくということを考えると、
 様々な種類の文章を読むことが大切です。
 言葉は論理的記述にも叙情的記述にも使われますから、小説に触れることは重要だと思いませんか。


 それに、作者として考えると、小説作品をきちんと読み取ったり、
 様々な小説に対する他の人の感想や考え方を知ったりすることは、
 自分の考えの幅を広げる役に立ちます。

 結局、どんな授業であっても、それを自分の実力アップにつなげた人が勝ちなのです。


ひとさんからの意見
> やっぱり「小説」の授業というものは一体なぜ必要なのかということに行き着きます。

 これは、テスト対策という観点でしか授業を見ていない結果、行き着いた疑問ではないかと思います。
 テストで計れることというのには、限界があります。
 でも、授業でやる事のすべてが、テストのためにあるのではありません。

 
テストを受ける以前に、あなたは、現代文の授業で、何作の小説を読みましたか?

 現代文の授業で、「小説」を扱う目的は、「小説を読む」という行為そのものです。
 授業でその小説を読んでいき、物語の深みについて考察していく過程が、目的なのです。

 
 なぜ著名な文学作品を現代文で扱っているのかと言えば、「その本を読んだ経験がある」ことが、
 日本人としての文化の認識、継承、そしてさらなる名作への関心において、
 有意義であると考えられている為です。

 テストで答えられることが、その授業で得たことのすべてではないはずです。
 テストでは、授業で学んだことのうちの一部である、文章から読み取れるものが何かを
 正しく読み取る力を問うているにすぎないのです。

 もちろん、学校によっては受験対策こそが大事であるという学校もないとは言えません。
 そういった学校にいれば、そのような疑問も大きくなるかも知れません。
 
 しかし、授業の目的はテストではありません。授業そのものなのです。
 そう考えてみてはいかがでしょう。



ひすいさんからの意見
 まず、国語教育において読解力を高めることは、
 なにも単に小説から普遍的な答えを導き出すためだけに必要だというわけではありません。

 書かれてある文章から必要な情報を正しく広い出し、整理し、昇華する能力を養うことで、
 社会に出てからの活動や、コミュニケーションの能力を育むのに役立つと、
 少なくとも世間一般では考えられています。


 そしてそれは、無意識であるがために一見あまり関係のないように見えても、
 実際には少なからず役立っているのでしょう。

 前回のレスで私が挙げた例はいささか不的確なものであったかもしれませんが、
 学校国語教育において小説(無論、評論もですが)を読むことは、
 様々な観点から見ると必要なことなのです。

 そして、学校教育において、「普遍」に合わない答えを疎外するのは、ある種当然のことです。

 というのも、もし多様な答えを認めた場合、あるいは認めるとまではいかないまでも
 「それも答えのひとつではある」などと曖昧な対応をしていた場合、
 なかなか基本とすべき読み方が身につかない者が出てくるかもしれない、という懸念があるためです。

 「普遍的な答え方」を知らないからこそ、一定のルールを設けて多少強引にでも
 そのルールにそぐわないものを矯正していかねばなりません。


 元々学校という機関、殊に中学・高校までは、
 「社会」という場に適応して、生きていく力を身につけさせる場です。
 
 「社会」で生きていくためには「基本」は必要不可欠です。

 また大学へ行って専門的に学ぶ場合でも、その基本を身につけてなければお話になりません。
 ですからたとえそのために独創性、創造性が多少制限されたとしても、
 「基本」が優先されるわけです。

 その意味では、真の独創性、創造性というものは、
 そんな制限内でも潰されることなく育まれた力、といえるかもしれません。


なしさんからの意見
 貴方の言うことは間違ってはいない。
 貴方の感情を大事にしていい。そして、読み手の感情を尊重する。それは大事なことです。
 一番いいのは

「以下の文章を読み、『貴方は』どの部分が印象深かったか。
 また、『貴方は』どのような理由から印象深いと感じたか。
 できる限り具体的な、自分が経験した事例を交えて説明せよ」

 という問いなのでしょうが、そこまで出来ない先生側の事情も汲んであげてくださいまし。

 個々人の考えなんて知りたくなくなるほど、採点するのってメンドクサイのです。
 答案100枚みて一個一個「あぁこういう考え方もあるのだろうな」と解釈してたら、
 たぶん半月は飛びますよ。



雷さんからの意見
 こんにちは、雷です。
 遅ればせながら、意見などを。

 しかし、まあきれいに堂々巡りしていますね。

> 「現代文」の授業で「小説」を学校の授業で習うことにどのような利点があるのでしょうか?

 単純に小説の面白さを伝え、生徒が自発的に小説を読むきっかけをつくるためです。

 ただし大・前・提として、個々人が小説を自由に読んで感想を持ち感性を磨くための授業と、
 記述内容から的確な解答を導き出すための授業と、2種類の授業があることを覚えておいてください。
 そしてこれは、授業を受けている生徒の側も、おそらく授業で教える教師の側も、
 どちらも明確な線引きができていない、あるいは線引きするのが難しい部分です。

 マヤさんが抱えている悩みは、きっと学生時代を送った人が誰しも抱えてきた悩みです。
 僕もそうでした。

 さて、小説の読解問題で導き出す解答は「一般的」とか「普遍的」とか「基本的」と言えますが、
 もっと大袈裟に言うと、その他にありえない、考えられない「唯一無二」な解答なんですよね。

 こう言っても、マヤさんは「いや、個人の考えを軽視してはいけない」と反論されるでしょう。

 それは解答者――読み手の思考です。

 そこで発想を変えます。
 僕たちは書き手――つまり問題の作成者だ、と考えてください。


 小説の読解問題は、文章の記述の内容から得られる情報を取捨選択し、
 抜き出したキーワードを組み合わせることで解答を得ます。
 そこに主観的な想像や先入観は不要、むしろ邪魔です。
 そういう問題の作り方をしているのですから。

 これは、他の方々もくりかえしおっしゃっていることです。

 そしてそれは逆に言うと、小説の作者は、特定のキーワードを文中に入れることで、
 読者に的確なイメージを抱かせることができる、ということになりませんか。


 たとえば僕たち書き手は、小説で男の子が女の子に振られた場面を描くとき、
 そのときの男の子の心情が「悲しい」のか「悔しい」のか「清々しい」のか、
 直接的に、あるいは間接的に書き示しているはずです。

 作者のイメージを、作者が抱く唯一無二のイメージを読者に正確に伝えるためです。

 小説という文章媒体を通して、作者と読者はコミュニケーションをとっています。
 そして、ひとつのイメージを共有するために、作者は苦心して文章を書きます。
 それでも読者の想像や先入観で、作者のメッセージが捻じ曲げられることは少なくありません。

 人によっては、読者が想像する余地を残したり、行間を重視する書き方をしますし、
 僕も同じようなことをすることがあります。
 でも根本は、作者のイメージを読者により正確に伝えるためのキーワードを
 文章全体に散りばめることのはずです。

 作者がキーワードを書き示し、読者がキーワードを読み取る。

 そういう作者と読者のコミュニケーションのあり方、より正確なイメージの伝達、
 読者の先入観を排除し、作者の世界観にどっぷりと浸からせる方法論……。
 それらを学ぶ――教えてもらうのではなく、学ぶという意味では、
 小説を学校の授業で習うのには、意義があると思います。


 生意気なことを申し上げました。
 少しでも参考にしてもらえれば幸いです。


ひより。さんからの意見
 確かに本当の意味で小説を読むのなら、十人十色で答えのないものであるべきだと僕も思います。
 ただ、学校の教育は上辺ができればいいとする、
 ある種の『篩(ふるい)』のような面を持ち合わせているのが現状です。

 それが表れているのが、問題の最初に書いてある
 「この文章を読んで以下の問いに答えなさい」という一文です。

 これは「この文章の中に答えが書いてありますよ」という意味で、さらに穿てば、
 「この文章外に書いてあることは答えとして認めません」という出題者側の意図が入っています。
 「答えを勝手に作りだしちゃいけないよ」と言ってるんですね。
 それは十人十色の答えを認めると一つのものさしで測れなくなるので、
 きちんとものさしで測れるように限定しているわけです。

 さらに付け加えるなら、出題者側から見ればただぼんやり漠然と答えが分かってしまったら困ります。
 なので、曖昧に『こんな感じ』で答えられないよう、きちんと文章中に書いてあって
 『AだからB』というロジックで答えをつくるわけです。
(これは国語というものが『読書』の本当の意味から離れてしまっている
 と言ってしまっていいかと思います。これでは考える力なんてつきませんしね)

 国語ができることと、小説が読めることには異なる能力が必要になります。
 小説が好きで、深く読めてしまう人にはそこがハンデになってしまう場合もあるようです。
(ていうか気になって不利ですよね)

 そこを割り切れるなら楽なのですが、難しいのなら『大学にいくため』や『問題を解くのが好きなんだ』
 などの別のモチベーションを見つけ出さないといけないかもしれませんね。


マギウス あひるさんからの意見
 国語大好き、あひるです。
 ノートには落書きしまくりでも、安定して高得点を取れていたので、苦手意識は全くありませんでした。

 私の中で、「国語」という授業は、新しい漢字を習う「書き取り」の部分と、
 慣用句や表現を学ぶ「読み取り」の部分に別れています。

 「書き取り」を最後にしたのって、確か小学生の頃でしたかね。
 あれは、「他者に読める字を書く勉強」だと思っていました。
 私が小学生の頃には、まだパソコンなんぞ出ておらず、
 手書きの綺麗さが重要だったので、必然の授業ですね。
 
 対して「読み取り」は、質問者や作者の意図を読むことも大切なのですが、
 自分の考えを伝えたり、語句を正しく使うことに重きを置いています。


【考えを伝える】
 「この時の○○の気持ちを50字以内で説明せよ」と、
 「短編は400字詰め原稿用紙で××~××枚、長編は△△~△△枚で書かれているものに限る」は、
 突き詰めれば「限られた分量で、考えを表現しなさい」と同じことを要求されています。
 社会に出ると、いかに時間を有効利用するかに迫られます。
 自分の考えを短く正しく(簡潔に)伝えられなければ、自分や相手の時間を無駄に使うことだけでなく、
 行き違いや過不足が生まれ、それが損害となります。

【読解力を養う】
 今は分からないかも知れませんが、お客様(クライアント)や上司の意図を正しく、
 過不足なく読み取ることは、社会で生活していく上では必要不可欠な能力です。
 それらを養っていくのも、「国語」の授業なのです。

【正しい語句の使用】
 社会には、我々の先輩方がたくさんいらっしゃいます。
 その方々とよい関係を保つのに、「言葉を正しく使う」ことも重要となります。
 「日本語を正しく使えない」だけで、
 「馬鹿」とか「育ちが悪い」とか「親の顔が見たい」と思われるのって、どうでしょう?
 損ですよねー。
 「日本語を正しく使える」と、結構年配の上司から可愛がられます。
 多少仕事ができなくても、気にかけてくれます。マジで。

 でも、辞書をいちいち開く習慣がある方は少ないですし、習慣になってても、
 辞書の例だけではよく分からないことが多々あります。
 だから、手軽に正しく語句を学ぶ方法として、「小説」が採用されているのだと思います。

 「国語」はその名の通り、「国の言語を学ぶ」授業であり、「小説を楽しむ」授業ではありません。
 「国の言語を学ぶ」のは、「円滑な人間関係を築くこと」、
 つまり教育から離れて社会で生活していくのに必要不可欠だから。

 
 そこに楽しみを見出だせなくても、避けて通るよりは有利になります。
 「楽しむ」前の段階で必要なことを学ぶ授業なのですから、有利な面しかないと思いますよー。


mograさんからの意見
 すでにたくさんの方が御回答されており、いまさらですが、少しでもご参考になれば幸いです。

 既出の意見かもしれませんが、一般教養的知識としての小説、なんだと思います。
 夏目漱石や三島由紀夫あたりは、文学として、かなり研究されてます。
 だから、そういう有名な作品なら、
 人物の心情の一般的な解釈、常識的な解釈、というものが、すでに存在している。

 そういう解釈を『知識』として習う、というくらいの意義は、あるんじゃないでしょうか。

 小説家志望として、学校の教材小説を役立てるなら、
 設問の答えから、逆算して、
 『一般多数の人は、この表現、この構成から、こういう答えを読み取る』
 という知識を蓄えていけば、ご自身の創作に活かせるのではないでしょうか。

 高校くらいの教科書だと、大体、明治大正昭和の有名作家が多くて
(著作権の問題もあるのだと思いますが)
 数年前のベストセラーが載ることは少ない……ですよね?
(実際、載ってたらすみません)

 あと、これは非常に個人的な偏見で、今回のご質問とは関係ないかもですが、
 高校のテキストに、そういう文学作品が載るのは、

 ひとつは、そういう高名、有名な文学作品でも読ませときゃ、ちっとは足しになるだろう、的打算と、
 もうひとつ、大学の先生が、入試にそういう小説問題を出しちゃうからじゃないかなぁ……と思います。

 大学の入試問題って、あたりまえだけど、大学の先生が作ってます。

 で。
 多分、最初に入試問題作った先生って、高校で何習ってるかなんて、
 いちいち気にしなかったと思うんですよ。
 『オレんとこ来るんなら、これくらいは知っとけや』的に、
 自分の周りにあった文学作品から、適当に問題作った。

 なにしろ、文学部のセンセイ様です。
 文学作品の研究にメシすらおしんで没頭されてるオタ……研究者です。
 人物の心情くらい、尋ねちゃったんじゃないですかね、入試で。

 で、それを『いいね』と思った周りの先生もずーっと真似して、
 大学に入るための勉強をずーっとやってる高校としては、
 大学入試側にあわせて授業しなきゃならんわけで……
 結果として、教科書に夏目漱石やらがぶつ切りに載せられて、
 心情をピンポイントで理解しなきゃいけなくなったのでは……と。

 ええと、阿呆な憶測ですみません(汗

 そもそも、小説を『習う』っていうのが、どだい無理な話で。
 だって、小説って『読む』ものじゃないですか。

 なので、高校の教材小説は、ですから、人物の心情だのは、あくまで、
 『多くの人は、こういう風に解釈してるんですよ~』という
 やっぱり、教養、なんだと思います。

 ラノベ作家目指すなら、×××(お好きな作家さんをおいれください)くらい読んどけよ 的レベルでの、

 日本人なら夏目漱石くらい読んどけよ 的な、教科書掲載なんだと思います。

 変な回答になってしまって申し訳ありません。
 少しでも、ご参考いただければ幸いです。


蒼い狐さんからの意見
 大混雑していますね。そこへ入り込んで行く失礼をお許しください。
 一通りみなさんの意見を読みました。
 納得いくけどますます混乱するマヤさんの気持ち、ようく分かります。そのうえで意見いたします。

 私は国語の授業は、ご指摘の問題だけで点数を取っていた者です。
 漢字や作者名の暗記とか捨ててました。
 しかしそんな私も、いつも○をもらっていたわけではありません。
 半分くらいは△でした。

 それはマヤさんと同じことを、担当の先生が考えていらしたからではないでしょうか。
 場の空気を読むのと同じように、文からはまず絶対に伝わることがあります。
 失恋しているとか、泣いているとかです。それを踏まえたうえで、さらにどう解釈するか。
 それがマヤさんが考える個性の事だと思います。

 それを大事にすべきだと言うのは、正しいと思う。

 これは日本の教育の問題点そのものであると思います。
 今の日本教育では、受験で合格できるようにと組まれているのが現状です。
 だから模範解答を書けることが褒められる。

 しかし知って欲しいのですが、フィンランドという国の教育は、まったくちがいます。

 フィンランドは常に世界の学力トップレベルにいる国です。
 その国でのテストは、作文です。
 テスト範囲のなかで、あることについての自分の意見を述べることが求められます。

 そこには模範解答は無く、人は想像力を鍛えられます。

 さらに知って欲しいのは、「日本人の背中」という本で読み知ったものですが、
 世界大学ランキングでも常に一位を競うケンブリッジ大学やオックスフォード大学の入学面接では
 「あなたの踊りを見るように私を説得してください」などの、
 絶対の答えが無い、個性だけが頼りの問題がだされるそうです。

 それを踏まえれば、模範解答だけを正解にするのは、
 日本人の能力を平等化させて、個性を奪って凡庸化させる、悪い風習ではないでしょうか。

 同じ本に、とある研究のことが書いてあります。
 日本の大学生に様々な単語を見せて、それをもとに物語を作ってもらったというものです。
 他の国では、ファンタジーだったりヒトラーが現れたりと色々な物語が出てくるそうですが
 日本人の大学生には、二つのパターンしかつくれなかったそうです。
 トイレとかの汚いものか、血や殺人などの猟奇的な話。
 言われてみれば、そういうものはちまたに溢れていますね。

 これを正常なことと思いますか?

 私は物書きとして、ぜひともケンブリッジに合格できるような人間でありたいです。

 空気を読むように、当然のことを読みとるのは必要ですが、
 それを読みとった上での考えは個性様々あるのが自然なことではないでしょうか。
 それでも空気を読む意識を鍛えることだけは、今の方法も適していると思います。
 「著者が言いたいこと」を読みとることが今のそういう設問の全てですね。

 それにたいする反対も賛成も求められていないのが問題だと思います。
 質問者さんの違和感もここではないでしょうか。


 これのせいで、多様な意見を聞く耳が鍛えられることはなく、
 自分の意見をごり押しするような人が増えているのかも、と思います。
 日本人の議論下手の原因はここにもあるのでしょう。
 議論を意見の押し付け合いと思い込んでいる人が多すぎます。
 百害あって一利なしとまでは言いませんが、百害あって一利だけしかない状態です。
 その一利のために正しいとするのは、どうかと思う。

 受験勉強なるものがなかった戦前の日本の教育は、
 フィンランドのような教育だったように、私には見えます。

 さらに、高杉晋作などの維新志士を育てた松下村塾では、
 個性を大事にして教えていたと聞いています。

 世界や歴史に目を向けて、見聞を広めれば、
 今の日本がどういう状態であるか、おのずと見えてきます。
 
 今の教育方針や、今までで培った常識を妄信してはいけません。
 
 強要されても従うべきではないのです。
 従わざるを得ない現状だけれど、せめて心の内では反対してしかるべきと思うのです。

 この世に絶対に正しいことはありません。
 私が言っていることだって、もっと調べたら悪い部分も見えてくるでしょう。
 学校で競争をさせないフィンランドでは、最近は自殺が増えてきたとも聞きます。
 理想を実現したような学校を出てから社会にでると、
 理想と現実のギャップでか適応できないのかもしれません。
 いかにフィンランドであっても今を完璧とはせずに、さらなる努力が必要なのです。

 模範解答にそうように答えることは、
 個性を殺すことこそ良しとする日本で生きるには、必要な経験となるでしょう。

 模範解答を理解したうえで、自分の意見も同時に考えておかなければ、
 新しい製品を求める現実社会には適応できなくなります。
 心も死んでしまうから、とても苦しい人生になるでしょう。
 しかし嬉しいことに、良い中小企業などではそういう日本とは逆とのことです。

 本来ならばマヤさんの言うとおり、個々の考えを尊重するべきなのです。

 私の国語の先生もそう思い、融通をきかせてくれたのでしょう。
 △ばかりでも、おかげで補講は避けられました。ありがたいことです。ほんと。
 しかし、どんなに高い理想を掲げても、社会がついてきていなければ生きられません。
 学校のテストでは点をもらえても、センター試験ではどうでしょうか。
 センターはマーク式だったと思います。
 最近は記述式が増えてきたとは聞いていますが、さて、どの程度の割合なのか。

 理想は理想なんです。理想と現実の両方に合わせられなければ生きていくことはできません。
 それでもフィンランドという素晴らしい教育国が現れたように、少しずつは良くなっているのです。

 どんな汚い世界に生きているとしても、
 少しずつ理想に近づくように努力するのが、人の営みなのではないでしょうか。
 小説だって、悪に立ち向かう主人公こそかっこいい。

 マヤさんの疑問は、日本社会の本質に関わる深いものです。

 誰かの意見に迎合することなく、そのまま自分の答えを探して、見つけられることを願います。

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