ライトノベル作法研究所
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  4. 文体研究。訓練法公開日:2012/04/18

ライトノベルの文体研究。訓練法

 あみん・ばらっどさんの投稿 2012年04月17日

1.小説文体の二つの類型

 小説の文体については色々と思い悩むことが多かったです。
 考えた末、やや乱暴ながら二つの型の観点からで分類・分析できるように考え至りました。

 その二つの類型とは『A:話芸型(主観重視・抒情詩タイプ)』『B:写実型(客観重視・叙事詩タイプ)』です。

 多くの小説はその両方の面をもっているのでしょう。
 それでも一つの作品について、比較的どちら寄り、あるいはどういう組み合わせか(一作品でも部分によってAだったり、Bだったりするものです)、という見方・考察は充分に可能ではないでしょうか。

2.A:話芸型(主観重視・抒情詩タイプ)

 昨今(2012年4月段階)のライトノベルは割合にこの傾向の作品が多いように思われます。
 登場人物なり、語り手なりの「主観」が前面に出るのが特徴で、その視点上、「口語」的になる傾向が強いと思われます。
 それではなぜ、最近の日本のライトノベルは「話芸型」が多いのでしょうか? おそらくは伝統的な感性に合致しているからだと考えられます。学校で習う古文にしても写実的というよりは、書き手の主観が前面に出た日記文学や紀行文が多いですし、軍記ものでも語りの役割が大きいように思われます。

 ラノベの文体が「崩れがち」と指摘されるのは、その大勢を占める話芸的・主観重視の性格ゆえに、必然的に口語への傾斜性が高いためではないでしょうか。

 加えて俗文学が日常を遊離した文語よりも、生活で親しんでいる口語に流れがちなのは指摘するまでもありません(西欧などでもダンテやチョーサー以来、長い間権威を持っていた文語のラテン語が徐々に廃れていき、各国民の俗語での創作が盛んになったわけです)。

 一口に言えば軽妙で読みやすく、叙情に富む(まさにライトノベル)。けれどもそれには感覚やセンスの良さが必要だと思われます(つまり先天的な才能や「趣味の洗練(方向性は様々)」が求められる)。また主観が前に出る書き方であるがゆえに、読者個人の趣味嗜好によって、「合う・合わない」の差が出やすい難点はある。

 さて、日本人の「話芸好み」は昨今のライトノベルのみに留まらないでしょう。ずっと古くからその傾向は現われていたように見えます。
 一昔前に人気のあったドストエフスキー。あれも登場人物の「語り」がうけたのではないかと思います。その主要なキャラクターの言動は「極論」が多く、そのためにコミカルな印象さえ与えます。芥川龍之介が「悪魔さえ憂鬱にさせる戯画」といったのも判る気がします。
 またドイツの小説(あまり明るくありませんが)などでも、主観的描写が多いように感じられるのです。ヘルマン・ヘッセにしたってずいぶん内向的ですから。

3.B:写実型(客観重視・叙事詩タイプ)

 一方、写実型は描写は冷静で、外面的・俯瞰的な視点が特徴。出来るかぎり客観性を重視し、主観から距離をおいた硬質な描写になりがちです(記述の正確さを目指すために、没個性の一般的な言葉、ゆえに文語的な傾向を招く)。登場人物の心情描写ひとつにしても、感情を外部から分析しようとする。

 そういう外面的な描き方ゆえに、読者の直感的な感情移入が困難になるわけです。
 読み手がしばしば「退屈」に感じてしまうのも無理はありません

(この点、学術論文やニュース記事に似ています)。
 また、写実的とはいっても自ずからそこには限界があります。
 いくら客観的に描写しようとしても、しょせん書き手は一個の主観に過ぎないからです。
 このテーマは二十世紀の哲学者たちの間ですでに指摘されており、「学問の分野ですら、本当の意味での完全な客観性に辿り着くのは不可能」と言われていたりします(大陸の現象学の流派など)。

 けれども上手く描けば、視覚的・理論的な判りやすさが得られる。
(なぜなら「物事を一般向けに説明すること」に適した書き方だからです)
 そして独特の重厚さを出すことができる利点も捨てがたいです。
(古代の叙事詩文学や旧約聖書の文体など)
 これはこれで思考力や構成力、後天的学習や訓練を必要とします。

 代表例としてはフランスの近代小説の写実主義やハードボイルドなどが挙げられるのではないでしょうか。
 フランスの純文学者のジッドはハメット(アメリカのハードボイルド小説の元祖)を絶賛したと言われます。ハメットの小説ですと、内面描写をなくして徹底的に「外面」描写のみで描ききっています。それはこの方向の極地かもしれません。

4.結論

 誤解を防ぐために付言すれば、これら二つの類型はどちらが優れているというのではなく補完的な関係にあります。両方を自在に用いられれば、それが最善でしょう。けれども偏りは避けがたいですし、むしろそれが個性です。ですから自分自身の性格(感覚型か、思考型かなど)を踏まえた上で、意識的に訓練や実験をするのが有意義だと考えています。

備考:訓練についての逸話

 人によっては「本を読むより、いろいろ体験・見聞しろ」と言います。これは感覚型の発想だと思います。
 逆にアラビアのさる詩人が師から受けた訓練では(彼の前衛的な「飲酒詩」は岩波文庫に入っています)、「まず多数の詩を暗記し、それから一端全てを忘れよ」とも。なぜなら決まりきった「伝統的な型や言い回し」を多数知っていることは詩人の必須条件だから(言葉や言語というものからして、何らかの集団で「共有」さないと意味がない代物です)。
 けれどもそれらを自由自在に使いこなすには、一端忘れた方が都合がいい(学習した知識に囚われすぎると、鸚鵡返しと二番煎じばかりになってしまいます。インプットとアウトプットの間に、自分で考える独自の加工プロセスが必要でしょう)。
 これなどは思考型の訓練法と言えるかも知れません。

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