ライトノベル作法研究所
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  4. 物語の構成公開日:2012/06/07

物語の構成についての考察

 あみん・ばらっどさんの投稿 2012年06月07日

1.長編シリーズ作品の不利さ

 古今東西の名作には長編が多く、文庫で何冊にも渡るものもあります。一定の量があることは強みですが、必ずしも、長いほど有利とは限らないの難しいところです。

 なぜならば「長い」ということは情報量が多くなるかわりに、読み通すのが難しくなることでもあるからです。

 比較的長いもので「罪と罰」や「白鯨」(いずれも新潮文庫版、厚めの上下巻)などは読みましたが、自分はそのあたりが限界点です。
 「罪と罰」と同じドストの作品でも「カラマーゾフの兄弟」(新潮文庫版、厚めの三巻本)は上巻だけで挫折しましたし、デュマの「岩窟王」(岩波文庫版、全七冊)は第三巻で投げました。デュマの「仮面の男」(角川文庫版)は辛うじて目を通しましたが、「ダルタニャン物語」の全部を読み通すのはまず不可能です。
(原作が長すぎるため、まとまりのある部分部分が「三銃士」や「仮面の男」として、別個に出版されています。「三銃士」は上下巻で、まだ読んでいません)。

 一般に名著として知られる「大作」の長さは上下巻くらいが限界線ではないでしょうか(叙事詩の「イリアス」などにせよ、SFの「海底二万里」にせよ)。
 哲学書や歴史書でも事情は同じで、「戦史」や「コーラン」、「法の精神」でさえ全三巻です。
 ちなみに自分の人生で最長の読書記録は、少年時代に読んだ「小説十八史略」(講談社文庫版で厚めの六巻、ハードカバーだと全十二巻?)。
 あいにくギボンの「ローマ帝国誌」(十巻)は流石に読む気がしません。よぼどの信奉者でもない限り、普通はそんな長さは受け付けないでしょう。

2.ライトノベルが一般に普及しづらい物量的な理由・弱点

 この「長すぎる」ということが、ライトノベルが一般人に敬遠される理由ではないでしょうか。
 大半の人気作品が十巻オーバー、先の例でいえば古代から近代までの充実した通史が書ける分量です。いくら文章が「軽い」とはいっても、物量的に消化が困難です。

 実はわたしの場合、特別に気に入った「ガンダムUC」の小説(角川、ライトノベル)でさえ、まだ飛び飛びでしか読んでいません(全十巻中六冊分)。いくら好きでも十冊の大著となると一度に読むには苦しい。
 同じ理由でノベルゲームもやる気がしません。「ひぐらし」や「Fate」などもアニメや漫画版は面白がって見ていたのですが、原作ゲームは試しに体験版をやってみただけです。
 ただでさえ長々しい上に、複数のシナリオというだけで「面倒そう」と感じるからです(ノベゲーを全部やりとおす人間の根気は尊敬に値します)。
 むしろ同じだけの労力を裂くならば、複数の色んな作品を読みたいと思うわけです。

 多くのライトノベル作品が、これと似た状況だと思います。面白い作品だったとしても、結局最後まで読んでもらえないために評価されない。
 全体として壮大な意味を持つ物語だったとしても、部分部分だけを取り出すと薄味だったり意味不明だったりするものです。

 つまりライトノベル作品の多くは「物量的な面で敷居が高すぎる」のです。

 ケータイ小説を批判する人は沢山います。
 なぜなら分量が適量であるために、読者の多くから否定的な評価を下されたとしても、「ひとまず最後まで読んでもらえる」からです。文章が最悪だったとしても、様々な層の人に読んでもらえるのです。

 けれどもライトノベルでは、ちゃんと「最後まで全部を読んだ上で叩いている一般人」はあまり見かけません。

 Amazonの書評などを見ていても、読者の半分は第一巻で投げています。面白いと感じた残り半分の読者が「固定ファン」になるわけで、第一巻の時点で「読み手が選別」される現象が頻繁に起きます。
 それゆえに第二巻以降では概して評価が高くなります(その作品を好きな人だけしか、読んでコメントしていないから)。
 最後まで読めば高評価したであろう人も、長すぎるために読むのを序盤で放棄する(つまりマイナス評価する)。「出だしの遅さ」「散漫さ」「冗長さ」「引っ張りすぎ」などがもたらす不幸でしょう。

(備考)極端なケースでは、「グイン・サーガ」なんていう有名な本格ファンタジー作品があります。読むでしょうか? 興味は持ったものの、わたしは敬遠しました。
 理由は「長すぎる」から(BL作品という前評判が、受け付けなかったことの最大の理由ではありますが)。
 なにせシリーズ全体で百冊以上です。これがもし、五冊ごとくらいで「第一部」「第二部」などで分割されていれば、気の向いた部分から手に取った可能性もあります。しかしダラダラ百巻の続き物では、最初から読む気が失せてしまいます。

3.長さのデメリット、部分部分での完結性

 長すぎることのデメリットをみてきました。
 しかし文章の量があるということは情報の量も多いということです。そのメリットはやはり捨てがたい。ゆえにジレンマが発生します。

 わたしはデュマの「岩窟王」に挫折しましたが、逆にラヴクラフトの作品は全集であらかた読みました。なぜでしょうか?
 ラヴクラフトの作品は互いに関連をもっているのですが、それぞれが中短編として完結しています。
 そのために面白そうな部分から読むことができるわけです。
 「小説十八史略」にしても、実質的には短編集のような構成になっています。
(読み始めたのは第四巻の隋や唐の時代の部分からです)

 ライトノベルでも、かつてヒットした「キノの旅」や「ブギーホップ」は同様の、「構成面での強み」を持っていたように思われます。

 ラノベのファンだけでなく、割合に一般層にも読まれていた様子なのは、「どの部分からでも単体作品として読める」ことが強みになっていたのかもしれません。
 けれども近年(2012年6月)のライトノベルのヒット作は所謂「続き物」が多く、それだけに読者が限定されがちになっているのではないでしょうか。多大な分量を読み通すのは、よほど好きなファンだけでしょう。飛び飛びで読んだり、手にとった巻から読むことはできますが、それでは作品全体を把握するのは難しい。
 そのため「薄味」「軽い」という印象だけが残ることになります。

4.情報量と物語構成のバランス問題

 それではなぜ、「長々しい」作品が増えたのでしょうか。
 話の冗長さには、情報量を盛り込む上でそれなりの旨みがあるからです。特にキャラクター重視の小説の場合、登場人物の魅力を描く上で、冗漫さはかえって有意義でもあります。

 けれども「物語の主軸には余計な情報・エピソード」を盛り込みすぎれば、物語の展開や構成のバランス面では不利になるでしょう。推理小説などでも、あまりに物語の本筋(事件の究明)に関係のないネタを詰めすぎることは、邪道として嫌われるようです。

 つまり「個々の小ネタ(A:情報量)」と「物語全体の構成(B:話の大筋)」のバランスをどうするか、というのが最大の問題です。

 一般の小説なら「A=B(等価)」、推理小説なら「A<B(推理展開、話の筋重視)」といったところでしょう。
 ところが近年のライトノベルでは「A>>B(過度の個々小ネタ重視)」で、小ネタ(A)の分量が際限ナシに肥大化する傾向があります。

 大筋の話が進むのをなるだけゆっくりにして、できるだけたくさんの小ネタを入れようとする。ゆえに「A>>B」となり、大局としての物語の進展が遅い「のっぺりとした」作品になってしまう。大きなイベントよりは小規模の事件の積み重ねがメインになり、内容が「日常系」に傾斜する(大きなイベントはキャラクターや、前提の作品世界そのものを変化させてしまうからです)。

 個々の小ネタ重視(A特化型)の作品にもかなりの需要はあるのでしょう(だからこそ、そういう作品が増えたのでしょうし)。ただし特性としての価値はあるけれども、小ネタの合う・合わないで読者が極端に限られてしまうわけですから、デメリットもまた大きいのが難点です。

 もし仮に、ライトノベルがこの弱点を克服して一般の小説と競合しようと望むなら、どうすればよいでしょう?
 ズバリ「小ネタを犠牲にして大筋展開を早め、密度を上げる」。
 かなり諸刃の刃です。なぜなら「個々の部分での完結性・完成度を高める=既存の設定の使いまわしが難しくなる」からです。

 なにせ先にあげた「キノの旅」でも、部分部分での設定は短編一話で使い切りです(「一つの国に三日以上滞在してはいけない」のルール)。
 シリーズものであっても一冊の本ごとで完結する物語(ホームズやルパンなど)は、大きなネタ(キャラクターや舞台設定など)の消耗速度が半端でありません。

 けれどもこのバランスに成功している例も皆無ではありません。ホームズなどもそうですが、「JOJOの奇妙な冒険」(漫画ですが)は典型例で、模範になりうるでしょう。「ジョースター家の血統」「スタンド能力」などの基本設定を巧みに使いまわし、現在は第八部に突入しています。もっとも各部の序盤は展開がやや遅く、新しいパート毎、中レベルでの設定再構築に苦悩している様が窺えます。

5.物語を「紡ぐ」能力と「結ぶ」能力

 小説を書く上では二つの能力が必要だと思われます。
 それは話を続ける(紡ぐ)能力(A:持久力)と、話をまとめる(結ぶ)能力(B:構成力)です。

 書き手の中のバランスとして持久力(A)の方が強ければ長編型になるでしょうし、構成力(B)が強くて持久力が弱ければ短編型に近くなると考えられます。近年(2012年6月)のライトノベルの「長々しい」傾向は、持久型の作家が増えたためではないでしょうか。

 理由は二つ考えられます。
 一つは漫画やアニメの影響。連載漫画では、最終的な決着をつける力よりも引き伸ばす能力が不可欠です。一挙に話が終わってしまうよりも、毎回楽しませて、話を続けていく方が望ましいわけです。
 ただしここに「媒体の違い」という落とし穴があります。漫画の場合、読む労力は小説に比べて小さい。それゆえに長くても読んでもらえるし、読者もそれを望みます。けれども小説で同じ戦法を取った場合、読む負担が格段に高くなる。
 長すぎるライトノベルがデュマ同様に敬遠される所以でしょう。

 (備考)ちょっとアニメについて考えてみましょう。
 「ガンダム」などでも、一年間の放送ですからかなり「長々しい」ものです(同じようなシーンが繰り返し繰り返し)。総集編映画が頻繁に作られるのはそのせいだと思います。

 「エヴァ」がヒットした理由は、物語の進展が早く、短くて密度が高いせいではないでしょうか(「ガンダム」の半分の分量ですから)。

 物語全体が短いために個々のエピソードがかえって記憶に残るのです。
 もしも「エヴァ」が一年間の放送だったとしたら、破綻したと思います。
 「Zガンダム」の根暗絶望鬱バージョン(主人公の性格がネガティブなために、いっそう救いがない)か、水増しばかりで話に緊張感がなくなるかのどちらかでしょう。

 同じアニメ製作会社IGの作品でも「攻殻機動隊」のシリーズに比べて、「BLOOD+」がイマイチだったのは、おそらく長すぎたせいです。もしも「BLOOD+」が一年ではなく、半年くらいの放送だったらかなりの名作になっていたかもしれません(一年間引っ張ることを第一条件にしたために、やむなく全体の構成がダラダラになったのです)。

 最近の「ガンダム00」は長さや構成の問題に自覚的だったようで、半年を二回、第一部と第二部に分けて製作していました。内容については色々と批判もあったようですが、「各部でちゃんと完全燃焼していた」点は賞賛に値します(視聴者は最終回のクライマックスを通算二度も見られた勘定)。
 おかげで高評価されて、完結編の映画まで作られました。

 けれどもTVシリーズをいい加減に投げ出し、「最終回は映画で」というのは本末転倒。圧倒的に尺の長いTV部分をお茶を濁して投げるなど、どう考えても浪費です(スタッフが持久戦で過労、途中で疲労困憊したとしか思えない)。それなら最初から映画だけで二部作か三部作でも作った方が、安上がりで質も上がると思います。

 もしも「BLOOD−C」がTV(十二話)でなく映画の第一部だったら、あの破滅エンドが絶賛されて第二部(完結編)にも大いに期待が集まったかもしれません。現にノベライズ小説はTVシリーズも映画も、同じ一冊の分量のようです(読んでいませんが)。

 あの「戦闘妖精雪風」(戦闘機)のOVAシリーズも、二巻以降迂闊に引っ張りすぎてグダグダになりました。せっかくあのクオリティで、まことに遺憾でありました。

6.ライトノベルの現状(2012年6月近況)

 先の傾向の理由、もう一つには二重の意味で「若い」ことです。

 ライトノベル作家の多くは若年でデビューします。それで特に専業の場合、社会経験は不足しますし、自前の知識やアイデアのプールも少なくなる。若いうちから「成功」して執筆に追われれば、じっくり勉強したり見聞を広げることもできない。
 さらに業界からして若いから「伝統による業界知の蓄積」も少なく、業界内だけでは自力で研鑚するのも一苦労でしょう(学ぶべきノウハウや模範となる教科書・参考書の類も貧弱)。何よりも書き手が、示すべき結論や頼るべき持論を充分には持っていない。都合、持ち前の「紡ぐ」センスを頼り、手探りしながら物語を創造することになる。浅い次元の一発ネタであっさり切り上げるか、さもなくば長く書き続けることで苦しみながら内容を深めていくしかない。

 だから結果的にライトノベルは一般小説に比し、最終的な結論への道筋以上に「迷い」「紆余曲折」「同道巡り」のプロセスそのものを描くことを、より一層重視するともいえます。

 それはそれで悪いことではないと思います。
 もしも「不動の伝統の確立」「固定された美意識」が一個の流派の終局であり、老衰・枯死の始まりであるならば、「今現在迷っている」ライトノベルにはまだ創造や向上の余地が残っているということです。ジャンルが若さ、気力や活力を持ち続け、発達していくことはとても良いことでしょう。

 一番怖いのは、安易に現状だけを肯定してしまうことです。「ライトノベルはこんな物」と試行錯誤を止めてしまえば、それが一番の致命傷になる。既存のブランドや価値観に安住し過ぎ、変化を拒んで挑戦や革新を諦めた流派は確実に衰退するからです。
 次の段階の土壌になるかぎり、既存のものもかえって死なない。

(備考)
 絵画や思想などでも似た現象が多々起きています。
 江戸時代、蒔絵工芸のある流派では、既存の伝統と経営モデルに固着しすぎて、かえって駄目になったそうです。反対にイタリアルネサンスの絵画やオペラなどは、他国にまで移植されたことで近代絵画・歌劇の起源と見なされました(そのためにイタリアは政治的弱者でほとんど後進国であったにも関わらず、文化面では常に一流国扱いです)。

 古代ギリシャの哲学が生き延びたのだって、キリスト教の中世スコラ哲学に取り込まれ、さらには近代哲学の母体になったおかげなのです。フランスの洗練された散文小説や象徴詩にしたところで、無数の追随者たちが優れた後続作品を生んだおかげで、いまだに忘れられていないのですよ。

 どんな文化のジャンルであっても、最初から存在したわけではないのです。
 長期間の絶対量の中で質の高い作品が蓄積して、伝統(ブランド)が誕生するのです。

7.予備的考察:「キャラクター小説の是非」

 白状すると、ここ数年はよく定期的にポルノを読んだりしています(自爆用意)。そして読むのが途中で苦痛になったりして(これぞバターケーキ中毒症候群)、同じ作者を何冊も読みたいと思うことはめったにない。
 けれども中には「これは!」と思う作者さんもいるわけです。
 わかつきひかるとか(爆死)。
 ハードポルノはたいがい退屈ですし、同じようなジュブナイルポルノでも今ひとつ面白くない作品は多い。それではなぜ、わかつきひかるさんの作品を「良い」と感じたのか(書き方はむしろ古いタイプですし、話芸的に面白がらせるわけでもなく、特別ぶっとんだ内容でもない)。
 そこで二・三冊も読んで考えました(発狂、何故だッ!)。

・ヒロインが心をもった人間として描かれている(萌え)
・ヒロイン本人の愛情欲求や幸福願望が肯定されている(安心感、根っこの健全さ)
・それなりにエロい、それゆえにエロい(ここが重要)

 どうも下手な書き手だと、卑猥な行動や卑語を並べればいいと考えている節があります。
 ところがわかつきさんの作品の魅力は、キャラクター造形にあると思います。ずいぶん「美化」されてはいたとしても、心をもった人間としてかなり丁寧に描かれています。
 だって、男に都合がいいだけの人形みたいな「猥褻肉を示すだけの記号羅列」にヒロインとして魅力を感じるでしょうか(特に小説では視覚効果がありませんから)?

 わかつきさんの作品の良さは、村上春樹の「ノルウェイの森」と同質のものではないでしょうか(露骨で長いHシーンを別とすれば)。つまり「魅力的なヒロイン」+「エロい」。もし仮に「ノルウェイの森」(一般向け)がライトノベルの萌え絵カバーで、ライトノベルのコーナーに混ざっていたら、「日常系(鬱+微量本格エロ)ライトノベル」で通用するでしょう。

 文豪の川端康成や谷崎潤一郎も広義の同類です。奴らはド変態の鬼畜です(確認済)。
 キャラクター小説がもてはやされるのはラノベのみではありません。
 そこで結論。

「なーにがバンピーの一般読書人だ。本性は萌え豚と大差ないだろう? 仏壇の遺影の前でストリップする変態少女緑タンやヤンデレ直子タン(「ノルウェイの森」)に萌えていたくせに。でなければ「ノルウェイ」があんなに売れるわけがない。きっと隠れたオタ属性の自覚がないか、体裁を繕っているかのどちらかなんだろう」

 さて、近年の小説では「事柄や事件」を描くことから、「個々の人間」を描くことにいっそうの力点が置かれるようになってきているのかもしれません。近代的な自我の確立や、個の発見といった「時代における考え方の変化」とも無縁ではないのでしょう。

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