ライトノベル作法研究所
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  4. ラノベの源流公開日:2012/07/02

技巧のためではない資料本(ライトノベルの源流)

 犬Aさんの投稿 2012年07月02日

 技巧的な方法論の本や、手軽な資料集についてはこちらのサイトで多数が紹介されている。ただし現時点では概括的な参考書籍のみにとどまっている。
 なぜなら個々の具体的テーマの本については枚挙していけばキリがなくなってしまうだろうし(それは参加者各自の研究課題)、「創作するため」という目的を第一義とすれば、さし当たって有用そうな方法論や手軽な資料集に目がいきやすい(もっとも方法論の勉強という点では、当サイトのデータベースやノウハウだけでもずいぶん有効だけれど)。
 それゆえに紹介される情報が「一定の枠」に限られることは致し方ない。第一にあまり扱う範囲を広げすぎれば「趣旨」がほやけてしまう惧れもある。ゆえに「どこまで手を広げるか」、という判断はナカナカに難しいのだと思う。
 けれども小説の創作に熱中していれば抱く疑問がある。「そもそも自分はいったい『何を』やっているのか?」と。自分で自分のやっていることを理解できない、人生にありがちで不愉快な状況に陥る。
 そこで「ライトノベルとは何か?」を考える上で、包括的な視野を得られる本を三冊ほど紹介したい(主題の源流に直結するものであれば、サイトの趣旨にも合致すると思う)。どんな方向の作品を目指す人にとっても、目を通しておいて損はないはず。

1.「ホモ・ルーデンス」(ホイジンガ、中公文庫)

 歴史学者のホイジンガの作品で、古今東西の「遊び」の文化史。ホイジンガには「中世の秋」という著作(こちらは北方ルネサンスのみに話題が絞られている)があり、両方とも歴史に残る名著。
 単に実例が豊富というだけではない。「遊び」を中心テーマにしつつ、人間の文化の本質にまで踏み込んでいる(もちろん「文学」にも章が裂かれている)。政治や法律、戦争、哲学などの「真面目な現象」と「遊び」の隠れた関連・類似までを考察し、包括的に文化を論じている。

 すると表面だけみれば「余計な物」としか見えない「遊び」が、いかに人間にとって本源的なものであるかに気付かされる。

(補足1)

 もしも物語を構成する「言語」の問題について立ち入りたければ、記号論や構造主義、言語分析哲学があるいは参考になるかもしれない(自分はその方面はあまり明るくないが)。また外国語の簡単な入門書なども実は新書で廉価で手に入る。
 それと哲学の通史は無数にあるが、年代もののテキストとしてはシュヴェーグラーの「西洋哲学史(岩波文庫、上下巻)」がしっかりしているようだ(下巻、近代以降の部分しか読んでいないが、著者本人がヘーゲル派なだけあってドイツ観念論の記述は充実していた)。関心があれば他の通史と比較するのも良いだろう。人によって見方が対立していることさえあるのが面白い。

2.「ヨーロッパのキリスト教美術(上・下)」(エミール・マール、岩波文庫)

 ヨーロッパの教会美術についての通史(12‐18世紀)。著者のエミール・マールは「図像学」の権威でもある(不思議なことに「バロック」という言葉が嫌いだったらしい)。図書館で読んだのだが、図像の表現方法の変遷をたどるだけでも色々と考えさせられた(画像と書物は媒体は違うけれども、ずいぶん似た面はある)。西洋キリスト教の伝統には直接属さない我々にとっても、他人であるが故にかえって良い考察材料を与えてくれる。
 中世ヨーロッパ人は、公の信仰の空間を絵画やステンドグラス、彫刻で埋め尽くした。それらはイエス・キリストの公生涯や聖書の逸話、あるいは聖者たちの「物語」だ(さらにはキリスト教以前の自然宗教の名残も装飾として取り込まれている)。

 いったい彼らは、どうしてそんなことをしたのか? なぜなら中世はずいぶん厳しい時代だったらしい(スタンダードな生活困窮や食糧難、ノルマン人などの蛮族侵入、諸侯同士の戦乱などなど)。だから彼らは生きていくために、苦悩を代弁して希望を示してくれる「物語」による「信仰」が必要だったのだ(救い主と殉教者、天国や地獄)。
 その手の美術品が異教徒にとっても多少なりとも感動を与えるのは、宗派がどうのというより、人間としてのより普遍的な善への信仰が表明されているからだと思われる(宗派の違いは細かい趣味志向や表現形式の差でしかない)。こういう事情は造形美術だけではなく、抽象的な思想などでも同じらしい(ドイツやギリシャの哲学は日本人にも支持者やファンが多い)。

 現代の日本で「ガンダム」や「エヴァ」が好評を博したのも、苦悩(戦いや不和)と希望(成長や和解)がちゃんと描かれているからなのだと考えられる。

 型に嵌った時代劇が飽きもせずに製作されるのも、「勧善懲悪」(=善人は救われ、悪人は地獄に落ちる)という願望や、古い時代へのノスタルジー(=キリスト教以前の「森」のイメージ)のせいなのだろう。

(補足2)

 聖書はインターネットでも閲覧できる(聖書はヨーロッパのイメージがあるが、もとは中東のあたりで成立した文書だという)。ただし複数の文書の集合体で量が膨大、一度に全てを読むのは困難(自分も原文は部分的にしか読んでいない)。もし参照するならば先に概略の本に目を通してから、特に関心のある部分の原文を詳しく調べると良いだろう。
 大きく分けて四つのパートに分かれている。

(1)モーセ五書(「創世記」「出エジプト記」から冒頭の五つ、旧約聖書の全体を統括する「律法」、最終的な成立年代は割合新しいらしい)。
(2)歴史・預言者(古代ユダヤ人の歴史を記述した部分と、個々の預言者による警告・預言)。
(3)諸書(「ヨブ記」「詩篇」など、個々が比較的独立した作品)。
(4)新約聖書(最後にキリスト教が付け加えた部分、四つのイエス・キリスト伝と使徒の記録)。

 それと中世から近世にかけての芸術・美術・聖堂建築については廉価で良い本がたくさんある。
 また芸術や物語が社会的な役割を果たすしたのは、中世キリスト教社会だけではない。古代ギリシャでは劇がさかんで、その台本は西洋文学の不朽の名著とされている。この「ギリシャ悲劇」は主要作品の全集がちくま文庫(全四巻)で割合安く手に入る(対費用効果はかなり高い)。ギリシャ神話の知識が前提になるが、その面ではアポロドーロスの「ギリシャ神話」(岩波文庫)は要点がコンパクト(薄いめの一冊)にまとまっているので大づかみにするには便利(これ自体が歴史的な資料)。

 一般に創世神話には「生る(植物型)」「産む(動物型)」「作る(人工型)」の三種類があるとされる。ギリシャ神話では「生る」のイメージが強く(日本神話の古い部分)、旧約聖書の「創世記」では「作る」イメージなのだという(中国神話や影響を受けた日本神話の一部などでは、「産む」の有性生殖のイメージらしい)。

3.「中世を旅する人々」(阿部謹也、ちくま学芸文庫)

 面白い歴史の本は数多いが、「物語とは何か?」について考察する上では極めてお得な一冊。中世ヨーロッパ(主にドイツ)の社会についての興味深い研究で、それだけでも一読する価値はある。

 しかし特筆すべきは巻末の「付録」との組み合わせ、一冊で二倍のメリットがある理由である。

 本文でも「ティル・オイレンシュピーゲル」については触れられてはいる(阿部氏はこの作品を別に翻訳しており、岩波文庫から一冊で出版されている。そちらは未読)。悪戯者の旅人ティルの小話集で、部分的ながらこの作品の「訳」が幾つか収録されているわけだ。
 そうすると一見はただの娯楽的な物語が、いかに時代の社会状況を色濃く反映しているかがわかる。しかも「ティル」はキャラクター性や内容からいっても、まるっきりライトノベル的ときている(地球の裏側で中世時代に書かれた話なのに!)。

 これ一冊で「ライトノベルの先駆的作品(笑い話の典型的な雛型)」と「時代背景の研究(西洋中世の社会史、資料本の価値あり)」を二つまとめて包括的に知ることができる。

 余談だが歴史学者の藤沢道郎によれば、イタリア語では「歴史」を「ストーリア(ストーリー=物語)」と言うらしい。古今東西の神話や伝説も元をただせば「忘れられた歴史」の影のようなものであるし、歴史と物語は切っても切れない縁があるのだろう。

(補足3)

 西洋の中世から近世の歴史を概観する上では、菊地良生の「神聖ローマ帝国」(講談社現代新書)がとてもお勧めのパンフレット。「神聖ローマ」はカール大帝によって成立し、第一次世界大戦まで存続した(分裂し、ヨーロッパほとんど→ドイツ周辺→オーストリアと領土を縮小していった)。
 ついでに古代ローマ帝国の方に関しては、モンタネッリの「ローマの歴史」(中公文庫)が手軽な読み物。クセは強いながら、たった文庫本一冊で初期の王政ローマから東西分裂・西ローマ帝国滅亡まで、あらましをざっと理解できる(それなりのボリュームはある)。

●結論

 ライトノベル(及び漫画やアニメなどのサブカル全般)は理由もなしにいきなり現われたのでも、それだけ単体で宙に浮いている現象でもない。

 人間の古い文化伝統から来た流れが、現代日本でたまたま「ライトノベルという形態」をとっているだけである。

 新しい面白さの工夫は常に必要だし、斬新さを求める努力は正しい。けれども起源や過去の遺産を全く忘却してしまうことは惜しい。

 ヒットする作品は「型破り」でありながら、どこかしらで「王道」を踏まえているように感じられる。

(備考)「検閲」の二つの起源

 最近ホットな「検閲」の話題について。この問題については歴史上、数知れぬ実例がある。この手の騒動は今に始まったことではなく、昔からポピュラーである。
 私見であるが検閲の二種類の起源と一つの必要条件が考えられる。

 一つは倫理起源の検閲。これは倫理による「禁忌」に端を発する。宗教冒涜や性的な禁止事項を思い浮かべればよい。聖書の神の本当の名前は秘せられてみだりに口にしてはならないし(「ヤハウェ」「アドナイ」などは仮の呼び名)、イスラームの国では礼拝をサボったり飲酒してはならない。厳格な国々では性のモラルも厳しい(これは真面目な気風の先進国だけでなく、一部の原始的な民族にも存在する現象。結婚の神聖さへの信仰や、精霊の祟りへの恐れのため)。社会全般の人々の漠然としたモラルと、個人の内発的な感情に半分ずつ由来する。

 もう一つは政治起源のもの(一般的に「検閲」といえばこちらを指す)。人間は社会的な動物で、意志が統一されなければ集団としての力を発揮できない。そのために個々の行動や意志表明を「規制」する必要が生じてくる(反対意見を聞きすぎると集団として何もできないため、無視や封殺)。これは権力による外的な圧力であり、社会が大きくなるにつれて支配権力は増大していく(原始人の村と近代国家を比較すればよい)。

 しかし唯一の必要条件は、検閲を実行する「権力」の存在だと思う(権力は命令を強要する暗黙の暴力性を備えている)。人間の社会が必然的に権力機構を生むならば、常に検閲は実行されうる。その「規制」の仕方が良心的であるならばまだ良いが、しばしば暴走して恣意的な弾圧になるから困りものである。
 たまたま政治権力を握っている人間、あるいは煽動工作の上手い狂信的活動家により、やれ「公共の利益」だの「社会通念」の名の許に弾圧が行われる(始皇帝の焚書坑儒、明の太祖の筆禍で「禿」が禁句、旧ソビエト連邦の思想取締りによる政治犯収容所乱立など)。自由の国であるイギリスでも、清教徒革命期のミルトン(キリスト教叙事詩「失楽園」の作者)が言論の自由について書いていたりする(岩波文庫、これは未読)。

 だがはっきり言う、検閲は不毛だと。いくら規制・禁止しようが、物理的に弾圧しようが、無駄である(笑)。人間は言いたいことを言うし、可能な限りやりたいことをやる。あの監獄国家・スターリンの旧ソビエトでさえ、政治批判のアネクドートが「命がけの悪ふざけ」として市民に行われていた(爆笑!)。むしろ言論や表現さえを物理的に弾圧するのは、社会と権力の末期症状である。
(古代ローマのカエサルなど指揮下の軍団兵士たちから「禿の女たらし」呼ばわりされながら、熱烈に支持されていた。それも最後には元老院を武力で恐喝したことが暗殺を招いたのだが。市民革命のフランスでも一時は王政復古したのに強引な反動体制で自滅、逆にイギリスの王室は議会と和解して生き残っ
た。旧帝政ロシアのアレクサンデル2世も農奴解放したあたりまでは良かったのに、反動体制化したとたんに過激派に刺されたようだ。毛沢東にしたところで農村の健全化とか良いこともしたのに、強硬策・反対派弾圧をやりすぎて悪い見本を残してしまった) 

 それでは論争からして不要だろうか? そんなことはないと思う。
 理由として。日本人はキリスト教のような「社会の合意を得た内的規範」の意識は稀薄なのだと思う。それにイスラーム原理主義のようなガチガチの内外一体の規範もない。ただし日本人の社会では温厚で従順な良心的「気質」の文化がその代用を果たしている。ゆえに柔軟であるかわりに状況に流されやすくもあり、そこで常に自問自答して考え続けるように運命付けられている。これは「業」みたいなものではあるが、新しいエネルギーにもなりうる。

 だから検閲・規制がまともに「実行」されるのは最悪だが、検閲・規制すべきかどうかという「議論」がなされるのはむしろ良いことだろう。

(現状に対して異議や反対意見が出ること自体は、社会のバランスがとれている証拠でもある)。
 先の「ホモ・ルーデンス」によれば、哲学の議論や法廷の問答もまた、一種の「遊び」なのだという(この手の「検閲・規制」騒動はイベントとして楽しむべきなんだろう)。議論を有意義な物にするためには、規制推進派は無考えな「全否定」ではなく、「具体的な不満点や要望」まで含めたレベルの高い意見を提出すると良いと思う(政治的な圧力にまでなるのは良くないが、優れたアンチテーゼはかえってアイデアやインスピレーションにもなりうる)。

 そういう試行錯誤により、イタリアのルネサンス芸術だって、反宗教改革の時代にバロック様式に進化したわけだ。「露骨な裸体表現ばかりでは場所柄に不適切だ」との教会側の要請で、より荘厳で華麗な表現を追求した成果である。
 そもそも本当に優秀な政治家や学才のある識者たちが「萌え」ごとき(しょせん画餅である!)を血眼になって規制するなどどうかしている(現実としてAVや風俗の方がよほど有害であるだろうし、解決すべき経済や福祉の問題なども山積みである)。
 あのI氏(作家・都知事)にしても一種の確信犯で、社会的に必要な「役割」として、「保守代表」「頑固オヤジ」を演じていたように感じられる。おそらく彼ら自身、内心では苦笑しているのだろう。シェクスピアの作品などでも卑猥な悪ふざけは随所に出てくるし、内容さえしっかりしていれば、多少の逸脱は充分許容されると思う。

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