週刊少年ジャンプには「こちら葛飾区亀有公園前派出所」という漫画が連載されていて、この作品の主人公は大学生どころか、30代のおっさんです。
設定だけ見ると、ジャンプの主な購買層である“少年”とは相容れない人物ですが、30年以上の長期連載を続けている人気作品です。
> もちろん「狼と香辛料」や「まおゆう」のような作品もありますが、それらはむしろレアケースですし、
> 何より、ほとんどの作品は厳密性よりも娯楽性を追求してます。
たしかに『狼と香辛料』の主人公は20代で、物語も“経済”を主題にした堅いものですが、ヒロインは獣耳でしっぽ持ちです。萌えキャラのひとつの典型ですね。
「まおゆう」も経済を主題としつつ、中世ヨーロッパの“現実”に焦点をあてていますが、ヒロインは巨乳で、作品中でも、作者がたびたび「巨乳萌え」を主張しています。
これらの作品は「政治・経済・社会情勢や風俗や衛生環境などを正確に描写しよう」としながら、市場のニーズにも応えようと、厳密性と娯楽性を折衷させることに苦心してつくられたものです。
ちなみに僕個人は、「まおゆう」の巨乳押しには若干辟易したりしています。
「サービスシーンはいらねえから、もっと経済論を!」というタチです(笑)。
> 最近のライトノベル(一般文芸ではなく!)を読んでいれば「主人公がおっさんの作品はどうでしょうか?」とか「舞台がスペインなのはどうでしょうか?」なんてナンセンスな質問は出ません。
たしかにナンセンスですね。主人公はおっさんでもいいですし、舞台がスペインでもいいです。
わざわざ聞くようなことではありません。
> 「俺は美少女に飽きた!ヒロインは熟女にする!」と言ってみせたところでゲテモノしかできません。
ゲテモノにしなければいいです。
> 「魔法の属性が火・水・氷・風・雷だけって少なすぎだろ!」という批判に応えた結果が「あの」ラストリベリオンです。
「ポケットモンスター」というメガヒット作品には、「ほのお」「みず」「でんき」「くさ」「こおり」「かくとう」「どく」「じめん」「ひこう」「エスパー」「むし」「いわ」「ゴースト」「ドラゴン」といったタイプ(いわゆる属性)が登場します。
続編には、さらに「あく」「はがね」が加わっています。
> 「ラノベにHはいらない」ことぐらいすぐに気づきます。そんなの分かりきったことです。中高生向けの読み物に性的シーンを出すことを「多様性」の名で正当化されても困ります。エロ本ですかラノベは。
主人公が風呂上がりの裸のヒロインとはちあわせたり、着替えているのを見てしまったり、そういう色っぽいシーンは、わりと多い気がしますけどね。
> 型を身に付けずにラノベを書いてみせたところで、それは単なる「型無し」ではないでしょうか。
型を身に付けたうえで、さらにより多くの型を知ったうえで、流行に安易に迎合せず、自分が「おもしろい!」と確信した“ラノベ”を書くことの、いったい何が悪いのでしょう。
> だからこそ聞きたいんです。そうまでして厳密性にこだわる理由は何か、と。
有名作品のうわっつらの模倣、猿マネ、劣化コピー、パクリをすることに注力するよりも、自分なりに、それこそ大学生の生活や中世ヨーロッパの水事情などを調べたうえで、中高生にも読んでもらえる“ライトノベル”を書くことのほうが有意義だと、僕は思います。
>だからこそ聞きたいんです。そうまでして厳密性にこだわる理由は何か
「個性」を出したいのでは?
しかし、読者との共通項である型を使いこなせないと、だれも読んではくれない(理解してくれない)と思います。
> 週刊少年ジャンプには「こちら葛飾区亀有公園前派出所」という漫画が連載されていて、の作品の主人公は大学生どころか、30代のおっさんです。
こち亀が支持されるのはその荒唐無稽さでしょう。現実に両津みたいな警官がいたら速攻で逮捕です。
偏見ですが、成人主人公をやりたがる人はこち亀みたいな作品を「リアリティがない!現実の警察はそんなことしない!」と拒絶しそうなイメージがあります。
ここの人たちは変なところでリアリティを追求する傾向がある「気がします」。
> 型を身に付けたうえで、さらにより多くの型を知ったうえで、流行に安易に迎合せず、自分が「おもしろい!」と確信した“ラノベ”を書くことの、いったい何が悪いのでしょう。
> 有名作品のうわっつらの模倣、猿マネ、劣化コピー、パクリをすることに注力するよりも、自分なりに、それこそ大学生の生活や中世ヨーロッパの水事情などを調べたうえで、中高生にも読んでもらえる“ライトノベル”を書くことのほうが有意義だと、僕は思います。
「悪い」とはいいませんが、店頭に並ぶラノベのうち何割が成人主人公や緻密な時代考証の作品でしょうか。明らかに一割を下回っています。
結局のところ、そういう作品の多くが「独りよがり」「専門用語過多」「登場人物が多い」「世界観設定にページを割き過ぎ」「キャラの価値観に共感できない」「ストーリーに山場がない」などの欠点を他ジャンルの作品よりも抱えこんでいるのではないでしょうか。
もちろん、編集がそういった要素に偏見を持っているせいで受賞を逃しているという可能性もあるのかもしれませんが、どうあれ受賞していないのは紛れもない「事実」です。
まずは結果と真摯に向きあうのが真の作家でしょう。
> 「悪い」とはいいませんが、店頭に並ぶラノベのうち何割が成人主人公や緻密な時代考証の作品でしょうか。明らかに一割を下回っています。
まあ、少数派であるのは間違いないでしょうね。
> 結局のところ、そういう作品の多くが「独りよがり」「専門用語過多」「登場人物が多い」「世界観設定にページを割き過ぎ」「キャラの価値観に共感できない」「ストーリーに山場がない」などの欠点を他ジャンルの作品よりも抱えこんでいるのではないでしょうか。
つまり「独りよがりではなく」「専門用語は少なく、言葉も平易で」「登場人物は少なく」「設定は短めにさらっと流し」「キャラの価値観に、読者が共感できるよう工夫し」「ストーリーに山場を用意する」ことができれば、万事解決ということです。
ていうか、これらの課題は、主人公が成人だろうが大学生だろうが中高生だろうが、ありとあらゆる小説が抱え、解決すべき課題じゃないでしょうか。
> 編集がそういった要素に偏見を持っているせいで受賞を逃しているという可能性もあるのかもしれませんが、どうあれ受賞していないのは紛れもない「事実」です。まずは結果と真摯に向きあうのが真の作家でしょう。
ちょうど僕の手元にあった『されど罪人は竜と踊る』は、第7回スニーカー大賞(奨励賞)受賞作で、主要な登場人物はみんな成人です。
『狼と香辛料』も、第12回電撃小説大賞(銀賞)受賞作ですね。
たとえ成人を主人公にしても、ちゃんと結果を出している作家がいるのが、紛れもない「事実」ですよ。
>もし貴方が商業作品になることを見据えた小説を書いているならば、もっともこだわっている部分はなんですか?。
若い人を相手にするのだという1点を見据えてさえいれば(加えて自分の個人的な趣味を最優先にはしない)、必ずしも現状の流行を追わなくても何か成立し得るのではないか?
ということです。
それとまあ、売れ線を追わないまでもキチンと認識していれば、こうは書かない(こうは質問はしない)ということは有るとは思いますけどね。
わたしは、ライトノベルは小説のジャンルではなく、購買層のジャンルだと思います。
そして、お話は面白いことが大事だと思います。
読んでくださる相手の方が、面白い、そう思ってくださること、これが小説を書く上で意識するべき大事な点ではないでしょうか。
王道か、奇をてらっているか読者はそこまで気にしません。
どちらでも面白ければ読んでもらえるし、つまらなければ読んでもらえない、だけじゃないでしょうか。
ということを基本に、書き手の方が迷って質問されるのは、愚かなことではなくて、面白くしよう、しようとした結果、自分ではわからなくなってしまって、こちらで質問されているのではないでしょうか。
リアリティについては、大事だと思います。
わたしは子供のころからたくさん物語を楽しんできました。
小説に限らず、漫画、演劇、映画、ゲーム、様々です。
それでも今も思い出してわくわくできるお話というのは、子供だましではなく、中身がしっかりしていたものです。
確かに今、現在、売れるためには、市場の動向は大事です。
特に今すぐデビューしたいならなおさらです。
でも、それだけの作品では、世の中には残りません。
流行っているものだけが好かれているのではない、と思います。
こちらのサイトは、面白いライトノベルを書くにはどうしたら、っていう主旨ですよね?
各々がそれを考えた上でしている質問をおかしい!と言ってしまうのは、確かにかなり挑発的だと思います。
どうしたら面白くなるか考えている途上なのに、質問の内容から批判されていては、議論はできないんじゃないかなと思います。
これは僕の個人的な意見ですが。
「売れ線」というのは、とっくに他人にシェアを取られている部分なのです。
セブンイレブンやローソンがあれだけたくさん並んでいる中で、コンビニの事業を始めたいと思う人はいないでしょう?
このように、シェアを取られている部分で勝負をしないのは、ビジネスでは常識的なことです。
では「売れ線」を全く取り入れないかと言うと、それは違うわけです。
小売業をするなら、有名どころの商品や定番の商品を取り扱うのが当然です。
このように、世間一般的に認められている物を売っていくのが、ビジネスでは常識的なことです。
この二つは矛盾した論理のように見えますが、僕はそうは思いません。
なぜなら、創作や商売というものはバランスを取っていくものだからです。
作品の半分は新しいことをやる、作品の半分はありがちで受け入れられることをやる。それでいいんです。
何でもかんでも売れ線を外したり、何でもかんでも売れ線に乗っかっていたら、面白くないに決まってるじゃないですか。
表題にあるような、「なぜラノベ作家志望はわざわざ売れ線を外すのか?」という疑問は、作家志望者自身の問題に過ぎないと僕は考えます。
彼らは創作においてバランスを取ることができないのです。
売れ線を外しすぎている自分に気付かない。あるいは、売れ線に乗っかり過ぎている自分に気付かない。
真の問題はそこにあると思うのです。
編集側は商売人ですから、売れ線を外した作家よりは、多少なりとも売れ線通りの作品を書ける作家に傾注するでしょう。
読者が読んで面白くないとしても、とかく売れ線ですから、一定の利益は見込めます。
しかし、それでは繰り返すように、やってて面白くないでしょうね。
我々は新しいことをするクリエイターであると同時に、利益を生み出すビジネスマンでもあります。
二つの立場をうまく両立させて仕事に臨みたいものです。
どうも、サイラスです。少し補足があって、投稿します。
それは、皆、作品対する愛着、さらには、自己愛が強すぎるからだと思います。
作家なら、自分の作品に大きな愛情を注いでいます。でなきゃ、400字原稿を何十枚もの物語なんて書き上げられないし、自分の作品だからこそ、他のものとは違う、売れ筋とは違うところに行くのではないかと思います。
ただ、それ故に、作品を否定されていること、ひいては自分を否定に怯えているようにも見えます。だから、本来、自分で決定しないといけないこと(あなたのいうナンセンスな質問)が出てきたりします。でも、本当に自分の作品や自分自身に自信があるなら、新たな作品を書き上げたり、修正したりしてどんどん作品を書き上げるのではないのでしょうか?
作品に愛着を持つのもいいですが、そこから離れる勇気もプロになるには必要な要素では、と最近思います。
私もそう思う事があります。
ネット小説で一(はじめ)という名前のキャラがいたのですが、横書きで長音記号のようで特に理由がないなら読みにくいので改名をお勧めをしたところ。譲れないという事でした。
しかし最後まで読んでも一でなければならない理由が分かりませんでした。おそらくキャラに愛着が湧いたのでしょうが、読者からすれば知ったこっちゃないんですよね。
作者は自分と結婚や恋愛をするのではなく、読者に愛してもらえるキャラクターを作るべきなのに自己満足になってしまっている。
ライトノベルが中高生とオタクをターゲットにしているので、売れている作品には中高生とオタクに好かれる要因が詰まっています。SAOやとある魔術シリーズにも批判や矛盾もありますが好かれる要素が詰まっているからこそ売れています。
もちろん自己満足を含めて売れ筋ではない物語・舞台を選ぶ人もいます。森薫なんて漫画家は過去二作がイギリスのメイドを描いた「エマ」と十九世紀のモンゴルの夫婦を描いた「乙嫁語り」があります。メイドはわかりますがモンゴルというのはよく編集もOKサインだしたなと。
当然、売れているのは圧倒的な画力と、温かみのある人達の関わりがあってこそです。編集が独りよがりにならないようにしているでしょうが、当時の人々の風習をよく研究されています。
しかし、人が求めているのは処女のヒロインや酒やタバコをしない主人公ではなく、普遍的なストーリーです。
それを土台としてその上に世界観を乗せ、愛されるキャラで味付けを行います。ディストピアを演出する為にサイバーっぽい造語を作り、幼馴染との再開を演出する為に秘密基地を設定します。
ヒロインが三十路だろうと社会人の主人公だろうが関係ないんです。王道とは設定ではなくストーリーの道筋の事です。だから王道なんです。
ライトノベルの王道では三十路のヒロインはともかくアラフォーのヒロインやハードSFは向きません。本格ミステリーを謳っているのにファンタジーの魔法世界は相容れぬ存在です。
それは中高生を対象にした場合、アラフォーは母の年齢ですし、ハードSFは専門知識が必要だからです。本格ミステリーは人工の美学ですし、矛盾OKの魔法世界観ではありえません(もちろん「向日葵の咲かない夏」のような作品があります)。
何よりラノベはキャラが立たせなければいけませんから、そうしなければならないと読者が理解できない限りは、キャラが目立ちにくい世界観や人物設定は逃避すべきです。
マーケティング(笑)などと偉そうに言っていますが。
私からすると現状ラノベに対する出版業界のマーケティングは不十分かつ怠慢でしかありません。
言うまでもなく現在の出版業界は不景気です。
経営につまってくれば、当然収益に対する費用を削減しなければなりませんが、このとき最も簡単に削減できる費用が人件費です。
なので、編集社員が正社員ではなく、一年単位の契約社員であったり、作家もまた使いつぶしにすることが多いのです。
結果、業績をあげなければ契約を打ち切られてしまう編集者は、“そこそこ売れたことのある”“とりあえず無難”な作品の劣化コピーすることと、EB上に存在するすでに人気がある作品の書籍化(WEB上のファンが買うだろうという希望的観測)を延々と作ることに固執しはじめます。
作家もまた“お前の代わりはいくらでもいる”と言われるくらいの扱いで、上の言うことをきいて文章を書くだけの日雇いアルバイトレベルの職業です
彼らはもはやクリエイターではなく、同一で同品質のものを大量生産する工場のラインに入った作業者と同じレベルなわけです。
つまり、今出版社が言うマーケティングというのは、新しいものを生産できる能力も体力もないことをごまかすための言い訳にすぎません。
その結果、そのジャンルが許容できない人はどんどんとライトノベルを見限り、現在のライトノベルの顧客層はオタクと呼ばれる人たちのなかでも、ごく一部の特殊層だけになってしまいました。
まさに業界斜陽化の負のサイクルに入っているといえるでしょう。
売れ線(笑)しか作れないよ!勉強とか取材とかめんどくさいよ!という編集さんや作家さんは工場の期間労働者にでも転職しましょう。
はっきりいって創作に向いてません。
一先ずに「なぜここの住人は売れ筋を外すのか」という質問に対して、やはりここが「作法研究所」と銘打っているのが理由と思われます。
物語の展開、登場人物、さまざまな組み合わせがあるでしょう。当初の質問者さんが言うラノベの売れ線、正統派というのも、そういった無数の組み合わせの一つとしか言いようがありません。
むしろ、ここが研究所である以上は、「処女・非処女」、「大学生」、「タバコ・酒」など非道徳的なものから官能的なものまで、多様な条件を設定して文章を書く方が、文章力を高める、という意味では適した行動だと考えます。
さらに言えば、これは物語自身のリアリティを高めることにも繋がると思います。
最初の質問にて、「中世ヨーロッパにおける水利用について」を批判していらっしゃったが、作者自身の視野を広げることに繋がる。引いては読み手の視野も。
RPGは主人公を追う鳥瞰図とでも言えばいいでしょうか。上から見下ろす視点は、登場人物の周辺を細かに描くことは出来ますが、一度画面外にでれば、何が有るかわかりません。
画面外の世界は実はどんな世界が広がっているのか、私たちが見ているこの視点とは、そのうちの何%にすぎないのか。そうやって本来見えていない世界を広げることで、物語に奥行きを深める、そのための試行錯誤が「正確な描写」に帰着したと言えるわけです。
市場調査…実際どのジャンルが一番売れるか、個人でアンケートすることも難しいですし、それに、露骨に商業主義で儲けだけ狙うために、物語書いているわけではありませんしね。
売れなくてもいいから自分の世界を創るか、売れる為に物語を読者の理想に近づけるのか。
結局のところは作者と読者のいずれの理想を取捨するかに掛かっているようです。
たまたま見かけたこのスレを読んで感じたことを吐かせていただきます。
質問者さん、ではあなたが文章を紡ぐ理由とはなんなのですか?
たんに、それで利益を得たいからなんですか?
このスレでのあなたの意見をみる限り、そういう乾いたモノしか感じられませんでした。
あなたが初めて小説を書こうと思い立ち、頭のなかでストーリーを練ってはそれを文章にし、試行錯誤を繰り返した時の原動力は、“これで一 稼ぎしてやろう”といったような冷めたものだったんですか?
そうではなく、もっと熱く素直な気持ちがそこにはあったんじゃないんですか?
足りないのは小手先の技術ではなく、想像をも越えるイマジネーションとリビドーではないかと、私は思います。