正直なところ、努力が嫌いな人もいます。
自分は高校時代に進学校に通っていましたが、毎日勉強漬けの生活をさせられて、課題をやってこないと教員に叱責されました。
理系の大学に進学したのですが、非常に留年率の高い大学で、単位を一つ取るだけでも非常に苦労して、努力の甲斐もなく中退することになってしまいました。
このような経験がある人は意外といます。
努力の辛さに耐えかねて物事を諦めてしまった人は、自分以外にもたくさんいるはずです。
そんな人が『努力こそ全てだ!』と言わんばかりの小説を見て、共感できると言えますか?
努力に疲れている人は、努力をせずにやわやわと暮らす話、あるいは努力でなく、才能で道を切り開く話を好むと思われます。
もちろんそういう人ばかりじゃないし、努力にいそしむ主人公が好きな人もいるでしょう。
肝心なことは『どんな人に読んでほしいのか』を明確にすることです。
それさえはっきり決まっていれば、それ以外の読者層のことなど、いちいち悩まずに済むと思いますよ。
中学・高校時代を思い出してみました(ついこの間だと思っていたら結構時がたっていたので、もしそれは違うといった点があったらご指摘ください。)
1・怠けている自分を正当化するため
2・相対的な評価を上げるため(当時すでに絶対評価が導入されていましたが、教師も悪い評価ばかりつけるわけにはいかないので周りの点数が下がれば自分の相対的な評価は上がります。)
このどちらかのためのポーズとして努力がかっこ悪いと主張する人がいた。それに感化された者、あるいははじめはポーズをとっているだけだったのが次第に本当にそう思い始めた者がいたために、努力がかっこ悪いという風潮ができた。
つまり本当に努力がかっこ悪いと思っているわけではなく自己保身・利害対立・空気を読むということの連鎖の結果ではないかと思います。
しかし頑張る人を応援するというのは人間の自然な感情だと思うのです。
ただ昔ながらの根性論・精神論を受け付けない人は増えたと思います。
それは共感できなかったり、リアリティがなかったりするからです。
努力はカッコ悪くない。しかし昔ながらの努力の中には時代遅れなものもある。
「どういう努力がかっこいいのか」とか「努力のかっこいい見せ方」という視点を持っていれば、あるいは努力だけでも面白い小説が書けるかもしれません。
あと批判されるかもしれませんが、単に現作家陣の実力不足の面もあると思います。
凡才が天才に勝つにはいろいろ工夫が必要ですが、天才が凡才に勝つなんて普通にぶつければいいだけですから、簡単でしょう。
ろくに話が作れないから優越感と萌だけで小説と言い張っている作品(商業作品です)をいくつか見たことあります。
避けられてる、というわけではないと思いますが。
努力する主人公はテンポが悪くなるから、努力した後の主人公をかこう。思考としてはこんな感じではないでしょうか?
今、アニメでもやっている『俺の彼女と幼なじみが修羅場すぎる』 では主人公が中学時代、中の下の成績から本編では学年トップになっています。描写がなくても並々ならぬ努力の結果ではないですか?
『竜と勇者と可愛げのない私』 でも金で魔法使いの階級を上げる貴族の中、主人公は階級があがらなくとも努力し、魔王退治の旅にでれるようになりますし。おばあ様のようになりたい一心でただひたすら努力し、のびが遅くなりはじめたころから本編が始まるので。
見えない努力も大事だとは思いますよ。
友達が努力型主人公のいるライトノベル(結構前のものですが)を読んで「おもしろいんだけど、何かあきる」といっていたので。私は好きだったのですが、やっぱりテンポがよくないとウケがよくないのでは。
そして、『ライトノベル』としてテンポをよくするためにどうしても努力、成長する部分を短く、またはカットせざる終えないのかと思います。
長文失礼いたしました。
こんにちは仏樹鴨子です。
大変に興味深いお話ですね。
残念ながらわたくしは問題定義の元となった事件を知らないのですが、主さんのお話と皆さんの回答を元にわたくしなりの考えを述べさせていただきます。
その中で幾つか気になった点がございます。
それは
1・ベテランの作家さんははたして『努力する場面を書いていない』と言う事を言及したものなのか。
2・昨今のライトノベルでは、本当に努力をしない主人公が多いのか
と言う事です。
1の事柄が本当にその事を言及したものだとしたならば、それは皆さんの回答にあるように、それはエンターテイメント色の強いライトノベルでは避けられる風潮はあるかと思います。
2に関しては全ての作品を読んだ事はないので如何ともいえませんが、上記したように避けられる風潮があるとすれば、割合としては少ないものとなるでしょう。
と、ここでこの方向では話は終わってしまいますが、そこは仏樹です。穿った見方をします。
まず、事の発端がどのような問題を抱えて起こったものなのか。
ベテランの作家さんの『努力嫌いな読者』と言うのと、「回答にある『修行のような盛り上がりの薄いシーンは受け入れられない』と言うのはQAの形としては成り立っているように見えますが、決してそうではないと思います。
そもそも『修行のような盛り上がりの薄いシーンは受け入れられない』だから努力をしない主人公を作る。と言う事じたいが間違っているのではないでしょうか?
だとするならば、ベテラン作家さんの言った『努力嫌いな読者』と言うのは、その言葉の裏に『努力嫌いな読者が多くなったそれは昨今のライトノベルの作家のせいでもあるし、読者のせいでもある。だからと言って作家は、本当にそういった部分を書かなくてもいいものか?』と言う事なのだと思います。
例えばあまり受けがよくない努力のシーンやエンターテイメント性の薄いシーンを、長々と書くことは作品としてはマイナスになりかねませんが、それをごっそり排除して楽に生きている主人公を作るよりは、
たった数行でも裏で努力をしていたんだなと思わせる文章を書くだけで、キャラの深みにつながるのではないでしょうか。
恐らくその数行は簡単に書ける数行ではないと思います。
キャラの想い、今までの流れ、他キャラとの確執、様々な複線。
それらを含んだ数行と言うのは、相当難しい。だからそれが書けるくらいの力を身につけろよ。と言う暗に察しろ的な含みがあるのではないか。(あくまで仏樹的観測)
そしてそれは、きっちり読者にも伝わらなければいけない事だと思うんですよね。
伝えると言う行為は、互いが努力をして初めてなしえる事が出来ます。どちらか一方にその意思や技術が無ければ成り立つ事は困難です。
もしベテラン作家さんが危惧するような『努力嫌いな読者』が本当に多いとしたら、我々はものすごい逆境に立たされているのかもしれません。
もしベテラン作家さんが称した『努力嫌いな読者』、コレはあくまでわかり易くするために『安易な最強』に対する答えとして使った言葉ではないかと思います。
>ネット上では、そもそも我々の生きる現代が『努力しても報われない』時代であるせいで、努力して成長するという描写が若者には嘘っぽくしか見えないせいだ、と分析している方もいました。
この話もわたくしは存じ上げませんが、主さんが称した『努力を嫌う風潮』と、ベテラン作家さんが称した『努力嫌いな読者』。コレを招いた原因として思い当たる事柄が私にはあります。
それをここで述べると非常に長くなってしまうので、いずれこの板で皆さんの意見をお伺いしたいと思います。
一人だけおかしな回答をしてしまったかもしれませんが、どうか皆さんお気を悪くなされませんように。
ええとですね、質問に応える前に言っておくことがあります。
私はこういった「読者の現状を憂う」「時代の変化を憂う」タイプの質問があまり好きではありません。「カルチャーショック」「ジェネレーションギャップ」「自分のような古い人間には」「最近の若者は」なんて言葉も同様です。なぜって、我々は卵とはいえ作家志望者じゃないですか。
人気作品というものは、読者の好みや世間の風潮を調査したり、大衆の潜在意識に訴えかけることによって人気を博したものが多いことは事実でしょう。しかしながら、それらの名作は単に読者に合わせただけで成功したわけではありません。
読者の読みたい物を提供しつつ、自分の書きたい物を書く。社会の風潮に迎合しつつ、自分の流儀を譲らない。相反するふたつを成し遂げる努力をしたからこそ名作を名作たらしめているのです。
読者の目ばかりに気を取られれば媚びになるし、だからと言って読者を無視すれば自己満足で終わってしまいます。
そして、名作は次の時代のスタンダード(=風潮)を創り上げます。
現代の風潮にしたって、例えばバブルやそれ以前の未来明るく活気があった時代と比べて、夢を口にするどころか見ることさえ難しい閉塞感溢れる時代なったことにより、「平凡で特徴のない主人公が謎の美少女によって非日常に巻き込まれる」「突然力に目覚めたり、異世界にとばされる」というスタイルが大衆の心を掴んだのではないかと思っています。
つまり、自分で夢を見ることが難しくなったから、誰かに退屈な日常から連れ出してもらいたい、という願望を抱くようになったために、その手の作品が流行したのではないかということです。
そして読者がどんな願望を抱いていようが、そのスタイル流行するには、まず作品が存在しなければなりません。つまり最初にそのスタイル作品を世に送り出した作家は、いわば時代を切り開いたパイオニアというわけです。これは作家に限らず、ファッションやゲームのデザイナー、作詞家や作曲家にしたって同じことでしょう。
消費者は、ブームが起こればそれに乗っかるし、同じ傾向の作品が続けば飽きるものです。しかし我々はクリエイター。ブームに乗る人間ではなくブームを作る側の人間です。
そういったわけで、作家が読者の現状や社会の風潮を憂うタイプの言動はあまり好感が持てません。
えー、前置きが長くなりましたが、質問に答えます。
努力する主人公が避けられるようになった風潮とありますが、確かに避けられるようにはなりましたが、嫌われているわけではないでしょう。そして一過性の現象ではなく慢性的なものだと思われます。
個人的な考えですが、日本が高度情報社会になったことと、サブカルチャーの商品としての価値が高まったこと、書き手が増えすぎたことがその理由ではないでしょうか。
昔はテレビアニメも50週続くというのも珍しくはなかったし、ジャンプ作品ももう少し長く続いていました。しかしながら商業としての価値が高まった時代になると、一回一回の重みが出てきます。誰もがネットを使えるようになり、玉石混交のアニメや漫画の情報が一瞬にして知れわたり、毎週その感想が書き込まれます。
そんな中で視聴率を勝ち取るためには、一回一回のクオリティを高めなければならず、当然コストも増大します。その費用を賄うにはスポンサーが必要です。企業は道楽でお金を使っているわけではありませんから、投資が利益に繋がらなければスポンサーは援助を打ち切るほかなくなります。
つまり、漫画にしろアニメにしろ「長い目で見る」ことが経済的に難しくなったわけですね。
ましてラノベは毎週毎月シリーズを刊行できるものではありませんから、一回一回のクオリティがより重くのしかかってきます。
どころか、ラノベが市民権を得て人口に膾炙したことによって、書き手を志す人間が爆発的に増えてきました。
編集者や出版社はよりより作品を探さなければならず、新人の力を測る場だって欲しい。少しでも人気が傾いた作品は、すぐに危険な状態に陥ります。
だからこそ、作品としての寿命が短くなろうが、一発一回で人気を確保する手法が主流になってきているのです。
それは主人公の努力に限らず、女性キャラの扱いに関しても言えることでしょう。
サブカルチャーが趣味道楽では済まなくなった現代、この傾向は決して一過性の傾向とは言えません。
しかしながら、多くの作家がそれでも面白く見せようと色々な努力をしていることは分かります。
努力するシーンの確保が難しいのなら、重要視するべきポイントを、思想のぶつかり合い、主人公の苦悩葛藤、力の代償やリスク、人間関係の構築の難しさといった方向にシフトさせ、「努力」に相当する要素をなんとか組み込もうと様々な試みを行っています。
もっとも、確固たる信念というものは苦労し努力した末にアイデンティティとして確立できるので、一途に直情に行動し、かつ好感が持てるキャラを作るのが難しくなったという弊害も出てきました。
『るろうに剣心』の言葉を借りるなら、正義という言葉を簡単に口できる時代ではなくなったということでしょうが、今は別の話です。
いずれにせよ読者も作者も努力する主人公が嫌いになったわけではありませんが、それを書きにくくなったのは間違いないでしょう。
ただそれは商業に携わるプロ作家や出版社の事情であり、個人サイトで掲載していく分にはそう問題ないかと思われます。また、プロとして世間に公表するなら思うままに努力するシーンを書くことは難しいでしょうが、努力するシーンを面白く思えるように考えて書くことはできます。
人気作品というのは、単にハーレムだから、異世界物だからといったジャンルだけが理由で人気なのではありません。かならず他の百凡の作品とは一線を画す+αがあります。ジャンルやシチュエーションの傾向だけで作品や読者の良し悪しを問うのはやめた方がよいのではないでしょうか。
まず、一つ整理しておきます。
現状、「努力」が好まれない風潮があるとして。
1)努力型のキャラクターそのものが、好まれない。
2)努力(修行、スポーツの猛練習など)しているシーンは単調な(または泥臭い)ため、そういうシーンが好まれない。
1と2は、まったく別問題だと思うんですね。主人公や重要キャラを「努力している人間」に設定したとしても、努力しているシーンを一切書かないことも、さらっと少しだけ書くことも、書かずに臭わせることもできますから。
ですから、2は大した問題ではないと思うのですが。気になるのは1。
努力型のキャラクターそのものが嫌われているのだとしたら、それは背景として「時代の閉塞感」も影響しているのでしょうが、「才能と努力」というより本質的な問題とも係わってくることだと思います。
さて、才能と努力。
たいへん面白いテーマですが、私の考えを詳しく書くとかなり長くなるので、以下、私見を箇条書きで簡単に。
1)努力そのものが否定されているとは一概に言えないが、努力を美徳とする価値観は否定されている。
2)現在のみにとどまらず、人には優れた才能、卓越した能力に憧れる心理がある。
3)物語のヒーローが、努力だけでは実現できない圧倒的な才能(ファンタジーであれば、覚醒時の能力)で敵を凌駕する展開には、爽快感がある。
4)ただし最初から一貫して「俺TUEEE」のみでは物語に面白みが無いので、ヒーローにも挫折を与え、努力して乗り越える局面も作った上で、最後に努力を超えた潜在能力を爆発させた方が効果的。
問題は、4です。これが物語の王道だとずっと思っていたのですが、このスレの問題提起を拝見して少し不安になってきました。
昨今では、4のパターンはもはや通用しないのでしょうか?
榊一郎さんたちの発言でしたっけ? だとしたら僕も驚いて読んだ記憶があります笑
努力すること自体が嘲笑されるわけではないと信じたいですね…。
ただ主さんもピックアップされているように努力したところで誰しもがスーパーサイヤ人にはなれないし、立身出世できるとも限りません。
努力すれば何でもできる、よりもまだ自分にも眠っている力があるのでは、と考える方がよほどファンタジーというか希望的に思えます。
最初から顔と人当たりのいい主人公がやけにモテるのも別に自分の備わったものを使っているわけで、昔の漫画のように丸刈りの部活青年が誰よりも練習する姿を見て美少女が……よりは納得できるという話では。
普通、より多くの読者の立場に立つならレギュラーと補欠を行ったり来たりするキャラになると思うんですが、最近は特待生クラスの才能と実力がある(あるいは彼らから認められる能力をもつ)キャラの方が人気ですよね。
結局努力嫌いというより何でもかんでも努力の賜物で片付けようとするのがつまらない、努力の素晴らしさを力説され強いられるのにうんざり、ってことではないかなーと僕は思います。
努力シーンを描くにしても周りに隠れてさりげなく、常識的な範囲で効率的にやってるように描く必要があるのかなと。
>>我々の生きる現代が『努力しても報われない』時代であるせいで、努力して成長するという描写が若者には嘘っぽくしか見えないせいだ、と分析している方もいました。一理あるかもしれないと思うと同時に、なんとも寂しい考えだとも思ってしまいます。
一理もありません。
努力型が嫌われるのは、好景気とか不景気とか、そういうのは一切関係ありません。
あとなんか言葉の節々から、現代人に対する根拠のない偏見のまなざしが見て取れます。
>>本当に衝撃的なカルチャーショックというかジェネレーションギャップのようなものを
わたしはマスコミが根拠もなく現代人を批判する珍説が大嫌いです。
それと同じくらい、今時の若者は○○だから○○になるという、バカバカしい結びつけも大嫌いです。
マスコミがよく使う手だし。
>>何かに向かってひたむきに努力し頑張っている人には好感が持てるなんて、人が息をするのと同じくらい当たり前のことだと思っていました。努力して成長する主人公なんてものは、私は今までは王道中の王道だと思っていましたし、
活冷茶さんは誤解してますけど、努力すればなんでも叶えられるなんて考えは、現代人、20年前の人かかわらず嫌いな人は嫌いですよ。
1987年から掲載されたジョジョの奇妙な冒険戦闘潮流の時点でもうすでに努力型は批判されてたし。
もちろんそのジョセフも修業という名の努力はしてるんだけど。
それは物語に必要最低限の説得力をもたせる過程であって、本題は必至に策を弄して敵の虚を突いた頭脳戦。
ジョセフ(ジョジョの奇妙な冒険第二部の主人公)は、
「なんか考えなくっちゃあなッ。でも努力するのは嫌いでめんどっチィーし!
なんか楽シテ身につく方法は、ねーもんかなあ~~~」
「オー!ノーッ
おれの嫌いな言葉は、一番が「努力」で、2番目が「ガンバル」なんだぜーッ」
ジョジョの奇妙な冒険第二部・ジョセフ・ジョースター
という発言をしています。
努力、友情、勝利の少年ジャンプに一石を投じた言葉なんでしょうね。
文長さんも言ってますけど、なんでもかんでも努力の賜物で片付けようとするからつまらないんですよ。
努力というのはともすれば陳腐になるから、徐々に徐々にメインストリームから外れてきただけ。
それと主人公が何の努力もなくある日突然、最強の力を手に入れるという展開は別の話です。
ジョジョみたいに頭脳を駆使して戦わせる才能がないとか、単に面倒だとか、要するに作者の個性の話なんで。