キマリさんの質問 2013年05月16日
先日は私の悩みに答えてくださり、ありがとうございました。
お陰さまで漸くプロットから下書き段階に移ることができました。
今回、昔から気になってることがあり、それを伺いたくてスレを立たせていただきました。
それは《感情移入》についてです。
これは、簡単に言えば主人公に対し、《好き》か《嫌い》かの価値観の差で良いのでしょうか?
私は生まれて物心ついてからずっと、まんがや小説などを読んでいますが、感情移入をしている感覚がありません。
RPGをしても、《物語に入る》という感覚ではありません。
そういう楽しみ方が、理解できません。
主人公が嫌いなタイプであっても、ストーリー自体に問題がなければどんなに長くても乗り切ることができます。
感覚としては、作品を鳥瞰し、全体の流れを読む……といったものです。
作品を書(描)くときもそうでして、登場人物はあくまで他人で、彼らを動かすことは楽しいですが、起きた現象に対し、彼らがどんな気持ちなのか、きちんと理解することはありません。
あくまで他人、一個人なので、深く解らないのです。
既存キャラクターはまさにそれ、というか、最早テレビで芸能人を観る感覚でして。
そこに自分の感情をシンクロさせることはありえません。
なので、自分の中で感情移入が大切とは思えないんです。
で、皆さんは、いったいどんな感覚で感情移入をなさっているのか知りたいのです。
特に、主人公は感情移入できるキャラクターでないと駄目だと聞きます。
感情移入とはどういうことなのか、まずそのメカニズムを知り、感情移入をしない私でも少しでも近づき、キャラを作っていきたいのです。
好き嫌い程度でいいのか、そうでないのか、など。
わかりにくいかと思いますが、どうかよろしくお願いします。
●補足
私は物語を描くときは、《どこかの世界にいる彼らが起こした行動》を受け取り、それを書き起こしていく感覚があります。
危ない言い方すると《異次元からの電波をキャッチ》ですか。
でもまさに、その感覚がピッタリです。
なので、そこに私の感情は、全く関係ありません。
否応なく頭に浮かぶ情景を、淡々と文字や絵にするだけです。
他者が書いたものを読む時は、記録されたものを広い集める感覚で、そこにも私の感情は関係ありません。
むしろ、本当はまんがも小説も読むのは嫌いで、自分の中に沸くものを外に出す作業しか、意味のあることとしか感じません。
小説やまんがを読むのは、単に技法を盗む作業でしかなく、実は苦痛です。
●答え●
私には説明する事が難しいですね。
私としては、それが割と当たり前に出来る事が前提になってしまいますが、出来ないモノにもたまに行き当たったりします。
そうなると、どうしても入り込めないと感じてしまって、読む事を諦めてしまう事も有りましたね。
登場人物は他人であり、自分が操っていると感じている間は、感情移入は難しいかな?
私自身は他人ではあるが、操っているつもりであったが、逆に振り回されるがままに身を任せられる、友達の様に感じた事が有りました。
身近な他人であり、分身でもあり、想像上の友達として、捉えてみてはいかがでしょう?
私は、たまにキャラクターに質問してみます。
それをして見て、楽しい? 面白い? それは美味しいかな? どんな感じかな? などと、他愛の無い質問をしてみます。
その答えがどんなモノなのかを想像して見ると、一寸位は近付けるかと思うのでその様にお応えさせて頂きます。
どんな答えが返って来るのかを、それを楽しんで考える事で近付けるかな?
その時どう思ったの?
君は何がしたいのかな?
君なら、如何しようと思う?
如何なると思う?
どんな答えが飛び出してくるのか、それは尋ねてみないと判らない。
私の場合は、操っているつもりが逆に操られ、振り回された結果が反映される感じかと。
電波を捉えると言われた様に、唐突に連想される事柄をそのままに文章と言う形に置き換えていますね。
先ずはそのキャラに質問してみては?
無愛想に返すのか、考え込んで答えを出すのか、あっけらかんと返って来るのかを思い浮かべてみては?
参考になるかは判りませんが、私はこの様に考えてみたので、参考までにどうぞ。
はじめまして、池井けいです。
作家を志している人間の口から「感情移入」がどういうものなのか分からない、と耳にするのは残念かと思われるでしょうけれど、正直なところ、私自身もあまり分かりません。
これに関しては、13、4年間も執筆してきて、未だに答えの出ない問題です。とても残念なんですけどね……。
まず、好きか嫌いかで言うのなれば、ストーリーは当然のこと、登場人物(作中の数名でも)に共感や好感を持てないことには、続きを読むのを止めてしまうのではないでしょうか?
考えてみると、そんなの読む人によって様々だし難しいんですけどね。
>主人公は感情移入できるキャラクターでないと駄目だと聞きます。
まぁ当然、主人公の中にはずば抜けたキャラもいます。この場合は比較的、読者と同じような知識や見方のできるキャラを主人公の隣に用意します。
ホームズとワトスンのような感じですかね。
ぶっちゃけて言うと、作者があらかじめ「このキャラを感情移入の対象となるキャラに位置づけよう」と思っていても、結局はそうならないことのほうが多いんで、あまり意識しなくても良いのではないでしょうか?
むしろ、作中にそれぞれ色の異なるキャラを用意して、読者それぞれに気に入ったキャラを見つけてもらったほうが続きも読んでくれると思いますよ。
「感情移入する」ということをわたしなりに言い換えるならば、「その作品に魂が共鳴する」という言葉になります。
人は本をよんだり、映像作品をみたり、もしくはテレビゲームをしたりします。
読み手や視聴者、そしてプレイヤーが、キャラクターに感情を移入できるかどうか――それはつまり、そのキャラクターに魂が共鳴するかどうかだとわたしは思います。
では、どういうときに人の魂は共鳴するのか?
それは受け取り手が創作物に思い入れをもったときだ、とわたしは考えます。
ちなみに、ここでいう創作物とはキャラクターそのものも含みます。
ほんとうに魅力的なキャラクターなら、たとえそれが犯罪者だとしても、読者は感情移入することでしょう。
>既存キャラクターはまさにそれ、というか、最早テレビで芸能人を観る感覚でして。
>(中略)
>そこに自分の感情をシンクロさせることはありえません。
キマリさまは、キャラクターとの距離感を、画面の向こうにいる芸能人にたとえておられます。
好きではないけれど感情移入ができるキャラクター、というのは、きらいだけれど目が離せない芸能人に近いのではないか、とわたしは思います。
そんなキャラクターを創るのは困難ですが……。
>作品を書(描)くときもそうでして、登場人物はあくまで他人で、彼らを動かすことは楽しいですが、起きた現象に対し、彼らがどんな気持ちなのか、きちんと理解することはありません。
>あくまで他人、一個人なので、深く解らないのです。
書き手が「キャラクターの気持ちなどわからない」と突き放すのはあまりよろしくありません。
自分がつくったキャラクターの心理を理解しておかなければ、つじつまの合わない行動をさせてしまっていても気づけないからです。
>小説やまんがを読むのは、単に技法を盗む作業でしかなく、実は苦痛です。
天から降りてきたものを書きとめるだけで作品になるというのはキマリさまの才能です。
しかし、世の中に作品がうけいれられるためには、天賦の才だけでは足りません。
努力して、みがきあげる技術も必要です。
キャラクターになりきるというのは、じつは小説において基本的なテクニックです。
これは技法のひとつなのだとわりきって挑戦してください。
こんばんは、はじめまして。
感情移入を自分なりに解釈した意見です。
私は物語のワンシーンだけに目を引かれる事がよくあるのですが。その際のムズムズした感覚が「今まさに感情移入しているんだな」と自覚できる方法だと思います。
主に、自分の経験や、持っている知識に合致した場合に、感情移入しやすくなります(知ってるパロネタが出ると嬉しくなる感じです)。逆に知らないと感情移入の妨げにもなるようです。
その他、知らないけど魅力的なキャラ(もしくはセリフ・単語)が出てくることで、「これは何だ?」と興味をそそられて「もっと知りたい」となり、キャラや物語に入り込むようになったりもします。
物語の中に自身の感情はありませんが、感情を揺さぶられたら、感情移入していたのだ、と解釈しております。
例え話になりますが、金魚鉢を物語に見立てると、それを見る人物が、どれくらい金魚鉢に近づいているかで、感情移入の度合いを測れそうです。
魅力的な金魚(キャラ)が沢山いると目が疲れて、離れる人もいれば、見回して一部の金魚を間近で追い続ける人もいます。
金魚鉢に頭を突っ込んで、金魚と一緒にいる気分を味わう人もいます。
遠くから金魚鉢の形を楽しむ人もいます。
どの人も感情を金魚鉢に持っていかれているので、感情移入したのかもしれません。
でもやっぱり中に入って一緒になった方が、感情移入と呼ぶにふさわしいです。
(ここ、自分だったらこうする! とか想像するのも感情移入かもしれないです)
キャラの感情は、自身の想像できる範囲で良いと思いますよ。
あとは興味を持った読者さんの方から近づいて、キャラの感情を補ってくれます(おそらく)。
自身は初心者で趣味でやっておるので、参考にならない部分もあるかと思います。取捨選択をお願いいたします。
それでは失礼します。
個人的な解釈ですが
基本は「視点者の心情を理解できる」
応用は「視点者に共感できる」
最終は「視点者に入り込む、まるで自分の事の様に思える」
この三つをまとめて「感情移入」というのではないでしょうか。
個人的に感情移入が重要なのは視点者と読者がダイレクトにつながる一人称に限ると思います。三人称ならそれほど重要ではないかと思いますね。
私は一人称書きですが、視点者に感情移入はそれほどしませんね。
別に自己投影してるわけではないので、キャラはあくまでもキャラですからね、自分とは違いますし。
>好き嫌い程度でいいのか、そうでないのか、など。
視点者が好きか嫌いか程度でも良いと思いますよ。
もっと言うなら「視点者が嬉しそうだと、自分も嬉しい」「視点者が悲しんでいると、自分も悲しい」そういうのが感情移入だと思います。
まぁ、根っこの部分に「視点者を好意的に思っている」って前提があればOKだと思いますよ。
私も昔は「感情移入って何だろ~?」と多少は悩んでいた頃がありました。折しもそれは大学で卒論に使うテキストを読んでいる時だったのです。
自分が使ったのは18世紀イギリスの経済学者、アダム・スミスが記した「道徳感情論」です。同感や共感をメインに据えて、人間の感情や行動に対して精微な分析をしたテキストになります(岩波書店から上下巻で2000円程度で買えます)。
当時は研究しながらしっくり来ない部分もありましたが、この場でかいつまんで説明しようと思います。
まず「感情移入」ですが、この字面は一旦忘れて下さい。根本は「その人物に対する関心」です。
これの最大規模が「感情移入」となり、例えば主人公の一挙手一投足を見て、彼と同じように一喜一憂する段階と言えます。
これは漢字の印象から同感・共感と似たような印象を受けると思いますが、実際には同感に該当すると言って良いでしょう。しかし、共感とは異なるのです。
同感:
同胞感情、特に哀れみをベースとする。相手がどんな感情を抱いているか察する能力を意味する。
例えば相手が抱いた怒りに対し、「自分も怒りたくなる!」「ちょっと大げさすぎやしないか……?」と、その感情が自分が当事者になった場合でも一致するか、その強さが受け入れられるかを示す能力
共感:
「相手のパーソナリティ(人格)」を熟慮の対象にする(十分に理解する)ことを意味する。
つまり、相手の取った行動に対して「わかるわ!」「いや、わからないわ……」という是非や善悪の判断を下すもの
従って、感情移入できるキャラクターを作るには、彼の抱く感情は、その原因や彼自身の境遇などを把握した上で、読者が同じような感情を抱けるかどうか、という点が重要になります。
その感情が人並みであるかどうか、それが「そのキャラクターについていけるか」に関わってきます。
作者はこれをある程度コントロールするテクニックが求められるかもしれません。
例えば作中最大の敵に対する激しい怒り(そもそもネガティブな感情は同感をしにくいもの)を読者にも抱かせるには、それまでの経緯を丁寧に書いてやる必要があります。
主人公と読者の感情が一致、または近い所に押し上げるのに、書き手は巧みに誘導してやらなければならないのです。
これに失敗すると彼のキャラクター評価がガクッと落ちて、作品全体の評価も脅かしかねない事態になってしまうのです……。
また、恋愛感情も同感しにくいものです。ラノベ主人公がモテモテになる作品がアニメになったりすると、ニコニコ動画では「リア充爆発しろ!」などとコメントされます。
2人だけの世界には非常に入り辛い、という訳です。
しかしながら、その恋愛劇の向こうにある希望や幸せ、あるいはその恋が生み出す辛苦には関心が向きます。そういう所まで描写があると、受け手の関心を持続させることができるのです。
テレビに映る芸能人に感情移入? それは無理というものですよ。
何故ならまるで世界が違っていますから、滅茶苦茶想像しにくいのです。
なので政治家などで「庶民派」という印象がもてはやされる訳です。距離感が近いので皆さんのことも分かりますよ、ということで。
大体こんな感じになりますが、いかがでしょうか。
こんにちは。ちきです! 「チキン」じゃないよ?
> で、皆さんは、いったいどんな感覚で感情移入をなさっているのか知りたいのです。
感情移入させるためには「同情」「憧れ」「共感」「応援したくなる」「難題に立たされた主人公」の5つだと思います。
例をあげます↓
「同情」いじめられている人をみてかわいそう。
絶望的な体験。
「憧れ」俺(わたし)も主人公のようになりたい。
あんな能力(イマジンブレイカ―とか)使いたい!
モビルスーツに乗りたい!
「共感」主人公と読者が同じ心境。友達がいないとか……。
彼女(彼氏)がほしい!
「応援」はラノベだと、ヒロインのために。
がんばれ! 主人公!
「難題」はどう考えても無理に挑戦する主人公を見て読者が「え!? どうするの!?」と思わせる難題を主人公にぶつけます。難題が過酷であるほど、よいでしょう。
例:主人公がこれこれ、これをしないと、ヒロインが死ぬ。
> 特に、主人公は感情移入できるキャラクターでないと駄目だと聞きます。
主人公に感情移入が重要される理由(私見ですが)は、作中でもっとも、読者と接する回数が多いキャラが主人公であり、主人公は作中で読者と同じ立場にいるからだと分析します。
感情移入の<移入>という言葉に惑わされているようですが、感情移入とは必ずしもそのキャラクターの心情とシンクロしたり、そのキャラのなかに入り込んで同化することを指すわけではありません。
例えばそのキャラが本当に真剣に考え抜き本当に真剣に行動している姿を目の当たりにして胸を打たれたり、行く手を阻む理不尽な状況に怒りややるせなさを感じたり、溢れ出る想いを吐露した時に貰い泣きしそうになったり、主人公が啖呵を切った場面で「そうだ、よく言った!」と思ったり。
物語を読んでいるときに感じる、小さな感動や小さなスッキリ、小さな達成感や小さな同情。それも感情移入です。
それさえないのであれば、それは作品を面白いと思っていないということですので、なんとも言いようがありませんが。
執筆する時も、そのキャラが行動するにあたってどういう心情の流れや変化があるのかを念頭に置いています。でないとキャラがただの駒になってしまい人間ではなくなってしまいますから。
しかしその際、心情を理解できるか同調できるかというのは問題ではありません。
その心情を使って読者の心をどう動かすじとができるかがポイントなわけです。
同調できなければ感動できないなら、多くの人にとっては王侯貴族の葛藤や矜持を理解できないでしょうし、兄弟のいない人は兄弟間の愛憎を見ても何ら感動することもハラハラすることもないわけになりますが、そんなことはありませんよね。
好き嫌いかではなく、感動できるかどうかが重要だと思います。
感動という言葉だと陳腐で大げさに聞こえますが、その作品を読んで何が面白かったか、どこが見せ場だと思ったか、そういうことを分析すれば感情移入の感覚が分かるかもしれません。
はじめまして。あまくさと言います。
以下、私見。
小説などを読んでいて、登場人物がピンチに陥ってハラハラするとか。苦しんでいたり死んでしまったりした時に、悲しい気持ちになったりしたことはまったく有りませんか?
もし少しでもあれば、それが感情移入です。
そのキャラと同化する必要はありません。
架空の物語なのに、その中に出てくるキャラに対して感情が動いてしまうのが、感情移入です。
作り話だとわかっているにもかかわらず、主人公が死の危険に直面すると不安になり、切り抜けるとホッとする。キマリさんはどうなのか判りませんが、私にはそういう感覚があります。
でも、それって不思議な心理なんですよね。誰も実際に死ぬわけじゃないことは、わかっているんですから。
どうしてそういう心理があるかというメカニズムについて考察し始めると物凄く長くなるので、とりあえず省略します。
ただ、読者にそういう心理があるのなら、それを利用することは魅力的な小説を書くための強力な武器になるわけです。
ただし、物語を魅力的にする武器は他にもあるでしょうから、感情移入に重きを置くかどうかは、書き手と読み手の選択の問題にすぎないのだろうと思います。
もう一つ。
物語を作るジャンルの中で、小説だけに当てはまる特殊事情があります。
それは、文章だけですべてを表現しなければならない、ということです。絵も、効果音も、声も、音楽もありませんよね。
作者の脳内にあるイメージを文章という抽象的な記号の羅列に変換し、そこから読者の脳内にイメージを再構成させなければならないわけです。
これも突き詰めると「言語とは何か」という問題になってくるわけですが、難解なので省略。
実践論としては、小説とはそういうものだから、読者が具体的なイメージを思い浮かべやすい拠り所を作る工夫が、マンガやアニメよりも求められるということです。
その拠り所を作る書き手の戦略は一種類ではないでしょうが、感情移入――先述した、架空のストーリーやキャラを無意識に現実と錯覚し、感情を引き寄せられてしまう心理――は、かなり有力な手段になるのだと思います。
主人公に感情移入させよとのテーゼについて。
実はそんな必要は必ずしもないのですが、それが一番わかりやすいんですね。
読者と主人公(主軸となるキャラクター)の知識をなるべく一致させ、ストーリーを辿りながら驚いたり悲しんだり何かを発見したりという体験を一緒にさせるようにする。
そうすることが読者を作品の中に引き込むためのかなり有力な方法なのは、確かだと思います。
世間には感性の異なる人々が共存しています。
たとえば、
他人の行動を見ていて、
「その人が今どのように感じているか」
それを想像することが困難な人。
このような器質を持っている方が少なからずいらっしゃると聞き及びます。
もっと具体的に言えば、仮にあなたの生活圏内で肉親や友人など親しい方との交流があるとして、そのひとりが、あなたの目の前ですっ転んだり、調理中に刃物でけがをして血を流すのを見たりした時に、とっさに「ああ、痛そう!」という感覚が浮かぶかどうか。その基準に照らして《共感》と呼ばれる心理作用の多い少ないを言う目安になると思います。
もちろん、あなたが《共感》と縁が薄い器質をもつと断定して人格的な評価をする意図は毛頭ありませんので、どうかそのようにご理解ください。
私がかくなる連想に及んだのには理由があります。
不思議に思ったのです。
あなたは小説やマンガを読むのが苦痛である。一方、あなたは小説またはマンガを書いている。自分が苦痛に感じる行為を他人にも経験させようとする、その動機が何であるか、とても不思議に感じてしまいました。それについてここで判じることはいたしませんが、悪意に端を発するものではないと信じたいと思います。
なにか訳がお有りなのでしょう。
一切の感情を排した創作物は、当然あり得ます。中立的で冷静なドキュメンタリ、登場人物の存在しない論文、そうしたノンフィクションですね。しかしながら、そのような著作物であっても読者の胸には感情ないしは感動が去来することがあります。
それは、作品を挟んで両側にいる書き手と読み手、その両者がともに生身の人間であるという暗黙の了解のうえに《共感》が成立するからだと考えます。そして、これはフィクションの世界にも敷衍されるものであると思うのです。
読むという行為によって読者がなんらかの感情を得る、その条件が何かと言えば、読者が積極的に作品に関わることだと思います。読者による解釈が始まる前には、作品は平面上のランダムな色彩の配置にすぎません。
作品を解釈し、脳裏に状況を構築していく。感情を読み取り、《共感》の能力を使ってキャラクターの心理を疑似体験する。「読む」とは、受動的な行為に見えて、なかなか能動的な作業なのです。
作者もまた、疑似体験をします。キャラクターを描写しながら、その場面でどのような感情であるべきか、自分が持っている感情のストックを用いて鮮明に再現しようと努めます。そこにこめられた感情が、記号の羅列に変換されたあと、読者に送り届けられるかどうか、それは作者と読者の間に存在する共通理解を前提とした《共感》に期待するほかないのですが。
作者が物語をつくる中でキャラクターの感情を想起しようとする行為は意識的なものですから、その「感情」もまた創作物であるとも言えます。また、読者が単なる記号列から手掛かりを得て胸中に空想世界を構築し、感情を追体験しようとする作業は、能動的である以上に創作的でさえあります。
作者と読者の《共感》を前提として、作品を中心に双方が歩み寄ること。
感情移入の背景にはそのような構造があるのではなかろうか、というのが私の考えです。
メンタリティに関わる大変デリケートな問題でありましたから、私にはいささか荷が重く、簡潔に述べることができませんでした。長々となり、申し訳ございません。
キマリ様と私の間に《共感》があらんことを。
>私は物語を描くときは、《どこかの世界にいる彼らが起こした行動》を受け取り、それを書き起こしていく感覚があります。
という創作方法は、アリだと思うんです。そういう作家さんはたくさんいます。
ただそれだけの、感情移入を表現しない文章に面白さはアルのでしょうか?
例えば、タンスの角に小指をぶつけた痛みと情けなさは、一度もぶつけていない人には伝わりません。
想像はできても実感がないので「いたいんだろうな~」くらいことです。
その他にも失恋し傷心した痛みは、振られた時にしか解からないし、試験に受かった喜びもそれを勝ち取った人にしか伝わりません。
逆にどんなに異世界で価値観が違おうとも、経験からくる実感があるから感情を移入させることができます。
自分自身の経験には限りがあるので、多くの作家は取材をしたり、積極的に体験したり、BBSで炎上させたりします。そこで得た情報を元に感情移入の手がかりを模索します。
いかに、「送られてきたお話」に組み込み、他者を共感されるのか?が、腕の見せ所ではないのでしょうか。
感情移入の感覚など、ほとんどの作家は持ち合わせていないでしょう。みんなTVの前の視聴者と同じです。
あるように見せるのが作家だと思います。
始めまして、ロクに技能もない初心者の癖にキャラクターメイキングだけは意味不明な程得意なウジャBです。
私の場合は感情移入は超危ない物言いですが乗っ取られる感覚。
常にできる訳では無いんですが、出来ない時でもセリフは勝手に出てきますね、嫌でも。
そこに居ない登場人物に口を挟まれたりした日にはもう……。
山場とかになるとあぁ、抑えられない!
「OO、お前さえ、お前さえ居なければこんな事にはぁ!
キエェェェェェェェエエエエエエ!」
とか時々セリフ叫んだりしてますね。むしろ書くときにキエェ(以下略)の部分を情景描写に直したり。
それにその人物を定義したならその人物の感情や思考回路を自分に重ねる事も出来る、そんな理屈でもありますね。
(逆にそれが出来ないキャラはつくりません)
でもゲラゲラ笑ったり叫んだりしながら執筆する人、完全に危ない人だ……。近隣住民の皆さん申し訳ありません。
入るというより重ねる、自分が主体ではなく彼(キャラね)が主体になるんですよ。
だから必ずしもストーリーに準じた行動を取ってくれる訳ではない。
寧ろ精密に練った世界観とキャラが勝手に話を作る過程で私が少し軌道修正をしていく形になりますね。
移入と言うよりは投影ですね、私の場合。
遠すぎて参考になるかは分かりませんが。
皆様、難しい疑問に向かい合っていただき、ありがとうございます。
感情移入とは、所謂《共感》ということみたいですね。
女性はとかく共感を求めがちだと聞きますが、私は女性ですがそういった感覚が実生活の中で乏しかったりします。
例えばなにかを食べている最中、
「これ美味しいよね」
と同意を求められても
「美味しかったらなんなの?」
と、頭に即座に浮かんでしまいます。
それを口にすると《冷たい人》と返されますが、どうして私が冷たい人間になるのか、正直なところ解りません。
ただ私は《美味しかったらどうしたいの?》と訊いているのに……。
最近では心になくても《そうだね》と返す方が角が立たないと覚えましたが、そう答えるのは本当はあまり好きではありません。
心理学関連のテキストを読むとこれが《共感》のようです。
井戸中カエルさんが提示してくださった件ですが、思い当たる節はいくつかありました。
私は《痛がってるであろう》人への配慮より、現実的な処理を優先するようです。
例えば
「痛い?」
と駆け寄るのではなく、
「必要ならば救急車をよぶので症状を言いなさい」
……こんな感じのようです。
私が感じるのはその《共感》部分はクッションのようなもので時間の無駄であり、途中で切らないでその先にあるものを提示しなさい、といった感覚があります。
私がものを読んだり、ドラマやアニメを視聴する際は、登場人物の感情はどうでもよく、ストーリーを追う事を重視します。
読んでる最中、巻が途切れると《早く続きを!》とは思いますが、登場人物に対して可哀想や、哀しい・嬉しいなど、そういった心の動きはない、あっても僅かだと思います。
登場人物の感情がどうでもいいのは《ストーリーを覚えたい》という考えが強いからかもしれません。
そもそも私自身、共感というものに重きを置けない性格なのかもしれません。
これも井戸中カエルさんのレスの件ですが。
《読むのが苦痛なくせに読ませようとする》
これは、たぶん、物心ついた頃から常に頭のなかで物語を空想をしていたからかもしれません。
小学生の低学年にそれらを絵や文章にして外に出すことを覚えて以来ずっとやってきていますが、《人に見せる》という行為はその延長でしかありませんでした。
今でこそ多少は作品の良し悪し程度の感想を気にするようになりましたが、以前は見たいというから見せていただけで、別に誰かに見てもらう必要性はあまり感じていませんでした。
自分では《描ければいい》という感覚が常にあり、読むよりも作る方が数倍楽しいのです。
嫌いな話でも自分が描けば楽しいですし、好きになれます。
今回小説を書かなくてはならなくなったというのは、部活に入り、秋の文化祭に個人誌を出展することになったためです。
文芸部ではないのですが、《普段とは違った媒体で自身の作品を作る》事になり、普段私はまんがを描いているため小説になったという経緯があります。
長々と自分語りをしてしまい、申し訳ありませんでした。
要するに、読者から《共感》を得られるような主人公を作っていけば、基本的には良いようですね。
まんがを描いている時はあまりその面で突っ込まれたことはなかったので、あまり気にしないようにしたいと思います。
《二次創作は、キャラを壊しすぎると不評でしたが……》
今回も相談に乗ってくださり、ありがとうございました!
>要するに、読者から《共感》を得られるような主人公を作っていけば、基本的には良いようですね。
それができるなら、何も問題はありません。
それに。
もとより小説のプロを目指すというようなことでないのなら、マンガという下地のある方なのですから、書きたいことを自由に書くだけでよいのではないかと思いますよ。
>自分では《描ければいい》という感覚が常にあり、読むよりも作る方が数倍楽しいのです。
>嫌いな話でも自分が描けば楽しいですし、好きになれます。
私から見れば、そんなキマリさんがむしろ羨ましいくらいです。
そういうことなら感情移入なんて気にする必要すらないと思いますが、もしそこに重きを置いてやってみたいのなら。
一人称でも三人称でも、主人公を物語の中心にすえて、彼女(彼)に完全に視点を固定してみることをお勧めします。
マンガやアニメの場合、主人公と言えども外面描写しかできません。視点の固定という手法が可能なのは、小説だけ。それを試しにやってみるのが、いいのではないかと思います。
……とは言え、もしかしたら私はまったく見当はずれなことを言ってるかもしれません。
上の提案に興味が無ければ無視していただいてまったくOKです。
レスも、そちらから特に何か無ければ不要です。
ふたたび、カエルです。
本筋と関係のないプライバシーについてお話しさせてしまったようで、恐縮しています。自分の書き込みが、それを促すかのような、やや挑発的な物言いになったのではないかと、反省も。
でも、合点が行きました。ありがとうございます。
課題として制作するお仕事が発生したわけですね。なあるほど。
私なんかは、コメントのやり取りが楽しくて、みなさんと交流したいがために投稿室に書いたりする本末転倒なやつだったりするんですが。そこはそれ、やっぱり人それぞれということでw
とは言うものの、発表するしないは別として、創作すること自体が楽しいという感覚には、同感するのも確かです。「感情」と同程度と言っても良いほど、消すに消せない衝動ではありますね。
それにしても、秋の文化祭に向けて、今準備をされているとは。
周到な心構えに頭が下がります。ふだんのマンガのイメージをもとに、ネームをカギ括弧にいれて、人物と背景を地の文に落とす作業になるのでしょうか。面倒かもしれないけれど楽しんでやっていただきたいなと思います。
作者が楽しんで書いたかどうかって、意外と読者に伝わるんですよ。
では、また。
失礼いたしました。
共感って「人に合わせること」になっているようにお見受けしますが、どうでしょう?
理屈っぽい言い方ですがも、しその様に思われているのなら全く違います。
他者がこう思った、感じた、それに対し自分はどう思ったか?
これが前提です。
上の例なら、
友人「これおいしいよね」
私「A,(私は)おいしいな」「B,(私は)まずいな」
と、共感はこのような感想に終始します。おいしかったからどうした?と質問・疑問にもってゆく必要はない。
他人は他人、自分は自分。
合う/合わない、喜怒哀楽、ひとりひとり思考がある。ただそれだけです。
おうか様、こんにちは。
質問主様が「感情移入」のテーマを離れ、ご自身の内面についてつまびらかになさったのは、私の発言に答える形で、そうされたのです。これについては私に責任があります。けっしてキマリ様が「共感」なる用語もしくは概念を誤用しているのではないと、申し添えたいと思います。
遺伝子というものは大したもので、人間から生まれる子供は、恐ろしく高い確率で他の人間とそっくりの脳を形成します。そのおかげで人間どうしは言語によるコミュニケーションをなしうるのでしょう。同じ状況にある人間が、ある程度、同じような反応をすることも予想できます。
「ある程度」という言い方は、はぐらかしたような、ずるい言い方に聞こえますね。じゃあ、どの程度? ということになりますが、ここがまさに微妙なところなのです。「味覚」などの繊細な感覚においては、同じものへの反応が十人十色でもおかしくありません。しかし、人間は、
1. 自分はこれを美味しい1. 自分はこれを美味しいと感じる。
2. 他人もこれを美味しいと感じるだろう。
と、期待します。社会的な基盤としての「共通理解」への期待に通じるものです。そして、さらに多くの人が、
3. そうあってほしい。
このように望みます。
「これ美味しいよね」と同意を求める言葉の末尾、「ね」の一字に「共感への期待」が込められているわけです。しかし、この、3番目の心理が働くのがどの程度なのかが「微妙」なところで、実際に質問主様の心理がどのようなものであるか断定せずにものを言わなければならないとの思いから、私の回答がつかみどころのない文章になってしまいましたが、キマリ様はそれにきちんとお応えくださり、共感への期待は(実生活上は)自分にとって重要ではないとおっしゃったのです。
もともとのご質問が「感情移入とはどのような心理プロセスか」、「形式的にでも良いから理解したい」というものであると解釈しましたので、私なりに、「共感」という語を用いてその構造についての仮説を述べました。この論を下敷きにして「共感」についての実体験をお聞きすることになりましたが、これは本質的な議論ではなく、「感情移入」の周辺に位置する側面的材料とお考えになった方が良いと思います。
感情移入≒共感と言いましたが、ではそもそも共感の定義とは何かという大事な話をしていませんでした。
共感に似た言葉に「同感」がありますが、これは他者と同じ経験をして同じ感情を抱くことを言います。
例えば、一緒に同じ映画を見て同じく悲しいと思ったり、同じ食べ物を食べて同じく美味しいと思ったりすることが同感ですね。
では共感とはなにかというと、他者が経験し抱いた感情を見聞きして、自分も同じ感情になることを指します。
例えば恋人が嬉しそうに笑っているのを見て自分も幸せな気持ちになるとか、上司に対する愚痴を聞いてやったら自分もその上司に大して怒りや腹立たしい感情が募ってきたとか、そういうものです。
何かの経験をしたのも、感情を抱いたのも、自分ではなく他者なのです。
「共感」を考えるにあたって、まずこのを定義を意識して下さい。
同感は同じ経験さえすれば、個人間の感性がよほど乖離していなければ成立します。
しかし物語はフィクションなので、どうやっても同じ経験をすることは不可能ですよね。我々は異世界に住んでいないし魔法も使えない。主人公と同じ学校に通っているわけでもないし、サッカー選手や野球選手でもない。現実世界で付き合っている人がいても、物語の登場人物であるA君やBちゃんと付き合っているわけではありません。
なら読者は、真剣勝負の張り詰めた空気や、大会で優勝にかける想いや、A君に対する恋心を読んでも、緊張したりトキメキを感じたりすることはないのでしょうか? 日常生活ではそうそう命の危機に陥ることのない我々は、命をかけて仲間を護ろうとする人間の行動を見ても、何も思ったりしないのでしょうか?
もちろん違いますよね。そこで「共感」が働くから、物語を読んでドキドキワクワクするんですよね。
では、どうやって読者を共感させることができるのかという話になると、そこで我々が日夜研究して磨いている「表現力」が求められるわけです。
上記と似た例ですが、料理評論家やグルメレポーターが雑誌に料理やワインの味を記そうとします。
そのとき、様々な比喩表現やレトリックを駆使して味を表現しますよね。なぜあんな言い回しになるのかというと、その料理を食べたのはレポーター一人であって、雑誌の読者は実際に料理を食べていないし味も分からないからです。ましてや「味覚」なんて究極の主観ですから、ただ「おいしい」と言っても伝えようがないんですよね。それでもその味を少しでも分かって貰える(=共感してもらえる)ためには言葉を尽くすしかないから、ああ言った表現になるんです。
これって小説家と同じです。その場にない世界や感情を文字だけで分かって貰うために表現力が求められるわけです。
なのでここだけは甚だしく思い違いをしています。
>>要するに、読者から《共感》を得られるような主人公を作っていけば、基本的には良いようですね。
そんなことが簡単に出来たら、誰も文章力や表現力を身につけるための苦労なんてしません。
共感を得るためには伝える努力が必要で、伝える力を身につけるには、まず相手の意を分析し読み取る努力が必要です。
少し話がずれますが、俵万智の詩に
「寒いね」と話しかければ「寒いね」と答える人のいるあたたかさ
というものがあります
自分の呼びかけに反応してくれる人がいること、自分の想いに共感してくれる人がいることが、あたたかさとありがみを詠んでいます。
キマリさんも「おいしいね」の言葉の先にある物を、尋ねる前に自分で読み取る努力をしましょう。呼びかけている以上、反応を求めていること、そして事務連絡ではないことは少し考えれば分かりますよね。
小さな幸せを共有したかったのかもしれませんし、会話の種としてコミュニケーションを取ること自体が目的だったのかもしれません。そこで「だから何」と返してしまうというのは、会話という行為自体が億劫だったという可能性を除くと、共感以前にそもそも読解力に乏しいのです。
日本語が数ある言語の中でも代表的な高コンテクスト言語と評されているのは言語学の世界では有名な話です。よく「行間を読め」と言われますが、作家はさらに「行間で伝える」ことが求められます。
クリエイターも何かを伝えたくて、何かを表現したくて作品を作っているわけです。テーマとかそんな大それた話ではなく、「ワクワク」とか「ロマン」とか「その時の気分」とかそんなものでもいいから、何かしら表現したい物があるはずです。
それを自分の作品の読者に分かってもらえたら嬉しいですよね。
その表現したいものを磨けば、おのずと共感してくれる人が増えると思います。ぜひとも頑張って下さい。