スポーツだろうが創作だろうが、どんな世界の狭き門でも志を持った者達が門前市をなしています。
仮にも創作家志望だというのに、他人に何か言われたり、自分を否定するような意見を見聞きした程度で何の反骨精神も燃やさず真に受けて諦めるくらいなら、それはあなたは物語を創る立場の人間ではないということです。とっとと諦めて下さい。
そもそも作家になるってことは、自分の作品を世に出すってことです。そしたら全国津々浦々から自分の作品への感想や意見が届きます。中には悪質な暴言や誹謗中傷も多数あることでしょう。作家へ届くレターは出版社が介入して選別するとはいえ、ネットの評価なり雑誌の評価なり、少なからず読者の声は耳に入るはずです。
で、いちいちそれを真に受けて書くのを辞めるんですか。作家になるのが夢じゃなかったんですか。
というか、なんで可能性が閉ざされているのでしょう。向いてなければ絶対に受賞は不可能なんですか。そもそも自分の遺伝子が作家に向いているかどうかなんて、分かるんですか。
それ以前に、例え仮にそれが事実だとしたところで、です。
誰かがあなたにどんなに同情してくれようが、あなたが作品を書かなければあなたはいつまでも作家になれません。
もしあなたが何かの義務で嫌々ながら作家にならなければいけないというのなら、遺伝云々は作品を書けない言い訳にはなるでしょう。しかし自分の心が作家になることを望んでいるのであれば、そんなものは何の言い訳にもなりません。ただ一生作家になれない事実があるだけです。
それが嫌なのであれば、受賞するまで頭捻って何度も何度も作品を書いて応募するしかあれません。結局、それの積み重ねです。
なんというか、quia*さんはそういった成功者の発言や研究者の論を引用して、自分の努力不足を正当化しようとしているようにも見えるのですが……どうなんでしょうね。
さて、まずquia*さんは安藤教授の論文そのものを読んだことはおありですか?
quia*さんが引用している文章は、いずれも取材をした人がいて、それを、我々のようなその分野に詳しくない人でもわかりやすいように噛み砕きながら、且つ取材者や書き手の私見を交えながら書かれたものです。これは時に問題があり、必ずしも取材をした人、書いた人がその分野に精通しているとは限りません。だから安藤教授の言ったことと書かれていることとの間には齟齬が生まれることも少なからずありますし、なによりもなぜそう言えるのか、根拠の部分がそこまで詳細には書かれていない。
さらに、研究者があくまでも自分の論として書く論文とは違い、メディアの場合は、研究者自身が必ずしも確証を持てないこと、あるいはまだ今の科学では証明されきっていないことを、あたかも絶対的であるように書かれることもあります。学説というのは後世において覆されることも決して少なくはない、ということを、quia*さんはきちんと理解できないまま受け止めてしまっている、つまりまさに「情報に踊らされてしまっている」のではないかと思います。それがquia*さんが抱える問題点の一点。
さらにもう一点は、「才能」と「遺伝」を同一化してしまっていることです。
「才能」は必ずしも親から受け継ぐものとは限りません。仮に、部分的に親から才能を受け継ぐとしても、それがすべてとは限らない。今様々な方面で活躍している人々は、親が同じ方面で活躍していた、あるいは同じ方面の活動をしていた、という人が少なくありません。
しかし、親以上に活躍しているという人がいたり、親が活躍したのに子はそれほどでもないという人がいたりするように、その「程度」には大きなばらつきがある。quia*さんは、才能はすべて親から受け継ぐものと受け取ってしまっているような気がします。しかし、才能がすべて親から受け継ぐものならば、それこそ親が活躍できていなければ、子も活躍できていない、という状況が生まれているはずです。
さて、はたしてquia*さんには才能は皆無と言ってしまっていいのでしょうか? ご両親はそもそも文章なんてまったく書けない人なんですか? そんなわけはないはずです。日本人たるもの、少なからず日本語で文章を書く力をそなえているはずです。
親が文章をまったく書けないならまだしも、最低限の文章を書く力を備えているのならば、文章を書く才能が「ない」とまでは言えないのではないでしょうか。もしくは、親自身才能を持っていたのにもかかわらず、それを発揮できないままでいる、という可能性も否定はできないような気がします。それを超える才能をそなえているか、そうでないかはquia*さん次第。そして、その才能を引き出せるかどうかも、quia*さん次第です。
先ほど、私は安藤教授の論文を読んだことがあるかどうかをお聞きしました。仮にこれから読んでみたとしても、おそらくquia*さんには半分も理解できないだろうと思います。専門分野の論文とは、そういうものだからです。
そして、我々の多くはその論文の内容を理解できないままで生きていきます。そんな我々は、その論文に書いてあることなど関係なしに、自分の生きたいように生き、努力したいことを努力するしかないのです。その努力が報われるか否かは我々にはわかりません。そんな人生がいやなのであれば、早々に筆を折って、別の道を探すしかないでしょう。
失礼ですが、飛車丸さんに同感です。
スレ主さんは、何にもなれない人間だと思います。
少なくとも、今の時点では、です。
人の言うことを、深く考えず、真に受けている。
もっと考えて、かつ、行動するべきです。
かの発明王はこう言いました。
たとえ99パーセントの努力をしたところで、1パーセントの霊感が無ければ天才にはなれない、と。
> プロの作家になれるかどうかには遺伝が大きく影響しているのです!
ラノベでプロデビューできない原因を親に押し付けないでください。
ご両親がかわいそうです。
> 虚しくて生きていく気が起こりません。自殺を考えてさえいます。
まずは子供に先立たれる親の悲しみを考えてあげてください。
ご両親がかわいそうです。
quia*さんの悩み(遺伝云々)については、わりとどうでもいいのでスルーします。
ご両親がかわいそうです。
こちらも真面目に答えていますよ。
というか、貴方が反応しているのは、貴方の基準に照らせば真面目に答えていない返答ばかりです。他の真面目に答えてくれている方へはお礼すら述べていない。
元記事や前記事でもそうなんですが、要するに貴方は、自分を肯定して欲しいどころか、否定されたくないだけなんです。
であればこそ、肯定意見や応援は全て無視して、否定意見にばかり敏感に反応して勝手に傷付き、さらには全く見知らぬ人に慰めてくれとねだっているに過ぎません。
そんなものは、無条件で全て肯定してくれる人にお願いしてください、ということです。
思わず草が生えてしまったたむたむです。
うーん、みんなに言われているようですが「下らない」「詰まらない」「そんなことで絶望すんの?」って感じですよねぇ。
正直なところ、遺伝がうんちくで絶望するのは小学生までにして頂きたい。恐らくquiaさんは学生さんなのでしょうが、社会に出れば向き不向きに関わらず何らかの職を持たなければならないわけで、明らかに向いていない(才能のない)ものでも生活のために無理やりやっている人がいるのです(僕とか僕とか僕とか)。
そうでなくとも、小説家であれスポーツマンであれ、才能もないのに努力でどうにかしたなんて人は腐るほどいます。
あー……つまり、「才能が無いから」とか「努力しても無駄なんだ」は行動する前から逃げてる人のセリフなんですよねぇ。
quiaさんは「作家になるにも素質や才能が必要だと分かって絶望した」と言っていますが、十年以上も延々と公募し続けてデビューしたような人もいるこの世の中で、そういう理屈は通るのかどうか。
まぁ、簡単に諦める程度のものなら諦めてしまえばいいし、生きるのが辛いのであれば来世に賭けて死ぬのもありでしょう。
そんな感じで、雑なコメントですが以上です。
初めまして、神北百合と申します。
ここではよく質問しに来ますので、以後よろしくお願いします。
さて、早速質問の回答なのですが……すいません余りにも長い上に少しごちゃごちゃしていてわかりにくいので、回答者さんの提示する結論『つまり質問者様は自分に小説を書く才能を感じないので、絶望している』を元に回答させて頂きます。
書くことに才能がない……私も常々そう思ったことあります。というか、こう思ったことない人なんて物書きやってる人でいないのではないかなぁと思います。
現に私もここ最近まで書いては投げ書いては投げを一年近く繰り返して嫌になったことだって何度もありました。
それこそ、他人の作品を読んでは自分の文章に劣等感を持ってしまって、その当時書いていた自分の作品をビリビリに破きたくなる衝動にかられたりだとか。これは創作Q&Aでも載っていますが、まぁ余談として。
ですが、世の中にはまぁ皆から忌み嫌われている方の素晴らしい名言がありまして、それは
『“無理”というのはですね、嘘吐きの言葉なんです。途中で止めてしまうから無理になるんですよ(ワタミ創業者/渡邉美樹)』
です。
正直、私はこの名言大好きですよ。ただ、これを言っている方のやり方が余りにも無茶苦茶すぎてそれだけは賛同できませんけどね。
人間、『無理』なんて言ったらもうその時点で『無理』なんですよ。
言い訳を並べてやめることはできますけど、やめて不可能を可能――今回の場合は受賞などでしょうか、とりあえず言い訳を並べて『無理』って言って、それで受賞できたらみんな受賞してます。
でも、そこで書いて書いて書きまくってたまには苦悩などを味わったりしていれば、少なからず道が見えてくるのではないでしょうか?
その可能性がたとえウン十億分の一だとしても、『無理』と言って諦めた瞬間ゼロになると私は考えてます。
だいたい遺伝子だか何だか知りませんけど、そんな自分の身体の中にある小さな物質ごときに自分の可能性を殺されてたまりますか。
確かに少なからず遺伝子というものにも左右されるかもしれません。でも、そんなものに惑わされて絶望して、で、『やめる』ってなったらもうその時点で遺伝子うんぬんの前に自分で可能性を殺してますよ。
それで自殺って、余りにも考えが早すぎやしませんか?
私は別に『自分がそう思ったのならそうしたらいい』と思っている人なので、自殺したければ『それがアナタの選んだ道なら……』という回答をしますけど、それをしてしまったらもう本当に可能性はゼロになって後悔しか残りませんね。
色々と思うことがあったので大変長くなってしまいましたが、最終的かつ個人的な意見としては二点。
1:『そんなに絶望しているのなら、いったん休んでみてはどうでしょう?
一旦物書きの道から外れてみることで何かが見えてくるものがあるかもしれません』
2:『別に新人賞受賞だけが作家になるための道ではありませんよ。今現在、ピクシヴやらコミケやらで自分の作品を見せる機会がたくさんあります。
そこからふとしたことで作家に――なんてことがあるかもしれません。少なからず、私はこの道を見通してます。元々ジャンル事態、作家になるには険しすぎる道ですからね。新人賞ないですし』
です。
それでは、失礼します。的外れな意見だったらすいません。