個人の見解を、たとえそれが成功者や研究者であっても、延々と探して来て並べ立て、それを論破して欲しいと頼んでくる。理由は不安だから。
いい加減にしたほうがいいでしょう。そんなことに他人は付き合えないのです。
生まれか育ちか(nature or nurture)は、二律背反ではなく、相互が関与するらしいということは分かっています。
アスリートであれば、パワー系と持久系の体組成は異なることが分かっています。筋肉であれば、生まれたときの速筋と遅筋の比率は遺伝的に決定されています。赤血球1個当たりの酸素運搬能力もです。
ただ、速筋は鍛えれば肥大します。その上限は知られていません。赤血球も主に有酸素運動、酸素濃度により増加しますが、その上限は知られていません。どちらも、禁止・有害薬物を使用すると体に有害なほど増やせることは確実に分かっています。
頭脳はもっと不明なところだらけです。仮説が出されては棄却の繰り返しです。男女という極めて明瞭な差を基準にしてすら、そうなっています。最近の事例では、男の脳は地図を読むのに適するという仮説が棄却されました。母系社会での調査では、女の方が地図をうまく読んでいたからです。
そんな分からないことだらけのことを調べて来て、判断して欲しいと仰るのでしょうか。私は御免蒙ります。私は私の望むように頭を使い、好きなことをします。赤の他人に自分の将来を保証して欲しい、請け合って欲しいなどということは不遜極まります。
大事なことなので、もう一度いいます。いい加減にしてください。
P.S.
それについて、誰かに保証を求めたいとは全く思いません。むしろ、そんな口出しは無用です。
P.S.2(投稿後の追補)
他人の主張の読み方について、補足しておきます。
一成功経験者の言は信用できません。それは為末氏が指摘しているし(成功を後付の理由で語る等)、為末氏自身の主張にも適用されます。一例でしかないし、成功例を真似して成功者が続出することも過去に例がない。
一研究者の言は信用できません。以下のステップを満たしたものなら、参考にはなります。ただし、平均的、傾向的ににそうであるということと、ある個人がそうなのかということは厳に区別する必要があります。
1.研究者の言が、その研究者が利害関係のない機関・組織(以降、第三者機関と呼びます)に論文として提出され、受理され、公開された内容に沿っていること。
2.利害関係のない他の研究者によって当該論文が追試され、やはり第三者機関に論文が提出され、受理され、公開されていること。
3.そうした同種の研究論文多数を横断的に比較研究して当否を検討した論文が、第三者機関によって受理され、公開されていること。
4.ヒトを対象にした研究成果であること(動物実験では、ヒトについて結論は出せない)。
職業研究者は常に研究予算を欲しています。そのために、自分の正しさをひたすら強調します。論文ですらその調子で、商業誌などだと誇大なまでに形容したり、反論材料を全て伏せて断言もします。
遺伝なら、高校の生物の教科書に載るまでは相手にしないほうが賢明です。それでは飽き足りず、最新の知見を参考にしたいなら、論文を読んでください。週刊誌の一般向け解説記事、インタビュー記事などでは全く駄目です。その上で、下記のいずれかを選択することになります。
1.その論文が解説できるくらいの学識を身に着ける。(たいてい途中で主張の相対性に気づく)
2.一か八かで信じてみる。(たいてい外れに終わる)
3.とりあえず概要を覚えておくが、確かになるまで気にしない。(最も常識的で賢明)
さらに。小説家の適性遺伝子はどれですか? それがどうなっているとき、いつ頃、どのような特徴を示すようになるのですか?
遺伝だというなら、非常に基本的なことです。もちろん、調べた上で嘆いているんですよね?
辛口のコメントを書きます。
あなたは今までに長編小説を何本書き上げましたか?
小説の新人賞に何本応募されたのでしょうか?
編集部のコメントに沿って改稿し、再応募した作品はいくつありますか?
書きあげた長編が十作にも満たない。
新人賞に応募した事がない。
もしそうなら、それはあなたの怠惰であり、
それを才能や遺伝子のせいにしてはいけません。
ただの逃げです。
努力をしないで才能のせいにする。
自分を慰めるにはいいでしょう。
しかし他人に同意を求めてはいけません。
不可解な事故にたびたび見舞われると、その原因を追求せずに全て「霊」のせいにしてしまう。
そりゃあ、楽ですよね。
原因追求という努力をしないですみますからね。
それと同じだとわたしは思います。
勝手にあきらめて、勝手に絶望しててください。
がんばって成功するとは限りませんが、がんばって報われないことはありません。
やるか、やらないか。決めるのはそこだけです。
遺伝子の話はどうでもよくて読みませんでした。
問題なのは、あなたがその話を読んで絶望してなお、書き続けるか、やめるかです。
それでも作家になりたいと思うなら書いて技術を磨いてください。
自分に才能がないならいいやと思うのなら勝手にあきらめてください。
あなた一人が書かなくなろうが私には関係ないです。あなた一人が書き続けても私には関係ないです。あなたがどうなろうが私は書き続けますし、やることは変わりませんから。ほかの方たちもそうじゃないですかね。
人間、極限状態であっても意思によって行動の選択ができる生き物です。
逃げるか、戦うか。さっさと決めちゃってください。いつまで周りの心配をしてるんですか。
絶望したあなたが、何を選択するかはご自由に。
>ですが、うっぴーさんがまとめた『創作とは時間の浪費ではないか?』ではほんの少し、希望が示されていました。
なら、泣き言は一万時間に到達してから言いなさい。
才能を開花させるには時間がかかるとも書いてあるハズです。
作家の子供に文才があるというのは、確かに遺伝も関係あるでしょうが、それよりも、一般家庭の子供より文章に触れる機会が多いためでしょう。
正直言って、遺伝によって決定される向き不向きは確実にあるとは思います。
ですが、本当に向かない人ってのは、そもそも小説なんぞには興味を持たない。
創作以外の場所で「なんでこんな下手な文章しか書けないんだコイツ」って思う事があるのですが、本当に不思議なくらいに下手糞ですよ。相手に自分の意思を伝えるつもりがないとしか思えない。
ラノベに興味を持ったなら、文才だけに関わらずラノベに少しでも必要な何かの才能は持ってるはずです。
それを見つけ育てる一万時間なんですから、「俺には才能がない!」などと口にするのは一万時間に到達してからにしましょう。
でないと、あなたは「才能」というものを「コレさえあれば上手くいく魔法のような要素」と勘違いしてるだけで努力をしない人間ということになります。
>一作書き上げるには十万文字以上書ききる集中力やサボらない真面目さが必要ですが
サラリーマンと作家を兼業してる人が、一日どれだけ書いてるか知ってますか。
一日三時間も集中できれば一ヶ月で一作書けますよ。一時間半で10分休憩入れてやれば、学校の授業と同じスタイルですね。
小説家に特化した遺伝子でなくとも、平均的な人間にだって書けるんですよ。小説ってのは。
文章のセンスも同じ。てか、センスが良すぎると、同じセンスを持った人にしか理解できない結果になるので意味が無いw
ピカソの絵を、あなたは「傑作だ」と評価できますか?
前衛的なファッションショーの衣装を、あなたは笑わずに見ていられますか?
一般人に向けた小説なんだから、そんなんじゃダメなのよ。
>誰か助けてください
天は自ら助くる者を助く。
ぶっちゃけ、もともと作家たる才能がなかっただろうラノベ作家なんて腐るほどいますよ。
現在の作品が下手糞だという意味じゃなくてね。
一万時間も書けば、普通なら作家として活動できるくらいに成長します。
成長できなかったのなら、不謹慎かもしれませんが、それは才能が無かったのではなく、障害があったのでしょう。
どうも、こんにちは、始めまして。quia様。
文章はあまりにも長いからちゃんと読めませんでした。
要は、自分に才能がないから、絶望してる。そして、才能は遺伝だと考えてるという見解でよろしいのでしょうかね?間違ってたらごめんなさい。
quia様、私とよく似ていると感じます。
あまりにネガティブに物事を考えすぎていて、動けなくなっている感じがします。
私も、自分に絶望したことがありますから、よく分かります。
自分が何も出来ないんじゃないか、自分に価値を見出せないんじゃないかと。頭の中には無理無理無理とう言葉しか出てきませんでした。
そんな私を変えてくれた本がありました。
岡田斗司夫著の「プチクリ、才能=好き」という本です。
この本を見て救われました。好き=才能
なんだと。よろしければ読んでみてください。
考えが変わるかもしれません。
才能はナイフですよ。尖ってたり、厚かったり、小さかったり、
でも、大事なのは研ぎ続ける力です。
要は努力しなきゃ意味が無いんだ、努力も才能なんだと岡田斗司夫様は言ってます。
私もずっとネガティブで立ち止まってましたが、書きたいと思うキャラクターや設定があったので、また書いてみようと思えました。
とりあえず、もう一作書いてみようと思えたのです。
結局、私の創作意欲が、私をもう一度立たせてくれました。
quia様は、プロ作家になりたいのですか?
プロ作家になれるほどの実力がないから、自分には、才能がないと思っていらっしゃるように感じます。
私は、プロになることだけが正解だとは思いません。
プロなんて、それこそ、東大のエリートになれ、というのと一緒な気がしたんです。
プロになれなかった人は負け犬なのでしょうか?
才能の無い人の集まりなのでしょうか?
私はそうは思いませんよ。
一番大事なのは、楽しんで書けたかどうかだと考えてます。
才能があるとか、無いとか、多くの人に賞賛されたのか、否かとか関係ないですよ。
本来、創作って楽しいものですよ。
そう考えたら、才能がどうとか、そんなことどうでも良くなりました。
まあ、私が言いたいのは、ちょっと手を伸ばしてみないか?ということです。無理だと決めつけずに。
能力のうち何%が遺伝によるものかを数値化することはできません。
能力のうち遺伝の関わらない部分(=努力)を伸ばしていくことしかやることはないはずです。絶望してる暇なんかないですよ。
私は「才能」とか「天才」なんて言葉は信じません。これらの言葉は、あたかも人間に先天的に身についてる言葉のように聞こえますが、私的に、才能という名の「運」は、体型ルックスだけでしょう。脳味噌のつくりなんて、健常人ならどの人も大して違わないでしょう。科学的根拠はありません。私はそう信じています。だって、そうじゃないと何も動けないじゃないですか。
大成する人というのは、
・正しいやり方が出来るか(洗練されたアウトプット)
・情熱
この2つだけでしょう。
私はやりたいことやって死にたいので、ダメで元々、チャレンジしますけどね。
その人たちの話はトップアスリートの話で「全員が全員限界まで努力している集団で一位になるには才能がいる」というものであって、ラノベで言い換えるなら「業界で一番になるには才能がないといけない」ってことですよ。ラノベのプロになるなんて敷居が低いんですから、才能はあまり関係ないと思います。
特にラノベや漫画はアスリートとは異なり成功方法が多種多様あって「自分なりに勝つ方法」がいくつもあるんですから、才能……というか『強み』はどこかに絶対あるはずです。「才能ない」って簡単に言えるのは、単に自分の強みを探す努力を怠っているだけではないでしょうか。(あるいは自分に努力を課すための自戒の場合もあるでしょうが)
現状、いい作品が書ければプロになれるわけですし(かつ商品性がある)。正しい勉強法で正しい技術を学んで身につければ、それなりのレベルには至れると思いますよ。努力でなんとかなるレベル。才能はそれ以上に行くための素質でしかないはずです。
まあ、もちろん正しい努力をする必要がありますが。
それを見つけるのも努力のうちの一つですし。
まずプロを目指す以上、努力していることは当然として。努力の方向性が正しいかどうかを考えたことはありますか? たとえば「どうやれば自作に商品性を持たせられるか?」「ニーズや流行は何で、自作ではどの部分を満たせれるか?」「差別化要素はどのように持たせるか?」色々考えることはあると思います。
自分のやりたいことだけ、思い込みだけで努力することを努力とはいいません。それはただの自己満足です。小説家の役割は読者を楽しませることなのに、自分が満足してるんですからそりゃ夢も叶いませんよね。(自分が満足することで、他人も満足してもらえる可能性についてはもちろんあると思います)
本当に絶望してもいいだけの努力をしたのか?
自分にそう問いかける必要があるのかもしれません。
後、遺伝の話ですが、
石浦章一・東大教授(分子認知科学)は言う。「知能にかかわる遺伝子は1000個程度とみられる。だがその半分も働きがわかっていない。全容解明にはまだまだ時間が必要だ」
一つ一つの脳の機能がどの遺伝子によって規定されているか突き止める研究は、学問的に面白いものだと思うが、関係する遺伝子がどんどん解明されたとしても、遺伝子を基に知能の全体像を知るのは無理だと思う。遺伝子だけで決まらない要素があるからだ。
神経線維が伸びる方向などは遺伝子がつくるホルモンのようなもので決まってくる。しかし、神経線維が最後にどの細胞とつながるのか、一つの細胞なのか、二つなのかなどは、遺伝ではなく環境で決まると私は考えている。従って、人間の知能をコンピューターで模倣、再現することは絶対にできないと思う。
<出典>読売新聞(2008年2月26日付け) <記事>日本の知力(IQは知能のごく一部・遺伝だけで決まらず)
とありますし、反論の余地のある信憑性の低い話だと。
少なくとも現時点では誰にもよく分からないってのが現状です。
世の中には信憑性がなくても、ビジネス・政治上の都合のよさによって持ち上げられる論文もあるので注意したほうがいいです。要するにグレーゾーンだから権威を利用して好き勝手言ってるだけです。鵜呑みにしちゃダメ。きちんと根拠に正当性があるのか確認しないと。
みんなは直感で「正当性がないな」と感じたので、どうでもいいと感じたのだと思います