シルキーブラックさんの質問 2013年11月08日
三人称一視点についての質問です。
小説を読んでいて思ったんですが、三人称だとよく視点者の容姿の描写がされているように思いますが、三人称一視点だとあんまりされていないような気がします。
個人的には、一視点で書いているときに視点者の容姿に触れても視点のブレとは思いません。
が、読者からして見ると読みにくいものでしょうか?
また、一視点での視点者の容姿を書くことをどう思いますか?
普段は一人称ばかりですので、つい迷ってしまいます。
●答え●
例えば「俺は生来の天パーだ。コイツのせいでいつも学校の連中にイジられる。俺の髪の毛はスープによくからまないっての。もうこんな髪は嫌だ。ということで俺は生まれて初めて美容院というヤツに行こうと思う。勿論、ストパーをかけてもらうためだ。だが...」みたいな書き方なら特になんともおもいません。
ちょっとツッコミを入れたくて……。
せぎわさんの例は、『三人称一視点』じゃなくて単なる『一人称』の書き口やで……。
以下はシルキーさんへ。
>小説を読んでいて思ったんですが、三人称だとよく視点者の容姿の描写がされているように思いますが、三人称一視点だとあんまりされていないような気がします。
そうは思いません。
たまたまそうだったか、意識せずに読んでいないから気付かないかではないでしょうか。
……そんな感じで、視点のブレにもならないのでお気になさらず。
そもそも、文章における「視点」ってものが何なのか、曖昧にしか理解していないように見受けられますが……
一人称ってのは、作品の『登場人物』が、カメラ(視点)とマイクを持って読者にモノを伝える形式のことです。
視点者=登場人物
それに対して三人称ってのは、作品に「登場しない」『黒子(話者、神)』が、カメラ(視点)とマイクを持って読者にモノを伝える形式のことです。
視点者=黒子
>三人称だとよく視点者の容姿の描写がされているように思いますが
三人称で『視点者』(黒子)は、「物語に登場していません」からね?
そこで描写されているのは、黒子がカメラ(視点)を向けた先にあるもの、視線を結ぶ場所、「焦点」ですからね?
それは「視点者の容姿(黒子の姿)」ではなく、「登場人物の容姿」ですよ。お間違いなさらないでくださいね。
一人の黒子が同じカメラを持ち続けている限り、何にカメラを向け、何を語ろうが、それは「視点」がブレているとは言いません。
「視点」がブレている、というのは、そのカメラを突然登場人物が奪ったり、別の黒子が現れて割り込んだりすること、です。
三人称一視点。(この呼び名は普遍的なものではない)
コレは、あくまでも、「一人の黒子が一台のカメラを使って、映し・語る対象を登場人物一人だけに搾っておく」という「カメラワーク・技法の一種」ですからね?
黒子がその登場人物に乗り移って心を読んだりすることはあっても、あくまで「視点者(黒子)≠登場人物」です。黒子が突然物語に登場したり、登場人物を操ったりするわけではないのですから。あくまで黒子は「第三者」のままです。
>個人的には、一視点で書いているときに視点者の容姿に触れても視点のブレとは思いません。
念のため訂正しておきますが、ここでいう「視点者」は本来「焦点者」とでも言うべきところ、視点者(黒子)とは区別される登場人物のこと、です。それでいいですね?
ならば、そう思うのは当然のことです。他人(黒子にとっての登場人物)の容姿を語る、なんてことは、ごく当たり前のことです。そんなものを「視点がブレている」などとは言いません。
何故「一視点」などという呼び名が普及してしまったのか詳しくは判りませんが、少なくとも、「三人称を使って一人称をする」などという意味ではありませんからね? それなら最初から一人称をすればいいのです。区別する意味がありません。
おそらくは「神視点」という「何でも知っていて何でも語れる」という「三人称に許されるカメラワーク・技法の一種」に対し、「何もかもは知らないし、限定的なことしか語らない」というカメラワーク・技法の一種のことを、区別して呼びならわすためにいつしか使うようになったのだと思いますが……
その「限定的なこと」の内容を、「映し・語る対象を登場人物一人だけに搾っておく」という方向に特化したものが生まれ――
それがとても「一人称に『似て見える』」という作品が世に現れた、というだけにすぎない。
『似て見える』からといって、それは一人称ではないし、同じであるはずもない、ということをお忘れなく。
シルキーブラックさんはゲームをしますか?
カーレースのゲームがありますよね? 熱心にプレイしたことはなくとも、どんなものかくらいは想像がつくと思います。
さて、そんなゲームにも、画面構成は様々な種類があります。
まず、ドライバー視点。
座席に座り、窓越しにコースを見る視点。乗っている車は見えない、という視点です。
次に、追従視点。
車の外から、車の姿を見つつ操作する視点。まさに車を追いかけ従う位置にある視点です。
更に、俯瞰視点。
車を上から見て操作する視点。周囲を見渡せるため、バックミラーを使わずとも後続車の姿が確認できたり、ドライバー視点や追従視点では確認できないような、カーブの先にいる前走車の姿を見たりできます。
これらは全て違った視点ですが、どれも「三人称一視点」たりえます。
これらのゲームは、主人公たる車を中心に描写を行っている、のですから。ただ、「中心に置く」方法が違う。
一言に「三人称一視点」と言っても、様々です。
三人称一視点で書かれた作品というのは、実のところその殆どが根本的に一人称と同じです。
要するに、呼称を三人称で行うか一人称で行うか、たったこれだけの差異しかなく、また、ここだけ入れ替えればどちらにも成り得る。なぜなら三人称の体をとっていますが、視点そのものが主人公の中に固定されているためですね。いわば擬似三人称です。
ゆえに、視点者の容姿などに触れることは極端に減ります。
で、読みにくいかどうかですが、たらくさんの言っているものを一部借用して、「主観」「追従」「俯瞰」で区分して考えてみましょう。
最初は主観で書いていたけれど、容姿を書きたいからと追従に切り替え、さらに別の人物をちょっと書きたいからと俯瞰に切り替え、おわったからまた主観に戻して――こういう書き方をすると、たとえ同じ人物を中心にしてあっても、 視点自体はころころと切り替わっているため、読者には非常に優しくない作品になります。
例外がないとは言いませんが、基本的にこの部分は一度定めたらぶらさない、また常に視点の位置がどうなっているか意識する、ということを心掛ければいいでしょう。
たらくさんが仰っている追従や俯瞰のことも勿論三人称一視点ですが、フリーダムに見えるこの視点にも一応ルールは存在します。空白から空白の間、あるいはひとつの章の中では視点をひとつに絞ること、これがルールです。なぜなら、そうしないと読者が混乱しやすく結果ストレスが溜まるからです。
例えば、
「レナ……!こんな深夜に何をしてるんだ……!」圭一は問い詰めた。同時に、彼は、レナが鉈を隠し持っているのではないかと警戒した。
「圭ちゃん……、あの女の死体をどこに隠したの……?……どこにかくしたんだ!!!!」レナは怒号した。
実は鉈は置いてきたのだった。丸腰である。レナは圭一を素手でどうやって殺すか考えた。真っ正直に格闘しても、女であるレナの勝ち目は薄い。腕力が段違いだし、体重だって圭一の方が二十キロ近く重い。しかしこんなところを見られてしまったのだ。殺すしかない……。
圭一は横目で、自分の足元後方三十センチに、鉄筋が落ちているのを見付けた。大丈夫、レナは気付いていない。恐らくレナは背中に鉈を隠し持っているだろう。女相手でも、さすがに鉈相手では分が悪い。しかし、長さがある程度あって強度抜群のアレさえ素早く拾えればこっちのもんだ。
↑こういう風に、視点が2つ以上入るのは止めておこうとされています。
大事なことだけ簡単に書くね。
1.文章の基本は、無駄な文章を書かないこと。
2.特別な理由がない限り、視点者の容姿には触れる必要がない。
一人称だとスピード感やアクション性が欠けやすい、三人称だと心理描写が描けないのであまりにも淡白。
ということで先人達は「三人称一視点」という方法を編み出したんですよ。
強力な型です。
PS:ただ、昨今のライトノベルの「三人称一視点」作品を見ると、殆ど一人称みたいになっていますね。詳細に言えば、一人称7:三人称3みたいな。
なんにせよ、完全な一人称でも三人称でもないので、やはり「三人称一視点」は強力ということで変わりないと思います。
三人称一視点だと視点者の容姿の描写がされない。
僕は、そんなことは無い、と思います
すくなくとも僕がいままでに読んできた、いわゆる「三人称一視点」の小説では、しっかり視点者の容姿の描写がされているものもありますし、どちらかといえば「三人称神視点」と呼べる小説でも、ほとんど主要人物の容姿の描写がされていないものもあります。
また、むかし僕がこのサイトに投稿した長編は、基本的に三人称一視点の体裁をとっていましたが、視点者の容姿を書いたところで、「視点がブレてる」なんて批判はまったく受けませんでした。
たぶん“視点がブレて見えないよう”僕なりに注意深く小説を書いたので、それが効果を上げたのでしょう。
たとえ一人称小説であっても、視点者の容姿の描写をしているものは見かけるので、三人称一視点か、三人称神視点かという小説の体裁は、じつはどうでもよく、容姿を描写するタイミングを誤ってないか、書き方が不自然ではないか、不必要な描写のせいで物語を読む邪魔をしていないか、それらが問題なのだと思います。
三人称一視点で、視点人物の容姿を書いてかまわないか?
結論から言ってしまえば、
上手く書きさえすれば、どちらでもよい。
ということになります。しかし、これではちょっと身も蓋もないので、以下もう少し詳しく。
(1)基本の基本、初歩の初歩として言えば、一視点なら視点人物の容姿はストレートには書きにくい。
一視点の視点者は形の上では「自分」ということになるからです。
前提として、これはまず押さえておいた方がよいです。
ただし、他の方も仰っているように、一視点で視点者の容姿を書いている作品は別に珍しくないですね。
それについては、大きく分けて二つ意味があります。
(2)三人称一視点は、一人称に近い書き方をするが、一人称ではない。
三人称一視点という手法を採用する狙いは、一人称と三人称の「イイトコ取り」。三人称の自由度の高さと、読者の感情移入を得やすいという一人称のメリットを両方取り入れてしまおうという欲張りな手法です。
しかし本来は三人称なのですから、窮屈な一人称的ルールに縛られる必要はありません。(ただし自由にしすぎると一視点にする意味が無くなりますから、そのへんの匙加減は慎重に考慮する必要はあります)
(3)三人称一視点だけでなく、一人称でも、現実でも、自分の容姿に言及することは普通にある。
せぎわさんが仰っているように、「俺は生来の天パーだ」と言ったとしても何ら不自然ではないですよね?
ただし注意してほしいのは、上の例は自分の容姿に言及しているのであって、自分の髪を見ているのではない、ということです。(実際に見なくても、あらかじめ知っていれば語ることはできます)
鏡でもなければ自分の容姿を直接見ることはできませんから、そこは気をつけて書かないと、一視点としては読者に違和感を与えることは有り得ます。
例えば。
「俺の髪は寝癖のせいでグシャグシャだった」と書くよりも、「俺の髪は寝癖のせいでグシャグシャになっていたと思う」と書いた方が自然な感じがするのではないでしょうか?
(ここ、一人称の話になってしまっていますが、三人称一視点は一人称的な効果を狙うのが目的の手法だと思うので、実質的に同じ事情が当てはまってきます)
なので。
その作品で三人称一視点を採用する狙いをまず考えた上で、(2)と(3)の事情に気をつけて読者に違和感を与えないように工夫すればOKということだと思います。
念の為、付言。
標記の件について、たらくさんの定義は私より広いですね。
以下は個人的な見解であって、たらくさんへの反論ではありませんが。
追従視点と俯瞰視点は、私は神視点だと捉えています。どちらも「誰が見ているのか分らない視点(視点者がいない、または神に喩えられる不可視の誰か、または作者が視点者である視点)」だからです。
どちらにしても、質問者様の質問の意図は、「視点者を設定した書き方の場合に、視点者の容姿を書くことができるか?」という意味だと思いますから、この場合は私の定義に近いのではないかと思います。
書いて構わないと思います。「書き方」が問題なだけで。
僕の中での三人称一視点の定義は、会話以外は「視点者の過去・物事への感想・心理状態&客観的事実」のみ描ける、ですね。視点者以外の心理状態は書いてはダメだと思っています。
でも、ライトノベルってこの辺りはあまり徹底していないように思えます。三人称一視点かと思ったら、他人の心理状態を語っていたり、かといって徹頭徹尾「神視点」でもない。
良い悪いは別にして、いうなれば「混ぜご飯視点」だと思います。
自分の背中は見えないように、視点人物から見える自身の体の部位は限られています。
従って、視点者の容姿の描写は、本人がイメージしたり、鏡に映して見たりするシーンでない限り、無理があるでしょう。
>>個人的には、一視点で書いているときに視点者の容姿に触れても視点のブレとは思いません。
厳密にいえば「三人称というものに視点のブレは存在しない」とわたしは考えています。
なんの制限も受けず、作者の自由に書けるのが三人称での視点です。
>>読者からして見ると(、三人称一視点で書いているときに視点者の容姿に触れると、)読みにくいものでしょうか?
やり過ぎない限りは、とくに読みづらいということはないでしょう。
ただ、正確にはそれを「三人称一視点」とは呼ばない、とわたしは考えています。
>>一視点での視点者の容姿を書くことをどう思いますか?
これは「地面を歩きながら空を飛ぶことをどう思うのか?」というご質問に近く、設問に矛盾がある、とわたしは思います。
「三人称一視点」というのは、自由に書ける三人称を用いながらも、一人称に近い制限を設ける書きかたのことです。
空も飛べるし、地面も歩ける生物が、あえて飛ぶことを封印して、地面を歩き続けるのに近いですね。
ですから、視点主の容姿に言及した時点で、厳密にはそれを「三人称一視点」とは呼ばないのではないでしょうか。
少なくとも、わたしはそう捉えています。
しかし、途中まで「三人称一視点」で書いていておきながら、一部だけ「通常の三人称」のように、視点主の容姿について言及してもなんの問題もありません。三人称一視点と、普通の三人称を行き来しても構いません。
なぜなら三人称というのは、あくまで三人称でしかないからです。
空を飛んだり地面を歩いたり、作家は自由に表現することができるのです。
「神の視点」「三人称一視点」「カメラマン視点」などいろいろと名称があります。
でも、それはあくまで便宜的に分類したものでしかありません。
シルキーブラックさまご自身が読み直して、文章に違和感を覚えなければだいじょうぶです。
ご自由に表現してください。