ライトノベル作法研究所
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  4. 三人称小説のカメラ位置について公開日:2015/02/17

三人称小説のカメラ位置について

 かいぐんさんの質問 2015年02月04日

 はじめまして、非常にわかりやすいのでこちらのサイトたびたび覗かせていただいています。
 なかでも視点の話題というのは悩む方が多いみたいですね。自分もその一人なんですが・・・・・・
 以下の文は文章としてアウトでしょうか?

 太郎は目を閉じて思いにふけった。思わず鼻歌などをさえずってしまう。少し離れているところで銃を磨いていた一也があきれたような視線を投げた。
「その音程の壊滅したうめき声を今すぐとめろ、壊れた蓄音機め」
 太郎の盛り上がっていた気持ちが一気にさめた。
「仕事の準備くらい、楽しくさせてくれよ」

 三人称ならばこの場合一也の表情などを書くのはセーフでしょうか。

 「一也は舌打ちしたい気持ちになった。その苛立ちを声に乗せて」とか書いたら内面に入ってしまうのでダメかなと思いますが、姿くらいなら書いてもいいのかなと。
 一人称によるなら、「一也の声に続いて舌打ちが聞こえた」にしたほうがいいのかもしれませんが・・・・・・。

●答え●

Smanさんの意見2015/02/04

 三人称は基本的に何を書いても問題ありません。
 「一也は舌打ちしたい気持ちになった。その苛立ちを声に乗せて」
 このように内面を書いても大丈夫でしょう。
 私の場合は、

「その音程の壊滅したうめき声を今すぐとめろ、壊れた蓄音機め」
 一也は小さく舌打ちして――まったく鬱陶しい野郎だ――すぐに銃を磨く作業に戻った。

 こんな形でサブキャラの心情を書いたり、もっと一人称っぽい文章をぶちこんでしまったり、好き放題やってます。
 ただ、一視点にしろそうでない三人称にしろ、そのシーンでの(あるいは文章での)視点が誰になってるのか考えて私は書いています。
 かいぐんさんの例文だと太郎視点の三人称なので、理想は太郎のみにスポットを当てた書き方が望ましいと思います。
 一つのシーン内で、視点というか焦点というか、カメラをコロコロ切り替える書き方は読者に優しくない。
 映像でも人物のセリフごとに1カメ2カメと映像がコロコロ変わったら視聴者は疲れますよね。

 ただ、理想通り=教科書通りにやっても面白くないです。
 また映像を例にすると、監視カメラのようにずっと同じ映像が続くシーンはつまらない。
 なので、セリフや状況を考えつつ、読者に混乱を与えない程度にカメラを変える、すなわち太郎から一也へ焦点をズラす。
 文字の上では、ようするに状況によって「一也の心情(内面)などを書いてみる」といった感じです。

 これらを踏まえると(踏まえたところでこれはあくまで私の書き方であって正解とは思わないで下さい)、かいぐんさんの文章でおかしいなと思うところは、

>太郎は目を閉じて思いにふけった。思わず鼻歌などをさえずってしまう。少し離れているところで銃を磨いていた一也があきれたような視線を投げた。

 この一文ですね。
 最初は太郎にカメラが向いてる太郎視点なのに、同じ文章の中で最後には「一也があきれたような視線を投げた」と一也に焦点が当てられています。
 私の感性で訂正させてもらうと、「一也があきれたような視線を投げてきた」、ですね。

あまくささんの意見2015/02/04

 はじめまして。あまくさと言います。
 三人称の場合、基本、視点についての決まりはありません。だから、どう書いてもかまわないということに一応なりますが、それでは答えになりませんね。

 かいぐんさんが気にされているのは、いわゆる一視点型の三人称のことだと思います。
 まず前提として、三人称なのになぜ一視点にする必要があるのか? という問題があるわけですが。そこに踏み込むと話が長くなるので、とりあえず省略します。一応、私の考えている結論だけ書いておくと、

 三人称一視点は、必須ではないけれど、かなり有力な手法ではあると思います。初心者は安易に神視点を使わず、まずは一視点をマスターした方がよいという意見もあり、まあ言えなくもないと思いますね。
 で、提示された例文ですが、一視点にこだわるならSmanさんも仰っていますが、

>少し離れているところで銃を磨いていた一也があきれたような視線を投げた。

 は、「視線を投げてきた」の方が筋がいいと思います。「投げた」でも間違いとまでは言えませんが、「投げてきた」の方が太郎の目線であることが、より明確になるからです。

>「一也は舌打ちしたい気持ちになった。その苛立ちを声に乗せて」とか書いたら内面に入ってしまうのでダメかなと思いますが、姿くらいなら書いてもいいのかなと。
>一人称によるなら、「一也の声に続いて舌打ちが聞こえた」にしたほうがいいのかもしれませんが・・・・・・。

 三人称一視点は、一人称のルールにほぼ準ずると捉えておいた方がいいです。だから「一也は舌打ちしたい気持ちになった」はアウトということになります。

 念のため付言しておきますが、Smanさんのご意見と私の考えは別に相反してはいません。Smanさんの説明は「一視点」にこだわっていないというだけのことで、その前提であれば私もほぼ同意見です。

 そもそもかいぐんさんは、一視点型三人称のメリットとデメリットをどのように捉えていらっしゃいますか?
 重要なのは実はそこだと思うんですね。
 かいぐんさんが書きたい小説なり文章なりに一視点が有効なのかどうか?
 そこを見極めた上で考えるのでないと、技術的な話だけしてもあまり意味はないと思います。

Smanさんの意見2015/02/04

 おそらく、三人称でもシーン内で他の人物に視点を変更するのはダメと書かれてるHowto本やらが多いと思います。
 私の返信も、あまくささんの返信を読んでから自分のを読み返してみて大事なこと書いてなかったと気づいたので、補足させていただきます。

 私の書き方ですが、基本的にはNGです。新人賞なんかじゃ特にやっちゃダメです。

 三人称は大きく分けて『神視点』と『三人称一元視点』の二つがあります。
 さらに表現方法でそれぞれ二つづつに分けられて、神視点はほぼ死んでる手法で日本文学では滅多に目にしませんが、『三人称一元視点』と『三人称多元視点』はよく目にしますね。
 神視点と多元視点は別物と言えば別物ですが、同じと言えば同じで同一視してる作家さんは多いようです。

 私の書き方は「神は死んでる」と書いておいてナンですが、神視点に近い書き方なので、一般的に「三人称で書いた」と言うと読者からツッコミを貰います。
 「作者は視点を理解していない」と。

 神視点は、極端に言えば「神様による一人称」なので、全知全能の神の手にかかれば主人公の心情もヒロインの心情もサブキャラの心情も把握しています。
 なので、シーン内で別キャラの心情を書いてもまったく問題ないのですが、そうして書かれた小説は、「視点を理解してないで書かれた小説」とほとんど変わらないのです。
 私はこの書き方が好きなので続けていますし、そうした不安要素を少しづつ改善してゆくことに楽しみを感じていますが、人さまにモノを教えるような態度で挙げるような例ではありませんでした。

 いつか作家さんに話を伺ったとき、「神視点の応募作品はたまにあるが、100%通さない」と言っていたのを覚えてます。
 古典に見る完全客観型の神視点は手法が古い以前に未熟なだけだし、多元的な神視点は誰の心情なのかわかりにくく視点を理解していないようにしか見えない。
 そんなわけで、視点を変える作風なら『三人称多元視点』を使い、シーンの中では視点をズラしたりしないようにしましょう(笑)

ラノベの薔薇騎士さんの意見2015/02/05

 神だの一だのめんどいことが書かれているハウツー本も多いけど、結局は読者の立場にたって考えれば良いだけのことです。
 カメラ位置=読者の視点です。
 これがぶれる(頻繁に動かす)のが悪い書き方で、ぶれない(できるだけ固定し、動かす範囲も小さくする)のがよい書き方と言われています。

> 太郎は目を閉じて思いにふけった。思わず鼻歌などをさえずってしまう。少し離れているところで銃を磨いていた一也があきれたような視線を投げた。

 「思わず鼻歌などをさえずってしまう」で読者は太郎の中へ入っていきます。その次に「少し離れているところで銃を磨いていた一也があきれたような視線を投げた。」とありますが、太郎の中に入った読者が外へ出ないといけません。なぜなら太郎は目をつぶっているからです。
 読者を不要に疲れさせるのを視点のブレといいます。
 少し工夫するだけで、視点のブレを解消できます。
 例えば、

 太郎は目を閉じて鼻歌をさえずっている。少し離れているところで銃を磨いていた一也があきれたような視線を投げた。

 でも良いし、

 太郎は目を閉じて思いにふけった。思わず鼻歌などをさえずってしまう。
 少し離れているところからの怒鳴り声に目を明けると、一也が銃を磨きながら呆れたような視線を投げかけていた。

 でも良いです。
 一度、人の中に入ってしまったら、短い一文だけで飛び出てしまうと読者も辛いと思います。せめて、一段落くらいは中にいましょう。それからゆっくりと外へ出てもかまいません。
 そこから徐々に一也に近づき、「一也の方はこう思っていた」などと一也の心情を書くことも可能です。
 まあ、即興ですのでお気にめさないかもしれませんがご参考までに。

須賀透さんの意見2015/02/05

 仮に三人称一視点の作品であっても、たいていは多視点とのあいだをいったりきたりするのが通例です。
 だから、わたしの考えも、ほかの方々がおっしゃるとおりです。
 三人称では、どんな視点になってもかまいません。
 しかし、この例の場合は、カメラの切り替えがやや急すぎるような気がしました。これが映像作品ならかまいません。映像が変われば、一瞬でカメラの切り替えが理解できます。しかし小説はそうはいきません。
 視点の切り替えを、できる限りスムーズに行うことが肝要です。 

 ここで、かいぐんさまの例文をみてみると、失礼ながらあまりスムーズではないようです。

(原文・三人称多視点)
 太郎は目を閉じて思いにふけった。思わず鼻歌などをさえずってしまう。少し離れているところで銃を磨いていた一也があきれたような視線を投げた。
「その音程の壊滅したうめき声を今すぐとめろ、壊れた蓄音機め」
 太郎の盛り上がっていた気持ちが一気にさめた。
「仕事の準備くらい、楽しくさせてくれよ」

 一行目からみてきましょう。
 銃を磨く一也からしてみれば、太郎が「よし歌を唄おう」と思っているのか「思わず唄ってしまった」のか分からないはずです。
 よって、一行目は「太郎視点」であることになります。
 ……自分の鼻歌を「さえずる」なんてマイナスの表現をするでしょうか?
 一行の間に、「太郎の感情」と「一也の感情」が交じってしまっている気がします。
 間違いではありませんが、読書の阻害にはなるのではないでしょうか。

 続いて、二行目のこの文章。
『一也があきれたような視線を投げた。』
「あきれたような」と書いてあるので、これも太郎目線のはずです。
 自分のことを「ように」というのは変ですからね。

例1(どことなく変な例)
 ボクはあきれたように「君はバカだな」といった。

例2(正しい例)
 ボクはあきれて「君はバカだな」といった。

 しかし、太郎目線と考えると、不思議なことがあります。
 なぜ太郎は「一也のあきれたような視線」に気づけたのでしょう?
 目をつぶっていたはずなのに……。
 とりあえず、なんとなく一也の視線を感じたと設定して文章を改変してみます。

(三人称一視点・太郎)
 太郎は目を閉じて思いにふけっていた。鼻歌まで自然とこぼれでる。
 ふと刺すような視線を感じて、太郎は横をみた。
 少し離れたところで銃を磨いている一也が、今にも舌打ちしそうな表情でこっちをみている。
「その音程の壊滅したうめき声を今すぐとめろ、壊れた蓄音機め」
 せっかく盛り上がっていた太郎の気持ちが一気にさめた。
「仕事の準備くらい、楽しくさせてくれよ」

 一也視点でも書いてみましょう。

(三人称一視点・一也)
 太郎は目を閉じて思いにふけっているようだった。へたくそな鼻歌までさえずっている。
 少し離れたところで銃を磨いていた一也は、舌打ちしたい気分になった。
「その音程の壊滅したうめき声を今すぐとめろ、壊れた蓄音機め」
 そういってやると、太郎が情けない声で反論してきた。
「仕事の準備くらい、楽しくさせてくれよ」

【かいぐんさまの質問】
 三人称ならばこの場合一也の表情などを書くのはセーフでしょうか。

【回答】
 うーん、太郎は目をつぶっているわけですからね。
 三人称なので、セーフかアウトかの二択で問われればセーフです。
 ただし、わたしにとっては読みづらく感じました。
 一也の表情を描きたいなら、「太郎が目を開けた」ということを感じさせる一行を挿入したほうが自然ではないでしょうか?
※(三人称一視点・太郎)の「横をみた」のように。
 もし太郎視点で、太郎が目を開けていた場合でしたら問題ありません。
 一也の姿形をいくら描写しても、読書の阻害にはならないでしょう。

 とここまで長々と書いてきましたが、「正しい」「正しくない」よりも、「読みやすいか」「読みにくいか」で判断したほうがよいかもしれない、と最近思っております。

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