ライトノベル作法研究所
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  4. 夏目漱石の秘密公開日:2012/06/03

夏目漱石はなぜ傑作を作れたのか?

 日本を代表する文豪、夏目漱石が傑作を作れたのは、当時の日本で誰も得ることの出来ない知識を得、誰も経験したことがないことを経験したからです。

 夏目漱石(本名・夏目金之助)の大学予備門からの友人で、生涯の親友であった正岡子規は、漱石のことを次のように褒めています。

「ふつう、英書を読むものは漢書が読めず、漢書が読めるものは英書が読めないものだが、両方できるきみは、千万中の一人と言っていい」

 漱石は子供の頃から漢文学((古典中国語の作品群)に興味を示し、家にある書物をかたっぱしから読んでいました。
 また、漢学の塾に入り、『史記』『孟子』『論語』『中庸』といった中国の名著に触れました。彼はその後、自分で漢詩文を作るようになります。もちろん、江戸時代の小説や和文(日本の古典)も読んでいます。

 その頃は、明治に入ったばかりで世の中に西洋文明が押し寄せており、漱石はこんな古い学問ばかりやっていては、時代に取り残されると危機感を感じ、英語の塾に入ります。そして、帝国大学英文学科(東大の前身、当時の日本一スゴイ教育機関)に進み、英文学を学ぶようになりました。

 これによって、中国の古典文学も、英文学も両方マスターするという希有な教養を手に入れたのです。 

 これは日本語で書かれた小説や書物しか読んでこなかった他の作家に比べて、圧倒的に大きいアドバンテージです。作家の発想というのは、つまるところ、頭に蓄積された知識、経験の中からしか出て来ません。
 他の作家が知らない外国の文学、古典に触れているというのは、それだけ他の人とは違う、質の高い発想ができるということです。
 また、作家になる人の傾向として、生まれた家に蔵書がたくさんあるか、読書好きの家族がいることが挙げられます。

 大学卒業後、漱石が英語教師になって、松山の中学校に赴任すると、下宿先に親友の正岡子規が押しかけてきて、居候を始めました。子規は、後に俳句の革新を成し遂げた、歴史的偉人です。
 子規は、俳句仲間を集めて、毎日、句会を開いてどんちゃん騒ぎをしていたため、漱石は勉強に専念できず、仕方なくその輪に加わります。そこで、子規から俳句の指導を受けました。
 俳句というのは五七五の短い文章のリズムの中で、広い世界を表現し、雅を探求する文芸です。
 漱石は、結局、俳句にはまってしまい、生涯で2527句を作り、『漱石俳句集』などといった句集を出しています。

 俳句は、漱石の弟子で、芥川賞の由来になっている芥川龍之介も『余技は発句(俳句)の外には何もない』というほど、はまって、名句を多数残しています。どうも日本語の修行をするのには、もってこいの趣味のようです。

 漱石は、その後、文部省から英語研究のために二年間イギリス留学をするように命じられます。
 当時のイギリスは、世界でもっとも繁栄し、数多くの植民地を持っていた大帝国。文化と科学技術の中心地です。
 彼は、シェークスピア研究家ウィリアム・クレイグのところに通って、最も優れた英文学作家シェークスピアについて教えを受けます。 

 さらに、文学、歴史、哲学、心理学、社会学、生物学、美術などあらゆるジャンルの本を大量に買い込んで、読みあさりました。特に小説家ジョージ・メレディスと、チャールズ・ディケンズの作品をよく読んだそうです。メレディスは漱石の初期の作品に影響を与えています。
 生活費を切り詰めて、とにかく本代にお金を回し、超貧乏な生活を送りました。本が好きだったんですね。
 イギリスの首都ロンドンで生活するという希有な経験をした上に、そこで偉大な文学に触れ、あらゆる分野の教養を身につけた訳です。

 ここまでやって、凡百の作家に劣るような作品を書く訳がないでしょう。

 漱石は、がんばりすぎたせいかノイローゼーになって、帰国します。
 親友の正岡子規が俳句界でやりたい放題をやって一大勢力を築いた後、結核で死んでしまい、帝国大学の講師の仕事もうまくいかず、妻に当たり散らして鬱々として過ごしていました。
 そこに子規の弟子の高浜虚子が「気晴らしに俳句雑誌ホトトギスに何か書きませんか?」と勧めてきたので、家で飼っていた猫を主役にした小説を書いて渡しました。

 これがおもしろい、ということで、虚子の意見を取り入れて改稿を加えました。
 ちゃんと編集者の意見を聞いているのですね。虚子は漱石の前で、この作品を朗読するという作家志望にとっては拷問ともいうべき荒行を行なっています。おそらく、これは二人が俳句畑出身だからです。
 俳句は、口に出して伝える文芸であり、文章のリズム、聞き心地というのを重視します。
 漱石の文章が読みやすいと評判になったのは、このためだったと考えられます。

 これを『吾輩は猫である』という題名でホトトギスに掲載したところ、大ヒットして、小説家への道を歩むきっかけとなりました。

 吾輩の主人は滅多に吾輩と顔を合せる事がない。職業は教師だそうだ。学校から帰ると終日書斎に這入ったぎりほとんど出て来る事がない。家のものは大変な勉強家だと思っている。当人も勉強家であるかのごとく見せている。しかし実際はうちのものがいうような勤勉家ではない。吾輩は時々忍び足に彼の書斎を覗いて見るが、彼はよく昼寝をしている事がある。時々読みかけてある本の上に涎をたらしている。
引用・『吾輩は猫である』 著者・夏目漱石

 猫の主人は、漱石自身をモデルにしています。
 自分を客観視して、このようにユーモアたっぷりの文章を書いているのです。
 俺はインテリだ、教養人だ、高尚な物を読ませてやる! という作家志望に散見されがちな自意識過剰な傲慢さが、ほとんどないのですね。

 実は、明治時代の人間だろうと、格式張った難解な文章を有り難がったりしなかったのです。読みやすくて、知的で、かつユーモアがある文章というのは、老若男女に親しまれ、時代を超えて支持されます。
 教養のある人間が教養を崩すから、おもしろい物が書けるのです。

 芥川龍之介について紹介した新潮社文庫の『文豪ナビ 芥川龍之介』には、「子供も楽しめ、なおかつ大人も味わえるのが本当の達人技だ」といったことが書かれています。夏目漱石や芥川龍之介は、ユーモアのセンスを持ち、子供から大人まで支持される物が作れたから、文豪たりえた、という訳です。
(芥川は、『地獄変』『藪の中』のような残酷展開がある大人向け作品だけでなく、『杜子春』『蜜柑』といった子供向けの作品も作っています)

 これは累計1000万部以上を記録した大ヒットライトノベル『フルメタル・パニック!』(1998年)と、まったく同じなのですね。
 フルメタは、ユーモアたっぷりの学園ラブコメ小説でありながら、同時に大人も唸らせるSF、ミリタリー物であり、これによって子供から大人にまで支持されました。賀東招二は21世紀の夏目漱石、芥川龍之介と言えます(褒めすぎですかね)。

 漱石のユーモア感覚は、イギリスで培ったもののようで、他の日本人作家には書けない一種、独特の上品さを持っていたと評価されています。彼は才能に頼った天才というより、長年をかけて、あらゆる教養、文学に精通して作品を書いた遅咲きの作家です。デビューは38歳の時でした。

 他の人と同じような知識、経験しか持っていないと、他の人と似たような作品しか書けません。
 もし、傑作を作りたいと願うなら、漱石のようにあらゆる文学、教養に精通するのが、凡人が天才に勝つ唯一の方法ではないかと考えられます。インプットの質と量が、アウトプットの質を左右するのです。

 しかも、それらを時に崩し、笑いに変えるような度量やユーモアのセンスが必要となります。

 聖書の次に売れた世界的超ロングセラーにして文学史上最高傑作とされる『ドン・キホーテ』も、騎士道物語の読み過ぎで自分のことを伝説の騎士ドン・キホーテと思い込んだ主人公が、冒険の旅に出てヒドイ目に会うというギャグコメディ小説でした。
 最高峰に位置する文学、文豪というのは教養があるだけでなく、ユーモアも兼ね備えているものなのです。

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