ライトノベル作法研究所
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  5. 迷いの王女と虎物語公開日:2012/10/25

迷いの王女と虎物語

あまくささん著作

第一章 王女ルシアとカイロス

 それは、遠い昔のお話。

 豊かな森と湖にいろどられたある国に、一人の王女がいた。名前をルシアと言った。
 時の国王リオネルの一粒種だった彼女は、幼いころからたいそう可愛らしくて気立てもよかった。だから、家来たちの人気も上々だった。
 ただ。甘やかされて育ったためだろうか、このお姫さまには少しだけやんちゃなところがあった。ときどき軽はずみな行いで大人たちを困らせることがあったのだ。
 ルシアが周囲の目を盗んで一人で城の外に抜け出すようになったのは、九つの時だった。
「外は危ないから、勝手に出て行ってはいけません」
 大人たちに何度、きつくそう言われたことだろう。少なくとも両手の指くらいでは数えきれない気がする。たっぷり叱られて、その時はしょんぼりするのだけれど、また何日かすると外に出たいという誘惑がおさえられなくなる。
 実は彼女は偶然見つけてしまったのだ。広い裏庭のかたすみ。城壁が少し崩れていていることを。植え込みのせいで人目につきにくかったのだけれど、子供が通れるくらいの隙間ができていたのだ。そこから森のほとりに出られることがわかった時、ルシアは嬉しくて嬉しくて小躍りしたいほどだった。城での生活ときたら、しつけばかりがとても厳しくていやになる。王女は遊びたい盛りだった。
 城壁の外に出ると、西側には町が広がっていたけれど、東側は野と森だ。人の姿を見かけることはあまりない。
 森のほとりに、季節の花がいつも美しく咲いている場所があった。ここは城の人たちがときどき東屋(あずまや)でお茶の会を催したりして楽しむ所だったから、平民が立ち入ることは禁じられている。
 ルシアはそのきれいな自然の広場が、大好きだった。
 その日も、ルシアは母や召使に気づかれないように用心しながら、一人で森に出て行った。
 季節は夏に向かうころ。木々の緑はいきいきと輝き、色とりどりの花が咲いていた。鳥のさえずりも耳に心地良く、梢をゆらして時おり吹く風が、汗ばんだ体に涼しい。ルシアは幸せ一杯で、すっかり時を忘れてしまった。

 あまり夢中になって遊んでいたものだから、後からそっとしのびよってくる者がいることにルシアは気づかなかった。急に目の前がまっくらになって、心臓が飛び出すかと思うほど驚いた。両手で目をふさがれたのだ。
「だ~れだっ」
 声を聞いてすぐに誰だかわかった。
「もうっ。やめてよ、カイ」
 ふりほどいて、体ごと向きなおる。
 柔らかく波打つ栗色の髪。澄んだ青い瞳。それがルシアを見下ろしていた。年は十。ルシアと一つしか違わないのに、背丈は彼女より頭半分ほど高い。
 カイロスはプランヴィール公爵の跡取りで、ルシアの従兄弟だった。彼は毎年この季節になると家族と一緒にルシアの城を訪れ、二週間ほど逗留していくのだ。
「今日は一人なの?」
 ルシアは、カイロスが肩に紐でぶらさげた自慢の十字弓をちらっと見た。
 カイロスは狩が大好きで、ときどき家来たちと森に出かけると、仕留めた雉とか兎とかをぶらさげて嬉々として帰ってくる。ルシアはそれがちょっといやだった。生き物を殺して喜ぶなんて。そう思えたのだ。
「また狩をしていたの?」
「今日は狩じゃないよ」
 カイロスは屈託のない声で、明るく答えた。
「下見。来週、君のお父さまと一緒に大勢で狩猟の催しをやるだろ? 森の様子を見ておきたいって頼んだんだ。お供は向うで休ませている。それより、君の方こそ一人でお城から出てきたの?」
 そう言われてルシアは、ぺろっと舌を出した。
「おてんばなお姫さまだなあ」
「カイに言われたくないもん」
 ぷうっとふくれて見せたけれど、カイロスの苦笑した顔が年上ながらイタズラっ子のようで可愛かったので、ルシアの顔にも笑みがこぼれた。
「ねえ、もうちょっと森の奥に行ってみないか?」
「え……?」
 カイロスのふいの提案に、ルシアは口ごもった。
 このあたりは城の者たちもときどき来るところだから、怪しい人間が近寄ることはない。でも森の中は危険でいっぱいだと聞かされている。悪い盗賊とか、狼とか、魔女とか。
 尻込みするルシアをカイロスはしばらく見ていたが、やがてじれったそうに顔をしかめた。
「怖いなら、いいさ。ここで待ってな」
「あ、ちょっと……待ってよ、カイのバカっ」
 踵を返してさっさと森に入って行こうとする従兄弟の後を、ルシアはあわてて追いかけた。するとカイロスは立ち止まって振り返り、にこっと笑って彼女の片手をしっかりと握ってくれた。
「だいじょうぶ。何が出てきても、ボクが絶対君を守るから」

 木漏れ日をたよりに歩くうち、視界をふさぐ樹木が切れて少し広い場所に出た。
 ふと見ると。
 木陰に動いているものがあった。
 一頭の鹿が倒れていたのだ。よく見ると、足に痛々しく罠が食い込んでいる。
(かわいそう)
 そう思ってカイロスの横顔におそるおそる視線を向けると。
 カイロスは振り向きもせず、握っていたルシアの手を振り離した。そして鹿の方に走り出した。ルシアはびっくりした。
(え、どうするの?)
 鹿の足を挟んだ罠の金具、その片方にカイロスは足をかけた。もう片方を両手でギュッとつかんで引っぱり始めた。
(鹿を助けるんだ!)
 ルシアは嬉しくなって、急いで走り寄った。従兄弟に手を添えて、いっしょに力一杯引っぱった。
「だめっ。私が足を引き抜いたら、あなたたちが挟まれてしまいますよ」
 きれいな女性の声がした。
(え、今の誰の声?)
 ルシアはびっくりしてキョロキョロあたりを見まわした。
 誰もいなかった。
 カイロスが汗ばんだ顔をちらっと、ルシアに向けた。
「今の……君?」
「ううん! 私、なんにも!」
 ということは。
(え~、ウソ! 今のもしかして、この鹿がしゃべったの?)
「そのへんに太い枝でも落ちていませんか? 探してみてもらえません?」
 また、女性の声が聞こえた。
 戸惑いながらも、言われるままに枝を探した。鹿の足より少し太いくらいの枝が見つかった。
「それ、こっちに持ってきな」
 今度はカイロスが言い、ルシアにもわかった。
「隙間、広げるからね」
 とカイロス。ルシアはうなずき、両手でぎゅっと枝を握りしめて身がまえた。
 カイロスがう~んと唸って罠を広げ、ルシアがさっと枝を挟む。
 鹿は、ゆっくりと足を引き抜いた。まだ苦しそうだったけれど、それでもすっと四本の足で立ち上がり、まっすぐに二人を見た。
「どうもありがとう。たすかりました。ルシア王女。カイロス」
「私たちの名前を知っているのですか?」
 鹿の様子に不思議な威厳を感じて、ルシアは思わず丁寧な言葉で尋ねていた。
「ええ、知っていますよ。あなたたちのこれまでのことも。これから起ることも」
「これから起ることって、どういうことですか?」
 こんどはカイロスが問いかける。
「それは、お話できないのです。これから、あなたたちはつらい運命と立ち向かわなければならなくなります。でも、私はそのことで助言やお力添えするのは禁じられているのです。ただ……」
 鹿はしばらく沈黙した。二人の子供は、じっと次ぎの言葉を待った。鹿の言っている意味はわからなかったが、とても大事な話を聞かされていると感じたのだ。
 やがて、鹿がまた口を開く。
「今日、一つだけ希望が生まれました。それは、あなた方が私を助けてくださったことです。お二人とも、とても優しい心をお持ちなのですね。それはお二人にとって幸いでした。私は自分が受けた恩に対してなら、一つだけお礼をすることができるのです。ですから私は、あなた方がこれから別れわかれになっても、必ず再会できる日が来るようにお祈りすることにします」
「えっ、それってどういうことですか? 私たちが別れわかれになるって!」
 しかし、鹿は急にそわそわと辺りを見まわしはじめた。
「誰か来ます。私は森にもどらなければいけません」
 人声が近づいてきた。
 カイロスの家来たちが、心配して探しに来たようだった。
「どうか、自分を信じて。あなたたちがその素直でまっすぐな心を失わなければ、いつかきっと幸せになれる日が来ますよ」
 鹿はそう言い残すと、あっというまに木立のあいだの暗がりに姿を消した。
「たいへん、私も隠れなくちゃ」
 鹿に負けないほど慌てだしたルシアに、カイロスは呆れ顔を向けた。
「なんで、君まで隠れるのさ?」
「だって、私、壁の穴をくぐってこっそり来ちゃったのよ。カイと一緒に帰ったら、みんなびっくりするわ」
 大急ぎで踵をかえし、その場を走り去ろうとしたルシアだったが、ふと足を止めて、カイロスを振り返った。どうしても聞きたいことがあったのだ。
「ね、カイ。どうして、さっきは鹿を助けたの?」
 狩が大好きな従兄弟。生き物を傷つけたり殺したりすることなんか、へっちゃらなのだとばかり思っていた。その彼が、苦しんでいる鹿を助けた。そのことがルシアには意外だった。
 少年は、きょとんとして見返してきた。
「だって、可哀想じゃないか」
 当たり前のようにあっさりとそう言った。
(そうなんだ!)
 狩が好き。だけど生き物を大切にする心も持っている。
(それは、ヘンなことじゃないんだ)
 ルシアは何か発見したような気持ちを胸に抱きながら、鹿とは反対の方の茂みに駆け込んだのだった。

 城壁の抜け穴をくぐり、何食わぬ顔で部屋にもどろうとしたルシアだったが、廊下をしのび足で歩いているところを家庭教師のファイラジールに見つかって、たっぷり叱られた。そのあと半ベソをかきながら夕方までやらされた勉強は、最後の審判の日まで終わらないんじゃないかと思ったほどだ。
(ファイラジール先生のご本の読み方って、ものすごくつまらないのよね。まるで言葉が修道士みたいな顔して行列してる感じ。お父さまのお仕事が法律家だと、皆あんなふうになるのかしら?)
 彼は背が高くて、鼻も高くて、切れ長な目を持っている。若くて普段は優しい先生だからルシアは嫌いではなかったが。一つ、気をつけないといけないことがあった。
 勉強のあいまに世間話などをしはじめると、少しばかりうちとけた時間になる。うちとけすぎて、頭をなでられたり、肩に手をおかれたりすることがあるのだ。
 可愛がってもらっているのだとは思うものの、ファイラジールに体をさわられるとルシアはなんとなくヘンな気持ちになってしまう。
 だいぶ陽が傾き、侍女のジェフィーがビスケットとお茶を持ってきてくれたときには、嬉しかった。今日はおやつも無しになってしまったのかと思って、心の中で悲しく思っていたのだ。
 どこか得体の知れないファイラジール先生の取り澄ました顔が、ジェフィーの温かみのあるやさしい顔に変り、やっと気持ちが楽になって森でのできごとをポツリポツリと話した。カイロスと鹿を助けたことも打ち明けたが、その鹿が喋ったことだけは言わなかった。嘘をついていると思われるに決まっているからだ。彼女自身、思い返すと夢でも見ていたような気持ちになるのだった。
「それは、良い行いをなさいましたね。きっと神様がご褒美をくださいますよ」
 ジェフィーは、微笑んで褒めてくれた。
 ルシアは少し迷ってから、気になっていたことを彼女に質問してみることにした。
「ねえ、カイって、よく得意そうに兎や鳥をいっぱいぶらさげて狩から帰ってくるじゃない。生き物があんまり好きじゃないのかなって思ってたのよ。だけど今日は一生懸命傷ついた鹿を助けたのよ。どうしてって聞いたら、だって可哀想じゃないかって言うの。なんだか性格の違うカイが二人いるみたい」
 ジェフィーは注意深く耳を傾け、それから静かに問い返してきた。
「ルシアさまは鳥肉のお料理がお好きですよね? その鳥は誰がつかまえて、誰が料理しているのかお考えになったことがありますか?」
 ルシアははっとしたけれど、何となく嫌な気持ちにもなった。
「だって、それは……」
「それは?」
「誰だって、お肉を食べるじゃない。ジェフィーだって食べるでしょう?」
「もちろん、いただきますよ」
「それって、悪いことなの?」
「それは、私なんかにはわかりません」
 ジェフィーは微笑した。
「ただ、思うんです。狩って人間と動物の正々堂々とした戦いなんじゃないかって。カイロスさまや猟師に狩られて私たちの食卓に運ばれる鳥だって、小さな虫などを食べて生きているのではないでしょうか?」
 ルシアは腕を組んで、考え込んだ。
「そういうものなの?」
「そういうものなんですよ、きっと」
「じゃあ、狩りの時のカイは立派に戦っているわけなのね?」
「ええ、本当にご立派で凛々しいお姿ですよ。未来のプランヴィール公爵さまとして、ルシアさまのお婿になられるに相応しい方だと思います」
「よしてよっ」
 顔が赤くなるのが自分でもわかった。
 父であるリオネル王が、ゆくゆくカイロスを一人娘の婿にと考えていることは知っていた。
「そんなカイでも……」
 平静をよそおって話題をもどそうとしたが、ジェフィーにくすっと笑われてしまった。
「罠にかかって傷ついている鹿を見て、可哀想だって思うものなの?」
「苦しんでいる者を見て可哀想だと思い、助けを求めている者に手を差しのべるのは、人間として当然のことではないでしょうか?」
(そういうものなのか)
 鹿の姿を目にしたとたん、ルシアのことも忘れたように走り出したカイロスの姿を思い出した。
(きっと、そういうものなんだ)
 やっと少し納得できたような気がした。

 狩猟の下見に出たカイロスが、家来とはぐれたまま行方不明になったという報せがもたらされ、城中が大騒ぎになったのは、それからしばらく後のことだった。


   *   *   *

 ここで少し時間をもどすことを、お許しいただきたい。
 森のほとりでルシアが走り去るのを見送ったカイロスは、家来たちの声が聞こえた方に歩き始めたのだけれど。
 ところが、いくら進んでも家来と出会うことができなかったのだ。
(おかしいな)
 少し不安になって薄暗い茂みのあいだを歩くうち。
 はっとして、立ちすくんだ。
 カイロスをじっと見下ろしている、人影があったからだ。
 女性だった。ほっそりとした体に黒衣をまとい。その面はぞっとするほど蒼白だった。若いのか年老いているのかも分からない、ひややかな顔。初夏だというのに、この女性のまわりだけが凍てつく冬のように感じられた。
「おまえは……だれだ?」
 ふるえながらカイロスが問う。
「私かい? 私の名はアウラディア」
 女性の唇からもれた声音は、感情の少しもこもらない静かなものだった。
「人間たちは私を魔女と呼ぶけど。ふふ。そんなたいそうなものではない。私はただ、この森のずっと奥で長い長い時をまどろんできただけ。ずいぶん久しぶりに、外の様子が見てみたくてここまで来た。そして、おまえとあの可愛い女の子を見つけた」
 女性は身をかがめ、青い瞳をじっとカイロスにそそいだ。心の底まで覗き込まれるような眼差しに、カイロスの体が痺れた。動けなくなった。
「教えてちょうだい。あの娘の名前は? どんな身分の子なの?」
 答えちゃダメだ。そんな気がしたのだけれど、女性に見つめられると頭がぼうっとしてしまい、逆らうことができなかった。
「あの子の名前はルシアです。今の王様の一人娘です」
「王女ルシアか」
 女性は嬉しそうに微笑した。
「まだ蕾だけど。あの娘はいまにきっと清楚で美しい花を咲かせるだろう。この国の王家に久しぶりに生まれた、最高に素敵なお姫さまだ。ならば」
 女性は、かがめていた背筋をすっとのばし、紅にそまる空に視線を向けた。
「百年ぶりにもなろうか。《虎と美女の審判》が、また見られよう。なんと楽しみなこと」
 カイロスはもう確信していた。目の前に立っている女性が、魔女と噂される通りの不吉なものであることを。逃げ出したかったけれど、足が地面に根を生やしてしまったように一歩も動けないのだった。
 魔女がふたたびカイロスに視線を向ける。少年はびくっと身をふるわせた。
「よろしい。まず、手始めはおまえだよ。可哀想だけれどもね……」


   *   *   *

 プランヴィール公爵の子息カイロスがいなくなったと、城のみんなが大騒ぎしはじめたのは、夕食の支度が調えられる頃だった。
 ルシアはびっくりして、食べ物もほとんど喉を通らなかった。
 最初に思い浮かんだのは、ルシアと森のほとりで遊んだことが知られて領地に返されたんじゃないかということ。でも、それならこんなに大騒ぎになるはずがない。
 公爵夫人のドミニカが半狂乱になって、リオネル王や廷臣たちに一刻も早く息子を探し出すように訴えている。ただごとではなかった。
(カイったら。あの後すぐにお供の人たちと一緒になったのじゃなかったの?)
 胸騒ぎがしたけれど、大勢の家来たちが城の外にも探しに出ているらしい。
(大人たちにまかせておけば、きっと見つかる)
 そう自分に信じ込ませてベッドに入ったけれど、なかなか寝つかれず、うとうとしてはヘンな夢をみて何度も目を覚ました。
 翌朝、寝室に入ってきたジェフィーに朝の挨拶もしないで、大声で聞いてしまった。
「カイは? 公爵のご子息は見つかったの?」
 ジェフィーは疲れたような顔で、力なく首をふった。
(そんなこと。ウソよ)
 愕然とした。
 あの森で出会った不思議な雌鹿の言葉を、ルシアは恐怖とともにまざまざと思い出した。

――これから、あなたたちはつらい運命と立ち向かわなければならなくなります
――あなた方がこれから別れわかれになっても

 予言は、最悪の形で実現してしまったのだ。

 それから数日たってもカイロスは見つからなかった。
 なおも捜索は続けられていたが、いつか諦めなければならない日が来ることは、ルシアには何となく分かっていた。
 雌鹿の予言。
 それは、カイロスがいない今、ルシアだけが知っている秘密だった。でも、それは誰にも打ち明けることができないのだ。話しても信じてもらえないことは、幼い心にもよく分かっていたからだ。
 悲しみと、誰にも頼れない心細さはとても大きかったけれど、彼女の胸の中には小さな希望の灯火もあった。
 それはとても儚くかぼそい希望だったけれど。

――ですから私は、あなた方がこれから別れわかれになっても、必ず再会できる日が来るようにお祈りすることにします
――どうか、自分を信じて。あなたたちがその素直でまっすぐな心を失わなければ、いつかきっと幸せになれる日が来ますよ

 悪い予言は当たったのだから。良い方の予言だって当たるはず。
 そう信じることだけが、くじけそうになる心を支えるたった一つのよすがだった。


第二章 ランドルフ

 カイロスが姿を消してからの王女は、どこか沈みがちな表情を人にみせることが多くなった。明るくて屈託がなくて、ややもすると少し我がままなところのあったそれまでのルシアとは様子が違うようだった。
――兄のように懐いていた従兄弟が急にいなくなったためしょんぼりしているのだろう。
 そう考えて小さな王女に不憫そうな眼差しを投げかける者は少なくなかった。
 しかし。
 カイロスがいなくなった日をさかいに、ルシア王女の心のうちにある変化が生まれていたことに本当に気がついた者は、どれほどいただろうか。
 ルシアの心の中には、一つの強い決心が芽生えていたのだ。
(いつか必ずカイはもどってくる。私のまえに)
 不思議な雌鹿に告げられた言葉を、ルシアは信じていた。
 カイロスが帰ってきたとき、自分はどのように彼と向き合えばいいのだろう? 鹿はそれを教えてくれなかった。その答えは自分で見つけなければならないということなのだろう。
 ルシアは不安だった。
 その時もし彼女が、とるべき態度を間違えたら。それきり永久にカイロスと逢えなくなってしまうのだろうか?
 ルシアは、自分の行いについて振り返るようになった。
 カイロスと再会した時、どのように振舞えばいいのかわからない。でもその時、ルシアが久しぶりに逢った従兄弟を失望させるような女の子になっていたら。それは正しくないことのような気がするのだ。
 何かことにあたる時。何か大事な選択をしなければいけないような時。もしカイロスが見ていたとしたら? どうすれば恥ずかしくないだろう? そんなふうに考えるようになったのだ。
 時が流れ、ルシアは思慮深くつつましい女性に成長した。燦々と輝く太陽のような明るさは少し影をひそめたけれど。それにかわって夜空の月の光に似た落ち着いた明るさで、仄かにあたりを照らすような娘になったのだ。

 嫡男のカイロスを失ったプランヴィール公爵家では、その後不幸がつづいた。悲しみのためにすっかり覇気をなくした公爵は、落馬の負傷がもとで帰らぬ人となった。性格が弱いと噂されるカイロスの弟アルベルトが跡を継ぎ、未亡人のドミニカが後見するようになったけれど。幼い子供と女性では広く豊かな領地を治めることもままならず、公爵家の凋落は誰の目にも明らかだった。
 ルシアは毎年、公爵の領地におもむいて、ドミニカの話し相手になった。少しでも力づけようと思ったのだ。それは、いつか戻ってくるカイロスのためでもあった。

 ルシアに最初の縁談が持ちかけられたのは、十四歳の時だった。相手は、隣国の王子。
 ルシアはリオネル国王の一人娘だったから、他国に嫁がせるわけにはいかなかった。でもこの時の相手は次男坊だったから、婿に迎えることができる。それならとリオネル王も乗り気のようだった。それとなく彼女の気持ちを聞いてきたが、ルシアはしずかに首を横にふった。
「そういうお話は、まだ少し早いと存じます、お父さま」
 十四という歳は王家の女性の婚約に早いとは言えなかったが、王は無理強いはしなかった。娘の気持ちがわかっていたのだ。まだ、従兄弟の帰りを待ち続けていることを。
 王にも一縷の望みはあった。行方不明とはいえ、カイロスの死体が見つかったわけではないのだ。王家と縁続きでもあるプランヴィール公爵であれば、娘の相手として申し分はない。かなうことならそれが一番だと王も内心思っていたのだ。
 十五、十六と成長するにしたがい、ルシアの美しさはたいそう評判となった。縁談も絶えなかったが、彼女はことわりつづけた。リオネル王がそれを黙認したのは、彼自身、娘に他の男が近づくことをあまり好まない父親――つまりどこにでもいるような子煩悩の寂しい父親の一人だったからかもしれない。
 しかし王家の未来を安んずることを考えると、そうも言っていられない時が迫っていた。
 ルシアが十七の誕生日を迎えた朝、リオネル王は娘を自室に呼んだ。
 若い頃は時に激しい気性を見せて家来たちに恐れられた王も、近頃は髪に白いものが目立つようになってきた。
「これまで、お前は良家との婚約の話をいくつも断ってきた。いや、過ぎ去ったことを咎めはしないが、そろそろ心を決めなければならぬ。おまえも、そして私もな……いいか、これより一年のうちに、婿となる者を選びなさい。これは父からの頼みであり、王としての命令だ」
 いつになく厳しい王の眼差しを見て、ルシアはこの言いつけには逆らえないことを悟った。
「私の頼みを聞いてくれるか、ルシア?」
 ルシアはほっとした。頼みと命令。そう言いながらも、最後にリオネルが国王としてではなく父親として語りかけてくれたことが嬉しかったのだ。
「はい。もちろんです、お父さま。ルシアは、これまで大切に育ててくださったご恩に背くようなことはいたしません」
 ルシアは父に体をよせ、そっと頬に口づけした。


   *   *   *

 その年も、春になるとルシアはプランヴィール公爵の領地に向かった。
 馬車が公爵の館に近づくと、広い花畑が見えてくる。色とりどりの花々は、この地方の自慢の特産品だ。馬車の窓からふと面差しを向けた若い王女の顔は、あたかも花たちと美しさを競うようだった。風が長い亜麻色の髪をゆらす。
 農村にさしかかった時、ルシアはふとあるものに目をとめた。
 王女の乗る華やかな二頭立ての馬車を見物する村人たちの中に、見慣れない若者がいることに気づいたのだ。村人の数はそれほど多くはない。毎年この地を訪れているルシアは、ほとんど顔を覚えている。でも、その青年は知らなかった。
 もちろん、それだけのことで不思議に思ったわけではない。何かの事情で長く村を離れていた者が帰ってくることもあるだろう。
 ルシアがはっとしたのは、その若者の風貌にどこかしら農民らしからぬ気品のようなものを感じたからだ。身なりはみすぼらしく、人目につくのを避けるように少し離れた薄暗い軒先に立ち、一人でぽつんと馬車を見ていた。
「あの者は、誰?」
「はい……あの者とは? どの者のことを仰っているのでしょうか?」
 思わず口をついて出た問いかけに、かたわらの従者がいぶかしげに聞き返す。
「あそこを見て。農家の前に立っている栗色の髪の青年」
 ルシアの胸がさわぐ。
(まさか、あの青年が……?)
 ルシアは不思議な雌鹿の言葉を一日だって忘れたことはない。

――ですから私は、あなた方がこれから別れわかれになっても、必ず再会できる日が来るようにお祈りすることにします
 
 青年の歳のころは、ルシアと同じか少し上に見える。カイロスと同じ柔らかく波うつ栗色の髪。顔立ちは、似ているような気もするし、少し違う気もする。でも、ルシアの心の中で育った想像の青年。その凛々しい面影そのままではないかとも思えてくる。
 半信半疑ではあったけれど。
 あと一年足らず。次ぎの誕生日までにカイロスと再会することができなければ、彼女は他の誰かと婚約しなければならない。
 時間はあまり残されていないのだ。
 だから、迷うことなく従者に命じた。
「あの若者の素性を、急いで調べてください」

 若者はランドルフと名のっていることが分かった。ところが、本当の名前は彼自身も知らないのだという。
 彼は八年前に、ある村の近くを途方に暮れたように彷徨っているところを、地元の教会の神父に見つけられたらしい。その時の彼は、自分の名前も家族のことも何一つ思い出せなかった。ほとんど裸で、どこかで拾ったボロ布を体にまきつけていた。野盗におそわれて衣服をうばわれたのだと言う。体一つで一生懸命に逃げて、気がついたらその村の近くをさまよっていたらしい。それだけはよく覚えているのだが、それより前のことはまったく思い出せないのだという。
 ランドルフという名前は、神父に与えられたものだ。哀れに思った神父に、彼は育てられた。そして今年になって、農家の下男として働くことが決まり、この村にやってきたのだという。

(考えていても仕方がない。自分の目で確かめよう)
 ルシアは決心した。
 近頃は、おしとやかな王女と褒められることも多いけれど。そんなの自分らしくないと心の中で思わなくもなかったのだ。久しぶりに、思い立つとあまり迷わず行動にうつしてしまう昔のルシアが戻って来たようだった。
 焦ってもいた。あまり時間は残されていない。はやくカイロスを取り戻さなくては。そんな思いに突き動かされてもいた。
 プランヴィール公爵の館には、あと十日ほど滞在する予定だった。従者に口止めして質素な身なりで館を抜け出し、こっそり村におもむいた。
 畑仕事をしているランドルフを、始めは物陰から遠目に眺めた。
 時おり仕事の手を休め、今の主人にあたる農夫と談笑している様子を見て、ルシアは少しほっとした。
 これまで辛いこともたくさんあっただろうけれど、今の彼は周囲の人々から親切にしてもらっているようだ。ならば、あれはあれで幸せな人生なのかもしれないと、ふと思った。
 王や貴族の生活は、ばかばかしいしきたりやら儀礼やら、家同士の思惑やらに縛られて、息がつまることがとても多い。自由に結婚相手も決められない自分の境遇を振り返らざるを得ない。
 ルシアの心にまた迷いが生まれた。
 あの若者が、カイロスなのかどうかは分からない。ただ、一つ分かっていることがあった。
 カイロスであるにせよ、そうではないにせよ。今、ルシアが声をかければ、彼の運命が変る。それは、もしかしたら彼の素朴だけれど平和な生活をこわしてしまうことなのかもしれない。
 つかのまの逡巡。
 そのとき、ルシアはあるものを目にした。
 雌鹿だった。

 少し離れた林の木陰から、じっとこちらを見ているかのような雌鹿の姿があった。それは、ほんの短い時間のこと。鹿はすぐに姿を消した。
 若者に視線をもどすと、言葉をかわしていた農夫は、いつのまにか居なくなっていた。一人で切り株に腰を下ろして休息をとっていた。
 一瞬、幻のように垣間見た雌鹿の姿が、ルシアの背中を押した。
(迷った時は、前に進むしかない)
 ルシアは意を決して、若者の方に歩きはじめた。
 若者の背中がだんだん大きく見えてくるにつれて、足がふるえた。心臓がどきどきする。こんなことは初めてだった。
「あの……」
 口ごもってしまった。
 振り返った若者の顔を間近に見て、ルシアは小さく息を呑んだ。
 澄んだ青い眼。栗色の髪に縁どられた顔は陽に焼けていたが、それでもなんと気品高く見えたことだろう。
 ルシアは思わず心を奪われた。ややあってから、自分の頬がほんのり赤らんでいるのを感じて狼狽した。怪訝そうに見返している若者の前で、こっそり深呼吸した。
「驚かせてごめんなさい……少しお話してもいいかしら?」


   *   *   *

 ルシアとランドルフの出会いを見とどけた雌鹿は、林の奥深くを進んでいた足を、ふと止めた。
 青ざめた顔をした女が、影のように姿をあらわしたのだ。
「ゼルフィナ。まさか私の邪魔をするつもりじゃないだろうね?」
「私には、貴女のすることを止める力はないわ。それは、よく知っているでしょう、アウラディア」
 魔女は冷やかに微笑んだ。
「あのお姫さまは、自分の意志でここまでやって来たと思い込んでいる。でも本当は目に見えない糸にたぐりよせられているにすぎない。彼女も、あの若者も。私のこしらえた運命の糸車は、寸分の狂いもなくまわりつづけている」
 雌鹿は無言で、少し悲しそうに魔女を見つめていた。

 
   *   *   *

 ルシアは、それから何度かランドルフのもとに忍んで行った。
 彼は、ルシアが王女であることに気づいてはいないようだった。馬車に乗っていた彼女の姿は遠かったから、顔は分からなかったのだろう。少し後ろめたさも感じたけれど、かえってそれが刺激になった。身分を隠して若い男と逢引するちょっとした冒険は、楽しかった。
 始めはおずおずしていたランドルフの方も、逢瀬を重ねるにつれてしだいに心を開くようになり、振る舞いも大胆になっていった。
 逢える時間は短かったが、その束の間の時に彼はよく話した。育ててくれた神父のことや、最近の畑仕事について。話題は素朴で取りとめなかったが、ルシアは少しでも長く彼の声を聞いていたかったから、いつも聞き役にまわっていた。
 公爵の領地を辞して王城に帰ってからも、ルシアの頭からはランドルフの面影が離れなくなった。自分の心がこんなにも一人の若者の虜になってしまったことが、ルシアには驚きだった。寝ても醒めても、ランドルフのことばかり考えていた。

 城に戻ってから一ヶ月も経たないうちに、ルシアはもう一度プランヴィール公爵の領地に行きたいと皆に告げた。年に二度その地を訪れるだけでも、かつてない事だったから、王や城の者たちは驚いた。
 理由を問われると、王女は答えた。
「今年は気候が少し悪いから。これから収穫の時期を迎えて、きっとドミニカさんは心配なさっていると思います。何かお力になれないかと」
 城の者たちのいぶかしげな顔を振り切って、強引に公爵領に向かった。
 しばらく中断していた王女と若者の逢引が、また始まった。
 もはや隠し続けることもままならず、ルシアは意を決して若者に身分を打ち明けた。
 ランドルフは緊張した表情になったが、思ったほど驚かなかった。やはりそうだったか。顔にそう書いてあるのを、ルシアははっきりと見て取った。
「私が誰だか……知っていたのですか?」
「はい。薄々は」
「いつから?」
「前に何度かお逢いした時も、不思議な方だなと思っていました。そして、王女さまがこの地をお立ちになると、貴女は姿をあらわさなくなりました」
 若者は慎重な口ぶりで、少しずつ話す。
「お逢いできなかったあいだ、ひょっとしたらあの方はと。そう思っては打ち消していました」
「そうして。ルシア王女がもう一度この地を訪問すると、また私があなたの前に姿をあらわしたというわけね。バカね、私ったら。バレちゃうのが当然ね」
 そう言いながら、ルシアは内心ほっとしていた。王女だと名乗ったとたんに、腰を抜かすほど驚かれたり怯えられたりしたらどうしようと心配していたのだ。

 こうしてルシア王女とランドルフは逢瀬をつづけたが、そんな事がいつまでも人の目に触れずにすむはずもなかった。
 思慮深い王女と誉めそやされはしても。ルシアはまだ十七歳の世間知らずなお嬢さま。それが恋にのぼせあがって少しばかり自分を見失ってもいたのだ。
 たびたび公爵の館を抜け出していることを、口外しないように側に仕える者たちに命じてあったけれど。王女の様子がおかしいことは誰の目にも明らかだったから、家来といえども黙っているわけにはいかなくなったのだ。
 ランドルフとの事は、ほどなくリオネル王の知るところとなった。


   *   *   *

 後ろ髪を引かれる思いで公爵領を再び後にしてから数日後、ランドルフが捕らえられ牢に入れられたという報せを侍女から聞き、ルシアは青ざめた。
(どうして、そんなことに)
 驚きに心を引き裂かれ、何か彼を救う手立てはないかと迷ううちに、父王リオネルの方から呼び出しの使いが来た。
 ルシアが向かったのは、城内の奥にある父の居室だった。公の事ではなく親子として話がある時には、いつもそこに呼ばれるのだった。だから、この日も父と二人きりで話すのだとばかり思っていたルシアは、扉を開けて足を踏み入れかけ、はっと立ち止まった。
 部屋の隅の暗がりに、青ざめた顔で佇んでいるファイラジールの姿を目にしたからだ。
(どうして、ファイラジール先生がここに?)
 いやな予感を抱きながらルシアが部屋に入っていくと、リオネルは腰を下ろすようにうながしてから口を開いた。
「お前はこれまでにいくつのも縁談を断ってきたな。しかし、私はあまり咎めなかったはずだ。なぜだか分かるか、ルシア?」
 父の声に強い苛立ちを感じ、ルシアはうつむくことしかできなかった。
 王はつづける。
「それはな、お前の心にはまだカイロスの面影が残っているのだと思っていたからだ。そんなお前の想いを私は大事にしてやりたかった。だから猶予をあたえたつもりだ。しかし、裏切られたよ。お前は素性も知れない野良犬に懸想して、私の心を踏みにじり、カイロスをも汚した」
「そんな。あまりにひどいお言葉です」
 ルシアは思わず立ち上がり、叫んでいた。
「彼は野良犬なんかじゃありません。あの人は……」
「そやつめが何者だと言うのだ?」
「彼が……カイロスかもしれないのです!」
 思わずそう叫んでいた。
「何だと?」
 リオネル王は息を呑んだようだった。部屋の中に、しばらく沈黙が流れた。
「ルシア。それは、根拠があって言っていることなのか?」
 ややあって再び口を開いたリオネルの声には、不信と戸惑いの響きがあった。
「ランドルフとやらが、お前にそう言ったのか?」
「……いいえ」
「ならばなぜ、お前はその若者がカイロスだと思うのだ?」
 ルシアは力なく椅子に身をしずめ、泣き崩れてしまった。根拠なんかあるはずもない。ルシア自信が半信半疑だったことを、追いつめられてつい口走ってしまったのだ。
 父は泣き続けるルシアのかたわらに近づき、そっと肩に手をおいた。
「すまん。お前を悲しませるつもりではなかったのだ。私はいつだって、おまえの幸せを第一に考えているのだよ。落ち着いて、わけを話してみなさい」
 ルシアは涙をふき、ランドルフと出会ってからのことを覚束ないながらも父に話した。
 リオネル王はしばらく何か考えていたが、やがて部屋の隅に歩いて行ってファイラジールと何かひそひそ言葉をかわしはじめた。
 ルシアの前に戻って来た王は、静かに言った。
「私には、そのランドルフという男がカイロスだとは思えない。しかし、おまえがどうしてもと望むなら、その男の素性を調べてみてもよい。ただ……それには、覚悟してもらわなければならないことがある」
「覚悟とは……どのようなことでしょう?」
「彼がカイロスかどうか確かめるとなると、公爵家の者たちに彼を引き会わせることは避けられない。だが、それをやってしまうと事はのっぴきならなくなる。わかるか、ルシア? そこまで大事にしながら、もし彼がカイロスであることを証明できなかった時には」
 王はそこで言葉を切り、じっと娘の瞳を見つめた。
「かの者は公爵家の名を騙ろうとした重罪人ということになる」
「そんな! 理不尽です。彼は自分から公爵家の跡取りだなんて名乗ったわけではありません」
「そやつがカイロスではないとしたら!」
 リオネル王は、突然、激怒したように吼えた。
「自分が卑しい身分の者と知りながら、お前をたぶらかそうとしたと考えざるを得ん! そのような輩は、八つ裂きにしてもあきたらん!」
「お父さまの眼は、悪魔に歪められてしまったのでしょうか?! 彼が私をたぶらかそうとしただなんて。神様に誓って、そのようなことはいっさいありません」
「まあ、お二人とも落ち着いてください」
 それまで黙って聞いていたファイラジールが、ふいに割って入ってきた。
「ルシアさま。今ならまだ、穏便に事を片づけられると我々は申し上げているのですよ。その男をすみやかに他国に移し、ちゃんと身が立つように計らってやることも、今ならできる。ですが、そやつが公爵家の後継者かどうかなどという話を表立ててしまうと、いやでも世間の耳目を集めてしまうし、公爵家だって黙ってはいないはずです。そういうことを申し上げているのです」
 ファイラジールの言葉は冷静だった。
 激情にかられていたルシアの頭にも、彼の言おうとすることが少しずつしみこむように理解できたのだった。
「つまり……私があの人はカイロスではないかと言いだせば、彼を危険な立場に追い込んでしまうと?」
「やはり、あなたは聡明な方です」
 ファイラジールはやんわりと微笑した。
「むろん、彼の素性を調べることによって、公爵の後継者その人であることが明らかとなる可能性が無いとは言いません。しかし、仮に事態がそちらに転んだとしても、公爵家がどう出るかは我々にも予測がつかない。何しろ後継者問題は、家の死活につながりますからね。ですから、これはかなり危険な賭けなのです。最悪の場合、彼が極悪人として刑に処される可能性も否定できない賭けです。貴女は愛する者を、そのような賭けに委ねることを望みますか?」
 ルシアは、がっくりと肩をおとす。
(そんなこと、望んでいるはずがない)
 たとえ一方には二人の幸せがあるとしても。他方にはランドルフの死。そんな賭けに自分のわがままから足を踏み出すのは、正しいことではない。そう思った。
(潔く身を引こう。たとえ、もうあの人と逢えなくなるとしても、世界のどこかで生きていてくれる方がずっといい)
 そう自分に言い聞かせかけた時。
 ルシアは雌鹿に言われた言葉を、思い出した。

――どうか、自分を信じて。あなたたちがその素直でまっすぐな心を失わなければ、いつかきっと幸せになれる日が来ますよ

 これまで、この言葉を思い出しては何度勇気づけられたことだろう。
(ここで諦めていいのだろうか? その前に何かできることは無いのだろうか?)
 そう思い返し、大事なことを一つ忘れていたことにルシアは気づいた。
 まだ、もう一人の当事者の心を確かめていない。なのに、彼女たちだけで勝手に結論を出そうとしていたんじゃないのか。
 ルシアはもう一度涙をぬぐい、すっと立ち上がってリオネル王に眼差しを向けた。
「ランドルフに会わせてください」


.第三章 アウラディアの城

 王の城から馬車でしばらく西に向かうと、しだいに風景は荒涼としてくる。樹木がまばらになり、やがて草木さえも枯れ果てた低い丘陵と、その上にそびえ建つ牢獄の古城が見えてくる。
 夕暮れが近い。西の空の病み衰えたような明るさを背景にして、城は陰鬱に黒ずんで見えた。
「気持ちの悪い建物でしょう?」
 ルシアとともに馬車から降り立ったファイラジールが言った。
「この城には多くの伝説がからみついています。大半はあてにならない神話、伝承のたぐいでしょうが。ただ建国のころ、アウラディアという王女がこの城に住んでいたことが古い書物に書かれています」
「アウラディア……その名前は、森に棲む魔女として昔話によく出てきますね」
 ルシアが問うた。
「そうですね。今ではアウラディアというのは魔女の名前になってしまいました」
「そういう名前の王女が本当にいたことは知りませんでした。この牢獄が『アウラディアの城』と呼ばれているのは、魔女の伝説と関わりがあるのだろうと思っていました」
「書物によれば」
 ファイラジールは言いかけて、少しためらうようだった。
「この城は王女アウラディアと、その父である王……リオネル三世の居城だったとされています」
「リオネル……ですか?」
 ルシアは息を呑んだ。父と同じ名前だったからだ。
 建国時代の三代の王の名がリオネルだったことは知っている。でも、その名前を持つ古えの王たちの伝承は歴史よりも神話に近い物語ばかりで、中には実在したかどうかさえ疑問視する学者もいるらしい。
「この城が昔のリオネル王と関わりがあったなんて、はじめて知りました。そんな話、誰も教えてくれませんでしたから」
「故事に詳しい者でなければ知らない話です。知っている者も、今の王をはばかってめったに口にはしません」
(ああそうか。お父さまと同じ名前の伝説の王だから、かえって話題にしにくいということなのか)
 そう理解したが。
(でも、この古城にまつわるリオネル三世の伝承は、はばからなければならないほど不吉なものだということ?)
 ルシアは、あらためて古城に視線を向ける。
 気が滅入ってくるような、殺伐とした風景だった。岩肌をさらす丘の斜面に城壁がめぐり、蛇行する石段が丘陵上の主郭へと続いている。
(生活を楽しむのではなく、戦の備えとして作られた巨大な砦……)
 そんな雰囲気が、ひしひしと伝わってくるようだった。
 今の王国は、平和な時代が長くつづいている。ルシアの住む城は優雅な平城で、敵に攻められることなどあまり考慮されている感じはしない。ルシアが幼いころ森に抜け出していた城壁の崩れも、いまだに修繕されていない暢気さだ。
 ルシアは長い石段を登ってゆく。丘としてはそれほど高いわけではないが、少女の足にはきつかった。けれども。こんな場所ではあっても、もうすぐランドルフと逢えると思うと胸が高鳴り、足も速まるのだった。
「ルシアさま、足腰がお強いですね」
 背後に呆れたようなファイラジールの声が聞こえる。彼の方がよほど息を切らしていた。
 ルシアもさすがに一気にのぼりきることはできず、石段の途中で足を止めて、汗ばんだ顔をファイラジールに向けた。
「小さいころはおてんばで、いつも外を駆けまわっていましたから。先生はよくご存知でしょう?」
「ずいぶん手をやかされましたよ」
 ファイラジールは肩で息をしながら、苦笑している。今でもね、という言葉が喉まで出かかっているのだろうとルシアは思った。
 石段を登りきると、いかめしい城門が二人を見下ろす。重々しく閉じられた木製の大扉が開かれることはめったにない。衛士に通用口を開けさせて、二人は城壁の中に入った。
 通路を抜け、建物の角をまがり、低い石段を登る。渡り廊下を横切るためのアーチをくぐると、広い中庭のような場所に出た。
 ルシアは足を止め、途方に暮れて周囲に視線をめぐらせた。
 異様な空間に見えたのだ。
(ここって……何?)
 まず眼を引かれたのは、左手の壁全体を覆う古びて朽ちかけたレリーフだった。
 ほぼ中央には巨大な女神像が彫られている。女神は片手に天秤を持ち、もう一方の手には剣を握っている。神話に出てくる《裁きの女神ミネルディーナ》だとルシアは思った。そう言えば、この女神の別名は一説にはアウラディアと呼ばれると聞いたことがある。
(どうしてお伽話の魔女の名前と同じなんだろうって、ちょっと不思議に思ったけれど)
 でも幼かったルシアは深くは考えず、それきり忘れていたのだった。
 女神像の両側には、木材と鉄で作られた二つの扉があった。扉のまわりにも無数の浮き彫りがあり、それはあたかも世界の縮図のような意匠だった。
 富める者と貧しい者。働く者、統治する者、歌う者、盗む者。家族とすごす喜びと、孤独の嘆き。神の祝福を受ける者と、地獄の業火に苦しむ者。
 そんな様々な人間の姿が象徴的に彫り込まれているのだった。
「先生、ここはいったい……?」
「かつて《美女と虎の審判》が行なわれた場所です」
 ルシアの問いかけに、ファイラジールは淡々と答えた。
「あそこをご覧なさい」
 彼は女神像と扉の正面にあたる、右手の方を指差した。
 右の建物はひときわ立派な造りで、かつての城主の居館だったかと思われる。そして大きなバルコニーがあった。
「あそこに玉座をしつらえて、古えのリオネル王とアウラディア姫が眼下で行なわれる《審判》の様子を見物したのです」
 ルシアはバルコニーを見やる。つい、同じ名前の父がそこに座っている様子を思い浮かべてしまった。
(じゃあ、私がアウラディアってわけ? ぞっとしないわね)
 もう一度、左に視線をもどした。伝説の二人が見物したという《審判》が行なわれた場所。
「何の審判って仰いました?」
「《虎と美女の審判》と呼ばれています。ご説明しましょうか?」
「いいえ、けっこうです」
 天秤を手にした女神像と、その両側にある二つの閉ざされた扉をルシアは見つめ、すぐに眼をそむけた。
「だいたい想像がついたような気がします」
 壁の浮き彫りはかなり風化しているようだったが、二つの扉だけがさほど古そうに見えないのが不気味だった。
 悪趣味な中庭を横切り、今は牢獄となっている建物に二人は向かった。
 牢獄と言っても、ここには普通の罪人はいない。と言うより、今ここに囚われているのはランドルフ一人のはずだった。アウラディアの城は、王家に反逆した者が入れられる特別な牢獄だった。今の王の治世には、ルシアが知るかぎりそんな物騒な事件は起こっていなかったから、長い間ここが牢として使われることはなかったのだ。
 入口を通る時、ルシアはふと足をとめバルコニーを振り返った。
 はっとした。
 バルコニーの手すりに片手を置いて、じっと見下ろす人影が視界をかすめたのだ。ほっそりとした女性のようだった。風が、その人影の長い髪をゆらした。
「どうしました?」
 ファイラジールがいぶかしげに問いかける。
「あそこに人が」
「人が……? あそこってどこです?」
 声をかけられてバルコニーから視線を離したのは、ほんの一瞬だった。
 なのに、もう一度見ると、もう人影はいなかった。
「バルコニーに女の人が立っていたんです」
「女性が?」
 ファイラジールは妙な顔つきで、微笑した。
「あの建物は今は使われていません。それに、この城のどこにも、貴女のほかに女性はいないはずですよ」
(何かの見間違い……? いや、そんなはずはない)
 もう一度バルコニーを見たが、やはり人の姿などはどこにも見えなかった。
「アウラディアの幽霊の他にはね」
 ファイラジールがつけくわえる。ルシアは笑えなった。

 薄暗い独房に足を踏み入れると、ランドルフは驚いたようにルシアを振り仰いだ。
「先生。しばらく二人で話をさせてください」
 ファイラジールは黙ってうなづいた。
 ルシアの背後で、扉がきしむような音を立てて閉まった。手にしたランタンを小さな机に置き、粗末な寝台の端に腰をおろす。ランドルフは固い木の椅子に座っていたが、うつむけていた顔をおずおずとルシアに向けた。
 二人ともしばらくは無言だった。
 やがて、ルシアが口を開く。
「不自由していない?」
 牢に囚われている者に対して気が利かない言葉だと自分でも思ったが、他に言うことが思いつかなかったのだ。ランドルフは力なく笑った。
「いや。僕のこれまでの生活なんて、だいたいこんなものだったから。ただ、一日何もやることがないっていうのは初めてだから、退屈でね」
 外はもう陽が沈みかけているようで、格子のはまった小さな窓からは夕陽の弱い光もほとんど入らない。暗がりの中でランタンに照らされたランドルフの顔は、ひどく憔悴して見えた。虐待されている様子はなかったから少しほっとしたが、自分がこれからどうなるのか、ずっと不安にかられていたのだろう。
 そんな恋人の面差しを見つめるうち、ルシアの頬に涙がつたった。自分の無力さを感じ、胸が苦しかった。それでも言葉は口から出てこなかった。
 ランドルフは驚いた顔をして、ルシアのかたわらに歩み寄ってきて隣に座った。背中にやさしく腕をまわされ、膝においた片手がぎゅっと握られた。
「僕は大丈夫だから。貴女が心配することはないから」
 しっかりした声音だった。ランドルフの体から、ほのかな温もりが伝わってくる。ルシアは我慢できず、身を寄せて恋人の肩に額をのせた。
(なんで、私の方がなぐさめられているんだろう?)
 ランドルフのシャツの胸もとを涙でぬらした。
「……逢いたかった」
 やっと口からもれた言葉だった。
「本当に……どんなに逢いたかったことか」
「僕も、逢いたかったよ」
 ややあって、ランドルフが囁くように答える声が聞こえた。
 薄暗い牢獄の中とは言え、彼に抱かれていることにルシアは心地良さを感じた。ぼうっとかすむ意識で、このままずっとこうしていたいと思った。
 けれども。
 ふいに彼女の胸に強い感情がわきあがった。
(私は、甘えに来たわけじゃないっ)
 ランドルフの体を突き放すように身を引き、立ち上がった。
「だめなの!」
 ランドルフは呆然と見上げている。
「あなたとずっと一緒にいたい。だけど、たとえ一生逢えなくても、あなたが生きていてくれる方が、ずっと大事。私にかかわると、あなたの命が危ないのよ。だから、別れなくちゃいけないの。今日はお別れを言いに来たのよ」
 ルシアは一気に言った。そんなことを言いに来たつもりではなかったけれど、言ってしまった後には、これこそが一番言わなければならないことだったようにさえ思えた。
 ランドルフは呆気に取られて彼女を見上げていたが、やがて真剣な面持ちになって立ち上がった。
「ルシアさま。僕もずっと貴女に逢いたかったよ。その気持ちは今も変らないし、貴女のためならば命なんか惜しいとは思わない」
 ランドルフの言葉はルシアの心臓を確かに撃ち抜いた。心のどこかで、そんなふうに言ってほしいと願っていたのだと思う。安堵と喜びが、ゆっくりと体を満たしていく。
 それでもルシアは、言わずにはいられなかった。
「命が惜しくないなんて言わないで。私はあなたに生きていてほしいのだから」
「……わけを話してくれないか?」
 ルシアは父とファイラジールに聞かされたことを、ランドルフに話した。ランドルフは慎重に耳を傾けていた。
「はっきり言うわ。あなたはこの国を出るべきよ。あなたは頭もいいし、才能もある。行いも正しくて神様の前でも何一つ恥ずかしくない人よ。私なんかとかかわって人生を無駄にしてはいけないわ」
「バカなことを言わないで! 怒るよ」
 ルシアはびくっとした。ランドルフは本当に怒っているようだった。
「僕は……そんなに立派な人間じゃない」
 彼は少しだけ言葉をやわらげた。
「才能なんて無いし、ずるい気持ちを起こすことだってある。だけど、貴女を想う心だけは誰にも負けないつもりだ。貴女と別れずにすむ望みが少しでもあるのなら、僕は命をかけてみてもいい」
「ランドルフ……だけど」
「僕は自分が公爵家の後継者なのかどうかわからない。記憶がないんだ。だけど、貴女は僕がそのカイロスっていう人だと思っているんだろう? だったら、それに賭けてみたい。プランヴィール公爵として晴れて貴女と結婚できる日が来ることを信じて、一緒に戦おう。いいだろう?」
 熱っぽく語るランドルフになんと答えてよいかわからず、ルシアは途方にくれた。その時、扉が開いてファイラジールが入ってきた。
「残念だが、それはまず無理なんだよ、坊や」
 そう言う彼の口調は、ひどく落ち着き払っていた。ルシアはかっとなった。
「先生、二人だけで話をしたいって言いましたよね」
 恋人を前にして自分がベソをかいたり取り乱したりしたことを思い出し、それをすべて聞かれていたと思うと恥ずかしかったのだ。
「失礼。確かに二人にしろとは言われましたが、話を聞くなとは言われなかったので。貴女の身にもしものことがあっては一大事ですからね」
「ですけど、先生」
「待って、ルシアさま。その人の話を聞こう」
 なおも言いつのろうとするルシアを制したのは、ランドルフだった。彼の方が先に冷静さを取り戻したようだった。
「無理というのは、どういうことなのでしょうか?」
 ファイラジールはにやりと笑った。
「思ったより君は頭のいいヤツのようで、助かるよ」
 彼は部屋の奥に進んで、さっきまでランドルフが座っていた椅子に腰をおろした。
「ルシアさま。あれから私も、公爵家の意向をそれとなく探らせたのです。結論から言うと、公爵家はこの男がカイロス殿だと認めることはまずありません」
 ルシアは息を呑んで聞き返す。
「それは、どういうことですか?」
「今のプランヴィール公爵も、今年で十六歳になられる。すでにあの方を中心に様々な政治向きのことが動いているということです。今さら行方不明の長男が戻って来ることなど……}
 ファイラジールは、ちらっとランドルフの方に視線を走らせて言いよどんだ。
「僕が名のって出ることそのものが、迷惑なのですね?」
 ランドルフは思いのほか落ち着いた口調で、ファイラジールの言えなかった言葉を引き取った。
「有体に言えば、そういうことだ」
「そんなっ」
 ルシアの胸に強い憤りがわきあがった。
「カイは公爵にとっては兄上、ドミニカさんにとっては実の息子なのですよ? 兄や息子が無事に帰って来たことを喜ばない人間なんて、この世にいるのでしょうか?」
 自分が何を言っているのか、よくわからなかった。
 すがるような気持ちでファイラジールとランドルフを見やると、二人とも気まずそうに視線をそらす。
(私……何かおかしなことを言ったの?)
 慌てて、自分の口走った言葉を思い返す。
 ランドルフはファイラジールの顔色をうかがってから、まっすぐな眼差しをルシアに向けてきた。
「じゃあ、僕から言おう」
 話を引き取ったのがランドルフの方だったことで、ルシアはホッとした。不思議だった。若者の穏やかでしっかりした声音が、自分の心を嘘のように落ち着かせてくれるのを感じる。
 瞳に信頼をこめて、彼のつぎの言葉を素直に待った。
 でも、恋人の口から出たのは期待したような言葉ではなかった。
「僕は、自分がそのカイロスという人なのかどうか分からない。もし違うなら、のこのこ出て行くと僕はよくて笑い者、悪くすれば極悪人だ」
「ランドルフ、それはっ」
 さっきと言っていることが違う。そう思った。
「それでも私と一緒に戦いたい。そう言ってくれたじゃないの?」
 ランドルフは強く首をふる。
「違うんだっ。僕は自分のことなんか、どうなってもかまわない。だけど、さっきは状況がよくわかっていなかった」
「……どういうこと?」
「たとえ僕が、カイロスだったとしても。公爵家の真の後継者だったとしても、世間はそれを認めない。どちらに転んでも勝ち目のない戦いだってことを、この人は教えてくれたんだと思う」
 ルシアはとっさに何か言い返そうとしたが、考えがまとまらなかった。
(今の話のなりゆきは私が求めてここへやってきた何かではない)
 それだけは強く感じた。でも、本当のところ自分が何を求めているのかなんて分かりはしなかった。
 牢獄の中に、間のびしたような拍手の音が響いた。はっとしてそちらを見る。ファイラジールが皮肉な微笑を浮かべて手を叩いているのだった。
「お見事。なかなか利巧な若者だ。資質だけなら、立派な公爵だな」
 ファイラジールは妙な褒め方をした。
「その賢さを無謀な戦いの犠牲にすることはない。先ほどルシアさまから伝えたように、君が身を引いて他国に移ってくれれば悪いようにはしないのだが」
 ランドルフはファイラジールに視線を向け、つかのま何か思案する様子だった。
「ところで、まだあなたのお名前をうかがっていなかったように思います」
「これは、失礼した。私はファイラジールという者だ。父は陛下から筆頭法務官を拝命している」
「私の家庭教師でもあります」
 ルシアが言葉をそえる。
「そうですか。いろいろお力添えくださっているようで身の縮む思いです。ただ……僕は見てのとおりの不調法者なので、言葉も礼儀も知りません。ですから正直に申し上げますが、僕はあなたを心から信用することができないのです」
「ほう。どういうことかな?」
「あなたの勧めるままに僕が国を出たとして。悪いようにしないと仰っているのは、ルシアさまを悲しませないためかもしれない。僕を人知れず闇に葬ってしまうつもりなのではないかと。弱い生き物の性で、そう疑ってしまうのです」
「ランドルフ!」
 ルシアは思わず声音に非難を含ませていた。
「ファイラジール先生はそんな方ではありません。無礼はゆるしませんよ」
「いや」
 ファイラジールは腹を立てた様子もなく、落ち着いてルシアを制した。
「ルシアさま、疑う事と決めつける事は違いますよ。その若者が初対面の私を信用できないのは当然です」
 切れ長の瞳を針のように細めたファイラジールの蒼白な顔を、ルシアは何かしらひやりとするような気持ちで見つめた。思わずかっとなって弁護したものの、彼女から見てもこの家庭教師が何を考えているのかよくわからなくなる時があるのだ。
 それまで部屋の隅の暗がりに溶け込んでいるようだったファイラジールは、ゆっくりと二人の近くに歩を進めてきた。
「ルシアさま。一つ、貴女のお心を確認しておきたい。貴女がこの若者を愛するのは、カイロスさまの面影をこの若者にかさねるからですか? それとも、この若者その人を愛しているからですか?」
「え……」
 ルシアは、言葉につまった。そんなことを考えてもいなかったからだ。
 ちらっとランドルフに視線を走らせる。ランドルフはじっとルシアを注視していた。彼女が何と答えるのか、それを待っているのだろう。
「私は、ランドルフを愛しています。心から」
 何かを振り払うように、懸命にそう答えていた。
「それでは」
 ファイラジールが言葉を続ける。
「もしこの若者がカイロスさまではなかったとしても、貴女は彼を愛しているということですね?」
 もちろんです。そう言いかけて、ルシアはためらった。
 自分の心に何が引っかかっているのか、わからなかった。でも、その言葉を口にする時、自分が何か大切なものを裏切ってしまうような気がしたのだ。
「ルシアさま。もう、いいのです」
 ランドルフが言った。
「身のほど知らずな夢を見た私が愚かでした。その方の言うとおり、私は身を引いて国を出ることにします」
「待って、ランドルフ! そんなこと言わないで!」
 ルシアは力なくうなだれるランドルフの肩を強くつかんだ。ランドルフが驚いたように顔をあげる。
「私って、どうしてしまったんだろう? 考えがぜんぜんまとまらないのよ。でも、信じて。あなたが好き。けして、あなたを見捨てないわ! あなたが誰だろうと。これからどうなろうと、私はあなたといっしょよ」
 言いつのるうちに、頬を涙が行く筋もつたった。それをぬぐいもしないで、じっと恋人の瞳を見つめた。
 ランドルフの青い瞳が、驚いたように見返してくる。
 そして。ぎゅっと強く抱きしめられるのを感じた。その胸に、顔をうずめる。体の中に彼のぬくもりが滲み入るように伝わり、心地良かった。
「よろしい」
 ファイラジールの感情のこもらない冷たい声音が牢内に響いた。二人ははっとして、そちらを見た。
 それは光線のいたずらだったのだろうか。机の上のランタンと、なかば開いた扉から入る廊下の燭台の灯り。そして沈む夕陽の最後の輝きが窓からわずかに差し込んで交わりあい。
 壁に映るファイラジールの影が、二つに分かれていたのだ。
 その一つは、ほっそりとした女性の影に見えた。
 彼は無表情な視線をルシアに向けた。
「その若者がカイロスさまなのかどうか。その考えはしばらくお捨てになることです。ランドルフは、ただの素性の知れない貧しい若者のままでよい。それでも、彼が神の祝福さえ受けながらルシアさまと結ばれる方法が一つだけあるのです」
 ファイラジールは意外なことを言い始めた。
 ルシアは戸惑いながらも、藁にもすがる思いで問いかけた。
「その方法とは?」
 声がかすれた。それでも、一筋の希望を感じながら、次の言葉を待った。
「すべてを、神の審判にゆだねるのです。その下された結果を覆すことは、誰にもできない。国王さえ」
「神の審判にゆだねる……そんな方法があるのですか? どのようにして?」
 ファイラジールは微笑した。
「まさか、コインを投げて決めるというわけにも行きますまい。《虎と美女の審判》について、先ほどルシアさまにお話しましたね? それが、もつれた糸を断ち切る唯一の方法だと思います」
「そんなこと……!」
 すぐには言葉がまとまらなかった。ファイラジールの提案は、ひどく突拍子もないことのように思えた。
「仰ることがよくわかりません。だって、それって神話の中の話なんでしょう?」
「いいえ。百年以上行なわれていないが、古い法律の書には記されています。そして王国の長い歴史の中では、それが実際に執り行われた事例も記録に残っているのです」
 ルシアの表情に、疑いと当惑の色が消えないのを感じとったのか。ファイラジールは一旦言葉を切ってから、声を強めて重ねて言った。
「私の父は、王家の筆頭法務官ですよ」
「わかりました。お話を聞きましょう」
 先に冷静さを取り戻したのは、今度もランドルフの方だった。
 ファイラジールはにやりと笑い、もう一度ルシアに視線を向けてきた。
「先ほどは話をさえぎられたが。今度はあなたも、詳しい説明に耳を傾けていただけるでしょうね?」


   *   *   *

「まだ、神話と歴史の境目がはっきりとしなかった時代。リオネル三世の人柄は、類まれな英主としても怖ろしい暴君としても、伝説化された形で切れ切れに伝えられているばかりです。王統譜にはこの王は壮年にして病に倒れ、従兄弟に王位を譲ったと書かれています。それ以来、リオネルと名のる国王は現在の陛下、貴女のお父さましかおりません」
「それは、どうしてなのでしょう?」
 今までに、父の名前の由来をルシアに教えてくれる者はいなかった。子供心にも、何となくおかしいと思ったことが何度かある。
「ルシアさまは幼かったから。お気持ちが傷つくのを心配して、これまでお話しませんでした。他の者もそうだったのでしょう。でも、そろそろ知っておかれてもよい年頃です」
「それは、どのような?」
 胸がしめつけられる思いで、ルシアは尋ねた。
 ファイラジールは少し表情をやわらげた。
「ご安心ください。別に忌まわしい秘密があるわけではない。ただ、子供には少し刺激の強い話なのでね。貴女のお父上はお産まれになる時にたいへんな難産で、お母さまのお腹を切って日の光を浴びられたのです」
 ルシアは少しほっとした。ファイラジールの言葉どおり、話の内容は痛々しくはあっても、けして不名誉なことではなさそうだったからだ。そういう産まれ方をする赤ん坊が稀にいることは知っている。
「その時は母子共に命が心配される状態だったらしく、時の陛下は予定していた名づけを捨てリオネルという名を貴女のお父上さまにお与えになったのです」
「それは、どうしてでしょう?」
「それは、リオネル三世が王家の歴史の中で群を抜いて強く長寿だったと信じられているからです」
「え? でも、リオネル三世は、病弱だったと伝えられているのでは」
「王統譜にはそう書かれています。しかし、真実は違います。暴君と呼ばれたリオネル三世はあまりの圧制を憎まれて退位を余儀なくされ、しかし他国で長く存命したのだと多くの歴史家は信じています。ずいぶん高齢になってからも、自分を追放した王国を罵って怒鳴り散らしながら生き続けたようですよ。追い出した張本人たちがとうの昔に死んでしまっているのに」
 確かにそれはそれで凄い生き様だなあと、ルシアは思った。
「リオネル三世の伝承は、王家の方たち以外にはあまり伝えられることはない。毒々しい話が多いからです。しかし王家の方たちは、この伝説の王にある種の畏敬の念を抱いています。リオネル三世が家来や民に厳しく残酷だったのは、戦の絶えない時代にあって、強い規律を保つ必要があったからです。気性の激しい君主だったけれど、聡明で公正な人物だったとも言われています。そんなリオネル三世が好んで行なった裁きのやり方が《虎と美女の審判》でした」


   *   *   *

 《虎と美女の審判》は、三人が語りつづけるこの古城の中庭で執り行われたと言われる。
 ルシアが先ほど目にしてきた、女神像と二つの扉がある中庭だ。門や渡り廊下をすべて閉ざすと、高い石壁に四囲をかこまれた儀式の場ができあがる。正面に《裁きの女神》と二つの扉があり、それに対面するバルコニーにリオネル三世が臨席し法官たちが顔を連ねる。時に王のかたわらには、美しい一人娘、アウラディア王女の姿もあったという。
 この裁きの庭に引き出される罪人は、王家に背いた者か、惨刑に値する極悪人にかぎられた。罪人の前には二つの閉じられた扉があり、いかめしく彼を見下ろしている。二つの扉のどちらかの向こう側には、選りすぐりの美女が入ることになっていた。そして、もう一つの扉の向うにはエサを与えられずに飢えて気が立った虎が入れられるのだ。
 罪人は、どちらかの扉を選ばなければならない。美女の扉を選べば、その女を娶ることが許される。しかし虎の扉を選んだ時は、血に飢えた猛獣の死の接吻を身に受けることになるのだ。
 リオネル三世は、自らの考案したこの裁きをこの上もなく公平なやり方だと信じていた。どんなに賢い人間も、誤りを犯すことはある。たとえ重罪人であっても、最も残酷な刑を課すことは浅はかな人間の判断に委ねるべきではないと彼は考えたのだ。
 王の命を狙った者でさえ、二つに一つは命を許されるばかりか最高の妻さえ得ることができる。扉を選ぶ選択権は罪人に与えられ、結果は神の意思なのだ。王も貴族も法官も、この審判の結果がどのようなものであろうと従わなければならない。王はそう定めた。
 実際に、この《虎と美女の審判》が何度執り行われたのかはわからない。
 ただ、少なくとも一度、きわめて重要な審判が行なわれたことは間違いないらしい。
 それは他ならぬリオネル三世の娘、アウラディア王女をまきこんだ審判だった。

 それはアウラディアの恋から始まった。
 恋の相手は身分のない貧しい若者だったから、リオネル三世は激怒した。そして若者は《虎と美女の審判》を受けることになったのだ。
 アウラディア王女は、愛する若者が死をまぬがれることを望んだ。彼女は手をつくし、どちらの扉に美女と虎が入れられるのか突きとめることに成功した。
 ところが、それを若者に伝えようとする時、王女の心に迷いが生まれたのだ。若者が美女の扉を選べば、彼の命は助かるが別の女と結ばれることになる。どちらにしても王女は若者を得ることはできない。
 そして、若者の心にも迷いが生じた。
 王女が嫉妬ゆえに、虎のいる扉を美女の扉だと偽って教えるのではないかと疑ったのだ。
 《虎と美女の審判》の伝説は、そのように伝えられているという。


   *   *   *

「それで……どうなったのですか?」
 ルシアの問いかけに、ファイラジールは奇妙な表情を見せた。
「おかしなことに、この審判の結果は記録されていないのです。若者がどうなったのかはまったく分かりません。分かっているのは、リオネル三世がこの審判があった少し後に、国外に追放されたこと。アウラディア王女は、廃城となったこの城に残されたようですが、侍女や召使とも引き離されて幽閉同然の境遇だったと言われています」
「それで、ここはアウラディアの城と呼ばれているのですね」
「王女は身分を剥奪され、女囚として過酷な扱いを受けたとも言われています。わずか数年で病死していますが、狂い死にも同然の最期だったらしい。そして死後に魔女となって甦り、今も王国を呪い続けているのだという伝説を残したのです」
 ルシアとランドルフは暗澹とした表情で、しばらく黙り込んでしまった。
 やがて、ぽつりとランドルフがつぶやく。
「いやな話ですね」
「そのような忌まわしい因縁のまつわる審判とやらに、ランドルフを立ち向かわせることなんて、できませんっ」
 押し殺した声で、しかしやり場のない怒りを抑えることができずに、ルシアはファイラジールに言葉をぶつけた。
「虎の扉だなんて……怖ろしい」
「いや、僕は虎の方はかまわない」
 ランドルフが静かに言った。
「でも、美女の扉はいけません。命が助かったとしても、ルシアさま以外の女性を娶るなんて。そんなことは絶対にできません」
「ランドルフ……」
 ルシアの声が弱よわしくなる。恋人の言葉は嬉しかったが、それではやはり彼を助けることはできない。結局、話は堂々めぐりではないかと思った。
「ルシアさま。私は何も古代の悲劇を再現しようなどという提案はしていませんよ」
 ファイラジールが落ち着きはらって言った。
「《虎と美女の審判》はリオネル三世の追放後は廃止されたのですが。実は百三十年ほど前に一度だけ執り行われているのです。不思議なことに、その時の審判も、ことの発端は王女の恋でした」


   *   *   *

 百三十年前の事件は、時の王女と捕虜となった敵国の兵士との恋からはじまったらしい。それもまた、許されぬ恋だったのだ。そして、長く封印されていた《虎と美女の審判》に決着がゆだねられることになった。
 興味深いことに。この時、審判のやり方にいくつかの変更が加えられたらしい。どちらに転んでも当事者たちの望みのかなえられない伝説の《審判》は、公正とは言えないと考慮されたのだ。
 二つの扉の試練は、三度行なわれることになった。
 一度目は、片方の扉には虎が入れられるが、もう片方の扉は空なのである。開けた扉が空であれば、望むならばその時点で命を助けられ、帰国することが許されると決められた。一方、第二の審判を受けることも選択できる。
 二度目には、虎の扉と美女の扉が用意される。この第二の審判は、伝説の《虎と美女の審判》に最も近い形をとっている。選んだ扉に美女がいた場合は、彼女を娶って試練を終わらせることができるのだ。そして、ここでも三度目の審判を選択する自由も与えられていた。
 そして。第三の審判こそ、この時代に考案された独特のものだったのだ。

「三度目の試練。もし兵士が生きてそこまで辿り着くことができれば、美女の扉に王女その人が入ることが許される。そう定められたのです。その王女の名前はゼルフィナと言いました」
 ルシアは、しばらく声をあげることもできずにファイラジールの青ざめた顔を見つめていた。
 彼女は驚きと共に、はっきりと理解したのだ。そこには確かに、一筋の希望の光があることを。そして、そこへ至る道の険しさをも。
 ランドルフは三度、虎に命を奪われる危険に身を晒さなければならない。それを受け入れる勇気と引き換えに、最高の褒賞を求める権利が二人に与えられるのだ。
「それで……それで、どうなったのですか? そのゼルフィナ王女と異国の兵士は?」
 ルシアはすがるような思いで、問いかけた。その答えに救いを求めるように。
 ファイラジールは口をつぐみ、また口を開いた。
「それについては、不思議な話が伝えられています」
「不思議な……?」
「兵士は三度試練を受け、少なくとも二度まで虎の牙を免れています。それは分かっているのですが……なぜか、最後の審判がどういう結末を迎えたのか。それだけが記録に残っていません」
「……そうなのですか」
「ただ」
「ただ?」
「不思議なことというのは、その後です。ゼルフィナ王女は、鹿になったと文献には記述されているのです」
「鹿……ですって?」
「はい。魔女アウラディアの呪いで、王女は鹿に変えられて森に消えたと伝えられています。それは何かの比喩なのか、隠された意味があるのか。それは私にも分かりません。この謎を解いた研究者は一人もいないのです」
 ルシアは言葉を失った。
(魔女によって鹿に変えられた王女。それって、まさか)
 あの不思議な雌鹿のことを、思い出さずにはいられない。
(もしかして、貴女がゼルフィナ……?)
 気が変になりそうだった。あまりに突拍子もない話に、考えはまとまらず、心は乱れる。けんめいに、思考を集中させようとした。
(しっかりしなければ。今は、私とランドルフがどうすれがいいのか。何よりも大事なのは、そのことのはず)
 そこまで考えて、ルシアははっとした。
(そうだ。本当に大変なのはランドルフなんだ)
 そう思い当たったのだ。
(命の危険に身を晒すのは、ランドルフ。しょせん私は安全なところに身を置いて、あれこれ勝手なことを考えているだけなのでは? だとしたら、私はどうすればいいのだろう? 私に何ができるのだろう?)
 思い悩みながら、ルシアはランドルフの横顔を見やった。
 若者は少し視線を落として何か考えているようだった。それから顔をあげ、はっきりと言い切った。
「わかりました。その試練を受けさせてください」


   *   *   *

 白々とした月の光が、夜道を照らす。馬車に揺られながら、牢に残してきたランドルフを気づかうルシアの心を察したのか、ファイラジールが静かに声をかけてきた。
「ご心配にはおよびません。ランドルフはじきに牢獄からは開放されますよ。審判を受けるあいだ、もう少し人間らしい生活ができる宿舎があてがわれるように計らいます」
「本当ですか?」
「むろんです。彼が逃亡することなんて、心配していませんからね。むしろ逃げてくれた方が、やっかいばらいだ」
「私も、彼に逃げてもらいたい気持ちです」
「ほう」
 ルシアの思いは複雑だった。
 ランドルフは彼女のために命を賭けると言ってくれた。それは嬉しい。
(でも、それで十分。これ以上、彼を危険な目にあわせるわけにはいかない)
 ルシアを見つめるファイラジールの瞳がすうっと細まった。いつもながらの、腹のうちを見せない冷たい面持ち。
「しかし、さきほどの様子では、彼は逃げたりはしないと思いますよ」
「では、どうあっても、《虎と美女の審判》などという惨たらしい刑が行なわれることになるのでしょうか?」
「《虎と美女の審判》は刑ではありませんよ。人間の知恵がおよばない重大な事柄に対し、神の裁きを求める。そういう儀式です」
「愚かな!」
 かっとなって、ファイラジールから少し身を引き、御者の耳も気にせずに叫んでいた。
「何が、愚かなのですか?」
「神の裁きだなんて建前でしょう? こんなこと、ただの残酷な博打ではないですか」
 ファイラジールの蒼白な顔に、うっすらとした微笑が浮かんだ。
「ルシアさま。審判が行なわれるとしたら、その段取りを取り仕切るのは筆頭法務官である私の父です」
 ルシアは戸惑った。言葉の意味がすぐには呑み込めなかったのだ。
「何を……言いたいのです、ファランジール?」
「これは神のサイコロなんかではありません。運命を握っているのは、私と貴女です、ルシアさま」
 嫌な寒気を感じながら。ルシアはファイラジールの得体の知れない表情を見つめるしかなかった。


第四章 第一の審判

 《虎と美女の審判》が百三十二年ぶりに執り行われることが、正式に決まった。
 それ以来、父リオネル王の様子が少しおかしいとルシアは感じている。なんだか避けられているような気がするのだ。
 食事の席などでは父と顔は合わせるものの、そういう場ではこみいった話はしづらい。他の者の耳があるからだ。意を決し、父の居間に足を向けた。いつもならあらかじめ侍女などを差し向けて、何時ごろそちらに行くと伝えることにしていた。でも、この時はいきなり押しかけることにしたのだ。

 廊下を歩く途中、ホールの手前ではっと足を止めた。
 ファイラジールが見知らぬ女性と立ち話しているのが目に入ったのだ。声は聞こえない。
 父の居間に向かうには、そのホールを通り抜けなければならない。しばらく立ち止まって様子を見ていると、ファイラジールが立ち去るのが見えた。
 ルシアは歩きはじめた。
 女性は王女の姿に気づいて、慌てた様子で頭をさげる。質素な身なりをした、若い女性だった。深く面を伏せているため顔立ちはよくわからなかったが、鼻すじが通り、かなり美しい娘と思えた。
 ルシアは少し不審に思ったが、かるく会釈を返して、声をかけることもなく娘のかたわらを通り過ぎた。
 
 急に部屋に入ってきた娘を見て、リオネル王は案の定、不機嫌な顔になった。
「お父さま、ご機嫌うるわしゅうございます。入ってもよろしいですか?」
「なんだね、不躾な。もう、入っておるだろう?」
「そうですね」
 ルシアはにっこりと微笑み、かたわらにあった小さな椅子を移動させて、父の前に座った。親子二人きりの時は、あまり行儀なんて気にしない。
「……審判のことか?」
 父の方から、聞いてきた。
 黙ってうなずくと、
「そのようなやり方は、私もあまり好まないのだが」
 言い訳するように、口の中でもごもご呟いている。
「筆頭法務官が強く進言するのでな。なまじ寛大な処置をとり、ランドルフを国外追放などにすれば、かえって逆恨みして王国の悪い噂を有ること無いこと吹聴するかもしれぬと」
「ご心配にはおよびません」
 ルシアは、わざとそっけなく言った。
「あの若者のことは、もう割り切りましたから」
「そ、そうか?」
「そのかわり彼が見事に三度の試練を乗り越えたときには」
「わかっておる!」
 不意に王は声を荒らげた。
「だが、おまえはそれでよいのか? こんな方法であの男と結ばれたとして、それで幸せになれるのか?」
「お父さまが、それをおっしゃるのですか?」
 冷たく言ってやった。王は慌てたようだった。
「い、いや。おまえがそれでよいなら、よいのだ」
 自分はなんていやな娘だろう。そう思った。
(本当は、私がファイラジールと図って始めたことなのに)
 ランドルフが虎に殺されることがないように、彼と密かに手はずを相談している。でも、王はそんなことは知らない。知らずに審判を行なうことを許可した。
(つまり、ランドルフが無残に虎に引き裂かれても構わないと判断されたのですね?)
 そう思うと、どうしても怒りを感じてしまうのだ。
 一方で後ろめたくもあった。

 それからほどなく、ランドルフが牢獄から開放されたという報せがルシアの耳にとどいた。
 ランドルフは古城から少し離れたある村の、今は空き家になっている小さな家屋を宿舎として与えられたという。見張りがつけられる事もなく、かなり自由な行動が許されているらしい。
(ファイラジールは、嘘はついていなかった)
 そのことが、ルシアの気持ちを少しだけ勇気づけた。彼女は心をかため、筆頭法務官の屋敷を訪れた。
「そろそろいらっしゃる頃だと思っていました」
 ファイラジールは、無表情でルシアを迎え入れた。先に立って廊下を案内する彼の後姿を見つめながら、ルシアはふと悲しくなった。
 幼い頃からの家庭教師役。いろいろなことを彼に教えてもらった。知識は驚くほどあるが感情をあまり見せない、ヘンな人だとは思っていた。でも、ほのかな親しみを感じることもあったのだ。
 それが今は、彼女とランドルフの運命を狂わせる悪魔のようにさえ思えてしまう。
 それが悲しかった。
 ファイラジールの私室に通された。飾り気のない、こざっぱりとした部屋だった。壁に大きな書棚が二つもあって、ルシアが聞いたこともない難しそうな背表紙が並んでいる。書物の並びが乱れていて、この部屋の主がしょっちゅうそれらを手にとっていることがわかる。
「おととい城で話していらっしゃった方は、何と言うお名前なのですか?」
 ふいに言葉をかけてみた。
 ファイラジールはわずかに眉をしかめ、訝しげに見返してきた。
「お綺麗なお嬢さんでしたね」
「何のことをおっしゃっているのか」
 そう言って目をそらしたのを見て、ルシアは確信した。
(やはり。あの娘が……)
 でも、それ以上は追求しないことにした。
「いいでしょう。おたがいに、余分な会話をしている気分じゃありませんよね、先生。本題に入りましょう」
 ファイラジールは椅子に腰をおろし、ルシアにも席をすすめた。
 素直に腰をおろした。そして、話を切り出す。
「あなたの計画に従えば、ランドルフは虎に命を奪われることはないのですね?」
「その通りです」
 ファイラジールは小さくうなずいた。
「わかりました。私は何をすればいいのか教えてください」
「造作もないこと。虎がどちらの扉に入れられるかは、当日の朝に決められる。それを貴女にお教えするだけです。ただ……」
「ただ……?」
「対価は支払っていただく」
 覚悟はしていたから、ルシアは驚かなかった。ファイラジールに向ける眼差しには、いくらか蔑みの色が含まれていたかもしれない。
「今、ここでですか?」
「今、ここでです。ご不満ですか? 私を信用できませんか?」
「いいえ、けっこうです。もとより私の方から条件を出すことのできない取引ですから」
「……賢い方だ」
 無言で、彼の次ぎの言葉を待った。
「そこに、ひざまずいてください」
 感情のこもらない声だった。ルシアは一瞬、ファイラジールを睨んだ。躊躇したが、諦めて椅子から立ち上がった。命じられた通りにした。
 しばらく絨毯を見つめた。ファイラジールが何も言わないため、そのままの姿勢で顔をあげた。
 ファイラジールは椅子に深く座ったまま、じっと眼差しを彼女にそそいでいた。その瞳にかすかに動揺の色が浮かんでいるように思えて、ルシアははっとした。
(この人……ふるえているの?)
 意外な気がした。
「そのまま……獣のように四つんばいのまま、ここまで来てください」
 やっと彼は言った。
 唇をかんだ。しかし従った。
 ファイラジールの足もとまで近づき、じっと見上げた。
「私の靴先に、口づけしなさい」
 ルシアは彼の靴に顔を近づけ、束の間ためらった。ぎゅっと目をつむり、命じられたままにした。
「……もういい。離れて」
 少しぞんざいな彼の声が聞こえて、床に手をついた姿勢のまま後ずさると。
 ファイラジールは立ち上がり、蒼白な顔をわずかにゆがめて彼女を見下ろした。
「第一の試練は三日後です。その日の朝、貴女が古城におもむいた時に虎がどちらの扉に入れられているかお教えします。貴女はランドルフへの合図を何か考えて、今のうちに彼に伝えておくとよいでしょう。彼は行動の自由を与えられていますが、審判の日が近づいたら貴女は彼に会うことは控えた方がよい。不審に思う者がいるかもしれませんからね」
 早口にそう言うと、彼は足早に部屋を出て行った。
 扉の閉まる音を聞き、ふうっと吐息をつく。
(あと二回)
 凍りついたような心で、ぼんやりそう思った。


   *   *   *

 《審判》に使われる虎は、すでに捕らえられて牢獄の城の地下に繋がれていると言う。
 ルシアはふと思い立ち、わずかな供をつれて古城に向かった。
 城を守る衛兵たちは、王女の突然のお忍びに驚き、当惑げだった。
「審判のまえに、虎を見ておきたいの」
 強く言って、押しきった。
 衛兵に案内されて、暗い石段を下りる。以前ファイラジールと訪れた時にも、こんなところまで足を踏み入れはしなかった。空気がひんやりと冷たい。手にしたランタンで壁を照らすと、得体の知れない虫が石の隙間に逃げ込むのが目に入り、思わず声を上げそうになるのをやっと呑み込んだ。
 地下水が滲み出して所々にできた水溜りをよけながら歩いていくと、前方にわずかだが陽の光がさしている場所が見えてきた。
 押し殺したような獣の唸り声が聞こえ、はっとして足を止めた。
「大丈夫です。やつは檻に入っていますから」
 衛兵が言った。
 そこは広間のようになっていて、見上げると天井が高く、明かり採りの小さな窓があった。そこから陽射しが斜めに差し込んでいるのだ。しかし窓はごく小さかったため、その区画全体を明るく照らすには程遠く、奥の方のほとんどは薄暗がりになっている。そこに、壁に嵌め込まれた鉄格子があり、中に何か黒ずんだ大きなものが蹲っているのがぼんやりと見えた。
 ルシアは、おそるおそる近づいた。
 虎という動物を、実際に目にするのははじめてだった。想像していたよりも大きい。どっしりとした存在感があって、怪物のように見えた。
 虎は前足に顎をのせて眠っているように静かだったが、ルシアの足音に気づいたのかゆっくりと頭をもたげた。
 つぎの瞬間。その大きな動物が動いた。鉄格子を隔てたルシアに向かって、激しく突進してきたのだ。巨体が檻にぶつかり、太い鉄格子がきしんだように思えた。虎は、雷のように咆哮した。
 ルシアはランタンを落とし、後ずさりした。背中が石壁に強く当たった。悲鳴などあげることさえできなかった。体がわなわな震えた。
「王女さま、申しわけありません!」
 衛兵が駆け寄るのも、目に入らなかった。
「……上に、もどります。灯りをお願い」
 逃げるように、その場を後にした。あのような怖ろしい動物の前にランドルフを立たせるわけにはいかない。絶対に。強くそう思った。
 もう、思い悩んだりしない。
 一途にランドルフを救うことだけを考えよう。そう心に誓った。


   *   *   *

 その日の夕暮れ、ルシアはランドルフの宿舎を訪れた。
 ランドルフは驚いた様子だったが、彼女を家の中に迎えようとした。ルシアは首をふった。
「長居はしません。人目に触れるとよくないから。三度の審判が終わるまで、もうここには来ないわ」
「今夜はどうして?」
「よく聞いて、ランドルフ。審判の日、バルコニーに私は必ずいます。私が胸に薔薇のコサージュをつけていたら虎は右の扉です。つけていなかったら左。そして。もし第三の審判が行なわれるとしたら、私自身が部屋に入るからバルコニーにはいない。その日だけは手すりにコサージュをつけておきます。コサージュがあったら虎は右、私は左。覚えておいて」
 それだけ言うと、ルシアは逃げるように恋人前から走り去った。


   *   *   *

 《虎と美女の審判》。その第一の試練が、古城の中庭で行なわれたのは、二日後のことだった
 女神像と二つの扉に相対するバルコニーに、リオネル王とルシア王女、そして三人の法務官が臨席した。
 視線をあげると空は薄曇りで、風が少し強い。ルシアはほつれた髪をいく度も手でおさえた。
 裁きの庭の中央にランドルフが引き出されてくるのを見て、身がこわばるのを感じた。
 城の門をくぐる時、約束通りファイラジールがいた。すれ違う時に彼女の耳もとで、
「虎は右です」
 彼はそうささやいたのだった。
 今、ルシアの左の胸には薔薇のコサージュが飾られている。
(だいじょうぶ。ランドルフにはこの目印を教えてある)
 ルシアは自らにそう言い聞かせたが、しだいに高鳴る胸騒ぎをおさえることができなかった。
 扉の中には屈強の衛兵が二人、虎に鎖をつけて押さえている。獣は頑丈な口輪を嵌められているはずだ。咆哮や物音で、どちらの扉に虎がいるのか知ることはできない。
 でも、だいじょうぶだ。
 ランドルフがふりかえって、ルシアの胸の飾りを見れば。
 ファイラジールが偽りを言ったのでなければ。
(あの人が虎の扉に手をかけることはない。絶対に)
 自分に強くそう言いきかせた。
 ランドルフは二つの扉から少し離れて立ち、ルシアに背中を向けている。バルコニーを振り返る様子はない。やがて、ゆっくりと歩きはじめた。
(どうしたの、ランドルフ。どうして、私を見ないの? 早く私の胸の薔薇を見て、ランドルフ)
 ルシアは思い余って立ち上がり、手すりに歩みよった。少し身を乗り出すように眼下の情景を見つめる。食い入るように。思いのたけのすべてを込めて。
(ランドルフっ)
 叫びたかったが、それだけは我慢した。
 ランドルフは女神像を見上げていた。それから、やっと振り返った。ルシアの方をちらっと見やったようだったが、よく分からなかった。
 彼が今立っている位置は、バルコニーからかなり遠い。
(あんなに離れていて、私の胸にコサージュがついているかどうか見えるだろうか? さっきはもっと近いところにいたのに。あの時、見なかったの?)
 さまざまな不安が胸をよぎる。
 不意にランドルフは。ためらいのない足取りで、左の扉に向かって歩きはじめた。
 ルシアは、ふうっと息をつく。しかし、まだ不安は去らない。
 扉は、大きなかんぬきが外側からかかっている。それを取り外し、扉に手がかかる。
 ルシアは思わず目をつむった。
 ファイラジールが嘘をついていたら。
 何かの手違いで左の扉に虎がいたら。

 しんとした静寂の中。
「……終わったな」
 リオネル王のつぶやきが聞こえた。
 目をあけると。
 扉は大きく開け放たれ、若者はただ佇んでいる。扉の中には何もいないようだ。ただ、暗がりがあるだけ。
「第一の試練が、終わった」
 心なしかほっとしたような声音で、王が繰り返す。
 ランドルフは、開いた扉の前に立ちつくしていた。ふるまいこそ勇敢で揺るぎなく見えたが、やはり内心では極度の緊張に捕らえられていたのだろう。今はその緊張から開放されて、放心しているように見えた。
 ルシアは力なく、彼女の席に身を沈めた。
 ランドルフがバルコニーの下に歩み寄り、王と何か会話しているのを彼女は上の空で聞いていた。
 第二第三の試練を放棄し、神に許された命と共に国外に去るか。王がそう問うている。
 否と若者は答えた。
 この瞬間、七日後に第二の審判が行なわれることが決まった。
(もう、後戻りはできない)
 ルシアは痺れたような頭で、ぼんやりと考えた。
(私もあと二回、対価を支払わなければならない)
 ランドルフは、戦っている。二人の未来のために懸命に戦っているのだと思った。
(私だけが、安全なところにいるわけにはいかない)
 彼女がどのような手段で虎の扉をつきとめたのか、ランドルフは知らない。打ち明けるつもりもない。
 彼は命がけで戦っているのだから、自分も黙って犠牲をはらうのは当然のことだと思った。
(離れていても、私たちはいっしょに戦っている)
 そう思えることが、たった一つの心のよりどころだった。


第五章 第二の審判

 次ぎの審判でどちらかの扉に入る娘の名前は、ソフィーリアと言うらしい。
 先日ファイラジールと話していた田舎娘がその女性なのは間違いないと思えた。確かめたわけではない。直感だった。
(もっと艶やかで、どんな男でも虜にしてしまうような美しい人を見つけ出してくるのだろうと思っていたけれど)
 質素でつつましい感じの娘だったことが少し意外だった。
(誰の発想か知らないけれど、どうしてあんな娘をつれてきたんだろう?)
 彼女を蔑んでそう思ったわけではない。真面目そうな娘なのに、こんなバカげた騒ぎに巻き込んで、可哀想だと思ったのだ。
 ソフィーリアは地方の小地主の娘だと言う。
(そのくらいの身分が一番いいな)
 ルシアは最近そう思うことがよくある。小さくても地主の家庭なら、生活に苦しむことはないだろう。人間は貧しすぎるのも不幸だろうが、身分が高すぎるのも束縛や責任が多くて苦労はつきない。人が羨むほど幸せではない。
 この日は公務がつまっていた。
 午前中は西方の友好国の大使を謁見し、午後からは郊外にある孤児院を視察することになっていた。
 難関は午前中の方だった。老齢の大使は人柄は悪くないのだけれど、博識で書物が服を着て歩いているような人だ。ルシア一人では会話がもたないため、この老人と会う時はファイラジールを傍らに立たせておくのが常だった。今回はあまり気が進まなかったが、やむなく筆頭法務官の屋敷に使いを走らせた。
 老大使は頭が薄く、口髭と頬髯のつながった愛嬌のある顔立ちをしていた。いかにも好々爺という風情があり、けして嫌いではない。
 老人はルシアと儀礼的な会話をかわす時もにこにこし、ファイラジールと難しい話をしている時も、やはりにこにこしている。
「ところで、わが国から連れてきた虎の様子はいかがですか?」
 老大使にふと尋ねられて、ルシアは少し緊張した。
(そうだ。あの虎は、この方のお国から連れてこられたのだったわね)
 《虎と美女の審判》を執り行うにあたって、やっかいな問題の一つは、どこから虎を連れてくるかということだった。太古の昔ならいざ知らず、今の王国には虎なんてどこにも棲んでいない。
 老大使の祖国は文化や学問の進んだ国だったが、南方に広大な森林地帯のある属国があるらしい。今では数こそ少ないが、奥地には野生の虎が生き残っていることがわかった。そこで、さっそく交渉を重ね、それらのうちの一頭が贈られることになったのだ。
 そういう経緯があったから、老大使が虎の様子を尋ねたのは当然だったのだが。
 ルシアは少し言いよどんだ。《虎と美女の審判》などという愚かしい儀式について他国の人間に知られることに、恥ずかしさを感じていた。それが気になっていたから、質問とは方向の違う言葉をつい口にした。
「この国にはなんと野蛮な風習が残っているかとお思いでしょうね」
「野蛮? そんなことはありませんよ」
 老大使は驚いたように言った。
「多くの国では行なわれなくなってしまったが、《虎と美女の審判》は古来よりある神聖裁判の一つの形です。人間という生き物は間違いも犯すもの。そして一人一人の人間にさほどの優劣などはありません。ゆえに、人間が人間を裁くのは不遜というものです。国を揺るがすほどの大事、人間の尊厳にかかわる性質の争い、そういった裁きは神の意思に委ねるのがむしろ正しいように思います」
「ほう」
 ファイラジールが、どこか皮肉な笑みを浮かべながら言った。
「これは、心強い援軍が現われたものだ。しかし、大使殿。一方の扉に虎。一方の扉に美女というこの審判。虎はまだしも、女性が競技の賞品のように扱われることに違和感をお持ちではありませんか?」
「ファイラジール殿。貴殿はお父上とともに審判の段取りを取り仕切っておられると聞くが?」
「は?」
「その貴殿にして、この審判の本質がわかっておられぬとは、残念ですな」
「はあ」
「扉に入る女性は、けして賞品などではない。書物によると、選ばれる女性は処女であり、信仰のあつい者でなければならないと書かれている。そのような清浄な娘が一ヶ月の精進潔斎をへたのち、神聖な扉に入るのです。彼女は被告人に褒美として与えられるわけではない。その罪障を浄化する巫女なのです」
 ルシアはファイラジールと顔を見合わせた。
 ランドルフが虎との死の接吻をまぬがれるように仕組んでいる自分たちの計画が、なんだか不浄なことのように思えてきたのだ。
「一ヶ月の精進潔斎は、ちと悠長かと」
 ファイラジールが言った。
「ソフィーリアには、三日間教会にこもらせ体を清めさせておりますが」
 老大使はにっこりと笑った。
「よろしいのではありませんか? 今の世には、手続きの簡素化も必要ですからな」
(このお爺さん、意外とご都合主義なところもあるのね)
 そう思った。

 老大使が座を辞した後、ファイラジールは苦笑を浮かべた。
「私のやっていることが、実はまことに立派な行為なのではないかと思えてきましたよ」
「あなたはご自分のなさっている行為があまり芳しいものではないと、自覚していらっしゃるのね」
 少しばかり皮肉をこめたが、ファイラジールは取り合わず、ただ視線をそらしただけだった。
「とまれ、審判はあと二回あります。ランドルフを助けたいなら、代償はそのつど支払っていただきますよ。今宵、屋敷にお渡りいただけるでしょうね」

 昼食を済ませた後は、孤児院の視察。
 施設は王の領地のはずれにあり、馬車ならばすぐに着く。緑の豊かな穏やかな田園地帯で、ルシアはこのあたりを訪れるのが好きだった。心がやわらぐのだ。
 院長は地方の教会の神父を長く勤めた初老の男で、若い頃から孤児や障害のある子供の世話に力を入れていた。三年前に筆頭法務官であるファイラジールの父の尽力でこの王立の孤児院が作られ、その院長に選ばれたのだ。
(あの人のお父さまは立派な方なのに)
 つくづくそう思うのだった。
 院長に施設を案内され、不自由なところはないか質問し、子供たちとしばらく会話した。
 そろそろ暇乞いをと思っていたときに、村に買い物に出ていたという娘が戻って来た。
 その顔を見て、ルシアは驚いた。先日、城でファイラジールと何か話していた娘だったのだ。
「貴女……、ソフィーリアと言いましたね」
 まだ確信があったわけではないが、当てずっぽうで声をかけてみた。娘はまるでお化けにでも出くわしたような顔をした。
 無理もなかった。この日は公式の視察だったから、ルシアは華やかな衣装に身をつつみ、供まわりも大勢連れて来ている。仰々しいのは好まないのだけれど、そうしなければ周囲が許してくれないのだ。
 そんな王女に言葉をかけられて、娘はすっかり身を縮こまらせてしまった。
(しょうがないわねぇ……)
 どうやってなだめようかと考えていると、子供たちが走りよってきた。
「ソフィーリア先生、大丈夫だよ。王女さまはとっても優しい人だから。意地悪なんかしないよ」
「こら、おまえたちっ。無礼なことを言うんじゃないっ」
 院長が慌てて声をあげた。
(やっぱりこの娘が、ソフィーリアなのね)
「いいのですよ。無礼だなんて思いませんから」
 ルシアは微笑みながらソフィーリアに向きなおる。
「あなた、この子たちの先生なの?」
「はい、あの……いいえ」
 まだ、しどろもどろだった。
「ソフィーリアは私と同郷の娘で、昔から子供たちの世話をよく手伝ってくれるのですよ」
 院長がとりなすように横から説明した。
 ルシアはしげしげとその田舎娘を見た。顔立ちは、やはり美しい。ただし、磨き上げればだ。衣服は汚れているし、髪もほつれている。日焼けした肌が、少し汗ばんでいた。
「あなた、三日間のお清めにはげんでいたはずでは?」
「はい。お勤めは、昨日で終わりました……ああ、いけない、私ったら! 審判の日まで、もっと行いをつつしんで過ごさなければいけなかったのでしょうか? こんな見苦しい姿をお目にかけてしまって……」
 娘は穴があったら入りたいという様子で、もじもじした。
 ルシアはつい吹きだしてしまった。
「だいじょうぶよ。ここでのお仕事も立派な神さまへのお勤めなのですから」
 そう言ってやると。
「はいっ」
 と元気よく答えて、向日葵のような笑顔が満面に浮かんだ。


   *   *   *

 夜が更けて。人目をしのびながら、またファイラジールの屋敷を訪れた。
 この夜は、彼の寝室に通された。
 ゆったりとしたガウンをまとい、少し強い夜風にカーテンの揺れる窓辺に立って、ファイラジールは王女をじっと見つめる。
 覚悟はしてきたルシアだったが、
「お召し物を」
 そう言われたとき、体がびくっと震えた。しかし、ファイラジールは静かに言った。
「指一本触れはしません。貴女の姿を……すべての飾りを取り去った本当の貴女の姿を、この目に焼き付けておきたいのです」
 

   *   *   *

 第二の審判が執り行われた。
 この日、ルシアの胸に薔薇のコサージュはなかった。
 この日もランドルフは、気を持たせるように長い時間二つの扉のあいだに佇んでいた。
 見守るルシアの胸は苦しい。ただ、この日の辛さは第一の審判の日とは少し違っていた。
 恋人の体が虎の牙によって切り裂かれる情景を思って苦しむことは、第一の審判の時ほどはなかった。
 このゲームに慣れてきたのだろうか? 虎は左の扉に、ソフィーリアは右の扉に居る。ファイラジールが偽りを耳打ちする理由はないし。ランドルフも間違えることはないだろう。そう思えたのだ。
 ただ。
 扉を開けてソフィーリアと向かい合ったランドルフがどんな反応を示すか。それがひどく気がかりだった。
 やがて、ランドルフは右の扉に向かって歩きはじめた。ゆっくりと閂をはずす姿を、ルシアは固唾をのんで見守った。
 扉が開き。ランドルフは、何歩か後にさがった。
 薄暗い室内からソフィーリアがおずおずと出てきた。外の陽射しがまぶしかったのだろうか。片手を顔にかざしている。
 二人は数歩の距離をへだてて、向かい合っている。
(終わった。第二の審判も)
 ルシアは思った。
(今日は陽射しが強い。少し気分がわるい。早く屋内に入りたいわ。ランドルフ、さっさと儀式を終わらせて。第三の審判を受けると宣言してちょうだい)
 しかし。二人は見つめあったまま、動かなかった。ルシアの心にまた、不安がきざす。
(え? どうしたの、ランドルフ? 早く第三の審判を選ぶと言いなさいよ。何をぐずぐずしているの?)
 第一の審判の時、ルシアは恋人がそこで儀式を打ち切ってくれることを望んだ。二度も三度も彼を虎の前に差し出すことなど許されないと思った。彼が無事であるように手は打ったとは言え、何かの間違いが絶対に起こらないとは言い切れなかった。片方の扉には虎がひそんでいる。その怖ろしい事実は、動かないのだ。
 たとえもう二度と彼に会えなくなるとしても、彼が安全であることの方が大事だ。何度も強くそう思った。自分に言い聞かせた。
 でも、今の気持ちは少し違う。
 彼がソフィーリアを娶って審判を終わりにするなんて。それだけは、認めたくなかった。そんなこと、絶対にゆるせない!
(これは……嫉妬なのだろうか?)
 自分にそんな心があるなんて、これまで思ってもみなかった。
 自分がひどく醜く思えた。それが辛かったのだ。
 その時。
 ランドルフは、娘の前でゆっくりと踵を返した。
 バルコニーの下に歩を進め、第三の審判を受けると王に宣言した。
 ほっと胸をなでおろしたルシアだったが、ランドルフが一度も自分の方に視線を向けてくれなかったことに気づき、胸をしめつけられるような寂しさを感じた。


第六章 第三の審判

(やっとここまで辿り着いた)
 最後の審判まで、一週間。
 今度こそ、ルシア自身があの審判の扉に入るのだ。
 けして心の底からの喜びではなかったけれど、それでもルシアの胸にカイロスを失ってから抱いた事のないほのかな希望が灯っていたのは確かだった。
 ルシアは教会で三日間の清めの日々を送った。
 聖水で沐浴し、粗食ですごし。神を思い、自らの心と行為を見つめなおす時間。それを一心に勤めた。何かにひたすら打ち込むことそのものが、日頃の悩みを忘れさせてくれるのだった。
 定められた三日を終えた日、教会に思いがけない訪問者があった。
 ファイラジールだった。
「なにも、このようなところにまでいらっしゃらなくても」
 ルシアは眉をひそめ、少し咎める口調になった。
「私は逃げも隠れもいたしません。覚悟はできています。望むならば、今夜にもあなたの屋敷にうかがいます」
 しかし、ファイラジールの口許にはいつものような得体の知れない冷笑はなかった。
「その前に、貴女にお見せするものがあります。すぐにお支度を願えますか?」
 そう彼は言うのだ。いつになく生真面目な口調だった。
 思いがけない言葉に、ルシアは当惑した。
 言われるままに身支度をととのえ、司祭に別れを告げて教会を出た。
 裏手に馬がつながれていた。
「後にお乗りください」
 束の間ためらったものの、素直に従った。ファイラジールの腰に手をまわし、そっとしがみついた。幼いころは、何度かこうして彼の操る馬の後に乗ったことがある。
 ずっと忘れていたファイラジールの背中は、思ったより逞しかった。
 二人の道行は教会からも王城からも離れて行き、やがてルシアは馬がどこに向かっているのかを悟った。
「ランドルフの宿舎に……行くのですか?」
「そうです」
「審判が終わるまではあの人と会うなと、おっしゃったではありませんか」
「最後の審判の前に、どうしてもお見せしなければならないことがあるのです」
 ルシアはそれ以上質問しなかった。

 陽が傾きはじめていた。
 その家屋は、村のはずれにある。以前は大地主の縁者の家だったが、主が死んで家族は実家に移ったため空き家になっていたのだという。村人たちの家々からは離れた場所に建っていることもあって、ランドルフの宿舎に選ばれたらしい。
 木々にかこまれた、小さいが静かな住まいだった。いっそ王家の身分など振り捨てて、こんな家でランドルフと二人で暮らせたらどんなに幸せだろう。ふと、そう思った。
 ファイラジールは宿舎から少し離れたところに馬を繋いだ。
(人目をしのんでいる)
 そう感じた。
 ルシアはいぶかしみ、胸騒ぎをおぼえた。
 裏庭に近い木立の影で、ファイラジールは立ち止まる。家の方の様子をじっとうかがっていた。
 ややあって裏口の扉が開き、誰かが出てくるのが見えた。
 ルシアは息を呑んだ。
 先に立って裏庭に出てきたのは、ソフィーリアだった。軽い足どりで裏庭のなかばまで歩き、そこで立ち止まり、後から出てきたランドルフの方にくるりと体ごと向きなおった。
「間に合ったな」
 ファイラジールのつぶやきが聞こえた。
「もう少し遅ければ、出て行ってしまうところだった」
 ルシアは凍りついたような気持ちで、二人の姿を見つめた。
 遠目には二人の表情はわからない。しばらく何か言葉をかわしているようだった。ややあって再び踵をかえし立ち去ろうとしたソフィーリアを、ランドルフが呼び止めた。ふりむいたソフィーリアを、ランドルフはいきなり抱きしめた。
 娘は、さからわなかった。
 二人の顔が近づくのを、ルシアは見た。
 
 ソフィーリアの姿が裏庭から消えても、ランドルフはまだそこに立ちつくしている。彼女が立ち去った茂みの方をじっと見ているのだ。
(いつまで逢瀬の余韻にひたっているのよ?)
 ルシアは我慢できなくなって、隠れていた木立から飛び出した。我を忘れるというのは、こういうことを言うのだろう。スカートがめくれるのもかまわず、低い生垣を乗り越える。その姿を振り返ったランドルフが、目を丸くした。やがて驚くというよりは怯えたような表情になった。
「ルシアさま。どうして、ここへ?」
 ルシアは無言でつかつかと歩みよった。
 彼の瞳をまっすぐに睨みつけた。
 言葉なんか、思いつきはしない。
(どうなの? 私に何か言うことはないの?)
 そんな気持ちだった。
 ランドルフは視線を左右に泳がせ、やがて肩をおとして諦めたように呟いた。
「ソフィーリアと話しているところを、見たんですね」
(話してたどころじゃなかったわよ)
 二人が体を寄せ合い口と口とが接近する情景が、脳裏に焼きついている。が、そんなはしたないことを口にするわけにもいかない。
「今まで隠していたのは、良くないことでした」
 ランドルフは、ようやくルシアの瞳をまっすぐに見返してきた。ひどく打ち萎れた様子だったけれど、何か意を決したようでもあった。
 そして。
 彼の口から飛び出したのは、耳を疑うような言葉だった。
「ソフィーリアは……僕の許婚なんです」
 いいなずけ。
 いいなずけ?
 しばらくは、言葉の意味がよく呑みこめなかった。
「彼女が、あなたの許婚?」
「そうです」
「わかりません。どういうことなのか」
「言い出せなかったんです!」
 吐き出すような口調だった。
「何度、本当のことを正直に打ち明けようと思ったかしれません。でも、言えませんでした。ルシアさまが、あまりに無邪気に僕のことを想ってくださるから」
「待って、ランドルフ」
 ルシアは彼の言葉をさえぎった。
「今さら綺麗事は言わないで。あの娘と許婚だって隠していたですって? 隠していただけじゃないでしょう? あなたは私と結ばれるために、命をかけて一緒に戦おうって言ったじゃないですか? あの言葉はなんだったの? 何か言い訳ができますか?」
「言い訳なんかしませんっ」
 ランドルフは、やけくそになったように言い返してきた。
「軽蔑してくださいっ。僕はどうしようもない嘘つきです。人に気に入られたくって、その場かぎりの出まかせを言ってしまう。ええ、そんなヤツですよ。貴女に調子を合わせておいた方が、身の安全がはかれるんじゃないかって思っていた。格好のいい所を見せたいっていう見栄もありました。でも、それよりも何よりも……怖かったんです」
「怖かった……?」
 ルシアは、冷水を浴びせられたような心地がした。
 ランドルフに怖れられていた。ルシアの愛を彼が受け入れなければ、処罰されるとでも思ったのだろうか? だから彼は嘘をついていたと言うのか。
 体がわなわなと震えた。
「あなたは、本当は私を愛してなんかいなくって、だけど私が勝手にのぼせあがってしまっていて。そういうことなのですね?」
「それは、少し違います」
 ランドルフは強く言い切った。
「なにが違うの?」
「確かに僕はソフィーリアを愛しく思うような気持ちを、ルシアさまには抱いていません。でも……今さら何を言っても、信じてはもらえないかもしれませんが。貴女を心から尊敬しています」
「尊敬……?」
「いえ、貴女が高貴な身分の方だからではないんですよ。貴女はとても優しくて……ご自分の心が真っすぐだから、他人を疑ったりなさらないのだと思います。だけど、僕らのような普通の人間は弱くてずるいんですよ! 自分の身を守らなければ。そして家族や友達や……愛する人を守らなければならないから!」
 ランドルフの口から、言葉が堰を切ったようにほとばしる。ルシアは呆然と、恋人だと思い込んでいた若者を見つめるしかなかった。
「ああ、すみません。僕は、わけのわからないことを言ってますよね?」
「……いいえ、わかる気がします」
 そんな言葉が口をついて出た。彼女自身が、そらぞらしいと思った。
(何を言っているの、私って? わかるわけないじゃないの)
 わかるわけない。わかりたくもない。普通の人間は、弱くてずるいだって? 開き直るのもいい加減にしろ。それでは、私は普通の人間ではないバケモノだとでも言うのか?
 ルシアは無理矢理に自分の心を落ち着かせ、言葉が乱暴にならないように気をつけながら、どうにも理解できない疑問を口にした。
「あなたの愛が私に向かっていなかったのなら……そんなにソフィーリアとやらが愛しいのなら……馬鹿げた審判なんか受け入れなければよかったではありませんか。王もファイラジールも、あなたが私から離れてくれさえすればよいと言っていたのに。あなたたちにとっては願ったりかなったりでしょう? あの娘と二人で世界の果てにでも行ってしまえばよかったではありませんか」
「そのようなことをすれば」
 ランドルフはそう言って、ルシアの顔色をうかがうように言葉を途切らせた。それから、意を決したような表情になった。
「ルシアさまはお許しにならないと思ったのです」
「私が……許さない?」
 そう言ったきり、言葉を失った。ランドルフに愛を受け入れられない腹いせに、ルシアが彼やソフィーリアを罰すると。やはり、そんな女だと彼に思われていたのだ。
 ルシアは少しずつ理解した。ランドルフやソフィーリアのような平民にとって、自分がどのような存在であるのかを。
 確かに。ルシアが望めば、二人など意のままにできる。牢につなぐことも、鞭で打たせることも、残酷な極刑に処すこともできる。
 虎。
 という言葉が、脳裏に浮かんだ。
(この人たちにとって……私は虎なんだ)
 愕然としながら、そう思った。
 ルシアは力なく立木にもたれ、暮れなずむ空を見つめた。陽射しの最後の一ひらが消えかかり、あたりは夜の帳につつまれようとしている。
 ふとソフィーリアという娘の風貌を、思いうかべた。
 明るくて、素朴で。土のまぶさった新鮮な野菜のよう。そんな感じのする娘。孤児院で出くわした時には、本当にびっくりした……。
 孤児院で。
(……孤児院)
 ふいに、思い当たることがあった。
 ランドルフは、記憶を失った孤児として、どこかの田舎の神父に育てられたと聞いている。
「あなたの育ての親の神父さまって」
 若者に問いかけた。
「王立孤児院の院長をなさっている方?」
 ランドルフの怪訝そうな眼差しが向けられる。慎重に、ルシアの心を測っているようだった。ややあって、言葉少なく答えた。
「そうです」
(そういうことだったのか)
 いくつかの思考の断片が、一つに繋がっていく。
「そこに、あの娘がいたのね」
 ソフィーリアは神父が地方にいた頃から、彼を手伝って孤児たちの世話をしていたという。
(結局、私がこの人たちの幸せな生活を、引っかきまわしてしまっただけなんじゃない)
 自嘲の笑みを浮かべるしかなかった。
「お邪魔したわね、ランドルフ」
 そう言い残して、裏庭を後にした。

 馬を繋いだ木立にもどると、ファイラジールが待っていた。
「気がすみましたか?」
 その言葉に、揶揄は感じられなかった。むしろ気づかうような眼差しを向けてくれる。それはルシアのささくれた心を、いくぶんか静めた。
「まさか、いきなり飛び出して行かれるとは思いませんでした」
「手のかかるおてんばな王女で、ごめんなさい」
「ええ、ええ。昔からずいぶん手を焼かされたものです」
 ファイラジールはしばらく沈黙し、静かな声音でまた話しはじめた。
「第二の審判の美女は、貴女とランドルフの恋を諦めさせるために選ばれるのが本当の目的でした。だから、ランドルフの心を迷わせるような絶世の美少女を探してくるのだと私も思っていたのですが。まさか、彼に婚約者がいたなんてね。私も数日前にそれを知って驚いたのです」
 そんな彼の言葉も、今のルシアには遠いことのように感じられた。
 ファイラジールはまだ何か言いたげだったけれど、結局諦めたように口調をあらためた。
「……それでは……私のような汚らわしい男の背中などお嫌でしょうが、もう一度馬にお乗りください。お城までお送りします」
「城……? なぜですか?」
 問いかけると、ファイラジールは不思議そうな表情になった。
「なぜ……と言われると?」
「あなたのお屋敷に連れて行ってくださるのだとばかり思っていました」
「ルシアさま……貴女はまだそんな茶番をつづけるおつもりなのですか?」
 逆に問い返してきた。
「茶番ですか? あなたも一役買っている大切な儀式ですのに」
「冗談はおやめください」
 ファイラジールはめずらしく少し声を荒げた。
「これ以上審判をつづけて何になるのですか? もう、やめましょう。貴女だってこれ以上傷つく必要はない……いや、私がこんな事を言っても説得力はないだろうが……でも」
「そんなことはありません。ファイラジール、あなたは私の幼い頃からの先生よ? こちらは言うことを聞かない困った生徒だったろうけれど。でも、いつだって大切なことならば素直に言いつけに従ってきたではありませんか」
「では、今回も私の忠告に従ってください。ランドルフのことはもう忘れて。《虎と美女の審判》なんて、もうやめることです」
「違うの」
 ルシアは、きっぱりと言った。
「これはすべて、私がはじめてしまったことなのだから。たとえどんな結果になろうと、途中で放り出すことなんかできないわ」
 ファイラジールは、しばらく何か考えていたが、やがてまた口を開いた。
「貴女のお考えが、よく分かりません。もし責任感からおっしゃっているのなら、黙ってあの二人を解き放ってやればよいではありませんか?」
「それはできないでしょう」
「なぜです」
「ランドルフは王も立ち会った神聖な儀式の場で、第三の審判を受けるとすでに宣言しました。それはソフィーリアを拒否したということでもあります。いまさら審判を中止して二人が結ばれることを認めるなど、王室の名誉にかけてできません」
 ファイラジールは、いくぶん気おされたような表情になって、しばらく口をつぐんだ。ややあってから、
「結局、あの二人の仲をお認めになることはできないと?」
「そうは言っていません」
「では、どうしようとお考えなのですか?」
「第三の審判では、私は美女の扉には入りません」
 ファイラジールは驚きの表情になった。
「それでは、いったい……」
「扉には、もう一度ソフィーリアを入れます。それですべて解決するでしょう?」
 声が乱れないように、ゆっくりと言った。
 夜風が頬をなぜた。こんな時に風の心地良さを感じるなんて。不思議に思えた。
「それが、貴女の出した結論ですか?」
 ルシアは静かにうなずいた。
「だから……あなたの屋敷に連れて行ってください。私はどちらの扉に虎が入るのかを知り、ランドルフを守ります。あなたとお約束した対価は支払います。私に……最後までやりとげさせてください」
 声がこわばっているのを感じた。それを悟られたくなかった。気がつくとファイラジールから視線をそらし、暗くなった遠い景色を見つめながら話していた。
 ファイラジールはなかなか答えなかった。
 おそるおそる彼の顔に視線をもどすと、じっと彼女を見つめる瞳があった。
 彼はそっと手をのばし、ルシアの頭にそれをのせた。軽くなでられるのを感じた。ファイラジールの額が、こつんとルシアの額に当てられた。
「しょうがない、お姫さまだ」
 ルシアは思い出した。
 幼い頃、よく彼にそんなふうにされたことがある。勉強をなまけて叱られ、べそをかいて謝った時。そんな時、ファイラジールは微笑して彼女の頭をなで、額をこつんとぶつけたものだった。

 夜道を月明かりが照らす。
 ファイラジールは黙々と手綱をとる。その体にぎゅっとしがみつき、背中に頬を押しつけるうちに、涙が流れてきた。
(私は長いあいだ、何をしてきたんだろう?)
 彼の背中から、ぬくもりが伝わってくる。
 しばらく後、あたりを見まわしてルシアははっと気がついた。
 馬は、城にほど近い林のほとりに差しかかっている。
「ファイラジール、ここは……」
 馬が止まった。
 ファイラジールは体をよじるようにして、王女の唇に唇をかさねた。激しい口づけ。ルシアは驚き、少しだけ身をよじった。が、やがて受け入れていた。束の間のことだった。
 脇の下を両手で押さえられてびくっとした。抱くように体を持ち上げられ、そっと下ろされた。
 手綱を握りなおしたファイラジールが、馬上から見下ろす。
「大丈夫です、ルシアさま。私にとっては、これで十分すぎるほどです。約束は守りますよ。貴女はやりとげてください」
 穏やかな表情だった。
「はじめてお会いした時、貴女は七歳だった。とても愛らしくて、危なっかしくて……命にかえても、この少女を守ってやりたいと思った。ずっとそう誓ってきたのに……魔がさしたのでしょうか。汚らわしい心に身をまかせた自分を今は恥じています」
 走り去るファイラジールを、ルシアはしばらく呆然と見送った。
 やがて城に向かって歩き始める。足取りのおぼつかないルシアを、門衛が驚いて迎えた。
 夜でよかったと思う。顔が少し赤らんでいるだろう。目もとに涙のあとも残っているかもしれない。それを見られないですんだ。

 第三の審判は、少し延期となった。ソフィーリアに、もう一度禊ぎをさせなければならないからだ。
 ルシアには、それは辛い日々だった。どのような結果になろうと、はやく終わらせてしまいたかったのだ。いつもなら退屈で敬遠しがちな公務の書類に目を通し、厨房の備品の買い付けに口を出したりして日をすごした。
 何かやっていないと、気がまぎれないのだ。
 雑事をこなすかたわら、一階のホールに足を向けると、侍女たちが何かひそひそ囁きあっているのが目にとまった。何事かと訪ねると。
 城門に荷車が届いているという。
「それを送ってよこしたのが、ソフィーリアの両親らしいのです」
 送り主が送り主だけに、門衛は受け取ってよいものか判断しかねて困っていると言う。しかし、あいにくリオネル王と法務官たちは、第三の審判の段取り変更の打ち合わせで城を不在にしていた。
 城門に出てみると、茶色い作業着をまとった男が荷車の傍らでおどおどしていた。ルシアは彼らの近くに歩み寄り、荷台をのぞいて驚いた。藁をしきつめた上に、たくさんの野菜がのせられている。
「旦那さまは、娘をよくして頂いていることへのせめてものお礼に、これを王様に献上したいと。はあ」
 ルシアは苦笑した。
(あの娘の親たちは、彼女がここで何をさせられているのかよく分かっていないようね)
 トマトを手にとって香りをかぐと、土の匂いがした。
「いかがいたしましょう、王女さま」
 衛兵が、当惑顔でたずねる。
 王女と聞いて、農夫は腰をぬかすほど驚いたようだ。帽子を胸のあたりで揉みしだきながら、ぺこぺこ頭をさげた。
(この者にも、私が虎に見えるのか)
 少し悲しかった。
「何も問題はないじゃありませんか。せっかくの志よ。ありがたく頂きましょう」
 衛兵にそう言ってから、農夫に向きなおった。つとめて優しく声をかける。
「顔をあげて。私は取って食ったりはしませんよ」
 農夫がおそるおそる、怯えた顔をルシアに向けた。
「これは、あなたたちが丹精をこめて育てた作物なのね。まるで、お日様の恵みがあふれるよう。ありがとう、どんな宝よりも素晴らしい贈り物ですよ。ルシアがとても喜んでいたと、あなたの主人に伝えてください」
 そう言ってから、ルシアはふと思いついた。
「そうだ、これは神様へのお供え物にふさわしいわ。神聖な扉に入る娘の人柄を、神様にもごらんにいれましょう。これは、アウラディアの城に届けておきなさい」

 ルシアがまた裁きの城を訪れたのは、ソフィーリアの親もとから作物が届けられた次ぎの日だった。虎の様子を見たくなったのだ。
 地下の檻に近づいたが、虎はいつかのように暴れたりはしなかった。ただ、どこか悲しげにルシアを見ているようだった。
(おまえも……他国から連れてこられ、こんな暗い檻に入れられて。思えばむごい話よね)
 今のルシアは、人から怖れられるこの孤独な動物にかすかな親しみさえ感じてしまうのだ。
「なんだか元気がないようね。ずっとこんな所に閉じ込められて、この子消耗しているんじゃないの?」
 世話係りの衛兵に訪ねる。
「そうですね。少し」
「かわいそうね」
「はい。私も少しばかり哀れだと近頃は思います。こいつの世話をしているうちに、情がうつったのかもしれません。姿は怖ろしいが、いたって大人しいやつですよ。いつか王女さまに向かって吼えかかったときは驚きました。あんなことは、はじめてだったんです」
「やはり、野生の動物ですからね。外に出てのびのび動きたいのでしょう」
「こいつが子犬だったらいいのですがね」
 衛兵は苦笑した。
「放し飼いにして、のびのびさせるというわけにはいきませんよ」
「それはそうだけど……」
 ルシアはしばらく虎を見つめていた。やがて。
「ありがとう、もういいわ」
 そう言って檻の前を離れようとしたとき、衛兵が独り言のように呟いた。
「外に出してやれば、こいつももう少し食欲がでてくるだろうにな……」
 ルシアは足を止めた。
「その子、エサをあまり食べないの?」
「はい。やはり狭い檻の中では調子が悪いのでしょう。野生の獣ですから生きた獲物の方がいいかとも思って、活きのよい野兎を檻に入れてみたりもしたのですが、見向きもしませんでした。しょうがないんで兎は逃がしてやったから、たぶんそっちの方が、今頃こいつよりよっぽど元気に森の中で飛びまわっているでしょうよ」
(そんなに大人しいんだ)
 もう一度檻の中を見やると、虎もじっとルシアの方を見ていた。


   *   *   *

 とうとう第三の審判が執り行われる日の朝がやってきた。
 アウラディアの城に向かう馬車に、ルシアが乗り込もうとしていた時だ。すっと傍らに立った者がいた。
 ファイラジールだった。ルシアは少し驚いた。物陰にかくれてルシアに近づく機会をうかがっていたような素振りだったからだ。
(どうして?)
 無言で問うルシアの耳もとに、彼は短くささやいた。
「虎は、右の扉です」
 それだけ言うと、彼は素早く離れていった。
(どうして今日にかぎって)
 これまでの二回の審判のときは、彼は裁きの城の入口で彼女に告げた。今日だけそうしない理由がわからない。不安と、かすかに不吉な予感が胸をかすめた。
 けれど、審判の時間がせまっていた。ルシアは思いをふりきって、馬車に乗り込んだ。

 審判は正午からはじまる。
 アウラディアの城に着いたとき、陽はかなり高かった。見上げると、雲が流れている。その雲が太陽にかかって、薄暗くなった風景の中に古城はそびえたっていた。ルシアはぶるっと体をふるわせた。またしても不吉な予感が胸をよぎったのだ。
 バルコニーに出ると、先に席についていたリオネル王が振り向いて小さくうなずいた。
 ルシアは父に一礼してから、その場の様子を見まわした。
 いつものように王の椅子の横に、彼女のための席が設けられている。そして、少し離れたところに着席していた老人が立ち上がり、ルシアに深々と頭をさげた。
 それは、あの友好国の老大使だった。彼が《虎と美女の審判》を見学するためにこの日臨席するということは聞いていた。
 ルシアは手すりに近寄って、中庭を見下ろした。
 まだ、そこは無人。バルコニーの下に、ソフィーリアの親元から贈られた野菜の荷車が置かれているのを見て、ルシアは微笑した。それは暗い出来事ばかりの中にあって、小さな光となってルシアの心をほんの少し慰めてくれた。
 前方に視線を向けると。
 いつものごとく威嚇するように見返してくる女神像。
 その両側の扉は、閂によってしっかりと閉ざされている。
 左の扉の向うには、ソフィーリアがいるはずだ。
(荷車の野菜はランドルフと彼女の婚約の、よい引き出物になるでしょう)
 そう思った。
 右の扉には、虎。
 二度の審判であの扉は開かれることはなく、今日も開かない……はず。
 ルシアは胸に付けていた薔薇のコサージュをはずし、紐で結んで手すりにかけた。そのまま胸に付けていてもよかったのだけれど。合図の意味は同じ。ランドルフには伝わるだろう。でも、何となく胸にはつけたくなかった。
 彼女は中庭の二つの扉を見つめる。
 あの左側の扉の向こうに、ルシアはいるはずだった。ランドルフが扉を開けてくれる瞬間を、胸をときめかせながらじっと待っているはずだった。
 数日前までは、そんな自分を思い描いていた。それなのに……。
(どうしてこんなところに私はいるのだろう。こんなはずじゃなかったのに)
 そう思うと、このバルコニーの上にいる姿がランンドルフの目にふれる事さえいやだったのだ。
 だからルシアは、いつも座っていた父の傍らの椅子にはつかず、ずっと後方の目立たない場所に小さな椅子を置いて座った。
 そうして薔薇のコサージュが風に揺れるのを見つめるうちに、涙がこぼれた。
 こんなはずじゃなかった……。

 雲が厚くなり、どんよりとした空が裁きの庭をおおう。
 リオネル王が席を立ち、ルシアの傍らに歩み寄ってきた。
「ルシア。今日はおまえに打ち明けておくことがある」
 王は、しずかに語りかけてきた。
「あの若者が虎の牙に引き裂かれることはない。もし、彼が虎の扉を開けたとしてもだ」
 思いがけない言葉に戸惑いながら、ルシアは聞き返した。
「それは……どういうことですか、お父さま?」
「万が一ランドルフが虎の扉を開けた時には、虎を射殺すように命じてある」
 ルシアは息をのんだ。驚きのあまり、しばらく言葉がでなかった。やっとのことで、問をかさねた。
「どうして、今回に限りそのようなことを?」
「いいや。今回だけではない。実はな、ルシア。これまでの二度の審判の時にも、十字弓を持った家来たちを忍ばせていたのだ。だが私は、おまえとランドルフの覚悟を見たかった。だからそのことを教えなかったのだ。ゆるせよ、ルシア」
 ルシアは力なく、椅子の背に体をしずめた。
「ファイラジールは、このことを知っていたのですか?」
 そう問うと。
「彼にも教えなかった。彼はおまえとよく会っていたからな」
 平然と答える父を見るうち、ルシアの胸に苛立たしい思いがわきおこった。
(本当に、あの人とはよく会っていましたよ、お父さま。あの人の屋敷で私がどのような仕打ち受けていたか。それを知ったら、驚かれるでしょうね)
 自嘲の笑みを浮かべていた。
(悲劇なんかなかった。ただ、私たちが悲劇ごっこをしていただけ)
 そしてふと、地下の檻につながれていた虎のことを思い浮かべた。
(かわいそうに。あの子、もしかしたら殺されてしまうの?)
 ぼんやりそう思った。
「何も、虎を殺さなくてもよいのでは」
 ぽつりと呟いた。
「うん?」
「虎はランドルフが扉を開けるまで口輪をはめられ、鎖で縛られていると聞きました。何も殺さなくても、そのまま押さえつけておけばよいのでは。それに……」
「それに?」
「あの虎は他国から親善のあかしとして贈られた動物なのでは? むざむざ殺してしまっていいのでしょうか?」
「それは問題ない」
 王が答えた。
「大使殿には事情を説明して、ご理解をいただいてある」
「その通りです、ルシア王女さま」
 ルシアはぎょっとして、声のした方を見た。
 気がつかなかった。いつのまにか老大使が歩み寄っていたのだ。
 空はどんよりと曇っている。しかし、雲はところどころ薄く、太陽の光が滲んだように見える。弱い陽射しは古城をおおい、ほんの少し緑色がかったような奇妙な光が、あたりの風景をつつんでいた。
 ルシアを見下ろす王と老大使の姿は、逆光で黒ずんで見え、表情さえもわからない。
「神聖な儀式をこのような形で終わらせるのなら……」
 老大使の、やんわりとした声だけが不気味に聞こえた。
「神に捧げる生贄の血が必要となりましょう」
「哀れなことですね」
 体に冷たい汗を流しながら、ルシアは言った。
「無抵抗な生き物を殺すなんて。あの虎は、檻に入れられた兎を食べなかったそうですよ」
 そう言ってから。
 自分の言った言葉に、はっとした。
 やっと理解したのだ。虎が兎を殺さなかった理由を。
 野生の獣であれば、森にいた時には獲物を追って捕食するのは常のことだったにちがいない。しかしそれは生きるための誇り高い狩りであり、獲物との対等の戦いなのだ。
 自らの前で無力に怯えるもの、助けを求めるものはけして傷つけない。それはあの獣の気高い優しさだったのだ。
 そこまで考えて。ルシアは何か切なく心に触れるものがあることを感じた。何かを思い出しかけているような気がする。
(誰かに似ている……)
 そう思った。しかし、それが誰に似ているのか、思い出すことができなかった。
「とにかく」
 王が言った。
「ランドルフをむざむざ死なせることは、もとより私の本意ではない。万一の時に私の家来たちが虎を仕留めるだろう。それで、すべては終わりだ」
 その時、バルコニーに続く広間に、数人の人の気配がした。
 筆頭法務官と数人の衛兵が、騒がしく足音をたてながら入ってきたのだった。
 王は彼らの方に歩いて行き、しばらく何か言葉を交わしていた。やがて沈痛な面持ちになって、ルシアの傍らに戻って来た。しばらくは無言だった。
 ルシアは不安になった。父の表情に、ただならないものを感じたからだ。
「ファイラジールがな……」
 王はそう言って、言葉をつまらせた。
 ルシアははっとして立ち上がり、父と向かい合った。すがるように聞いた。
「ファイラジールがどうしたのですか? おっしゃってくださいっ」
「愚かなことだ。自害するなど……」
 顔から血の気が引いていくのがわかった。手の先が軽く痺れ、いやな汗が体をつたった。
 くらっとして、がっくりと床に膝を落とした。椅子に片手をかけて、やっと身をささえた。
 薄い緑色の光が、あたりの空気にしみわたっている。父が、そして他の数人が、くずおれてしまったルシアに驚いたのだろう、何か顔をゆがめて忙しなく話しかけているのだが、彼らの声は彼女の耳にはもうとどかない。物音も聞こえなかった。
 無音の世界の中に、ルシアはいた。
 ふと見る。
 バルコニーにつづく、暗い広間。その向うに半開きの扉がある。
 そこに、鹿がいた。じっとこちらを見ている。
 ルシアは立ち上がり、引き寄せられるように歩いた。
 鹿は、彼女を誘うように廊下に姿を消した。
 おぼつかない足取りで廊下に出ると、背の高い女性がじっとルシアを見つめていた。


第七章 王女アウラディア

 長い黒髪。美しい顔は青ざめ、唇だけが仄かな紅みをおびていた。その口許に、冷やかな笑みが浮かぶ。身にまとうドレスは濃紺だった。
「やっと、お会いできたわね」
 女が囁くように言った。
「私はアウラディア。貴女と少しお話がしたいのよ」
 じっと見つめられ、ルシアは動くことができなかった。
 魔性の蛇に魅入られたように。
(ちがう……)
 心の中で、囁くものがあった。
 今、彼女の目の前にいる、ほっそりとした不思議な女性。名前はアウラディア。その名は怖ろしい森の魔女として伝えられている。
 ルシアがたどってきた迷いの道。失ったもの。心を引き裂く悲しみ。
 それらはすべてこの魔女がしくみ、ルシアをここまで導いたのだ。ルシアは今、それをはっきりと悟っている。
 でも。
 今、ルシアの前に立っている女性の瞳は、青く澄んで美しかった。
(この人は、悪い人ではない)
 彼女にそう直感させる何かが、その瞳には宿されていた。
 アウラディアの姿が、古城の薄暗がりの中でゆらめいたように見えた。
 魔女の姿が消え。ルシアの前にあの雌鹿がいるのだった。
「あなたが……アウラディアだったの?」
 ルシアが問う。
 鹿は首を横にふった。
「私はアウラディアではありません。でも、アウラディアの分身のようなもの」
 鹿の姿が闇にゆれて消え、白いドレスをまとった若い女性が立っていた。流れるような銀の髪が、つややかな白磁の相貌をふちどる。優しい緑色の瞳が、ルシアを見つめていた。
「私の名は、ゼルフィナと申します」


   *   *   *
 鹿が語り始めた。

 私も百三十年前に《虎と美女の審判》を経験したことは聞いていらっしゃるでしょうね。
 私が愛した人は、異国の兵士。若くて、勇敢……というより不遜で怖い物知らず。そして、いつも口許に皮肉っぽい笑みを浮かべているような人でした。
 彼はわが国との戦に破れ、捕虜として引かれてきたのですが。その姿を私は一目見て、間違っていると感じた。彼こそ誇り高い戦士。縄目の辱めを受け、人々の嘲りを受けるような人間ではない。そう感じました。処刑される運命をまぬがれることはできないとしても、せめて名誉ある処遇をするべきだと。私は周囲にそう求めました。
 はじめは、それだけだったのだけれど。彼のふてぶてしい面影が心から離れなくなり、私はいく度か牢の中の彼と会って言葉をかわしました。そして、ますます彼の魅力の虜になっていったのです。
 私は、彼の名誉だけではなく、命も救う方法はないものか。そう思うようになりました。そんな私に助言をしてくれたのは、私の幼い頃からの家庭教師だった人です。


   *   *   *

 家庭教師。
 その言葉を聞いて、ルシアははっとした。そして、心臓をしめつけられるような苦しみがよみがえった。
「ファイラジールのことを思い出したのですね?」
 ゼルフィナが静かに言った。
「でも、今はもうしばらく私の話を聞いてください」


   *   *   *

 《虎と美女の審判》。それを教えてくれたのは、私の家庭教師でした。先生はそれを執り行うことで、異国の兵士を救うことができると私に告げました。
 でも先生の提案は初め私には不満でした。だって、古い言い伝えの審判の形では、兵士が生きることができたとしても、彼は私ではない別の女性を娶る結果になるからです。そこで先生は、審判を三度繰り返し、最後に私自身が美女の部屋に入るという新しいやり方を思いつき、王である私の父に提案しました。先生は学者としては若かったけれど、父の信頼のとても篤い人だったので、父にその提案を了承させることができたのです。
 貴女もご存知のように、私の想い人は二度の審判を生きのびました。そのからくりはルシア、貴女たちと同じです。先生が私に虎の扉を教え、私がそれを兵士に伝えていたのです。そして私も先生に代償を要求されました。ただ、貴女たちと少し違うのは……。
 先生は、躊躇なく私の体を求めてきたことです。

 最後の審判の日。手はずは完全でした。私は一方の扉の内側で兵士を待ち、愛する人にはどちらに私がいるのか誤りなく伝わっているはずでした。
 でも、扉を開けて差し込む陽の光とともに手を差しのべてくれる彼の姿を、私が見ることはありませんでした。愛する人と結ばれる前にいく度もこの身を汚してしまった自分を許すことができず、私は扉の内側で自らの命を絶ったのです。

 ルシア。貴女の家庭教師ファイラジールは、本当に貴女を大切に想っていたのですね。
 彼が《虎と美女の審判》を提案した時、彼の胸のうちには私の先生と同じ暗い炎が燃えていたことを私は知っています。でも、彼は幼かった頃の貴女を思い出しました。そして、貴女の無垢な心を守ろうとしたのです。
 ううん。私はそれに引き比べて自分の先生を憎んでいるんじゃないの。今では、先生が私のことを本当に愛してくれていたことがわかる。貴女たちを見ていて、それがわかったの。
 先生は荒波がさらい翻弄するようなやり方で、私の体と心のすべてを愛してくれた。でも……そのやり方があまりに激しすぎたために、私は受け入れることができなかったの。私は、臆病だったわ。
 

   *   *   *

「ルシア。貴女にお礼を言います。本当にありがとう」
「え……?」
 ルシアは当惑した。感謝された理由がよくわからなかったのだ。
 雌鹿は、最後にこう言った。
「貴女たちは呪いの一つを解いてくれました。私はやっと先生をゆるすことができるようになった。そして、自分自身も」

 銀の髪のゼルフィナの姿が消え、再びアウラディアがそこに立っていた。
「ゼルフィナが私の分身だって? 笑わせてくれるねえ。あの甘ったれたお人好しの小娘が」
 魔女はそう言って含み笑いする。
「ゼルフィナは、自分が愛した異国の兵士がどうなったのか知らない。結末を見ることなく死んでしまったからね」
 アウラディアは少し顔をあげ、明かり採りの窓を見上げた。弱い陽射しが、彼女の蒼白な面を照らす。その眼差しは、どこか悲しげだった。
「兵士は、どちらの扉に虎がいるのか知っていた。だけど、あの男は虎の扉の方を開けたのさ。ためらいもなくね」
「どうして……」
「異国の兵士は、ゼルフィナを愛してなんかいなかったんだ。でも、王女の愛を利用しようとした。彼はゼルフィナが自分を好きになってしまったことを知り、うまく立ちまわれば処刑を免れることができるかもしれないと画策した。はじめはね」
 ルシアの心は痛んだ。ランドルフの面影が脳裏に浮かんだのだ。
 アウラディアはつづける。
「ところが、兵士はゼルフィナと偽りの逢瀬をかさねるうちに、彼女の無垢で誠実な心根に触れ、自分を恥じるようになったんだ。最後の審判の日、彼は王女を騙し通して命を長らえることを潔しとせず、敢えて虎の扉を選んだ。素手で野獣に戦いを挑んで死んでいったのさ」
 ルシアは言葉が出なかった。凍りつくような想いで、アウラディアを見つめた。
「愛する人のそんな最期を、死に挑んでの想いを、ゼルフィナは看取ることなく自らの命を絶った。でも、それで終わりじゃあない。私はあの娘を鹿に変えて、甦らせた。ゼルフィナは彼女の迷いの道から今も抜け出してはいないのさ」
 アウラディアは言う。ゼルフィナを鹿に変えたと。それは、不思議な言い伝えの通りだった。
 でも、ルシアには疑問があった。
「どうして、そんなことを。貴女はいったい何がしたいと言うの?」
 しかし、答えはなく。窓から斜めに射す仄明かりの中に、魔女の姿はすっと消えた。


   *   *   *

 ひどく汗をかいていた。
 雲の流れがはやい。
 ルシアはバルコニーの片隅の椅子に、こわれかけた人形のようにぐったりと身を沈めている自分に気がついた。
 じっと見下ろす、父の顔があった。が、彼は娘が意識を取り戻したのを見てもさして表情をうごかさず、
「もう、はじまっている」
 そう呟くように言って、自身の席にもどっていった。その後姿が、影のように暗い。
 ルシアは、はっとして立ち上がった。
 中庭には、すでにランドルフの姿があった。彼は二つの扉の中間のあたりに立って、迷っているように見えた。
 手すりに視線を走らせると。薔薇のコサージュが風に揺れていた。
(大丈夫。彼には伝わっている)
 虎は右の扉にいることを、彼に教えるコサージュだった。
 しかし、ランドルフはためらっている。
(ランドルフ。お願い、私を信じて)
 なぜ迷うのか。彼には、ルシアが嫉妬に狂って数日前まで愛してやまなかった人を、虎の牙の前に差し出すような女に見えるのだろうか?
 つらい想いを胸に、ルシアが見守るうち。
 ランドルフの体が少し動いた。ふりかえり、ルシアに視線を投げかけてきた。
 彼の立つところは遠く、表情やしぐさはよく見えない。なのに、不思議だった。彼がぎゅっと拳を握りしめたのが伝わってきた気がしたのだ。
 ランドルフは、歩き出した。迷いを振り切ったような、しっかりとした足取りで。
 向かうのは左の扉だった。

 ルシアは心のうちで神に感謝していた。
 扉が開き。抱きしめあう二人を、ルシアは淡々とした心で見つめた。
 やがてランドルフはソフィーリアから身を離した。ふたたびバルコニーに視線を投げかけてきた。ルシアに向かって一礼する。その後でソフィーリアが、さらに深々と頭を下げていた。
(これでいい)
 そう思う自分は偽善者なのだろうか? そんな考えも脳裏をよぎった。でも、もうどうでもよくなっていた。
 その時。
 傍らに歩み寄る、人の気配に振り向いた。
 リオネル王だった。
 表情のにぶい奇妙な横顔だった。
「これで終わってはつまらないと思わない?」
 囁くような女性の声。それが聞こえたような気がして、ルシアはギョッとした。
「右の扉を開けよ!」
 王が叫んだ。
「そんな。お父さま、審判はもう終わったのですよっ」
 しかしルシアの悲痛な声は、父の耳に届かない。まるで青銅の彫像が動いているようなぎこちない姿勢で、リオネル王は中庭を見下ろしている。
 衛兵たちは戸惑いながらも、王の命令に従う行動をとりはじめた。虎の扉が開かれた。
 鎖をはずされた虎が、ゆっくりと中庭に出てきた。
 ランドルフは、ソフィーリアを庇うように抱いて後ずさりする。しかし、彼らの緊張した動作とは対照的に、虎の動きはのんびりとしていた。若い二人には興味がない様子で、中庭の中央まで歩いて来て周囲に視線を向けている。
 やがて虎は、バルコニーを見上げた。ルシアの姿に気づいたようだった。じっと動かなくなった。
 ルシアも、虎を見下ろした。バルコニーの上と下で、王女と獣の視線が一つになる。
 ルシアの胸に、暖かな想いがゆっくりと広がっていた。頬をいく筋もの涙がつたう。
(見つけた。やっと見つけた)

 ランドルフがカイロスではないことは、とうに気づいていた。
 そして。思い当たることがいくつもあった。
 初めて地下の暗い檻に近づいた時、大人しいはずの虎が鉄格子に体を打ち当ててルシアに吼えかかった。あれは、ルシアを襲おうとしたのではない。思いがけない再会に驚き、駆け寄ろうとしたのだ。
 あの虎は、檻に入れられた生き物を殺さない。
 そういう少年を、かつてルシアは知っていた。
 カイロスは、狩となれば夢中になったが、罠にかかって動けない鹿を一生懸命助けようとした。
 だって、可愛そうじゃないか。
 少年はそう言った。
 自由を奪われて怯える者、助けを求める者をけして傷つけない。
 カイロスはそういう心根を持った少年だった。
 ゼルフィナは、魔女アウラディアに鹿に変えられたという。
 アウラディアは人間を動物に変える術を使う魔女。

 その時。
 別の扉が開いて、十字弓を手にした屈強の兵士たちが中庭に駆け出して来た。
(だめ! カイが殺されちゃう!)
 ルシアは、あたりを見まわす。
 バルコニーの下に、ソフィーリアの親たちに贈られた荷車があった。
 手すりを乗りこえ、荷台に敷かれた藁の上に飛び降りた。
 藁はそう厚いものではなく、体が叩きつけられた衝撃で息が止まったけれど、夢中で下に降りた。苦痛を感じたのは、虎に向かって駆け出してからだ。踝をひねったらしくズキっと鋭い痛みを覚えたが、かまわず一心に走り続けた。
「撃たないで!」
 そう叫んで、虎の大きな体をぎゅっと抱きしめる。暖かくて、毛並みが心地良かった。
 兵士たちは当惑しながらも、武器を下におろした。
「ごめんね、カイ。もっと早く見つけてあげられなくって」
 虎はくうっと鼻を鳴らして、ルシアに顔をおしつけてくる。ヒゲがくすぐったかった。


第八章 最後の闘い

 雲が流れる。
 ほの暗い空気が再びあたりを覆いはじめ、あたりは異様な静けさにつつまれた。
「ルシア。おまえはとうとう、ここまでやって来た」
 アウラディアの声が響いた。
「私とゼルフィナが辿り着けなかったところに、おまえは到達したのだね」
 暗がりから何か黒いものが、すうっと分かれて立ち上がる。それは、長身の女性の姿となった。アウラディアが冷やかな笑みを浮かべて、佇んでいた。
 魔女は美しかったが、その全身から禍々しい気配を立ち上らせていた。兵士たちはたじろぎ、後ずさりする。しかし、勇をふるい起こして前に出る者もあった。
「無礼な。王女さまにおまえなどと」
 アウラディアはバカにしたように、片手をかるく横にはらった。すると。兵士たちは糸の切れた操り人形のように、ぱたりぱたりと地に倒れていく。
 虎が牙をむき、低い唸り声をもらして魔女を睨む。
 アウラディアは野獣の威嚇さえも気にとめるふうはなく、ルシアに語りかけてきた。
「私が愛した者の正体は、異国の魔導師だった。彼は美しい若者に姿を変えて、私に近づいた。彼の目的は私を妻にして王国を我が物とすることだったのだけれど。若かった私は、盲目的な恋のとりこになった。そして、《虎と美女の審判》が行なわれたのさ」
 ルシアは、注意深く耳を傾けた。これまで彼女が経験してきた長く奇妙なできごとの数々。その出発点となった太古の物語の結末は、王家の記録にも書かれてはいないと言う。その遥かな時に閉ざされた秘密を、アウラディアは語ろうとしているのだ。
「彼にとって野性の獣など怖ろしいものではなかった。美女の扉など目もくれず、神聖な儀式の場で虎を倒してみせることによって、王と国の民に私との婚礼を認めさせようとした。でも、彼の前に立ちはだかった虎は、ただの虎ではなかった」
 アウラディアは言葉を切る。何かを思い出しているようだった。そしてまた、話をつづけた。
「私が幼かった頃から、私をずっと守ってくれた騎士長がいた。その人は、王国の大神官に願って、自ら虎となったのよ」
「なぜ、そのようなことを?」
「魔導師の野望から王国を、そして私を守るため。戦いは壮絶だった。虎は大神官によって、魔導師と対等にわたりあえる力を与えられていたから。そして、ついに虎の牙が魔導師の喉笛をくいちぎり、彼の愚かな夢はついえた。でも、虎も瀕死の痛手を負っていた」
 遠い空のかなたに視線を向けたアウラディアの面からは、何の感情も読みとることはできなかった。ただ彼女は、じっと何かを見つめているようだった。
「私は虎に歩み寄り……愛する魔導師を殺したその獣に、刃を突き立てた。虎が騎士長の姿にもどったのは、彼の命の炎が消える直前のことだった。私は彼の体に取りすがって泣いた。泣き叫ぶ私の腕の中で、彼は死んだ……」
 語り終え。
 アウラディアは、ルシアに視線をもどす。
 風はない。なのにその黒髪は、ざわざわと揺れていた。すうっと細めた双眸が、赤みをおびて、かっと見開かれた。
「ルシア。おまえだけが、この迷いの道から抜け出すのか? 幸せをつかむというのか? そんなことは許さないよっ」
 虎が低く唸り、毛を逆立てながら魔女とルシアのあいだに進み出る。そして、威嚇の咆哮をあびせた。
 しかし魔女は平然として、嘲るような笑みをうかべる。
「ほう。おまえごときが、私に歯向かうと言うのか。おまえは大神官の力を得たあの騎士長ではない。ただの哀れな獣なのに」
 アウラディアがかるく片手をふると、烈風が虎を襲った。獣の体が宙に舞うのをルシアは一瞬見た。しかしルシア自身も強い風圧をうけて、背後の石壁に体を叩きつけられた。気を失いかけたけれど、風の直撃をうけなかったためか何とか意識をとりもどすことができた。
 虎は力なく地に横たわり、アウラディアがそれを見下ろしていた。
「おのれの身のほどを知ったか?」
 冷やかな声音。
(カイっ。お願い、無茶しないで。せっかく逢えたのだから)
 呼びかけたかったが、苦痛で声が出せなかった。
 虎の体が動いた。ひどく苦しげではあったが、アウラディアを睨み、牙をむきながら、やがて四本の足でしっかりと立った。
「愚かなっ」
 魔女が大きく片手をなぎはらうと、虎の体はさっきより大きく吹き飛ばされ、壁の女神像に激突した。そしてずるずると地に沈んで、今度こそ動くこともできないようだった。
「カイ!」
 ルシアは全身の痛みをこらえ、悲痛な叫びをふりしぼった。
 身を起こし、足を引きずりながら虎のかたわらに歩み寄った。崩れるように地に両手をつき、獣の顔を見つめる。
「カイ……しっかりして」
 囁きかけると、虎の頭がわずかに動き、目を開けてルシアを見た。
「茶番はおわりだ」
 アウラディアの冷ややかな声がきこえた。
「可哀想に、その獣は骨も筋肉もぐずぐずだよ。動くこともできない。これ以上生きていても苦しむだけだ。止めを刺して楽にしてあげる」
「そんなこと、させないわ」
 虎の首を優しく抱きながら、きっと魔女を見上げた。
「傷は私が絶対治すっ」
「バカなお姫さまだね」
 アウラディアが嘲る。
「おどき。おまえは殺さないよ。おまえには私たちと同じ憂いと迷いの道を、未来永劫歩いてもらうのだからね。だが、その坊やはもう用済みだ」
 その時。アウラディアの胸元を、空を切るように何かがかすめた。
 魔女がそちらに振り向く。
 ルシアも同じ方向に視線を走らせ、十字弓をかまえたランドルフの姿を見た。
「その二人に手を出すな!」
 腰の引けた構え方は、ルシアの目にもとうてい当たりそうもないように見える。でも、若者は一生懸命だった。
「二人だって?」
 魔女が嘲笑った。
「カイロス。おまえもやっと人間に昇格したようだねえ」
 そう言って、ぱちんと指をならす。
 ランドルフの手から、十字弓がはじけとんだ。
「勇敢な坊やへのご褒美に、最初に殺してあげるよ」
 ランドルフの方に向きなおりかけた魔女の肩に、何かがぶつかった。それは地に落ちて赤い汁を飛び散らせた。
(トマト……?)
 見ると、荷車のそばでソフィーリアが野菜を手に取っては魔女に投げつけていた。
「どいつもこいつも」
 魔女は舌打ちしたようだった。
「うっとうしいハエのように。一匹ずつ潰すのはめんどうだ」
 片手を手繰るように動かすと、ソフィーリアの体が引き寄せられて虎の近くに倒れた。続けて魔女は、ランドルフも引き寄せる。
「ルシア。お前は離れていろ」
 さっと人差し指を向けられた瞬間、体が宙に浮いた。地に体が転がり、必死に上体を起こす。魔女が虎と二人の人間を見下ろしながら、両手を大きく広げるのが見えた。
「やめて!」
 魔女の両手の間に紫色の光が生まれている。何をしようとしているのか、ルシアは悟った。だから、必死に叫んでいた。
 魔女が嘲る。
「見るがいい、ルシア。お前が愛した者、おまえが親しんだ者が、おまえと関わったばかりに死んでいく姿を」
「そうはさせません!」
 あたりを切り裂くような声が響いた。
 放たれた白光に一瞬目が眩み、ふたたび目を開くと。
 虎とランドルフたちを庇うように立ちはだかる雌鹿の姿を、ルシアは見た。
(ゼルフィナ王女……!)
「きさまがっ。このアウラディアに歯向かうと言うのか?!」
 魔女の黒髪が、烈風に煽られるように激しくなびく。その怒りがあたかも空気を震わせながら伝わり、皮膚が痺れるような錯覚をルシアはおぼえた。
 アウラディアは両手のあいだに生まれた紫の光を胸もとに凝縮させ、鹿に向かって突き出した。
 鹿がわずかに身をしずめる。そのしなやかな体から再び白光が放たれ、半透明の輝く球面となって紫の雷ちを受けとめた。前方からの強烈な圧力をこらえて、鹿は四本の足で地を踏みしめる。
 アウラディアの美しい顔がゆがんだ。歯をむき出し、柳眉を逆立て、赤く光る眼差しを突き刺すように鹿に向ける。
 鹿のつくる光の球面が、ゆがみはじめた。魔女が放つ雷ちの力に負けて砕け散るかに見えた瞬間、その白い輝きは逆に強まり紫の閃光に反応して乱反射する。やがてそれは魔女の手のひらから放たれる光の渦を逆流するように、アウラディアの全身をつつみこんだ。
 奇怪な鳥のような絶叫がひびく。
 白光が束の間、裁きの庭をおおいつくしたかのようだった。ルシアは思わず顔に片手をかざし、目をつむった。光は急速に弱まり、うつぶせに倒れるアウラディアの姿が見えた。大きな爬虫類が横たわっているように見えた。鹿も力尽きたように足を折り、地に体を伏せる。
 ルシアは懸命に身を起こし、鹿に駆け寄った。
「ゼルフィナさん」
 鹿は少し顔をあげた。
「はい……その名前で呼んでくださるのは、はじめてですね」
 辺りはいくらか明るみを増したように見えたが、空はまだ雲が覆い不吉な気配を漂わせている。魔女は倒れて動かなかったが、まだ息絶えたわけではないことをルシアは直感した。
 しかし彼女の力が弱まったせいだろうか、倒れていた兵士たちが身をうごかしはじめた。よろめきながらも立ち上がる者もいた。バルコニーを見ると、リオネル王が心配そうに見下ろしている。さきほどの他人のように見えた父とは違う。
(お父さまも、正気にもどられた)
 まだ、緊張をゆるめてはならない。それでも、かすかな喜びを感じながら雌鹿に視線をもどす。
「貴女に、助けていただけるとは思っていませんでした」
「だいぶ前に、私は貴女たちをお助けすることはできないと言いました。ルシア。貴女はそれを心にきざんで、たった一人で戦ってきたのですね」
「そのつもりでした。でも、結局私は一人ではなくて、多くの人に助けられてきたような気がします。今も。カイロスにもランドルフにも、ソフィーリアさんにも助けられた。ファイラジール先生にも、貴女にも。なのに、私は皆を不幸にしてしまう」
 想いを吐露し、ルシアはうなだれる。
「……ルシア」
 鹿が静かに言った。
「私は自分が恩を受けたときは、一度だけそのお返しをすることができると言ったでしょう? 貴女は私の迷いを断ち切ってくれたの。私は、私の先生の本当の気持ちを理解し、やっと自分を許すことができるようになったのよ。貴女のおかげで、私は長い呪いから解放された。だから、力をお貸しすることができたのです。ただ……」
「ただ……?」
「本当はファイラジールのために、その一度の力を使ってお力添えしたかったのですが」
 思いがけない人の名を鹿から聞き、ルシアは言葉を失って彼女を見つめた。
 鹿は、傷の痛みに堪えるように身をふるわせながら、ゆっくりと立ち上がった。
「ファイラジールは生きています。刃で自らの胸を突いて自害をはかりましたが、見つかるのが早く、まだ息があったのです。ただ、今はまだ生死の境をさまよっている状態です。懸命の治療がほどこされていますが……」
(ファイラジールが、生きている?)
 その言葉を脳裏にくりかえす。もつれた心に光がさすように、か細くはあったが新たな喜びと希望が胸にきざすのを感じた。
 しかし、まだ彼の命は危ないと言う。
「ファイラジールは、今、生きようとしています。一時は死を求めましたが。今、意識はありませんが、彼の魂が生きて貴女を守りたいと強く願っています」
 ルシアは立ち上がり、空を見上げた。
(彼も、私といっしょに戦っているんだ)
 はっきりと、そう思った。

 獣の低い唸り声を聞いて、ルシアははっと振り返った。
 傷ついた虎が、体を引きずるようにしてルシアに近づこうとしていた。
「カイっ」
 ルシアは走りより、膝をついて虎の体に手をまわし、首をなでた。
「ルシア。まだです。まだ終わったわけではありませんよ」
 雌鹿の緊張した声が投げかけられた。
 地面が、少し揺れたような気がした。
 一瞬、静まり。そして、古城全体が振動し始めた。壁の女神像に亀裂が走り、こまかい石の欠片がぱらぱらと落ちてくる。
 突っ伏していた魔女の体が動き、ゆっくりと身を起こす。
 乱れた黒髪が顔にかかり。衣服もところどころ裂けて、蒼白い肌をさらしている。片手がきかないのか、だらりと下にさげている。
「貴様たち。一人としてこの城から生かして出しはしない」
 押し殺したような、声だった。
「王女さま、危のうございますっ」
 何人かの兵士が駆け寄ろうとするのを、ルシアは制した。
「来ないで。あなたたちでは歯が立たない」
「小賢しいわ!」
 アウラディアが自由のきく片腕を大きくなぎ払うように振ると、いくつものつむじ風がおこり、数人の兵士を吹き飛ばした。
 虎が怒りを含んだ唸り声をあげる。その側に雌鹿が近づくのが見えた。
「カイロス。私の力をあなたに」
 鹿はそう言って、虎の額に口先をつけた。
「そのようなこと、させるかっ」
 アウラディアの片手に紫の閃光が生じ、彼女はその手を叩きつけるように突き出した。
 蛇のようにうねる光の軌跡が虎と鹿にとどく寸前、鹿は咄嗟に首をひねって振り向いた。光る球面が生じて、魔女の攻撃をふせぐ。しかしそれはわずかな時間しかもたず、激しい光を四方に発して砕け散った。
 しかし、そこにすでに二頭の獣の姿はなかった。
 ルシアは大きく目を瞠いて、それを見た。一人の若者が、雌鹿を抱き支えながら飛びのき、地に倒れ込むのを。彼は鹿を気遣いながら、すぐに立ち上がった。
 栗色の髪。頬骨が高く鼻すじの通った、少し日焼けした横顔。白いシャツの胸もとをはだけ、革の胴衣をまとっている。
(カイっ)
 ルシアは心の中で歓喜した。ずっと昔、いなくなってしまった少年。彼はルシアの心の中で成長し、立派な若者となった姿を繰り返し想い描き、いくども夢に見た。その姿をランドルフに重ねたこともあった。
 今彼女の前にあらわれた若者は、それらのどの姿よりも精悍だった。でも、彼女のカイがやっと戻って来たのだと……心から信じることができた。
 できることなら、駆け寄って抱きしめたい。しかし、彼はアウラディアと対峙していた。魔女は一歩、また一歩とカイロスにせまり、カイロスはじりじりと後ずさる。
「カイロスに武器を」
 鹿の声だった。
「私の力は彼の体に長くはとどまらない。アウラディアを倒すのは今です」
 ルシアはあたりを見まわした。
 ランドルフが取り落とした、十字弓が視界に入った。
 思い出した。
 狩が大好きだった少年の日、十字弓の扱いはカイロスの自慢だった。素早くその武器と近くに落ちていた矢筒を拾い上げ、
「カイ!」
 叫んで、投げた。
 カイロスがそれを宙で受けとめる。武器はカイロスの手の中で、かすかな光を放った。彼は驚いてそれを見つめ、それからきょとんと目を丸くして自分自身の手や足に視線を移す。どうやら、人間の姿に戻ったことにやっと気がついたようだった。
 アウラディアが、カイロスにせまる。肩のあたりに持ち上げた手のひらに、紫の発光体がはじける。
「カイ、後!」
 はっと彼は向きなおり、十字弓に矢をつがえた。腰をしずめ、発光体をふりかざすアウラディアに放った。
 白光につつまれた矢が、魔女の胸をつらぬく。
 ばさっと乾いた音がして、彼女の姿は濃紺の大きな布が激しい風に翻るような形に変り、見る見る小さくなっていった。空間のはざまに吸い込まれるように、魔女アウラディアは跡形もなく消滅した。
 ルシアが、ほっと肩の息を抜いた時。
「まだです!」
 鹿の叫びが響いた。
 同時に、足もとの地が大きく揺れ始めた。
 さきほどから生じていた女神像の亀裂がひろがり、城壁の一部も崩れて徐々に落下し始めた。
「何がおこってるの?!」
「アウラディアの最期のあがきです。この古城全体が、アウラディアの悲しく狂おしい心そのものなのです」
 女神の半身がずるりと傾き、ルシアに向かって倒れ掛かってきた。
「危ない!」
 抱きしめられた。乱暴なほど強く、その場から引き離された。二つの体がからみあうように、地に倒れ込んだ。
 一瞬、気が遠くなり、倒れたまま振り返ると。片側のみの女神の顔が地に横たわり、一つだけの瞳がじっとルシアを見ているようだった。
 自分がまだしっかりと抱かれているのを感じた。温もりが体に伝わってくる。
 首をまわすと、すぐ近くにカイロスの顔があった。荒い吐息がかかる。無意識につかんでいたカイロスのシャツの襟もとを、ぎゅっと握りしめ、彼の胸に顔をおしつけた。
「王女さま、お怪我は?!」
 兵士たちが走りよってくる。その背後に、巨大な瓦礫がいくつも崩落し、地に激突して音を立てるのが見えた。
 ルシアは、はっとして身を起こす。
 古城は、轟音とともにゆっくりと崩壊をつづけている。
「私は大丈夫です!」
 夢中で叫んでいた。
「お父さまと、大使殿を安全なところにお連れして。あなたたちも!」
「しかし、王女さまは……!」
「王女として、命じます。私たちのことは心配しないで。すぐにこの城を脱出しなさい!」
 必死に声をはげました。
 兵士たちはまだためらっていたが、
「何をしている。これは厳命ですよ!」
 重ねて言うと、とうとう走り去って行った。
 次にルシアは、身を寄せ合って茫然としているランドルフとソフィーリアの方に顔を向けた。
「あなたたちもよ。私とカイにかまわないで、逃げて」
「そんなことは!」
 ランドルフは震えていたが、怒鳴るように返答してきた。
「今さら、僕たちだけ逃げるなんて……」
 そんな若者に、ルシアは微笑みを投げかけた。
「来月は二つの婚礼の準備で、大わらわよ。だけど、その前にすまさなければならないことがあるの。ここは、私たちにまかせて」
「ランドルフ」
 ソフィーリアが許婚に言った。
「ルシアさまには、何かお考えがあるのだと思う。私たちなんか足手まどいよ。私を連れて逃げて」
「ぐずぐすするな、マヌケ! さっさと行けって!」
 カイロスに虎のように吼えられて、ランドルフはようやソフィーリアの手を引いて走り出した。
 後に残ったのは、ルシアとカイロス、そして雌鹿だけになった。
「アウラディア! どこにいるの? 出てきなさい!」
 ルシアが叫ぶ。
 建物と、瓦礫の影。その無数の暗がりから、黒ずんだ気体のようなものがいく筋もすうっと立ち昇ってきた。
 それらはやがて一つになり、ぼやけた女性の姿の輪郭となる。髪がざわめき、双眸が紅く光る。
 カイロスがはっと身構え、ルシアを庇うように一歩前に出ようとした。ルシアは片手でそれを制し、しだいに姿が明確になっていくアウラディアに向かって歩きはじめた。
 もう迷わない。彼女には一つの確信があった。
 カイロスも何かを察したのだろう。無防備に魔女に近づいていくルシアを止めはしなかった。ただ寄り添うようについて来てくれる気配を、ルシアは背後に感じた。それがルシアに勇気をあたえた。
 アウラディアは戸惑いを見せた。刃に似た視線をルシアにそそぎ、ゆっくりと両腕をもたげる。
 古城の崩壊がつづく。魔女の全身から、異様な紫の気が立ちのぼる。
「お父さまや兵士たちを、ランドルフとソフィーリアを、ファイラジールを……カイを殺そうというのなら」
 体がふるえる。声も少しかすれた。それでも懸命に、腹のそこから次ぎの言葉を叩き付けた。
「まず私を殺しなさいよ!」
 のばされていたアウラディアの両手が、ぴたっと止まった。
「どうしたの?」
 ルシアは問いかける。
「貴女には私を殺せないでしょう? 殺せるはずがない……私も、貴女の分身だからっ」
 すると。
 かたわらの雌鹿の姿が白い光に包まれた。
 ややあって、長い銀の髪の女性がアウラディアと向かいあって佇んでいた。
 ゼルフィナが、魔女にしずかに語りかける。
「アウラディア。貴女ももう分かっているでしょう? 私たちの長い迷いの道は終わったのよ。私たち三人ははじめから一つのものだから」
 漆黒の魔女の姿がゆらめく。
 ルシアの口から、次ぎの言葉が自然に出た。
「ゼルフィナ王女は貴女の良心」
 白い王女が、また言う。
「そして、ルシアは運命に立ち向かう貴女の意志」
 ゼルフィナがアウラディアをそっと抱き。
 白と黒が溶け合って穏やかな光を放ち、消えていった。

 古城の崩壊はまだ続いていたが、それもしだいに鎮まって行くようだった。空を覆っていた雲が切れ、佇むルシアとカイロスを暖かな陽射しが照らした。
 ルシアは、がっくりと膝を落とした。
 体のあちこちが痛む。緊張のあまり、それに気がつかなかったのだ。
「大丈夫、ルシア?」
 カイロスに、いたわるように肩に手をおかれた。
「もう、城壁が崩れてくることもないようだ。しばらく、ここで休むか?」
「いいえ」
 かぶりを振って、立ち上がった。
「皆のところへ、行きましょう」

 ルシアがカイロスにささえられて城門の外に出てくると、兵士たちの間から歓声があがった。
 リオネル王は大きな樹木の下に腰をおろして、老大使と何か話していた。ルシアの姿に気づくと立ち上がり、無言で両手を広げた。ルシアは父の前に歩み寄り、その胸に顔を埋めて泣いた。
 その時、早馬が到着し、ファイラジールが命を取り留めたことを告げた。


エピローグ

 カイロスは、自分が虎になっていたことを覚えていないらしい。ルシアも、敢えてそれを話題にはしない。自分が体験してきた不思議な物語は、人に語るようなことではないと思う。
 カイロスの記憶では……そして、他の多くの人々の記憶もそうなのだけれど、プランヴィール公爵家の嫡子カイロスは、十歳の年にこの王国よりも学問の進んだ西方の友好国に留学したのだそうだ。
 しかし異国の生活がはじまって最初の年は、勉強なんかそっちのけで相変わらず狩に夢中だったらしい。友好国には南方に深い森林をもつ属国があり、そこにおもむいて珍しい動物を捕獲することが流行っていた。カイロスは狩猟好きがこうじるあまり、熱望してそういう人々に同行したのだ。ところが、そこで大怪我をしてしまった。一時は命も危ぶまれるほどの負傷だったらしく、医学の進んだその国で長い治療と療養の生活を送るはめになった。
 一生歩くことはできないだろうと医者に言われたほどだから、公爵家は弟のアルベルトが継ぐことに決まったのも仕方のないことだった。
 たった一つ幸いだったのは、カイロスが元々とても強い体、そして強い意志を神から与えられていたことだ。彼は何年も諦めずに辛い努力をつづけ、怪我をする前と変らないほど丈夫な体を取り戻して皆を驚かせた。そうして今年、ルシアのもとに帰って来たのだ。
 そんな外国生活だったから、あいかわらずカイロスは学問は苦手だ。でも、体の方は本当に元気で、昔と変らず狩が大好きな様子だった。
 これが、カイロスが覚えているこれまでのいきさつ。そして、ルシア以外の皆もそれを信じていた。ルシアといっしょに不思議な出来事を経験したはずのファイラジールや父王や、その他の人々さえそうなのだ。魔女アウラディアのことなど誰も知らないと言う。
 ルシアは、べつに深く追求しようとは思わなかった。ただ、時々悪戯半分に異国での療養生活についてカイロスに聞いてみる。彼の答えはいつも曖昧で、前に話したことと辻褄があわなかったりする。それでも本人は、何の疑問も抱いていないようだった。
 少しおかしなこともあった。
 カイロスはルシアと二人っきりで部屋で過ごすとき、喉をならして絨毯の上をころげまわることがある。そうすると気持ちがいいのだそうだ。
(虎……というより、猫みたいね)
 ルシアは可笑しかった。
 カイロスは、つい最近までヘンな夢を時々見たとルシアに打ち明けた。
 虎になった夢だという。
 それを聞きながら、ルシアはふと思う。彼は虎として生きていたあいだ、人間として成長する自分の夢をよく見ていたのではないかと。
 それを思うと、ちょっと切ない。
 ほどなくカイロスとルシアは、皆に祝福されて婚約した。式は来年執り行われることになった。

 ランドルフとソフィーリアも、正式に婚約した。いっそ来年に予定されているルシア王女の婚礼といっしょに挙式してはどうかと王は提案したのだけれど、二人はそれはいくらなんでも恐れ多いと、さっさと田舎に帰ってしまった。気心の知れた身内や友人たちだけを集めて、ひっそりと幸せな結婚をしたいというのが本音だろう。
 そのかわり。ソフィーリアの親たちは、びっくりするほどたくさんの野菜を贈ってきた。「トマトは苦手なんだ」と言って、カイロスはちょっと顔をしかめていたけれど。
 ルシアも内心では、ランドルフたちが計画を進めているような質素な婚礼をうらやましく思う。
 王家の婚礼ときたら。まだ挙式までには半年以上もあるのに、もう式場の準備にかかっている。誰と誰を招待するか、どんな催しで盛り上げるかと、そんな話ばかり聞かされるものだから煩わしくてしかたがない。
 カイロスも逃げまわっている。特に彼はファイラジールを避けていた。何を嫌がっているかと言えば、勉強だった。
 療養生活が長かったから仕方がないが、カイロスは王女の結婚相手としては教養がなさすぎるとファイラジールは言う。婚礼の日までにどこに出しても恥ずかしくない見事な貴公子にするために、私がみっちり仕込んでさしあげるなんて言っていた。だけど、カイロスは逃げてしまうのだ。
 そんな調子だったけれど、ファイラジールとカイロスは多少歳が離れているものの良い友達になれそうだと、ルシアは思う。というより、絶好のボケ役とツッコミ役として、城を明るくしてくれそうな予感がして、今から楽しみだった。

 ある時ルシアは、いつものように城の外に出て行ってしまったカイロスを探しに、自分もこっそり抜け出した。崩れた城壁の抜け穴は、いまだに修理されていない。
 十字弓を片手に奔放に野を翔けるカイロスの首に綱をつけて、城に繋ぎとめておきたいとは思わない。ただ、飛び出していく彼を、追いかけて探しまわるのが楽しかった。
 森のほとりまで来て、疲れて東屋で一休みした。季節の花が咲き乱れる美しい風景を眺めながら、ほてった体をさましていると。
 仄暗い樹木の茂みに、一頭の鹿がいるのを見てはっとした。それはしなやかな雌鹿で、ルシアをじっと見つめているようだった。
(ゼルフィナ王女)
 立ち上がりかけたが、鹿はすぐにどこかに姿を消してしまった。
 茫然と佇んでいると。急に目の前がまっくらになって、驚いた。両手で目をふさがれたのだ。
「だ~れだっ」
 声を聞いてすぐに誰だかわかった。
「冗談はやめて、カイ」
 ふりほどいて、体ごと向きなおる。
 柔らかく波打つ栗色の髪。澄んだ青い瞳。それがルシアを見つめている。
(もう、二度と……)
 胸のうちにそう呟いて、ルシアは若者の広い胸に飛び込んでいった。


                               (了)

作者コメント

 本作には元ネタがあります。19世紀の小説家フランク・ストックン作の、いわゆるリドル・ストーリー『女か虎か』です。リドル・ストーリーというのは謎を残したまま物語を終え、読者の想像に委ねるというもの。
 ストックンの原作を私は知らなかったのですが、本サイトの交流用掲示板で西井勇平さんに紹介して頂きました。2012.9.11の時点で5ページ目に掲載されていますので、興味のある方は覗いてみてください。
 西井さんの趣向はストックンの原作の骨子を紹介し、その謎とされた結末を皆で考えてみようというものです。多くの方が参加されており、私も取るに足りない駄文を寄せました。その中で、タカテンさんのアイデアがとてもユニークで感心したんです。感心したあまり少しやりとりさせて頂いたのですが、そうこうしているうちに思いついたアイデアが本作の出発点です。

 交流板で拾ったネタが作中にどういう形で入っているかは掲示板の方を見ていただければよく分かると思いますので、ここで説明はしません。元ネタから設定やキャラをかなり変え、物語の背景となる「魔女の神話」なんてものを追加したりしましたから、一応作品全体のストーリーはオリジナルだと思います。また、元ネタを知らなくても話は分かるように書いたつもりです。

 とまれ、素晴らしいアイデアを提供してくださった西井勇平さま、タカテンさま、有難うございました。作品化して投稿室に出すと言いながらけっこう日がたってしまいましたが、なんとか仕上がりました。出来の方は正直不安でしかたがありませんが、読んでみて頂けたら嬉しいです。
 それでは、宜しくお願い致します。

《修正履歴》
2012.09.16
タカテン様からご指摘頂いた誤字2箇所を修正。あわせて自分でも1~2章まで読み返しました。以降も少しずつ再校正していこうと思います。

第一章
(ファランジール先生のご本の読み方って~
   ↓
(ファイラジール先生のご本の読み方って~

第二章
おもえも、そして私もな……
   ↓
おまえも、そして私もな……

2012.09.17
うなぎ様からご指摘のあった誤字を修正。上で1~2章は読み返したと言いながら、まだ残っていました(汗)

第1章 誘惑がおさえらえなくなる
第2章 大切に育てててくださった
第4章 話はしずらい
第6章 いつまで逢瀬の余韻にひったているのよ?

2012.09.20
第二の審判の美女が選ばれたいきさつを書き忘れたことに気がつきました。掲載中の作品の大きな改変は控えたいので、第六章のファイラジールのセリフを一つだけ追加。応急処置なので、不自然になっていないか不安ですが。

2012.09.22
第八章、アウラディアとの最後の決着をつけるシーンの描写を少し加筆しました。

2012.09.30
min様にからご指摘のあった誤字2箇所を修正。

第七章
「私はアウルディアではありません。
アウルディア → アウラディア

でも先生の提案は始め私には不満でした。
始め → 初め

2012年09月11日(火)22時22分 公開

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感想

鳳さんの意見 +30点2012年09月14日

鳳です。
新作読ませて頂きました。
僭越ながら感想など書かせて頂きます。

あまくさ様は、やはり綺麗な文章をお書きになられる方だな、
と改めて感じました。
といっても言葉の使い方という表面的な部分だけでなく、
読んでいて頭の中に描き出される世界そのものが綺麗だなぁ、と。

風景の描写も違和感なく思い描けますし、
ルシアの心情のみならず、他の登場人物の心の動きも
理解しやすかったです。

物語自体もランドルフがカイロスだったら
盛り上がりに欠けるので違うだろうなぁとは何となく分かってはいましたが
自分にはそこまでしか予想出来ませんでしたし、
ファイラジールの存在がそこをうまく隠していたように感じました。

ルシアも素直で芯の強く、それでいて葛藤や悩みを抱えた
魅力ある主人公でとても好感が持てました。

ほとんど文句のつけようがない作品と思いますが
気になった点を。

最後の戦闘シーン、
あそこは正直な所、要らないのではないかと。
そこまでがかなり精神的な面を多く語ってきていたので
あの場面がとても唐突に感じました。

設定自体はとてもよく出来ていると思いましたので
舌戦でも良かったのではないかと感じました。

他には特にありません。
誤字なども気付きませんでしたし、
読みやすかったです。

自分もあまくさ様のような文章が書けるようになりたいです。

簡単ですが参考になれば幸いです。
心踊る一時をありがとうございました。

ではでは。

瀬川コウさんの意見 +30点2012年09月15日

どうも初めまして、瀬川コウです
読了しましたので感想を残します

まず、心理描写が素晴らしい、最高。すごく丁寧だし自然。これぞ小説の強み!というものを最大限活用していると思いました
そして構成も起承転結はっきりしていて良い、ストーリーも文句なし。
世界観も、絵を見ているように伝わってきました

しかし文章が、三人称一視点ですよね?
たまに神視点のとこがありまして、それが気になりました
というかこんな揚げ足を取るみたいなとこしか僕のレベルでは評価できません
すいません

あと、もうちょっと前半に読ませる工夫があったら尚いいと思いました。最初が説明っぽいので読者の興味を引く冒頭に変えればいいかなぁ、と
それと、あとは読者の心をもっとぐわんぐわん揺さぶるようなストーリーにセンレンしていくというか、、、
んー、、、もうアドバイスのしようがないですね

伏線回収も見事、とにかくすごかった
「これ、プロ?」みたいに思いました

雰囲気的にはミミズクと夜の王を思い出しました

楽しい時間をありがとうございました。

タカテンさんの意見 +30点2012年09月15日

いつもお世話になっております。タカテンです。
拝読いたしましたので、感想を送らせていただきます。

以下の感想にはネタバレを含んでおります。お気をつけください。

えー、あまくささんはもともと本格的なファンタジーが得意な方ですし、掲示板での執筆宣言の時からしっかりしたものに仕上げ来るだろうなぁと期待していたのですが……
はっきり言って、期待以上の内容で驚きました!

まず文章。
やっぱり本格ファンタジーはお得意ですね。
決して文字数を重ねて事細かく描写されているわけではないのですが、すっと頭の中に情景が浮かんできます。
個人的にファンタジーは過剰な言葉の装飾がどうにも苦手なのですが、あまくささんのファンタジー作品は昨年のGW企画で拝読した時からすっきりとした文面でありながらも自分をその世界に誘ってくれます。

あ、ただ、ひとつだけ。
もしかして苦手とされているのかもしれませんが、見直しが少し不十分ではないかと感じました。
例えば、ファイラジールの名前が初めて出て来た次の場所でファランジールと表記されていますし、リオネル王が今年中に結婚をと話をする場面では「おまえ」が「おもえ」になっちゃってます。
綺麗な文章なだけにミスが目立つのだと思うのですが、それだけに勿体ないと感じました。

続いてキャラクター。
ルシアが秀逸でした。幼き頃に出会った鹿の言葉を信じて運命に立ち向かおうとする姿、そしてランドルフの心の内を知った後も自分を虎に置き換え、ランドルフの心情を思いやる心、単なるワガママではなくて芯の強さを感じるキャラでした。
儀式を最後までやり通す所なんて実に高貴です。ファイラジールが己を恥じるのも分かる様に思います。
他のキャラも良かったですが、さすがにカイロスは出番が少ないのが残念でした。
いや、あの仕掛けは素晴らしかったんですけどね。
贅沢を言えば、カイロスの状況が分かり、元の姿に戻るまでにもう一章を費やす様なエピソードでカイロスの印象を強めて欲しかったです。

そして構成。
感服いたしました!
まさかそう来るとは思っていなかったので、仕掛けが分かった時は思わず「そう来たかっ!」と興奮してつぶやいてしまいました。
いや、あえて言うならばルシアがオリの中の虎を見に行くシーンはちょっと不可解だったのです。
が、それでもあまり気にも止めず、エサを食べないというシーンでもまだ気づきませんでした。
序盤のカイロスという人物を印象付けるシーンが、まさか伏線になっているとは……、おみそれしました。
脱帽です。
これが投稿室ではなく、掲示板だったら自分も50点を献上しているところですw

最後に。
自分のアイデア、どこへ行ったしw
いや、それはまぁ冗談ですが、自分の発想があまくささんに今作を思い付くきっかけになったのであればとても嬉しいです。
良い物語を本当にありがとうございました。

お互いにこれからも切磋琢磨して頑張ってまいりましょう。
ではでは。

机とイスさんの意見 +30点2012年09月16日

こんばんは!
机とイスです。

作品拝読させて頂きましたので
感想を残させて下さい。

 おー……。うん、面白い!
 というのが、率直な感想です。

 有名なリドル・ストーリーへの挑戦ですね。女か虎かの選択に試練を増やすことで希望を作ったのは大変面白い内容だと思いました。(←知ったげに書いているけど、実はさっきネットでリドル・ストーリーとはなんぞやというところから確認している)

 今まで読んだあまくささんの作品の中で一番ネタが仕込まれた内容であると思いました。いつもは文章力にものを言わせて、ネタを書ききっていないけど別に良いよね? テヘッ☆ 的な誤魔化されている感が多少なりとも付きまとっていたのですが、本作に限って言えば、ネタがとってもGJでしたw。

 ランドルフが捕まった直後にファイラジールが出てきたので、この時点で彼のうさんくささはバリバリでしたし、神話のぼかし方はどういう結末になるんだろうとしごく興味が沸きましたので、演出としてバッチリでした。

 いや、それにしてもえげつない。女か虎かの選択だけでも十分えげつないのに、王の実は……発言の後にカイロスは実はあれだし、ランドルフの気持ちは実はあーだし、ファイラジールの対価は実はこんな感じだしで、試練としては、まー、えげつないですw。でも物語はこういう感じの方がカタルシスを得やすいので楽しいです。
 あと、うさぎの複線はとても自然で普通に気づけませんでした。虎に同情するシーンで、ああ、なる程ね、と気づきましたが、でもどうやってそれをルシアに気づかせるんだろうと思った直後のあれでしたので、なる程そうきたか! といった感じで素直に楽しめました。

 という訳で、個人的に大変満足させて頂いたので、このまま去っても良いのですが、お礼の意味も込めて気になった点を書かさせて頂きたいと思います(ナニッ!
 いや、まあそうは言っても重箱の隅つつき以外の何ものでもないし、完全に超個人的な好みの問題だし、そもそも読み飛ばしている可能性があるので、あまり参考にもならないと思います。なのでいつものようにふーんくらいに留めておいて下さいorz。

・言葉が端的なことについて
 逢瀬とか、()書きの中身等々、もう少し遊び心と言いますか、人間的な思いを描いてみてもいいかなあとかちょっと思いました。端的な上に地の文でも触れないので、物語として淡々とした印象を受けました。あ、誤解のないように付け加えさせていただきますと、本作のように仕掛け重視の物語は、端的な言葉で物語りを進行させるのはそれはそれでありだと思うので不満ではないです。ただ単にもしそう描いていたならば本作はどんなふうに感じるのかなあとか、興味本位で思ったまでです。あしからず。

・ルシアがランドルフに思いをよせたことについて
 心情的には分かるし、物語上仕方ないので、まあ別に良いんですけど、一途なカイロスのことを考えると、なんだかなあと少し思わなくもなかったです。

・ランドルフの実は……発言
 一瞬、唐突すぎて宇宙人と呼ばれている某元総理みたいな発言だなと思いました。いや、別にその後に理由は書いているので、頭では理解しましたけども、畏敬の念を抱いているor絶対的な権力に逆らえないのならば、畏怖を表すようなちょっと不振な仕草をところどころに描いて頂いてもバチは当たらないかなあとか。いや、まあ別に今のままでも正当な理由付けがあるから良いんですけどね。あくまで好みの問題です。

・ファイラジールの対価について
 初読では『嫌な寒気を感じながら。ルシアはファイラジールの得体の知れない表情を見つめるしかなかった。』を読み飛ばしてしまっていたので、一回目の対価で彼が彼女に何をしたかったのか全然理解出来ませんでした。
 いや、まあ読み飛ばしている時点で、何も語る資格はないんですが、でもですね、出来れば、取引の段階で、対価の三回で何をさせたいのかをぼかしながらでもいいので、書いて頂けた方が、その後のえげつなさがより伝わったのではないかなあとか、自分のことは棚上げで苦し紛れに訴えてみたりしてorz。
 あと、三回目の行為でチュッとかしない方がいいかなとか。『絶好のボケ役とツッコミ役として、城を明るくしてくれそうな予感がして、今から楽しみだった。』がなんだかカイロスに申し訳ないというか、悲しく思えました。

・魔女さんについて
 結局のところ彼女はどこまで、直接的に関わっていたのでしょうか? 鹿と虎とルシアのパパは明らかなので、良いとして、ランドルフとファイラジールはどこまでが彼らの意思で、どこからが彼女の意思(魔法? 呪い? ささやき?)だったのかが、読解力の無い自分には分かりませんでした。出来れば、ランドルフとファイラジールと語るシーンなんかも入っていると、よさげかも。あと、それ(呪いとか?)に打ち勝つような描写シーンも欲しかったところです。いや、これもあくまで好みの問題です。

・トマトについて
 複線としてOKだったし、物語を楽しむための小ネタなところを突っ込むのは間違っているとは分かっているのですが、いるのですが……、普通投げるか? とかうっすら思いました……。個人的には、こんな石みたいに硬いトマト食えるか! みたいないらん子扱いしておいて、最後に投げて、ね? いらん子じゃ無かったでしょ? みたいな感じの方が好みでした。いや、揚げ足取りです。すみませんorz。

・最後の闘いについて
 自分も正直いらないかなとか。描くにしても淡々と戦って勝ちました。くらいでも良かったんじゃないかと。いや、よく書き込まれた描写でそれ自体に不満はないのですが、そもそも七章までのお話が、わが道を行くような淡々としたおとぎ話の雰囲気だっただけに、あそこだけ取ってつけたようなリアルなバトルシーンだったので、なんだかあまくささんが現代っ子に色気を見せているみたいで、ちょっと悲しかったです。いや、そういう歩み寄りは必要不可欠だと思いますけども、本作の中ではちょっと雰囲気が……。
 七章の時点でほぼ決着はついていたので、可能であれば七章の中で出来れば愛や勇気という強い『心』で、解決して頂きたかったような気がします。

・エピローグについて
 留学云々は、カイロスがお家に帰るための苦し紛れのいいわけのようにちょっと感じてしまい、これを解決する為にどうしたらいいだろうかとかおうちでゴロゴロしながら考えていたら、ランドルフではなくてカイロスが戻ってきましたということにして、みんなに歓迎されてめでたしめでたしのはずなんだけど、魔女の悪戯でカイロスは人を殺めてしまって、罪人なんで試練受けましょうになって、どうしようってなって、でも王が虎やっつけちゃるけん心配すんなって言われて、めっちゃ安堵するんだけど、実は本作のようにほにゃにゃで、やっぱどうしょうってなって、ファイラジールが任しとけってなって対価が云々でみたいな亜種のストーリーが思い浮かびましたが、完全に歪んだ人間の戯言ですので、ほんと気にしないで下さいorz。

ところで、今お気持ちはSですか? Mですか? え? ドSですか。そうですか……。

ま、まああれです。総評としましては、
あまくささんとにもかくにもGJっス!。ということでお願いします。
面白かったです。
拙い感想ではありますが、
この辺で失礼させて頂きます。

うなぎさんの意見 +30点2012年09月17日

読ませていただきました、うなぎです。

・童話のよう
まず、童話のようなお話だと思いました。
王女がいて、森があって、魔女がいて、いかにもな感じです。
雰囲気はそれでよいと思うのですが、キャラクターはラノベっぽく仕上げたほうがよいのでは?
今のままでは、全員が薄すぎると思います。

・カイロス
トラに何かある、とは思いましたが、彼とカイロスを結びつけることができませんでした。正体を現したときは、とても驚きました。
伏線はよくできていたと思います。

・ルシア
ランドルフとカイロスのことに悩む少女。彼女の心揺れる様がよく書けていたと思います。
やはりヒロインですので、そういった描写は大切ですね。

・最後の戦い
ルシアは戦闘キャラではないので、最後の方はあまり活躍するシーンもなく、ただ隣で叫んでいるだけのような印象を受けました。
武器を渡したり、助言をしたりと努力は認めるのですが、今まで彼女の視点で話が進んできたのですから、最後には頑張って欲しいと思います。
もう少しバトル内容を熟慮して、ルシアも活躍できる舞台を整えた方がもっと盛り上がるかと。

・誤字
>誘惑がおさえらえなくなる
られなく

>大切に育ててて
育てて

>話はしずらい 
しづらい

>いつまで逢瀬の余韻にひったているのよ?
ひたって

誤字はありましたが、文章自体は読みやすかったです。

・総評
よくまとめられていて面白いと思いました。
元となったお話、『女か虎か』については全く知らなかったのですが、それでも十分楽しめました。

ありがとうございました。

HANAMIKITAさんの意見 +10点2012年09月17日

 初めまして。HANAMIKITAと申します。僭越ながら拝読させて頂きました。

 物語の雰囲気、表現、とてもお上手ですね。スラスラと情景が浮かぶように読み進めることができました。人物の内面の描写もうまくできているように思います。

 しかし全体的にどうにも盛り上がりに欠ける感がしてなりません。物語がゆるやかに展開していくお話ですので、その辺りは致し方ないのかも知れません。

 主人公が純愛を貫き通そうとする気持ちは素晴らしいのですが、最後にはなぜか応援する気になれませんでした。
 ルシアがランドルフに恋心を抱いていたのは、その過去がカイロスと繋がるからであると察しますが、それは結局はただの勘違い。それにランドルフがルシアに恋心を抱いた素振りを見せていたのも自己保身のためであるなど、無理矢理に感じられました。
 読者をミスリードさせるためにこういう関係にする必要があったと思われますが、この辺りが大いに引っかかりました。ただそういった印象も、文章力でうまくカバーされていたように思います。
 しかし一度そういう印象を持ったまま読み進めてしまったので、カイロスの正体がわかった時などは、『え? そっちなの?』という意外な驚きは確かにありましたが、『なんという茶番』という印象を持ったことも否定できません。
 物語の根幹にあるはずの『一途な恋』という骨組みが、どこかで崩れてしまっていた、といったところでしょうか。

 以上、短い文章になりますが、私の個人的な感想です。好みの範囲になりますので、酷評と感じられてもお気になさらず。

下等妙人さんの意見 +20点2012年09月23日

 はじめまして、下等妙人と申します。
 拝読いたしましたので、拙いながらもご感想をば。

 内容について。
 非常に文書が巧みで、雰囲気を完璧に作り出していますね。作者様の技量に思わず唸ってしまいました。
 しかしその反面、これはライトノベルか、と問われると疑問符を抱かずにいられません。あまりにも空気が完璧すぎて、重たく感じます。これに関しては、僕が言えたことではありませんがorz
 ストーリー全体に関しては、あのスレッドは僕も参加しておりまして、作者様のレスも見ておりました。そのため先が読めるのではないか、と危惧しておりましたが、それも杞憂に終わり、とても良かったように思います。
 ストーリーは僕ごときがなにか言えるようなものではないかと。

 キャラについて。
 ここは少し残念に感じました。全員が御作の素晴らしい空気を生み出すのに十全の役割を果たしているものの、ラノベ的面白みとはかけ離れているように感じます。
 どうにも、僕の好みとは合いませんでした。
 とはいえ、好みと合わない以外の欠点も特に見当たらず、作者様のキャラクター造形力の高さが窺い知れます。

 総評。
 しっかりとしたファンタジー。しかし、ライトノベルではない。といった感じでしょうか。全体的にレベルが高い作品であると思います。しかし、少々好みに合いませんでした。
 とはいえ、ライトノベル的ノリを御作に持ち込むと、間違いなく質を悪くするとでしょうし……。
 全く役に立たない感想で申し訳ございませんorz

 以上、感想でした。
 終始上から目線で申し訳ございません。

 お互い創作活動頑張りましょう。

 ではでは。

水守中也さんの意見 +10点2012年09月25日

こんにちは。水守中也と申します。
先日は拙作に感想ありがとうございました。拝読しましたの感想を残します。

元ネタの掲示板ですが、私もちらりと見ておりました。
タカテンさんの、国中の幼女や老婆と結婚する展開はどこに行ったか? という疑問はさておき、真面目に感想に移ります。
やや酷評気味になりますが、上記のことと評価は関係ありません。

冒頭からの流れはすごく上手いと感じました。本当にあまくさ様のファンタジーは地に足が付いているというか、世界に惹き込まれてしまう魅力があります。

問題を感じたのは二章以降でした。
まずは主人公のルシアがランドルフに惚れていく過程が全くと言っていいほど感情移入できませんでした。
恋は盲目というわけなのかもしれませんが、一国の王女であるということを忘れている行動には違和感がありました。
同様に、ランドルフのルシアに対する気持ちも不思議なくらい伝わってきませんでした。結果、二人を応援する気になれず、《虎と美女の審判》も冷めた目で見てしまいました。
まぁ実際、ランドルフの気持ちは予想通りでしたので、あまくさ様がそれを見込んで描かれていたのなら、狙い通りだったと思います。

なぜ、ルシアはランドルフに惚れたのか
なぜ、ファイラジールは《虎と美女の審判》を提案したのか
なぜ、リオネル王は《虎と美女の審判》を行うことを決定したのか
なぜ、ランドルフは正直に話さないで、《虎と美女の審判》を受けたのか、二度目でソフィを選ばなかったのか

一応それぞれの理由は描かれています。
けれどどうしても彼らが物語に動かされている印象が強く残りました。これもある意味、魔女に動かされていたと言えるのかもしれませんが。

虎扱いされていると感じてルシアが落ち込むところは良かったです。
ファイラジールのルシアへの欲望も良い感じで危うさが描かれていて、上手いと感じました。

三度目の試練は疑問が残りました。
ルシアとソフィーリアが入れ替わることにリオネル王は納得しているのですか? 
最愛の娘を侮辱されたのに怒り狂ったりしなかったのでしょうか。
審判を執り行ったファイラジール父、神聖な儀式を変更させられた大使も納得したのでしょうか?
このあたりの描写が全くないまま三度目の試練が始ってしまい、違和感がありました。

最後の戦いはやはり唐突と言うか、作品から浮いた印象でした。
それとカイロスが元に戻っても、ルシアとの会話がない。悠長に話している場合でないのは分かりますが、カイのルシアに対する気持ちはどうなの? と疑問に思ったままエピローグを迎えてしまいました。
なんというか、せっかくの再会なのにカタルシスが足りない印象でした。

夢オチのような終わり方も、どこまでが皆の記憶から抜けているのかはっきりしなくてすっきりしませんでした。
《虎と美女の審判》は行われて、三度目の試練で無事ランドルフとソフィが結ばれたということでいいのでしょうか。
そう仮定した場合、ファイラジールの自害未遂は記憶に残っているはずですよね。
で、普通ルシアにあそこまでして、のうのうと城に残るのは、ファイラジールのキャラ的にあり得ないと思います。それなのに、ボケとツッコミって……


以上です。自分のことは棚に上げた意見ばかりで申し訳ございません。
かなり偏った意見になっていると思いますので、上手く取捨選択していただければ幸いです。

それでは。執筆お疲れ様でした。

ミルクティーはリプトン派さんの意見 +30点2012年09月26日

どうも、感想返しにやってきたミルクティーはリプトン派です。

本作を読んで思ったのはライトノベルじゃないと思いました。どちらかというと一般小説に近いかなと感じました。
おそらくあまくさ様が精神的に大人だからだと思うのですが、各キャラが大人っぽいからそう感じるのかと思います。
キャラクターの思考が10代というよりも成熟した大人に近いんじゃないかと。
ですがライトノベルでも成熟した大人に近いキャラクターもいます。
『狼と香辛料』とかに出てくるキャラクターどちらかというと大人のキャラクターです。しかしあの作品のヒロインは何百年も生きて知恵もあるけど子供っぽい無邪気さがあります。
まあ何が言いたいかと言うと、ライトノベルというのなら本作には子供っぽさが足りないんじゃないかということです。

けど作品としてはよくまとまっていて面白かったです。
文章も上手いと感じました。
特にルシアの大人になった描写で、

>燦々と輝く太陽のような明るさは少し影をひそめたけれど。それにかわって夜空の月の光に似た落ち着いた明るさで、仄かにあたりを照らすような娘になったのだ。

というのはすごくいい描写だと思いました。

私が気になったのはルシアがカイロスのどこに惹かれたのかな? と思いました。ルシアとは幼馴染だったみたいですが、惹かれる要素があったのかな? と最後のエピローグを読んで首をかしげました。

全体として童話のような物語を引き込ませる文章力はあまくさ様の強みなのかと思いました。ただ、真面目な話が続くので、どこかでガス抜き要素とキャラのギャップがあったらもっと面白くなるんじゃないかと思いました。

あまりいいアドバイスができませんがあまくさ様の執筆活動の役に立てれば幸いです。

お互い頑張りましょう。

ではでは!

minさんの意見 +30点2012年09月27日

はじめまして。minと申します。
ファンタジー的な感じだったので読ませていただきました。他の方とかぶっている部分もあるかもしれないですが、思った事を書かせていただきます。

まずは見つけられた誤字から。
「私はアウルディアではありません。でも、アウラディアの分身のようなもの」
→アウルディア

でも先生の提案は始め私には不満でした。
→始め→初め?

「何がおこってるの?!」
「王女さま、お怪我は?!」
→!?が半角でした。

・気になったところ

ランドルフのシャツの胸もとを涙でぬらした。
シャツってファンタジーなのに現代ぽいなと。

>私はアウルディアではありません。でも、アウラディアの分身のようなもの」
 鹿の姿が闇にゆれて消え、白いドレスをまとった若い女性が立っていた。流れるような銀の髪が、つややかな白磁の相貌をふちどる。優しい緑色の瞳が、ルシアを見つめていた。
「私の名は、ゼルフィナと申します」
から
「ルシア。貴女にお礼を言います。本当にありがとう」
「え……?」
 ルシアは当惑した。感謝された理由がよくわからなかったのだ。
 雌鹿は、最後にこう言った。

と、あるんですが、白いドレスをまとった若い女性が立っていたと語り前にこうあるのに、語り終わったらまた、雌鹿とあって、いつ鹿に戻ったのかなと。

>鹿のつくる光の球面が、ゆがみはじめた

鹿の作る光の球面というのは鹿の角から?どっからでてきたものでしょうか?

ゼルフィナを鹿と書かれていますが、鹿ではなくゼルフィナと書かれた方が分かりやすいなと私は感じました。鹿、雌鹿と書かれてあり、ちょっと混乱しました。まあ、これは個人的に思った事なので、作者様がゼルフィナではなくあえて鹿にしているのかなと。

>「貴女には私を殺せないでしょう? 殺せるはずがない……私も、貴女の分身だからっ」

ルシアって分身だった?私の読み落としかもしれないんですが、ルシアが魔女だと分かるところがあったのでしょうか。
唐突にそうばらされて、え?って思いました。そういう伏線があったのかな…。

最後の戦いはもう少し短くしてもいいのでは?
良い感じできていたんですが、最後はどうにも長く感じてしまって、逆に今までの雰囲気が台無しというか、とにかく長く、くどいように感じました。

・内容
ラノベというよりは児童小説、児童ファンタジーみたいだなと思いました。雰囲気、文章表現、物語の進みなどはとても素晴らしいと思いました。
キャラクターに関しては少し疑問が残る部分もありましたが、特に主人公の恋心は上手く表現されていました。
虎と美女の審判の説明は、なるほど、なるほどと読んでいて凄く納得できたし、面白いなと思えました。また、説明する過程が上手いんですよね。

というわけで、思った事を書かせていただきましたが、私ファンタジー大好きなんですね。ファンタジーらしいファンタジーを読ませていただいてありがとうございます。楽しかったです。

うさまさんの意見 +30点2012年09月28日

 あまくささん、こんばんわ。うさまです。
 作品拝読しましたので感想返し。。の前に、少しだけお時間を。
 実は、自分の作品に寄せられていたあまくささんの追記に、先日ようやく気が付きまして。。レス不要と書かれていたのですが、少しだけレスをさせてください。
 お言葉、とても励みになりました。嬉しかったです。あまくささんに「俺の眼力は正しかった!」と誇ってもらえるような結果を出せるように、頑張りますっ。

 と、そろそろ本題へー。

===以下、ネタバレを含みます===
【文章】
 とても読みやすかったです。
 ただ一つだけ気になったのが、最後の方にある「ボケ役とツッコミ役」という表現でした。
 物語のラストで、良い雰囲気に潜りこんでいたのですが、この単語が出たときに「ん?」と現実に引き戻されてしまったような気がします。なのでどうにか、雰囲気にあった言葉に変換してくださると個人的に嬉しいです。

【キャラクター】
 ライトノベル、といった感じではなく、どちらかといえば童話。。というか寓話。。というか、まあそう言った系統のお話だったので、このぐらいの塩梅が程よく感じました。
 ただ、例の家庭教師の先生。
 最初の要求と最後の「王女と初めて出会ったのは7歳」発言で、ドS× ロリコンの超変質者のイメージが私のなかで芽生えていますが。。これでいいのでしょうかw?

【ストーリー】
 何故か、所々手塚治虫の漫画の絵が、頭の中で再生されていましたw これがまあ見事にはまったという・・・。自分でも良く分かりませんが、たぶん鹿が喋った辺りとかの印象なのでしょうか。。
 と、それはともかく、すごく良かったです。
 二転三転するストーリーで、どうなるのだろうと興味をもって読み進められました。
 落ちもかなり好印象です。やはり、ハッピーエンドは良いですね。

【設定】
 掲示板のやりとりは、全部ではありませんが「なんだか盛り上がっているなー」とちょこちょこっとつまむように覗いていました。
 あの話題は、確かに面白かったですね。あーでもないこーでもないと、それぞれのストーリーが興味深かったです。

 ただ、この作品はそれだけではなく様々な要素を上手にミックスされていて、すごい技術だなーと感じました。はい。

 以上。
 元ネタがある作品の評価は正直迷ってしまうのですが、それを差し引いても二十点後半は間違いなく、面白かったという思いも強かったのでこの点数で。
 正直完成度が高すぎてろくな指摘も出来ませんが、少しでも作者さまのお力になれれば幸いです。
 それではっ。

へろりんさんの意見 +20点2012年10月08日

へろりんと申します。

交流掲示板の『女か虎か』は、自分も楽しく拝見していました。
あのスレッドからどのようなお話が出来るのか、興味津々で拝読させていただきました。
拙いですが、感想を書かせていただきます。

まず、最初に。
す、すごいです!
ご自身のコメントでも、プロットに力を入れたと書かれていましたが、その緻密さに圧倒されました。
緻密な隙の無いお話は、自分の理想の形のひとつでもあります。
見習いたいです。
ですが、緻密なゆえにちょっとでも腑に落ちない部分があると、気になってしまう危うさもありました。
気になった点については、後述します。


○ 文章について

作者様は、さすが理論派といった感じで、全体としてそつのない文章だったと思います。
ですが、自分の考える美しい日本語とは、若干の差がありました。

> 時の国王リオネルの一粒種だった彼女は、幼いころからたいそう可愛らしくて気立てもよかった。だから、家来たちの人気も上々だった。

気になったのは「だから」の使い方です。
「だから」と言ってしまうと、幼い王女が「家来たちの人気も上々だった」理由が、「たいそう可愛らしくて気立てもよかった」ことに限定されてしまいます。
広がりを感じません。
きっと王女は、幼いながらも王族としての威厳があり、気品があり、でもそんなことを鼻にかけるでもなく、親しみやすく、可愛らしく、気立てがよく……それらいろいろな要素があって、人気だったのではないでしょうか。
上の文章では、そういった言外の広がりを感じません。
このような表現は、他にもいくつもありました。
全体的にレベルの高い文章だけに、残念でした。

ですが、これは個人的な好みであり、難癖レベルですので、あまりお気になさいませんように。


> というより、絶好のボケ役とツッコミ役として、城を明るくしてくれそうな予感がして、今から楽しみだった。

他の方の指摘にもありましたが、「ボケ役とツッコミ役」は、ワードのチョイスとしては最悪だったと思います。
作品の雰囲気ぶち壊しでした。


以下、気になった点です。

○ ゼルフィナの《虎と美女の審判》について

ゼルフィナの思い人は、異国の兵士で捕虜だったわけですが、ゼルフィナの思いは伝わりましたが、兵士の思いはサッパリでした。
ですので、審判を二度も切り抜け、三度目まで受けようとしたことに違和感を覚えました。
一度目の審判で、とっとと自国に帰ったでしょうに。
この辺、行動の根拠が説明不足だったように思います。


○ ルシアの《虎と美女の審判》について

ルシアの思い人ランドルフが、なぜ審判を二度も切り抜け、三度目まで受けようとしたのか、疑問に思いました。
ランドルフにとっては、二度目の審判でソフィーリアと一緒になる選択をするのが、最善だったはず。
一応は、ランドルフのような弱き者にとって、ルシア王女は虎と同じというような理屈は付けられていますが、あまり納得できるものではありませんでした。
これを受け入れると、ランドルフとルシア王女との間の恋心は、ルシア王女の一方的な思いだけであったことになってしまいます。
実際そうだったのかも知れませんが、もっと納得させてくれるようなランドルフの心理描写とかが欲しかったように思います。


○ ファイラジールが求めた対価について

作中にもありましたが、ファイラジールはルシア王女を愛しており、また、高潔な魂の持ち主です。
でなければ自殺を図ったりなどしないでしょう。
ですが、第一の審判、第二の審判でルシア王女に求めた対価が、ファイラジールの高潔な魂に見合っていないと思いました。
では、どのような試練がよいか? 愚考してみました。
ルシアの足の指を一本一本しゃぶる(自分は変態ではありません)
ルシアの生脱ぎ下着を目の前でくんかくんかする(重ねて言いますが自分は変態ではありません)
あまりしっくりきません。
で、ふと思いつたのですが、ルシア王女に即効性の眠り薬を飲むことを強要するというのはどうでしょう?
これならば、薬を飲むことを強要されたとき、ルシア王女も眠っている間に何をされるかわからないという恐怖と葛藤があり、ファイラジールも王女を眠らせたはいいが、高潔な魂ゆえに指一本触れることが出来なかったというヘタレなオチがつけられます。
それ故に、三度目の試練の際、思いあまって王女の唇を奪ってしまったことにファイラジールの葛藤が生まれ、自殺を図るに至るという心理もすんなり受け入れられるかと。
まあ、愚考ですので参考程度に。


○ トマトについて

小道具として出てきた農作物が「トマト」とは……。
「トマト」である必然性はなく、他の野菜でもいいのに。
うーん……トマト……。
トマトは南米原産であり、大航海時代の十六世紀にヨーロッパに種が持ち込まれ、食用として広まったのは、十八世紀になってからだそうです。
つまり、御作の舞台となっている時代(鉄砲ではなく十字弓を使っていたような時代)には、農作物として「トマト」はありません。
元々、西欧風の背景に虎が出てくるあたり、無国籍なお話ではありますが、時代背景を無視して「トマト」が出てきたことにずっこけました。
ジャガイモでも、玉ねぎでも、カブでもいいでしょうに。


○ 虎について

この世界観なら、いっそ虎もしゃべっちゃってもよかったような気がしました。
鹿もしゃべってるし。
孤高の虎の言葉の端々にカイロスの面影が垣間見える、なんて演出もできたかも?
まあ、勝手な妄想です。


いろいろと文句ばかり好き勝手を書きましたが、全体としてとても楽しめた作品でした。
そして、いろいろと勉強させていただきました。
よい作品をありがとうございました。
失礼しました。

Ririn★さんの意見 +30点2012年10月14日(日)

 こんにちは。Ririn★です。

 読ませていただきましたので感想を入れさせて頂きます。

 王女と虎なんですが、私の頭に最初に浮かんだのは「美女と野獣」でして、虎の正体はすぐに思い当たってしまいました。
 ただこの仕掛け自体は本題ではないのだろうなぁという感想をいだきました。分り易すぎるし。

 勝手にテーマ分析をして感心した点をあげます。
「人は人を裁けない」という原理をうまく「神の裁き」に置き換えていた古代の儀式が出てきたことと、それでもなお「神の裁き」ではなく、その実、すべては「人の裁き」だったという裏に私はいたく感心しました。
 神は人を公平に、本当に公平にさばいてくれるとは思うけれど、「裁き」という儀式を必要としているのは神じゃなくて直接の利害関係者(人間)だけなんですよね。
 だから人間はニュースで殺人などの凶悪犯が死刑にならなかったとしても憤慨したりしない。でも、利害関係者である肉親は死刑にならないことに憤慨する。そういう世の中の「不公平さ」みたいなのが思い起こされました。

 文章はちょっと古典的な感じで始まりましたので、最近のアクション・リアクション中心の文章と比べると読みにくい感じではありましたが、慣れてしまえばすぐに情景を思い浮かべることのできるいい文章だったと思います。

 簡単ではありますが、以上で感想とさせていただきます。

 トマトは私も好きなので登場したことにニヤリと笑いを隠しきれませんでした。そうですか、トマトはそういうメタファーですかと誰かのセリフを真似て書き残しておきます。

 総じて面白い作品だったと思います。
「人が人を裁く」ということを深く考えさせられた作品でした。

 連続して長編2つとかあまくささんのレベルが上がりすぎて実力を測ることすらできなくなっています。
 次回作も楽しみにお待ちしております!

鈴危さんの意見 +30点2012年10月21日(日)

お久しぶりですあまくさ様。鈴危です。
読了いたしましたので感想を書かせていただきたいと思います。

先に言っておきます。高得点おめでとうございます!
いやあ自分の点で決まったかと思うと気分いいですね笑

総評としてはもちろん面白かったです。高得点掲載所にあっても見劣りしないでしょう。

前作よりもストーリー的にかなりわかりやすくてよかったです。とてもきれいにまとまっていて言うことがありません。

特に目を瞠ったのが『女か虎か』の解釈です。交流掲示板で読んだ印象では「単なる悪趣味な憂さ晴らし」だったのですが、「神の裁き」に「罪を浄化する巫女」ときて思わず唸りました。とてもよく設定を練られたなと思いました。

カイロスが実は虎っていうのもよかったですね。臆病な自尊心と尊大な羞……じゃなくて、ちゃんと伏線も撒かれてましたし、空気感も合ってました。

ただ、文章は前作に比べ見劣りしていたように感じます。もしかしたらわざとそうされたのでしょうか? 今回も全く悪くないのですが、前作の鮮やかさが少し影を潜めていたような気がします。個人的な好みも間違いなくあると思いますが、私は前の方が好きでした。

あとやっぱりライトノベルではないですね。でも、これがあまくささんの良さなのではないかなと思います。

楽しませていただきました。
ありがとうございました。

紅 魅月さんの意見 +40点2014年05月31日(土)

とても面白かったです!
私は描写が苦手なのですが、あまくさ様はとても描写が上手いなぁ〜と思いました。
文章がすらすらと入ってきてとても読みやすかったです。

上から目線な上にたいしていいこともいっていませんが失礼します。