2012年小説夏祭り企画優勝作品
戦国蹴鞠伝説
2012年08月04日(土)18時26分 公開
【選択したジャンル】
「コメディ」× 「歴史物」
【選択したお題】
うさぎ、オレンジ、殺人鬼、太陽
【一行コピー】
日本史の謎を解き明かすという意味では、拙作は本格歴史ミステリーなのかもしれません。
【作者コメント】
コメディを書いているはずだったのですが、いつの間にか日本史上の謎に挑む学術的な作品になってしまいました。学術的な人間ですいません。
天正三年(西暦1575年)の三月のことである。梅の花が色鮮やかに咲き誇る京の都を、明智光秀は憂鬱な顔つきで歩いていた。
光秀が目指すところは、主君である織田信長の館である。配下として主君からの急な呼び出しに応じているわけだが、光秀の胸中には嫌な予感しかなかった。
「はぁー、今度は何をやらされるのやら」
心労のせいですっかり禿げ上がった頭を撫でながら、光秀は深い溜息をついた。彼の頭の中には、信長からの呼び出しとあれば悪い知らせとしての認識しかない。
なにせ信長といえば、その人間性が「鳴かぬなら、殺してしまおう、ホトトギス」という歌で表現されているような人間である。過激を通り越してもはや頭がおかしいとしか思えない。鳴かないなら殺す。もう全然意味が分からない。どんな殺人鬼だよ。
「やばいよ。最近は自分のこと魔王とか言い出してるそうだし、完全に手遅れだよ」
光秀はぶつぶつと呟きながら、重い足取りで信長の館へと向かっていった。
信長の館に到着してからも、光秀の気は一向に晴れることがなく、むしろどんどん落ち込んでいくばかりであった。
「絶対にやばいよ。すれ違う家来たちの私を見る目が、可哀想な人を見る目だったよ。今から焼き討ちにされる人を見る目だったよ」
光秀の顔が死人のような青白いものになったころ、部屋の襖が豪快に開かれた。
「YO! 信長さまの登場だぜ!」
信長である。バカではなく信長である。新しいもの好きの信長は、このところ西洋の文化に被れているのだ。
光秀は頭を下げて平伏しながらも、ちらりと信長の表情を盗み見て、機嫌がよさそうなことを確認した。
上機嫌な信長は、鼻歌交じりに喋り出す。
「光秀よ、オレさま面白いことを思いついちゃったんだぜ。祝福してくれていいんだぜ」
「おお! さすがは信長さまにございます。信長さまほど面白いことを思いつかれる人間は、日本広しといえど他にはおりますまい」
「当然なんだぜ。ただ勘違いするなよ。べ、別にお前のために面白いことを思いついたんじゃないんだぜ!」
信長が照れくさそうにそっぽを向く。なぜこのタイミングでツンデレ? 奇想天外な信長ワールドに、光秀はただ愛想笑いを返すことしかできなかった。
「ところで光秀、お前は今川義元って覚えてるかなんだぜ?」
急にまじめな顔になった信長の口から、意外な名前が飛び出てきた。
今川義元。海道一の弓取りと呼ばれ、一時期は天下に最も近いといわれた英傑である。
しかし今川義元は、京の都への上洛の途上、桶狭間において信長に討たれた。天下に名だたる奇襲戦と評される桶狭間の戦いを経て、信長は天下統一への道を駆け出したのだ。
「はは、今川義元殿ならよく存じ上げております。信長さまがいなければ、天下を取っていたお方でしょう。そのようなお方を打ち破った信長さまは、まさしく偉大なる英雄にございます」
「そうそう、その義元ちゃんだぜ。まあ、俗にいう海道一の引き立て役なんだぜ」
酷い言いようだと思ったが、信長の言うことは基本的に酷いことばかりなので、光秀は軽く聞き流した。
「でさ、その海道一の引き立て役の息子がさ、今川氏真(うじざね)っていうそうなんだけど、なんでも蹴鞠が得意なそうなんだぜ」
光秀は今川氏真のことも知っていた。名だたる大名である今川家に生まれた氏真は、和歌などの文化にも通じた教養人である。
「オレさま、暇だったから氏真ちゃんを呼んで、蹴鞠を披露してもらうことにしたんだぜ」
信長がさらりとすごいことを言い出した。今川氏真にとって信長は親の敵に他ならない。そんな相手を呼び出すなど、無駄に身を危険にさらすようなものだ。
ここは配下として苦言を呈すべきだと、根がまじめな光秀は決心した。
「恐れながら信長さま、今川氏真殿にとって、信長さまは敵の身にございます。不用意に近づかせるのは、御身を害される危険を招くかもしれません」
「HAHAHA! 光秀は本当に普通ことしか言わないんだぜ。氏真ちゃんがオレさまを恨んでるなんて承知の上で呼び出すんだぜ」
信長はにやりと悪い顔で笑いながら言った。
「オレさま、蹴鞠なんて別に興味ないんだぜ。興味あるのは氏真ちゃんが親の敵のオレさまを前にして、いったいどんな顔で蹴鞠をするのかということ。それだけなんだぜ」
うわー、悪趣味極まりないや。光秀はドン引きしながら、いかにも嬉しそうに笑う信長のことを見つめていた。
信長との会談の日から数日後、光秀は信長とともに京の都は相国寺にいた。ここ相国寺において、信長は今川氏真の蹴鞠を観覧する予定となっていた。
「オレさま楽しみだぜ。氏真ちゃんはどんな泣き顔でやって来るのか、今からワクワクが止まらないぜ」
嫌なワクワクが止まらない信長の横で、光秀は今川氏真に同情していた。信長のようなドSに親を殺されたばかりに、ただの苛め目的で蹴鞠を披露させられるなんて、こんなに可哀想なことがあるだろうか。
黒い笑いを絶やさない信長と、顔を引きつらせながら愛想笑いを崩さない光秀の二人は、砂利のしかれた庭を眺めながら、今川氏真の到着を待った。
そして時は来た。庭の砂利を踏み鳴らしながら、ひとりの精悍な侍が現れたのである。
質素な着物の上からでも見て分かる、まるで鬼のように屈強な肉体を誇った見るからに強そうな男。その男は猛禽類のごとき鋭い目つきを信長に向け、地に響くような低い声で言った。
「……今川氏真にござる」
光秀は今川氏真の到着にほっと安堵の息をついた。なにしろ信長のことである。呼び出した氏真が万が一にも来なければブチ切れ確定だし、来たとしても遅かったりすればやはり切れるに違いない。
その点で氏真は約束の時刻よりも早めの到着だし、これなら信長も満足だろう。
そう思っていた矢先、
「おい光秀、ちょっとこっちに来い」
やけに動揺した様子の信長と目が合った。いったいどうしたというのだろう。これほど狼狽している信長は、かつて妹婿の浅井長政が裏切ったとき以来のことである。
光秀は庭で仁王立ちしている氏真を放置して、そそくさと廊下の隅へと移動する信長について行った。
信長はそのまま廊下の隅でうずくまると、光秀に耳を寄せるようにと手招きしてくる。
「信長さま、いかがなされました?」
「大変だぞ光秀。あの氏真は偽者だ」
「へ? あの氏真殿が偽者ですと? いやいや、そんなはずはございません」
光秀は仏像のように黙して動かない氏真に目を向けた。かつて光秀は氏真に会ったことがあるので、庭にいる氏真が本人であると断言できる。
なぜ信長は氏真が偽者などと言い出したのだろうか。光秀が信長の真意をつかめないでいると、当の信長が氏真を指差して声を荒げた。
「いや、だっておかしいだろ。今川なのにデブじゃないぞ!」
「どういうこと!?」
まじめな顔で何を言い出してんだこの人は。あまりに驚いているせいか、語尾まで普通になっているし。
「信長さま、あちらが今川氏真どのに間違いありません」
「そんなバカなことがあるか! 今川だったらデブに決まってる。顔だってもっとバカっぽい感じのはずだ」
「どんな偏見ですか!? 全国の今川さんがびっくりですぞ」
信長の中で今川はとぼけたデブで決まりらしい。そんな偏見を持ってしまうほどに、信長にとって桶狭間の戦いは印象深いものだったろうだろう。しかし、そもそも今川義元だってとぼけたデブではなかったはずだが。
色々と言いたいことのある光秀だったが、信長が諌言に耳を貸すはずもない。ここは取りあえず氏真への誤解だけでも解いておこうと決めた。
「恐れながら申し上げます。今川氏真殿は蹴鞠に通じるのみではなく、剣術においてもかの塚原卜伝より免許皆伝を得た達人にございます。あの屈強な侍こそ氏真殿に相違ありません」
「今川なのに?」
「今川なのにございます」
信長は未だに納得がいかない様子だったが、首をかしげながらも立ち上がり、庭で待っている氏真の前に戻っていく。光秀もそれにならった。
寺の廊下に立った信長と光秀、そして庭に立った氏真が向かい合う。今川義元を討った織田信長と、その義元の息子である今川氏真。
因縁深い二人はしばらく黙って対峙していたが、まずは信長が不敵な笑みを浮かべて言葉を発した。
「YO! オレさまが信長さまだぜ!」
陽気に名乗りを上げる信長を横目に、光秀はこんな男に親を殺された氏真は可哀想だなと、そうしみじみ思った。
「今川氏真にござる。蹴鞠をご披露すべく参上仕った」
しかめっ面で言葉を返した氏真は、胸元から鞠を取り出す。色鮮やかな橙色をしたその鞠を、氏真はいきなりぽんと高く蹴り上げた。
「前口上はござらぬ。拙者の蹴鞠をとくとご覧あれ」
ぶっきらぼうともいえる氏真の言動に、光秀は信長が機嫌を悪くするのではないかと緊張する。ここで信長が切れたら、なんの関係もない相国寺を焼いたりしかねない。
光秀はそれとなく氏真に態度を改めるよう注意しようと、口を開きかけたが、その口は開いたまま閉まることがなかった。彼は見とれてしまったのである。氏真が見せる蹴鞠の妙技に。
それは洗練された舞いであった。氏真はくるりくるり庭中を動き回りながら、青空に美しい孤を描いて落ちてくる鞠を、こともなげに蹴り上げているのだ。
風のように素早く動きまわる氏真の後を、橙色の鞠がまるで意思ある生き物かのように追いかけていく様は、さながら父親を追いかける稚児のごとく。
「……むう、なんと見事な。さすがは今川氏真殿にござる」
氏真の蹴鞠は評判以上の代物であった。本来の蹴鞠は複数人で鞠を蹴って回して行くのだが、そんな常識がどうでもよく思えてしまうほどの妙技だ。
そうだ。別にひとりで蹴鞠でもいいではないか。それがすごければいいではないか。光秀がそう納得しかけたとき、彼の目は信じられない光景をとらえた。
「こ、これは! 氏真殿が四人に!」
いつの間にか氏真が増えていた。そんなはずはないが増えていた。四人の氏真が庭で蹴鞠をしていた。
もちろん今川氏真は世の中にひとりしかいない。ではなぜ四人に増えたのか。
「さては分身か!」
鍛錬を積んだ忍者は分身の術を使えるという。忍者に出来るくらいだから、蹴鞠の達人である氏真に出来たところで、何もおかしくない。本当に何もおかしくない。
おそらく氏真は目にも止まらぬ高速で移動しながら、一定の四箇所でのみ動きをあえて止めているのだ。その緩急の差により、見る者の目は錯覚を起こして氏真が分身しているように見えるのだ。
「いやー、これは参りました。今川氏真殿は天下一の蹴鞠の達人ですな!」
これだけすごい蹴鞠なら、信長だって満足だろう。光秀はちらりと信長に目を向ける。
「ぐぬぬ……」
信長は歯軋りしていた。
「なにゆえ!?」
いやいやいや、なにゆえの御立腹? 氏真はすごいことしてますよ。鳴らすなら歯じゃなくて拍手でしょうが。
「の、信長さま、なにか御気に召さぬことがございましたか?」
おそるおそる質問した光秀に向けて、信長の鋭い叱責が飛ぶ。
「当然だぜ! オレさまは氏真が敵の信長を前に萎縮して、失敗したところをネチネチと嫌味で責めたかったんだぜ!」
悪趣味! どんだけ苛めっ子なの!
「こうなったら仕方ないんだぜ。オレさまはこういう可能性を想定して、別の策も用意していたんだぜ」
ドン引きしすぎて言葉も出ない光秀を尻目に、信長は極悪な顔でほくそ笑むと、寺の奥に向かって大声を上げた。
「おーい! 出番なんだぜ!」
信長の呼び声を引き金にして、寺の奥から身も凍るような殺気が漂ってきた。いったい何事なのか。あまたの戦場を駆け抜けてきた光秀をもってしても、背筋に冷や汗が浮かぶのを抑えられない。
冷気はどんどん強まっていき、やがて寺の奥から黒装束の男が表れた。
「HAHAHA! こちらは氏真が調子こいたときお灸を据えるために雇っておいた、闇の蹴鞠士なんだぜ」
「や、闇の蹴鞠士?」
光あるところに闇がある。光の蹴鞠業界があれば、闇の蹴鞠業界もある。信長の呼び出した闇の蹴鞠士の放つ殺気に、光秀はただただ圧倒された。
「ヒャーヒャハハハ! この闇の蹴鞠士が来たからには、今川氏真の命日は今日に決まりだぜー!」
けたたましい笑い声をともに、闇の蹴鞠士が庭に向かって勢いよく走り出す。そして高々と跳躍。空中でぐるんぐるんと回転して、豪快に砂利の地面に着地を決めた。
「俺の名は兎。なぜ兎かというと、俺と対戦した蹴鞠士は、みな兎の目のように真っ赤に染まるからだ。己の血でな!」
なぜ蹴鞠で血が出るのか。光秀には全く理解できなかったが、そもそも闇の蹴鞠士という存在からして理解できないので、ただ黙って成り行きを見守るしかなかった。
「……兎よ。蹴鞠に言葉は不要。語るより蹴れ」
立ち止まってひとりに戻った氏真が、蹴り上げていた鞠を手にして、兎のことを鋭く睨みつける。どう考えても不審者の兎を前にして、氏真は少しも気後れしていない。その豪胆な姿に光秀は感嘆の声を上げた。隣で信長は舌打ちをしていた。
「ヒャハハ! 言われるまでもねーよ。俺の蹴鞠で死合といこうぜー!」
兎が黒装束の胸元から、真っ黒の鞠を取り出す。その鞠を兎が氏真に向けて蹴りつけた。
地面を這うようにして、黒色の鞠が弾丸のように氏真目掛けて飛んでいく。
「おっーと、言い忘れていたことがある。その鞠は飛ぶぜ」
不意に兎が何事か告げたかと思うと、なんと地面すれすれを飛んでいた鞠が、氏真の足元で爆発するかのように空に向かって発射された。その軌道は完全に氏真の顔面を捉えている。
危ない。そう光秀が叫びそうになったときには、すでに氏真が顔を傾けて鞠を避けた後だった。
まさしく一瞬の攻防であった。まさか鞠がいきなり軌道を変えて空高く飛び上がるとは、闇の蹴鞠士は大したものだ。光秀は素直に感心した。
だがそれ以上にすごいのは、やはり氏真だ。予想外な動きをする鞠を間一髪避けるなんて、なかなか出来るものではない。
と、氏真に目を向けた光秀は、氏真の頬から血が流れていることに気がついた。
「ヒャーハハハ! あとちょっとでお前の顔がザクロみたいになってたのによ。残念無念だなーおい」
「なんで!?」
光秀は思わず突っ込んだ。なんで蹴鞠で出血を伴うの。なんで蹴鞠で顔面がザクロになるはずだったの。あの黒色の鞠はなんなの。
光秀の疑問に答えてくれたのは、兎ではなく氏真だった。
「明智殿、兎とやらの蹴った鞠からは、遠目には分からぬほど薄く研ぎ澄まされた無数の刃が飛び出ておりました」
「な、なんと……」
これが闇の蹴鞠士の所業なのか。恐るべし。
「クーククク、俺の鞠の秘密を見破るとは、なかなかやるじゃねーか。だがな、一発避けたくらいで余裕ぶっこいてんじゃねーよ!」
兎が再び黒装束の胸元から、またまた真っ黒の鞠を取り出す。そして素早く氏真に向けて蹴り飛ばした。
光秀の目には普通の鞠にしか見えないが、先ほどのことを考えればただの鞠とは思えない。今度の鞠にはいかなる凶器が隠されているのか。
近づく鞠という名の凶器。それを動じることなく見つめている氏真。鞠と氏真が接触しようとした瞬間、兎がさも嬉しそうな笑い声を上げた。
「イヤッハー! その鞠は爆発するんだぜぇぇぇぇっ!」
あっと思ったときには、轟く爆音と衝撃が光秀を襲った。
目を覚ました光秀が見たのは、爆発により荒れ果てた庭と、その庭の中央で不敵な笑みを浮かべる黒装束の兎だった。
きょろきょろと辺りを見回すが、今川氏真はどこにもいない。
「おいおい光秀さんよー、そんなに探しても氏真のヤロウはいねーよ。ヤロウは爆発の直撃を受けて、どっかに吹っ飛んでったのさ」
兎の言葉を受けて、光秀は氏真の捜索をいったん打ち切ることにした。離れていた光秀ですら吹き飛ばされる爆発だったのだ、たしかに直撃を受けた氏真はただではすまなかっただろう。最悪の場合、すでに死んでいることすら考えられる。
それならば、氏真の捜索よりも優先すべきことが、光秀にはあった。信長の捜索である。
「信長さまー! どちらにおられますか信長さまー!」
光秀はどこかにいる信長にちゃんと聞こえるよう、とにかく大声を上げた。別に信長の安否はどうでもいいし、むしろ死んでいてくれたほうがよかったりもするのだけど、性格の悪い信長のことだから、身を隠して光秀のことを観察しているかもしれない。
ここは主君への忠誠心を見せるところだ。光秀はわが身の保身のために、信長の名を叫びながら、おざなりな信長捜索を進める。
光秀は庭から寺の中に視線を移した。庭の様子もひどいものだったが、寺の中もすっかり変わり果てている。襖は全て吹き飛んでいるし、廊下の板もところどころが陥没していた。
「信長さまー!」
「……こ、ここなんだぜ」
かすれるよう声だったが、たしかに光秀は信長の声を耳にした。チっと舌打ちしそうになるのをこらえる。
「ご無事ですか信長さま!」
光秀は声のしたほうに一目散にかけよる。吹き飛ばされた襖がうずくまって小山のようになったところを掘り返すと、中に埋まっていた信長を見つけ出せた。
「びっくりしたんだぜ」
いつもより覇気のない笑みではあったが、このような状況下でも余裕の態度を崩さない信長は、まさしく天下人であった。なにせサムズアップしているくらいである。
光秀は信長を無事に発掘すると、庭で薄ら笑いを浮かべている兎に目を向けた。
「貴様! 信長さまがいるのに鞠を爆発させるとは、なんたる狼藉か。この始末はただでは済まんぞ!」
光秀が兎を一喝すると、信長が光秀の肩に手を置いた。
「待つんだぜ。そう怒鳴ることないじゃないかなんだぜ。兎ちゃんも氏真ちゃんを倒すのに必死だっただけなんだぜ」
信長の言葉とは思えない寛大な内容に、光秀は驚愕の表情を浮かべた。嘘だろ。ホトトギスが鳴かないだけで殺す人が、爆発で吹き飛ばされといて怒っていないというのか。
「兎ちゃんの処置は、このオレさまに任せておけばいいんだぜ」
さっきまで埋まっていたとは思えないほど、しっかりとした足取りで信長が兎に向けて歩み寄る。
庭に立つ兎と、廊下に立つ信長。不穏な笑みを浮かべた二人が対峙する。
「YO、兎ちゃん。なかなか面白い芸だったぜ」
「ヒャハハ、それほどでもありませんなー」
兎の不敵な言葉を受け、信長が豪快な笑い声を上げた。さも愉快そうな笑い声だったが、しかし信長に付き従ってきた光秀は、信長の目が全然笑っていないことを見て取った。
あ、これ怒ってるわ。
やがて笑いをおさめた信長は、庭より一段高くなっている廊下から、じろりと兎を見下ろしながら言った。
「いやいや、このオレさまを吹き飛ばすなんて大したもんだぜ。褒美にお前の頭蓋骨は金箔を張って面白仕様にして、正月にみんなへの見世物にしてやるんだぜ」
叫ぶでもない静かな調子ではあったが、その声の放つ凄みは爆弾よりも強烈だった。信長はやるといったら必ずやる男だ。今この瞬間、兎の運命は面白見世物に決定したのだ。
こうなると兎も哀れだな。そう思った光秀が兎に憐憫の目を向けると、なんとあろうことか兎が笑っているのだ。
さもおかしそうに笑う兎。その顔を見て青筋をぴくぴくさせている信長。信長の怒りが大きくなれば、関係のない光秀にまで災難が及ぶ可能性がある。
光秀はわが身かわいさに兎に忠告した。
「ええい兎よ、もう笑うではない。そうやって笑えば笑うほど、どんどん処刑方法が苦しいものになっているのだぞ」
「……ちなみに現時点で生きたまま火あぶりだ」
光秀の真摯な忠告と信長の残酷な予告を聞かされてなお、兎は笑うことをやめようとしない。
「ヒャーヒャハハ! これが笑わずにいられるかよ。この俺を殺すつもりらしいが、残念なことに殺されるのは、貴様のほうなんだよ信長!」
兎がそう言い放ったかと思ったら、彼の足元に空からぽんと黒色の鞠が降ってきた。その鞠は今川氏真の頬に切り傷を作ったものに違いない。空高く飛び上がっていた鞠が、ようやく落ちてきたのだ。
直撃していたら氏真の顔面をザクロにしていたという鞠。その鞠が再び兎の元に戻ってきたという事実に、光秀は悪寒を覚えずにはいられなかった。
「信長よ、貴様はこの俺を雇ったつもりらしいが、それは大きな間違いなんだよ」
兎は黒色の鞠に当たり前のように足を置いている。氏真いわく、無数の刃が突き出ているはずの鞠を、まるでごく普通の鞠のように扱っているのだ。
「いいか信長、我々のような闇の蹴鞠士はな、古来より権力の調整を行ってきた。ある権力者が力を持ちすぎるようなら、その権力者を人知れず暗殺してきた。権力の調整こそが、闇の蹴鞠士の役目なんだよ」
兎の口から放たれた衝撃の事実に、光秀は言葉も出なかった。
古来より権力者を暗殺してきた闇の蹴鞠士。その言葉が真実なら、闇の蹴鞠士こそが日本を影から動かしていた黒幕ということになる。蹴鞠士のくせに黒幕とは、これいかに。
「ヒャーヒャヒャヒャ! 信長ぁぁぁぁっ! お前は権力を持ちすぎた! 天下に近くなりすぎた! 強大な権力者ってのはよ、危険な存在なんだよ。だからお前は、今この場で俺に処刑されちまうのさ」
凶悪な笑みを浮かべた兎と信長が睨み合う。さすがの信長も言葉がないのか、ただ黙って兎を睨み返していた。
このままでは不味い。兎の蹴り放つ鞠は、火縄銃よりも危険な代物だ。今この場で対決するのは、こちらが不利。
「信長さま、ここは私に任せてお逃げくだされ!」
光秀は信長を庇うべく、体を盾のように前に出した。
「ヒャッハー! 二人まとめてザクロにしてやるよぉぉぉぉぉっ!」
兎が咆哮を上げながら、黒色の鞠を強烈な勢いで蹴り放つ。黒色の弾丸が唸りを上げて飛来する様子を見つめながら、光秀はどこか人事のように感じていた。
「……これは死んだな」
「いや、お主らは死なせぬ」
背後から聞こえる轟音。黒の鞠が風を切り裂き飛来するなら、背後から迫り来るのは風を突き破る弾丸。その弾丸は鮮やかな橙色をしていた。
光秀のすぐ目の前で、黒と橙がぶつかり合い、弾けるように分裂した。
黒色は兎のもとに。橙色は光秀の背後に。
「兎よ。信長公に手を出すのは、拙者との決着をつけてからだ」
振り返った光秀の目に飛び込んできたのは、橙色の鞠を手にした今川氏真だった。鞠爆弾の直撃を受けながら、氏真は健在だったのだ。
氏真は光秀と信長の横を通過して、迷うことなく庭に降り立つ。これでもかと氏真に対して悪意を爆発させていた信長も、今このときは何も言わなかった。
光秀も言葉を発すことなく、庭で相対する氏真と兎を見つめる。
氏真と兎。光と闇。二人の蹴鞠士は、手を伸ばせば届く距離で睨み合う。
「ヒャヒャ、死に損ないが格好つけやがって。もう満身創痍なんだろ? 優しい俺がとどめをさしてやるよ」
「蹴鞠士に言葉は不要と言ったはずだ。語るより蹴れ」
ただならぬ緊張感が場を支配する。光秀はまばたきするのも忘れて、二人の蹴鞠士の一挙一動に注目した。
先に動いたのは氏真だった。彼は手にしていた橙色の鞠を、本当に何気ない様子で地面に落とした。
次の瞬間、氏真は橙色の鞠を、兎は黒色の鞠を、お互いに蹴り合う。
ぶつかり合う橙色と黒色。それは先ほどの再現といえたが、今回は氏真と兎、二人がそれぞれ自分の鞠を蹴りつけた状態のままなことが異なっている。鍔迫り合いならぬ鞠迫り合いであった。
力と力のぶつかり合い。それはまさしく、鞠を介した男と男の意地のぶつかり合い。火花散る男の勝負。
「イヤッハァァァァッ! 闇の蹴鞠士をなめるんじゃねぇぇぇぇぇっ!」
「うおぉぉぉぉぉぁぁぁぁぁぁっ!」
両者一歩も譲らず! 拮抗する黒と橙!
氏真と兎のぶつかり合いに、先に屈したのは二人のうちの一方ではなく、地面であった。地を揺らすような轟音とともに、二人の周囲の地面が陥没する。
蹴鞠士のぶつかり合いが大地を割ったのだ。
「こ、これが蹴鞠だというのか」
光秀は目の前で繰り広げられる光景に、ただただ恐れおののくことしか出来なかった。自分の知っている蹴鞠と違う。それは間違いない。しかし、それがどうしたというのか。そんなのは些細なことだ。重要なのは氏真と兎、二人が真剣勝負を繰り広げているということだ。
男が互いに真剣勝負をしているのだ。蹴鞠だといって勝負しているのだ。それなら蹴鞠だ。蹴鞠の勝負だ。
「光秀、よく見ておくがいい」
不意に背後から響くのは、やけに澄んだ信長の声。
「この勝負の行方が、日本の未来を決める」
信長の言葉に、光秀は黙ってうなずいた。いきなりどうしちゃったのとも思ったが、黙って空気を読むのが光秀のやり方。だから見届けよう。氏真と兎の戦いを。蹴鞠という名の生き様を。
激闘は続く。氏真と兎、二人の力のせめぎ合いは、まさしく互角。勝負を分けるものがあるとすれば、それはいったい何か?
答えの出ないまま勝負は進む。そして鞠を介した力勝負の決着は、両者引き分けに終わった。
蹴鞠弾が爆発したとき以上の衝撃で、空気が爆ぜたかと思うと、橙色と黒色がお互いに分裂するように吹き飛んでいったのだ。
鞠が吹き飛んだことにより、氏真と兎の両者も吹き飛ぶ。まるで矢のような勢いで宙に飛ばされた二人であったが、どちらとも空中に体勢を取り戻し、華麗に地面に着地した。
二人はほぼ同時に地に足をつけると、言葉も発さないままに走り出す。二人ともお互いの獲物である鞠を確保しようというのだ。
先に鞠を確保したほうが、この勝負を決める。戦いは力の勝負から速さの勝負へと移り変わった。
まるで風のような速さで二人が駆ける。この速さなら、おそらく二人ほぼ同時にそれぞれの鞠に到着する。光秀はそう予測した。速さの勝負も互角なのだ。
ならば、いったい何が勝負を決するのか?
光秀のその疑問に回答を提示したのは、兎の嗜虐的な笑い声だった。
「氏真! 爆弾はもうひとつあるんだよぉぉ!」
なんということか。兎は走りながならも黒色の鞠を取り出すと、それを氏真に向けて蹴り飛ばしたのだ。
轟音! 空中高く吹き飛ばされる氏真。地に残された橙色の鞠が、口惜しそうに揺れた。
「ここまでだぜ氏真、勝つのは俺だ。勝つのは闇の蹴鞠士なんだよ。ヒャッハー!」
猛獣のように吼えながら、兎が黒色の鞠にたどり着く。空中にいる氏真には、もはや兎の蹴り放つ鞠を避ける術はない。
勝敗は決した。勝ったのは兎だ。兎の勝ちに対する卑怯なまでの執念が、勝負を分けたのだ。
「……ここまでか」
光秀の発した苦渋の言葉。しかしそれに対して、力強い声が返された。
「まだだ。まだこの信長がいる!」
「信長さま!?」
織田信長が駆ける。突然のことに虚をつかれたのか、兎は鞠を蹴るのも忘れた様子で、呆然と信長の動きを見つめていた。
光秀と兎に見つめられながら、信長はある場所で立ち止まる。
そこには橙色の鞠が転がっていた。
「受けろ氏真!」
咆哮とともに信長が鞠を蹴り上げる。空高く蹴り上げる。宙に飛ばされた氏真に向けて、信長が橙色の鞠を託したのだ。
「お、おのれ信長! 貴様、まさか最初から!?」
兎の唸り声を浴びながら、信長は不敵に微笑んだ。どこまでも信長らしく、何者も恐れず不敵に微笑むのだ。
「この信長の天下に、貴様らのような存在は必要ないのだ」
まさか。光秀の脳裏にひとつの考えがよぎる。まさか信長は、最初から闇の蹴鞠士を引きずり出すために、今回の蹴鞠舞台を用意したのか。影から歴史を操っていた闇の蹴鞠士を根絶やしにするため、今川氏真を呼んだのか。信長はうつけを装っていたのか。
「さあ、闇の蹴鞠士よ、いつまでものんびりしていてよいのかな?」
信長はゆったりとした動作で、空の一点を指差した。
その指差す先にあるのは、青空に浮かぶ太陽。光り輝く太陽。
「決めろよ氏真。貴様の父が海道一の引き立て役なら、この信長は天下一の引き立て役よ!」
光秀の目に、太陽の中に浮き上がる橙色が飛び込む。もう目を凝らす必要もない。信長の託した橙色の鞠。それがあるところに、今川氏真もいる。
「ち、ちっくしょうっ!」
破れかぶれといった様子で、兎が太陽目掛けて鞠を蹴り上げる。触れたものを切り裂く鞠は、しかし今の光秀には何の脅威にも見えなかった。
なぜならば、すでに勝敗は決しているのだから。
「信長公、確かに受け取り申した!」
太陽の光を浴びながら、氏真が鞠を蹴り放つ。
急降下する橙色は、上昇してくる黒色とぶつかり、それを容易く貫いた。闇を照らす光のように。
そして光は、大地まで降り注ぐ。
「ぬ、ぬぐぁぁぁぁっ!」
鞠を受けた兎は、なぜか爆発した。
目を覚ましたとき、光秀は地面に横たわっていた。兎の爆発による衝撃で意識を失っていたのだろう。
ふらつく頭をおさえながら、光秀はよろよろと立ち上がる。
「ようやく起きたんだぜ。このオレさまを待たせるなんて、いい身分なんだぜ」
振り返ると、そこには信長が立っていた。まるで先ほどまでの姿が嘘のように、すっかりバカなおっさんに戻っていた。
「……すべて終わったのですね」
「もちろんだぜ」
「氏真殿は?」
「行っちまったぜ。また次の蹴鞠の舞台を求めて、あいつは行っちまったんだぜ。そう、まるで一陣の風のように行っちまったんだぜ」
信長は空を見上げた。光秀が気絶している間に、時刻はすでに夕暮れになっており、空は茜色に染まっている。
夕焼けの光を浴びた信長の横顔が、光秀にはどこか寂しげに見えた。
ここは何かしら気の効いた台詞をいって、信長の機嫌をよくしなければならない。そう思った光秀は、見切り発車で喋り出した。
「信長さま、天下というのは、蹴鞠に似ているのかもしれませんな」
信長が不思議そうな顔でこちらを向く。光秀も自分で何を言っているのかよく分からなかったが、取りあえず雰囲気で押し通すことにした。
「あれですな。蹴鞠というのは鞠を蹴って回すものですな。そう、それはまるで、親から子に家がつがれていくように。天下もそれと同じです。時代の英雄が、信頼できるに足る相手に天下を託していくのでしょう。鞠を蹴って渡すように」
そう早口に言い切ってから、光秀は空に浮かぶ夕焼けを遠い目で見つめることで、いかにも自分がいい台詞をいったかのように演出する。
しばらくの沈黙。やがて信長が口を開く
「光秀、お前なに言ってんの?」
すごく冷めた顔で見られていた。完全にバカを見る目で見られていた。
「いや、ないわ。そういうのないわ。別にそういうの求めてないから。天下と蹴鞠って全然別物だから。つーか、そういう意見発表とか誰も求めていないから。ねえ、なんでいきなり喋り出したの? ねえなんで?」
信長がねちねちと責めてくる。
明智光秀。本能寺での謀反を決意した瞬間であった。