2012年小説夏祭り企画優勝作品
納品・レジ打ち・客対応!
2012年08月04日(土)21時06分 公開
【選択したジャンル】
コメディ× 業界
【選択したお題】
オレンジ・うさぎ・殺人鬼
【一行コピー】
苦しい・疲れた・もうやめたでは、スーパーの店舗担当者は務まらない。
【作者コメント】
祝・夏祭り開催! まずは今企画を主催してくださったうさまさんに厚く御礼申し上げます。そして、ジャンル追加で『業界』を推薦してくださった方、おかげで今作を投稿することができました。本当にありがとうございます!
今回、『業界』というジャンルは後から追加されたということもあり、おそらくそう多くは投稿されないはずだと睨んでいたのですが……あれ、ない!?
ひょっとして追加されていたというのは私の勘違い? などとルールを確認してみましたが、ちゃんと入っておりました。ふう、一安心。
『業界』ということで、今作は小売業、平たく言えばスーパー、もう少し詳しく言うとディスカウントストアを舞台としています。一応これも『業界』です……よね?
今回の夏祭りを少しでも盛り上げられるよう、今作がその薪の一本になれれば幸いです。
それでは、いらっしゃいませっ!
……あっ、間違えた。よろしくお願いいたします!
~ 店長からの電話はろくなことがない ~
携帯から響き渡る無機質な呼び出し音に、俺の背筋が悪寒で震えた。
時刻は朝八時半。ディスプレイの『店長』という二文字に、悪い予感が滲み出す。
今日は日曜だが、スーパーで働く身には日曜イコール休みなどという考えはない。むしろ忙しいくらいだ。
大きく深呼吸して、通話ボタンポチ。
「……はい」
(あっ、もしもしー、僕)
わかるよ携帯で連絡してんだから、という不機嫌そのままな横槍を呑み込み、「何でしょうか」と返す。
(実はさー、さっき朝のパートさんから連絡があって、急に子供が熱出しちゃったから出られないらしんだよねー。悪いんだけど代わりに出てくれない?)
「……マジっすか」
起きたばかりの頭が眩暈して、体がよろけた。
常時二人しかいない店だから、一人休むだけで深刻な危機に陥る。管理の難しい生鮮がないからできることだが、それでも二人は酷い。
「や、でも俺が店に行くまで二時間はかかりますよ。絶対開店遅延になります。店長の方でどうにかできませんか?」
俺は電車通勤なうえ、そこそこ店舗から遠い家に住んでいる。少なくとも今から準備して出発したところで、十時の開店には間に合わない。
(うーん、パートさんが鍵開けとレジの立ち上げはしてくれるらしいから大丈夫。朝はお客さんも多くないだろうからしばらくは一人で回せるしー)
「……マジっすか」
(うん、だからさー、できるだけ急いでー?)
『店長』と呼ばれていても、正式名称は『エリアマネージャー』といい、複数店舗を見ている。だから一店舗に応援で来ることは稀なので仕方ないと言えば仕方ない。
が、少ない希望に賭けて言ってみる。
「あの、俺明日『通し』なんですけど」
『通し』とは、開店から閉店までずっと作業をすること。開店作業が朝九時から、閉店作業が終わって店を出るのが夜十二時なので、休憩込みで十五時間働くことになる。ただでさえ今週は水曜からチラシで忙しいのに、こんな緊急出勤は勘弁してもらいたいのだが。
(ごめーん、今日休みだからムリー)
ぶん殴ってやろうかと握りしめた拳をどうにか広げ、「わかりましたっ」と吐き捨てる。自分でも失礼だなと思う声だったが、ニコニコ取り繕えるような精神状態じゃなかった。
「行きます行きますよ。わざわざ休みの日に申し訳ありませんでしたっ」
(うんうーん、気にしなくていーよー?)
嫌味で言ってんだよ! わかれよ!
通話を切り、携帯をベッドに投げつける。大きく弾んだ携帯を追った目がカレンダーに止まり、改めてため息をついた。
……俺、こんなことするためにこの会社入ったのかなあ。
入社からまだ半年も経たないが、よくそんなことを最近よく思う。
やりたいことや目標があって入社したわけじゃない。『お祈りします』を繰り返し、ようやく拾ってくれたこの会社にほとんど流されるように社員となった。今の会社に不満があるというのなら、その非はいい加減に就職を決めた俺にある。
けど。
「……俺、この会社で働いてていいのかなあ」
ぽつりと漏れた独り言は、エアコンの音に紛れてすぐに消えた。
~ お客様は神様ですか? ~
「今村くーん」
レジから聞こえた声に、品出しをしていた手を止めそちらを見る。
レジを打っていたのはパートの田中さんだ。お子さん二人はともに社会人というおばちゃんだが、気さくな人で、彼女とちょっとした話をするのは荒んだ仕事生活の中の小さなオアシスとなっている。
そんな彼女が鼻をつまみ、俺にサインを送る。その意味を察し、こくりと頷くと入り口の自動ドアに向かった。
むわっ。
鼻を突く刺激臭に、寝不足の頭が揺れる。
近所の公園に住む浮浪者が店に入ってきたのだ。ボロボロで薄汚い服を着て、髪は伸び放題のボサボサ、風呂に入る環境ではないらしく、臭いは半径数メートルまで届く。
通り過ぎていくお客さんも、嫌そうな顔をしてそそくさと離れた。
俺の前に店舗担当者だった人は、その人について回り消臭スプレーをかけ続けた(!)らしいが、流石にそこまでやる勇気はなかった。自動ドアを開放し、風通しを良くして少しでも臭いを消す努力をする。八月の熱気が入り込んできたが、臭いよりマシだ。
しばらくして、『二番レジ解放お願いします』のアナウンスが流れ、レジに向かう。並んだ三人のお客様のうち、二番目のお客様の籠をもち二番レジに案内しようとして――
それが例の浮浪者であることに気づき、顔が引きつった。
「……コチラノレジヘドウゾー」
若干片言になりつつ、籠を持って二番機へ。ホームレスという人たちがどういった手段でお金を稼ぐのか知らないが、週三・四回は店に来て買い物をしていく。
商品をスキャンしている最中、後ろに親子連れが並んだ。子供はまだ四歳くらいの小さな男の子だ。
「お会計、七百五十九円になり――」
「おかあさん、なんか臭いよ」
「フゴッ」と吹き出してしまった。ノロノロとした動作で財布を漁る浮浪者を待つ間に母親の様子を見ると、小さく首を横に振っている。静かにしなさいという意味なのだろうが、子供に大人の空気の読み方などわかるはずがない。
「おかあさん、なんかここ臭い。なんか臭い」
なんか臭い、を連呼する子供に、しっと指を唇に当てて黙らせるが、それでも彼は臭いと言い続けた。無理もないだろう、だって臭い。
ようやく浮浪者が会計を終え、サッカー台(買った商品を買い物かごからレジ袋に移す所)に移動し、親子連れの会計に移る。と、母親が俺の顔を見て申し訳なさそうに会釈した。
苦笑いを浮かべつつ、いえいえ、と会釈を返す。子供のすることだから怒っても仕方ない。
むしろ良く言ってくれた。グッジョブ、少年。
母親に見えないように子供に親指を立てると、子供は不思議そうに首を傾げた。
~ 叱責のメール ~
本部からの指示は、緊急のものでなければメールで来ることが多い。
作業効率重視の為、パソコン一台はレジ二台に囲まれた中にあり、レジに入りながらでもメールを見られるようになっている。
田中さんに休憩に入ってもらっている間にメールチェックを済ませる。同時に不要なメールの削除もしていくわけだ。
「……ん?」
その中に『振替作業不備について』という件名の、店長からのメールを見つけ、顔を歪めた。
商品を本部に振り替えた際、誤って店舗控えまで送ってしまうという初歩的なミスをしてしまったのだ。気づいたときには出荷済みで、そろそろ連絡が来るだろうとは思っていた。
店長は電話や直接話すときはふにゃふにゃした話し方をするが、メールでは一転して毒を吐く。
怒られるのかなあ、と戦々恐々しつつメールを開く。
『論外です』
一言で切り捨てられた。
~ 噛んだ ~
田中さんは十九時で退勤となり、代わりに大学生の千石鈴奈がやってくる。
茶色のショートヘアで体格は小柄、つり目気味の大きな瞳は人を警戒する猫を連想させた。彼女はいつも無地の漢字入り白Tシャツに黒いハーフパンツと極めてラフな格好で来る。
今日の文字は『閻魔蟋蟀』。見た目カッコいいのに読めた途端に迫力が失せる特異な言葉だった。
「じゃあ千石、田中さんと交代でレジお願い」
「……」
ろくに返事もせず、エプロンをつけて売場へと出ていく。これでただの無愛想なら注意のしようもあるのだが。
「どうだった?」
聞いてきたのは田中さんだ。彼女がレジで違算を出していないか、精算をしているところだ。
「え? ああ、今日も違算ゼロです」
「やた、ブイ」
ブイサインで喜びを表す田中さんに、思わず笑みがこぼれる。
「じゃあ、また明日」
「はい、お疲れ様でした」
頭を下げて彼女が事務所から出ていくのを見送ると、ドロアーに蓋をしてレジへと持っていく。
一号機レジにドロアーをセットすると、千石が二号機から一号機へレジを移る。ちょうどお客さんもタイミングよく切れてくれた。
「……何すればいい?」
千石が相変わらず不機嫌そうな声で聞いてくる。四六時中レジに客が並ぶような店ではないので、レジ担当者にも作業を任せることは多い。
「うーん、いつも通りかな。飲料と見える範囲の食品のメンテナンスお願い。休憩は八時半から三十分、九時から日配品の明日期限の値下げ、十時過ぎたら冷蔵什器のお酒の補充も。何かあったら放送で呼んで」
いつも通りの作業を伝えた後、「あと」と付け加える。
「レジにお客様が並んだら、できるだけ早く俺を呼ぶように」
「……はい」
無愛想な低い声で応じ、彼女はタイミング良く来たお客様に向き直った。
「いらっしゃいませー!」
途端に無愛想は消え失せ、スマイル豊かな挨拶が響き渡る。
「こちら三点で、五百五十円でございます!」
この笑顔を、どうして俺の前では出せないのか。
まあ嫌われてるんならしょうがないかと諦め、その場を離れようとした時だった。
「四百五十円のおつりでござるっ!」
噛んだ!
お客様さんがおつりを受け取る手を止めた。ポカンとしたもののすぐにニヤリと笑う。
「ん、かたじけない」
ノリの良いお客さんだった。
この後彼女の前に回り込み、涙目で顔を真っ赤にする千石をニヤニヤしながら見つめていたら、カッターがついたままのガムテープを投げつけられた。
危なッ!
~ ちりしある ~
「ちりしある?」
「は?」
思わず聞き返してしまい、お客様の顔が曇った。神経質そうなお婆ちゃんだ。
「だから、『ちりしある』って聞いてるの」
そう言ってギロリと睨んでくる。
ちょっと失敗すると即クレームになりそうなお客様なので早々に対応を終わらせたいのだが、何を言っているのかわからない。
『ちりしある』って何だ? コーンフレークのことか?
でもあれは『シリアル』だよな。
「お客様、『シリアル』でよろしいでしょうか?」
「はあ?」
露骨に不機嫌な顔になった。まずい、怒らせたか?
「『ちりし』よ『ちりし』」
「……あー、失礼しました」
なるほど、『ちりしある』は『ちりし、ある?』に分けるのか。
で、『ちりし』をお探しと。
……『ちりし』ってなんだ。
「お客様、『ちりし』とはどういった商品でしょうか?」
「ちりしはちりしよ。そんなこともわかんないの?」
「……申し訳ありません、少々お待ちください」
ぐっと奥歯を噛みしめ、いったんその場を離れると千石にヘルプを求める。ちょうどお客さんも途切れたところだった。
「千石、『ちりし』ってわかる?」
彼女は首を傾げると、小さく横に振った。
「さあ。外国の『チリ』とか?」
「ああ成程、『チリ市』が欲しいと。……てあるわけねーだろ」
「違くて、だから『チリ』に関する何かってこと。チリソースとか、チリペッパーとか」
「……あー、そういうこと、なのか?」
一応納得し、「ありがと、助かった」と礼を言ってお客様のところに戻る。
「お客様、『チリソース』でよろし……くないですね、申し訳ありません」
ものっそい睨まれた。次ミスったらガチでクレームだな。
唾を飲み込み、必死に頭を巡らせる。
ちりし、ちりし、ちりし……あ、ひょっと『ちり紙』って書くのか? つまり探しているのはティッシュ。
「お客様、ティッシュでよろしいですか?」
「『ちりし』って言ってるでしょ!?」
めっちゃ怒られた。結構良い線行ってると思ったのに。
そうなるともう八方塞り、どうしたものかと考えていると、「あっ、あるじゃない」とお客さんがティッシュの方に向かった。
なんだよ、やっぱりティッシュじゃないか。
目的の物を見つけたからか、お客様は上機嫌だった。この分ならクレームにはならないだろう。
お客様はティッシュを選びつつ、
「今の若い子は『ちりし』って言わないのかい?」
「そうですね、ティッシュって言うことが多いですね」
「ふーん、時代かねえ」
彼女が二度三度と頷き、ようやく決めたらしい二つティッシュを手に取ると、腑に落ちないといった感じで呟いた。
「みかんをオレンジって言うようなもんかねえ」
「……そうですねえ」
その例えはどうだろうという気はしたが、否定して長引かせるのも面倒だった。
後日、この『ちりし』のお客様の話を田中さんにしたところ、「私はティッシュって呼んでるわよ、まだ若いから」と胸を張られた。
ちょっと萌えた。
~ やる気スイッチ ~
閉店時刻が近くなると、自然と客足も少なくなってくる。
店内BGMが少し大きく聞こえてくる時間帯でも、時折家族連れが来ることがある。広い店内に小さい子供が興奮して走り回ったり大声で叫んだりすることもあるが本気でやめてほしい。迷惑というのもあるが、重いものを持って歩くこともあるので、とにかく危ないのだ。
そんな子供にイライラしつつ(今いるのだ)、棚上在庫を棚に補充する作業をする。
明日明後日と通しなので丸三日仕事漬け、今日の叱責のメールといい落ち込む要素には事欠かず、気力の湧かないまま棚上からお菓子のケースを下ろす。
ふう、とため息しつつ、何となく聞き覚えのあるフレーズを呟いた。
「……やる気~スイッチ俺のはどこにあるんだろ~」
「カンチョー!」
「アウッ!」
ガキが俺の尻にカンチョーしやがった!
悶絶しつつ尻を押さえて振り返ると、颯爽と店を出ていく小学生らしい子供の姿が見えた。
涙目に見送り、ぼそりと呟く。
――くそ、俺のやる気スイッチは肛門じゃねーぞ……。
~ やる気スイッチ その二 ~
翌日月曜日。
今日は開店と閉店の両方をしなければならないので、九時前に店についた。
いつも九時に来るバイトの子と二人で、日配品の品出しや清掃などの朝の作業をやることになっている。
のだが。
バイト来ねえ!
今日来る予定の北村君(大学生)はあまり勤務態度の良い子ではなく、今までにもこうした遅刻・無断欠勤があった。俺も店長も不安視している子ではあるが、人手不足の当店にクビにする余裕はない。
店長に緊急連絡したところ、『田中さんに早く来てもらって、それまでは今村君がレジ入ってて』というお返事をいただいた。要するに『しばらく一人で何とかしろ』ということらしい。
で、開店してからかれこれ一時間近く一人で店を回している。そろそろ田中さんが来てくれる時間なのだが。
と、レジにお客さんが並んだ。
昨日の『臭い客』と似たような若干汚い服装で、おそらくホームレス。歳は五十近いおっさんだが、微妙に化粧をしている。
「あ、いらっしゃいませー」
「あら、可愛い子ね」
だみ声の女喋りに、背筋が震えた。
「どお? あたしと遊ばない?」
――ヤル気スイッチ入ってる!?
「――っ、失礼いたします!」
脱兎のごとくレジを抜け出し、ちょうど来てくれた田中さんにレジへ入ってもらう。
遠目から何事もなくオカマ客が帰っていくのを見届け、安堵の息をついた。
……二日連続でお尻の危機とか、なんなんだよこの店。
~ 同期とシモネタ ~
(あー、それは大変だったねえ)
「でしょ? 白澄さんもそう思うよね」
十一時を少し回ったところで来てくれた田中さんとレジを代わると、同期の白澄さんから電話がかかってきた。赤眼鏡が印象的なほんわかした子で、まだ店舗配属にはなっておらず、店舗応援としていろんな店を転々としている。
ちなみに彼女の言う『大変だったねえ』はお尻の話ではない。
(でも無断欠勤する人なんて本当にいるんだねえ。わたしも店舗配属になったらそういうこともあるのかなあ)
「あるかもなあ。わかんないけど」
(あはは)
電話の目的はうちの店長と連絡を取りたかったからだが、いないことを告げるとそのまま同期トークに突入してしまった。
(ところでさ、大丈夫?)
「え、何が?」
(声が疲れてるっていうかさ、研修の時と比べて元気なさそ。この前の飲み会も結局来れなかったし)
「……あー」
一か月くらい前に、同期十数名で集まっての飲み会があった。元々俺も参加するつもりだったのだが、その時も緊急出勤を余儀なくされ、やむなく欠席となった。楽しみにしていたのに……。
「まあ、ね」
(無理しちゃだめだよ? 体が一番大事なんだから)
「あはは」と渇いた笑いが漏れた。そんなこと言っていられる状況じゃない。
一度、店長に品出しが間に合わず次の納品でバックヤードが溢れてしまうという緊急連絡をしたことがある。その返事がこれだ。
『ん~、なんとかして~?』
できねーから言ってんだよ! という暴言を喉元ギリギリで抑え込み、結局バックヤードに入りきらなかったパレットは売場に置いて、その日の夜と翌日早朝に(タイムカードを押さずに)出勤し全て片付けた。
よく考えると、まともに休んだのって何日前だ?
(……そうだ、今村君水曜って休み?)
「えっ、ああ、確か」
何事もなければ、というのは飲み込んだ。
(したらさ、映画見に行かない? わたし見たい映画あるんだけど、一緒にどうかなって。ちょっと骨休め的な感じにさ)
「行く!」
白澄さんとデート! 多分彼女はそんなつもりはないだろうけど、俺の中ではデート確定!
(ホント? やったあ! じゃあ詳しいことはまたメールするね。あー、なんか今村君と会うの久しぶりな気がするなあ)
「俺が配属される前だから、もう二か月ちょいくらいかな」
(もうそんな経つんだあ。凄いなあ、そんな早くに店舗任されるなんて)
「凄かないよ。今もミスばっかりだし」
昨日も『論外です』って言われたしな。
(そんなことないよ。わたしも昨日店長に怒られちゃって)
「なんで?」
(アイスの冷蔵什器の冷え方が悪いってことで、霜とりしたんだけどね、なかなかとれないからドライバーでガリガリやったら、壁に穴開けちゃって。もう店長にこっぴどく怒られちゃった)
「あはは……」
ドライバーはダメだろ。
少し話した後、電話を切る。
明後日は白澄さんとデート。うし、うしと右手をぎゅっと握りしめ、久しぶりにテンションを上げてから売り場に戻った。
ちょっとした『霜ネタ』というお話。
~ 客注 ~
すいません、と声をかけられ、品出し作業の手を止める。
そこにいたのは、近所の保育園のエプロンを着た三十歳くらいの女性だった。
「はい、何でしょうか」
「今度お泊り会をする際の飲み物を大量に欲しいんですけど、大丈夫ですか」
「はい、ありがとうございます」
この店はとにかく飲料が安い。自販機やコンビニで買うのが馬鹿らしくなるくらいに安い。そのため、車で来て飲料をケースで買っていくお客様は多く、売り場には二段の什器に上はバラで、下はケースで積んである。
「それで、どちらをお買い求めでしょうか?」
彼女の説明によると、上限金額と必要数量は決まっているらしい。また欲しいのはペットボトルで、缶では買いたくないということだった。
「今ここに並んでいる商品で基本的には全てですので、ここにあるものでしたらすぐにでも販売できます。ここにない商品や、それ以上欲しいという場合には、バイヤーに発注可能かどうか確認をとらなければならないため時間がかかります」
ここをちゃんと説明しておかないと、後でやっぱり商品が来ませんでしたではクレームになる。
「ええと、このスポーツドリンクが二ケース、炭酸が一ケース、ジュースを四ケース、だと一ケース足りないかあ。なら炭酸一ケース増やして……あ、予算オーバーしちゃった。ジュース一ケース減らして、代わりにスポーツドリンク一ケース、だとなんか偏っちゃうかなあ。あっ、これも美味しそう。でもちょっと高いし……」
早くしろよ。
やらなければならない作業はいくらでもあるのだ。表面的には作り笑顔を貼りつけているけれど。
「あのー、これって一ケースしかないんですか?」
「そうですね、これ以上ですとバイヤーに相談して、ということになります。もしかすると、もうセンターにも在庫がないかもしれませんので、確実に入ってくるとは言えないですね」
他店の在庫を振り替えてもらう、という選択肢もないではないが、在庫があるかいちいち確認するのも面倒くさいし、それでも確実とは言えないのだから、説明する必要はないだろう。
「うーん、でもなあ、うーん……」
ちらりと時計を見ると、すでに二十分近く過ぎていた。対応中一度もレジに呼ばれなかったのは幸いだが、逆に言えば作業に集中できる時間を全てこのお客様一人に取られたと思うと余計にイライラする。
とはいえ、大量に買っていただければ売上も上がる。おろそかにはできない――
「すいません、ちょっと相談してからまた来ますね」
買わねーのかよ!
~ 終わらない作業 ~
朝番・午後番・夜番と分けるとすると、午後番の人はおよそ十四時から十九時まで働いてもらっている。なので、休憩はスムーズに行けば十七時から三十分入ってもらうのだが、作業が長引いてしまったときなどは、ちょっと遅れて入ってもらうこともある。
今日はチラシ前ということもあり、納品の量が増えて余計に忙しい。
「すいません、今日の休憩、十七時半からいいですか?」
田中さんが休憩に入ってしまうと、自分がレジをしなければならない。だが、今納品が来たらバックヤードがパンクする。やらないわけにはいかない。
「おけっ」
ブイサインで答えてくれる田中さんに「すいません」と詫び、また商品陳列に戻る。
十七時半になった。
「……すいません、あと十五分、もらっていいですか?」
「あららあ、大変ねえ。こっちはだいじょぶよん?」
「ありがとうございます、助かります」
三時間以上レジに立たせっぱなしだ。流石に申し訳ない。できるだけ早く片付けなければ……。
あれから十五分経った。
「……ホント申し訳ないです、十八時までには、必ず休憩入れますので」
「しょーがないって、今回は私がお客さん並べちゃったからだし」
「……すいません」
これ以上遅らせるわけにはいかない。意地でも終わらせなきゃ……。
十八時になった。店頭にライトがつき、程なくして納品のトラックが来る。
「……田中さん、ホントにホントに申し訳ないです。後でぶん殴ってもらって構いませんので、どうかもう少しだけ俺に時間をください」
もうすでに本来の休憩予定時刻を一時間も超えている。田中さんは十九時に上がるので、下手をすれば休憩なしか、休憩してもらった直後に退勤ということになりかねない。そもそも四時間ぶっ続けでレジを打たせているわけで……。
お客さんが途切れたところで、俺は田中さんに直角になるまで頭を下げている。
俺ならキレるような状況に、田中さんも間があった。いくら彼女が優しくても、いい加減怒っていいはずだ。むしろ怒ってほしい。こんなダメな上司で申し訳ない、穴があったら入るからそのまま埋めてほしいくらいだった。
「……今村君」
少し低くなった声に、ビクリと背中が震える。降り注ぐ怒りの声を受け止めるべく、ぐっと奥歯を噛みしめた。
「ご飯は食べた?」
「はっ?」
思わず顔を上げると、いつもの優しい笑顔を浮かべた田中さんがそこにいた。
「忙しいから休憩できないのはしょうがないけど、食べるものはちゃんと食べないだとダメよ? お腹が空いてたらどんどん悪い方向に考えちゃうから。私は休憩なくたって大丈夫だから、今村君が何か食べないと。ね?」
「田中さん……っ!」
作業が終わらず、パートさんを休憩に入れてあげることさえできない俺に、こんな優しい言葉をかけてもらう権利があるのだろうか。
こみ上げてきた涙を押し戻し、思いっきり頭を下げる。喉が詰まって声が出なかった。
何がなんでも彼女を休憩させるべく力を尽くし、どうにか田中さんを休憩させ、バックヤードもパンクさせずにすんだ。
田中さんには、どれだけ感謝しても足りないと思う。
~ 思いもよらぬこと ~
十九時になり、田中さんと入れ替わりで千石がレジに入った。
ハイペースで仕事したこともあり、とりあえず一呼吸入れることにする。
飲料はうちの店に置いてあるものの方が安いが、混んでいる場合などはレジを考慮し店舗裏の自販機で購入するのが暗黙の了解となっている。流石に昼食用の弁当やカップラーメンなどは店で買うが。
とりあえず飲み物だけでも、と自販機に向かい、百円を入れて何を飲むか考える。お茶類は苦手なので、少し悩んだ末リンゴジュースを押す。
午後ティー出てきた。
「……!?!?」
自販機と午後ティーを二度見三度見する。いや、確かにリンゴジュース押したんだけど。
不思議に思い、もう一度百円を入れてリンゴジュースを押す。
今度はちゃんとリンゴジュースが出てきた。
「……???」
ひょっとしたら知らないうちに押し間違えたのかもしれないし、業者が入れ間違えたのかもしれない。だが……。
……人生には、時々思いもよらぬことが起きる。
~ 客注 その二 ~
水が四パレット来た。
パレットというのは商品を乗せて運ぶカゴ車のことで、大きさは二リットルペットボトルが六本入ったケースが三十六ケース乗るくらい。それが四つ。さあ水は全部でいくつでしょう?
数えるのも嫌になる数だが、全て一人のお客さんが注文した商品だ。
こんな量バックヤードに置いておけないので、早々にお客さんに連絡し買いに来てもらう。
「もしもし、鈴木様でいらっしゃいますか? 先ほど、ご注文されました水が届きましたので、ご連絡させていただきました」
(……あー、そのー)
どこか歯切れの悪い話し方に、「お客様?」と問いかける。
(いやー実は、もっと早く安く売ってくれるお店が他に見つかりまして、そちらでもう買ってしまったんですわ。だからそれはキャンセルで)
言い返す間もなく電話は切れた。
「……マジかよ」
水が四パレットである。夏だから売れる商品とはいえ、とにかく数が多すぎる。バックヤードも圧迫するから、一度に売れないとなった以上とにかく売場に出すしかない。少なくとも明日以降の納品でパンクしない程度に減らさないと――
工夫二割、根性八割で頑張った結果、一パレは普通に(多少棚前にはみ出してはいるが)出し、一パレは事務所に置き、一パレ分は棚上に置ききった。
一メートル八十センチの棚の上に、縦に四段横に九列で計三十六ケースの二リットル入り水が並ぶ。脚立に上らなきゃ届かない高さに自分のアホさ加減を疑うが、もうしょうがない。よく見れば爽快な眺めじゃないか。滅多に見れないぞこんなの。
一パレはバックヤードに置いてあるが、この程度ならバックヤードがパンクすることはないはずだ。
棚上の三十六ケースの水を眺めつつ、千石に「どうだ」と胸を張って見せる。
「バカじゃないの?」
ごもっともです。俺の中の常識と良心が有無を言わさず同意した。
~ 思いもよらぬこと その二 ~
千石はレジが遅いわけではないが、客が並んでも俺を呼ぼうとしない悪い癖がある。一度お客さんが並び過ぎてクレームになりかけたことがあったから気を付けているが、注意しても曖昧な返事をするだけで改善される気配はない。
まあ、おかげで自分の作業に集中できるんだけどね。
一人ごち、売り場に出したパレットから一番上にあった商品を取り出す。形からしてカップラーメンのようだが、ダンボールの絵に見覚えがないのでおそらくスポット商品(定番ではなく、限定的に入ってきた商品のこと)だろう。定番商品のように決まった売場がないので、どこに出そうか考えつつ賞味期限をチェックする。
今日だった。
「……!?!?」
もう一度確認するけどやっぱり今日が期限。商品の量はなんと十ケース、百二十個。
「……マジかー」
時々こういうアホな納品をすることがあるが、まさか今日期限を持ってくるとは。後たった三時間で百二十個売り切れると思ってんのか? アホめ。
心の中で悪態をつきつつ、それでも出さなきゃ一つだって売れないのだ。
まあ値段は十九円と安いし(原価二円てマジか)、レジ前に置いときゃ多少は売れんだろ。
『本日期限につき大特価!』と表記したポップをつけてレジ前に置く。残り四時間で賞味期限が切れるラーメンに、千石がため息をついた。
「……売れんの? 全部」
「さあ。まあ、最後は俺が少し買うよ」
正直一人暮らしにはありがたい。期限ちょっと過ぎたくらいなら構わないしな。
……二時間後。
「あれ、ラーメンは?」
「売り切れた」
「マジで!?」
~ 仕事中だけどバイトとちょっと雑談しました ~
『ドМ、お好きですか?』
『はい、大好きです!』
『僕もです! あの這いつくばって媚びへつらうあの姿がたまらなくて!』
『わかるわ! ヒールでグリグリやるときなんか、もう最高!』
『いいですねヒール! 僕なんかは逆に、わざと弱めに平手打ちして、「もっと強く……」とか相手に言わせるのが好きですね!』
『ああ、想像するだけでゾクゾクするわ! こんなに共感できる人初めて!』
『僕もです! 僕たち相性抜群ですね!』
『もう私たち、付き合いましょう!』
「……っていうカップルがいたら、絶対別れるよね」
「仕事しろ(怒)」
怒られちった、てへぺろ。
~ 未成年と思われるお客様にお酒をお売りすることはできません ~
事務所で伝票処理をしていると、お客様が事務所に入ってきてしまった。四十くらいのちょっと太めなおばさんだ。
「申し訳ありません、こちらは従業員以外立ち入り禁止となっております」
「あの、止めた方がよくないですか?」
「はいっ?」
「なんか、レジの子とガラの悪い子たちが揉めてるんです」
「げっ、ちょっと失礼します」
売り場に戻ると、「だから言ってんだろうが!」と怒声が店の端まで聞こえてきた。続いて、「何度も言ってんでしょうが!」と怒鳴り返す千石の声が響く。
「未成年にはお酒は売れないの! わかったらさっさと帰れ!」
「俺らもう二十一だっての!」
「じゃあ身分証明書見せなさいよ!」
「持ってきてねーんだよ! 客がそうだっつってんだから信じるのが筋ってもんだろ!」
大声で言い合う険悪な雰囲気に、回りのお客さんもおびえて遠巻きに成り行きを見守っている。
『ガラの悪い子』の二人組は、口にチェーンがついてたり肩にタトゥーが入っていたりと確かに健全な青少年には見えないが、二十歳未満には見える。二十歳未満と『思われる』お客様には身分証明書の掲示を求めるため、例え実際には二十歳を少し上回っていたとしても身分証明書の掲示を求めるのは間違っていない。
「そんな青臭い顔で二十歳超えてるわけないでしょ! バカじゃないの!」
「てめ……それが客にする態度かよ!」
まずい、どっちも熱くなりすぎてる。
今にも手が出そうな雰囲気に、意を決して真ん中に飛び込んだ。
「もーしわけありません! 申し訳ありません!」
口にチェーンした方のガラ悪い子が、胡乱気に俺を見る。
「ああん? 誰あんた。店長さん?」
「いえ、店長はただいま留守にしておりますので、私が今の責任者です」
「ふーん」
ジロジロと不躾に俺を見定めると、
「まあいいや。ところで、何この女。客に向かって何ほざいてんの? こんなの店でやっていいのかよ」
「は、誠に申し訳ございません」
深々と頭を下げると、千石が声を荒げた。
「はあっ!? わたしは悪くな――」
「黙れ!」
一喝して黙らせ、頭を鷲掴みして力づくで下げさせる。
彼女が悔しげに歯噛みしている様子が、掴んだ手に伝わってきた。
二人して頭を下げる様子を見てか、わずかに上機嫌になったガラの悪い子が声を弾ませる。
「……まあ、ちゃんと教育してくれりゃあいいよ。さっさとレジ済ませてくれ。早く飲みたいし、回りのお客さんのご迷惑にもなってるしな。オレ超気ぃ使ってね?」
「うっせえよ」
ゲラゲラ笑い合う『ガラの悪い子』達に、はっきりと、売り場の端まで聞こえるように堂々とした声で言い切った。
「それはできません」
瞬間、二人の顔が引きつる。
「ああん?」
「当店では未成年と思われるお客様には身分証明書の掲示を求め、できないお客様にはお売りすることができません」
千石の頭を離し、なおも頭を下げ続ける。
「何言ってんだお前、さっき謝ったじゃねえか」
「それは彼女の言い方や態度がお客様に対するものではなかったからです。私の教育が至らなかったことに対し、心からのお詫びと再教育をお約束いたします。しかし」
ばっと頭を上げ、真正面から二人を見据える。
「彼女の言い分は何一つ間違いなく、私の命令を忠実に守ったにすぎません。私は彼女の名誉を守るため、何があろうと身分証明書の掲示がない限りお客様にお酒をお売りすることはできません!」
一歩たじろぐ二人に、声を押さえて付け足す。
「もしまだご不満があるのでしたら、警察を呼んで正当な判断を伺いますが」
警察、という言葉がとどめを刺したのだろう、ガラの悪い子は「二度と来ねえからな、こんなクソ店!」と捨て台詞を残して店を出ていく。それを見送り、店内放送を利用してお騒がせしたお詫びをすると、ほっとしているんだが怒っているだがわからない表情の千石に詰め寄った。
「お前さあ、お酒のクレームは捻じれやすいから、さっさと責任者呼べって言ってるだろうが」
「だって、なんとかできると思ったから……」
いつもより語気が弱い。なんだかんだで怖かったようだ。まったく。
「実際できなかったろ。レジが混んでもなかなか呼ばないし」
頭を掻き、「……そんなに俺は頼りないか?」と、心なし自信のない声が漏れた。
「ち、違う!」
「じゃあなんでだよ」
彼女はぐっと詰まると、弱々しくなった声で呟いた。
「だって……いつも忙しそうだから」
――グサリと、体の深い所に言葉が刺さる。
「わたしが頑張ればさばけるんだし、呼んだら余計面倒かけちゃうから」
天井を仰ぎ見る。ついでため息が漏れた。
……そうか。そうだな。こいつは仕事はちゃんとやる、責任感もある。呼ばないのには、呼ばない理由があったんだ。しかも理由が俺なんだから、情けねえなあ、ホントに。
こいつにはきっと、「それで困るのはお客様だから」とか言ったって、聞いたりしないんだろうな。それはわかってんだから。
だから、こう言いかえよう。
「千石。俺に面倒をかけるのは、悪いことじゃないんだ」
自分でもまとまっていない言葉を、一つ一つ丁寧に整理しながら口にしていく。
「いつかそう遠くないうち、俺の力不足とかミスとかで、お前に面倒をかけることがあると思うんだ。でも、いざ頼もうと思ったときに『私は私の仕事のちゃんとやってます』とか言われたら、頼みにくいだろ? だから、今のうちに俺に仕事を押し付けてくれ。面倒をかけてくれ」
つまり、と唾を飲み込む。意外に大きな瞳が、俺を真っ直ぐに見つめていた。
「いつか助けてほしいから、今は貸しを作らせろってこと」
……なんだか、ずいぶん恥ずかしいことを言った気がする。
くるっと背を向け、作業に戻る。
「じゃ、今度からはちゃんと呼べよ!」
ビシッと最後に指さし、返事を待たずに駆け出す。
俺の言葉が効いたのかどうかはわからないが、その後何度かレジに呼ばれたから、多分わかってくれたんだと思う。
~ 退店後 ~
従業員入り口の鍵を閉め、セ○ ムをセット。
今日一日の作業がようやく終了し、ぐっと背筋を伸ばす。早めに切り上げたおかげか、まだ終電には余裕がありそうだ。走らなくても大丈夫そう。
さっさと自転車にまたがる千石を、「ちょいマテ」と呼び止める。
「なに?」
ジロッと睨みつけてくる顔の前に、午後ティーを差し出す。
「お疲れ様」
「……何? これ」
「午後ティーだよ。見りゃわかるだろ」
「なんでそんなもの。わざわざ買ったの?」
「ん、まあね」
ホントは自販機で間違って出てきたやつだけど。
彼女は渋々、という感じに唇を尖らせた。
「……ありがと」
「どーいたしまして。まっ、今日は色々あったからな、疲れただろ」
彼女が午後ティーに口をつけると、何となく残る雰囲気になってしまった。幸い終電にはまだ時間があるし、「あのさ」と話しかけてみる。
「……確か、明日も入ってるよな」
特に話題が思いつかず、仕事の話が出てきた。良く考えたら、こいつの趣味とか全然知らないんだな。
「んー、まあね。夏休みだし」
「そうか、なら明日もよろしくな」
会話終了。やっぱり俺、こいつ苦手なのかも。
「アンタさ、こんなゆっくりしてていいの? 終電は?」
「今日は早めに上げたから、まだ大丈夫。なに、チャリで送ってくれんの?」
「はあ? なんで私が」
眉を顰めた彼女に、「だよな」と特に気にすることもなく返す。
「……でも、どーしてもって言うなら――」
「っと、悪い、電話だ」
誰だ? 店長か? ゲッソリしつつ取り出すと、『白澄』の表示にテンションが上がる。
「白澄さん! お疲れっす!」
(うん、お疲れ様ー。今大丈夫?)
「おけおけ! なになに?」
(明後日の映画のことで。だいじょぶそう?)
「おけです! もちろん!」
(おー、良かです良かです!)
それからしばらく、待ち合わせや見る映画の簡単な説明を受けた後、電話を切った。
明日行けば休み、そしてデート! 久方ぶりのテンション上昇に両拳を握り締めると、千石が冷ややかな目で見つめていた。
「千石? どした?」
「……別に」
冷たく言い放つと、自転車にまたがりさっさと行ってしまった。
「……怒らせるようなこと言ったかな、俺」
ぽりぽりと頭を掻き、駅へと歩き出す。終電までにはまだ十分に時間があった。
~ お客様は神様ですか? その二 ~
チラシの前日ともなれば、いつもよりも忙しくなる。
売場作成作業、チラシ掲載商品棚卸、納品数も通常時よりずっと増え、作業を終わらせるためには走り回らなければ到底間に合わない。いつも走ってるけど。
朝に来た納品が十二パレット、夕方にはおそらく同数くらいのパレットがまた来てしまう。それまでに納品を片付けつつそれをやれねばならないことを考えると、休んでいる暇はない。
のだが。
(業務連絡いたします、二番機解放お願いします)
田中さんの店内放送を受け、売り場で棚卸をしていた手を止めレジへと向かうと一昨日の臭い客がいた。換気のために呼ばれなかったのは、俺が見える範囲にいなかったので、放送で呼ぶのをためらったからか。流石に店内放送で『臭い客が来たので換気をお願いします』とは(オブラートに包む言い方をしたとしても)言えないだろう。
渋くなりそうな顔をどうにか取り繕い、二番目に並んだ別のお客様の買い物カゴを二番機に持ってきて会計を始める。
幸いそんなに混んではおらず、二人ほどレジを打ってお客が途切れた。
ふう、と一息つくとちょうど田中さんが臭い客のレジを打っているところで、今日は飲み物やパンのほか、ズボンと下着を買っていた。田中さんのテンションが見るからに低い。
臭い客はレジを済ますと、サッカー台に腰を下ろした。お客さんはいないタイミングだったので何も言えなかったが、あまりいい気分ではない。
少しして臭い客が離れ、入れ違いに一昨日『なんか臭い』を連呼した子供と母親が店に入って来た。子供がきょろきょろした後サッカー台に向かう。俺も視線をそちらに移すと、臭い客が座っていた場所に落とし物らしき物があり、近づいてみる。
その落とし物を見て、子供が叫んだ。
「うんこだ!」
うんこ、うんこと連呼しテンションマックスな子供を、母親が口を塞いで無理やり遠ざける。
まさかと思いつつ、距離をとりながらそれを覗き込む。
うんこだ!
大人として流石に声には出さなかったが、あまりの衝撃に開いた口が塞がらない。でも鼻は塞ぎたい。切実に臭い。
うんこの処理を田中さんに任せるわけにはいかないので、自分で処理するべく急いでグルグル巻きにしたトイレットペーパーでふき取った後、雑巾で何度もこする。周囲から感じる目線が超痛い。
……何やってんだろう、俺。
今後仕事を続けるか続けないかというレベルで考え込んでしまった。
~ 仕事中だけどパートさんとちょっと雑談しました ~
『僕、実は男が好きなんです。でも誰にも理解されなくて……』
『わかります、私も女性しか愛せない女なんです』
『ああ、あなたもなのですか。切ないですね、愛した人にさえ理解されないというのは』
『ええ、あなたの気持ち、痛いくらいだわ』
『嬉しいです。僕の気持ちをわかってくれるのは、もうあなたしかいません!』
『私も同じ気持ちです! 私を理解してくれるのはあなたしかいません!』
『好きです! レズ美さん!』
『私もです! ホモ太さん!』
「……っていうカップルがいたら、全部丸く収まると思いません?」
「そうかもねえ(苦笑)」
こんなろくでもない話を真面目に聞いてくれる田中さんマジ天使。
~ 思いもよらぬこと その三 ~
客商売に従事していれば、時に理不尽なクレームにさらされる。
そのクレームは、四時を過ぎてややお客さんが減ってくる時間帯に起きた。
普通に「いらっしゃいませー」と挨拶する。
「うるせえ!」
……もう挨拶できないよぉ。
~ 思いもよらぬ新商品 ~
ウサ耳始めました。
いや冷やし中華じゃないんだから、と突っ込んでじっと手元のウサ耳を見つめる。
田中さんの休憩も終わり、入れ替わりにレジから事務所に戻ってきた俺は、ふと新しく入ってきたパレットの中に面白そうなものを見つけて引っ張り出したら、それがウサ耳だったのだ。
ヘアバンドにくっついた耳は二十センチくらいで、ピンと立っているものもあれば垂れているものもある。色はいずれもピンクだ。
……確かにこの店は時々おかしなスポット商品を入荷してくるが、しかしウサ耳というのは初めてだ。値段は二百円、おお安い!
こっそり買ってしまおうか。そして明日のデートで白澄さんにつけてもらおう。
『え~、恥ずかしいよ~』
と顔を赤らめつつ、でもつけてくれて、
『どう、かな?』
なんて言われたら、もう……!
「……いや、ここはあえて千石にという手もあるな」
当然嫌がる千石をあの手この手でどうにか納得させ、嫌々ながらもつけさせる。
真っ赤になった顔を背けつつ、でも俺に弱いところを見せまいと虚勢を張り……
『見、見るな、ばかあ……』
おお! 悪くない、悪くはないぞ! 俺の中であいつの好感度がめっちゃ上がった!
実際外見はそれなりに可愛いからな。シチュエーションと性格がかみ合えばイケる素材なんだ。
ふう、とため息しつつ、手にしたウサ耳をどうしようか考える。
……とりあえず装着。
「おつかれさまです……あ」
「あ」
振り返った先に、ちょうど今来た千石が立っていた。今日のTシャツの文字は『殺人鬼』。接客業で着てくんなよ。
そう言いたいけど、俺ウサ耳装備中。
「……」
「……」
無言で見つめ合う数秒の後、彼女はポツリとつぶやいた。
「……変態」
「ごめんなさい……」
蔑む彼女の眼が怖くて、反論できませんでした。
ウサ耳を外し、千石が来たことを伝えようとレジに向かったところで電話が鳴った。もうレジまで来ていたので、レジ内の電話で受話器を取る。
店長からだった。
(もしもしー、僕だよ。今大丈夫?)
明らかに面倒そうな何かだ。
少し考えてから「……ダメです」と答える。
(うん、すぐ済むから)
結局言うんかい。
(実はさー、チラシに載ってるベビー用品で、什器を一本増やさなきゃいけなかったんだって。で、今日中にそれやってほしいんだ)
「はあ? そんな時間ないっすよ、ただでさえチラシ前で作業たまってんのに、納品だって来てますよもう」
ウサ耳つけてニヤニヤしてたのは秘密。
(それはまあ、田中さんにちょっと残ってもらってさ、千石さんと二人がかりでやれば一時間かからないはずだし。詳しい作業内容はメールするから)
言い返したところで電話が長引くだけ。「わかりました」と短く言い捨て、電話を切る。
話の内容を察したのか、田中さんが不安気な目で見ていた。
「すいません、急に作業が入っちゃって、一時間だけ残業してもらっていいですか?」
「えー」と不満げに口をとがらせたものの、すぐに「しょうがないなあ」と笑って応じてくれる田中さん。慣れてしまいそうな自分が許せない。
ありがとうございます、と深々頭を下げ、作業内容を印刷した紙を持ってレジを離れる。
作るのはベビーの什器か。おむつが多いから、確かにそう時間はかからないかも。
そんなことを思いつつ、ちょうど売場に出てきた千石を呼び止める。
「千石悪い、ちょっとレジの前に別作業頼む」
「なに?」
「俺とベビー作ってくれ」
「けだものっ!」
拳が俺の眉間を打ち抜いた。
……後になって思う。あれは俺が悪かった。
~ 働く理由と、働く意味 前編 ~
閉店まであと一時間、というところで電話が鳴った。
チラシ前日の夜という最も忙しい時間にかけてくんのはどこのどいつだ、と内心に毒づき事務所に向かう。苛立ちつつも冷静に「お電話ありがとうございます」とお客様対応の声を吹き込む。
(やっほい、僕だよ僕)
忙しさを感じさせない店長の声に、うぜえと喉元までこみあげてきた。どうやら俺は自覚している以上に焦りを覚えているらしい。
「なんでしょう。ベビー什器なら終わりましたけど」
(え~とさあ、悪いんだけど、明日出てくれない?)
なんでもないような言い方に、思わず「どこに」と言い返してから、店長の言葉を理解する。
「……えっ?」
(どこにって、やだな~、店に決まってるじゃない)
店内BGMが途切れた。頭の中が真っ白になる。
「えっ? でも、明日俺休みで、店長が入ることになってたはずじゃ」
(そうなんだけど~、実は他の店ででっかいクレーム来ちゃって、謝罪しに行かないといけなくなっちゃったんだ。先方の指定した時間と場所を考えると、どうしても朝からってわけにはいかないんだよねえ。だから明日の夕方、十七時くらいまで。振替の休日はまた作るからさ)
クレーム? 謝罪? なんだよそれ。
(ね? 頼むよ。それとも、なんか予定入れちゃった?)
なんだよその言い方。予定があれば出なくて済むのか?
「はい」
(どんな?)
「それは……まあ、私用ですけど」
(明日じゃないとできないこと?)
いちいち苛立たせる言い方だった。こう聞かれれば、「そんなことはないです」と答えるしかない。何しろ同期と遊びに行くだけだ。店に人がいなくなるかもしれないことを考えれば、どちらがより重たいかなど考えるまでもない。
例えそれが、どんなに楽しみにしていたことであっても。
「……わかりました。出ます」
言葉にした瞬間、体のどこかが千切れたような錯覚を覚えた。胸が痛くて、視界がぼやけて、うまく息ができない。たかが一回遊びに行けなくなっただけなのにと思いたいけど、そんな軽いものじゃないことを自分が一番わかっている。
店舗配属から二か月、久しぶりに楽しみと思える明日だったんだ……!
(あっ、出られる? ごめんねー?)
だから、店長の喋り方一つ一つが異様に俺の神経を逆なでる。
「ええ出ますよ。それじゃ」
これ以上話していたら気が狂いそうだった。有無を言わさず受話器を置き、どっかり椅子に座り込む。
……まあ、社会人ならよくあることだろ。休みが休めなくなるくらい。
白澄さんに詫びのメール入れて、また次回誘ってもらえばいい。いや、次は自分から誘うべきか。
それよりまだ作業残ってんだよなあ。納品もあるし。
やらなきゃ。やらないと作業が終わらない。そう思い立ち上がろうとするけれど、糸の切れた操り人形みたいに体が動かない。頑張らなくちゃという気力が湧いてこない。
……なんで俺、こんなことやってんだろ。
……こんな仕事続ける意味、あるのかな。
……もう、いいや。
無気力、という言葉を実感した。
結局俺は、閉店時刻を過ぎても売り場に戻ってこない俺を千石が呼びに来るまで、一歩も動けなかった。
のろのろと閉店作業を済ませ、従業員口から外へ出る。夜だから当たり前だけど真っ暗だった。街灯の明かりがチカチカして鬱陶しい。
時間は……ああ、多分終電には間に合わない。いいさ、漫画喫茶か、ないなら公園ででも寝ればいい。冬じゃないから死にはしないだろ。
渇いた自嘲が漏れ、余計空しくなる。
もう考えるのも面倒くさかった。
「ねえ」
丸くなった俺の背中に、千石の鋭い声が突き刺さる。
「何かあったの? 最後全然売場にいなかったけど、チラシの作業終わったの?」
「……あー」
肯定の「ああ」ではなく、ただ声をかけられたから応じただけの音だ。言葉でさえない。
「……ひょっとして、明日の休みがつぶれた、とか」
千石は不審者よろしくニヤニヤしていた昨日の俺を知っている。勘付くのも無理はない、かもしれない。
急に店長が夕方まで来れなくなったことを教えると、千石は大きくため息した。
ついで勢いよく頭を掻き。
俺の顔をちらちらと見ては目を逸らし。
「あー」と何か言いたげな様子を見せつつも口を噤む。
今度はダンダンと地団駄を踏み始めた。
何がしたいのかわからないので、もう帰るかと足を踏み出す。
「~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ああ、もう!」
何を思ったのか、彼女は思い切ったように大股に俺の前に立ちふさがった。
俺の頭を両手でガッチリとホールドし、拳一つ分くらいの距離に顔を近づける。
そっと近づいたらキスできてしまいそうだ、なんて無意識に考えていると。
彼女はおもむろに自らの頭を後ろに仰け反らせ――
「――え?」
「うおりゃあ!」
勢いをつけた額が俺のおでこを打ち抜いた!
「おごぉ!?」
視界が乱れて体がよろけ、立っていらず膝をつく。痛みよりも何が起きたのかわからず、呆然と彼女を見上げるしかない。
そんな俺の腹と腰に手を回し、自分のチャリの荷台に乗せると、自分はサドルにまたがった。
「……送ってあげる」
「……いや」
「送る!」
きっぱり言い切られ、断る前に走り出してしまった。ぐらんと後ろに倒れそうになり、あわてて彼女の肩をつかむ。
自転車はすごい勢いで歩道を駆け抜けていく。歩けば二十分はかかる距離だが、この分だと五分かそこらでついてしまいそうだ。
「……わたしが出るよ」
「なに?」
猛スピードを緩めることなく、彼女は言った。
「明日。一応わたしも時間帯責任者だし、開店作業くらいできる」
「いや待て、お前も明日の夜入ってただろ」
「一日店にいればいいだけの話でしょ? あんたはもう三日それやってるんだし、わたしだってそのくらいできる」
「いや、でも」
どんなに無能でやる気がなくても俺は店舗担当者で、店を回す責任がある。だが、パートさんやバイトたちにそこまでの責任を求めることはできない。それでなくとも、特に田中さんや千石には通常のシフトよりも多めに入ってもらっているのだ。
「自分で言ったんでしょ? 迷惑をかけてくれたら、後で面倒押し付けやすいって。今回貸し一つ、わたしに頂戴」
「……本当にいいのか?」
千石に押し付けて、本当にいいのか。彼女と、そして自分にも問いかける。
白澄さんと遊びに行ける誘惑は、如何とも抗いがたい魅力があった。
「後でアイス奢ってよね」
最後まで俺を見ないでそう言った彼女に、俺は「わかった」と答えた。
~ 働く理由と、働く意味 後編 ~
家についた俺は風呂につかり、買い置きのカップ麺で夕食を済ませたところで睡魔に襲われた。考えてみれば丸三日、十五時間労働を続けていたのだ。通勤時間を入れれば二十時間近く、全部でざっと六十時間。疲労はピークに達していて、実際千石に代わってもらっていなければ仕事にならなかったかもしれない。
財布に軍資金となる五万を投入し、敷布団だけ引いて飛び込む。目覚まし時計をセットしなかったのは久しぶりだ。
仕事をすればミスばかり。パートさんやバイトには迷惑かけっぱなしで、あろうことかパートさんやバイトに仕事を押し付け自分はのうのうと遊びに行く。サイテーだ。
自嘲混じりに、千石が代わりに出勤してくれることを店長に伝えるメールに、『自分はこの仕事を続けていいのでしょうか?』と書いて送信した。
朝起きて、時計を見る。時刻はもう九時を回っていた。咄嗟に遅刻だと背筋が凍るが、休みだということを思い出してほっと息をつく。休みが久しぶり過ぎて体が慣れない。
とりあえずパソコンをつけ、ネットを見る。
さあっと血の気が引いた。
浄水場から放射性物質が見つかり各地で断水が起こっているというニュースに、あわてて詳細をチェックする。
――ここ、うちの店の近くだ!
断水地域を改めて確認すると、確かに店も入っていた。
店舗で水が使えないのは、良くはないが大したダメージはない。トイレに使用不可の紙を貼り、お湯が出ないので昼食用のカップ麺をパンにしてもらえば済むことだ。この程度なら電話すれば済む。問題はそこじゃない。
断水しているということは、水が爆発的に売れるということだ。
ただでさえチラシ初日で客数増加が見込まれるのに、水を買うお客さんでさらに増えていく。水そのものは売り場に出ているし、客注キャンセルでバックヤードにも在庫は大量にあるし、そもそも需要が急激に増大するので欠品しないなどあり得ない。それはもう仕方ない。
問題は、棚上に水をケースごと置いておいたことだ。
百八十センチの棚の上に、水が三十六ケース、お客さんにも見える位置に置いてある。当然これも売れと言われるだろう。そのとき店舗にいるのは千石だ。もう一人のパートさんも女性で、腰を悪くしているから重いものは持てない。小柄な千石が、三メートル近い場所にある重たい水のケースを、果たして無事に下ろせるだろうか?
いや、例え下ろせたとしても時間がかかり過ぎる。レジは当然混むだろうが、二人しかいないからどうしたってさばけない。
目をつぶり、そんな状況を想像する。
険悪な雰囲気の中、一人棚上の水とレジを往復する千石。中には口汚く罵倒するお客さんもいるかもしれない。そんな中で、彼女が頼れる人間はいない。
そんな状況、許すわけにはいかない。
――店に行こう。
最悪のイメージにいる千石の姿を想像すると、自分でも驚くくらいあっさり結論が出た。昨日はあんなに落ち込んだというのに、今はむしろ晴れやかにさえ感じる。なんでなのか、自分でもよくわからない。
ささっと支度を済ませ、電車を使っては間に合わぬとタクシーを呼ぶ。幸い軍資金は五万ある。
家を出る寸前、白澄さんにメールを打とうとして、電話に切り替えた。コール三回でつながる。
「もしもし、白澄さん? ごめん、今日行けなくなった」
(ふぇ? どうして?)
寝起きっぽい彼女の声に、苦笑が漏れる。
「店舗が忙しそーなんだよね。そっち行かないとまずいから」
(……そっかあ、わかった。残念)
しょぼんとしたのが声でわかった。やっぱり白澄さん可愛い。
(……うん、しょうがない。でも、元気そうで良かった)
「そう?」
(うん。一昨日話したときより声が弾んでる。何か良いことでもあった?)
「……ちょっとだけ、ね」
うまく言葉にできないが、どこか吹っ切れたような、答えがおぼろげに見えたような、そんな感じだった。
(そっか)
白澄さんはまるで自分のことのように、嬉しそうに笑った。
店の前につくと、開店直後とは思えぬ人だかりができていた。
タクシーの会計を済ませて中に入ると、案の定棚上に置いた水を脚立を使って懸命にとろうとしている千石が見えた。レジはレジで並んだお客さんが苛立った空気を放っている。
「千石!」
近くまで行って呼びかけると、彼女は目を見開いた。
「よっ」
手を挙げて声をかける。彼女はしばしぽかんとした後、ゆっくりと脚立を下りた。
ツカツカと俺の傍まで寄ると、無言で俺のほっぺを両手で引っ張った。かなり全力らしく無茶苦茶痛い。
「な・ん・で、アンタがここにいるのよ」
「ひゃっへへひひょひょひゃひょーひゃひゃ」
「わかる言葉で言いなさい!」
誰のせいだ!
とにかく手を離せと引っ張る両手を叩く。満足に喋れるようになってから、
「心配だから来たんだろ。ほら、お客さん待ってるから。やるぞ」
ぽんと背中を叩き、彼女に代わって脚立を上る。
やはり水のケースは重く、一つずつ下にいる千石に渡す。
最初の一つを渡したとき、彼女がかすかに嬉しそうだったのは、多分見間違いではないはずだ。
「何で来たのよ」
朝の水ラッシュが一段落し、昼を過ぎてレジ担当者が田中さんに代わったころ。
事務所まで連れてきて腕組みし、俺を正座させ、忌々しげに千石が舌打ちする。
「何でって、断水で客数半端じゃないと思ったから。実際俺いなかったらヤバかったろ」
昼過ぎまでほとんどレジ二台がフル稼働していたのだ。三人いなければ作業は何一つ進まなかっただろう。棚上はもちろん裏から水を出すこともできなかったはず。
「それは、そうだけど……」
「大丈夫だって。今回はタイムカードも押したからサービス残業にもなってないし」
「……ぐむ」
「そーいえば、『わざわざ』心配して来てあげたのに、『ありがとう』の言葉ももらってないなあ」
「……むむっ、それはっ」
ムキになって言い返そうとする千石に、「冗談だよ」と笑いかける。ついでに正座もつらいので立ち上がる。
「ありがとう。感謝してる」
「なっ……、はっ?」
「これからも迷惑かけると思うけど、よろしくな」
口をわなわなとさせ、顔が真っ赤になる。やれやれ、素直な奴。いや素直じゃないからこうなのか?
「……何よ、急にやる気出しちゃって。気持ち悪い」
目を逸らしぶつぶつ呟く千石に、心の中で答える。少し時間が経って、ようやくまとまってきた。
――多分、働く理由っていうか、意味が見つかったからなんだろうな。
――田中さんや、白澄さんや、千石。俺のことを心配してくれて、助けてくれたり、気にかけてくれたりしてくれる人がいる。一人で考え続けていた俺に、一人ではないのだと教えてくれた人がいる。
――そんな人たちのために頑張るのなら、悪くはないんじゃないかなと思えた。
「……うん、ありがとう、千石」
「二度も言うな、気持ち悪い!」
「ぐえ」
尻を蹴り上げ、腕組みしたまま彼女がそっぽ向く。横顔は少し赤く、唇の端が上がってなんか嬉しそうだ。
……ドS?
いやいや、照れているのだと信じよう。
なおも頬を膨らます千石を促し、「アイス三つだからね」となぜか奢る量が増えたことには言及しないことにして、品出しを進めるべく売場に出る。昨日の夜に半端にしたままの作業も残っているので、遊んでいる時間はない。
作業は多く、相変わらずキツイ一日になるだろうなと思う一方で、初めて心のどこかで『楽しい』と思っている自分がいることを感じていた。
~ エピローグ ~
夜、千石を休憩に入れたところでメールチェックする。
店長は別の店で起きた万引き対応で来れなくなり、結局俺が残った。もう怒る気もしない。
受信トレイに店長からのメールを見つけ、そういえば昨夜『自分はこの仕事を続けていいのでしょうか』というメールを送ったのを思い出す。
もう自己解決したわけだが、果たして店長がどんなアドバイスをくれたのか。軽い気持ちでメールを見てみる。
『辞める必要ないけど、辞めればいいのにと思う』
……俺、泣いていい?