高得点作品掲載所      イマダさん 著作  | トップへ戻る | 


私の勇者さま―NPCの祈り―

NPC(ノンプレイヤー・キャラクター)
 :ゲーム世界に生きている人々。プレイヤーが演じることのないキャラクターの総称。


0.プロローグ 西の野原
「キシャーッ……!」
 盛夏の午後。気だるい空気を切り裂くように、魔物の警戒音が響き渡った。
 薬草摘みに夢中になっていたナイは、一面に揺れる青い花――根を煎じれば体力回復の薬となる――の中から亜麻色の頭を上げる。
 前掛けの紐に結わえた魔除けの鈴が、腰の辺りでちりりと鳴った。
 白い手袋をはめた手で薄茶色の瞳の上にひさしを作って頭を巡らせば、村とは反対の西の方角に、二頭の魔物とひとりの旅人の小さな姿が見て取れる。
 マントを羽織っているのでよくわからないが、武具らしい装備は身に付けていないように思われた。行商人か、流民のたぐいだろうか。冒険者でもないのに、何の魔除けも帯びずにこの魔物溢れる大地を旅するなど、自殺行為も甚だしかった。
「なんてことっ、魔除けの鈴を落としたのかしらっ?」
 ナイは考えるより先に、花畑から立ち上がっていた。旅人の姿を、遠い地で同じように魔物に襲われ果てたという父親になぞらえてしまったのかもしれない。
 相当な距離があったにも関わらず、ナイはスカートの端をからげて亜麻色のおさげを揺らしながら、一気にかの旅人の元まで走り寄る。いつもぼんやりしがちなナイを知る者から見れば、仰天する行動に違いなかった。

「……! ……!」
 口の端から泡を噴き、後脚で土埃を蹴立てているのは、一対の大きな牙を生やし全身を剛毛に覆われたイノシシに似た魔物だった。むやみやたらと人間を襲うほど知能が低いわけでもないし、彼らの常食は植物のはずだった。
 教会で司祭に聖別された魔除けの鈴を提げていれば、大抵の魔物は避けて通るはずだが、こうなっては効果が望めない。
「及ばずながらご助勢致しますっ、これをお飲み下さいっ!」
 後方からの支援態勢を取ったナイは、すでに息を荒げて膝をついている旅人に、腰に巻いた皮袋から取り出した体力回復の丸薬を握らせる。
「……ご助勢、感謝します」
 そう言って受け取った丸薬を噛み砕いた旅人の声は、予想外に若かった。
 よろよろと立ち上がり、銅の剣を構え直したフードの奥に覗くのは、黒い瞳に黒い髪。自分と同じくらいの年齢、ほんの十四、五歳の少年のものだった。マントの下には古びた皮の鎧を身に付けている。なりは小さくとも、少年剣士だったのだ。
 そして、もう一匹いるはずの真っ黒な猫型の魔物は、驚くことに少年の傍らで牙を剥き出し、まるで主を守るかのようにイノシシもどきと対峙しているではないか。
 先ほどの威嚇音は大猫がイノシシもどきに対して発したものだったのだ。
「クロちゃんっ、頼むよっ!」
 少年剣士の声に反応して、大猫はイノシシもどきの鼻面に強烈な猫パンチを食らわせる。その隙をついて、少年剣士が剛毛の生えた脇腹に銅の剣を突き刺した。
 一人と一匹の連携はたいしたものだが、ナイは『職業的視覚』を使わずとも、少年剣士が未熟であることがひと目でわかった。イノシシもどきの突進を一発食らっただけで瀕死の状態になってしまうため、一ターンを自らの体力回復に割かねばならない。よって連携はたびたび崩れ、効果が薄れてしまうのだ。
 ナイは何度も膝をつく少年剣士の体力の減り具合に注意して回復薬を与える。そして腰の皮袋をまさぐり、物理防御力を高める丸薬を取り出して手渡すことに成功した。
 自分がただの村娘なら、こんなにたくさんの薬を持ち合わせてはいないだろう。ナイは後方で戦闘を見守りながら、手袋に包まれた自分の手を思い出して人知れず溜め息をついた。二の腕から手首までは幼友達と同じように白いけれど、その先は――。
「よしっ、一気に倒すぞっ!」
「がうっ!」
 一時的にせよ防御力の上がった少年剣士と大猫の攻撃によって、イノシシもどきの体力が徐々に削られていく。そしてついに力尽き一声揚げてどうと倒れ、動かなくなった。すぐさま大猫が獲物の上に飛び乗り、首の後ろに牙を突き立て止めを刺した。

「助かったよ。怪我はないかい?」
 同じような年齢だと気付いたのか口調がやや砕ける。ナイを振り返った少年剣士の額からは、イノシシもどきの牙で傷付いたのか血が流れていた。しかし、まだ幼さの残る顔には爽やかな微笑みが浮かんでいた。
「……いえ……」
 ナイの胸はなぜかしら熱くときめいた。治療のし甲斐がありそう……いや、そうではない。幼友達にネンネだの不感症だのと散々言われ続けてきたが、その汚名も今日で返上である。自分はいま間違いなく、この少年剣士に恋をしかけている――。
「いえ、私はなんとも。剣士さまこそ、大丈夫ですか…………あっ!」
 ナイは慌てて『職業的視覚』を使い、少年剣士の健康状態を調べてみた。案の定、すでに体力は尽き掛け、体力回復薬を飲ませなければ村まで持つまい――。
 剣士に丸薬を渡そうと皮袋に手を掛けたナイは、思わず目を見張った。健康状態の隣りの欄に、燦然と輝く単語を見つけたからだ。
 曰く職業……勇者、と。
「ゆっ、勇者……さまぁ?」
 ナイの声はひっくり返った。それが何を意味するのか、三つの幼子でも知っている。
 この超未熟な少年剣士は、北で封印の解けたと噂される魔王を封じるために、この魔物溢れる大地に創世の女神が遣わした、いにしえの勇者の再来に違いなかった。
 勇者の傍らには、自重の倍もありそうな獲物を背負った大猫が、早く行こうとばかりに黒光りするしなやかな身体を摺り寄せ喉をゴロゴロと鳴らしている。
「まだ半人前だけどね。君の名前は?」
 半人前どころじゃないでしょうとは思ったが、ナイの口から出たのは聞かれたこととまったく関係のない、
『東にコトリ村があります』
 という、自分に流れる血に刻まれた職業的な言葉だった。
「よかった。このまま村が見付からないと、また野宿になってしまうところだったよ」
 血の通わぬ極めて慇懃無礼な自分の声音が、ナイはとても嫌だった。しかし決まり文句は勝手に口から溢れ、抗うことは叶わない。
『……私は道具屋です。お買いになりますか? それとも売られますか?』
 その言葉に条件反射するかのように、勇者は懐をまさぐり財布を捜し始める。運命的な出会いが、仕事のそれに変わってしまうのを感じ、ナイは心で泣いた。
「僕と同じような歳の女の子なのに、こんなところまで来て商売とは、熱心だねぇ……ええっと、取り敢えず体力回復を十個ばかり……」
 それが、ナイと勇者の最初の出会いだった。


1.女神の御手たる我等
「――――」
 いつになく激しく打ち鳴らされる教会の鐘の音に、ナイは薬草を洗う手を止めた。
 村の中央にある教会の鐘は普段一刻ごとに鳴らされるが、まるで魔物が大挙して襲って来たとでもいうような非常呼集は、生まれてこのかた初めてだった。
 夏祭りまではまだ二週間あるし、この時期、ほかに何か大切なことなどあっただろうか。ナイはまた心ここにあらずといった感じで薬草の根の泥を落とし始めた――。
 ナイは二年前に流行り病で母親を亡くした。そして家業の道具屋を継ぎ、十四歳の今日までひとりで暮らしてきたのだ。それより前に、父親は行商に出掛けた先で魔物に襲われ、村外れの墓地の棺はいまでも空っぽだった。手元に何も戻ってこなかったからだ。
 別に仕事が嫌なわけでも――村人の役に立っているし、生活も掛かっている――なかったが、生来の気質か、なんとなくおっとりと日々を過ごしていたのだった。
 日の沈む頃、カゴ一杯に摘んだ薬草を背負ったナイは、ようやく西の野原から村に戻って来た。それからずっと、村の通りに面した道具屋兼自宅の裏に流れる小川で、採れ立ての薬草を洗っていたのだ。
 荒れ野に自生する一部の野草には、魔物溢れる大地に日の光のごとく降り注ぐ創世の女神の慈愛の力の影響をより強く受けるものがある。それを亡き母親から受け継いだ独特の方法で煎じると、魔物の攻撃に抵抗する有効な手段となりえるのだ。
「よっこらしょっと」
 洗い終えた薬草を種類ごとに選り分け、乾燥させるための板に張り付けていく。その作業のさなかも、ともするとナイは昼間の出来事を思い出してしまい、顔が自然とにやけてくるのを抑えられないでいた。
 ――『怪我はないかい?』と言いながらナイを振り返った少年剣士の額からは一筋の血が流れ出し……幼さの残る顔には爽やかな微笑みが浮かぶ……。
 ナイの頭の中では、魔物に襲われていた自分を勇者が救ってくれたのだという記憶にすり替わりつつあった。しかし誰が責められるだろう。ナイは花も恥らう十四歳であった。

 暮れゆく裏庭で、ナイがどっぷりと妄想に浸っていると、
「ナイっ、いるのっ?」
 金色のつむじ風のような少女が駆け込んで来て、ナイを現実に引き戻した。
 癖のない金色の長い髪が残照を受けて淡く輝く。辺境には稀なあか抜けた容姿と、はすっぱな物怖じしない言動で酔客から有り金を搾り取る、酒場の看板娘シシィであった。年はナイより二つ上の十六歳、目下婿養子募集中の幼友達である。
「ナイってば、またなにぼんやりしてるのっ! 早く教会にいかなくっちゃ!」
 しゃがみ込んでいる自分の手を引っ張り、強引に連れて行こうとするシシィの手をナイはとっさに振り払った。ナイは前掛けに挟んでおいた手袋を、急いで自分の緑とも紫ともつかない色合いの両手にはめる。娘らしく挽きたての小麦のように真っ白なシシィの手を目の当たりにして、過敏に反応してしまったのだ。
 両の手が奇妙な色合いに染まることは、薬草に携わる者にとって逃れられないことだった。生前のナイの母親の手も、手足の先だけ黒い猫のように黒々としていた。
 邪気のない幼い頃、よくどうして黒いのか訊ねたものだが、母親は決まって魔法の手よ、と言って笑った。魔法の手も、流行り病にはまるで効果がなかったのだが。
「ゴメンなさい……」
 ナイが小さな声で詫びると、シシィは微塵も気にした様子はなく、むしろ何か別のことに気を取られているのか、きょとんとして『なにが?』と返してきたくらいだった。
 幼い頃のナイは、家業の手伝いを始めて手が黒く染まっていくのを、よくいじめっ子達にからかわれた。そんな時、シシィが酒場で覚えたばかりの聞くに堪えない下品な言葉でいじめっ子どもを追い散らしてくれたことを思い出し、ナイは人知れず微笑んだ。年頃になり美しくなっても、中身は昔のシシィのままだったからだ。
「少しでも遅れたら、あの神経質な司祭さまから大目玉よ。急ぎましょ」
 シシィは戸惑うことなくナイの手袋越しに手を取り、表通りに引っ張っていった。

 そう多くもない村の住人が、取るものも取り敢えずといった格好で、向かいの教会の両開きの扉に次々と吸い込まれていく。
 急ぎながらも人々が、シシィのたぐい稀な美貌とご城下で流行りらしい襟ぐりの大きく開いた衣装を見とめて振り返る。ナイは密かに羨望の眼差しで幼友達を眺めやった。
 シシィのすんなりした手足や豊かな胸の辺りを見るたびに、自分も二年したらああなれるのか……とは、とても思えなかった。自分の衣装は母親のお下がりをあちこち詰めた、形の古いものだった。そもそも、流行りの衣装など身に付けたとしても、胸がスカスカで詰め物でもしなければずり落ちてしまうだろう――いや、考えるだけ無駄なことだ。自分の手には職がある。見栄えが多少悪くとも、生きていくのに問題はないはず……。
「あら、いけない。忘れるところだった」
 ナイは教会へは向かわず、隣家の武具屋に行って扉を叩いた。
「おじさん、教会に行きましょう。司祭さまの急ぎのご用事よ?」
 しかし中から返事はない。痺れを切らしたシシィが、木製の扉を乱暴に蹴り上げた。
「非常呼集だって、言ってるでしょーっ! このクソオヤジがっ! ピッチピチの若い娘が二人も呼びに来てやってんだから、ありがたく思えっつーのっ……うわわっ?」
 一瞬だけ開いた扉から何かが飛んできて、シシィの頬の辺りをかすっていった。シシィは素晴らしい反射神経でよけたものの、たまらず尻餅をつく。地面から斜めに生えているのは、よく使い込まれた一振りのノミだった。
「ちょーっとぉ、ナイにでも当たったらどうすんのよっ!」
 尻餅をついたままのシシィが顔を真っ赤にして怒鳴ると、今度は細く開いた扉の隙間からぎょろりと血走った片目だけが覗いて、
「ナイちゃんなら、投げるわけねーだろ」
 と毒づいた。続いて、同じ人物かと思われるような優しい声音で、
「悪りぃがナイちゃん。このションベン臭い小娘と一緒に、話だけ聞いといてくんな」
 そう言ってバタンと乱暴な音を立てて閉った扉は、二度と開くことはなかった。
「誰がションベン臭いですってっ? 聞き捨てならないわねぇ、その台詞。私の信望者達が黙ってないわよ、このっ、祭りバカっ!」
 腹立ちまぎれとばかりにもう一度、長い足で武具屋の扉を蹴りつけてから、シシィは肩を怒らしながら教会に向かって歩き出す。
「ゴメンね、シシィ。この時期のおじさんは気が立っていて……許してあげて」
「なんでアンタが謝るのよ。放って置きなさいよ、あんなハゲ!」
 夏祭りまであと二週間、だいぶ煮詰まっているに違いない。あとで様子を見にいこうと思いながら、ナイは慌ててシシィのあとについていった。
     *
 古くて狭い教会の中では、老若男女が押し合いへし合いしていた。日曜の礼拝ならいざ知らず、急な呼び出しに何ごとかと不満の声もちらほらと聞こえてくる。
 赴任したての歳若い司祭は、もったいぶった様子で辺りを見回した。
「みなさん静粛に。ことは急を要します」
 そう前置きし、壇上の女神像と端の方に座っている老齢の村長に一礼した。
「昨今、村の廻りに出没する魔物どもが、わけもなく凶暴化しつつあることを、皆さんお気づきのことと思います」
 司祭に言われるまでもない。最近、薬草を採りに村の外へ出る回数がめっきり増えたのは、魔物に襲われる者が増えてナイの煎じた薬がよく売れるからだ。
 夏祭りが近いことで村人の出入りが激しくなったせいもあるが、ナイは昼間に魔除けの鈴も効かない魔物に出会ったばかりだった。
 運命的な出会い……のあと、村までの道案内を頼まれたナイだったが、村に着くまでのほんの僅かな道のりでさえ、何度も魔物に遭遇したのだ。まるで勇者自身が、魔物を引き付ける呪われた道具でも有しているかのように。とはいえ、よれよれの勇者を置き去りにするわけにもいかず、村の門を潜る直前まで回復役として戦闘に加わっていたのだった。
 魔物達は、強まりつつある魔王の魔の気を受けていきがっているのだろう。
「しかるにそれは、千年もの昔、創世の女神の加護を受けたいにしえの勇者に北の地に封印されたといわれている魔王が、甦りつつあるからです――」
 何者かが魔王を封印している七つの宝珠を持ち去ったらしいと司祭は続けた。
 しかしその魔王復活の噂自体は一般的なもので、数年前から近隣の村々で茶飲み話にすら交わされている話題だった。いまさら知らぬ者はいない。
「しかし恐れることはありません。昨夜、我等が女神からの託宣がくだりました」
 司祭が自分に酔ったように声を震わせながらそう告げると、せまい教会の中に押し込められた村人達は、急に興味を持ったようにしんと静まり返った。
「千年の時を経ていにしえの勇者が甦り、この呪われた大地へ降り立ちました。しかも故郷を旅立ったばかりのよわい十六歳の勇者は、いま、この村に来ているのです!」
「――――!」
 声にならないどよめきが、まるでさざ波のように教会の中を広がっていく。
 それと同時にナイは、美化され紗まで掛かった血まみれの勇者の笑顔を思い出す。なぜだか動悸が激しくなり、胸に手を当てて落ち着くまでじっと耐えねばならなかった。

「つきましては、村をあげてみなさんにご協力して頂かなくてはなりません」
 司祭が法衣の下からやおら取り出したのは、まるで数年来書き溜めた日記のように分厚い紙束だった。壇上の端の方でうつらうつらしている村長に向かって、託宣からこれを書き起こすのに徹夜しましたよ、と言って司祭は恥ずかしそうに頭を掻いた。
「託宣に従い、勇者にはこの村でこなしてもらわなければならない筋書きがあります」
 勇者はこの村で情報を集めて、北の祠へ向かってもらう。祠の奥にある迷宮を辿って辺りの魔物を仕切っているといわれている幹部級の魔物を倒し、魔王を封印する七つの宝珠のうちのひとつを手に入れてもらわなければならない――。そう続ける司祭の声を遮って、不意に村長が目覚めたかと思うと、
「いつのまにか北の祠に魔物が住み着いて、こりゃあどうしたものかと悩んでおったが、まさか勇者さまがお訪ね下さるとは。これぞまさしく神の采配、ふぉっふぉっふぉっ」
 それだけ言ってまた眠り込んでしまった。
「……また、情報の混乱を避けるため、決められた者以外は筋書きに絡む情報を勇者に与えてはいけません。話し掛けられても、日常会話でしのいで下さい」
 手にした紙束を忙しくめくりながら、司祭は村人の中から女神の御手たる役割を持つ者を次々と選んでいった。初心者の心構え、変わった武器の使い方、夜になると魔物が強くなるといった冒険者豆知識から、北に祠があること、北の祠に住む魔物が封印の宝珠のひとつを持っていることなどの筋書きに絡む重要な情報を、勇者に与える役割である。
 比較的時間に余裕のあるものが選ばれた。なぜならば、勇者に問い掛けられやすいように村の中で昼間から待機している必要があるので、仕事にならないからである。
 もちろん、道具屋のナイや武具屋のオヤジといった商売人はその役目に選ばれることはない。ナイの台詞は勇者に出会う前から『いらっしゃいませ』に決まっていた。
「ねぇ……どうしよう、シシィ?」
 ナイは隣りに座す幼友達の袖をそっと引いて囁き掛けた。なにせ村の入り口で勇者と共に、魔物と派手に戦闘をやらかしている。司祭や村人に見咎められるのではないかと、内心ヒヤヒヤしていたのだ。
 しかし、シシィは心ここにあらずといった風情で、いまひとつ反応が鈍かった。難しい顔をして宙を睨んでいたかと思うと、急にのぼせたように赤くなる。それでいて、ひと目を気にして辺りをせわしなく見回したりしているのだ。司祭の説法をありがたく聞くような性質でもない。あとで理由を聞いてみようとナイは思った。
「さっき、西から来た勇者さまを村へご案内したの……余計なこと喋っちゃったかも」
 うっすらと頬を染めるナイに気付いているのかいないのか、
「黙ってりゃ、バレやしないわよ。そんなことより、アンタ勇者に惚れたらダメよ。いずれ、村を出て何処かに行ってしまうんだから。実はどこかの国の王子さまか何かだったりしたところで、わたしら村娘は、よくても二号さん止まりよ――」
 と、立て板に水とばかりの流暢な喋りでシシィは駄目押しをしたが、
「って、ええっ? 勇者さまを村へご案内っ?」
 内緒話のはずが最後の方は大声になって立ち上がったので、壇上の司祭を始め周りの注目が集まった。さすがのシシィも顔面蒼白で腰を下ろす。いや、この程度で恥ずかしがるシシィではなかったはずだが、ナイが背を擦ると小刻みに震えていた。一体何がこの気丈な幼友達を動揺させているのだろうか。
「えー、ゴホン。では、くれぐれも出過ぎた真似だけはしないように願います」
 あらためて一同は釘を刺され、それで非常呼集は解散となった。
「ちょっとシシィ、どうしたの?」
 司祭の言葉の余韻も消えぬうちに、シシィは教会の扉を蹴破らんばかりの勢いで猛然と外に飛び出していく。その様子を怪訝に思いながらも、ナイは人ごみを掻き分け、薄闇の中幼友達のあとを追い掛けたのだった。
     *
 勝手知ったる小さな村の中のこと、あとを追うのはそれほど苦ではない。教会も道具屋も武具屋も、そして目的の酒場兼宿屋も、全て同じ通りに面しているのだ。
 ナイが息を切らして明かりの灯されたばかりの酒場の扉を開けると、
「ちょっとアンタっ、勇者さまじゃなかったのっ?」
 馴染みの酔客に混じって、見慣れぬ青年剣士とシシィが言い争いの真っ最中だった。
「それはお前が勝手に勘違いして、じゃんじゃん酒を出してきただけのことだろう?」
 カウンターに頬杖をついた青年剣士は、シシィの激昂などどこ吹く風とばかりに麦酒の椀をあおった。シシィの淡い金髪とは異なり、刈り入れ時の麦の穂のように濃い金髪はわずかに首に掛かり、瞳も同じように深い青色の、ほれぼれするような美丈夫である。
 しかし、よく使い込まれたいぶし銀の鎧や凝った細工の鞘に収められた長剣は、それだけではない、実践で鍛え上げられたある種の風格を青年剣士に与えていたのだ。
 ナイがこっそり『商業的視覚』で覗いてみると、身に着けた鎧も長剣も特注のようで算定不能、職業欄もただの旅の剣士としか記載されていなかった。
「んですって! 違うのなら違うって言ってくれればいいじゃないっ!」
 酒代を払えと言い張るシシィは、ナイのような『商業的視覚』を持たない。相手の健康状態を調べ、道具や武具を鑑定するといった必要がないからだ。シシィは青年剣士の見た目や雰囲気で勇者だと勘違いして、酒をガンガンおごってしまったらしい。
「大体、勇者が最初っから俺みたいに熟練の剣士のわけがないだろ?」
 また杯をあおり、ぷはーと酒臭い息を吐き掛ける青年剣士に、さきに武具屋のオヤジが傷をつけたシシィの堪忍袋の緒が、ついにはじけ飛んでしまった。
「このぉ、腐れ剣士がぁ!」
 そう一声残して、シシィがカウンターの青年剣士に掴み掛かったのだ。不意を突かれたか納得ずくか、青年剣士は勢い余ってシシィごと床に転がり落ちる。
「ひゅーひゅー、そんな若造やっちまえ、シシィちゃん!」
 普通の喧嘩なら賭けが始まるところだが実力の差は歴然、周りの酔客達は全員シシィの味方をして、いたずらに囃し立てるだけだった。シシィに馬乗りにされ一方的に殴られている青年剣士も、まんざらでもないらしい。とはいえ、カウンターの奥から困り顔を覗かせているシシィの父親と目が合ってしまい、ナイは仲裁に入らないわけにはいかない。
「シシィ、みっともないから止めなよぉ!」
 ――そうか、勇者さまは未熟でいいんだ。
 激昂する幼友達を抱き止めながらも、ナイはこの青年剣士の言葉に不思議と納得していた。半人前だからよれよれでもいいのだ。半熟勇者でも経験を重ねていけば、いつかは青年剣士のように強くなれるに違いない。
 そして、ナイは恐らく二階の宿屋で寝込んでいるだろう勇者に思いを馳せた。大猫に支えられるようにして村の門をくぐった傷だらけの背中。様子を覗いてみたい衝動に駆られたが、ナイは慌てて妄想を追い払ってシシィを抱く手に力を込めるのだった。


2.勇者さまはつらいよ
 日が傾き、暑さも境を越えた時刻。カランコロ〜ンと店の扉に取り付けた木製の鈴が鳴り、薄汚れた少年と一匹の獣が店内に入ってきた。黒いしなやかな大猫は、背負ったとトカゲ型の魔物をドサリと床に落としてから、座り込んで全身くまなく繕い始める。
「いらっしゃいませ〜、勇者さま」
 そろそろ来ると思っていたのだ。いつもの白い手袋で棚に商品を補充していたナイは、亜麻色のおさげ髪を揺らし極上の笑顔で振り返った。
 明るく清潔な店内には、麻の背負い袋に皮の水袋、火口箱にランタン、厚い毛織のマントにひねこびた木の杖、切り売りロープなどの雑貨類が、手に取りやすいように広げて並べてあった。そして棚に並んだ焼き物の壷の中には、ナイが村の外で採った薬草を煎じて作った対魔物用の丸薬も入っていた。体力回復、毒消し、麻痺取り、気付け薬、そして高価な万能薬などである。他にも咳止めや熱冷まし、下痢止めや虫下しなどの普通の薬も置いてあった。昔は各家庭に伝わる薬草の煎じ方があったらしいが、当世では流行らないようで、対魔物用の薬を煎じるのは村でナイひとりだけだった。とはいえ、需要と供給からいえば当たり前の淘汰かもしれない。
 平たく言えば、道具屋とは町の雑貨屋と薬屋が混ざったようなものだった。
「また派手にやられましたねぇ。お身体は大丈夫ですか?」
 あの西の野原での一件以来、コトリ村を根城と決めた勇者は、毎日定期的に道具屋を訪れるようになっていた。理由はふたつあって、体力回復や毒消しなどの薬の補充はもちろんだが、退治した魔物の引き取り先を決める相談に来るからだ。
「宿屋に戻って寝れば平気さ。さっそくだけど、鑑定を頼むよ。道具屋さん」
 ――少しくらい手当てさせてくれてもいいのに。
 店の隅には勇者のために小さなイスを用意してあったが、いつもの通り立ちんぼだ。ナイは店の奥からよく冷えた水の椀を持ってきて、せめてもとばかりに勇者に差し出す。
「あっ、ありがとう」
 ナイは内心の落胆を押し隠して魔物の前にしゃがみ込む。緑色のトカゲ型の魔物は瞬膜の掛かった縦長の目で、恨めしげに宙を見上げていた。ナイは『職業的視覚』を使い、教会と武具屋の引き取り価格を見比べる。
「ああ、これなら教会よりも武具屋に持って行った方が高く買ってくれますよ。確かこの魔物はまだ、揃ってなかったはず」
 基本的には、村の狩人や勇者などの冒険者が倒した魔物は、教会か武具屋のいずれかで買い取って貰える。武具屋に卸せば一部の魔物の皮や牙、そして肉などが村を支える生活物資となる。また魔物の討伐は各国で奨励されているため、その代行機関としての教会に運ぶと報奨金が出ることになっていた。だから冒険者や狩人は教会か武具屋か、引き取り金額の高い方に魔物を持ち込むことになるのだ。
 西の野原で初めて出会った時に倒したイノシシもどきもその場でナイが見立て、武具屋にもって行くように助言したのである。
「それと、いつもの体力回復を三十個と、毒消しと麻痺消しを五個ずつ」
「……毎度ありがとうございます」
 そして勇者はいつもの通りたくさんの薬を抱え、せっかく身奇麗になった大猫はまたトカゲ型の魔物を背負い直して店から出ていった。いっそ勇者の冒険について行き、道具さえあればその傍らで薬草を煎じて飲ませた方が早いのではないかしらとナイは思った。
 薬がはけるのは良いことだが、勇者の懐具合を考えるとナイの心は複雑だった。先日、隣りの武具屋のオヤジに聞いたことを思い出す。
 一度、勇者が魔物を卸す以外に店を訪れたことがあったそうだ。店内に所狭しと並べられた武具・防具のたぐいをひと通り眺め、深い溜め息をついて手ぶらで帰っていったらしい。持ち合わせが足りなかったのだろう。
 確かに勇者の皮の鎧は耐用年数を遙かに超えた代物だった。しかし、魔物を狩ることで生計の大部分を立てる冒険者達に対して、決して武具屋が法外な値段設定をしているわけではない。恐らく勇者は薬にお金をつぎ込むので、装備にまで手が回らないのだ。
『世界を救う勇者さまなのに、お金がなくて困ってるってどういうこと?』
『俺に言われてもなぁ』
 その時は武具屋のオヤジに食って掛かり、いたずらに困らせてしまった。
 北の祠の魔物退治の筋書きは、村人にとっても勇者にとっても無報酬だ。もっとも、筋書きの最中で倒した魔物は、勇者の正当な取り分であった。
「勇者さまに、何か実入りの良いお仕事が入るといいのだけれど――」
 このままでは、防具の新調など夢のまた夢だ。ナイは大猫の揺れる尻尾を思い出しながら、しばし物思いに沈んだ。
     *
「おじさん。ひと休みして、一緒にお昼でも食べましょう?」
 ナイは料理の盛られた盆を両手に、お尻を使って扉を押し開ける。武具屋の店の扉ではなく、裏から回った作業小屋の方だった。
 武具屋のオヤジの本業は鍛冶職人である。武器や鎧も作れぬわけではなかったが、こんな小さな村では鍋や釜の修理、蹄鉄や鍬の焼き直しが主な仕事だった。
 しかしこの時期はもっぱら開店休業中である。明かりも灯さず締め切りの小屋の中、金床の火は落とされ青白い炎と熱気を放つことはない。代わりに目に沁み、涙の出るような強烈な臭気がたち込めている。それは、魔物の、獣の臭いだった。
 武具屋のオヤジは薄暗い小屋の真ん中で、鍛冶で鍛え上げられた逞しい赤銅色の両腕を組み、黙ってあぐらをかいていた。
「これじゃあ、いくらなんでも身体に障るわ。空気を入れ替えましょう」
 咳き込みながら、ナイは戸板を開け放つ。
「……………………」
 日の光の下にあらわになる異様な物体を、ナイは黙って見上げた。
 まず、本体は巨大なドラゴン型の魔物だった。がに股の二対の手足に獰猛そうな鋭い爪が光っている。全身を大振りな硬い鱗に覆われ、長い尻尾と翼が生えていた。まだ作り途中なのか、胸の辺りの鱗の上に炭で丸く印がつけてある。
 しかし本来の場所に頭がなかった。代わりに奇妙に長い首が数え切れないほどにょきにょきと生え、その先には異なるさまざまな魔物の頭がついていた。
 よく見れば、先日勇者が持ち込んだと思われるイノシシ型やトカゲ型の魔物の頭もあり、目の部分にはよく磨かれた石が嵌め込んであった。もちろんこんな形をした魔物は存在せず、村の外で出会えばひきつけを起こしそうな光景である。しかし、ナイはオヤジの深い情熱に感心こそすれ、毎年のことなのでそれほど驚くことはなかった。
「どうだい、ナイちゃん。今年の出来は?」
 改心の出来とばかりに意気揚々と訊ねる、左目に眼帯を付けた武具屋のオヤジに、
「ええっと……」
 ――これ、どうやって小屋の外に運ぶのかしら。
 ナイは最初にそう思った。口には出さなかったけれど。小屋の入り口よりも明らかに大きかったからである。頭がいっぱいあるからすごく運び辛そう、とも思ったが、
「カッコイイ……かな?」
 気を使ってそう答えると、オヤジはたったひとつ残った右目に涙を浮かべながら、
「いやー、ナイちゃんにもわかるかい、俺の魔王の素晴らしさが――」
 と言いながら何度も頷くので、それでよしと思うことにした。夏が近付くと本来の武具屋がおざなりになってしまうとしても、こちらの仕事も村人から望まれているのだ。
 武具屋のオヤジは鍛冶職人であると共に皮なめし職人の技術を持つ、コトリ村では唯一の『似せ物師』だったからだ。
 この村に限らず、夏祭りにはいにしえの勇者が魔王を封印するという寸劇が付き物である。勇者役の役者は芝居がかった剣士の装束を身に着けるだけだが、千年前に封印された魔王の本当の姿を知るものは誰もいない。だから『似せ物師』と呼ばれる皮なめし職人の技術を持つ者達が自由に想像力を振るい、本物の魔物の剥製を繋ぎ合わせさまざまな魔王の姿を作って、夏祭りを盛り上げているのだ。ご城下などでは複数の『似せ物師』達が腕を競い合い、多種多様な魔王が往来を引き回されることもあった。
 そして魔王の作り物は寸劇に使われるだけでなく、家々を巡って魔の気を吸い取らせ、最後には燃やして魔を祓うという役割も担っているのである。ナイも幼い頃は夏祭りのたびに魔王の作り物を見ては泣きべそをかいた。泣き虫も魔王の作り物に吸い取られ、強い子になるという言い伝えが残っているのだった。
「ずいぶんと首がたくさんあるのねぇ。全部で何本あるの?」
「……今のところ七十……九……だな。今年は魔物の当たり年だから、最終的には九十九本になると思う」
 魔物の数が多いのは、魔王の目覚めを受けて魔物の活動が活発になっていることの現われだった。本来ならあまり望ましいことではなかったが、この『似せ物師』という人種にとってはどうでもいいことである。魔物の集まりさえよければいいのだから。
「スゴーイ。でもどうしてそんな中途半端な数なの? どうせなら切りよく、百本とかにすればいいのに」
 何気なく口にしたナイだったが、オヤジは少し戸惑うように早口で、
「そいつは駄目だ。俺達『似せ物師』の間では、首の数は九十九本までと厳格に定められているんだ」
「どうして?」
 ナイが小首を傾げて訊ねると、オヤジは血走った右目を細めてニヤリと笑った。
「……それは、百本になると、作り物が本物の魔獣になっちまうからさ」
「うそー」
 ナイは曖昧に笑った。そんなことは、おとぎ話でも聞いたことがない。
 幼い頃、毎年夏祭りで魔王の作り物を見ては怯えて泣いていたナイであったが、十四歳になったいまでも恐がると思っていたら大間違いである。
 カゴを背負ってひとりで野外に薬草採りへ赴き、小さな胸にはかの人物への仄かな恋心を抱く立派な大人の女性のつもりだった。もっとも、武具屋のオヤジから見れば、ナイはいつまで経っても小さな女の子のままなのかもしれないが。

「とにかく、ここで食事はアレだから……やっぱりお店で食べましょう」
 作業小屋だけでは飽き足らず、辺りに散らばった魔物のなれの果て――防腐処置済みの手足や胴体――に躓かないようにしながら、ナイは居住部分をあとにした。
「よいしょっと……ふぅ」
 こちらも締め切りの戸板を開くと、店内の壁一面に飾ってある長剣や盾、名も知らぬ武器の数々が剣呑な輝きを放つ。同じ店でもナイの道具屋は薬草臭いが、オヤジの武具屋は鉄の匂いが漂っていた。
 特に圧巻なのが入り口付近に置かれた年代物の大鎧で、その手にはナイの頭ほどもあろうかという鋼鉄製の大きな槌(つち)を携えていた。オヤジが若かりし頃に冒険者の真似事をしていて、その時身に付けていた鎧だと聞いたことがあった。
 持ち上がるかしら……ナイは少しだけ悩んで止めた。うっかり足の上にでも落としたら、骨が砕けてしまいそうだったからだ。
 しかし、店内はすでに武具屋にあらず。テーブルだけでなくさまざまな生活用品が持ち込まれ、だいぶ前からオヤジの住処となっていることが窺い知れた。
 前に勇者が何も買わず逃げ帰ったというのは、床に敷きっぱなしの夜具だとか空のまま転がった酒樽だのといった男ヤモメの生活臭がぷんぷんと漂う店内にいたたまれなくなったのではないか。ナイは簡単に室内を片付けながら、そう思わずにはいられなかった。
「おぅ、ありがてぇ。ちゃんとした食事をすんのは久し振りだっ!」
 ナイがテーブルの上に、粗末だが心のこもった手料理――今年出来た麦を挽いて焼いた固焼きパンとイノシシもどきの燻製、そして豆と野菜のスープ――を並べると、まるでそれまで食べることを忘れていたような勢いで、オヤジはパンをむしり取りスープで口へと流し込み始める。
 向かいの席に腰を下ろしたナイは、さすがに手袋を外して木のさじを握った。
「何にも食べてないんじゃ、麦粥でも炊いてきた方がよかったかしら?」
「あんなもん、メシのうちに入らねぇや」
 隣家に住む武具屋のオヤジは、五十も近いというのにいまだ独り身だった。亡き母親の幼友達でもあり、両親に先立たれたナイを実の娘のように可愛がってくれていた。
 普段は別々の生活だが、夏が近付き『似せ物師』としての本性があらわになると、オヤジは商売も寝食も忘れて『仕事』に没頭してしまうので、こうやって様子を見に来るのだ。それが母親の遺言のひとつでもあった。
 去年などはうっかり忘れてしまい、栄養失調で衰弱死寸前のところを、たまたま草刈りガマの修理を頼もうとやってきた村人に発見されことなきを得たのである。
 ナイの薬が最近よく売れるのは、魔王の作り物の材料として必要な魔物を、村の人々も協力して捕獲しているからであった。ちなみにオヤジが隻眼になった理由は、以前どうしても欲しい『材料』が揃わない時に自ら探しに荒野へ赴き、目当ての魔物に挑み掛かって見事打ち倒した時にもっていかれたのである。
 その年の夏祭りの終盤、燃え盛る炎の中で心血注いだ力作が崩れ落ちるのを見ながら、目玉一つと引き換えにアイツを手に入れたんだと満足げに語るオヤジの横顔は、異様な迫力を帯びていた。ナイは幼いながらも、オヤジの『似せ物師』としての尋常でない執念を垣間見てしまったのだ。
「欲しいなぁ……アレ」
 いつの間に食べ終わったのか、オヤジは席を立ち、窓に張り付いている。
 見れば開け放った戸板の下を、いつものように傷だらけの勇者と忠実なる大猫が通り過ぎるところだった。大猫の背にはこの間獲ったのと同じイノシシもどきが乗っている。
 武具屋ではもう必要のない魔物だと言われているのだろう、この先の教会に持っていくつもりらしい。
「あら、イノシシもどきはもういらないんじゃないの?」
「……アイツの頭を、俺の魔王の胸に付けたいよなぁ……こう、口を大きく開けさせて、ガオゥってな……カッコイイだろうなぁ」
 イノシシもどきのことではあるまい。一瞬想像してから、ナイは慌てて首を振った。
「駄目だよっ、おじさんっ、あの子は勇者さまの大切な相棒なんだからっ!」
 親父は不満そうに鼻を鳴らし、俺にだって分別があらぁなと答えた。しかし窓枠からハゲ頭を乗り出して、大猫の後ろ姿をもの欲しそうに見詰めている。
「だってなぁ。アレはただの魔物じゃねぇ、ブラッディパンサーの幼生だぞ。世が世なら、魔王の膝の上でよしよしってアタマ撫でられているって代物だ」
「えっ、そうなの? 確かに、猫にしては随分頼りになると思ったけど。でもダメよ」
 ただの大きな猫などと思っているのは、勇者とナイくらいのものである。教会から非常呼集が掛かっていなければ、魔物を連れた流れ者など、本来なら青年団員総出で村の外に叩き出されてもおかしくないのだ。教会に寄ったあとは道具屋においでになるのかしら、店に戻ろうかとナイがそわそわし始めた時だった。
「惚れちゃあなんねぇよ、ナイちゃん」
「だから、クロちゃんはダメだって……えっ?」
 ナイは思わず息を飲み、手にしたさじをスープの中に落としてしまった。
「よそ者は格好よく見えるかもしれないが、アイツはいけねぇ。いまはガキでも、魔王に立ち向かうことを運命付けられた男だ」
 一緒に暮らしちゃあくれねえよと続けるオヤジはナイを振り返らない。振り返れば、ひとつきり目玉一杯に溜めた涙がこぼれ落ちてしまうからだった。武具屋のオヤジは、ナイを我が子のように思っているのだから。
「そんなこと……そんな……」
 ――そんなことないわ、勇者さまはただの金払いのいいお客さんで……。
 尻すぼみになった言葉は、スープの海に飲み込まれる。確かに、ただの冒険者の懐の心配をするのは、商売人として間違っていた。
 シシィの指摘はノリツッコミの延長線上だったとしても、オヤジの言葉は無視出来ない。誰にでもわかるほど自分の想いは強いものなのだろうか。どうせ淡い思いのままで終るのだから、胸に秘めている分には何の問題があるだろう。ナイには、自分の気持ちというのがよくわからなかった。
「いやぁ、俺の買いかぶり過ぎだといいんだけどもよ、勘弁してくんな。年頃の娘は、よそ者に憧れちまうことがあるみたいだからな。……じゃあ俺はまた作業に戻るわ」
 ご馳走さまと言い捨て店をあとにするオヤジの背中には、いいしれない哀愁が漂う。
 ふとナイは両親のことを思い出した。生前の母親から、武具屋のオヤジと幼友達だったことを聞いて知っていたのだ。結局、母親は流れ者の父親と結婚して自分を生み、武具屋のオヤジはいまだひとり身だった――。
 よそ者に憧れる娘時代の母親の姿と、いまの自分の姿を重ね合わせているのかもしれないと思いながら、ナイはスープ皿の真ん中に浮かぶさじをじっと見詰めた。
     *
「えっ、僕に護衛を頼みたいって?」
 最初に店で声を掛けた時、勇者は戸惑っていたようだった。しかし護衛する場所が村周辺の土地で、報酬が戦闘時の薬使い放題と聞くと快諾した。
 勇者にとっては願ってもない申し出のはずである。生活費を稼ぐためとレベル上げで魔物との戦闘に明け暮れる日常。それをなんら変える必要はなく、その上薬を買わなくて済むことにより経済的損失を最小限に抑えられるからである。
「いやーっ、ありがとう、ありがとう!」
 黒い瞳を潤ませ、ナイの手袋越しに両手を掴んでブンブンと振る勇者の姿を見ていると、なにやらその窮乏ぶりが窺えて、人知れず泣けてきた。
 護衛の依頼は、勇者のために何か出来ることはないかと考えた苦肉の策だったのだ。とはいえ、ナイも決して裕福ではない。いままでに薬草採りで冒険者など雇ったこともなかったが、少しでも勇者の助けになればと考えたのだ。
 また、教会で司祭から注意されている通り、必要以上の勇者との接触は禁忌である。胸に一抹の不安を抱きはしたが、北の祠の筋書きの情報にさえ触れなければ、普通の冒険者と同じように扱ってもいいはずだ。それがたとえ、乙女心ゆえの拡大解釈であったとしても――。その日から、ナイは腰の魔除けの鈴を外し、勇者ともう一匹とともに野外に出るようになったのである。
 まず手始めとして麻痺消しの薬草が採れる南の丘に行って勇者を鍛えることにした。死んだ父親代わりの武具屋のオヤジから、若い時の武勇伝を聞かされて育ったナイである。冒険者の何たるかは、多少の心得があった。村の南、小高い丘の周辺に住む魔物は、若干弱めで倒しやすい。未熟な勇者にはうってつけの場所だったのだ。
 一般的に、北に生息する魔物ほど強く凶暴になる傾向がある。それは魔王が北の地に封印されているため、より近い方が魔の気を受けやすいためと言われていた。
 逆に南に住む魔物は比較的大人しく、人間に狩り出されたりしなければ、普通の動物とほとんど変わらないものも多いのだ。魔王の魔の気よりも、地上にあまねく降り注ぐ創世の女神の慈愛の力の影響を色濃く受けるのだろう。
 勇者が南の魔物を苦もなく倒せるようになると、ナイは初めて出会った西の野原に行って体力回復薬になる薬草を採った。その次に村の向こう、同程度の強さの魔物がいる東の船着場の辺りに行き、大抵の魔物の仕掛ける状態異常を治してしまうという万能薬になる薬草を探した。ちなみに東の船着場といっても、川に渡し舟が一艘繋いであるだけの小規模なもので、川向こうの東の地との行き来をするだけのものだった。
 ナイは、勇者と大猫が複数のコウモリ型の魔物とやり合っている間、ふと河向こうに広がる見知らぬ大地を眺めやった。もちろん後方支援で常に勇者の健康状態の確認は怠らない。すでに手慣れたものだった。
 ――勇者さまはいつか村を出る。渡し舟に乗って北に旅立ってしまうのだ。
 そう思うと、なぜだか胸が苦しくなってナイは俯いた。勇者に惚れるなと言ったシシィや、武具屋のオヤジの顔が浮かんでは消える。
「ぐぎゃぅ……!」
 魔物に血を吸われ、珍しく体力の減った大猫にナイがすかさず体力回復薬を勧めると、心底嫌そうな顔をしながらも素直に丸薬を飲み込んだ。
「偉いぞ、クロちゃん。それでこそ僕の相棒だ!」
「がうっ!」
 あの時、西の野原で勇者を助けなければよかった、あのまま見捨ててしまえばよかったのかもしれない。ただの旅人ならともかく、勇者に手を貸すこと自体、本当は村の決まりごとに反しているのだ。ナイの心はサオを失った渡し舟のように揺れる――。
「これって、どうだろうね。武具屋のオヤジは買ってくれるかな?」
 いつの間にか戦闘が終っていた。勇者は地面に転がって動かなくなったコウモリ型の魔物達の足を縛って、大猫の背に左右均等になるようにぶら下げる。
「道具屋さん、どこか具合でも悪いの?」
 ナイはなんでもないと言うように黙って首を振った。よく日に焼けた子供のような顔をした勇者に問い掛けられると、胸の奥のしこりがすうっと溶けて、ナイはそれまで何を悩んでいたのかわからなくなってしまうのだった。

 そして護衛を依頼してから十日ほどが経過した。二人と一匹は、とうとうこの辺りでは一番凶暴な魔物が生息するという、北の祠の周辺にまでやって来た。
 遠くに見える丘のようなものは周囲を毒の沼にぐるりと囲まれていた。その内部は空洞になっていて、奥に広がる迷宮にはいずれ勇者が出向いて倒さねばならない、幹部級の強い魔物が潜んでいるのだ。
 しかし、この段階ではまだ勇者は北の祠の情報を得ていないはずだった。
「勇者さま、大丈夫ですか? 休まれた方がいいのでは?」
「平気、平気……道具屋さんは元気だね……まったく、尊敬するよ……」
 勇者の顔はのぼせたように真っ赤である。先ほどの戦闘で魔物から受けた毒は毒消しで中和したばかりだった。弱った身体が降り注ぐ太陽の熱にやられたのだろう。
「……くぅ……」
 隣りを歩く大猫も、主を見上げて心配そうにヒゲをピクつかせる。
「やっぱり休みましょう。あそこの木の根方がいいわ」
 麦わら帽子に大きなカゴを背負ったナイは、息も絶え絶えの勇者に肩を貸しながら、すぐ傍の木の影まで連れて行った。
「……すま……な……い……」
 そう言って勇者は倒れるように仰向けに転がった。痩せ我慢だったのだ。
 よく考えれば皮鎧の上に分厚いマントと、どう考えても暑そうな格好だ。とはいえ、脱いで歩けば魔物との戦闘中に余計な怪我が増えてしまう。取り敢えずいまだけはと上半身を支えてマントを脱がせ、薬草カゴから皮の水袋を取り出して飲ませた。
 勇者の隣りで大猫が横たわり、大きな顎を主の身体にのせてぴったりと寄り添う。
「大丈夫よ、クロちゃん。ちょっと熱にやられただけだから」
「……田舎を旅立ってすぐに拾ったんだ。その時は弱っていて……少し大き目の猫だなーとは思ったんだけど。あっという間にこの大きさになってしまったよ……」
 水を飲んで持ち直したのか、勇者は目をつぶったまま呟いた。
「女神さまの天啓に導かれ、なんとかここまでやって来たけど……コイツがいなけりゃ、僕はとっくに死んでた……」
 魔物の仕業による状態異常なら手持ちの薬でなんとでもなるが、それ以外の体調不良はこの場ではどうにも出来なかった。ナイに出来ることと言えば――。
「勇者さま、目を閉じてらして下さいね」
 勇者の傍らに座したナイは、右手の手袋を外した。もう一色足せば黒になる――そんな微妙な色合いの手を、紅潮して汗ばんだ勇者の額にそっとのせる。
「………………」
 黙り込んだ勇者が何を感じたかはわからないが、実はこの数々の薬草に染められた手には、ささやかながら治癒の力が宿っているのだ。亡き母親はかなり大きな傷を治したりしたらしいが、ナイはまだ染まりが浅いのか気休め程度にしかならない。創世の女神の慈愛の力をより多く受け入れる薬草の汁に染まった手は、それだけで地に降り注ぐ聖なる力を取り込みやすいのだと亡き母親から聞いていたが、ナイにはよくわからなかった。
 道具屋が道具入らずで人を癒してしまうなど、創世の女神もずいぶんと皮肉な能力を授けたものだと思っていたが、こうやって勇者の役に立つのなら悪くはない。
 そうやって、どのくらいしていたのか。
 しばらくすると勇者の顔から赤みが引き、苦しげだった呼吸は規則正しくなった。どうやら体調は回復したようだ。
 そろそろいいだろうと手を外そうとした時、ふいに勇者の目が開いて、
「夢をみたよ。そこでは、神の国では僕は取るにならない人間で、誰からも必要とされていないんだ……変だね。僕は勇者で、みんなのために頑張らなけりゃならないのに」
 とはっきりと語った。司祭が受けたとされる女神の託宣と同じものだろうか。よくわからないながらも、ナイは黙って頷いた。
「――――!」
 突然、大猫が耳をぴんと立てて起き上がる。首を巡らせ見据える先には、彼方から近付いてくる、恐らくは人間の影があった。陽炎の揺らめきの中、かの人物はナイ達からそう遠くない場所で止まる。
 陽光をものともせずに跳ね返すいぶし銀の鎧に短めのマント、そして長身の背には凝った象嵌の鞘に収められた長剣の柄の頭が覗いていた。刈り入れ時の麦の穂のように濃い金髪の下で、夏の空のように濃い青い瞳が笑っているかのように細められている。
 それは、あの青年剣士だった。

「酒場の剣士……さま?」
 ついナイは口走ってしまったが、それは別称である。昼間から酒場で呑んだくれているのを、シシィがそう名付けて勝手に呼んでいるのだ。
「道具屋のナイちゃんだっけ。『酒場の剣士』とは、また酷いなぁ」
 女受けの良さそうな爽やかな笑みを浮かべる青年剣士に、ナイは黙って会釈をする。
 酒場で何度か面識があるが、青年剣士と野外で出会うのは初めてだった。何の因縁か、勇者が村に来るのと同時期に姿を現し、気がついたら酒場のヌシになっていたのだ。
「アンタの煎じた薬が良く効くって評判なんだって? アイツから話は聞いてるよ」
 ――勇者さまにだって、まだ名前を呼んで貰ったことないのに。しかも、シシィのことをアイツ呼ばわりしてるし。
 ナイのご機嫌は夕立前の空模様のように悪化の一途を辿った。青年剣士の視線を気にしつつ、手袋をはめ直す。それとは逆に、いつの間にか身体を起こしていた勇者は、その存在をほとんど無視されているにも関わらず、黒曜石の瞳をきらきらと輝かせていた。
「あなたは……僕の……」
 何ごとか話し掛け、勇者は口ごもる。旅回りの一座の勇者役の俳優に握手をねだる子供のような、強さへの純粋な憧れをその瞳は宿していた。ナイは密かに首を捻る。
 二人はこの二週間近く、同じ宿屋に逗留しているのだ。生活時間帯が異なると言っても、酒場での飲み食いの時にでも出会っているはずだった。初対面ではないだろうし、知り合いなら挨拶ぐらいしたっていいだろうに。
「こんな場所でおネンネとはね。勇者ってのは、いいご身分だなぁ」
 ナイに話し掛けるのとは打って変わった剣呑な口調に、勇者は寝起きで皮肉がわからなかったのか、ただ目を見開いている。いや、違う。青年剣士がゆっくりと背中の剣の柄に手を掛けたのだ。ナイの背筋に緊張が走る。
 まさか酒代の足しに、自分達から金品でも奪おうというのか。世界を救うはずの勇者の身包みを剥ぐ? ナイの思考はあり得ない出来事に硬直する。
「――――!」
 唐突に、白刃が一閃した。毒々しい紫色したカエル型の魔物が、綺麗にふたつに割られて地に落ちる。何の予備動作もなく、剣士がいつ剣を抜いたのかもわからなかった。
「弱った勇者の気配を嗅ぎ付けて、団体さんがお出ましか。そっちのブラッディパンサーは、勇者の寝首をかいて主への手土産にでもするつもりかい?」
 主というのは恐らく勇者のことではあるまい。しかし大猫の口には、やはり勇者を狙っていたであろう、水掻きを痙攣させているカエル型の魔物を咥えていた。ナイ達を守るように前に出て、耳を寝せて低く唸った。
 いつの間にか辺りに複数の魔物が忍び寄っていて、すっかり取り囲まれていたのだ。
「……きゃっ……」
 次の瞬間から、ナイは周りで何が起こったのかよくわからなかった。ただ、ひとつだけ言えることは、この戦闘の間ナイは勇者にしがみ付き、勇者もまたしっかりとナイを抱き締めていたことぐらいだった。
 木を背にして凍り付く二人を守るように内円を大猫が、外周を青年剣士が、おのずと分担して魔物を倒し始めたのだ。いつもとは全く異なる戦闘の形だった。
「ッシャーッ!」
 大猫がたった一匹で、本来なら同じ仲間であるはずの魔物達と相対していた。
 いつもの強力な爪入り猫パンチと、引き締まった四肢で大きなネズミ型の魔物の背後に素早く忍び寄る。首の後ろをひと噛みし、実に手際よく魔物を倒していく。その足取りはまるで踊るようだった。魔王の寵愛を受けるという話も頷ける。
「クロちゃんて、凄く強かったんだわ」
 ひょっとすると自分と同じように、あの大猫も勇者を手助けし育てているのかもしれない。勇者に命を救われたとはいえ、非常にまれで不思議なことだった。
 間近に感じる勇者が息を飲んだのに気付き、ナイは外周へと視線を飛ばした。
 大猫が魔物の首に牙を突き立てるその向こうで、青年剣士の長剣が化け鳥の羽を切り飛ばし、返す剣先で一度に何羽も血染めにして地に落としていた。
 いぶし銀の鎧に返り血ひとつ付けず、息を乱すことすらなかった。こちらも、ブラッディパンサーが人型を取ったかのような華麗な戦いぶりだった。上からの化け鳥を退治し終わると、今度は下からのカエルだの亀だのといった、ある意味ナイの両手とよく似た紫や緑の毒々しい色合いの魔物が次々と、青年剣士を押し潰さんばかりに押し寄せる。
「――剣士さまっ!」
 ナイは最初から『職業的視覚』を使って見ていたが、ターンが早過ぎて目がチカチカし始めていた。青年剣士一人に対して魔物の数が多過ぎるため、本当ならば魔物になぶり殺しにされるはずである。しかし青年剣士は少なくとも一撃で一匹以上を確実に屠り、しかも当人は無傷ときたものだった。道具屋いらず振りに、ナイはあっけに取られた。
 青年剣士の敏捷度が高過ぎて、魔物の攻撃がさっぱり当たらないのだ。カエル型の魔物は飛び掛ってきたところを真っ二つ、大きな亀のような甲羅を背負った魔物は首が出ているのを見計らって、ちょんちょんとはねられていくのだ――。
 天性のものか相当の修行を積んだのかは『職業的視覚』をもってしてもわからないが、ナイの素人目にもかなりの腕前に見えた。
 場違いな考えではあったが、この様子をシシィにも見せてやりたかった。そうすれば、始終イライラして甲斐性なしだのロクデナシなどと言った悪態をつく必要はないだろう。酒場の剣士は、野外でも頼りになる立派な剣士だったのだ。
「――こんなもんだな。なかなかやるなぁ、ブラッディパンサーよ」
 身動きするものが人間と一匹の大猫以外になくなった頃、青年剣士は長剣の血油を一振りで払ってから器用にも後ろ手で背の鞘へ収めた。青年剣士のねぎらいなど無視した大猫はごろんと座り込み、黒光りする毛皮に付いた返り血を丁寧に舐め取り始める。
「さて。逢引きの邪魔をして悪かったな」
「へ?」
 勇者がきょとんとした表情で懐のナイの顔を覗き込んだので、ナイは大慌てで飛び退いた。こんな状況では、相手がシシィでも武具屋のオヤジでも抱き付いただろうが、勇者はある意味ナイ以上に鈍感なようだ。真っ赤になってそっぽを向いたナイに、熱にやられたのかと訊ねたほどだった。というより、やはり他人にはバレバレなようである。
 そうしているうちに、青年剣士はナイフを出して魔物の身体の一部――尻尾、口ばし、水掻きなどの魔物を認識する特徴的な部分――を次々と切り取っていった。
 本来はこれが正しい教会への魔物の持ち込み方だった。誰しも大猫のような担ぎ手を連れているわけではない。これだけで十分魔物を倒した証明となり、報奨金が得られるのだ。だてに戦闘経験豊富ではないということだろうとナイは思った。
 そして青年剣士は黙って片手だけ振って村へと戻っていった。あれらの金は全て酒代に消えてしまうのだろう。シシィが酒場でてぐすね引いて待っている姿が目に浮かぶ。
「あの人だ」
 まるで託宣を受けた司祭のように、勇者はその後ろ姿を眺めてうっとりと呟く。
「昨夜、女神さまが夢に現れて教えてくれたんだ――僕の助っ人」
「勇者さまの助っ人……」
 ナイは勇者の旅立ちを予感して寒気を覚え、自らをぎゅっと抱き締めた。
 勇者を目当てに集まってきた魔物達を、青年剣士が何の見返りも求めずに――魔物の報奨金以外は――倒してくれたのだと気付いたのは、だいぶ時間が経ってからだった。


3.私の勇者さま
 村は明後日から三日続く夏祭りの準備に活気付いていた。通りを行き交う人々は誰もせわしなく、早くも広場の中央には青年団員の手により寸劇用の舞台が設えられつつある。
 村の大通りで勇者と大猫の姿を見つけ、ナイは思わず民家の影に隠れた。夏祭りの料理に使う野菜のカゴを、一緒に運んでいたシシィがどうしたのよと毒づく。
「…………」
 半分だけ顔を覗かせ、ナイは勇者の様子を窺い見た。勇者はそれまでの古びた皮鎧ではなく、鉄の鎧をまとっている。それだけではなく、鉄の兜に鉄の剣、その上亀の甲羅のような鉄の盾まで背負っているのだった。
 村の中で全て身に付けているのもどうかと思ったが、単純に新しい装備が嬉しいだけなのかもしれない。それらはすべて、ナイの内助の功によるものだった。
 夏祭りが近付いたこともあるが、勇者がある程度とはいえ強くなり懐も暖かくなったようなので、ナイは警護の契約を解消したのだ。
 勇者にかまけて夏祭りのことなどすっかり忘れていたナイだった。それでも衣装箱の奥から母親の形見の晴れ着を引っ張り出して虫に食われていないかを確認し、武具屋のオヤジが衰弱していないか食事を持って様子を見にいくなど、戦闘に参加していなくてもなにかと慌しい日常を送っていた。
 その日も午前中は自宅で薬草を煎じ、午後からは夏祭りの料理の仕込みのために、食堂も兼ねている酒場へ手伝いに行ったのだ。
「あの、すいません……」
 勇者は足早に立ち去ろうとする村人を呼び止めては、二言三言問い掛けていた。
 魔王へと繋がる情報を探しているのだ。魔物を倒してレベルを上げ、お金を貯めて装備を整え、そして北の祠に潜む魔物の情報を得る――。筋書き通りの手順を踏んでいるのは、女神の御手があちこちから差し出され、勇者を導いているのかもしれなかった。
 しかし、司祭に女神の御手たる役割を与えられた人々はわかりやすい場所にいるはずだが、夏祭りも近くなってはそうそう勇者に関わってもいる暇もないらしい。
 たまさか有益な情報の持ち主と出会ってもすれ違ってしまう勇者の運の悪さを、ナイは板壁に齧り付きたいような気持ちで見詰めていた。
「死ぬほど勘が悪いわねぇ。アンタがいくらお尻叩いたって、そのうちに挫折しちゃうんじゃないの?」
 沈黙したナイに、シシィは酒場で聞いたという話を語って聞かせる。
「知ってた? 勇者さまの魂って、寝ている時は一時的に神の国に帰るんですって。朝になると、地上の身体に戻って来るそうよ。不思議ねぇ」
 シシィは酔客相手の聞き役に徹しているので、なにげに世事に詳しいのだ。
「だから、挫けて神の国に帰ってしまったら、もう二度と地上には戻って来ないかもよ」
 シシィの声にはまるで、神託を告げる巫女姫のような奇妙な説得力があった。
「ゆっ、勇者さまは大丈夫よ。だってだって……勇者さまだし」
 ナイは意味不明な切り返しをしてから口ごもる。北の祠で熱に浮かされた勇者は、確かそんなことを口走っていなかっただろうか。
 ――神の国では僕は取るにならない人間で、誰からも必要とされていないんだ。
 勇者に限ってあり得ないとナイは思った。あんなに一生懸命闘ってきたのだから。
「そういえば、父さんがアンタに頼みたいものがあるって言ってたわ」
「……わかった。あとで聞いてみる」
 ナイはささやかな胸に去来する不安を無理やり掻き消す。そして、文句を言うシシィをなだめながら、勇者に見付らないようわざわざ遠回りをして、酒場の裏口から野菜を運び込んだのだった。
     *
 その夜のことだった。シシィの父親に頼まれた薬を届けるために、ナイはランタン片手に大通りを横切って酒場兼宿屋へ向かっていた。
 ――勇者さまはちゃんと北の祠の情報を手に入れられたかしら。
 そんなことを考えながら、酒場の階段を上がって扉を開けようとした時だった。
「このぉ、ロクデナシがっ! 一昨日おいでっ!」
「だから、俺がちょっと外に出て魔物を倒してくれば、ここの勘定ぐらいすぐに払えるんだって……おっとっと!」
 ナイの前に突如として現われたのは、幅広の大きな背中だった。ナイは避け切れずに鼻っ柱をぶつけ、思わずその場にうずくまる。一瞬、目に星が飛んだ。
「それまで酒代はつけといてくれって……おっ、ナイちゃん大丈夫か?」
「大丈夫で……」
 そう言おうとしたナイの足元に、ぽたぽたと黒い染みが広がる。
「大変だっ、ナイちゃんが流血したっ!」
 口いっぱいに鉄の味が広がって、ナイは鼻血を噴いたことがわかった。こんなことは、幼い時にいじめっ子の投げた石が鼻に当たって以来のことである。
「…………」
 酔客やシシィの父親の気の毒そうな視線を受けながら、ナイは不覚にも青年剣士に抱き抱えられ、厨房の奥にある長椅子に寝かされた。鼻に当てた手拭がみるみる赤く染まる。
「まったく、なんつー乱暴な女だ。年頃の娘の鼻が曲がっちまったらどうするんだ?」
「鼻血なんて横になってれば直るわよ。大体アンタが酒代を払わないから――」
 そういいながらも、シシィはナイの額に濡らした手拭を置いてくれた。
 シシィとの長い口論の末にようやく店の外に叩き出された青年剣士と、ちょうどぶつかってしまったのだ。周りの酔客達のうんざりしたような気配が伝わってきて、ナイは何だか申し訳ないような気持ちになった。せめて怪我人らしくと目を閉じる。
 二週間ほど前、酒場で初めて姿を見た青年剣士は酒に酔っていて、シシィに馬乗りにされ殴られていたことを思い出す。それ以来、酒場ではシシィと『酒場の剣士』の掛け合いが名物となっていた。もっとも、誰も見たいものではないようだけれど。
「――――!」
 肉を叩くような小気味良い音が響いた。様子を窺っていると、どうやらシシィのお尻を撫でた青年剣士が、仕返しに平手を食らったらしい。酒場の娘として物心付く前から酔客の相手をしているシシィである。頭の固い自分とは違い、多少のことには動揺しないはずであったが、青年剣士に対してはいつにも増して情け容赦がなかった。
 青年剣士に北の祠で助けて貰ったことや、その剣裁きの凄まじさなどをシシィに語って聞かせたのだが、さも興味がないことのように聞き流されてしまったのだ。
 そして、殴られても上機嫌で酒を飲む青年剣士は、北の祠で自分達を魔物から助けてくれた人物と同じとはとても思えなかった。いまはただの酔っ払いと化している。
 鎧を外して楽な格好になってはいたが、身に付けているシャツなど、作りは簡素ながらも貴族が着るような上質な布地で、まったく得体がしれなかった。ついこの間、魔物を山ほど倒したばかりだというのに、まさかその稼ぎを全て飲んでしまったのだろうか――。
 ナイがそんなことを考えながらしばらく横になっていると、二階の客室から古い階段をぎしぎしいわせながら誰かが降りてくるのに気づいた。この酒場の二階は宿屋になっていて、勇者や青年剣士だけでなく行商人や他の冒険者達が逗留しているはずだ。
 下の騒ぎに酒でも飲みたくなったのかと興味本位に目を開けると、
「!」
 なんとそれは勇者だった。しかも鎧を脱いだ半袖半ズボンの姿で、ますますもって村の少年のように見える。ナイは血まみれの手拭を鼻に当てたまま起き上がったが、眩暈を覚えてまた長椅子に突っ伏した。
 ――なぜこんな時間に? 勇者さまは日の暮れと共に休まれるはずなのに。
 一瞬垣間見えた勇者の思い詰めたような表情が気になったナイは、シシィの父親の不思議そうな視線をよそに厨房の床を這い、カウンターの端から頭を覗かせた。
「あの……」
 勇者の緊張に震える声に、酔客の喧騒が一瞬静まる。十六歳で成人とはいえ、どう見ても子供っぽい少年が勇者としての運命を背負っていることは、村の誰もが知っていた。
「なんか用かい。勇者さま」
 青年剣士の前で立ち止った勇者の足元では、夜のように黒く艶やかな毛並みの大猫が横になってせっせと身繕いし始める。そして勇者は意を決したように、
「あの、僕と一緒に、北の祠に行って貰えませんか?」
 ナイは思わず声を上げそうになった。すでに勇者は北の祠の情報を得ていたのだ。
 ――天啓によって定められた、勇者さまの相棒。
 そのことを考えると、ナイの胸はギリギリと痛んだ。大猫が守りナイが育てた勇者を青年剣士が鍛えてくれたならば、剣の技は飛躍的に上達するだろう。もしかしたら魔王を再封印することも夢ではないかもしれない。
 しかしそれは同時に、勇者がこの村を去るということでもあった。相反する気持ちに板ばさみにされ、ナイは困惑した。
 そんなナイの気持ちなどお構いなしに、青年剣士は麦酒を一息で飲み干してから、
「断る。女神の天啓だか宣託だか知らないが、顔洗って出直してくるんだな、勇者さま。人の出会いには、時期ってものがあるんだ」
 と吐き捨てるように言った。勇者の顔が驚愕に歪む。まるで泣き出す寸前の子供のような表情だった。青年剣士も恐らく女神の天啓を得ているはずであったが。
「大体だな、女の子とブラッディパンサーに頼りっぱなしの奴に、世界が救えると思うか? それでいいなら、俺にだって魔王を倒せるってもんだ」
 魔王と聞いて勇者の顔色が変わった。未熟であることは、勇者自身が一番わかっているはずだ。勇者の気持ちを察するあまり、ナイの心には俄かに青年剣士への殺意すら湧いてくる。勇者は俯いて下唇を噛み、きびすを返して足早に酒場を出ていった。
 酒場はすぐに喧騒を取り戻した。ナイは可憐な薄茶色の瞳を精一杯怒らせ青年剣士を睨んでいたが、頭の中では昼間シシィに言われた言葉がぐるぐる回っていた。
 ――挫折して神の国に帰ってしまったら、もう二度と地上には戻って来ないかもよ。
「追い掛けなさい、ナイ」
 それと同じ声がカウンターの後ろでうずくまるナイを現実に引き戻す。くびれた腰に手を当て、長い金髪の下の空色の瞳が力強く輝いていた。
「何ごとも、後悔してはダメよ」
「なんつーか、ナイちゃんの清らかな瞳で睨まれると凹むんだよなぁ」
 そう言って頭を抱えた青年剣士を、シシィが手にした木の盆の角で殴りつけた。
「うんっ!」
 ナイは立ち上がり、シシィに力強く頷き返す。なぜか酔客達の暖かく励ますような眼差しを感じつつも、勇者のあとを追って店の外に出た。
     *
「どっちに行ったんだろう?」
 大通りとはいえ、右も左もわからぬ真っ暗闇である。空には頼りない三日月が浮かぶばかりで、城下と違って街灯などあるはずもない。ランタンを取りに酒場へ戻り掛けたナイの視界を、ふたつの黄色い光が横切った。
 ナイはぴんときて、ただの猫にしては高い場所にある二つの光に向かって、
「クロちゃんなの? お前の主はいま、どこにいるの?」
 そう囁くと、ついて来いというかのように村の中央に向かって移動し始めた。
 見失わないように注意しながら追い駆けると、そのうちに広場の真ん中に作られた、夏祭りの寸劇用の舞台が黒々とした小山のように迫ってくる。そこまで行くと、不意に黄色い光は消失した。
「クロちゃん、どこなの?」
 広場をぐるりと取り囲む家屋の、戸板の隙間から漏れるささやかな光源を頼りに、ナイは息を整えながら辺りを見回した。すると、まだ作り途中なのか長い板を立て掛けてある舞台の縁に、小さな影が足をぶらぶらさせて座っているのに気付いた。
 それは村の少年にあらず――勇者だった。その隣りで黄色い瞳の大猫が横になり、舞台の下にたらした尻尾を優雅に揺らしている。
「勇者さま……」
 内心の動揺を押し隠し、ナイは勇者を見上げた。普段は同じような背丈だが、いまは舞台に座っている分、勇者の頭がだいぶ高い位置にある。道具屋のお客としての対応でもなければ、冒険者に警護の仕事を依頼するのでもない。正真正銘の掟破りだった。
「道具屋さん……どうしてここに?」
 力なく呟く勇者に、偶然通り掛ったとかクロちゃんに連れてこられて……など色々と言い訳を考えたが、結局、酒場にいましたと正直に話してしまった。
「そう。情けないとこ、見られちゃったね」
「いえ……」
 勇者と行動を共にするようになってから、情けない局面の方が多かったような気もするが、ナイはあまり深く考えないことにした。どんな場面であったとしても、勇者との大切な思い出には違いない。勇者はまるで独り言のように話し続ける。
「僕はね。小さい時は、夏祭りに回ってくる芝居小屋の、勇者と魔王の劇が好きだったんだ。勇者は絶対に負けないしね。大勢の敵に取り囲まれても、仲間が次々と打ち倒されて魔王と一対一になっても、最後には必ず勝利を収めるからね」
 でもまさか、僕が勇者になるなんて思ってなかったよと、ぽつりと言った。そして、急に夢見るようなうっとりとした口調で、
「僕は夢の中では、神の国にいるんだ。この世界とはだいぶ様子が違うけれど、そこでは、僕は取るに足りないものに過ぎない。世のありように関わることはなく、いてもいなくてもいい存在なんだよ。楽と言えば、楽だね」
 幼い頃の思い出はとにかく、神の国の話をする勇者の言葉は、前と同じようにほとんど理解出来なかった。しかし、とにかく黙って一生懸命に頷く。暗がりで鼻血を噴いたあとが見えなくて、つくづくよかったと思った。
「そんな僕が、本当にこの世を救うことが出来るだろうか。よっぽどあの剣士の方が強いし、格好も良いから勇者っぽいと思うよ。僕は勇者失格だな」
「そんなこと、ないです……」
 この世の全てのものの運命は、創世の女神の手の内にあるのだ。
 誰しも、なにがしかの役割があるはずだった。ブラッディパンサーや酒場の剣士がこの先の勇者の旅を支えてくれるように。可憐な野の花の根が冒険者の傷を癒し、しがない道具屋の跡継ぎである自分の手のひらが勇者の熱を取り去ったように――。
 勇者は弱くても格好悪くても、勇者であり続けること自体が役割だとナイは思った。
「それは、神の国なら、あなたは普通の方かもしれません、でも」
 ナイは言葉を一つ一つ区切るようにはっきりと続けた。
「でも、この地上ではあなたが私達の――たったひとりの勇者さまです」
 本当は『私の勇者さま』と言いたかったけれど。ナイは言葉を飲み込んだ。
「ああ。わかっているよ」
 そう呟いて背を丸める勇者はとてもか細く、頼りなげに見えた。ぎゅっと抱き締められたらどんなにいいだろうと思ったが、母親でも恋人でもない自分にはその資格がない。
「勇者さまはお疲れで、ちょっと気弱になられているだけです。一晩ぐっすり眠れば、きっと明日の朝には元気におなりのはずです」
 目を合わせることのない勇者を見上げ、ナイは必死に言い募った。たとえ自分の言葉が勇者の心に響かなくても、せめて気休めにでもなればいい――。
「そうだわ。明日の晩が前夜祭でそれから三日間、夏祭りが始まるんです。勇者さまも、もし宜しかったらご覧になっていかれませんか? 気晴らしになるかもしれません」
 思い切って暗闇の底なし穴に飛び込むようなつもりで夏祭りに誘ったナイだったが、『一緒に』を付けるのを忘れてしまった。一世一代の不覚だった。
「うん……ありがとう。気が向いたらお祭りに行ってみるよ」
 勇者は生返事だったが、ナイもそれ以上は言葉が捻り出せそうもない。結局、勇者と大猫を置き去りにして、逃げるように舞台をあとにするしかなかったのだった。


4.夏祭りの夜T
 日が落ちて、すべての家々の軒先にはランタンが吊るされ、夜空の星が舞い降りたかのように厳かに辺りを照らしている――。しかし村の広場は、そんな静かな印象とは無縁である。村人の数が倍にも膨れ上がったかのように、人いきれでごった返していた。
 人垣の向こうで旅の踊り子が歌と踊りを披露しているかと思えば、酒場兼宿屋から香辛料をたっぷり使った祭りの日だけの特別な料理の香ばしい匂いが流れてくる。そして、地面にじかに布をひき、乙女心をくすぐるような紅や装身具のたぐいを並べている旅の小間物屋の品揃えに少しだけ惹かれつつも、ナイは喧騒の中を足早に歩いていた。
 ナイは白い布地に袖や襟ぐりに色鮮やかな刺繍を施した晴れ着をまとっていた。母親のお下がりのため、この暗がりならばともかく、日のもとにさらせば黄ばみや刺繍のほつれが目立つ年代物である。例年ならば家から出れぬほど気に病む問題だったが、その時のナイはそれどころではなかった。
 ナイは勇者ともう一匹の姿を探して、祭りの広場を彷徨っていたのだ。
「ほんと、どこ行っちゃったんだろう。あんなに目立つのに……」
 だいぶ探し回ったが、勇者どころかシシィと青年剣士の姿も見当たらない。
 視界を広げてみれば、広場の中央で焚かれたかがり火に浮き上がるのは、数え切れぬほどの首を生やした異形の怪物だった。昼間、分解して運ばれてきた魔王の作り物が先ほど組み上がり、異様な迫力でもって辺りを睥睨していたのだ。
 見物に集まった人々は、へーとかほーとか言いながら押し合いへし合いして、微動だにしない魔王の作り物を仰ぎ見ていた。武具屋のオヤジがその傍らで麦酒を煽りながら、見物人に講釈を垂れているようだった。感慨無量なのだろう。
 その夜は、魔王の作り物のお披露目もかねた前夜祭であった。ちなみにお祭りの日程は、一日目に作り物が村中を練り歩いて魔の気を吸い取る。二日目には寸劇が行われ、作り物は勇者をギリギリまで追い詰めるが結局倒されてしまう。祭りが最高潮に達した三日目の夜には、魔王の作り物は吸い取った魔の気を払うために、舞台と共に燃やされてしまうのだ。武具屋のオヤジの力作はそれまでの儚い命だった。
 ここに限らず、あちこちの村で行われる夏祭りは、豊かなる実りを創世の女神に感謝するための豊穣祭である。そして、千年前に魔王を封印し人々に平和をもたらした勇者にも、安心して農作物を作ることが出来る喜びを女神と同じように捧げるのだった。
「やっぱり、待ち合わせにすればよかった」
 ナイは心底後悔した。村の住人自体はそう多いものではないが、夏祭りを目当てに旅芸人や行商人、行きずりの冒険者などが集まってくるのだ。それだけでなく、他村に嫁いでいった者やご城下に奉公に行っていた者が暇を貰って戻ってきたり、武具屋のオヤジの作品が見たいがために、わざわざ遠方からやってくる人もいるぐらいなのだ。
 村の広場は、普段では考え切れぬぐらい集まった人々の身体から出る熱や湿気により、うだるような蒸し暑さになっていた。

「やっぱりあそこしか、考えられないわ」
 ナイは額に掛かる亜麻色の髪を撫で付けてから、きびすを返して酒場兼宿屋に向かう。
 あらかじめシシィの親父に勇者の不在を確認してから探し始めたのだが、出掛けて行ったのは別の冒険者で、見間違えだったのかもしれない。そう思いながら、ナイは酒場の扉を開けてすぐ傍にある階段を上がった。
 風の具合か、旅芸人達の弦楽器の調べと太鼓の音が大きめに聞こえる。もはや踊っているのは旅芸人だけでないだろうが。
「…………」
 勇者を探しているのは暗がりで晴れ着姿が見せたいとか、個人的な理由だけではないと、ナイは言い訳のように自分に言い聞かせた。
 手付かずの財宝が眠る隠された迷宮の情報や、いにしえの勇者の武具の情報が手に入るのはこの夏祭りの間だけなのだ。ここで逃したら冒険ののちのちまで聞くことが出来ないと、司祭が徹夜明けの血走った目で言っているのを聞いたのだ。
 これは、ぜがひでも勇者に聞かせなければならない――ふと、カリカリと何かを引っかく異様な物音に、ナイは耳を澄ました。
 板張りの廊下の奥、ちょうど勇者が滞在していると聞いていた部屋だった。
「はっ、まさか?」
 とっさに、衰弱死し掛けて痩せ衰えた武具屋のオヤジの姿と勇者の姿が重なり、ナイはノックもなしに扉の取っ手を押し下げる。鍵は掛かっていなかった。
「――――!」
 扉の隙間から出てきた一陣の黒い風のような大猫に飛び掛かられたものだから、ナイは思わず尻餅をついてしまった。大猫はナイの身体に顔を擦り付けて甘える。
「クロちゃん? あなたのご主人さまはどうしたの?」
 まとわりつく大猫をなだめて真っ暗な部屋を覗き込めば、寝台にもどこにも勇者の姿はない。ナイはひとまず胸を撫で下ろした。よく考えれば昨日まで元気だったのだから、衰弱死もなにもないだろう。ナイは苦笑しながら部屋の扉を閉めた。
「でも、クロちゃんを置いていくなんて………え?」
 廊下で考え込むナイの耳に、絶えず流れていた旅芸人の音楽が途切れた。
 そして人々の悲鳴が聞こえる――。
「えっ、えっ?」
 足元の大猫は怯えたようにナイの顔を見上げる。何だろう、酔っ払いでも暴れているのだろうか。廊下に窓はなく、外の様子はわからない。ナイが躊躇していると、
「――なんだこりゃあ?」
 聞き覚えのある男の声に、ナイは救われたような気持ちで隣りの部屋の扉を開けた。それは見知らぬ冒険者などではなく、あの青年剣士の部屋だったからだ。
「………………」
 扉を開けてすぐナイの目に飛び込んできたのは、一糸まとわぬ青年剣士の後ろ姿だった。実践で鍛え抜かれた無駄のない筋肉に、魔物の爪あとだろうか無数に白い筋が走っている。この青年剣士にも駆け出しの頃があったのだろう。しかし見たのは一瞬で、ナイはすぐに真っ赤になって目を逸らした。
 青年剣士が開け放った戸板の向こうには、ランタンやかがり火ではありえない光が満ち溢れていた。かがり火が倒れ、舞台に火がまわってしまったのだろうか。
 そして逸らした先の、寝台の上の空っぽのはずの夜具に包まっていたのは――。
「ナイ。なんでこんなところに……」
 寝乱れた髪でしどけない姿を晒しているのは、いじめっ子を追い払い、酒場の酔客を手玉に取る、幼い頃から姉妹のように過ごしてきた幼友達のシシィだった。
「大変だシシィ、外を見てみろ。化け物が大暴れしてる…………って、なっ、ナイちゃんが、なんでここにっ?」
 気が付くと、青年剣士が窓の外を見る以上の驚きでこちらを向いていたので、ナイは思わず卒倒しそうになった。
     *
 取り敢えずナイは、シシィも青年剣士も視界に入れないようにして窓まで行き、戸板の向こうの騒ぎを見下ろす。そして、広場で繰り広げられる光景に目を見張った。
「――――――」
 広場の真ん中に設えられた舞台の上には、武具屋のオヤジが丹精込めて作った魔王の作り物が置かれていた。いや、それはまるで生命あるものかのように――生命と言っても闇の生命だろうが――無数の頭を鎌首のようにもたげ、不気味に揺れていたのだ。
 まるでかりそめの生を得た喜びを体現するかのように、それぞれの頭の口からさまざまな攻撃を仕掛ける。ある頭は緑色の粘液を吐き出して逃げ惑う人々を地に貼り付かせ、別の頭は紫色にけぶる毒霧を吹き出し動けない人々を猛毒で侵した。
 また別の頭は炎で周囲の民家を焼き、その隣りの頭は猛吹雪のような氷を辺りに撒き散らし――と、やりたい放題の大騒ぎである。人々の避難が遅いのは、最初はただの祭りの趣向だと思っていたのかもしれない。しばらく経ってから異変が起きたことに気付き、慌てて広場から逃げ出している最中のように見えた。
 その物体の、見ているだけで気分が悪くなるような尋常でない量の魔の気にあてられたナイは、自然と我が身を抱き締めていた。いつだったか聞いた武具屋のオヤジの台詞がナイの頭に甦る。
 ――スゴーイ。でもどうしてそんな中途半端な数なの?
 ――それは、百本になると、作り物が本物の魔獣になっちまうからさ。
 その時は自分をからかっているものばかりと思っていた。そうでなくても、魔物集めに奔走する『似せ物師』達を戒めるための決まりなのだろうと高を括っていたのだ。武具屋のオヤジは九十九本では飽き足らず、百本の首を生やしてしまったのだろうか。
「なんだありゃ? ただの張り子の作り物なんだろ?」
 慌てて衣服を身に付ける気配の青年剣士に、ナイは振り返らずに答えた。
「そうよ。武具屋のおじさんが、魔物の皮を剥いで繋ぎ合わせて作った剥製なのよ。鉄の骨組みに薄い板を貼り付けて、その上に皮が被せてあるだけなの。私、ずっと製作工程を見てきたもの――」
 それを聞いて、青年剣士は舌打ちした。
「なんてこった……アンデッドキメラっつーことか。しかし、なぜ? この村には魔王に魂を売った魔法使いでも住んでいるのか?」
 アンデッドキメラ――。聞き慣れない魔の気をおびた名前にナイは首を横に振った。
 村に魔法使いなどいない。もちろん武具屋のオヤジに魔法の力などあるはずもない。あるのは作品に対する情熱と言うか情念だけだった。魔獣化するのに単に魔物が百体集まればいいだけなら、いままでに何処かで発生していそうな怪異であった。
 まさか武具屋のオヤジが心血注いだ作り物に、魔王の封印が解けて強まった魔の気が集まってしまったとでもいうのだろうか――。
「ここはひとまず、俺が食い止める。ナイちゃんは、その辺の隅に隠れて震えているあの小僧を呼んで来てくれっ!」
 夜具をまとって寝台を降りてきたシシィは手早く青年剣士に鎧をかぶせ、慣れた手付きで留め金をとめていく。二人の関係がだいぶ前からであることを思わせた。
「勇者さまを?」
 確か青年剣士は勇者の助っ人を断ったのではなかっただろうか。首を傾げるナイに向かって、青年剣士はニヤリと笑ってみせた。
「あんな奴でも、いないよりはましだ。それに俺が一人で倒しちまったら、奴さん経験値を貰いはぐれちまうだろ?」
 そして、見ている方が切なくなるような短い口付けを恋人と交わし、青年剣士は長剣を背負って部屋の外へ飛び出していった。
 青年剣士が転げ落ちるように階段を駆け下りていく音を聞きながら、
「いずれ、いなくなっちゃうって、シシィ言ってたじゃない、どうして……」
 シシィは二歳年上なだけとは思えないような深い悲しみを帯びた笑みを浮かべて、
「それでも止められないのが恋なのよ。いまのアンタならわかるでしょ?」
「それは……そうだけど……」
 考えるまでもなく、青年剣士とシシィの組み合わせほどさまになるものはない。すっかり自分のことにかまけていたナイは、シシィの乙女心にまで手が回らなかったのだ。この蓮っ葉な幼友達は、最初から酒場の剣士に恋をしていたのだった。突き放したような言葉のやり取りも、全て愛情の裏返しであったことに、ナイはようやく気付いた。
「アンタは急いで勇者さまを探してらっしゃい」
「でも、ずっと探しているけど、どこにもおいでにならないのよっ!」
 もう一度窓の下をみると、村の青年団員に混じった青年剣士が、アンデッドキメラと対峙している様子が見えた。その中に小柄な勇者の姿は見受けられない。
「勇者さまがどこに行ったのか。アンタなら、わかるはずよ」
「そんなこと言ったって……あっ!」
 ――女の子とブラッディパンサーに頼っているようじゃ、先が思いやられるなぁ。
 昨夜、酒場で勇者が青年剣士に言われたことを思い出す。ナイがはっとしてシシィの顔を見上げると、幼友達は行ってこいというように力強く頷いた。
「行こう、クロちゃん!」
 ナイは部屋にシシィをひとり残し、大猫を従えて酒場の階段を一気に駆け下りた。
 まさか勇者はひとりで北の祠に行ってしまったのだろうか。長年の相棒である、ブラッディパンサーすら置き去りにして――。

 ナイは準備のために一度、道具屋へ戻った。手当たり次第に丸薬を詰め込んだ皮の薬袋を、もはや気休め程度になってしまった魔除けの鈴と一緒に晴れ着の腰に革帯で結び付けた。
 そして及ばぬまでも、何か得物を借りようと隣の武具屋の扉を押し開けると、ランタンの光を浴びて暗い店内にさまざまな武器、防具のたぐいが浮かび上がった。
 ナイは店の入り口の大鎧に立て掛けてある、武具屋のオヤジが若い時に使っていたという鋼鉄の槌に手を伸ばす。どうせならこれぐらい持たないと駄目かもしれない。
 ナイは筋力を上昇させる薬を取り出して、一気に噛み砕く。
「そいつは、ナイちゃんには持てねぇよ。どうせなら、杖かナイフを」 
 ナイのすぐあとに店に駆け込んできたのは、武具屋のオヤジだった。オヤジの顔には明らかな憔悴の色が濃く浮かんでいる。オヤジ自身も武器を取りに戻って来たのだろう。手塩にかけた力作を葬るために。いまはオヤジを責めるのは止めようと、ナイは思った。
「そんなんじゃ、ダメなのよ」
 そう言ってナイはおもむろに白手袋のまま鋼鉄の槌を掴むと、軽がると肩に担いで見せる。オヤジはあんぐりと口を開けた。
「そっ、それはメガトンハンマーだぞっ? 俺だってもうよく持ち上がらないのに……そうか、薬を使ったんだな。いけねぇよ、ナイちゃん。アレはあとでもの凄い反動が」
 それには答えず、ナイはオヤジの目を見詰めてはっきりと言った。
「私、北の祠まで勇者さまを呼び戻しに行って来ます。それまで持ちこたえてくれるよう、みんなに伝えて下さい!」
「なっ、ナイちゃん……俺のせいで……」
 オヤジは一瞬泣きそうな顔になる。しかし何とかこらえ、代わりにナイの細い身体をぎゅっと抱き締めた。父親の分も、母親の分も入っているような力強さだった。
「おじさん、痛い」
「おおっと、すまねぇ。こんな状況だが無理はしないでくんな、ナイちゃん……」
 武具屋のオヤジを置いて店の外に出たナイが夜空を見上げると、広場の上空が色取り取りの光に染まり、そのたびに人々の悲鳴が聞こえる。ナイはメガトンハンマーを肩に担ぎ上げたまま、日曜日の礼拝どころではない真剣さで、強く祈った。
 ――天と地と人をおつくりになった創世の女神さま。どうかみんなをお守り下さい。
 そしてナイはブラッディパンサーと共に、北の色濃い闇に飲み込まれていった。
     *
 北の祠の周りをぐるりと取り囲む毒の沼の手前で、ナイと大猫は立ち止まった。
 大猫が道案内をしているため、この暗闇でも迷うことはなかった。そうでなくても、荒れ野に点々と横たわる魔物の屍を辿っていけば、おのずと勇者の元までいけるだろう。夜間の魔物は気が荒いという情報は、本当だったのだ。
「どうやって渡ろうかしら」
 沼といいながらも深さがふくらはぎの半ばまでしかないことは、あらかじめ教会での非常呼集の時に聞いて知っている。しかしこうやって沼の周りにいるだけでも、漂う毒気に気が遠くなりそうだった。ナイ汗ばむ額に掛かる亜麻色の髪を払い除けてから、ランタンの油の消費を防ぐために火を細めた。
 ナイは魔物の返り血を浴び、黄ばんでいる程度だった晴れ着はいまや血みどろに染まっていた。理由を知らぬ冒険者と出会えば、少女の擬態をした魔物だと勘違いして襲ってこられたとしても、文句が言えないようなありさまだった。頭の隅で、血って洗っても落ちないのよねぇとか絶対に明日は筋肉痛になるわ――などと思いながらも、背後から忍び寄っていた魔物を『職業的視覚』で感知し、ひと目も見ずにメガトンハンマーで一撃の下に葬り去った。カニの形をした魔物は甲羅を潰し、泡を噴きながら毒の沼に没した。
「がうっ!」
 お見事と言うように大猫が吠える。メガトンハンマーなどよくもまあ素人の自分が使いこなせるものだとナイは思ったが、重さを感じ始めるとすぐに薬で強化し、あとは『職業的視覚』を常に働かせ迫り来る魔物の気配を捉えたらすぐに殴り付けることにしていたのだ。始めての使い方だったが、意外に道具屋は冒険者に向いているのかもしれない。
「それにしても勇者さまったら、祠の奥まで行ってしまったのかしら」
 村までの往復の時間を考えると、ナイの頭は痛くなった。青年剣士達がアンデッドキメラとやらを倒してしまう分にはいいけれど、自分達が村に戻った時にはすでにみんな倒されてしまっていたとしたら――。
「いいえっ、そんなことないっ!」
 ナイは一瞬脳裏をかすめた嫌な想像を、慌てて首を振って打ち消した。
「……くぅ……」
 気が付くと大猫が切なげな声を上げ、落ち着かなげに沼の縁を行ったり来たりしているではないか。思い切って沼に前足を突っ込もうとするが、身体の汚れを気にする大猫には無理なのか、慌てて引っ込めてはまたうろうろとし始めるのだ。
「どうしたの、クロちゃん…………はっ!」
 ランタンの炎を強めて掲げると、ちょうど沼と中ほどに小さな塊が見えた――。
 ナイが考えるよりも先にメガトンハンマーを投げ捨て、毒の沼に飛び込んでいた。木靴を履いた足はすぐにふくらはぎまで毒水に浸かり、痺れるような寒気が這い上がってくる。
「……あとで毒消しを飲めば平気よ……」
 ぬかるみに足を取られ思うように進めぬナイがどうにかその塊まで近付くと、案の定片膝を毒水に沈めて座り込む勇者の姿があった。その周りには最後の力で打ち倒したらしい、手足の生えた魚のような魔物が数匹沈んでいる。ナイは意識のない勇者の身体を薬のおかげで軽々と背負い、大猫が待つ岸へ戻った。
「勇者さまっ、勇者さまっ!」
 ナイは勇者を岸に横たえた。呼び掛けに反応しない。ナイは急いで手袋を脱ぎ捨て両手で勇者の頬をしっかりと挟み込んだ。そして『職業的視覚』で勇者の健康状態を確認する。大猫は再会の喜びを伝えるために擦り寄りたいらしいが、汚れるのを恐れてか二人の周りをうろうろとするばかりだった。そのうちに気を落ち着けるためか身繕いを始める。
「……………」
 体力は残りわずか。猛毒に混乱、軽い麻痺も残っていて、勇者の身体はありとあらゆる状態異常を引き起こしていた。意識がないのは戦闘終了間際に睡眠攻撃を受けたせいである。よくもここまでもったものだと、ナイは天の采配に感謝せずにはいられなかった。
 しかし意識が戻らねば薬を飲ませることも出来ない。ナイは両手に挟み込んだ勇者の頬からぬくもりが消えていくような気がして、必死になって創世の女神に祈る。
「女神さま……いままで真面目にお祈りしないで、教会でもシシィと内緒話をしたりしてすいませんでした。日曜日だけじゃなくて朝昼晩食前食後、気が付いた時にはいつでも祈ります。だから、だから――」
 ナイはなおも祈り続けた。一生涯、両手が夜の闇より黒くなるまで薬を煎じ続けるので、先に一生分の癒しの力をこの手に宿して下さい――。
「あっ!」
 気のせいか、両手が一瞬だけ白く光ったような気がしたのだ。そして開きっぱなしだった『職業的視覚』は、ありえない速さで回復する勇者の体力を確かに捉えた。
「……ん……」
 それまでぴくりともしなかった勇者が苦痛に顔を歪め、両の目を開く。
「…………どっ、道具屋さん?」
 最初の沈黙は、間違いなく魔物かなにかと見誤ったに違いない。メガトンハンマーを携えた血まみれのナイの艶姿に、横になったまま青ざめた顔の勇者が目を見開いていた。
「どこか、具合の悪いところはございませんかっ?」
「どうして、こんなところまで……」
 光り輝いたのはほんの一瞬で、ナイの両手は元の暗色に戻っていた。しかしナイは祈りが女神に通じたものと信じ、打ち震えながらも密かに感謝の祈りを捧げた。
「道具屋の私が来たからには、もう大丈夫です!」
 ナイは薬袋から体力回復の効果もあるとっておきの万能薬を取り出して渡し、村で起こっている出来事を簡単に語って聞かせた。遅ればせながらナイも毒消しを口にする。しかし話せば話すほど、勇者の反応はいまひとつだった。
「一緒に村に戻って下さい、勇者さま。いまは村の人と剣士さまが戦っていますが、戦況は明らかに不利です」
「いまさら、僕なんかが行ったって……」
 齧り掛けの万能薬を口から離して、勇者は途方に暮れたように俯いた。
「何の役にも立ちはしないよ。いっそあの剣士が僕の代わりに勇者になってくれれば」
「――勇者さまの、バカっ!」
 ナイは勇者の頬を引っ叩いた。両目が涙で一杯になったナイは、勇者が持ち直した感動と相まって周りがすっかり見えなくなっていた。ナイはそのまま叫び続ける。
「勇者さまが、最初っから強いわけがないじゃないですかっ! 確か、酒場の剣士さまもそう仰ってらしたですっ! ついこの間まではただの村の少年だったわけだしっ! 酒場の剣士さまだって脱いだら凄かったですっ! あわわっ、凄いの意味が違いますよっ、魔物との戦いで体中傷だらけだったってことですっ! あの凄腕の剣士さまにだって半人前の時があったんですっ! 勇者さまだって、剣士さまにじっくりと鍛えてもらえば、あっという間に強くおなりのはずですっ! だってあなたは、勇者さまなんだからっ!」
 手の甲で涙を拭って一息付くと、目の前にいたはずの勇者がいなかった。
「ゆっ、勇者さま?」
 ナイは忘れていた。メガトンハンマーを軽々と振り回せるほど、自分の筋力が増強されていることに。案の定、勇者はランタンの光も届かぬような彼方に吹き飛び、仰向けに倒れ白目を剥いていた。
 ――勇者さまが死んじゃったら、どうしよう……。
 ナイはぼろぼろと涙をこぼしながら、ぐったりとしている勇者のところまで走って行ってすがりついた。
「だから、そんなこと仰らないで下さい。あなたは、私たちの……いいえ」
 ナイは鼻を啜りながら続ける。
「私にとって、あなたはたったひとりの、勇者さまなんですから」
「うん……わかってる」
 打ちどころが良かったのか、勇者は一瞬目を回しただけですぐに意識を取り戻したようだった。どの辺りから聞いていたのか定かではないが、勇者は照れ笑いを浮かべながら身体を起こす。思わずナイは赤面して縮こまり、下を向いた。
「あー、わかってるって言うのは、僕が勇者だってことであって……えっと、その」
 勇者も困ったように下を向き、二人の間に微妙な空気が漂い始めた、次の瞬間だった。
「ウオゥゲェェェッ!」
 世にも奇妙な声が荒れ野に響き渡った。
 大猫が胃から毛玉を吐き出したのだ。淡い雰囲気は儚くも霧散した。あれだけ身繕いを繰り返していれば毛玉も溜まるだろう。ナイはがっくりと肩を落とす。いや、そんなことをしている場合ではなかったのだけれど。
「ええっと、道具屋さん……じゃなくて。君の名前、なんだっけ?」
「……ナイです」
「よし、ナイ。急いで村に戻ろう」
「はいっ! 勇者さまっ!」
 万能薬を丸ごと口に押し込み立ち上がった勇者は、頬の膨らんだ顔で恥ずかしそうに微笑みつつもナイに手を差し出した。よく考えれば、名を呼ばれるのは始めてではなかったか。手袋が見当たらないことに気付いて一瞬戸惑ったが、勇者はかまわずナイの手を取った。ナイは躊躇いながらも、勇者の手をそっと握り返して立ち上がる。
 そして北の祠を目前にして、ナイ達はもと来た道を急いで引き返した。
 二人と一匹の前に立ちふさがる魔物は、もはや北の祠の周辺には残っていなかった。


5.夏祭りの夜U
 二人と一匹が村に駆け戻ってくると、人々が家屋の影に隠れるようにして戦況を見守っていた。人垣を押し退けて広場に足を踏み入れると、青年剣士と武具屋のオヤジ、そして剣だの槍だの槌だのを携えた村の青年団員達が、舞台から降りてきた巨大なアンデッドキメラを取り巻き、必死の戦闘を繰り広げていた。村人らしからぬ得物は、武具屋のオヤジが貸し与えたものかもしれない。
「こんなことっ、私の……いやっ、女神の託宣にないぞっ! どうなっているんだ?」
 そう叫ぶ司祭は、離れた安全な場所で地に伏して頭を抱えている。
 村に逗留していた他の冒険者達は、依頼のない仕事はしないとばかりに高みの見物を決め込んでいるようだ。ひょっとすると、勇者のお手並み拝見といったつもりなのかもしれない。もっとも依頼をする立場の司祭でさえあの通り現実から逃避し、村の最高権力者であるはずの村長は老齢で、自宅の夜具に包まってとっくの昔に夢の中だった。自分達でやるしかないと、ナイは思った。
「――剣士さまっ、遅くなりましたっ!」
 勇者が前列に、ナイがメガトンハンマーを投げ捨てて後方支援に入ると、
「ようやく来たかっ! 俺がひとりで倒しちまうところだったぜっ!」
 そう言って振り返る青年剣士の顔は、真っ青で血の気がない。
 ナイが青年剣士を『職業的視覚』で調べると、先ほどの勇者と同じようにいくつもの状態異常を引き起こしていた。ろくな準備もせずに戦闘に突入せざるを得なかったので、薬がなくて直せなかったのだ。
「剣士さまっ、これをお飲み下さい!」
 ナイは少々惜しいとは思いつつも、万能薬を青年剣士に手渡した。後ろから幼友達の食い入るような視線を感じたからである。
「ナイちゃん、ありがたいっ。奴らは首の数だけの、状態異常を引き起こす技を仕掛けてきやがるっ。まったくけったくそが悪いったらないぜっ!」
 あんなのとやり合うにはまず万能薬をしこたま持つか、状態異常を全て回避する魔法の付加された鎧でも着てなきゃ無理だ――器用にもそう言いながら、青年剣士が首のひとつに切り掛かる。長剣は半ばまで斬り込んだが、すぐさま覆い隠すように他の首が前に来てしまうので、次のターンで切り落とすことは出来そうもなかった。
「奴らの弱点って……」
 ナイは『職業的視覚』でアンデッドキメラを覗いてみた。すると、ありったけの魔物の情報がいっぺんに目の前に押し寄せてきたので、反射的に閉じてしまった。かろうじてわかったのは、アンデッドキメラであるだけに、体力がまったくないというぐらいだった。
「なにこれ……おじさん、奴らを『見て』みた?」
 同じ『職業的視覚』を使えるはずの武具屋のオヤジは、手斧を抱えたまま静かに首を振る。『見て』いないのだ。ナイは何となくオヤジの態度に違和感を持った。
「奴らの頭は九十九個。全て別の魔物の身体を繋ぎ合わせてあるんだ。おまけに生きてるわけじゃあねぇから、一撃で首を切り落としちまうほか、ねぇ」
「!」
 ナイは思わずオヤジの横顔を見詰める。百本に満たないのに作り物が魔獣と化してしまったということだろうか。しかしオヤジはナイの視線に気付かぬ素振りで、渋々といった感じで手斧を振り上げアンデッドキメラに挑み掛かっていく。ナイはオヤジが、何か自分達に何か都合の悪いことを隠しているような気がした。
「九十九本っ! 切り落とすっつったって、朝まで掛かっちまうよっ!」
 そう叫んだ青年剣士の向こうで、果敢にも首のひとつに切り掛かった勇者が石化の光線を浴びて人知れず固まっていた。ナイ駆け寄り、慌てて半開きの口に丸薬を押し込んだ。
 ――九十九個の頭は、ありとあらゆる状態異常を引き起こす。
 それが何を意味するのか。戦いが長引く予感に、ナイは背筋が冷たくなった。薬は無限にあるわけではないのだ。この世には薬いらずの癒しの魔法使いが存在するらしいが、現時点で冒険者達の中から協力者が出ない以上、どうしようもなかった。
     *
 ――九十九本ならどうして魔獣になってしまったのかしら。いいえ、……そもそも、あの『似せ物師』の決め事自体があまり信じられないのだけれど。
 ナイは密かに首を捻る。しかし眼前で鎌首をもたげている魔獣を目の前にしては、いまさら否定のしようもない。石化の解けた勇者がぎこちなく動き始めた頃、
「……グゥ……」
「あれ? クロちゃん?」
 ふとナイは、いつもは先陣切って戦うはずの大猫が、あまり活躍していないことに気づいた。注意深く観察してみる。アンデッドキメラのあるひとつの首が、蜘蛛の巣状の投網のようなものを吐き出し、大猫を攻撃するというよりは捕らえようとしているように見えた。その網で勇者や青年剣士が狙われることはないようだ。
「どうして、奴らはクロちゃんを?」
「いかんっ!」
 ナイの呟きに答えるように、武具屋のオヤジが叫んだ。
「いまは九十九個の異なる魔物の頭を持つただの魔王の出来損ないかもしれないが、頭が百個になると、闇の生命を持つ真の魔獣となってしまうのだっ!」
「そんな話っ、聞いたこともねぇぞっ! だいたい、そんな危険なものになるとわかっていて、どうして九十九本まで付けちまったんだっ!」
 青年剣士の非難などものともせず、オヤジはまるで自分とは無関係であるかのように、我々『似せ物師』の言い伝えだと淡々と語った。
「普段なら魔物がそんなに集まるわけはねぇ。お前らがせっせと狩ってくるもんだからつい『似せ物師』の性が……。それに、九十九本で止めておけば問題ないと思ったんだ」
「じゃあ、奴らはクロちゃんを取り込んで、本物の魔獣になろうとしているんだっ?」
 影の薄くなっていた勇者が、存在を誇示するように叫ぶ。
「そうだ、奴らは大猫の首を求めているのだ」
 重々しく頷く武具屋のオヤジに、当の本人以外の一同は顔を見合わせて頷き合った。
 『似せ物師』である武具屋のオヤジが魂を込めて制作した魔王の作り物が、魔王の封印が解けて強まった魔の気を吸収し、本物の魔獣となるべく最後の魔物の頭を求めて甦ったとしか考えられなかった。

「とにかく、クロちゃんは戦線離脱させましょう!」
 ナイの提案を受け戦闘からさがるよう勇者が指示すると、大猫は狂喜して舞台の裏に走っていく。巧みに避けてはいたものの、毛皮にべたべたとつく粘液が大猫にとっては致命的だったようだ。身繕いしたくて戦闘どころではなかったのだろう。すると、刈り入れ間近の麦の穂束のように垂れ下がったアンデッドキメラの頭達が、一斉に舞台の裏の大猫のあとを追うように伸びていくではないか。
「あっ、奴ら、僕達を無視してクロちゃんの方に――!」
 勇者が心底悔しそうに言ってから、はっと何かを思いついたかのような顔をした。そして、いきなりアンデッドキメラの本体に向かって走り出す。
「勇者さまっ? いったい何を!」
 ドラゴン型の大ぶりな鱗に覆われた本体に取り付いた勇者は、手にした鉄の剣を奴らの首の根本にあてがった。そしてのこぎりよろしくギコギコと挽き始めたではないか。それを見て青年剣士と、やはり渋々といった感じの武具屋のオヤジも勇者の元へ走っていく。
「ああ、そうか。なるほど」
 アンデッドキメラが大猫に気を取られているうちに、首を切り倒してしまおうという勇者の腹積もりに、遅ればせながらナイもようやく気付いた。
 九十九個よりも頭の数が減ってしまえば、たとえアンデッドキメラが大猫の首を手に入れたとしても、百個には満たないのだ。つまり、首を一本失っただけで真の魔獣となる機会が永遠に失われる。少なくとも、これ以上強くなることは防げるに違いない。
 主の意図が通じたのか、アンデッドキメラの頭達をつかず離れずかく乱し始めた大猫を見ながら、ふとナイの胸に湧いてくる考えがあった。
 ――ひょっとして、勇者さまがやけに魔物に襲われやすいのって……。
 魔の気が強まり魔物が凶暴化したせいだと思っていたが、実は知能の高い魔物達には勇者追討命令が出ていたのではないか。そんな勇者を守り従う大猫の命令違反を咎めて、魔物達は戦闘を仕掛けてくるのではないだろうか。勇者にとって魔物を引きつける呪われた道具というのは、実は大猫のことなのでは……そこまで考えてから推測を止めた。
 麗しき主従関係を見ながら、こんな無責任な発言は自分の胸だけに秘めておこうと、ナイは固く心に誓ったのだった。
     *
「なかなか、切り辛いなぁ」
 厚い鱗にびっしり覆われたアンデッドキメラの首に、新品の鉄の剣の刃が潰れるのも構わず挽き続ける勇者は難渋しているようだった。斬りつける、たたき切る、突き刺すならいざしらず、この場合の適した得物はまさにノコギリや斧だろう。しかし、本体に向かう時もそうだったが、手斧を持った武具屋のオヤジは今ひとつやる気がないように、ナイの目には映った。魔獣と化しても、自分の作品を手にかけるのが辛いのだろうか。
 ナイ達にとって不幸中の幸いは、アンデッドキメラの動きが物凄く遅いということだった。長い首は糸で天から吊ってあるかのように器用に動くけれど、本体はナイが勇者を呼び戻しに行っている間、舞台から降りただけだったのだ。尻尾や羽根はお飾り同然であったし、そもそもひとつの身体に首が百本近く生えているのだから、均衡が取り辛くて当たり前である。一度武具屋で分解したものを、あらためて広場で組み立て直したのだ。
「こんなんじゃ、ほんとに夜が明けちゃう……あっ!」
 とはいえ、いかに鈍いアンデッドキメラでもさすがに気付づくではないかとナイがヤキモキし始めた頃、それまで静観していた村人達がにわかに広場へ集まり始めた。
 男達は手に手に斧やノコギリを、女達は鉈や出刃包丁などを持ち寄り、勇者達の隣りで首を切り落とすのを手伝い始めたではないか。あっ気にとられていると、
「血まみれじゃないの、ナイちゃん。ちょっと休んでなさい」
「ナイちゃんや勇者さま達だけに、苦労は掛けられねぇもんなぁ」
 そう言いながら道具屋の得意先の細君が通り過ぎ、通り掛けにナイの頭を撫でていった酒場の常連客などもいた。ナイは思わず涙ぐみそうになりながら何度も頷いてみせた。
 そして勇者が切り落とした最初の一本を皮切りに、二本三本、五本十本と切り倒され、アンデッドキメラの頭達が気付いた時にはすでに三分の二ぐらいまで減っていた。
「クケーッ! フギャーっ! ブヒーッ!」
 ほかにもさまざまな魔物の鳴き声が一斉に鳴き喚く。それまで統一的な行動をほとんど取らなかった頭達も、さすがに怒り心頭したらしい。自分の本体の傍で得物を振るっていた村人達を、得意の状態異常攻撃や炎や氷を吐いて次々に追い散らし始めたのだ。
 しかし、全員に行き渡る量の薬はもはやナイの手元には残されていなかった。

 石化したり猛毒を食らったり、あるいは混乱して敵味方構わず暴れるので気絶させられて運ばれていく村人達を、ナイは歯噛みする思いで見詰めていた。
 もっとも、さすがに正気を取り戻した司祭がお祈りを捧げて負傷者を癒し始めているので、死人が出ることはないだろう。ひとりひとりの処置に時間は掛かるものの、薬と違って女神の慈愛に満ちた癒しの力は無尽蔵だったからだ。
 アンデッドキメラの元から勇者達が逃げ帰ってくるのを期に、ナイは再びメガトンハンマーを拾い上げた。『職業的視覚』で見るまでもなく、勇者達は皆、何らかの状態異常攻撃を受けているのがわかる。しかしよほど酷い状態でない限り、勇者達に対して薬を出し惜しみするしかなかった。ナイは腰に結び付けた皮袋を何度もまさぐってみたが、薬がほとんど残っていないのだ。戦闘の開始段階から懸念していたことが起きてしまい、ナイは口惜しさに奥歯をぎりりと噛み締めた。
 薬を持たない道具屋の出来ることは何なのかと、ナイは毒々しい色合いの手のひらをみながら自らに問うた。薬頼りのメガトンハンマーも、いつまでもこうして振るっていられるわけではない。何か自分にしか出来ないことはないだろうか――。
「…………はっ!」
 北の荒れ野で勇者の命を救った奇跡のことをナイは思い出した。両手が一瞬光り輝き、勇者の体力を回復させたのだ。それと同じ奇跡がこの場で起こせないだろうか。
 そしてアンデッドキメラとの戦闘に入る直前の、司祭の嘆きを思い出す。
 ――こんなことっ、私の……いやっ、女神の託宣にないぞっ! どうなっているんだ?
 そうだ、このアンデッドキメラの騒ぎは女神の筋書きに入っていないのだ。だとしたら事態を筋書き通りに戻すためには、筋書き外の力、つまり女神の力を請うてもいいのではないだろうか。ナイはヨレヨレの状態で闘う勇者達の後ろで、一身に祈りを捧げた。
 ――女神さま。とるに足らぬ小さな我が身ですが、女神さまの御手としてこの身をお使い下さい。女神さまの筋書きにないアンデッドキメラを倒すために、北の荒れ野で勇者さまをお助け頂いたように、この手に女神さまのお力を与えて下さい……!
 
 この瞬間、間違いなくどこかで何かが『承認』された。

「……あっ……」
 一瞬、視界が真っ白に染まった。北の荒れ野どころではない、まるで大地に降り注ぐ創世の女神の慈愛の力がすべて集約されるかのように、器たる自分の小さな身体に満ちていくのを、ナイは確かに感じていた。
「……ナイ……ちゃん?」
 武具屋のオヤジが口をあんぐりあけ、手斧を取り落とすのを見た。
 ナイの身体から、勇者達だけでなく傷付いた村人や見物人、果てはアンデットキメラ自身も一瞬硬直するほどの聖なる白い光が溢れ出していたのだ。
「――――」
 ナイは女神の御手として誇らかで晴れやかな心持ちでいながら、人に限らず道端の名も無き野草の一本一本、魔物や北の魔王でさえもいとおしく思う慈愛の気持ちが身の内に満ちているのを知った。そしてそれは聖なる癒しの力でありながら、同時にこのままでは自分の身体が内側から弾けてしまうかもしれない危機も感じていた。ただの人の身で持つには、あまりにも大き過ぎる力だったのだ。急がなければならなかった。
 ナイが目を落とすと、緑とも紫ともつかない色に染まっているはずの両手も、手にした鋼鉄のメガトンハンマーも真っ白に光り輝いている。
「……ええっと」
 ナイは硬直するアンデッドキメラの傍まで走っていき、ものは試しとばかりに長い首のひとつを手にしたメガトンハンマーで殴ってみた。聖なる光が辺りに弾ける。
「グゲェエエエッ!」
 それが何の魔物の首なのかは見えないのでわからなかった。しかしたった一発だけで花が萎れるように力を失い、鶏によく似た魔物の頭が落ちてきて、どうと横倒しになり元の剥製に戻ってしまった。勇者を始め一同が目を細めて眩しげにナイを見詰めている。
「ちっ、ちょっと待てよ。あのしぶといアンデッドキメラが、小突いただけで?」
「……ああ、そうか。むしろアンデッドキメラだからこそか!」
 勇者は何ごとかに気付いたのか、自分も殴ってくれとナイに走り寄って懇願する。ナイは言われるままに恐る恐る――なにせ元がメガトンハンマーなので――勇者の頭をハンマーで叩いてみた。辺りに聖なる白い光が飛び散った。
「――嘘だろっ?」
 青年剣士が頭を抱えて絶句した。ありとあらゆる状態異常を引き起こし、しかも猛毒まで受けて瀕死の状態だったはずの勇者の健康状態が、瞬く間に回復してしまったのだ。体力も満タンに戻っているのを、ナイは『職業的視覚』で確認した。
 しかもそれだけではない。物理的な攻撃力と防御力、魔法的な攻撃力と防御力、敏捷性に幸運度と、あまり関係のない部分の数値までも一気に跳ね上がったではないか。
 『職業的視覚』を持たずとも傍目にもその効果が実感出来るようで、青年剣士も自分を殴ってくれとせがんでくる。ナイは青年剣士と呆然としているオヤジを次々に殴った。
「ナイはいま、女神さまの御手となっているんだね。毒の沼で僕を助けてくれたように……。君の中に溢れる癒しの力が、僕にも感じ取れるよ……」
 勇者は起きていながら神託でも受けたかのように、うっとりとナイを見詰める。
「そっ、そっ、そうなんですか?」
 自覚しているのでそうなんですかも何もあったものではないが、ナイは北の荒れ野で助けたことを、勇者自身が覚えていたことの方が嬉しくもあり恥ずかしくもあった。
 とにかく、ナイ自身が女神の御手となって地上に降り注ぐ慈愛の力のほとんどすべてをその身に集め、一時的にせよ癒しのメガトンハンマー使いとなったのである。

「おじさん……」
 ナイはゆっくりと、立ち尽くしている武具屋のオヤジを振り返った。
 いまの女神の御手となったナイになら、オヤジのやる気のない素振りが理解出来るような気がした。オヤジは折角長い時間掛けて作り上げた魔王の作り物が、用が済めば燃やされてしまうことを本当は悲しんでいたのだ。祭りの最終日に、炎に包まれ崩れ落ちる作り物を見ながら、顔では誇らしげに笑っていても、心の底では泣いていたに違いない。
 ましてやこのアンデッドキメラ化してしまった作り物は人々を襲って負傷させ、祭りでの役割を果たすことなく、あまつさえ三分の一の首を失ってなお村の広場で醜態を晒しているのだから。手の掛かる子ほど可愛いものなのかもしれない。
 それでも、ナイはあえて聞かねばならなかった。時間があまり残されていないのだ。
「おじさん、アイツの急所を教えて」
「――ナイちゃん……」
 人知れず猛毒に侵され癒しのメガトンハンマーで全回復した武具屋のオヤジが、言おうか言うまいか散々悩んだ挙句に、とうとう観念したかのように呟いた。
「奴らの急所は……恐らく胸に空いた穴だ。ひと思いにやってくれ」
「胸に空いた穴って……まさか」
 言われてみれば、アンデッドキメラの本体、鱗に覆われた胴体の胸の辺りに、丸くくり貫いたような跡があるのがわかる。綺麗にはめ込みニカワで接着してあるのか、それまで気付かなかったのだ。もっとも、気付いたところでどうしようもなかったのだが。
 ――まさかこれって、クロちゃんの……。
 魔王の作り物の製作工程の最中、大猫の後ろ姿に涎を流さんばかりの物欲しそうな眼差しを向けていた武具屋のオヤジの顔を思い出した。そう言えば、炭で丸く印など付けていなかっただろうか。オヤジが諦め切れなかったことに、ナイは気付いてしまった。
「……………」
 オヤジが大猫の頭に最後の最後までこだわって空けてしまった無念の穴だとは、ナイ以外の誰にもわからないだろう。恐らくオヤジの妄執が九十九本の首しかない魔王の作り物にかりそめの命を吹き込んでしまい、はからずも最後のひとつの首となる大猫を求めて動き出したのだ。ナイはオヤジの『似せ物師』としての執念に戦慄すら覚えた。
「よし、勇者と俺で機会を作るから、ナイちゃんはあとから頼むっ!」
「クロちゃん、猫パンチだっ!」
 そう言い捨て、剣士と勇者で同時にアンデッドキメラの本体へ切り掛かる。すぐあとに大猫が胸部へ猫パンチを食らわすと、蓋が奥に抜け落ちくだんの穴が丸く口を開けた。
 そしてその穴に、すでに走り込んでいたナイは思い切り体重を乗せ、身も砕けよとばかりに最後の力を振り絞り、癒しのメガトンハンマーを振り下ろした――!
「――――――――」
 才のある者が見れば、鉄と木材で出来たアンデッドキメラの内部に満ちていた魔の気と、癒しのメガトンハンマーから溢れ出す女神の聖なる力が真っ向からぶつかり合う様子が見られただろう。そして次の瞬間、目も潰れんばかりの眩しい光が、アンデッドキメラの身体から四方八方に何条も流れ出す――。
「……きゃっ……」
 至近距離にいたナイは逃げるのも叶わずに、メガトンハンマーを抱いたまま目を閉じて顔をそむけるのが精一杯だった。
 思わず身を縮めたナイの身体を、誰かが押し倒し覆いかぶさる――。
     *
 一瞬の収縮のあと、大音響とともにアンデッドキメラが爆発した……ということがわかったのは、爆風が収まったあとだった。  
 音と光のわりに被害が極端に少ないことを、ナイはあとで知った。それもそのはず、アンデッドキメラとは言っても、本来は鉄の骨組みに木材を貼り付けて魔物の皮で覆っただけの張り子に過ぎないのだ。空気を入れ過ぎた風船が破裂したようなものだった。
「おっ、重い……えっ? ゆっ、勇者さま、大丈夫ですかっ?」 
 恐る恐る目を開けたナイは、自分の身体の上の邪魔な荷物が、鎧込みの勇者であることにようやく気付く。身をていして守ってくれたのは勇者だったのだ。
「――あ、ナイ、無事だったかい?」
 勇者は薬を与えるまでもなく、すぐに息を吹き返した。村人が隣人同士で抱き合い無事を確認し安堵する中、二人は座り込んだまま舞台の残骸の片隅で見詰め合った。
「ナイがいなかったら、僕らにはアンデッドキメラを倒すことが出来なかったかもしれない。もし、君さえ良ければ、僕達と一緒に……」
 薄汚れた顔の勇者の囁きが、ナイの耳にはとろけるように甘い蜜のごとく聞こえる。
「…………」
 ナイが押し離したメガトンハンマーの柄が、鈍い音を立てて地面にめり込んだ。もはや女神の御手たる役割を終えたナイには、引き摺ることさえかなわない。大いなる力の去った空虚感を抱え、ナイははたと言葉に詰まった。
 ――私が旅に同行しても、本当に勇者さまのお役に立てるかしら……。
「お前達、怪我はないかっ?」
 二人の肩を叩きながら割って入ったのは、白い歯を見せて笑う青年剣士だった。勇者に擦り寄り甘えた声を出す、真っ白に汚れたブラッディパンサーも無事だった。
 そして村人に限らず、その場にいたすべての人々の歓声が広場を満たす。
「勇者さま、バンザイっ!」
「癒しのメガトンハンマー使いのナイっ、バンザーイっ!」
 勇者一行は女神の筋書きを達成せずして、あらためて村を救った勇者として村人達に迎え入れられたのであった。
 焼け落ちた家屋の陰から、ハゲ頭を覗かせてナイをそっと見守る者がいた。それは爆風からナイを守ろうとしたものの、あえなく勇者に遅れを取ってしまった道具屋のオヤジだった。誰に聞かせるでもなくひとり呟く。
「……胸にブラッディパンサーの頭がはまってなくて良かった……もしはまっていたら、いかに勇者達とはいえ、勝てなかったかもしれん……」
 しかしオヤジの呟きは勇者達を称える人々の声にかき消され、誰の耳にも届くことはなかった。恐らくナイ以外には理解出来ないだろう。
「いやぁ、これは凄いっ! こうなったら本部に問い合わせて、道具屋のナイを在俗ながら癒しのメガトンハンマーの聖女に任命して貰おう!」
 熱心に語り続ける司祭や途切れることのない賞賛の嵐から、ナイはひとりだけ別の場所にいるような錯覚を感じていた。はやり女神の御手たる役割が、普通の少女であるナイには重過ぎたのか、すでに意識を失い掛けていたのだ。
 ――その呼び名はイヤかも。じゃなくて、お祭りどうなっちゃうのかしら……。
 だから誰かが自分を支え、耳元で名を呼んだのか、そして何と答えたのかもわからない。抱き上げて家まで運んでくれたのが誰なのかも、ナイは知らなかった。


6.エピローグ
「――お前らァ、一度、ワシの棲家の目前まで到達しといて何もせずに帰るとはァ、一体どういう了見だァァァァァ!」
 とりわけ巨大なカエル型の人語を話す魔物――この辺り一帯を支配する魔物の親玉――を前にして、勇者と青年剣士は顔を見合わせていた。
「んなこと言われたってなぁ、勇者よォ?」
「……我々にも、色々と事情があったんです。気分を悪くされたら申し訳な――」
 そう言って律儀に頭を下げた勇者を、魔物は長い舌で絡め取って天井やら床やらにバシバシと叩き付けてから放り出す。青年剣士と大猫は回避して無事だった。
「……痛たた。酷いなぁ、不意打ちなんて」
 頭を擦りながらむっくり起き上がった勇者の健康状態を『職業的視覚』で確認すると、体力はほとんど減っていない。いつものお下げ髪ではなく梳き髪に寝巻き姿のナイは宙に浮かんだまま、勇者も逞しくなったものだとしみじみ感じ入った。
「どうせ倒しちまう奴に謝ったって、しょうがねぇだろ。早いとこやっちまおうぜ」
 呆れ顔でそんなことを言う青年剣士に、魔物の親玉は緑と紫だった身体の色を真っ赤に変えて怒り狂った。それまで以上に苛烈な攻撃技を仕掛けてきたが、勇者達はほとんど損害を受けることはなかった。筋書き外のアンデッドキメラを倒したことで、レベルが上がり過ぎてしまったのだ。ナイは苦笑いしながら一同の戦闘を見守った。
 ――取り越し苦労だったみたいね……お家に戻ろうかしら。
 実は、ナイはアンデッドキメラを倒したあと、すっかり寝付いてしまったのだ。いまもナイの身体は自宅の寝台の上にあり、やつれたシシィがつきっきりで介抱している。
 寝ている間もナイの魂は勇者達と行動を共にし、北の祠の魔物退治にまでついてきてしまったのだった。
 そして続行不能かと思われた夏祭りも、武具屋のオヤジがやっつけで仕上げた――間違っても魔獣化しないように簡素な――魔王の作り物を使って滞りなく行われた。
 例年と違ったことは、旅回りの一座のお抱え脚本家が寸劇の内容を一部書き変え、勇者を助けて癒しのメガトンハンマーを振るう少女の役が追加になったことだった。もっとも、役者が揃わなかったのか、実際は少女とは呼べないような微妙な年齢の女性が演じていた。ナイは勇者の隣りにこっそり座り、こそばゆいような気持ちで一緒に寸劇を見たのだ。
「…………」
 霊体であるだけに、ナイは沁みひとつない真っ白な手で勇者に触れる。すると傷付いた勇者の体力は回復し、さまざまな状態異常は治ってしまうのだった。
 なぜこんなことが出来るのか不思議ではあったが、ナイはあまり深く考えないことにした。女神の慈愛に満ちた癒しの力が、まだわずかながら残っているのかもしれない。
 しかし大猫だけにはナイの姿が見えるようだ。始終、喉をゴロゴロ鳴らして宙を見上げているものだから、その様子が青年剣士のカンに触るらしい。青年剣士は気持ち悪いからやめてくれと言いながら震えている。さすがの剣士も目に見えないものは苦手なようだ。
「無念……こんなヒヨッコ共に、この俺が……げふっ」
 巨大なカエル型の魔物は勇者の一突きを食らい、ひと通りべらべら喋る前に絶命してしまった。魔物が倒れた拍子に足元まで転がってきた封印の宝珠を拾い上げ、青年剣士は勇者に手渡しながら眉を潜めた。
「うわっ。こんな時に、ナイちゃんがいればなぁ」
 よくよく『職業的視覚』で見れば、青年剣士は猛毒に侵されている。魔物の親玉の最後のひと噛みだったのだろう。薬袋替わりにされたのが何となく頭にきて、ナイは青年剣士の状態異常を直さないでいた。剣士は毒消しの丸薬を探しながら、
「そう言えば、お前、どうすんだよ?」
「何が?」
「何がって……ナイちゃんのことに決まってんだろ」
 相変わらず、勇者の足元では大猫が身繕いにせっせと精を出している。
 本来ならば魂が身体に駆け戻ってしまうような赤面ものの話題であったが、不思議とナイは他人事のように冷静でいられた。魂だけの、夢のような感覚だからかもしれない。
「……アンタはどうするんだい?」
 気軽に問い返す勇者と青年剣士の間には、見えない絆が芽生えつつあるようだ。
 ちなみに女神の筋書きでは、北の祠の戦闘で勇者が絶体絶命の危機に陥っている時に、青年剣士が助けに入ることになっていたそうだ。アンデッドキメラに見せ場を奪われたと、青年剣士は複雑な表情をしながら、冒険の合間に勇者へ語ったのだ。
「俺のことは放っとけ。お互い、納得づくなんだからな」
「僕は……」
 それきり、勇者は何も言わなかった。ついて来て欲しいとも、ついてこないで欲しいとも言わず、ただ泣き笑いのような表情を浮かべてきびすを返す。
 転がっていた大猫が慌ててあとを追い駆け、青年剣士も毒消しを不味そうな顔で飲み下しながら地上に向かって歩き出した。

 次の瞬間、ナイは自分の部屋に引き戻されていた。
 それまで見ていた光景が夢だったのかと思うほど唐突で、しかしまだナイは自分の身体に戻ることはなく、部屋の上方に浮いていた。
 狭いながら整とんされた部屋の片隅、寝台の上に寝かされている自分を発見する。
 霊体と同じように腰までもある髪を梳いて昏々と眠り続けるさまは、幼い頃に読んでもらったおとぎ話を思わせた。もっとも血の気を失った顔は美しいとは程遠く、寝台の傍に椅子を寄せ、自分の上に突っ伏しているシシィの方が、よほどあどけなく愛らしかった。
 閉め切りの戸板の隙間から洩れる光は、夜明けが近いことを示している――。
 永遠に変わらぬ時間の止められたような部屋に、音を出さないよう慎重に扉を開けて誰かが入ってくるのがわかった。かぶっていたフードを外す。
「!」
 それは勇者だった。マントを新調したのか、こざっぱりと身奇麗になっている。
 ナイにとっては一瞬だけれど、北の祠から戻った勇者にとっては、戦果を教会に報告し、食事をして一晩ぐっすり休んだあとの出来事かもしれないと、根拠もなくそう思った。
 シシィの肩からずり落ちた夜具をかけ直し、勇者は寝台に横たわるナイの抜け殻に歩み寄る。そして熱心にナイの顔を見詰めた。ナイは自分の硬直していた感情が、にわかに溶け出すのを感じ、姿も見えないというのに空中を右往左往してしまった。
 勇者はおずおずと手を伸ばし、ナイの寝乱れた亜麻色の前髪を払ってくれた。そして勇者の暖かい手が自分の頬に触れるのを、ナイは確かに感じた。
「一緒に来て欲しかったけれど……。でも、世界を救うことが、君を守ることになるのだろうか」
 ただそれだけの、短い逢瀬だった。一言だけいって、勇者はまたもと来たようにひっそりと部屋を出て行く。まるで最初からいなかったかのように。
 それまでほとんど無反応だった感情が嵐のように押し迫ってきて、ナイは思わず飲み込まれそうになり、目を閉じて耳を塞いだ。頭がぐるぐると回り、意識が暗転する――。
「――――」
 がばっと起きると、見慣れた自分の部屋の中には誰もいなかった。
 いや、先ほどと同じように突っ伏して寝ていたシシィが、目をこすりこすり上半身を起こす。思わず抱き締めたくなるような愛らしさだ。しかしよく見るとシシィの目は、泣き腫らして真っ赤だった。
「ナイッ! ああ、無事だったのね……!」
 シシィはナイの首にむしゃぶりつき、三日間眠りっぱなしであったこと、北の祠の魔物を昨日勇者達が退治して、この村での女神の筋書きが完了したことなどを告げた。
 背をなぜてもなぜか泣き続けている幼友達の様子にナイはなぜかピンときて、シシィを退かせて立ち上がる。眩暈がするの、身体中が千本の針で突き刺されるかのような激痛に見舞われているのなどと言うことは、この際、問題ではなかった。
 戸板の向こうから差し込む光が、先ほどとあまり時間差がないように見えるのが気のせいでないなら。まだ間に合うかもしれない。
「行きましょうっ、シシィっ!」
 ナイは手袋もしないで――とはいえ北の荒れ野に置き去りであったが――シシィの手をひっ掴み、梳き髪で寝巻き姿のまま木靴だけを履いて家の外に走り出したのだった。

「もう無理よっ、どうせ間に合わないわよ、ナイっ!」
 抵抗するシシィの声など無視して、ナイは東の荒れ野が見渡せる小高い丘の上まで一息に走った。ほとんど村の領域外で、魔物に襲われたらそれこそひとたまりもないが、運良く出会うことはなかった。
 息を弾ませ、二人は立ち止まった。
「――――」
 ナイは背伸びをして、東の船着場へと続く荒れ野の向こうを見詰める――。
 星々が力を失い白み始めた空の下を、村を離れゆく三つの小さな影が見えた。
 正確には二人と一匹。一匹は後ろ髪引かれるように何度も何度も振り返る。二人のうち背の高い影が低い方の影の肩を叩き、何ごとか励ましているようにも見えた。
 ――自分が目覚めていたら、勇者さまは『ついて来てくれ』と仰っただろうか。
 ナイはかぶりを振った。恐らく勇者は自分のことを考えて冒険に誘うことはないだろうと思った。自分はただの道具屋、足手まといにしかならない。いまも薬の副作用である全身を襲う猛烈な筋肉痛に歯を食い縛り、立っているのもやっとのありさまだったのだ。
 勇者、剣士、酒場の看板娘、武具屋、そして道具屋の自分。それぞれには本分いうものがあるのだ。また勇者がこの村に立ち寄った時に薬を売ることが出来るように。道を聞かれても案内できるように。そして勇者だけではない、村人も自分の薬を必要としている。
 この先、枕を濡らし眠れぬ夜を幾晩も過ごすことになるかもしれないが、それが神の御手たる自分の役割と、ナイは無理やりに思い込んだ。その選択が正しいのかどうかはまったく自信がなかったけれど、北の祠を勇者達と旅している間に自分で決めたのだ。
 隣りに並んでいたシシィが、精も根も尽き果てたというように座り込んだ。
 ナイが『お別れは出来たの?』と問うと、
「いいのよ、あんなバカ」
 そう言い捨てたシシィの空色の瞳から、枯れ果てたかと思われた涙が再び溢れ出す。
 ナイは意地っ張りな幼友達の肩を、励ますように力強く抱いた。勇者一行が地平線の彼方の点となっても、しばらくのあいだ二人、丘の上で黙って風に吹かれていた。
「知ってた、ナイ?」
 シシィがぽつりと言った。
「あのバカ、本当はどこかの国の王子さまなのよ。天啓に従って、勇者を求めて国を飛び出したんですって。笑っちゃうでしょ?」
「…………」
 ――願わくば、勇者さまが無事ご本懐を遂げられますように――。
 ナイは世界を創ったという女神に祈った。そして神の国においても勇者の心が安らかであるように、ナイは名も知らぬ神々に祈らずにはいられなかった。




 ちなみに武具屋のオヤジは、自分の力作が魔獣と化して村で暴れたことより、ナイが寝込んでしまった方が堪えているらしい。あれ以来、店を締め切りにしているとシシィから聞かされた。そうでなくても開店休業中だった武具屋に村人も困っていたので、ナイは目が覚めたその日のうちに隣家へと赴いた。
 自分がもうすっかり元気であることを告げると、武具屋のオヤジに抱きつかれ男泣きに泣かれたので、ナイは痛む節々を押し殺してなだめなければならなかった。
「心配し過ぎよ。おじさんを残して、死ねるわけがないでしょ?」
 そう言いながらもナイは、勇者一行が渡し舟で川を渡り、見知らぬ東の大地に降り立つ姿を想像する。晴れ渡った青空を見上げ、こっそりかの地に想いを馳せるのだった。

 その後、ナイが使ったオヤジのメガトンハンマーは、司祭たっての要望により教会に寄贈された。道具屋のナイは勇者を助けた癒しのメガトンハンマーの使い手として、後世まで長く語り継がれられることになったのだ。もっともナイがメガトンハンマーを握ることは一切なく、聖女の称号も謹んで辞退を申し出た。
 ナイの生活はそれまでとなんら変わることはない。大きなカゴを背負い、前掛けの紐に魔除けの鈴を提げ、野外にひとり薬草獲りに出向く。しかしもう手袋をはめることのない両手をますます真っ黒に染め、晴れやかな気持ちで薬草を煎じ続けるのだった。
 いつの日か、少年のようにはにかんだ笑みを浮かべた勇者が、再びコトリ村を訪れてくれることを願って――。

――了――


この作品が気に入っていただけましたら『高得点作品掲載所・人気投票』にて、投票と一言感想をお願いします。
こちらのメールフォームから、作品の批評も募集しております。

高得点作品掲載所 作品一覧へ
戻る      次へ