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玉村靖男は会社員

 わたくし、玉村靖男は会社員であります。わたくしの会社が『クールビズ』に乗り遅れたため、八月の灼熱の太陽の下、わたくしは今でもむさくるしいスーツで色々な会社を闊歩しております。全くいやになるものです。真夏日に真っ黒いスーツ、信じられません。
 わたくしは体力なんていうものはからっきしありませんので、S会社からT社へ向かう途中、公園で休憩を取ることにしています。公園はいいものです、なんせ水がただで飲めるのですから。水道をとめられているわたくしには本当にありがたいものです。
 ジャングルジムの横を通り、砂場を通り過ぎ、しげしげとした緑の影にある水飲み場へまっすぐに向かいました。実のところ、毎日ここの水飲み場にお世話になっているのです。
 わたくしは蛇口に口をつけ、水をたらふく飲みました。いつもやっていることです。罪悪感なんてとうの昔に捨てました。
 と、夢中で水を飲んでいますと、後ろから声をかけられました。わたくしは後ろを振り返り、その声の主を見ました。
 ヤンキースのキャップをかぶった、小学生低学年ほどの子どもがこちらを目を見開いてまじまじと見ているのです。わたくしは「あっちへ行け、子ども」と子どもを追い払おうかと思いましたが、さすがのわたくしでも、蛇口に口をつけていたことの非常識さを子どもに見られたことには負い目を感じているのでした。
 仕方なく、わたくしはその場から逃げました。一目散に駆ける、ということではなく、子どもに背を向け、目線を避けてその場を離れるということです。走ったりなんかしたら、体中から汗が噴き出しますよ。そんな愚かなことは、わたくしはやりません。


 T社に着きました。わたくしはしわくちゃなハンケチで額の汁を拭い、クーラーのガンガンかかったT社へと足を踏み入れます。
 わたくしはくらりと視界に星が混じるのを感じました。贅沢の国日本。こんなにも無駄にエアコンをガンガンかけても全く意味のないことではありませんか。わたくしでさえこの会社の中は寒いと感じて、それもめまいのするくらいの気温の差があるのに、そんなに寒くしてどうというのです。ほら、見てください。若いOLはカーディガンを羽織って寒そうにひじを摩っているではありませんか。なんという無駄な出費なのでしょうか。
 わたくしはこのバカなT社をさげずみ、速攻で用事を済ませ、帰路に着きました。あの会社にいたら、なぜだか無性に腹が立ってくるのです。別にわたくしが妬んでそう感じているわけではありません。地球のことを考えて、わたくしの善良な心が痛みを感じているのでしょう。わたくしの心は崇高なものなのです。
 わたくしは自社へ戻る道すがら、さっきの公園を通りました。別に水を飲もうと思っているわけではありません。通り道なのだから、仕方がないでしょう。
 わたくしは公園の入り口から、中を覗きこみました。もしも水飲み場が空いているのなら、寄っていこうと思っていました。別に水は飲みません。手を洗ったり、ハンケチを水で冷やしたりできるでしょう。その合間に水を飲もうなんて考えていません。
 水飲み場が見えました。そこでわたくしは驚きのあまり、目を剥きました。さっきの子どもが水を飲んでいるではありませんか。それだけならいいでしょう。子どもは蛇口に口をつけて飲んでいるのです。ああ、なんということでしょう、わたくしの専用だった蛇口は、子どもが口をつけたばっかりにばっちくなってしまったではないですか。わたくしはそれがいやでいやで仕方ありませんでした。もちろん、わたくしの非常識な水の飲み方がうつってしまったことに対する呵責は、それを凌駕します。
 わたくしは水飲み場へ駆けていきます。水を飲み続ける子どもの首根っこを掴みました。そして無理やり蛇口から子どもを離します。
「何すんだよ、おじさん」
 子どもは生意気に口をききました。温厚なわたくしでもムッと怒りがこみ上げてくるのを感じました。胸くそ悪い子どもです。わたくしは言ってやりました。
「わたくしは、お前の非常識的な行いを許しません。社会のルールを守りなさい。蛇口に口をつけたら汚くて、他の人が飲むときに不衛生ではないですか」
 子どもは困ったような、歪んだ表情を浮かべました。わたくしはそれを見て、さらにまくしたてます。
「人間の口内は、無数の細菌でひしめき合っているんです。それはすごい数で、人間の排泄物よりも多いばい菌が口内にいるんですよ。そんなばい菌だらけの口でお前は蛇口に口をつけていたんです、恥を知りなさい。社会の恥です」
 子どもは泣き出してしまいました。わたくしの溜飲は下がっていきます。気分はすっきりしていきます。
 泣きながらかけていく少年の背中を見送り、わたくしは蛇口をハンケチでごしごしと拭い、水をがぶがぶ飲みました。もちろん、口をつけています。これは恥ではありません。なぜならば、わたくしは地球のためを思って、水をこぼさないために口をつけて飲んでいるのですから。そう、わたくしはエコロジストのかがみです。


 会社に着くと、蒸せるような熱気が社内を覆っていました。まったく、経費節約のためクーラーをつけないなんて、今の社会で信じられない考えを持った社長です。無能な人間なのでしょう。エコロジストだってエアコンくらいかけます。
 ちょうどお昼ごろだったので、会社は人がまばらでした。わたくしは一応の報告をして、昼食へ向かいます。
 社内食堂は人であふれかえっていました。腕を捲り上げている女性や、胸のボタンを大きく開けている女性、暑さのためかだらしなく足を投げ出している女性。まったく、近頃の女性というのは、節操のないこと極まりありません。わたくしはそのだらしなく足を投げ出す女をまじまじと睨みつけてやりました。
 わたくしの思いが通じたのか、一瞬訝しげな表情を浮かべ、その女は両足を足元に納め、胸元のボタンも閉めました。「やればできるのなら、最初からそうしなさい」とわたくしは言おうかと思いましたが、舌打ちを漏らしておいただけに留めておきました。
 わたくしはまたいいことをしました。日本をどんどんよいものにしていくのです。細かいこと一つ一つが日本を救うのです――
 わたくしは今日も日本をよいものにし、営業に奔走するのです。


 ♪


 給湯室には女性が二人、世間話に花を咲かせていた。長い髪の女性がため息をつきながら、コーヒーを淹れている。
「はあー」
「どうしたのよ、急にそんなため息ついて」
 短い髪の女性はため息をつく女性に尋ねた。髪の長い女性は話し始める。
「それがね、今日久々に社員食堂に行ったらね、玉村さんがいたの。あの玉村さん」
「へー、あのけちで有名な人が。めずらしい。いつもは部下にお昼を買わせて、お金払わない人なのにね。それで、玉村さんがどうしたの?」
 長い髪の女性はまたため息をつく。彼女のため息は、重い。長い髪の女性は、ゆっくり話し始めた。
「それがね、今日玉村さんが私の斜め前の席にいたんだけどね、あの人私のほうじろじろ見つめてくるの。最初は気づかなかったんだけど、あの人あまりにもじろじろ見るから、絶対に私のほう見ているってわかったの。しかも、足よ。なめまわすような視線で、私、もう気味悪くてぞっとしながら足を隠したの。そしたら、あの人あからさまに顔ゆがめて、舌打ちしたのよ。信じられる?」
「セクハラよ。それ、確実にセクハラだわ」
 短い髪の女性は憤怒したように声を強めた。嫌悪の念が声ににじみ出ている。
「まったく、困ったものだわ。女性の敵ね」
 二人は意気投合し、そのまま玉村さんのことを言い合い続ける。ほとんどは悪口だ。その中には信じられないような嘘っぽい話も混じっているが、彼女たちにとってそれはどうでもいいことだった。彼女たちは話がしたいために、どんな話にでも飛びついてペチャクチャとしゃべるのだ。
 玉村さんが公園で水を飲もうとしている子どもから蛇口を奪って、子どもを泣かせたというなんとも嘘くさい話も、彼女たちの世間話の種になるのには十分だった。


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●感想
一言コメント
 ・こんな人いたら大変ですねー。いるかもしれませんけど。
 ・おもしろかったです。このような小説は初めてです。読みながら何度か笑いました。
 読み始めて少ししたらやめてしまうものが、結構ありますが、この作品は、読みやすいというか、
 先が気になるというか、引き込まれる感じでした。
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