高得点作品掲載所      ユルネバさん 著作  | トップへ戻る | 


You'll never walk alone

を口ずさんで

 ――寂しいから空を見るんだよ。

 そう言っていた彼がわたしの前からいなくなって、もう一週間が経った。
 学校の教室。いつも当たり前のように前に座っていた彼がいない。それだけで、わたしはどこか宙に浮いているような、心もとない自分を感じる。
 今でも目を閉じればはっきりと思い出せる。
 その無邪気な笑いも、ふとした拍子に見せる少しかげりのある顔も……。
 でもわたしは、ぽっかりと空いた前方の空間を見やり、いないと分かりつつも彼の姿を捜してしまう。
 彼はいつもそこで机に頬杖を突き、窓の外――空を眺めていた。
 
 ――だって空は繋がってるからね。
 
 朗らかに笑いながら言った彼の言葉が、胸の奥で反芻する。
 わたしは彼の真似をして、空を見上げた。
 透き通るような青一色の空に、大きな入道雲がふわふわと浮かんでいる。その雲は東に向かってゆっくりと移動していた。どうやら風が強いようだ。
 彼は今もどこかで、この空を見ているのだろうか?
 だとしたらそれは、今わたしが見ている空と同じなのだろうか?
 そう思っていると、自然とわたしの口から歌が流れ出てきた。
 いつも彼が歌っていたあの歌が……。
 そう、『You'll never walk alone』を口ずさんでいた。

 ♪

 わたしが約四ヶ月ぶりに学校に登校すると、教室にいる人ほとんどが、なめるような視線をわたしに送ってきた。
 久しぶりに制服を着た自分は、とても不恰好な気がして、朝、姿見に映る自分の姿を見たとき、思わず苦笑をこぼした。
 まるで珍しいものを見るような目で、わたしを見てくるクラスメート達を尻目に、まずわたしは教卓に上がり、机に張り出されている座席表を確認し、自分の席に着いた。
 窓際の一番後ろ。しばらく来ないうちに、わたしの席はこんな隅っこに追いやられていた。
 ……まあ、ちょうどいいか。
 誰とも関わらずに過ごそう。そう決心したわたしにはそれは都合のよいものだった。
 久しぶりな木の匂いを感じつつ、わたしは机に突っ伏した。顔は横を向き、窓の外を眺める。
 ただでさえ高地にある学校の、四階から見える町並みはまるでミニチュア模型のように小さく見える。その奥にある、こんもりと緑に覆われた山々は太陽の光に映え、鮮やかな景色を彩っている。
 でも、その鮮やかな景色とは対称的にわたしの気分はすぐれない。やはり学校に来るとどうしても、普段以上に閉鎖的な気分になってしまう。
 昔のわたしは愛想も良かったし、性格もわりと明るかった。そのおかげか友達は多かった……。

 ――まあ、些細なことなのだ。
 ある日、わたしはクラスの決まりごとに異を唱えた。それ自体は別に大したことはなかった。なんせたかが、給食の配膳の仕方をもっと効率よくやろうと意見しただけだ。
 だが、それがきっかけとなって、わたしは周囲から奇異の目を向けられた。
 それから、わたしがいじめの対象になるまでに大した時間はかからなかった。友情は崩壊したのだ。
 些細なことだ。ほんの些細なことなのだ。
 無視されたり、持ち物を隠されたり……。
 どこにでもある普通のいじめだった。わたし自身、少なからずそういったいじめに加担したこともある。そんな小さないじめは、時が解決してくれる。それは分かっていた。
 でも。
 ――わたしは耐えられなかった。
 ある朝。学校に行こうとすると、急に激しい嘔吐が沸き起こった。それと共に、腹痛と偏頭痛もわたしの体を襲った。
 両親に叱咤されても、体は受け付けない。まるで自分の体が自分のものではない。そんな感覚を味わった。
 学校に行くのを体が拒否する。それは初めての体験だった。

 学校を休み始めて一ヶ月もすると、不安な気持ちに苛まれた。うちは両親共働きなので、常にわたしは家で一人ぼっちだった。
 親から出された課題である通信教育の教材は、大体午前中に終わってしまう。すると午後は暇になる。暇になるといろいろと考え込んでしまう。まさに悪循環だ。
 同年代の人のほとんどは学校に通い、いろんな人と接し、様々な体験をしてどんどん人間的に成長しているのだ。
 それに比べわたしは、家に引きこもり、特になにをするわけでもなく毎日を過ごしている。そう思うととても不安だった。
 わたしはそんな気持ちをまぎわらすために、なにか自分が熱中できるものを捜した。とにかく暇な時間をなくしたかったのだ。
 ある日、一人暮らし中の兄の部屋でフォークギターを見つけた。
 そういえば兄は昔ギターを弾いていたな、と思いつつもなんとなく弦を弾いてみる。すると狭い部屋に想像していたよりも大きい音が響いた。
 その澄んだ響きはわたしの胸の奥まで染み付いてきた。
 わたしはちょっとだけギターに興味を持った。

 その日から毎日ギターをいじった。おあつらえむきに、本棚には初心者用の教本があり、机の引き出しにはチューナーが入っていた。
 まずは基本であるスリー・コードを覚えた。兄のギターは、女のわたしにはちょっと大きく、弦も押さえにくかった。
 指先の皮が擦り剥け、ひりひりと痛んだ。でも一週間もすると、指の皮は硬くなり痛みを感じなくなった。それと同時に簡単な弾き語りなら出来るようになった。
 わたしは主に尾崎豊を好んで歌った。まあ、ただ単に尾崎の弾き語りの全集が家にあったからなのだが、でも歌っているうちに、彼の歌が、その詩が、素晴らしいと思うようになった。
 そして次第に、十代の尾崎が学校で感じていた、そのやるせない気持ちの本当の意味を知りたく、再び学校に通ってみようと思うようになった。それにそのときになると、もうどうでもよくなったのだ人間関係が。
 誰とも関わらずに一人で過ごそう。そう思うと、幾分気が楽になる。だって、周囲から孤立してしまうんではなく、自分から望んで孤立するんだから。
 そう自分に言い聞かせて、わたしは再び学校に通い始める決心を固めた。

 ♪

「あれっ」
 わたしが外の景色を眺めていると、前方から無邪気な声が耳を突いた。
 顔を上げると、大きな黒い瞳と目が合った。ぎりぎり校則にひっかからない程度のうっすらと茶色い髪。その垂れた前髪がきりりと整えられた眉毛の上で揺れていた。
 彼はわたしの前の席に座ると、
「もしかして君は佐藤チヨさん?」
 と言い、親しげに笑った。
 わたしは反射的にコクリと首肯する。
「よかった〜。ずっと会いたかったんだ。あっ、僕はね。先月ここに転入してきた鈴木って言うんだ。宜しくね」
 そう言って彼は、色白で綺麗な顔をほころばせた。それは人好きのする美しさだ。アイドルになる素質を兼ね備えているような気がした。
 でも、その美しさはわたしにとっては、気後れを感じさせるものだった。
 わたしとは正反対の日の当たる場所にいる人。それが彼――鈴木隆の第一印象だった。

 鈴木隆はいつもヘラヘラ笑っていた。その人のいい笑みで誰にでもいい顔していた。
 彼は転入生なのにも関わらず、すっかりクラスに溶け込んでいて、わたしがいない穴は彼が完璧に埋めているように感じた。いや、穴なんて始めからなかったか……。
 彼は頭がスナフキンのシャーペンを使っていた。
「実はこのシャーペンって欠陥品なんだよね」
 休み時間中。後ろを振り返り、わたしに話し掛けてきた。クラスの誰もわたしと関わらないようにする中、彼だけはわたしに構ってくる。それはきっと彼がわたしの過去を知らないからなのだろうが……。
「なんで」
 と、ちょっと面倒臭そうに答えてやる。
 すると、
「芯を出そうと押すと、帽子の先端が指に刺さって痛いんだよ、これ」
 と、彼はケラケラ笑いながら言った。
 一体なにが面白いのかわたしには分からなかった。
 
 わたしは最近、ものごとを客観視できるようになった。それはおそらく、馴れ合いには参加しないと決めたからだろう。
 周囲から一歩引いた位置で、第三者的視点で観察ができる。すると、クラスメイトの人間関係相関図が頭の中にすっかりと出来上がっていた。
 気付いたことがある。
 鈴木隆はその相関図の中で、微妙な位置にいた。なんて言うんだろう。誰とでも交わっているんだけど、交わっていない……そんな気がした。
 ほぼクラスの全員と仲が良いのだけど、その実、常に心にバリアを張って、他人に自分の心情を見せないようにしているように感じた。
 わたしは彼のことがちょっと気になった。別に仲良くしたいとか、そういうのではない。ただ単に浮雲のように掴みどころのない彼の性格に興味を持ったのだ。それは単純に好奇心からくるものだった。
 それに、彼はずっと空を見ていたのだ。窓際の自分の席で頬杖を突き、遠くの空を見据えていた。そういうときは決まって、ちょっぴりもの悲しそうな表情を浮かべていた。
 そして、ときどき鼻歌を歌っていた。その歌はとても不思議なものだった。鼻歌なので歌詞はまったく分からない。でもその繊細で優しいメロディは、わたしの心に張り付き離れなくなった。
 ある日尋ねた。
「それって、なんていう曲なの?」
 彼は少し驚いて、振り返った。わたしが自分から話し掛けることなんて滅多になかったからだ。
「You'll never walk aloneだよ」
 と、彼は微笑みながら言った。

 ♪

 その日、わたしは家に帰るとさっそく机の上に一枚の紙を広げ、翻訳に取り掛かった。その紙は彼にもらったものだ。彼はあの後、頼んでもいないのに、ルーズリーフにその歌の英詞を書き、わたしに手渡してきた。
 どうせなら日本語の歌詞を教えてくれればよかったのに……。
 でも彼曰く、
「自分で訳しなよ」
 らしい。
 しばらく辞書とにらめっこしていると、次第におぼろげながらもその歌詞の全容が見えてきた。
 それは、嵐が吹き荒れるときはしっかり前を向いて歩こう、というフレーズから始まる。
 わたしたちは一人ではない、だから希望を胸に抱いて歩いて行こう。
 静かで、でも前向きな歌詞だ。ひねくれ気味のわたしにも分かる。いい歌詞だと……。
 しかし、一方でちょっと腑に落ちないことがある。
 わたしの目から見た彼は、心にバリアを張って、他人に自分の内に入り込ませない強固な意志を持っている気がした。その彼が『自分は一人ではない』、といった類の曲を好むことに釈然としない気持ちを感じた。
 
 あくる日。
 その日は土曜日だったので、わたしは朝から地元の市営図書館で時間を潰していた。
 夕方になり、窓から差し込む熱い夕陽が視界を遮り始めた頃、わたしは図書館を後にし、家路に着くことにした。
 帰り道。ここは山間にある町だけあって、道は起伏に富んでいる。うんざりするような上り坂を繰り返していると、季節は秋だというのにわたしの額にはうっすらと汗が浮かんできた。
 しばらくすると、ある公園の前を通りかかった。
 その公園は入り口に銀のアーチがあり、中央には大きな噴水がある。ちょっとヨーロッパのようなファンタスティックな雰囲気を感じさせる公園だ。噴水は水が弾ける音を辺りに響かせていて、その水面は夕陽色に染めあげられていた。
 わたしは片隅にあるベンチに見知った顔を見つけた。鈴木隆だ。
 ――自分でもよく分からなかった。
 彼の姿を見つけると、自然とアーチの下をくぐり、公園内に足を踏み入れていた。
「また空を見てるの?」
 陽の影響で、いつもより茶っこく見える髪を振り、彼はこちらを見た。
 すると、にやっと笑い言った。
「佐藤さんじゃないか。どうしたんだい。こんなところで」
「家への帰り道よ。あなたこそなにしてるの? こんなところでボーっとしちゃって」
「誰だって、心が空虚になるときって、あるもんさ」
「…………」
 そのはにかんだ笑いを見ていると、とても空虚な心を持っているとは思えないんだけどな。
 彼は端によると、わたしが座れるスペースを創り、座るよう促した。
 ほとんど反射的にわたしは座ってしまった。そのベンチは二人座るのがやっとな幅で、肩が軽く触れあってしまう。
 人をこんなに近くに感じるのは久しぶりだ。わたしは心臓の鼓動がちょっぴり高鳴るのを感じた。
 目線もどこを向けてよいのか分からず、泳いでしまった。やがて、山の稜線を縁取るように燃え立っている、薄紅色の空に焦点を定めることにした。
 山間の町は日が落ちるのが早い。後、一時間もすれば、辺りは夕闇に包まれるだろう。
 二人の間に会話はなく、間がもたないと思ったわたしは、昨日感じた釈然としない気持ちを尋ねることにした。
「ねえ、ちょっと聞いていい?」
 彼は無言で私のほうを振り向いた。
 わたしは言った。
「あの曲だけど。なかなかいい歌詞よね。ちょっとだけ感動しちゃったわ」
「へえ。ちゃんと訳してくれたんだ。あれは元々、外国のマイナーなミュージカルの挿入歌だったんだよ。でも、歌詞が素晴らしいということで、今は世界中で人気があるんだ」
「……そうなの。でも少し気になることがあるんだけど」
 そう言ったわたしを、彼は不思議そうな眼差しで見つめてくる。わたしは視線をそらして言った。
「なんか、あなたらしくないなって」
「……僕らしくない?」
 彼はますます不思議そうな顔をする。
「あの歌のテーマって、『わたし達は一人じゃない、だから頑張れる』って感じでしょ」
 まあ、そんな感じだけど、と彼は呟いた。
 わたしは思いきって言った。
「あなたって。実は人を避けてるでしょ。誰とでも仲良出来るけど、一方で深く付き合うのを避けている気がする。今日だって、休日なのに一人でいる。あなたって実は一人でいるのが好きなんじゃないの?」
 そう、だからこそあの曲のテーマ。わたし達は一人じゃないってフレーズが彼に合わない気がしていたのだ。
 そして、気付いてしまった。彼に孤独であって欲しい、と思っている自分の気持ちに。
 わたしは人と付き合うのを避けている。彼も遠巻きにではあるが、他人を拒絶している。自分でも気がつかない内に、彼に対して、軽い親近感みたいなものを持ってしまったらしい。だから、今日もわざわざ話し掛けてしまったのだ。
 彼は驚きで目を見開いて、しばらく宙を見つめ、なにやら思案していた。
 やがて、感心したように、
「よく見てるんだね……人を」
 と言った。
 そして、
「僕は父さんの仕事の関係上、引越し続きの生活でね。ほら、あんまり仲良くなりすぎると、別れるとき辛いだろ。だから人間関係は浅くって決めてるんだ」
 と続けた。
 そのとき、いつになく硬い表情をしている彼の顔から、始めて、本音の感情の影のようなものが差し込むのを見た。
「お父さんはなんのお仕事をしているの?」
 ちょっと不躾な質問だったかな。言ってしまってから後悔する。
「寄稿作家だよ」
 彼はまたいつもの笑みを取り戻し、言った。
「寄稿作家だけあって、行動も奇行なんだよね。父親の気まぐれな行動のせいで、あちこちを転々としてるんだ。そのせいで、母親も愛想をつかせて出て行っちゃたし」
 と、彼は声を立てて笑った。あいかわらず、なにが面白いのかは分からなかった。やはり聞かないほうがよかったか……。
 わたしがなにも言えずに黙っていると、彼は言った。
「――寂しいから空を見ているんだ」
「えっ」
 その瞬間、夕暮れ色をにじませた風がふっと吹いた。風はやや肌寒く、わたしの汗はすっかり引いていた。
「怖いんだよ。僕はそれぞれの土地で過ごした日々を大切な思い出としてしっかりと記憶している。でも、他の人達はどうだろう? 唐突に表れて、ふらりと去っていった僕のことなんか誰も覚えていないかもしれない。そう考えると、とても怖くて寂しい気分になる。……だから空を見るんだ。空はどこまでも繋がってる。いつでもどこでも同じ空。空は嘘をつかない。空は僕のことをしっかりと見てくれている。そんな気がしてさ」
 彼は自嘲的に笑った。
 それは、やけに心細く侘しい笑みに感じた。わたしは彼に同情すると同時に、ちょっとだけ親しみを感じてしまった。
 やはり彼とわたしは似たもの同士みたいだ。彼は空を眺め、歌うことによって寂しさを誤魔化している。わたしはギターを弾き、歌を歌い自分の孤独をまぎわらしている。
 ――勢いで言ってしまう言葉は、後々考えるとすごく恥ずかしいと思ってしまうことがある。わたしは人に言葉をかけるときは、よく思考するようにしている。しかし、そのときは思わず、条件反射的に言葉を発した。
「――わたしのことも話そうか」
 わたしは彼に、自分のこれまでのことを話した。
 いじめを受けてたこと、それがきっかけで家に引きこもっていたこと、尾崎豊をこよなく愛していること、そして……最近ちょっぴり心細くと感じていたこと。
 わたしが全てを話し終えると彼は、
「どうやら僕たちは似たもの同士みたいだね」
 と、極上の笑顔で言う。
 ……そんな笑顔を浮かべられるような話はしてないんだけどな。
 そんなわたしの心情を無視するように言った。
「今から僕たち仲間だ」
「…………」
 ……仲間。
 自分とは無縁に思っていた言葉だ。その言葉を聞き、心臓がひりっと痛んだ。
 そして、彼は大きく息を吸い込み、あの曲を歌い始めた。
 いい声だった。心の涙腺に響くような優しい声。英語の発音もとても綺麗だ。
 この曲はサビに向かうにつれて、どんどん高くなっていく。彼の声は張り詰めた弦のように響き、吹き抜ける風と共に辺りに拡散した。
 一番高いサビの部分でも、声が裏返ることもなく、どんどん伸びていく。曲が盛り上がると同時に、彼の声も次第に力強くなっていった。
 以前教室で聞いたときから、心に張り付いていたなにかは、形を成して奥に染み渡り、血液に乗って全身を駆け巡った。
 なまじ昨日、和訳をしたばかりなので、詩の一節一節の意味が脳内に響く。全身に鳥肌が立ち、身震いした。
 彼の過去と、悲しいメロディ、そして前向きな歌詞がリンクして、目頭が熱くなるような胸の高鳴りを覚えた。
 この曲の本当の良さが分かった気がした。

 ♪

 最近気付いたことがある。わたしって単純な奴だったんだ、と。
 『仲間』、彼にそう言われて以来。わたしの心は随分楽になった。なんていうんだろう、世界に一人、たった一人でも本当の自分を理解してくれる人がいる。そう思うだけで、心が満たされていく……。不思議で、でも安らかな感覚を味わうことが出来た。
 彼とはどんどん仲良くなっていった。学校でふざけて冗談を言い合ったり、放課後に市営図書館によって本を見たり……わたし達は本の趣味が合ったのだ。
 そして、彼からはいろんな土地の話を聞いた。あちこちを旅しながら彼が見たり感じたりしたことを聞くのはとても楽しかった。
 わたしは彼を信頼していたし、彼もわたしを信頼してくれている、そんな実感があった。だってわたし達はお互いの秘密を共有しているのだから。
 『恋』とは違う不思議な感情。それは言葉で言い表せるものではなかった。
 わたし達は目では見えない『なにか』でしっかりと繋がっていたんだ。これは断言できる。
 ――そして、あの日がやってきた。

「タイムリミットだね」
 笑みを浮かべながら、彼は言った。それはいつもの人当たりの良い笑みではなく、硬い感じがした。わたしはそんな彼の気配にやや不穏なものを感じた。
 なんの話、と聞き返すと、彼は少しためてから言った。
「急だけど、来月引越しするんだ」
 と、それは飄々とした口調だった。そんな彼の態度とは裏腹に、その場の雰囲気が少し張りつめた。
 わたしは胃の奥がすとんと重くなる感覚を味わった。
 聞き返した瞬間、嫌な予感はしていた。あの噴水のある公園の、ベンチの上、そこに呼び出され、わたしが駆けつけたとき、彼はいつになく全身から哀愁を漂わせていたからだ。
 ……実は覚悟はしていた。彼がいずれ私の前からいなくなってしまうことを。
 転校続きの生活をしていることは知っていたし、それに彼は空を浮かぶ雲のように同じ場所にはとどまれない人なのだ。
 でも、あまり考えないようにしていた。始めて出来た心許せる人を、失うのが怖かったから。
 なんだか、どきどきして、息が苦しくなった。
「……そう」
 わたしはそっと呟く。
 これはしょうがないことなんだ。そう自分に言い聞かせる。
 ……なにか言わなきゃ。
 わたしは平静を装って言った。
「どこに引っ越すの?」
 彼は淡々とした口調で返す。
「それが北海道なんだよね」
「遠いね」
「ああ、そうだね」
「これから寒くなってくるから、大変ね。あっ、でも、海鮮鍋とかおいしそうだよね。向こうは魚種も豊富だし、新鮮で素材も良いし……。ちょっと羨ましいなぁ」
 わたしがそう言うと、彼はいつになく真剣な声で、
「チヨちゃん」
 と、静かにわたしの名前を呼んだ。
 覗き込むようにわたしの顔を見つめてくる。
「泣くな」
 彼の目が、銃の照準のように、わたしをとらえている。
 ……えっ、なに言ってるの? わたしは泣いてなんかいないのにな。
 瞳から溢れてくる滴が、地に点々と黒点を記していた。わたしは、自分の頬が濡れていることに気がついた。
 その瞬間悟った。彼が心にバリアを張っていた理由を。彼のバリアの奥に踏み込んでしまって、申し訳なく思う。彼もきっと辛いだろうな。
 しかし、彼が次に言った言葉は、完全に予想外なものだった。
「僕は風呂に入るのが大っ嫌いだーー!」
 両手をメガホンにして、ほえるように言ったその謎の言葉は、奥の山に反響する。
 わたしは呆気にとられて固まってしまった。
 ちょっと音量を下げて、続けた。
「でも、清潔にしたいから仕方なく入る。ついでに野菜も大っ嫌いだ。でも、栄養バランスを考えて、無理にでも食べるようにしている」
 ……あいかわらず、なにが言いたいのか分からない。
 彼は諭すような優しい声色で言った。
「本当は転校だって嫌いだ。でも、僕がいなくちゃなんにも出来ないんだ、父さんは。だって、自炊も洗濯も掃除もまったく出来ないんだよ。ほんと、信じられないよなぁ。だから僕はついて行く、父さんを一人には出来ないからね。でも、今回は本当に辛いよ。君と仲良くなりすぎてしまったからね。なんでだろう、不思議と後悔はしてないんだ。今まで、別れるときは常に孤独を感じてたんだけど、今回は逆なんだ」
 と言って、彼は一息つく。そして続ける。
「――いいかい。寂しいときは空を見るんだ。僕はいつだって空を見てる。だからチヨちゃんも空を見上げるんだ。そうすれば僕達は一人じゃない」
 だって、と続けた。
 ――空は繋がってるからね。
 と、朗らかに笑った。

 わたしはこつこつと貯めていた貯金を下ろし、そのなけなしのお金で、クラシックギターを購入した。
 フォークギターと同じようなものだろう、と思っていたわたしは、その違いに驚いてしまった。
 クラシックはナイロン弦で、ネックの幅も広く、弦の間隔も広い。フォークのようにストロークでジャカジャカ鳴らすのではなく、指一本一本で繊細に、弦を弾く必要がある。ピアノのような音色だ。
 わたしは、フォークでさえアルペジオはあまり上手く出来ない。クラシックギターの難易度の高さに、軽く焦りを覚えた。
 でも、時間はあまりない。
 理屈じゃない。本能からの行動だった。
 わたしは、弾きたかったのだ。彼の前で。そして新天地に赴く彼を、気持ちよく送り出してあげたかった。
 そう、『You'll never walk alone』を歌って。

 ♪

 この前とは逆に、わたしの方から彼を呼び出した。いつもの公園に。
 もう十一月。空気はやや肌寒く、公園前の歩道を行き交う人達の中には、マフラーをしている人さえいる。
 一方、空は晴れていて、強くなりつつある日差しが降り注ぎ、噴水の水面に反射し、きらきらと輝いて見えた。
 わたしは彼が来る前に、ハードケースからギターを取り出し、調弦を始めた。
 日曜の午前中とはいえ、遊具一つない公園にはわたししかいない。さっきまではデートの待ち合わせをしていたカップルがいたが、もう何処かへ去ってしまった。
 人のいない公園に、クラシックギターの柔らかな音色が響く。手に持った電子チューナーの針を見つつ、ねじをまわし、音を合わせていく。
 その音色は、わたしの耳から入り、脳髄を振動させた。今まで溜め込んでいた思いが、ひも解かれ、溢出でそうになる。わたしはグッと堪えた。

 数分後。公園前の坂の下から、見慣れた人影が見えた。やや猫背気味に歩いてくるその彼は、擦り切れたジーンズに黒いジャケットを羽織っていた。
 わたしの隣に来るなり、
「やっ!」
 と、爽やかに挨拶をしてきた。とても明日にはいなくなってしまうように見えない。いつも通りの彼だ。
 わたしは軽くおはよう、と返すと、以前彼がしたように、端により、人一人座れるスペースを創った。
 彼はそこに腰掛けると、
「あれっ。チヨちゃんってギター持ってたんだ」
 と、今更な質問をしてきた。そういえば、以前自分のことを話したとき、ギターを弾いていることは言わなかったな、と思い出した。
 わたしはさっそく本題に入ることにした。
「今から、一曲弾くから、黙って聞いてて欲しいんだけど」
 ちょっと硬い口調になった。緊張と照れ臭さが交じった微妙な気分だ。
 彼は笑顔のまま頷くと、腕を組み、耳を傾け、傍聴するような体勢をとった。
 わたしはこほんと咳払いを一つ入れると、ギターを指で弾き始めた。公園内を吹き抜ける風に、そっとその音色を乗せる。
 静かで悲しい雰囲気を感じさせるイントロだ。隣で彼が吐息をもらす。空気が冷たく乾燥しているせいか、音がよく響く。
 イントロを終えると、クラシックギターが奏でるその柔らかな旋律に被せるように、小さく歌い始めた。序盤は低音が続く、それほど音域が広くない自分には少し苦しい。
 ちらりと横を見ると、彼は目を瞑って聞き入ってくれていた。
 サビに近づくにつれ、次第に声を解放していく。
 感情を抑制していたはずなのに、いつの間にか、頬を涙が伝っていた。
 久しぶりに降る雨にあった、砂漠の砂のように、胸の奥になにかが急速に染みこんでいく。
 サビに突入すると、胸の奥で渦巻く感情のうねりを制御できずに、声が震えた。
 ……だめだ、上手く歌えない。
 すると、そのか細く震える声に覆い被さるように、凛とした声が隣から響いた。
 驚いて隣を見ると――彼が歌っていた。彼はわたしと目が合うと、コクリと頷き、目で合図してきた。
 二人で奏でるささやかな音の調べを、秋風に踊らせる。 
 すると、まるでこの世界にはわたし達しかいないような、不思議な感覚がした。
 まるで、わたし達のいるこの場所に、眩いばかりのスポットライトが当たっている。そんな錯覚さえ覚えた。
 秋晴れの空の下、わたし達の歌声は、遠く遠く響きわたった。
 そして、わたしの頭に様々な思いが錯綜する。 

 ――今、この時、この瞬間が、いつまでも続けばいいのに。
 ――明日なんか来なきゃいいのに。
 ――大好きな、世界で一番好きな人と、ずっとずっと一緒にいたいのに。
 
 全てが終わった後、わたし達はそれぞれの胸の内に駆け巡る高揚感と、ほんのちょっぴりの悲哀な気持ちに浸っていた。

 ――もし会いたくなったら、どうしたらいいんだろう?

 その質問は口にする必要はなかった。
 なぜなら彼はこう答えるはずだから。

 ――空を見上げなよ。

 ♪♪♪

 気がつくと、入道雲は散り散りになり、東の空に消えようとしていた。
 わたしは小さく口ずさんでいた歌を止め、去り行く雲を見送った。
 もしかしたら、あの雲のどれかが、今彼がいる街の上を通り、同じ雲を見上げる。そんな奇跡もあるかもしれない。
 ――だって空は繋がってるんだもんね。
 空の向こうに語りかけると、確かに彼が微笑んでくれた気がした。
 同じ空の下、わたしと彼は生きている。それはこれから先、何年も何十年もずっと変わらない。約束された未来だ。
 だからいつかまた会える。きっと会えるんだ。
 そう思うと、わたしはこれからも頑張っていける。
 風にうたれても、雨にうたれても、嵐に遭っても……。
 希望を胸に抱いて、しっかりと前を向き、歩いて行ける。

 ――わたし達は決して一人じゃないんだから。


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●感想
一言コメント
 ・僕は大好きですが、ラノベとしては少し苦戦するかも知れません。
 ・優しい気持ちになれる、後味の良い作品でした。
 ・爽やかな朝のひと時にどうぞ 和やかになれました。
 ・とても読みやすく背景の描写もよかったです。今後もがんばってください。
 ・涙腺が緩い俺にはもってこい! な作品でした。心が癒されました。うまく褒めれなくてすいません。
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