高得点作品掲載所      だいきちさん 著作  | トップへ戻る | 


一人の世界、二人の星

「何――でだよ!」
 感情が小さな爆発を起こした。やり場のない憤りをどうすることもできず、僕は目の前のコンソールに思い切り拳を叩きつける。べん、とややだらしない音をたてて樹脂製のコンソールが鳴り、ところ狭しと並べられた計器やパネル類の表示が一瞬ぶれる。
 狭いコクピットである。僕の座っている操縦席からさほど距離を隔てず、すぐ正面に大きなスクリーンが広がっている。そこに映っているのは、外の風景。この場所を宇宙船発着場たらしめるコンクリートの地面、そこにひかれた白線、そしてそれが途切れた向こうにはどこまでも広がる森、そこにかぶさる青い空。二時間ほど前、僕の乗った宇宙船が数週間の航海を終え、この名も無き小惑星に着陸したときとスクリーンに映るそれらの姿に変化はない。しかし、僕がこの誰も知らない一人旅の終了を喜びつつこの星のデータの収集に励んでいる間に、それは姿を現した。
 人、である。
 スクリーンは船に接近してくる物体を捉え、自動的に画像を拡大する。僕の視界いっぱいに映る髪の長い一人の女性の姿。彼女は森と発着場の境界に立ち、遠巻きにこの船を見つめている。拡大された画像はやや粗く、その表情までは読み取れない。
「ここなら……この星なら誰もいないと思ってたのに」
 吐き捨てるようにそう呟く。頭の中を混乱と苛立ちが渦巻いていて考えがまとまらない。いったいどうして……。答えの出ないそんな疑念だけが針の飛んだレコードのように繰り返されていた。
 理想的な小惑星だった。
 重力はほぼ一G。空気、吸える。おかしな菌も検出されない。温度、大丈夫。この星への人の居住を可能とすべく設置されたリアクターも重力磁場装置もちゃんと働いているようだ。放射能もない。計測されるデータは、そのほとんど全てが僕の求める条件に合致していることを示していた。なのに、たった一つ、僕にとって大前提とも言える最も重要な条件をこの星は満たしていなかった。
 この星は、無人ではなかった。
 倒れるように椅子に座り込む。僕の体重を受けて、背もたれがやや後ろにスライドする。後ろのシートに人が座っていたらその狭さに文句の一つも言われかねないところだが、僕のほかにこの船に乗っているものはいない。
 四人乗りの小型宇宙船、前に二つ、後ろに二つと並ぶ座席があり、その前には、頭上に至るまでびっしりと多数の計器類とモニターが並んでいて、座っていると圧迫感すら覚える。
 息苦しさに襲われ僕は目をつむった。呼吸が乱れていた。大きく息を吸って、ゆっくりと吐き出す。
 僕がここにいることは、誰にも知られてはいけないことだった。
 あの女性はなぜこんな星にいる? 一人のはずはない。仲間がいるだろう。何人いる? そいつら全員の口を塞ぐことなどできるのか?
 薄く開いた目に、前方やや左手のコンソールからぶらさがった細いコードが映る。コンソールに穴をあけて、そこから配線を引っ張り出したものだ。その先には小さなスイッチがぶら下がっている。
 キルスイッチ。このスイッチを入れればいくつかの測定機器や扉などの開閉の機能を残して、この宇宙船のほとんどの機能を停止させることができる。無人の星に着いたあとに、臆病風に吹かれておかしな行動を取らないよう僕が自分で取り付けたものだった。そして僕はつい先ほど、そのスイッチを入れてしまっていた。過電流が各制御回路を流れ、電子部品を焼いた。この船の動力はもちろん、通信機すらももう働くことはない。
 その行為を激しく後悔する。もっと慎重に判断できなかったのか? しかしそうするには僕は浮かれ過ぎていたし、そもそもこの星に人がいるなどという事態は全く想定していなかった。たどり着いたこの星が居住可能であることさえ判明すれば、あとは腹をくくるだけだったのだ。
 これでもう、この星から逃げることはできない。僕がここにいることを通報されてしまえば、それで終わりだった。
 心の内壁から古い漆喰のようにぽろぽろと剥がれ落ちようとする気力を必死で押しとどめる。ここで投げやりになってはいけない。どういう方法があるかはわからないが、とにかく僕の存在を地球やその他の惑星に連絡されることだけは防がなければならない。
 意を決して席を立ち、宇宙船の後部へと向かう。キャビンの脇の狭い通路を抜けると、そこはカーゴルーム。その壁面にエアロックの入り口があった。
 エアロックに入り、外へと続く扉を開く操作をする。小さな音をたててゆっくりと開く扉を眺めながら、僕は上着のポケットを上から触った。ポケットに入れるにしてはやや大きめのサイズの硬い感触を確認する。中には銃が入っていた。
 宇宙船の中の無味乾燥の空気に慣れていたためか、一瞬にして僕の周囲を包み込んだ乾いた土の香りに少々むせかえる。無機質に囲まれた世界の、扉一つ隔てた向こうは荒々しさすら感じさせる生命の息吹に満ちていた。
 恒星の光とその光を反射する惑星からの光、二つの太陽がもたらす午後の日差しは肌に暖かい。目の前に広がるのは地球にも一般的に見られるような常緑樹で構成された森。
 その一部を切り開いてつくられた空間に、宇宙船はその足を降ろしていた。周囲の自然と不釣合いに、そこだけがコンクリートで四角く切り取られている。僕の宇宙船と、管制塔と思しき背の高い建物以外にはその上に立つものはない。
 あまりにも音をたてるものがないせいか、風の音が怖いくらいに耳に響く。ずっと狭い宇宙船の中にいたので急に広くなった周囲の空間に慣れることができず、思わず身震いしてしまった。
 ハッチから伸びたタラップを下り、地面に降り立つ。硬い靴底が、タン、という軽い音を立てる。久しぶりの金属でない地面の感触。
 問題の女性は発着場の端に立って宇宙船を見つめている。しかし僕が扉から姿を出すと、ゆっくりとこちらに近づいてきた。恐る恐る、といった様子に見えた。
「女……の子か……」
 淡い黄色の袖のないブラウスに長いスカートという上品な服装、そして背中まで伸びる髪の長さから、てっきり大人の女性かと思っていた。しかし近づいてきたのは、まだ十六、七くらいの少女だった。頬を描く曲線がまだあどけなさを感じさせる。大きな茶色の瞳がこちらをじっと見つめている。まるで見えない万力に固定されているかのように微動だにせず、まっすぐに。
 彼女はやや距離をあけたところで足を止めると、笑顔を僕に向けた。
「こ、こんにちは」
「君は何者だ! なぜここいる!」
 やや緊張気味の挨拶をしてきた少女に、僕は不機嫌さを隠さずに訊いた。質問、というよりは詰問という口調となった。
「え、あ、あの……」
 たちまち少女の表情が困惑したもののそれになる。
「この星はEFAAのデータでは誰もいないことになってる。逆に言えば登録もなくここにいるってことはそれだけで犯罪なんだぞ」
 僕は自分のことを棚に上げてそう言った。
「い、いいえふえいえい?」
 細い眉を泣き出しそうなほど下げて、僕の言葉を復唱する。
「そんなことも知らないでここにいるのか? 連邦航宙管理局(Earth Federation Aerospace Administration)だよ。知ってるだろう?」
 彼女が軽く首を振る。長い髪がふわりと揺れて肩にかかる。
 僕はため息をつくと、彼女から視線をそらして訊いた。
「他には何人いる?」
「は?」
「君のほかにはこの小惑星に何人来ているんだ、と訊いてるんだ」
「は、はい。えっと、あの……なんて言うか、三人、って言えば三人なんですけど……」
 歯切れの悪い回答が帰ってくる。僕はややいらついて、少女の話を遮った。これ以上この娘と話していても時間の無駄だろう。恐らくは親なり仲間なりがいるはずだ。そいつらと話をつけなければならない。EFAAの許可なしにここにいる僕は確かに犯罪者だが、それは同じくここにいる彼女らも同じなはずだ。何者で、どんな目的でここに来ているのかは知らないが、交渉しだいでは話のつけようもあるかもしれない。
「その三人に会いたい。近くにいるのか?」
 僕がそう訊くと、突然少女の表情が明るくなった。伏せがちになっていた瞳を大きく開き、先ほどとは打って変わって明るい声で言い出した。
「はい、います。私たちの家で待ってます。こんなところで立ち話もなんですから、是非家に来てください。それで、みんなでお話しましょう!」
 彼女はそう言って、自分が現れた森の奥のほうを指差した。
 僕はその少女のどこかおかしな調子にやや戸惑いながらも、彼女に付いていくことに同意した。待っている、という言葉にやや危険を感じないではなかったが、ここにいてもらちがあかないのは確かだ。なにより一刻も早く接触することで、その待っている連中がどこかに連絡するのを止めることができるかもしれない。
 僕がその指差す方へ歩き出すのを見ると、彼女はほっとした様子で前に立って森の奥へと歩き出した。
 ところがいくらも歩かないうちに、彼女は立ち止まって僕の方を振り返った。驚いて身構える。しかし彼女は笑顔で言った。
「そう言えば、お名前を聞いてませんでした。私はアイシェと言います。あなたは何ていうお名前ですか?」
「……ライアン・ブリスコーだ」
 苦笑してそう答える。
「ライアンさん、初めまして」
 アイシェは両手でスカートをちょっとつまんで頭を下げた。そのどこか芝居がかったような挨拶のしかたに一瞬とまどう。
「では、行きましょう」
 彼女は挨拶を済ますと、満足した様子で再び歩き出す。僕はその後ろ姿を見ながらため息を漏らした。
 もう二度と、自己紹介などしないつもりでいたのに、な……。心の中でそう呟いた。

   *

 背の高い木々の枝に日差しが遮られ、森の中は薄暗い。やや涼しく、わずかに湿り気を帯びた空気が肌をしっとりと包み込む。僕らの足音以外には風がたてる葉擦れの音しか聞こえるものはない。その静謐な雰囲気の中に土足でずかずかと入り込んでいくことにわずかに抵抗を覚える。しかしアイシェは少しだがかかとのついた靴を履きながらそれを全く意に介す様子もなく、獣道すらない木々の間を軽やかに歩いていく。
 なんだか怖くなり、やや歩く速度を落とした。たちまち彼女との距離が開く。
 都会暮らしの僕にとって、こんな風に森の中を歩いた経験というのはかなり記憶をさかのぼっても見当たらない。例えば森の中に設けられた「道」を歩いたことならある。そのときは、どれだけ周囲を未知の大自然に囲まれていようとも、足元に続く道が僕を安心させてくれた。その上を離れなければ、道は必ず僕を元の文明の世界へと導いた。そのたった一本の道がなくなるだけで、森は僕に対する表情を大きく変えていた。
 生物の吐息を思わせる湿った空気。晴天にも関わらず木々の影が重なり合い、視界の先を覆う暗い闇。その先を見つめているとまるで奥へ奥へと飲み込まれていくような感覚すら覚える。全てが緑と茶色のグラデーションに囲まれた風景の中を、一人の少女と連れ立って歩いているこの状況は、ついさっきまで無機質の金属やコンクリートに囲まれて生きていた自分にとって、本当に現実なのかと疑うほど異質のものだった。彼女と一緒でなければとても踏み入っていくことなどできなかっただろう。
 しかし、これらの木々も、空気も、全ては人の手で作り出されたものだ。恐怖を忘れるために、僕はあえてそのことを思うようにした。
 人の住めない惑星を改造し居住可能にする、テラ・フォーミングと呼ばれるその技術は、古くは太陽系の火星や金星などに用いられ、人類の地球外への進出を実現させた。そしてワープエンジンの開発により恒星間航行が可能になってからは、それは銀河中の惑星や衛星へと広がっていった。それから一世紀が過ぎた今では、数百の惑星が改造され、人類の住処となっている。
 ただこの小惑星はそれらの惑星とは少し条件が異なっている。月の十分の一もない大きさのこの小惑星は、多くの人たちの移住のために造られたものではない。かつてごく限られた人たちが、一つの星を個人的に所有するために改造されたものだった。
 それらの小惑星はヴィラネットと呼ばれ、いっとき流行となった時期があった。
 一部の富裕層が個人で星を所有するために、次々と小惑星が改造された。最盛期には数千を超えるヴィラネットが造られた。彼らは休みになると自家用宇宙船でそこに行き、何者にも邪魔されない自由な空間でバカンスを楽しんだ。
 しかし、今となってはそれも法律によって禁止されている。新たにヴィラネットを造ることはもちろん、すでに出来上がっているヴィラネットを所有することも、そこに行くことすらも禁じられていた。数千のヴィラネットは、一部研究や福祉目的の使用を除き、いまや全て無人となっているはずであった。
 しかし、その一つであったはずのこの星に、アイシェと名乗る少女がいた。
 飛び跳ねるように木々の間をぬって歩いていく彼女。金色の長い髪が宙に舞ったかと思うとまたもとの場所にきちんと収まっていく。細い肢体がリズムに合わせてと小気味よく踊る。全てが細く、小さく、そして美しく造型され、それは人というよりとてもよくできた美術品かなにかのように見えた。
 僕は森の中を進んでいく恐怖をいっとき忘れたくて、なるべく風景を見ず彼女にだけ焦点を絞っていた。するとアイシェは僕が遅れていることに気付いて振り返った。
「どうしたんですか? もうすぐですよ」
「なんでもない」
 僕は彼女から視線をそらして歩みを速めた。彼女に見とれていたことを見透かされたようで気分が悪かった。むきになって速度を上げる。
 どこがもうすぐだよ、と思わず漏らしたくなるほどたっぷり歩いた後、五、六歩ほど前を歩く彼女が突然顔をこちらに向けて声をかけてきた。
「ライアンさんはどちらから来られたんですか?」
「……地球だ」
 一瞬答えようかどうか迷った後、僕はなるべく不機嫌そうに聞こえるようにそう答えた。あれこれ詮索されるのはあまり愉快なことではない。余計な口をきくな、という雰囲気を漂わせたつもりだった。
「そう、ですか……それで、こちらへはどんなご用で? お仕事ですか?」
 アイシェはなおも訊いてくる。なかなかへこたれない性格のようだ。
 逃げてきた、と言いそうになり思わず口をつぐむ。下手なことを言って足元を見られたくはない。
 そう、この放棄されたヴィラネットこそ、逃げ場所に最適なはずだったのだ。
 それを見つけたのは偶然だった。ある日、僕の職場であったEFAAで興味深いデータを見つけた。それは、ヴィラネットの中にはまだ居住可能なものが残されているかもしれない、というものだった。
 人類の安全と衛生を守るため、昔と違って一般人の宇宙航行はEFAAによって厳しく管理されている。バカンスでヴィラネットに行くこともできなくなり、それらは無人のまま打ち捨てられていった。
 だが、人が住むためのエネルギー源としてヴィラネットに設置されたリアクターは、その星の地中に眠る鉱石を燃料として自動で稼動し続けることができ、なんらかのトラブルが発生しない限り半永久に近い稼動年数が期待できるものだった。住人が去った今もなお、そこに設けられた機械たちの手によって、人にとって快適な環境が維持されている可能性は高かった。
 僕は過去のヴィラネットのデータを調べ上げるとともに、誰にも気付かれず宇宙船を盗み出す方法を入念に検討した。そしてそれが可能と判断したとき、僕はそれを実行に移した。ここまで何の妨害もなく来ることができたということは、作戦は成功だったのだろう。唯一つ、細心の注意を払って選び出したはずのその星に人がいた、という致命的な大誤算以外は。
 その大誤算が、返事が待ち遠しそうな様子で僕の顔を見つめている。僕はなんだか腹立たしくなり返事をするのをやめ、代わりに質問をした。
「君はどこからこの星に来てるんだ?」
「え?」
 アイシェは細い眉を下げ、困ったような顔をする。
「地球か? それともニューインディアか、パライソか?」
 僕は思いつくままに人が住む惑星の名前を挙げた。考え難いことだが、きっと彼女らは何らかの方法を使ってそれらの星からここまで密航してきているのだろう。金持ちの道楽にもほどがある。よくEFAAに見つからないものだ。
 しかし彼女の答えは僕の予想と大きく異なるものだった。
「そうじゃ、ないんです」
「そうじゃない、とは?」
「どこかから来てるんじゃないんです。わたし、ここに住んでるんです。ずっと」
「ここに……住んでいる? それはいったい……」
「着きました。わたしの家です」
 アイシェが立ち止まって前方を指差す。
 どこまでも続くと思った森が突然途切れていた。そこからは緩やかな斜面が下っていて、その先ははるか彼方まで陽光が射す平原が広がっている。そしてその平原の中に巨大な屋敷が建てられていた。名前の後ろに宮殿とでもつきそうな石造りの壮麗な建築物で、周囲をこれまた優美な装飾を施された高い塀で囲われている。突然森の向こうに現れたその姿に、僕はおとぎ話の中にでもいるかのような錯覚を覚えた。
「こっちですよ。どうぞ!」
 彼女は笑顔でそう言うと、待ちきれないといった様子で、小走りでその斜面を下っていく。僕もしかたなく歩みを速めてそれについていった。
 屋敷に近づいていくと、ますますその大きさに驚かされる。レンガを積み上げた塀は思わず見上げてしまうほど高く、その中に構えられたぶ厚い木製の門のその重厚さに圧倒される。だが一方で、大富豪のお屋敷というにはどこか違和感があることにも気付いていた。
 アイシェは大きな門ではなく、その隣に設けられた小さな格子戸をあけた。
「出入りはこっちなんです。お客様にはちょっと失礼ですけど」
 そう言って恥ずかしそうに笑う。促されるまま、わずかにかがんでその扉をくぐった。
 中は映画で見るような庭園と噴水が、建物までの間に整然と並んでいる。いや、庭園らしきものとかつて噴水であったもの、と言うべきだろうか。レンガできれいに区切られた花壇には美しい花々の姿はなく、そのほとんどが雑草で覆われている。噴水からは水は出ておらず、人魚を模したノズルは全体を濃緑色の苔に包まれ、元の面影をわからなくしていた。
「こちらです」
 僕の後から入ってきたアイシェが建物の方に歩き出す。僕は彼女について、かつての栄華の残骸とでも言うべきそれらの横を通り抜けた。
 屋敷は明るい灰色の石で構成されるゴシック様式の建築物で、等間隔で並ぶ多面体の巨大な柱と、その間に整然と配置された尖頭アーチの大きな窓が特徴的だった。玄関はその中央に位置していた。
 人の背丈の倍はありそうな巨大な玄関扉の前に立つ。アイシェが丸い金属製の金具を引っ張った。鳥肌がたちそうなほどきしんだ音をたてて屋敷の扉が開いた。
 その中を覗き込む。そこで僕は先ほどから感じていた違和感の正体をつきとめた。割れたステンドグラス、色あせ剥がれかけた壁紙、折れた柱。あらゆるものが古ぼけ、朽ちかけた屋敷。しかし、荒れてはいない。きちんと掃除はされているようだし、ガラスの割れた部分は布でふさがれ、一度は剥がれた壁紙はまた修繕されている。その絢爛さに見合うだけの手が入らず、朽ち果てていく途上にある屋敷を、何者かの小さな手がかろうじて延命させようとしている、そんな印象だった。きちんと手も入れておらず、かと言って放置もされていない、その中途半端さが違和感の正体だった。
「オルガ! お客様をお連れしたわ! そちらに行くわよ!」
 アイシェは大声を出して、つかつかとエントランスに入っていく。そして入り口で立ちすくんでいた僕の方を向いた。
「どうぞ。中へお入りください」
 アイシェは笑顔をこちらに向けたまま軽くおじぎをしてそう言った。そしてまた芝居がかった動きで奥の方を指差す。ここまで来たのだから今更臆してもしかたがない。僕は意を決して彼女の指し示す方向に入っていった。
 アイシェは吹き抜けのエントランスから右手のドアをあけて向こう側へと姿を消す。後を追って扉をくぐると、そこは美しい模様の入ったじゅうたんが伸びる長い廊下。そしてその突き当たりにまた扉。先を歩いていた彼女が扉を開く。僕はその向こうへと足を踏み入れた。
 中はちょっとしたホールになっていて、天井には巨大なシャンデリアが吊るされている。部屋の中央には十数人は座れそうな細長い大きなテーブルが鎮座しており、白いテーブルクロスの上に燭台がいくつか並べられたそこだけは、かつてこの屋敷が持っていたであろう華やかな雰囲気を残していた。そして、入り口から見て縦に置かれたそのテーブルのちょうど向かい側の辺に、一体のアンドロイドが座っていた。
「いらっしゃいませ。座ったままで失礼します。どうぞ中にお入りください」
 その女性型アンドロイドは、僕に向かって澄んだ声でそう言った。

   *

「良かったあ、オルガでいてくれて。ここでメリッサだったら何の役にもたたないもの」
「だってあなたがあんなに頼むんだもの。お願いだからオルガでいてねって。あれじゃああの子だって出てこれないわよ」
「そうね。メリッサ怒ってるかも。あとで謝らなきゃ」
 オルガと呼ばれるアンドロイドの斜め横に座らされた僕のそばで、アイシェとアンドロイドがそんな会話を交わす。僕にはさっぱり意味がわからない。
 見るとアンドロイドは車椅子に座らされている。人を模した四肢はきちんとそのボディのしかるべき位置についているが、どうやらその足は何らかの事情で動かないらしい。首だけを回してアイシェと会話している。一応体型は女性のそれだし、肌色の樹脂で覆われていて一見すると人間のようだが、人間の目にあたる部分にはカメラのレンズが埋め込まれ、唇らしき切れ目の奥にはスピーカーが覗いている。髪の毛にあたるものはない。人間に酷似していると何かと不都合が多いためわざとそういう造作がなされているのだ。型は一昔前のものに見えるが、家政婦用として一般的に売られているタイプのアンドロイドだ。
「こちらはオルガ、ここで私の面倒を見てくれているんです。オルガ、こちらはライアンさん。今あの宇宙船から降りてきたばかり」
 テーブルを挟んで向こう側に立ったアイシェが、僕たちをそんな風に紹介する。
「よろしくお願いします」
 アンドロイドがゆっくりと首だけを僕の方に向けて言う。僕は黙って頷いた。
「じゃあ、お茶を入れてくるわね。オルガ、ちょっとの間お願いね」
「はい」
 アイシェはオルガが頷くのを見て、それからちらりと僕の方を見た。僕と目が合うと慌てて笑顔をつくろい、くるりと踵を返して扉の方に小走りで走っていった。
「あの娘、今朝あなたが乗ってこられた宇宙船を見てから大騒ぎだったんですよ」
 彼女の後姿を見ていたら、横から声をかけられる。声の方を見ると、オルガのカメラのレンズが僕の方を向いていた。
「初めてのお客様だって興奮して、もう大変。何か失礼はなかったでしょうか?」
「……あと三人はどこだ?」
 いい加減状況がわからないことにいらついていた。オルガの質問を無視して僕は知りたいことを端的にぶつける。
「は?」
「彼女はこの星には自分の他にあと三人来ていると言った。そいつらと話しがしたい。どこにいる?」
「……今、この星にいる人間は彼女だけです」
 オルガがぽつりと言う。
「は?」
「三人とは私のことを指して言ったのでしょう。他には誰もいません」
「いったい……どういうことだ?」
 僕は困惑して尋ねる。意味のわからない言葉が僕におかしな想像をさせる。
「事情を、お話します」
 オルガがゆっくりと喋りだした。
「彼女は遭難者なのです。十五年前、宇宙航行中に事故に遭い、彼女と私を乗せた救命ポッドがこの星に流れ着いたのです。以来ずっとこの星で暮らしてきました。誰にも、知られることがないまま」
「十五年前……」
 全く予期していなかった言葉に、その意味を把握するのに時間を要した。その間にもアンドロイドのスピーカーからは女性の涼やかな声が流れて出てくる。
「そのとき彼女はまだ二歳でした。事故があって、この星に流れ着いたときは彼女の父親も一緒でしたが、彼はそのとき大怪我をしていて、この星に着いてすぐに亡くなりました。この星は無人で、助けを呼ぶ手段もなく、脱出する手段は何も残されていなかったのです」
 信じがたい話だった。
 何より遭難者という言葉の持つイメージと、あの少女の姿がどうしても重ならない。
 何度か宇宙で遭難した人間を見たことがある。ほとんどはミイラ化した死体であったし、奇跡的に助かった人間も、あまりに死に近づいてしまったがために精神の正常さを失っていた。
 綺麗な服を着て、まともに言葉を話し、やや不自然ではあったものの普通にふるまっているあの少女が、十五年もの間遭難していたようにはとても見えない。
「あの娘が、遭難者……。そうは、とても……」
「幸いこの星のシステムは全て生きていました。このお屋敷を始め、生きていく上で必要な物品は全て揃っていました。あと、私が一緒であったことが彼女にとって幸いだったのでしょう。私は彼女が心身ともに健全でいられるように最善を尽くしてきました」
 混乱した頭で周囲を見回す。
 屋敷の広いホール。壁面に設けられた窓からは青い空が見える。
「馬鹿な……」
 まるっきり嘘であった方が納得しやすい。僕はオルガと名乗るこのアンドロイドの言葉を疑い、その中に矛盾を探した。
 しかし自分がこの星に期待していたものを考えると、その言葉の全ては疑いきれない。
 正常に作動し続けるリアクターや重力装置。
 居住可能な環境。
 かつての持ち主が残した屋敷や生活品。
 まさに僕自身がそういったものを利用してここで一人で生活をしようとしていたのだ。
 そもそもここに人が来る手段が、まともに考えれば他にはありえない。
 今現在、恒星間航行が可能な宇宙船はこの宇宙に約十数万機存在する。それらは一機の例外もなくEFAAに登録され、全ての航行は厳しく管理されている。僕のようにEFAAでの勤務経験があり内部事情に詳しく、かつ二度と戻らない決死の覚悟でもない限り、個人が勝手に宇宙船を動かすことなど不可能に近い。全く航行記録のない放棄されたヴィラネットに人がいる理由として「遭難の上に漂着」などというものがあるなど想像もしていなかったが、確かにそれ以外にここに人がいることを説明する手段は思い当たらなかった。
「しかし……よくそんなことが……ありえることなのか?」
「この星がどこかはわかりませんが、私たちもまた自分たちのヴィラネットに向かう途中でした。あの近辺は数多くのヴィラネットが造られていましたから、きっとこの星もその一つなのでしょう。事故後の漂流期間はわずか四十二日間で済みました。幸いだったのはたどり着いたここが居住可能な場所であったこと、不幸だったのはそこがすでに放棄された無人の星だったことです」
 宇宙空間で事故に遭い、救命ポッドが居住可能な星にたどりつくこと。そんな事態は天文学的な数字を分母に持った確率でしか起こりえないことだろう。それ故に一度そういったことが起これば、それに気が付く者はまず誰もいない。このアンドロイドの話が本当だとすれば、十五年間彼女らがここで暮らさざるを得なかったのも仕方のないことなのかもしれない。僕によって発見されたこともまた奇跡に近いことだ。
 ちょうどそのとき、アイシェが部屋に戻ってきた。トレーにティーカップを載せて持ってくる。彼女はその一つを僕の前に置いた。
「はい、どうぞ。味の方は保証できませんけど」
 僕は大きく息を吐いて、椅子に座った。気分を落ち着けたくてティーカップを手に取る。
 白いティーカップに注がれた紅い液体からたちのぼる湯気は、ちゃんと紅茶の香りがした。合成食料の製造設備はきちんと機能しているようだ。
「それで、なんの話をしてたの?」
 彼女は僕の正面、オルガの斜め左の椅子に座ると、席をはずしていた間を少しでも取り戻そうとするかのように勢いよく訊いてくる。
「今までの経緯をご説明してたのよ。私たちがここで暮らしている理由をね」
「そう」
 アイシェが僕の方を向く。先ほど初めて会ったときと同じように、大きな瞳が僕をまっすぐに見つめる。
 この娘は、わずか二歳のときからずっとこの星で暮らしてきたのだ。その間一緒にいたのはアンドロイド一体のみ。
 他の人間と話をするのは今日が初めてなのだ。
 そのことに気付いて、背筋が寒くなる。
 十五年もの間一人でいた。そしてその彼女が初めて他人に会った。
 出会った時のぎこちなさや、やや不自然な振る舞い。なのにじっと僕を見つめるまなざしのまっすぐさの理由がわかる。あのときは意識しなかったが、事情を聞いた今ではそこに大きな期待が込められているのが感じられる。
 その重みに僕は怖くなった。
 すがるような声で彼女に話しかけられるのを嫌い、僕は慌ててオルガの方を向いてしゃべりだした。
「それにしても、十五年って……何か助けを呼ぶ手段はなかったのか?」
 そう尋ねると、オルガはカメラの上に設けられた眉のような模様をかすかに曲げ、おや、という表情をつくる。なかなか表情豊かなアンドロイドだ。
「あなたは、私たちの通信を聞いてこの星に来てくださったのではないのですか?」
「そんな通信は知らないな」
 この星にたどり着くまでの間に救難信号などは一度も傍受していない。
「そう……ですか」
 オルガは呟くように言う。そして話を続けた。
「このお屋敷はかつてここの住人たちが使っていたものですが、私たちが見つけたとき、その中にあったシステムは大型のものを残してほとんどが引き上げられていて、通信手段は何も残されていませんでした。ですから私たちに助けを呼ぶ手段はほとんどなかったのです。先日ある方法で、ほとんど最後の手段と言ってもいいやり方で一度だけ信号を送信することができたのですが……それもどうやら効果はなかったようですね」
 オルガはそう言って、それからちらりと僕を見た。
 僕は体を硬くする。
 事情は全て説明した。次にオルガは、それで――と話を持ちかけてくるだろう。
 十五年もの間遭難していて、初めて人が来た。彼女らは当然のごとく僕に助けを乞うてくるだろう。しかし今の僕にはその願いはかなえられない。僕の宇宙船はもう二度と空を飛ぶことはない。
 緊張して身構える。しかしオルガはなかなかそれ以上のことを言おうとしない。
 すると黙って聞いていたアイシェが口を開いた。
「それで、ライアンさんはどうしてこの星にいらっしゃったんですか?」
 相変わらずまっすぐに僕を見つめている。僕は目をそらして彼女の後方の大きな窓の方を見た。
 それもまた、訊いてほしくない質問だった。

   *

 僕は逃げ出してきた。仕事から、周囲の人間関係から、そしてそういうしがらみから僕を自由にしてくれない社会そのものから。
 廃棄のために登録を抹消された宇宙船を盗み出し、ここまで来た。
 これまでの二十五年の人生は、他人から見れば順風満帆といえるものだったろう。エリート職に付き、少なくともこれをするまでは大きな犯罪などしたことはない。借金もなく、誰かに強く恨まれていたわけでもない。客観的に見れば、僕が逃げなければならない理由は何一つなかったはずだ。
 だが、僕は一人になりたかった。誰もいない場所で一人で暮らすこと、それが僕が生きていける唯一の道だと思っていた。このまま社会で生きていくことは僕にとってあまりにも苦しいことだった。
 他人とうまくやっていけないと自覚し始めたのはいつ頃からだったろう。ジュニアスクールの頃にはもう強くそのことを認識していた。しかしそれ以前から自分が浮いていることはある程度気付いていたはずだった。
 当時の僕はいつも一人だった。学校の成績は常にトップだったが、そんなことは僕の孤独を埋めるには何の役にもたたなかった。いやむしろそれは逆に働いていた。
 僕は優秀だった。そしてその優秀さに見合うように、僕は常に正しくあろうと努めた。そんな僕にとって、周囲の人間たちはあまりにも多くの間違いを犯し過ぎていた。
 彼らは僕の成績を羨んだが、そのわりに勉強をしようとはせず、授業に集中しようともしなかった。またある者は静かであるべきときにわざわざ無意味にはしゃぎまわり叱責を受けた。つまらぬことで喧嘩しては相手に怪我を負わせ、問題を大きなものにしていた。
 彼らはいつも間違えた判断を下していた。見かねた僕はいつも彼らの子どもじみた行いを指摘し、正しい方法を提案した。しかしそうしてやっても彼らは最初は苦笑いをしてかぶりを振り、二度、三度続けると最後は必ず怒り出した。そういったことを繰り返すうちに周囲の人間はしだいに僕から離れていった。
 その結果を見て、自分の方が間違っているのでは、と反省するには僕はまだ幼かった。正しいこと言っているのは僕だ、それを認めない彼らが間違っているのだ。僕はそう信じ、離れていく彼らの後姿を黙って見送った。
 本当は知っていたのかもしれない。自分のやり方が間違っていたことに。でもそれを認めてしまえば、同時に僕は自分の中に巣食う狭量さや傲慢さを見つめなければならなくなる。それを避けたくて、僕は周囲をよく見ようとはせず、ただ自分の言葉の正しさにすがった。
 そうして年を重ねていきながら、それでも僕は時折人の間に入っていこうとした。周囲の人たちと仲良くなろうと試みた。しかしそれは単に淋しさに耐えかねてのことであって、自分のやり方や考え方を改めたわけではなかった。学校の行事やサークルなどに参加してみたが、それらの行為は結局自分を疲れさせ、周囲の人を傷つけるだけに終わった。
 僕の言葉はいつも人を傷つけた。決してそうしたいわけではなかったが、人のアラばかりが目につき、それを指摘せずにはいられなかった。周囲から見れば、僕は人に文句しか言わない人間だっただろう。それらを自覚していくにつれ、僕は相変わらず矛盾だらけの他人の行為を嫌悪し、他人そのものを嫌い、そして他人とうまくやっていけない自分自身を何よりも嫌悪するようになっていった。
 それでも僕は自分の正しさを信じた。そうしなければならなかった。自分が間違っているのでは、と考え出すことを避けるかのように、僕は人を避けるようになった。避けきれないときはただひたすら貝のように口を閉じて黙っていた。
 しかし、時間は僕にただ黙ってやり過ごすことを許してはくれなかった。自分が正しいと信じ続けるには、僕は少しばかり賢すぎた。年を重ねるにつれ、少しずつ客観的に自分の姿が見えるようになってくる。徐々に自分の方が間違っていることに気付いていく。それは、僕にとって何よりも恐ろしいことだった。
 人と交わり続けるほど、僕は自分の間違いを思い知らされる。少しずつ自分の醜さを自覚させられていく。そしてそれは生きていく限り続くのだ。この先に続くであろう数十年という時間の果てしなさに目の前が暗くなる思いがした。
 これ以上、人の間にいることに耐えられない、と思った。しかし逃げ場はない。僕の食べるものも、着るものも、住む場所も、全ては他人が作ったもので、生きている限り他人との関わりから逃れる術はなかった。自ら命を絶つことも考えたが、臆病な自分にはそんな大胆な行動がとれるとも思えなかった。
 もはや世界のどこにも僕の居場所はなく、僕にできることももう何も残されてはいなかった。
 無人のヴィラネットの存在を知ったとき、全てを捨てて僕はそれに賭けた。例え命の危険を伴うことだとしても、僕はその誘惑に抗うことはできなかったのだ。

   *

 屋敷の中は静かだった。廊下を歩く僕とアイシェの足音だけが響く。それが静寂さをよりいっそう際立たせている。五、六人横に並んで歩いても余裕がありそうな広い廊下は、ちょっとうんざりするほど長く彼方へと続いている。肌に触れる空気は暖かだったが、他に誰も歩くことのない場所のその広さは、何か違った種類の寒さを感じさせる。
 僕は歩きながら、無言で隣を歩くアイシェが何を考えているのかを気にしていた。
 あの後僕は二人に説明した。僕は自ら望んでこの星に来ており、もう二度と帰るつもりはないこと。僕の宇宙船はもう二度と飛び立つことができず、外部に通信する手段も何も残されていないこと。つまり、彼女らを外の世界へと連れ出すことはできないことを。
 アイシェはそれを聞いてしばらく黙っていた。しかしその表情は崩さなかった。予想していた失望や無念の感情を微塵も感じさせなかった。
「じゃあ、この星に住まわれるんですね。私たちと一緒に」
 しばしの沈黙の後、アイシェは僕がここに来た理由を尋ねようともせず、笑顔をつくってそう言った。
 僕は返答をしなかった。できなかった、というのが正しい。アイシェの言葉に何か肩にのしかかってくるような重たさを感じていた。
 恐らく強い失望を感じているだろう。心底がっかりしているだろう。
 だが、仲間が一人増えた。
 ひとりぼっちでこの星で暮らしてきた少女にとっては、それだけでも喜ばしい出来事なのかもしれない。
 だから、重い。少なくとも僕は全くと言っていいほどそれを望んでいない。
 僕は返事をせず、そのかわりに立ち上がって言った。
「この星の設備を確認したい。屋敷の中にあるんなら案内してくれないか」
「ライアンさん……」
「いいですよ。ご案内します」
 そんな僕の態度にオルガは何か言いたげだったが、アイシェはすぐにそれに同意した。そして僕らはオルガを残し、ホールを出た。
 屋敷は古びてはいるものの、相当に広く、造りもしっかりしているように見えた。元の持ち主は相当な金をかけたのだろう。
 ホールから先ほど入ってきたエントランスを通り抜ける。扉の向こうは、やはり左右にたくさんの扉が並ぶ長い廊下が続いていた。
「右手はドレッシングルームや客室です。ほとんど使ってませんけど。左手はギャラリーや映写室になってます」
 緻密な装飾が施された扉たちの横を通り過ぎながら、アイシェがそんな風に説明する。
「ふうん」
 僕は興味なさげに相槌を打つ。
「こちらです」
 廊下の先に下りの階段があった。そこまでの道のりは、古びているとは言え全て美しい絨毯と壁紙に彩られたものであったが、その階段だけはコンクリートの味気ない肌をむき出しにしている。下は薄暗い蛍光灯で照らされた踊り場が見えるだけだ。普通なら不気味に感じられるところだが、ここまで見てきた部屋や廊下のように、屋敷の主以外に誰も見る者がいないにもかかわらずきらびやかな装飾に彩られているより、よっぽどこの方が自然であるように感じられた。
 アイシェが階段を降りていく。僕もそれを追った。
 地下一階は巨大な倉庫だった。階段の下は先ほどのホールほどの広いスペースになっており、その壁面には五、六メートルはありそうな巨大な金属の扉がある。しかしアイシェはそこには向かわず、さらに階段を下っていく。
 地下二階は制御室になっていた。重力磁場装置や大気監視システム、動力炉の制御システムがそれぞれの部屋に分かれて設置されている。僕らは一つ一つ部屋に入り、その状態を確認していった。それらは全て正常に作動していることを個々のモニターに表示していた。かつての持ち主はこの星を放棄する際にも、これらの設備までは大がかり過ぎて手をつけられなかったのだろう。
 その代わり持っていける大きさのものはきれいさっぱり持ち去られていた。かつてレーダーの管制機能や通信装置が置かれていたであろう部屋は、その何もかもが撤去されてがらんどうになっていた。コンクリートの打ちっぱなしの壁面から、いくつかの電気配線が、その先を失いコネクタをむき出しにしたまま放置されている。それらが僕に初めて実感させる。この星には、アイシェの他には誰もいない。ここは放棄された星なのだ、と。
 しかし僕は満足だった。少なくともこの星を居住可能としている設備は完全に機能していて特に問題はなさそうである。地下一階の倉庫では合成食糧の製造設備がきちんと機能していて、豊かな食生活を可能にするだけの材料を用意してくれている。
 帰り際、アイシェは倉庫の巨大な扉の中に入っていくと、いくつかのビニール製の四角いパックを小さな胸に抱えて出てきた。
「搬送装置が故障しちゃってるんですよね。なかなか直せなくて。いつもこうやって手で運んでるんです」
 そう言って笑う。僕が黙っていると、アイシェはまた階段の方へ歩き出した。
「お腹減ってませんか? 食事にしましょう」
 僕らは再びオルガの待つホールへと歩き出した。

   *

 アイシェの用意した夕食をご馳走になっているときに、その「娘」は現れた。
 僕たちはさきほどと同じようにホールの大テーブルに座っていた。テーブルの向こう側にはアイシェ、左手の辺には車椅子に座ったオルガ。
 僕らが食事をしている様子をじっと眺めていたオルガが、突然口を開く。しかしその口調や声は先ほどまでの落ち着いたそれとは異なっていた。
「ねえ、この人だれえ?」
 オルガ、だったアンドロイドが僕を指差して言う。
「ライアン・ブリスコーさんよ。今日この星にいらしたの」
 アイシェが、まるで初対面でもあるかのようにそんな説明をする。
「嘘お、こんな星に来る人なんているの?」
「嘘って言ったって、現にそこにいらしているじゃないの」
「へえ」
 アンドロイドが物珍しげに僕をじろじろと見る。
「こら、メリッサ。失礼でしょう、やめなさい」
「だって珍しいんだもん。ねえ、あんた何しに来たの?」
「メリッサ、よしなさい! お客様なんだからお行儀よくしなさい!」
 アイシェがアンドロイドを叱る。アンドロイドはすねたようにぷいと横を向いた。
「これは……」
「ごめんなさい、驚かれたでしょう。この娘、メリッサっていうんです」
 僕が呆気にとられていると、アイシェがアンドロイドを指して言う。
「メリッサ?」
「ええ、さっきのオルガとは別人なんです。体は同じですけど」
「別人って……どういうことだ?」
「三人、いるんです。同じアンドロイドの中に。そうですね、人間で言えば多重人格みたいな感じです。交代で出てきて、オルガが出ている間はメリッサとノエル――もう一人いる娘なんですけど、この娘らは休んでて、次にメリッサが出てくるとオルガとノエルがお休み、みたいな感じで」
「それで、この……今喋っているのが」
「そうです。メリッサです。まだ子供なんでちょっとお行儀悪いですけど、許してやってくださいね」
「子供じゃ・な・い!」
 メリッサが大声を出す。アイシェがそれをあやす。
「はいはい。そうよね、それなりに年をとってるのに、あなたはどうしていつまでも変わらないのかしらね」
「どうして、こんなことが……」
 僕はまた呟いた。
「ねえねえ、どこから来たの。教えて」
 メリッサが僕に訊いてくる。驚いていた僕は何と答えていいかわからない。はあとか、ええとか、何を言っているのかわからない言葉が口から出ただけだった。
 そんな僕の様子を見てメリッサがおかしそうに笑う。ご丁寧に目にあたるカメラや眉のラインを器用に動かして可愛らしい笑顔までつくっている。
「きゃははは、おっかしい。変な人」
「こら、お客様に失礼でしょ」
「だって変なんだもん」
「メリッサ!」
 アイシェが怒った顔をする。メリッサはいったん黙る。しかしその沈黙は長くは続かない。
「ねえ、早く食べちゃってさあ、遊ぼうよ」
「メリッサ、お食事中邪魔しないの」
 またアイシェが叱る。
「退屈だよう。早くう、早くう」
 メリッサが両手を振る。アイシェが頭を抱える。
 その様子を見ていて、なるほど、と思う。
 二人のやりとりを聞いているうちに、なんとなくアイシェを世話するアンドロイドが多重人格を用意した理由がわかってきた。
 メリッサはオルガよりもはるかに幼く、そして聞かん坊だ。アイシェはメリッサには大分手を焼いているようだ。駄々をこねる子供をあやすのに四苦八苦している。
 普段のオルガは、恐らく何でも優しく面倒を見てくれるアンドロイドなのだろう。しかしそんなオルガとずっと一緒にいれば、アイシェは他人とは全てそういうものなのだと誤解しかねない。もし彼女が誰かに発見されどこかの星に帰れたとき、そういった誤解は彼女にとって社会復帰の妨げになるだろう。ときにメリッサのような子供、またもう一人さらに別の人格がいるようだが、そういった異なる人格を用意することで、アイシェに様々な人格と接する経験を積ませているのだ。
 一般的にこの手のアンドロイドは、通常は主人に対して忠実だが、子供に対しては厳しくしつけをするようにプログラムされている場合があるが、その逆バージョンといったところなのだろう。
 最初に会ったときに、アイシェが他にあと三人いると言った理由がようやくわかった。
 僕に自己紹介でもするつもりだったのだろうか。さらにもう一人の人格はさほど間をおかずに現れた。やはり前触れもなく唐突に、だった。
 アイシェがお茶を淹れようとしているときだった。また異なる口調と声でアンドロイドが大声を出す。
「あっ、そうじゃないったら。最初はそんなに一気にお湯をいれちゃだめよ!」
 驚いて見ると、アンドロイドはアイシェを指さして身を乗り出すようにしている。アイシェも驚いて手にしたお湯の入ったポットの動きを止めた。
 確かに湯を注ぐアイシェの手つきは危なっかしいものだった。恐らく比較的最近まではオルガにでもやってもらっていたのだろう。それを指摘されたアイシェがすねたように言う。
「わかってるよ、口出さないで」
「口出さなかったらドバドバ入れてたくせに。最初は少しだけお湯を入れて風味を出すの。全くいつまでたっても上手くならないよねえ」
「うるさいなあ、飲めもしないくせに」
「あー、そういうこと言うわけ!」
 現れた人格はノエルと名乗った。ばかばかしいと思いつつも改めて自己紹介をする。
 その後もアイシェとノエルは先ほどのようにかしましく会話を続ける。なるほど、こちらは同世代の友人役といったところか。僕はそんな二人のほほえましい様子をぼんやりと眺めていた。
 すると突然ノエルが話を振ってくる。
「それで、ライアンさんはどうされるんですか? 何か助けを呼ぶ手段とか持ってないんですか?」
 主を守るアンドロイドとしてはそれが最も気になるところだろう。僕は苦々しい思いで四つの瞳から視線をはずして答えた。
「ない」
「だって、ここまで宇宙船には通信機ぐらいついてるでしょう? それも壊れちゃったんですか?」
 ノエルがなおも詰め寄ってくる。こちらは随分ずけずけとものを言う人格のようだ。僕はやはり窓の外を見たまま答える。
「ああ、そうだ。もう外に連絡する手段はなにもない」
「ノエル、そんな風に訊いちゃ失礼でしょ」
 アイシェが口を挟んでくる。
「だって大事なことでしょう。ちゃんと訊かなきゃ」
 確かに僕はやや不愉快だった。アイシェが心配しているような意味ではない。ノエルという別の人格に問い詰められていることが、何かオルガに馬鹿にされているような気がしたのだ。訊きたいことがあるなら、演技などやめてオルガとしてきちんと訊けばいい。
 不愉快さを振り払うように、僕はカップを置き、席を立った。
「ごちそうさま。もう失礼するよ」
「あ、お休みですか」
 アイシェが慌てて立ち上がる。
「あ、あの、お部屋を用意してますのでご案内します」
「あ、いや……」
 思わぬ手厚い待遇にうろたえた。自分の宇宙船に戻って寝ようと思っていた。
「さ、どうぞ、こちらです」
 アイシェが扉の方へ駆け寄り、僕を招く。まるで流行っていないホテルの従業員か何かのように、帰って欲しくないという態度をありありと見せる。相変わらずのすがるような目になんとなく断りづらくなり、僕は言う通りについていくことにした。
 扉をくぐるときに、ちらりとノエルの方を見た。彼女もじっと僕を見ていた。

   *

 当たり前のことかもしれないが、その晩はなかなか寝付けなかった。
 明かりを消しても分厚いカーテンの隙間から弱い光が差し込んできて、周囲をぼんやりと浮かび上がらせる。この星の周囲を周回する、月を模したミラーからの光だろう。
 ベッドの上でごろごろと寝返りをうつ。やがてベッドの上に設けられた立派な天蓋にも、壁にかけられた絵画に描かれた知らない男の顔にも、絨毯の上の細かい模様を眺めるのにも飽きて、僕は眠るのをあきらめた。
 地球を脱出して、目的地にたどり着いたこと。これからの生活。考えなければならないことはいくらでもある。なのにそのことに頭がいかない。何を考えようとしても、すぐにアイシェの顔が頭に浮かんでしまう。
 僕を見つめるアイシェの瞳。そしてその下には何か言いたげに軽く開かれた彼女の薄い唇。
 十五年間、一人でいるということ。
 多感な少女時代を、アンドロイドだけを話し相手に過ごした。
 その途方もなく過酷な状況の中で、アイシェは僕に出会った。その境遇の苦しさなど僕には想像もつかない。
 僕にとっては関係のない話だ。かわいそうだとは思うが、彼女に対して僕ができることなど何もない。放っておくしかない。そう自分に言い聞かす。
 しかし、もしあの宇宙船のキルスイッチを押していなかったら、あるいはその前にもっとじっくりとこの星を調べていれば、気がつけばそんなことばかり考えている。
 とめどなく湧き出る後悔の念から目を背けるように、この先の生活のことを考えようとする。しかし何分もしないうちに、再びアイシェの顔が脳裏に浮かぶ。
「じゃあ、この星に住まわれるんですね。私たちと一緒に」
 アイシェはさっき僕にこう言った、嬉しそうな笑顔を僕に向けて。
 僕はそれに返答をしなかった。
 はっきりと拒絶すべきだったのかもしれない。その方が期待を与えないで済んだ。あるいは逆にもっと優しい言葉をかけることもできたのだろうか。
 頭の芯にこびりついてしまったかのように、僕はアイシェのことを思い続けた。
 それは僕が寝ているこのベッドがそうさせるのかもしれなかった。シーツはきれいに洗濯されており、毛布からは日光の香りがした。僕が今日ここに来ることをアイシェらが知っていたはずはない。だがこの客室のベッドはきちんと整えられていた。それを彼女がどんな思いで、どのくらい頻繁に行っているのかはわからない。だが、そこに込められたものは、今の僕にはあまりにも重い。
 息苦しさに耐えかね、僕はベッドを抜け出した。喉が渇いている。水が飲みたくて部屋を出る。
 ホールへ続く扉を開くと、広いホールの向こう側に二つの点が光っていた。外からの光を反射するアンドロイドの二つの瞳。オルガは先ほどと同じく車椅子に座ってテーブルについていた。
「お休みにならないのですか?」
 オルガの落ち着いた声が響く。僕は近づいて行きながら返答をした。
「新しい星に着いた日だ。そう簡単には眠れないよ」
「そうでしょうね」
 オルガは相槌をうって視線を僕からはずす。
「アイシェも今頃寝られずにいるでしょう」
 僕はオルガのそばに立った。そのまま彼女を見下ろす。
 訊きたいことは山ほどあった。ありすぎて何からどう訊いていいのかわからない。それを整理しきれないまま、僕は口を開いた。
「彼女は……本当に今までひとりぼっちだったのか?」
「ええ、そうですよ」
「それにしては、その……」
 言いかけて、口をつぐむ。
「それにしては、とは? なにかおかしなことでも?」
 オルガが冷たい目で僕を見つめる。責めるような視線。実際にはアンドロイドがそんな目をするはずはない。そう感じてしまうのは僕に後ろめたさがあるからだ。
 僕は今日一日、アイシェをじっと観察していた。僕は探していたのだ。十五年間一人で過ごしてしまったが故に生じてしまった、彼女の欠損した部分を。
 一人きりではきっとどこかおかしくなるだろう。何か非常識な行動をとるのではないか。そんな冷酷で、無慈悲な視線を彼女にぶつけていた。
 だからオルガが多重人格をつくっている理由もすぐに察知できた。それは彼女の欠損を食い止めるのに有効な手段の一つだったからだ。
 またか、と思う。誰かに関わるとすぐ自分の醜さをさらけ出してしまう。自分に嫌悪感を覚える。
 僕が黙っていると、オルガが率直に訊いてきた。
「あの娘のこと、どこかおかしく感じませんでしたか?」
 考えていることを見透かされた気がしてどきりとした。一瞬返答に詰まる。そんな僕をじっと見つめながらオルガが話を続ける。
「ずっと助けを待っていた遭難者にしては、あなたが来てもおとなしかったでしょう。本来ならもっとすがりつくような態度をとってもおかしくないですよね」
「確かに……そうかもな」
「本当はそれぐらい喜んでいるんですよ。本当に……あなたの宇宙船が降りてきたのを見つけたときの騒ぎようったらすごかったんですから」
 そうだ、それはわかる。確かにアイシェの僕を見つめる瞳は、その思いの強さを雄弁に物語っていた。だが、彼女はそれを口には出そうとはしない。ずっと遠慮がちな態度を取り続けている。
「できないんですよ」
 オルガがぽつりと言う。
「は?」
「あの娘、他の人にどう接したらいいのかわからないんですよ。だから、あなたに対しても助けを乞うことも、すがりつくこともできないんです」
「どうして……だって、ずっと助けを待っていたんだろう?」
「それが、ずっと一人ぼっちでいるということなんです」
 オルガはやや語気を強めて言った。
「あの娘は他の人から愛されたことも、受け入れられたこともない。だから、普通であればただ助けを乞えばいいだけの状況でもあっても、そのことがわからない……怖いんですよ」
「怖い? 僕がか?」
「正確に言えば、他の人に受け入れてもらえないことが、です」
 不快感が胸にこみあげる。取り返しのつかない失敗をしてしまったときに感じる胸のむかつき。アイシェを恐れさせてしまったのは僕だ。初めて会ったとき、僕は彼女の挨拶すら受け入れなかった。それが彼女の心を自由にすることを阻んでいる。
「普通に人のいる社会で育っていたなら、あの器量です。きっと誰しもに愛されて、可愛がられて暮らしていたでしょうに。自分が他の人に受け入れられないなんて思いもよらなくて……なのにあの娘はあなたに、知りたいこと一つ口に出せない。」
 まるで自分が責められているような気がして僕は何も言えない。オルガが語り続ける。
「当たり前のことですが、あの娘は生まれた星に帰りたがっています。でも、心のどこかで、そのことをとても恐れてもいるのです。自分が、他の人たちに受け入れられなかったらどうしようって。普通に他の人に愛されて育ってきたなら思いもよらないであろうことを、ずっと、心配しているんです」
 オルガがまた視線をはずす。きっとその視線の先、壁を隔てた向こうにアイシェがいるのだろう。スピーカーから流れるオルガの声が止まると、代わりに沈黙が周囲を包む。
 僕はその重さから逃れたくて口を開く。
「君は、ロボットのくせにずいぶんあの娘の気持ちがわかるんだな」
「ずっと、一緒ですから……。それに私の人格はもともと人間のものなんです」
「と言うと?」
「私の人格は実在した人間の人格をベースに構築されました。ですからアンドロイドとして必要な制御をかけてある以外は、私のものの見方、考え方、感じ方は人間とほとんど同じなんですよ」
 かつてはそういう例もあったと聞いたことがある。しかし最近ではあまり聞かない話だった。アンドロイドに個性を持たすことにはあまりメリットがあるとは思えない。現在生産されているアンドロイドのほとんどは人間の人格などではなく、計算されフォーマット化された単一の特性を持たされているはずだった。
 しかしこの境遇においては、それが効力を発揮した。ノエルとメリッサという別人格すら構築し、アイシェに人間らしさを教育することに役立った。
 僕はオルガに興味を持った。人間に近い彼女が何を考え、何を望んでいるのか、知りたくなった。
 僕はオルガに質問をぶつける。
「じゃあ君はどう思うんだ? 君はアイシェにどうしてほしい?」
「私にはわかりません」
 オルガは悩む様子もなく答えた。
「私はアイシェが望むこと、望むであろうことを行うだけです。アイシェが何を望むかは彼女しだいです。その代わり彼女が望めば、私は何でもします。とは言っても、あちこちがたがきて、もう歩くこともできない有様ですけど」
 最後の方は呟くような言葉になった。オルガは自分が座らされている車椅子を見る。その表情は苦笑しているように見えた。
「君は、よくやってるよ」
 僕は思ったことをそのまま口にした。
「ありがとうございます」
 僕の方を見ないまま、オルガはそう答えた。

   *

 学生の頃、一人の女性と付き合ったことがある。
 名前をケイといった。美しい娘だった。
 大学のゼミナールの後輩だった。僕は彼女のことをよく知らなかったが、彼女は僕のことを知っていたようだった。パーティで出会い、彼女は僕に食事に連れて行くようねだった。僕は言う通りに彼女を誘い、何度か目のデートのときに彼女は僕に、「私はあなたの彼女だから」と言った。それが始まりだった。
 ケイと過ごす日々、それは僕にとって苦行にも等しかった。
 彼女と一緒にいるためには、僕は自分の本性を隠さねばならなかった。僕は相変わらず人が嫌いだったし、他人の欠点が嫌でたまらなかった。しかしそんなことを一度でも口にすれば、ケイは僕から離れていってしまうだろうと思った。だから僕は貝のように口を閉じて黙っていた。
 ケイは、他の娘たちが皆そうであるようにおしゃべりの好きな娘だった。とりとめのない日常の出来事を彼女は全て僕に話して聞かせた。家族のこと、友達のこと、学校のこと。僕は彼女の話に相槌をうち、彼女の言う通りにしていた。そうしていればうまくいくと最初は思っていた。
 だが、その生活はあまり長くは続けられなかった。
 まず始めに、彼女の話にただ相槌をうっているのが辛くなった。
 ケイの話は、全て「私」の話だった。彼女は常に自分を話題の中心にしたがり、自分への褒め言葉を欲した。
「私、こんなことをしたのよ」
「私の場合はそんなことしないわ」
「私は」
「私なら」
 他の誰かの話題が盛り上がっているとき、彼女はたいがいそう口を挟んだ。そうやって自分へのコメントを要求した。
 僕はそれに対していちいち「そうだね」という言葉を口にするのに飽きていた。しだいに黙って聞いているのが辛くなった。
 僕からすれば、彼女は賞賛を得るのに安易な方法をとり過ぎていた。
 学業で良い成績を得たければ日ごろから熱心に勉強するしかない。スポーツで良い結果を出したければ地道に練習を繰り返すしかない。
 だがケイはそういった努力やそれに要する時間を嫌った。彼女が選ぶのは常に簡単で、すぐに結果が皆に目立つことばかりだった。彼女がいつもゼミの中での雑用を買って出たのは、それが一番「ケイはいい娘だね」と言ってもらえる容易な手段だったからだ。
 またケイは僕の研究や論文の手伝いをしたがった。頼んでもいない資料やデータを集めてきた。彼女からすれば、自分が僕や他のゼミの優秀なメンバーたちのような論文を書くことはできない。だが僕の研究を手伝うことで、僕や他の人たちから褒め言葉を貰うことはできた。
 僕はそれが嫌だった。やめてくれ、という言葉を何度も飲み込んだ。
 その頃には僕は気付いていた。結局彼女が僕と付き合ったのは、僕という人間を愛したからではなく、「ゼミで最も優秀な生徒の彼女」の座を安易に手に入れる手段にすぎなかったのだ、と。
 それでも僕は黙っていた。そうすることしかできなかった。しだいに相槌すら打てなくなり、僕は彼女を避けるように論文に没頭した。僕から褒め言葉をもらえなくなった彼女は、ますます僕のすることを手伝いたがるようになった。僕はそれから逃げ続けた。
 そんな時間は長くは続かなかった。ケイと別れた日、僕は彼女に問い詰められ、初めて自分の言葉で彼女と話をした。その話の大半は彼女を批判し、その欠点を指摘する内容となった。
 二人の交際は、最後はケイを傷つけるだけの結果に終わった。
 誰かに近づけば、その相手を傷つけるだけに終わる。はっきりとそのことがわかったのは、それがきっかけだった。
 アイシェの僕を見る目は、別れる寸前のケイのすがるような視線を思い起こさせる。それは僕にとっては、あまり思い出したくない部類に入る記憶だった。

   *

 この星に来て二日目の朝。相変わらず天気は良い。ホールの壁面に並んだ釣鐘状の窓の向こうには青い空が広がっている。
 その空を映したかのような鮮やかな青いワンピースに薄手の白いカーディガンを羽織ったアイシェの機嫌も上々だ。先ほどから鼻歌まじりで甲斐甲斐しく朝食の準備をしている。
 そんな彼女の様子を見るにつけ、陰鬱な思いが増す。アイシェの細い手が舞うように僕の目の前に皿を並べていく様を、恨めしげに眺めていた。
 やがてアイシェがテーブルについたオルガと僕を順番に見ながら明るい声で言い出す。
「大勢で囲む食卓って楽しいですね」
 僕は返事をしなかった。大勢って、一人増えただけじゃないか、心の中でそう呟く。相槌代わりに一言だけ言う。
「ご馳走になるよ」
 返事を待たずに並べられた食事を食べ始める。アイシェはやや元気をなくした声で、どうぞ、とだけ言った。
 またこれだ。アイシェに楽しくない思いしかさせられない自分にまた腹が立ち、余計不機嫌になる。
 僕とアイシェはしばらくの間無言で食事を口に運んでいた。オルガもじっとその様子を見ている。だが、気を取り直したのか再びアイシェが明るい声を出す。
「今まで、食べるのはずっと一人でしたから……これからずっと一緒に食事ができて嬉しいです」
 睡眠不足で不機嫌だった頭に、その一言は不快にこびりついた。思わず、勝手に決めるな、と声をあげたくなった。これまでどこかに迷いがあったが、今の一言で心を決めた。ここではっきりさせておかなければならない。
 僕は手にしたフォークを皿に置く。かちん、と硬い音が意外なほど大きくホールに響いた。アイシェが驚いたように僕を見る。
「はっきり言っておかなければならないね」
 アイシェに語りかけるにはやや大きな声が出る。かまわず僕はしゃべり続ける。
「僕は確かにもうこの星を出ることはない。でもそれは遭難したわけでも偶然たどり着いたわけでもない。僕はここに、一人になるために来たんだ」
「一人に、なる、ため?」
「そうだ、だから君らに危害を加える気はもちろんないが、君らと仲良くする気もない。できれば顔を合わせないで済むようにしたいと思ってる。したがってこの屋敷に住んだり今後君らと飯を食うことはない。僕は一人で別のところに住むつもりだ」
 アイシェは信じられないといった顔で僕を見る。僕は表情を変えない。彼女は何かを言いたげに軽く口を開く。しかし僕が睨みつけると、やがてうなだれるように下を向いた。やっとその視線から逃れられて僕は少しほっとした。
 すると代わりにオルガが訊いてきた。
「どうしてそんなに一人になりたがるのですか? あまり一般的な考え方とは思えません。なにか事情があるのでしょうけど、私たちでお役に立てることだってあるかもしれません。よければお聞かせ願えませんか」
 僕はその言葉を聞いて、ますます苛立った。これまで何人も出会ってきた偽善者たちと同じ口調だったからだ。彼らはいつも良き理解者のような顔で僕に話しかけてくる。しかし僕がそれを喜び自分の話をすると、彼らはすぐに僕から離れていった。しょせん彼らは自分たちの考え方に合う人間だけを仲間にして自己満足にふけり、僕のような性悪な人間を無視することで性善説を信じているおめでたい人間たちなのだ。
 僕は首を横に振った。
「君たちに役に立ってもらうつもりはない。なるべく僕を避けるようにしてくれればそれでいい」
 冷たくそう言い放つ。
 それ以上誰も口を開くものはいなかった。アイシェはテーブルの上を見つめていて僕の方を見ない。
 その長い間が、僕をわずかに不安にさせた。どうして僕はいつもこうやって人を遠ざけるような言い方をしてしまうのだろうか。何もアイシェたちを敵にまわす必要はないのだ。
 ためいきをつき、彼女らを見る。
 頭に浮かんだのは昨日見たここの地下の設備。あれほどの設備があるのならば、何かとこの娘らに助けてもらう場面も出てくるかもしれない。
 僕は声のトーンを落として言う。
「ただ、こちらも自活するのに必要なものは最低限揃えてきたつもりなんだけど、バタバタと出てきたんで不足もあると思う。ここにあるものでもし余分なものがあったら分けて欲しいと思ってる。それはまた後日相談させてもらうよ」
 言いたいことだけ言って席を立った。手をつけていない紅茶がカップの中で揺れる。二人はやはり何も言わない。
「じゃあ、失礼するよ」
 僕は部屋の出口に向かって歩き出した。すると、後ろから声をかけられる。
「待ってください!」
 アイシェの強い声。後ろを振り返ると、アイシェが立ち上がってこっちを見ている。
「欲しいものがあるのなら、何を持っていかれても結構です。そのかわり条件があります」
「条件?」
「ええ」
アイシェが頷く。多少厳しい条件であっても飲まざるを得ないだろう。僕は覚悟しつつ訊く。
「どんな条件なんだ?」
「その……いや、そんなに長い間じゃなくていいんです。ほんの、ちょっとの間でいいですから……ちょっとだけ……」
「なんだよ、はっきり言いなよ」
「その……もう少しだけ、わたしたちと一緒に、いてくれませんか」
 その意外な条件に僕は面食らった。何を持っていってもいいという破格の条件に見合うとはとても思えない。しかしアイシェは話を続ける。
「そちらもこの星に来られたばかりですし、何かと不便でしょう。きっとお役に立てることもあると思うんですよ。ですから、最初は……最初だけでもこのお屋敷にいていただけませんか?」
 真っ先に頭に浮かんだのは、何かの罠か、ということ。しかし今の僕を罠にかけても、この娘らにあまり得られるものがあるとは思えない。それに、確かに今の僕にはこの星の状況や現存する設備などを調べる必要があった。そういう意味ではアイシェの言うことは正しい。僕はその条件をのむことにした。
「三日間だ。その間は一緒にいてもいい」
 そう言ったときにアイシェが浮かべた本当に嬉しそうな笑顔は、とげとなって僕の胸をちくりと刺した。

   *

 うっそうと茂る木々の中を延々と歩いてきた。いつまでたっても変わらない景色が苦しさを倍増させる。午前の日差しは枝葉によって遮られ、やや朝もやがたちこめた視界は相変わらず薄暗い。平坦ならまだいいが、その傾斜はときにゆるく、そしてときには手を使わなければ登れないほどきつくなり、背中に背負った荷物のベルトを肩にぎしぎしと食い込ませる。それでも、雨が降って水が流れることによって木々の間につくられた自然の道を、僕は黙々と山頂に向かって登り続けていた。
 前にはあたかも近所を散歩しているかのように軽快に斜面を登り続ける少女の姿。歩き始めて約一時間、早くも体力の限界に到達しつつある僕とは異なり、息ひとつ乱した様子はない。僕は助けを求めるように声を出した。
「おい! 少し、休ませてくれ」
 自分でも驚くほど疲れきった声。一方その声に振り返ったアイシェの顔はあくまで涼しげだ。昨日とはうって変わって長袖のTシャツにカーゴパンツといういでたちであるが、どうやらこれが彼女の普段の服装らしい。昨日の女性らしい姿は、彼女の言葉を借りると、あれはトクベツ、なのだそうだ。
「あんまり頻繁に休んでると余計疲れますよ」
 アイシェが僕の方に近づきながら言う。
「いや、もう無理だ」
 僕はその場に座り込むと、荷物を降ろし、その中から水筒を取り出した。
「はあああ、生き返る」
 水筒から口を離すと、思わずそんな言葉が出る。喉を通っていく液体の冷たさが全身に広がり、溜まった疲れを流してくれるような錯覚を覚える。
「駄目だ、運動不足もいいとこだな。日ごろからちゃんとやっとかないと体力が落ちる一方だな」
「普段はあまり運動しないんですか?」
 思わず漏らした言葉を受けて、アイシェが質問してくる。僕は答えずにじっと前を見ていた。
「……やっぱり、自分のことは何も話してくれないんですね」
 アイシェは長い睫毛をやや下げて、ぽつりとそう言った。一瞬どきりとした。前にも幾度か同じ言葉で責められたことがあるのを思い出す。
「話したって、何も面白くないからな」
「そんなことないです」
「何故? 君が僕の何を知ってるって言うの?」
「そりゃ、そうかもしれませんけど……でも、そんなことないと、思います」
 会話を重ねるごとに、彼女の睫毛は下がり声は小さくなっていく。結局僕は女の子にそういう思いをさせることしかできない。これでよくわかっただろう? 心の中でそう呟き、僕は立ち上がった。
「さあ、行こうか」
「はい」
 僕らは再び山頂に向けて歩き出した。

 三日間アイシェと一緒に過ごすという約束のその初日、僕がこの星全体の状況を確認したいと希望したところ、彼女は近くにある山に登ることを提案してきた。その山頂からならかなりの範囲を一望の下にできるので、地理や地形の説明がしやすいと言うのだ。
 しかしその後アイシェが用意したザックや携帯食料などの荷物を見て、僕はその提案を受けたことを早くも後悔することになった。その山の標高はゆうに千五百メートルはあるという。登って降りてくるだけで一日かかる。デスクワーク中心で、山登りはおろか街中でもあまり長時間歩くことなどなかった僕にとって、それは気の遠くなるような苦行に思えた。
 だが、やれ防寒具だ、雨具だと楽しそうに用意するアイシェの姿を見ていたら、やっぱりやめようとは言いづらくなってしまった。僕は観念して、朝からこうして彼女と共に歩き続けている。
 それにしても驚くべきはアイシェの体力だった。いや、体力だけでなく、その足取りを見ても明らかに山を歩き慣れている。それは、文明から離れたこの星で生き続けてきた時間の長さ、生活の厳しさ故なのだろう。すっかりバテてしまっている僕との差は、そのままその境遇の違いを表していた。
 アイシェは時折探し物があると言って、道をはずれて他の場所へと歩いていくことがあった。行く先は、崖くずれなどで岩石が剥き出しになっている場所。惑星改造によって覆われた人工的な土壌の下から、この星本来の地層があらわになっているところだった。アイシェの探し物とは「絵の具」だった。
「そんな石ころで絵が描けるのか?」
 何度目かの寄り道の際に、僕はアイシェに尋ねた。
 彼女は、森と森の間に生じた、長さにして数十メートルはある岩だらけの斜面の一部を掘り返し、その石ころを大事に腰のバッグにしまっている。その作業から目を離さないままアイシェは答える。
「ええ、これを水に溶いて顔料にするんです。いい色が出るんですよ」
「ふうん」
 僕は思わず得られた休憩時間を喜びながら、大きな石に腰掛けてその作業をぼんやりと眺めていた。
 歩いている最中に見せる表情は、笑顔を浮かべいかにも楽しげであったが、今ここにいる彼女は別人のように真剣な表情だ。小さな口はきゅっと真一文字に結ばれ、大きな瞳は石のつぶてすらも見逃さないよう鋭く光っている。涼しげだった広い額にはうっすらと汗が浮かべており、なにかに打ち込んでいるものだけが持つ独特の熱気のようなものをその細い体にまとっていた。僕はそこに、たった一人で力強く生き延びてきたものが持つ生命力のようなものを感じた。
 アイシェが突然作業をやめ僕の方を見る。彼女に見とれていたことを気付かれたかとやや焦る。しかしよく見るとアイシェの視線は僕ではなく、その後ろを見ていた。
「ライアンさん。後ろ」
 アイシェが僕の後方を指差して言う。その細い指の指し示す先を追って振り返る。
「うわわわっ!」
 思わず叫び声をあげて座っていた石から転げ落ちてしまった。
 巨大な獣がいた。しかも十歩も歩けば触れられるほどの距離に、である。巨大な角を二本生やし、酒樽ぐらいありそうな毛むくじゃらの体をひづめのついた四本の足が支えている。その獣は僕があげた大きな声に驚いたのか、さっと身を翻すと森の中へと消えていった。
「大丈夫、鹿ですよ」
 アイシェは笑いながら言った。僕は地面に座り込んだまま、つい先ほどまで巨大な生物が立っていた場所を見つめていた。もうそこには何の痕跡も残っておらず、そいつが現れる前と何も変わらずただ石ころだけが転がっている。
 鹿なら動物園で見たことはある。しかし、野生の鹿を見るのは初めての経験だった。同じ動物なのに、その印象はまるで違っていた。
 動物園ならば彼らは全て人の力によって作られた頑丈な柵に囲われており、僕らと彼らは全く違う空間に隔てられている。その獣が人間に対してどれほど危険な存在であっても、僕らがそれを感じることはない。
 しかし、ここにはその柵はない。自分の身の丈ほどもある獣が何も隔てるもののない同じ空間の中にいる。自分を取り囲む空間が持つ荒々しさに改めて気付く。思わず身震いするような恐怖を感じた。
 ヴィラネットには人間にとって危険がないように計算された生態系が構築されているはずだ。本来危険などないはずなのに、そんなことを思う。
「大丈夫ですか?」
 アイシェは笑いながら近づいてきて、僕に手を差し伸べる。我に返った僕は恥ずかしくなり、照れ笑いを浮かべながらその手を取った。立ち上がり、尻についた砂利を払おうとしておかしなことに気付く。アイシェが手を放そうとしない。彼女は握った僕の右手をじっと見つめ、次に僕の顔をまじまじと見た。
「何?」
 汗で湿った手をずっと握られている上に、三歩と離れていないところからじっと見つめられ、僕は気恥ずかしくなって振りほどくように手を引いた。
 アイシェはやや頬を赤くして、小さな唇をわずかに開いている。
「ライアンさんの手って、温かくって……すごい、柔らかい」
「は?」
 その言葉の意味を理解するのに、わずかに時間を要した。つまりアイシェは今、十五年ぶりに他人の手に触れたのだ。アンドロイドのそれではない、生きた、体温を持った手に。普通の女の子なら望むめば当たり前に与えられるであろうこんな小さなものを、この少女は知らないまま育ってきたのだ。
「もう一回、握ってもいいですか?」
 そう訊かれて、僕は思わず手を後ろに回し首を横に振る。
「勘弁してよ。さあもういいだろ。そろそろ行こう」
 僕は道のほうに振り返った。振り向きざまにその視界にちらりと入ったアイシェの寂しそうな姿にやや後悔をする。でもそれでいいのだ、と思い直して森の方へと歩き出した。
 アイシェが後ろから駆け寄ってくる足音が聞こえる。しかし彼女は僕の前に立とうとはせず、一定の距離をあけて僕の後ろを歩く。
 乞われて、その通りに手を差し伸べるのは簡単だ。でもやがてはその差し伸べた手を逆に払われることになる。だったら最初からそんなもの与えるべきではない。

 標高が上がるにつれ、少しずつ木々がまばらになってきた。足元が茶色の土からやや灰色がかった砂利へと変わってくるにつれ、肌をなでる風がその冷たさを増していく。その荒涼とした風景は、人が降り立つ前のこの星の本来の姿をイメージさせた。
 普通なら少しは疲れて口数も少なくなってくるようなところだが、それに反してアイシェは、よく話題が尽きないものだと感心するほど僕に向かって喋り続けた。
「それでね、あのお屋敷の機械設備関係は随分なくなってたんですけど、生活用品関係はほとんど残ってたんです。例えばね、映写室ってあったでしょう? あの中の機材の中に何があったと思います?」
 前を歩くアイシェが謎かけをするように訊いてくる。
「ほら、前向いて歩けよ。危ないぞ。で、何が入ってたんだ?」
「それがね、昔の映画なんです。それも何千本も。すごいでしょう? わたし字幕が読めるようになってからはほとんど毎日一本ずつ観てるんですけど、まだなくならないんですよ」
 それからアイシェは、自分の観た映画の感想をしゃべり始めた。そのほとんどを僕は観たことがなく、ただ彼女の話を聞いていることしかできなかったが、次々と出てくるそのジャンルの豊富さには舌を巻いた。比較的最近のものから、かつて地球でつくられていた古典作品までありとあらゆる国籍、時代を網羅している。気になって尋ねてみた。
「それだけの種類の中から観たい映画をどうやって選んでるのさ?」
「オルガが選んでくれるんです。ほんと、彼女のオススメははずれがないんですよ」
 なるほど、と僕は感心した。このひとりぼっちの星で人類の歴史や風俗を教えるのには、映画は格好の教材だったということなのだろう。あのアンドロイドは確かにアイシェにとって優秀な教育係の役を務めているようだ。
「あとね、わたしの好きな映画の一つがですね……」
 もう何度目かになるその言葉の後に、アイシェは一つの作品の名を挙げた。聞いたことのない名前だと思ったら、なんとまだ映画の画像が白黒だった頃の作品らしい。
「舞台は地球の十九世紀末のイギリスの炭鉱町で、そこに住むとある一家のお話なんです」
 アイシェは熱心にそのあらすじを僕に話して聞かせる。それはある一家の苦難の物語だった。不景気に家は貧しく、兄は父に反抗し、姉は不本意な婚姻を強いられ、やがて家族が一人、また一人と命を失っていく。
「ひどい話だな」
 思わず僕はそんな感想を漏らした。するとアイシェは突然立ち止まり、振り返って僕の方を見た。その顔には意外そうな表情が浮かんでいた。
「ひどい……ですか?」
 アイシェが意外そうな声を出す。まるで反論されているような気がして、僕はむっとして言い返した。
「だってそうだろう? 家族に悪いことばっかり起こってるじゃない。それがひどい話じゃなくてなんなんだよ」
 僕の言葉に、アイシェが考え込む。
「そう、ですね。確かにそうですよね。えっ、でもおかしいな。本当はすごいいいお話なんですよ」
「そうは聞こえなかったな」
「ごめんなさい。うまく言えないけど……悪いことばっかり起こるお話ですけど……でも、いいお話なんです」
「そう言われてもな」
 なおも主張し続けるアイシェの言葉に苦笑する。
「そう、ですね。ごめんなさい」
 アイシェはうつむいたままそう言った。
 謝ることじゃない、と言おうとしたが、やめた。
 何か面白いものがあったとして、その感覚やニュアンスを口で伝えることは誰でも難しいものだ。僕だってそういうことはあまり得意じゃない。ましてこの娘は圧倒的にそういうことに慣れていない。
 アイシェはそんなことはおかまいなしに、次に好きな映画の話を始める。そんな彼女の様子にほっとして、僕は適当に相槌をうつ。
 山頂が近くなると、上を見上げるたびにその視界のすぐ先が目的地に思えてくる。しかし、もうすぐと思って歩いてもその先にはさらに上へと道が続いている。もうだまされないぞ、とすっかり疑い深くなった頃に、後ろを歩くアイシェが明るい声を出した。
「着きましたよ。あの上が山頂です」
 その言葉に元気を得て、僕は残りの道のりを早足で駆け登る。そして、息を飲んだ。
 山頂は何もない小さな家一軒ほどの広さの岩場。
 しかしその向こうは視界いっぱいに緑一色の光景が広がっている。
 見渡す限りの濃緑の森、そしてその上にかぶさるやや白みがかった青。
 いかなる建築物にも切り取られることのない、空。広い。
 遠くに、来た。そのことを実感する。
 動きを止めると、背中ににじんでいた汗が強い風によって急速に冷やされる。改めてその空気の冷たさ、風の強さに気付いた。足音の止まった今、耳に響くのは強い風の音だけだった。
 その静寂を破って、アイシェが説明を始める。
「あれが、ライアンさんが降りてきたエアポートです。その手前に小さく見えるのが私たちの家です」
 彼女の言う通り、緑の森の中に灰色の小さな四角形が切り取られている。さらにマッチ箱にも満たないような小さい屋敷が確かに見えた。屋敷にいるときには気付かなかったが、そのそばには大きな湖と、そこに注ぎ込んでいるのであろう河が流れているのがわかった。
 なるほど、確かにここからなら屋敷の周辺の地形が一目瞭然だ。たどり着くまではひどく難儀したが、その甲斐はあったようだ。
「あとは、だいたい森なのか?」
「そうですね。ここから見えない向こう側はだいたいそうです」
 ほぼ地球で入手したデータ通りだった。
 足元の森は山岳地帯のため針葉樹林が広がっているが、その下はるか視界の果てまで続いているのは地球でも温帯に見られる常緑広葉樹林だ。それらの森林形態はこの星の気候が温暖であることを示すものだった。
 それらの森を眺めているうちに、僕は少し怖くなってきた。視界全体に広がる緑の森、しかし近くで見ればそれらは一本一本の木々の集まりだ。それが想像もつかないほどのおびただしい数が集まることによってこれほどの光景をつくっている。その事実は、僕に世界の巨大さを実感させた。
 体積は月の約十分の一、データ上は一つの小惑星でしかない。しかし、実際に降り立ってみると、そこは果てしなく広い空間のように思えた。
 この星が人の手によって造られたものという事実を一瞬忘れる。小さな小惑星を運んできて最適な恒星の周りを公転させる。重力磁場装置が質量の小さい小惑星にも大気をつくるのに充分な重力を発生させる。リアクターが発生させる大量のエネルギーにより地熱が生み出される。小惑星が大地で覆われ、その上に多くの生物が移植される。人類史上最大規模の土木工事が目指したもの。それは一つの世界を創りあげることだったのだろう。
 風が吹き、水が流れる。木々が芽を出し、動物たちがそこで暮らす。自分のあずかり知らぬところで巨大な自然の循環が存在し、営まれている。こんな場所を個人の別荘として扱うような行為は、ひどく不遜で、大それたことのように思えた。
 この広大な世界に、一人でいるということ。僕は隣に立つアイシェを見た。その存在はあまりにも小さい。吹き付ける風がアイシェの髪をもてあそぶ。油断すると彼女ごとどこかへ吹き飛ばされてしまうのではないだろうか、そう思ってしまうほど彼女は頼りなく見えた。
「どうかしましたか?」
 僕の視線を感じたらしいアイシェが訊いてくる。僕は慌てて視線を戻した。
「なんでもない」
 これ以上ここにいても、余計なことを考えてしまうだけのようだ。僕はアイシェを見ないまま言った。
「帰ろうか」
「はい」
 アイシェが素直にそれに応じる。僕らはうんざりするほど長い道のりを引き返し始めた。

   *

 下りの道のりでも、アイシェは時折寄り道をして石ころを拾っていた。そのたびに彼女はいちいちすまなそうな顔をしたが、疲れきっている僕にとっては休憩時間が増えることはありがたかった。
 だいぶ麓に近くなってきた頃、何度目かの寄り道の際に、アイシェがまるで言い訳をするかのように言った。
「ここ、お気に入りの場所なんです。オルガたちも知らないんですよ、私だけの秘密の場所」
「へえ」
 アンドロイドと二人きりの生活においても秘密の場所なんてものが存在するのか。僕はそんな感心のしかたをする。
 そこは確かに、これまで石ころを拾いに寄った場所に比べると、どこか特別な雰囲気が漂っていた。森の中に、学校のグラウンドくらいありそうな広いスペースがぽっかりと開いている。その向こうには幅の広い大きな崖があり、荒々しい岩肌を剥き出しにしている。それはまるで巨大なステージのように見えた。
「昔、オルガに叱られたりノエルと喧嘩したりするとよくここに来たんです」
 アイシェは崖に向かって歩きながら言った。
 だいぶ陽が落ちかけ、崖に向かって歩いていくアイシェを橙色に照らしている。僕は立ち止まってその様子を眺めていた。彼女はその場にかがんで足元に転がっている岩を選別し始める。その姿は広いステージで一人舞台に立つ役者のようにも見える。
「ここには、よく来るのか?」
「ときどきです」
 アイシェは顔を上げると、崖の方を指差して言う。
「このすぐ近くにあるんですよ。私たちが乗ってきた救命ポッド」
「救命ポッドって……君らがこの星に漂着したときのか?」
「ええ……って言ってもわたしはそのときのことよく覚えてないんですけど。見てみます?」
「あ、ああ……」
 僕が頷くとアイシェは立ち上がった。
「こっちです」
 そう言って崖の方に向かって歩き出す。僕は一瞬躊躇した。なんだか作業を中断させてしまったようで申し訳ない気がした。
「いいのか?」
「え、何がですか?」
「石、拾ってたんじゃないのか」
「いいんですよ。いつでも来れますから」
 アイシェは笑う。僕は納得してアイシェの後について歩き出した。
「優しいんですね」
 途中、アイシェがぼそりと言う。
 僕は返答をしなかった。なんだか失敗をしたような気がした。
 十分と歩かないところにそれはあった。
 最初は丸い大きな土の塊に見えた。しかしよく見ると土が積もったその奥には確かに金属らしき表面が見える。大きさにして大型のトラック一台分といったところだろうか。
 まるで森の中に埋まっているようだった。かつてこいつがここに降りるにあたり、かなりの木々をなぎ倒してきたはずだ。しかし今はすっかりその面影はなく、青々とした葉がしげる木々が四方を囲んでいる。
 汚れていてよくはわからないが、確かにしっかりした救命ポッドだ。これなら多少長く漂流していても耐えられたのもわかる。
 周囲をぐるりとまわってみる。するとハッチらしい部分は土がはがされていて、四角い金属の板を表にさらしている。ごく最近何者かが乗り降りした痕跡があった。
「まだ何かに使っているのか?」
 ハッチを指差しながら訊く。アイシェは首を振った。
「いえ、もう今は何にも使えません」
 電気制御ではなくメカ的に操作できるようになっているのだろう。ハッチの横にある開閉レバーを操作すると、ハッチがきしんだ音をたてて開いた。
「中に入ってもいいか?」
「どうぞ」
 アイシェは小さな声で言った。
 中は、狭い。四つのシートがあるだけの小さな空間。救命ポッドの名にふさわしく、命を救う以上の余計なものは何一つついていない。これを使う事態とは、快適さや余裕など全く関係ない状況なのだ。
 そこでおかしなものに気付く。座席の正面のコンソールの一部がこじ開けられ、そこから細い電気配線が引き出されていた。その配線を追っていくと、床の隅に置かれた掌大の小さな立方体へと行き着いた。金属製のそれは、持ち上げると大きさのわりにずしりと重い。
「バッテリー?」
 それは小型のバッテリーだった。
 配線のつながれた先を見て、そんなものがそこにある理由はすぐに見当がついた。それはこの救命ポッドの通信モジュールにつながれていた。壊れて動かない救命ポッドの、通信機だけでもなんとか動かそうとしたその痕跡なのだろう。
 昨日オルガが、ある方法で通信を送ったと言っていたのはこのことに違いない。そしてその試みは恐らく失敗だったと思われる。なぜなら僕の掌に乗せられたバッテリーは非常に小型で貯められる電気量も小さい。これほどのシステムを立ち上げて宇宙まで電波を飛ばすエネルギーを供給できるとはとても思えない。
「これが、最後の手段……」
 オルガはそう言っていた。
 容量以上の過剰な放電を強いられてもう使えなくなったバッテリーを見ていて、今更のように僕は認識した。そうだ、遭難なのだ。アイシェがあまりにも平静で、綺麗な服を着ていて、食事までご馳走してくれたものだから、すぐ忘れてしまう。ここで一人の人間が遭難して、連絡一つできない状態で長い時間を耐えてきたのだ。
 息苦しい思いがして外に出る。
 すっかり朽ち果て薄汚れ、周囲の森に溶け込んでしまったポッドがその時間の長さを物語っていた。
 観光でもするかのように気軽に見に来たのは間違いだった。一人の人間が、ここでずっと助けを求めている。アイシェは何も言わない分、彼女以外のここにある全てのものが僕を責めたてているような気がした。助けて、と。でも、僕には何もできない。
 何もできず途方に暮れていると、アイシェが空を見上げた。
「もうだいぶ暗くなってきましたね。そろそろ戻りましょう」
 僕は頷いた。今の僕にはありがたい提案だった。

   *

 例によって夕食をご馳走になった後、部屋に戻ろうとして僕は自分にあてがわれた部屋がどこだかわからなくなってしまった。なにせ広い屋敷である。長い廊下の先には似たような扉が左右にいくつも並んでいる。僕はしかたなく、この辺だと思う辺りの扉をかたっぱしから開き始めた。僕が夕べ寝たのとは違う客室、使い道はよくわからないが居間のような部屋に続いて、三つ目の扉を開いた先は、ギャラリーだった。
 壁面には等間隔で絵画が並んでいる。天井がガラス張りになっており、昼間はそこから射す光が絵画を照らしているのだろう。広い、というよりは横に長い。部屋ではなく廊下のように長く伸びるスペースとなっており、訪れたものが壁面に掲げられた絵画を眺めながら歩いていくつくりになっている。暗くなった今の時間ですら、その色彩が見えなくても、月光に照らされた絵画たちが並んでいる様そのものが美しかった。僕はゆっくりと、かすかに絵の具の臭いが漂うその部屋の中を歩いた。
 つきあたりの壁面には大きな扉がある。その向こうはアトリエだった。扉を開くと強い絵の具の臭いがぷんと鼻をつく。昼間アイシェが拾っていた絵の具はここで使われるのだろう。僕は興味を持ち、照明のスイッチを探した。
 明かりのついた部屋の中を見て息を飲んだ。驚いたのは巨大なラックと、そこに保管されている絵の、その量だ。壁面いっぱいの幅に金属製のフレームで組まれたラックにはびっしりとキャンバスがかけられている。僕はその一枚一枚を覗いていった。
 驚くほど様々な場面が描かれている。この星になどあるはずのない街並み、立ち並ぶ家々やビルやお城。航空機や列車。そしてその前を歩く人々。アイシェが知るはずのない景色が、まるで実物を見てきたかのように写実的に描かれている。
 やがて一つのことに気付く。いずれの絵も必ず一人か二人の人間が中心に大きく描かれており、風景よりもその人物に焦点が合っている。僕はぴんときた。これらは実際の風景ではない。きっとアイシェが見た映画の一シーンなのだ。
 登場人物たちはいずれも何かをしゃべっていたり、何かをしようとしていたり、今にも動き出しそうな躍動感を保っている。それらはきっとそれぞれの映画にとって重要なシーンなのだろう。映画そのものの雰囲気が感じられるようで、次の一枚をめくるのが楽しかった。
 そのうちの一枚を見ておや、と思う。それは飛行場の絵だった。かなり古い型のプロぺラ機のコクピットに飛行士が立っている。その下には見送り、いや出迎えに来たらしい女性が一人、コクピットの飛行士を見上げている。その女性の服装は、淡い黄色の袖のないブラウス、長いスカート。昨日、アイシェが宇宙船発着場に現れたときの服装とそっくりだった。女性は飛行士を見上げて笑っている。きっと幸福な出会いのシーンなのだろう。アイシェがあの服を着て発着場に来たことの意味がわかる。ずっとそうしようと決めていたのだろう。この絵を描いたその日から。
 アイシェの少女らしい一面をその絵に見た気がした。だが、その彼女の期待に対して昨日の出会いのやりとりを思い出すと、また気分が重くなる。それを振り払うように再び絵をめくる。
 最初の方に見た絵は色彩が豊富だったが、一枚一枚めくっていくうちに、徐々に色の数が減っていった。きっと色数が少ないほど古い作品なのだろう。それは、どこにも絵の具など売っていない世界で、彼女が一つ一つ色をつけられる材料を探し、そして見つけていった過程を意味していた。
 そして、ラックのかなり端の方にその一枚はあった。
 かなり初期に作成されたものなのだろう。茶色一色で描かれたそれはすっかり色あせており、セピア色の情景をキャンバスの上に載せていた。
 中心に大きな食卓があり、右端に父親と思しき年配の男性、食卓の正面には四人の兄弟が座っている。左側には母親と娘らしき女性が食卓のそばに立っていた。
 彼らは、祈っていた。恐らくは食事の前の感謝の祈りだろう。敬虔なキリスト教信者は今の時代でも健在だが、ここに描かれているのは地球でも相当昔の時代のものだと思われる。
 さっきアイシェが話していた映画の一シーンだ、と直感する。確か十九世紀のイギリスの炭鉱町の一家の物語だと言っていた。彼女の話すあらすじでは、この一家は数々の苦難に襲われ、やがて一人また一人と家族を失っていくとのことだった。彼女の話だけでは、僕にはひどい話だとしか思えなかった。
 しかしこの絵を見た今なら、彼女がこの映画を好きな理由がわかる気がする。
 絵の中で父親は威厳をもった姿で座っていた。きっと息子たちにとっては厳しい父親なのだろう。そして母親はそんな夫や子供たちを優しく見守っている。
 僕がこの絵に感じたもの、それはとても単純で力強い、絆だった。
 この一家は、いかなる不幸に見舞われようとも、きっと毎晩食事の前にはこうして祈りをささげるのだ。例え息子たちといさかいになろうとも、あるいは家族の一人が命を失おうとも、父は右端に座り、母は左に立ち、その間にはさまれるように子供たちが集う。毎日、毎年、一日も欠かすことなく。そしていずれこの父や母が亡くなったとしても、今度はその子供たちが父となり母となり、自分たちの子供を食卓につかせ、一緒に祈りをささげるのだ。そうやって家族が絆を紡いでいく。
 いったいいつの時代のなんという映画かは知らないが、きっと良い作品なのだろう。それを観たアイシェが感じ、憧れたものが、この絵には描かれている。
 今ならわかる気がする。なぜアイシェは動けぬオルガをあのホールのテーブルに座らせておくのか。なぜ初めてここに来た僕をあのテーブルにつかせて食事をふるまったのか。
 アイシェが僕に何を望んだのかはわからない。もしこの絵に込められた想いを初対面の僕に望んだのだとすれば、彼女のその判断はやはり何かが欠損していると思わざるを得ない。
 だが、と思う。仮にそうだとしても、それはなんとささやかな望みなのだろう。欠損しているのは彼女ではない。一人の少女の周りにあるべきものがあまりにも欠損しすぎているだけなのだ。
 ちょっとの間だけでもいいから一緒にいてくれと言ったときの彼女の姿が頭に浮かぶ。助けてくれとも、なんとかしてくれとも言わず、ただ彼女は立ち去ろうとする僕にそれだけを望んだ。
 改めて絵の中の父親の姿を見る。ただ、そこにいる。それだけのことが何故これほど力強く感じるのか。幼い頃誰もが父親に感じていたその頼もしさを、アイシェは知らない。

   *

 こんなことをしでかして後悔をしなかったわけではない。
 太陽系を出てここに着くまでの数週間の間には、やはり自分の決断は間違っていたのではないかと思うことがあった。こんな逃げ出し方を本当にしなければいけなかったのか、あそこに残っていてもまだやりようがあったのではないか、と。
 だが、地球にいるときの僕にはそんな考えは微塵も浮かばなかった。ただ一刻も早くあの状況から抜け出したかった。
 職場での僕は、常に何かにおびえていなければならなかった。何をするにつけても、必ず誰かと組んで仕事をする必要があったからだ。
 僕の職場であったEFAAは巨大な組織だった。宇宙を飛び交う無数の宇宙船を全て登録、管理するには膨大な人員と巨大なシステムを要した。一つ、二つと居住可能な惑星が整備されるたびに、まず初めにEFAAの支部が設けられ、そこに来る全ての宇宙船が管理されることになる。
 僕は当初それらの支部を転々としていた。どこかの支部に配属されても、半年としないうちにいざこざを起こして、そこを離れることになった。僕に言わせれば、それら支部での仕事のやり方があまりにいい加減で非効率であったことが問題だった。支部の人たちにそれを指摘しても改善されることはなく、癇癪を起こした僕が他の支部の人間に不満を漏らしたり本部にそれを上申したりするたびに波紋は大きくなり、最後は僕が追い出されることになった。
 支部の人間たちはひどい人たちが多かった。EFAAという花形職業に就いたことによる思い上がったエリート意識、にもかかわらず辺鄙な星に配属されたことによる屈折。彼らはEFAAに宇宙船の発着許可を求めに来る一般の人々に対して、尊大な態度をとることによってその不満を晴らしていた。彼らの傲慢さは、管理の手続きにいちいち余計な時間と手間を生んでいた。僕はそんな彼らを軽蔑し、その間違いを改めさせることにやっきになっていた。
 当時の僕は自分が正しいと信じて疑わなかった。これに関しては人格とか人付き合いの問題ではない、これは仕事なのだ。僕の性格が悪かろうと何であろうと正しいものは正しい。そう思っていた。でも、正しいことをしているはずなのに、僕は常にストレスを感じていた。いつもいらいらし、攻撃的になった。そのいらつきの原因は、間違ったことをしている周囲の人間のせいだと思った。ことあるごとに彼らを糾弾し、きつい言葉でそのやり方をなじった。自分の言っていることが正しかったから、それもやむなしと思っていた。だが、その結果配置換えになるのはいつも僕の方だった。歯噛みするほどくやしかったが、それでも自分が間違っているとだけは思わなかった。思おうとしなかった。
 「発作」が起こったのは、確か三度目の異動の直後だった。
 あの日は、特別なものなど何一つない普通の一日だった。いつものように民間の輸出業者より山のように届けられてくる出航申請と入航申請を処理していた。
 その手の業者からの申請はいつもいい加減でずさんだった。そこには、そんな許可を貰わなければならないこと自体が心外だ、という本音が見え隠れしていた。少しでも処理が遅れれば苦情に近い口調で問い合わせが来た。
 その日、やはりそんな業者の一つから電話がかかってきた。申請の確認だったが、さっさとしろと言わんばかりの不満そうな態度に僕は腹を立て、誰が宇宙の安全を守ってやってるんだ、という言葉が出るのをかろうじて押しとどめながら対応していた。
 その電話を切った後だった。
 かつて感じたことのない動揺が僕を襲った。強い不安が僕を支配した。めまいがして視界がぼやける。動悸が早くなり、呼吸まで不規則になった。僕はうろたえた。平衡感覚を失い、椅子に座っていることすらできなくなった。
 発作はしばらく続き、僕は仕事が続けられなくなり、その日は早退した。
 翌日体調は戻り、僕は普通に出勤した。同僚たちは心配して何が起こったのか訊いてきた。僕はわからない、とだけ答えた。
 そのとき自分に何が起こったのかはよくわからなかった。ただ、何故起こったのかだけはわかっていた。
 そのとき僕は、気付き始めてしまったのだ。いや、ずっと前から気付いていたのだけれど目を背けていたものが、視界に入ってきたということなのかもしれない。
 結局、僕も同じだったのだ。僕がこれまで攻撃してきたかつての同僚たち、と。僕は正しいことをしたくて彼らを責めたのではなかった。彼らと同じように自分の中にも醜いエリート意識や思い上がりがあって、彼らを見ることで自分の中のそれを自覚するのが怖かったのだ。
 それ以来、僕は仕事を休みがちになった。誰かと一緒に仕事をして、自分の醜さが見えてしまうことが怖かった。
 どこまで行っても彼らから逃げ切れないのなら、僕が一人になるしかない。僕は地球の本部に戻された。そこでデータ管理の担当となった。全宇宙から送られてくるデータを整理、分析する仕事。ほとんど一日中一人きりの業務だったが、僕にとってはそれまでに比べれば充分ありがたい仕事だった。
 だが残念なことに、世の中はそんな僕を許してはくれなかった。世の中では人は人と仲良くすることが良しとされていて、一人になりたいという要望は間違ったものとして取り扱われていた。生きていくためには何かにつけて他者との共同作業を求められ、それを嫌がるものは変人扱いされ差別された。
 各種メディアは、ひきこもりやニートといった若者の存在を問題視し、連日のように彼らに外へ出て心を開けと責め立てた。当時の僕は、それらが全て自分を責め立てるもののように感じていた。
 だが、その口車に乗って僕が世間に出て行っても、世間は僕を褒め称えてはくれない。再び周囲の人を傷つけ、自分も傷つくのがオチだ。そして世間は、今度は僕自身の人格を否定し糾弾しだすだろう。僕はもうこの世界には居場所もなく、何をすることも許されていない、常にそう思っていた。
 だから、毎日職場で眺めるデータの中に、ヴィラネットについての内容を見つけたとき、僕はその誘惑に逆らうことができなかった。今にして思えば、精神科医にカウンセリングを受ければなにがしかの病名をつけられてもおかしくないくらい、僕は追い詰められていた。どこか正常でない意識が、それを決断させたのだろう。
 無事太陽系を脱出し、目的とする宙域にたどりつく頃には僕はある程度落ち着きを取り戻していて、過去を振り返る余裕ができた。自分の採った選択を疑いもした。
 もし地球にいたときに落ち着きを取り戻せていたら、もっと違う選択肢があったのではないか。何か自分にもやれることがあったのではないか、そんな風にも思った。無論当時の僕にはそうすることはできなかったのだけれど。
 その晩、相変わらず眠れないベッドの中で、僕は考えていた。もしこの先まだ機会があるのなら、今度は同じ失敗をしないようにできるのかもしれない、今度こそ何かができるのかもしれない、と。
 アイシェの顔を思い浮かべながら、そんなことを繰り返し考えて、眠りについた。

   *

 屋敷を出て、ちょっと飽きてくるほど歩いたところに、その湖はあった。
 かなりの大きさだ。昨日の山頂から見たときは小さな水色の楕円でしかなかったが、こうして湖岸に立ってみると全体を見渡すことはできない。対岸は彼方に霞んでいる。
 目の前に広がる水も周囲の木々の色を映したかのように深い緑色だった。緑一色の景色の中、昼の強い日差しによって水の表面だけが白く輝き、森の緑との間に境界をつくっている。
 遠くから鳥のさえずりが聞こえてくる。それはむしろ周囲の静寂さを強調していた。
 その静寂を破ったのは、アイシェが水面に垂らしている糸の先で起こった水音だった。
「きた!」
「ホント?」
「今度こそホントよ。引いてる引いてる!」
 水際で竿を持つアイシェと車椅子のノエルがはしゃぐ。
 アイシェの巻くリールが軽快な音をたて始め、それに逆らうように水面上を糸が左右に激しく動く。
 しかしその抵抗も長くは続かない。やがて水の中に細いシルエットが見え始める。その頃になるとアイシェも慎重にリールを巻き、少しずつその影の主を岸へと手繰り寄せていく。
 二十センチほどの魚が姿を見せる。アイシェとノエルが再び黄色い歓声をあげた。
 本日初の獲物である。アイシェは魚から針をはずすと、僕に見せるようにそれを高く掲げた。
「ほら、見てください。釣れましたよ」
「おめでとう」
 僕は苦笑して言った。先ほどから僕の竿にはまだアタリ一つない。
 湖へ釣りへ行こうと提案してきたのは、アイシェだった。
 明け方近くまでうつらうつらしてからようやく深い眠りに陥り、目が覚めたのはもう昼近かった。ぼんやりした頭でホールへ行くと、アイシェから唐突にそう提案されたのだ。
 まだ調べたいことは山ほどあった。やらなければならないことを数えればその数は三桁に近くなる。しかし僕はその提案に乗った。そんなことは後でゆっくりやればいい、明日でも明後日でも、時間はいくらでもあるのだから、そう思った。
 このタイミングでこんな提案に乗るのは、何かアイシェの思惑に乗せられている気もしないでもない。でも、それでもいいと思った。この娘がそれを望むのなら。
 車椅子のノエルをアイシェが押し、僕らは湖畔へと来た。湖の周囲はほとんど森に覆われていたが、屋敷に近いところは一部ひらけている場所があり、そこには小さな小屋も建てられている。恐らくかつての持ち主はここでボート遊びを楽しんだのだろう。はしけらしき残骸も残っている。そこで、僕とアイシェは竿を振り始めた。
 その後もアイシェの竿にはアタリが続き、何匹かの魚を釣り上げる。その間、僕の竿を揺らすものはない。虫を餌にしたものの、魚は生きた餌しか食べないから、さも餌が生きているように見えるよう竿を動かす技が重要となる。アイシェが器用に竿やリールを操作するのを見よう見真似でやってみるのだが、なかなか上手くいかない。それでも僕は黙って竿の先を見つめていた。
 一方アイシェとノエルは楽しそうにはしゃぎまわっている。特にアイシェがアタリを逃した際には、ノエルの容赦ない言葉が飛ぶ。
「ヘタねえ。さっきから何回逃がせば気が済むのよ」
「うるさいなあ、ちょっと黙ってて」
「だあって、黙ってたらどんどん逃がしちゃうじゃん。ホントいつまでたっても上達しないよね」
「上手くなったわよ、昔に比べれば。もうノエルよりうまいんじゃない?」
「嘘よ。まだまだだよ。さっきから見ててもなんかワンテンポ遅い感じだもん。だから釣り上げてからみんな針を飲んじゃってるのよ」
「もう、うるさい。放っておいて」
 図星を突かれて腹を立てたのだろう、アイシェがノエルとの会話を打ち切る。おかげでノエルの興味は僕の方に移った。
「ライアンさんはどう? 少しは釣れそう?」
 僕は首を振る。
「さっぱりだ。晩メシのおかずはアイシェに任せるよ」
 ノエルが首をすくめる。さすがに僕にはそれ以上何も言わない。
 するとアイシェが喋りだした。
「昔からよくこの湖で釣りしてるんです。ノエルとどっちが多く釣れるか競争したりして」
「私が全勝だけどね」
 ノエルが口を挟む。
「うるさいなあ、もう。でもノエルが動けなくなってからは来てなかったから、結構久しぶりです」
「訊いてもいいか?」
「え?」
「その……ノエルが動けなくなったのは、どうしてなんだ。どこか故障したのか?」
 僕は気になっていたことを尋ねた。アイシェは答えない。答えるのに躊躇しているような様子だった。代わってノエルが口を開く。
「ま、ちょっと無理しちゃいましてね。故障したわけじゃないですけど」
「そう、か……」
 誰も口を開かない。少し空気が気まずく感じる。それをごまかしたくて僕は喋りだす。
「昔、親父に連れられて海釣りに行ったことがある。あのときも全然釣れなくて、親父ばっかり釣れるもんだから僕も怒っちゃってさ。すっかりすねちまって、それから後は親父に誘われても二度と釣りには行かなかった」
 皮肉に聞こえないか心配になり、こう付け足す。
「まあ子供だったからな」
 僕が話し終えてもアイシェは相槌一つ打とうとしない。不審に思ってアイシェの方を見る。彼女もまっすぐに僕を見つめていた。
「やっと……自分の話をしてくれましたね」
 アイシェはそう言って、嬉しそうな表情を浮かべた。僕は恥ずかしくなって前を向く。しかし決して不愉快ではない。
「……つまらない話だろう?」
 照れ隠しにそう訊く。
「そんなことないです」
 アイシェが答える。
「そんなこと、ないですよ」
 歌うような節を付けて、アイシェがもう一度そう言った。
 また三人とも黙り込む。心地よい沈黙だった。僕らはしばらくの間、黙って竿を振っていた。
「訊いてもいいですか?」
 アイシェがぽつりと訊いてくる。僕はアイシェの方を見て頷いた。
「ライアンさんのお父様は地球にいらっしゃるんですか?」
「いや……」
 かぶりを振って前を向く。
「両親は二人とも死んだ。事故でね」
「あ、あの……すみません。変なこと訊いちゃって、ごめんなさい」
 アイシェが慌てて頭を下げる。勇気を奮ってようやく口にした質問だったのだろう。なんだかかわいそうになり、アイシェに笑顔を向けてやる。
「気にすることはないさ。君と同じだ」
「はい」
 アイシェはほっとした表情を見せた。そしてそのまま黙っている。きっと、無難な質問を探しているに違いない。つまらない気遣いをさせてしまっているのが申し訳なくなり、僕は自分から訊いてやった。
「君の母親はどうしたんだ、一緒の宇宙船には乗ってこなかったのか?」
「わたしの母は、もっと前に亡くなったんだそうです。わたしが生まれてすぐに。だから、父はオルガに来てもらったんです」
「なるほど、な」
 オルガはこの星に来る前から、アイシェの母親代わりだったのだ。別人格までつくってアイシェの面倒をみるオルガの献身ぶりの理由がわかったような気がする。アンドロイドにも情が湧くことがあるのだろうか、などと考える。
「地球のことについて、もっと教えてもらえませんか?」
「あ、ああ、何が訊きたい?」
「もう何でもいいです」
 アイシェの難しい要求に苦笑する。
「何でもいいってのも困るな」
「あ、そうですよね。ごめんなさい。えーっと、そしたら……わたしと同じ年の女の子のこととか、教えてください」
「君ぐらいの女の子はみんなハイスクールに通ってるよ。普通に通ってれば十五から十八までの子供たちがそこで勉強してる」
「普通に通ってればって、落第とかしなければってことですか?」
「うん。それにその逆もある。充分それに見合う学力があるとわかれば飛び級することだってある。僕が学生のとき、極端な例では六歳と十八歳のクラスメートがいたよ」
「へええ」
 アイシェが感心したように頷く。いったん質問を許すと、アイシェは遠慮なく様々なことを訊いてきた。
 驚くべきはその知識の豊富さだった。最新の事情は知るべくもないが、十五年前に知りえたことについては社会の常識や情勢についてかなりのレベルで把握していた。昨今のハイスクールの学生よりよっぽどレベルは上かもしれない。よほど優秀な家庭教師がいたのだろう。僕は感心してノエルを見た。ノエルは微笑んでいるような表情を見せた。
 とめどなく湧き出てくるアイシェの質問をいったん打ち切り、僕は気になっていたことを訊いてみた。
「君は、ここにいることをどう思ってるんだ?」
「どう思ってるって?」
「帰りたいのか? 自分の生まれた星に」
 アイシェの細い眉がすっと下がる。先ほどまでまっすぐ僕に向けられていたまなざしが力を失い、宙を泳ぐ。
「どう、なんでしょう。わたしには、わかりません」
 歯切れの悪い返事が返ってきた。
「昔は、自分の故郷に憧れました。故郷だけじゃなくて、とにかくどこでもいいから人のいるところに行きたいって、随分駄々をこねて、オルガを困らせたり、ノエルと喧嘩したり……ね、そうだったよね」
 アイシェがノエルに相槌を求める。
「そうね」
 ノエルが言葉少なに答えた。
「それで喧嘩しては、例の、ほら、昨日行ったところ、あそこに行って暗くなるまで石ころ拾ったりして……。このまま帰らないでオルガに心配させてやれ、なんて思ったりして」
「プチ家出だな」
 僕が呟くように言うと、アイシェが吹き出す。
「そうですね、プチ家出ってうまい言い方ですね。面白い」
 アイシェが、大して面白くもない言葉に笑う。僕が笑わずに黙っていると、彼女は言った。
「最近はもうそういうこともしなくなりました」
 聞き分けが良くなった、ということなのだろう。それを求めてもオルガを困らせるだけ、ということがわかって、駄々をこねるのをやめた。
 十七歳のときの僕はそんなに聞き分けが良かっただろうか? 僕は自問自答する。どうにもならないことに対してもそれを認めようとせず、いつもイライラしていたのではなかったか。
 あるいはその傲慢さは、持てるものだけが味わうことのできる一種の贅沢だったのかもしれない。あの頃の自分にとっては望むものはそのたいがいを手に入れることができた。だから、わがままでいられた。
 どうにもならないことばかり常に目の前に突きつけられれば、誰しも謙虚にならざるを得ない。アイシェが諦めの良さ、我慢強さを身につけるまでに、そう時間はかからなかっただろう。
 きっとこの娘は僕に対してもそう考えたに違いない。僕がもうこの星を出る手段がないと宣言したとき、だったらもうこの星から連れ出してくれなどとせがんではいけない、と彼女は自分に戒めた。そんなことを言えばライアンさんを困らせるだけだから、と。
 アイシェはそれ以上質問をしてこない。地球に興味を持っていることを僕に悟られてはいけないと思っているのかもしれない。
 そんな遠慮をさせたくなかった。もっと好きなように言いたいことを言ってほしかった。しかし悲しいかな、僕にはそんなとき女の子にどう声をかけていいかがわからない。むしろ宇宙船のキルスイッチを押してしまった自分を責めてしまう。僕がそんなことではますますアイシェは何も言えないだろう。
 彼女の声を聞きたい、と思う。でもその術を、僕は持っていない。
 しかたなくアイシェに合わせて話をそらす。
「プチ家出、か……」
「え?」
「僕も子供の頃よくやった」
「そうなんですか?」
「親父に怒られると、家を飛び出た。でもどこにも行くところがなくて、近所をぶらぶらしているだけでさ。それで、あの頃は夕方五時になると鐘が鳴ったんだ」
「鐘って? 教会とかの鐘ですか?」
「いや、実際には放送なんだよ。その、町とか、自治体とかが作るんだろうな。町中に聞こえるようにそこらじゅうにスピーカーが設置されててさ。緊急時とかに放送するのが目的なんだろうけど、それが夕方五時になると毎日鐘の音を流すんだ。子供は家に帰りましょうって合図だな」
「へええ、そうなんですか」
「僕はいつもそれを聞くと家に帰るのが習慣だった。それで六時が夕食の時間でさ。でもプチ家出の日は五時になっても家に帰らない。そうやってちょっとでも親を心配させてやろうと思うんだけど、でも六時には家に帰った」
「はあ」
「根性がないよな。そもそも家を出る気がないどころか、飯の時間すら遅らせる気もないんだ。しょうもないよな、それが僕のプチ家出だ」
「へええ」
 そう相槌を打ってアイシェが笑う。
「つまらない話だろう。こんな話」
「そんなことないです。面白いですよ」
「だいたいよく考えたら家出なんて言えないよな。本当に家を出たことのある人たちに失礼だ」
 そう言うと、アイシェがおかしそうに声を出して笑う。
「ライアンさん、おかしい」
「そうか?」
「そうですよ。つまらなくなんて、ないです」
 アイシェは笑いながら、そう言った。
 それから色々な話をした。子供の頃の話であれば、お互い何も気にせずに話すことができた。
 森で迷ったこと。川で溺れたこと。初めて絵を描いたときのこと。
 僕もジュニアスクールのことを少し話した。あまり楽しい思い出は多くはない。でも悪い話も、苦しかったことも、アイシェは興味深そうに聞いてくれた。楽しい話は、心底楽しそうに笑ってくれた。
 もっと話がしたい、と思った。そうして話をしていけば、いつかアイシェの素直な言葉を聞くことができるかもしれない。
 そうやってずっと二人で話をしていければいい。彼女とならそれができるかもしれないと思ってみる。
 話をしている間にも、アイシェの竿には時折魚がかかる。夕暮れまでの間にアイシェは七匹の魚を釣り上げた。僕の竿には一匹も魚がかかることはなかった。

   *

 その晩は、久しぶりに寝つきがよかった。
 夢を見た。
 見慣れた部屋に、僕はいた。どこだか思い出せないが毎日のようにいた場所だった。
 壁面には四枚の大きな窓ガラスが並んでおり、そこから西日が射し込んできて周囲を橙色に染めている。窓の向こうに背の高い木々の先端の方の枝が見え、そこが高い建物の比較的上の方の階であることを教えてくれている。部屋の真ん中に六人程度が囲めるテーブル、その周囲をたくさんの本が乱雑に詰め込まれた本棚が囲う。そこに、僕を含め四人の男たちが座っていた。皆学生くらいの若い男たちだった。
 僕たちは話をしていた。ある男の話だった。
「おんなじ失敗を繰り返すだけってのがなんでわからないかね」
「たぶん自分がどれだけ馬鹿かってことがまだわかってないんだろうね。だから同じことをまたやるんだよ」
「なんのためにわざわざ宇宙船盗んでこんな星まで逃げてきたのか忘れちゃてるのが悲しいよな」
「そもそもその行為自体が愚かだね。もう少し利口なやり方がありそうなもんだけどな」
 ああ、僕の話をしている。そう思いながら、僕も話に加わっていた。僕はなぜか他人のような顔をして、他の三人と一緒に自分の悪口を言い続けた。
「要するに根本的な問題はさ、あの男がダメ人間だってことなんだよ」
「そうだな。結局それがどうにかならない限りは何やったってダメだもんな」
「思い通りにいかないとすぐ怒るしさ」
「怒るだけならいいんだけど、あいつ思い通りにいかない相手をすぐ見下すじゃん。それですぐ馬鹿にするような言い方するから嫌われるんだよ」
「どうにかなるんかね、あの性格」
「ダメだと思うよ。いったん形成されちゃった人格なんて一生変わらないからね」
「一生あのまま、か」
「馬鹿だよな、女の子にちょっと親しくされただけで舞い上がっちゃってさ」
「かわいそうに、あの娘。あの男にまたぼろくそに言われるよ」
 僕は言った。嘲笑を浮かべながら。他の三人も同じ表情をしている。
 そんなことはない、と言いたかった。言われ放題の自分を少しでも弁護したかった。しかし、この場にいるときにはそれは許されない。ちょっとでもそれをすれば、それ本気で言ってんの、と軽蔑の視線を向けられる。話題に挙がっている相手をひたすら馬鹿にする、それがこの部屋のルールだった。
 やめてくれ! 心の中でそう叫ぶ。しかし僕は皆に混じって自分を貶す話をし続けた。
 飛び交う言葉が僕の心を切り刻む。それでも僕は無理やり笑顔をつくる。他の三人も僕を見て笑っている。嘲りと、哀れみが唇の端に込められている。
「うるさい!」
 軽い悲鳴に近い声が出る。そこで目が覚めた。
 しばらくの間、ベッドの上でじっとしていた。いつの間にかシーツを口にくわえて、思い切り噛み締めていた。閉じた歯の隙間から荒い息がもれる。
 カーテンの隙間から差す光で、そこが寝室であることを確認できた。何も音をたてるものがないせいか、呼吸の音がいやに大きく響く。僕はゆっくりと体を起こした。
 夢に見た部屋、あそこは大学の研究室だった。四年間毎日のように通った場所だ。部屋の風景だけでなく、地上からかすかに響いてくる学生たちの歓声や、部屋に漂う古い本の香りまでが生々しく思い出される。
 あそこにいる頃のことは、よく夢に見る。
 あの頃、ケイと別れた頃から、僕は積極的に研究をしなくなっていた。毎日あの部屋に行っては、ただテーブルに座り、仲間たちと無為なおしゃべりをして時間を過ごしていた。話の内容は、いつも誰かの悪口だった。同じ研究室の学生から、芸能人、スポーツ選手に至るまで、誰でも僕らの悪口の対象となった。話題に挙がるのは、たいがい何かを成し遂げた者たち、何か大変なことに挑戦しようとする人たちだった。僕らはそんな彼らの欠点を挙げ連ね、彼らの成果やその姿勢を馬鹿にした。そうして僕は何もせず残りの学生生活を過ごした。
 結局のところ、それは僕が自分を守るために見出した手段だった。自分が何かをすれば、そして誰かに近づけば、必ず何か良くないことが起きて、激しく自分を傷つけることになる。だったら、何もしなければいい。何もしないでいれば、傷つくことも、思うままにいかないことに腹を立てることもない。
 しかし何もしないでいると、不安や焦りを感じることがあった。特に誰かががむしゃらに何かを成し遂げようとしているのを見ると、強くそれを感じた。だから、僕らはそういう人たちの欠点を挙げ連ね、がむしゃらな態度をあさましいと嘲笑った。上からの目線で、何かを成し遂げた人たちの悪口を言い、彼らの価値を貶めることで不安を誤魔化し、何もしない自分たちを正当化していた。
 そこで共に毎日を過ごした仲間たちは、他の誰よりも長い時間を共に過ごしたけれども、決して友達ではなかった。散々人の悪口を言い合いながら、それでも決して互いのことには触れない、それが僕らの不文律だった。人のアラさがしには長けていながら、絶対に自分たちのことには目を向けない。そのルールだけが僕らの絆だった。それがなくなれば、例えば僕らが今どこかで会ったとしても挨拶以上の会話をすることもないだろう。
 醜い、と思う。でもあの頃の僕らにとってはそうすることしかできなかった。少しでも動けば、きっと周囲に囲まれた刃物によってずたずたにされてしまう。自分は何もせず安全な椅子の上に座って、人を馬鹿にしてさえいればそれでいられた。
 そんなモラトリアムの時間は永遠ではない。やがて社会に出る。安全な椅子の上にはいられなくなった。否応なしに自分をシビアに評価される世界の中で、僕は生きていくためにそれなりの処世術を身につけるしかなかった。
 作り笑いを顔に貼り付けられるようになった。心にも無いことを平気で言えるようになった。無闇に人を馬鹿にするような発言も減った。次第にそんな生活に慣れてくる。
 職場での僕は相変わらずだったけれど、それでもときにはうまくいくこともあった。ささやかでも自分に何かができるのではと思えたり、周囲の人が必ずしも自分を傷つけるものではないと思えるようなこともあった。
 そうして何かが上手くいったとき、少しやる気を出してみようかなと思ったとき、そして誰か他の人と少しでも仲良くなれそうだと感じたとき、決まって僕はあの頃の夢を見た。西日の射すあの部屋で、ただ椅子に座っていたあの頃のことを。
 人を嘲り、貶める言葉たち。惰性のままに過ぎていく日々。そうやってぬくぬくと甘やかしてきた怠惰な自分。顔に浮かべた醜い嘲笑は、それらの全てを象徴する。
 そうして僕は思い知るのだ。少しぐらい演技が上手くなっても、自分が本質的には何も変わっていないこと。自分が、最低の人間であることを。
 体が弱いなら、頑張って鍛えれば少しは良くなるかもしれない。貧乏なら、頑張れば少しはお金も稼げるかもしれない。しかし生まれついて、そして形成されてしまった人格だけは、もうどうにもできない。
 自分に絶望する。かすかに抱いた希望が、幻想にすぎないことに気付く。こんな自分に何かができるはずなどない、と。
 それは言い換えれば僕にとってはありがたい警告とも受け取れた。もしそれらのことを忘れたまま調子に乗っていたら、きっとそれまでと同様に最後には痛い目にあっただろう。その前に夢が僕に教えてくれていたのだ。何もするな、何も期待するな、と。
 目が覚めてしばらくたっても、まだ当時の自分の声が耳に残っている。
「また同じ失敗を繰り返す気か?」
「そうしないためにこんなへんぴなところまで逃げてきたんだろう? それを忘れて何やってんだよ。馬鹿じゃないのか?」
「うるさい!」
 僕は声に出して叫んだ。静かな屋敷の中に僕の声が響く。
 思わず頭を抱えるほどの悔しさが、僕を襲う。
 アイシェの笑顔が脳裏に浮かぶ。彼女に歓迎されてすっかり調子に乗っていた。彼女に話を聞いてもらえて馬鹿みたいに舞い上がっていた。一緒にいてもいいと思った。もし、アイシェが望むなら、と。そんな大それたことを考えた自分が恥ずかしい。
 わかっていたはずだ。もう僕には何もできない、できることなどない。僕にとってはもう何もしないでいることが最善なのだ。誰もいない場所で、一人だけで。
 思わずくっ、と声が出る。シーツにぽたぽたとしずくが落ちて染みを残した。
 あれほど何度も思い知ってきたはずなのに、また、期待してしまった。それが何よりくやしい。
 再びベッドに倒れこむ。そして濡れた頬を拭うようにシーツに顔をうずめた。そのまま何度も自分に言い聞かせる。
 もう二度と同じ失敗はしない。
 僕にできることなど、もうない。

   *

 部屋に置かれた時計の針が七時を指す。
 窓の向こうには、今にも雨が降り出しそうなどんよりとした空が広がっている。
 僕はシーツにくるまって、ベッドの上に座っていた。しだいに空が明るくなり始め、部屋の中にあるものが光に照らされてあらわになっていく様を、ずっとその状態でぼんやりと見つめていた。
 過去にもそんな夜が幾度もあった。だからそんなときどうすればいいのかもわかっていた。
 ただ、冷静であること。
 余計な感情など無視をすればいい。どうせ感情など、いっとき盛り上がっても時間が経てば、いったいあれはなんだったんだと思うくらいどこかに行ってしまうものだ。だったら最初から平常心を保っておけば、感情に任せて動いて余計な失敗をすることもない。
 立ち上がって服を着替える。
 アイシェと約束した時間は今日いっぱい。それまで我慢すれば、また自分一人だけの平穏な時間が取り戻せる。あと少しの辛抱だ。
 僕はわざと丁寧にシーツを整え、アイシェに借りた寝着をきれいにたたんでその上に置いた。
 周囲を見回す。僕が来る前と何も変わっていない部屋。ベッド以外には何も手をつけていないので、自分が三晩寝泊りした痕跡は何も残していない。
 僕は満足した。相変わらず静かな屋敷の様子にも、そして落ち着いている自分にも。そして静かに扉を開け、部屋を出た。
 ホールにはアイシェとオルガがいた。少女とアンドロイドがいっせいに僕の方を見る。
 その視線は僕を不快にする。
「おはようございます。早いですね」
 明るい声がかけられる。僕は返事をせず彼女らの方に歩いていった。
 一歩一歩近づいていくにつれ、胃の中に異物が詰まっているような感覚を覚える。
「朝食にしますか?」
「いや……」
 アイシェの顔を見ずに返事をする。
 僕の様子がおかしいことに気付いたのだろう。アイシェはかける言葉に迷っている。しかしそれでも視線だけはじっと僕の方を向いているのがわかる。
 それが不快感を強める。僕はそれに耐えかねて、彼女から視線をはずしたまま話し出した。
「今日で、約束の三日だな」
「え?」
「え、じゃないだろう。最初からそういう話だったはずだ」
「は、はい。そう、ですけど……」
「ですけど、何だ。もっと延長しろとでも言うのか。勘弁してくれよ」
「でも……その、昨日まで楽しかったですよね。色々お話しましたよね」
 アイシェがすがるような声で言う。僕は返事をしなかった。
「ライアンさんも自分のことお話してくれましたよね。あの、その……あんな風に、もっと自分たちのこと、話し合いたいです。そしたら、お互いのこと、もっとわかるし……」
「そうやって」
 僕はアイシェの話を遮った。
「そうやって不用意に相手に近づいて、例えば相手がヤバい奴だったらどうするんだ? 相手が悪い人間だったらどうするんだよ。そういう人間を受け入れるだけの度量が君にあるのか?」
 そう問い詰める。アイシェは返答をしない。
「じゃあ、そういうことだ」
 全てを断ち切るような冷たさを持って、そう言い放つ。
 だがそれでもアイシェは言う。
「ライアンさんは、そんな悪い人じゃないでしょう?」
「は?」
「わたし、そう思います。ライアンさんはとてもいい人です。何も根拠はありませんけど、でも、そう思うんです」
 僕はかっとなった。過去に付き合ったことのある女性たちも最初はそう言っていた。そんな思い込みで人を惑わしておいて、きっと最後にはこの娘も言うのだ。そんな人だとは思わなかった、と。
 僕はやや声を大きくして言った。
「だったら言おう。君が悪い人間じゃないっていう根拠はあるのか?」
「え?」
「僕は君のように都合の良いほうに思い込むこともできないし、君が悪い人間だった場合には、僕にはそれを受け入れる度量はない。そんなリスクを犯すくらいなら、最初から離れていた方がお互いのためだ」
 言ってから、しまったと思う。いや、言いながらもう駄目だと思っていた。僕はいつもそうだ。喋ることでいつも人を傷つける。もうそんなことがしたくなくて、わざわざこんな遠くの星まで来たのに。また同じことをしている。
 アイシェは下を向いて、身じろぎもせずその場に佇んでいる。オルガはじっと僕らの様子を眺めていた。
「そう、ですよね」
 長い沈黙の後に、アイシェがぽつりと言った。驚いてアイシェの顔を見る。彼女は、笑顔だった。いや、笑っているように口を開いていた。
「わたし、他の人たちと接したことないし、常識ないし。きっと迷惑になるだけですよね。勝手に思い込んじゃって、すみません」
 そう言って頭を下げる。
 僕は弁解しようとする。だが何と言っていいかわからない。結局何もしない、何もできない。
「わたし、ちょっと用事があるので出かけてきます。その間に、このお屋敷にあるものでしたらお好きなものを持っていってください」
 声が震えている。僕は下を向いた。そして催してくる吐き気をこらえる。自分自身への、激しい不快感。
「それでは、さようなら」
 出口の方へ向かっていくアイシェの足音。扉の開くきしんだ音。窓ガラスまで一瞬震えるほど響く扉の閉まる音。僕はじゅうたんの細かい模様を見ながらずっとそれを聞いていた。
 いつものことだ。もう慣れっこになっているはずだろう。自分にそう言い聞かせる。
 何だって言うんだ。僕は自分がすべきことをしただけだ。そう胸の中で言う。だが、何か取り返しのつかない失敗をしたときのような不安感は絶え間なく襲ってきて、消えない。
 だってこうするしかなかった。僕は正しい。間違ってない。強くそう念じる。
 そばの椅子に座り込み、頭を抱えた。
 するとずっと黙って僕らのやりとりを聞いていたオルガが初めて口を開いた。
「結論を出す前に、一つだけ、お願いしたいことがあります」
 僕は力なく頭を上げる。
「これをお持ちください」
 オルガはテーブルの上に握りこぶし大の小さな箱を置いた。金属のケースで囲われたそれに、僕は見覚えがあった。
「バッテリー?」
 それは、あのアイシェたちが乗ってきたという救命ポッドに残されていたバッテリーと同じものだった。
「そうです。これを持って、東の山の中にある救命ポッドに行ってもらえませんか」
「なぜ? あの通信機、まだ使えるのか?」
「ご覧になっていたのですか……」
「あ、ああ。一昨日見た」
「あれはもう通信はできません。ただ、あの中には、アイシェの言葉が残されているのです」
「アイシェの、言葉?」
「どうか、あの娘の声を聞いてやってください。あなたに聞いていただきたいのです」
 オルガは力を込めて言った。そして遠くを見るような目で、言った。
「あの娘は結局最後まであなたに自分の言葉で話すことができませんでした。それで、このまま終わりにしたくはないのです。だから、これを……」
 僕はそこで気付いた。オルガが差し出すバッテリー、これは、オルガ自身に装備され、彼女の動力源としているバッテリーではないのか。
 アンドロイドに装備されるバッテリーは通常正副の二個。きっと、そのうち一つが、あの救命ポッドの中で使用された。他に通信機を動かす手段はこの星にはない。残された、唯一の手段。オルガは文字通りそれに命を賭けた。そして彼女は歩くことをやめた。残された最後のバッテリーに負荷をかけないために。
 今、僕の目の前に差し出されたもの。オルガに残された最後のエネルギー源。これをはずした今、オルガは体内のコンデンサーに残されたわずかな電力だけで動いている。それが尽きれば、彼女はもう動くことはない。
 オルガを見る。オルガのカメラの表面に僕の顔が映っている。オルガは無表情にただ僕を見ていた。
 オルガは再度賭けた。もはや通信手段もなく、このまま自身のエネルギーが徐々に尽きていく中で、恐らくこれが最後の機会だと。
「通信機には何があるんだ? アイシェの声って何だ?」
 僕は尋ねた。アイシェを一人残して、このアンドロイドは何を僕に託そうとしたのか。
 だがオルガはそれには答えず、ただ、お願いします、と頭を下げた。
 僕はバッテリーを手にした。そのずっしりとした重み以上に、僕にはそれがひどく重いものに感じられた。どうしたらいいかためらう。しかし、僕がバッテリーを掴むのを見て、オルガは安心したような表情を見せた。
「救命ポッドに行けばいいんだな」
 僕がそう尋ねると、オルガは嬉しそうに頷く。
「しかし、どうして、そこまで……」
 僕は呟くように尋ねる。オルガはそれには応えず、逆に訊いてくる。
「もう一つ、質問してもいいですか?」
「ああ」
「アイシェは、ちゃんと育ってましたか?」
「ちゃんと、って?」
「他の人が誰もいない環境の中で、私はできる限りのことをしたつもりです。それで、あの娘をきちんと、成長させることはできたのでしょうか」
 オルガは僕ではなく、扉の方を向いて言った。
 僕は再び、今度ははっきりと訊いた。
「なんでそこまでするんだ?」
 オルガが僕を見る。
「君は単なる家政婦役のアンドロイドだろう。なのに別人格までつくってアイシェの面倒見て、最後は自分のバッテリーはずしてまで……どうしてそこまでやろうとするんだ?」
「ご主人様――アイシェの父親ですが、この星に漂着して、その後あの方が亡くなる前に言われたのです。あの娘を頼む、と。あの状況でご主人様の心情を慮って、私なりに判断した結果です」
 そして、再び訊いてくる。
「……私の判断は、正しかったでしょうか?」
 このアンドロイドは知っているのだ。親が子を想う、その愛情の深さを。だから、アイシェの父親の最期の言葉を正確に理解し、遂行した。
 僕は言ってやった。
「君は、よくやったよ。あの娘は本当にいい娘だ」
「そうですか」
 オルガは微笑んだ。その表情を僕はどこかで見たことがあるような気がした。それは僕に、絵画で描かれるような慈母の笑みをイメージさせた。
 それを見て、僕の頭にあったいくつかの疑問が一本の線で結ばれる。
「君は、実在した人間をベースに人格を構築されたって言ったな」
「はい」
「君の人格の元になった人って、アイシェの母親なんじゃないのか?」
 早くに連れ合いを亡くしたアイシェの父親がそうしたのだとすれば。
 彼がオルガにアイシェを託したのも。
 その命令に忠実すぎるほど忠実にオルガが従ったことも。
 そして今、身を賭してオルガが僕に託そうとしていることも。
 しかし、オルガはそれには答えなかった。ただ僕に向かって優しく微笑んだ。
 その後二度と、オルガが動くことはなかった。

   *

 夜中に降ったであろう雨はすでにやんでいたが、空はまだ今にも降り出しそうな雲に覆われていた。湿気を含んだ空気が体にまとわりつき、全身を不快に湿らせる。
 そんなことは気にも留めず、僕は走っていた。
 息が苦しい。足がふらつく。それでも、託されたものの重みを支えながらゆっくりと歩くことよりははるかに楽だった。
 二度ほどぬかるみに足を取られて転んだ。それでも、ポケットに入ったバッテリーを確かめると、僕は立ち上がってすぐに走り出した。
 最後は走ることもできず、痛み出したひざを支えながらふらふらと歩くだけであったが、それでも意識は前へ前へと進もうとしていた。
 救命ポッドは相変わらずそこにあった。
 これがここに落ちて、全てが始まった。アイシェたちが何とか生きてきた間、そして僕が地球であれこれつまらないことに悩んでいる間も、この救命ポッドはずっとここにあった。まるで森の奥深くで数千年そこに立ち続けた巨木のように、人々の営みに関わることなく。
 僕はハッチを開ける。
 狭い操縦席のコンソール、一部のパネルが取り外され、中の基板からコードがのばされている。その先につながれているのは、床に置かれた小さなバッテリー。僕のポケットに納まっているものと同じものだ。
 バッテリーが接続されている通信機のモジュール。オルガはアイシェの言葉がここにあると言った。それは通信機に残された彼女のメッセージを意味するのだろうか。
 しかし、改めてそのバッテリーを見る。アンドロイドに内蔵される小型の充電池、これ一つで使用できる電気量はあまり多くない。僕は疑問を感じた。これだけで本当に宇宙にまで通信ができたのだろうか。仮にできたとしても、その電波に乗せられる情報量はほとんどなかっただろう。一瞬の信号か、乗せられたとしてもせいぜい一言、二言でしかなかっただろう。
 僕は迷いつつも、古いバッテリーをはずし、そこにオルガから預かった最後のバッテリーを接続した。軽い振動に近い動作音が腹を細かく揺さぶる。いくつかのパネルに灯りがともされていく。正面のモニターに文字が現れた。
 僕はその意味を読み取りながら、通信機を操作した。すでにモニターには電源異常の警告サインが表示されている。バッテリーにエネルギーが残されているうちに求めるものを探さなければならない。画面の移り変わりが妙に遅く感じられて、僕は焦った。
 そして見つけた。過去の通信履歴のデータ。アイシェたちはやはりこのバッテリーを使って、信号を送っていたのだ。あて先の無い、でも誰でもいいから届いて欲しい強い願い。それは通信記録としてこの古びた救命ポッドの中に残されていた。僕はその送信内容を呼び出した。
 内容が現れるまで、一瞬画面が消える。その時間がやけに長く感じられる。
 外の世界に向けて、アイシェが放った最初にして唯一の言葉。
 かすかな電子音とともに、白い文字が画面に浮き出てきた。やはりその文字数は少ない。僕はその短い言葉を読む。

《会いたい》

 かすかなファンの音以外に周囲の空気を揺るがすものはない。身動きをすることができない。息をするのも忘れ、モニターに手をついたまま僕はそこに立ち尽くす。
 SOSでもなく、助けてでもない。たった一言、ただ「会いたい」と、だけ。
 彼女らに残された力はあまりにも小さく、それ故に発せられた言葉はあまりにも短かった。
 そしてそれは短いが故に、強かった。何万文字の文章よりも彼女の想いをあらわにして、読むものの胸を打った。
 これまで多くのことに耐えてこなければならなかった。そんな中で、それでも一言でいいから、どうしても言いたかったアイシェの言葉。
 普通に生きていれば当たり前のように得られるはずだったものを、いったいどれほど犠牲にしてこなければならなかったのだろう。彼女は僕に対してそれを嘆くことも愚痴をこぼすこともしなかった。その代わりに彼女が望んだものは、十七歳の少女が望むにはあまりにもささやかなものだった。
 モニターから発せられる重圧が僕を縛り付けていた。それから逃れたくて、僕はその場を離れる。だが、アイシェの言葉は呪縛のように僕を捕らえて離さない。彼女の顔だけが頭の中を駆け巡り、混乱した。狭いポッドの中が息苦しい。
 ハッチから外に出る。
 しかし、ポッドの外に出ても息苦しさは止まらない。僕は恐ろしくなり、思わずポッドに背をつけ、もたれかかった。
 周囲は、頭上に葉を茂らせた背の高い木で囲まれていた。
 空気に混じる湿り気が全身をしっとりと包み込む。
 まだ午前中のせいか、鳥たちのさえずる音は依然としてにぎやかだ。
 一昨日見た山頂の景色が思い出される。きっとどちらを向いても、どこまで行っても、この風景は変わらないのだろう。
 僕を包み込む世界の全てが、完全に僕と無関係に営まれている。
 それは今までに味わったことのない、例えようもないほどの孤独だった。
 ここがもし地球ならば、そんな感覚を味わうことはできないだろう。なぜなら少し移動すれば道路や、各種交通機関が整備されている。お腹が空けば食べるもの、眠くなれば宿泊する場所、例え一人であっても、その僕に利用されるために様々なものが用意されていた。見知らぬ誰かの手によって、世界は僕が生きやすいようにきちんとお膳立てされていた。
 この星では、そこにあるものは全て僕の味方ではなく、そして敵でもない。ただ、僕に対して無関心だった。
 かつて人の手でつくられた、過去形で積み重ねられた残骸だらけの世界の中で、今僕は初めて本当の一人を味わっていた。
 自分の着ているシャツを握り締める。闇の中で方角すら失いさまよっているような錯覚を覚える中で、それだけが、唯一今僕を守るために作られたものだと感じられた。
「これが、アイシェが生きてきた世界……なんだ」
 声に出して言ってみる。
 それに反応するものはない。
 淋しさに耐えながら、僕は自分を責めていた。
 何もわかっていなかった。
 自分が望んでいたもの。一人になるということ、それは想像も及ばないほど、本当に一人だった。
 僕は本気ではなかったのかもしれない。僕がしてきたことは、結局子供の頃のプチ家出と変わらない。最後は誰かに守ってもらえることをどこかで期待していた。自分の甘さを思い知る。あまりにも子供で、愚かな自分。
 シャツを握る手に力を込める。
 嗚咽のようなうめき声が喉の奥から湧き上がってくる。僕は目をつむり、後頭部をポッドの外壁にこすりつけた。
 やがて重い雲が耐えられなくなったようにぽつり、ぽつりと天から水滴を落としはじめた。それが頬を濡らす。それでも僕はじっとしていた。
 間違いも、愚かさも、今までは全て人のせいにしてきた。することができた。今にして思う。なんと自分は幸福だったのだろう。改めて、自分が本当に望んでいたものが何なのかを思い知らされる。きっと僕は、取り返しのつかない失敗をしてしまったのだろう。
 それでも、と思う。暗闇に包まれた世界の中で、まだ一筋の光明があった。たぶんこれが僕にとって最後のチャンスだ。そしてそれは同時にアイシェにとって最初の機会となるのだろう。
 目を開ける。
 僕は再び走り出した。

   *

 行き先の見当はついていた。
 先ほどの僕の言葉に怒り傷ついて家を出たのならば、そこにいるはずだった。と言うより、きっとそこにいてほしい、とどこかで願っていた。アイシェがそこにいてくれるなら、まだきっと大丈夫だ。そんな根拠の無い思い込みを頼りに僕は走った。
 走れば五分とかからない場所に、アイシェはいた。
 森の中にぽっかりと開いた広いスペース、その向こうには幅の広い大きな崖。岩肌のステージの前に、アイシェは佇んでいた。オルガやノエルと喧嘩をしたときはいつもここに来る、と彼女は言っていた。
 息を切らせて近づいてくる僕を、アイシェはじっと見つめている。何も言ってこない。
 そこで僕は困った。何と言っていいかわからない。会いさえすれば何とかなると思っていたが、そうはいかなかった。黙っていたら何も伝わらない。自分の思っていることをはっきりと言葉にして言わなければならない。そのことは、わかる。
 だが、今まで人の言葉や態度に勝手に傷ついて自分の殻に閉じこもってばかりいた僕には、そういう経験が足りなかった。いつも人から先に声をかけてもらって、それに一人で一喜一憂するだけ。すっとそうやって、周囲に甘えていた。こんなところまで来てそんな己の甘さを思い知る。
 小さな声でも聞こえる、でも手を伸ばしても届かない微妙な距離をあけて僕らは向かい合う。
 雨粒が木々の葉に落ちるかすかな音が、無数に折り重なって深いざわめきをつくる。
 アイシェは身じろぎもせずただ僕を見ている。表情はない。さらに何か厳しいことを言われるのではと恐れているのか、それとも強く何かを期待しているのか、その面持ちから読み取ることはできない。
 焦りに追い立てられるように、口を開く。
「僕は……」
 そこまでで言葉が詰まる。次の言葉が続かなくて頭が真っ白になった。
 アイシェのまっすぐな視線が焦りを助長する。
 胸に詰まったものを吐き出すように、思いつくままをそのまま口にした。
「僕は、最低の人間なんだ」
 違う、と思わず心の中で叫ぶ。
 いつもそう。どうしてそんな口のきき方をしてしまうんだろう、と思うようなことをつい言ってしまう。
 だが、一度開いた口は止まらない。
「僕は本当に、心が狭くて、短気で、わがままで、そのくせプライドだけは高くて、人を馬鹿にしたり、貶したり、そんなことばかりしてきた」
 言葉を偽ることも取り繕うこともできなかった。ただ僕は頭に浮かぶままに言葉をつないだ。
「僕と付き合った人間は必ず僕のことを嫌いになるんだ。僕はいつも周りの人間の気を悪くするようなことしか言わないからね」
 アイシェは相槌も打たず、ただ黙って僕の話を聞いている。視線は僕を見つめたまま動かない。
 掌から今にもこぼれ落ちようとしている最後の機会。だけどそれを押しとどめるのにどうすればいいのかはわからない。だから、喋り続けた。ただ自分のことを。
「だから、逃げてきたんだ。僕がここに来たのは、誰もいないところで、一人で暮らそうと思ったんだ。そうすればもう誰かに不愉快な思いをさせることも、嫌われることもないから」
 夢中になって喋った。
 子供の頃のこと、学生時代のこと。あの西日の射す教室の中でただ何もしないでいた頃のこと、社会に出て、あがいて、壊れかけるまでもがき続けたこと。
 アイシェはやはりじっと僕の話を聞いていた。
「学生の頃、ケイという女の子と付き合った。同じゼミナールの娘だった」
 ケイのすがるような表情が頭に浮かぶ。やや不安そうな面持ちを、隠すように貼り付けた笑顔で彼女はいつも僕を見つめた。
「とてもプライドの高い女の子だった。彼女はいつでも褒め言葉を欲していたよ。可愛いね、とかいい娘だね、とかね。それが嫌で僕は彼女を褒めなかった」
 付き合いが続くにつれ僕の心が離れていくことに気付いたとき、ケイは何かと僕のために尽くすようになった。僕の部屋の掃除や洗濯といった身の回りのことや、研究の下調べの手伝いなど、それらは主に身の回りの細かいことに限られた。僕にはそれが余計不愉快に感じられた。つまらないことをして僕のご機嫌を伺うよりも、彼女自身がもっと自分を高める努力をすべきだろう。その方が正しい、と僕は思ったのだ。僕はますますケイを無視するようになった。
 あの日、ケイは何も言わない僕を問い詰めた。いったい僕は何を望んでいるのか、僕の思っていることを聞かせてくれ、と。
「最後に僕は彼女に言ったんだ。僕はもう君に何も期待していない。君と一緒にいても自分にとっては何も得るものがないから、ってね」
 そう僕が言ったとき、ケイはまるで何か違う生き物を見るような目で僕を見ていた。それだけ僕の言葉は彼女の期待するものとはかけ離れていたのだろう。それを見ながら、しかたがない、と思った。ケイは僕に間違った期待をしていた。彼女の期待に応えることなど最初からできなかったのだ、と思った。
 しかし、今僕はしゃべりながら気付いていた。確かに、ケイはゼミで一番優秀な学生の彼女になりたくて僕と付き合ったのかもしれない。少し自意識過剰な面もあったのだと思う。
 でも、彼女はただ、僕が好きだっただけだ。
 あれほど僕に尽くしたのも、ただ僕が好きで、僕にも彼女を好きになってほしいと願っただけだった。ただ、少女らしい純粋な想いのままに。たったそれだけのこと。そのことが、今ならわかる。
「本当は、そんなことが言いたかったんじゃない」
 僕は怖かったのだ。まっすぐにケイと、そして自分に向きあう勇気がなかった。だから突き放した。
 でも、本当は、僕はケイのことが好きだった。
「あのとき、本当は謝りたかったんだ。ごめんって、言いたかった。でも、それが言えなかった。それで、その代わりに、あんなことを……」
 本当のことが言えなくなって以来、僕は前に進めなくなった。あの西日が射し込む研究室のテーブルについたまま、何年経ってもあそこから一歩も前に進んでいない。
「ひどいだろう。でも僕はそういう人間なんだ」
 アイシェが眉を下げて、そんなことはない、と言いたげに首を振る。
「こんなひどい奴が来ちまって、君にとっては不幸だったろうね」
 再びアイシェが首を横に振る。
 少し喋り疲れて下を向いた。
 あれほどしきりに足元の水溜りの表面を揺らしていた小さな波紋が姿を消している。いつの間にか雨はやんでいた。
 鳥のさえずりが少しずつ周囲に重なり始めた。
 僕は大きく息を吐いた。そして呟く。
「違う、こんなことを言いたいんじゃない。こんなこと言いに来たんじゃない」
 わかったことがある。
 他に誰もいない世界を見た。そこで一人で生きてきた少女と出会った。
 今まで目を背けていたものが少しだけ見えた。わからなかったものが初めて、わかった。
 顔を上げる。彼女を見た。
 一瞬躊躇する。あるいは拒絶されるかもしれない。ためらいが足を重くする。だが、それでもいいと思い直す。
 それ以上アイシェに近づくことを阻んでいた何かは、あれほど自分のことを喋ったことによってどこかに消えてしまっていた。僕は一歩、彼女に近づいた。
 アイシェはわずかに体を硬くしたが、その場を動かなかった。
「僕が言いたいのは、その……何て言うか……」
 再び頭の中を様々な感情があふれてかき乱す。
「それでも、それでも……」
 何も考えるな、ただ、一言だけでいい。
 僕はまっすぐにアイシェを見つめて、言った。
「僕は、ここまで来ました」
 アイシェが目を見開く。
「今、君の、そばに――います」
 ほんの一瞬だったと思う。でも僕にとっては目もくらむような長い時間、アイシェは身じろぎもせず僕を見ていた。
 そしてゆっくりと両の手で口を押さえる。ようやく雲の間から顔を出した陽光が彼女の瞳をきらきらと輝かせた。
 アイシェは一歩、前へと足を踏み出した。手を上げれば触れるほど目と鼻の先に、その細い体を寄せてくる。
 アイシェの両の手が僕の右手をそっと包む。そしてそのまま胸の前へと持ち上げた。
「ずっと、ずっと待ってました。ずっと、ずうっと、です」
 雨ではないしずくが、アイシェの足元の水溜りを揺らす。
 僕の手から感じるアイシェの体温はやや低く感じられた。それが嬉しい。きっと僕の手を彼女は暖かく感じているだろうから。
「ほんとに、ずっと、待ってたんです。ずっと、ずっと……」
 アイシェは鼻をすすりながら、何度もそう繰り返した。
 しだいに温まってくるアイシェの手を握りながら、僕は初めて覚える感情の昂ぶりを噛み締めていた。
 僕がここにいる。たったそれだけのことが、これだけの価値がある。そう思ってくれる人がいる。
 僕にはまだ、できることがある。
 してやれることが、ある。

   *

 遠くを車が走り去る音が聞こえた。それが去っていくと、夜更けの街は再び静寂を取り戻す。時折道端に打ち捨てられたゴミ屑を踏みつける、その乾いた音がやけに大きく響く。
 人々が寝静まっている時間、ただでさえ寒い冬の空気が余計に冷たく感じられる。僕はコートの襟に頬をうずめた。
 交通費をケチって徒歩で職場に通っているのだが、この季節、仕事を終えての道のりはやはり厳しい。車でも買おうかな、と思ってみる。
 だが今の経済状態では、それもただ夢想するだけに終わる。

 EFAAの調査員があの星に来たのは、僕が降り立ってから二年後のことだった。
 彼らによってアイシェは保護され、僕は逮捕された。僕らの身柄は地球へと送られた。
 裁判では元の職場の同僚たちが、僕がノイローゼ状態であったと証言してくれた。長い懲役も覚悟していたのだが、驚くほど軽い罰金刑だけで済んだ。判事の言葉から、その裏にはアイシェが唯一心許す者として彼女の社会復帰を助ける役目を果たせ、という意味合いも含まれていることを知った。
 かつての同僚たちからは、僕は全てを失ったように見えただろう。学歴も、肩書きも、金銭も、信頼も、今の僕には何一つ残されていない。もうEFAAのようなエリート職に戻ることは二度とないだろう。
 実際生活は苦しかった。やっとの思いで見つけた仕事は、ひどい重労働のわりに得られる金額はわずかだった。雇い主は文句があるならいつでも辞めていいと言う。足元を見られているのはくやしかったが、僕は黙ってその仕事をするしかなかった。

 その日も、夜遅くまでこき使われての帰り道だった。
 古いアパートが立ち並ぶ、お世辞にも上等とは言えない住宅街の中を歩く。
 氷点下の気温の中を長い時間歩いたせいで体はすっかり冷え切っていた。つま先の痛みをこらえながら、僕は最後の角を曲がった。
 煤けたこげ茶色のレンガが積み上げられた、僕よりもはるかに年長の建物。その一階に僕の部屋がある。
 かつて二年間過ごしたあの屋敷の豪華な扉とは比べ物にもならないほど貧相な、けれどほのかに温かい木製の扉。その前に立ち、鍵を開ける。
 開いた扉の隙間から明かりが漏れる。暖かい空気が体を包む。
「おかえりなさい」
 明るい声がかけられる。
 寝ずに待っていてくれたのだろう。アイシェが玄関に駆け寄ってきて、笑顔で出迎えてくれる。僕も笑顔で答える。
「ただいま」
 僕らは二人とも、かつて全てを失った経験を持っている。
 けれど、あの星で、僕たちはかけがえのないものを手に入れていた。


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●感想
一言コメント
 ・こんなに人間らしい人間つまり感情移入しやすい主人公に会ったのは初めてです!とても感動できる話でした!
 ・こういうのもあり。
 ・人間が誰しも持つ離人願望、そして希人願望(?)みたいなギャップがすばらしかった。
 ・オルガのなかに確かな『母性』を感じました。
 ・描写がとても丁寧で感情移入しやすく、視点移動も無いため読みやすかった。
 ・主人公に感情移入できて、すごくよかったです。
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