高得点作品掲載所      星宿さん 著作  | トップへ戻る | 


透明少女

一.


 酷く儚げな少女だった。

 それが僕が最初に抱いたその少女の印象だった。
 十四歳という年齢にふさわしく、白いが生気に満ちた張りのある肌。大人になる手前の少女特有の直線と曲線が程よく調和した顔。
 目は少し吊り気味で、顎の線が鋭いので、見る人によっては、きつい印象を受けるかもしれない。
 だが、それにもかかわらず、僕はその少女を見て、ただ儚い、と思った。
 それは多分、僕の心が、その少女の助けを求める声を拾ってしまったからなのだろう。

 僕以外にはけして届かないその声を――。


 
 僕がその少女に出会ったのはその年の初夏だった。
 7月に入ったばかりだというのに人類を焼き尽くすかのように暑い日が続いた。
 3日ほどはクーラーの効いた自室に籠もりっぱなしで何とかしのいでみたが、生憎これ以上立て籠もりを続ける訳にはいかなくなってしまった。
 確認のため、もう一度冷蔵庫を開けてみる。
「卵一個にチーカマ一本か……」
 さすがにこれだけの食料で、二十二歳の男の胃袋を満足させるのは難しいだろう。
 僕は小さくため息を吐き出すと、冷蔵庫を閉め、財布をズボンのポケットにねじ込んで、灼熱地獄へと足を踏み出すことにした。


 何とか近くのスーパーまで自転車を走らせ、買い物を終えた僕は、スーパーで買ったアイスを片手にゆっくりと荷物をカゴに満載させた自転車をこいでいた。
「あ〜、あづい……何でこんなに夏は暑いんだ……いや、夏だから暑いんだな。うん、疑問解決。でも、あづい……」
 とりあえず、少しでも暑さを紛らわせようと、不毛な独り言を呟いてみたが、当然のごとく、ちっとも紛れなかった。
 やはり、暑いものはどうしようが暑いのだ。
 負げずに行きよりも抵抗の増した自転車をこぐ。
「う〜ん……やっぱり車欲しいな……」
 そうである。車という冷房完備のすばらしい夢の乗り物がこの世にはあるのだ。
 僕も一応、運転免許は大学生活時に取っているのだが、こうした買い物以外に使う当てがないのでいささか勿体ない気がして、なかなか手が出ないでいる。
「買っちゃおうかな……でも……やっぱりな〜」
 勿体ない、とは思っているが、金銭的に不自由している訳ではない。いや、むしろ僕は金銭的にはとてもめぐまれているのだ。
 二十二にもなって、暑さを理由に部屋に閉じこもっていられるのも、食材が無くなったからといって、自ら買い出しに出掛けなければいけないのも、そこに理由がある。
 現在、僕の預金通帳には約1億円近い残高がある。
 そのお陰で、働かなくとも、生活に困ることは無いというありがたい境遇にある。もっとも、そのお金を得た理由はちっともありがたくは無かったのだけども。
 結論から言うと、それは保険金なのだ。
 僕のたった二人だけの家族。
 父と母。
 その二人が同時に僕の前から消えてしまい、代わりにそのお金を僕は貰ったのだ。
 ちっともうれしくなかった。
 できることならそのお金と両親をもう一度交換して欲しかった。
 それが一年前。
 僕は惰性で大学に通い、卒業と同時に今の自堕落な生活に突入したのだ。
 他人に会うのが怖い訳じゃないけど、たまにこうして買い物に出掛けるくらいで、ほとんど自宅から出ない生活を送っている。
 こういうのも、ひきこもりというのだろうか?
 考えてみたが、微妙な感じだった。
 ひきこもりにしても、なんだか中途半端な気がする。
「ひきこもり解消のためにも、やっぱり思い切って車買おうかな〜……ん〜……でもな〜」
 どっちつかず。
 優柔不断。
 それ以前にやる気ゼロ。
 つくづく駄目人間だ。
「ま、それでも僕はかまわないけどね」
 ひとりそう呟いて、アイスを口に入れようとしたら、ボチャリと落ちた。
 手にはハズレと書かれた細い木の棒だけが残っている。
 さすがにちょっと落ち込んだ。
 もしかしたら、天国の両親があまりの駄目っぷりに業を煮やしてやったのかも。
 いや、そんなことないか。
 あのふたりなら。
 あの人達はきっと僕の駄目っぷりすら包み込んでしまうんだろうな。
「はぁ……ホントに駄目だな。二十二にもなって親離れもできて無いよ、僕って男は……」
 ため息を吐き出しつつ、自転車のカゴの隙間にハズレの棒を突っ込んだ。
 気分を盛り上げようと、上を向く。
 すると、ひとりの少女と目が合った。
 何故だろう。
 少女はどちらかというと、勝ち気な、そして、存在感に満ちあふれた綺麗な顔をしていたのに、僕はその少女を見て、とても儚いと感じてしまった。
 僕は自転車を停めると、その少女の所に向かった。
 そして、少女を見上げながら声をかけた。
「あぶないぞ〜。猫じゃないんだからそんな所歩くなよ」
 少女は道路に隣接する家の塀を器用に歩いていた。僕の呼びかけによってその足が止まる。
「それに、学校の時間だろう?」
 半ひきこもりが言うセリフじゃないな、と少し自己嫌悪に陥りつつも、僕は言葉を続けた。
 何故かは知らないが、この少女を放っておいてはいけないような気がしたのだ。
「とりあえず、危ないから降りたほうがいいぞ」
 少女は僕の方を見て、わずかに首を傾げた。
 次いで、自分の周りを確認するように見た。勝ち気な顔に困惑の色を混じらせながら、再び僕を見る。
 だが、すぐに首をふるふると振ると僕のことなど無視するかのようにまた塀の上を歩きだした。
「無視かよ! てか、ホントに危ないからやめろ!」
 少女は制服を着ているので、下にいる僕からは、少女が歩くたびに、そのスカートの中身が見えそうになる。そういう意味でも少々危ない。そして、少しばかり期待してしまう自分が悲しい。いや、ホントに駄目人間だな、僕って。
 僕の声に少女が再び足を止め、驚いたように僕の顔を見た。
 そして、眉を八の字にまげ、しばらく考え込むと、僕の言った通り塀から下りてくれた。
 僕に向かって。
 両足を揃えて。
 つまり、少女は僕に塀の上からドロップキックを見舞ったのだ。
 花柄だった。
 いや、そんな所を見ている余裕など僕には無かったのだが、見えてしまったものは仕方が無い。そして、見えてしまったからには、男の性として、悲しいかな、そこから目が離せなくなり、少女の両足は見事なまでに僕の顔面にヒットした。
 そして――。
「ぐえっ!」
 少女はそのまま僕の上にのしかかってきた。
 蛙の潰れたような呻きをあげる僕を無視して、少女は僕に乗ったまま、ぺたぺたと僕の顔を触りだした。
「おい、ありがとう!」
 本音が出た。駄目人間万歳!
「いや、そうじゃなくて、少しはありがとうだけど、いきなり人の顔面にドロップキックかまして謝罪も……」
 少女を叱責しようとした僕の言葉は途中で遮られた。
 少女の涙によって。
 なんだか訳が分からない。
 塀の上を歩く少女を注意したら、いきなりドロップキックをかまされて、今度はその少女がいきなり泣き出した。
 何だろう、この状況。
 神が与えた試練とかなのか?
 状況は皆目見当がつかなかったが、それでも、やることは決まっていた。
 とりあえず、上半身を起こすと、泣いている少女の頭に手を置いた。
「何があったのか、知らないけど、とりあえず落ち着こうか」
 少女は僕の言葉を素直に聞いて、抱き着いてきた。
「ありがとう!」
 またまた本音が出た。
「いやいや、そうじゃなくて、抱き着くんじゃなくて、落ち着いてくれ」
 少女は僕に抱き着いたまま離れようとはしなかった。
 仕方がなく、僕は少女の背に手を回すと、子供をあやすようにポンポン、とその背を軽く叩いてやった。
 しばらくして、少女がようやく泣き止んだ。
 僕は少女を優しく引きはがすと、目線を合わせて少女に尋ねた。
「で、何があったのか、教えてくれるかな?」
 少し吊りぎみの目を僕に向けて、少女は言った。

「私が……見えるんですよね?」

 その真剣な瞳に気圧されて、僕は少女の言葉の意味がよく分からないままに、深く頷いて見せた。



二.


 少女の言葉がうまく理解できずに首を傾げながら考えていると、後ろに人の気配を感じた。
「中西、そこで何やってんだ?」
 振り向くと、親交歴の最も長い友人である大場要(おおば かなめ)が呆れ顔で立っていた。
「お、いいところにきたな。今、ものすごく君を必要としていたところなのだよ、大バカ君」
「大場だ!」
「あー、はいはい。で、大バカ、なめ君」
「おかしな所で切るな! 俺の名前はおおば、かなめだ!」
 非常に面白いので、もう少し大場で遊びたい所だが、今はそれよりも大事なことがある。
 とりあえず、大場もこの状況に巻き込んでおこう。やっかい事は他人になすり付けるに限る。
「なあ、君って、確か妹が欲しかったとか言ってたよな?」
「なんだ、いきなり? ちなみに俺は、んなことは一度も言ってないはずだが」
「何言ってるんだよ。小学校の2年生で初めて顔を合わせた時に、年下のかわいい妹に、毎朝『おにいちゃん、起きて』とか言ってほっぺにちゅーで起こしてもらうのが俺の夢なんだ、って僕に熱く語ってくれてたじゃないか」
「年下のかわいい妹って妹は全部年下だよ。年上は姉だ。それに、俺はどれだけ妹に幻想抱いてる変態男なんだよ。んな妹は二次元世界にしか存在しねーよ!」
 ふむ、今日も大場の突っ込みは絶好調だ。こんなに楽しい男なのに、無職で妹好きの変態だとは。世の中なかなかうまくいかないものだ。
「こら、何いきなり哀れみの目で見られなきゃいけないんだよ」
「いや。気にするなよ。いつか君の元にも、すてきな妹が舞い降りてくれるからさ」
「とりあえず、おまえの頭の中で、俺が、んな重度の妹好きの変態野郎になった経緯を聞かせろ!」
「3日はかかるぞ?」
「そんな深遠な理由があるのか!?」
 僕が大場で楽しく遊んでいると、いきなり襟首を引っ張られた。
 あまりに楽しくてついつい忘れてしまったが、そう言えばもう一人いたんだった。
 僕に乗っかったままの少女は、ものすごく僕を睨んでいた。
「あ、ごめん、ごめん。とりあえず紹介するよ。妹が三度の飯より好きな僕の友人の大バカめ君だ」
「おおば、かなめだ!」
「そうそう、Oh! bakananone君だ」
「なんで横文字!? ていうか、間違いだらけだ!」
「まあ、まあ。あんまり怒るな。もっと牛乳飲め?」
「命令文で問いかけるな!」
 いや、本当に楽しい友人だ。こんなすてきな友人が妹至上主義の変態さんだとは――。
 またまた襟首を引っ張られた。
 なんだか、少女がとても怖い顔をしているので、本当にここらでやめておこうか。
「では、とりあえず、これで僕の親愛なる友人の名前は分かってもらえたと思うけど、君の名前を教えてもらえるかな?」
 少女は、僕を睨みつけたまま、小さな声で自分の名を告げた。
「管乃鏡子(かんの きょうこ)」
「鏡子だって。なあ、おおばこ君の好きそうな名前じゃないか」
 大場を見ると、訝しげな視線を僕に向けていた。
「ん? どうした? ここは、僕の名前は植物か! とか言う突っ込みをいれるべきじゃないのか?」
「てめえ、やっぱりわざと間違えてるんじゃねーか!」
 大場は突っ込み疲れたのか、ため息を吐き出した。
「なあ、それよりおまえ……」
 大場が眉根を寄せて僕に尋ねる。

「一人で何やってるんだ?」

 僕は、首を傾げながら大場の質問を反芻すると、鏡子という名の少女へと向き直る。
 少女の顔からは怒りの表情が消えていた。
「さっきから見てたけど、おまえ、一人で塀に話しかけたり、いきなりぶっ倒れたり、かと思えば、一人で突然叫んだり……もしかして――」
 大場が「一人」を連呼し、そして――決定的な言葉を口にした。

「そこに誰かいるのか?」

 少女は何も言わず、泣きそうな顔のまま、きつく唇を噛み締めていた。



三.


 その後、適当にごまかした後、大場と別れ、僕は再び家に向けて足を動かすことにした。
 ただし、自転車には乗らずに徒歩で自転車を押しながら。後ろにぴったりと先程の少女が付いてきているので仕方がない。
 なんとなくしゃべりづらいので横に来るように言ったのだが、それは危ないから出来ないと拒否された。
 人間は、見えるものであれば避けてくれるが、見えないものは避けてくれない。まあ、当然と言えば当然だが。
 先程、塀の上を歩いていたのも安全のためであったらしい。
「で、どういうことか、ちょっと説明して欲しいんだけど」
 後ろを振り向かず、歩きながら少女に尋ねる。
「……ごめんなさい」
「いや、謝られても僕も困るし。君は、幽霊って訳じゃ……ないんだよね?」
 その可能性もちらと考えたが、幽霊が自分の身の安全を心配するのも変な話なので却下した。
 あとは、この少女が大場と共謀して僕にドッキリを仕掛けているという可能性も考えたが、大場の脳を構成するニューロンは、一般の人間と比べて十分の一位の数しかない。そんな大場にここまで手の込んだ仕掛けをするのは難しそうなので、これも却下した。
「え〜と、見えるのは僕だけ?」
 後ろで少女が小さく「はい」と呟く。
「体質……みたいなものなのかな?」
 少女の返事はない。
 もしかしたら、自分でもよく分かっていないのかもしれない。
 とりあえず、質問を続けようとしたら、後ろから「ぐぅ」という音が聞こえて来た。
 立ち止まり後ろを振り返る。
 少女は耳まで真っ赤にして恥ずかしそうに俯いていた。
「お腹減ってるの?」
 少女はしばらく赤い顔で逡巡した後、小さく首を縦に振った。
「これからお昼ごはん作る所だけど、よかったら、食べる?」
 瞬間、少女の顔が喜びにきらめいた。少女は顔を赤らめたまま、食欲には勝てないのか、元気良く「はいっ」と返事をした。
「じゃあ、質問は食べた後にするから、後ろ乗って」
 僕は、自転車にまたがり、少女を後ろに乗せると、夏の太陽に灼かれながらも、少女の腹を満たしてやるために全力でペダルをこいだ。


 パックン、もぐもぐ。
 パックン、もぐもぐ。
 目の前の少女の嬉しそうに食べる姿を見て、僕は思わず微笑んだ。少女には悪いが、なんだか、小動物に餌をやる気分だ。 
「で、そろそろ本題に入ってもいいかな?」
 無言でチャーハンを口に運び続けていた少女は、少し顔を赤く染めながら頷いた。
 少女の前に置かれた皿は、きれいに空になっている。
「まず、自己紹介からいこうか。僕の名前は中西亮平(なかにし りょうへい)。年は二十二。今年の春、大学を卒業したばっかで、現在の職業は……無職。ま、こんなところ。他に聞きたいことある?」
 少女は無言で一点を見つめていた。
「……えと、どうぞ」
 自分の分のチャーハンが盛られた皿を差し出すと、少女は真っ赤になりながらも、素直にそれを受け取り、またもぐもぐと食べ始めた。よほどお腹が空いていたらしい。この分では僕の話もほとんど聞いて無かったんだろうな、と考えながら、僕は再び目の前の小動物の食事を観察することにした。


「あの、本当にすみませんでした」
 顔を真っ赤に染めながら、少女がぺこぺこと頭を下げる。
「いいよ。どうせそれほどお腹も減ってなかったし、こうして誰かとご飯を食べるのも久しぶりだから、楽しかったし」
 少女がようやく顔を上げた。
「あの……亮平……さんは、おひとりなんですか?」
 少女が部屋を見渡しながら聞いてきた。
 名前を呼んでくれたということは、一応、先程の自己紹介は聞いてもらえていたらしい。
「うん、ひとり」
 少女が不思議そうに首を傾げる。
 確かに一軒家に二十二歳の無職の男が一人で住んでいるというのはおかしな話なのかもしれない。
「といっても、一年前からなんだけどさ。両親と一緒に住んでたんだけど、交通事故で二人とも死んじゃったから」
 努めて明るい声で言ったつもりだが、それでも少女は悪いことを聞いてしまったように、小さな声で「ごめんなさい」と言った。
「いいよ、気にしなくても。さすがに一年もたてば悲しくもないしね」
 嘘だった。
 本当は一年もたっているのに、いまだに両親の死を引きずり続けている駄目人間なのだ、僕は。
 でも、そんなことで少女に平然と負担をかけるほど、落ちぶれてもいない。
「それより、今度は君……えーと、鏡子ちゃんのことを教えてくれないかな?」
 鏡子は素直に頷くと、自分の素性と、そして、自分の身に起きた不可思議な現象について語り始めた。


 鏡子の話によると、彼女は十四歳の中学二年生。一人っ子で、両親とも健在。
 裕福ではないが、かといって、貧乏でもない、ごくごく普通の、それなりにあったかい家庭だったそうだ。無論、それは彼女がこうなる前の話ではあるが。
 最初に異変が起きたのは、3カ月ほど前のことだったらしい。
 新しい学年が始まったばかりで見知らぬ人間が多かったが、それでも、数人、仲の良い友人もいたので、少々ほっとしていた。
 彼女は嬉々として友人たちに話しかけた。
 だが、そんな彼女に対する友人の反応は驚くものだった。
 誰ひとりとして、彼女のことを覚えていなかったのだ。
 ショックを受けながらも、必死に説明すると、友人たちは彼女のことをようやく思い出してくれた。そして、忘れてしまっていたことに対して、心から謝罪をしてくれたという。
 自分の存在感の薄さにショックを受けながらも、一応、友人たちの謝罪を受け、その場はなんとか気を取り直した。
 だが、それはほんの始まりに過ぎなかったことを、後に彼女は思い知ることになった。
 出席を取る時、なぜか、よく自分の名前を飛ばされることがあった。
 国語の時間、朗読で、自分の順番が回って来たのに、自分を飛び越して後ろの人が指名を受けた。
 昼食時、友人たちとの楽しい会話に、時々、自分の存在を忘れられた。
 そんなことが頻繁に起きた。
 いじめではないかと思ったりもしたが、それにしては周囲の人間に悪意が無さ過ぎた。
 戸惑いと違和感は次第に大きくなっていった。
 一体自分に何が起こっているんだろうと真剣に悩み始めた。
 だが、たかだか中学二年生の自分に答えが出せるはずもなく、意を決し、両親に打ち明けたと言う。
 両親は激怒した。
 すぐさま学校に乗り込み、校長と担任を呼び出して、怒気を迸らせながら怒鳴りつけた。
 次の日、気の弱そうな担任は、申し訳無さそうにしっかりと自分の名前を読み上げてくれた。
 だが、それも3日で終わった。
 4日目には担任は自分の存在を忘れた。
 もう、それを責めようとは思わなかった。
 その時はまだ、友人たちは、ごくたまに自分の存在を思い出してくれたが、それ以外のクラスメイトには、完全に自分の存在を忘れられていた。しばらくすると、友人たちもまた、自分の存在を完全に忘れてしまった。
 もう、学校では、誰ひとりとして、自分のことを覚えている者はいなくなった。
 つらくはあったが、もう両親には何も言わなかったと言う。
 言っても無駄であることが分かっていたからだ。
 ここまでくれば、これが単なるいじめなどではないことくらいは、彼女にも十分すぎるほど理解出来た。
 それでも、彼女は学校に通い続けた。
 誰にも話しかけてもらえないのは辛かったが、いつかは、この不可思議な現象も終わってくれると信じて。
 それからしばらくして、状況に変化が訪れた。だが、その変化は、彼女が期待したものとは正反対のものだった。
 学校で、よく人にぶつかるようになった。
 廊下ですれ違う人間が、全く自分を避けようとしてくれないのだ。
 まるで――自分の姿が見えていないとでも言うかのように。
 彼女は学校に通うのをあきらめた。
 さすがに耐えられなかった。
 それに、彼女にとって外の世界は危険だった。
 人間とぶつかるのならばまだいいが、自転車、そして車とぶつかれば、ただでは済まない。そして、もし大ケガをしても、自分の姿を認識できない医者には治療行為は期待できないのだ。
 当然のように彼女は家に引きこもった。
 もう、自分を認識してくれるのは両親だけだった。
 優しい両親を支えに、彼女は事態の好転を切実なほどに願いながら過ごした。
 だが、状況はまた悪い方に進んでしまった。
 ある日の夕食。食卓に彼女の分の食事がなかった。
 呆然とした彼女が席について、初めてそれに気づいた母親は、床に頭を擦り付ける勢いで謝ったと言う。
 変化は止まらなかった。
 両親から、彼女にかけられる言葉は次第に少なくなり、ゆっくりと忘れられていった。
 そして、ついに他の人と同様、両親までもが自分の姿を捉えることができなくなった。
 肩をつかんで激しく揺すったり、思い切り抱き着いたりしてみたのだが、両親は自分と目を合わすことすらせずに、ただ、不思議そうに首を傾げるだけだった。
 そんな状況に耐え切れなくなって、昨日、ついに彼女は家を飛び出したのだそうだ。
 もう、どこにも彼女の居場所など無いと分かっていたが、それでも何かにすがりたくて、久しぶりに制服に袖を通し、学校に行ってみたらしい。
 人にぶつからないように気を付けて、自分のクラスに足を踏み入れると、もう、そこに彼女の机は無かった。
 入り口で思わず立ち止まってしまった彼女に、後ろから誰かがぶつかった。
 よろけながらもなんとか踏みとどまり、後ろを振り返った。
 友人がいた。
 友人は不思議そうに首を傾げていた。
 そして、彼女の方をじっと見ながらこう言ったのだ。

「おかしいな……誰もいないのに」

 彼女は友人を押し飛ばし、教室を、学校を、飛び出した。
 どこにも行く当てなど無かったが、止まり続けるには胸が痛すぎた。
 涙を流しながらどこともなく歩き回り、夜になっても家に戻らず、昨夜は公園のベンチで寝たそうだ。
 若い娘が公園のベンチで寝るなど信じられないことではあるが、彼女の場合は間違いも起こしようがない。
 そうして公園のベンチで一夜を明かした後、また、行く当てもなくふらふらと歩き回っていたところを、僕に声をかけられたということだ。
 最初は、どうせ勘違いだろうと思ったらしい。
 だが、通り過ぎようとして、もう一度声をかけられた。
 彼女はそれでも信じられなかった。
 単なる独り言かもしれない。それにしては声が大きかったが。
 だが、もし声を返して自分の勘違いだったら、今度こそ胸の痛みで押し潰されてしまうかもしれない。
 しばらく考えた後、彼女は勇気をもって決断した。


「ドロップキックをかまして様子を見よう、と?」

 鏡子が申し訳無さそうにコクリと頷いた。
「もし、勘違いだったとしても、少しはすっきりするから、と?」
「本当に……すみませんでした」
 鏡子がより萎縮しながら、消え入りそうな声で謝罪する。
「あ〜、もういいよ。綺麗なお花畑も見れたし」
 瞬間、鏡子の顔が真っ赤に染まりスカートを手で押さえた。いまさら押さえたところで僕の記憶が消えるわけじゃないのに。
「スカートでドロップキックはされたのは初めてだけど、すてきな青春の1ページになったよ」
「そんなページいますぐ破り捨ててください!」
「無理」
 即答したら、鏡子がテーブルに顔を伏せた。
「うぅ……私のばか。なんで、よりによってドロップキックなんかしたのよ……」
 いや、それはぜひとも僕も知りたいところだ。普通、女子中学生がドロップキックなんて発想は、なかなか浮かんでこないと思うのだが。
「……せめてヒップアタックなら――」
「幸せそうだね」
「……せめてヘッドロックなら――」
「ちょっと物足りないかも」
 鏡子がいきなり顔を上げた。
「どうせ胸なんかないですよ!」
「いやいや、それより、何でさっきからプロレス技ばっかなんだい?」
「他人に趣味をどうこう言われる筋合いはないです!」
 怒られてしまった。
 ドロップキックをかまされて、筋合いがないと言われるのは少しばかり心外ではあるが、どうも、彼女は少々怒りっぽい性格のようである。
「あんまり怒ると美容に良くないぞ。牛乳飲むか?」
 僕がそう言うと、彼女はしばらく自分の胸を凝視した後、「飲む」と短く答えた。
 どうやら、彼女が摂取したいのはカルシウム分ではないらしい。
 冷蔵庫から牛乳をとりだして、コップに注ぎ、彼女に渡すと、彼女はそれを一息に飲み干した。
 コップを置き、再び自分の胸を見る。
「いやいや、牛乳にそんな劇的な効果があったら、世の中は巨乳のお姉さんで溢れかえってるよ」
 彼女ははっと顔を上げると、またまた僕を睨みつけてきた。
 いやいや、君の胸が小さいのは僕のせいじゃないんだけどね。そう思ったけど、言葉にするとさらに火に油を注ぐ結果になりそうなので心の中で呟くだけにしておいた。
 それに、こう言う不毛な会話も楽しいのだが、そろそろ本題に戻った方がいいだろう。
「で、君はこれからどうするつもりなの?」
 鏡子の顔から怒りが消えた。
 そして、縋るような瞳で、僕の予想通りの言葉を口にした。

「何でもしますから……ここに置いてくれませんか?」



四.


 予想通りの展開にため息を吐く。
 まあ、多分こうなるとは思ってはいた。
 僕以外、自分の姿が見える人間がいないのだ。縋り付きたくなるのも無理は無い。
 だが、そうかと言って素直に了承するわけにもいかない。
「よく考えて。君は女で、僕は男。これがどういうことかって事くらいは分かるよね?」
 たとえ8才の年の差があったとしても、何かの拍子に間違いが起きないとも限らない。そこまで自分の理性を信用できるほど、僕はできた人間ではないのだ。
「……分かってます。でも……あの家にはもう、戻りたくない。だから、もし亮平さんが望むなら……」
 最後はかすれるような声だった。
 そこまでの覚悟があるなら、もう、それ以上は言わなくてもいい。
「心配しないで、僕はババ専だから。五十を越えた女の人じゃないと反応しないから」
 鏡子がガタリと椅子を鳴らして身を引いた。
「いや、冗談。そこまで引かれるとは思わなかったよ」
 鏡子が椅子を直しながら、ほっと息を吐き出した。
 僕としては、一応、気を使ったつもりなのだが、彼女には通じなかったらしい。
「そうじゃなくて、実はホモ。さっきの大場が一応、僕の彼氏なんだ」
 鏡子が瞳を輝かせながら身を乗り出してきた。
「嘘だよ」
 鏡子が落胆したようにうなだれる。
 一体、彼女は僕と大場に何を期待したのだろうか?
「本当はロリコンなんだ。それも重度の。女は10才までと心に固く誓いを立てた身だから」
 鏡子は「やっぱり」とでも言うように、僕に憐憫の視線をおくってきた。
 ちょっと、と言うかかなりショックだった。どうやら他人の目から見ると、僕はそういう危ない男として映るらしい。これからは、なるべく子供には近づかないようにしよう。
「まあ、そういう冗談はさておき」
 鏡子が驚きの顔を浮かべる。
 どうやら本気で僕のことを幼児性愛者だと信じていたらしい。
「一応、僕は健康な成人男子として、ごく普通の性欲を持っているつもりだよ。君はかわいいけど……」
 かわいいと言う言葉に反応して鏡子の頬がわずかに染まる。こう言う反応もまた初々しくてかわいいと思ってしまう。
「性欲の対象にするにはちょっと年が離れ過ぎてると思う。……でも油断はしないでね。一緒に暮らすとなれば、そういうのを……感じないとも限らないし。そういう時は場に流されずにしっかり拒否してほしい。そうすれば……多分、無理やりにまでは襲わないと思うから」
 こういうことは最初にしっかりと言っておいた方がいいだろう。そうすれば、彼女はもちろんのこと、僕自身にも戒めの効果がある。いくら駄目人間だとしても、人の弱みに付け込むような卑劣なまねだけはしたくない。駄目人間のポリシーだ。
「じゃあ……」
 彼女を拒絶する理由など僕の方には無い。
「うん。これも何かの縁だし、こんなところでよければいつまででも居てくれてかまわないよ」
 鏡子は飛び上がるように立ち上がると、僕に抱き着いてきた。
「ありがとうございます! 本当に何でもしますからね!」
 いや、ちょっと、さっきの今で申し訳ないけど、腕に少し柔らかいものが当たってるんですが。
「ではお願いします! 僕と一緒にお風呂に入ってください!」
「それは断固拒否します!」
 早速、僕の言葉が功を奏しているようだった。


 シャワーの音がかすかに聞こえてくる。
「こういう音って妙に想像をかきたてられて健康に悪い気がするな……」
 僕は居間で一人でテレビを見ているのだが、どうも浴室から聞こえてくるかすかな音が気になって仕方がない。
 お腹を満たした鏡子の、次なる要求はお風呂だった。
 彼女も年頃の女の子。いくら他人に見えないとは言え、丸一日お風呂に入れなくて、気持ちが悪くて仕方がなかったらしい。この辺の気持ちは男の僕には分からない。
 これ以上聞き続けると本当に変な気分になってしまいそうなので、テレビの音量を上げた。シャワーの音はいかつい顔でニュースを読み上げる男のアナウンサーの声に完全に打ち消された。


「すっきりしました」
 頬を上気させながら風呂から上がった鏡子が顔を出した。
 その姿に僕はなぜだか、懐かしい思いがした。
「あ、これもありがとうございました」
 鏡子がそう言って、服の裾をつかんだ。
 そうだった。着替えを持っていないので、母のタンスから好きな物を選ばせていたのだ。懐かしく思うのは当たり前だろう。
「ババ臭くて悪いけど、我慢してね」
 さすがに十四の娘が四十を過ぎた母の服を着るのは抵抗があるだろうとは思ったのだが、まさか、僕の服を着てもらう訳にもいかないので、こればかりは我慢してもらうしかない。
 だが、鏡子はぷるぷると首を横に振った。
「そんなことないです。うちの母のは派手な物が多くてとても着れたものじゃないんですけど、亮平さんのお母さんの服は落ち着いた色の物が多くて、私もそういう服の方が好きなので全然抵抗無く着れちゃいましたよ」
 おそらく本心から言ってくれているのだろう、邪気のない笑顔で鏡子が言った。天国の母も少しは喜んでくれているに違い無い。
「ありがとう。そう言ってもらえると嬉しいよ」
 鏡子がにこにこしながら、僕の向かいに腰を下ろした。
「亮平さんはお母さん思いなんですね」
「うん、まあね。マザコンって訳じゃないけど、母親だけじゃなくて、父親とも仲が良かったから。なんて言うか、最強の両親だったよ」
 生前の両親の姿を思い出して顔が緩んだ。
 そんな僕の顔を鏡子が不思議そうに眺める。
「最強……ですか?」
「うん、最強。僕の知るかぎりではね」
「どういう技をお使いに?」
 鏡子が真剣な顔で尋ねてきた。
 どうやら、彼女は最強という言葉をそういう意味で受け取ったらしい。だが、生憎うちの両親は夫婦でリングに上がるような人種ではなかった。
「違うよ、そうじゃなくて、なんて言うかな……肉体的な最強って意味じゃなくて、精神的にって話だよ。二人とも結構華奢だったから、そういう方面ではからっきしだったと思うよ」
 鏡子は納得いかない様子で首を捻っている。
「父親は、ものすごく真面目なひと。母親は、ものすごく陽気なひと」
 鏡子がますます分からないと言った視線をこちらに向けてくる。
 僕は苦笑しながら、父と母に関するエピソードを語ることにした。
「まず、僕の父親はとにかく真面目なんだ。何をするにも全力でね、妥協が嫌いな人なんだ。そういう人は、仕事一途で家庭を顧みない人が多かったりするんだけど……うちの父親はね、家族に対する愛情にも少しも妥協しなかった人なんだ。例えばね、昔、僕が父親の大事にしていた植木鉢を壊してしまったことがあるんだけど」
「お父さんは、盆栽が趣味だったんですか?」
「うん、ちょっと年寄り臭い趣味だけど、あの人には似合ってたと思うよ。で、その植木鉢を壊してしまったんだ。それは父親が一番大切にしていたものだったからね。僕は怒られるのが怖くて、隠そうと思ったんだ。でも、まだ小さかったから、どこに隠そうかと悩んでたら、いつの間にか父親がね、僕の横で、スコップで穴を掘ってた。一瞬、埋められるんじゃないかと、ちびりそうになったよ。……でも、父親は穴を堀り終わると、壊れた植木鉢をその穴の中にほうり込んで埋めてしまったんだ。それで、僕に向かってこう言ったんだよ。『こうしてしまえば見つからないから大丈夫だ』ってね。そう言って笑うんだよ。もう、僕は素直に謝ることしかできなかったよ」
 当時を思い出して苦笑する。もっとうまいごまかし方もあっただろうが、それでも父親が自分を心から愛してくれているのだということは十分すぎるほど伝わってきた。
「母親の方はね、とにかく陽気で明るい人だった。昔、僕が友達と喧嘩しちゃってね、それで落ち込んで、母親に相談したことがあったんだけど、話をしてる最中に母親がどこかに出掛けてしまったんだ。どこに行ったんだろうって思ってたらね、その喧嘩した子供を肩車しながら戻ってきたんだよ。で、無理やりその子も座らせて、テーブルを囲んで言ったんだ。『ちょっと親御さんに言って借りてきたわ。さあ、存分に仲直りしなさい』ってね。僕は喧嘩したその子と目を合わせて、一緒に笑うしか無かったよ」
 強引だけど、人を無理にでも笑わせてしまう母のことを、僕は尊敬していた。
 嘘でも誇張でも無く、僕にとって両親は本当に最強の存在だった。
 だから、その二人が突然いなくなるなんて事は考えてもいなかったのだ。



五.


「素敵な人達だったんですね……」
 僕の話を聞いて笑みを浮かべる鏡子に、僕は頷いて見せた。
「そう言われると少し恥ずかしいけど、でも、息子の僕から見てもあの人たちは本当に素敵な人間だったよ」
 過去形だ。何だか少しせつなくなってしまった。
「さあ、僕の両親の話はこれでおしまい。それより、これから共同生活をすることになるんだけど、いろいろルールを決めておこうか?」
 突然の方向転換に戸惑いながらも、鏡子はコクリと頷いた。
「うん。こういうのはしっかりしておかないと、後々気まずい思いをするものだから。そういう訳で、なにかある?」
 しばらく考え込んだ後、鏡子が口を開いた。
「あの、私は居候な訳ですし、私にできることであれば何でもしますから、遠慮なく言ってください」
 殊勝な心掛けだが、すべてを任せきりにするということは、僕の駄目人間度をより高めることにもつながるので、できれば自分の事は自分でやりたい。
「う〜ん、申し出はありがたいけど、それだとこっちが気を使っちゃうから。……そうだね、家事は分担制か、順番でこなして行くことにしようか?」
 鏡子が決意に満ちた瞳でコクリと頷く。いや、そこまで家事に気合をいれなくてもいいんだけど。
「あとは、そうだね、お互いの部屋に入る時はノックを必ずする。君の部屋は……そうだな、両親の部屋か、じゃなきゃ物置に使ってる部屋か、どれでも好きな部屋を使ってくれればいいから。どれも似たような広さだから、後で自分で見て選んでくれればいいよ」
 鏡子の顔がパッと明るくなった。
「いいんですか? 私、居候なのに」
「いや、どうせ使って無い部屋なんだから、遠慮なく有効活用してよ」
「ありがとうございます! じゃあ、お母さんの部屋でもいいですか?」
 そういえば、母の部屋だけは、先程着替えをもってくる時に見ていたのだった。
「うん、君が嫌じゃ無ければね。あの人、娘がほしいとか言ってたから、君が使ってくれるときっと喜ぶよ」
 鏡子がはちきれんばかりの笑みを浮かべながら、再び礼を言った。
「さ、部屋は決まったとして、他に何か言っておきたいこととかない? 遠慮されるとこっちも困るからね?」
 鏡子がまた首を捻りながら考え出した。
「例えば、お風呂は覗かないでほしいとか」
「当たり前です!」
 怒られた。
「例えば、トイレは覗かないでほしいとか」
「それも当然です!」
 またまた怒られた。
「いやいや、そうは言いますが、個人の常識というのは、えてして世界の非常識とイコールの関係だったりすることもあるのですよ」
「どこの国にも、お風呂を覗いたり、トイレを覗いたりする習慣なんかありません!」
 切って捨てられた。いやいやお嬢さん。そうは言いますが、世界の一部の人間には、そういう習慣をもっている輩もいたりするんですよ、これが。
「まあ、それはともかく、何でもいいからさ、考えておいてよ。ルールとか堅苦しく考えなくてもいいから、こういうのは嫌だ、とかさ。何か思いついたら遠慮なく言ってよ」
「はい。じゃあ、頑張って考えてみます!」
「うん。それじゃあ、次に……学校のことなんだけど――」
「嫌です! 絶対にあそこには行きたくないです!」
 ほとんど絶叫するように鏡子が叫んだ。
 よほど学校でのことがトラウマになっているに違い無い。
 彼女の警戒を解くために、軽く笑みながら言葉を続ける。
「勘違いしないで。なにも学校に行けって言ってる訳じゃないんだよ。ただ、いつか、この状況から抜け出した時、勉強ができなくて置いていかれるのも嫌だろ?」
「元に……戻ると思いますか?」
 鏡子の問いに、僕はしばらく考え込んだ。ここで安易に大丈夫だなどと言うのも無責任すぎる気がする。
「悪いけど、僕には分からない。でも、その可能性が無いかと言われると、それも肯定はできないんだ。だから、やれるべきことがあるならやっておくべきだと僕は思うんだ」
 鏡子は顔を伏せながらも頷いた。
「それで、僕は3流ながらも大学を出てる身だから、中学生くらいだったら何とか勉強も見れると思うし、時間を決めて、ここで勉強しよう」
「……ごめんなさい」
 鏡子がポツリと呟くように言う。
「わがまま言って……でも、どうしても学校には……」
 僕は鏡子の頭に手を乗せるとポンポンと優しく叩いた。
「仕方が無いよ。君はそれだけつらい思いをしたんだし。それに、僕はどうせ一日家にいるだけでやることも無いしさ」
 突然、鏡子が僕に深々と頭を下げた。
「ありがとうございます。私、頑張りますから、よろしくお願いします」
「なんだか……急にかしこまったり、怒ってみたり、君はなかなかおもしろい娘だね」
 僕が吹き出しながらそう言うと、鏡子は顔を上げて、膨れっ面で僕を睨んできた。
「それを言うなら、亮平さんもです。ふざけてるかと思えば、急に真面目な話をしたり」
 反論はしない。彼女の言うとおりだから。僕は基本的には駄目人間であるが、性格的には父と母の、それぞれの遺伝子を半分ずつ受け継いでいるのだ。当たり前と言えば当たり前なのかもしれない。
「まあ、出来るだけ僕も頑張ってみるよ。でも、基本的に駄目人間だから、過度の期待はしないようにね」
 僕の言葉を聞いて、鏡子はふるふると首を横に振った。そして、口を尖らせながら言う。
「亮平さんは駄目人間なんかじゃないです! 見ず知らずの私にこんなに親切にしてくれる人が駄目人間のはずないじゃないですか!」
 果たして、褒められているのだろうか、怒られているのだろうか?
 まあ、この場合は両方かな。
 苦笑を漏らしながら、僕は鏡子に礼を言った。



六.


 翌日、僕達は鏡子の自宅を訪れた。
 教科書などを取りに行くためだ。
 僕としては、そんな物は新たに買えばいいから気にするなと言ったのだが、鏡子の方が勿体ないから、と頑として折れず、仕方なく彼女を後ろに乗せて自転車でここまできたという次第である。
 それほど大きくないごく普通の2階建の住宅。怪しまれないように、その家の門から少しはなれたところに自転車を停める。
「本当に大丈夫?」
「はい。この時間だとお母さんしかいないはずですし、部屋に直行して、荷物をまとめたらすぐに出てきますから大丈夫です」
 鏡子は笑顔でそう言ったが、その笑顔が無理して作られた物であることは明らかだった。
「わかった。じゃあ、待ってるから」
 本当は引き留めたかったが、ここまで来たら彼女も引けないだろう。
「じゃあ、行って来ます」
 意を決した鏡子が玄関の前まで進み、ドアを開けようとしたところで、想定外の出来事が起こった。
 ドアが内側から開いたのだ。
 鏡子があわてて後ろに下がると、中から、派手なヒョウ柄のジャージに身を包んだ三十半ばほどの美しい顔をした女性が出て来た。一目見ただけで、その女性が鏡子の母親だと分かった。それくらいに鏡子は母親似だった。
「おはよう」
 鏡子が母親に話しかける。
 だが、母親はそれが全く聞こえていないかのように無反応だ。母親は、鏡子の存在を無視したまま、ドアの横にある郵便受けから新聞を取り出すと、バタンと扉を閉め家の中に消えてしまった。
 しばらくして、鏡子が崩れ落ちるようにその場にしゃがみこんだ。僕は急いで鏡子に駆け寄ると、その華奢な体を抱き締めた。
「大丈夫、僕は見えてるから」
 鏡子は答えず、ただ僕の胸に顔をうずめて静かに嗚咽を漏らしながら泣いた。


 その後、しばらくして鏡子が泣き止むと、僕は鏡子を連れて家に帰ることを選択した。
 その決定を鏡子に告げる。
「あの、大丈夫ですから。……だから」
「大丈夫じゃない。無理はしちゃ駄目だ。ここは嫌でも僕の言うことを聞いてもらうからね」
 鏡子の腕を引き立ち上がらせた。そして、自転車に戻ろうとしたところで、再びドアが開いた。
「あら、何か用かしら?」
 外から声がするので覗いて見たのだろう。鏡子の母親は、若干胡乱げな視線を僕に向けていた。
 鏡子が僕の腕を痛いくらいに掴む。
 その腕に、空いている方の腕を優しく乗せてやる。
 もちろん、鏡子の母親には娘の姿は見えて無いので、奇怪な動きをする青年としか映らないだろうけど、仕方が無い。
「うちに何か御用?」
 僕は震える鏡子の手を優しく摩ると、意を決し、口を開いた。
「突然の訪問、お許しください」
 鏡子が驚いて顔を上げる。僕は彼女に笑みを見せると、鏡子の母親に向かって話しかけた。
「実は、僕、少し特別な力があって――」
 鏡子の母親の目が変わった。僕をそういう人間だと判断したようだ。すぐさま僕の言葉に割って入るように口を開く。
「申し訳ありませんが、うちはそう言うのは――」
 だが、そう言われることくらい想定済みだ。断りの言葉を最後まで言わせず、僕は畳み掛けるように言葉を続ける。
「宗教の勧誘とか、何か買ってほしいとかじゃ無いんです。ただ、見えちゃったものですから、このまま通り過ぎるのもどうかな、と思いまして」
 鏡子の母親の疑惑の目に揺らぎが走る。
「でも、突然こんなこと言われても絶対信じてもらえないだろうから、どうしようか迷っていたんです。あの、せっかくこうして出て来ていただいたのですから、お話だけさせていただく訳にはいきませんでしょうか?」
 出来るだけ丁寧に、そして、あくまで決定権が向こうにあるように。
「もちろん、信じていただかなくても結構なのでお話だけでも聞いてください。お願いします」
 深々と頭を下げる。
「やだ、頭を上げてください。お話くらい聞きますから」
 落ちた。
 後は、うまく話を進めれば、契約は取ったもどうぜ――って、いやいや、待て待て僕。そうじゃないだろう。
 なんだか、自分の意外な才能を見てしまった。
 詐欺師になるつもりは毛頭ないが、駄目人間度はさらに上がった気がする。
「こんなところでは何ですから、どうぞ上がってください」
 見ず知らずの若い男をこうも簡単に家に上げるとは、少しばかり警戒心が薄いのではないだろうか。ともかく、鏡子がこの状態では家に上がる訳にもいかないだろう。
「いえ、すぐに話は済みますので。では、早速本題に入りますけど、最近何かを無くしたようなことはありませんか?」
 鏡子の母が首を捻りながら考える。こういう仕草をされると、ほんとに鏡子にそっくりだと思う。
「とくに……思い当たるようなものはありません。けど……」
 鏡子の母親が言い淀む。何か言おうかと迷っている様子だ。
「何か大切な物を無くされているはずなんですが、思い出せませんか?」
 思い当たるものは無いか、とは問わない。確実に彼女は大切な物を無くしているのだから。それがこんなに近くにあるというのに、気付けないでいる。
「そう言われると、最近、何かが抜け落ちてしまったような気がしてるんです。それが何かを考えても、ちっとも分からなくて…
…お分かりになります?」
 当たり、だ。
 いくら存在を忘れてしまったとしても、喪失感は残る。
 原因は分からないが、皆、鏡子に関する記憶のピースが抜け落ちた状態になっているのだ。他人であれば、その抜け落ちた穴は小さくて気付きもしないかもしれない。
 だが、彼女は違う。鏡子が生まれてからずっと一緒に暮らしてきたのだ。彼女から抜け落ちた鏡子に関する記憶のかけらは、とても大きな穴を残しているはずなのだ。その穴が埋められていないなら、当然ながら違和感を、そして大きな喪失感を感じているはずなのだ。
「やっぱり。……でも、申し訳ないんですが、僕には無くした物が何であるかまでは分かりません。ただ、無くした事実しか見えないものですから」
「そうなんですか……」
 鏡子の母親が僅かに落胆の色を見せる。
「ただ――」
「ただ?」
 鏡子の母は真剣な瞳でこちらを見ている。もし、今ここで、怪しげな壷を売り付けたとしても、彼女は喜んで買うに違い無い。もちろん、そんなことはしないけど。
「失せ物によく効くおまじないを知っているんです。それをあなたにお教えしますので、毎日一回は唱えるようにしてください」
「そんなので……本当に見つかるんでしょうか?」
 心配そうに問う鏡子の母親に、にっこりとほほ笑みながら僕は言った。
「キョウコ、アイシテル。これがおまじないの言葉です。騙されたと思って言ってみてくれませんか?」
 鏡子の母は神妙な顔で、その言葉を口にした。
「キョウコ、アイシテル」
 言い終わると同時に、鏡子の母の顔が穏やかに笑んだ。
「なんだか、不思議だわ。……とっても落ち着く。ねえ、これを毎日唱えてれば、いつか無くしたものが見つかるかしら?」
「ええ、きっと……。時間はかかるかも知れませんが、きっと思い出せます。あなたがそれを思い出せば、すぐに大事なものは戻ってきますから」
「そう、ふふっ。キョウコ、アイシテル……。なんだか気に入っちゃったわ」
「それは良かったです。それじゃあ、用も済んだので、僕は失礼しますね」
 僕は泣いている鏡子を立ち上がらせると、鏡子の母親に一礼して、踵を返した。
「あ、待って。何かお礼をしたいのだけど」
 僕は振り返ると、笑顔でそれを固辞した。
「お礼はいりません。でも、そうですね。ひとつお願いがあります」
 鏡子の母親が、何かしら、とでも言うように首を傾げる。
「おそらく、旦那さんも奥さんと同じような想いを抱いているはずです。そのおまじないを旦那さんにも教えてあげてくれませんか?」
「そんなことで?」
 僕は笑顔で頷くと、再び頭を下げて、鏡子の手を引きながら自転車まで歩いた。
 自転車にまたがり、後ろに鏡子を乗せると、鏡子はしっかりと僕の胸に手を回し、しがみつくように抱き着いてきた。
 スタンドを外し、ペダルをこごうと思ったところで、再び鏡子の母親から声をかけられた。
「ねえ、最後にひとつ聞いてもいいかしら?」
「なんでしょう?」
「このおまじないの意味を教えてほしいの。キョウコってもしかして、人の名前なのかしら?」
 僕はペダルに置いた足に力を込めながら、笑顔で鏡子の母親に告げた。
「それも、大切なものが見つかった時に分かりますよ」
 鏡子の母親の「ありがとう」という声を背に、僕は自転車をこぎ始めた。
 しばらく自転車をこいでいると、鏡子が涙声のまま「ありがとう」と小さな声で呟いた。
 僕はその声に「どう致しまして」と答えると、さらにスピードを上げて自転車を走らせた。
 僕の背中が濡れているのが、鏡子の涙か、僕の汗か分からないようにするために。



七.


 鏡子の家を出た後、僕たちは大きな書店に寄って、必要そうな教材を購入し、無いものは取り寄せを頼んだ。その間、何度か鏡子が「やっぱり家に取りに戻る」と言ったが、僕は取り合わなかった。いずれ、恋しくなって家に戻りたくなることもあるかもしれないが、今はまだその時では無い。
 それから近くのスーパーで、歯ブラシなどのこれから必要な小物をそろえた後、僕は鏡子をとある場所に連れて行った。


「あの……本当に私はいいですから」
 頻りに申し訳無さそうな顔でそう言い続ける鏡子を無視して、僕は鏡子の手を引いて店内を歩き回る。
「あ、これなんか似合いそうだけど、どう?」
 浅葱色のワンピースを手にとって鏡子の体に合わせてみる。
「だから、私は……それに店員さんが……」
 鏡子の視線の先、二十代後半らしき女性店員が、こちらに不審げな視線をおくっていた。
「気にしない、気にしない。たとえ相手が婦人服売り場で怪しげな独り言をつぶやきながらおかしな動きを見せる若い男だったとしても、いきなり追い出すようなまねはしないから安心して」
 僕はそう言うと、先程のワンピースの代わりに黒のキャミソールを鏡子に合わせてみる。
「お、何か予想以上に……仮にこれで寝込みを襲われたら、思わず身を委ねちゃうかもしれないよ」
 瞬間、鏡子の顔が真っ赤に染まる。
「何で私が襲う方なんですか!」
「襲わないの?」
「襲いません! それに、こういう服は趣味じゃ無いです!」
「そう……それじゃさっきのワンピースは?」
「あれは私もちょっと気に入りましたけど……じゃなくて! 本当に私はいいですから!」
「ダーメ。買うのは既に決定時項だからあきらめなさい」
 鏡子の叫びを無視して先程の浅葱色のワンピースをカゴに入れる。
 これで3着目だ。
「まあ、服はこんなものか……あとは、何かない?」
 僕がそう言うと、鏡子はなんだかぐったりとした目で僕を睨んできた。
「お願いですから、もうすこし周りを気にしてください。亮平さんは恥ずかしくないんですか?」
 鏡子が女性店員を指さしながら言う。
 僕がそちらを見ると、女性店員はあわてて目をそらした。
 再び鏡子に目を戻す。
「うん、全然」
 鏡子ががっくりと肩を落とす。
「うぅ……私はこんなに恥ずかしいのに……神様、お願いです。どうかこの人に人並みの羞恥心を与えて上げてください」
 なんだか、神に願われてしまった。
 実際には、恥ずかしさを感じていない訳ではないので、鏡子の願いは無効だろうが。
 顔には出さないが、いくら僕でも、さすがにこの状況は少しばかり恥ずかしい。だが、それを顔に出せば、鏡子に余計な気を使わせてしまうので表に出さないだけだ。
「まあ、それはともかく、他に欲しい物はないの?」
 僕の声に反応して、鏡子がようやく顔を上げた。そして、「ちょっと待っててください」と言ってどこかに行くと、しばらくして、手に何かを持って戻ってきた。
「あの、こ、これもいいですか?」
 鏡子の手にあるもの≠見た瞬間、僕は固まってしまった。
「あ、や、やっぱりいいです!」
 顔を真っ赤に染めて、品物を返そうと鏡子が走りだそうとする。僕は何とかその腕を掴んで止めた。
「いいよ。僕の方こそ、そういうのに気づかなくて……」
 二人してしばらく赤い顔のまま沈黙を続けた後、ようやく鏡子が観念したかのように手に持ったもの≠、カゴの中にパサリと落とした。 
 カゴの一番上には、3枚500円の白い靴下と、かわいらしい下着が……つまり、女性用の小さなブラと花柄のパンツが3枚ずつ置かれていた。3枚ずつなのはどちらも3枚1000円の特売品だからである。
「え、と、じゃあ、お金払ってくるよ」
 ギクシャクとした動作でレジへと向かう僕の背中に「すみません」と、本当に申し訳無さそうな鏡子の声がかかる。その声に「気にしないで」と答えながら、僕に笑顔でうさん臭そうな視線を投げ続けるレジの店員に、どう言い訳をしようかと考えていた。


「さすがに無理があったと思いますよ……」
 家に戻って開口一番鏡子が僕に言った。
「いや、笑顔で対応してくれてたから大丈夫だよ」
「あの店員さん、思いっきり笑顔が引きつってましたよ……」
 そんなこと言われなくても僕だって分かっている。でも、他にうまい言い訳が思いつかなかったのだから仕方がないだろう。
「微笑ましい兄妹愛に感動してたんだよ、きっと」
「どこの世界に妹の誕生日に下着をプレゼントするお兄ちゃんがいるんですか」
 鏡子の腕の中には、きれいに包装され、リボンまでつけられた大きな袋が抱かれていた。中身は今日買った服や下着だ。
 いやいや、お嬢さん。そうは言いますが、世界中の一部のお兄ちゃんには、妹にそういうよからぬ幻想を抱いているような輩も居たり居なかったりと……。
「まあ、あれだよ。『かわいい子には足袋を履かせろ』という昔の人の言葉もあるだろ? かわいい妹ならパンツの一つも履かせてやるのが正しい兄の姿だよ、きっと。そんな感じでよろしく!」
「よろしくないです! それに足袋を履かせろじゃなくて、旅をさせろです!」
「いいじゃん。どっちでも。足袋を履いて旅に出るんだからさ」
「じゃあ、妹にパンツを履かせて旅に出すんですか!」
「いや、それは個人の趣味だから。君が嫌なら、履かずに旅に出ても僕は止めないよ。て言うか、むしろそうして下さい」
「変態!」
 断言された。
 駄目人間から変態にランクアップ!
 ちっとも嬉しくなかった。
「まあ、済んだこともういいじゃないか。とにかく、せっかく買ったんだから着てみなよ」
 これ以上の会話に意味はないと悟ったのか、ぐったり項垂れた鏡子は、無言のまま自分の部屋に入って行った。
 その背を見送りつつ、僕はほっと息を吐いた。
 まあ、いくらかの誤算はあったにせよ、とりあえずは成功と言ってもいいだろう。
 今回、無理に買い物に連れ回したのは、鏡子が落ち込んだりしないようにとの僕なりの配慮なのだ。安直すぎるかもしれないが、結果としては、まずまずだと思う。

 でも……これからどうすればいいのだろうか?

 それほど性能の良くない頭を使って考える。
 今日見た光景は、僕にとってそれなりに衝撃的だった。
 あらかじめ話は聞いていたのだが、実際に見るとその痛々しさは想像よりもずっとひどかった。鏡子はずっとあんなつらく寂しい思いを味わっていたのだ。
 できれば、元に戻してあげたい。
 だが、その方法を考える段になると、全く何も思い浮かばなかった。
 当然と言えば当然だ。こんな現象は、今まで聞いたこともない。病状が分からなければ、治療することが無理なように、状況を正しく認識することができなければ、その打開もまた不可能なのだ。
 残された道は、自然治癒に願いを託すか、それとも、なんとか病名を特定して対策を講じるか、だ。
 鏡子の場合、自然治癒に期待できるだろうか?
 心の中で問う。
 やはり、答えは出ない。
 だとしたら、たとえ無駄なあがきだとしても、病名の特定に向けて努力するべきだろう。
 そこまで考えて、なんだか急に自分の姿が滑稽に思えてきた。

 何故、自分はこんなにがんばっているのだろう?

 鏡子という少女の身の上に同情したのだろうか?

 答えは出ない。
 だが、それでもいい。
 両親が居なくなってから、ずっと停滞したままだった僕の時間は、鏡子という呼び水を受けて、ようやく流れることを思い出したのだから。


「あの、どうですか?」
 僕の目の前、浅葱色のノースリーブのワンピースを着た鏡子が、若干恥ずかしそうに頬を染めて立っていた。
「えーと、いや、似合ってるよ、ほんと。かわいいよ」
 素直に感想を述べると、鏡子の頬がさらに赤みを増した。なんだか、こちらまで恥ずかしくなってくる。
「お披露目も終わったところで、そろそろお昼にしようか? 昨日、食材買ったばっかだから、リクエストにお応えできる範囲で何でも言ってよ」
 ここ一年、ぐーたらな生活を続けてきた僕ではあるが、料理だけは例外だった。無論、そうは言っても素人なので、レパートリーはそれほど多くはないが、それでも、それなりの料理は作れるつもりだ。
 胸を張る僕をしばらく見つめた後、鏡子は腕を組んで黙考し始めた。
 そしてなぜか握りこぶしを作りながら――

「プリン」

 と、一言そう言った。
「……あの、いちおう昼食なんだけど」
「プリン」
 鏡子の瞳がキラキラと輝いているのを見て、僕は説得をあきらめた。
「買ってないから……作る?」
 鏡子がコクコクと首を縦に何度も振る。よっぽどプリンが好きらしい。
 苦笑しながら僕は冷蔵庫へと移動し、中身を確認した。
「牛乳と卵……生クリームも買ったな。よし、じゃあ、特別おいしいのを作ってあげるよ」
 鏡子がなんだか尊敬の眼差しっぽい感じでこちらを見ている。
「ただ、作ってすぐは無理だからね。食べるのは、夜。我慢出来る?」
 鏡子が「はいっ!」と気合の入った返事を返した。
 これでもし失敗したら、ドロップキックどころでは済まないかもしれない。
「で、プリンは作ってあげるけど、お昼ごはんは――」
「はいっ! 私が作ります!」
 鏡子が元気に返事をした。
 この様子だと、いくらか料理も出来るらしい。ちょっと肩に力が入り過ぎているところがなんとなく怖いけど。
「うん、じゃあ、お昼ごはんは任せるよ。そんな凝ったものじゃなくてもいいからね」
 僕の言葉に鏡子は力強く頷いた。

 一時間後、僕の目の前には何故か真っ黒に焦げた主食らしき何かと、やはり、真っ黒に焦げたおかずらしき物体が皿の上に乗っていた。
 なんだろう?
 これはもしかして、僕に対する嫌がらせとかだろうか?
 ちらりと鏡子を見る。
「ごめんなさい」
 一応、これが失敗作であるという認識はあるらしい。
「で、これは何?」
 鏡子は消え入りそうな声で『炒飯と野菜炒め』と言った。確かにどちらも炒める料理ではある。だが、はたして何処をどうしたら、ここまで痛々しい姿に変わるのだろうか。
「料理したことは?」
「家庭科の時ちょっと……」
「成績は?」
「……1」
 まあ、そうだろう。さすがにこの出来で1以外の評価を下せる勇気ある教師はいないと思う。
 僕がため息を吐き出すと、鏡子の体がビクリと震えた。
「あの、ホントにすみませんでした……」
「まあ、それも一緒に勉強していくとして……場の勢いだけで返事するのはやめようね」
 僕が目の前の食材の成れの果てを持って、流し台に向かうと、背後から鏡子の「はい」という力無い返事が聞こえてきた。


「へ〜、カラメルソースってこんな風に作るんですね〜」
 鏡子がちょっと感心したような声をあげる。
「簡単だろ? でも、油断すると焦げすぎちゃうから気をつけないといけないけどね」
 とりあえず、即席ラーメンで手早く昼食を片付けた僕たちは、さっそくプリンの製造に取り掛かった。
 ガスレンジの上に置かれた小さな鍋の中で、煮詰まったグラニュー糖が、透明から茶色へと徐々に色を変え始める。
 程よく色付いたところで火を止め、鍋の中の液体を、表面に薄くバターを塗った二つの金属性のプリン容器に注いでいく。空になった鍋を流し台に置き、しばらく冷ました後に少し水をいれて、再び火にかけた。茶色に固まったグラニュー糖が解け出したのを確認すると、鍋の中身を流し台に捨て、すぐに鍋をタワシで洗う。
「そっちももういいだろ? 火、止めて」
 鏡子には、牛乳と生クリームの入った鍋にグラニュー糖を混ぜた後、弱火でかきまぜさせていた。
 鏡子がガスレンジの火を止める。
 それを横目で見ながら、僕は、フライパンを流し台に置き、そこに水を張った。
「冷ますから、それ、ここに入れて」
 僕の言葉を受け、鏡子が慎重に鍋を持ち上げて、プライパンに張った水の中に沈めた。ザパッと水が溢れる。
「さ、次は卵。普通はそのまま使うんだけど、今回は黄身だけを使うから」
 空いたガスレンジに水を入れた蒸し器を置いて火をかけると、冷蔵庫から卵を4つ取り出した。それらを小さめのタッパの上で割り、白身の部分だけをそこに流し落とすと、残った黄身をフライパンにつけた先程の鍋の中に入れていく。
「これも何かに使うんですか?」
 僕のすぐ横で、腰を屈めながら真剣な眼差しで一連の動きを眺めていた鏡子が言った。
「もちろん使うよ。もったいないからね。これに牛乳入れて、レンジで温めると卵白豆腐の完成。簡単で結構美味しいんだよ、これ」
 鏡子が「へ〜」と感心しながら、タッパの中の白身を見つめる。
 僕はそんな鏡子の姿に苦笑を漏らしながら作業を進めた。
 黄色い月が4つ浮かんだ白い液体の入った鍋をフライパンから取り出し、箸できれいに混ぜ合わせる。それから、小瓶に入ったバニラエッセンスをそこに数滴垂らして、再び混ぜ合わせた。
「よしっ。プリン液も完成、と――」
「あびゃっ!」
 横から奇声が聞こえた。横を見ると、なんだか、あわてた様子で舌を出す鏡子の姿があった。その手にはバニラエッセンスの小瓶。
 どうやら、匂いの誘惑に負けてなめてしまったようだ。
「言うの忘れたけど、バニラエッセンスってそのままなめても甘くはないよ。て言うか、むしろ痛い」
 ただ今絶賛体感中だろう鏡子に、水を注いだコップを渡してやる。それを奪い取るようにして鏡子は一気に飲み干した。
「先に言ってくらはい!」
 なんだか、語尾が変だと怒っていても迫力に欠けるな。それに、さすがに今回のは自業自得じゃないだろうか。そう思ったが、口には出すとさらに怒られそうなので言わなかった。
「バニラエッセンスが刺激物だとは知りませんでした。あんなに良い匂いなのに……」
 僕はできたばかりのプリン液を少しコップに注ぐと、パタパタと舌を手で扇いでいる鏡子に渡してやった。
「はい、口直し」
 鏡子はコップを受け取ると、今度は慎重に口に含んだ。
「あっ! おいしい!」
 鏡子の顔が瞬時にして喜びに彩られる。それをほほえましく眺めつつ、プリン液を濾しながら先程カラメルソースを注いだ容器に入れる。
 蒸し器の中の水が沸騰しているのを確認すると、火を小さくして、プリン液を入れた容器を静かに置き、蓋をした。
「あとは蒸し上がるのを待って、冷蔵庫で冷やして完成」
 横で見ていた鏡子が「おー」と感嘆の声を上げつつ手を打ち鳴らした。
 なんだか少々照れ臭くもあるが、こうして誰かと楽しく食事を作るのも悪くないかもしれない。
「夜までには良い感じに冷えると思うから、晩ごはんの後のデザートにしよう」
 鏡子が元気良く「はいっ!」と返事を返した。
「じゃあ……せっかく教材も買ったことだし、それまでの間、勉強でもしようか?」
 しばらくの沈黙の後、見事にトーンダウンした声で、「はい」と言う小さい返事が返ってきた。
 とりあえず僕は、鏡子の成績が全て家庭科並でないように、と、心の中で神に祈ることにした。



八.


「プッリン、プッリン、プッリッン〜♪ プルプル、プルプル、プッリッン〜♪」
 勉強を終え(意外なことに、家庭科以外の教科はなかなか優秀だった)、晩ごはんをきれいに平らげた鏡子が、スプーンをグーで握りながら、御機嫌でおかしな歌を歌っていた。
 その鏡子の前に冷蔵庫から取り出したプリンを置いてやる。
「おー、プリン! 私のプリン!」
 ものすごくハイテンションだ。すぐさまがっつきそうな勢いの鏡子に「まだだよ」と言うと、僕は鏡子の前に小皿を置いた。
 鏡子が首を傾げる。
「せっかくだから、お皿に乗せて食べようよ。僕が先にやるから見ててね」
 そう言うと、自分の分のプリン容器を傾けながら回していく。表面にバターを塗っているので、容器からプリンが簡単に剥離する。一回転したところで、プリン容器に小皿を乗せ、一気に引っ繰り返した。
 スプーンを握り締めたままの鏡子が息を飲む。
 それを視界の隅に収めながら、ゆっくりと容器を持ち上げていった。ブブッ、ブブッ、という空気の流入する音を響かせながら、滑らかな肌色の物体が滑り落ちて行く。そして、最後、プリンが容器から完全に顔を出すと、底にたまっていたカラメルソースが、プリンの側面を流れ落ちて小皿に溜まった。
「お、お、お、おー! すごいすごい! とってもきれい!」
「だからどうしたって言われても困るんだけどさ、何かきれいにお皿に開けられると妙な達成感があるんだよ」
 僕の言葉に、鏡子がコクコクと同意する。
「さ、今度は君の番だよ」
 鏡子がスプーンを置いて、神妙な顔でプリンの容器を手にとった。そして、それを傾け、ゆっくりと回していく。
「もういいですか?」
 プリン容器から目を離さずに鏡子が尋ねる。
 僕が「うん」と言うと、鏡子はプリン容器に慎重に小皿を乗せ、「えい!」という気合と共に引っ繰り返した。
「いきますよ。いきますよ」
 鏡子が時限爆弾の電気コードでも切るような真剣さで、ゆっくりと容器を持ち上げていく。ブブッ、という音が響くたびに鏡子の体がビクッと固まるのが、傍から見ていて妙におかしくて、悪いと思いながらもついつい笑ってしまった。
 だが、鏡子は僕の笑い声など全く耳に入ってないかのような真剣な眼差しで容器を見つめながら作業を進める。
「うわっ、できた! ねえ、亮平さん、見てください! きれいにできました!」
 小皿にきれいに乗ったプリンを見て、鏡子が自分に拍手を贈っている。
 なんだだか非常に微笑ましい光景だ。
 昼間の出来事がこれで帳消しになるなんて事はないのだろうけど、それでも、こうして明るい笑顔を浮かべてくれるのを見るとほっとする。
「さ、食べようか」
 待ってましたとばかりに鏡子がスプーンをがっちり握る。だが、その後スプーンは、なかなかプリンをすくおうとはせず、プリンの前を行ったり来たりしている。
「どうしたの?」
「……なんだか食べるのがかわいそうな気がします」
「じゃあ、代わりに食べてあげようか?」
 即座に鏡子の手が動き、プリンの入った小皿を持ち上げた。
 そして、「これは私のです!」と言いながら、まるで威嚇するように僕を睨んできた。
「いや、冗談だから。……なんて言うか、君は将来食べ物で失敗するタイプだね」
「ほっといてください!」
 鏡子はビシッとそう言うと、手に持ったスプーンを、プリンにザクッと突き刺した。もうその動作には、微塵の迷いもなかった。 


「ちょっと聞きたいことがあるんだけど、いいかな?」
 プリンを完食し、その余韻に浸っているのか、呆けたまま、時々ニヤニヤと笑みをこぼす鏡子に話しかける。だが、返事はない。完全に自分の世界に入ってしまっているようだ。時々「むはぁ〜」とか、「なめらか〜」とか言う言葉が口から漏れるのがちょっと怖い。
「……えいっ!」
「痛っ!!」
 とりあえず、思いっきりデコぴんをしてみた。
 思いのほか威力があったようで、現実世界に戻ってきた鏡子は、おでこを押さえながらうずくまって動かない。
「痛い……すっごく痛いです! いきなりなにするんですか!」
 鏡子がガバッと起き上がり、僕に指を突き付けながら言った。
「いや、ついつい誘惑に負けてさ。メンゴメンゴ」
「反省の色がかけらも見られません!」
「ん〜、アイムソーリー♪」
「……よっく、わっかりました。つまり、亮平さんは私にケンカを売っていると理解してよろしいんですね?」
 鏡子がこめかみを押さえながら、怒りにぷるぷると体を震わせている。
 まずい。
 どうやら本気で怒らせてしまったらしい。
「えーと、あの……ごめんなさい。悪気はなかったんです。だから怒りをお静めに――」
「問答無用!」
 鏡子が飛んだ。浅葱色のワンピースが大きく捲れて、花柄模様の下着が思いっきり見えているが、興奮状態の鏡子は気にならないらしい。
 今度は見惚れる事なく、体を少し横にずらして鏡子のドロップキックを避ける。
「ふっ、甘いな。この亮平様に同じ技が何度も通用すると――」
「甘いのはそっちです!」
「ぐぇっ!」
 鏡子の足が開いて、僕の首をガッチリと挟み込んだ。
「さあ、念仏でも唱えなさい!」
「ちょ、待て! て言うか、女の子なんだから、ちょっとはパンツとか気にしろよ!」
「変態!」
 鏡子が体をエビ反らせ、床に手を着いた。同時に体に捻りを加える。体が浮き上がるおかしな感覚が襲った直後、僕は脳天から堅い床に叩きつけられた。


 目が覚めると、鏡子の顔が目の前にあった。
「すみません……やりすぎました」
 起き上がろうとすると、頭の天辺と首に鈍痛が走った。しばらく横になっていた方がよさそうだ。
「本物のお花畑を見た気がするよ。あと、死んだ両親にも会った気が……」
 まさか、女子中学生にプロレス技をかけられて、臨死体験をすることになるとは夢にも思わなかった。
「すみません……」
「許さない」
 即座に僕がそう言うと、鏡子が泣きそうな顔になった。
「ほっぺにちゅーで許してあげるよ」
 泣きそうだった鏡子の顔が瞬時に赤く染まる。
「うぅ……私が悪いんだし……でも……うぅ……」
 一応悩んでくれるくらいには嫌われてはいないらしい。
「冗談だよ。元はと言えば僕が悪かったんだし」
 鏡子がほっと胸をなでおろす。その姿を苦笑混じりに下から見上げながら、先程の質問をもう一度繰り返した。
「あのさ、ちょっと聞きたいんだけど、いいかな?」
 鏡子は少し首をかしげながらも「はい」と頷いた。
「君は……元に戻りたいよね?」
 鏡子が口元を引き結びながらコクリと頷いた。
「僕も君が元に戻るのを手伝ってあげたいと思ってる……でも、肝心のその方法が全く解らないんだ」
「私にも……解りません」
 鏡子の絞り出すような声に「うん」と頷く。
「だから、いろいろ調べてみようと思うんだけど……どうかな? 君がもし、そういうことを少しでも忘れていたいと思うなら、やらないけど……」
 そう、原因を究明しようとする限り、鏡子はそこに付いて回る嫌な思い出を、いつまでも引きずらなければならない。たとえ、状況が改善されないままだとしても、鏡子自身がそれを望まないなら、それも仕方がないと思う。
「調べるにしても、原因が特定できる可能性は低いかもしれない。それに、たとえ原因が特定出来たとしても、元に戻れるとは限らない……」
 正直に伝える。下手に希望を抱いても、絶望を大きくするだけだ。それでも――。
「それでも……僕は君を元に戻してあげたいと思ってるんだ」
 しばらくの沈黙の後、ポタ、ポタ、と、鏡子の顔から温かい雫が降ってきた。
「つらい?」
 鏡子は涙を流しながら、ふるふると首を横に振った。
「じゃあ、どうして泣くの?」
 鏡子の涙がポタポタと僕の顔に降り注ぐ。
「どうして……どうして亮平さんはそんなに私に親切にしてくれるんですか?」
 鏡子が問う。だが、残念ながら、僕自身にもその答えは分からない。
「自分でもよく分からない。僕は……駄目人間のはずなのに」
「ちがいます。亮平さんは――」
 反論しようとする鏡子の前に手を翳して黙らせる。
「いいから、聞いて……。僕は、両親が死んでからずっと抜け殻みたいに過ごしてきたんだ……。大学は一応卒業したけど、それだって、本当はどうでもよかったんだ。ただ、なんとなく今までやってきたことを続けただけで、きっかけさえあれば大学も辞めてたと思う……。大学を出てからは、本当に何にもする気が起きなくて、毎日家の中でぼーとしてた。本当に何にもしなかった。それに疑問を持つことすら億劫な、正真正銘の駄目人間だったんだ……」
 このままゆっくりと社会から切り離されて、消えていくのも悪くないとさえ思っていた。でも――
「君に会うまではね。……最初は、たぶん同情だったんだと思う。でも、今はそうじゃない。僕にもまだよく分からないんだけど、たぶん僕は心の奥底でずっと変わりたい≠ニ思っていたんだ。そのためのきっかけをずっと探していたんだと思う。君が……そのきっかけを与えてくれた。だから、これは、君のためでもあるけど、僕のためでもあるんだよ」
 うまく言えてる自信はないけど、これが僕の正直な気持ちだった。
「僕は僕のためにも、君を元に戻してあげたい。それが出来たら、僕はもっと変われそうな気がするんだ……」
 これは僕のわがままなのかもしれない。現段階では、鏡子をさらに傷つけてしまう可能性のほうが大きいのだから。
「ありがとう、ございます……」
 涙を流しながら鏡子が礼を言う。
「お礼なんて言わなくていいよ。でも、ほっぺにちゅーでもしてくれたらもっとやる気が出るかも」
 軽口を叩いて笑っていたら、突然、柔らかものが僕の唇に触れた。
「やる気出ました?」
 涙で濡れた顔で鏡子がいたずらっぽく笑う。
 なんて言うか……最近の中学生はなかなか積極的だ。
 鏡子の柔らかい唇の感触を反芻しながら、僕はそう思った。



九.


 鏡子と一緒に暮らしはじめて、一カ月が過ぎた。
 その間のほとんどを勉強の時間に当て、何とか今までの遅れを取り戻すことに専念した。鏡子の飲み込みが早いことも手伝って、一学期分の学習予定は消化することが出来た(家庭科はほとんど進歩が見られなかったけど)。
 8月の頭、学生たちにとって長い夏休みの真っ最中である。その、学生たちにとって長い楽園の期間に、ようやく僕たちは動き出した。
 二学期の始まる9月までは、勉強もひとまずお休みしていい。それまでの約一カ月の期間を、僕たちは鏡子の身に起こった不可思議な出来事の解明に当てることにした。

 腕を組ながら、鏡子から聞いた話を整理する。
「おかしくなったのは春休みを過ぎてからなんだよね?」
 僕の問いかけに鏡子が頷く。
「はい……それ以前は特にこれといっておかしなことはなかったんですけど……でも、私が気付いてなかっただけかも知れませんし……」
「う〜ん……でも、話を聞いてると、どうも春休みに何かが起きたって可能性が高いような気がするんだ。とりあえず、君の春休みの行動を検証していくことから始めようよ。それで駄目だったら、また二人で考えればいいし」
 そう、とりあえず、順番に塗りつぶして行くことが重要なのだ。漏れがないようにしっかりと。
 もしそれで駄目なら、他の場所を塗りつぶしていけばいい。そうしていけば、いずれ目的の場所に行き当たる筈だ。
「じゃあ、早速だけど、春休みに君のとった行動を、出来るだけ細かくここに書き出してくれるかな」
 そう言って、一冊の真っ新なノートを鏡子に手渡した。
「少し空白を空けながら書いてね。後で思い出したりだとか、いろいろ思いついたことなんかも書き足すつもりだから」
 ノートを手に、鏡子が神妙な顔で頷いた。


 次の日、僕の横では、なぜか興奮状態の鏡子が腕を突き上げながら、パイプ椅子に座っていた。
「チケット手に入ってよかったですね。いけーっ! ファイティングエンジェルー! デスクラッシャーボムで止めだーっ!」
 鏡子の今日の服装は、プロレス観戦にふさわしく、デニム地のスカートにTシャツというラフな格好である。
「……エンジェルなのにデスクラッシャーってどうかと思うよ」
「何か言いましたか? ああっ! つかまっちゃダメ! そこでファニーコングの後ろにまわりこんで、必殺のデーモンクロスアタックだーっ!」
「………」
 とりあえず、プロレスの技のネーミングはかなりいいかげんなものだということだけは理解出来た。
 僕たち今、隣町にある、県営の大きな体育館に来ていた。
 その体育館の中央にはリングが組まれ、その上で、背中に大きな天使の羽の入れ墨をした小柄な覆面レスラーが、どこか愛嬌のある顔のごつい大柄のレスラーと必死に闘っていた。
 リングの周りには、二百を越えるパイプ椅子が用意されていたが、観客は半数にも満たないほどで結構空いている。お陰で鏡子も気兼ねなく座って観戦することが出来たのだが、これで果たして経営は大丈夫なのか、少々心配だ。


 僕たちがこうしてプロレスを観戦しているのは、何も享楽のためではない。鏡子が書き出した春休みの行動の初日に当たる日に、プロレス観戦があったからだ。
 僕としては、流血とか見るのは嫌なので遠慮したいところだったのだが、実際にそういう場面を再現して、鏡子の記憶を出来得る限り喚起する必要があると思い、仕方なく観戦することに決めた。
 その決定を鏡子に告げると、鏡子は跳びはねるように喜んだ。
 鏡子の行動は速かった。すぐに新聞のスポーツ欄に小さく載っていた今日の興業を目ざとく見つけ、僕にチケットを取らせたのだ。


 リングの上では、コーナーに追い詰められたファイティングエンジェルがファニーコングの腕の下をかいくぐり、そのままの勢いでロープに体をぶつけると、その反動を利用して相手に向かって駆け、そして、翔んだ。空中で両腕をクロスし、目の前から敵がいなくなり、ようやく振り返ったファニーコングの喉を目がけて。
 一際大きな歓声が上がる。
 どうやら、いまのがファイティングエンジェルの必殺技、デーモンクロスアタックのようだ。
 その必殺技をまともに食らい、倒れたファニーコングは、だが、膝に手を着き、咳き込みながらもなんとか立ち上がった。
 またまた、観客たちから歓声が沸き起こる。
 その歓声を背に、ファイティングエンジェルは腰を折って、咳き込むファニーコングに近づくと、正面からその背を抱え込み、自分の倍はあろうかという巨体を持ち上げた。
「デスクラッシャーボム!」
 鏡子を含めた観客が声をそろえて叫んだ。
 ファイティングエンジェルは、マスクから僅かに覗く口元に笑みを浮かべて観客の歓声に応えると、気合の入った叫びとともにファニーコングの巨体をマットに沈めた。
 すかさず、レフリーがフォールのカウントをとる。
「ワン!……ツー!…………スリー!」
 カンカンカンカンと、試合終了のゴングが鳴り響く。
 ファイティングエンジェルが体をどかすと、ファニーコングはその四肢を力無くリングに投げ出し、動かなくなった。もしかすると気絶しているのかもしれない。あわててレフリーがファニーコングの横に屈み込んで、その頬を叩く。すると、ファニーコングの巨体がビクッと震えた。そして、ゆっくりと上体を起こすと頭をブルブルと振り、それから、周りをゆっくりと見渡した。それで自分の置かれた状況を理解したのだろう。ファニーコングは少し苦い顔を作りながら立ち上がると、ファイティングエンジェルに歩み寄り、その手を高々と天に突き上げた。
 歓声と拍手が、二人のレスラーに向かって惜しみ無く贈られる。僕も気が付くと、いつの間にか立ち上がって、両者の健闘に手が痛くなるくらいの拍手を贈っていた。
 横を見ると、鏡子はあまりの興奮に、涙すら流していた。
「うぅ……い、いいぞー! ファニーコングもよく闘った! う……うぅ……ふ、二人とも最高だー!」
 鏡子は涙を流しながら、心からの賛辞を、リングの上で互いの健闘をたたえ抱き合う二人に贈った。
 惜しむらくは、その声が二人には絶対に届かないことだが、割れんばかりのこの歓声の中ではどちらにしても同じことだっただろう。


「亮平さん、どうでしたか?」
 プロレス観戦の帰路、自転車の後ろから、弾んだ声で鏡子が聞いてきた。
「どうって……うーん、まあ、少しは良さが分かったような気はするけど……」
 たしかに、あの真剣勝負には人を魅了する力があると思う。だからといって、これからもプロレス観戦を続けるかと問われれば、残念ながら答えはノーだ。
 たしかに、その魅力は実感出来たが、鏡子ほどの感動は僕にはない。そんな僕が興味半分で観戦していいようなものではない気がするのだ。あの場所には不純なものを寄せ付けない、神聖な空気すら流れていたような気さえした。
「ところで、何か成果はあった?」
 僕の問いかけの意味が分からなかったのか、鏡子が首を傾げる気配が後ろからした。
「え〜と……今日の目的を答えなさい」
「プロレス観戦です!」
 鏡子が自信をもって答える。
「ブッブー。違います。あと5秒以内に答えられなかったら、今日のおやつは抜きです」
「ファイティングエンジェルの勇姿を目に焼き付けることです!」
「ブッブー。はい、今日のおやつは無し」
 すぐさま後ろから、鏡子が抗議の声を上げる。
「ひどいです。亮平さんは鬼です。悪魔です。でいたらぼっちです」
 なんだか、最後のはちょっと微妙だ。
「そんな非道は神が許しても、この私が許しません!」
 鏡子はそう言うと、後ろから、チョークスリーパーをきめてきた。
「ぐぇ! ちょ、自転車乗ってるんだぞ!」
「じゃあ、おやつくれますか?」
「やだ。今回は君が悪いがぁほんぎでじめるな――」
 鏡子の腕が喉に食い込んできて、息が出来なくなった。当然ながら、そんな状態で自転車などこぎ続けられるはずもなく――こけた。
「いったーっ! もう、亮平さん! しっかり運転……って、亮平さん、しっかりしてください!」
 僕は咳き込みながらも何とか起き上がると、じっとりと鏡子を睨みつけた。
「もう一度聞くけど、今日の目的は?」
 鏡子が僕の気迫に怯えながらも「えっと……プロレス観戦?」と小さな声で答えた。
 僕は盛大なため息を吐きだした。
「あのね、それは目的を達成するための手段。手段がいつの間にか目的にすり替わってるみたいだけどさ。あくまで、目的は君がそうなった原因を探すこと、だったよね?」
 睨みを利かせながらそう言うと、鏡子が「あっ」と声を上げた。どうやら本気で忘れていたらしい。
「で、どうだったの?」
 僕の問いに答えようと、鏡子が頭をひねりながら、必死に考える。
 そして――
「……楽しかったです」
 小さな声でそう一言呟いた。
「……おやつ抜きね」
「そ、そんな……うぅ……」
 鏡子が縋るような目で僕を見てきた。だが、僕はそれを鋭い眼光で一蹴すると、倒れた自転車を起こしまたがった。鏡子がまるで地球の終わりでも迎えるような顔で僕の後ろに座る。
 無言のまま自転車をこぎ始めてしばらくすると、鏡子が「おやつ……」と未練がましく呟いた。
「当初の目的を忘れたあげく、逆切れして自転車を運転中の人の首を締めて危うく大怪我させるところだったにもかかわらず、それでも何か言いたいことがあるなら聞くけど?」
 しばらくの沈黙の後、「……ありません」という鏡子の弱々しい声が後ろから響いた。



十.


 プロレス観戦から十日が過ぎたが、鏡子に関する事柄は、全く進展がないままだった。
 それらしい手掛かりの一つさえつかめないまま、僕は電車にゆられながら、少し離れた県の、海岸沿いに面したとある旅館へと向かっていた。春休みの最後、鏡子たち親子3人が、一泊二日で泊まり込んだ旅館だ。

「で、何で君はここに座るかな?」
 僕のひざの上にちょこんと座っている鏡子に尋ねた。
「だって、もう1時間も立ちっぱなしなんですよ。さすがに疲れました。あー、やっぱり電車は座って乗る物ですよねー」
 鏡子はそう言って、僕のひざの上で「うーん」と伸びをした。
「その意見には僕も同意してもいいけどね、あくまでそれは座席の上って事であって、他人のひざの上に座るのはいかがなものかと思うんだけど?」
「だって、他に空いてる席がないんだから、仕方がないじゃないですか。あっ、見てください! ほら、海が見えてきましたよ!」
 僕のひざの上で鏡子がきゃっきゃとはしゃぐ。
 座席が空いてないのは認めよう。僕のとなりの窓際の席も、出張の帰りだろうか、疲れた顔で眠るスーツ姿の禿げた中年男が座っていた。だが、座席が空いてないからといって、僕の上に座ってもいいという道理はない。
「ちょっと重いからどいてもらいたあたっ!」
「重くないです! レディに対して失礼ですよ!」
 鏡子が僕のももを抓った。
「あのね、レディは男の人のひざの上に、安易に座ったりなんかしないと思うんだけど?」
「わー、ホントにいい天気ですねー」
 すっぱり無視された。
 いいだろう。そっちがその気ならこちらにも考えがある。
「あのね、君は知らないかもしれないけど、健康な成人男性は、ひざの上に若い女の子が座るとね、非常にファンタスティックな気分になるんだよ」
「それは良かったです。それを聞いて私も気兼ねなくくつろぐことができます」
 鏡子はそれなりに成長したようで、僕の口撃をすんなり躱した。
「むう、一カ月前なら顔を真っ赤にしてどいてくれたはずなのに」
「ふっふっふ。人は成長する生き物なのですよ」
 鏡子は胸を張りながら、僕を下から見上げた。鏡子は気づいていないようだが、この位置だと、鏡子のお気に入りとなった浅葱色のワンピースの下につけている花柄のブラが、僕には丸見えになっている。
「うん、成長したね。でも、個人的にはその花柄模様に包まれたふくらみの方も、もうすこし成長しあがっ!」
「変態!」
 鏡子は僕の顎に強烈な頭突きを見舞うと、ワンピースの胸を押さえながら、飛び退いた。
 確かに少しは成長したようであるが、まだまだ修行が足りないようだ。
 僕は口を尖らせて睨みつけてくる鏡子にさわやかな笑顔を返しつつ、重しから解放された足を存分に伸ばして見せた。


「中西亮平様ですね。当旅館にようこそいらっしゃいました。従業員一同、心よりおもてなしをさせていただきますので、滞在中はごゆるりとお過ごしくださいませ」
 旅館に入るなり、そんなばか丁寧なあいさつがおかみさんらしき、腰を深く折った50歳くらいの着物の女性の口から出てきて、僕は思わず立ちすくんでしまった。
 基本インドアな生活をしてきたので、こういう場合の対応というのが良く分からないのだ。
「はあ、えーと、すみません。ご迷惑をかけないように頑張りますので、こちらこそよろしくお願い致します」
 こちらも負けずと深く腰を折ってそう言うと、数秒の沈黙の後、おかみさんが笑った。
「中西様はお客様ですので、そんなに畏まらないでくださいませ」
「はあ、そうですか」
 苦笑いを浮かべる僕の横では、鏡子が必死に笑いを堪えていた。
「さあ、長旅でお疲れでしょう。お部屋にご案内致します」
 おかみさんの先導でたどり着いたの『松の間』と書かれた部屋だった。おかみさんがドアを開け、僕を中に招き入れた。 
「ここが中西様のお部屋になります。昼食は12時。夕食は7時となっておりますが、それでよろしいでしょうか?」
 僕は鏡子の方を見た。鏡子がコクリと頷く。
「あ、はい。それでいいです」
「それでは、そのお時間になりましたら、お食事はこちらの方に運ばせます。お飲み物はそちらの冷蔵庫に入っておりますが、夜の11時までは、お飲み物も、それから、そちらに書かれたお料理の追加オーダーも可能ですので、そちらのお電話からカウンターの方にお申し付けくださいませ」
 おかみさんが「これがこの部屋のカギとなっております」と、僕に部屋のカギを渡した後、またまた、ばか丁寧な辞去のあいさつをして部屋を去っていった。
 下着などが入った小さなバッグをその辺にほうり出すと、僕はベッドに倒れ込んだ。
「疲れた……」
 鏡子がニヤニヤと笑いながら僕の顔をのぞき込んできた。
「亮平さんにも苦手なものがあるんですね。ちょっと安心しました」
「君は一体、人のことを何だと思ってたのかな? 僕だって、苦手なものの一つや二つくらいはあるよ。特にああいうばか丁寧なのは、どうしていいか分かんなくなるからダメ……」
 たったあれだけの会話で、今日一日分の体力を使ってしまった気がする。出来れば、明日の昼のチェックアウトまでこのまま横になっていたいくらいだ。だが――。
「さあ、亮平さん。寝てる場合じゃないですよ。早速行動開始です!」
 やはり、そういう訳にもいかないようだ。少しはしゃいだ様子の鏡子が、僕の腕をひいて無理やり立ち上がらせる。
「あのさ、君だけで行ってきなよ。僕はここでお留守番してるから」
「ダメです!」
 僕は、柔らかいベッドに未練を残しつつ、鏡子に無理やり手を引かれながら、『松の間』を後にした。


 鏡子に無理やり連れ出された僕は、近くにある神社に来ていた。
「やっぱり、こういうところは空気が澄んでる気がするね」
 清々しい空気を吸って、幾分元気を取り戻した僕とは対照的に、鏡子は先程の元気も完全に消え失せてどんよりとした空気を周囲に放出していた。
「私のチョコバナナ……私の焼きトウモロコシ……私の焼きそば……私のリンゴ飴……」
 ものすごく虚ろな目で、哀愁さえ漂わせながら、鏡子は呟き続けている。
「あのね、縁日とかお祭りの日じゃないと、出店なんか出ないんだよ。て言うかね、この後お昼ごはん食べなきゃいけないのに、そんなに食べれるの?」
「それは問題ないです。……春休みに実証済みですから。……私のイカ焼き……私のわたがし……」
 すべての食べ物に所有格がついているのがなんとなく怖い。……それにしても、この娘の胃袋はいったいどうなっているんだろうか?
「まあ、ないものは仕方がないよ。ここに来る途中、焼きサバ売ってるところがあっただろ? あれ買ってあげるからさ」
「本当ですか! じゃあ、早速!」
 いきなり復活した鏡子が、クルリと後ろに振り返り走りだそうとする。僕は左手で鏡子の腕を掴み、強引に引き寄せると、右手の人差し指と中指を真直ぐ伸ばし、思いっきり振り下ろした。
 パッチーンと気持ちの良い音が辺りに響く。
「いったーっ! いきなり何するんですか!」
 思いの外威力があったようで、鏡子は腕を押さえたまま、少し涙目になっている。
「教えてあげよう。これはしっぺというものなのだよ」
「そんなこと知ってます! 何で私がしっぺされないといけないんですか!」
「ふむ。なかなか良い質問だ。その疑問に答えるために、ここでひとつ問題を出します」
 鏡子が口を尖らせながらも「はい」と返事をする。
「僕たちがこの神社を訪れた目的は何でしょうか?」
「サバを食べるためです!」
 即答だった。僕はとりあえず、自信満々に答えた鏡子のおでこに、全力でデコピンを打ち込んだ。
「いったーっ! 何するんですか!」
「ほう、知らんかね。これはデコピンといって――」
「知ってます! だから、何で私がデコピンされないといけないんですか!」
 鏡子が僕に指を突き付けながら叫ぶ。
「ふむ。これまた良い質問だ。僕たちはそこらへんの相互理解というものをより一層深める必要があると思うのだよ。という訳で問題です」
 鏡子がおでこを押さえながらも、再び律義に「はい」と返事を返す。
「今回の旅の目的を述べよ」
「おいしいものをいっぱい食べることです!」
 またまた即答だった。しかも、自信に満ちあふれた顔で、小さな胸を精一杯張りながらである。
 なんだか、本当に頭が痛くなってきた。
 どうも鏡子は、自分の興味のある事柄が目の前にあると、他の事を全て忘れてしまう性格らしい。
「あの、違うんですか?」
 頭を抱え蹲る僕を見て、さすがに自分の回答に疑問を持ってくれたらしい。
「はい、違います。今回の旅の目的は、春休みの君の行動をもう一度繰り返すことによって記憶を喚起するとともに、不自然な点がないか洗い出すことだったはず、だよね?」
 鏡子が「あっ」と声を上げる。やっぱり本気で忘れていたようだ。
「そういう訳だから、何か思い出したこと、ある?」
 僕の質問に、鏡子は腕を組みながらしばらく考えた後、「そういえば……」と言ってこう答えた。

「タコ焼きも食べました」

 僕はよろよろと立ち上がると、社に向かって歩き始めた。
 困った時のなんとやら。ここはひとつ、鏡子の思考回路がまともに働くように、神様にでもお願いしてみよう。
 疲れ果てたため息を吐き出しつつ、僕は心の中でそう呟いた。



十一.


「では、お皿の方、下げさせていただきます。御夕食は7時になりましたらお持ち致しますが……また、お二人分でよろしいでしょうか?」
 少し驚いたような顔でおかみさんが言った。
「はい、それでいいです。よろしくお願いします」
 僕が頭を下げると、それ以上何も言わず、おかみさんはまたばか丁寧な辞去のあいさつを残して部屋を出ていった。
「何であんなに驚いていたんでしょうか?」
 食後のお茶をおいしそうにすすりながら鏡子が聞いてきた。
「そりゃ、僕みたいなひょろ長い男が2人前の食事をきれいに平らげたら、誰だって少しは驚くと思うよ」
 もちろん、僕は一人分の食事しか食べていない。もう一人分の食事は鏡子のお腹の中だが、鏡子の見えないおかみさんには、僕が食べたとしか思えないだろう。
 鏡子が「そんなに驚く事かな?」と首を傾げている。まあ、脂のたっぷり乗った焼きサバを3本も食べておきながら、昼食も残らずきれいに食べて平気な顔をしている鏡子には、おかみさんの気持ちなどは理解できないだろう。
「それより、本当に何か思い出したことない? 神社なんて、そうめったに行く所じゃないし、君のことと何か関係が有りそうな気がするんだけど」
 もしかすると、これは神罰で、鏡子が何か神様の不興を買うようなことをしたのではないだろうか。
「特におかしなことは何も……出店をまわって……それからお参りして帰っただけです」
「何か、変なお願いをしたとか?」
「してません! 私がお願いしたのは……プリンをお腹いっぱい食べたいですっていうのと――」
 十分変なお願いだ。まあ、それで臍を曲げる神様もいないとは思うが。
「後は何をお願いしたの?」
「えっと……ひみつです」
 鏡子はそう言って、僅かに頬を赤らめた。
 この様子では、胸が大きくなるように、とでもお願いしたのだろう。まあ、それも神の怒りを買うような願いではない。
「他には何かしなかった? 例えば、神社の境内でこっそりオシッコしたとか?」
「しません! おトイレがあるのになんでわざわざ外でしないといけないんですか!」
 いやいや、お嬢さん。そうは言いますが、世の中にはそのような特殊なご趣味をお持ち方々だっていらっしゃるのですよ。
「じゃあ、お供え物を盗み食いしたとか?」
「……しません!」
 答える前に微妙な間があった。実行まではいかなくても、頭の中で思い描くくらいのことはしたのかもしれない。
「そっか……じゃあ、とりあえず、神社は×で良いかな」
 僕は持ってきた小さなバッグから鏡子の春休みの行動が書かれたノートを取り出し、[神社にお参りする]と書かれた所に×印を書き足した。疑わしいのもには○、除外しても良さそうなものには×を書き足しているのだが、今までのページで○は一つもない。少し憂鬱な気分になりながらも、それを表に出さないように気をつけながらノートをめくった。
「えーと、昼からは水族館だけど、どうする? お昼食べたばっかりだし、ちょっと休憩してから行ってもいいけど」
「大丈夫です。すぐに行きましょう!」
 鏡子は元気一杯にそう言うと、僕の腕を引っ張って無理やり立ち上がらせた。
 本音を言えば、少し休みたいところだが、笑顔ではしゃぐ鏡子を前にして、そんなことは言えなかった。だから、代わりにこう言った。
「前もって言っておくけど……お願いだから水族館の魚は食べないでね」
「……食べません!」
 おそらく、食べるところを想像したのだろう。少しの沈黙の後、僕にしか聞こえない大きな声で鏡子が叫んだ。


「わー、見てください! ほら、あの魚、おいし……かわいい!」
 鏡子がレモンチョウチョウウオとプレートに書かれた嘴が突き出た黄色い魚の入った水槽に、へばりつきそうなほどに顔を近づけながらはしゃいでいる。
「君、いま、おいしそうって言おうとしたよね?」
「言ってません。わー、こっちの魚もおいし……身がプリプリしてそうです!」
「いや、わざわざ言い直したのに、食べること前提のセリフになってるから」
 鏡子は次から次に魚の入った水槽を興味深そうに眺めては、移動して行く。
 地方にある水族館なのであまり期待はしていなかったのだが、規模は小さいものの、なかなかきれいなところだった。夏休みということもあり、多少の人込みも覚悟していたのだが、館内はまばらに人がいる程度で閑散としていた。水族館側にとってはありがたくないことだろうが、お陰でこうして僕たちは気兼ねなく、奇妙な魚たちを眺めることが出来る。
「さ、もうそろそろ出よう。イルカショーが始まる時間だよ」
 タツノオトシゴの水槽を眺めながら「……からあげ」と呟いている鏡子にそう呼びかけると、鏡子が勢いよく振り返った。
「そうでした! イルカさんが私を待ってます!」
 鏡子は僕の腕に自分の腕をからませると、またも強引に引っ張り始めた。
「そうせかさなくても、ショーには十分間に合うから」
 苦笑を漏らしながらそう言うと、鏡子はようやく自分のしていることに気が付いたのか、パッと腕を離し、少しだけ頬を染めた。
「ごめんなさい。ちょっと浮かれすぎですね」
 恥ずかしそうにそう言う鏡子に、僕は笑顔を向けた。
「いいよ、別に。せっかくだから楽しまないとね。でも、目的だけは忘れちゃだめだよ」
 鏡子が笑顔に戻って「分かりました」と返事をした。
「それから、イルカが脅えるといけないから、食べようと思ったりしないようにね」
「食べません! いくら何でも、あんなにかわいいイルカさんを食べようとは思わないです!」
「でも、昔は食用にもしてたらしいよ」
 僕の言葉を聞いて鏡子が動きをとめた。
「……えーと、おいしいんですか?」
 鏡子が真顔で聞いてくる。
「さっき、かわいいイルカさんがどうのと言ってたのは誰だったかな?」
 込み上げてくる笑いをかみ殺しながらそう言うと、鏡子は頬を膨らませながらそっぽを向いた。


 イルカショーを十分に堪能した僕達は、水族館の隅々までしっかり観察してから、再び旅館に戻った。
 時刻は午後6時。夕食まで時間がある。
 僕達は『松の間』で、水族館での行動を振り返ることにした。
「特にこれといっておかしなところはなかったね……。君はどう? 何も思い当たることはない? どんなささいな事でも、思い出したことがあったら言ってよ」
 鏡子が難しい顔で考える。
「とくに……ないです」
「そっか……」
 少し落胆しながら、僕はノートに×印を書き込んだ。
「ごめんなさい……せっかく亮平さんが連れてきてくれたのに……」
 鏡子がしょんぼりと項垂れる。
「いや、気にしなくいいよ。それよりさ、あと1時間あるけど、何しようか?」
「えーと、それじゃあ、お風呂にはいるのはどうです? ここの露天風呂、とっても気持ちがいいんですよ」
 笑顔に戻った鏡子に、僕は微笑みながら「そうだね」と答えると、さっそく着替えをもって、二人で肩を並べながら露天風呂へと向かった。
「何だか、新婚旅行の気分だね」
 何げなく言った僕の一言に反応して、鏡子の頬が赤く染まる。
「そういう初々しい反応をされると、何だかこっちまで恥ずかしくなってくるんだけど」
 鏡子が頬を赤くしたまま口を尖らせる。
「……うぅ……亮平さんのバカ……」
 鏡子が小声で呟く。
「否定はしないよ。むしろ肯定してあげよう」
 まじめな顔で言ってみた。
「……亮平さんの変態」
 鏡子がまた小声で呟いた。
「うん。僕は正真正銘変態さ! でも、君は変人だよね!」
 さわやかな笑顔で言ってみた。
「……亮平さんの鈍感」
 鏡子が負けずとまたまた小声で呟いた。
「なぜ僕が伝説の勇者ドンカンだと!? も、もしかして君こそが、大戦士タイショクカーンなのか?」
 鏡子がため息を吐きつつ立ち止まった。
「どうしたんだ、大戦士タイショクカーン? さあ、そんな所に立ち止まってないで、僕と一緒に大魔王ロテッンブローを倒しに行こうではないか」
 大口を開いて「ガハハハハ」と笑っていたら、鏡子の地獄突きを喉にもらった。
「……本当に鈍感」
 鏡子はそうポツリと呟くと、咳き込む僕を残して、ひとりで先に行ってしまった。


 [男性入口]と書かれた露天風呂の入口に立つ。
「ちょっと悪ふざけが過ぎたかな?」
 少しだけ反省しつつ、[女性入口]と書かれた方の入口をちらりと見る。だが、鏡子の姿はない。
 小さくため息を吐きつつ入口の扉に手をかけようとしたところで、「中西様」と、後ろからおかみさんに呼び止められた。
「中西様、露天風呂はただ今の時間、混浴の時間となっております」
 僕は[男性入口][女性入口]の両方を交互に見て首を傾げた。
「入口は別れていますが、脱衣場を抜けると、どちらも一つのお風呂に繋がっております。当露天風呂は午前10時から利用可能となっていますが、10時から11時までは男性。11時から12時までは女性。というように男性と女性の入浴時間が一時間毎に代わるシステムになっております。ただ、現在の時間、午後5時から7時までは特別に、男女とも利用可能な混浴の時間となっております」
 僕の疑問を察したおかみさんが[男性入口]と[女性入口]の中間の壁に張ってある小さな張り紙を指さしながら、そう説明してくれた。
「つまり、先客がいる場合は、それが女性ということもあると?」
 何だかちょっと心が浮き立ってしまう。だが、おかみさんは首を横に振った。
「ただ今、ご入浴されている方は一人もいらっしゃらないのでご心配いりません。ですが、中西様がご入浴中に誰かお入りになるかも知れませんので、ご注意したまででございます。中西様がお気になさらなければ、ごゆるりと、当旅館自慢の露天風呂を堪能してくださいませ」
 おかみさんはまた、ばか丁寧な辞去のあいさつを残し、去って行った。
「さて……ここまできて引き返すのもあれだし、後から美人のお姉さんが入ってくる可能性もあるからな……」
 僕は一瞬の迷いの後、弾むような足取りで[男性入口]の扉を開けた。



十二.


「今の時間は混浴なんだってー。聞こえてるー? とりあえず、入ってもいいなら返事してくれるかな?」
 腰にタオルを巻き、脱衣場の出口から呼びかける。
 鏡子はここに来るのは2度目だから知っていても良さそうなものだが、あの態度ではおそらく知らないか、もしくは忘れているのだろう。入浴時間の紙も、あの小ささでは見逃しているに違いない。
「返事しないと入っちゃうよー」
 しばらく待ったが、バシャバシャという水の流れる豪快な音が聞こえるだけで、鏡子からの返事はなかった。
 もしかすると、カラスの行水で、もう先に上がってしまったのかもしれない。僕にとっては好都合だ。
 僕は脱衣場の扉を開けて、露天風呂へと足を踏み出した。
「へ〜、自慢のって言うだけあって、広いし綺麗だな……ん?」
 天然石で囲まれた露天風呂は十メートルほどの広さがあった。その露天風呂の中央に激しく水しぶきをあげる白い桃が浮かんでいた。先ほどの水音の元はどうやらこれらしい。
 僕はその光景にしばらく固まった後、こめかみを押さえながら首を傾げた。
「う〜ん。混浴で偶然女の子の裸を覗いてしまうという、嬉しいシュチュエーションのはずなのに……」
 露天風呂に浮かんでいるのは、鏡子のお尻だった。
 鏡子は何故か知らないが、顔をお湯の中に浸けたまま、バスタオル片手、一心不乱にばた足で泳いでいた。
「なんて言うか、アホの子供みたいだ……」
 綺麗なお尻を眺めながら呟く。
「ぶっはーっ! 新記録達成!」
 鏡子が僕の目の前で勢いよく水面から飛び出した。いったい何の新記録だか知らないが、いろんなところが丸見えのまま、満面の笑みを浮かべていた。その笑顔が、目の前に僕がいることに気付いて瞬時に固まる。
「やあ」
 鏡子に向かって、気さくに手を上げた。
「……い、いい、いやーーっ! へんたーいっ!!」
 鏡子が旅館全体を震わせるような絶叫をあげると、バスタオルを体に巻き付けつつ、ジャボンとお風呂の中に頭まで沈めた。
 ぶくぶくと水泡が上がる。
 だが、しばらく待つと、鏡子は息が苦しくなってきたのか、「ぷはっ」と顔だけ外に出した。
「な、なな、何で亮平さんが女湯にいるんですか!」
 かわいそうに鏡子は今にも泣きそうな顔になっている。
「あのね、さっきおかみさんから聞いたんだけど、ここのお風呂は脱衣所は別れてるけど、どっちもここのお風呂につながってるんだって。で、時間によって男女の入浴時間を分けて使ってるんだけど、今の時間は混浴の時間になってるらしいよ」
「うぅ……そんなこと知りませんでした」
 鏡子が再び口の辺りまでぶくぶくと沈んでいく。
「一応、声はかけたんだけどね……返事がないからもう上がったんだと思ってたよ」
 鏡子が少し浮上して「聞こえませんでした」と小さな声で言った。
 まあ、あんな事をしていたら聞こえないのは当たり前だろう。
「うぅ……見られた」
 鏡子がまたぶくぶくと潜水していった。
「えーと、ごめんね。僕は脱衣所の方に戻ってるから、上がったら教えてね」
 故意にやった訳ではないのだから謝る必要などないのだが、泣きそうな顔で湯の中に沈んでいる鏡子を見ていたら、罪悪感みたいなものが沸き上がってきた。
「ま、待ってください」
 僕が踵を返して脱衣場に戻ろうとしたら、鏡子から呼び止められた。
「……あ、あの……待ってもらうのも悪いですし……亮平さんも入りませんか?」
 鏡子がお湯で火照ったからか、それ以外の理由でか、頬を染めながら言った。
「いいの?」
 僕の問いかけに鏡子が恥ずかしそうにコクリと頷いた。
 女の子にここまで言わせておいて、辞去するのも失礼だろうか?
「じゃあ、お言葉に甘えさせてもらうよ」
 しばし迷った後、僕はそう言うと、風呂の手前に設置されている体を洗うための、大理石で作られた流し場に座った。蛇口をひねりお湯を出す。
 それを手桶にためて頭から被ると、持ってきた使い捨てのシャンプーの袋を開け頭を洗い始めた。
「亮平さん、あの……」
 鏡子が声をかけてきた。
「ん? おしっこしたくなった? でも、お風呂ではしないでね」
「ちがいます! それにお風呂の中でおしっこする人なんかいません!」
「いや、そんなことないよ。僕やったことあるし」
 鏡子の目が驚愕に見開かれる。
「あれは忘れもしない小学校の卒業旅行……広いお風呂に感動した僕は、御機嫌でお風呂に浸かってたんだけどね。その時、ある疑問が浮かんだんだ。……もし、今ここでおしっこしたら、果たして誰か気付くのだろうかという高尚極まりない疑問が」
「どこが高尚なんですか!」
 即座に鏡子の突っ込みが入った。大場ほどではないが、なかなかいいタイミングだ。
「いやー、あれだけ広いと気付かれないもんだね〜。大場なんか、体に良いよって適当に嘘ついたら、おいしそうにゴクゴク飲んでたよ。なんて言うか、輝かしい青春の1ページだね」
 さわやかな笑みを浮かべながらそう言うと、鏡子は呆れたように小さく息を吐いた。
「……亮平さん、最低です」
「そんなに褒められると照れちゃうよ」
「褒めてないです!」
 またまた鏡子の突っ込みが入る。
「ところで、おしっこじゃないとしたら何? まさか、大のほうじゃ……さすがに僕もそこまでのチャレンジは――」
 一部マニアが聞いたら喜びそうではあるが、あいにく僕にはそこまでコアな趣味は無い。
「ちがいます! いいかげんそこから離れてください!」
「ちがうの? それじゃ、何?」
 僕がそう言うと、鏡子は顔を赤くして俯いてしまった。
「もしかして、僕の裸に欲情したとか?」
 「いやん」と体をくねらせてみる。
「ちがいます! せっかくだから、背中を流してあげようかと……思って……」
 鏡子はそう言うと、恥ずかしそうに顔を伏せた。
 何だか少し背徳的な感じもするが、せっかくの鏡子の申し出だ。断るのも失礼というものだろう。
「えーと……じゃあ、お願いしても良いかな?」
 鏡子が湯の中で恥ずかしそうに頷く。
「……はい。あの……少し目を閉じててもらえますか?」
「了解」
 僕は頭から湯を被り、シャンプーを綺麗に洗い落とすと、鏡子の言うとおりに目を閉じた。
「はい、閉じたよー」
 僕がそう言うと、ザパッという音が聞こえた。そして、水の滴る音と、ぺたぺたという小さな足音が近づいてきて、僕の後ろで止まった。
「もう、目を開けても良いですよ。でも、後ろは見ないでくださいね」
「了解。それじゃ、悪いけどお願いするよ」
 僕はそう言うと、持ってきたタオルと石鹸を肩越しに鏡子に渡した。
 クシュクシュと石鹸を泡立てる音がした後、背中に濡れたタオルがつけられ、ゆっくりと上下運動を始めた。
「どうですか?」
 後ろから少し心配そうな鏡子の声がかかる
「人に背中を洗ってもらうのは初めてだけど、気持ちの良いもんだね」
 僕の言葉を聞いて、鏡子がほっと息を吐き出す。
「良かった。……これで少しは日頃の恩が返せます」
 上から下へ、小気味好くタオルが往復していく。
 なるほど。鏡子は日頃の恩返しのために、恥ずかしいのを我慢して僕の背中を洗ってくれているようだ。
「気持ちはありがたいけど、無理してこんなことしなくても良いからね」
「無理なんかしてないです……ちょっとは恥ずかしいですけど、こんなにいろいろしてもらってるのに、私は何もお礼できなくて……」
 どうやら今までずっと気にしていたようだ。こちらが好きでおせっかいを焼いているだけなのだから、気にする必要なんてないと思うのだが、鏡子の側からすれば、そういうわけにもいかないらしい。
「いいよ。そんなこと気にしなくてもさ……。それに、お礼ならさっき十分すぎるほど見せて≠烽轤チたから」
 タオルの動きがぴたりと止まった。
「いやはや、綺麗なお尻もさることながら、無いと思っていた胸も、あれでなかなかどうして」
 背中に当てられたタオルがピクピクと震え出した。
「……お願いですから、忘れてください」
「無理」
 即答すると、タオルの震えが大きくなった。
「いやぁ、しっかりと目に焼き付けさせてもらったよ。こうして瞼を閉じればいつでも鮮明にいだっ!」
 タオルの感触が消え、代わりに鋭い痛みが背中に走った。
「忘れて……くれますよね」
 鏡子が僕の背中に爪を食い込ませつつ、低い声で言った。どうやら本気で怒らせてしまったらしい。
「えと、本気で痛いからやめてくれますか?」
「じゃあ、忘れると誓ってください」
 鏡子の爪がさらに食い込む。
「誓います! 誓わせてください、鏡子さま!」
 二十二にもなったいい大人が、女子中学生の脅しに屈するのもどうかとも思ったが、怒った時の鏡子の恐ろしさは1カ月以上にも及ぶ共同生活の中で嫌というほど思い知らされているので、逆らわないことにした。
「分かればいいんです。分かれば」
 ようやく、背中から鋭い爪の感触が消え、再びタオルが乗せられた。ゆっくりとタオルが往復運動を再開する。
「あの、鏡子さま? ちょっと染みるんですが……」
 どうやら先ほどの鏡子の攻撃で背中に傷が付いたようで、タオルが往復するたびに、石鹸が染みてヒリヒリとした痛みが走る。
「何か言いましたか?」
 背中の痛みがわずかに増した。
「いえ、何でもありません……」
 後悔先に立たずという諺を噛み締めながら、僕は何も言わずに痛みに耐えることにした。



十三.


 結局、旅行での収穫は何もないまま、僕たちは帰路に就くことになった。

「で、何でまた君は僕の上に座るかな?」

 帰りの電車の中、僕の膝の上に座りながら、ぐったりと背を預けてくる鏡子に尋ねた。
「気にしないでください。ちょっと疲れただけですから」
 一瞬だけ体を起こした鏡子だが、言い終わると同時に再び僕にもたれ掛かってきた。
「……いや、僕だって疲れてるんだけどね……」
 鏡子は僕の呟きを完全に無視すると、頭まで僕の胸に預けて目を閉じた。どうやら、本当に疲れているらしい。
 しばらくじっとしていると、小さな寝息が聞こえ始めた。
 いくら女の子とは言え、ずっと上に乗られたままではかなり足に負担がかかるのだが――。
「……これは、我慢するしかないかな」
 本心を言えばいますぐ鏡子をどかしたいところではあるが、自分を信用して身を預けて眠る鏡子に、少しばかりのうれしさも感じていた。ちょっとくらい足が痺れようとも、男としてここは我慢するしかないだろう。
「それにしても……これからどうすればいいのかな?」
 寝ている鏡子に小声で語りかける。もちろん、鏡子からは静かな寝息が聞こえるだけで、答えなど返ってはこない。
 小さくため息をつく。
 この旅行で、鏡子の春休みのトレース作業は終了だ。旅行という日常から外れた行為に少しは期待していたのだが、残念ながら収穫はゼロだった。
「困ったな……」
 正直、これからどうしたものか決めかねている。
 もちろん、鏡子のことを諦めるつもりなど微塵もないが、それでも進むべき方向さえ分からない今の状況というのは、何とも言えず不安で仕方がない。
 今は明るく振る舞っている鏡子も、僕以上に内心は不安でいっぱいに違いない。そして、この状況が続けば、いつその不安が爆発するとも限らない。
 そうならない為にも、何としても解決の糸口くらいは掴んでおきたいのだが――はっきり言って糸口どころか、糸屑ひとつ見つけられないでいるのが現状だ。
 再び小さくため息を吐き出す。
 どうしても、気持ちばかりが焦ってしまう。
「いや、僕が焦ったところでどうしようもないよ……」
 自分に言い聞かせるように小さくそう呟く。
 そう、こういう作業に焦りは禁物だ。焦って行動しても、結果がよくなるわけではない。それどころか、焦りは目を曇らせる。こういう時にこそ、冷静に行動しなくてはならないのだ。
 僕は、となりでのんきにいびきをかきながら寝ている禿げた中年サラリーマンに恨みがましい視線を向けながら、今回の旅行について、もう一度頭の中で整理することにした。


「ふぁぁ……よく寝ました。……えーと、亮平さん? ……何でそんなところでうずくまってるんですか?」
 電車を降りてすぐ、鏡子がうんと伸びをしながら言った。
「あのね……2時間も重たい荷物をひざの上に乗せて電車に揺られ続ければ、僕の気持ちが分かると思うよ」
 重たいという言葉に反応して、鏡子が口を尖らせる。
「私はそんなに重くないです。それに……そんなに痛くなるまで我慢しないで、途中で起こしてくれればよかったじゃないですか」
「いや、こっちにも男の面子とかいろいろあってね……」
 もっとも、こんな状態では面子も何も丸つぶれだとは思うが。
「もう、しょうがないですね……」
 一応、悪いと思っているのか、小さく息を吐きながらも鏡子が僕の荷物を持ってくれた。
「えーと……ごめんね」
「もういいですよ。……それに、亮平さんのひざの上は、とっても気持ち良かったですから」
 少し恥ずかしそうに笑いながら鏡子が言った。
 その笑顔に少しだけ救われた気分になりながら、僕は痺れる足に鞭打って鏡子と一緒に改札口へと歩きだした。


「ああ……やっぱり家はいいね」
 自宅に戻った僕は、荷物をその辺にほうり出して床に横になった。たった一泊二日の旅なのに、家がこんなに恋しくなるとは思わなかった。
「あの、さすがに床にほお擦りするのは気持ち悪いと思いますよ」
 少しほこりのたまった床にほお擦りして家への愛情を示す僕に、鏡子が呆れ顔で言った。
「もしかしてジェラシー?」
「違います!」
「いいよ、恥ずかしがらなくても。さあ、存分に僕の頬に君の頬を擦り付けなさい」
 仰向けになって、さわやかな笑顔で両手を広げてやると、鏡子もまたさわやかな笑顔で、肘を突き出しながら倒れ込んできた。
「はうっ」
 胸にかなりの衝撃を受け、呼吸が一瞬止まる。
「かっ……はっ……あ……あのね……」
 息も絶え絶えに話しかける僕に、鏡子が「なんですか?」と、さわやかな笑みを浮かべながら返してきた。
「いや……愛情表現にエルボードロップを使うのはどうかと思うんですけど……」
「フライングクロスチョップの方がよかったですか? それより、早く顔を洗ってきてくださいね」
 胸の前で腕を十字にクロスさせ、ニコニコと笑顔で話しかけてくる鏡子に恐怖を感じつつ、僕は素直に洗面所に向かうことにした。


 顔を洗って居間に戻ると、鏡子がソファに座りながら何やら考え込んでいた。
「どうしたの?」
 鏡子が僕の声に反応して顔を上げる。
「亮平さん……なんでもないですから」
 無理やり作った笑顔で鏡子はそう言った。
「いいよ、無理しなくても……」
 そう言いながら、僕も鏡子のとなりに腰掛けた。
「えーと、ごめんね」
 僕はそう言って鏡子の頭に手を乗せた。
「なんで……なんで、亮平さんが謝るんですか?」
 声が少し奮えている。鏡子の横顔を見ると、目に涙が溜まっていた。
「いや、なんとなく。……それより、つらい時は無理しちゃだめだよ。泣きたい時は泣いた方がいいんだ」
 これは僕の実体験からだ。つらい時、悲しい時は、泣けば少しは楽になる。
「亮平さんの意地悪……こんな時にばっかり優しくして……」
 鏡子の瞳から、ポタポタと滴が零れる。
「えーと……ごめんね。でも、きっと君のことはどうにかしてあげるから。だから、泣き終わったら笑くれるかな?」
 僕がそう言うと、鏡子はコクリと頷いて、それから、大声で泣き始めた。
 僕はその華奢な肩を抱き締めながら、静かに鏡子が泣き止むのを待った。
 どれほど泣き続けただろうか。しばらく経って、ようやく鏡子が顔を上げた。目は泣き腫らし、鼻水まで垂れている。
「亮平さん、ティッシュ」
 僕が鏡子のまえにティッシュの箱を置いてやると、4、5枚のティッシュを乱暴に引き出し、ズビーッと豪快に鼻をかんだ。
「あー、なんだかすっきりしました」
 僕は泣き腫らした顔で笑う鏡子に笑顔を返すと、ティッシュでペタペタと顔を拭いたやった。鏡子は少しくすぐったそうにしながらも、うれしそうな顔でされるがままにしていた。
「亮平さん……ありがとうございます」
 顔を拭き終わると、鏡子が少し恥ずかしそうな笑顔でそう言った。
「お礼を言われるようなことはしてないよ……それより、ごめんね。僕なんかじゃなくて、もう少し頼りがいのある人だったら良かったんだけど……」
 本当にそう思う。
 鏡子が見えるのが僕なんかではなく、もっとしっかりした人間だったなら、鏡子をこんなに泣かせるようなこともなかったかもしれない。だが鏡子は、そんな僕に対してゆっくりと首を横に振ってみせた。
「そんなことないです。こういうことになったのは悲しいですけど……でも、亮平さんに出会えて本当に良かったと思ってます」
 鏡子は無垢な笑顔を浮かべながらそう言ってくれた。
「……それは、愛の告白と思ってもいいのかな?」
 鏡子の顔が瞬時に耳まで赤く染まる。
 いやはや、そういう初々しい反応はこちらまで恥ずかしくなってくるのでやめてもらいたいのだが――。
「えーと……幸せにしてね?」
 体をくねらせながらそう言うと、鏡子がいきなりがばっと立ち上がった。怒らせてしまったかと思い、次に来るだろう衝撃に耐え得るべく、すぐに防御姿勢をとる。だが、いつまで経っても鏡子の攻撃はなかった。
 不思議に思い、腕の透き間から鏡子を覗くと、鏡子は顔を真っ赤にしたままこちらを睨みつけていた。
 やはり怒っているようだ。
「あの……優しくしてね?」
 少し上目づかいにそう言ってみると、鏡子の体が怒りにぷるぷると震え出した。
 やめればいいのにと思うのだが、こうなってくると歯止めが効かないのが僕の悪い癖だ。
「その……初めてだから痛くしないでね?」
 頬に手を当てて、恥ずかしそうにうつむきながら言ってみた。僕の言葉に反応して、鏡子が目の前でゆっくりと両手をクロスさせていく。
 僕は本格的な危機を感じて、鏡子を刺激しないようにソファから立ち上がると、鏡子と目を合わせたまま、ゆっくりと後退しはじめた。
 なんだか猛獣を前にした草食動物の気分だ。
「どうどう……いい子だから怒っちゃだめだよ……」
 ある程度距離をとったところで、振り返って一気にダッシュで逃げようとしたが、鏡子は一瞬にして距離を詰め、そして、飛んだ。
「ぐあっ!」
 首筋に衝撃を感じて、僕はそのまま頭から床に突っ込んだ。
「い、痛くしないでって言ったのに……」
 床に突っ伏したままそう呟くと、今度は背中を鏡子に踏まれた。
「ほんとに鈍感!」
 鏡子はそう言うと、ウシガエルの泣き声のようなぐぐもった呻きを漏らす僕を残して、そのまま居間から出て行ってしまった。
「……痛い」
 僕は首をさすりながら、なんとか立ち上がった。
 被害は甚大だが、なんとか鏡子はいつもの調子を取り戻してくれたようだ。
「さあ、せっかくだから、鏡子ちゃんをもう少し元気づけてあげようかな」
 僕はポツリとそう呟くと、書き置きをテーブルの上に残し、一人で買い物に出掛けることにした。



十四.


 買い物から戻ると、鏡子がテーブルに突っ伏していた。
「大丈夫?」
 また泣いているのだろうかと心配して声をかけると、鏡子が顔を上げた。
「亮平さん……私、もう駄目です……」
 鏡子が今にも死にそうな顔で僕に向かって手を伸ばしてきた。僕が慌ててその手を取るのと同時に、「ぐー」と言う大きな音が響いた。
「あの、鏡子ちゃん? もしかして……」
 僕の問いかけに、鏡子が死にそうな顔のままコクリと頷く。
「うぅ……お腹がすきすぎて死にそうです……」
 鏡子はそう言うと、再びテーブルに突っ伏した。
「そういや、お昼ごはんがまだだったね。すぐに作るからちょっと待ってて」
 時刻は午後の4時。そういえば、旅館で朝食を取ってから何も食べていなかった。もう、昼食というよりは夕食の時間に近い。食欲魔神の鏡子が死にそうになるのも無理はない。
 僕は買い込んだ荷物を鏡子に分からないように冷蔵庫に入れ、代わりに食材を物色した。
「えーと、手早く焼きそばか、焼きうどんかにしようと思うんだけど、どっちが良い?」
 僕の問いかけに鏡子がムクリと顔を上げ、一言「両方」と呟いた。
「はいはい、わかったよ。両方作ってあげるから、少しの間我慢しててね」
 苦笑を漏らしながら僕がそう言うと、「なんとか頑張ります」と言う鏡子の死にそうな返事が返ってきた。


「ごちそうさまでした!」
 鏡子が至福の笑顔で合掌しながら言った。
 昼食を抜かれた鏡子の食欲はすさまじく、焼きそばと焼きうどんををともに3食分ずつ平らげた。
「おそまつさまでした」
 鏡子の合掌に笑顔で応える。
「あっ……ご、ごめんなさい。私、亮平さんの分まで……」
 鏡子が僕の前に置かれた茶碗をみて申し訳無さそうな顔をした。
 通常、焼きうどんや焼きそばというのは3食セットが基本だ。つまり、鏡子のお腹の中に3食ずつ入ったということは、僕のお腹に入る分はない訳である。そういう訳で、僕の前にはふりかけご飯の入ったお茶碗が置かれていた。
「いや、気にしなくていいよ。悪気があった訳じゃないんだし」
 そう、別に鏡子が僕の食事を無理やり取りあげた訳ではない。むしろ、こちらが進んで自分の分の食事も差し出したのだから、鏡子が気に病むことなどひとつもないのだ。
「それにね、あれだけ気持ち良く食べてくれると、作った方としてはこの上なく嬉しいものなんだよ」
 僕の言ったことがあまりピンとこないのか、鏡子が首を傾げた。
「えーとね、前はそれほど食事を作るのが楽しいとは思わなかったんだけどね。君が来てからから、食事を作るのが本当に楽しくなったんだ……。なんでだと思う?」
 僕の問いかけに、鏡子が「うーん」と考え込む。
「……わかりません。私は食べる方の側にしか回ったことがないので……」
 そういえばそうだった。一応、教えてはいるのだが、こと料理に関してだけは、鏡子の飲み込みは最悪だった。僕の努力も空しく、鏡子はいまだにご飯さえうまく炊けない。もっとも、洗剤で米を洗おうとしていた当初を思えば、ほんの少しは進歩してくれたとは思うが。
「あのね、食事って自分の分だけ作ってもなんか張り合いがないんだよ。でも、食べてくれる人がいると、俄然やる気が違ってくる。……その上、自分の作った物を笑顔で食べてくれたら最高の気分になるんだよ」
 まだ鏡子にはピンとこないのか、「そんなものですかね……」と答えた。
 そんな鏡子の様子に僕は苦笑を漏らしながら「そんなものだよ」と言った。
「だから、食事の度に君には感謝してるんだよ」
 笑顔で鏡子に「ありがとう」と言うと、鏡子は少し照れながも、笑顔で「どう致しまして」と返してくれた。
「さ、ご飯が済んだら、先にお風呂入って。旅の疲れもあるし、今日は早目に寝た方が良いからさ」
 僕の言葉に鏡子は素直に「はい、そうさせてもらいますね」と返事をすると、着替えを取りにだろう、自分の部屋へと元気に歩いて行った。
 僕はその小さな背を見つめなら、ひそかに安堵の息を吐き出す。
 ひとまず元気を取り戻してはくれたが、この元気がいつまで続くかは分からない。
 あの小さな背に、理不尽な重い荷物を背負わされた鏡子のことを思う。
 いつ押し潰されても不思議ではない。
 それなのに――自分はあまりにも無力だ。
 歯噛みする思いで鏡子の消えた扉を見つめる。
 情けない。
 本当に自分が情けなくなってきた。
 鏡子の背の荷物を少しでも軽くしてあげたいのに、僕にはその方法がちっとも分からない。
「本当にごめんね……」
 扉に向かって小さな声で話しかける。
「……でも、その荷物、僕も一緒に持ってあげるから」
 密かな決意と共に、僕は鏡子の心にそう呼びかけた。


「さて、鏡子ちゃんも寝たことだし、早速取り掛かるとするかな」
 時刻は8時。鏡子はお風呂から上がるなり、早々に就寝のあいさつを告げ、自室に戻った。旅の疲れもそうだが、精神面での疲れも大きかったのだろう。かなり眠そうな顔をしていたので、おそらく朝までぐっすり眠ってくれるに違いない。
 お陰でこちらは気兼ねなく作業に打ち込むことができる。
「さあ、鏡子ちゃんを元気づけよう大作戦開始!」
「へ……私? 作戦って何ですか?」
 いつの間にか後ろに立っていた鏡子が、僕の手元を覗き込みながら言った。
「ぅわぃやーっ!」
 あまりににびっくりして手に持っていた物を落としてしまった。カラカラと乾いた音が台所に響く。
「なんて声出してるんですか……」
 鏡子が眠そうな顔で目をこすりながら言う。
「びっくりした。それより、寝たんじゃなかったの?」
「ちょっとおトイレに行ってきただけです。そしたら、台所から亮平さんの声が聞こえたから……ところで、このバケツは何に使うんです?」
 鏡子は僕の落としたバケツを拾い、首を傾げながら眺めている。
「いや、ほら、そ、掃除だよ。御掃除大作戦。日頃お世話になってる台所をきれいにしてあげようと思ってさ」
「はあ、そうなんですか?」
 僕は「そうそう」と言いながら、鏡子の手からバケツを取り返した。
「だから、ちょっと音がするかもしれないけど、気にせず寝ててくれればいいからね」
 台所から追い出すため、鏡子の背をぐいぐい押してやる。
「あ、御掃除なら私も手伝いますから」
 鏡子が台所に止まろうと抵抗する。
「いやいや、君は疲れてるだろ? いいからゆっくり寝なさい」
「いや、そんなの悪いですし……」
 なおも抵抗する鏡子に「いいから、いいから」と言いつつ、無理やり鏡子の部屋まで押して行った。
「本当にいいんですか?」
 眠そうな目で尋ねてくる鏡子に「いいからゆっくり休んでね」と告げると、鏡子の背を最後に一押しして部屋の中に押し込んだ。
「すみません。お言葉に甘えさせてもらいますね。それじゃあ、亮平さん、おやすみなさい」
 頭を下げる鏡子に「おやすみなさい」と笑顔で返すと、ドアを閉め、音を立てないようにそこに耳を張り付けた。
 ドア越しに鏡子の「ふぁ〜」というかわいい欠伸が聞こえ、次いで、ベッドのきしむ音が聞こえた。
 どうやら素直に寝てくれるらしいことに安堵した僕は、ドアからゆっくりと耳を離し、静かに台所へと戻ることにした。


 次の日、僕は今後の方針についてもう一度、鏡子と話し合うことにした。
「つまり、原因を見つけることは後回しにして、私の存在がどこまで認識されるか実験してみようってことですね」
 僕は鏡子の言葉に頷いてみせた。
「まあ、実験って言うのは大袈裟だけどね。実際、原因が全く分からないから、他の方面から攻めてみようと思って……。どうかな?」
 僕の問いかけに鏡子が腕を組んで考え込む。
「私はいいですけど……でも、そんな実験に付き合ってくれる人なんているんでしょうか?」
 鏡子の言うことはもっともだ。実験をする以上、鏡子を認識できない人間が必要になる。つまり、僕以外の第3者を巻き込まなくてはならないのだが、なかなかそんな暇を持て余した人間などいない。それに普通の人間であれば僕の話など頭から信用せずに、僕達の実験には付き合ってくれないだろう。
「それは大丈夫。打ってつけの人間がいるからさ」
 そう、僕の親友に、暇を持て余し、なおかつ非常におもしろい人間がいるのだ。頭がいくぶん足りないのが難点ではあるが、あいつなら、何だかんだ言いつつも、付き合ってくれるに違いない。
「大場なら、かなり手荒なことをしても許してくれると思うから、まずはあいつでいろいろ実験してみよう」
 鏡子はようやく合点がいったのか、ポンと手を打ち鳴らしながら、「あの人ですか」と言った。
「でも、……本当にいいんでしょうか?」
 心配そうに尋ねる鏡子に、僕は胸を叩いて見せた。
「大丈夫。僕と大場の親交の深さからいって、気持ち良く引き受けてくれるはずさ。仮に嫌がったとしても、無理やり巻き込まれることは十分分かってるだろうから、やっぱり快諾してくれると思うよ」
 さわやかにそう言い切ると、鏡子が呆れたように息を吐いた。
「それ、絶対、快諾とは言わないと思いますよ……」
「まあ、冗談はさておき、あれで結構いい奴だからさ。君のことを話したら協力してくれるよ。信じてくれなかったら、何か技かけてやれば嫌でも信じるだろうしね」
 鏡子は両手をワキワキと動かしながら「いいんですか?」と聞いてきた。どんな技をかけるつもりか知らないが、やる気満々のようだ。
「とりあえず、大場には明日連絡いれてみるよ。それでいいかな?」
 鏡子が指をポキポキ鳴らしながら気合の入った声で「はい」と頷いた。かなりやる気のようだ。というか、すでに大場を殺る気になっているのかもしれない。ここは友人として、素直に大場の冥福を祈ることにしよう。
「さ、話はこれで終わり。で、残念なお知らせがあるんだけど……」
 神妙な顔でそう言うと、鏡子が首を傾げながら「なんですか?」と僕の顔を覗き込んできた。
「今日はお昼ごはん抜きです」
 鏡子の動きがピタリと止まった。
「……じょ、冗談ですよね?」
 鏡子のすがるような目がこちらに向けられる。
「悪いけど、本当」
 鏡子の目から滂沱のような涙が溢れだす。
「亮平さん……私なにか悪いことしましたか?」
 僕は思わず吹き出しながら、泣いている鏡子の頭に優しく手を乗せた。
「ごめんごめん。ちょっと言い方が意地悪だったね。……ご飯がないのは本当だけど、食べる物がない訳じゃないから。むしろ、君なら喜んでくれると思うよ」
 僕はそう言うと、席を立って冷蔵庫からある物を取ってきた。
「はい、僕から鏡子ちゃんへのプレゼント」
 冷蔵庫から取って来た物をテーブルの上に乗せると、鏡子はそれを困惑した顔で見つめた。
「えーと……これってバケツですよね?」
 首を傾げながら尋ねる鏡子に向かって、僕は胸を張りながら笑顔で頷いた。
「そう、バケツ。でもこれは、君の夢をかなえてくれる魔法のバケツなんだよ」
 僕の言葉にますます困惑しながら、鏡子は蓋付きのバケツとにらめっこを始めた。



十五.


 頭に?マークをいくつも浮かべ、バケツをいろんな角度から眺めていた鏡子だが、突然何かに気付いたように顔を上げた。
「いい匂いがします」
 僕は鏡子に少し待つように言うと、大皿を持ってきて鏡子の前に置いた。
「さあ、準備はできたよ。蓋を開けて見て」
 鏡子は僕の言葉にコクリと頷くと、ゴクリと生唾を飲みながら、プラスチック製のバケツの蓋をパカリと開けた。
「お、おー、おーー!」
 どうやら感動で言葉もでないようだ。
「どうかな? 今日の昼食はこれでいい?」
 鏡子はバケツから僕の方に目をもどすと、コクコクと何度も首を縦に振った。
「プ、プリン……あこがれのバケツプリンがついに私のものに!」
 鏡子が力強く拳を握り締めながら叫んだ。
「なんか、予想以上に喜んでもらえたようだね。とりあえず、作戦は成功かな?」
 鏡子は僕の話など耳に入っていないのか、プリンの入ったバケツをつついては、キャッキャとはしゃいでいる。
「はい。鏡子ちゃん、注目ー!」
 鏡子が背筋を伸ばし、僕の方を向く。
「これから、鏡子ちゃんに、プリンをこのお皿に開けてもらいたいのですが、注意点があるのでよく聞いてください」
 鏡子がビシッと手を上げながら「はい、隊長!」と叫んだ。かなりのハイテンションっぶりである。
「プリンってのは柔らかい食べ物だよね?」
 鏡子が再び手を上げながら「プルップルであります!」と叫ぶ。
「そう、プルップル。でね、これ見て分かると思うけど、かなりの重さがあるんだよね。だから、上手に開けないと、自重で潰れちゃうから。僕の指示にしたがってゆっくり開けるように。いいかな?」
 鏡子が緊張した面持ちでコクリと頷く。
「さ、まずはバケツを持って、ゆっくり左右に傾けながら、バケツとプリンを剥離させて」
 鏡子が僕の指示に従って、慎重にバケツを持ち上げ、ゆっくりと傾けながら回転させていった。プリンが傾けた側に変形し、反対側の表面がバケツから離れていく。慎重に動かし、一周したところで、ゆっくりとまたバケツをテーブルに戻した。
「結構、重いですね……」
 緊張でかいた額の汗を拭いながら鏡子が言った。
「まあ、3キロ近くあるからね。落としたりしないように気をつけてね」
 鏡子が僕の言葉に真剣な顔で頷く。
「次は、いよいよお皿に開けるからね。まずはバケツの上にお皿を乗せて」
「えーと、こうですね?」
 鏡子はそう言いながら、テーブルの大皿をそーっと裏返してバケツの上に置いた。
「さあ、ここからが本番だよ」
 鏡子が僕と目を会わせ、コクリと頷いた。
「バケツを持ち上げて、お皿と一緒に一気に裏返して」
 鏡子は、バケツをゆっくりと持ち上げると、「えいやっ!」と言う気合と共に、一気にひっくり返した。
「よし、じゃあ、それをテーブルの上において、ゆっくりとバケツを持ち上げていくんだよ」
 僕の言葉に頷きながら、鏡子はテーブルの上に置いたバケツを緊張した面持ちでゆっくりと持ち上げていった。
「……出ない?」
 バケツが完全に皿から浮いたにもかかわらず、肝心の中身が出てこなかった。
「じゃあ、一回お皿に落として、ちょっと傾けて」
 鏡子が僕の指示を受け、バケツを再びお皿の上に乗せ、皿ごと傾け始めた。すぐにペチャッと言う音がバケツの中から聞こえて、鏡子の腕が僅かに下がった。どうやらうまくいったらしい。
「よし、お皿を元に戻したら、バケツをゆっくりと上げていって」
 緊張感のみなぎる中、鏡子がゆっくりとバケツを上げていく。
「あ、見えました!」
 鏡子の言葉通り、バケツからは肌色の滑らかな裾野が顔を出していた。
「さ、ゆっくりね」
 鏡子がバケツをさらに上げていく。途中空気の流入するブブッという音が響くたびに、鏡子の動きが固まったように止まったが、作業は順調に進んでいった。
 鏡子の手の動きに会わせて、巨大なプリンがその滑らかな肌を徐々に晒していき、半分を過ぎたところで、バケツの底に溜まっていたカラメルソースが、ゆっくりとその肌を伝い下りて、皿の上に透き通った茶色い池を作っていった。
「できた! できましたよ、亮平さん!」
 鏡子は、空になったバケツをテーブルの上に置くと、いきなり僕に抱き着いてきた。
 窘めようかと思ったが、鏡子の笑顔を見てその気が失せてしまい、代わりに頭の上に手を乗せた。
「喜んでもらえて光栄だよ。でも、見た目だけじゃなく、味の方も結構いけるはずだからさ」
 僕の言葉に、鏡子が茶色い池にそそり立つ巨大なプリンを見た。
「なんだか、食べるのがもったいないですね……」
 鏡子がどこか悲しげにプリンを見つめる。
「じゃ、食べるのやめる?」
 僕がそう問うと、鏡子の首が音が出そうな勢いで、即座に横に振られた。


「は〜、さすがにお腹いっぱいです」
 鏡子が幸せいっぱいの笑みを浮かべながらそう言った。
 大皿に盛られてから僅か二十分後、巨大なプリンは跡形もなく消え去っていた。相変わらずすごい食欲だ。
「よかった……危うく君の願いを叶えそこねるところだったよ」
 ほっと胸を撫で下ろしながら言う僕の言葉に、鏡子が首を傾げる。
「私の願い?」
「うん。旅行の時、神社でお願いしたって言ってたでしょ?」
 鏡子はようやく思い出したのか、「ああ」と頷いた。
「そう言えば……でも、覚えててくれたんですね」
 鏡子が満面の笑みで「ありがとうございました」と頭を下げた。その笑顔に少しくすぐったい気分になりながら、「どういたしまして」と、僕も頭を下げる。
「で、どうかな? 夢を叶えた感想は?」
 鏡子が笑みを浮かべたまま、「ん〜」と考え込む。
「とってもおいしかったです」
 プリンの評価を聞いている訳ではないのだが、おいしいと言ってもらえたことは素直にうれしかった。
「ありがとう……本当はもう一つの願いも叶えてあげたいところだけど、さすがにそっちはね……」
 僕がそう言うと、鏡子が少し驚いた顔をした。
「私、もう一つの方も言いましたか?」
 少し頬を染めながら聞いてくる鏡子に、僕は首を横に振った。
「いや、でも、年頃の女の子の願い事だし、なんとなく想像はつくよ」
 ほほ笑みながら言う僕の言葉に鏡子の頬がさらに赤くなる。
「そうですか……でも、そっちのお願いの方も叶ったのかも知れません……」
 鏡子が恥ずかしそうに僕から目を背けながら言った。
「そうなの?」
 僕は恥ずかしそうに俯く鏡子の胸を凝視した。
「見た目にはさほど変化してないように見えるけど?」
「亮平さん。……どこを見てるんですか?」
 顔を上げると、鏡子が恐い目で僕を睨んでいた。
「いや……胸」
「そうじゃなくて……」
「えーと……おっぱい?」
 鏡子の肩が怒りにプルプルと震え出す。
「呼び方のことじゃなくて、何で私の胸を見てるんですかと聞いているんです!」
「だって、願い事が叶ったかもって言うから、とりあえず確認をしてみようかと思って」
 だが、僕の目で見た感じでは大きくなっているようには見えなかった。
「亮平さん、私の願い事は何だと?」
 鏡子がこめかみを押さえながら聞いてきた。
「ズバリ、胸を大きくしたい!」
 自信満々に答えたら、即座に鏡子の唐竹割りが頭に落とされた。
「やっぱり、鈍感!」
 鏡子はそう吐き捨てると、扉を乱暴に閉め、自室に戻ってしまった。
「う〜ん……間違いないと思ったんだけどな……」
 僕はズキズキ痛む頭を押さえながら、鏡子の願い事について、もう一度考えてみることにした。
 でも、答えはちっともでなかった。 


 ピンポーン。
 玄関のチャイムが鳴った。
 鏡子が少し落ち着かない様子で僕を見る。
「大場さんですかね?」
「まあ、そうだろうね。この家にはあまり来訪者はいないから」
 僕は立ち上がって玄関に移動した。
「合言葉を言え」
「知らねーよ。てか、俺じゃなかったらどーするんだ?」
 僕の言葉に大場が即座に突っ込みを入れてくれた。うーん、相変わらず、期待を裏切らない友人だ。
「じゃあ、スリーサイズを言え」
「男にスリーサイズを尋ねんな。てか、自分のスリーサイズ知ってる成人男子なんかそんなにいねーだろ?」
「じゃあ、血糖値とコレステロール値を言え」
「……帰っていいか?」
 もう少し遊んでいたかったのだが、僕は仕方なく玄関のカギを開け、大場を家に招き入れた。
「おお、親愛なる僕の友人、オーバーインベストメント君」
「いつの間に俺の名前はそんなに格好よくなったんだ? てか、意味は何だ?」
「過剰投資」
「……微妙だな」
 大場の言葉に僕は頷く。
「まあ、語感重視で選んだから、我慢してくれ」
「いや、我慢するも何も俺の名前は大場要だ」
「昔の名前は忘れろよ」
「昔も今もこの名前なんだよ!」
 大場の言葉に僕は大仰に驚いてみせた。
「そ、そんな馬鹿な……それじゃあ、あのすばらしい名前の数々は何だったと言うんだ?」
「全部お前の妄想だ。それより、何で俺を呼んだんだ? お前、人と接するの嫌いだっただろ?」
 そういえばそうだった。僕は大場に用があるから呼んだのだが、ついつい楽しさに負けて忘れていた。
「いや、君を呼んだのは他でもない。君にしかできないミッションがあるからなんだよ、オーバーステイトメント君」
「……意味は?」
「誇張する」
「……帰っていいか?」
「いいけど、これから毎日お前の家でピンポンダッシュするぞ?」
 大場が呆れたように大きく息を吐き出す。
「とっとと用を言え」
「引き受けてくれるのか? やっぱりもつべきものは友達だな」
 うんうん、と頷く僕に大場が呆れ顔で言う。
「お前なら本当にやりかねないしな。てか、友達を脅すのはやめろ」
「まあ、そんな細かいことは気にするなよ。妹萌えのお前がそんなちっちゃい人間だと知ったら、みんながっかりするぜ?」
「いや、妹萌えの時点で大多数の人間は既にがっかりするだろ。てか、いいかげんそこから離れろ」
「無理」
 僕は即答すると、踵を返して鏡子の待つ居間へと歩きだした。
 大場は何を言っても無駄だと達観しているのか、それ以上何も突っ込まず、ただ静かに僕の後に従って歩いた。


「まあ、座ってくれ」
 僕は鏡子の隣に腰掛けると、向かい側のソファに大葉を座らせた。
「で、なんだよ、用って」
 少し不機嫌に尋ねる大場を手で制し、僕は鏡子に話しかけた。
「ほら、快諾してくれただろ?」
 胸を張ってそう告げる僕に、鏡子は呆れ顔を向けた。
「ぜったい快諾じゃないです。むしろ、いやいやです」
 鏡子が大場に哀れみの視線を向ける。
「いやいや、あれだよ。いやよいやよも好きのうちって言うだろ? 彼はシャイなんだよ、きっと」
 鏡子が大きくため息を吐いた。
「そんなにため息を吐くと幸せが逃げるよ。大場なんかため息の吐き過ぎで、こんなに不幸顔に――」
「「吐かせてるのは誰だよ!(ですか!)」」
 鏡子と大場から同時に突っ込みが入る。いやはや、ボケ一人にツッコミ二人というのもどうかと思っていたが、これはこれでなかなか良いかもしれない。
「お前と話してると本当に疲れるな……」
 僕が新たな可能性について模索していると、大場がぐったりとソファに体を預けながら言った。
「そんなに誉めるなよ」
「誉めてねえ! ったく。それより、この前の時もそうだけど、お前おかしいぞ?」
「そう言う君はおもしろいぞ?」
 大場は「ほっとけよ」と言いながら体を起こすと、急にまじめな顔で僕の顔を見てきた。
「お前……まさか、妖怪か何かに取り憑かれてるって言うんじゃないだろうな?」
 大場の言葉に、僕は鏡子と顔を見合わせた。
「私、妖怪?」
 口を尖らせながら言う鏡子に、僕は思わず笑ってしまった。
「……確かに憑いてないこともないけど、妖怪じゃないな。まあ、一部妖怪じみた感じもしないでもぐほっ」
 鏡子の肘鉄が脇腹に食い込んだ。
「いえ、とってもかわいらしいお嬢さんです」
 咳き込みながらそう言うと、大場は胡乱な目で僕を見てきた。
「本当に大丈夫か、お前……」
「ああ、大丈夫。ちょっと凶暴なぐふっ」
 鏡子のボディブローが鳩尾にめり込んだ。
「い、いえ……とっても優しいお嬢さんです」
 大場は僕の奇行にさらに目を細くした。
「冗談はやめろよ。……それともここに誰かいるって……ん?」
 大場が鏡子のいる方を指さした。その指が勢い余って鏡子の体に触れる。
「何だ? 何かちょっと柔らかいような、そうでもないような……」
 大場は指先にあるものが何であるか解析しようと、ツンツンとつついた。
「なあ、中西。……これなんだ?」
 首を傾げながら聞いてくる大場に、僕は答えを告げてやった。
「おっぱい」
「こんな薄っぺらいおっぱいがあるかよ。って、なんでいきなり、念仏なんか唱えてんだ?」
 僕は、大場の指の先で怒りにぷるぷると震える鏡子をちらりと見た。
「我が親友よ……安らかに眠れ」
「何わけの分かんねーこと言ってん――」
 不意に大場の指の先から鏡子の姿が消えた。
「薄っぺらい胸で悪かったですね!」
 瞬時に大場の後ろに回り込んだ鏡子は、大場の首筋に全力で延髄斬りを叩き込んだ。



十六.


「ここはどこだ?」
 鏡子の見事な延髄斬りによって意識を断たれた大場が、ようやく目を覚ました。
「天国だよ」
 首筋を押さえながら周囲を見渡す大場に優しく告げてやる。
「おめでとう。君は生前の妹好きが神様に評価されて、見事、天国行きの切符を手にいれたんだよ」
「そんな神様のいる天国は嫌だ。てか、天界に轟くほど妹好きになった覚えは微塵も無えよ」
 大場がそう言いつつ、ムクリと体を起こした。
「自分をごまかすなよ。以前僕に言ったじゃないか。『俺は妹のためならいくらでもこの手を血に染めてやる』ってさ」
「えらい、アウトローな妹好きだな。てか、そんな奴は絶対天国には行けねーだろ」
 大場は小さく息を吐き出すと、急に真面目な顔になって僕を見てきた。
「なあ、そろそろ本題に入れよ。そこに誰か居るんだろ?」
 鏡子の座るソファを指さす大場に、僕はコクリと頷いた。
「でも、信じてくれるのか?」
「信じるも何も、ここまでされたら、信じるしかないだろう」
 大場が首筋をさすりながら言う。
「本人も『やりすぎました』って謝ってるから許してやってくれないかな」
 大場の指の先で、鏡子がぺこぺこと頭を下げていた。もちろんその動作は大場には見えないのだけど。
「許せも何も姿が見えないんじゃな。……まあ、とりあえず、聞かせろよ」
 僕は「分かった」と頷くと、大場に鏡子の身に起こった不思議な現象について語り始めた。


「ふ〜ん、つまり、ここには鏡子ちゃんという名の十四歳の女の子がいる訳だな」
 大場の言葉に僕はコクリと頷く。
「そうか……その、なんだ……悪かったな。……さっきは……女の子がいるだなんて思ってなかったから……許してくれ」
 大場が鏡子の座るソファに向かって深々と頭を下げた。
 鏡子があたふたと大場に頭を上げるように言っているが、もちろんその声は大場には届いていない。
「いいから、もう頭を上げろよ。鏡子ちゃんが困ってるからさ」
 僕の言葉にようやく大場が頭を上げた。
「そうか……じゃあ、改めて。俺は大場要。残念なことにこいつの友人だ」
 大場が鏡子に向かって手を差し出す。
「あの、えっと……」
 鏡子が困ったようにこちらを見る。
「心配しなくても噛み付いたりしないから」
 笑いながらそう言ってやると、ようやく鏡子の手が大場に向かっておそるおそる差し出された。大場の手に鏡子の指先が触れると、大場はビクッとして手を引きそうになった。だが、それをどうにかこらえた大場は、逆に手を差し出して、鏡子の手をがっちりと掴んだ。
「鏡子ちゃん……でいいかな?」
 大場が僕の方を見てそう聞いた。
 鏡子が僕に向かってコクリと頷いたので、僕も同じように大場に頷いてみせる。
「じゃあ、鏡子ちゃん。中西はこれで結構頼りになる奴だから、心配するなよ。それに、俺も力になるからさ。俺には鏡子ちゃんの姿は見えないけど……少なくとも鏡子ちゃんの手の温もりは伝わってるからさ」
 大場が鏡子の手を強く握り締めながらそう言った。
 大場の言葉を受け、鏡子の体が震え出す。
「どうした? あ、手握んの強すぎたか?」
 鏡子が痛みに震えていると誤解した大場が、握った手を離そうとする。だが、鏡子の方がそれを許さなかった。
 大場が不安そうに僕に目を向ける。
「悪いけど、少しの間そのままにしてやってくれるかな」
 ようやく鏡子の様子を理解した大場が静かに頷き、そして、再び握った手に力を込めた。
「よかったね、鏡子ちゃん」
 鏡子は僕の囁きに何度も首を縦に振りながら、大粒の涙を膝の上にこぼしていた。


「あのよ……悪いけどそろそろ……」
 大場が救いを求めるように僕を見てきた。
 固く握手を交わしたままの大場の手は、血の流れが滞っているのか、少し紫色に変色し始めていた。
 あれから三十分。鏡子の全力の握力に耐えてきたのだから当然の結果ではある。このまま放置して大場が苦しむ様を眺めるのも楽しくはあるが、いいかげん解放してやらないと洒落にならなくなりそうだ。
「鏡子ちゃん、そろそろいいでしょ?」
 僕の言葉に鏡子がようやく顔を上げた。またも涙と鼻水でひどい顔になっている。
「そろそろ、手を離してくれるかな? このままだと僕の親愛なる友人の手が腐り落ちそうな感じだから。まあ、それはそれで悪くは無いんだけどもね」
「なあ、おまえって本当に俺のこと友人だと思ってるのか?」
 鏡子はぼんやりと握手した手に視線を落とすと、変色した大場の手に驚いたのか、慌てて手を離した。それから、大場に見えていないことも忘れて、「ごめんなさい」を連呼しながらぺこぺこと頭を下げた。
「そんなに気にしなくていいよ。それより、はい、ティッシュ」
 鏡子にティッシュの箱を差し出すと、鏡子は「ありがとうございます」と律義に礼を言いながら4、5枚のティッシュを乱暴に取り出し、豪快な音をたてて鼻をかんだ。
 僕はその様子に苦笑を漏らしながら、ティッシュを数枚取り出し、涙で濡れた鏡子の顔に当てていった。鏡子が少しくすぐったそうにしながらも顔を突き出してくる。
 小さな子供のような鏡子の仕草に微笑を浮かべながら作業を続けていると、大場が僕に話しかけてきた。
「あのよ……俺のこと忘れて無いか?」
 どうやら大場は自分だけ蚊帳の外に出されたと感じたようだ。
「なんだい? 男のジェラシーはみっともないよ、オーバークロウディングくん」
「……意味は?」
「人口過密」
「帰っていいか?」
「いいけど、その場合は、毎日君の家の玄関に、雨に濡れた子猫を段ボールにいれて届けるから」
「そんなの玄関に居たら飼うしかねーな。てか、毎日ってどこから調達すんだよ」
「それは国家秘密です」
 胸を張りながらそう答える僕を見て、大場がため息を吐いた。
「ため息を吐くと幸せが逃げるよ。そして、君の顔はさらに不幸顔に――」
「だから、ため息を吐かせてるのはお前だろうが!」
 大場がさらにため息を重ねる。
「そんな細かいこと気にするなよ。かつて、街道いちの妹好きと呼ばれた君の名が泣くぞ?」
「そんなもんで騒ぎ立てる街道になんて行ったことねーよ! てか、いいかげんそこから離れろって言ってるだろうが!」
 大場が本気で怒り始めた。何とも短気な奴である。
「亮平さん……私のこと忘れてませんか?」
 完全に蚊帳の外に置かれていた鏡子が、赤く腫らした目でこちらを睨みつけながら言った。
「いやいや、何をおっしゃいますやら。この私めが敬愛なる鏡子様の存在を忘れるはずがないではありませんか」
 僕がそう言うと、鏡子は長い長いため息を吐き出した。どうやら嘘と見抜かれたようだ。英国紳士的微笑まで浮かべて答えたのに、一体どこがいけなかったのだろうか。
「まあ、その、なんだ……とりあえず、牛乳でも飲むかい?」
 二人に向かってにへらと笑いながらそう言うと、即座に「いらん!(いりません!)」という返事が返ってきた。
 やはり、現代っ子のカルシウム不足は深刻なようである。


「で、とりあえずいろいろ実験して見ようと思うんだけど……君の目からは、鏡子ちゃんの姿は全く見えないのかな?」
 僕の問いかけに大場が頷く。
「姿もだけど、声も聞こえないぜ」
 僕は鏡子をちらりと見た。何だかんだ言いながらも、鏡子は僕の持ってきた牛乳をおいしそうに飲んでいた。
「そうか……それは残念。今、鏡子ちゃん裸なのに」
 鏡子が飲んでいた牛乳を盛大に吹き出した。
「おい……お前、絶対わざとだろ?」
 鏡子の吹き出した牛乳を顔で受け止めた大場が、青筋をたてながら言う。
「いやいや、これも実験だからさ。鏡子ちゃん、タオル持ってきてくれる?」
 鏡子があわてふためきながらタオルを持ってきて、大場の顔を拭き始めた。
「君の目から見て、鏡子ちゃんの持ってるタオルは見えるのかな?」
「ん? ああ、そう言われれば服は見えないのに、タオルは見えるな……」
「いや、服は着てないから。鏡子ちゃんすっぽんぽぶへっ」
 大場の顔を拭き終わったタオルが飛んできた。
「嘘言わないでください!」
 顔にへばりついた牛乳臭いタオルを手で退けながら、頭の中で整理する。
「……つまり、身に着ける物は見えなくなるってことなのかな? 鏡子ちゃん、もう一度牛乳飲んでくれる?」
 鏡子が口を尖らせながらも素直に僕の指示にしたがって牛乳を飲み始めた。
「これはどう? コップは見えてると思うけど、牛乳はどこで消えてる?」
「さっきの牛乳は意味ねーんだな……ったく」
 僕の問いを受けて、大場が鏡子の持つコップを凝視する。
「えいっ」
 なんとなく誘惑に負けて鏡子の脇腹をつついてみた。またも鏡子の口から牛乳が盛大に吹き出す。
「おまえな……」
 大場が顔から牛乳を滴らせながら、僕を睨みつけてきた。
「いや、悪い……つい誘惑に負けちゃって。それより、どうだった?」
 大場の顔を先程のタオルで拭いてやりながら、再び問う。
「コップは見えた。牛乳は口の所から消えるような感じだな」
 大場が青筋を浮かべながらもそう答えた。
「そっか……じゃあ、鏡子ちゃん、念のためもう一度牛乳をのぐぶっ」
「二度とやりません!」
 鏡子はいきなり立ち上がると、そう叫びながら、僕の脳天に踵落としを食らわせてきた。かなり痛い。
「鏡子ちゃん。冗談抜きで頭が陥没しそうだからやめてくれるかな? てか、パンツ丸見えだし」
 鏡子のスカートの下は今日も花柄だった。
「見ないでください!」
 鏡子が真っ赤な顔でスカートを押さえる。
 いまさらそんなことをしても遅いし、自分から見せておいて見るなはないだろうと思ったが、鏡子が怖い顔で睨んでいるので心の中で呟くに止どめておいた。
「さあ、脱線はここまでにしておいて、真面目にやろうか?」
 脱線させてるのはお前だとでも言いたげな二人の視線が突き刺さってきたが、かまわず続ける。
「えーと、タオルやコップは見えてたんだよね? 君はそれに違和感を持たなかった?」
 タオルやコップがひとりでに宙に浮かんでいるのを目撃したにしては、大場の反応は妙に薄かった。
「ああ……そういえば、そうだな。なんでだか、あまりおかしな感じがしなかったな……どういうことだ?」
 僕は腕を組むと、大場の言葉を頭の中で整理した。
「どうも、ただ見えないってだけじゃないみたいだね……なんだろう? 鏡子ちゃんの存在が他の人間に知られるのを邪魔してるような感じだよね……」
 僕の言葉に鏡子と大場が揃って首を傾げた。
「なんでそういう結論になるんだ?」
「結論って言うとちょっとあれだけど……つまりさ、さっきのタオルなりコップなりを見て、みんなが騒ぎ立てたとするよね」
 二人が僕を見ながら頷いた。
「すると、そこに誰かがいるんじゃないかということになるはずだ。でも、実際はそうじゃない。タオルが浮かんでても違和感を持たないから、そこに誰かがいたとしても気付かない」
 大場が僕の言わんとすることを察したのか、ポンと手を叩いた。
「そういうことか……つまり、鏡子ちゃんの存在を隠そうと、何かの力が働いているって事か?」
 大場の問いかけに僕は頷いた。
「それが何のためで、どうして鏡子ちゃんを選んだのかはまったく分からないんだけどね……」
 僕の言葉を聞いた大場が腕を組ながら唸る。
「何か、オカルトな話になってきたな……。それっぽいことに鏡子ちゃんの方は心当たりはないのか?」
 大場が僕の方を見ながら尋ねる。
「いや、とりあえず怪しそうな行動とかは全部検証して見たんだけど、さっぱり……あいにく僕はそっち方面のことは疎いから、見落としが無いとは言い切れないけど……」
 僕の言葉に大場がまた考え込む。
「そっか……俺の従兄弟に禰宜(ねぎ)やってる人がいるから、その人に今度来て貰うように頼んでみるわ」
「本当か? 禰宜さんに相談出来るのはありがたいけど、信じてくれるかな?」
 心配そうに尋ねる僕に、大場は胸を張って「大丈夫だ」と答えた。
「お前と違って俺は嘘つかない性格だからな。……それに、その人ちょっと変わっててな。たぶん、付き合ってくれると思うぞ」
 どう変わっているのかが少し気になったが、この際、贅沢は言ってられない。
「あの……大場さんの従兄弟さんはネギを作っているんですか?」
 鏡子が真面目な顔で横から聞いてきた。
「えーと……うん、そうなんだ。彼の従兄弟の作るネギは甘みがあって非常に美味しいと評判でね。県外からも買い付けにくる人がいるほどなんだ」
 僕の説明を聞いた鏡子がゴクリと喉を鳴らす。
「その人が丹精込めて育てたネギを今度僕達にごちそうしてくれるらしいんだよ」
 鏡子の瞳が期待に輝き始めた。
「おナベに焼きネギ、ネギみそ、ネギマ。さあ、魅惑のネギワールドに君をご招待ぐへっ」
 調子に乗って嘘八百を並べていたら、大場に思いっきり頭を叩かれた。
「人の従兄弟を勝手にネギ栽培業者に仕立てあげんじゃねえ! ……ったく。いいか、鏡子ちゃん。禰宜ってのは、宮司……神社に務めてる人間の呼び名だから。こいつの言ってることは出鱈目だから信じるなよ」
 大場の言葉にショックを受けた鏡子が、がっくりと肩を落とした。
「真実を知ることが幸せとは限らないんだよ? ほら、鏡子ちゃん、あんなに落ち込んじゃって……」
 鏡子に哀れみの視線を向けながらそう言うと、再び大場に頭を叩かれた。
「最初っから真実を伝えてやれ」
「君は僕がそんなことの出来る人間だと思うのかい?」
 僕の問いかけに大場はため息を吐きながら首を横に振った。
「さっぱり思わねえな。……何で俺はこんな男と友達やってるんだろ……」
 大場が頭を抱えながら真剣に悩み始めた。その向かいでは、鏡子がうつろな瞳で「ネギ、ネギ……」と呟いている。
 そのあまりにカオスな光景を感慨深く眺めていたら、突然、鏡子が僕の腕を掴んだ。
「えっと、鏡子ちゃん? 目が据わっててなんだか怖いけど、どうしたの?」
 鏡子は僕の問いかけ全く反応せず、じっと持ち上げた僕の腕を見ている。
 何だか非常にいやな予感がする。
 その予感を肯定するかのように、鏡子が僕の腕を見つめながら、ちいさく「ネギ……」と呟いた。
「あの……分かってるとは思うけど、いま君が手にしているのは僕の腕であって、断じてネギでは――」
「ネギー!」
 鏡子は僕の言葉を遮るようにそう叫ぶと、大口を開けて僕の腕に噛み付いた。



十七.


「あー、鏡子ちゃんもそう思うか。中西ってホントにそういうところ馬鹿だよなー」
「そうそう、意外とむっつりだし。鏡子ちゃん、気を付けた方がいいぞ。こいつの趣味は限りなくダークだから」
「そうだよなー。本当にどこをどうしたら、こんなふざけた人間ができあがるのか、俺もそこんところがさっぱり分かんねーんだ」
「あー、分かる分かる。こいつとしゃべってると、時々殺意を覚えるよな〜」
「あの……」
「うるさい、黙れ! 俺はいま鏡子ちゃんとしゃべっているんだ! お前の出る幕なんか1ミリたりとも無えと思え!」
 ひどい言われようだ。
 一人寂しく腕に包帯を巻き付けている僕をよそに、大場は鏡子と楽しく談笑していた。
 大場が鏡子の存在を認識できないので、本来ならば僕がその間に入りこまなければ、話をすることすら出来ないはずなのだ。だが、二人は現在、完全に僕を無視して意志の疎通に成功してしまっている。 
 なんとも寂しい限りだ。
 ここはひとつおもしろトークでも炸裂させて、無理やりにでも二人の会話に参加したいところではあるが――。
 鏡子をちらりと見る。
 鏡子は僕と目が合うと、にっこりと笑いながら、手にもったペンで、メモ帳の上にかわいらしい丸文字の文章を綴った。

[亮平さんのバカ。大バカ。激バカ]

 泣きたくなった。
「鏡子ちゃん、こんなバカの相手なんかしなくていいから。ほっとけよ」
 大場の言葉を受け、鏡子が再びメモ帳の上に[そうですね]とペンを走らせる。
 それから再び二人は、声とメモ帳とでの楽しい会話を再開した。
 僕は包帯を巻き終えると、ソファの上でひざを抱えながらその光景を横目で眺めた。
「ふん、ドラゴンボールがそろったら、絶対、世界からメモ帳を無くしてやるからな」
 僕の独り言は、二人の楽しい笑い声によって空しく掻き消されただけだった。


「もう、いつまで拗ねてるんですか……」
 大場が帰った後、床にのの字をかき続けていた僕に、鏡子が呆れたように声をかけてきた。
「ふん、いいんだいいんだ。どうせ鏡子ちゃんは、僕なんかと話してるより、大場と一緒の方が楽しいんだ」
「そろそろ機嫌を直してください。それに、元はと言えば亮平さんが悪いんじゃないですか」
 まあ、それはそうなのだが、それでも僕としては鏡子が僕から離れていくような気がして少しばかり寂しい。例えるなら、初めてお家に友達を連れきてた我が子を見る親の心境と言ったところだろうか。嬉しくはあるけども、それ以上にちょっぴり寂しい。もっとも、その寂しさは一時的なものではあるだろうけど。
 ちらりと鏡子を横目で見る。
 目が合うと、鏡子はにっこりと笑った。
 その笑顔につられて、思わずこちらも微笑んでしまった。
「機嫌は直りましたか?」
 鏡子が笑顔で問う。
 反則だ。
「これでまた拗ねたりなんかしたら、僕がバカみたいじゃないか。……まあ、バカはバカなんだけどね。バカでその上、駄目人間。プラスαで変態さんだ」
 幾分自嘲的に呟くと、予想どおり鏡子は首を横に振った。そして、笑顔のままで僕に言う。
「バカと変態さんは否定しませんけど、亮平さんはちっとも駄目人間なんかじゃないです。亮平さんがいなかったら、私は今頃どうなっていたか……」
 なにげにバカと変態を肯定されたことに少し傷ついたが、それでも自分を認めてくれる人間がいるということは素直に嬉しい。
「……私は、そんな亮平さんのことが好きですよ」
 言い終わると同時に、鏡子が耳まで真っ赤にして俯いた。無論、そういう意味での好きではないのだろうが、そういう意味に取られても仕方の無いセリフだ。
「ありがと、鏡子ちゃん。そんなふうに言ってくれるの両親だけだったからさ」
 茶化してもよかったのだが、なんとなく素直に礼を言った。
「僕も鏡子ちゃんのことが大好きだよ。本当にありがとう」
 鏡子に向かって頭を下げる。だが、鏡子はそんな僕を見て、赤みの抜けない顔のまま、少し不満そうに口を尖らせた。
「えっと、また何か気に障ること言ったかな? 一応、まじめに感謝の気持ちを伝えたつもりだけど……」
 僕の言葉に、鏡子は小さくため息を吐き出すと、仕方が無いとでも言うように笑みを浮かべた。
「まあ、いいです。許してあげます」
「えっと、何のことだかさっぱり分かんないんだけど……」
 首を傾げる僕に、鏡子が悪戯っぽく笑う。
「分かんなくていいですよ。でも、いつかは気付いてくださいね」
 気付いても何も、こちらにはさっぱり分からないのだが。
 その後、いくらたずねても、鏡子は「それはないしょです」と答えるだけだった。


 翌日、早速大場から連絡があった。
 例の禰宜さんからOKを貰ったとのことだ。ただし、こちらに来てくれるのではなくて、神社の方に訪ねて行くことが条件だそうだが。
「よかったね。それほど遠いところじゃないし、明日にでも大場と一緒に行ってみようか?」
「……そう、ですね」
 喜んで頷くだろうと思っていたのだが、予想に反して鏡子からは元気の無い返事しか返ってこなかった。
「えーと、鏡子ちゃん?」
 返事はない。
 鏡子は、僕の声が聞こえていないかのようにぼーっとしている。
 おかしい。そういえば、今日は朝からなんとなく様子がおかしかった。
「ちょっといいかな?」
 鏡子の額に手を当てる。
「これ……ぜったい熱あるよ……」
 急いで体温計をもって来て鏡子に熱を測らせる。
「39度もあるよ……すぐに病院に――は駄目なのか。とにかく薬!」
 あわてて薬を探しに行こうとした僕の手を鏡子が掴んだ。
「大丈夫ですから……」
「39度も熱があって大丈夫な訳が――」
「大丈夫です」
 慌てる僕に、鏡子が笑みを向ける。
「私、風邪ひくとよく熱を出すんです。熱は出ますけど、2、3日で治りますから心配しなくていいですよ」
 どこか焦点の定まらない瞳で僕を見つめながら鏡子が言った。
「ごめん……。ちょっと慌てすぎたね。でも、ホントに大丈夫?」
 僕の呼びかけに、鏡子は力強く頷いた。
「わかった。でも、治るまでは部屋で安静にしててね。用事があれば、何でも言ってくれればいいからさ」
 僕の言葉を受け、鏡子が「うーん」と考え込む。
「それじゃあ、モモ缶を……」
 鏡子が少し恥ずかしそうに、風邪で寝込んだ子供の定番要求を口にした。
「了解。ついでに、プリンも作ってあげようか?」
 鏡子が元気良く「はい!」と返事をした。
「それじゃ、部屋で横になって待っててね」
 鏡子を部屋に連れて行くために手を握ると、鏡子は嬉しそうに微笑んだ。
「亮平さん……」
「何?」
「風邪ひくと、いいことがいっぱいあるんですね。モモ缶に、プリン、それから……」
「まだあるの? 用意できるものなら何でも言っていいけど、消化の悪いものは駄目だよ」
 鏡子がつないだ手に目を落としながら、プッと吹き出す。
「食べ物じゃないです。それに、お願いする前に叶えてもらえましたから」
 僕は嬉しそうに笑う鏡子に首を傾げたまま、鏡子を部屋まで連れて行った。
 しっかりと鏡子の手を握り締めたままで。


「大丈夫か!」
 玄関のドアを開けるなり、大場が叫んだ。
「うん、結構頻繁に熱を出す体質らしいし、食欲もあるから心配はないと思うけど」
「思うけど、って何だよ! 鏡子ちゃんの部屋はどこだ!」
 大場のあまりの慌てっぷりに、先程の自分を重ね合わせて思わず苦笑を漏らす。
「笑ってる場合かよ! ほら、頼まれてたやつ! それより、鏡子ちゃんはどこだ!」
 頼んでおいたモモ缶とかぜ薬(結局、家には無かった)を僕に押し付けつつ、大場が矢継ぎ早にまくし立てる。
「鏡子ちゃんの部屋はそこ。でも、行く前にちょっとは落ち着けよ」
「これが落ちついてられるか! 鏡子ちゃん、大丈夫か!」
 大場が僕を押し飛ばして、鏡子の部屋に向かって突進して行った。
「まったく……」
 僕はため息を吐きつつ、大場の後を追って鏡子の部屋に向かった。
 大場の狼狽は、鏡子に対する好意の表れでもある。大場の気持ちは僕としても嬉しい限りだが、あのままでは、かえって鏡子を疲れさせてしまいそうだ。
「鏡子ちゃん!」
 大場が大声で叫びつつ、勢いよく鏡子の部屋の扉を開け放った。
「鏡子ちゃん、大丈夫か?」
 大場が心配そうに、ベッドの傍らに座り込んで声をかける。
「欲しい物があれば、何でも言ってくれよ……。おい、中西! 鏡子ちゃんは大丈夫なのか!」
 部屋の入り口に立った僕は、鏡子の姿を見て、返答に困ってしまった。
「どうなんだよ!」
「どうって……とっても困ってる」
 大場は再びベッドに顔を向けると、心配そうな声をだす。
「困ったことがあれば、何でも言ってくれていいからさ」
 僕は仕方なく鏡子の声を大場に伝えてやることにした。
「えーと……とりあえず、出てけって言ってるよ」
「遠慮なんかしなくていいぜ。俺にできることがあるなら何でもするからさ」
 大場は目に涙さえ浮かべながら、鏡子が横になっているであろうはずのベッドに優しく声をかける。
「あのな……鏡子ちゃん、そこにはいないぞ」
「なんだと! 鏡子ちゃん、何処にいる!」
 大場が取り乱したように部屋を見回す。
「君のすぐ横。……ちなみにパンツ一枚だから」
「何ふざけたこと言ってんだよ! 風邪ひいてんのに、パンツ一枚で過ごすバカがどこにいるんだ! 冗談もほどほどにしろよ!」
 激昂する大場の横で、当の鏡子は手で控えめな胸を隠したまま、例の花柄模様のパンツ一枚の姿で怒りにぷるぷると震えていた。
「あのね……鏡子ちゃん、いま着替え中なんだよ」
 大場の横で、怒りの限界を迎えた鏡子が片手で大場の頭をがしっと掴んだ。
「出てってください!」
 鏡子は体を反らして勢いを付けると、大場の鼻目がけて全力で頭突きを食らわせた。


「ここはどこだ?」
 鏡子の頭突きを食らって気絶していた大場がようやく目を覚ました。
「ここは極楽だよ」
 両方の鼻にティッシュを詰め込んだ痛々しい姿の大場に優しく告げてやる。
「君の生前の妹に対する帰依の心が御仏に通じたのさ」
「そんなものに反応する奴は御仏にはなれねーだろ。てか、いつから妹は信仰の対象になったんだよ」
 大場が鼻を押さえながら起き上がった。
「強がりを言うなよ。関東妹連合の初代総長とは思えないセリフだぞ?」
「死んでもそんな名前の族には入りたくねーな」
「とぼけるなよ。それとも、『俺は妹のために、この抗争に終止符を打ってやる』って、涙を流しながら僕に熱く語ってくれたのは嘘だったというのか?」
「どんだけ熱い男なんだよ、そいつは。ちょっとそいつが格好よく思えてきたぜ」
「謙遜はよせよ。君のことじゃないか、おっぱいなめなめ君」
「台無しだな。なにもかもが」
「親からもらった名前に自信を持てよ」
「どの角度から見ても、その名前に自信を持てる要素は存在しねーな。てか、俺の名前は大場要だ」
「前世の記憶を引きずるのはいいかげんよせよ」
「現世の名前だ!」
 大場が疲れたように、大きくため息を吐き出した。
「なあ……それより、鏡子ちゃんは?」
 大場が鼻を押さえながら、心配そうに聞いてきた。
「大丈夫。モモ缶食べて、いま眠ったところだから」
 大場が安堵の息を吐く。
「そっか……じゃあ、俺は帰るわ」
 大場が立ち上がった。
「いいのか? 何だったら鏡子ちゃんの目が覚めるまでここで待っててもいいぞ?」
 僕の言葉に、大場は首を横に振って答えた。
「いや、また騒ぐといけないからな。どうも、俺は心配性でな。鏡子ちゃんにも謝っておいてくれ」
 大場はそう言うと、玄関に向かった。靴を履き、扉を開けようとしたところで振り返る。
「何かあったらすぐに連絡いれろよ」
 大場が真面目な顔で言った。
「なんて言うか、鼻にティッシュが詰めてあるだけで、真面目な顔も滑稽に見えるな」
 正直な感想を述べると、大場がため息を吐き出した。
「お前がそんなだから、余計に心配になってくるんだよ」
「いや、悪い。何かあったら連絡入れるからさ。あまり心配するなよ」
「ああ。それじゃ、鏡子ちゃんのこと頼んだぞ」
 心配症の友人は最後にそう言い残して僕の家を後にした。
 大場の消えた扉を見つめながら、僕は両親が死んだ直後のことを思い出していた。
 あの時も、大場は今と同じように、真剣に僕のことを心配してくれていた。大場がいなかったら、もしかすると、僕はこの世界自体から逃げ出していたかもしれない。
 僕は心の中で礼を言いつつ、親友の消えた扉に向かって静かに頭を下げた。



十八.


「はい、あーん」
 鏡子が少し恥ずかしそうに口を開く。
 そこにレンゲに掬ったお粥を入れてやる。
「どうかな? おいしい?」
 鏡子が恥ずかしそうにコクリと頷いた。
「よかった。はい、あーん」
「あの……やっぱり恥ずかしいです」
「はい、あーん」
「一人で食べられますから……」
「はい、あーん」
 鏡子が観念したようにまた口を開いた。
「前から一回やってみたかったんだ、これ。何か、思った以上に恥ずかしいね」
「だったら、やめてください」
「はい、あーん」
「………」
「あーんしないと食後のプリンはあげないよ」
 音がしそうな勢いで鏡子の口が開かれた。
「いや、恥ずかしいけど、何か、やみつきになりそうだね、これ」
「うぅ……食欲に勝てない自分が情けないです……」
 鏡子が涙を流しながらお粥を口に入れる。
「まあまあ、食欲があるのはいいことだしね。はい、あーん」
 その後、鏡子は『プリンのため、プリンのため』と呟きながら、お粥の容器が空になるまで、従順に口を開き続けた。


「亮平さん、一緒に寝てくれませんか?」
 食後のプリンをきれいに平らげ、ベッドに横になっていた鏡子が突然そう言った。
「えっと……いきなりそんなこと言われても、僕にも心の準備というものが……」
「ち、違います! そういう意味じゃなくて――」
 鏡子が真っ赤な顔であたふたと否定する。普段ならもう少しこのネタでいじってみたいところだが、さすがに体調を崩した鏡子にそこまでするのは気が引けるのでやめておいた。
「わかってるよ。冗談だから。僕も心配だし、今日はこっちに布団を持ってきて寝ることにするよ」
 僕の言葉を受け、鏡子がほっと息を吐き出す。
「すみません……」
「いいよ、気にしないで。こういう時は心細くなるものだしね」
 ベッドの上の鏡子に優しくほほ笑みかけると、鏡子の方もまた笑みを返してくれた。
「なんだか、こんなに良くしてもらって……私、幸せですね」
「どうしたの、急に?」
 鏡子はふるふると小さく首を横に振った。
「なんでもないです。それより、大場さんには悪いことしちゃいました。せっかく心配してきてくれたのに……怒ってませんでしたか?」
 心配そうに聞いてくる鏡子に、僕は首を横に振って答えた。
「元はと言えば、あいつが悪いんだしね。あいつも、鏡子ちゃんに謝っておいてくれって言ってたよ」
「そう、ですか……本当にいい人ですね、大場さんって」
 鏡子の言葉に僕は頷く。
「うん。あいつはいいやつだよ。何をするにも真剣でさ。時々その真剣さが、間違った方向に進むことはあるけどね。……僕はあいつと親友で本当に良かったと思ってる」
「亮平さんの口から大場さんの褒め言葉が出るなんて驚きです」
 鏡子の言葉に僕は苦笑を漏らした。
「まあ、本人には恥ずかしくて言えないけどね。これでも、あいつにはいろいろと感謝してるんだよ」
「全くそうは見えませんけどね」
 鏡子がそう言って笑った。
「それより、もう寝なよ。だいぶ熱は下がったみたいだけど、ここで無理すると長引くかもしれないし」
 鏡子は僕の言葉にコクリと頷くと、素直に目をつぶった。だが、しばらくすると、方手をぴょこっと布団の外に出してきた。
「えーと、鏡子ちゃん?」
 鏡子は僕の問いかけには答えず、代わりに布団の外に出された手が何かを促すように上下運動をし始めた。
「はいはい、分かったよ」
 僕は仕方なく、差し出された鏡子の手を握ってやった。
 鏡子が満足そうに微笑む。
「寝るまで握っててあげるからね」
 僕がそう言うと、鏡子が小さくコクリと頷いた。
 しばらくすると、ベッドの上から、規則正しい静かな寝息が聞こえ始めた。


 夜中、ベッドの横に布団を布いて眠っていた僕は、鏡子のうなされる声に目を覚ました。
「鏡子ちゃん、大丈夫?」
 返事はない。
 起き上がって鏡子の額に手を当ててみるが、熱はほとんど無いようだった。
「悪い夢でもみてるのかな……」
 起こそうかと迷っていると、鏡子が苦しい息の間に寝言を口にした。
「……お母さん……お父さん。私……ここにいるよ?」
 どうやら、ここに来る前のことを夢にみているようだ。
 鏡子の頬をひとすじの涙が伝う。
 鏡子の母と会ったあの日のことを思い出し、胸が締め付けられる思いがした。
「鏡子ちゃん……いつか、きっと元に戻してあげるからね」
 決意を新たに鏡子の頬についた涙を指で拭おうとしたら、いきなり、腕をがしっと掴まれた。
「鏡子ちゃん?」
 起きたのだろうかと顔をのぞき込むが、鏡子は眠ったままだった。寝顔が先程よりも穏やかになっているところをみると、どうやら悪夢はもう終わったようだ。
 ほっと安堵の息を吐き、鏡子が目を覚まさないようにそっと掴まれた手を引きはがそうとした。だが――。
「全然離れない……相変わらずすごい力うわっ!」
 引きはがすどころか、逆に引っ張られてしまった。
「いきなり引っ張らないでよ……って、ちょっと……鏡子ちゃん?」
 鏡子はまだ寝ていた。
 どうやら無意識にやったらしい。
「えっと、どうしよ、これ……」
 鏡子の寝顔が目の前にある。
 そして、鏡子の体はベッタリと僕にくっついていた。
「さすがにこれは……」
 布団の中に僕を引っ張り込んだ鏡子は、僕に抱き枕のようにしっかりと抱き着いていた。
 しっとりと汗に濡れたパジャマ越しに伝わる鏡子の柔らかい肌の感触と、微かに感じる寝息とが僕に良からぬ感情を抱かせてくる。
 なんとか抜け出そうと身をよじるが、鏡子の手足がしっかりと僕の体に食い込んで身動きが取れない。
「亮平さん……」
 鏡子が幸せそうな寝顔を浮かべながら呟く。
「……大好きですよ」
 そういう意味の好きではないと重々分かってはいるのだが、自分のいま置かれている状況と相俟って、思わずドキッとした。
「これは……ある意味拷問だね……」
 大声を出して起こそうかとも思ったが、せっかく寝付いているのだし、なんとか我慢することにした。
 朝までずっとこのままということもないだろうし、隙をついて逃げ出すことにしよう。
 だが、それから何時間待っても、鏡子は一向に力を緩めてはくれなかった。そして、睡魔に負けてしまった僕は、鏡子に抱き抱えられたまま、夢の世界に落ちた。


「な、ななな、なななななっ!」
 翌朝、僕は鏡子のそんな叫び声で目を覚ました。
「えっと……ないかくかんぼうちょうかん?」
 起きぬけに軽くボケてみた。
「ちがいます! なんで私が朝一番にそんな単語を口にしないといけないんですか!」
 僕は欠伸をすると、目をこすりながら鏡子の額に手を当てた。
「ん……熱は完全に下がったみたいだね。どう、具合は?」
「あ、はい。おかげさまですっかり――じゃなくて! どうして亮平さんが私のベッドで寝てるんですか!」
 僕はもう一度欠伸をすると、両手を天井に突き上げ、大きく伸びをした。昨日はずっと無理な体勢で寝ていたから、体の節々が妙に痛む。
「えっと、説明するとね。僕は被害者の方なんだよ……」
 僕は昨夜の出来事を鏡子に聞かせてあげた。
「すると、私は一晩中亮平さんを抱っこしてたんですか?」
 顔を真っ赤に染めながら聞いてくる鏡子に、コクリと頷いてやる。
「うぅ……一晩中、一緒に……」
「そんなに気にしなくても……どうせ隣りで寝るはずだったんだし、それがちょっと近づいただけだと思えばさ」
 あまりにかわいそうなので慰めてやった。
「それはそうですけど……」
 鏡子は何かに気づいたように、自分のパジャマの匂いを嗅ぎ始めた。
「えっと……僕、そんなに臭い?」
「ちがいます。亮平さんじゃなくて、私……汗くさい……こんな汗くさいのに一晩中……うぅ……死にたいです」
 鏡子がこの世の終わりでも迎えたような顔でベッドに突っ伏す。
「汗なんて誰でもかくものだし、気にすることないよ。それに、それほど嫌な匂いじゃなかったし……」
 というか、感触のほうが気になって、匂いなど気にする暇はほとんど無かった。
「シャワー……浴びてきますね……」
 僕の慰めもあまり功を奏しなかったようで、鏡子はよろよろと立ち上がると、タンスから着替えを取り出して、ふらふらとした足取りで部屋から出て行った。
「うーん、僕が悪い訳じゃないのに……罪悪感があるのはなんでだろう?」
 ひとり残された僕はそう呟いてみたが、当然ながら誰も答えてはくれなかった。


「今日もいい天気ですね〜」
 自転車の後部座席で、僕にぴったりと抱き着きながら鏡子が言った。
「うん、ちょっと暑いけどね」
 夏の日差しが容赦なく僕らを灼いていた。
「私は風が当たって気持ち良いですけど、亮平さんはこいでるから暑いですよね……まだしばらくかかりますし……ちょっと代わりましょうか?」
「いいよ。一応病み上がりなんだし、おとなしく座ってて」
 僕の言葉に鏡子が楽しそうに「は〜い」と返事をした。
 鏡子が熱を出してから、三日が過ぎていた。
 次の日には熱も下がって体調もすっかり良くなってはいたのだが、大事をとって2日ほどゆっくり休ませることにした。
「どんなところですかね〜?」
 後ろから鏡子が尋ねる。
「ん〜、それほど大きくないって言ってたしね〜、そこらによくある神社とそんなに変わらないんじゃないかな?」
 僕たちはいま、大場の従兄弟が禰宜をやっているという神社に向かっていた。できれば大場も一緒に連れて行きたかったのだが、親戚の法事があるとかで、一週間ほど家を空けるとのことなので、仕方なく二人で行くことにした。
「それよりも、僕はその禰宜さんがどういう人間かの方が気になるよ」
 大場が『変わっている』と言うほどの人間だ。どんな奇人変人が現れるか分からない。
「大場さんの従兄弟だったら、きっといい人ですよ」
 鏡子が屈託のない笑顔を浮かべながら言う。
 まあ、それについては僕も同意見だ。そういう人間でなければ大場も僕に紹介しなかっただろう。だが、いい人が必ずしもまともな人間であるとは限らない。
「それも会えば分かるか……」
 僕はそう呟くと、自転車をこぐ足にさらに力をいれた。
 鏡子の浅葱色のワンピースの裾がパタパタと風になびいた。


「う〜ん……旅行のときに行った神社とは比べ物にならないけど、やっぱり神社は神社だね」
 目的の神社についた僕たちは、鳥居のすぐ横に自転車を停めると、境内へと足を踏み入れた。
 規模は小さいが、大きな樹木がまばらに生えていて、歴史を感じさせる。
 樹木の間を通り抜けてくる日差しは、先程より幾分柔らかく、そして透き通っているような気がした。
「なんだか気持ち良いですね〜」
 鏡子が上機嫌で玉石を踏み締めながら歩いて行く。
 僕も笑顔で鏡子の後に続いた。
 社の前に二人で並んで立つと、僕は財布を取り出し、5円玉を二つ取り出した。一枚を鏡子に手渡し、もう一枚を賽銭箱に投げ入れ、柏手を打って手を合わせる。鏡子もすぐに僕に続いて賽銭を投げ入れ、手を合わせた。
「さて、お参りも済んだところで、さっそく禰宜さんとご対面と行こうか?」
 僕がそう言うと、鏡子は社の中をのぞき込んだ。
「でも、留守みたいですよ。それに、この建物、人が住んでるようには見えないです」
 鏡子はそう言いながら首をひねった。
「当たり前だよ。ここは神様がいる建物だから。神社の人が住んでるのは別の建物だよ。ほら、ここに張り紙があるだろ?」
 社の太い柱に[御用の方は裏手にお回りください]と書かれた紙が張り付けられていた。
 社の横を通り裏に回ると、さほど大きくない木造の平屋があった。玄関には[大場]と書かれた木製の表札がクギで張り付けられている。
「ここで間違いないみたいだね」
 僕は幾分緊張しつつ、表札のとなりにある呼び鈴のボタンを押した。建物の中から「ピンポーン」という音が微かに響いた。次いで、女の人の「はーい」という声が聞こえた。
 緊張しながら待っていると、数秒後、玄関が内側から開けられ、中から綺麗な女の人が顔を出した。



十九.


「うちの神社に何か御用かしら?」
 微笑みを浮かべながら女の人が僕に尋ねる。
 年齢は三十歳くらい。どこかおっとりとした印象を受ける顔立ち。そして、肩までかかる髪は艶やかな黒色で、陽光を綺麗に反射していた。
 なんというか、僕のストライクゾーンど真ん中だった。
 僕は、暫し呆然と女性を見つめた後、ようやく口を開いた。
「えっと、あ、あの、その……け、結婚してくだばはっ!」
 鏡子に思いっきり頭を叩かれた。
「いきなり何を言ってるんですか!」
「あ、いや、ごめん。あまりに綺麗な人だからつい……」
「亮平さんは綺麗な女の人を見ると、すぐに結婚を申し込むんですか!」
「ごめん、ちょっと動転して……」
 気を取り直して女の人と向かい合う。女の人はちょっと驚いたように目をぱちくりさせていた。
 僕は一度咳払いして気を落ち着けると、女の人に向かって再度口を開いた。
「失礼しました。僕と婚約してくだばらふぁあ!」
 横から鏡子のハイキックが飛んできて、見事に僕の顔面にヒットした。
「さっきと変わってません!」
 顔面を押さえながら何とか立ち上がると、女の人と目があった。女の人は笑っていた。
「あなたが中西君ね?」
「そうですけど……」
「聞いてた通り面白い人ね。えっと、鏡子ちゃん……も、いるのよね?」
「え? それじゃあ、大場の従兄弟って言うのは……」
 女の人は笑みを浮かべたまま手を横に振る。
「違うわよ。私は女だから宮司にはなれないでしょ? 要君の従兄弟は私の旦那」
 頭の中で「ガーン」という大きな音が響いた。先程の結婚云々は冗談ではあるが、好みの女性に夫がいるという事実はかなりショックだった。
「そうそう、自己紹介がまだだったわね。私は大場冴子(おおば さえこ)よ。よろしくね。さあ、主人は中にいるから、上がって」
 僕は一分の間に終わった電撃的な恋の痛みを胸に、冴子に招かれるまま、力無くその後をついて行った。


「やあ、君が中西君だね?」
 冴子に先導されて通された6畳ほどの和室には、男が一人座っていた。
「えっと……」
 男の姿に戸惑い、助けを求めるように冴子に視線を向ける。
 冴子は微笑みながら頷いた。
「一応、この人がこの神社の宮司よ」
 冴子の紹介に男が眉を顰める。
「一応とは失礼な。正真正銘、僕がこの神社の宮司だよ」
 男の抗議に冴子が苦笑を漏らす。
「そんな格好してるからでしょう。ほら、中西君も困ってるじゃない。ねえ?」
 冴子の言葉にどう答えればいいのか分からず、僕は曖昧に愛想笑いを浮かべた。
「人を姿形で判断するものじゃ無いよ、君」
 男が僕に向かって言った。男の意見には僕も同意したいところではある。だが――。
「あのね、それにも限度ってものがあるでしょう? 仮にも神社の宮司を務めている人がそんな格好してたら、誰だって驚くわよ」
 冴子が僕の意見を代弁してくれた。
 僕はあまり人の格好など気にしない方ではあるのだが、さすがにこの宮司の格好はどうかと思う。
 宮司は擦り切れて破れたジーンズに、大きな髑髏がプリントされたTシャツという姿だった。それだけなら、百歩譲って奇抜な服装の宮司だと納得してもいいだろう。だが、髪を金髪に染めあげ、両方の耳に、合わせて10個以上もピアスをジャラジャラとつけている人間を、誰が宮司だと認めるだろうか。
「いまお茶を持ってくるから、二人とも座って」
 冴子が宮司のテーブルを挟んで向かい側に座布団を二つ並べた。
 僕は座布団に腰を下ろすと、苦笑いを浮かべつつを鏡子を見た。
 すると、鏡子はあからさまにぷいっとそっぽを向いた。
「鏡子ちゃん?」
 僕は立ち上がると、鏡子の向かい側に回り込んだ。

 ぷい。

 またそっぽを向かれた。
 なぜかは知らないが、鏡子はかなりご機嫌が斜めになっているようだった。
「何か気に障ることしたかな、僕……」
 首を捻って考えるが、それらしいものは思い浮かばない。
「中西君……少しは落ち着いて座ったらどうかね?」
 宮司が呆れたように言った。
「それから、鏡子ちゃん……も、いるんだね?」
 宮司の問いかけに僕はコクリと頷くと、再度、座布団に腰を下ろした。
「初めまして。要君から話には聞いているんだけどね。確証を得るためにも僕の手を握ってみてくれるかな?」
 宮司が鏡子の座る座布団の前に手を差し出す。鏡子がその手をためらいがちに握ると、宮司がにこりと笑顔を浮かべた。
「やあ、これはすごいね。見えないのに君は確かにここにいる。まるで透明人間じゃないか。いや、ほんとにすばらしい」
 宮司はまるで子供のように握った手を上下に動かしながら喜んでいる。対する鏡子は、どういう反応をすればいいのか分からず、困っていた。
「あら、若い娘の手を握るのがそんなに嬉しいのかしら?」
 冴子がお茶を載せたお盆を手に、宮司に冷たい視線を向けていた。
「いや、違うんだよ、冴子さん。これは純粋に好奇心からでた行動であって、断じて邪な感情はないからね」
 宮司がパッと手を離し、すぐさま釈明した。だが、冴子はそれでも宮司に冷たい視線を向けたままテーブルにお茶を置くと、宮司の隣に座った。
 この様子から見るに、この宮司はかなり尻に敷かれているようである。
 宮司がコホンと咳払いをした。
「ま、まあ、それはともかく、早速本題に入ろうか。――と、自己紹介がまだだったね。僕は大場和秋(おおば かずあき)。この神社で一番偉い人間だよ」
「あなた一人しかいないんだから当たり前でしょう」
 冴子の冷静な突っ込みが入る。
「いいじゃないか。嘘じゃないんだし、これは気分の問題だよ」
 そう言いながら、宮司はお茶を一口啜った。
「さあ、それじゃあ、気を取り直して。君の身の上に起きた出来事を話してくれるかい?」
 僕は懐からメモ帳とペンとを取り出すと、幾分緊張した様子の鏡子の前に置いてやった。


「ふむ。やはりそういうことになるのか……」
 僕と鏡子から話を聞き終えた宮司は腕を組ながらそう呟いた。
 宮司の姿を見た時は正直あまり期待はできないと思っていたのだが、その容姿とは裏腹に、宮司は巧みな話術で僕達から、鏡子の身に起きた不可思議な現象と、それに至るまでの経緯を余すところなく聞き出した。
「何か分かったのか?」
 僕がそう尋ねると、宮司は曖昧に頷いた。
「要君から話を聞いた時から目星はつけていたんだけどね。まあ、これは多分間違いないだろうね」
 宮司が鏡子の座っている方に目を向けた。
「鏡子ちゃんは旅行の時、神社に行ったって言ってたけど、何か願い事はしたのかい?」
 鏡子がメモ帳の上に[はい]と書いた。
「神社って事は、これは神罰なのか? やっぱり、鏡子ちゃんが神社でおしっこしたのがはうっ!」
「してません!」
 鏡子の肘が脇腹に刺さった。
 かなり痛い。
「いやいや、そうじゃない。それに、おしっこしたくらいでそこまで怒るような神様はいないと思うからね」
 宮司の言葉に、鏡子がすぐに[してませんから]とメモ帳の上にペンを走らせた。
「それより、その願い事はかなったのかい?」
 鏡子が少しためらいながら、再びメモ帳の上に[はい]と書いた。
「これはおそらく……神様の仕業だ」
 宮司の言葉に僕と鏡子はそろって首を傾げた。
「さっき神罰じゃないって言ってなかったか?」
 僕の言葉に宮司が目を細める。
「違うよ。神罰じゃない。これは……対価だ」
「対価?」
 宮司は頷くと、再び鏡子に目を向けた。
「君の名前は管乃鏡子で間違いないよね?」
 鏡子がメモ帳に再度[はい]と書きたす。
「そうなると、やっぱりそれが一番可能性としては高いかな」
 一人納得する宮司とは対称的に僕と鏡子はさっぱり何のことか分からなかった。
「あなたが一人で納得しても仕方がないでしょう。二人にもしっかり説明してあげなさい」
 冴子が僕達二人の気持ちを代弁してそう言ってくれた。
「ああ、そうだね。僕もこんなことは初めての経験で、少しばかり舞い上がってしまったよ。いや、ほんとにすまない」
 宮司が僕達に頭を下げる。
「いや、それはいいから、どういうことか説明してくれないか?」
 宮司はひとつ頷くと、今回の出来事の解答を僕達に語り始めた。
「鏡子ちゃんの存在を消したのは、まず神様で間違いないだろうね。言うなれば、鏡子ちゃんは神隠しにあったわけだ。そして、その理由は、その神社の神様が鏡子ちゃんの願いを叶えた対価だと思って間違いないと思うよ」
「でも、鏡子ちゃんの願いが叶ったのは、こうなった後なんだけど……」
 鏡子が僕の言葉にコクリと頷いた。
「まあ、話は最後まで聞くものだよ。いいかい? 神様に願い事をする時はね、先にお賽銭を投げるだろう? お供え物だって、願いを叶えてもらった後に献上するとは限らない。むしろ、相手は神様だ。こちらが願いを立てるなら、先にお供えをするのが流儀というものじゃないかい?」
 それはそうかもしれない。だが――まだ納得がいかない。
「でも、どうして鏡子ちゃんが選ばれたんだ?」
 神社で願い事をする人間など数え切れないほどいるだろう。なのに、なぜ鏡子だけがその中から選ばれたのかが分からない。
「それはね……彼女の名前だよ。彼女の名前は管乃鏡子……別の漢字を当てるなら――」
 宮司がメモ帳の上にペンを走らせる。

 ――神。

 ――乃。

 ――供。

 ――娘。

「神の供物として捧げられた娘。つまり、鏡子ちゃんは願いを叶えるために自分の存在を差し出しちゃったというわけだよ」
「いや、たかが名前だろ? いくら何でもそんないいかげんな……」
 だが、僕の問いに宮司が首を横に振りながら答えた。
「たかが名前。されど名前さ。名前ってのは、そのもの全てを指す言葉だからね。それに、神様って言うのはとかく名前に意味を持たせるのが大好きな存在だから。縁起物やなんかは語呂合わせや言葉遊びのような感じの物が多いだろ? それと一緒さ。だから鏡子ちゃんのことも、そう勘違いしたとしても仕方がないよ」
 確かに言われてみれば、先程、賽銭として5円玉を投げ入れたのも、ご縁がありますようにという、言わば駄洒落のようなものである。まだ納得いかない部分もあるが、相手は神様だ。その意図の全てを理解しようというのは無理なのかもしれない。
「う〜ん……原因についてはなんとなく分かったよ。……でも、肝心なのは、どうやったら元に戻せるかって事だ……」
「それについても考えが無いでもないよ」
 宮司があっさりと言った。
「「本当か!(本当ですか!)」」
 僕と鏡子が思わず身を乗り出す。
「まあ、確実ってわけじゃないけどね」
 宮司はお茶を一口啜ると、僕の顔をじっと見てきた。
「ここで重要になってくるのが君の存在だ」
 突然の指名に僕は首を傾げた。はっきり言って、神様相手に僕ができるようなことがあるとは思えなかった。
「鏡子ちゃんが見えなくなったのは両親が最後だって話だからね。多分、その神様は、美味しい物は最後にとって置くタイプだったんだろうね」
 ますます意味が分からない。
「それが僕とどういう関係があるんだ?」
「君だけがどうして鏡子ちゃんを見ることができるのか、そこのところが僕にもいまいち分からないんだけど……まあ、両親より美味しい食べ物には見えないしね。さしずめ、食べ残しってところだろう」
「すると、僕は茶碗にへばり付いた御飯粒みたいなものなのか?」
「まあ、そんなところだろう。ともかく、皿まできれいになめる神様じゃなくて良かったじゃないか」
 鏡子のことを考えれば、食べられなくて良かったとは思うが、正直、食べ残しと言われるとあまりいい気持ちはしない。
「さて、ここで問題だ」
 宮司が僕に問う。
「食べた物はどうすれば戻ってくるかな?」
「うんこ」
 即答したら鏡子に叩かれた。
「まあ、それも間違いではないんだけどね。でも、それじゃあ、元の食材とは似ても似つかない物になってしまうから却下だ。……何も難しいことじゃない。逆の手順で吐き出してもらえばいいだけのことさ」
「ゲロか?」
 またまた鏡子に頭を叩かれた。
「言い方は汚いけど、そういうことだね。食べた物が消化されてないかちょっと心配だけど、やってみる価値はあると思うよ」
「でも……神様相手にどうやって?」
 当然の疑問を宮司にぶつける。
「それも簡単さ。鏡子ちゃんがこういうことになった原因を取り除いてやればいい」
「というと、願い事をしなかったということにするのか?」
 さっぱり意味が分からないままにそう聞くと、宮司は首を横に振った。
「いや、そうじゃない。過去に戻ることが出来るって言うなら、それでもかまわないんだけどね。……だから、もう一つの原因をどうにかする」
 僕はようやく宮司の言わんとすることを理解した。
「つまり、鏡子ちゃんの名前の方をどうにかする?」
 宮司がニヤリと笑いながら手を打ち鳴らす。
「正解だ。鏡子ちゃんがこうなった原因は彼女の名前にある。だから、名前さえ変えてあげれば、神様も自分の間違いに気付いて、食べた物を返してくれるかも知れないだろ?」
 確かに道理は合っている……ような気はする。
 だが、それにしたって簡単とは言い難い。
「でも、名前を変えるなんて、簡単にはできないよ。第一、役所の人間にも鏡子ちゃんの姿は見えないんだし……」
「何も戸籍をいじれとは言ってないさ。あくまで形だけでいいんだよ」
 宮司の言葉にほっと息を吐き出す。
「それじゃあ、簡単だな」
「いや、そうでもないよ」
 宮司がお茶をすすりながら言った。
「形だけと言っても、何もしない訳にはいかないんだよ。神様ってのはその形というのを重視するんだ。だから神の前で、それなりの儀式を執り行って、改名を認識させないといけない。そして、本人にも改名したことを強く認識してもらわないといけない」
 宮司の言いたいことは分かったが、何をすれば良いのかがいまいちピンとこない。
「具体的にどういうことをすればいいんだ?」
「ここで君の存在が重要になってくる。何と言っても君は、唯一、鏡子ちゃんの姿が見える存在だ。君と関連づけるのがベストだろう。そうだね……いっそ、養子縁組でもして、鏡子ちゃんを君の子供ということにしようか?」
 二十二でいきなり十四歳の子持ちというのもどうかと思うが、そんなことを言っている場合でも無いだろう。
 同意を得るため鏡子を見ると、彼女は泣きそうな顔をしていた。もしかすると、両親との絆を断たれるように感じているのかもしれない。こんな調子では、改名を意識するのは難しいだろう。
「養子はだめらしい。他の方法は無いか?」
 僕の問いかけに宮司が腕を組んで考え込む。
「う〜ん、まあ、一番改名を認識しやすいのは結婚なんだけど……こればっかりは本人の気持ちがあるからね。こっちの方が難しいかもしれない」
「……そうだな。鏡子ちゃんは中学生だし、さすがに結婚はまずいよな」
 へたすれば、犯罪だ。へたしなくても犯罪だが。
 だが、宮司は僕の言葉を聞いて、首を横に振った。
「だから、あくまで形の問題なんだよ。……何も、鏡子ちゃんにいやらしいことをしろって言ってる訳じゃ無いし、法的な手続きを取る訳じゃ無いから、なにも問題は無いんだ。ただ、本人が改名をすんなり受け入れるほどの想いを抱けるか……平たく言うと、君のことが好きかって事だね」
「ん〜、さすがにそれは……」
 嫌われてはいないと思う。むしろ、好かれていると思う。だが、そこに恋愛感情は伴っていないだろう。
「亮平さん……」
 鏡子に袖を引っ張られた。
「なに?」
 見ると、鏡子は顔を真っ赤にしていた。
「私……亮平さんと結婚してもいいです」
「へ?」
「私、亮平さんのことが……好きですから」
「いや、冗談はほどほどに――」
「冗談じゃないです! 私、本当に亮平さんのことが好きなんです!」
 怒らせてしまった。
「どうやら、彼女はOKしたようだね」
 宮司が笑みを浮かべながら言う。
「君も覚悟を決めたらどうかね。女子中学生と結婚できるなんて経験めったにできないよ」
 あたりまえだ。そんなことは日本の法律が許していない。
「いっそ、僕と代わってあたたたたた! ごめん、冴子さん! 僕が愛してるのは君だけだから!」
 笑顔で冴子が宮司の耳を引っ張っていた。
「天地神明に誓って君以外の女性に手を出したりなんかしませんから! お願いだから、許して! ほら、とれるとれる!」
 冴子がようやく手を放した。なんとか宮司の耳は無事だった。
「で、どうするんだい?」
 耳をさすりながら宮司が問う。
 僕はため息を吐くと覚悟を決めた。
 鏡子にここまで言わせておいて、僕がしりごみしたのではさすがに格好悪すぎるだろう。
「お願いしていいか?」
 そう言うと、宮司は満足そうに笑いながら言った。
「安くしておくから安心してくれ」
 その笑顔を見て、僕は何だか無性に不安になった。



二十.


「和秋さん……変わってましたね」
 家に帰ってきて、ようやく鏡子が口を開いた。
 鏡子は宮司の家を出てから、一言もしゃべらなかったのだ。
 そして僕もーー鏡子に何を言っていいのか分からなかった。
「そうだね。僕もあんな宮司さんは初めて見たよ。でも、格好は変だけど、妙に落ち着いた雰囲気があったよね」
 僕の言葉に鏡子が頷く。
「ですね。少し子供っぼいところもありましたけど。……なんだか、不思議な人でした」
「うん、そうだね……」
 言葉が停滞し、沈黙が場を支配する。
「ねえ……」
 沈黙に耐えられずに口を開く。
「はい……」
 鏡子が俯いたまま返事をした。
「さっきのあれは……本気なのかな?」
 宮司の家で聞いた好き≠ヘ、確かにそういう感情を込めた好き≠ノ聞こえた。
「迷惑……ですよね」
 断じてそんなことはない。
 相手が鏡子のようなかわいい女の子ならなおさらだ。
 だが――。
「やっぱり、私みたいな子供じゃなくて、冴子さんみたいな大人の女の人じゃないと……」
 鏡子がようやく顔を上げた。
 鏡子は――泣いていた。
 涙で濡れた瞳がしっかりと僕を見つめる。
「ごめんなさい、亮平さん」
「本気……なんだね?」
 鏡子がコクリと頷く。
 実は、鏡子の好き≠ヘ、年上の男性に対する憧れのような気持ちではないかと思っていたのだが、この様子ではそうではないらしい。
 ため息をひとつ吐く。
 鏡子のからだがビクリと震えた。
「やっぱり迷惑――」
「いや、そんなことはけしてないよ。むしろ嬉しい」
 鏡子の言葉を遮るように本心を口にする。
「冴子さんのことを気にしていたけど、あれは冗談みたいなものだったから。なんて言うかな……確かに冴子さんのことは綺麗だと思うけど、でもそれは恋愛感情というか、憧れに近いものなんだよ。でね……君のも、もしかするとそれじゃないかと――」
「違います!」
 鏡子が涙を流しながら叫ぶ。
「うん、そうだね。最初は僕に対する想いもそうじゃないかと疑ってたんだけど……違うみたいだね」
 鏡子が真剣な顔で頷く。
「正直……僕には分からないんだよ」
 そう言いながら、僕は鏡子に向かって笑みを向ける。
 向けられた鏡子が思わず戸惑ってしまうほどの情けない笑みを。
「僕は……今まで真剣に人を好きになったことが無いんだ。だから――」
 本当はこんなことを言うべきではない。
 適当に好きなふりをして、鏡子との婚姻の儀に望む方が、鏡子が元に戻る確立は高いのだ。それは僕だって分かっている。
 でも――それはひどく不実な気がした。
 鏡子は真剣に想いを伝えてくれた。だとしたら、僕もそれに答える義務がある。鏡子のように、自分の心を偽りなく相手に伝える義務が。
「君の気持ちがよく分からない。……人に対してそういう好き≠ニいう気持ちを抱くことが、どういうものなのか理解できないんだよ。……ねえ、鏡子ちゃん。君は……僕のどんなところが好きになったの?」
 問われた鏡子は、ひとつ息を吐き呼吸を整えると、真っすぐに僕の顔を見ながら言った。
「全部です。優しいところも、ふざけてすぐに人を怒らせるところも。……それから、こういうふうに、私の想いを真剣に受け止めてくれるところも」
 胸を張ってそう答える鏡子が、少し羨ましかった。
 そんな風に人を好きになるのは、一体どんな気持ちなのだろうか。
「ありがとう。出来れば、君の気持ちに応えてあげたいけど、今の僕には無理なんだ……。でも、結婚式の日まで真剣に自分の想いと向き合ってみることにする。そのうえで、君の想いに対する答えを決めるよ。結果はどうなるか僕にも分からないけど……それでいいかな?」
 結婚式は十日後だ。考える時間は十分にある。
「はい。その間に私の魅力をいやって程、亮平さんに分からせてあげますから、覚悟しておいてくださいね」
 鏡子がいたずらっぽく笑いながらそう言った。


 結婚式当日。社の中には祭壇が設けられていた。
 そして――。
「なあ、何で君がそんなところにいるんだ?」
 その祭壇の上に、なぜか、古めかしい豪華な衣装に身を包んだ大場が座っていた。鏡子と冴子は衣装を着付けるため、そして、宮司はなにか用があるらしく、この場所には僕と大場以外の人間はいない。
 ちなみに僕は黒の紋付き袴という格好だ。
「お前……和秋さんの話、聞いてなかったな」
 大場が呆れ顔で言った。
「ごめん。……ちょっと考えごとしてたからさ」
 あれから十日が過ぎたが、僕はいまだに鏡子に答えを告げることができないでいた。十日もあればさすがに答えが出せるだろうと思っていたのだが、考えれば考えるほど、逆に自分の想いが分からなくなっていくような気さえした。
 だが、それでもなんとか答えを出そうと、僕はここに来てからもずっとそればかりを考えていたのだ。
 大場が僕を見ながら小さく息を吐き出す。
「お前と鏡子ちゃんの結婚式を、鏡子ちゃんが願いごとをした神様に見てもらわないといけないだろ?」
 そういえばこの間、宮司がそんなことを言っていた気がする。
「だから、俺と和秋さんでその神社に行って、俺の体にその神様を取り憑かせて――は失礼か……とにかく、いま俺の中に神様がいるんだよ」
「大場が神様……いや、大バカな神様か」
「何で言い直した!? 最初のでいいんだよ!」
 ふむ、良い突っ込みだ。神様になっても大場の突っ込みは衰えないようで少し安心した。
「でも、何で君が神様なんだ? もっとそれっぽい人とかに頼んだほうがいいような気がするんだけど」
 はたして、大場のような素人の体に神様を降ろしても大丈夫なのだろうか。
「ああ、それは俺も思ったんだけどな。和秋さんが言うには、俺が適任だそうだ。一応、鏡子ちゃんのことも知っているし、それに、俺の名前がそういう役にぴったりなんだそうだ。大場――神様を受け入れるに足る大きな場を持ち、さらに、要――重要な役割を担うに足る人間……だそうだ」
 大場はそう言いながら、ポリポリと頬をかいた。どうやら少し照れているらしい。
「照れるなよ。僕は以前から君の名前のすばらしさに気づいていたんだぜ。おまたなめなめ君」
「すばらしさのかけらもねーな。てか、そんな名前の奴は神様もお断りだろう」
「何罰当たりなこと言ってんだよ。両親が大切な思いを込めて付けてくれた名前じゃないか?」
「んな名前に思いを込める両親とは即行で絶縁だな」
「悲しいこと言うなよ。両親と一緒に立てた全日本妹選手権制覇の誓いを忘れたのか?」
「どんな競技だよ! てか、人の親まで勝手に変態に仕立てあげんな!」
 大場がため息を吐く。
「本当にお前は変わんねーな。ったく……」
「なあ、大場……」
 大場に向かってそう呼びかけると、大場はものすごく驚いた顔をした。
「僕、何か変なこと言ったか?」
「い、いや、初めてまともに名前を呼ばれたから、びっくりしただけだ」
 大場は自分の聞いたものが信じられないのか、しきりに頬をつねっては首を傾げている。
「失敬な奴だな。僕だってたまには普通に君の名前を呼びたくなるときだってあるさ」
「お前の方が失敬な奴だ」
 大場の突っ込みを無視して、ため息を吐く。
「なんだよ。どうかしたのか?」
 いつもと違う雰囲気を感じたのか、大場がわずかに心配を滲ませながら聞いてきた。
「君は……誰かを好きになったことはあるかい?」
 僕の言葉に、大場がようやく合点が行ったというように小さく頷く。
「まだ……答えが出ねーのか?」
 大場の言葉にコクリと頷く。
 一応、大場には前回の事の経緯をすべて伝えたおりに、鏡子からの告白と、それに対する僕の思いとを素直に打ち明けていた。
「まったく……普段いい加減なのに、こういう時にばっかり真面目に悩みやがって」
「でも、鏡子ちゃんは真剣だったから……。それなのに、僕がいい加減な答えを出すのは失礼だろ?」
 大場はひとつ息を吐き出すと、祭壇から飛び降りた。
 僕に向かって。
 両足を揃えて。
 つまり、いつぞやの鏡子のように。
 思わず懐かしさに見入ってしまった。
 結果、当然ながら――。
「ぐぼぁっ!」
 大場のドロップキックは見事なまでに、僕の顔面にヒットした。
「何すんだよ!」
 僕の当然の抗議を、大場は鼻息ひとつでやり過ごし、逆に僕を睨みつけてきた。
「このままだと鏡子ちゃんがかわいそうだから言っておいてやる。……いいか? たとえ俺の恋愛観を聞いたところでお前の答えのたしにはなんねーよ。だいたい、好かれた相手に失礼どうのこうので答え出そうとすんじゃねえ! こういうのはもっとシンプルでいいんだよ! お前は鏡子ちゃんと一緒に暮らして楽しかったか?」
 大場の迫力に圧されて、僕は素直に頷いた。
 確かに、鏡子との日々はとても新鮮で、楽しかった。
「じゃあ、これからも鏡子ちゃんと一緒にいたいと思うのか?」
 僕はしばし考え、それから、当たり前のようにコクリと頷いた。
 大場は満足そうに笑うと、再び祭壇の上に鎮座しなおした。
「まったく……神様に余計な手間かけさせんじゃねーよ」
 どこか恥ずかしそうにそう言う親友に、僕は素直に「ありがとう」と頭を下げた。


「どう? 手探りだけで着付けたから、やっぱりおかしいかしら?」
 巫女衣装の冴子が僕に尋ねる。だが、僕は呆然としてそれに答えることができなかった。
「やっぱり変?」
 心配そうに再び尋ねる冴子の言葉に、ようやく我を取り戻す。
「い、いえ、全然おかしくないです。ただ……鏡子ちゃん、すごく綺麗で……」
 鏡子は白無垢に身を包み、唇には小さく紅がさしてあった。
 僕の言葉を聞いて、鏡子が恥ずかしそうに顔を伏せる。
「少しだけ、お化粧もしたのよ。こればっかりは私がやる訳にもいかないから、鏡子ちゃんに自分でやってもらったの。随分、鏡とにらめっこしてたみたいだけど、その甲斐があったようね」
 冴子が鏡子がいるであろう空間に微笑みかける。
「やあ、みんな揃っているようだね」
 宮司が社の入り口から顔を出した。
 その姿を見て、またも僕は呆然とする。
「ん? 僕の顔に何か付いているかい?」
 宮司が僕の顔をのぞき込む。
 宮司の顔には何も付いていない。だが、金髪だった髪は黒く塗り直され、ジャラジャラ音を立てていたピアスも綺麗さっぱりなくなっていた。その上、神事に使う装束を纏い、烏帽子を被ったその姿は、雰囲気たっぷりでほとんど別人と言っても過言ではない。
 僕の様子を見ていた大場と冴子が揃って吹き出す。
「和秋さんのこの姿を見ると、みんな驚くよな」
「ほんとね。私なんて、いまだにこの姿に馴染めないわ」
 二人の言葉を聞いて、宮司が不機嫌そうに眉を顰める。
「僕だって好きでこの姿をしてる訳じゃないんだ。さすがにいつもの姿で神様の前に出るわけにもいかないから、仕方がないだろう」
 宮司の方も一応、普段のあの格好が神事に向かないことは認識しているらしい。
「さあ、そんなことより――」
 表情を引き締めた宮司が祭壇の前に進む。
「君達の婚姻の儀を始めようじゃないか」
 宮司はクルリと振り向いて僕たちを見渡すと、よく通る声で、結婚式の開始を宣言した。


 なんだかとても緊張する。
 横に座る鏡子も僕と同じ心境なのか、カチコチに固まっていた。
 緊張に固まる僕らの前で、宮司が祭壇に向かって厳かな声で祝詞を読み上げている。
 それを祭壇の上に座りながら聞いている大場もまた、僕たちと同じようにひどく緊張している様子だ。
 祝詞が終わり、宮司が振り向いた。
「冴子さん、よろしく」
 冴子が三つの杯を乗せたお盆のような物を僕たちの前に置いた。
「さあ、三々九度の杯だ。まずは新郎の君が一番上の杯を手にとってくれるかい?」
 宮司の言葉に従い、杯を手に持つ。
「冴子さんがお酒を注いでくれるから、それを三度口に入れる動作をするんだ。本当は三度で飲み干すのが正しいやり方だけど、鏡子ちゃんも未成年だし、口を付けるだけで構わないからね」
 手に持った杯を冴子に向かって差し出すと、冴子がそこに朱塗りの銚子を三度傾け、お酒を満たした。
 こぼさないように、三度お酒に口を当て、元の場所に杯を戻す。
「さあ、鏡子ちゃんも同じようにしてくれるかな。終わったら、その杯は脇に置いて、順番を交替して、その下の杯で続けるからね」
 鏡子が杯を手にとり、酒を注いでもらう。
 鏡子は酒の入った杯にそっと口を付け、わずかに三度傾け、その杯を脇に置いた。
 その後、鏡子から僕へ。そして、もう一度、僕から鏡子に杯が渡され、ようやく三々九度の杯が終わった。
「ここで新郎、新婦に、誓詞を読み上げてもらう。本当は堅苦しい定型文があるんだけど、今日は鏡子ちゃんに自分の婚姻を強く意識してもらうためにも、君たち自身の言葉で神に誓いを立ててくれればいい」
 僕は宮司に頷くと、鏡子と向かい合った。
「鏡子ちゃん、綺麗だよ」
 鏡子が照れながらも「ありがとうございます」と返す。
「結婚式の日までに答えを出すって約束だったよね?」
 僕の言葉に鏡子がコクリと頷く。
「僕と――」
 鏡子の瞳が祈るように僕を見つめる。
「結婚してもらいたい」
 鏡子が一瞬呆けた顔をし、それが次第に泣き顔に変わっていった。
「本当……ですか?」
 僕は嬉しそうに泣く鏡子に向かって頷いた。
「まだ、本当は結婚出来る年齢じゃないけどね。でもいつか……いつか、僕と本当に結婚してもらいたいんだ。もちろん、鏡子ちゃんが嫌じゃなければだけどね」
 これが僕の出した答えだった。
「君の返事を聞かせてくれるかな?」
 鏡子の肩が震え出す。
「そんなに泣くとせっかくのお化粧が崩れちゃうよ」
 懐からハンカチをとりだし、涙と、それから鼻水で濡れた鏡子の顔に優しく当てる。
「う……だ、だって……亮平さんが悪いんじゃないですか……。うぅ……け、結婚式でプロポーズするなんて」
 鏡子が顔を突き出しながら言う。
 鏡子の顔に優しくハンカチを当てながら、微笑みかける。
「どうかな? 今度は君が答える番だよ」
 鏡子はしっかりと僕の顔を見つめながら、にこりと笑った。
 そして――。
「ふつつか者ではございますが、よろしくお願いします」
 深々と僕に頭を下げた。
「ありがとう、鏡子ちゃん」
 頭を上げた鏡子と笑顔を交わすと、僕たちは揃って祭壇に顔を向けた。そして、祭壇の上に座りながら、僕たちに祝福の笑みを向ける神様代理に向かって、僕は大声で誓を立てた。
「僕、中西亮平は、管乃鏡子を妻として、一生大事にすると誓います!」
 僕に続いて、鏡子が大場に向かって誓を立てる。
「私、管乃鏡子は、中西亮平さんを夫として、一生愛し続けると誓います!」
 誓が終わると、どちらともなく手を伸ばし、しっかりと互いの手を握り締めた。
「よかったな、鏡子ちゃん。おい、中西! お前、鏡子ちゃんを泣かせやがったら、しょうちしねーぞ!」
 僕は、神様代理の役と、花嫁の父親役を同時にこなすなんとも忙しい親友に苦笑を漏らす。
「さあ、誓は終わったようだね」
 宮司が前に進み出た。
「次は指輪の交換をしてもらう所なんだけど、指輪がないからね。その代わり、二人に神前で誓の口づけを交わしてもらう。いいね?」
 宮司の言葉に、僕は鏡子と向かい合った。鏡子が照れながらも、顔を上げ、目を閉じる。
 鏡子の肩をつかむと、僕はその小さな唇に、そっと自分の唇を重ねた。
 しばらくして、唇を離すと、互いに照れ隠しに微笑みあった。
 宮司は満足そうな笑みを僕に向けると、鏡子がいる空間に話しかける。
「中西鏡子。これが中西亮平君と契った君の新しい名前だ。いいかな?」
 鏡子が恥ずかしそうに、だが、しっかりと頷いた。
 どこかで、パチンと何かが弾ける音がした。
「いや、これは……」
 宮司が驚いたように言う。
「綺麗なお嬢さんじゃないかね」
「あの、私……」
 鏡子が宮司に物問いたげな視線を向ける。
 宮司が鏡子の視線に答えるように、ひとつ頷いて見せた。
 満面の笑みを浮かべながら、鏡子が僕に抱き着く。
「本当に見えるのか?」
 僕の問いかけに宮司が頷く。
「いや、半信半疑だったけど、なかなかどうしてうまくいったじゃないか」
 宮司の言葉に、僕は眉値を寄せた。
「あんた、あれだけ言っておいて、本当は自信なかったのか? もし駄目だったらどうするつもりだったんだよ」
 宮司は少しも悪びれる様子もなく、僕にニヤリと笑って見せた。
「駄目だったら、他の方法を探せばいい。人生はそれなりに長いんだ。一度失敗したくらいで諦めなきゃいけないなんて馬鹿げてるだろう?」
 宮司の言葉を聞いた冴子が笑いだす。
「私がこの人のプロポーズされた回数教えて上げましょうか?」
 冴子の言葉に宮司が顎に手を当て考える。
「九十八回……だったかな?」
 宮司の答えに、冴子が「ちがうわよ」と言って笑う。
「九十九回よ。八十回目辺りからOKしてもいいかな、とは思ってたんだけど、せっかくだから、共白髪になるまでって験をかつごうと思って九十九回まで待ってたの」
「ひどいな。その間、僕が何回泣いたと思ってるんだい」
 宮司が冴子に恨みがましい視線を向ける。
「あの……もし98回でプロポーズを諦められちゃったら、とか思わなかったんですか?」
 鏡子が冴子に問う。冴子も鏡子の姿が見えているようで、鏡子を笑顔で見つめながら答えた。
「ちっとも思わなかったわ。そうでしょ?」
 冴子の問いかけに、宮司は胸を張りながら答えた。
「もちろん。1000回でも続けるつもりだったよ。心から望む物があるなら、絶対に諦めるべきじゃないと僕は思っているからね」
 正直、この宮司にはかなわないと僕は思った。



【エピローグ】


「さあ、頑張れ、僕」
 尻込みしそうになる自分を励ます。なんとか気持ちを立て直すと、呼び鈴に手を伸ばした。
 鏡子が元に戻ってから、ちょうど今日で二週間が経っていた。
 あの結婚式の日に家に送り届けてから、鏡子には一度も会っていない。
 電話だけは毎日しているのだが、直接会うことだけは僕が拒否してきた。
 無論、心変わりをしたわけではない。
 むしろ、心を固めたのだ。
 あれから、二週間が過ぎ、九月に入った。
 鏡子の学校が始まり、そして、僕は無職ではなくなった。
 知り合いの伝を頼り、なんとか見つけた仕事は、小さな出版社の見習い編集者だった。
 覚えることは山ほどあって、正直しんどいと思うけど、それでもなんとか頑張って続けるつもりだ。
 その決意が出来たので、僕はようやくここを訪ねる決心をした。
 管乃と書かれた表札を、緊張した面持ちで見つめながら呼び鈴のボタンを押す。
 しばらく待ったが誰も出てこない。
 留守だろうか?
 念のためもう一度呼び鈴を押そうとした時、家の中から鏡子の悲鳴が聞こえた。
 思うより速く体が動いた。
 すぐさまドアノブに手をかける。
 カギは開いていた。
 ドアを乱暴に開け放ち、靴を脱ぎ捨てると、悲鳴の聞こえた方に一目散で進んだ。
「鏡子ちゃん!」
 リビングにたどり着くと、そこにお気に入りだった浅葱色のワンピースを着た鏡子の姿があった。
 鏡子は筋肉質の巨漢に床の上で組み敷かれ、その男から逃れようと必死にもがいていた。
 鏡子が僕に気付いて驚きの顔を浮かべる。
「亮平さん?」
 僕は男に飛びつくと、背後から僕の倍はありそうな首に手を回して締め上げた。
 だが男は、僕を背に乗せたまま軽々と立ち上がると、僕の襟首をつかんで簡単に引きはがした。男はそのまま僕の体を自分の眼前に吊り下げる。
 絶体絶命だ。
 でも、男の体つきを見た時から、この結果は分かっていた。
「鏡子ちゃん、逃げて!」
 鏡子に向かって必死に叫ぶ。
 幸い、男が立ち上がってくれたので、鏡子は自由に動けるようになった。このまま家の外に出れば、男も鏡子に手出しは出来ないだろう。
 鏡子が立ち上がる。
「僕のことはいいから早く!」
 男の注意を引き付けるべく、吊り下げられた状態のままむちゃくちゃに手足を振り回す。
「私とやる気かね」
 男が口を開いた。
 そこで僕はようやく男の顔を見た。
 厳ついが、どこか優しそうな雰囲気の顔だった。
 その顔を、僕はどこかで見たことがあるような気がした。
 男は僕の顔を見ながらニヤリと笑うと、僕の体を天井すれすれに持ち上げた。
「さあ、覚悟はいいか?」
 男の低い声に、僕は自分の死を覚悟した。
「鏡子ちゃん、早く逃げるんだ!」
 ここに至れば、自分の命などどうでもいい。ただ、鏡子だけはなんとしても守りたかった。
 僕の叫びを受け、ようやく鏡子が動いた。
 ただし、男から遠ざかるのではなく、男に向かって。
「いったい、なにを――」
 僕の抗議の声を遮るように、鏡子が飛んだ。
 そして――。
「私の亮平さんになにするんですか!」
 そんな叫びとともに、渾身のドロップキックを男の顔面に見舞った。
 鏡子の下着は――今日も花柄だった。


「大丈夫ですか?」
 鏡子が僕の手を引いて起き上がらせてくれた。
「うん。僕は大丈夫だけど……」
 足元に転がった男を見る。
 男は、鼻をおかしな方向に曲げたまま、ピクリとも動かなかった。
「大丈夫ですよ。お父さんはこれくらい日常茶飯事ですから」
 鏡子が笑いながら言う。
「えっと、……いまなんて?」
 自分の耳を疑いつつ、鏡子に問う。
 鏡子がニコリと笑った。
「亮平さんに改めて紹介しますね。私のお父さんです」
 鏡子がそう言いながら、倒れた男を指さす。
「お、お、おお、お父さん!?」
 笑顔で「はい」という鏡子と、倒れた男とを交互に見比べる。
 とてもじゃないが、同じ血が流れているとは思えない。
「でも、さっき悲鳴を――」
 そう、僕は鏡子の悲鳴を聞いて駆けつけたのだ。
「ああ、それは、二人で技の研究をしてたら、不意打ちを食らっちゃって……」
 鏡子が恥ずかしそうに笑う。
「でも、さっきの亮平さん、格好よかったです。私、亮平さんに惚れ直しちゃいました」
 頬を赤く染める鏡子とは正反対に、僕は一気に青ざめていった。
「うぅ……鏡子、やり過ぎだぞ?」
 寝っ転がっていた男が、自分の手で鼻の位置を直しながら起き上がった。
「お父さんが悪いんでしょ。亮平さんがケガでもしたら一生口聞かないからね」
 鏡子がそう言って頬を膨らませる。
「いや、軽い冗談じゃないか。だが、仮にも娘を嫁に出す父親としては、少しくらい意地悪もしたくなるというものだろう?」
 苦笑を漏らしつつ男は立ち上がると、改めて僕に向き直った。
「初めまして、亮平君。私が鏡子の父、管乃圭介(かんの けいすけ)だ。今回の件では本当にお世話になった。ありがとう」
 鏡子の父親はそう自己紹介をすると、にこにこと笑顔を浮かべながら大きな手を差し出した。
 僕は当然ながら、差し出された手を握り返すことはせずに、すぐさま床に頭を擦り付けた。


「あの、本当に申し訳ありませんでした」
 ソファに座りながら、テーブルの向かいに鏡子と並んで座る鏡子の父に頭を下げる。
「いや、気にしないでくれ。それより、こちらこそ恐い思いをさせてすまなかった」
 鏡子の父親もまた僕に頭を下げる。
「でも、よくお父さんに立ち向かえましたね。普通の人は顔見ただけで逃げ出しますよ」
 楽しそうにそう言う鏡子にどう答えていいのか分からず、気まずい思いで鏡子の父親に向かって愛想笑いを浮かべようとして――。
「あ……」
 気付いた。
 僕はようやく鏡子の父親に感じた既視感の正体を知った。
「クラッシャー圭介?」
 僕の呟きに鏡子の父親が笑顔で頷く。
 見たことがあるはずだった。
 なぜなら彼は日本で一番の知名度を誇るプロレスラーだからだ。
 その鋼のような肉体もさることながら、華麗な技で相手を翻弄することも得意とする彼は、現在のプロレス界において最強と呼び名の高いレスラーだった。
 その彼の娘であるなら、鏡子のあの強さも十分納得出来る。
「それで、亮平さんはどうしてここに?」
 鏡子がそう言いながら僕の顔をのぞき込む。
 そうだった。
 いきなりこんなことになってすっかり忘れてしまっていたが、僕は大事な用があってこの家を訪れたのだった。
「あの……奥さんは?」
 鏡子の父親に尋ねる。
「お母さんは同窓会に出掛けちゃっていませんよ」
「そ、そうなんですか?」
「ああ、君が来ると分かってたら出掛けなかっただろうに残念だよ。あのおまじないのことでえらく君を気に入ってね。私もそれについては家内同様感謝しているよ」
 鏡子の父親の言葉に、僕は「はあ……」と曖昧に返事をした。
 やはり、事前に電話くらいいれておくべきだっただろうか。自分の計画性のなさに自己嫌悪に陥っていると、鏡子の父親が鏡子にお茶を出すように言った。
 鏡子が素直に立席し、僕と鏡子の父親の二人だけが部屋に残される。
 気まずい。
 ものすごく気まずい。
 ちらりと鏡子の父親を見る。
 鏡子の父親はニコリと笑みを浮かべた。
「亮平君」
 名を呼ばれた。裏返った声で「はい!」と返事をすると、鏡子の父親が豪快に笑った。
「緊張しなくてもいい。何もとって食べるわけじゃないからね」
「はあ……」
 鏡子の父親は僕の顔をじっと見つめながら、ひとつ咳払いをした。
「用というのは、娘のことかな?」
 鏡子の父親にそう問われた僕は、反射的にソファから飛び降り、床に頭を擦り付けた。
 本当は両親ともに揃った時にお願いしたかったが仕方がない。
「娘さんを僕にください!」
 床に頭を擦り付けたまま、鏡子の父親の返事を待つ。
 しばらくして、鏡子の父親の「ふぅ」という小さなため息が頭上から聞こえた。
「なぜ、すぐに来なかった?」
「それは……就職活動をしていたからです。僕、大学を出てから、ずっと働いてなかったんです。でも、鏡子ちゃんをもらいうけるのにそれでは駄目だと思って……それで、友人の伝を使って、小さな出版社ですけど、そこに勤めることがようやく決まって――」
 隠し事はしない。
 ありのままの自分を見てもらう。
 相手はこれから家族になる人間だ。そんな人間に嘘や隠し事などはしたくなかった。
 それに、もしもそれで反対されたとしても、OKを貰うまで諦めなければいいだけだ。僕には鏡子を諦めるつもりなんかないのだから。
「まだ勤め初めて4日しか経ってないんですけど、でも、なんとかやっていける自信が出来たので、今日、こちらにお願いに来ました。……頼りない男だと自分でも思います。でも、精一杯娘さんを守りますので、お願いします!」
 頭上から再びため息が聞こえた。
「娘は……体の弱い子でね。昔は……よく熱を出しては病院に連れて行ったものだ」
 そう語る鏡子の父親の声は、どこか寂しそうだった。
「それを少しでも改善しようと、私と一緒にプロレスごっこをさせていたんだが……いつの間にか、あんなにお転婆な娘に育ってしまった。……正直、嫁の貰い手があるだろうかと密かに心配していたんだよ。だが……それがこんなに早く……」
「すみません……」
 寂しげに語る鏡子の父親に心から謝罪した。
「いや、君が謝る必要はない。寂しくないと言えば嘘になるが……それでも、さっき私に立ち向かって来た君を見て、娘の目に狂いはなかったと確信したよ。……さあ、もう顔を上げてくれ。こんなところを娘に見られたら、また私が怒られてしまう」
「それじゃあ……」
 僕は顔を上げ、鏡子の父親を見上げた。
「ああ、娘をよろしく頼む。この通りだ」
 鏡子の父親が僕に向かって深く頭を下げた。


「お邪魔しました」
 玄関で見送る鏡子の父親に頭を下げる。
「じゃあ、お父さん、行って来るね」
 鏡子が元気に言う。
「ああ、夕方までには戻って来るんだよ」
 父親が少し寂しそうに鏡子に手を振る。
「さあ、亮平さん行きましょう」
 鏡子にせかされて、僕は自転車を押しながら鏡子の家を後にした。
「なんだか、随分久し振りのような気がするね」
 横を歩く鏡子に話しかける。
「そうですね。たった二週間なのに、随分昔のことみたいに思っちゃいます」
 それから、二人で取り留めもない話をしながら歩き続けた。
「ところで、亮平さん。私が神様にお願いしたもう一つのお願い……教えてあげましょうか?」
 突然、鏡子がそんなことを言った。
「その願い事の方も叶ったのかな?」
 鏡子がコクリと頷く。
「あれから、何回か考えて見たんだけど、全然分からなかったよ。せっかくだから教えてくれるかい?」
「いいですよ。じゃあ、ちょっと耳を貸して目を瞑ってくださいね」
 耳を貸すのは分かるとして、なぜ目まで閉じなければならないのかと思ったが、ここは素直に鏡子の言葉に従うことにした。
 歩みを止め、鏡子の方に耳を傾けながら目を閉じる。すると、鏡子の柔らかい手が頬に触れ、それから、もっと柔らかいものが唇に触れた。
 目を開けると、僕の唇の上に鏡子の小さな唇が重なっていた。
 しばらくして、ようやく鏡子の唇が離れた。
「もう一つの願い事は……すてきな人に出会えますように……です」
 そう言って鏡子が恥ずかしそうに笑う。
 僕はしばらくその笑顔に見惚れた後、ようやく我に返った。
 そして、夏の名残を残した日差しを受けて微笑む少女に、今度は僕の方から唇を近づけていった。


−おわり−


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●感想
一言コメント
 ・テンポのよい話で、読みやすかった。キャラクターもそれぞれに魅力があったと思う。
 ・最初から物語に引き込まれ、一気に読まされました。読了感がすごいです。会話のテンポもよく、キャラ一人一人がとてもいきいきしていました。所々に散りばめられた伏線の回収も心地よかったです。
 ・安定した物語でとても読みやすかったです。
 ・悪態を伴う友情。こういう親友の書き方、とても好きです。
 ・話の流れの変化はゆっくりだが、それを感じさせないギャグの応酬に感動!!心温まる最高のラブコメディーだと思いました。
 ・一言しか言わない。読め。そうしたら僕みたいに中毒になってしまうだろう(笑)BYオロチ丸(W0632A)
 ・ここに来て初めて全部読めた長編でした!
 ・透明人間をモチーフなのが乙ですね〜。
 ・単なる『萌え』だけでなく、笑いと泣かせる部分があるのは良し。内容でちょっと無理なトコがあるが話が軽く良いです。
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