高得点作品掲載所      耳達者さん 著作  | トップへ戻る | 


僕が吸う主流煙、君達が吸う副流煙

「君、このままだったら、肺がんになって死んじゃうよ?」
「……は?」
 とある、どこにでもありそうな、大きくもなく、小さくもなく、これといった特徴も無い、中途半端な規模の市民病院。その診察室に置かれている患者用の回転式の丸椅子に座っていた日向彰(ひゅうがあきら)は、言っている意味が分からなく、とりあえず疑問符を出してみた。
「だから、このままじゃ確実に肺がんになっちゃうよ、君」
 彰の口を開けて呆けている顔を無視して、医者はもう一度彰の診断結果を伝える。
「え、は、肺がんって、何で」
 それでも、自分がそんな病に犯されそうになっているなど信じきれずに、彰はどもりながら医者に聞く。それに対し、挙動不審になっている彰を見てもまるで動じない医者は、カルテを取って冷静に対処した。
「君、多分、いや、絶対にタバコを吸ってるだろう。違うかい?」
「え、ええ。吸ってますけど」
 彰が答えた後に、医者は内側からライトが当てられたボードに、一つのレントゲン写真を貼り付けた。
「それが原因だよ。見なさい、この肺を。一般人が見ても分かるくらいに、真っ黒もいいところだろう。これが本当に元はピンク色をしていたのか、疑いたくなる程の黒さだね、これは。私も長年医者をしているが、これほどの物は見た事が無かったよ」
 未だかつて見ぬ黒さに、何か新しい世界を見たような気分なのだろうか。医者は顔に喜色を浮かべながら、彰に説明する。それに相対するように、彰の顔は青ざめる一方だが。
「そ、それじゃあ、僕は肺がんになって死んじゃうんですか? 何とかならないんですか?」
 今にも泣き出しそうな表情で、彰は医者にすがる。その彰の表情になのか、それともまだ救いがあるからなのか、医者は彰に笑って返した。
「大丈夫大丈夫。まだ肺がんになるって、決まったわけじゃない。肺がんにならない方法はあるよ」
「本当ですか!」
 途端、彰の表情は明るくなる。医者は本当に、彰の泣き顔に笑っていたのか。表情は崩さないが、口内から小さく舌打ちが聞こえてきた。
「で、治る方法って何なんですか?」
 自分の聞き違いだろうと、彰はその音を無視して話を進める。もう一度、医者から舌打ちが聞こえたような気がしたが、彰はもうそんな事はどうでもよい。自分が死ぬかどうかの瀬戸際なのだから、相手の心情など構っている場合ではないのだ。
「ん、まあ、簡単な方法だよ。一つの物をやめればいいんだ」
「……えっ?」
 何をやめればいいのか。この話の流れからして、誰でも推測がついてしまうだろう。もちろん彰もその意味は分かっていて、だからこそ医者の言葉を聞いた瞬間、一気に表情が暗くなってしまった。
「そ、そのやめるのって」
 おそるおそる、彰が医者に聞く。しかし返ってきた言葉は、彰の想像した通りの言葉だった。
「もちろん、タバコをやめるんだよ」
(……やっぱり、そうなのか)
 言葉が出なかった。医者からしてみれば、多少禁煙がつらくても、自分の命と天秤にかければ殆どの者は命を選択して、タバコをやめるであろうと思っているから、簡単な方法だと言うのだろう。
「どうしたんだい? このままタバコを吸ってたら、死んじゃうんだよ? やめるしか方法がないだろう」
 しかし、彰はそれが出来ない。タバコを吸うのはやめられない。ニコチン中毒者が言うやめられないなどの言い訳ではなく、本当に、やめたくてもやめられない。
「で、でも僕……」
 彰は、どう言えばいいのか、どう説明すれば分かってもらえるのか分からず、必死で言葉を探す。そんな彰の深刻さを読めない医者は、冗談交じりに、こう言った。
「そんなにタバコがやめられないのかい? まさか、君があのタバコマンってわけでもあるまいに。はっはっは」
「……あ、あはは……」
 何気なく言った医者の言葉に、彰は笑うことしか出来なかった。
 
 
 
「はーあ」
 診察を受け終わった彰は、病院を出て、家に帰るため大きな並木道を歩いていた。まだまだ夏の日差しは厳しく、歩いている人の顔も陰鬱な表情が多いが、彰の今の顔に比べれば、外で元気にカバディを始めだすぐらいに明るく見えるだろう。今の彰の顔は、それほど酷かった。
「このままだったら、肺がんで死んじゃう、か」
 普通に定期健診に行ったつもりが、いきなり死刑宣告を下されるなんて、彰は思っても見なかった。しかも、その原因がタバコで、それをやめろといわれたのが、彰の心を余計に重くさせた。
「僕、これからどうすればいいんだろう」
「どうすればって、今まで通りでいいんじゃないんですかー?」
「うわっ!」
 独り言で言ったつもりだった言葉に、返答がきたことに驚き、彰は体が竦んだ。しかし、声の主が分かった瞬間、体の力は普段以上に抜け落ちていき、更にため息まで出てしまった。
「……何だ、君か。毎回毎回、不意打ちみたいに後ろから声をかけないでよ。寿命が縮んじゃうよ」
「何言ってるんですかー。ヒーローがこんな事で驚いてどうするんです。私が悪人だったら、声どころか何も言わずに釘バットでぶん殴りますよー」
「……以後、気をつけるよ」
「はい、そうしてくださいー」
 自分の意思と関係なく、彰はまた、ため息を吐く。この顔を見ればため息、それは恒例になりつつある事である。
 艶やかな黒髪をあえて押さえ込むかのような、ショートボブの髪型。目は丸く、鼻は低く、そちら系の人が見ると、そのままさらって行きたくなるような童顔。その顔に全く合わない、これからどこかの就職活動に行っても全く違和感が感じられない、リクルートスーツ。そんなちぐはぐな組み合わせの中、その顔に一番似合っているであろうスティックキャンデーを口に含みながら、日本ヒーロー総合委員会実行委員、波風春那(なみかぜはるな)は、彰に向かって笑いかけた。
「ところで、どうしたんですかー? 暗い顔してー。そんな顔、ヒーローがしてちゃ駄目ですよー」
 春那は笑みを絶やさず、スティックキャンデーを舐めながら彰に聞く。その笑顔は、他人が見たら確実にその心を討ち取られてしまうだろうが、中身を知った時点でそんな感情は彰には無くなったし、ヒーローという言葉が聞こえてきて、彰の心は落ちるばかりである。
 この世界には、一般人はおろか、警察ですら対抗できないような悪が存在する。自制心の全く無い悪党達は、おもうがままに犯罪を重ね、いつ何時起こるか分からない襲撃に、人々は怯える日々を送っていた。それに懸念した政府は、極秘にある一つの組織を結成させた。それが『日本ヒーロー総合委員会』である。正義の為、悪を討つためだけに存在するその委員会は、次々と悪の芽を摘み取っていった。
 そして現在。悪が完全に消え去ったというわけではないが、日本ヒーロー総合委員会のヒーロー達がいるお陰で、何とか普通の生活を送れるギリギリのラインを保っているというのが現状だ。
「何でもないよ。ヒーローだってこういう嫌な気分になる時もあるよ」
 そしてこの彰も、日本ヒーロー総合委員会に認定された、れっきとしたヒーローである。名前はスモーグリーン。だが、何故かその名前は定着しなく、誰が最初に言ったのか、今ではこう呼ばれている。
「へー、タバコマンでも、悩むなんて時があるんですね。私はぷかぷかタバコばっかり吸って、頭の中が空っぽなんだと思ってましたよ」
「タバコマンって言わないで! 僕のヒーロー名はスモーグリーンなの! それと好きでタバコを吸ってるんじゃないよ、変身の為なんだから、仕方ないでしょ!」
 彰は、普段は力など全く無い、一般人と同等のレベルである。だがタバコを吸う事により変身し、タバコマンになる事によって、超人的な力が出せるのである。その為悪人が現れると、否応なしに変身の為にタバコを吸う事が、日本ヒーロー実行委員会から義務付けられている。自分が吸いたい吸いたくないなど、関係なしである。彰のこの講義も、当然なのかもしれない。
「はあ。で、今日は何の用事で来たの。もしかして、そんな嫌味を言うためだけに来たの?」
 本当に、この春那ならその事を言うためだけに自分に会いに来るかもしれないと思った彰だが、他にきちんと用事があるらしい。春那は笑いながら、右手を何度も左右に振った。
「何言ってるんですかー。用も無いのに、あなたの所にくるわけ無いじゃないですかー。そんなの、何の得にもなりませんしねー」
 春那は、思った事は正直に言う。それがたとえ相手が傷つこうが、お構いなしだ。更に自覚は無く、天然というのが始末が悪い。今まで春那の言葉にどれだけ彰の心がダメージを受けているのかは、春那自身は知りもしない。
「えっとー、今日彰さんの所に来たのはですねー。今日は、ヒーロー委員会が指定した定期健診日だったでしょー? それでどんな様子なのか、見にきたんですー」
「……その事で、来たの?」
「はい、そうですよー」
「…………」
 春那の振りまく笑顔が、和らげるどころか針のように彰の心に突き刺さる。タイムリーに来た春那の訪問内容に、彰は地面を見ることしか出来ない。
「……れた……」
「え? 何て言ったんですかー?」
「……言われた……」
「だからー、そんな瀕死の人が最後に言う言葉みたいに小さな声で喋られても、聞こえませんよー。ヒーローなら、はっきり堂々と言ってくださいよー」
 彰の声を聞き取れなく、一番言いたくなかった言葉を聞き返してくる、空気の読めない春那。その腹が立つ態度と、ぶつける場所が無いその自分自身の憤りが重なり、彰の中で、何かが切れた。
「肺がんになるって言われたの! このままヒーローを続けてたら、僕は死んじゃうんだよ! 今まで人を助けてきたのに、そのせいで死んじゃうんだよ!」
 積もり積もった感情が、ダムが決壊したように、一気に流れ出る。特に春那が悪いというわけではない。それでも、誰かにこの言いようのない気持ちをぶつけないと、彰は心が押しつぶされそうで怖かった。
「こんなことになったのも、ヒーローになったせいだよ! 何で人を助けといて自分が病気にならなくちゃいけないんだ! もう、もう嫌だよ!」
 呼吸もせずに、彰は一気に言葉を出しつくす。そして、息が切れた体を肩を上下させながら、最後に結論を、大声で言った。
「ヒーローなんてやめる! やめてやる!」
「……え?」
 彰がそう言った瞬間、春那の表情が笑顔のまま固まる。今彰が言った言葉を、己の脳内で理解できるように処理しているのだろう。そして、その処理が完了したのか、春那の表情は、
「ええええーーーー! ヒーローやめちゃうんですか? 何で? 何でやめちゃうんですか?」
 周囲の窓ガラスを割りそうな勢いの声量と共に、驚愕に変わった。
「やめるってそんな! あなたはヒーローなんですよ? 人々を守るのが義務じゃないんですか? あなたがやめたら、この地域の人は誰を頼ればいいんですか! そんなの勝手すぎますよ!」
「勝手? 何が勝手だよ! 今まで散々街を守ってきて、自分の事なんて何にも出来なかった。自分の時間を削ってまで人を助けてきたのに、このまま続けてたら死ぬって分かってても助けなくちゃいけないの? そっちこそ勝手だよ!」
 春那の熱弁に触発された彰は、普段では決して出ないような声量で号叫する。
「それに、元々おかしかったんだよ! こっちからヒーローになりたいだなんて言ってないのに、いきなり君が現れて、いきなりヒーローになれだなんて。僕はヒーローになりたくてなったんじゃないんだよ!」
 勢いそのままに、彰は今までの不満、不平を全て出し尽くす。彰が暴発した時から黙って聞いていた春那の顔は、今までの微笑みは無く、平坦な無表情に変わっていた。
「……本当に、何の考えもなしに、あなたをヒーローにしたと思っているんですか?」
「……え?」
 予想とはかけ離れた答えが返ってきたことに驚き、彰の頭は急速に冷やされていく。直接そう言われたわけではないが、その内容は、今まで自分が思っていた概念とは違うもの。
(僕がヒーローに選ばれたのは、偶然じゃ、ない?)
「そ、それって――」
 彰がその真意を聞こうとした瞬間、穿いているジーンズの左ポケットから、人間の許容を超えた熱が発せられるのを、彰は感じた。
「熱っ! 熱い!」
 熱さに耐え切られずに、話を中断して左ポケットから熱を出している根源を取り出す。彰には、それが何なのか一発で分かった。いつもこのポケットから出されるもの。それは、発火ボタンを押していないのに火が灯っている、ジッポのライター。このライターが意味するものは、
「あ、出動の要請ですねー」
 街が、人々が悪の者に犯されていると言う事。日本ヒーロー総合委員会が出動を要請してきたと言う事である。
「ほらほら、早く行かないとー」
 春那が彰を急かす。その顔は先程までの無機質な表情は消え、微笑みに戻っていた。
「だ、だから、僕はもうヒーローをやめるって――」
「でも、私はまだ退職届けを受け取っていませんよー? それを受け取らない限り、あなたはまだヒーローなんです。だから早く行ってください」
「……うう」
 春那の理屈に、彰はうなり声を上げる。確かに、それを出さない限り、彰はヒーローをやめたことにはならない。
「もう! 今回だけだからね! これが終わったら、絶対にやめるから!」
「はーい、いってらっしゃーい」
 文句を言いながらも現場に走り去っていく彰を、春那は手を振りながら見送る。彰が曲がり角を曲がり、姿が見えなくなってから、手を下ろし、そして小さくため息を吐いた。
「……本当にやめちゃうのかなー」
 もちろん、この場にいない彰には、春那の言葉は聞こえるはずも無かった。



 彰が向かった先は、この街で一番大きい銀行だった。変身もせずに、ほとんど並みの人間と変わらぬ体力で走ってきた体は、乳酸が体中に溜まり、否応なく彰の息を上がらせる。
「はあ、はあ。こ、ここか」
 息を整える為に大きく息を吸い、肩を上下させる。少し離れた場所から銀行を見ると、そこには人だかりができていた。本当に心配をしている者と、ただ野次馬根性を出して駆り出ている者、おそらく半々ぐらいであろう。自分の好奇心を満たすためなら、その場所にいるだけで邪魔以外何者でもないと分かっていても、日常とは違う出来事が起こるとそこに集まってしまう。人間とはそういうものだ。
「はあ、あんなにいられると、うかつに変身もできないよ」
 いつもの事ながら、関係のない者までいる現場状況に彰はため息をつき、他の者に見られないように、ビルとビルの間の裏道に隠れる。
「……よし、誰もいないな」
 今時、小学生でもやらないであろう、警察が提示する横断歩道を渡る時の確認、右、左、右を三回も繰り返し、彰は周囲に人がいないか確認する。
 しっかりと確認を終えた彰は、ジーンズのポケットから、長方形の箱を取り出す。それは、己の体内を蝕み、今後の人生を、彰にしてみれば今までの人生をも台無しにされた、一つの箱。
「……これで、最後だからね」
 彰は箱を空け、タバコを一本取り出す。そして口に咥え、先程から止まることなく迸るライターの火に、タバコの先端を向ける。
「変身」
 彰がタバコに火をつけた瞬間、辺りがタバコの煙で包まれた。変身しているなど知らぬ通行人が見れば、間違いなく消防局に通報されそうな煙の中で、一人の男は佇む。
 新体操の服よりもボディラインをはっきりとみせつけるような、全身白タイツ。顔も他のヒーローなどのような過剰な装飾が全く無い、能面のような白覆面。その全てが白で覆われている中で唯一のトレードマーク、黄土色に白の斑点を散りばめた靴下を履いた足を動かし、スモーグリーンは煙の中から現れた。
「よし、行くか」
 彰は自分で掛け声をかけて、裏道から大通りに出る。その場所から銀行までのわずかな距離を走っていき、周囲のギャラリーの一番後ろで止まった。
「あの、すこしどいてくれませんか?」
「ええ? 何でそんなこと――あ!」
 声を掛けられた男が、無愛想な表情から一気に驚きの表情に変わる。そのままの顔で、彰の全身を確認するように首を上下に動かした後、その男は大声で叫んだ。
「タバコマン! タバコマンじゃないか!」
「いや、だから僕の名前はスモーグ――」
「タバコマン! タバコマンが来てくれたぞ!」
「遅かったじゃないか! 早く何とかしてくれ!」
 彰の訂正を聞きもせずに、人々はヒーローが来てくれた安心と興奮で口々に喋る。
「……分かりました。で、悪人は中に居るんですか?」
 いつもと変わらぬ反応に、彰は心の中でため息を吐く。どうせ自分の本当の名前など、悪人をやっつけてくれるやつなら、何でもいいのだろう。たとえそれがこんな全身白タイツの、知らない人が見れば確実に変態扱いされるような格好の奴でもだ。
「ああ、中で人質をとって篭城しているんだ。金を出さないと人質を殺すとも言っている」
 近くに居た男が、彰に告げる。それを聞いた彰は、小さく頷いた。
「分かりました。とりあえず中に入ってみます。道を空けてくれませんか?」
 彰がそう言うと、人々は彰の為に、銀行までの空間を一直線に開ける。
「頑張れよ、気をつけてな!」
「大丈夫ですよ。では、行ってきます」
 近くにいた男の励ましに、彰はまるで定型句のように答える。ヒーローたるもの一般市民を不安にさせないようにするのは当然であるし、それに、
(また、あいつなんだろうなあ)
 そう考えると、大丈夫という言葉が、自然に出てくるのであった。
 
 
 
「早くしろ! いい加減にしないと、本当に殺しちまうぞ!」
 普段なら、大半の人間がその場の雰囲気に飲まれおしゃべりすることの出来ない、紙幣の数える音と機械の音が支配する銀行で、この騒動の張本人、皆川智彦(みながわともひこ)は大声で怒鳴り散らした。
「まったく、この銀行は金をバッグに入れるだけでこんなに時間がかかるのかよ! もっとテキパキしろよ!」
 銀行員と客を隔てている受付カウンターの向こう側、青い顔をして震えている銀行員に、智彦は顔を紅潮させて机を何回も叩く。
「で、ですが……」
「ああ?」
 おずおずと話す銀行員を、智彦は黙らせるように睥睨する。
 しかし威圧する智彦は、一般の悪人が脅しに使う、ナイフ、拳銃などは一切持っていない。まるで麗らかな秋の午後を散歩して、ちょっとカフェに行こうとしたがお金が無く、ちょうど銀行があるじゃないか、ここで金を下ろしていこうと思ったと説明された方が、まだ信じれるぐらいだ。
 とにもかくにも、智彦は攻撃するものと言えば、己の肉体以外、何も持っていないのである。それなのに、なぜこの銀行員はここまで萎縮しているのか。
 答えは簡単。智彦は、元ヒーローなのである。前線から退き、引退をしたヒーローは、今まで戦いに明け暮れていただけに、一般の社会で生きていく術を知らない。まともな職にも就けず、しかしこのままでは、生活費も払えずに、餓死してしまう。こういう元ヒーローたちが最後の手段として、悪の道に染まってしまうのは珍しいことではない。稀に親の財産で、自宅警備員になる者もいるが、そんな恵まれた奴がそうそういるわけでもなく、智彦のパターンの方が多い。
「このバッグに金を入れるだけだろ! そんなこと、一分もあれば出来るじゃねえか!」
 だからこそ、ここまで必死なのである。この道以外に、自分が生き残ることは出来ない。やりたくてやっているわけじゃない。悪人とは、ほとんどそういう悲しい者達の集まりなのである。
「で、ですが、こちらにも準備と言うものがありまして……」
「何が準備だよ!」
 それでも、智彦は元ヒーローなのである。いくら銀行強盗をしようとも、
「五万円だぞ、五万円! こんなはした金も用意出来ねえのかよ!」
 悲しい性か。人々を必要以上に困らせることは出来ないのである。ちなみに、五万円とは、智彦の一か月分の生活費に相当する。係長クラスの夫の小遣い程度もすぐに出さない銀行員に、智彦が怒るのも一理あるかもしれない。
「そ、それに、こんなことしても、すぐに警察に捕まりますよ」
 金を出さない上に、銀行員は智彦に説得までしてくる。それを智彦は鼻で笑った。
「はっ、警察なんて怖くねえよ。あんなひ弱な奴ら、拳銃持ってたって、俺の拳で一発だ。まあ、俺に対抗できるとしたら――」
 その時、銀行の出入り口から、火事でも発生したのかと心配するほどの煙が立ち込める。それは、智彦が悪事を働こうとすると、必ず発生する煙。状況を瞬時に理解した智彦は、小さく舌打ちをした。
「ほら、お前たちがぐずぐずしてるから、もう来ちまったじゃねえか。まあいい、今度こそ、決着をつけてやるか」
 邪魔が入ったというのに、なぜか智彦の顔は、嬉しそうだった。
 
 
 
 煙を体中に漂わせながら、彰は銀行の出入り口を通る。煙とマスクのせいで、少し視界が悪くなった目で悪人を確認すると、やはりため息が出てきた。
(やっぱり、あいつなのか)
 覆面に手を当てて、彰は陰鬱になる。最近、事件が起こればこの顔を見る。彰のこの表情も無理はないのかもしれない。
「よお、また会ったな。また俺の邪魔をしにきたのか。だが、今日という今日は悪事を働かせてもらうぜ」
「よく言うよ、今のこの状態でも十分悪事じゃないか。誘拐の次は銀行強盗かい? 懲りないなあ」
 なぜか嬉しそうな智彦と、ため息が止まらない彰。このテンションの違いは、いつものことである。
「うるせえな、この前とは違うってところを、思い知らせてやるよ」
 そう言って、智彦は構えを取る。手を拳に変え、足を広げてやや前かがみ。智彦の戦闘態勢である。
「そうだね、僕も、今度こそ君を捕まえなきゃいけないからね。これで最後なんだから」
「最後?」
 彰の何気なく言った言葉に、智彦は目ざとく気づいた。
「い、いやこれは」
 慌てて彰は取り繕うとする。だが智彦は、もう気づいてしまったのか。一瞬にして顔がにやけ面に変わった。
「そうかそうか! お前もついに見限られたか。いやーおめでとう! これでお前もこっちの世界の仲間入りだな」
「違う! 僕は見限られたんじゃない! 自分でヒーローをやめるんだ!」
 智彦の言葉を、彰は必死で否定する。自分はヒーロー、あちらは悪党。この水と油よりも交えないものを、どうして一緒にすることが出来るのか。
 だが、彰がいくら叫んでも、智彦の表情の緩みは締まらない。
「甘いやつだなあ。ヒーローをやめれば、お前は必ず生きていけない。必ず俺たちと一緒になる。これは脅しじゃない、冷徹な事実だ。現にお前、これからどうやって生きていくんだ? 今更一般の会社に勤めれるとでも思っているのか?」
「うるさいうるさいうるさい! 僕はお前たちなんかとは違うんだ!」
 持っていたタバコを投げ捨てて、彰は号叫する。智彦は投げられたタバコを、首だけを動かしてかわした。
「まあ、そんな事を言ってられるのも今のうちだろう。いつか必ず気づく。何で今までこんな自分じゃ何も出来ない奴らを守ってきたんだろうってな」
 そう言って、智彦はカウンターに置かれていたバッグを掴む。そしてズボンのポケットから、一つの玉を取り出した。
「今回は帰るわ。お前はこれが終わったらヒーローをやめるんだろ? じゃあこれからは邪魔も入らずに悪事し放題ってわけだ。今危険を冒してまで銀行強盗をするのは得策じゃないからな」
「待て! そんな事させるもんか!」
「では、シーユーアゲイン!」
 智彦は手に持った玉を勢いよく地面に放り投げた。すると、その玉が破裂して、煙幕が周りの視界を遮った。
「くそっ、待て、待てよー!」
 彰の叫びも空しく、煙が晴れたころには、智彦はその場から忽然と消えていた。残ったのは、恐怖で物陰に隠れていた銀行員達と、彰だけ。
 静寂。その表現が一番合っている空間を壊すように、彰は、ポケットに入っているタバコの箱を取り出し、思い切り地面に投げつけた。
「……僕は、絶対にお前達みたいにはならない!」



「ありがとうございます! 本当に助かりました!」
「一時はどうなることかと思いましたよー。流石はタバコマンですね」
 銀行から外に連れ出す銀行員達が、次々に彰に感謝の言葉を浴びせる。だが、彰には今そんな事を素直に受け取れる状態ではない。
(ヒーローをやめて、何をする?)
 このことを、彰は考えていもいなかった。ヒーローをやめたら、肺がんにならない、つまらぬしがらみから逃れられる。それだけを考えてやめると言った。だが、それは生きていく術には入らない。ただ己の心の不安が無くなるだけで、それ以上のことはもたらしてくれないのだ。
(ヒーロー以外に、僕が出来ることがあるのか?)
 全く彰には考えつかなった。大学在学中、二十歳になった瞬間にヒーローとして働いてきたのを考えると、無理もないことなのだが。
「ご苦労様です、タバコマン。今回も助かりました」
 銀行員達を全て外に連れ出すと、そこには警察がいた。遅れて来たのではない。彰が智彦を倒すのを確認してから、警察はやってきたのだ。もう警察は、悪人を捕らえることを半ば諦めている。それを彰は分かっていたため、あえて問い詰めることはしなかった。
「そちらこそご苦労様です。もう中は片付いてます。この人たちを保護してくれませんか?」
「了解しました。ですが一応、捜査のために、銀行を調べますので」
「はい、お願いします」
 警察の事務的な口調に、彰もその口調で返す。この時点で、彰のヒーローとしての役目は、終わったのだ。
(……終わった。やっと終わった)
 彰は、安堵にも悲愴にも似たため息を漏らす。そう、とにもかくにも、終わったのだ。この、人々を助けることに明け暮れた日々が。
「……とりあえず、帰ろう」
 そう、今後のことなど、後からいくらでも考えられる。そう考えた彰は、帰路に着こうと歩を進めたが、
「ん? 何だかやたらと銀行から煙が出てないか?」
「本当だー。あれって、火事じゃないの?」
 このような声が、彰の歩を止めさせた。
(煙なんて、いつものことじゃないか。僕はタバコマンなんだから)
 そう思い、彰は再び家に向かって足を進めようとする。だが、なぜか胸騒ぎが収まらない。
(……まさか、まさかね)
 心の中で自分を言い聞かせ、彰は体を半回転させ、銀行に向けさせる。そして、彰の角膜で見たものは、
「火、火事だー!」
「は、早く消すんだ! しょ、消防車!」
 先程までの戦場が、悲しいまでに燃え上がっている、地獄の光景だった。

 
 
 
 


 
 
 
 
『ヒーローがタバコをポイ捨て? タバコマン放火魔疑惑!』

「こんな事書かれてますよー。酷いものですねー」
「…………」

 あの残暑の暑さが嘘のように、爽やかな秋風が気持ちいい麗らかな午後。カフェの屋外テラスで春那は新聞を広げながら、まるでギャグ漫画を読んでいるように、笑いながら彰に伝える。傍目から見れば、可愛い彼女を連れてこじゃれたカフェでお茶をしているだけに見えるが、一方の彰は、俯いたまま、反応も示さない。
「こんな事も書かれてますよー。『やはりヒーローではなく、警察の資金を増強して、国を守ったほうがいいのでは?』ですってー。失礼ですねー、今まで誰に助けられていたんだって話ですよー」
 キャンデーを舐めながら、評論家をけなす春那。それでも、彰は顔を上げない。
「もー、どうしたんですかー。最近、元気が無いですよー。ヒーローなら、もっと堂々と、威厳のある態度を――」
「……僕がやったんじゃない」
「え?」
 春那の言葉に、やっと彰は呟きながら返す。しかし、全く精気が無く、病院に入院中のご年配の方の声の方が、まだ生き生きと感じられる程だ。
「僕がやったんじゃない。あんな火事、僕は起こさない」
 耳を傾けないと聞こえないほどの声量で、それでも彰は否定する。それに春那は、微笑み以上の笑顔で肯定した。
「分かってますってー、あなたがした事じゃないくらい。タバコを吸いまくるスカスカの脳でも、吸殻の処理はキチンとしますからねー」
 春那は慰めているつもりかもしれないが、やはり性格上毒舌に変わってしまう。普段ならここで彰のため息か突込みが入るところだが、今回はそのままスルーされた。
「でも、やっぱりあの状況だったら、世間はあなたがやったと思うんじゃないですかー? 現にあなた、目撃者証言によるとタバコを投げ捨てたっていうじゃないですかー。そんな事しちゃったら、言い訳のしようがないですよー」
 笑いながらも、春那は事実を突きつける。それを聞いた彰は、更に俯いた顔を暗くさせた。
 そう、事実はどうあれ世間では、彰がこの火事を起こしたことになってしまっているのだ。いくら否定しようとも、一個人対、言葉では言い表せれるが、実態が無い世間。勝ち目が無いのは、火を見るよりも明らかだった。
 だから、彰はやはりこう決断するしかなかった。昨日から、いや、ずっと以前から考えていた、この結論を。
「……やめる。やっぱり、僕ヒーローをやめるよ」
「…………」
 彰の言葉に、先程まで笑っていた春那表情が、無表情になる。
「君をここに呼んだのは、他でもない。ヒーローをやめるために、辞表を出すために呼んだんだ」
 彰はポケットから、封筒を取り出す。その紙には、大きく、辞表と書かれていた。
「だから、これを渡すよ。僕はもう、ヒーローをやめる」
 彰は辞表届けを、そしていつ何時でもズボンのポケットに入っていたタバコの箱とライターをテーブルに置き、春那の眼前に置いた。その辞表届達を見下ろす位置にいる春那は、目線を辞表届けから、彰に向けた。
「……本当に、やめるんですね?」
 春那が、静かに、しかし力強く言う。その問いかけに、彰は春那に目線を合わせることが出来ない。
「……やっぱり、僕にヒーローなんて、無理だったんだよ」
「……そうですか」
 掠れるような声で出す弱弱しい彰の言葉に、春那はただそう言った。
「では、こちらを受理します。これを日本ヒーロー委員会に提出した時、あなた、スモーグリーンは、日本ヒーロー委員会から脱退、という形になりますので。これを提出すると、あなたは二度と、ヒーローに任命される事は無くなりますので」
 今まで彰が付き合ってきた中では考えられないほど事務的な口調で、春那は告げる。そして、テーブルの上に置かれている辞表届けを、タバコの箱とライターを、静かに受け取った。
「これで、あなたにもう会うことは無いでしょう。今後のあなたの邁進を、願っています」
 そう言って、春那は椅子から立ち上がる。向かい合った彰から体を反転させ、とめどない人の流れにしたがうように、加わろうとする。
(これで、よかったんだよな)
 そう、これでよかったのだ。このままヒーローを続けても、いくら人を助けようとも、放火魔という事実は消えることなく、後ろ指を指されながら戦うことになるのだろう。それに、自分の生命の危険もある。それならば、この結論が、一番なのだ。
「……でも、これだけは分かってくださいね」
「……え?」
 もう人だかりの中に消えたと思っていた春那が、まだ彰の視界から消えることは無く、彰に背を向けながら、立っていた。
「私は、あなたを適当にヒーローに選んだんじゃない。そもそも、誰もがヒーローになれる訳ではないんです。本当に、本当の願いがある人だけがヒーローになれるんです」
 春那は決して振り向かない。それでも、彰に、言葉を続ける。
「だから、あなたを選んだんです。あなたが二十歳の誕生日を迎えた日、あなたはきっと願っていたはずです。ヒーローにならないと叶わない願いがあったはずです」
「そ、それって……」
 春那の言葉で、彰の脳裏に忘れようとしても焼きついて離れない、あの光景が鮮明に映し出される。
 二十歳の誕生日の前日。それは、人生の中で、最悪の日。一瞬にして、何もかもが壊れてしまった、しかし、自分は何も出来なかった、あの日。
「僕の、父さんと母さんが、死んだ日……」
「そうです」
 彰の震えながら出す声に、春那は残酷に頷く。
「その時、あなたは願ったはずです。両親が殺されても何も出来なかった非力な自分を呪い、力が欲しいと願ったはずです。だから、私はあなたの所に行き、あなたをヒーローに選んだんです」
「…………」
 彰は、春那の告白に、何も返せなかった。今の今まで、自分は適当にヒーローに選ばれていたのだと思っていた。だが、それは違った。人のせいでもなんでもない。何故両親が殺されなければいけなかったのか、自分は本当に何も出来ないのか。あの時の気持ちが、両親が悪人に殺された時の恨みが、自分をヒーローにさせたのだ。
(じゃあ、僕は今まで、父さんと母さんの為に……)
「……すいません、こんな話しちゃって。では、今度こそさようなら」
「あ、待って!」
 彰の呼び止めも空しく、春那は歩を止めることなく、人ごみの中に紛れていった。これで本当に、彰はヒーローという特別な存在から、一般人へと戻ったのだ。
 今まで思っていたことなら、これは喜ぶべきことなのかもしれない。だが彰は、どうしても春那の言葉が離れなかった。
(ヒーローをやめたら、僕は父さんと母さんの敵討ちも、やめるってことなのか?)
 罪悪感が彰の中で渦巻く。しかし、今どう悩んだところで、もう遅いのだ。
「……今更そんな事言われて、どうすればいいんだよ」
「どうするも何も、本能にまかせちまえばいいんだよ!」
「!」
 彰が呟いた瞬間、叫びとも取れる大声量で、予想もしない答えが返ってきた。その音源は、彰が居るカフェの対面にある、ビルの屋上。彰が上を見上げると、
「いっつも覆面してて顔が分からないから、探すのに苦労したぜえ。まあ、苦労して見つけた甲斐があったってもんだ。見つけた途端に良い事聞いちまったからなあ!」
 人々を見下ろすように、皆川智彦が、ビルの屋上に立っていた。
「きゃあー! あいつよ、あいつが出たわー!」
「逃げろー!」
 周囲の人々が、智彦の姿を見た途端、パニックに陥り我先にとその場から逃げ出す。十秒もすると、カフェのビルの周りには、彰しか居なくなった。
「そうだ、逃げろ逃げろ。俺はこいつ以外に用は無いからな」
「何が用だ! 何しにきたんだよ!」
 人々を恐怖させながらも飄々としている智彦を、彰は怒鳴りながら尋問する。それに対し智彦は、両の手のひらを見せて、彰をなだめた。
「まあまあ、落ち着けよ。俺は悪人だが、お前はもうヒーローじゃない。敵対する理由は無いじゃないか」
「何が敵対する理由が無いだ! たとえ一般人だろうと、悪人と馴れ合う必要は無い! それに僕がヒーローじゃ無くなったんなら、なおさらもう関係無いじゃないか!」
「ところが、そうじゃないんだなあ」
 激昂する彰の感情を逆撫でさせたいのかさせたくないのか、智彦はあくまで冷静に話す。
「お前、ヒーローをやめたんだろ? だったら、今はフリーってわけだ」
「だったら何だって言うんだよ!」
 彰がそう答えると、智彦の口元がこれでもかというほどに吊り上る。そして、閉ざされていた口に空間が出来、吐き出される息を言葉に変えて、こう言った。
「お前、俺の仲間にならないか?」
「――え?」
 一瞬、彰は何を言われたのか分からなかった。こいつの、智彦の仲間になる。それを言い換えると、自分は、悪人になるということ。
「な、何言ってるんだ! そんなの、なるわけないだろ!」
 彰は頭を何回も振って、智彦の勧誘を拒否する。それを見た智彦は、ため息を吐いた。
「おいおい、そんなに早く決断をするもんじゃねえぞ。それにこれはお前にとっても悪い話じゃないだろ?」
 智彦はそう言うと、腕組みをして彰に視線を戻す。
「これからどうやって生きていくんだ? 前にも言っただろ? 今までヒーローをやってて、今更一般の職に就けるはずが無い。放火魔なんて言われてるお前じゃ尚更だ」
「うるさい! 僕は放火なんてやってない! お前が腹いせにやったんじゃないのか!」
「おいおい、言い掛かりはやめろよ。俺はそんな事してねえぜ。まあとにかくだ、お前は悪人になる以外に道は無い。だから俺が誘ってやってんだよ。お前はタバコが無いと変身きねえんだったな。俺の仲間になるって言うんなら、日本ヒーロー総合委員会からかっぱらってきてやるぜ?」
「だから! 僕は悪人にはならないって言ってるだろ!」
 何度も誘う智彦を、彰は同じ言葉を突きつける。
「それに、何で僕なんだよ! ヒーローやめた人なんて、探せばいくらでもいるだろ!」
 仲間になれと言われて、一番疑問になっていた事を、彰は智彦に問いかける。その疑問を、智彦は吹き飛ばすように嘲笑した。
「お前が、俺がヒーローをやっていた時と同じ顔をしてるからだよ」
「――何だって?」
 智彦の言葉に、彰の思考が止まる。智彦と自分が同じ顔をしている。彰はどういう意味か全く分からない。
「お前は、常に疑問を抱いていただろう。『何で自分はこんなことをしてるんだろう、こんな人々を助けて、意味があるのか?』ってな」
「…………」
 確かに、智彦の言うことは間違っていなかった。その事は、彰が思っていた疑問そのものである。
「で、でも、僕はそんな事でヒーローをやめたんじゃない!」
「やっぱり甘いやつだなあ、お前は。同じことなんだ、理由は違っても、やめたことには変わりない。そしていずれこう思うはずだ。『今までこんなにも人々の為に尽くしてきたのに、何で自分の生活もままならない辛さを味あわなければいけないんだ』ってな」
 彰は、言い返せない。心の中で、智彦の言葉が正しいのかもしれないと、良心が否定しても覆せない本能が、そう言っているから。
「だから、俺の仲間になれ。そうしたら一気に今後の暮らしが明るくなるぞ」
 ここぞとばかりに、智彦は一気に押しを図る。
 彰は、心の中で二つの事が揺れ動く。だが、片方の天秤に傾いてしまったら、それは人徳を全て捨てるということ。
(……やっぱり、駄目だ)
「……僕は、悪人にはならない。自分が生きていけなくなったとしてもだ!」
 人としての心が勝った彰は、智彦に己の結論を伝える。それをやはりよく思わないのか、智彦は眉間に皺を寄せた。
「……そうかい。まあ、もう少ししたら考えも変わるだろう。勧誘はまた今度にするわ。じゃあ、今日はどこに行こうかねえ」
「!」
 智彦が言った言葉に、彰は過敏に反応した。どこに行こうか、どこに行くかは分からないが、その向かった先でする行為は、容易想像できた。
「おい! まだ悪事を働くつもりなのか!」
「何言ってんだ、俺の本業は勧誘業者じゃない、悪人なんだぜ? 悪事を働くのは当然じゃないか」
「何が当然だよ! そんな事、許さないぞ!」
「許さないって、お前はもうヒーローじゃないんだぞ? 俺を止める術なんて、持ってるわけねえじゃねえか。では、シーユーアゲイン!」
「待て、待てったらー!」
 彰の声が届く前に、智彦はビルの上から消えてしまった。
「くそっ、くそっ!」
 彰はやり場のない怒りを、テーブルに拳をぶつける。
(勝手に仲間に誘っておいて、僕に言ってから犯罪をしに行くのかよ!)
 今までなら、あのライターに火が灯り、自分の意思がどうあろうとその場に駆けつけなければ行けなかったのだろう。だが、彰は一般人。ポケットが熱を帯びる事もなく、足の皮膚とジーンズの布が擦れる時に、冷たささえ感じる。
「……くそっ! くそっ!」
 もう一度、彰は拳でテーブルを叩く。だが、この拳は、怒りの為ではない。自分の決意を固めるために、拳を使った。
「僕は一般人として、野次馬として行くだけだからね!」



「こ、ここで間違いないだろう」
 人だかりが出来ているのは、前回と場所は違えど、やはり銀行だった。日本ヒーロー委員会から通達される現場の情報が全くない今となっては、悪事が行われている場所さえ探すのは困難で、彰は街を駆けずり回り、やっと目的の場所までやってこれた。
 ここまで探すのに時間を掛けていたら、もう智彦はやるべきことを終わり、もう行っても意味がないのではないかと彰は思っていたが、ここは安心するべきところなのだろうか。あの人だかりを見る限り、犯罪はまだ完遂されていないのだろうと推察できた。
「とりあえず、行ってみないと」
 彰は乱れた息を整えて、群がっている人々の一番後ろに向かった。
「あ、あの。どんな感じになっているんですか?」
 彰は近くに居た男に話しかける。話しかけられた男は、この状況に少し興奮しているのか。少し上ずった声で答えた。
「ああ、中で人質をとって篭城しているんだ。金を出さないと人質を殺すとも言っている」
 前回と全く同じ状況を、前回聞いたことある、というより全く同じ言葉で男は説明する。
(あいつ、また同じことしてるのか)
 彰はまた、ため息を吐く。智彦は、それ以外の方法を知らないのだろうか。その単調な考えをする智彦の哀れさと、やはり来るんじゃなかったという恥じらいで、勝手にため息が出てきてしまった。
「とりあえず、中に入るんで道を空けてもらえないですか?」
 彰が男に道を譲るように言うと、男は急に呆れ顔になった。
「何言ってんだ。君が入っても、何にもならないだろう。人質がまた増えてしまうだけってのが分からないか?」
「あ……」
 あまりにも前回と状況が似すぎていて、彰は失念していた。そう、彰はもうヒーローでもなんでもない、ただの一般人なのだ。一般人は、中に入っても迷惑を掛けるだけ。周囲で事件の進行を見守るだけで、ましてや解決できることなど、決して出来ないのだ。
「ああ、タバコマンは何をやってるんだよ。早く来てくれないと手遅れになるぞ」
「でも、あんな放火魔を呼んだら、また火事が起きちまうんじゃねえのか? あんな事やったら、ヒーローでも逮捕されるべきだろ」
「いや、でもタバコマンが居なかったら、どうやってこの場を収めるんだよ」
「でも、あんな犯罪者を――」
(……勝手な事ばっかり言ってるよ)
 一人では言えないことでも、群がれば罪悪感が鈍り、悪態はとめどなく流れてくる。そういうものだと彰は分かっていたが、それでも自分の事、スモーグリーンの事を言われると、心が痛んだ。
(やっぱり、来るべきじゃなかったんだ)
 ここに来ても、何も出来ないのだ。それに、智彦ならそこまで無理な要求はしないだろう。そう考えた彰は、銀行に背を向ける。
「……帰ろう」
 彰は歩いた。これから、本当にもうこんな悪人が悪事を働く所など、偶然居合わせなければ見れないような、一般人の道へと。
 だが。
「きゃああああー!」
「!」
 人々の悲鳴と、ガラスの割れた時に発する擦過音が、それを拒んだ。
 
 
 
「お前ら、見せもんじゃねえんだぞ! 散らないと殺してやる!」
 割れた窓ガラスから出てきた顔は、智彦とは似ても似つかない者だった。
 顔は智彦なら決して被らない覆面をし、右手には一丁の銃。こんな姿、智彦は絶対にしないだろう。それに智彦なら、たとえ悪事をしようとも、関係のない者には決して手を出さない。だがいま繰り広げられている光景は、地獄絵図に等しかった。
「きゃあああー! お母さーん!」
「息子が、息子が撃たれたのー! 誰か助けてー!」
 智彦の時とは比較にならないほどの、人々の叫び、恐怖。人々の顔を更に歪ませるのは、赤い、今では酸素に触れ、どす黒く変色しつつある、血の海。
「早く散りやがれ! 俺は金が欲しいんだ! お前らなんかに用はねえんだよ!」
(……何を、やっているんだ?)
 一瞬、彰は状況を理解できなかった。何故、人々は逃げ回っているんだろう。何故、人々からあんなに血が流れているのだろう。いつもなら、好奇心の塊といった顔で、自分の戦いを見ていたじゃないか。
(これは、僕がヒーローをやめたせいなのか?)
 何かに押しつぶされそうになり、彰は吐き気を催した。自分のせいで、人々が死んでいく。今まで培ってきた良心が、一気に彰を破壊しようとしていた。
「くそっ、全然散りやがらねえ! 早くどっかに行けって言ってるだろ!」
「ああああーー!」
「!」
 覆面の男に、逃げようとする小さな女の子が撃たれた時、彰の体は覆面の男に向かって飛び出した。頭の中では助けようと思ったのではない。ただ反射的に、体が動いてしまった。
「やめろ! やめるんだ!」
「ああ? 何だお前?」
 銀行の出入り口に立っている男の前で、彰は叫ぶ。だが覆面の男は、眉間に皺を寄せただけだった。
「何だお前は、逃げもしないで。殺されたいのか?」
 覆面の男は睨みながら、銃口を彰の方に向ける。それに対抗するように、彰はポケットの中を反射的にまさぐる。だが、やはりポケットの中は空で、タバコなど、出てくるはずもない。
(こんな時に、変身出来ないなんて)
 彰の中で、後悔の念が押し寄せる。変身が出来ない彰は、一般人の力となんら変わらないのだ。
 それでも、やるべき事は一つしかない。
「こうなったら、ちょっとでもこっちに注意を引いて――」
「待て! 待つんだ!」
 彰が身を犠牲にしようとした時、銀行の中から、男の声がそれを止めた。その声は、今まで現場に駆けつければ、必ず聞こえた、あの声。
「智彦! お前、何やってるんだよ!」
 彰の場所から見えた智彦は、縄で体を縛られた状態だった。身動きが取れない智彦は、唯一動く口で状況を説明する。
「俺が強盗しようと銀行に入ったら、後からこの覆面の男が入ってきて、この有様だ。こいつは本当の悪党だ! その銃だってただの代物じゃない。俺だって太刀打ちできねえんだ。一般人のお前が適う相手じゃない、逃げるんだ!」
「で、でも」
「でもじゃない! お前はもうヒーローじゃないんだ! 逃げる以外に方法が無いだろう!」
 智彦は必死で彰を説得する。だが彰は、体が竦んで動けないのか、自ら動こうとしないのか、自分でも分からなかったが、一歩としてその場を動かない。
「ああ、何だお前? 人質のくせに喋ってんじゃねえよ」
 彰と智彦の会話を聞いていた覆面の男は、彰に向けていた銃口を下ろし、銀行の中へと入っていく。そして、銃口の先を、智彦に向けた。
「こういう生意気な人質は、他の奴らへの示しもあるし、少し黙らせておかないとな」
「や、やめろ! 撃つんだったら、僕を撃て!」
 彰は覆面の男に号叫する。だが、それを覆面の男は、一笑した。
「あせるなって。こいつの次に、お前はちゃんと始末をつけてやるからさ」
 覆面の男の指が、引き金に掛けられる。
「やめろ! やめろって言ってんだろ!」
 自分でも、なぜこの銀行強盗に入ろうとしていた智彦を庇おうとしているのか、彰は分からない。だが何か、脳内で二度と思い出したくない映像がよぎり、彰の言葉からは暴言めいた制止の言葉しか出てこない。
「何で関係の無い人まで死ななきゃならないんだ! 何で――」
「……おい、タバコマン」
「!」
 彰の叫びを遮るように、しかし彰の声量とは及びもつかぬ小さな声で、智彦は口を開いた。
「お前は、俺の事なんて、悪人の事なんてどうでもいいんじゃなかったのか?」
 智彦は銃を突きつけられているというのに、普段以上の冷静な声で彰に語りかける。
「で、でも今は捕まっているじゃないか! それを見過ごすことなんて、僕には出来ないよ!」
「本当に甘いやつだなあ。まあ、だからこそヒーローなんてやれてたんだと思うけどよ」
 そして、最後と悟ったのか。智彦は小さく笑った。
「これが報いってやつかな。俺の結末はこんなつまんねえもんになっちまった」
「……智彦……」
「お前は、俺と違うって言ったよな。だったら、お前だったら、どんな結末を見せてくれるんだ――!」
 その時、悲しいまでに乾ききった轟音が、銀行内で響き渡った。
「うるさい奴だ。誰がそんなに話していいって言ったよ」
 彰の目に映ったのは、力なく、重力に従うようにその場に倒れこむ智彦。
「う、うあ……」
 その場の光景が、彰の脳裏に鮮明に残る、何年か前の光景と重なる。そして、前も今も、この行動しか取れなかった。
「うわああああーーーー!」
 彰はその場で崩れ落ちた。己の無力さ、非力さを呪い、それでも助けることも出来なかった。
「ああ、そんなに悲しむなよ。次はお前だからさ」
 まるで智彦を撃ったのは自分の仕事だったと言わんばかりに、覆面の男は冷徹な笑顔で、今度は彰に銃口を向ける。
 銃口を向けられても、彰は逃げられなかった。足に力が入らなく、瞳から涙が溢れてきた。出したくて出した涙ではない。何かしなくてはと頭では思いつつも、これ以上この惨事を見たくないという心が、その視界をぼやけさせた。
「まあ、恨むんなら、すぐに金を出さなかった銀行と、偶然ここに居合わせちまった自分の運を恨むんだな」
 覆面の男は、再び引き金に手を掛ける。
(僕は、また何も出来なかった)
 今まで、あの事件があってから、沢山の人々を彰は助けてきた。だが最後の最後で、また、誰も助けることは出来なかった。
「僕は誰も助けることなんて出来ないのかよー!」
 彰は、悲愴と悔しさの、最後の雄たけびを上げた。
 彰自身、それが最後の言葉になると思っていた。
 だが、彰のその叫びは、一人の人物に届いた。
「では、今度はどんな願いをするんですか?」
 銀行を飲み込むビルの屋上。地表の人々全てを見下ろしながら、波風春那は微笑んでいた。
 
 
 
「彰さん、どうしたんですかー。あなたは今一般人なんですよ? ただでさえ普通の人よりも鈍くさいんですから、早く逃げないと死んじゃいますよー?」
 このような状況なのに、全くいつもと変わらぬ口調で、春那は笑いながら彰に言う。
「な、何でそんなところに! い、いや、そうじゃなくて、さっきの願いって何!」
 なぜそのような場所にいるのか、先程言った願いとは何なのか。全て訳が分からず、彰は春那に問いかける。
「それはですねー、今日本ヒーロー総合委員会から――」
「おい、お前ら、勝手に話すんじゃねえって言っただろ!」
 彰と春那の会話を聞いていた覆面の男は、自分を無視して話していることに激怒したのか、銃口を彰からビルの屋上、春那に向けて、何の躊躇いも無く引き金を引いた。
 地表からビルの屋上までの距離を、覆面の男は寸分の狂いも無く、春那の心臓部めがけて放つ。しかし、その音速を超えた銃弾を、春那は右手だけで弾いた。
「な、何い!」
「あなたはちょっと黙っててください。私は彰さんと話があるんです」
 銃弾が放たれたのと同時に、春那は微笑が消えて、あの威圧のある無表情に戻る。
「さて、彰さん。私がなぜここに来たのか、分かります?」
 彰にもその表情のまま、春那は質問する。だが、彰には全く分からない。
「そ、そんなの分からないよ! 君は、もう僕とは会わないんじゃなかったの?」
「そう、あなたはもう一般人。私も、もう会うとは思っていませんでした。でも、日本ヒーロー総合委員会から通達が来たんですよ。誰かの、ヒーローにならなければ叶えられない願いが察知されたと」
「そ、それって……」
 彰は、その意味を分かっていた。だが今更、自分では言えない。だから、春那に答えを委ねた。
「そう、あなたが、人々を救いたいと願ったから、あなたをヒーローにするために、ここに来たんですよ」
 彰が考えていた答えと、全く一緒だった。しかし、自分は一度、自らヒーローをやめた身。
「そ、そんな! だって僕、辞表届けを出したじゃないか! ヒーローを一度やめちゃったら、二度とヒーローにはなれないって――」
「それは、この辞表届けを、日本ヒーロー総合委員会が受理した時点からでしょう?」
 春那はスーツのポケットから、一枚の紙を取り出す。それは紛れも無く、彰が書いた辞表届けだった。
「これを日本ヒーロー事務局に持っていく前に、通達が来たんですよ。だから、あなたはまだ完全にヒーローをやめたことにはなっていません」
「な……」
 悲しい知らせか、嬉しい知らせか。彰には分からない。どうすればいいのかも分からない。
「だから、これをあなたに渡します。それをどう使うかは、あなた次第です」
 そう言って、春那は二つの物を彰に投げる。遠距離からでも見事に彰の胸に飛んできた物を彰が受け取ると、それは、タバコの箱と、ライターだった。
「で、でも、僕は……」
「あなたはさっきまで、自分の身と他人の身。どちらを優先しましたか? 今の心に素直になれば、迷うことなんてありません」
(……僕の命と、他人の命)
 確かに、その双方を天秤に掛けたとき、自分の命など、どうでもよいと思った。だがそれは、変身もできない一般人だったから出された考えなわけで、助けたいとは思ったが、ヒーローになるということは違う。もしこれを手に取れば、またあの戦いの日々が、戻ってきてしまうのだ。
(でも、僕がヒーローをやる以外に、人々を助ける術があるのか?)
 無かった。どんなに頭を巡らせても、それ以外に方法は無かった。たとえ、自分の身がこれ以上蝕まれようとも。
「おい! お前何を受け取った! あの女が殺せねえんだったら、お前から殺してやる!」
 覆面の男の銃口が再び彰に向けられる。
「彰さん!」
 彰は思う。やはり、自分はこの道以外にありえないのかと。
(これが、運命ってやつなのかな)
「死ねーーーー!」
 遂に、彰に向かって弾丸が放たれる。しかし、彰は一瞬早く、今まで何百回と言った、あの言葉を口にしていた。
「……変身」
 彰がそう言った瞬間、辺りが煙で包まれる。一メートル先さえ見ることもままならない白煙が周囲を支配した後、その煙の中から、一人のヒーローが現れた。
「お、お前は……」
 覆面の男が、その男の正体を認識し、恐怖で震え上がる。
 全身タイツで色は白一色、一見ヒーローには全く見えない、しかし、誰もが知っているヒーロー、スモーグリーンはタバコに火をつけながら、こう言った。
「お前は、絶対に許さないからな!」



「おい、大丈夫か? しっかりしろ!」
「う、うう……」
 彰が智彦の意識があるかどうか、声を掛けて確認する。幸い急所は外れていたようで、血は出ているが、智彦は意識を取り戻し、彰の腕の中で目覚めた。
「あ、あれ、お前はタバコマン。あ、あの覆面野郎は?」
「やっつけたよ。あそこで、絶対に切れない縄で縛ってある」
 彰が銀行の隅を指差す。覆面の男は両腕両足を縛られ、意識も無く倒れこんでいた。
「あ、甘いなあ。あんな奴、殺しちまえば良かったのに」
「ヒーローは人を殺しちゃいけないからね。でも大丈夫、正当防衛として、骨の殆どは折っておいたから」
 彰が、笑いながら智彦に言う。それを聞いた智彦は、彰以上に笑い飛ばした。
「はっはっは! そりゃいい。ヒーローでも、それぐらいはしなきゃな。はっはは、ご、ごふっ!」
「お、おい、大丈夫か?」
 智彦の口から血が滴り落ちる。それを智彦は、右手で拭った。
「……お前は、本物だったんだな」
「えっ?」  
 智彦が抱かれていた彰の手をどけて、自ら起き上がる。
「本当に俺と違ったって言ってるんだ。お前は、ヒーローに戻った。俺みたいに、逃げなかったんだな」
「智彦……」
 彰には、哀愁にも似たものが智彦の背中から感じられた。智彦は、口ではああ言いながらも、やはりヒーローをやめた事を後悔しているのかもしれない。前に智彦自身が、彰と自分は似ていると言ったのだから。
「ま、まだ間に合うんじゃないかな。今傍に日本ヒーロー総合委員会の人がいるし、その人に頼めば――」
「いや、もう遅いんだ。お前も知ってるだろう? 一度ヒーローをやめた奴は二度とヒーローにはなれない。それに俺は、ヒーローをやめてその力を使って悪の道に走っちまった。もう戻れねえんだよ」
「だけど!」
「大丈夫だよ。俺がヒーローやらなくても、ちゃんとこの街を守ってくれる奴がいるだろ?」
 智彦は笑う。今までの皮肉めいた笑いではなく、純真な綺麗な笑顔で。
「じゃあまたな、今度会う時は、またヒーローと悪人の関係でな」
「お、おい! そんな体で動いたら!」
「俺の体はサイボーグだ。こんな怪我ぐらいじゃ死にゃしねえよ。では、シーユーアゲイン!」
 智彦は玉を地面に投げつけて、煙を周りに飛散させる。そして煙が消えたときには、智彦は消えていた。
「……あいつ……」
 救急車が何台も停まっている外を見て、彰は呟く。
(今度会ったら、必ず捕まえて、お前をヒーローにしてやるからな)
「彰さーん!」
「うわっ!」
 彰が感慨に耽っているというのに、いきなり上空から春那が落ちてきた。あまり考えたくないのだが、おそらく先程いた屋上から落ちてきたのであろう。
「何でそんな所から落ちて平気なの。君、本当に人間?」
「まあまあ、いいじゃないですかそんなことはー」
 彰の疑問を、春那は答えることなく笑い飛ばす。本当はその真偽を確かめたいところなのだが、これ以上詮索すると、何か恐ろしいことが起こりそうで、彰は止めておいた。
「それより彰さん、やりましたねー。あの暴れまくっていた悪人を一発で伸しちゃうなんて。さすがタバコマンですー」
 よほど嬉しいのだろう。彰の両手を握って、春那は嬉しそうに何度も上下に動かす。彰は、なすがままに揺られていた。
「うん、ありがとう」
 短く感謝の言葉を言って、彰は黙る。これから、春那に何を言われるか、分かっているからだ。
 その空気を春那も感じ取ったのか。真剣な時の、実行委員会の仕事の為の、あの無表情に変わる。
「じゃあ、決まったんですね?」
 春那は彰に聞く。今度はこちらから言うのではなく、彰の本心を聞くために。
「……うん。僕は、ヒーローになるよ。それが人々の為、父さんと母さんの為になるんだからね」
「……そうですか」
 彰の決意に、春那は小さく頷く。そして小さく息を吸い、あの、彰が二十歳の誕生日を迎えた時に言った言葉を、もう一度言った。
「では、あなたはこれからヒーローに任命します。名前はスモーグリーン。このタバコとライターを使って、人々を助けるのです」
「うん」
 二十歳の時の戸惑いとは違う。全て自分の意思で、はっきりと彰は頷く。
「後、こちらでもあなたの身体の健康管理を徹底的に行います。タバコを吸っていても、肺がんにならないように全力を尽くしますので」
「うん、お願いするよ」
 彰はもう一度頷く。すると、たった一日だけなのにひどく懐かしい、あの熱気が左ポケットから立ち込めた。
「熱っ!」
 彰は勢いよくライターを取り出す。この火が意味することは、やはり、
「あ、早速出動の要請ですねー」
 日本ヒーロー総合委員会が、出動要請をしてきた事である。
「うん、そうだね。じゃあ、行ってくるよ」
「はい、いってらっしゃい!」
 彰は、箱から一本のタバコを取り出す。そして、口に銜えて先端を火に持っていく。強制ではなく、自分の意思で。
 そして、今まで何百回も、これから何千回も言う事になるであろうその言葉を、タバコに火を点けると同時に、言った。
「変身」











「じゃあ、あの子はこのままヒーローを続けるんだな?」
「ええ、途中やめるって言われて失望しかけたけど、一応ね」
 とある、どこにでもありそうな、大きくもなく、小さくもなく、これといった特徴も無い、中途半端な規模の市民病院。その診察室に置かれている患者用の回転式の丸椅子に座りもせずに、壁にもたれながら、波風春那は面倒臭そうに言った。
「それよりもあんた。少しハプニングを起こせとは言ったけど、何も火事まで起こす事無いじゃない。それのせいであの子がやめるなんて言い出したんだからね」
 春那が右手のキャンディーを口に含みながら文句を言う。それを聞いた医者は、小さく笑った。
「丁度あの子がタバコを投げ捨てたのを見たからな。この状況でのハプニングは、火事が一番と思っただけさ。それに、君はあの子の決意を固めたかったんじゃないのか? だから俺に肺がんになるっていう嘘の診断までさせた。そうだろう?」
 医者が春那に目線を合わし、にやりと笑う。医者の言う事も間違いではなく、春那はため息を漏らすだけで、これ以上は言わない事にした。
「まあね。あの子は最初からちょっと意思が弱いまま、何で自分がヒーローをやっているのか常に疑問を持ったまま戦っていたからね。丁度良い薬にはなったかもしれないけど」 
 春那は口からキャンディーを出しながら淡々と言う。医者は、その春那の動作を見ずに、机の上にある彰の資料に目を向ける。
「でも、そんなことしなくても、あの子は最初、両親の為に戦ってたんだろ? だったらあの子の両親がヒーローで、それで悪人に殺されたって言ったほうが、すぐに続けるって言ったんじゃないか?」
「……私は、そんな他人から言われた事実でヒーローを続けるより、自分の意思でヒーローを続けてほしいと思っただけよ」
 春那が背中を壁から離し、ここにもう用は無いと、診察室の扉へと向う。
「おい、ちょっと待て。何でそんなにもあの子を気に掛けた? いつもだったら、ヒーローの替えなんていくらでも居るって、腑抜けた事言った奴は、全部切り捨ててきたじゃねえか」
 医者の言葉が、春那の歩を止めさせる。数秒の間、沈黙が診察室の空間を支配しようとした時に、春那が、小さな言葉でそれを壊した。
「……同じだったんだもん。あの子と、ヒーローになりたい理由が」
「……え?」
 医者は言っている意味がよくわからなかったのか、その言葉を言った後、何も言わなかった。春那は、今自分が言った言葉を忘れるように、小さく笑った。
「私、もう行くわ。また気が向いたらここに来るから。それと、今度の定期健診日の時あの子に、肺がんになるなんて嘘だった、間違ってたって、ちゃんと言うのよ」
「あ、ああ。それは上手くいっとくけど――」
「じゃあ、さようなら」
 医者の言葉を最後まで聞かずに、春那は診察室のドアを開け、静かに閉めた。
 病院を出て、春那は大きく伸びをする。空は、雲ひとつ無い晴天だった。
 しかし、こんな気持ちの良い天気でも、こんなに爽やかな朝でも、悪人は悪事を止める事は無い。だから春那は歩みを止めない。この世の悪人全てを消すために、戦場へ。
「さあ、今度はどこのヒーローの所に行こうかしら」
 お気に入りのキャンディーを舐めながら、日本の平和を守るために、日本ヒーロー総合委員会実行委員、波風春那は今日も行く。


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