高得点作品掲載所     鈴忌 紫さん 著作  | トップへ戻る | 


憑依ポゼッション −百人目のあなた−

プロローグ

 気が付けば、いつの間にか道は真っ白な雪に覆われていた。
 つい先ほどまで、赤く染まった紅葉もみじが視界一杯に舞っていたのではなかっただろうか。
 いや、それとも、照りつける強烈な日差しに目を細めたのだったか。
 思えば、いつから自分は歩き続けているのだろう。
 いったい何のために……。

 考えるな。
 立ち止まるな。
 まだ、やらなければならないことがある。

 そうだ。自分には、やらなければならないことがある。
 だから、立ち止まるわけにはいかない。
 だけど……それは何だっただろうか。
 頭に、もやがかかったみたいで何も思い出せない。
 それでも、立ち止まってはいられない。
 ほら、今も人々は歩き続けている。
 脇を小さな子供がもの凄いスピードですり抜けてゆく。
 見渡せば、何十人、いや何百人の人間が、まるで早送りビデオのように行き交っている。

 純白だった道は、瞬く間に踏み荒らされて黒く汚れてゆく。
 踏み荒らされるそばから、降り積もる雪が足跡を白く塗り潰してゆく。
 不意にふり返り、自分の足跡がないかと視線を巡らせた。
 だが、白くけぶる視線の先はもちろん、足下にさえ自分の存在を示す証はない。
 それは不思議と不安をかき立てる光景だった。
 まるで、自分だけが世界から取り残されたかのようだ。
 そういえば、こんなにも人が溢れているのに辺りは水を打ったように静かだ。

 考えるな。

 そう、考えてはいけない。
 それは、分かり切っていることだ。
 彼らと自分は、もう既に違う存在なのだから。
 現に、誰一人として自分とは目を合わせようとしないではないか。

 立ち止まるな。

 少し休みすぎた。もう、行かなくては。
 ねっとりと絡みつくような疲労感は拭えない。だが、歩くことはできる。
 そう、歩き続けなければ探し出すことなどできはしない。
 探し出す……一体、何を。それとも、誰を。
 分からない。それでも、探さなければ。
 たとえ見つかる可能性がほとんど無くとも、やらなければならない。
 だから、それまでは……。

 はらはらと舞い散る淡い桜の花びらが、身体をすり抜けて落ちてゆく。
 一陣の風が吹き抜け、桜絨毯がふわりと舞い上がる。
 いつの間に、春になったのだろうか。
 たしか、つい先ほどまで雪が舞っていたのではなかったか。
 いや、そんなことは些細な問題だ。

 考えてはいけない。
 立ち止まってもいけない。
 やらなければならないことがある。
 それまでは……死ねない。

「いいえ、あなたはもう死んでいる」

 不意に背後から声をかけられ、驚いて振り返ると、そこは茜色に染まった世界だった。
 今まさに溶け落ちようとしている夕日を背に、一人の少女がたたずんでいる。
 真っ黒なシルエット。瞳以外の表情は影になっていてよく見えない。
 どこか物悲しげなその視線にとらわれた瞬間、唐突に世界が音を取り戻す。
 まるで、自分と世界のチューニングが合わされてゆくみたいだ。
 行き交う人々の足音。交わしあう他愛のないお喋り。
 久しく忘れていた雑踏のざわめきに包まれてゆく。

「あなたで、ちょうど百人目」

 真っ黒なシルエットの中で、瞳だけが微笑むように僅かに緩む。
 不意に、死神という言葉が頭をよぎっていった。

第一話 逢魔おうまとき

1.

 紅くれた鬼灯ほおずきのような夕日が川に溶けてゆく。周りを見回せば、どこか閑散とした商店がまばらに建ち並んでいる。商店街というには少々寂しい光景だ。だが、それなりに人通りは多い。川沿いの土手の上を、帰り人たちが先を急ぐように歩いている。
 そんな喧噪とは全く切り離されたように、大小二つの人影が土手の上で向かい合うように足を止めていた。帰り人達は二人が存在していないかのように、何事もなく脇をすり抜けてゆく。いや、大きな人影にいたっては文字通り存在していないのだ。
(死神……なのか。オレを連れに来たのか?)
 大きな人影の青年がくぐもったような声を発する。いや、それは正確には声ではない。その証拠に、その言葉はもう一つの人影――中学生ぐらいの少女の耳にしか届いていない。
「いいえ、違う。わたしはただの人間」
 通りゆく人を避けて、少女が僅かに身をよじる。少女が身に纏っている黒いスカートの裾が小さくたなびく。その動きが、長く伸びた影法師となり、青年の足下をすり抜けてゆく。見れば、青年の足下には、あるべき影が存在していなかった。
「でも、わたしを死神だと思うということは、自分が死んでることは分かってるのね」
(……分かってる。でも、まだ、死ねない)
 青年の矛盾した言葉に、少女は少し物悲しそうな瞳を向ける。
(やらなくてはならないことがあるんだ)
「そう。それは、わたしに手伝うことはできる?」
(手伝って……くれるのか?)
「えぇ、わたしにできることは少ないけど、できる範囲なら手を貸すわ」
(どうして、初対面のオレのために?)
「それが、わたしの目的だから。さぁ、あなたの目的を聞かせて」
 青年は、少女の意図を僅かに計りかねて戸惑う。だが、抑揚の薄い少女の言葉は、冗談や嘘を言っているようには聞こえない。なにより、この少女は誰にも見えないはずの青年の姿を見、誰にも聞こえないはずの青年の声を聞いているのだ。
 場合によっては、話を聞いてもらうだけでも……。そう思い、口を開こうとして青年はハッとした。そうだ、自分にはやらなくてはならないことがなんなのか分からないのだ。やっとつかみかけた希望を突然失ったように、青年は俯いて肩を落とした。
「そう。思い出せないのね」
 青年の心の中を見透かしたように、少女がポツリと呟いた。青年は、俯いたまま頷く。
「だいぶ理性を残しているみたいだし、会話も人間と同じぐらいスムーズだから、もしかしたらって思ったんだけど……。やっぱり、簡単にはいかないわね」
 少女は、少しだけ残念そうにしながらも、不意に優しい笑みを青年に向けてきた。
「じゃあ、まずは思い出すことから始めましょう」
(そこまで、付き合ってくれるのか……?)
「普通はそれ以下からだから。あなたはだいぶ人間性を残してるけど、大抵の幽霊は目的どころか理性も半分ぐらい無くしてしまっている。だから、とりあえず人間的な人格を取り戻すところから始めないといけないことが多いの」
(そう……なのか。詳しいんだな)
「多少はね。これでも、今までに九十九人の幽霊の未練をはらして成仏させてきたから」
(凄い数だな。仕事……ってことはないか。中学生ぐらいだよな?)
「高校生よ、一応。成仏のお手伝いは……まぁ、ちょっと目的があるの」
 中学生かと見間違うような幼い外見に不釣り合いな醒めた瞳で、少女は唐突にふっと遠くを眺める。何か事情があるのだろう。それ以上は尋ねることがはばかられるような空気が二人を包み込む。ややあって、少女が再び口を開いた。
「わたしに、あなたを手伝わせて欲しいの」
 存在しないはずの青年の目を、少女の深みを湛えた瞳がまっすぐに射抜く。少女の瞳に吸い込まれて、このまま消えてしまいそうだ。
 青年は、幽霊である自分よりも、この少女の方が遥かに深く暗いところに棲んでいることを直感的に理解した。もはや存在しない、感覚だけの心臓がギュッと締め付けられる。これは、人間が本能的に抱く、得体の知れないモノに対する恐怖だろうか。
 ――この少女は何者なのだろう。力を借りても大丈夫なのか?
 僅かに逡巡して、青年は心を決める。少女の力を借りよう。自分だけでは、やらなければいけないことすら分からずに彷徨うことしかできはしないのだ。ならば、少しでも可能性のある方にかけたい。この少女は、少なくとも自分より多くのことを知っている。
 それに、直感に過ぎないが、少女に悪意があるとは思えなかった。
(ありがとう。助かるよ)
 青年の答えに、少女の表情がふっと和らぐ。それは、初めて見せる年相応の笑みだった。
「わたしは結城ゆうき七海ななみ。あなたは?」
(オレは……)
 七海に問われて、青年は初めて自身の名前すら思い出せないことに行き当たる。
「そう。なら、それも合わせて思い出してゆきましょう」
(すまない。七海さん)
「呼び捨てでいいわ。幽霊さん」

 街に降りる夜のとばりはとても薄い。ましてや、ネオンがきらめきあう繁華街ならばそれは無いのと同じだ。太陽が沈みきった後も、街は昼間のような明るさを保ち続けていた。
 七海は幽霊の青年にただ一言「ついてきて」とだけ告げ、人の流れに乗って繁華街へと向かっていた。青年は、七海の一歩後ろを躊躇いがちについてゆく。
「人混みは居心地が悪い?」
 前を向いて歩きながら、七海は振り返らずにポツリと呟く。
(あっ、いや……。そういうわけじゃないんだが、なんだか違和感があって)
「きっと、それはわたしの感覚を通して世界を見てるからだと思う。でも、すぐに慣れるわ。特に、幽霊さんは人間性をしっかりと残してるから、人間の感覚に慣れるのも早いと思う」
(人間の感覚?)
「幽霊には本来、目も耳もない。だから、人間とは世界の感じ方が大きく違う。感じ方そのものは十人十色だけど、例えば時間の感覚なんかが凄く曖昧になったりするの」
 言われて初めて、青年は一人で彷徨っていた時と、世界の感じ方が変わっていることに気が付いた。確か、七海と視線が会った瞬間に世界が変わった。
「それが、同調よ」
 ふと気が付くと、七海は足を止めて振り返っていた。
「よく、幽霊が取り憑く、という表現を使うことがあるけど、その一歩手前が同調。この状態になると、幽霊は同調した人間の感覚を通じて世界を認識することができる」
(てことは、今オレが見ている世界は、七海が見ている世界と同じなのか?)
「憑依しないと皮膚感覚とかは共有できないから、完全に同じというわけじゃないけど、ほぼ同じと言っても良いと思う。だから、ああいう余分なモノも見えるわ」
 無表情に、七海は車の行き交う通りの向こう側を指差した。その先へ視線を向けると、二つ並んだ自動販売機の薄暗い隙間で何かがうごめいているのが見える。
(ボロ布?)
 小さな隙間に、薄汚れた毛布のような布が挟まっていると思った。だが、次の瞬間、青年はハッと息を飲む。ボロ布がずるりと隙間から這いだし、歩道の上に手をついたからだ。
 そう、手だ。灰色に近いくすんだ色をしてはいるが、間違いなく人間の手。ピクピクと痙攣するように震えながら、それは歩道の上を這いずり回る。何かを求めるように、指先がアスファルトを撫でてゆく。それは、まるであり得ない光景だった。自動販売機の隙間はせいぜい十五センチぐらいしかないのだ。その狭い空間に人間がいるとは到底思えない。
「あれも幽霊よ。かろうじて手の形を保ってるけど、人間性は完全に喪失してる。何故そこにいるのか、たぶん誰も知らない。ただ、いつもああやって手を伸ばして何かを求めてる」
 七海の言葉には、僅かに憐憫れんびんの情が混ざっているように思えた。
(除霊とかしてやらないのか?)
「できないの。わたしには、そんな力はないから。姿を見て、言葉を交わすことができるだけ。だから、そもそも会話が成り立たない相手には、何もしてあげられない」
(そう……なのか)
 青年の口調が、少し不安そうに聞こえたためだろう。七海は優しげな笑みを向けてくる。
「幽霊さんの場合は、きっと大丈夫。こうやって、普通に喋れるし、人間性も残ってるから。わたしにできることは少ないけど、きっと未練を解消して成仏させてあげる」
 そう言って、七海は再び人の流れに乗って歩き出した。青年は先ほどと同じように、その後をついてゆく。先ほどまで感じていた世界への違和感は、もうだいぶ薄れていた。それにともなって、七海に質問を投げかけるだけの余裕が生まれてくる。
(具体的に、これからオレはどうすればいいんだ?)
「まずは同調で人間的な感覚に慣れて。幽霊は人間性を失うのに比例して記憶とかも失ってゆくから、人間的な感覚を取り戻せば記憶も戻りやすい。だから、しばらく一緒に生活しながら色々と思い出してゆきましょう」
(一緒に生活するだけでいいのか?)
「とりあえずはね。後は、何かとっかかりを思い出したら、それを手がかりに色々と調べてみるわ。例えば、死んだ場所を思い出せば、死因や家族を知ることができるかも知れない。家族が分かれば、直接話を聞きに行くこともできる」
(なるほど、そうやって広げてゆくのか)
「それと、これはわたしの役目だけど、幽霊さんの外見から分かることを推理する」
(外見から分かること?)
 自分の外見がどうなっているかなんて、全く気にも留めていなかった。というより、気にするだけの余裕がなかったのだろう。もしかして自分は、いわゆるホラー映画の悪霊みたいな血まみれな格好でもしているのではないか。不意にそんな不安が襲い、思わず手を見る。
「大丈夫。変な外見はしていないわ」
 一歩先を歩いているのに、七海は敏感に青年の動き察知して足を止める。そして、脇にあるブティックのショーウィンドを指差した。そこには、真っ黒な服を着た中学生風の少女と、なんてことはない普通の大学生風の青年が映っている。
 ただ一つ、普通ではない部分は、青年の姿が半分透けているということだけだ。
(これが……オレの姿)
「幽霊の外見は、本人の持っている自分自身のイメージに寄るところが大きい。だから、容姿や年齢、場合によっては性別さえ本来のものと違う場合がある。だけど、普通は自分自身のイメージは生前の姿になることが多いわ」
 青年が、ショーウィンドから視線を戻すのを待ってから、七海は再び歩き出す。
「だから、おそらく幽霊さんは生前は二十歳前後の男性だったと思う」
(つまり、二十歳前後で死んだってことか)
「おそらくね。あと、死因はよくわからない。外見に目立った外傷が残っていれば、その具合から死因を予想することもできるけど、幽霊さんの場合はキレイだから」
(外傷が無いってことは、病死とかか?)
「そうとも限らない。病死なら、自己認識も衰弱した外見になりやすいの。幽霊さんの場合は健康な外見だし、人間性の残り具合から考えても、おそらく自分で補正したんだと思う」
(自分で補正?)
「幽霊の外見は、本人の持っているイメージに左右される。だから、醜い怪我などは無意識に補正して隠してしまうことが多いの。普通は、醜いのや不気味なのは嫌でしょ。逆に言えば、醜い姿を堂々と晒している幽霊は人間性をほとんど喪失している可能性が高い」
(なるほどなぁ。外見だけでも、色々分かるんだな)
「外見で、もう一つ大事なのが服装」
 通りを歩きながら、青年は思わず脇を流れてゆくショーウィンドに目を向けた。先ほど、立ち止まって自分の姿を見た時は、服装にはあまり注目していなかった。それゆえ、どんな格好をしていたか、ちょっと思い出せなかったからだ。
 見る限り、ちょっとラフな感じはするが、何処にでもいそうな大学生風の格好に見える。
「幽霊さんの服装は、ちょっとだけ昔風なの。今の大学生にしては、少し野暮ったい」
(そうなのか。自分では、よく分からないな)
「当たり前よ。だって、幽霊さんが生きていた時代は、それが普通だったんだから」
(オレが、生きていた時代?)
「幽霊は時間感覚が曖昧になりやすいから、いつ死んだのかを思い出すのはなかなか難しい。でも、その人の服装を見れば大体の時代は予想できるわ。自己認識のイメージが服装に反映されるわけだからね。仮に死んだのが百年以上前だったりすると、手がかりの探し方が全然変わってくる。その場合は、家族とかを捜したって無駄でしょ。
 幽霊さんの場合は、少なくても明治や大正ということはないわ。おそらく、古くても二十年以内。新しければ、五年ぐらい前に生きていた可能性もあると思う」
 七海の話を聞きながら、青年はただただ感心していた。高校生だと言っていたが、外見はともかく話を聞いている限り、七海は到底少女とは思えない知識と洞察力を持っている。
「幽霊に寿命があるのかどうか知らないけど、大体数年から十数年ぐらい前の幽霊が多いわ。それ以上前の幽霊はグッと少なくなる。百年以上なんていうのは、もうほとんど見かけない。そういう意味では、幽霊さんは平均的な――どうかした?」
 圧倒され、いつの間にか立ち止まってしまっていた青年に気が付いて、七海も足を止めた。そして振り返り、青年の顔を覗き込んでくる。深みのある瞳が、青年を見上げていた。
(七海は凄いな。外見一つから、そんなに推理できるなんて)
 青年の言葉が意外だったのだろう、七海は僅かに目を丸くする。そして、少し照れたようにはにかんだ。年相応な表情。七海が持つ得体の知れなさも、このときばかりは影を潜める。
「ありがとう。そう言ってもらえると嬉しい。もっとも、そうするしかなかったんだけどね。わたしには、姿を見たり、言葉を交わしたりする以上の力はないから」
 姿を見たり、言葉を交わしたりする以上の力はない。それでも、自分は幽霊を救わなければならなかった。七海の言葉は、そう言っているかのようだ。いや、実際その通りなのだろう。青年は、何故そこまでして幽霊を助けようとするのか尋ねたい気持ちに駆られた。だが、土手で七海が見せた遠い瞳が、それを思いとどまらせる。
「経験上、幽霊さんぐらい人間性が残っていれば、早ければ半月ぐらいで全部思い出すことができると思う。だから、それまでよろしくね」
 青年をまっすぐに見つめたまま、七海はそう言って軽く微笑む。
(あぁ。こちらこそ、よろしく頼む)
 分からないことは、まだ色々とある。自分のことも、七海のことも。だが、今は、この少女を信用しよう。確かに、七海には得体の知れない部分もあるが、やはり悪意があるとは思えなかった。青年は、最初に感じた直感をあらためて思い直す。
 そして、七海の笑顔に応えるように、まっすぐ見つめて微笑みを返した。



2.

 人間は、いつの頃から夜行性の生き物になったのだろう。そんな感慨が、ふと胸をよぎる。それほどまでに、街は人に溢れていた。自分が生きていた時代も、確かに夜の街は人で賑わっていたように思う。だが、今目の前に広がっている光景とはどこかが違っている。
 躊躇いのない足取りで人混みの隙間をすり抜けてゆく七海の後を追いかけながら、青年は周囲を見回して目を細めた。ついさっき七海に言われたからということもあるだろうが、今が自分の生きていた時代とは異なっているのだという実感がジワリと滲み出してくる。
「あの建物、なんだか分かる?」
 と、不意に七海が前方を指差して質問を投げかけてきた。
(駅……じゃないのか?)
 青年は即答した。少し自信がなさそうなのは、それが当たり前すぎる答えだからだ。
 だが、それはどう見ても駅にしか見えない。ちょうどそういう時間帯なのだろう。駅に吸い込まれてゆく人々と、駅から吐き出されてゆく人々の波が入り口付近に溢れかえっていた。
「大丈夫、正解よ。まぁ、分かるとは思っていたけど」
 青年の答えに満足したのか、七海は小さく笑みを浮かべた。どうやら、生きていた年代のチェックや、日常的な記憶が残っているかどうかなどの確認だったらしい。
(電車で家に帰るのか?)
「ううん。ちょっと、荷物を取りに来ただけ」
 駅の入り口の人だかりの中に切り込みながら、七海はそう答える。そして、改札とは逆の方向へと進んでゆく。この時間帯、人の流れに逆らって進むのはなかなか大変な作業だ。だが、慣れているらしく、七海は器用に人と人の隙間をすり抜けてゆく。
 やがて、青年の視界にポッカリと空いた空間が飛び込んできた。通路の脇に用意されたエアポケットのような空間。三方の壁にはビッシリと四角い扉が並べられている。
(ここは……コインロッカー!?)
「そうよ。もしかして、コインロッカーが珍しい?」
(いや、そういうわけじゃないけど……)
 どこから取り出したのか、慣れた手つきで七海はロッカーの扉に鍵を差し込む。カチッという小さな音がして、その扉が開いた。中に入っていたのは、通学カバンと中ぐらいのスポーツバッグだ。七海は、それらを引っ張り出す。
 青年は妙な気分で、コインロッカーから荷物を取り出す七海を眺めていた。コインロッカー自体が珍しいわけではない。自分が生きていた時代にも普通にあったはずだし、自分も使った記憶がある。だが、何となく引っかかる。
 そう、確か七海は高校生だと言っていたはずだ。しかも、荷物の中にある通学カバン。これは、下校途中で通学カバンをコインロッカーに預けて街に出ていたということなのだろう。それに、あのスポーツバッグの中身……。
(なぁ、七海。そのバッグの中身って制服か?)
「そうよ」
 やはりそうだ。要するに、七海は下校途中に駅のトイレかどこかで着替え、カバンと荷物をコインロッカーに預けて動いていたわけだ。
 青年の認識では、その手の行動は、いわゆる遊んでいる女子高生がよくやることだったはずだ。だが、七海がそういうタイプだとはとても思えない。まだ、一時間に満たない付き合いだが、イメージが違いすぎる。それ故、青年は妙な気がしたのだ。
 もっとも、今は青年が生きていた時代とは違うのだ。考え方や風習に変化が出ていても当たり前だろう。これが、今の時代の一般的な女子高生の姿なのかも知れない。
「制服に着替えるから、トイレまでついてきて」
(ん、家に帰るんじゃないのか? わざわざ、もう一度着替えるのか?)
「帰るけど、時々お母さんが先に戻ってることがあるから」
 通学カバンとスポーツバッグを手に提げて、七海は人混みを避けて壁際を歩いてゆく。荷物がある分、先ほどまでのように隙間をすり抜けて歩くのは難しいのだろう。
(分かった。でも、女子トイレには入りにくいな……)
「嫌なら、入り口で待っていてくれてもいいわ。ただ、わたしからあんまり離れすぎると同調が解けちゃうから、できれば入り口から動かないで待っていて」
 同調が解けて彷徨っていってしまうと探すのが大変だからと軽く念を押して、七海はトイレに入っていった。そのまま、入り口脇の壁にもたれ掛かって待っていると、思ったより短時間で七海がトイレから出てきた。その姿を見て、青年は目を丸くする。
 紺色のジャンパースカートに、同色のボレロジャケット。一目で学生服だと分かるのは良いが、どう見ても中学生ぐらいにしか見えなかった。丸襟のブラウスや赤いボウタイの影響もあるのだろうが、小柄で童顔な七海自身が最大の要因だろう。
「どうしたの。変な顔をして」
(いや、その……本当に学生だったんだなぁ、と思って)
 高校生だと言っていた七海に、面と向かって中学生にしか見えないとは流石に言いにくい。だから、青年は別の言葉でお茶を濁した。もっとも、その感想もあながち嘘ではない。
 最初に出会った時、夕焼けの逆光や真っ黒な服などの要素があったとはいえ、青年は七海のことを本気で死神だと思った。その印象があまりにも鮮烈で、高校生だと言われた時も今ひとつイメージが湧かなかったのだ。だが、不思議なことに、思ったより似合って見える。
 青年の視線に、七海は僅かに困ったような笑顔を曖昧に見せた。そして、手に持ったスポーツバッグを肩に掛け直し、壁に沿って歩き出す。
「そろそろ帰るつもりだけど、何か食べたいものとかある?」
(食べたいもの?)
「夕食を食べてから帰ろうと思うの。多少ならお金もあるから、幽霊さんの希望でいいわ」
(オレの希望って、オレも食べられるのか?)
 幽霊が食事をするという絵図が思い浮かばず、青年は不思議そうな顔をする。
「絶対とは言えないけど、たぶん大丈夫。わたしに憑依してもらうから」
(憑依って、オレが七海に?)
「そう。同調より一歩進んで、対象の人間と一つになるの。憑依すれば、同調よりもはるかに大量の情報を共有できる。同調と違って、魂と肉体の相性問題があるけど、全く取り憑けないケースは稀だから大丈夫だと思う。とりあえず、試してみる?」
 幽霊に取り憑かれるというのは、どう贔屓目に見ても良い印象はないものだ。キツネ憑きや悪魔憑きなど、大抵の場合において、取り憑かれた人間は酷い目に遭っている。それなのに、七海はまるで試食や立ち読みでもするかのように気軽に勧めてくる。
(大丈夫なのか。相性問題とか言ってたけど、相性が悪いと何かあるんじゃ……)
「心配しなくても平気。相性が悪すぎると、そもそも憑依できないだけだから。それに、多少相性が悪くても憑依さえできれば感覚は共有できる」
(感覚の共有?)
「同調でも、わたしの視覚や聴覚をベースに世界を認識できるけど、憑依すれば完全にわたしを通して世界を見ることができるの。皮膚感覚はもちろん、味覚だって感じられる。つまり、わたしが食べた食事の熱さや味を、幽霊さんが感じることができるということ」
(なるほど、そうやって食事をするわけか)
「人間にとっては当たり前の食事だけど、幽霊をやっているとどうしても遠ざかってしまう。だから、食事を体験するのは人間的な感覚を取り戻すために有効なの。どうしても憑依に抵抗があるんじゃない限りは試してみた方が良いと思う。どうする?」
(いや、食事にも興味はあるし、危険性がないなら試してみたいけど……)
 小さく頷いて、七海は足を止める。そして、人通りの邪魔にならないように一歩壁際へと寄り、クルリと青年の方へ向き直った。つられるように、青年も足を止める。
「なら、早速試してみましょう。わたしの心臓の辺りに手を突っ込んで」
 七海は、自分の胸の前に手を当て、この辺りだと示す。
(えっ、手を突っ込むって……手を当てるじゃなくて?)
「幽霊は本来実体がないから、認識しなければどんなものでも透過する。今、幽霊さんが地面を歩くことができるのも、さっき壁にもたれ掛かっていられたのも、幽霊さん自身がそこに硬いものがあると認識しているから。現に、無意識の人通りならすり抜けていたでしょ」
 言われてみると、確かにそうだったような気がする。青年は、自分の右手に視線を落とし、何度か握ったり開いたりしてみた。と、そこに七海の手が重ねられる。
「もっとも、今はわたしと同調しているから、無意識にわたしの存在を認識している状態になっている。だから、こうやって力を加えると――」
 上に向けて広げた青年の右手に添えられた七海の手に力が加わる。すると、それに従って、押されるような圧力を感じて青年の右手は少しだけ下がる。逆に押し返そうとしたが、それほど力を入れていないように見える七海の手はびくともしない。
「特殊な能力でも持っていない限り、幽霊が物質に影響を与えることはできないから、押し返しても無駄よ。幽霊さんにとっては、わたしはマネキン人形のように硬いはず」
 青年がやろうとしていることを察した七海が、簡単に説明を加える。
「でも、敢えて認識を変えることで透過することができる。わたしが、水か何かでできている柔らかい素材だと考えてみて。手も、すり抜けることができるはずだって思いこむの」
(そう、言われても……あっ!?)
 それは、意外にもあっけなくできた。今まで、びくともしなかった七海の手を、青年の手の平がふっとすり抜けたのだ。ただ、すり抜けられると思いこんだだけなのに。
「そう。そんな感じ。簡単でしょ。次は、わたしの胸に手を入れてみて」
 七海に言われるままに、青年は手の平を延ばす。だが、その手は七海の身体に触れる少し前でピタリと止まってしまう。別に七海が何かをしたわけではない。それは、青年の意志だ。
「どうかした?」
(あっ、いや……その、なんだか七海の胸を触ろうとしているみたいで……)
 そうなのだ。たとえマネキンみたいに硬い感触だとはいえ、透過に失敗すれば七海の胸を鷲掴みにしてしまうことになる。青年は何となく気恥ずかしさを感じて躊躇う。
「なんだ、そんなことなら気にしなくてもいいわ。どうせ、誰にも幽霊さんの姿は見えない」
 確かにその通りだが、当の本人と相手の七海にはしっかり見えているのだ。
「わかった。なら、背中からでいいわ。これなら恥ずかしくないでしょ」
 小さくクスッと笑って、七海は青年に背中を見せる。まだ、多少は気恥ずかしいが、これならば何とかなりそうだ。青年は、七海の小さな背中に手の平を当てる。
 硬い感触。コンクリートを押しているような感じだ。だが、これは透過できる柔らかい素材なのだ。そう思いこむ。すると、不意に抵抗が薄れ、手の平が背中に吸い込まれていった。
(……暖かい?)
 そう思った次の瞬間、青年は手が何かに挟まれたように感じた。そして、強い力で身体が引っ張られる。まるで工業機械に巻き込まれたかのような衝撃に青年が悲鳴を上げた。
(うわぁああ!)
「えっ! 何……これ!?」
 この事態は、七海にとっても想定外だったようだ。青年の異変に気が付いて、七海は初めて慌てた表情を見せる。目を見開いて背後を振り返ろうとした七海が見たものは、自分の背中へと急速に吸い込まれてゆく青年の姿だった。
 そして、青年が吸い込まれてゆくに従って、七海の意識は急速にブラックアウトしてゆく。
「あっ、ダメ。意識が……」
 かろうじて頭から倒れ込むことだけは回避して、七海はその場にへたり込む。
 だが、それで精一杯だった。手をつくこともできず、糸の切れた操り人形のように、七海はドサッとコンクリートの床へと崩れ落ちた。

「………………か?」
 上も下も分からない真っ暗な闇の中で、青年は誰かの声を聞く。遠くから語りかけられる声に聞き覚えはない。ここは、一体何処だろう。自分は、どうなってしまったのか。
 ピクリと指先が意志に反応をしめす。そして、そこを中心として世界が固定を始めた。手が冷たい何かに触れている。いや、手だけじゃない。身体全体に冷たく硬い感触がある。
「…………ですか? 大丈夫、ですか?」
 ハッとして、青年は飛び起きる。ここは、何処だ。視線だけを動かして辺りを見ると、自分の周囲に人だかりができている。人だかりから一歩踏み出した初老の男性が、しきりに「大丈夫か」と声をかけてきていた。青年は、男性の顔を見上げる。
 気が付けば、自分は床に座り込んでいるようだ。足に、ヒンヤリとした冷たいコンクリートの感触がある。何気なく、視線を足下に落として、青年は凍り付いた。
 ふわりと広がる紺色の布。そこから伸びる白く細い脚。青年はハッとして、思わず手に視線を向ける。小さな手のひら、白く細い指。脚も、手も、自分のものではない。
 ――いったい、何が!?
 訳の分からない焦燥感が青年の心で吹き荒れる。じっとりとした嫌な汗が、背を伝って流れ落ちる。周囲の雑踏が急激に遠くなったような気がした。そして、周囲を取り囲む人だかりが大きく揺らぎ、津波のように覆い被さってくる。
「だぁぁいぃぃじょぉぉおぉぉぶぅぅでぇぇすぅぅかぁぁ」
 低く唸るような声が、頭上から投げかけられる。その不気味な響きに、青年は思わず顔を上げる。そこには、醜悪な人間のパロディがうねるようにして自分を見下ろしていた。
 いい知れない恐怖感が全身を駆け抜けてゆく。大きく見開いた瞳には涙が滲み、指先から全身へと震えが伝染する。歯の根が噛み合わず、カチカチと耳障りな音を立てた。喉がヒューヒューと、空気を求めて喘ぐ。心臓が、潰れてしまいそうだ。
 全身の痙攣が、徐々にお腹の下へ重くわだかまってゆく。やがて、それは一つの形をなして、一気に駆け昇り始めた。喉を震わし、絹を引き裂くような悲鳴が――
(落ち着いて!!)
 今、まさに絞り出されようとしていた悲鳴を押しとどめるように、頭の奥で声が響く。それは青年にとって聞き覚えのある声――七海の声だった。
(大丈夫、落ち着いて。感覚情報の多さでパニックを起こしかけているの。深呼吸をして)
「なっ、七海……? 何処に……!?」
 七海の声に、僅かに理性を取り戻した青年は、首を大きく振って辺りを見回す。いつの間にか、周囲の人だかりは日常的な姿を取り戻していた。だが、七海の姿はない。
(同じ体の中にいるから、安心して。それと、下手に喋らないで。不審に思われるから)
 青年は七海の言葉に従って、黙ったまま小さく頷く。僅かに、心が落ち着きを取り戻す。
「あの……救急車を呼びましょうか?」
 先ほどの初老の男性が、気遣わしげに青年を――少女を覗き込んできた。
(大丈夫と言って)
「いえ、大丈夫です。すみません」
(立てる?)
 膝が僅かに震ったが、何とか立ち上がることはできそうだ。青年は小さく頷いて、ゆっくりと立ち上がる。途中で少しだけふらついたが、初老の男性が手を出して支えてくれた。
「貧血ですか? 駅員の方を呼んで、休ませてもらったほうが……」
(断って。荷物を拾ったら、とりあえずこの場所を離れるわ。そうね、トイレに戻って)
「本当に大丈夫ですから。ありがとうございました」
 丁寧に頭を下げてから、足下に落ちていた通学カバンとスポーツバッグを拾い上げる。そして、僅かにふらつきながら先ほどのトイレがあった方向へと歩き出す。
 一歩、また一歩と歩くうちに、青年は確かな感覚を取り戻してゆく。ふらついていた足取りも徐々にしっかりとしたものに変わる。何が起こったのか、全く分からない。だが、七海が大丈夫だと言うのだから信じよう。きっと説明してくれるはずだ。
 七海の指示に従い、青年は先ほどの女子トイレにやって来ていた。頭が混乱気味だったこともあり、恥ずかしいという抵抗もなく、青年はトイレの中へと入ってゆく。そして、手近な個室に入り、便座の蓋を閉めて、その上に腰をかけた。
「いったい、何がどうなってるんだ?」
 人気ひとけのないトイレの個室の中とはいえ、扉一枚隔てた向こうには数名の女性がいる。だから、青年は声を潜めるようにして七海に話しかけた。その声は、口調以外は七海にそっくりだ。
(ごめんなさい、わたしのミスよ。まさか、幽霊さんの魂と、わたしの身体の相性がこんなに良いとは思わなかった。本当は、胸に手を突っ込んだ後に強く取り憑こうと思わないと憑依できないの。だけど、相性が良すぎて勝手に吸い込まれてしまったみたい)
「相性が良すぎた?」
(そう。まるで自分本来の身体と同じぐらい相性が良い。わたしも、今まで色々な幽霊を憑依させてきたけど、こんなケースは初めて。普通は幽霊側から身体の動きを制御するのは難しいはずなの。かなり相性が良かった場合でも、わたしが協力してようやく手足を動かせる程度だった。今までがそうだったから、今回もそうだとばかり思っていたの。だけど、幽霊さんの場合は完全に身体の制御を乗っ取ってしまえている)
「身体を乗っ取るって、憑依って感覚共有だけじゃなかったのか?」
(事前説明を怠ってごめんなさい。相性によって身体の制御は全くできないことも多いから、もし多少でも動かせるようなら、憑依してから実地で説明すれば良いと思っていたの。でも、まさか、わたしの方が身体の制御を失うとは思いもしなかった)
 七海の話を聞きながら、青年は自分が七海の身体を自由に動かせていることをあらためて意識する。思わず手に目を落とし、指を順番に折り曲げてみた。違和感はほとんど無い。
「なぁ、これ……もしかして、かなり危険な状況なんじゃないか?」
(そうね。幽霊さんに悪意があれば、危ないかも知れない。今は、わたしの意志では身体を動かすことができないから、いきなり自殺とかをされたら止めようがない)
「おいおい……。淡々と言ってるけど、怖くないのか?」
(死ぬこと自体は別に怖くないわ。見知らぬ幽霊を自分に憑依させたりする以上、ある程度の可能性は常に考慮に入れてるから)
 それは、ある意味とても七海らしいセリフだった。青年は、今の七海が声だけで顔が見えない状態であることを少しだけありがたく思う。もし表情が見えていたら、一体どれほど得体の知れない目をしていることだろう。それを想像すると、思わず背筋が冷たくなる。
(でも、パニックを避けられて良かった。憑依状態だとリミッターが外れやすいから、暴れたりしていたら怪我人どころか死人を出すことになっていたかも知れない)
「リミッターってなんだ?」
 不穏な話から話題が逸れたことを幸いに、青年はその話に食いついてゆく。
(聞いたことがあるかもしれないけど、人間は普通に生活する上で無意識に筋力などを制限しているの。そうしないと、自分の力で身体を壊してしまうから。よく、火事場のバカ力とかいわれるのは、極限状態でそのリミッターが解除されることで起こる現象よ)
「憑依すると、リミッターが解除されるのか?」
(常に、というわけじゃないわ。憑依している幽霊が感情を高ぶらせたときだけ。でも、普段よりは遥かに解除されやすい。幽霊さんがその気なら、非力なわたしの身体でも、目の前の扉ぐらい簡単に叩き割ることができる。もちろん、わたしの手もただじゃ済まないけど)
 個室の扉は、頑丈な作りの木戸だ。確かに、空手家とかならば叩き割ることぐらいできそうだ。だが、七海の細い身体では到底歯が立ちそうにない。七海は冗談を言うタイプではないので、その気ならば実際にできるのだろうが、流石に試そうとは思わない。
「ところで、憑依状態は解除できるんだよな。まさか、出られなくなったりは……」
 状況の説明が一段落したところで、青年は先ほどからずっと気になっていたことを口にした。憑依する時に、強烈に吸い込まれたような気がしたのが引っかかっていたのだ。
(たぶん、大丈夫。憑依を解除する方法を教えるから試してみて)
「わかった。どうやればいい?」
(まず、目を閉じて。そして、おヘソの下あたりにグッと力を入れる。自分がそこに凝縮するようなイメージを強く持てば、だんだんと外の音が聞こえなくなってくるから、完全に音が消えた段階で前方に飛び出すイメージを――)
 ふわっ、と一瞬身体が浮き上がったような気がして、気が付くと便座の蓋に腰掛けた七海が目の前で微笑んでいた。瞬間的に自分の立ち位置が変化したことで、青年は僅かに戸惑う。だが、すぐに自分が七海の身体から抜け出すことに成功したのだと理解した。
「ね、簡単だったでしょ?」
(そうだな。少し、拍子抜けした感じだ。でも、普通に離れることができて良かった)
 青年はホッと胸をなで下ろす。だが、次の七海の言葉に思わず目を丸くすることになる。
「落ち着いたら、もう一度憑依してみましょう」



3.

「この店……本当に、大丈夫なんだろうなぁ……」
 七海の身体に憑依した青年は、周囲に怪しまれないように小声で呟いた。少しでも不審がられるのを避けられるようにと、孤立できるカウンター席の一番奥に陣取っている。図らずも、ここからだと店内を一望できるのだが、その光景が目下青年の不安要素となっていた。
 まず目に付くのは、壁沿いにこれでもかというぐらい釣り下げられた乾燥ニンニクの束だ。それ自体、ニンニクを使う料理店ならば珍しいというほどのものではないが、何故かこの店の場合は束の中に何個もの十字架が混ざっている。ここの店長は、なにか吸血鬼ヴァンパイアに襲われるのを警戒しなければならないような心当たりでもあるのだろうか。
 そして、壁のあちらこちらで戯れる愛らしいキューピッドたち。絵は、いわゆる子供向けではなく、宗教画にでも出てきそうなリアルなタッチで描かれている。ここがイタリア料理店とかならば、まだ許せるのかも知れない。だが、キューピッドの矢の向かう先に貼られている、黄色く変色した長方形の紙切れが全てを台無しにしていた。
 紙切れには『天国パライソラーメン 五百円』『楽園エデンラーメン 五百五十円』『地獄ゲヘナラーメン 五百五十円』などと、丁寧にルビ付きの品書きが書かれている。かろうじて『地獄ゲヘナラーメン』が辛いラーメンなのだろうという以上の予想がまるで成り立たないネーミングだ。
 極めつけは、天井一杯に描かれたフレスコ画だろう。画題は、かの有名なレオナルド・ダ・ヴィンチの『最後の晩餐』。ただし、十二人の使徒達に振る舞われている食事がラーメンや餃子に差し替えられている。見ようによっては、冒涜的とも言われかねない。
 そう、ここはラーメン屋なのだ。一見そうは見えなくても、いやそもそも料理屋にすら見えなくても、店内に立ちこめるラーメンの香りが真実を物語っている。
 店の名前は『切支丹きりしたんラーメン本舗 亞々麺アーメン』。

 つい十分ほど前、トイレで七海に説得された青年は、渋々再憑依をすることになった。
「これは、チャンスだと思うべき。人間の身体を完全に制御できるなんて、通常ではあり得ない。それに、これに慣れれば人間的な感覚を取り戻すのもずっと早くなる」
(だけど……)
 七海は、身体の制御を他人に乗っ取られるのは不安じゃないのか。そう尋ねそうになったが、どう考えても怖い答えしか返ってこなさそうだったため、青年は言葉に詰まる。
「それに、わたしの身体を完全に制御できる幽霊さんなら、憑依して自分の足で歩いて夕食を食べる店を探すこともできる。自分の足で、繁華街を歩いてみたくない?」
(それは……多少興味があるけど)
「なら、決まり。憑依状態なら、視覚だけじゃなくて嗅覚も働くから、美味しそうな臭いとかを追いかけて店を探すこともできるわ」
 そして、青年は七海に憑依して繁華街へと繰り出した。あまりに身体に違和感がなさ過ぎるために、逆にスカートが気になってしかたがない。なんだか、女装をして歩いているような感じがして妙に気恥ずかしいのだ。
 だが、そんな気分もしばらく街を歩いていると薄れてくる。そんなときに、ふと嗅覚を刺激したのが、こうばしいニンニクの香りだった。七海の話によれば、幽霊は慣れればあらゆる感覚を擬似的に作ることができるらしいが、少なくとも青年の世界に臭いは無かった。だから、それはとても懐かしく、衝撃的な再開だった。
 食欲を刺激する香りに、七海の身体ながら、思わずお腹がくぅと鳴る。そして、臭いにつられるようにフラフラと脇道に入っていったところにあったのが、この亞々麺アーメンだった。香りにすっかり参っていた青年は、細かいことに気を回す余裕が無くなっていたのだろう。今思えば、扉を開いた時点で既におかしいはずの内装に、なぜ気が付かなかったのか。
(わたしとの会話は、傍目には独り言に見える。だから、人目に付きにくい場所に座って)
 七海の指示に従って、ちょうど空いていたカウンターの一番奥を陣取ったのだが、この惨状を見て他に言うべきことはなかったのだろうか。いくらなんでも、今のラーメン屋ではこれが普通ということはないはずだ。もっとも、動じないのも七海らしさかもしれないが……。
 ニンニクの香りに惑わされて入ってきてしまったが、まともな料理が出てくるのだろうか。青年は、自分の迂闊さを後悔しながら、目の前のコップを手にとって水を口にした。
「――っ!? なんだ、この水……」
 何気なく口にした水は、心地よい冷たさを残しながらするすると喉を流れ落ちた。そして、身体の奥底まで優しく染み渡ってゆく。どんなミネラルウォーターよりも、それは美味しかった。思わず、青年はコップに入っている水を貪るように一気に飲み干す。
(どう、美味しいでしょう?)
「あぁ、信じられないぐらいだ。この水は、いったいなんなんだ?」
(ただの水道水)
「えっ!? だけど……」
(美味しく感じたのは、幽霊さんが渇いていたから。最後に水を口にしたのはいつか覚えている。少なくても生前だから、年単位で水を飲んでいないことになるわ。幽霊には肉体がないから、普通の意味での渇きとは無縁。だけど、心は人間と同じだから渇く)
 青年は空になったコップを見つめながら、小さく「渇き……か」と呟いた。
 と、不意に目の前にぬっと太い腕が差し出される。ふと見れば、白い制服の店員がラーメンのどんぶりをカウンターの上に置こうとしているところだった。制服の襟元が、ザビエルや天草四郎のようなギザギザ襟巻きになっているのは、この際見なかったことにする。
「へぃ、天国パライソラーメン叉焼チャーシューのせ、お待ち!」
 それは、一見して醤油ラーメンだった。その上に、トッピングで注文した叉焼チャーシューが所狭しと並べられている。ごく普通のラーメン。だが、青年の目はどんぶりに釘付けにされた。
 熱々のラーメンからゆらりと湯気が立ち昇り、芳しい香りがふわりと青年の鼻腔をくすぐる。思わず、喉がゴクリと鳴った。水が渇きを癒すならば、このラーメンが癒すのは餓え。
(どうぞ。きっと、美味しいと思うわ)
 七海の言葉がスタートの合図だったかのように、青年はどんぶりにむしゃぶりついた。熱々の麺を掬い上げ、叉焼チャーシューと一緒に咀嚼する。スープの辛み、麺の旨み、そして肉の甘みが口の中で次々に弾けてゆく。目の前で何度も火花が散ったような衝撃が、七海の身体を通して青年に伝わってゆく。顔に汗をかくほど一心不乱になって、青年はラーメンを食べ続けた。
 時間にして、ほんの数分。どんぶりに残ったスープをゴクゴクと旨そうに飲み干して、青年はようやく一息を付いた。掛け値なしの幸福感が心を暖かく満たしてゆく。
(それが、食の悦び)
 溢れる幸福感に浸りながら、目を閉じて余韻に浸る青年の脳裏に七海の声が響く。
(幽霊になると、感覚が変化するだけじゃない。食べること、飲むこと、そんな基本的な幸せさえ失ってしまう。だから、幽霊の多くは人間性をどんどん無くしてゆくの。
 どう、もっと食べる? 食べられそうなら、追加注文をしてもいいわ)
「えっと、餃子とかも頼んでいいのか!?」
(こうやって食事をすることも、人間的な感覚を取り戻すための重要な練習だから。それに、お金なら多少あるから遠慮しないで。なんなら、ラーメンのお代わりでも構わない)
「じゃあ、楽園エデンラーメンと餃子一人前を追加で!」
 無邪気に喜ぶ青年を見て、七海はクスッと笑みをこぼした。

「ふぅ……満足したぁ」
 追加で注文したラーメンと餃子を綺麗に平らげ、青年は椅子の背にもたれ掛かり、お腹を軽くさする。七海の小柄な身体の何処にこれだけのものが入るのだろうと思うほど、それは見事な食べっぷりだった。もっとも、その代償としてお腹はパンパンだ。
(そろそろ会計をして帰りましょう。財布はボレロの内ポケットに入っているから)
 七海に言われたとおりに財布を取り出して、青年は会計をすませる。七海は「お金なら多少ある」と言っていたが、小さな財布には一万円札が五枚も入っていた。これは、女子高生の持ち歩く金額にしては、だいぶ多いのではないだろうか。
 青年は、ふとそう思ったが、自分が生きていた時代とは違うのだ。今はこれが普通なのかもしれない。それに、七海がどこかのお嬢様だという可能性もある。
「七海、ごちそうさま。奢ってもらって悪かったな」
(気にしないで。どうせ、あぶく銭だから)
 青年は、「あぶく銭」という言葉に僅かな引っかかりを覚えたが、気にしないことにした。なんにせよ、自分は奢ってもらった立場だ。感謝こそすれ、詮索する筋合いではない。
 亞々麺アーメンを後にして、青年は繁華街のメイン通りをポツポツと歩き始める。
「ところで、そろそろ家に帰るんだろ。オレは身体から出ようか?」
(ちょっと待って。家の方向を教えるから、もうしばらくは憑依しておいて)
「人間の感覚を取り戻すための練習か?」
(ううん、そうじゃない。今、憑依を解いたら、たぶんわたしは吐いてしまうから)
「吐く!? どういうことだ?」
(人間は食欲にも満腹中枢というリミッターがあるの。普通は、ある程度ものを食べたら満腹中枢が満足したという信号を出す。だけど、憑依状態だとそれが弱まるから、胃がめいっぱい膨らんでパンパンになるまで――物理的な限界まで食べることができるの)
 無意識に、パンパンに膨れたお腹をさすりながら、青年は七海の説明に納得する。
「そうか、それであんなに沢山食べられたのか」
(だから、今はかなり限界ギリギリ。憑依の補助がないと、たちまち吐いてしまう)
「なるほどなぁ。でも、ということは無理矢理に食べさせたようなものなんだよな。なんだか、七海に悪いことをしちまったな」
(気にしないで。いつもいつもというわけにはいかないけど、今日は幽霊さんにとって初めての食事だから。満足いくまで食べてもらいたかったの。その代わり、少しお腹がこなれるまで憑依を維持してくれる?)
「ありがとう、分かったよ。このまま、腹ごなしに家まで散歩すればいいんだな」
(そう。あ、次の角を左に曲がって)
 繁華街の中心から少し離れた辺りで、青年は七海の指示に従って脇道に入ってゆく。同じ脇道でも、亞々麺アーメンがあった繁華街の中心とは違い、道幅が少し狭い。
 その道をまっすぐに進み、しばらくしてから今度は右手に折れた。道幅は変わらないが、一気に辺りが暗くなる。街灯の本数が減ったからだろう。闇に向かってまっすぐに伸びた道路に、電信柱に取り付けられた電灯の明かりがポツポツと並んで浮かび上がっている。
 と、不意に辺りの空気が変わった。背筋にゾクッとした悪寒が走り、心臓が跳ね上がる。
「なっ……なんだ!?」
 駅でパニックを起こしかけた時に似ていた。だが、これはもっと禍々しい。生暖かく、ブヨブヨとした気配が体の回りにまとわりつく。足の先から、震えが這い上がってきた。
(あ、これは……)
 七海の呟きと同時に、目の前に広がる闇の向こうからズルッズルッと、湿ったものを引きずるような音が響いてきた。その音は、とても耳障りで神経に障る。何かが闇の奥から現れ出ようとしている。見たくない。見てはいけない。そう思うのに、目を離すことができない。
(幽霊さん、足は動く?)
「えっ……あ、あぁ。なんとか」
(じゃあ、そこの電信柱の下まで移動して。電灯の明かりのついているところ)
 七海に促されて、青年はがくがくと震える足を引きずるように電信柱の方へ歩いてゆく。
 程なくして、それは闇の衣をヌルリとはぎ取るように姿を現した。
 なまじ人の形を残しているだけに、その醜悪さは鮮烈だ。土気色のブヨブヨとした肌は、所々が毒々しい緑や紫に変色し腐敗している。まさに、それは生ける屍ゾンビだった。
 外見自体は、ホラー映画を見慣れた人間ならば、それほど驚くものではないだろう。だが、テレビ画面を挟んで見るのと実際に遭遇するのでは、恐怖感は比べものにならない。
 青年は、思わず「うぁ……」と呻き声を上げそうになって、慌てて口を手で押さえる。
(大丈夫。あれは目も見えず、耳も聞こえない。だから、近づかなければ安全)
 パックリと割れたお腹から、だらりと垂れ下がる内蔵をズルズルと地面に引きずりながら、生ける屍はゆっくりと青年の目の前を通り過ぎてゆく。
 やがて、その姿は再び闇の中へと消えていった。それと同時に、嫌な空気が薄れてゆく。
「いっ……今のは、一体なんだったんだ!?」
(あれも幽霊。見たとおり、あんまりたちが良くない悪霊よ。人間性はもう微塵も残ってない。ただ彷徨い続けて、出会う人間に害をなそうとする。もっとも、憑依の相性が良い相手じゃない限り、大したことはできないけど)
 あんな化け物とニアミスしたにもかかわらず、七海はとても落ち着いていた。口ぶりからいって、あの生ける屍ゾンビと遭遇したのも初めてではないのだろう。これが七海の日常、七海の見ている世界なのだ。青年は、その凄惨さに思わず身震いをした。
(もう行きましょう。うちはすぐそこの角だから。温かいお茶でも飲めば落ち着くわ)
 七海に促されて、青年はようやく歩き出す。まだ、僅かに足が震えていた。
 青年はよたよたと歩きながら、周囲に目を配る。七海は「そこの角」と言っていたが、何処だろうか。少なくとも、パッと見た目には、それらしき家は見あたらない。
 信号のない小さな十字路まで出て、青年は足を止めて周囲をぐるりと見回した。
 不意に、七海が(そこ)と小さく呟いた。その短い言葉に、青年の視線がピタリと止まる。今、目の前にあるのは、築何十年か分からないような古ぼけたアパートだった。
「このアパート……なのか?」
(そう。脇にある階段から二階に上がって。奥から二番目の部屋だから)
 どうやら、間違いはないようだ。だが、それは青年の想像と大きく違っていた。大金を持ち歩いていたイメージから、何となく一戸建てだと思いこんでいたのだ。そのギャップに、青年は僅かに戸惑う。何となく、ちぐはぐな印象が拭えない。
(どうかした?)
 だが、詮索をしても意味はないだろう。青年は「なんでもない」と呟いて、言われたとおりに階段へと足を進める。錆の浮いた金属階段が、ギシッ、と嫌な音を立てて軋んだ。



4.

 古ぼけた畳の上にあぐらをかいて、青年はぐるりと部屋の中を見回した。大体四畳半ぐらいの大きさだろうか。壁際に小さなクローゼットと本棚が置いてある以外は、ほとんど何もない閑散とした部屋だ。あの押入には布団が入っているのだろう。
 風の音がそのまま突き抜けてくる薄い窓ガラスの向こうで、電信柱の電灯が明滅する。
(どう見ても、女子高生の部屋じゃないな)
 外観の通り、そのアパートは狭く古ぼけていた。一応、2Kというのだろうか。二人掛けのテーブルを置くだけで精一杯のキッチンと、和室が二つ。それが、この家の間取りだ。
 七海の説明に寄れば、一部屋が母親の、もう一部屋が七海の私室らしい。今、青年が座っているのが七海の部屋だ。だが、言われなければ女の子の部屋だとは分からないだろう。むしろ、青年が一人暮らしをしている部屋だと言った方がしっくり来るかもしれない。
 青年は畳の上にごろりと転がった。別に、憑依が窮屈なわけではないが、こうやって本来の姿で転がっていると妙な開放感がある。七海は、今、お風呂に入っているはずだ。
 つい先ほどまで、青年は七海に憑依したままキッチンで小さなテレビを見ていた。腹ごなしが少し足りなかったので、一時間ぐらいのんびりとして時間を潰していたのだ。母親はまだ帰っておらず、テーブルの上に炒飯が一皿、ラップをかけて置かれていた。それが、本来ならば七海の夕食になるはずの物だったのだろう。皿の横には『遅くなります。先に寝て下さい』と、やけに他人行儀な印象を受ける書き置きが残されていた。
「七海の母さんって、なんの仕事をしてるんだ?」
(パートの掛け持ち。スーパーのレジとか、ガソリンスタンドとか)
「こんな遅くまで大変だな。いつも、そうなのか?」
(わからない。お母さんの仕事スケジュールは知らないから。お母さんも話さないし)
 雑談とテレビで時間を潰し、ようやくお腹がこなれてきたところで青年は憑依を解除する。七海には、どうせだから憑依したままお風呂も体験すればいいと勧められたが、流石にそれは気が引けるので遠慮した。
 ザァー、というシャワーの音が響いてくる。一応、部屋のドアは閉めているのだが、防音効果はほとんど無いらしい。と、ガチャと七海が浴室の扉を開ける音が聞こえた。
 この家は、間取りの関係で脱衣所というものが存在しない。キッチンと一体になったような廊下の突き当たりに浴室が、少し手前の右手側にトイレがある。そのため、廊下の突き当たりの左側に脱衣用のかごが置かれているのだが、キッチンからは丸見えなのだ。
 七海は「別に気にしなくていい」と言っていたが、そういうわけにもいかないだろう。ギリギリ同調が解けない範囲だったらしいので、青年は頼み込んで七海の部屋へ一時的に避難させてもらっていた。青年は畳の上でゴロゴロと転がりながら、七海が出てくるのを待つ。
 しばらくして、ゆったりとしたクリーム色のパジャマに着替えた七海が部屋に戻ってきた。濡れた髪は既にドライヤーで乾かしてあったが、ほんのりと赤く上気した頬が湯上がりの雰囲気を纏っている。七海は青年と視線が合うと、小さく微笑んだ。
(七海は、もう眠るんだろ。オレは、どうしたらいい?)
「幽霊さんも眠って。幽霊に睡眠は不要だけど、その気なら眠ることはできる。慣れないと寝付きが悪いかも知れないけど、これも人間的な感覚を取り戻す練習になるから」
 七海は青年と話しながら、押入から布団を取り出す。そして、テキパキと敷いてゆく。
「布団、一組しかないから、わたしの隣でかまわない? もっとも、幽霊は物質に影響を与えられないから、気分の問題なんだけどね。布団も柔らかくは感じられないし」
(あぁ、オレのことは気にしなくていいよ。適当にその辺に転がって眠るから)
「だけど……」
(本当にいいって。どっちにせよ、気分の問題だけなんだろ?)
「……わかった。じゃあ、もう電気を消すね」
 小さく頷いて、七海はドアの横にある電気のスイッチをパチンと切った。天井にしつらえられた蛍光灯が消える。だが、部屋は真っ暗にはならない。窓の外からカーテン越しに差し込む青白い電灯の光が、部屋の中を薄ボンヤリと照らしているからだ。
 七海は、そっと布団に入って横たわる。そして、そのまま目を閉じた。すぐに、スースーという安らかな寝息が聞こえ始める。その様子を見つめながら、青年は壁を背にして足を抱えて座り込んでいた。僅かな明かりに照らされた七海の寝顔は、とても穏やかだ。
 ――こんな状況なのに、七海は眠ることができるんだな。
 いくら幽霊とはいえ、同じ部屋にほとんど見ず知らずの男がいれば少なからず警戒するのが普通だろう。いや、むしろ幽霊だからこそ警戒するべきではないだろうか。七海も言っていたが、憑依されて自殺でもされたらどうしようもないはずだ。
 特に、青年は七海の身体を完全に乗っ取ることができる。それは、お互いに経験済みだ。仮に自殺でなくとも、青年に危害を加える意志があれば、七海には身を守る手段がない。それなのに、七海の寝顔はとても無防備だった。
 無条件に青年に力を貸してくれる少女。今までに九十九人の幽霊を救ってきたという少女。そして、どこまでも無防備な少女。本当に、彼女はいったい何者なのだろうか。
「わたしを殺して道連れにしたい?」
 不意に声を掛けられ、青年はビクッと反応する。てっきり眠っているものだとばかり思っていたが、そうではなかったらしい。七海はゆっくりと体を起こす。そして、顔だけを青年の方へと向けてきた。窓からの光が逆光になってしまい、その表情は読みとれない。
(いや、そういうつもりじゃ……)
 本当にそんなつもりは微塵もなかった。だが、寝顔をじっと見つめていたのは事実だ。青年は、何となく気まずくなって視線をそらしながら口ごもった。
「それとも、わたしのカラダを弄びたい?」
 唐突に七海の口から出た言葉を、青年は一瞬理解することができなかった。だが、すぐにその意味に思い当たりハッとする。あまりにも予想外のセリフに、青年は言葉を失った。
 いや、そうではない。想像の範囲内だったからこそ、それは衝撃的だったのだ。
「したいなら構わない。でも、うちは壁が薄いから、お母さんが帰ってくる前に終わらせて」
 それは、どうせ抵抗できないからという諦めではなかった。ましてや、いざとなれば抵抗できるという牽制ですらない。本当に言葉通り「構わない」と言っているのだ。その口調には、嫌悪はもちろん、期待さえも存在しない。
(どうして…………。どうして、そんなことを言うんだ!?)
「幽霊さんの希望なら、できる限り叶えてあげる。ただ、それだけ。もしかしたら、それが未練になっている可能性だってあるかも知れないでしょ?」
(仮にそうだとしても、七海がそこまでする必要があるのかよ!!)
「ある。それが、わたしの目的につながるから」
 青年は、七海が無防備なのだと思っていた。だが、そうではない。それは、青年には到底想像もつかないほどの強い意志、その上に成り立つ覚悟だったのだ。思えば、七海の持つ得体の知れなさは全て、その尋常ならざる覚悟に端を発しているのかも知れない。
 気詰まりな沈黙が辺りを支配する。ややあって、七海がポツリと口を開いた。
「ごめんなさい。わたし、幽霊さんを困らせてしまったみたい」
(いや、オレの方こそ助けてもらっている身で言い過ぎた。怒鳴って悪かったな……)
 七海は身体を布団に横たえ、再び目を閉じる。
「おやすみなさい、幽霊さん」
(あぁ、おやすみ)
 青年は、最初に七海に出会った時に感じた印象を思い出していた。七海は、幽霊である自分よりも遥かに深く暗いところに棲んでいる。その直感は決して間違いではなかった。だが、不思議と、七海への恐怖感や嫌悪感は湧いてこない。
 その代わりに、どこかいたたまれないような感情が青年の胸を苛む。
 何時間も、その身に憑依していたからだろうか。青年は、いつしか七海に対して懐かしさにも似た親近感を覚えるようになっていた。ともすれば、まるで七海が自分自身であるかのようにさえ思えてくる。それは、家族に対する親愛の情に近いのかも知れない。
 薄明かりの中、何事もなかったかのように寝息を立て始めた七海を見つめながら、青年は静かに瞳を閉じる。そして、数年もしくは十数年かぶりの微睡みの中へと落ちていった。

第二話 福音ふくいん跫音あしおと

1.

 羊水の中に揺蕩たゆとう胎児のような温かさに包まれて、青年は僅かに身じろぎをする。まぶたの裏に、やわらかな朝の陽射しが射し込んできた。あぁ、もう朝か。そろそろ起きないと、大学に遅刻するな。そんなことを思いつつも、この快楽は手放しがたいものがある。
 トントントントン――
 ふと聞き慣れた音が、耳を優しくノックする。これは、なんの音だっただろうか。とてもリズミカルで、不思議な幸福感を想起させる音だ。その幸福感に身を任せていると、ふと別の音が混ざり始める。それは、グツグツという何かが沸騰したような音。
 そうだ、これは料理の音だ。誰かが朝ご飯を作る音。誰かが――誰が?
「……さん。……さん」
 誰かの声が耳元で囁く。この声は七海ななみ――いや、違う。僅かに似ているような気もするが、間違いなく別人だ。とても懐かしくて、声を聞くだけで嬉しさがこみ上げてくる。この感情はいったい何だっただろうか。
「……さん。宗佑そうすけさん。そろそろ起きないと、二人とも大学に遅刻するわ」
 いつもの朝の光景。そうだ、あいつはいつも朝ご飯を用意してから起こしてくれていた。
「宗佑さん。宗……さん。……さん。…………」
 あいつの声が、急速に遠ざかってゆく。
 ――ダメだ、行かないでくれ! オレは……。
 声が途絶え、すべての幸福感が失われる。世界が反転し、闇の中へと落ちてゆく。
 ――オレは……まだ死ねない!!
 まるで深い海の底へと沈んでゆくみたいだ。喪失感の水圧を押しのけながら、青年はがむしゃらに手を伸ばした。そして、不意に温かいものに手が触れたような気がして――
「……さん。幽霊さん。もう、朝よ」
 ハッとして、青年は目を覚ます。呆然とする青年を、制服姿の七海が覗き込んでいた。
 青年は僅かに混乱して周囲を見回す。古ぼけた畳に、クローゼットと本棚だけの閑散とした部屋。見覚えがある。ここは、七海の部屋だ。既に布団は片づけられた後らしい。窓から射し込む朝日が、柔らかく室内を照らし出していた。
 それは、ごく普通の朝の光景。青年は、自分が夢を見ていたのだと気が付いた。
「どうかした?」
(いや、なんでもない。おはよう、七海)
「おはよう、幽霊さん」
 小さく息を吐きながら、青年は七海と朝の挨拶を交わしあう。と、ふと妙なことに気が付いた。七海が声を潜めているのだ。どうかしたのだろうか。そんなことを思い巡らせていると、青年の疑問に気が付いたのだろう、七海はキッチンへと続くドアへ軽く目配せをする。
 トントントントン――
 今まで意識していなかったが、キッチンの方からはリズミカルな包丁の音が聞こえていた。それは、まるで夢の中から飛び出してきたかのように、同じリズムを刻んでいる。いや、この音があったからこそ、あんな夢を見たのかもしれない。
「お母さんが朝ご飯をつくってるの。お母さんは幽霊とか見えないから、わたしが幽霊さんと話をしていると独り言を呟いているみたいに見られる。まぁ、それでも良いんだけど、あんまり心配を掛けたくないから。家を出るまで、窮屈だけど我慢して」
(あぁ、わかった。オレも、無意味に話しかけないようにするよ)
 青年は状況を理解して、自分も声を潜めて返事をする。もっとも、母親には幽霊の声はそもそも聞こえないはずなので、青年が声を潜める意味はあまり無い。だが、その気配りが嬉しかったのか、七海はそっと笑顔を見せた。
 しばらくして、キッチンから母親のものらしき声が聞こえてきた。
「朝ご飯ができたわ。そろそろ、こっちにいらっしゃい」

 朝のニュースを伝えるテレビの音に混じって、箸と茶碗が触れあうカチャカチャという小さな音が聞こえる。青年は大人しくテレビでも眺めながら待っていようと思ったのだが、何か妙な違和感を感じてしまい、テレビに集中することができないでいた。
 違和感の正体を探るように、青年はテーブルの上に視線を彷徨わせてゆく。
 それは、ごく普通の朝の食卓だった。香ばしそうな焼き魚の切り身。湯気を立てる味噌汁。白いご飯の隣には、焼き海苔の乗った小皿が添えられている。あとは、テーブルの中央に置かれた筑前煮の鉢と醤油差し。別段、何処にもおかしな所は見あたらない。
「ごちそうさま……」
 と、不意に七海が箸を置いた。見れば、左手で口元を押さえて少し気持ち悪そうな表情かおをしている。味噌汁を半分ほど飲んだ以外は、ご飯もおかずも一口しか手をつけていない。
 自分の朝食を黙々と食べながら、母親はちらりと七海の方へ視線を向ける。
「食欲がないみたいね」
 その口調には、別に食べないことを咎めるような様子はない。何となく、七海によく似た抑揚の薄い喋り方だ。実際、母親はそれ以上は何も言わず、再び黙々と朝食を食べ始めた。
 その短いやりとりを見た瞬間、青年はずっと感じていた違和感の正体に気が付いた。
 この食卓に欠けていたもの、それは会話だ。普通、家族の食卓というものは箸の音までが聞こえるほど静かなものではない。他愛のないお喋り、テレビの話題、今日の予定、美味しい不味いという感嘆。そんな当たり前のものが、七海の食卓には無かった。
 青年は、何となく微妙な居心地の悪さを感じて、視線を母親の方へと彷徨わせる。
 母親は、薄幸そうで随分と疲れたような印象を受ける女性だった。だが、それを差し引けばわりと若いのではないだろうか。母娘おやこだけあって、七海とはよく似た顔立ちをしている。
「ごめんなさい。ちょっと、胃の調子が悪いみたい」
 そう言いながら、七海は席を立つ。そして、自分の使っていた食器を流し台の上へ持っていった。まだ食べられそうなおかずは、ラップでくるんでから冷蔵庫へと放り込む。冷蔵庫の中には、昨晩食べなかった炒飯がラップをされたまま入っていた。
 七海の胃の調子が悪いのは、ほぼ間違いなく昨夜のラーメン馬鹿食いのせいだ。炒飯や食べ残されたおかずを眺めながら、青年は何となく申し訳ない気持ちに駆られる。
 汚れ物の食器をシンクに張った水につけ込んでから、七海は一度自分の部屋へと戻っていった。青年が、自分もついてゆくべきだろうかと逡巡しているうちに、通学カバンを手に持った七海が部屋から出てくる。今日は、着替えの入ったスポーツバッグは持っていない。
「お昼ご飯はちゃんと食べなさい」
 母親は相変わらずの抑揚の薄い口調でそう言いながら、一枚の五百円玉を七海に手渡した。お昼ご飯代ということだろうか。七海は小さく頷いて受け取った。そして母親に気づかれないように、軽く青年に目配せをする。どうやら、出かけるということなのだろう。
 七海は、そのまま「いってきます」も言わずに玄関へと向かった。そして、靴を履いて玄関の扉を開ける。ガチャリという音を聞きながらも、母親は黙々と食事を続けている。その様子に何となく気詰まりなものを感じつつ、青年は七海について玄関を後にした。
 昨日と同じように七海が一歩前を歩き、青年はその後をついてゆく。朝の陽射しの中でも、アパートの古ぼけた印象は変わらない。雑多にモノが置かれている細い廊下を抜けながら、七海は錆びの浮いた階段へと足を踏み出した。
 家を出てから黙って後をついてきていた青年だったが、思いかねてふと口を開く。
(なぁ、七海。母さんと仲が悪いのか?)
「別に。ただ、お母さんはわたしにあまり関心がないだけ。気にしないで」
 七海は足を止めずに淡々と答える。このぐらいの年齢ならば、確かに家族と色々あってもおかしくはないだろう。だが、青年にはむしろ母親の態度の方が不自然に感じられていた。
 と、不意に青年はあることに気が付いた。それは、父親の不在。今更という気もするが、七海に父親はいないのだろうか。たまたま会わなかったということではないだろう。家には、父親がいるべき部屋自体が存在していなかったからだ。
 何となく気になったが、青年は尋ねても良いものかどうか僅かに逡巡する。もっとも、七海のことだから軽く流すのが関の山だろう。そう考えて、青年は疑問を口にした。
(父さんはいないのか?)
 青年の予想に反して、七海はその言葉にピクリと反応を示した。思わず階段を下りていた足が止まり、ギシッと嫌な音が辺りに響く。僅かな沈黙があり、七海はポツリと呟いた。
「お父さんは別居してる。もう、四年以上会ってないから何をしているかは知らない」
 鉄サビで赤茶けた手摺を軽く撫でながら、七海は僅かに俯いて立ち尽くす。意外なリアクションに、青年は思わず言葉に窮する。と、不意に七海がクルリと振り向いた。
 その表情に、青年は再び面食らう。それは、不自然なほどの笑顔だったからだ。
「そんなことより、初めての眠りはどうだった?」
 不自然な笑顔、不自然な話題転換。それは、これ以上聞くなというサインなのだろう。青年はそう理解して、その話題転換に乗ることにした。
(あぁ、なんていうか懐かしいような妙な感じだったかな。それと、夢を見たな)
「もしかしたら、それは生前の記憶かも知れない。何か、思い出さない?」
(名前を……確か、宗佑って呼ばれていた気がする)
「宗佑、それが幽霊さんの名前なのね。良いペース。焦らず、思い出してゆきましょう」
 七海が優しい微笑みを見せる。今度は、作り物ではない本当の笑顔だ。そして、どこか嬉しそうに軽やかな足取りで階段を下り始める。もう、先ほど父親の話題を出した時の重苦しさは何処にも残っていない。青年は、ホッとして後について階段を下りてゆく。
 と、先に階段を下りきった七海が、不意に振り返って見上げてきた。
「あらためてよろしくね、宗佑さん」
 七海に「宗佑さん」と呼ばれた瞬間、何か懐かしくて温かいものが青年の心をよぎった。それは、夢の中で感じていた幸福感にどこか似ている。七海の声が、夢の声に少しだけ似ているからだろうか。懐かしさと、僅かな寂しさが青年の――宗佑の心を刺激した。



2.

 登校の途中で七海が立ち寄った教会は、一見して相当に歴史がありそうな造りをしていた。毛足の長い深紅の絨毯が作る道の両脇には、映画などで見慣れた木製の長椅子が整然と並べられている。ふと見上げれば、アーチ状の梁がいくつも連なって天井を構成していた。
 こんな朝早くだというのに、教会の中には意外と多くの人がいる。ザッと十数名ほどだろうか。しかも、入れ替わり立ち替わりに人がやってくる。黒い服の神父らしき人物が、忙しそうに立ち回りながら訪問客に挨拶を配って歩いていた。
 七海は、一人奥のキリスト像の前に跪き、先ほどから長い祈りを捧げていた。七海がキリスト教徒なのかどうかは知らないが、不思議とよく似合う光景だ。と、不意に七海が立ち上がった。どうやら、祈りが終わったらしい。
 七海は、神父に小さく会釈をしてから、入り口付近で待っていた宗佑の元に戻ってきた。
「お待たせ。付き合わせてごめんなさい。教会とか、嫌いじゃなかった?」
(いや、物珍しくて興味深いよ。どうも、オレは幽霊のくせに無宗派だったらしい)
 小さく笑い合いながら、二人は教会を後にする。緑の多い敷地内を抜けると、多少殺風景な道路に出た。ここをまっすぐ歩いてゆけば、七海の通う県立藤ヶ丘ふじがおか高校があるらしい。
「あら、奇遇ですわね。おはようございます、七海さん」
 と、不意に背後から凛とした声がかけられて、七海はビクッとして立ち止まる。七海とは対照的な良く通る声だ。七海の友達だろうか。そう思い、宗佑はふと振り返った。
 そして、思わず息を飲む。そこには、まるでアイドルかモデルのような美少女が立っていたからだ。細身ながらメリハリのあるプロポーション。腰まで伸びた艶やかな黒髪。多少きつめの印象を受けるが、美しく整った顔立ち。それぞれが、絶妙なバランスで完成されている。
 七海と同じボレロの制服を身に纏っているが、きちんと一目で高校生だとわかった。七海とは別の意味で意志の強そうな瞳が、良家のお嬢様を彷彿とさせる。
 七海は、やや戸惑ったように視線を泳がせてから、渋々といった感じで振り返った。
「……おはよう、瑞樹みずきさん」
 七海は、いつも以上に平坦で感情の薄い口調で挨拶を交わす。友達ではないのだろうか。宗佑は、七海の態度が何となく腑に落ちなかった。だが、瑞樹と呼ばれた少女は、さして気にするそぶりを見せず、うっすらとした笑みを浮かべて話しかけてくる。
「また、教会でお祈りをされていたのですか。神様に許しを請うぐらいなら、まずはご自身の生活態度を見直されてはいかがですの?」
「そんなんじゃ…………」
「あら、そういえば今日は仕事着きがえはお持ちじゃないのですね。いくら七海さんでも毎日毎日ではカラダが持ちませんか?」
「毎日なんて……やってない…………」
「そうですか。それは、失礼しましたわ。ちょうど昨日、七海さんを見かけたものですから」
 瑞樹の言葉に、七海の顔色がサッと変わる。そして、そのまま俯いた。
「……見てたの?」
「『五万円で良い』でしたか。随分とお安いんですわね」
 意地悪そうな笑みを浮かべながら、瑞樹は七海の口まねをしてみせる。それを見て、宗佑はようやく二人の関係を理解した。七海は、瑞樹からイジメを受けているのだ。
わたくしなら、たとえ一千万円を積まれてもごめん被りますわ」
 二人の会話はほとんどが仄めかしなため、宗佑には内容までは理解できない。だが、これは何か助け船を出した方がよいのではないだろうか。宗佑は、何か自分にできることはないかと考えながら七海の方へと視線を向ける。
 と、不意にその視線に気が付いた七海が激しく狼狽えた。
「あっ、違っ!? わたし、そうじゃなくて…………」
 その言葉は、瑞樹にではなく明らかに宗佑に向けられていた。人が近くにいる時は、できるだけ不審がられないように注意を払っている七海らしくない行動だ。と、みるみるうちに七海の目に涙が浮かび上がってくる。そして、その場にしゃがみ込んでしまった。
(なっ、七海!?)
 唐突に泣き出した七海を見て、宗佑は思わず驚きの声を上げる。まだ半日程度の付き合いだが、七海の性格は大体わかっているつもりだった。それなのに、この行動はあまりに予想外だ。どうして良いかわからず、宗佑は思わず瑞樹を睨み付けた。
 七海の行動が予想外だったのは宗佑だけではなかったようだ。見れば、瑞樹も唖然とした表情で、泣きじゃくる七海を見下ろしていた。イジメの張本人にしては、不可解な行動だ。
 と、不意に瑞樹が宗佑の方へと顔を向けてきた。ほんの一瞬、宗佑と瑞樹の視線がピッタリとあった気がした。七海とは違った意味で怖さを孕んだ視線に、宗佑は僅かな寒気を感じる。だが、それは気のせいだ。なぜなら、瑞樹に宗佑が見えているはずがないのだから。
 案の定、瑞樹はそのまま道の向こう――藤ヶ丘高校の方へと視線を向ける。
わたくし、お先に失礼しますわ」
 不穏な笑みをうっすらと浮かべて、瑞樹は宗佑の脇をスッとすり抜けていった。瑞樹は、そのまま七海を振り返ることなく、スタスタと歩き去ってゆく。宗佑は、しばし瑞樹を視線で追っていたが、ふと思い出したように七海の隣に駆け寄る。
(七海、大丈夫か!?)
 宗佑は座り込んで啜り泣いている七海の震える肩に手を添えた。幽霊なので七海には触られている感触は無いはずだが、泣き声が僅かに小さくなったのは気のせいではないだろう。
 ひとしきり泣きじゃくった後、ようやく落ち着いて、七海は顔を上げた。涙でグシャグシャになった表情かおは、あの得体の知れなさを湛えた七海とはまるで別人だ。手の平で涙を拭いながら、七海は震える声でポツリポツリと喋りだした。
「ビックリさせてごめんなさい。もう、大丈夫だから。いつもは、こんなこと無いんだけど、宗佑さんにバレるって思ったら、わたし、急に訳がわからなくなっちゃって……」
(オレにバレるって、何がだ?)
「わたしの正体。って、もうバレてるよね……。昨日の夜もあんな話をしちゃったし」
 七海は俯いたまま、僅かに自嘲気味な笑みを浮かべる。
「どうせ隠しきれないから言うね。わたし、時々だけど援助交際してるの。一ヶ月ぐらい前かな、その現場を瑞樹さんに目撃されたことがあって……」
(援助交際……?)
「あぁ、宗佑さんの時代だと言葉が違うんだっけ。援助交際っていうのは、お金をもらって、見返りに男の人と遊ぶこと。要するに…………売春」
 僅かに躊躇ってから、七海はその言葉を口にする。そして、今度は宗佑の方が激しく狼狽える番だった。七海がカラダを売っている。まさか、そんなことが……。
 七海は、とてもじゃないがそんなことをするには見えない。だが、言われてみれば色々と思い当たることがあった。わざわざ駅のロッカーを使って制服を着替えていたこと。女子高生という身分に見合わない大金を持ち歩いていたこと。しかし、どうして七海が――
(そうか、幽霊の未練だな!!)
 ハッと思い当たり、宗佑は七海へ視線を向けた。七海は、辛そうな表情で頷く。
「そう。どうしても、そういう未練を持った幽霊がいるの。最初はお金をもらうつもりなんて無かった。だけど、相手の人がくれるから……。それに、幽霊によってはお小遣いじゃ到底行けないような遠方の家族に会いに行く必要もあったから助かることも多かった」
(じゃあ、オレが馬鹿みたいに食べたラーメンの代金も……)
「……ごめんなさい」
 七海が謝るべきものではなかったが、宗佑にはフォローを入れることができなかった。
「だけど……わたし、無意味にしたりはしてない。昨日だって、宗佑さんと出会う前にたまたま別の幽霊の未練をはらしてあげる必要があったからだし……って、何を言い訳してるんだろう。結局、わたしがそういうことをしていることには変わりがないのに…………」
 七海の瞳に涙が滲み、再び頬を伝って流れ落ちる。
「おかしいよね。今までなら、そもそも隠そうとさえ思わなかったのに。だけど、宗佑さんにだけは絶対にバレたくないって思ったの。昨日の夜、宗佑さんが本気で怒鳴ってくれたからかな……。わたしのことを気にしてくれて、少しだけ嬉しかった」
 涙を流しながら力無く項垂れた、今にも頽れてしまいそうな七海。彷徨っていた宗佑に救いの手を差し伸べた、得体の知れなさを秘めた七海。一見矛盾する二つのイメージが、宗佑の中で一つに溶け合ってゆく。それは、決して相反するものではない。
 そう、七海は耐えていたのだ。決して強くないからこそ、今にも糸が切れてしまいそうな程に心を張り詰めて覚悟を決める必要がある。七海は、そうやって生きてきたのだろう。
 ――何のために?
 むろん、目的のためだ。もしかしたら、それは聞いてはいけないことなのかもしれない。答えてはもらえないかもしれない。だが、宗佑はもはや聞かずにはいられなかった。
(なぁ、七海がそこまでする目的って何なんだ?)
「わたしは……救いが欲しい」
 意外にもあっさりと、七海はそう答えた。
「ちょうど、四年位前。この街に引っ越してきたばかりだったわたしは、生きることにも死ぬことにも絶望していた。そのとき、偶然さっきの教会を見つけて……神様の声を聞いた」
(神様の声!?)
「神様は『百人の彷徨える魂を救え。さすれば、汝に救いがおとずれん』そう言ってくれた。神様が本当に実在するのかどうかは知らない。全部、わたしの妄想かも知れない。それでも、わたしは救いが欲しかった。救われるなら、何でもやる。どんなことだってできる」
 七海の語気が僅かに強くなった。感情のポッカリ抜け落ちたような瞳で、七海は虚空を見つめている。その様子は、今にも壊れてしまいそうな危うさを秘めていた。
 普通に考えれば、それは到底正気の沙汰ではない。あるかどうかも分からない曖昧な救いなどというもののために、七海は文字通り身も心も捧げてきたのだ。だがそれは、裏を返せば七海をそこまで駆り立てる絶望の底知れぬ深さを物語っていることになる。
 それは、いったいどんな絶望なのだろうか。宗佑には、到底想像がつかない。
 不気味な死霊に満ちた世界で生きなければならないこと。自分に関心を持たない母親。級友からのイジメ。おそらく、父親がらみでも何かがあるのだろう。七海を見ていれば、原因になりそうなことはいくらでも思いつく。だが、どれもが決定的ではなかった。少なくとも、それらは生きることへの絶望には繋がっても、死ぬことへの絶望には繋がらない。
「でも、もうすぐ全てが終わる」
 七海のポツリとした呟きに、宗佑は思索の世界から引き戻される。ふと見れば、七海はあの得体の知れない深みを湛えた瞳に、涙を浮かべて宗佑を見上げていた。
「宗佑さん。あなたで、ちょうど百人目。だから、どうかわたしを見捨てないで」
(見捨てるもなにも、助けてもらっているのはオレの方だよ)
「こんなわたしでも、嫌いにならないで最後まで手伝わせてくれる?」
 縋り付くような七海を見つめながら、宗佑はあることを危惧していた。それは、宗佑を――百人目を救っても何も変わらない可能性だ。七海の言葉を信じないわけではないが、その可能性も決して捨て去ることはできないだろう。
 もし、そうなった時、七海はどうするだろう。どうなってしまうのだろう。
 まだ足りないと考えて、百一人目の幽霊を探すのか。それとも、完全に壊れてしまうのか。いや、今それを考えてもしかたがない。自分にできることは、七海の助力を素直に受けることだけだ。だが、その前に一つだけ言っておかなければならない。
(もちろんだ、七海。だけど、オレのために自分を犠牲にするのは止めてくれ。嫌なことは、嫌だと言って欲しい。そうじゃないと、オレも安心して七海の力を借りることができない)
 宗佑の言葉に、七海は「ありがとう」と呟き、静かに頷く。
「わたし、宗佑さんが最後の幽霊ひとで良かった……」
 自分は、七海に何をしてやることができるだろうか。七海に救いが訪れる時には、既に宗佑は成仏しているはずだ。だから、万が一にも救いが訪れなかった場合でも側にいてやることはできない。無力感と、いたたまれないような思いが宗佑の胸を苛む。いつの間にか、宗佑の中で七海は大きな存在へとなりつつあった。



3.

 少なくとも、藤ヶ丘高校が自分の母校だということはないだろう。だが、学校の教室というものは不思議と懐かしさを感じさせるものらしい。やや雑然と並んだ机も、チョークの粉にまみれた黒板も、薄汚れた清掃用具のロッカーでさえ、何もかもが郷愁を誘う。
 宗佑は、そんなことをボンヤリと思いつつ、窓枠に腰をかけて授業を眺めていた。
 朝は、七海が落ち着くまで道端で休んでいたため、ほとんど遅刻しかけた。いや、正確には完全に遅刻だった。七海が自分の――一年C組の教室に辿り着いた時には、朝のホームルームが既に始まっていたからだ。だが、そこで運の良いアクシデントに見舞われた。
「すみません。遅刻し――」
 七海が担任に遅刻を報告しようとしたまさにその時、背後でガラッと大きな音を立てて教室の扉が開いた。そして、次の瞬間、猛烈な勢いで一人の少女が転がり込んできたのだ。
「うっきゃあぁぁー!!」
 それは比喩ではなく、本当に転がり込んできた。どうやら、教室に走り込む時に扉のフレームに足を引っかけたらしい。彼女は、まるで何かのコントを見ているかのような綺麗なフォームを描いて七海と担任が立っている位置に突っ込んでくる。
(七海、危ない!!)
 何気なく、教室の入り口の方を見ていた宗佑が咄嗟に声をかけなければ、間違いなく七海も巻き込まれていただろう。かろうじて身をかわした七海の脇をすり抜け、少女は担任と教卓を巻き込んで盛大にすっころんだ。ガシャーンという大きな音が響き、近くにいた七海を始めとして、教室中の生徒が一斉に顔をしかめる。
 生徒達の視線を一身に集める中、ややあって転がり込んだ少女が身を起こした。
「あいたたた……」
 担任を組み敷いたまま、少女は上体を起こす。そして、転んだ衝撃でずれてしまった眼鏡をかけ直した。何の素材でできているのか、その妙に大きな丸眼鏡はヒビ一つ入っていない。
三島みしま……おまえ、これで何度目だ。もしかして、ナニか? 先生に怨みでもあるのか!?」
「あはは、先生ごめんなさ〜い」
 少女を押しのけて担任が立ち上がる。モロに床に殴打した後頭部をさすりながらも、目立った外傷はなさそうだ。担任は転がっている教卓を起こし、丸眼鏡の少女へと向き直る。
「いいか、三島。とにかく、おまえは少し落ち着け」
 そして、ホームルームそっちのけで滾々こんこんとした説教が始まった。どうして良いか分からず、しばらくそれを脇で静観していた七海に気が付いたのだろう。担任は「あぁ、結城ゆうきはもういい。今度は遅刻するなよ」とだけ告げて、結局はお咎め無しで解放されたのだ。
 そんなことを思い出しながら、宗佑は教室内に視線を巡らせる。ふと見れば、あの大きな丸眼鏡の少女がうつらうつらと船を漕いでいた。朝一番や、眠くなりやすい午後ならともかく、お昼休み直前の四時限目に居眠りとは大したものだ。
 七海には「授業中は退屈すると思うけど、離れると同調が解けちゃうから。ごめんなさい」と言われていたが、それほど退屈はしないですみそうだ。授業自体に興味はないが、生徒たち一人一人のリアクションがまちまちで、意外と飽きない。
 と、不意に宗佑は誰かの視線を感じて教室の後ろの方へと目を向けた。そこには、通学路で出会った少女――瑞樹が座っている。実際のところ、瑞樹が見ているのは宗佑ではなく、窓の外なのだろう。だが、何となく見られているような気がして居心地が悪い。
 それが癖なのか、瑞樹はしばしば窓の方へと視線を向けてきた。もう、朝から何度目だろうか。最初は、自分の姿が見えているのではないかと不安にもなったが、しばらくすると瑞樹は何事もなかったかのように視線を黒板へともどすのだ。もし幽霊が見えていれば、もっと騒ぐだろう。今も、宗佑が見返しているうちに瑞樹は視線を外した。
 朝から見ていて分かったことだが、瑞樹はどうやらクラス委員長をやっているらしい。朝の七海とのやりとりが嘘のように、瑞樹は穏やかな優等生を演じていた。
 ブルルルルッ――
 窓の外からバイクの排気音が聞こえてきて、宗佑はふと視線を校庭の方へと向けた。見れば、一人の少女がバイクに乗って校庭に乗り入れているところだった。これはまた、えらく大胆な重役出勤だな。そんなことを思っていると、校舎の方からジャージ姿の体育教師が一人飛び出していった。そして、バイクから降りた少女と口論を始める。
 バイク通学が禁止されているということなのか、それともこの大胆な遅刻についてなのか、体育教師は大仰な身振り手振りを交えながらなにやら熱弁を振るっている。一方、少女の方は何処吹く風とでもいうかのように、視線を辺りに彷徨わせていた。
「じゃあ、今日はここまでにしよう。残った練習問題は、明日までの宿題だ」
 教壇に立っている教師が、教科書をパタンと閉じた。宿題という言葉に、生徒達から一斉に抗議が殺到する。そして、その声に紛れて終業のチャイムが高らかに鳴り響いた。
 昼休みが始まると同時に、生徒達は一斉に活気づく。思い思いに机を寄せ合ってグループを形成する者。購買部で買い物をするためにダッシュで教室を出てゆく者。ウキウキしてお弁当の包みを開ける者。まるで、蜂の巣をつついたような騒ぎだ。
「ごめんなさい。何時間も退屈だったでしょ?」
 ふと見ると、いつの間にか七海が隣に来ていた。そして、小声で話しかけてくる。
(いや、思いの外楽しめたよ。なんだか、妙に懐かしくてね)
「そう。なら、良かった。ところで、お昼は中庭でいいかな?」
 七海は、登校するときにコンビニで買った菓子パンを手に持っていた。外で食べるつもりなのだろう。宗佑が頷こうとしていると、不意に七海の背後から声がかけられた。
「七海ちゃんも、一緒にご飯食べよう」
 それは、あの丸眼鏡の少女だった。屈託のない笑顔はいいとして、何故か八枚切り食パンの袋とマヨネーズのチューブを左右の手に持っている。しかも、マヨネーズは巨大な徳用マグナムボトルだ。まさか、今からサンドイッチでも作るつもりなのだろうか。
「あっ……えぇと」
 七海は宗佑の方を見て、僅かに逡巡する。おそらく、宗佑に気を遣っているのだろう。宗佑は、オレの方は気にしなくていい、という風に笑顔で目配せをする。
 七海は小さく頷いてから、少女の方へと向き直った。そして、口を開きかけた瞬間――
「ちょっと頼子よりこ、電波ちゃんなんて誘うのやめなさいよ」
 それは、少女の――頼子の後ろにいる女子数名のグループから発せられた言葉だった。
「えぇ、でもぉ……」
「だいたい、電波ちゃんが誘いに乗るわけ無いじゃん」
 その言葉に、七海は再び頼子から目をそらして俯いてしまう。
「そうそう、いっつも中庭でブツブツ独り言を呟きながら食事してるし」
 僅かに俯いた七海と、女子のグループの間で、頼子は困ったようにオロオロしていた。どうしたらよいのか分からずに混乱しているらしい。と、不意に七海が呟いた。
「わたし、独りで食事するのが好きだから。ごめんね、頼子さん」
「えぇ〜!? そんなぁ……」
 大げさなほど未練たらしい視線を七海に向けつつ、頼子は渋々グループの方へと戻っていった。ほんの数秒、七海は頼子の後ろ姿を見送ってから、自分も扉の方へと歩き出した。
(悪い。オレがいるからだよな……)
「ううん、宗佑さんのせいじゃない。わたし、前からそうだから」
 何となくそんな空気は感じていたが、これでハッキリした。七海はクラスで孤立している。瑞樹のように正面切って何かを言われるわけではないが、ほぼ全員から無視に近い扱いを受けているようだ。言うまでもなく、七海の独り言――幽霊との会話が原因だろう。
 今も、七海の呟きに対して何人かから奇異なモノを見るような視線が投げかけられていた。ふと見れば、視線の中には瑞樹のものも混じっている。瑞樹は、七海と宗佑をチラリと見てから、おもむろに席を立ってこちらへ向かって歩き出した。
「あっ、瑞樹ちゃん。よかったら、一緒にご飯食べない?」
 席の隣を通りかかった瑞樹を、何気なく頼子が引き留めた。別に七海に声をかけるつもりで近づいていたわけではないだろうが、何となく瑞樹を警戒していた宗佑は少しホッとする。
「申し訳ありません。わたくし、少し所用がありますので」
「えぇ〜!? 瑞樹ちゃんもダメなの?」
 何をしているのか、頼子は食パンの上にマヨネーズを絞り出しながら口を尖らせる。
「あっ、そうだ! 瑞樹ちゃん、英語の訳を写させてよ」
「それは、構いませんわ。机の中にノートがありますので適当にご覧になって下さい」
 瑞樹が頼子に捕まっているうちに、七海は教室の扉に手をかけてガラガラと引き開けた。そして、廊下へと歩き出す。宗佑も、それに従って教室を後にした。
 ふと見ると、廊下の向こうから先ほど校庭で体育教師と揉めていたバイク少女が歩いてくるのが見えた。バイク少女は、ボレロを脱いで肩に引っかけるようにして歩いている。ジャンパースカートの丈は短く詰められており、一見してミニスカート風だ。
 バイク少女は七海に気が付くと、にわかに冷たい視線を向けてきた。こういうのを、まるで虫けらを見るような目というのだろうか。だが、その視線に大した怖さは感じない。七海もそう感じているのだろう。別に、脇に避けるでもなく、そのままバイク少女とすれ違う。
 宗佑は何となくバイク少女へと視線を向けたまま、背後を振り返った。と、ちょうど教室の扉が開いて瑞樹が姿を現す。バイク少女は瑞樹を見つけると、親しそうに手を上げた。
「やっほ、瑞樹。おはよ」
「おはようではありませんわ、里佳りかさん。もう、お昼休みですのよ」
 瑞樹は軽くため息をついて、バイク少女の――里佳の挨拶に皮肉を切り返す。
「でも、ちょうど良いところにいらっしゃいましたわ。わたくしを、貴女のバイクでちょっと駅前まで乗せていって頂けませんか?」
「えっ、今から!? あたし、学校に来たばっかなんだけど……」
「そう仰らず、お願いしますわ。お昼がまだでしたら奢って差し上げますから」
「まっ、瑞樹の頼みじゃ、しゃーないか」
 里佳はスカートのポケットからバイクの鍵を取り出して、チャリンと指で回した。
 別に会話の内容が不穏だったわけではない。だが、宗佑は二人のやりとりに何となく不安感を感じていた。何が気になるのだろうか。そんなことを考えていると、宗佑は不意にゾクリとする激しい悪寒を感じて顔を上げた。そして、瑞樹と視線が交差する。
 それは、まさに凍てつくような瞳だった。七海の得体の知れなさにも決して引けを取らない怖さを孕んだ瞳。それが、宗佑を真正面から捉えていた。いや、本当は宗佑の後ろを歩いている七海の背中へと向けられたものなのだろう。だが、それは些細な違いだ。
 瑞樹は、まるで宗佑の視線を受け止めたかのように、うっすらとした笑みを浮かべた。

「ねぇ、結城。ちょっと顔貸してくんない?」
 一日の授業が全て終わり、教室は帰り人たちに溢れている。通学カバンに教科書などを詰めながら、帰り支度をしていた七海は、唐突にやって来た里佳に声をかけられた。
 七海は帰り支度の手を止めずに、「なに?」と簡潔に用件を尋ねる。
「屋上で瑞樹が待ってる。朝の話の続きがしたいってさ」
 里佳は僅かに声を潜めて囁く。瑞樹の名前に反応して、七海の手がピタリと止まった。七海の視線が僅かに宙を彷徨う。里佳はニヤリとして、さらに囁きかけてくる。
「あんた、エンコーしてんだってね。何にも知らないような顔して、やるじゃん」
「……わかった。行く」
 七海は帰り支度を途中で放り出して、椅子から立ち上がった。
(七海、やめた方が良い。あの、瑞樹ってやつはなんだかヤバイ。嫌な予感がするんだ)
「でも、学校とかにバラされたら困るから」
(だけど……)
「大丈夫。今までも、酷い言葉を投げつけられるぐらいだったから」
 昼休みに見た瑞樹の張り付いたような笑みを思いだし、宗佑の中で嫌な予感が膨れあがる。だが、七海が行くと主張する以上、宗佑には止めようがない。
「何か言った?」
「いつもの独り言。気にしないで」
 里佳の後をついて、七海と宗佑は階段を上がっていった。藤ヶ丘高校の校舎は三階建てで、普段は屋上は立入禁止になっているらしい。屋上へと続く扉のある踊り場に、立入禁止の看板が置かれていた。だが、扉自体には鍵はかかっていないようだ。
 里佳がドアノブを回すと、扉はあっけなくカチャリと開いた。そして、やや錆び付いたような鈍い音をさせながら、外側へと開いて行く。里佳が先に出て、扉を開けて七海を通す。
 扉の先は、広い空に繋がっていた。ふと視線を落とすと、瑞樹が手摺にもたれ掛かるようにしてこちらを見ていた。その顔には、嫌な感じのする薄笑いが張り付いている。
 七海の背後で、里佳の手でガチャンと扉が閉められた。
「なんの……用事?」
わたくし、実は援助交際に興味がありますの。先輩として色々とご指導頂けませんか?」
 瑞樹はあくまで穏やかな口調で喋っていたが、その瞳は少しも笑っていない。
「教えたら……黙っていてくれるの?」
「当然ですわ。いわば、七海さんは先生ですもの」
 それは完全に脅しだった。おそらく、瑞樹は七海に色々と喋らせて苦しめるつもりなのだ。明らかなイジメ。だが、瑞樹に呼び出された時点で、七海もその程度は覚悟している。
「わかった。何を話せばいい?」
 表情のない顔で淡々と答える七海を見つめながら、宗佑はいたたまれない思いを一層強くする。それに、これだけで終わるとは思えない。その予感は、ものの見事に的中した。
「百聞は一見に如かずと申しますわ。一度、私に実地で見せて下さいませ」
 瑞樹のその言葉に、七海と宗佑は一瞬唖然として言葉を失った。
「あたしも、興味があるんだよね。清純そうな結城が、どんな顔して商売するのかさ」
 踊り場への扉にもたれ掛かったまま、里佳が意地悪そうな口調で話しかけてくる。それは、援助交際の強要だった。七海は視線を彷徨わせてから、ポツリと呟いた。
「……わかった」
(七海っ!?)
「大丈夫、いつも……やってることだから」
(だけど……)
「学校にバラされたら、お母さんにもバレる。お母さんには、迷惑をかけたくない」
 七海は宗佑から視線をそらすようにして、声を潜めて会話を交わす。
「なにをブツブツ呟いてんのさ?」
「構いませんわ、里佳さん。七海さんにも色々と葛藤がおありでしょうから」
 瑞樹は薄笑いを浮かべたまま、七海の独り言を咎めた里佳を制する。瑞樹は、七海と宗佑の会話が聞こえてでもいるかのように、二人をじっと見つめていた。
「宗佑さんはホテルの部屋の前で待ってて。本当は、相手に憑依して感覚だけでも体験させてあげられたらいいんだけど……宗佑さんには、わたしの汚い部分は見られたくない」
(七海……)
「本当に大丈夫。いつもの……ことだから」
 七海は小さく頷いて見せた。宗佑は、どうしようもない自分の無力さに歯噛みする。
「明日、準備してくる。だから、放課後に時間を空けておいて」
「あら、残念ですけど明日は用事がありますの。だから、今日にして頂けませんか」
「えっ!? ……でも、今日は着替えを持ってきてない」
「大丈夫ですわ。仕事着きがえは相手に学校がばれないようにするためのものなのでしょう。同じ学校の生徒が相手なら、そんな心配はそもそも不要ですわ。ねぇ、七海さん」
 瑞樹の言葉の意味が飲み込めず、七海は僅かにポカンとする。やがて、意味するところに行き当たったのか七海の顔色がサッと変わった。
「七海さんをお待たせしては悪いので、もう既にお相手には声をかけてありますの。今から、この場所で、わたくしに実地で見せて下さいませ」
「ちょっと、瑞樹。ここでやるわけ!? さすがに、それはヤバイって!」
 完全に言葉を失っている七海に変わって、里佳が焦った声を上げる。どうやら、そこまでは聞かされていなかったらしい。瑞樹は、里佳の言葉に薄笑いを浮かべて答える。
「ご心配には及びません。キチンと人選をしてありますわ。もっとも、お嫌でしたら里佳さんは先に帰って頂いても構いませんけれど。どうなさいます?」
「うぐっ……。わかったよ、あたしも付き合う」
「そうですか。さて、七海さんもよろしいですわね。手紙で呼び出しておきましたので、もうそろそろD組の絹田きぬたさんのグループがいらっしゃると思いますわ」
 瑞樹は腕時計をチェックして、真っ青な顔をしている七海に声をかけた。七海は魂が抜けたようにうつろな目をしていたが、瑞樹の言葉のある一箇所にピクリと反応を示す。
「……グループ!?」
「ご存じありませんか。絹田さんといえば、中学時代からあまりよろしくない噂で評判の方ですわ。いつも仲間と三人で行動されているとか。そうそう、婦女暴行の噂もありますわね」
 瑞樹の言葉に、七海は唇を震わせて小さな声で「いや……」と呟いた。唐突に震えが全身に広がって行く。膝が震え、七海は立っていられずに思わずその場にへたり込んだ。
(七海っ!!)
 宗佑の言葉も、今の七海にはほとんど聞こえていない。小刻みに震えながら「いや……」と何度も呟きながら、七海は虚ろな視線を宙にさまよわせていた。
 と、不意にハッとして、七海はボレロの内ポケットから震える手で財布を取り出した。何度も取り落としそうになりながらも、やっとの思いで四枚の一万円札を抜き出す。
「これ……昨日稼いだお金。少し使っちゃったけど、まだ四万円あるから……。全部あげる。だから……お願い、許して…………」
 小刻みに震える一万円札を差し出しながら、七海は瑞樹にすがるような目を向ける。ややあって、瑞樹が手摺から離れて七海へと近づいてきた。そして、七海の前にしゃがみ込む。
 受け取ってもらえる。許してもらえる。そう思った七海の表情かおに、僅かに色が戻る。
「教えを請う身で、お金まで頂くわけには参りませんわ」
 瑞樹は、わざと七海の耳元に口を近づけて小さく囁いた。静かな拒絶に、七海の手から一万円札がこぼれ落ちる。それは、瑞樹の足下にヒラヒラと舞って散らばった。
「むしろ、お金はわたくしがお支払いする側ですわ。確か、お一人五万円でしたわね。三人で十五万円、お昼に駅前のATMで下ろしてきたんですの。どうぞ、お受け取り下さい」
 瑞樹はポケットから十五万円が入っていると思われる銀行の袋を取り出した。そして、足下に散らばった四万円を拾い上げ、袋の上にそっと重ねて差しだしてきた。決して乱暴に押しつけたりせず、瑞樹は七海が手を出すまで静かに待っている。
「あっ……あの、今日はゴムを持ってない。いつも、着替えと一緒に入れてるから……」
 七海は必死になって何とか逃げられる道は無いかと模索していた。そして、ようやく思い至った逃げ道に最後の希望を託す。だが、瑞樹はそれを一言の元に切って捨てた。
「人間、そう簡単に妊娠するものではありませんわ。ご安心下さいませ。それに、万が一に孕んだ場合でも、ご祝儀に堕ろす費用ぐらいはご用立ていたしますわ」
 七海の目から涙が一筋こぼれ落ちた。そして、コンクリートの床に小さな染みを作る。既に七海に退路はなかった。震える手で、七海はおずおずとお金の入った袋を受け取る。
 瑞樹は、フフッと小さな笑い声を漏らした。そして、ゆっくりと立ち上がる。
(七海、逃げよう! いまなら、まだ逃げられる!!)
「だめ……。逃げたら、バラされる……」
(もう、誰にバレるとか、そういうレベルじゃないだろう!?)
「だめ。わたし……お母さんにこれ以上迷惑をかけられない。わたしが、我慢すればいいの。前は我慢できなかったから……わたしが、お母さんの幸せを壊しちゃった」
(七海……?)
 混乱しているためだろう。七海は真っ青な顔でガタガタと震えながら、宗佑の知らないことを口走る。そして、しきりに「わたしが我慢すれば……」と繰り返した。宗佑は、二人を見下ろしている瑞樹をキッと睨み付ける。
 ――どうすれば、七海を助けることができる?
 宗佑はめまぐるしく頭を働かせた。だが、七海自身の心が既に折れてしまっているのでは、手の打ちようがない。と、不意に七海から「宗佑さん」と声をかけられた。
「わたし……大丈夫だから。どんなことをされても我慢できる。だって……もうすぐ終わりだもん。宗佑さんを成仏させてあげれば…………わたしは、救われる」
 ハラハラと涙を流しながら無理に微笑む七海を見ていられなくて、宗佑は思わず顔を背けた。何もできない自分へのどす黒い絶望感が、胸の奥でドロドロと吹き溜まってゆく。
 と、唐突にガチャリという音が、閑散とした屋上に響き渡る。彼らがやって来たのだ。
「よぉ。C組の委員長さん直々の呼び出しっていうから、お説教でもされるかと思ったぜ」
「絹田さんは、お説教の方がよろしかったですか?」
「まさか。でも、あんたがこんなことの斡旋をしてるなんて知らなかったねぇ」
 絹田と呼ばれた大柄な男子生徒の後ろに、さらに二人の男子生徒が立っている。
「事情なんてどうでも良いじゃん。なぁ、坂本さかもと
「そうそう、可愛い女の子を抱けるなら、それだけで充分ッス」
 だらしなく胸元のはだけたワイシャツ。脱色のしすぎで金髪というより白髪に近い髪。唇には二本の金属製のピアス。絹田の外見はそれだけで十分に威圧的だ。だが、瑞樹は一切物怖じをすることなく五分に向かい合っている。
「まぁ、そうだな。で、相手はこの女か?」
 絹田が視線を滑らせてきた。ねっとりとした嫌な視線が、へたり込んだ七海に絡みつく。
「なんだぁ、えらくガキだな。この女、本当に高校生タメか?」
「俺、こいつ知ってるぜ。C組の結城七海だ。ほら、電波で有名な……」
「うひょ! 俺、こういうの好みなんッスよ」
 冷たい目、興味を持った目、下卑た目、三人の視線は容赦なく七海を追い詰めて行く。
「けっ、ロリコンが。んじゃ、おまえからいけよ」
 絹田の言葉を受けて、坂本がニヤニヤとした嫌らしい笑みを浮かべて七海に近づいてくる。既に覚悟を決めているのだろう、七海は真っ青な顔でガタガタと震えながらも逃げようとはしない。そして、坂本の手が七海の腕を掴んだ。
 腕をグッと引っ張られ、七海は無理に立ち上がらされる。坂本は七海を抱き寄せて、ボレロの隙間から手を差し入れた。そして、ジャンパースカートの上から胸を鷲掴みにする。
「いっ、痛い!」
「うひょ、マジで小せぇ。こりゃ、そそるッスね」
 無遠慮に胸を揉みしだかれて、七海の表情が苦痛に歪む。
(やめろ!! 七海に触るな!!)
 宗佑は何とか七海を助けたくて、坂本に蹴りを入れたり体当たりを試みていた。だが、まるで石像を相手にしているかのように、坂本はビクともしない。「特殊な能力でも持っていない限り、幽霊が物質に影響を与えることはできない」七海から聞いた言葉が脳裏を過ぎる。
「い……痛……うっ……ふっ…………」
 七海は目に涙を浮かべながら、唇を噛んで苦痛に耐えていた。七海の視線が、ふと宗佑と交差する。次の瞬間、七海はサッと顔を背けた。
「お願い……見ないで。宗佑さんには……見られたくない。屋上の入り口……階段の……踊り場で待ってて。あそこなら、たぶん同調の範囲内だから…………」
(だけど、七海……)
「お願い!!」
 七海の大声に驚いて、一瞬坂本の動きが止まった。七海の目に浮かんだ涙の粒がみるみるうちに膨れあがり、頬を伝ってこぼれ落ちる。七海はボロボロと大粒の涙を流し始めた。
「お願いだから……見ないでよ…………。全部終わったら、わたしの方から迎えに行くから。だから、それまでは……何があっても絶対に来ないで。何が聞こえても聴かないで……」
 宗佑は無力だった。七海に組み付いた坂本一人さえ引きはがすことができないのだ。自分にできることと言えば、せめて七海の望むとおりに、目を閉じて耳を塞ぐことだけなのか。
(七海……ごめん、オレは無力だ…………)
「宗佑さん……大丈夫、わたしなら大丈夫だから。終わるまで……待っててね」
 七海は宗佑に悲しい笑顔を向けてきた。宗佑は歯をギリギリと食いしばりながら、何も言わずに七海に背を向けた。そして、階段の踊り場へ向かって歩き出す。
「その女がブツブツ呟いている宗佑って、誰だ?」
「さぁ、彼氏かなにかじゃないッスかね?」
「彼氏ねぇ。じゃあ、そいつにも見せてやるかね。この女のあられもない姿を」
 絹田はニヤリと笑うと、ワイシャツの胸ポケットから銀色をした四角い小さな何かを取り出した。そして、それを七海へと向ける。
「おい、坂本。少し艶っぽく剥いてやれ。このままじゃ、写真写りが悪りぃ」
 七海の叫びに驚いて手を止めていた坂本は、絹田の指示で再び七海に組み付いた。そして、乱暴にボレロジャケットを剥ぎ取る。絹田の「写真」という言葉で、手に持っているデジタルカメラに気が付いた七海が再び狼狽えた。
「あっ……だめ。写真……撮らないで。写真は、いや……」
 七海はせめてもの抵抗とばかりに、両手で顔を隠そうとする。だが、坂本に腕を掴まれて羽交い締めにされてしまった。
「写真はだめ。写真なんかが残ったら……バレちゃう。学校にも、お母さんにも…………」
 必死に首を振って抵抗するが、七海の力では坂本をふりほどくことができない。
「おい、おまえも行け。制服をひん剥くぞ」
 絹田のその言葉に、もう一人の男が七海に近づいてくる。そして、ジャンパースカートの左脇にあるファスナーに手をかけた。ジーという音を立てて、ファスナーが下ろされて行く。
「何をしてもいいから……写真は、写真だけは撮らないで!」
 七海の懇願も空しく、カメラの乾いたシャッター音が広い屋上に響き渡った。
「いやぁ、助けて……助けて、宗佑さん!!」



4.

 むせ返るような血の臭い。獣のような呻き声。気が付けば、目の前には三人の男が血まみれで倒れていた。皆一様に、口元をおびたたしい鮮血に染めて呻いている。あごの骨が砕けているのだろう、湧泉のように血と唾液が溢れ出してコンクリートを真っ赤に染めていた。
 血溜まりの中には、白い小さな破片が沢山転がっている。よく見れば、それは人間の歯だ。あっちにもこっちにも散らばっている。もう既にどれが誰のものかわからない。
 手を見下ろせば、白く細い指は鮮血で真っ赤に染まっていた。ブラウスも袖の辺りまでポツポツと水玉模様のように返り血が散っている。ジャンパースカートは紺色のため、返り血はあまり目立たない。ふと気が付いて、半分ほど下げられたファスナーを引き上げた。
「なにが、どうしたんだっけ……?」
 七海の声で、宗佑はポツリと呟いた。頭に霧がかかったようで、よくわからない。
 憑依すれば七海を助けることができると理解していたわけではない。ただ、それは咄嗟のことだった。七海の「助けて、宗佑さん!!」という悲鳴を聞いた後の記憶が飛んでいた。
 ふと見れば、足下には銀色の小さな機械が落ちていた。たしか、カメラだっただろうか。宗佑の知っているものとはだいぶ形が違うが、カメラならば壊す必要があるだろう。宗佑は、僅かに力を入れて踏み抜いた。メキッという音を立てて、それはあっけなく潰れる。
「ばっ……化け物っ! あんた、いったい何なのよ!?」
 その声に顔を上げると、少し離れた場所から里佳が怯えた表情でこちらを見つめていた。
 里佳の姿を視界に捉えた瞬間、宗佑の中でどす黒い何かが弾けた。ボンヤリとしていた意識が唐突に覚醒する。まるで、体中のスイッチが一斉に目覚めたような感じだ。
 ダンッ!
 宗佑は、おもむろにコンクリートの床を蹴って跳躍する。そして、数メートルの間合いを一気に詰めた。人間離れしたその動きに、里佳の表情が凍り付く。
 着地の衝撃を膝のバネで吸収しながら、そのままの勢いで宗佑は蹴りを放つ。プロの格闘家どころではない強烈な蹴りが、里佳の身体を捉える……はずだった。
「里佳さん、危ないですわ!」
 だが、その蹴りは視界の外からいきなり飛び出してきた人物に――瑞樹に命中した。
 ズンッという重い砂袋を蹴り飛ばしたような感触があり、瑞樹の身体が真横に何メートルも吹っ飛ばされる。瑞樹は、コンクリートの床に一度バウンドしてゴロゴロと転がった。背中を強く打ったのだろう、「かはっ……」というかすれた悲鳴が聞こえた。
 里佳は自分を庇って跳ね飛ばされた瑞樹に駆け寄ることもできないほどに怯えていた。
「み……瑞樹…………」
 歯の根が噛みあわずにカチカチと音を立てる。大きく見開かれた里佳の瞳には、明らかに恐怖の色が浮いていた。今にも倒れそうなほど、里佳はガクガクと膝を震わせている。
 宗佑は、視界の端に転がっている瑞樹を一瞥することもなく、無表情に里佳に近づいた。一歩足を踏み出し、そのままの勢いで里佳の鳩尾にこぶしを叩き込む。
「げえぁっ!!」
 こぶしは手首までずっぽりと鳩尾に突き刺さり、里佳は身体をくの字に折り曲げて胃の中身をしたたかに吐き出した。まるでフックに吊るされたように、里佳の両足が僅かに宙に浮いている。宗佑のこぶしに吊り上げられ、里佳は白目を剥いてビクッビクッと痙攣する。
 宗佑がこぶしを引くと、里佳はその場に頽れて、もう一度激しく嘔吐した。
 最初の嘔吐で胃の内容物はほとんど吐き出してしまったのだろう。里佳は、ピクリとも身動きできない地獄の苦しみに悶絶しながら、お腹を押さえて胃液と血反吐を何度も何度も吐き出した。俯いていて見えないが、その顔は涙と吐瀉物でベトベトだろう。
「お……お止めなさいっ!」
 その声に反応して宗佑は視線を巡らせる。見れば、先ほど吹き飛ばされた瑞樹が床の上に倒れたまま、宗佑を――七海を睨み付けていた。ヒューヒューと辛そうな呼吸を繰り返しながらも、その瞳には強い光が宿っている。
 その光に引き寄せられるように、宗佑の対象が里佳から瑞樹へと切り替わる。そして、宗佑は少し離れたところで仰向けに倒れている瑞樹の元へと近づいて行った。
 コンクリートの床に叩き付けられた衝撃のためだろう、瑞樹はほとんど身動きができない状態だった。宗佑は、右手で瑞樹の左手首を掴む。そして、無造作に引っ張り上げた。七海の身体よりも背が高い瑞樹だが、今は立ち上がるだけの力は残っていないらしい。まるで、壊れかけのマリオネットのように、だらんとぶら下がっている。
 ――こいつが七海を……。
 どす黒い感情が宗佑の中で膨れあがって行く。壊してしまえ。何かが心で囁いた。
 宗佑は、手首を掴んだまま乱暴にその腕を捻り上げた。瑞樹自身の体重と、リミッターの外れた七海の力が一点に集中する。僅かな手応えの後、ボキッという嫌な音が響いた。
「ひぎぃ!」
 瑞樹が目を剥いて悲鳴を上げる。無理な方向へ曲げられた左肘の骨が折れたのだ。
 宗佑が手を離すと、瑞樹は力無くドサッと床に崩れ落ちた。見れば、左腕が人体ではあり得ない方向へとねじ曲がっている。荒い息をつきながら、瑞樹は激しい苦痛に喘いだ。みるみるうちに顔色が青ざめてゆき、脂汗が額に滲んで流れ落ちる。
「うぐっ……ふぅ、ふぅ…………」
 瑞樹は右手で、折れた左腕を庇うように押さえながら痛みに耐えていた。
 宗佑は、しばらくその様子を見下ろしていたが、おもむろに両手で瑞樹の頭を挟み込むように掴んだ。そして、無理矢理顔を上げさせる。瑞樹は歯を食いしばって痛みに耐えながらも、涙の浮いた瞳で睨み付けてきた。だが、その表情には僅かな怯えも見て取れる。
 ――殺してしまえ。こんな女、壊してしまえばいい。
 真っ黒な破壊衝動が、宗佑の心を突き動かす。瑞樹の頭を左右からガッチリと挟み込んだ腕に、徐々に力がこもり始めた。宗佑が何をしようとしているのかを理解したのだろう。瑞樹の目から急速に光が失われてく。そして、代わりに絶望の色が浮かんだ。
「いや……。殺さ……ないで…………」
 ゆっくりと、瑞樹の意志に反して首が回されて行く。首の骨がミシッと嫌な音を立てた。
「あっ……あっ、あぁ、あっ……だめ……やめ…………」
(やめてぇ!!)
 唐突に頭の中で響いた声にハッとして、宗佑の動きがピタリと止まる。
「な……七海っ!? 七海、大丈夫なのか!?」
(わたしは大丈夫。だから、もうやめて。瑞樹さんを離してあげて)
 七海の言葉で我を取り戻した宗佑は、慌てたように瑞樹から手を離した。拘束する力が消えて、瑞樹はドサッとコンクリートの床に崩れ落ちる。
「あぐっ……ふぅ、ふぐぅ……うっ……うぅぅ…………」
 落とされた時の衝撃で折れた腕が痛むのか、それとも命が助かった安堵からなのか、瑞樹はぽたぽたと涙を流した。コンクリートの床にこぼれ落ちた涙が、小さな染みを点々と作る。
 それはまさに地獄絵図というにふさわしい光景だった。あごの骨を砕かれて血塗れで呻いている三人の男。悶絶しながらも、いまだに嘔吐を繰り返している里佳。そして、目の前には腕を折られて苦痛に喘いでいる瑞樹。宗佑は、あまりの惨状に思わず絶句した。
「オレは……なんてことを…………」
 いや、それだけではない。制止がなければ確実に瑞樹を殺していた。危うく七海を殺人犯にしてしまうところだったのだ。宗佑は、歯止めの効かなくなっていた自分自身に戦慄する。
(幽霊は人間より、遥かに感情が暴走しやすい。暴走していると、わたしの声もなかなか届かないから。でも、それは宗佑さんのせいじゃない)
「いや、オレのせいだ。七海、すまない……」
(ううん。助けてくれて、本当に嬉しかった。ありがとう、宗佑さん)
 七海の感謝の言葉を聞きながらも、宗佑の胸中は苦い思いに溢れていた。七海は、援助交際の事実が、学校や母親にバレることを極端に恐れていた。だが、これはもうそれどころの話ではすまないだろう。最悪、傷害事件として警察沙汰になるかも知れない。
「もう、隠しようがなくなっちまったな…………」
(別に構わない。だって、あのまま写真を撮られていたら同じことだったから。でもまさか、ここまでされるなんて思ってなかった。わたしの認識が甘かったの。こんなことなら宗佑さんの言うとおり、最初から来なければ良かった)
 宗佑にしても、まさか瑞樹が七海を屋上で輪姦まわそうとまで思っているとは想像だにしていなかった。ただ、瑞樹の凍り付くような瞳にただならぬ危機感を抱いていたに過ぎない。
(とりあえず逃げましょう。この状況は、わたし一人がやったにしては不自然すぎる。このまま、ここにいたら面倒なことになる。バレるにしても時間が欲しい)
「……わかった。じゃあ、オレはもう七海の身体から出るよ」
(待って。憑依状態であれだけ暴れたから、今憑依を解除されたら疲労と筋肉痛で立つこともできないと思う。だから、もうしばらく身体をお願い)
 自分が憑依した結果がこの惨状を招いたことを誰よりも痛感していた宗佑は、一刻も早く七海の身体から出て行きたかった。いや、出て行かなければならないと思っていたのだ。だが、惨状の爪痕は七海の身体にも少なからぬ影響を与えていたらしい。
 考えてみれば当たり前だろう。ただの、それも小柄で非力な女子高生が、男三人を含む五人の人間を瞬く間に半殺しにしたのだ。肉体に負担がかかっていないわけがない。
「オレは……また、七海の身体に無茶をさせてしまったんだな…………」
 宗佑は俯いたままポツリと呟いた。そして、坂本に脱がされたボレロを拾い上げて、ブラウスの血痕を隠すように羽織る。ふと見れば、里佳はいまだにビクビクと小刻みな痙攣を繰り返していた。瑞樹も、折れた腕を抱きかかえるようにうずくまり嗚咽を漏らしている。
 それは、自業自得なのかも知れない。だが、ここまで痛めつける必要はなかったのではないだろうか。押さえきれない罪悪感を胸に、宗佑は屋上を後にした。



5.

(大丈夫、ブラウスの替えはあるから気にしないで切っちゃって)
 キッチンの椅子に座り、宗佑は血で汚れたブラウスにハサミを入れて細かく裁断していた。色の濃いジャンパースカートと違い、白いブラウスでは洗濯をしてもベットリと付いた血の染みは完全には消えないだろうと判断して廃棄処分にすることにしたのだ。
 宗佑は、既に黒のトレーナーとスカートに着替えていた。ジャンパースカートとボレロはぬるま湯で作った石鹸せっけん水で大まかに染み抜きをして、洗濯機に放り込んである。
 生ゴミに混ぜて捨てるためにジャキジャキとハサミを進めながら、宗佑は傷だらけの七海の手を見つめていた。憑依状態で痛覚がかなり鈍麻しておりわからなかったが、七海の手はボロボロだった。手に付いた血を洗い流していて、初めて気が付いたのだ。
 おそらく、男どもの顔面を殴った時に相手の歯で傷つけたのだろう。相当深くザックリと切れているようで、今でも血が滲んでくる。爪も何枚か割れていた。
(手なら、大丈夫。むしろ、あれだけ暴れて骨折したりしなかったのは幸運なぐらい)
 大丈夫と言われて、素直に納得できるほど宗佑は身勝手ではない。後悔の念に駆られながら、俯いて黙々とハサミを進めてゆく。と、不意にピーという電子音が聞こえた。
(洗濯が終わったみたい。乾かすのに時間がかかるから、先に行ってもらえる?)
「あぁ……わかった……」
 宗佑は、洗濯機からジャンパースカートとボレロを取り出した。七海の指示に従ってパンパンと叩いて大まかに皺を伸ばす。そして、スカートのプリーツを丁寧に折り直してから、ハンガーに掛けて部屋の中に干した。まだかなり皺が残っているが、七海の説明によれば乾く過程で制服自身の重みでだいぶパリッとするらしい。
(明日までに乾くといいけど、今の季節だとちょっと厳しいかな……)
 細切れに裁断したブラウスをゴミ袋に詰めながら、宗佑は七海の呟きを聞いていた。あんなことがあった直後だというのに、七海は不思議なほど落ち着いている。無理をしているのかとも思ったが、どうもそうではないらしい。明るさに、不自然さがないのだ。
 手の怪我はともかくとして、暴走した後始末を一通り終えて宗佑は七海の部屋で一息ついていた。壁にもたれ掛かりながら、足を抱えて座っている。宗佑は小さくため息をついた。
(お疲れさま。結構バタバタしたから、大変だったでしょ)
「なぁ、七海。なんで、そんなに落ち着いていられるんだ。バレることとか、怖くないのか」
(そうね、バレるのはちょっと困るかな。でも、もう怖くはない)
 その言葉には、バレることを恐れて、瑞樹の無茶な要求に黙って従おうとしていた七海の影はない。開き直ったというわけでもなさそうだ。と、七海がポツリと呟いた。
(わたし、ようやく救いを手に入れたの)
 七海のその言葉に、宗佑は僅かに驚いて目を見開く。それは、神様の声が告げたという『救い』のことなのだろうか。と、宗佑の脳裏に再び七海の声が響いた。
(正確に言えば、既に救いが与えられていたのに、わたしは気が付いていなかった)
「どういうことだ?」
 しかし七海は、宗佑の質問には答えずに逆に質問を投げかけてくる。
(ねぇ、宗佑さん。宗佑さんは、わたしの身体は汚れているから嫌かな?)
「まさか、そんなことはこれっぽっちも思ってないよ」
 脈絡のない質問に戸惑いつつも、宗佑は七海の問いかけに答えを返す。実際、それは宗佑の本当の気持ちだ。援助交際の話を聞いても、七海が汚れているなどと思ったことはない。
(そう、良かった。なら、わたしの身体をもらってくれるよね)
 七海は僅かにホッとしたような口調で「良かった」と呟き、続けてビックリするようなことを口にする。「わたしの身体をもらって」とは、抱いて欲しいということだろうか。
(あぁ、そういう意味じゃなくて……。そう、わたしの人生を丸ごと宗佑さんにあげるの)
 思い違いを訂正されながらも、宗佑には七海が言っていることがよくわからなかった。宗佑が戸惑って黙り込んでいると、七海は何かに取り憑かれたみたいに蕩々と語り出した。
(宗佑さんは、わたしの身体を自由に動かすことができる。今まで沢山の幽霊に会ったけど、そんなことができるほど憑依の相性が良い幽霊ひとは一人もいなかった。だから、最初は凄い偶然だって思った。でも、それは決して偶然なんかじゃなかったの。
 考えてみれば、そうだよね。ちょうど百人目に、わたしの身体を完全に乗っ取ることができる幽霊ひとと出会うなんてできすぎてる。瑞樹さんとのことだって、もしかすると救いになかなか気が付かないわたしに神様が答えを教えようとしてくれたのかもしれない)
「七海……?」
 七海の口調はどこか変だった。それは、そう、まるで夢を見るような口調。乙女が恋を語るかのような口調なのだ。七海は宗佑の呼びかけを無視して喋り続ける。
(宗佑さんが憑依して守ってくれた時に気が付いたの。宗佑さんなら、わたしの身体でも身を守りながら幸せな人生を送ることができるかもしれない。ううん、むしろ宗佑さんの方が身体の持ち主としてふさわしい。少なくても、宗佑さんはわたし自身より、わたしの身体を大事にしてくれている。だから、宗佑さんにわたしの身体をもらって欲しいの)
「ちょっと待て、七海!? まさか……」
 おぼろげながらも、ようやく七海の言わんとすることを理解して宗佑が焦った声を上げる。
(そう、今から宗佑さんが結城七海になるの)
「どうして、そんなことを……」
(それが、わたしへの救いだから。言ったよね、わたしは生きることにも死ぬことにも絶望しているって。宗佑さんに身体を明け渡してしまえば、わたしは生きる必要も死ぬ必要もなくなる。だから、わたしの人生を丸ごと宗佑さんにあげるの)
 宗佑が憑依すれば、七海は身体の制御を完全に失う。それはつまり、憑依をずっと続けていれば、宗佑が七海の人生を丸ごと奪うことも可能だということを意味していた。
「待てよ、オレはそんなことをするつもりはないぞ!」
(いいえ、することになる。だって、わたしはこれから消えるから。わたしが消えて動かなくなった身体を目の前にすれば、優しい宗佑さんがそれを放っておくことはきっとできない。それに、これは運命。神様が与えてくれた救いだから……)
 それは、決してたちの悪い冗談の類ではなかった。少なくても、七海は本気だ。
 事実、七海が生も死も拒否するならば、他人に人生を明け渡すことは一つの解答として成り立ってしまっている。だが、宗佑には、到底そんなものが救いであるとは思えなかった。
「どうして消えることが救いになるんだ!? それじゃ、まるで自殺じゃないか!!」
(いいえ、全然違う。あくまで、結城七海は生きてる。ただ、中身が変わるだけ)
 ずっと夢を見るようだった七海の口調が、そこで僅かに変化した。
(それに、自殺して全てが終わるぐらいなら、わたしはとっくに死んでる。それができないから、苦しんできたの。百人の幽霊を救えば、事故か病気で死なせてもらえるのかも知れないと思ったこともある。だけど、本当の救いはこんなにも明確にやって来た)
 七海の話は、決して破綻したものではなかった。むしろ、奇妙なほど説得力を持っている。だが、宗佑は、自分が七海の全てを奪うことが救いなのだとはどうしても思いたくなかった。それ故、宗佑は七海の話におかしな所がないか必死になって考える。
 その時、宗佑は不意にあることに気が付いた。それは、宗佑の中で七海の存在が大きくなるに従い、いつしか忘れかけていた未練の存在。自分は……まだ未練を思い出していない。
「待てよ。七海が救われるのは百人目の幽霊を――オレを救った後のはずだろう。オレはまだ成仏していないし、救われてもいない!!」
(いいえ。わたしが身体を明け渡した瞬間に、宗佑さんは救われる)
 しかし、七海は宗佑の指摘をいとも簡単に否定した。そして、説明を付け加える。
(幽霊は、すべからく一つの強い願いを持っている。それは、生き返りたいという思い。だけど、それは叶わない望み。だから、幽霊は代わりに未練を持つの。でも、宗佑さんの場合は特別。わたしと交代することで生き返ることができる。それは、何よりの救いになる)
「そんな、オレは別に生き返りたいなんて……」
(思ってない? そんなことはないはず。わたしと出会った時、宗佑さんは『まだ、死ねない』と言っていた。一人で彷徨っている時も、ずっと『まだ、死ねない』と呟いていた)
 それは、七海の言うとおりだった。宗佑は、何かをやらなければならないという思いに突き動かされて、それまでは死ねないという思いを抱えて彷徨っていたのだ。だが、少なくとも七海を犠牲にしてまで生き返りたいとはこれっぽっちも思っていない。
「オレは、未練さえ思い出して解消できれば…………」
(未練探しに最後まで付き合ってあげられなくてごめんなさい。でも、わたしの身体を使って生活していればやがて記憶は戻ってくるから。だから、やり残したことを思い出したら何をしても構わない。その時は宗佑さんが結城七海自身だから自分の判断で決めていいよ)
 既に宗佑が口を挟む余地はなかった。七海は、何処までも本気だ。宗佑は、自分の中で抑えきれない焦燥感だけが空回りしてゆくのを感じていた。
 と、不意に七海の口調が変化する。そして、ポツリと(でも……)と呟いた。
(全てを捨てようとしているわたしには、こんなことを言う資格は無いかもしれない。だけど、宗佑さんは良い人だから、最後に一つだけお願い。お母さんのこと、できればでいいからあんまり悲しませないであげてね。わたしは、お母さんの幸せを壊しちゃったから…………)
 それは、七海が混乱した時に口走っていたことだ。思わず、宗佑はハッとする。
(本当は、宗佑さんにはあんまり知られたくない。だけど、今からは宗佑さんが結城七海になるから。宗佑さんには、きっと知る権利がある。だから……聞いて)
 僅かな沈黙があり、不意に七海が口を開いた。
(わたし、お父さんから性的虐待をうけていたの)
 その告白に、宗佑は思わず息をのんだ。最初に感じたのは、驚きと衝撃。そして、少しだけ遅れて理解がついてくる。今朝、父親について尋ねた時に七海が見せた不自然さはこれが原因だったのだ。宗佑が絶句していると、七海はいつも以上に抑揚の薄い口調で続ける。
(幼い頃から幽霊が見えていたから、わたしは奇行が多かった。お母さんは、そんなわたしをもてあまし気味だったんだと思う。だけど、お父さんは優しく構ってくれた。良い人だって思って、わたしもすぐに懐いた。実際、良い人だった……あの日までは。
 小学校五年生の時、突然お父さんに襲われたの。ビックリして、怖くて、痛くて。だけど、逃げられなかった。その日からお父さんは、お母さんの目を盗むように、何度も何度もわたしのカラダを求めてきた。辛かったけど、どうして良いか分からなかった。
 しばらくそんな生活が続いて、わたしは凄く精神的に不安定な状態になっていた。だから、判断が狂った。我慢すればよかった。誰にも言わなければよかった。だけど、あの時のわたしは我慢することができなかったの。だから、お母さんに全部話した……)
 七海は少しだけ息を継ぐように間を空けた。
(そして、うちはメチャメチャに壊れた。わたしがお母さんに全てを話した日、お母さんはお父さんと何かを言い争ったみたい。そして、お母さんはそのままわたしを連れて家を出た。逃げるみたいにこの街に引っ越してきて、それっきりお父さんには会ってない。
 わたしが我慢することができなかったから、お母さんの幸せは壊れた。温かい家庭を失い、優しい夫を失い、収入も失った。だからお母さんは、こんな小さなアパートで、遅くまでパートを掛け持ちするような生活をしている。全部、わたしが悪いの)
「それは七海のせいじゃ……」
(いいえ、わたしのせい。わたしが我慢すれば全て丸く収まったの。それに、たぶんお母さんもそう思ってる。わたしのことは昔からもてあまし気味だったけど、こっちに引っ越してきてからは、まったく関心を持ってくれなくなったもの。きっと、怒ってる)
 あまりのことに、宗佑はどう言葉をかけてよいか全くわからなくなっていた。
(死んでしまいたかった。もう、何もかも嫌だった。だけど、幽霊が見えるわたしには自殺をすることもできない。自殺者がどうなるかを知ってるから。自殺者の幽霊は、死ぬこと自体が未練になって何年も何十年も延々と自殺をし続ける。自殺は終わりなんかじゃない。
 あの教会で神様の声を聞いたのは、ちょうどそんな時だった。本当に神様なのかどうかはわからなかったし、妄想かもしれないとも思った。それでも、わたしは救いが欲しかった)
 泣いている。七海の心が悲鳴を上げている。一つの身体を共有しているからだろうか、宗佑の心に七海の感情が直接流れ込んでくる。その重圧で、今にも押し潰されてしまいそうだ。
(宗佑さんに出会った時、本当は凄く怖かった。もし、百人目を成仏させても何も起こらなかったらどうしようって。すごく、すごく不安だった)
 これは七海の感情だろうか。それとも、話を聞いている宗佑の感情なのか。いつの間にか、七海の身体はハラハラと涙を流していた。それは止めどなく、後から後から溢れ出す。
(だけど……救いは本当にあった)
 自分の人生そのものを他人に明け渡してしまうこと。そんなことが本当に救いなのだろうか。だが、七海の絶望の深さを知った今、宗佑にはその疑問を口にすることはできなかった。
 と、不意に心が僅かに軽くなる。七海から流れ込んでいた感情が変化したのだ。
(救いの意味に気が付いた時から、タイミングを計っていたの。ちょうど良い頃合いだよね。汚れた制服の処理も終わったし、宗佑さんに話すべきことも一通り話し終えた)
 ホッと一息つくように、七海は小さくため息を漏らす。そして、七海はとても穏やかな口調で(わたし、もう消えるね)と呟いた。その言葉が、宗佑の胸に深く突き刺さる。
(もう焦る必要はないんだけど、あんまり長く一緒にいると別れが辛くなるから……)
「な……七海っ!?」
 不意に七海の存在が少し遠くなったような気がして、宗佑は焦った声を上げる。
(男の子の身体じゃなくてごめんなさい。でも、生き返ることができるんだから、いいよね。わたしが言ってもあんまり説得力がないけど、女の子もそんなに悪くないと思う)
「待て、七海! 待ってくれ!!」
 何を言えばいい。どう言えば七海を引き留めることができる。……ダメだ、仮に引き留めることができたとしても何も解決しない。七海にとっては、この世界は地獄と同じなのだ。そこに留まることを要求することは、七海を余計に苦しめる結果しか生まない。
(思えば、最初に出会った時から、宗佑さんとは他人のような気がしなかった。どこか懐かしくて、一緒にいると不思議に心が安まる。まるで、もう一人の自分自身がそばにいるみたい。きっとそれは、宗佑さんが結城七海になる運命の幽霊ひとだったから)
 さらに、七海の存在が遠くなる。魂や幽霊に詳しくない宗佑には、七海が何をやっているのかは全くわからない。ただ、七海の存在が徐々に閉じてゆくのを感じるのだ。
(さようなら、宗佑さん。九十九人の幽霊を救うのに四年以上かかったけど、宗佑さんと一緒にいたときが一番楽しかった。いつか、この身体がお婆ちゃんになっても、わたしのことを覚えていてくれると嬉しいな。最後に一言だけ、ありがとう…………)
「七海!? ……七海っ!!」
 ロウソクの火がフッと吹き消されたように、唐突に七海の存在が消えた。まるで、心の一部を無理矢理にもぎ取られたような激しい喪失感が宗佑に襲いかかる。
 もう、引き留めることが七海の苦しみになってしまうなどと考えている余裕はなかった。宗佑は、慌てて憑依を解除して七海の身体から飛び出す。まだ間に合う。今、自分が身体から抜け出せば七海は戻って来るしかないはずだ。宗佑は、自分に強く言い聞かせた。
 そして、視界が暗転する。ふわっとした独特の浮遊感があり、次の瞬間、宗佑は閑散とした四畳半の中に立っていた。目の前には、壁にもたれ掛かるようにして座り込んだ七海がいる。窓から射し込む茜色の夕日に照らされて、七海の影が長く壁を這っていた。俯いた七海の表情は暗くてよく見えない。と、不意に七海の肩がピクリと動いた。
(七海っ!?)
 宗佑の見ている前で、七海の頭がグラリと大きくかしいだ。身体はバランスを崩し、右肩からズルズルと壁を滑って崩れ落ちて行く。そして、畳の上にドサッと倒れ込んだ。ボンヤリとした七海の瞳は焦点を失い、僅かに開かれた口元は何も語らない。
 まるで精巧に作られた人形のように、七海からは一欠片の精気すら感じられなかった。
(七海、なな……みぅわぁぁぁぁぁぁっっ!!)
 茜色に染まった世界の中で、宗佑は誰にも聞こえるはずのない絶叫をあげた。

第三話 雨障あまざわりと追憶ついおく

1.

 ガチャリという音が聞こえ、宗佑そうすけはハッと意識を取り戻す。いったいどれぐらいの時間が経ったのだろうか。窓の外は既に夜のとばりに包まれていた。ジジッと音を立てながら明滅を繰り返す電灯の光が、閑散とした部屋の中をうっすらと照らし出している。
 目の前には、人形のような七海ななみの身体が転がっていた。決して死んでいるわけではない。その証拠に、僅かだが呼吸で胸が上下しているのだ。もし、これで瞳を閉じていたならば、眠っているのだと思い込むこともできただろう。
 と、不意にキッチンの方から誰かの足音が聞こえてきた。おそらく、七海の母親が帰ってきているのだろう。先ほどのガチャリという音も、母親が玄関を開ける音だったに違いない。宗佑は、思わず部屋の扉へと目を向けた。今、母親が扉を開けたら不味いことになる。
 いくら娘に関心が薄い母親だといっても、まるで人形のようにピクリとも動かない姿を見れば騒ぎになるだろう。それは、決して七海の望むところではないはずだ。それに、母親を悲しませないで欲しいと頼まれたということ以上に、宗佑は七海の生活を壊したくなかった。
(オレは……どうすればいい!?)
 僅かに躊躇ったが、宗佑は覚悟を決めて七海の胸に手を突っ込んだ。そして、七海の身体へと吸い込まれてゆく。ほんの一瞬の空白があり、宗佑は七海の視界から部屋を見上げた。
 七海の言葉を信じるならば、おそらく七海は二度と帰って来ないだろう。だが、宗佑はそれを信じたくはない。だから、必ず帰ってくるはずだと自分に言い聞かせる。それまでは、自分が七海に成り代わって身体と生活を守っていってやらなければならない。
 宗佑は、とりあえず体を起こした。ずっと同じ格好で倒れていたからだろう。身体の下敷きになっていた右腕が痺れている。立ち上がり、軽く腕を回してから部屋の扉を開けた。
「お帰りなさい……」
 なるべく七海に近い印象になるように、抑揚を抑えて喋ったつもりだった。だが、声をかけられた母親は驚いたような眼でこちらを見つめ返してきた。何か、失敗しただろうか。内心冷や汗をかいた宗佑だったが、よく見ると母親が見つめているのは顔ではなかった。母親の視線は、宗佑の――七海の手の辺りを彷徨っている。
 そうか、手の怪我だ。宗佑は一拍遅れて気が付いた。それどころではなかったため忘れかけていたが、七海の手は一目で分かるほどボロボロなのだ。娘の手がこんなことになっていれば、誰でもビックリするだろう。これは、なにか言い繕わないと不味いかもしれない。
 宗佑が言い訳に思いを巡らせていると、不意に母親が七海から顔を背けた。
「夕ご飯、今から作るから。お腹空いたでしょ」
 そして、手とは全く関係ないことを口にする。これには、むしろ宗佑の方が驚かされた。年頃の娘が手をこんなに傷つけているのに、それには一言も触れないのだ。いくら七海への関心が薄いといっても、これはあんまりだろう。
 宗佑は母親の態度に、思わずムカッとした。咄嗟に文句が口をついて出そうになったが、すんでのところで思いとどまる。七海の口から文句を言うのは明らかにおかしいからだ。
 だが、心に芽生えた苛立ちは抑えきれない。宗佑は、エプロンを纏って料理を始めた母親の後ろ姿を睨み付ける。と、母親が振り返らずに声をかけてきた。
「夕食前に、お風呂に入ってきなさい」
「えっ……お風呂!?」
 それは先ほどと同じで、手の怪我には一切触れない言葉だった。だが、その言葉は宗佑の心に苛立ちとは別の感情を呼び起こす。それは、強い戸惑い。
 七海の身体は死体ではないし、ましてや人形でもない。普通に汗をかいたりして汚れることもあれば、新陳代謝もするだろう。つまり、七海として生活する以上、お風呂に入るという行為は避けては通れないことになる。だが、そのためには服を脱がなくてはならない。
 母親が突然帰ってきたため咄嗟に七海の身体に憑依した宗佑だったが、七海として生活するということの意味合いまでは思いが至っていなかった。七海の生活を――身体を守るためには、宗佑は七海のプライバシーを徹底的に侵害せざるを得ないのだ。
 それは、お風呂だけではない。着替えも、トイレでさえも、もはや七海にはプライバシーは存在しなかった。七海自身が望んだことの結果とはいえ、気恥ずかしさよりも申し訳なさが先立つ。たとえ恋人同士であっても、ここまでさらけ出すことはないだろう。それは文字通り自分自身か、あるいは親子の関係でしかあり得ないことだった。
 不意に気づかされた事実に宗佑が戸惑っていると、母親が再び口を開いた。
「いいから、入ってきなさい」
 僅かに強い語調。有無をいわせない迫力。母親は、宗佑の沈黙を拒否の意思表示だと受け取ったのだろう。親らしい強引な口調でもう一度、入浴を強く勧めてきた。
 自分の娘に関心すら持てないくせに……。そんな思いが、宗佑の脳裏を過ぎる。だが、七海の生活を守るという意味では表だって反抗するわけにはいかないだろう。それに、遅かれ早かれ、七海のプライバシーを侵害することは避けて通れないのだ。
 宗佑は「……わかった」と小さく返事をして、廊下を浴室へと向かって歩き出した。
 浴室はキッチンから繋がった廊下の突き当たりにある。浴室の手前、廊下の左側には脱衣用のかごが置かれている。僅かに躊躇った後、宗佑は思いきって黒いトレーナーを脱ぎ捨てた。純白のブラジャーに包まれた小振りな七海のバストが露わになる。
 ブラジャーの外し方自体は宗佑の知識の中にあった。おそらく、生前に恋人でもいたのだろう。心の中で七海に謝りながら、宗佑は背中のホックをパチンと外した。
 できるだけ胸を見下ろさないように注意しながら、今度はスカートのファスナーを下ろす。手を離すと、スカートは自然にふわりと足下へと落ちていった。宗佑は、それを足で引っかけて持ち上げながら靴下と一緒に脱ぎ去る。そして、全部丸めてかごの中へ放り込んだ。
 小さく息を吐いて心を落ち着けてから、最後に残った一枚に手をかける。ここまできて躊躇っても今更だろう。両手の親指を引っかけて、一気に足下まで引き下ろす。そのまま、手の平でギュッと握り、かごで丸まっている洋服の奥へと隠すように押し込んだ。
 これで、七海の身体は正真正銘の素っ裸になってしまった。七海の裸を見てしまう申し訳なさと、自分が裸を晒している気恥ずかしさがない交ぜになって、宗佑は僅かに混乱する。
 ――早いところ、風呂に入ってしまおう。
 色々な思いを振り切って、宗佑は浴室の扉に手をかけた。そして一気に引き開ける。最後の悪あがきのように、宗佑は努めて視線をまっすぐにして前だけを見るようにしていた。
「――――っ!!」
 だから、それは完全な不意打ちになった。驚く宗佑の瞳に、七海の裸体が飛び込んでくる。
 輝かんばかりに白くハリのある肌。スラリと伸びた健康的な手足。やや未成熟ながら、それなりに自己主張をする形の良いバスト。まさか、入り口の真っ正面に鏡があるなどとは予想していなかったのだ。しばし、宗佑は呆然として立ち尽くした。
 トクンッ、トクンッ――
 僅かに宗佑の胸が高鳴る。だが、決していやらしい思いからではなかった。ただ、いとおしいという感情。それは、とても不思議で穏やかな感覚だった。決して、七海の裸に魅力がないわけではない。だが、宗佑の心には一片のやましさも浮かんでは来なかった。
 その瞬間、宗佑は、自分が七海の身体に欲情してしまうことを最も恐れていたのだと気が付いた。まるで、それが最大の禁忌タブーであるかのようにずっと目を逸らそうとしていたのだ。
 だが、実際に目の当たりにしたことで、宗佑の中にあるモヤモヤとした不安は霧散する。
 ――よかった。オレは、七海の身体に劣情を抱かないですむ。
 ハプニングだったとはいえ、結果的にいえば七海の裸を真っ正面から見たことは良かったのだろう。ホッとして胸をなで下ろしながら、宗佑は浴室の中へと歩を進めた。
 一番の懸念が解消されたからだろう。もう、変に躊躇ったり遠慮するつもりはなかった。自分自身の身体のように、いやそれ以上に大切なモノとして七海の身体を守ってゆこう。宗佑は、心の中でそう呟きながら浴槽の蓋を開けて湯加減を確かめるために手を突っ込んだ。
 しかし、湯船のお湯は全然沸いていなかった。一瞬訝しんだが、考えてみれば当たり前だ。自分はお湯を沸かしていないし、母親は帰ってきたばかり。誰も沸かしていないなら、当然のように水に違いない。だが、それならば何故、母親は執拗に風呂を勧めたのだろう。
「七海、入るわよ」
 と、不意に浴室の扉が軽くノックされて、母親が入ってきた。宗佑はビックリして、思わず叫び声をあげそうになったが、何とか抑え込む。今は、母娘おやこなのだ。裸を見られたぐらいで、いちいち悲鳴を上げていては怪しまれてしまうかもしれない。
「なっ……なに?」
「その手じゃ、身体を洗えないでしょ。洗ってあげるわ」
「えっ!? だけど……」
 娘に関心を持たない母親にしては奇妙な気配りだな。そうは思ったが、じっと見つめてくる母親の意外な迫力に負けて、宗佑は強く反対することはできなかった。それに、考えてみれば七海のためにもその方が良いかも知れない。痛み自体は憑依の影響で鈍麻しているが、手の怪我は決して軽くない。無茶をして、万が一にも障害などが後に残ったら大変だ。
 少し思案してから、宗佑は素直に母親の申し出を受けることにした。宗佑が無言で頷くと、母親はスポンジにボディーソープを少し取ると、軽く何度か握って泡立たせた。
「じゃあ、まず足から洗うわ。椅子に座って足を上げて」
 足から始まり、腰回り、お腹、胸と母親は順に洗ってゆく。洗い方はとても丁寧で、まるで赤子を扱うかのように優しい。徐々に肌が泡に覆われてゆくやわらかな感覚が、とても心地良かった。そんなことを思いながらも、宗佑は一つだけ妙なことに気が付いた。
 それは、母親の目つき。まるで宝石鑑定士が宝石の鑑定でもしているかのように、母親は洗う箇所が泡で覆われる前に舐めるような視線を肌に這わせてくるのだ。
「手を出して。傷に染みて痛かったら言ってね」
 言われるままに右手を差しだした。今までと同じように、母親は舐めるように見つめてくる。わざわざ少し持ち上げて裏側を見たり、角度を変えて覗き込んでみたり、本当に鑑定でもされている気分だ。まるで、宝石に付いた微細な傷を探してでもいるかのように――
 ――探している!? ……そうか、探しているんだ!!
 唐突に、宗佑は母親の謎な行動の意味に思い当たった。それは、七海の身体に付いた傷を探そうとしている行為だったのだ。沸いてもいない風呂を無理に勧められたのも、七海を裸にして怪我の具合をチェックする意図があったと考えればつじつまが合う。
 母親は七海が手に負っている傷を見て、七海がイジメにあっていたり、場合によっては乱暴されたのではないかと心配したのだろう。だからこそ、身体の隅々まで舐めるように視線を這わせてチェックしているのだ。そう、母親は七海の怪我に関心を持っていないわけではなかった。ただ、娘に怪我の具合を尋ねられないほどに不器用なのだ。
 何か理由があるのか、それとも七海が素直に言わないからなのか、それはわからない。だが、少なくても根底には娘への愛情が流れているような気がする。
 真剣な眼差しで怪我を探す母親を見て、宗佑の中で苛立ちが急速にしぼんでいった。代わりに、申し訳なさが膨らんでくる。これ以上、この母親に心配をかけてはいけない。
「手の怪我だけど、喧嘩で殴ったときに相手の歯で傷つけたみたいなんだ。だから、他に怪我はしてないと思う。……心配させてごめん」
 宗佑は、下手に隠し立てするのは逆効果だと考えて本当のことを口にする。咄嗟のことなので、口調は既に七海のまねではなくなってしまっていた。だが、幸いなことに母親は別のことに驚いて、その辺りの違いに関しては気が回っていないようだ。
 母親が驚いたのは、本当に申し訳なさそうなその口調だった。宗佑には知りようがないことだが、ここ数年の間、七海は母親に対してこんな喋り方をしたことは一度もない。たとえ謝る時でも、言外に「気にしないで」という含みを持たせた口調をつかうのだ。
「……そう。他に怪我がないならいいわ。でも、あんまり無茶はしないでね」
 やや戸惑った後で、母親はそう呟きながら微妙な微笑みを浮かべた。高校生にもなった女の子が人を殴って手を怪我した。それは少しばかり信じがたい話だったが、母親は本当に申し訳なさそうな宗佑の――娘の言葉を信じることにしたのだろう。
「一応、念のために病院にいきましょう。だから、明日は学校を休みなさい」
「わかった。……ありがとう」
 宗佑は、もっと怒られるかと思っていた。だが、母親は怒らずに「無茶をしないで」とお願いしてくるだけだった。これが、七海と母親の距離なのだろう。だが、それは決して絶望的な距離ではない。手を伸ばせば、僅かに歩み寄れば、相手に辿り着くことができる距離だ。
 娘への接し方が下手な母親と、親の不器用な優しさに気づくだけの余裕がなかった娘。どちらも責めることはできない。手の怪我という偶然のハプニング。そして、比較的冷静な第三者であるという要因が重なった結果として、宗佑も初めて気が付くことができたのだ。
 だが、もしも七海が母親の想いに気が付いていたなら……結果は違っていただろうか。
 ――なぁ、七海。それでも、七海は消える道を選ぶのか?
 真っ白な泡に包まれた身体を見下ろしながら、宗佑は心の中で七海の名前を呟いた。

 翌日、宗佑は午前中のパートを休んだ母親に連れられて、駅前にある砂川すながわ総合病院にやって来ていた。外観からして随分と大きな病院だとは思ったが、自動ドアを通り抜けて院内に入った瞬間、宗佑の中にあった病院のイメージが一気に吹き飛んでしまった。
 ロビーと呼ばないと失礼な気がするほど立派な受付。待合室代わりに置かれたソファーはどこかの高級ホテルを思わせ、机の上には七海の身長以上に大きな花が花瓶いっぱいに生けられている。もしかすると、今までで一番時代のギャップを感じた瞬間かもしれない。
 宗佑は、おっかなびっくりしながら、母親の後に付いて受付をすませた。
 手は昨日より多少腫れているようだ。そういえば、人間の口内は雑菌が多いので歯でつけた傷は腫れやすいと何処かで聞いたような気がする。憑依状態でさえ、ズキズキと痛むのだ。実際は、相当痛いに違いない。これは、病院に来て正解だっただろう。
 母親は、七海以上に言葉少なだったが、その行動の端々には娘の怪我を気遣う様子が見て取れた。今朝も、手の傷が痛むだろうと着替えを手伝ってくれたのだ。女性の下着や洋服の身につけ方に慣れていない宗佑にとっては、それは文字通り怪我の功名だった。それに、しばらくは着替えなどで多少手間取ったとしても全て怪我のせいにできそうだ。
 しばらく診察室の前で待たされてから、ようやく七海の順番が巡ってきた。
「いやぁ、何とも外見に似合わず腕白な娘さんですねぇ……」
 苦笑混じりにそう言ったのは、診察をしてくれた外科の先生だ。七海の怪我は、見る人が見れば、人を思いっきり殴った時にできる傷痕だと一目でわかるのだろう。「まぁ、最近は女性も強くなりましたからね」と微妙なフォローをしながら、医者は塗り薬と包帯を巻いてくれた。一応レントゲンも撮ったが、幸いにも骨には異常がなかった。
 医者の言葉が、七海の――宗佑の言っていた怪我の理由と一致したことは、ある意味で母親を安心させたようだ。場合によっては、午後も七海と一緒にいるつもりだったのだろう。母親はパート先に電話を掛けて午後からは出ることができそうだと話をしていた。
 そして、病院の大食堂で少し早めの昼食を取ってから、二人は家に戻ってきた。
「今日は早めに切り上げて帰ってくるから、家で大人しくしているのよ。痛みが酷かったら、もらった鎮痛剤を飲みなさい。包帯は、私が帰ってきたら替えてあげるから」
 家に帰り着いてから僅か五分。母親はパートの仕事に行く準備を整えて、バタバタと出かけていった。急いでいても、出がけに七海への指示を忘れない辺りは、やっぱり母親だ。宗佑は、玄関の外まで母親を見送りながらふと昔のことを思い出していた。
 それは、こことは別のアパート。玄関から忙しそうに飛び出す女性。そして、それを追いかけるように宗佑も玄関を出る。女性は「急がないと、また遅刻しちゃうわ」と呟きながら、宗佑を急かす。行き先は――何処だっただろうか。確か、大学だったような気がする。
 それは、宗佑の生前の記憶なのだろう。忙しそうな母親の様子と、記憶の女性が何となく重なったことが思い出した原因かもしれない。ふと気が付けば、カンカンカンという軽快な音を立てて母親がアパートの階段を下りているところだった。
 アパートの前を駆け足で走り抜ける母親の姿が見えなくなるまで、宗佑は外で見送った。そして、部屋に戻ろうと振り返った時にふと表札が目にとまる。今までは、七海と一緒に帰ってきた時が夜だったり落ち込んでいたりで気が付かなかったのだ。
 表札には『結城ゆうき』と大きな文字で書かれており、その隣に少し小さく『静香しずか』『七海』とあった。おそらく、静香というのが母親の名前なのだろう。
 七海の身体で人間としての生活を送っているため、宗佑の記憶はゆっくりと、だが着実に戻ってきている。先ほど記憶に出てきた女性についても、自分の恋人だったというところまでは既にわかっていた。だが、今となってはそれにどれほどの意味があるだろうか。
 思い出せない未練よりも、今の宗佑にとっては七海のことの方が遥かに気がかりなのだ。
 宗佑は大きくため息をついてから、玄関に鍵をかけた。そして、七海の部屋へと戻って壁を背にして座り込む。いつも、宗佑が無意識にしている足を抱えるような座り方だ。
 そして、今まで努めて意識の外に追い出していた昨日の屋上での一件に思いを馳せた。
「学校から、電話がかかってくるかもしれないな……」
 宗佑は誰に言うともなく、一人ポツリと呟いた。もう既に、瑞樹みずきたちのことは学校で問題になっているだろう。もしかすると、警察も動き始めているかもしれない。
 瑞樹たちに怪我をさせたのは宗佑なのに、逮捕されるとすれば、それは七海なのだ。理不尽だった。それに、そうなったら母親は――静香はきっと悲しむだろう。七海に頼まれたからではない。娘への愛情があることを知ったからこそ、宗佑は静香を悲しませたくなかった。
 だが、結局のところ全ては事後なのだ。もう、やってしまったことはどうしようもない。
「せめて、停学ぐらいで収まってくれれば……」
 宗佑は足を抱えたまま、膝の上に頭を乗せるように丸まって再びため息をつく。自分は七海のマイナスになることばかりしている。ラーメン馬鹿食いはともかくとしても、七海の身体で大暴れをして手を酷く傷つけたあげくに、七海の社会的立場まで危うくしているのだ。
「いや、社会的立場どころじゃない。オレは……七海の人生を丸ごと奪ったんだ」
 宗佑は、包帯でグルグル巻きにされた痛々しい七海の両手に目を落とした。不意にその両手が涙に滲む。ポツポツと雫がこぼれ落ちて、包帯に小さな染みを作った。自分はこんなに涙脆かっただろうか。そんなことを思いながらも、溢れ出す涙を止めることはできなかった。
 結局、その日は学校からも警察からも、電話がかかってきたりすることはなかった。



2.

 次の日になっても、やはり七海は戻ってこなかった。これで、七海が消えてから丸一日以上が経過したことになる。本当に、七海は戻ってこないつもりなのだろうか。すっかり乾いて皺の伸びた制服に着替えながら、宗佑は小さくため息をついた。
「本当に大丈夫なの? 手が痛むなら、学校を休んでも良いのよ」
 着替えを手伝ってくれていた静香が心配そうな顔を向けてくる。七海のふりとはいえ、最初に比べて、静香とはだいぶ打ち解けた母娘おやこになれたような気がしていた。
「大丈夫。無理はしないようにするから」
 昨日は学校や警察から連絡が来るようなことはなかったが、やはり宗佑は屋上での一件が気になっていた。むしろ、なにも音沙汰がないことが余計に不安感をあおる。だから、学校へ直接行って現状がどうなっているのかを知りたいのだ。
 痛み自体は、憑依状態なのでほとんどない。腫れも昨日よりはだいぶ引いている。意識して無理をしないように気をつけていれば、手はさほど問題ないだろう。
 宗佑は、教科書やノートを全部抜いて極力軽くした通学カバンを手に取った。中身を抜いたのは手を気遣うためだったが、実際問題として時間割などがわからないのだから準備のしようもない。それは、あくまで普通に通学するというのを静香に見せるためのポーズだ。
「七海。じゃあ、これ……」
 玄関へ向かおうとしていた宗佑に、静香が五百円玉を一枚渡してきた。そういえば、七海もお昼ご飯代をもらっていたような気がする。宗佑は僅かに逡巡したが、七海の身体には昼ご飯が必要だろう。そう考えて素直に受け取ることにした。そして――
「いってきます」
 思わずそう言ってしまってから、宗佑はハッとした。七海は、朝出かける時に挨拶をしないのだ。それ自体は印象に残っていたので、ずっと気をつけようと思っていた。それなのに、宗佑は、ほとんど反射的に挨拶を口にしてしまったのだ。
 ――まずった……。
 思わず心の中で冷や汗をかく。七海の口調自体は適当に短く言い切ればそれなりに似るので何とかなるが、細かい癖が難しい。宗佑はおそるおそる静香の顔色をうかがった。
 やはり、静香は戸惑ったような顔をしていた。と、不意に静香の表情が変化する。それは、予想に反して穏やかな微笑みだった。そして、優しい声で――
「いってらっしゃい」
 と挨拶を返してきたのだ。さらに、静香は言葉を続けてくる。
「今日はパートが早く終わる日だから、夕ご飯は一緒に食べましょうね」
 不意に、宗佑の記憶にある恋人と静香の姿がだぶって見えた。なぜならば、二人はまるでそっくりな笑顔を浮かべていたからだ。それは、恋人や自分の子供など、本当に愛しい人へと向けられる嘘偽りのない最上の微笑み。
 そして宗佑は理解した。七海の生活を守るためには、なにも一から十まで七海と同じようにする必要は必ずしもないのだ。むしろ、挨拶ぐらいは積極的にしても良いだろう。
「いってきます!」
 敢えてもう一度、宗佑は元気な挨拶を口にした。自然に笑顔が浮かんでくる。それは、七海が決して浮かべないような笑顔かもしれない。だが、それでも良い。色々な心配事の重圧が、少しだけ軽くなってゆくような気がする。そして、宗佑は玄関を後にした。

「えぇと、確かこの辺りだったような……」
 学校にたどり着いた宗佑は、まず七海の靴箱を探すところから始めた。一昨日も朝と夕の二回ほど使っていたが、ハッキリとした場所までは覚えていない。もっとも、あの時点では自分が七海として生活することになるとは夢にも思っていなかったのだからあたりまえだ。
 宗佑は『一年C組』と『結城七海』という名前を手がかりに靴箱を順に確認してゆく。
「おっ、あった!」
「何があったの? ま・さ・か、ラブレターとか!?」
「まさか……って、うわっ!!」
 靴箱を探すことに夢中になっていた宗佑は、無意識に言葉のキャッチボールを交わしかけて不意にハッとして振り返った。そして、さらにもう一度ビックリして、今度は後ろに飛びすさって靴箱に背中からぶち当たる。まるでキスができそうなほど目の前に、大きな丸眼鏡をかけた顔があったからだ。ぶつかられた靴箱が、大げさにガタッと音を立てた。
 確か――頼子よりことかいっただろうか。一昨日、七海を昼ご飯に誘っていた遅刻少女だ。
「七海ちゃん、おっはー!!」
 頼子はニコッと笑って、指で変な輪っかを作って宗佑に向けてくる。
 ――おっはー!? もしかして、おはようの意味か……?
 混乱しながらも、宗佑は何とかそれが朝の挨拶を意味していることなのだろうと当たりをつけた。時代のギャップなのか、宗佑には全く馴染みのない挨拶だ。だが、これが今の時代の標準的な挨拶ならば、七海のふりをしている以上、宗佑もする必要があるだろう。
「おっ、おっはー……」
 コミュニケーションの基本は模倣だという。宗佑は、見よう見まねで頼子と同じ指の輪っかを作ってみせる。まるで、気分は宇宙人との第三種接近遭遇ファーストコンタクトだ。
 と、それを見た頼子が、大きな丸眼鏡の奥でさらに目を丸くして驚いた。
「うっそぉー!? 七海ちゃん、今日はすっごくノリが良いね!」
「えっ……ノリ?」
 ハッとして、宗佑はブンブンと辺りに視線を巡らせる。周囲は登校してくる学生たちに溢れていて、おのおの口々に「おはよう」と普通の挨拶・・・・・を交わしあっていた。
 学生たちが交わしあっている挨拶などろくすっぽ注意を払っていなかった宗佑は、頼子の冗談を真に受けてマジボケをかましてしまったのだ。思わず、頼子へと向けた指の輪っかを引っ込めるのも忘れて耳まで真っ赤にして恥じ入ってしまう。
「――って、あれ!? 七海ちゃん、その手の怪我はどうしたの?」
 と、七海の指が包帯グルグル巻きなことにようやく気が付いた頼子が声を上げた。
「あっ!? これは……」
「そういえば、昨日学校を休んでたよね。何かあった?」
 何の含みも屈託もなく、頼子はそう尋ねてくる。それは、頼子が屋上での一件を知らないということを意味していた。事件そのものを知らないのか、七海が関係しているということだけを知らないのかはわからない。いや、むしろ少し探りを入れるべきだろうか。
 宗佑は当然、クラスメイトの名前を知らない。知っているのは、目の前にいる頼子を除けば、瑞樹と里佳りかぐらいだ。もっとも、仮に知っていたとしてもクラスで孤立している七海の立場では話を聞くのはなかなか難しいだろう。そういう意味では、チャンスかもしれない。
「げっ、結城っ!?」
 宗佑が頼子に屋上での一件を尋ねようかと思案していると、不意に別方向からビックリしたような声があがる。噂をすれば影が差すではないが、それは里佳だった。
 里佳の靴箱は、七海のものより校庭寄りにあるのだろう。既に上履きに履き替えて、こちらへ向かって歩いてくる途中だった。里佳は、七海の姿を見かけて思わず挑戦的な目を向けてくる。だが、その様子は明らかに腰が引けていた。
 まるで野生の熊と遭遇でもしたかのように、里佳は警戒心をむき出しにしていた。限界まで薄く絞った通学カバンを、まるで盾か何かのように身体の前に掲げている。おそらく、無意識にお腹をガードしているのだろう。そして、蟹歩きのように横へ足を踏み出した。
 里佳はゆっくりと、ジリジリとした動きで七海を中心にした円運動を開始する。視線は七海へと固定したままだ。一見して滑稽な光景だったが、一拍おいてから宗佑は動きの意味を理解した。里佳は、七海に極力近づかないようにしつつ校舎側へと移動したいのだ。
 見る限り、里佳に大きな怪我はなさそうだった。殴った張本人だが、いや張本人だからこそ宗佑はホッと安堵する。そして、動きの滑稽さとあいまって思わず微笑みを漏らした。
「うぐっ! おっ……覚えてなさいよ!!」
 その微笑みを見た里佳の表情が、一瞬悔しそうに歪んだ。どうやら、微笑みを挑発的な笑みだと勘違いしたらしい。既に、七海の立ち位置よりも校舎側に回り込んでいた里佳は、クルリと振り返ると捨て台詞を残してバタバタと走り去っていった。
 そして、次の瞬間、ホームルーム開始五分前を告げる予鈴が校舎の中に鳴り響いた。
「あっ、そろそろ行かないと。あたし、遅刻すると先生にまた怒られちゃう!」
 頼子は不意に廊下を駆けだした。里佳の登場でうやむやになってしまったが、頼子の話ならば後でも聞けるだろう。宗佑はそう考えて、後をついて走ることにする。
「あっ、そういえば里佳ちゃんも昨日休んでたよ。あれ、午後からは来てたかな?」
 と、頼子は走っているにもかかわらず視線を後ろに向けて話しかけてきた。前が疎かになっていて危なっかしい。だが、気になる話題だったので宗佑は会話に乗って質問を口にした。
「瑞樹は? あいつも、休んでいたか?」
「ん〜、瑞樹ちゃんも休みだったような……?」
 話は総じてあやふやな感じだったが、たぶん間違っていないだろう。里佳とは違い、瑞樹の場合は完全に骨を折ったのだ。もしかしたら、入院している可能性もあるかもしれない。
 そんなことを話しているうちに一年C組の教室が見えてきた。予鈴で呼び戻された生徒達が次々に教室へと走り込んでゆく。と、みんなとは逆に、教室から出てくる人影があった。
「みっ……瑞樹っ!?」
 その姿を見て、宗佑は驚いて思わず足を止めた。つられて、頼子も立ち止まる。
 瑞樹はギプスで左肘の辺りを固定し、肩から白い三角巾で吊っていた。だが、それだけだ。それ以外は一昨日に見かけた瑞樹と何ら変わるところがない。里佳のように、過剰に警戒心をむき出しにしているわけでも、腰が引けているわけでもなかった。
 瑞樹は、宗佑の方へ視線を向けると僅かに会釈をするように頭を下げた。そして、真っ正面から見つめてくる。瑞樹のあまりにも普通な対応に、宗佑は僅かな寒気を感じた。
 ふと気が付くと、瑞樹の後ろに隠れるように里佳が付いてきていた。
「すこし、お時間をいただけませんか? 是非、貴方・・とお話ししたいことがあります」
 一歩近づきながら、瑞樹は七海に――宗佑に話しかけてきた。あくまで丁寧だが、その言葉には有無を言わせない迫力があった。警戒心で、宗佑の表情がにわかに険しくなる。
「そんなに警戒しないで下さいまし。七海さん・・・・に危害を加えるつもりはございませんわ」
「……わかった。何処で話す?」
 瑞樹の言葉を信じたわけではなかったが、七海の安全を確保するためにも瑞樹とはきちんと話をつけておく必要があるだろう。もっとも、話だけで済めばよいのだが。
「別に他意はありませんが、他に適切な場所もありませんから屋上でよろしいですか?」
 僅かに逡巡して、宗佑は頷いた。復讐のために罠を張っている可能性も考えられたが、同じ学校に通っている以上、逃げ回っていてはきりがない。それに、リミッターを外して本気で抵抗すれば、十人やそこらの男子生徒が待っていたとしても何とかなるだろう。
 ただ、常に理性を失わないように気をつけなければならない。もう二度と暴走はごめんだ。
「ねぇ。七海ちゃんも、瑞樹ちゃんも、もうすぐホームルームが始まるよ?」
 ふと、隣で事情を知らない頼子が声を上げた。その言葉に、瑞樹が向き直る。
「頼子さん。お手数ですが、わたくしと七海さんは怪我が痛むので保健室へ行ったと、担任の先生にお伝え願えますか。里佳さんは、その付き添いということにして下さいませ」
 それで担任が納得することを確信したような口調で、瑞樹は頼子に伝言を依頼した。今ひとつ釈然としない表情かおをしながらも、頼子は素直に頷いて一人で教室へと入ってゆく。
「さて、では参りましょうか」
 宗佑は、覚悟を決めて瑞樹の後について歩き出した。



3.

 屋上への入り口は、この前とは少しだけ様子が違っていた。たしか、一昨日は立入禁止の看板が立てられているだけだったはずだ。だが、今日は屋上へと続く扉のノブには、開けられないように鎖が巻かれていた。しかも、それは南京錠でしっかりと施錠されている。
 おそらく、屋上での事件を知った学校側が立入禁止を厳しくしたのだろう。だが、これではそもそも屋上へ出ることができない。どうするのかと思っていると、不意に里佳がスカートのポケットから小さな鍵を取り出した。おそらく南京錠の鍵だろう。いったいどうやって手に入れたのだろうかと思う間もなく、里佳はあっけなく鍵を開けてしまった。
 そして、屋上への扉が開かれた。まず瑞樹が、続いて七海――宗佑が屋上へと出る。
 宗佑は屋上で待ち伏せをされているかと警戒していたが、どうやらそれはなさそうだ。ザッと見回した範囲に人影はなく、隠れられそうな場所もない。と、宗佑は里佳が着いてきていないことに気が付いた。見れば、踊り場のところで先ほどの鍵を持って立ち尽くしている。
「瑞樹……本当に、鍵かけちゃっていいの?」
 里佳はどこか申し訳なさそうに、おずおずと瑞樹に声をかけてくる。
「えぇ、お願いいたします。全部、わたくしの責任ですもの。自分でケリをつけますわ」
 瑞樹と里佳の話している内容まではわからないが、どうやら里佳は屋上に出ずに鍵をかけるつもりらしい。瑞樹も外に出ているのだから、宗佑を閉め出すつもりではないだろう。何をするつもりなのかは想像が付かないが、瑞樹と二人きりならばむしろ望むところだ。
 仮に、瑞樹がナイフか何かを隠し持っていたとしても、宗佑が憑依した七海の反射神経ならば簡単に取り押さえることができる。しかも、相手が一人なら負担も少ないだろう。
「さぁ、早くしてくださいまし。何があっても……途中で開けてはダメですわ」
 まだどこか躊躇いが見て取れる里佳は、瑞樹に促されて渋々扉を閉めた。ガチャンという音が閑散とした屋上に響き渡る。そして、ジャラジャラという鎖の音が聞こえた。
 瑞樹は、扉が閉まったのを見届けてから宗佑の方へと向き直る。少なくても、いきなり飛びかかってくるような様子はない。だが、宗佑は警戒を怠らずに神経を張り詰めた。
「別に、争うつもりはありませんわ。ですから、そんなにピリピリしないで下さいませ」
 瑞樹は無事な右手を肩の高さまで持ち上げて、ヒラヒラと振ってみせる。そして――
わたくしは、貴方と取引をしに来たのですわ」
唐突にそう宣言した。その口調は、『言った』でもなく、『言い放った』でもない。
「取引!? ……どういうことだ?」
 女子高生が使うにはやや聞き慣れない言葉を口にした瑞樹に、宗佑は僅かに戸惑ってオウム返しに尋ねる。だが、それが冗談ごとではないのは目を見れば明らかだ。戸惑いのせいか宗佑自身の口調が透けて見えてしまっていたが、瑞樹は全く気にはしていないようだ。
「そのままの意味ですわ。こちらの出す条件を守って下さるなら、引き替えに七海さんに二度と危害を加えないことを誓いますわ。援助交際のことも、当然秘密に致します。わたくしが喋ったのは里佳さんにだけですから、里佳さんにも口止めをすることをお約束しますわ」
 瑞樹の長い髪が、屋上を吹き抜ける風に舞った。その奥から、強い眼光を放つ瞳が宗佑をまっすぐに見つめてくる。だが、不思議と怖くはない。今の瑞樹に害意がないからだろうか。
 ――何のつもりだ!? 本気で話し合いをする気なのか?
 宗佑は、確かに話し合いで解決出来ればベストだと考えていた。だが、実際に話し合いで何とかなると思っていたわけではない。良くて宣戦布告。悪ければ、数に頼った罠を張っている可能性まで想定していたのだ。それゆえ、瑞樹の態度は予想の範疇外にあった。
「……条件はなんだ?」
 だが、もし本気ならば願ってもない提案だ。瑞樹の出す条件次第だが、場合によっては乗っても良いかも知れない。もちろん、信用出来るならばの話だが。
「こちらの条件は、里佳さんとわたくしの身の安全を保証して下さること。それだけですわ」
「身の安全? 要するに、暴力を振るわないで欲しいってことか?」
「その通りですわ。虫の良い話と思われるでしょうが、お互いに復讐などを考えずに不戦協定を結ばせて頂きたいのです。いかがでしょうか?」
 それは、別に無茶な条件ではなかった。むしろ、不戦協定ならば宗佑としては願ったり叶ったりともいえる。だが、それはちょっと七海に都合が良すぎはしないだろうか。
 いくら、一度ボロボロにされたとはいえ、相手は小柄な七海一人だ。こちらから言い出すならばともかく、瑞樹が不戦協定を持ち出す理由が宗佑には今ひとつ納得出来かねた。
「信じられませんか?」
 宗佑の表情を読んだのだろう。瑞樹がポツリと声をかけてきた。
「条件自体に文句はない。だけど、正直言って、こっちに都合が良すぎる気がする」
「いいえ。命の代償が七海さんへの不干渉ならば、むしろ安いぐらいですわ」
「命の代償!?」
「えぇ、実際に貴方はわたくしを殺そうとしたではありませんか」
 宗佑はハッとした。確かに、瑞樹の言うとおりだ。不意に、心に苦いものが拡がってゆく。
「今も、いざというときのために、里佳さんには扉の向こうで待機して頂いてますわ。わたくしの悲鳴が聞こえたら助けを呼びに行く約束になっております。でも……貴方がその気ならば、里佳さんが助けを連れて戻ってくる頃にはわたくしは冷たくなっていますわね」
 瑞樹は空恐ろしそうな口調でポツリと言って、不意に顔を背けた。
 確かに、瑞樹の言うことは事実だった。宗佑が瑞樹を本気で殺そうと思っていれば、一分も必要ないだろう。だが、それは宗佑だからこそ――憑依状態だからこそできることだ。同い年の小柄な少女に対する警戒としては、ちょっとばかり度が過ぎてはいないだろうか。
 そう考えた瞬間、宗佑はある予想に行き当たる。そして、驚きに目を見開いた。
「まさか!? 瑞樹、おまえ……」
「ですから、最初からそう申し上げていたではありませんか。貴方・・に話があると」
 荒唐無稽ともいえる予想だったが、瑞樹の返事はそれを肯定していた。だが、そうだとすれば全てのつじつまが合う。瑞樹は、最初から七海ではなく宗佑に語りかけていたのだ。
「それとも、宗佑さんとお呼びした方がよろしいですか?」
 まさか七海以外の口から、その名前で呼びかけられることがあるとは思ってもみなかった。それは、宗佑に電気ショックのような激しい衝撃をもたらす。もう、疑う余地はない。
 それは、七海と同じ能力。見えざる者を見、聞こえざる声を聞く力。瑞樹もまた、その能力を持っているのだ。宗佑には予想外だったが、あり得ない話ではない。むしろ、能力を持った人間が世界に七海一人しかいないと考えるよりは遥かに自然だ。
 実際のところ、宗佑は瑞樹と何度も視線があっていた。だが、ずっと偶然だとばかり思い込んでいたのだ。あまりの驚きに、宗佑は返事も忘れて固まってしまう。
「もっとも、わたくしは七海さんと違って、その世界に対して目を背けてきました。ですから、まさか自分自身に幽霊を憑依させて人間離れした力を引き出すことができるなんて想像だにしていませんでしたわ。もう少し、勉強をしておくべきでしたわね」
 瑞樹は、無事な右手でギプスを撫でながら、軽く自嘲ぎみな笑みを浮かべた。
わたくしは、幽霊を憑依させた七海さんの恐ろしさを身をもって体験しました。もし、七海さんに復讐の意志があれば、わたくしたちに抵抗するだけの力がないことは明白ですわ。ですから、この取引は決してそちらに有利すぎるものではありません。これで、ご納得頂けましたか?」
 驚きに立ち尽くす宗佑を見据えて、瑞樹は軽く会釈をするように頭を下げた。そして、「取引成立ですわね」と呟くとクルリと振り返り、そのまま扉の方へと歩き出す。
「まっ……待て、瑞樹!!」
 歩き出した瑞樹の右腕を、宗佑が咄嗟に掴んで呼び止めた。取引に不服があったわけではない。それとはまったく別に、宗佑には瑞樹に尋ねたいことができていたのだ。
 それは、七海のことだ。瑞樹は、おそらく七海が消えたことを知らないだろう。宗佑が表に出ているのも、あんなことがあった後だからボディーガードでもしていると思っているのかもしれない。だが、瑞樹は七海と同じ世界を見ることができる数少ない人間なのだ。
 ――瑞樹なら、七海を呼び戻すヒントになることを何か知っているかもしれない。
 今の宗佑にとって、七海を呼び戻すことは何よりも優先されることだった。だから、七海に酷いことをした瑞樹にさえも咄嗟に頼る気になったのだ。それに、結局は未遂に終わったことと、瑞樹の腕を折った罪悪感が怒りと相殺されていたことも影響していたのだろう。
 だが、七海のことだけを考えていたため、宗佑には瑞樹に対する配慮が不足していた。
「ひっ! いやっ!!」
 腕を掴まれた瑞樹は小さく悲鳴を上げ、大げさに身をよじって宗佑の手を振り払った。
 ほんの一瞬の接触だったが、瑞樹の身体は小刻みに震えていた。それは、宗佑に腕を掴まれたからではない。おそらく、それよりはるかに前から。取引を口にしていた頃から、瑞樹は目に見えない程度ではあったが、ずっと震えていたのだ。
「瑞樹!? おまえ、震えて……」
「しっ、失礼しましたわ。今の貴方に害意がないことはわかっておりましたのに……」
 右腕で身体を抱きかかえるようにしながら、瑞樹は失態を演じてしまったことに恥じ入って顔を背けた。いや、それは怯えた表情かおを相手に見られたくないという意志の表れだ。
 教室の前で会った時から、もしかしたら瑞樹は震えていたのかもしれない。里佳のように、あからさまに態度に出てはいなかったが、圧倒的な暴力で人形の首をもぐように殺されかけたトラウマは確実に少女の心に刻まれていたのだ。
「それで……用件はなんですの?」
 顔を背けながらも、瑞樹は気丈にそう尋ねてきた。『怯えている』という意外な瑞樹の一面に戸惑いつつも、宗佑はいきなり腕を掴んだことを詫びた上で用件を口にする。
「さっきは悪かった。実は……その、おまえに少し相談したいことが――」
 ガチャ、ガッシャァァン!!
 だが、その言葉は不意に鳴り響いた轟音に遮られてしまう。それは、踊り場への扉が乱暴に開け放たれた音だった。そして、何かと思うまもなく屋上に怒号が響き渡る。
「ゆ……結城ぃぃ!! 瑞樹から離れろぉぉ!!」
 開け放たれた扉の前では、里佳が必死の形相で仁王立ちしていた。だが、瑞樹とは対照的に、全身がガクガクと震えている。里佳は、今にも倒れそうなところを必死で堪えていた。
「瑞樹に……瑞樹に手を出すなぁ!! あっ、あっ、あた……あたしが…………」
 里佳はスカートのポケットから、折りたたみ式の小さなバタフライナイフを取り出した。そして、危なっかしい手つきながらパチンと刃を開く。切っ先がプルプルと震えていた。
 どうやら、里佳は先ほど瑞樹があげた悲鳴を聞きつけて飛び込んできたらしい。だが、よほど怖いのだろう。言葉はしどろもどろで、目にはうっすらと涙が浮いていた。
「お止めなさい!! わたくしなら、大丈夫ですから!」
 宗佑が里佳へ視線を向けるのとほぼ同時に、その視線を遮るように瑞樹が身体を割入れてきた。宗佑と真っ正面から向かい合いながら、右手で里佳を制する。瑞樹の表情は、にわかに険しくなっていた。鋭く強い眼光が、宗佑の視線と交差する。
「――わかってる。そいつに手を出すつもりはない。約束したもんな」
 宗佑の言葉に、瑞樹はホッとして表情を和らげた。そして、里佳の方へ向き直り、ガタガタと震える拳の上にそっと手を添えた。里佳の手からナイフがカランとこぼれ落ちる。
「扉の鍵、かけたふりをしていたんですわね?」
「ゴメン、瑞樹。でも、あたし、どうしても…………」
 里佳は、その場に崩れ落ちた。瑞樹はそっとしゃがみ込み、その肩に右腕を回して里佳を優しく抱き止める。里佳は瑞樹に縋り付くように、声を上げて泣き出した。
 その様子を見ていた宗佑は、屋上へと上がってきた時の疑問の答えを理解した。瑞樹が鍵をかけるように指示したのは、宗佑を――七海をどうこうするつもりでのことではなかった。それは、宗佑という外敵から里佳を守るための鍵だったのだ。
 結果的に、宗佑と瑞樹の利害は一致して取引は成立した。だが、七海が復讐をもくろんでいたり、宗佑が積極的に瑞樹や里佳に害意を持っていたならば、結果はまったく異なっていたはずだ。屋上は一昨日と同じように地獄絵図へと変貌し、瑞樹は下手をすれば殺されていただろう。そして、その暴力が次に向かうのは、里佳に決まり切っている。
 だから、瑞樹は里佳を屋上へと出さなかったのだ。そして、万が一の場合でも、里佳が逃げるだけの時間が稼げるように扉に鍵をかけさせた。瑞樹は、いざというときには里佳に助けを呼びに行ってもらうつもりだと言っていた。だが、瞬時に瑞樹の身体を壊せる宗佑が相手では助けなどはほとんど意味をなさない。それは、瑞樹自身もわかっていたはずだ。
 そういえば、一昨日に宗佑が暴走した時も、瑞樹は咄嗟に里佳を守ろうと飛び込んできた。その気なら里佳を見捨てて逃げることもできたはずなのに、瑞樹はそうはしなかった。
 そして今日も、もしかしたら殺されるかもしれない危険を冒してまで、瑞樹は宗佑と対峙した。震える身体を必死で押さえつけ、自分自身と里佳を守るために、綱渡りの取引を申し出たのだ。それは、決して生半可な覚悟でできるものではない。
 ――こいつも、仲間には優しいんだな。
 その優しさのせめて半分でも七海に向けてくれていればと思いながら、宗佑はポツリと心の中で呟いた。もっとも、イジメをする人間にも普通に交友関係はある。イジメられた側から見れば悪鬼のような相手でも、仲間内に見せる顔はまったく違って当たり前だ。それは、どちらかが偽物で、どちらかが本性というわけではない。
 宗佑が知る限り、瑞樹は裏表の激しいタイプだ。だが、少なくても里佳は表も裏も知った上で瑞樹に付いてきている。今も、瑞樹の命令に背いてまで鍵を開けていた。それは、瑞樹が窮地に陥ったら咄嗟に助けに入ろうと思っていたからだろう。
 宗佑は、あらためて目の前にいる二人がただの少女なのだということを痛感していた。七海へのイジメは明らかに度を超えていた。だが、宗佑による逆襲もまた度を超えていたのだろう。里佳はあからさまに七海を恐れるようになり、瑞樹もまた心に深い傷を負った。
 重い鎖を巻き付けられたような罪悪感が宗佑の心を締め付けてくる。七海を救うためにはしかたがなかったとはいえ、自分が暴走しなければもっと穏便な方法もあったはずだ。
 幸い、瑞樹はもう七海へ危害を加える気はないらしい。ならば、これ以上関わらないことがお互いにとってベストなのかもしれない。取引条件ではないが相互不干渉ということだ。七海と同じ能力を持つ瑞樹に、話を聞きたいという思いは今もある。だが、話を聞いたところで、根本的な問題を――七海の絶望を何とかできる可能性はまずあり得ないだろう。
 宗佑は大きくため息をついて、屋上を後にしようと重い足取りでトボトボと歩き出した。
「お待ち下さい」
 と、不意に背後から瑞樹の凛とした声がかけられる。宗佑は、やや躊躇って足を止めた。
わたくしに、なにか相談があるのでしょう?」
「それは……。だけど、いいのか?」
「こちらだけが一方的に話をしたのではフェアではありませんわ。それに、取引にも応じて頂けたわけですし、相談は内容次第ですが、最低でもお話しぐらいはお伺いいたします」
 そう言いながら、瑞樹はスッと立ち上がる。里佳は既に泣きやんでいた。
「でも、その前に場所を変えましょう。ここでは、落ち着いてお話し出来ませんものね」
 宗佑の方へと一歩踏み出した瑞樹の足が不意に止まる。後ろで、里佳が瑞樹のスカートの裾をギュッと掴んでいたのだ。瑞樹は苦笑いを浮かべて里佳の方へと振り返る。
「大丈夫ですわ、里佳さん。七海さんとは、もう和解いたしましたから。今後は一切、七海さんに危害を加えるようなことをしてはいけませんわ。それに、七海さんの素行についても、もちろん他言無用です。よろしいですわね?」
 里佳は僅かに挑戦的な目を宗佑に向けてくる。だが、視線が合うと不意に顔を背けた。
「……わかったよ。結城には、もう手出ししない。……これで良いんでしょ!?」
 瑞樹はそれを聞いて軽く頷いた。そして、宗佑の方へと視線を向けてくる。宗佑も、瑞樹に向かって頷いてみせる。それは、取引が完全に成立した瞬間だった。
「里佳さん、もう一つお願いがありますの。先生に、わたくしと七海さんは痛みが酷いので保健室へは行かず、直接早退したとお伝え下さいまし。よろしくお願いいたしますわ」
 瑞樹はにこやかな笑みを浮かべながら、担任への二つ目の伝言を里佳に依頼した。

「申し訳ありません。わたくしが幽霊を知覚できることは、里佳さんも知らないことですので」
 繁華街から少し離れた閑散とした商店街の一角に、瑞樹の行きつけだというすめらぎ珈琲店はあった。そこは、奇しくも宗佑と七海が初めて出会った土手の近くだ。奥まった席で向かい合わせに座りながら、瑞樹はわざわざ場所を変えてもらった理由を簡単に説明した。
 午前中にも関わらず、店にはそれなりに客が入っている。だが、決して混んでいるというわけでもない。店内に流れる落ち着いた音楽とあいまって、話し合いには最適の環境だろう。
「何になさいますか? とりあえず、わたくしのお薦めはレギュラーコーヒーですわ。マスターのオリジナルブレンドで、下手な専門店のものより遥かに深みがあって美味しいんですの」
 瑞樹に勧められるままに、宗佑もレギュラーコーヒーを注文する。そして、会話が途切れ、やや気詰まりな沈黙が二人を包み込んだ。あの時は咄嗟に瑞樹を呼び止めた宗佑だったが、実際のところ、どこから話し始めたらよいのか思いあぐねていたのだ。
 今更、瑞樹を信用しないわけではないが、話は七海のプライベートな部分に大きく食い込んでくる。それは、果たして宗佑が勝手に喋ってしまっても良いものなのだろうか。
「レギュラーコーヒー、お待たせしました」
 ふと見ると、英国紳士風のマスターがカップをテーブルに並べていた。そして、サイフォンから直接コーヒーを注いでくれる。にわかに芳しい香りが辺りに充満した。ミルクピッチャーとシュガーポットをテーブルに並べると、マスターは軽くお辞儀をして立ち去ってゆく。
 運ばれてきたコーヒーカップを睨むように俯いている宗佑とは対照的に、瑞樹は慣れた手つきで砂糖とミルクをカップに注いだ。やや砂糖は少なく、ミルクは多く。クルッとかき混ぜて、コーヒースプーンをソーサーの上にそっと置く。ほんの僅かにカチャという音がした。
 そして、瑞樹は優雅な仕草でカップを手に取り、音を立てずにコーヒーを一口啜った。
「もし相談が屋上で暴れた件でしたら、既に揉み消しましたのでご心配には及びませんわ」
 と、不意に瑞樹が口を開いた。それは、気詰まりな沈黙に耐えかねたというより、なかなか相談を切り出せない宗佑への助け船のつもりなのだろう。七海が消えたことを知らない瑞樹からすれば、不戦協定が結ばれた今では懸案事項はそれぐらいしか思いつかないのだ。
「いや、そのことじゃなくて……って、揉み消した!?」
「えぇ。やむを得ず学校側には知られてしまいましたが、先生方の間には箝口令が引かれております。それに、絹田きぬたさんたちが警察に駆け込むようなこともございませんわ」
 確かに、学校や警察から電話がかかってくるようなことはなかったし、頼子も何も知らない様子だった。だが、揉み消したとはどういうことだろうか。メインの相談内容ではなかったが気にかかっていたことなので、宗佑はとりあえず本題を一時脇へと寄せることにした。
「おまえと里佳が騒がないのはともかく、男子たちはどうしたんだ?」
「絹田さんたちには泥を被って頂きました。学校側が理解している事件内容は『絹田さんの不良グループが屋上で女子生徒三名・・・・・・に無理矢理暴行を働こうとした。その際、女子生徒側の思わぬ抵抗で双方に怪我人が出た』そういうことになっております」
「まるきり嘘じゃないか!?」
「そうですわね。でも、もともと評判が悪い不良グループの言い分と、クラス委員長を務める善良な女子生徒の言い分、学校が信じるのはどちらでしょうか?」
 瑞樹はニッコリと微笑んでコーヒーカップをソーサーの上にそっと置いた。
「それに、未遂とはいえ暴行されかけたというのは女子生徒にとっては周囲に知られたくない話ですわ。ですから、被害者が騒ぎにしないで欲しいと懇願すれば学校も口をつぐみます。むしろ、学校側も事件にならずに揉み消せるなら願ったり叶ったりではありませんか?」
「だけど、大怪我をした男子たちが警察に訴えたら……」
 瑞樹は黙ってボレロの内ポケットから一枚の紙を取り出した。大きさからいって、写真だろうか。裏返しにされていて、内容は見えない。瑞樹は、それを裏にしたままテーブルを滑らせるように差しだしてきた。どうやら、宗佑に見ろということなのだろう。
「――っ!?」
 写真を手にとって裏返した瞬間、宗佑は内容にビックリして思わず写真をパタンと置き直してしまった。そして、もう一度、今度はそっと覗き込むようにして内容を確認する。
 それは、アダルトビデオも裸足で逃げ出しそうな写真だった。ボロボロに破れたセーラー服で申し訳程度に肌を隠した少女が、二人の男から激しい陵辱を受けているのだ。顔にも局部にも修正など一切なく、泣き叫ぶ少女の涙までがハッキリと見て取れる。
 少女の顔に見覚えはなかったが、男二人は絹田と坂本さかもとで間違いないだろう。
「それは、絹田さんのご乱行の証拠です。記念か、相手への口止めかは知りませんが、こういう犯罪を犯す時に写真を残すのは諸刃の剣ですわ。これをわたくしが警察に持ち込めば、絹田さんたちはただでは済まないでしょうね。もちろん、それ一枚ではなく沢山ありますわ」
「……こんな写真、どうやって手に入れたんだ?」
「貴方が踏みつぶしたデジカメからメモリーを抜きとったんですわ。貴方はご存じなかったかもしれませんが、最近のカメラはフィルムではないのでメモリーさえ無事なら写真はいくらでも複製できますの。ちなみに、これがメモリーですわ」
 瑞樹はボレロの内ポケットから、小さなプラスチックの板を取り出した。メモリーとかいうヤツなのだろう。表面に大きなヒビが入っているが、かろうじて壊れてはいないようだ。
 と、不意に宗佑はあることを思い出して慌てた声を上げる。
「ちょっと待て!! なら、七海の写真は!?」
「心配なさらずとも、大した写真は写っていませんわ。そもそも未遂ですし、写真に写っているのも羽交い締めにされているところだけですから。服を脱がされてすらいません」
「それでも――」
「わかっております。もちろん、消去しますわ。メモリーはこの場で壊しますし、わたくしの家にある写真も破棄いたします。この程度のことで遺恨を残したくはありませんもの」
 そう言いながら、瑞樹は宗佑の見ている前でメモリーを梃子のようにテーブルに押しつけてパキッと割った。それが本物なのかどうか宗佑には知りようがなかったが、瑞樹の言う「遺恨を残したくない」というのは本音だろう。とりあえず、宗佑はホッと息をついた。
「それと、絹田さんには『過去の被害者に頼まれて、わたくしと七海さんがグルになって罠にかけた』と伝えてあります。まぁ、二度と接触してくることは無いと思いますが、何かあれば口裏を合わせておいて下さいませ」
「あぁ、わかった……って、えぇ!?」
 涼しげな瑞樹の口調に思わず頷きかけて、宗佑は驚きに声を上げる。
「待てよ!! それだと、七海が恨まれるじゃないか!?」
「絹田さんが復讐を考えるなら、七海さんではなくわたくしの方ですわ。一応首謀者ですし、なにより武道の心得がある七海さんを相手にするよりは遥かに楽ですもの」
「武道の心得?」
「そういうことにしてありますの。実際、三人の男性が抵抗すらできず、瞬く間に大怪我を負わされたわけですから説得力はありますわ」
 一通りの説明を終えて、瑞樹は再びカップを手に取った。そして、静かにコーヒーのアロマを楽しむ。その様子を眺めながらも、宗佑は僅かな引っかかりを覚えていた。それは、絹田との話において、瑞樹が自分の安全よりも七海の安全を優先していたからだ。
 と、宗佑の訝しげな表情に気が付いたのだろう。瑞樹はコーヒーを口に運ぶことなく、カップをソーサーの上に戻した。そして、渋々といった様子で口を開く。
「本当は、あまり手の内を晒すのは好きではないのですけれど……ご説明しないと、納得して頂けそうにありませんわね。もともと、揉み消しは取引の材料にするつもりでしたの」
「取引って、さっきオレと交わした不戦条約か?」
「えぇ。思いの外すんなりと受け入れて頂けたので不要になってしまったのですが、七海さんへの不干渉だけで納得して頂けない場合は、この揉み消しを上乗せさせて頂こうと思っておりました。万が一にも失敗することは許されない取引でしたから、念のためですわ」
 短い説明だったが、宗佑が納得するには充分だった。瑞樹は、七海や宗佑が取引に応じなかった場合に備えて二重三重の備えをしていたのだ。あっさりと取引を受け入れてしまった自分の単純さに苦笑するよりも、宗佑は瑞樹の用意周到さに舌を巻いてしまう。
「それに、わたくしも別に自分の安全を犠牲にしたわけではありませんわ。屋上で七海さんを襲わせようとした時に『キチンと人選した』とわたくしが言ったのを覚えていますか? 絹田さんは過去の乱行を写真に残すぐらい迂闊で、でも退学や逮捕の危険を冒してまで復讐するほど損得勘定のできない方ではありませんわ。その辺りも含めた上での人選ですの」
 瑞樹はそこまでを一気に話すと、ようやく落ち着けるとばかりに優雅にコーヒーを飲み始めた。ごく当たり前のような口調で話していたが、一連の揉み消しは想像以上に周到で完璧なものだ。それに、瑞樹自身は触れていなかったが自分自身も腕を折るという大怪我をしている。その状態で、瑞樹は全ての裏工作をやってのけたことになる。
 つい先ほど、宗佑は瑞樹と里佳はただの少女だからと罪悪感を強く感じていたのだが、瑞樹に関しては認識を少し改めても良いかもしれない。少なくとも瑞樹は、七海と同程度には得体が知れない。しかも、それは絶対に敵に回したくないと思わせる類のものだ。
 今回の取引も、瑞樹が宗佑と七海を過剰に恐れていたからこそ成り立ったといえるだろう。もしも、そうでなければ、自分では太刀打ち出来なかったかもしれない。
 そこまで考えて宗佑はハッとする。そんな瑞樹相手に、自分は単純にもあっさりと取引を受け入れてしまったばかりか、相談まで持ちかけているのだ。すでに、宗佑に強い敵意がないことはバレているだろう。もし、瑞樹が今になって取引を翻してきたとしたら――
「そんな顔をなさらなくても、今更取引を反故にするほどわたくしは莫迦ではありませんわ」
 ふと見ると、ヤレヤレといった表情で瑞樹がこちらを見つめていた。どうやら、宗佑の考えはすっかり表情に出てしまっていたらしい。宗佑は思わず曖昧な笑みを浮かべてしまう。
「第一、貴方がそれほど好戦的でないことは目を見れば分かりますわ。おそらく、先日の件はよほど腹に据えかねたのでしょう。そうでなかったら、教室の前でお会いした時点で、わたくしは一目散に逃げ出していますわ。いくらわたくしでも、死ぬのはゴメンですもの」
 瑞樹の言葉によれば、取引を持ちかけたのは既にある程度の勝算を見込んでのことだったらしい。確かに、用意周到な瑞樹ならばそれも頷ける。だが、それだけの前提を踏んでさえ、瑞樹は震えていたのだ。それほどまでに、瑞樹のトラウマは大きかったのだろう。
「それに、仮に貴方を丸め込めたとしても、七海さんの手下にはもっと質の悪そうな悪霊が何体もいるのを知ってますもの。今のうちに取引が纏まって、こちらも一安心ですわ」
 宗佑と会話を交わしているうちにだいぶ馴染んできたのだろう。やや打ち解けて、瑞樹は軽口ともいえるものを口にする。と、その中に宗佑にとって気になる言葉があった。
「七海の……手下!?」
「あぁ、貴方が特別なのはわかってますわ。恋人か何かなのでしょう? わたくしが援助交際の話を出した時の七海さんのご様子が、他の幽霊の前と明らかに違っていましたもの。もっとも、それも含めて見えない振りを続けていればわたくしも怪我をしなくて済んだのですけれど」
「そうじゃなくて、おまえの言う『七海の手下』ってなんのことだ!?」
「七海さんがいつも引き連れている幽霊たちのことですわ。七海さんとは、高校に入ってからなので、まだ二ヶ月弱の付き合いですけれど、常に誰かしら幽霊を引き連れておいでですよね。その幽霊を援助交際相手に取り憑かせて操っているのではありませんの?」
 七海の手下という表現を聞いた時点で何となくそんな気はしていた。だからこそ、聞き返してまで確認をしたのだ。ある意味では、それはやむを得ない勘違いなのかもしれない。
 瑞樹は幽霊を見ることができる。だから、七海が幽霊を引き連れているのを知っているのは当然だ。しかも、七海は援助交際の現場も目撃されたと言っていた。七海の援助交際は、全て幽霊の未練を晴らすために行われる。つまり、援助交際相手に憑依させて感覚を共有した幽霊のために、七海自身のカラダを差し出しているのだ。
 それは、見ようによっては、幽霊を利用して相手を操っているように見えたかもしれない。むしろ、幽霊を救おうとしているなどという発想は普通では出てこないだろう。ならば、七海が幽霊を手懐けて援助交際に利用して楽しんでいたと思われてもしかたがない。
 そう、しかたがないのだ。だが、宗佑には許せなかった。七海がどれほど切実に救いを求めていたかを知っているからこそ、七海がそんな人間だと思われるのは我慢ができない。
 バンッ!!
 唐突にテーブルを叩いて宗佑が立ち上がる。宗佑のカップが跳ねてガチャンと大きな音を立てた。まだ手をつけられていないコーヒーが、ソーサーから溢れてこぼれ落ちる。
 いきなり身を乗り出してきた宗佑に、瑞樹は思わず身の危険を感じた。だが、流石の瑞樹も咄嗟に逃げ出せるほどの余裕は持ち合わせていないらしい。せいぜい、手に持ったカップを取り落とさないようにするので精一杯の様子だ。瑞樹の瞳は、恐怖に見開かれていた。
「……う。……違う。……違う! そうじゃない!!」
 宗佑はフルフルと小刻みに震えながら、小さな店内に響き渡るような絶叫をあげた。静かな店内は、中学生風の少女が唐突にあげた悲鳴にも似た声に騒然とする。
 と、不意に、瑞樹の瞳に光が映り込んだ。それは、滴り落ちる水のきらめき。宗佑の双眸から、流れ落ちる涙の雫だった。瑞樹の表情が、にわかに戸惑いへと移ろってゆく。
「七海はそんなじゃない。……そんなじゃないんだ!!」
 再び大声を上げてから、宗佑はガクッと糸が切れたように崩れ落ちた。そして、突っ伏して泣き出す。それは、七海の身体に憑依している影響なのか。それとも、感情が暴走しやすい幽霊だからなのか。まるで十代の少女のように、宗佑は声を上げて泣きじゃくった。
 唐突に静寂を破った少女に店内の視線が集中する。だが、誰一人として少女を咎めようとするものはいない。一心不乱に泣き続ける少女を気遣いこそすれ、疎ましく思うような客はここには一人もいないのだ。そう、目の前で戸惑いの表情を浮かべている瑞樹も含めて。
 やがて泣き声が小さくなり嗚咽に変わった頃、瑞樹はおずおずと宗佑に言葉をかけた。
「七海さんがそんなじゃないとは……いったい、どういうことですの?」



4.

「そんな事情があったなんて、まったく知りませんでしたわ……」
 それは、決して短い話ではなかった。さらに、泣きながら話す宗佑の言葉は、お世辞にも要領を得たわかりやすいものとはいえなかった。だが、瑞樹はじっと耳を傾け続けた。理解しきれない部分は何度でも聞き返した。そして、理解が進むに連れて瑞樹の表情が徐々に凍り付いてゆく。それは、宗佑には既に自分自身で見慣れた表情――深い後悔の表情だ。
 時として荒唐無稽で、時として支離滅裂で、それでも宗佑の話は真に迫っていた。まるで、全存在をかけたかのように熱のこもった言葉は、途切れることなく想いの全てを伝えてくる。そして、やがて瑞樹は七海と宗佑の全てを理解した。
 もし、宗佑が感情的に暴走していなければ、七海のプライバシーを考えて全てを話すことはしなかっただろう。だが、今の宗佑にはそんな配慮をするだけの余裕はなかった。ただ、瑞樹に七海のことを――救いを求めて自ら消えた少女の真実を知って欲しかったのだ。
わたくしは、七海さんに酷いことをしてしまったのですね…………」
 世の中に、イジメられて当然などという人間がいるとは思わない。だが、希有な能力を悪用して奔放に遊び歩いていた少女と、一途に救いを求め苦しみ続けていた少女と、両者をイジメの対象としてみた場合に加害者が感じる罪悪感には雲泥の差があるはずだ。
 全ての真実を知ることで唐突に沸き上がった罪悪感は、強靱な瑞樹の精神力をもってしても支えかねるほどの重圧となって押し寄せてくる。瑞樹は小さく唇を震わせながら、視線を伏せていた。宗佑の――七海の顔をまともに見ることなど到底できそうにない。
 一方、宗佑も全てを語り終えたという虚脱からか、ボンヤリと俯いていた。二人とも視線をあわすこともなく黙り込んでいる。落ち着いた音楽だけが、静かに店内を流れていた。
 と、不意に、二人の間近でカチャリという小さな食器の音が聞こえた。
「どうぞ、エスプレッソコンパナです。少々甘めですが、気分が落ち着きますよ」
 見れば、マスターがいつの間にかテーブルの脇にやって来ていた。そして、宗佑と瑞樹の前に生クリームがたっぷりと入った小さなコーヒーカップを一つずつ置いてゆく。
「マスター、これは……?」
「当店からのサービスです。よろしければ、味見をなさって下さい」
 マスターは、既にすっかり冷え切ってしまったレギュラーコーヒーを手際よく片づける。宗佑がテーブルを叩いたことでこぼれてしまったコーヒーも、サッと一拭きで跡形もなく消え去った。そして、小さくお辞儀をすると来た時と同様にスッと立ち去ってゆく。
 目の前に置かれた小さなカップをしばし呆然と見つめていた瑞樹だったが、不意に小さく頷いてそっと口にした。クリームのやわらかさと甘みが、エスプレッソの熱さと苦みが、口の中で複雑に混じり合って拡がってゆく。本当に、心が落ち着いてゆくみたいだ。
「宗佑さんは……このまま、七海さんとして生きてゆくつもりはないのですか?」
 即座に「ない」と呟いて、宗佑も目の前に置かれた甘いコーヒーを少しだけ啜る。
「旨いな、このコーヒー。だけど、オレは生前ブラック派だったはずなんだ。甘さが心地良いのは、たぶん七海の身体だからだと思う。やっぱり……オレは七海じゃない」
 宗佑は、そのままコーヒーを飲み干した。ずっと喋り続けて喉も渇いていたのだろう。そんな宗佑の様子を見ていた瑞樹が、やや申し訳なさそうに口を開いた。
「相談は、七海さんを呼び戻す方法についてでしたわね。残念ながら、わたくしにはお役に立てるだけの知識も能力もありませんわ。わたくしは、その世界からずっと目を背けてきましたから」
「そうか……長い話に付き合わせて悪かったな、瑞樹」
 僅かに落胆しながらも、宗佑は礼を口にする。と、瑞樹はさらに言葉を続けてきた。
「七海さんご自身は、呼び戻されることを望んでいないのではないでしょうか?」
「確かに、それはそうかもしれないが…………」
 瑞樹はもう一度コーヒーを口にしてから、おもむろに話題を切り替えてきた。
「宗佑さんは『水を飲まない旅人』という寓話をご存じですか?」
 それはあまりに唐突で、脈絡のない話だった。だから、宗佑は思わず目を丸くしてしまう。
「昔、あるところに多くの旅人が行き交う街道がありました。その街道で、ある日一人の旅人が倒れているのを地元の農夫が発見します。旅人は何日も水を飲んでいないらしく、酷く衰弱していました。だから、農夫は近所の水飲み場へ旅人を連れてゆきます。しかし、旅人は水を飲もうとしません。宗佑さんなら、旅人にどうやって水を飲ませますか?」
「衰弱してるなら、コップか何かに汲んで渡してやればいい」
「コップを受け取った旅人は、それを投げ捨てるでしょう。他に、どうなさいます?」
「……口に直接含ませてやる?」
「吐き出してしまいます。旅人は水を飲めない・・・・のではなく、飲まない・・・・のです」
「それじゃ、どうしようもないじゃないか!?」
「えぇ、その通りですわ。水飲み場へ連れてゆくことも、コップに汲んでくることも、口に含ませてやることもできます。でも、本人が飲まないのではどうしようもありません」
 瑞樹は、カップをテーブルの上に置く。そして、まっすぐに宗佑の目を見つめて――
「宗佑さんがなさろうとしていることは、そういうことですわ」
 そう言い放った。唐突に寓話の意味が形をなし、宗佑の胸に突き刺さってくる。
 瑞樹の言うとおりだった。七海は自らの意志で人生を捨てたのだ。それは、誰かに強制されたことではない。無理矢理引き戻したところで、七海は再び消えるだけだろう。
「……だけど…………」
 否定したいのに、言葉が後に続かない。宗佑は、こぶしをギュッと握りしめて俯いた。
 頭では理解しているのに、決して心が納得しない。無理に呼び戻すことが、決して七海を救うことにならないのはわかっている。それは、宗佑のエゴだ。だが、それでも――
「それでも……オレは、七海を呼び戻したい!」
「ならば、宗佑さん自身が誰よりも美味しそうに水を飲むことですわ」
 不意に頭の上から投げかけられた言葉の意味がわからず、宗佑は思わず顔を上げた。
「それが、『水を飲まない旅人』という寓話の答えですの」
「寓話の……答え!?」
「どうやっても旅人が水を飲まないことに困り果てた農夫が最後にとった方法。それは、旅人の目の前で農夫自身が水を飲むことでした。ゴクゴクと喉を鳴らして誰よりも美味しそうに水を飲み干す姿を見た旅人は、自ら水飲み場へゆき浴びるように水を飲んだそうです」
 瑞樹はそこで一度言葉を句切り、口調を元に戻して言葉を続けた。
「直接的に呼び戻す方法は、わたくしには見当もつきません。ですが、間接的な方法ならばご提案出来ます。つまり、宗佑さんが七海さんとしての生活を目一杯楽しむことですわ」
「オレが……今の生活を楽しむ?」
「そうですわ。人生が決して苦しいだけのものではないことを、宗佑さんが身をもって証明してみせるわけです。それを見れば、七海さんも戻ってきてくれるかもしれません」
「なるほど、確かに一理あるな。……いや、むしろ良い作戦かもしれない」
 宗佑の目に、にわかに希望の光が灯る。その方法ならば無理矢理引き戻すのとは違い、根本的な解決にも繋がるはずだ。だから、七海が再び消える心配をする必要もない。決して一朝一夕でできることではないが、それは他の作戦を模索しながらでもできることだ。
 少なくとも七海の生活を壊すことはないので、やってみて損はないだろう。問題があるとすれば、今の時代に詳しくない宗佑では少々不安があるということぐらいだが……。
 と、不意に瑞樹が「宗佑さん」と呼びかけてきた。
わたくしと、もう一つ取引をいたしませんか?」
 急な申し出に、宗佑は訝しげな顔をする。だが、瑞樹は構わずに言葉を続けた。
わたくしが幽霊を知覚できるということは、両親すら知らない秘密ですの。わたくしも、普段は見えない振りをしておりますし。ですから、宗佑さんにも秘密を守って頂きたいんですわ」
「そんなことなら、別に取引なんかしなくても――」
「守って頂けるなら、微力ながら七海さんを呼び戻すお手伝いをさせて頂きますわ」
 瑞樹の言葉に、宗佑はハッと目を見開いた。それは、遠回しな援助の申し出だったのだ。
「いいのか!? 協力は助かるけど……。オレのこととか、その……怖くないのか?」
「もちろん、怖いですわ」
 瑞樹は穏やかな笑顔で、しかしハッキリと答えた。そして、指を揃えて右手を前に差し出してくる。触れてみろということなのだろう。宗佑はやや躊躇いつつ、そっと手を添えた。
 その瞬間、瑞樹の手が僅かにピクッと反応する。それは、思わず手を引きかけたが意志の力で押さえつけたような感じだった。そして、指先から徐々に震えが拡がってゆく。
 瑞樹は、やや引きつったような笑みを浮かべたまま、僅かに震える声で話し出した。
「宗佑さんのことは、信じていますわ。ですから、もう近くにいても震えるほど怖くはありません。ただ、触れられると、どうしてもあの時の光景が頭を過ぎってしまいますの」
「だったら、無理をしなくても…………」
「こんなことで贖罪になるとは思っていませんけれど、償いぐらいはさせて下さいまし。
 わたくしは気に入らない相手なら、平気で人の尊厳を踏みにじることができるようなたちの悪い女ですわ。でも、自分に唾を吐いて生きるようなマネはしたくありませんの」
 必死に震えを押さえながら、瑞樹は真っ直ぐに強い視線を宗佑へと向けてくる。
 瑞樹は、確かに七海に酷いことをした相手だ。本人の言うとおり、たちの悪い人間なのかもしれない。だが、里佳への優しさを見ても分かるように、寄せられた信頼を裏切るようなマネは絶対にしないだろう。仮に悪人だとしても、瑞樹は一本筋の通った悪人だ。
 なにより、瑞樹の震える手は、決して嘘ではない『想い』を宗佑に伝えてきていた。
「ありがとう、瑞樹。取引成立だな」
 それに、クラスメイトの名前や時間割すらわからない状態の宗佑には、事情を知る協力者は実際のところ必要不可欠な存在だ。ましてや、それが瑞樹ならば心強いことこの上ない。
 宗佑が手を離すと、瑞樹は僅かにホッとしてから深呼吸をして息を整えた。そして、右手を胸に当て、不意に改まった表情で深々とお辞儀をするように頭を下げた。
「今更ですけれど、わたくしは砂川瑞樹と申しますわ。今まで通り、瑞樹とお呼び下さい」
 突然の自己紹介に宗佑はややキョトンとしたが、考えてみれば瑞樹とは正式に名乗りあったことが一度もなかった。お互いに、七海が口にした名前を覚えて使っていただけだ。それを思い出して、宗佑も瑞樹に倣って簡単に自己紹介を返す。
「オレは日暮ひぐれ宗佑。宗佑でいい。でも、人前では七海って呼んでくれると助かる」
 と、そこまで一気に喋ってからふと気が付く。宗佑は、無意識に『日暮』という苗字を口にしていたのだ。それは、紛れもなく宗佑自身の苗字だった。たとえ宗佑自身が望まなくとも、記憶は少しずつではあるが、着実に戻りつつあるのだろう。
「今後とも、よろしくお願い致しますわ。七海さん・・・・
 瑞樹はニッコリと穏やかな笑みを浮かべて、敢えて宗佑をその名前で呼んでみせた。

 その日、瑞樹は宗佑に一つの宿題を出した。それは、七海が外の状況を――七海として生活している宗佑のことを認識しているのかどうかを調べることである。そもそも、七海が外の状況を認識していないならば、あの作戦は無意味になってしまうからだ。
 瑞樹の話によれば、七海は心を閉ざしている状態にある可能性が高いらしい。そう判断する根拠は、宗佑が憑依を解除した時に、七海の身体が自発呼吸をしていたという点だ。
「魂が抜けた身体は、呼吸も拍動も停止します。ですから、生命維持装置に頼らずに自発呼吸を維持することは不可能ですの。もし、七海さんの魂が既に身体から抜けているならば、宗佑さんが憑依を解除した時点で死んでしまうはずですわ」
 その世界から目を背けていたという割に、瑞樹はなかなかに詳しかった。もっとも、着眼点は七海とはだいぶ違う。七海は主に同調や憑依などの幽霊を扱う方法に詳しく、瑞樹は人間と魂の関係などの生死に関することに詳しかった。聞けば、瑞樹の父親は医者だという。どうやら、その関係で死の瞬間は嫌でも見慣れてしまったということなのだろう。
 魂が身体に残っているにもかかわらず、憑依を解除すれば七海の身体はピクリとも動かない。これは、瑞樹から見れば心を閉ざしている以外には考えられないというのだ。
 もっとも、宗佑としても、七海の魂がまだ身体に残っているという説は信じやすかった。何故ならば、注意深く気配を探れば、今でも僅かに七海の存在を感じられるからだ。七海が消えた当初は残り香かとも思ったが、それは微弱ながらも一定の大きさで常に存在し続けている。それに、既に魂が存在していないと考えるよりも、その説には希望があった。
 瑞樹の言うように、七海が心を閉ざしているのだとして、それはどの程度なのか。それが、さしあたっての問題だ。仮に、外の状況をまったく認識出来ない状態――完全に閉じた状態ならば、何か方法を探して少しでもこじ開けるところから始めなければならない。
 だから、瑞樹は宗佑に宿題を出したのだ。一つの身体に同居している宗佑ならば、七海の感情の変化を感じることができるかもしれない。つまり、もしも七海が外の状況に何らかの反応を示せば、宗佑にもそれが伝わる可能性が高いということだ。
 調査方法は基本的に待ち一辺倒なので、それなりに気長に構える必要があるだろう。そう思っていたが、その答えは意外にもあっさりと判明することになった。それは、パートが早く終わって帰ってきた静香が作ってくれた夕食を食べている最中のことだ。
「さぁ、できたわ。温かいうちに食べてね」
 それは一見して、少し大きめのコロッケという外見をしていた。どこかで見たような。そんな気がしたが、宗佑は何気なく箸を入れてサクッと衣を割る。と、割った断面がコロッケにしては妙にカラフルなのだ。宗佑には、その断面にハッキリとした見覚えがあった。
 ――おや!? これは、コロッケじゃなくて……。
 そう思った瞬間、宗佑の脳裏にフラッシュバックのように在りし日の光景が浮かび上がってきた。それは、恋人と二人で囲む温かな夕餉の一時。メニューは、宗佑の大好物だった特製メンチカツ――ニンジン、ピーマン、タマネギ、ニラ、椎茸をみじん切りにして炒めたものを混ぜて作った特製挽肉に衣をつけて揚げたメンチカツだ。
 そのメンチカツは、野菜をあまり食べようとしない宗佑の身体を心配した恋人が工夫して作ってくれたものだった。細かく刻んで挽肉に混ぜることで野菜の味はほとんど感じなくなる。だから、野菜嫌いの宗佑でも美味しく食べることができたのだ。
「七海、どうかした?」
 不意に静香に声を掛けられて、宗佑は自分がメンチカツを割ったところで固まってしまっていたことに気が付いた。あわてて「ゴメン、なんでもない」と返事を返して、再び箸を動かし始める。そして、メンチカツを一口で食べられる大きさに箸で切り分けた。
 おそらく、宗佑の恋人と静香は同じレシピを見てこの料理を知ったのだろう。それか、テレビか何かで紹介されていたのかもしれない。だが、何にせよ、これは嬉しい偶然だった。期待に胸を膨らませつつ、宗佑はメンチカツを一切れ持ち上げて口に放り込んだ。
「旨っ!!」
 口にものが入っているにもかかわらず、宗佑は思わず声を上げてしまう。それほどまでに、メンチカツは美味しかったのだ。それに、とても懐かしい味がする。宗佑は、自分が七海になっていることもすっかり忘れて、茶碗を抱え込んでガツガツと食べ始めた。
 箸が止まらず、皿は瞬く間に空っぽになってゆく。途中、慌てすぎたため喉につっかえてしまい胸を叩きながら味噌汁を啜ったりもした。そんな娘の様子に、静香はやや呆然として自分の食事を進めるのも忘れて見入ってしまう。そして、静香がポツリと呟いた。
「七海が、こんなに美味しそうに食べてくれるなんて何年ぶりかしら」
 その呟きを聞いた宗佑は、少しはしゃぎすぎたかとも思ったが、別に悪いことではないだろうと思い直す。七海が前に言っていた『食の悦び』ではないが、今宗佑が味わっている幸福感が少しでも七海に伝わってくれればいいと考えていた。
 と、再び静香が呟いた。今度は独り言ではなく、七海へと話しかけてきたようだ。
「七海、少し変わったわね」
「えっ!? そ……そうかな…………」
「一昨日も、喧嘩で人を殴って手に怪我をして帰ってきたりしてビックリしたわ。私、七海がそんなに荒れていたなんて、これっぽっちも知らなかった」
「あ……いや、あの怪我はたまたまで…………」
「ううん、知ろうとしなかったのね。こうやって普通に会話を交わすことでさえ、もう何年もしてなかったから。私は……七海の母親として失格ね」
 静香の言葉は七海へ話しかけているようでいて、実際には自問自答だった。宗佑がおたおたとフォローしているのも聞いているのかいないのか、静香はポツポツと言葉を続ける。
「こっちに引っ越してきた頃も、七海が苦しんでいるのは分かっていたのに私は何もしてあげられなかった。本当に……ごめんなさい。全部、私が悪いのに」
 静香の言葉に、宗佑はふと既視感デジャビュを覚えた。「全部、わたしが悪いの」確か、七海も同じようなことを言っていたはずだ。七海のせいで静香が苦労する羽目になっているのだと。
「私が健吾けんごさんと結婚したりしなかったら、七海が酷い目に遭うこともなかった……」
 静香の言葉に、宗佑の知らない名前が出てくる。だが、話の流れから大体の予想はついた。それは、おそらく七海の父親の名前だろう。そう、小学生だった七海に性的虐待を加えたという、あの父親だ。と、不意に静香が驚いたように慌てた声を上げる。
「あっ、ごめんなさい!! 私、無神経なことを……」
 それは、おそらく健吾の名前を出したことで、七海が虐待の辛い記憶を思い出してしまったのではないかと心配したのだろう。静香は、咄嗟に顔を背けて俯いてしまった。
「本当に……ごめんなさい。莫迦なお母さんで、ごめんなさい。私のせいで七海をこんなに苦しめているのに……。これじゃ、七海に恨まれても当たり前よね…………」
 俯いた静香の頬を伝って、涙が一筋流れ落ちる。それを見ていた宗佑は、静香が娘に対して何故こんなにも不器用だったのかを理解した。それは、罪悪感の連鎖だったのだ。
 七海は、自分のせいで母親が幸せを失ってしまったのだと自分を責めていた。一方で、静香もまた、自分のせいで娘を苦しめているのだと自分を責めている。七海は静香が怒っているのだと思いこみ、静香は七海に恨まれていると思い込んでいた。
 罪悪感は連鎖し、お互いの勘違いを助長する。静香は、娘に恨まれていると思うからこそ、母親らしい顔をすることができなかった。その結果として、七海は、母親が自分に関心を持っていないのだと勘違してしまう。擦れ違いは、さらなる誤解を生み、何処までも止めどもなく歯車は狂ってゆく。そして四年もの間、歯車は狂ったまま軋みながら回り続けたのだ。
 それは、宗佑が言うべき言葉ではないのかもしれない。だが、七海がここにいたとすれば、きっと同じことを言っただろう。だから、宗佑は七海の代わりに想いを口にする。
「大丈夫。母さんのこと、恨んでないよ」
 ハッとして静香は顔を上げた。僅かに戸惑い、やがて、静香の顔にも微笑みが戻ってきた。それは、長い間狂い続けてきた二つの歯車が、ようやく正しく合わさった瞬間だった。
 ドクンッ――
 その時、宗佑の体の中で不意に何かが胎動した。それは、長年止まっていた柱時計が唐突に動き出したように『ドクンッ……ドクンッ……ドクンッ』とリズムを刻み、やがて徐々に小さくなり消えてゆく。ほんの一瞬のことだったが、宗佑には胎動の正体が分かっていた。
 それは、七海の魂が外からの刺激に反応を示したのだ。おそらくは、静香の本当の気持ちに感情が揺さぶられたのだろう。消える寸前でさえ、母親のことを気に掛けていた七海だ。これは、少なからず強い感情刺激として七海の魂を揺さぶったはずだ。
 あの後、静香とは夕食が終わるまであまり言葉は交わさなかった。せっかくだからと思い、宗佑も色々と会話を試みたが、他愛のないテレビの話題が精一杯だった。もっとも、四年もろくに会話がなかったのだ。すぐに母娘おやこらしくというのも無茶な話だろう。
 七海の部屋で窓辺に座って外を眺めながら、宗佑は、七海が帰ってくる時までにはもっと良好な母娘おやこ関係にしておいてやりたいと考えていた。きっと、七海も喜ぶはずだ。
 七海の魂が身体の中に残っていることは、先ほどの胎動で証明された。それに、外の様子がまったく分からないほど心を閉ざしているわけでもなさそうだ。だから、七海を呼び戻すことはきっとできる。明滅する電灯を眺めながら、宗佑は自分に強く言い聞かせた。
 今日明日でどうにかなる問題でないことは分かっている。だから、一週間でも二週間でも、場合によっては数ヶ月かかっても構わない。必ず七海を呼び戻す。それまでは、何があっても自分が七海の生活と身体を守ってゆこう。宗佑は、大きく頷いて決意を新たにする。
「七海、お風呂が沸いたわよ! 身体を洗ってあげるからいらっしゃい!」
「あっ、はーい! いま行く!」
 お風呂の方から、静香の声が聞こえてくる。宗佑は元気に返事をして立ち上がった。
 と、次の瞬間、唐突に背筋が凍りつくようなゾクッとした悪寒が走った。そして、ねっとりとした嫌な気配が体の周りにまとわりついてくる。気配は、窓の外から流れ込んでくるみたいだ。心臓を鷲掴みにされたように、冷たい汗が背筋を伝わり落ちてゆく。
 ――これはっ!? あの時に……似ている?
 それは、宗佑が七海と出会った日に遭遇した悪霊――生ける屍ゾンビが闇の中から現れ出るときによく似ていた。もしかすると、近くにたちの悪い悪霊か何かがいるのだろうか。
 だが、この気配はもっと生々しい。生ける屍ゾンビをも凌駕するような、強い生理的な嫌悪感を感じるのだ。思わず吐き気を催してしまい、宗佑はウッと口を押さえる。いや、違う。宗佑が感じているのではなく、嫌悪感と吐き気は七海の魂から直接に流れ込んできていた。
 ――七海っ!? 七海が……あの七海が、怯えているのか!?
 宗佑は気配の強い窓の外を睨みながら、ピクリとも動けない。何が起こっているのか分からないというのもあるが、もし悪霊などが近くにいるとして下手に動いて鉢合わせになると余計に不味いからだ。窓の外は、相変わらず電灯がジジッと音を立てて明滅している。
 ブロロロロッ――
 神経を張り詰めていたからだろう。やけにハッキリと、窓の下を走り抜けてゆく車の音が聞こえた。と、不意に嫌な気配が薄れ始める。それは、始まった時と同じように唐突に潮が引くように消えていった。にわかにホッとして、宗佑は思わず畳の上にへたり込んでしまう。
「七海、まだなのー!?」
 静香のやや焦れたような声が、日常の平穏が戻ってきたことを告げていた。

第四話 あま岩戸いわと

1.

「悪霊の対処法……ですか?」
 藤ヶ丘ふじがおか高校の中庭には、創立より歴史の古い大木がある。その木陰で、瑞樹みずきは膝の上にお弁当を広げて器用に片手で食べながら、やや訝しげな表情を浮かべた。隣には、行儀悪くアグラをかいた七海ななみが――宗佑そうすけが座っている。宗佑の手には、牛乳パックが握られていた。
 先ほどから食べていた菓子パンを流し込むように牛乳を飲みながら、宗佑は昨晩の出来事を瑞樹に説明していた。すでに、七海が外の状況を認識しているらしいことは説明し終えてある。今は、その後に起こった異様な気配についての対処法を瑞樹に相談しているところだった。
「無視すればよろしいではありませんか。別に、さしあたって実害はありませんわ」
 瑞樹は、悪霊など気にするほどのモノではないとでも言うように、そう返事をする。
「確かに気味の悪い外見をしておりますし、近くを通ればゾッとするような気配を振りまいたりはしますけれど、それだけですわ。憑依しなければ、悪霊といえど物理的に何かをすることができないのは宗佑さんもご存じでしょう?」
「まぁ、そりゃ分かってるけど……」
 それは、以前に七海から聞いた話とも一致するし、宗佑の実感とも一致する。だが一方で、昨晩感じた気配は到底無視して済むようなレベルだとは思えないのも事実だ。
「第一、悪霊がそんなに危険ならば、もっと一般的に存在が認知されているはずですわ」
「う〜ん、それもそうか…………」
 昨夜、七海の魂が怯えていると感じたのは、宗佑の思い過ごしだったのだろうか。今考えてみれば、何となくそんな気もしてくる。それに、悪霊が危険ならば、消える前に七海が宗佑に警告をしてくれたはずだ。そんなことを考えていると、瑞樹が話題を変えてきた。
「基本的に、悪霊よりも生きている人間の方が危険ですわ。せっかくですので、わたくしたちの能力を応用した危険人物の判別方法を教えて差し上げましょうか?」
「幽霊を見る能力で危険人物の特定ができるのか?」
「えぇ、そうですわ。幽霊というのは、結局魂のことですの。魂は、当たり前ですけれど人間の身体にも入っております。わたくしたちが知覚するのは魂自体ですから、人間の気配についても普通の人よりずっと強く感じることができますわ。たとえば、こんな風に――」
 そう言いながら、瑞樹はうっすらとした怖い笑みを浮かべた。と、不意に、宗佑は手足が凍り付いたかと思うような激しい悪寒に襲われる。理屈抜きの危機感が沸き上がり、宗佑は思わず後ろに一メートル近く飛びすさった。そして、瑞樹に対して身構えた瞬間――
「と、まぁ、このように相手の悪意を感じることができるわけですわ」
 悪寒は、現れた時と同じく唐突に綺麗サッパリと消え去っていた。見れば、瑞樹は穏やかな笑みを浮かべて水筒のお茶を飲んでいる。今のは、いったい何だったのだろうか。
「いわゆる、殺気ですわ。わたくしが放った悪意を七海さんの知覚力が捉えた。つまり、そういうことですの。百聞は一見に如かず。危険人物の判別方法、お分かりいただけましたか?」
 瑞樹は食べ終えた弁当箱を片手で器用に片づけながら、にこやかに話している。瑞樹の悪い冗談のおかげで、言わんとしているところは理解できた。だが、お茶を飲む片手間に殺気を放てる女子高生というのはいかがなものかと、宗佑は思わず複雑な顔をしてしまう。
「基本的に、嫌な気配がする相手には近づかないことですわ。比較的安全なところでは電車の痴漢から、危険なところでは通り魔まで、すべからく独特で嫌な気配を持っておりますから。肉体を持っている分、悪意を持った人間は悪霊よりも遥かにたちが悪いものですわ」
 瑞樹の話は確かにもっともだった。だが、その言葉に従うならば、宗佑は今すぐこの場から一目散に逃げ出さなくてはならない。なぜなら、宗佑が知る限り、もっともたちの悪い気配を放つことができる人間は当の瑞樹自身に他ならないからだ。
 と、ふと見ると弁当箱を片づけ終えた瑞樹は、ボレロの内ポケットから何か小さな機械を取り出した。七海は持っていなかったので宗佑は知らなかったが、それは携帯電話だ。瑞樹は携帯を操作して、里佳りかのアドレスに発信する。ややあって、電話が繋がった。
「里佳さん。今、何処ですの? ……駅前のゲームセンター!? ダメですわ、キチンと学校にいらっしゃらないと。ところで、午後は……えぇ、そうですか。でしたら、放課後に校門のところでお待ちしておりますわ。では、失礼いたします」
 瑞樹が実際に喋っているところを見て、宗佑は初めてそれが電話なのだと理解する。宗佑の知っている最新式のコードレス電話よりも、それは遥かに小さかった。これも、時代の進歩なのだろう。そんなことを思っていると、電話を切った瑞樹がこちらへと向き直った。
「里佳さんは、今日は休まれるそうです。ですので、放課後に校門前で待ち合わせの約束を取り付けましたわ。学校が終わったら、みんなで繁華街をブラブラといたしましょう」
「みんな……って、もしかしてオレも!?」
「『も』ではなく、宗佑さん『が』主役ですわ。七海さんを呼び戻すために、今の生活を楽しむことに決めたのでしょう? 友達と放課後に遊ぶ。基本中の基本ですわ」
「あぁ、なるほど。でも、里佳が来るわけかぁ……」
「人数は多い方が楽しいですわ。それに、事情の説明はできませんけど里佳さんにも協力して頂けると助かりますでしょう。変なわだかまりは、早めに取り除くのがお互いのためですわ。それには、一緒に遊ぶのが何よりの近道かと思いますし」
「だったら、あたしも行っていい?」
「えぇ、大歓迎です……わ?」
 ごく自然に対応をしかけて、瑞樹は不意にハッとして「きゃあ!」と悲鳴を上げた。ほぼ同時に、宗佑の方からも「うわっ!」という声が上がる。なぜなら、宗佑と瑞樹の間に割り込むように、背後から大きな丸眼鏡をかけた少女がヒョコッと顔を突き出していたからだ。
「よっ、よ、よ、頼子よりこさん!? いったい、いつからそこに居たんですの!?」
「ん〜、ついさっき」
 ちょっと珍しいぐらい狼狽えた瑞樹に、頼子は平然とあやふやな返事を返す。
「みんなで遊びに行く相談をしてたんでしょ。あたしも、行きたいなぁ」
 宗佑と瑞樹は咄嗟に目配せを交わしあった。何処まで話を聞かれたか分からないが、下手に拒否して色々と突っ込まれるよりは、素直に許可して様子を探った方が得策だ。
「遊びに行く人数は多い方が楽しいですわ。ねぇ、七海さん・・・・
「そ、そうだね。オ……わたしも、頼子……さんと遊びたいな。ねぇ、瑞樹……さん」
「わぁい、ありがとー。じゃあ放課後に校門前だね!」
 どうやら、頼子は少なくても「放課後に校門前で待ち合わせ」の辺りからは聞いていたようだ。だとすれば、宗佑が『オレ』と言っていたことも、瑞樹が『宗佑さん』と呼びかけていたことも聞いているはずだった。だが、それを気にした素振りは何処にもない。
 おそらく、頼子は大雑把なのだろう。瑞樹は、とりあえずそう結論づけて自分を納得させた。そして、頼子を体よく追っ払いにかかる。宗佑と二人で話したい用件ができたからだ。
「ところで頼子さん、午後にある英語の訳は終わっていますか? まだなら、わたくしのノートを写して構いませんわ。机の中にありますから、どうぞ自由にご覧になって下さいませ」
「いいの!? いつもありがと、瑞樹ちゃん。じゃあ、早速借りて写してくるね」
 瑞樹の思惑通り、頼子はお礼を言いながら二人に大きく手を振って走り去っていった。それを、やや引きつった笑みで見送って、ようやく瑞樹はホッと息をつく。
「ふぅ、油断しましたわ。ついさきほど気配の話をしたばかりですのに、頼子さんの気配にはまったく気が付きませんでした。わたくしもまだまだですわね」
「頼子はアレで妙に気配が薄いからな。前も、いきなり背後にいてビックリさせられたし」
「まぁ、頼子さんの件は別に構いませんわ。実際のところ、人数が多い方が楽しいのは事実ですから。むしろ、問題は宗佑さんの咄嗟の対応力の方ですわね」
 ジッと見つめてくる瑞樹の視線に、宗佑は「えっ、オレ!?」と疑問顔を浮かべる。
「宗佑さん、いっそのこと七海さんの口まねは止めて普段の口調で通しませんか? 先ほどのような咄嗟の時に、あんなにしどろもどろでは余計に怪しまれてしまいますわ」
 瑞樹と二人で会話をしている時はともかく、それ以外では宗佑は常に七海の口まねを心がけていた。だが、瑞樹から言わせるとそれも多分に不自然さを含んでいるそうだ。さらに、慌てた時などに地が透けて見えてしまうのも問題が大きい。
 幸いと言うべきか、七海には基本的に親しい友人は居なかった。さらに、元々あまり喋らないため、七海の口調を知っている人間自体が相当に少ないのだ。おそらく、多少なりと七海の口調を知っている人間は学校では瑞樹と里佳、あとは頼子だけだろう。
 瑞樹は事情を全て知っているし、里佳にしても七海が猫を被っていたと思い込んでいるらしいので口調が変わる程度は問題ない。宗佑としては、以前から何くれと七海に話しかけていたらしい頼子が気がかりだったが、先ほどの様子を見る限りでは大丈夫そうだ。
「う〜ん、まぁ、オレとしても地で良いなら楽だけど……」
「なら、そうなさいまし。最近は一人称が『オレ』という女の子も居ないわけではありませんから。それに、口調をいちいち気にしていては生活を楽しめませんわ」
 結局、宗佑は瑞樹の提案を受け入れて、母親の――静香しずかの前以外では地の口調を通すことに決めた。もし、それで問題があるようならば、後から変えても間に合うだろう。
 と、口調の話が一段落したところで、ちょうど昼休み終了五分前の予鈴が鳴った。宗佑は空になった牛乳パックをクシャと握りつぶして、近くにあるゴミ箱に放り込む。そして、教室へ戻ろうと立ち上がり、瑞樹と連れだって歩き出した。
「ところで、遊びに行く場所に何か希望はございますか?」
「別に何処でもいいけど、あんまりお金のかからないところだと助かるな」
「あら、昨日お返しした四万円はどうされたのですか?」
 宗佑の答えに、瑞樹は僅かに目を丸くする。昨日の四万円とは、七海が屋上で襲われた時に落として回収し忘れていたお金のことだ。宗佑自身すっかり忘れていたのだが、瑞樹が拾っておいてくれたらしい。昨日、すめらぎ珈琲店を出る前に渡されたのだ。だが――
「あれは……オレが使っていいようなお金じゃないから」
「七海さんを呼び戻すためなのですから、気にしすぎだと思いますけれど」
 それは、七海が幽霊を成仏させるために身を削った証だった。それゆえ、宗佑としてはおいそれと使う気には到底なれないのだ。もっとも、瑞樹としても宗佑のこの反応は想像の範囲内にあった。だから、小さくため息をついてから用意しておいた言葉を口にする。
「仕方ありませんわ。でしたら、遊びに関してはわたくしがスポンサーになって差し上げます」
「スポンサー!? だけど……」
「これも、お詫びの一環ですわ。それに、わたくしもあの時の十五万円を回収いたしましたから。あそこで使ってしまったと思えば痛くも痒くもありません。七海さんの四万円は、本当に必要になる時まで取っておいて下さいまし。さぁ、そろそろ授業が始まりますわ」
 宗佑の返事を待たず、瑞樹は少しだけ歩調を早める。瑞樹は、あれでなかなか配慮が上手だった。宗佑の心理的な負担が少なくなるように、色々と言葉や態度を選んでくれる。宗佑は、少し申し訳なさを感じたが、今は瑞樹の厚意に甘えさせてもらうことにした。

「なに、ここ!? サイアク。頭がイカレてるんじゃないの!?」
 亞々麺アーメンに入るなり、里佳はゲッという顔をして悪態をついた。もっとも、里佳の反応は至極真っ当なものだ。別に、それが七海の――宗佑のお薦めだからわざと挑発的な態度を取っているわけではない。実際、宗佑自身も最初に来た時は似たようなことを思ったものだ。
「確かに少々個性的なインテリアですけど、お客さんはそれなりに入っているみたいですわ。ですので、味の方はそれほど心配しなくても大丈夫そうですわね」
 十字架が混ざった乾燥ニンニクの束を弄びながら、瑞樹は店内を見渡して感想を述べる。この異常な内装を前に、客の入りを気にすることができるあたりが実に瑞樹らしい。
 と、ふと見ると一番最初に店へ飛び込んだはずの頼子の姿が見えなかった。何処に行ったのだろうか。宗佑が頼子を捜して視線を彷徨わせていると、奥のボックス席からヒョッコリと大きな丸眼鏡の顔が現れた。そして、宗佑たちに向かって手を振ってくる。
「七海ちゃん、瑞樹ちゃん、里佳ちゃん、席取ったよー」
 頼子は、内装を気にするどころか、既に席を取って待っていたらしい。瑞樹は、頼子に向かって軽く頷くと当たり前のようにボックス席の方へと歩き出した。だが、里佳は天井のフレスコ画を見上げたまま、呆然として立ち尽くしてしまっている。
 まぁ、これが普通だよな。そう思いつつ、宗佑は軽く里佳を促してフォローを入れる。
「店の内装はともかく、味はオレが保証するからさ」
「あんたの保証じゃねぇ。まぁ、最初はなっから期待はしてないけど……」
 里佳の悪態に近い軽口を聞きながら、宗佑は先ほどまでと同じ苦笑いを浮かべた。
 宗佑たち四人は、つい先ほどまで繁華街をブラブラとしながらウィンドショッピングを楽しんでいたのだ。もっとも、本気で楽しんでいたのは頼子一人だろう。表面上は瑞樹も楽しんでいる様子だったが、実際のところ宗佑のサポートでそれどころではなかったはずだ。
 ただ、間違いなく一番可哀想なのは無理矢理付き合わされた里佳だろう。二時間ほど前に校門で待ち合わせた時も、宗佑が一緒だと知った里佳は即座に回れ右で帰ろうとしたぐらいだ。今、ここに里佳がいるのはひとえに瑞樹との信頼関係のたまものに違いない。
 しかも、ウィンドショッピングに慣れない宗佑同様、里佳も今ひとつ乗り気ではないので、何故か何処へ行っても二人がペアになってしまうのだ。瑞樹と頼子がワイワイと楽しんでいるのを横目に、宗佑と里佳は常に微妙な空気に包まれていた。思えば、二人の和解を図ろうとした瑞樹が、わざとペアになるようにし向けていたような気もする。
 だが、そのおかげか宗佑と里佳はだいぶ会話を交わすようになっていた。もっとも、会話の八割以上は里佳の悪態と宗佑のフォローの連続だったわけだが……。
 当然の帰結として、二時間も経った頃には宗佑も里佳も心労でかなり疲弊していた。そこに、絶妙のタイミングで「お腹空いた」と頼子から声が上がったのだ。その時、宗佑が、たまたま近くにあることを思い出した店がここ『切支丹きりしたんラーメン本舗ほんぽ 亞々麺アーメン』だった。
「へい、らっしゃい! ご注文をどうぞ!」
 宗佑たち四人が座っているボックス席に、ギザギザ襟巻きの店員が注文を取りに来る。宗佑は一度見ているので平気だったが、その異様な風体に里佳が再びギョッとした。だが、自分だけが驚いているのが悔しいのだろう。里佳は努めて平静を装って注文を口にする。
「あ……あたし、担々麺ね」
「ありません!」
 しかし、店員は即座に注文を否定した。平静はぶち壊され、里佳は「はぁ!?」と目を丸くする。一瞬固まってから、里佳はカウンター席を指差しながら店員に激しく詰め寄った。
「なんでよ!? あそこのオヤジが喰ってんじゃん!!」
「お客様、あれは当店自慢の地獄ゲヘナラーメンでございます! 担々麺ではありません!」
 店員は一歩も引かずに、むしろ押し返してくる。真っ直ぐに見つめてくる目が妙に怖い。瑞樹ならばともかく、里佳ではこのあたりが限界だろう。案の定、押し負けた里佳は目を逸らした。そして、悪態をつきながらも店員の指示に従った注文を口にする。
「うぐっ……。はいはい、地獄ゲヘナラーメン、地獄ゲヘナラーメン。これでいい!?」
「まいど! 地獄ゲヘナラーメン二丁・・入ります!」
 天然なのか故意なのか微妙に計りかねる対応に「一つよ!!」と即座に突っ込みを入れつつ、里佳は大きくため息をついた。悪いとは思ったが、宗佑は思わず小さく笑ってしまう。
「じゃあ、オレは天国パライソラーメン叉焼チャーシューのせ」
「では、わたくし天国パライソラーメンをお願いいたしますわ」
「え〜と、あたしは……ん〜。じゃあ、楽園エデンラーメン全部のせ!」
 里佳の注文を参考に、残りの三人も無難に注文を終える。疲れてテーブルに突っ伏してしまった里佳は、結局ラーメンが運ばれてくるまで起きあがることはなかった。
 しばらくして、湯気を上げる熱々のラーメンが四人のテーブルに運ばれてきた。と、不意に頼子が通学カバンからマヨネーズの徳用マグナムボトルを取り出す。そして、おもむろにそれをラーメンの中に絞り入れ始めた。楽園はみるみる間に失楽園へと変貌してゆく。
「あら、頼子さんダメですわ。初めてのお店では、まずは香辛料を入れずにスープを頂いて、お店の味を聞くのがマナーですの。それが、職人のこだわりに対する礼儀ですわ」
「そうなの? でも、もう入れちゃった。エヘヘ……」
 礼儀もなにも、そのマヨネーズ量は、既にこだわりの全否定だろう。そんなことを思いながらも、宗佑は何となく楽しい気分を味わっていた。まさか、この四人で一緒に食事をすることになるとはこれっぽっちも思っていなかったが、なかなかどうして悪くないものだ。
 少々たちが悪いということを除けば、瑞樹は基本的に面倒見が良い。里佳も、なんだかんだで口は減らないが根は悪くなさそうだ。頼子にいたっては、少々謎な味覚をしているが、以前から七海のことを友達として扱ってくれていた。そうだ、これは友達関係に近い。
 上手くすれば、それは七海が戻ってきた後の助けにもなるかもしれない。宗佑と七海が入れ替わったとしても、全ての事情を知る瑞樹がいるので関係の維持は可能だろう。七海の瑞樹に対する感情が多少気がかりだが、宗佑の知る限りでは恨んでいたりはしなかったはずだ。
 ――七海の居場所はオレが作ってやるからな。いつでも、戻って来いよ。
 心の中で七海に語りかけながら、宗佑は叉焼チャーシューと麺をまとめて口に放り込んだ。そして、レンゲでスープを啜る。あれからまだ一週間も経っていないのに、七海と一緒にラーメンを食べた思い出が、僅かな痛みと懐かしさを伴って宗佑の脳裏を過ぎっていった。



2.

 四人で一緒にラーメンを食べた日から、宗佑たちはほぼ毎日遊び歩いていた。メンバーは主に宗佑、瑞樹、頼子の三人が固定で、里佳も割とよく顔を出した。いつの間にか交じっていた頼子はともかく、里佳もあれで意外と付き合いが良いタイプだったらしい。
 街ブラはもちろん、カラオケで騒いだり、ファミレスでお喋りをしてみたり、里佳は渋ったが亞々麺アーメンにも二回ほど行った。最初は色々と戸惑うことも多かった宗佑だが、慣れればそれはそれなりに楽しい時間だった。瑞樹のおかげで学校生活の方も概ね問題はない。
 そんな日々を送りながら、瞬く間に一週間ほどが経過していた。瑞樹の左腕のギプスはまだ取れないが、七海の手に巻かれていた包帯は既に数枚の絆創膏に変わっている。
 七海と静香の歯車が噛み合った日のように、ハッキリとした魂の鼓動こそ無かったものの、七海の存在を少しだけ強く感じられる瞬間はあれからも何度かあった。大体において、それは宗佑が楽しいと思っている時が多かったが、そうではない場合もある。ただ、何にせよ、七海が見ているかもしれないという思いは宗佑にとって強い励みになっていた。
 だから、宗佑は瑞樹の協力を得ながら、目一杯に七海としての――女子高生の生活を楽しんでいた。最初からある程度の長期戦は覚悟しているので、変に焦ることは無い。むろん、まったく焦りがないわけではないが、そこは瑞樹が良い支えになっていた。
 七海がいない今では、瑞樹は、一緒に暮らしている静香でさえ知らない宗佑の存在を世界で唯一認識している人間なのだ。一方で瑞樹にとっても、宗佑は、実の両親でさえ知らない幽霊を知覚できるという秘密を世界で唯一共有する相手だった。
 お互いにとって、世界でたった一人の存在であること。それは、二人の最悪に近い出会いを考慮しても打ち解けるには十分な理由だろう。たった一週間程度という短い時間だったが、しかし、今の二人は誰が見ても本物の友達同士に見えるほどに打ち解けていた。
「大丈夫ですの、七海さん? 顔色があまりよろしくありませんわ」
 皇珈琲店のボックス席で、マスター謹製のレギュラーコーヒーを楽しみながら、瑞樹はやや心配そうに、正面に座っている宗佑の顔を覗き込んでいる。今日の瑞樹は、僅かにフリルの付いた上品な白いブラウスと、丈の長い水色のフレアスカートを身に纏っていた。左腕のギプスを差し引いても、それは瑞樹のお嬢様然とした美しさを良く引き出している。
「もう、ダメかも……。口から魂が出そう…………」
 瑞樹の格好とは対照的に、いつも通りの黒いトレーナーにスカートを身につけた宗佑は、今にも死にそうな青白い顔でアイスカフェオレをストローで啜っていた。
 見れば、瑞樹の隣では縞模様のタンクトップにローライズジーンズの里佳が、お腹を抱えて大笑いしている。高校一年生にしては少々背伸びした印象のあるヘソ出しルックだが、わりと身長の高い里佳にはそれなりに似合っていた。里佳の目の前にはエスプレッソの小さなカップが置かれているが、今飲んだら間違いなく笑って吹き出してしまうだろう。
「里佳さん、そんなに笑っては七海さんが可哀想ですわ」
「だってさぁ、あの結城ゆうきが映画程度で『キャー』だよ? ププッ、クックックッ――」
 宗佑の隣では、頼子が、瑞樹お薦めのレギュラーコーヒーを何故か「ひと味足りないな〜」と首をかしげながら飲んでいた。その姿は赤いリボンが所々についた少々子供っぽいデザインのワンピース姿だったが、大きな丸眼鏡とあいまって可愛らしい印象をうける。
「七海ちゃん、ゴメンねー。ホラーが苦手だって知らなかったから」
「オレも……自分でも知らなかった…………」
 今日は休日なので、四人は制服姿ではない。いつも通りの真っ黒な服装をしている宗佑も含めて、それぞれの個性が良く表れた私服姿は華やかで見た目にも楽しげだった。

 つい先ほどまで、四人は映画を見ていた。タイトルは『祇怨ぎおん』。白塗りの舞妓が上げる擬音めいた声が怖いと、もっぱら評判の和製ホラー映画だ。先日、頼子が商店街のスーパーで割り引きチケットを貰ったので、休日にみんなで見に行こうという話になっていたのだ。
 本物の悪霊ゾンビを知っている宗佑は、内心で所詮は作り物だと高を括っていた。だが、実際に見て死ぬほど怖い思いをさせられることになる。それは、宗佑が生きていた時代とは映像技術が段違いに進歩していたからだ。本物よりも怖い幽霊、的確に人間心理を突いた恐怖演出、さらには映画館の大音響、それらがあいまって宗佑は文字通り完全に魂消たまげてしまった。
 上映開始十五分で宗佑の顔は既に蒼白になり、里佳が揶揄した「キャー」はないにせよ、実際に「うわぁ」や「ひぃ」という悲鳴を上げた回数は数え切れない。宗佑は、後半ほとんど目を閉じていたのだが、それでも怖い立体音響からは逃れようがなかった。
 そして、約二時間の上映時間が終わり館内が明るくなった時、瑞樹たちはマジ泣きをしている宗佑を発見することになる。瑞樹も、上映中に宗佑が悲鳴を上げていることには気が付いていたが、てっきり楽しんでいるものだとばかり思い込んでいたのだ。
「みっ、瑞樹ぃ…………」
 腰が抜けてしまったのか、椅子から立ち上がれなくなっていた宗佑は、瑞樹に縋るような目を向けて情けない声を上げた。瑞樹は片手を額に当ててアチャーといった仕草を見せた後で、里佳に、宗佑に肩を貸して映画館から連れ出してあげるように頼んでくれた。
 瑞樹が自分で肩を貸さなかったのは、いまだに宗佑に触れられるのが怖いからだ。既に、危険はないと頭では分かっているのだが、トラウマはなかなかに根深いものだった。もちろん、表向きは左腕を怪我しているから里佳にお願いしたということにしている。
 午後最初の上映を見ていたので、映画館を出たのは三時過ぎだった。四人は本来、映画の後は駅前の繁華街へ出て遊ぶ予定だったのだが、宗佑がこんな状態だったので、とりあえず映画館と同じ商店街にある皇珈琲店で一休みをすることにしたのだ。
「でもさぁ、オバケが怖いなんて、結城の意外な弱点発見って感じ? ププッ――」
 丸出しのおヘソを手で押さえながら、里佳は相変わらずヒィヒィと笑っていた。そろそろ、酸欠で顔が赤くなり始めている。本人も苦しいだろうと思うのだが、宗佑にお腹を殴られた恨みをチマチマと返しているつもりなのか、里佳はそれでも笑いやめる気配がない。
 普段なら、宗佑も言い返すところだが、流石にここまで肩を貸してもらった恩があるので今日のところはアイスカフェオレを啜りながら黙っていた。既に顔色はだいぶ良い。
「ですから、里佳さん、そのぐらいにしてあげてくださいませ。誰にでも、苦手なものの一つや二つぐらいありますわ。オバケが怖いなんて可愛らしいではありませんか」
 コーヒーのアロマを楽しみながら、瑞樹はヤレヤレといった調子でフォローする。もっとも、この程度は既にいつもの光景なのだ。喧嘩するほど仲が良いという言葉もある。
 と、不意に、頼子が脈絡のないことをポツリと呟いた。
「七海ちゃんって意外に力が強いよね」
 いつもながら、頼子の言葉は唐突でよく分からない。宗佑が、そう思っていると――
「だって、七海ちゃん、上映中ずっとあたしの手を握りしめてるんだもん。怖いシーンとかだとギューと手に力が入って、ちょっぴり痛かったんだよぉ」
 と頼子が言葉を続けてきた。その内容に宗佑と瑞樹は思わず目を見合わせてしまう。
「七海さん!? もしかして、頼子さんの手を握ったんですの?」
「ちょ、ちょっと待て、瑞樹! オレは頼子の手なんか握ってないぞ!?」
 僅かに睨むような瑞樹に、宗佑はたじろぎつつ言い訳をする。会話だけを聞いていれば、痴話喧嘩の言い訳みたいに見えるが、これはそんな安全な話ではない。
 現在、七海の身体は常に憑依状態にある。そのため、宗佑が感情的に高ぶるとリミッターが外れてしまうのだ。つまり、怖くてパニック寸前の宗佑がギュッと握りしめたりしたら、痛かったどころではすまない。下手をすれば骨折ものだ。
 むろん、宗佑自身もそれが分かっているので、死ぬほど怖がりながらも、周囲に迷惑をかけないように必死で我慢していたのだ。だから、頼子の手を握ったはずがない。
「えぇー!? じゃあ、あたしの右手を握っていたのって誰? もしかして本物のオバケ!?」
 微妙な視線を交わしあう二人の隣で、頼子が少し怯えたような声を上げる。と、その言葉を聞いた瞬間、宗佑はふと気が付いた。そして、瑞樹に向かって口を開く。
「瑞樹、頼子が握られたのは右手。で、オレは頼子の左隣。あり得ないだろ?」
 宗佑の言葉に、瑞樹は「あらっ?」という顔をする。そして、ポンッと手を叩いた。映画館での席順は左から順に宗佑、頼子、里佳、瑞樹だったはずだ。つまり――
「あっ、あたしは、その……頼子が怖いんじゃないかと思って…………」
 宗佑のジト目と、瑞樹の視線に晒されて、里佳は思わずゴニョゴニョと口ごもった。思えば先ほどから、耳障りなヒィヒィ笑いが聞こえなくなっていたような気がする。
「そっかぁー、あれは里佳ちゃんだったんだ。あたしのために手を握っていてくれたの?」
「そうそう、頼子って……ほら、怖がりそうだろ。だから…………」
「ありがとー。里佳ちゃん、優しいね」
 しどろもどろな里佳の言葉に説得力はない。だが、頼子だけは何故か納得していた。
「里佳……おまえも、結局、人のこと笑えないじゃないか…………」
 アイスカフェオレのグラスを揺すりながら、宗佑が小さくぼやいた。氷同士がぶつかり合うカランという音が小さく響いて、辺りに微妙な空気が蔓延する。見れば、里佳は苦笑いを浮かべて目を逸らしていた。と、不意に逃げるように里佳が話題を切り替えてくる。
「と、ところでさぁ、ホラー映画なんかより怖い実話があるんだけど聞きたくない?」
 里佳の話題転換は、明らかに場の空気が自分に不利になったからだろう。もっとも、話を遮ってまで里佳の怖がりを追求する気は宗佑にはない。と、頼子からは素直に「聞きたーい」と声が上がった。それに気を取り直して、里佳は身を乗り出して話を始める。
「『蒼の王子』って知ってるでしょ? あいつがさぁ、今、この街に来てるらしいのよ」
「えぇ!? うっそー!? 見てみたーい」
「見てみたいではありませんわ。万一、頼子さんが『姫君』だったらどうするのですか?」
「うぅー、それは怖いかも……。でも、やっぱり、見てみたーい」
 里佳の話を切っ掛けに、急に場が盛り上がった。だが、宗佑にはまったく話が見えない。
「話の腰を折って悪いんだが、その『蒼の王子』とか『姫君』ってなんだ?」
「はぁ!? あんた『蒼の王子』も知らないわけ?」
 宗佑が差し挟んだ疑問に、里佳が目を丸くする。と、宗佑が最近の世情に疎い理由を知っている瑞樹が、ふと思い出したようにフォローを入れてくれた。
「『蒼の王子』というのは、ここ数年、世間をにぎわせている犯罪者ですわ。あちらこちらの街を点々としながら泥棒を繰り返しているそうですの。その姿は、防犯カメラとかに何度も映っているのに、住所を一箇所に定めないので、まだ捕まっていないそうです」
 瑞樹の説明に、宗佑は思わず「はぁ?」という顔をする。王子とか姫とか言っていたので、もっとロマンチックな話かと思っていたら、泥棒ときた。「なんで、泥棒が王子?」と、宗佑が疑問を口にすると、頼子がよく分からない返事を返してきた。
「それはねー、『蒼の王子』が『姫君』を捜してるからだよ。泥棒をしながら、日本中を転々として、一人の女性を追い求める、ロマンチックだよねぇ」
 頼子に「それでは、説明になっていませんわ」と言いながら、瑞樹が後を引き継ぐ。
「簡単にご説明すると『蒼の王子』は、なかなか捕まらない泥棒という以外にもう一つ別の特徴がありますの。それは、わたくしたちと同じ世代の少女に付きまとうことですわ」
「……性犯罪者!? ますます、王子から遠ざかってないか?」
「性犯罪ではありませんわ。敢えて言えば、軽犯罪でしょうか。付きまとうだけで、別に何かをしてくるわけではありませんの。しばらく見つめてきたり、場合によっては話しかけてきたり。でも、決まって最後にはこう言って去るそうですわ」
「『キミは僕の姫じゃない』だよねー」
「その言葉から、姫を探して放浪する者、つまり王子様という通り名が自然と付いたそうですわ。本当に特定の誰かを探しているのか、それとも、好みの少女を探しているだけかはわかりません。ただ『姫君』に認定されたらただでは済まないだろうと言われていますわ」
 簡単に『蒼の王子』の説明を終えて、瑞樹はチラッと里佳の方へ目をやる。
「もっとも、半分ぐらいは都市伝説――ただの怖い噂話だと思っていたのですけれど……」
「と・こ・ろ・が、噂じゃないのよねぇ。実は、この街で既に泥棒が二件、実際に声をかけられた女の子が三人もいるのよ。目撃情報は、一週間ぐらい前からあるらしいし」
 里佳は妙にしたり顔で言い切った。と、頼子が首をかしげながら里佳に尋ねてくる。
「なんで、そんなに詳しいの? もしかして『蒼の王子』の追っかけとか?」
「じょーだん、誰があんな犯罪者を追っかけるってのよ。話は兄貴から聞いたのよ」
 里佳の言葉に、宗佑が何気なく「兄貴?」と口にすると、瑞樹が説明を付け加えてきた。
「里佳さんのお兄様は刑事さんなんですの。お父様も同じ刑事さんですわ」
 瑞樹の説明に宗佑は納得した。だが、そんな刑事一家の娘が、なんで里佳みたいに不良少女っぽくなるのだろうかと首をひねる。と、急に頼子が身を乗り出してきた。
「ねぇ、もしかして、防犯ビデオの映像とか持ってる!? 見たーい!」
「いや、流石にそれは家族でも見られないって……。ていうか、そんなのどうするわけ?」
「だって『蒼の王子』って、すっごい美青年なんでしょ。見てみたいなぁ」
「はぁ!? 何処で聞いたの、そんなデマ。『蒼の王子』はただの冴えない中年男よ」
 里佳の無下な断定に、頼子は思わずビックリして「えぇー!!」と声を上げる。
「目撃証言によると『蒼の王子』は病気なんじゃないかと思うほど顔色が悪いらしいのよ。そこから、青白い顔をした王子様、転じて『蒼の王子』と呼ばれるようになったわけ。字面は綺麗だけど、要するに、単なる顔色の悪い中年犯罪者ってことね」
 里佳による語源説明で、頼子は空気が抜けたように意気消沈してしまった。傍目にも、テンションが一気に下がったのがありありと分かる。おそらく、頼子は『蒼の王子』や『姫君』という言葉から、勝手に、見目麗しい犯罪者が少女をさらうような耽美的なイメージを抱いていたのだろう。もっとも、仮に見目麗しくても泥棒で路銀を稼ぐような王子様は嫌だ。
「今までのところ『姫君』に認定された少女はいないようですけど、そういう危険な手合いには近寄らないのがベストですわね。近くをうろついているのでは物騒ですわ」
「兄貴も、物騒だから気をつけろってさ。もっとも、あたしや頼子はともかく、瑞樹なら犯罪者ぐらい返り討ちでしょ――っと、今は怪我してるんだっけ…………」
 里佳はそう言いかけて、瑞樹のギプスに僅かに目を落とし、次に宗佑をギロリと睨み付けてきた。瑞樹の骨折は間違いなく宗佑の責任なので、宗佑は苦笑いを浮かべて目を逸らす。
「大丈夫ですわ、里佳さん。片腕でも少々の相手には遅れをとったりはしませんから」
 里佳が宗佑を本気で睨んでいたので、瑞樹は軽く手で制して咄嗟にフォローを入れる。と、二人のやりとりを聞いていた宗佑にちょっとした疑問が湧いてきた。
「あれ? 瑞樹ってもしかして強いのか?」
「あんたみたいに、無茶苦茶な暴れ方じゃないけどね……」
 何気ないつもりだったが、宗佑の言葉は更に里佳の神経を逆撫でしたらしい。もう一度、宗佑をギロリと睨みつつ、里佳は口を尖らせた。それを、瑞樹が一言で綺麗にまとめる。
「まぁ、淑女レディの嗜み程度ですわ」
 と、先ほどから意気消沈していた頼子が、何かを思い出したように不意にポンッと手を叩いてムックリと起きあがった。そして、自分のバッグをガサゴソと漁り始める。
 宗佑たち三人は、頼子の唐突な行動に「おや?」と思ったものの、頼子が唐突なのは今に始まったことではないので取りあえず静観していた。だが、頼子がバッグから取り出したものを見て三人ともがギョッとして目を剥く。それは、『頼子の嗜みマヨネーズ』だったからだ。
 いつも、頼子が通学カバンに入れて持ち歩いている徳用マグナムボトルではない。お弁当用の小さなボトルだ。どうやら、バッグの大きさに合わせて使い分けているらしい。
「ちょっぴり、ひと味足りないと思ってたんだよねー」
 頼子はそう呟きながら、コーヒーにマヨネーズを練り込んだ。そして、コーヒースプーンでカチャカチャとかき回す。思えば、頼子は瑞樹お薦めのレギュラーコーヒーを、しきりに首をかしげながら「ひと味足りないな〜」と呟きながら飲んでいたような気がする。
 三人が泡を食っている間に、頼子はグィっと一気にマヨネーズコーヒーを飲み干した。
「う〜ん、サイコー。やっぱり、コーヒーにはマヨネーズだよね!」
 意気消沈の景気づけなのか、瑞樹の「嗜み」で思い出したのか、それは分からない。だが、ただ一つ確実なことがあった。それは、マスターの怒りを買ったという事実だ……。
 宗佑が店内で大泣きしても文句一つ言わずに、さらにサービスでエスプレッソコンパナまで出してくれた優しいマスターが、今は明らかにこちらを睨んでいた。流石の瑞樹も、やや顔が引きつっている。頼子のせいで居づらくなってしまった三人は、宗佑が回復していたこともあり、そそくさと皇珈琲店を後にして予定通り繁華街へと繰り出す羽目になった。



3.

 やや茜色に染まり始めた空の下で、宗佑と瑞樹は並んで歩いていた。繁華街の中心から少し離れた脇道は、帰宅時間にもかかわらずあまり人通りは多くない。里佳や頼子とは、少し前に駅前で別れていた。宗佑は瑞樹の家を知らないが、繁華街から見た場合、方角的には七海の家に近いらしい。だから、遊び歩いた後は、二人はいつも途中まで一緒に帰っていた。
 瑞樹は、里佳たちと別れた後で駅前の本屋に寄って購入したローティーン向けのファッション情報誌を読みながら歩いている。それは、小学校高学年から中学生向けの雑誌だ。
「瑞樹がそんな雑誌を読んでるなんて、なんていうか、意外な感じだよな」
「あら、別にいつもではありませんわ。少々、気になる記事が載っておりましたので」
 素朴な疑問に答えつつ、瑞樹は雑誌を宗佑の方へと向けてくる。見れば、可愛らしいポップ文字で書かれた『初めてのデート特集』というタイトルが目に飛び込んできた。
 どうやら、ローティーンの女の子向けに、初めてのデートではどうするべきかを特集した記事らしい。コースの選択から、心構え、会話の広げ方まで色々と載っている。だが、その記事は、宗佑がいだいている瑞樹のイメージからはほど遠かった。
 宗佑が妙な顔をしていると、瑞樹は雑誌を手元に戻して再び読みながら歩き出す。そして、半分ほど上の空ながら、一応は宗佑の疑問顔に答えるようにポツポツと喋りだした。
「実はわたくし、今までに恋愛をしたことがありませんの」
 唐突な瑞樹の告白に、ややビックリして宗佑は思わず立ち止まってしまった。だが、雑誌に意識を向けている瑞樹は止まってくれない。瑞樹は、そのまま喋り続けている。
「ですので、デート計画を立てる前に一度勉強をしておこうと思いまして。別の雑誌でもよかったのですが、ちょうど『初めてのデート特集』が載っておりましたから」
 その言葉にポカンとして、ややあって、ハッとして宗佑は慌てて瑞樹の背中を追いかける。
 だが、考えてみれば瑞樹もまだ高校一年生なのだ。恋愛経験が無くても不思議ではない。そんなことを思いつつ、宗佑は瑞樹に追いつく。それにしても、あの瑞樹がデートとはちょっと意外な気がした。と同時に、俄然興味が湧いてくる。相手は誰だろうか。
「なぁ、瑞樹。デートの相手って誰なんだ?」
「頼子さんの幼なじみのお兄さんですわ。この前、頼子さんとお話しをしている時に、紹介して頂く約束を取り付けましたの。頼子さんは『トリマルくん』と呼んでおりました」
 トリマルというのが苗字なのだろうか。その妙な呼称に、宗佑は思わず「はにゃ」が口癖の埴輪型のマスコットキャラを思い出してしまった。一瞬、宗佑は、瑞樹が埴輪に手作りのお弁当を食べさせている姿を想像してしまい、小さくプッと吹き出す。
 と、宗佑は慌てて口を押さえた。瑞樹には色々と世話になっているのだ。笑っては失礼だろう。もっとも、瑞樹は相変わらず雑誌に集中していてこちらの様子など見てはいない。
 やっぱり瑞樹も女の子なんだな、と宗佑は今更な感想を心に浮かべる。
 ――七海のことで手伝ってもらってるし、オレも友達として協力してやるべきだよな。
 宗佑がそんなことを思っていると、記事を読み終えた瑞樹が、不意に雑誌をパタンと閉じて足を止めた。そして、その雑誌を丁寧にひっくり返してから宗佑に差しだしてくる。
「大体のところは理解しましたわ。後は、宗佑さんが読んで下さいまし。ローティーン雑誌ですけれどパラパラっと見たところでは七海さんの体格にはちょうどよいかと思われます。しっかりと勉強して、デート当日にはお洒落をしてきて下さいませ」
 反射的に雑誌を受け取りつつ、宗佑は瑞樹の言葉の意味が分からずに目を丸くした。
「宗佑さんが楽しむことに集中できるように、デート計画はこちらで立案いたしますわ」
「――ぃ!? デートって、瑞樹じゃなくて……オレ!?」
 いつも通りの、瑞樹のにこやかな笑みで宗佑は事態を正確に把握した。それは、瑞樹が恋をしたというような話ではなく、七海を呼び戻すための作戦の一環だったのだ。そのことを理解して、宗佑はビックリして目玉が飛び出しそうなぐらいに目を見開いた。
「そんなに驚かなくても大丈夫ですわ。頼子さんの幼なじみの方には、下心無しの練習デートということでお願いできるそうですから。なんでも、頼子さんが中学の頃にお友達に奥手な娘がいて、その時も練習デートに付き合って頂いたそうなんですの」
「いや、だけど……えっ…………オレが、デートするのか?」
「そうですわ。恋愛は女の子にとって最も幸せなものの一つと聞きます。上手くすれば、一気に七海さんを呼び戻すこともできるかもしれません。それに、デート当日は、私もずっと近くで見守っておりますからご安心下さいませ」
 宗佑は思わず金魚のように口をパクパクとさせてしまう。不意に、先ほどの瑞樹と埴輪の想像上のデート風景が頭に浮かんできた。だが、今度は瑞樹の代わりに自分がそこに填り込んでいるのだ。しかも、それは、七海の身体ではなく宗佑自身の姿だった。
「頼子さんも、幼なじみの方に毎日お会いするわけではないそうですので、実際の日取りが決まるのはもう少し先になると思われます。でも、できるだけ早めにとお願いしてありますので、そんなにはお待たせしないですみそうですわ。それで、よろしいですわね?」
 瑞樹のニッコリとした微笑みを見つめながら、宗佑は激しく葛藤していた。頼子の知人で、しかも瑞樹が見守っていて、さらに宗佑は憑依状態なので、デートに危険が伴う可能性はまず無いだろう。だが、いきなり見知らぬ相手、それも男とデートするように言われれば、相当に抵抗があって当たり前だ。しかし、万が一にも七海のためになるのならば――
「……分かった。やってみる」
 宗佑は結局頷いていた。無意味かもしれないが、やらずに後悔するようなことだけはしたくなかった。それに、今までのところ瑞樹の案に従って間違いはなかったからだ。
 宗佑の答えに頷きながら、瑞樹は再び歩き出した。そして、そのまま話しかけてくる。
「デート計画に希望などはありますか。一応、先ほどの記事によれば映画が初心者にはお薦めのデートコースだそうですわ。上映中は会話に悩む必要がなく、終わった後も映画の話題で盛り上がれると書いてありました。今日とは別のホラー映画などいかがですか?」
「……なんで、ホラー限定なんだよ?」
 トボトボと歩きながら、宗佑は今日のことを思い出して瑞樹に突っ込みを入れる。
「これも記事の受け売りですけど、ホラー映画は吊り橋効果が期待できるそうです。宗佑さんぐらい怖がる方なら、さぞ絶大な効果があるのではないかと」
「それは、つまり……オレに、本気で頼子の幼なじみに惚れろと?」
「そこまでは申しませんけど、そのぐらいのつもりで楽しまないと、七海さんの心までは到底届かないということですわ」
 瑞樹の言葉は完全に正論だったが、それだけに、宗佑は盛大にため息をついた。覚悟を今更ひるがえすようなつもりはないが、思わずぼやきが宗佑の口をついて出る。
「だけど、七海の好みも分からないのに、適当な男とデートしても意味あるのか?」
「あら、七海さんの好みは関係ありませんわ。七海さんが心を閉ざしているなら、相手が見える可能性はほとんどありませんもの。届くのはおそらく強い感情だけですわ」
 ぼやきに対する瑞樹の明快な答えを聞きながら、宗佑は僅かな引っかかりを覚えた。
「ですから、宗佑さんが強く幸せを感じることが重要なのですわ。つまり、七海さんではなく、むしろ、宗佑さんの好みに合わせるべきで――――ぁ!?」
 宗佑に一瞬遅れて、喋っていた瑞樹自身も同じ引っかかりに行き当たる。そして、二人はほぼ同時にピタッと足を止めた。不意に、二人の間に気まずそうな空気が漂う。気詰まりな沈黙が辺りを支配し、ややあって瑞樹が視線を逸らしたままポツリと口を開いた。
「そういえば、宗佑さんは男性の方でしたわね…………」
 それは、周到な瑞樹にしてはかなり盛大な凡ミスだった。一週間以上、結城七海という少女の姿をした宗佑に間近で接し続けていたため、完全に失念していたのだ。
「…………もしかして、たちの悪い冗談か?」
「嫌ですわ。そんな目で睨まないで下さいまし。本当に、忘れていただけですわ」
 宗佑のジト目をしれっと受け流しながらも、瑞樹は自分らしくない失敗に内心では大きくアチャーと頭を抱えていた。頼子に色々と根回しまでしたのに、そもそも根本の発想からして大間違いだったのだ。と、不意に、宗佑が苦笑いを浮かべつつ口を開いた。
「まぁ、いいや。瑞樹も悪気があるわけじゃなし、デート、やってみるよ。どうせダメだろうけど、やらずに後悔するよりは、やって後悔した方がましだ。それに、七海の姿じゃ、デートを試すつもりなら相手は男にならざるをえないもんな」
 それは、ここ一週間ほどで数え切れないほど見てきたいつもの苦笑いだった。だが、瑞樹は何故か宗佑のヤレヤレといった表情から目を離せなくなってしまう。そして、七海のためならば男性とのデートでさえも厭わない宗佑を見て、僅かに胸の奥がチクッと痛んだ。
 瑞樹は、自分の胸を刺す小さな痛みを形容する適切な言葉を知らない。それでも、それが、目の前に立つ小柄な少女を、本当は男性なのだと意識したために起こったものであることは分かっていた。瑞樹は、少し俯き加減に目を逸らしつつ、ポツリと呟くように言った。
「もしわたくしでよろしければ、その……デートのお相手をいたしましょうか?」
 その言葉に、宗佑は僅かに目を丸くした。瑞樹にしては珍しい躊躇うような口調に、そしてやや目を逸らした恥じらうような表情に、宗佑は少しだけドキッとさせられる。
わたくし相手で、宗佑さんが幸せを感じられるかどうか試してみますか?」
 瑞樹は視線を宗佑に戻し、真っ直ぐに見つめてくる。そして、少しだけ躊躇ってから、瑞樹は不意に右手を宗佑の首に回して自分の方へグイッと抱き寄せた。
 七海の身体は、瑞樹よりも頭半分ぐらい小柄だ。だから、唐突に引き寄せられれば当たり前のようにバランスを崩してしまう。宗佑は小さく「うわっ!?」と声を上げながら、瑞樹の身体に抱きつくような格好で倒れ込んでしまった。
 瑞樹は胸にもたれ掛かるような状態の宗佑をギュッと抱きしめる。その行為が、自分自身にどういう影響を与えるかは、瑞樹もよく分かっていた。だが、それでも――
「みっ……み、みっ、瑞樹!? いきなり、何を……?」
「実験ですわ。宗佑さんが、わたくしを異性として感じられるなら、七海さんを呼び戻すために友達として以上のご協力ができるかもしれませんから」
 口調はあくまで涼やかに、瑞樹は言葉を紡ぐ。だが、内心では激しい恐怖と、いくばくかの想いがマグマのように溶け合って沸き立っていた。それを声に出さないのは、瑞樹の強靱な精神力のなせるわざだろう。だが、その表情は決して穏やかではいられなかった。
 瑞樹に強く頭を押さえつけられて、宗佑は顔を上げることができない。宗佑は、不謹慎だったが、瑞樹が左腕にギプスをしていてよかったと思っていた。なぜなら、それがなければ、宗佑は完全に瑞樹の胸に顔を埋める体勢になってしまっていたからだ。
 ドクッ、ドクッ、ドクッ、ドクッ――
 七海の魂ではない、宗佑の心臓が早鐘を打つ。風に揺れる瑞樹の長い髪が優しく頬を撫で、シャンプーの香りが鼻孔をくすぐる。瑞樹の柔らかな感触が、頬に感じられた。瑞樹は「異性として感じられるなら」と言っていたが、宗佑にとって瑞樹は最初から異性だ。
 七海の裸が平気なのだから、他の少女たちでも大丈夫だろう。そう思っていたが、実際は違っていた。体育の着替えなどで嫌でも見てしまうクラスメイトの下着姿に宗佑はいつもドギマギさせられていたのだ。内容が内容だけに、流石に瑞樹に相談することもできず、宗佑はいつも俯いてササッと着替えて更衣室を出るようにしていた。
 瑞樹にしても、性格はともかく、見た目は清楚なお嬢様だ。どうしても、異性として見てしまうのはやむを得ない。だが、それでも、宗佑はできるだけ瑞樹を同性の友達として見るように努力していた。同性として遠慮無い付き合いをすることが、七海を呼び戻すために重要だと思っていたからだ。一週間ほどで、宗佑はその状態にもだいぶ慣れてきたはずだった。
 その『同性の友達』が、不意に『異性の友達』へと戻ってしまったのだ。
 ドクン、ドクン、ドクン、ドクン――
 瑞樹の胸に押さえつけられた宗佑の耳元で、自分のものとは別の心臓の鼓動が聞こえる。それは、宗佑のものと同じぐらい、いやそれ以上に激しく早鐘を打っていた。
 ――瑞樹も……オレのことを異性として見ているのか?
 そう思いかけた瞬間、宗佑はふとあることに気が付いてハッとした。宗佑を抱きしめている瑞樹の身体が小刻みに震えているのだ。それは、緊張のための震えなどではない。
 そのことに気が付いた宗佑は、瑞樹の両肩に手をかけて、その身体をグッと押しやった。そして、急いで手を離す。見れば、瑞樹は真っ青な顔で荒い息をついていた。
「瑞樹、おまえ…………」
 既に宗佑から身体が離れていたが、瑞樹は傍目にも分かるほどハッキリと震えていた。宗佑に押しやられた姿勢のまま、やや呆然としたように立ち尽くしている。ややあって、瑞樹は右手で震える身体を抱きしめるようにしながら、俯いて弱々しい声でポツリと呟いた。
「やはり、わたくしではダメですか……」
 その様子は、昼頃にホラー映画で死にかけた宗佑の比ではなかった。もっとも、それは当たり前だ。いくら強烈でも危険のないスクリーンの先にある恐怖と、実際に殺されかけたというトラウマの対象を抱きしめている恐怖では、比較のしようがない。
 瑞樹はわななく唇でハァハァと荒い息をつきながら、今にも崩れ落ちそうなところをかろうじて踏ん張って立っている。その姿に、宗佑は一瞬言葉を失ってしまった。
「当たり前ですわね。あんなことをしたわたくしを、今更異性として見ろという方が無理な――」
「違う! そうじゃない。そうじゃなくて……」
 自嘲気味な瑞樹の言葉を、宗佑が遮る。宗佑の大声に、瑞樹はハッとして顔を上げた。
「瑞樹、おまえの気持ちは嬉しいけど……無理はしないでくれ」
 宗佑に瑞樹の考えの全てを知ることは当然不可能だ。だが、瑞樹がトラウマを押して、宗佑や七海のために協力しようとしてくれたことだけはハッキリと分かっていた。
「以前、七海にも同じことを言ったんだが、自分を犠牲にするのは止めて欲しい。そうじゃないと、オレは安心して瑞樹の力を借りることができなくなってしまうから――」
「ちっ、違いますわっ! わたくしは……別に、自分を犠牲になど…………」
 瑞樹は、咄嗟に宗佑の言葉に反論しようとして、しかし口ごもって黙り込んでしまう。瑞樹が口ごもることなど、相当珍しいことだったが、宗佑はそこまでは気が付かなかった。
 瑞樹は黙り込んだまま目を伏せていたが、ややあって、ポツリと口を開いた。
「自分を犠牲にしているのは、むしろ宗佑さんではありませんの?」
 その言葉で僅かに目を丸くした宗佑に、瑞樹は更に言葉を投げかけてくる。
「七海さんのお話では、宗佑さんの記憶が戻るまでの期間は早ければ半月でしたわね。ましてや、常に憑依状態で完全に人間としての生活を営んでいる今の宗佑さんならば、既にご自身の未練を思い出していてもおかしくはありませんわ。違いますか?」
 瑞樹は、不意に射るような強い視線を宗佑に向けてきた。瑞樹のこんな目を見るのは、屋上での取引の時以来かもしれない。こういう目をした瑞樹相手に隠し立ては無意味だろう。そう考えて、宗佑は真っ直ぐに目を見つめ返しつつ、小さく頷いた。
「あぁ、もうほとんど思い出している。オレの未練は……恋人と子供を探すことだ」
 宗佑の返事に、瑞樹は思わず目を丸くした。生前は大学生で、恋人と同棲していたという話までは聞いていたが、宗佑に子供がいたとは初耳だったからだ。
「宗佑さん、お子さんがいらっしゃったのですか!?」
「もっとも、男女も分からなければ、顔も見たことがない子供だけどな」
 宗佑の返事に瑞樹は訝しそうな顔をする。と、宗佑が疑問の答えを口にした。
「恋人の妊娠を知った日に、オレは死んだんだ。交通事故だった。その日、バイトに出かける前に、あいつから突然妊娠を知らされてオレは喜んだよ。学生だったけど、本気で結婚するつもりだった。卒業まではバイトを精一杯やって養ってやろうって思った。だけど……」
 宗佑はやや辛そうに唇を噛んで俯いた。瑞樹は宗佑が先を続けるまで黙って待つ。
「だけど、オレは呆気なく死んじまった。自分が死んだことに気が付いて幽霊になってアパートまで戻った時には、あいつは引っ越して居なかったよ。たぶん、その時点で既にだいぶ時間が経っていたんだろうな。それから、オレはあいつを捜して彷徨い始めたんだ」
 ふと七海の・・・手に目を落として、それから宗佑は遠い目をする。
「彷徨っているうちに記憶を失って、自分の名前さえ忘れ果てて、ただ『探さないと』という想いだけが未練になって僅かに残った。そんな時……七海が手を差し伸べてくれたんだ」
「全てを忘れても、恋人を探し続ける。素敵な愛ですわね」
「そんな良いものじゃないさ。あいつの立場に立てばよく分かる。まだ大学生なのに妊娠させられて、しかも相手は勝手にとっとと死んじまって……きっと、すごく困っただろうな。お腹の子供だって、すぐに堕ろしてしまったかもしれない」
「それはないと思いますわ。愛する人が死んでしまったならば、なおさら、その忘れ形見を手放すことなどできるはずがありませんもの。恋人さんの立場に立てば分かります」
 女性である瑞樹の的確な切り返しに、宗佑は「そうかもしれない」と思わされた。
「恋人さんとお子さんを、探しに行かれないのですか?」
 瑞樹の言葉に、しかし、宗佑は「行くつもりはない」とキッパリと答えた。
「あいつや子供に会いたいという気持ちは本当だけど、オレは恩や義理じゃなくて、七海のことも本当に大切に想ってる。だから、今はまず七海の件を何とかしたいんだ」
「ご自身の未練を振り捨ててもですか?」
「振り捨てているわけじゃないさ。ただ、七海の話だと、オレが死んでから少なくても五年以上は経過しているらしいんだ。もしかすると、子供は小学生になっているかもしれない。あいつや子供のために何かをしてやりたくても、今更だと思わないか?」
 宗佑のやや悲しげで自嘲気味な笑みに、瑞樹は本当の未練がなんなのかを理解した。
「宗佑さんの未練は会いたいということではなく、夫として父親として、何もしてやれなかったということなのですね。でも、今からでも、できることはあるかもしれませんわ」
「そうだな、瑞樹の言うとおりだ。だけど、五年も十年もの長い間、ずっとほったらかしにしてきたんだ。いまさら、数ヶ月程度遅れたって大した差はないさ。それに、まだ、全部の記憶を取り戻せたわけじゃないしな」
「あら、そうなのですか? てっきり、全ての記憶が既に戻っているとばかり……」
「まだ、あいつの――恋人の名前と顔が思い出せないんだ。なんでか、苗字だけは先に思い出したけどな。園部そのべっていうんだ。別に、苗字で呼んでいたわけじゃないんだけど」
 ややこしくなるので瑞樹への説明では省いたが、正確に言うと、宗佑は思い出せないわけではなかった。現在の七海としての静香との母娘おやこ生活と、過去の宗佑としての恋人との同棲生活が状況的に類似しすぎていて、記憶が混同されてしまい混乱しているのだ。
 基本的に寝起きが悪い宗佑は、七海として生活しながらも、毎朝のように静香に起こされている。さらに、食事も全部静香が作ってくれる。もっとも、母親なのだからそれで普通なのだが、宗佑から見れば、これは静香と同棲生活を送っているのに等しい。
 しかも、年齢などが大きく隔たっているにもかかわらず、静香には、宗佑の記憶にある恋人を彷彿とさせる何かがあった。単純に容姿が似ているのかもしれない。だが、それゆえ、宗佑の中では静香と恋人のイメージがゴチャゴチャに混ざり合ってしまっているのだ。
 その結果として、出てきた恋人の名前は『園部静香』。
 もしかしたら、本当にたまたまそういう名前だったのかもしれないが、宗佑はこれを記憶の混乱だと考えていた。だが、それに対する心配はない。むしろ、思い出せないことがありがたかった。少なくとも七海が帰ってくるまでは、宗佑はそちらに集中したいからだ。
「まぁ、七海が戻ってきたら、改めて未練を解消するのを手伝ってもらうさ」
 一通り未練の話を終えて、宗佑は瑞樹にニッコリとした笑顔を向けた。見れば、瑞樹の震えも既に収まっている。瑞樹は、いつもの落ち着きを取り戻していた。
「分かりましたわ。では、わたくしも今は七海さんを呼び戻すことに全力を尽くします」
「それは助かるけど、自分を犠牲にするのだけはやめてくれよ」
「買い被らないで下さいまし。わたくしは自己犠牲を考えるほど殊勝な女ではありませんわ」
 そう言いながら、瑞樹はわざとうっすらとした怖い笑みを浮かべてみせた。その表情に、宗佑は僅かに苦笑する。だが、瑞樹の笑みからは、以前ほど嫌な感じは受けなかった。
「それと、七海さんが戻られたら、わたくしにも、宗佑さんの家族探しをお手伝いさせて下さいませ。宗佑さんのお子さんの顔を、是非、拝見させて頂きたいですわ」
「あぁ、その時は、よろしく頼む」
 そして、宗佑と瑞樹は再び並んで家路を歩き出した。暖かそうなオレンジ色の夕日に照らされて、二人の影が大きく伸び上がり、人気のない路地を這ってゆく。
 その影が指し示す先に、一台のボロボロにくたびれた乗用車が停まっていた。その運転席から向けられる視線に、まだ宗佑たちは気が付いていない。病的なほど青ざめた男の、どんよりと濁った目には夕日も瑞樹の姿も見えてはいなかった。男が見ているものはただ一つ。
 四年間、ずっと追い求め続けて、ようやく見つけた『姫君』の姿だけだった。

第五話 泡沫人うたかたびと

1.

 ゼェゼェと荒い息をつきながら、宗佑そうすけは乱暴にアパートの扉を閉めた。バタンという大きな音が、七海ななみの小さな家に響き渡る。と、玄関に繋がっているキッチンで夕食の準備をしていたエプロン姿の静香しずかが、音に驚いて料理の手を止めてヒョイと玄関に顔を出した。
「七海、どうしたの? 随分と息が上がってるわよ」
「だい、じょ……ぶ。ちょっと……暗くなってきたから、急いで……帰ってきた……だけ」
 胸を押さえながら、無理矢理深呼吸をして宗佑は息を整える。パッと見、あまり大丈夫そうには見えないのだが、別段怪我をしていたりはしないので静香は頷いて納得する。
 静香が流し台の方へ顔を戻すのと同時に、宗佑は靴を脱いで家に上がった。そして、肩で息をつきながら七海の部屋へと歩いてゆく。最近ではいつもそうしているように、キッチンへ続く扉を開けたまま、宗佑は部屋で壁にもたれ掛かりながら座り込んだ。
 宗佑の息が上がっているのは、確かに家まで全力疾走で帰ってきたからだ。だが、走った理由は外が暗くなったからではない。家の近くの交差点で瑞樹みずきと別れた後、唐突に嫌な気配がまとわりついてきたので、宗佑はビックリして慌てて逃げてきたのだ。
 ――あの気配……一週間ぐらい前に感じたのと同じヤツだよな?
 それは、強い生理的な嫌悪感を喚起する、あの生々しくねっとりとした気配だった。瑞樹からは悪霊は無視するべきと教えられていたし、実際ここ一週間で何度か遭遇した怪しげな気配はそれで乗り切っていた。だが、あの気配だけは無視しきれなかったのだ。
 もっとも、流石に二回目なので、あの時のように身動きが取れないほどパニックになることは無かった。咄嗟に「ヤバイ!」と感じた宗佑は、気配の来る方向と逆に向かって憑依状態の全力疾走で逃げた。そして、そのまま家に駆け込んで今に至る。
 ――この辺をうろついてる悪霊なのか? また遭遇したら嫌だなぁ……。
 そんなことを心の中で呟きつつも、宗佑の中にそれほど大きな危機感はなかった。悪霊は基本的に無害。七海や瑞樹の話、幽霊としての宗佑の実感、そして一週間ほどの生活の中でそう結論づけていたからだ。壁にもたれ掛かりながら、宗佑は静香の後ろ姿を見つめた。
 トントントントン――
 リズミカルな包丁の音が優しく耳をノックする。今日の夕食はなんだろうか。そんな日常的なことに思いを馳せながら宗佑はそっと耳を澄ました。と、不意に、窓の外から――
 ブロロロロッ、キッキキー!!
 走ってきた車が止まる音が聞こえた。よほどオンボロなのか、車のブレーキは耳障りなほど大きな音を立てる。その音に、なぜか妙に心がざわめくような気がして、宗佑はおもむろに立ち上がった。そして、窓から道路に止まっているであろう車を覗き込む。と――
 ドクンッ――
 車を視界に捉えた瞬間、宗佑の中で何かが跳ね上がった。心臓ではない。それは、七海の魂が鼓動した衝撃だった。なんてことのない普通の乗用車。ただ、随分とボロボロなだけ。それなのに、七海の魂が反応している。そのことに、宗佑は激しく戸惑った。
 続いて七海の魂から、強い生理的な嫌悪感が溢れ出してきた。一週間前と同じように、突如として吐き気が沸き上がり、宗佑はウッと口を手で押さえる。そして、訳が分からないままに、今度は叫び出したくなるほどの恐怖が沸き上がってきた。
 ガチャ、バタンッ!
 車の扉が開き、誰かが出てくる音。たったそれだけの音に、しかし、七海の魂が震え上がる。止めどなく湧き出す恐怖が猛烈に勢いを増し、宗佑は思わずその場に蹲ってしまった。冷たい汗が全身から噴き出し、頬を伝って流れ落ちる。
 そして、一瞬遅れてねっとりとした嫌な気配が宗佑の全身を包み込んだ。
 ――まさか!? 悪霊がオレの後をつけてきたのか!?
 吐き気と恐怖でノイズの走る意識の中で宗佑はそんなことを考える。だが、次の瞬間、そうではないことに気が付いた。悪霊は車になど乗らない。不意に瑞樹の「悪意を持った人間は悪霊よりも遥かにたちが悪い」という言葉が脳裏を過ぎった。
 ――ちがう、悪霊じゃない! これは……人間の気配なのか!?
 嫌な気配を感じ取れるようになって一週間程度の宗佑には、悪霊と悪意のある人間の区別まではついていなかったのだ。だが、宗佑には悪意のある人間に後をつけられる覚えなどない。通りすがりの変質者だろうか。このまま、何処かに去っていってくれれば……。
 相手が人間なら、壁をすり抜けてくることはあり得ない。だから、家の中にいれば安全なはずだ。そう思い直して、宗佑は荒い息をつきながら窓際に座り込んだ。その目は、宗佑にとって日常の象徴ともいえる静香を求めて、自然とキッチンの方へと向かう。
 キッチンではエプロンを纏った後ろ姿の静香が、娘の異変には気付かず、何処か楽しげに夕食の準備を進めていた。宗佑もいたずらに静香を心配させたくはないので、声をかけることはしない。気配さえ去ってくれれば回復すると分かっているからだ。だが――
 ピンポーン
 不意にドアホンが場違いなほど明るい音を奏でた。宗佑がその意味を理解するよりも早く、静香は料理の手を止めて咄嗟に「はーい」と返事をして扉の鍵を外してしまう。
 ガチャリと鍵が外されたと同時に、外から強く引っ張られて玄関の扉が勢いよく開かれた。普通の訪問客が絶対にやらないような行為に、静香は訳が分からずに「えっ!?」と目を丸くする。そして、次の瞬間、静香は両手で口元を押さえて思わず息をのんだ。
「けっ、健吾けんごさん!! どうして……ここが…………」
 戸口には、まるで骸骨のようにガリガリにやつれた男が立ってた。薄汚れたぶかぶかのスーツ姿で、男はどんよりと黄色く濁った目で静香を見つめている。頬は痩せこけ、眼窩は落ちくぼみ、しかも、その顔色は何ともいえない嫌な色をしていた。一見して、酷く青ざめているのだが、鼻の頭は妙に赤く、首には蜘蛛の巣状に血管が浮き出している。
 明らかに病人、でなければ、死人か幽霊だ。しかし、そんな変わり果てた姿であるにもかかわらず、静香には男が誰なのか一目で分かった。それは、何年も連れ添った、そして、かつては本当に愛していた夫――健吾だったからだ。
 強い吐き気と恐怖に晒されながら、宗佑は静香の言葉を聞いていた。そして、ようやく七海の魂から湧き出す生理的な嫌悪感と恐怖の正体に気が付いた。それは、まだ小学生だった七海が健吾から受けた性的虐待の辛い記憶が生み出す感情だったのだ。
「かっ、帰って下さい! 私たちには――七海には、もう関わらないでっ!!」
 健吾の変わり果てた姿に一瞬怯んだが、静香はその場に立ちはだかった。どうしても守りたいものがあるからだ。静香は強い意志を持った瞳で、健吾を睨み付ける。
 闖入者ちんにゅうしゃが、通りすがりの変質者などではなかったことに宗佑は酷く驚かされていた。
 ――七海の父親!? なんでだ!? ずっと、会ってなかったんじゃ…………。
 そう思った瞬間、宗佑は七海から聞いた話を思い出してハッとした。
 七海は以前、静香に連れられてこの街へ逃げるように引っ越してきたと言っていた。なぜ、静香は離婚ではなく逃げたのか。答えは一つしかない。健吾から行方を眩まさなければ、七海を守れないと判断したからだ。おそらく、それほどまでに健吾は七海を欲していた。
 健吾は、七海に強く執着して追いかけてきたのだ。宗佑自身、恋人と子供を探して彷徨っていた身だからこそすぐに分かった。思えば、一週間ほど前に同じ気配を感じた時は、おそらく健吾とニアミスしていたのだろう。宗佑の中で、更に記憶が連鎖爆発を起こす。
 一週間ほど前といえば、里佳りかから聞いた『蒼の王子』がこの街で目撃され始めた時期と一致する。『蒼の王子』は、確か泥棒をしながら日本中を転々として『姫君』を探しているという話だったはずだ。おそらく、『蒼の王子』は健吾のことで間違いない。
「四年……四年もかかった……やっと……見つけた……僕の……姫…………」
 痰が絡んだような粘つく聞きとりづらい声で、健吾が呟く。その顔色から見ても、ガリガリに痩せた身体を見ても、明らかに健吾が病んでいるのは明白だった。
 日本中の何処にいるのかさえ分からない一人の少女を探して、おそらくは自己の蓄えの全てをつぎ込み、それでも足りずに犯罪を犯してまで追い求め続ける生活。それは、幽霊ならぬ生身の健吾にとっては、普通に耐えられるものではなかったはずだ。
 自分の娘という禁断の果実に手をつけた時点で、既に健吾が狂っていたのかどうかはわからない。だが、少なくても今の健吾は身も心も完全に病んでいた。もし、七海ならば、今の健吾を見て「人間性を完全に喪失している」と評したかもしれない。
 目の前に立ちはだかる静香が見えていないのか、健吾は玄関の中に一歩踏み出してきた。
「ダメっ!! 帰って!! あなたを、七海に会わせるわけにはいかないのっ!!」
 健吾を全身で遮るように、静香は両手を大きく広げた。だが、健吾は止まらない。健吾は靴を履いたまま、静香の制止を意に介さず家の中へと上がり込んできた。そして――
 ドンッと二人の身体が軽くぶつかる。それは、本当に軽い接触だった。だが、静香はよろめくように一歩二歩と後ずさってしまう。と、不意に、静香の身体がグラリと揺らいだ。
 小さく「ぁ……」と声を上げて、静香は玄関脇の壁に背中から倒れ込んだ。そして、ズルズルと滑るように頽れてゆく。静香の震える両手は、自分の左脇腹辺りを彷徨っている。
 静香の脇腹からは、何か短い棒のようなものが突きだしていた。一瞬遅れて、棒の根本辺りからジワッと鮮血が染み出してくる。健吾にナイフで刺されたのだ。静香の白いエプロンが徐々に血に染まってゆく光景に驚愕して、宗佑は思わず駆け寄ろうとした。
「かっ、母さ――っ!?」
 だが、ガクッと膝が折れ、宗佑は数歩も進まないうちにへたり込んでしまう。別に宗佑は、健吾を静香に任せて状況を傍観していたわけではない。動きたくても動けなかったのだ。健吾の接近で膨れあがった嫌悪感と恐怖は、宗佑の意思とは無関係に身を竦ませていた。七海の足はガタガタと小刻みに震え、自分の身体すら満足に支えることができない。
 壁際に蹲っている静香を一瞥もせずに、健吾はゆっくりと宗佑に近づいてくる。
「僕の……七海……僕の……姫……邪魔者は……もう……いない……」
 かつては本当に愛していたであろう女性を――静香を、健吾は邪魔者と言い切る。
 七海の話では、以前の健吾は「良い人」だったらしい。それに、静香から見た健吾を「優しい夫」とも称していた。だが、娘への行き過ぎた愛情が健吾を狂わせたのだろう。歪んだ愛情は、自分勝手な欲望と混ざり合って、七海の心と身体に深い傷をつけた。
「七海……七海……愛しているよ……七海……僕の……僕だけの……七海……」
 ブツブツ呟いている健吾の向こうで、静香は辛そうに浅い呼吸を繰り返していた。そして、ふと宗佑の方へと目を向けると、苦しそうにしながらもかすれた声をあげる。
「な……七海。逃げ……て…………」
 宗佑には静香を見捨てて逃げることなどできない。それに、仮にそうしようと思ったとしても、立ち上がることさえままならないのだ。それでも……手は、まだ動く。
 宗佑は、畳の上についた手をギュッと握りしめた。表面のイグサが易々とむしり取られて手の中に残る。リミッター解除は有効だ。震える手でも、握りしめることぐらいはできる。宗佑は、健吾がもっと近づいてきたら、足首を掴んでへし折ってやるつもりだった。
 だが……本当にできるだろうか。この距離でも、目が眩むほどの嫌悪感と恐怖に苛まれているのだ。直接触れたりすれば、意識を保っていられるかどうかすら怪しい。憑依状態は、肉体的な苦痛は大きく軽減するが、精神的な苦痛に対しては無力だった。
「それでも……やる。絶対に、やる。オレがやらなきゃ、七海も、静香も…………」
 宗佑は震える唇で小さく呟いた。しかし、宗佑の決意を嘲笑うかのように、嫌悪感と恐怖は健吾が近づくにつれて際限なく膨らんでゆくのだ。心臓がバクバクと跳ね回り、荒い息は過呼吸気味になって意識を侵蝕してゆく。視界が狭まり、徐々に暗くなってきた。
 ――まだだ、もっと……近づかないと……。もっ……と…………。
 必死に意識を保とうと耐える宗佑は、既に指一本動かせない状態になっていることに気が付いていなかった。ただ、歯を食いしばり、目を見開き、近づいてくる健吾を睨み付けている。すでに、その脅威に抗う術は全て失われているにもかかわらず。と、不意に――
 カンカンカンカンカン――
 スタッカートのように軽快な音がアパート中に響き渡った。それは、誰かがものすごい勢いで外階段を駆け上がった音だ。そして、開けっ放しにされていた玄関に一人の少女が走り込んできた。少し息が上がっていたが、少女はあくまで凛とした声で――
「お止めなさい!! そこまでですわ!」
 と言い放つ。その声に僅かにピクッと反応を示して、健吾は玄関の方へ振り返った。



2.

 つい先ほど、交差点で宗佑と別れた瑞樹は、直後に背後を走り抜けて行く一台の車から強く嫌な気配を感じた。車は交通事故などで人を轢いている可能性があるため、悪霊をまとわりつかせていることも割と普通にあることだ。だから、普段ならば無視していただろう。
 だが、その時の瑞樹は何故かそれが気になった。そして気が付く。たった一瞬のことだったが、気配を感知することに長けた瑞樹にはそれで十分だった。あの気配は、悪霊ではない。悪意を持った人間のものだ。そして、それは宗佑の後を追いかけるように……。
 憑依状態の宗佑に、力で勝てる存在はそうはいない。そんなことは、瑞樹は百も承知だ。だが、不意に沸き上がった嫌な予感が胸をざわつかせ、咄嗟に瑞樹は走りだしていた。
 相手は車だ。単純な追い駆けっこでは、瑞樹に勝ち目はない。案の定、すぐに車を見失ってしまう。だが、瑞樹は慌てずに心を落ち着けて周囲の気配を探り始めた。普段ならば意識にさえ昇らないほどの小さな気配が、次々に瑞樹の鋭敏な感覚に引っかかってくる。
 調香師が一本の香水から百種類以上の香りを嗅ぎ分けるように、瑞樹は多数の気配の中から目指す一つを的確に選り分けた。既に動きを止めていた気配は、瑞樹にとっては目立つ看板に等しい。そして、瑞樹は、一度も来たことがない七海の家へと正確にたどり着いた。
「間に合った……とは言い難い状況ですが、来て正解みたいですわね」
 瑞樹は、目の前で脇腹を刺されて頽れている静香をチラッと見て呟いた。どうやら、静香は既に意識を失っているらしい。そして、明らかに異様な外見をした健吾を、しかし、瑞樹は一歩もたじろぐことなく真っ直ぐに見据える。
「邪魔……する……な……」
 健吾は黄色く濁った目を瑞樹に向けてブツブツと耳障りな声を上げた。
 と、健吾の意識が瑞樹へ移ったおかげで、宗佑の精神的な苦痛が僅かに軽減される。視界が明るさを取り戻し、宗佑の目に、健吾と対峙する瑞樹の姿が飛び込んできた。静香が刺された光景を思いだし、宗佑は自分の状況も忘れて、瑞樹に向かって咄嗟に叫んだ。
「瑞樹……逃げろ!! ナイフを持ってるかもしれない!」
「先ほども申しましたわ。わたくしは自己犠牲を考えるような殊勝な女ではありませんの。勝算がなければ飛び込んできたりはいたしません」
 瑞樹は、宗佑の警告を軽く振り払った。そして、靴を履いたまま家に上がってくる。
 ブツブツと何かを呟いていた健吾が、無造作に近づいてくる瑞樹に警戒したのか、腕を振り上げて掴みかかった。そして、その骸骨のような手が瑞樹に触れようとして――
 不意に健吾の姿が、宗佑の視界からフッとかき消えた。
 そして、代わりに瑞樹が身に纏っている丈の長いフレアスカートが、水色の軌跡を描いてフワリと揺れる。スカートの裾が僅かに拡がり、いつの間にか中腰になっていた瑞樹の足下で花が咲いたように柔らかく拡がった。と、次の瞬間――
 ガッシャーン!!
 轟音と共にキッチンのテーブルがぜた。何が起こったのかと思いを巡らす暇もなく、結果が目に飛び込んでくる。健吾が、テーブルの残骸に埋もれて倒れていた。瑞樹が、健吾を投げ飛ばしたのだ。涼やかな瑞樹の様子を見るに、力で投げたわけではないのだろう。おそらく、向かってくる健吾の力を逆に利用して……。だが、今の瑞樹は片腕のはずだ。
「瑞樹、おまえ……左手を骨折してるのに…………」
「柔道ではありませんが、柔を良く剛を制する。相手の力を体捌きで適切にコントロールできれば、手を使わずに投げることも可能ですわ。もっとも、宗佑さんみたいな人間離れした怪力で掴まれたり、極端に体重差がある相手だと投げ技は通用しませんけれど」
 瑞樹は中腰の状態から立ち上がりつつ、驚きに目を丸くしている宗佑に軽く笑顔を向ける。そして、そのまま何事もなかったかのように宗佑の方へ向かって歩き出した。
 すめらぎ珈琲店で、瑞樹は自分の強さを「淑女レディの嗜み程度」と評していたが、これは明らかにそんなレベルではなかった。下手をすれば、憑依状態の宗佑とでもそれなりに渡り合えるのではないだろうか。むろん、正面からぶつかり合えば瑞樹もただでは済まないのだろうが、最初の時に里佳を見捨てて不意を突かれていたら宗佑はおそらく負けていただろう。
 いや、それだけではない。あの時に瑞樹の腕を折って戦力を削いだからこそ、殺しかけてトラウマを植え付けたからこそ、不戦条約に辿り着いたのだ。そうでなければ、用意周到に準備を整えた瑞樹の復讐でどんな目に遭わされていたか分かったものではない。
 宗佑は、自分が相当危ういバランスで綱渡りをしていたことに今更ながら気付かされた。
「まさか、ただの変質者ということは無いと思いますが、どういう状況ですの?」
 宗佑の隣にしゃがみながら、瑞樹は軽く説明を求めてきた。少なくても、憑依状態の宗佑が何もできずに震えているのだから、ただの変質者が相手という事はないはずだ。
「七海の……七海の父親だ!」
 咄嗟に答えた宗佑の状況説明はかなり言葉足らずだったが、七海の過去などを一通り聞いていた瑞樹には大体の事情がつかめた。そして、瑞樹は「七海さんのお父様ですか……」と小さく呟いて、僅かに困ったように眉を寄せる。と、不意に瑞樹が立ち上がった。
「分かりましたわ。できれば取り押さえたいのですが、片腕では関節を極めることが難しいので取り敢えず時間を稼ぎます。その隙に、宗佑さんはお母様と逃げて下さいませ」
「えっ!? 時間を稼ぐって、あいつはもう――っ!!」
 その言葉に呼応するように、健吾がテーブルの破片をばらまきながら身を起こした。
 投げ技は、相手の落とし方によって威力がだいぶ変わる。殺したいなら、両腕を極めて脳天から地面に叩き付ければいい。逆に、怪我をさせたくないなら受け身を取りやすいように背中から落とす。さらに、落ちた場所にクッションになるものがあればより安全だ。
 そう、先ほど瑞樹がテーブルの上に健吾を投げたのはわざとだった。状況が正確には分からなかったので、万一の場合でも過剰防衛にならないように手加減したのだ。
わたくしが、宗佑さんを抱えて逃げることができれば話は早いのですけれど……」
 瑞樹は小さくそう呟いてから、部屋に宗佑を残してキッチンの方へと歩き出した。
「瑞樹……無理するなよ…………」
「大丈夫ですわ。宗佑さんは、身体の震えを押さえて動くことだけを考えて下さいませ」
 瑞樹の前でゆらりと立ち上がった健吾は、しかし、すぐには飛びかかってこなかった。先ほど、瑞樹に投げ飛ばされたことを警戒しているのだろうか。と、不意に健吾が「ゲフッ!」と黒っぽい粘つく血の塊を吐きだした。それを見て、瑞樹は僅かにギョッとする。
 瑞樹は、健吾を内臓にダメージがいくほど強くは投げていないはずだ。当たり所が悪かったか。瑞樹は一瞬そう思ったが、健吾の病的な外見から別の結論に行き着いた。
「貴方、内臓を病んでますわね。吐血の色からして、胃か十二指腸か……。それに、首筋に網の目状に浮き出している血管はクモ状血管腫といって肝硬変の証拠ですわ。白目が黄疸で濁っていることからも、相当に危険な状態だとお見受けしますけれど?」
「ぐ……うるさい……おまえには……関係ない……」
「そうですわね。このまま帰って頂けるなら関係ありませんわ。むしろ、場合によっては良い病院を紹介して差し上げても構いませんけれど、いかがですか?」
 瑞樹の言葉は単なる時間稼ぎだった。当然、そんなことで相手を説得できるなどとは思っていない。もっとも、健吾の病状診断に関しては全部本当のことだ。
「なんで……邪魔する……僕は……七海を愛している……だけなのに……」
「七海さんの尊厳を率先して踏みにじろうとしていたわたくしに言えた義理ではありませんが、貴方のは愛ではなく、ただのエゴですわ。自分の欲望を押しつけているだけ」
「ち……が……う……違う……違う……七海も……僕を……愛してくれていた……」
 部屋の中でズルズルと這うように動いている宗佑を背後に感じながら、瑞樹は健吾を挑発して意識を自分へと向けさせてゆく。健吾の強い悪意が大きく揺らめいている。
「子が親を慕うのは当たり前。貴方は、実の娘からの愛情を曲解しているだけですわ」
「実の娘じゃない……七海は……静香の連れ子……だから……七海も僕を……愛して……」
 健吾のゴポゴポと粘つくような耳障りな声。だが、その口から語られた言葉に瑞樹はもちろん、畳の上を這っていた宗佑までが一瞬目を丸くしてしまった。と、瑞樹の方が宗佑よりも早く我を取り戻す。そして、不意に、瑞樹はうっすらとした怖い笑みを浮かべた。
「そうですか、七海さんのお父様ではなかったのですね。つまり、義理の娘から寄せられた信頼を自分勝手に踏みにじった……。所詮、わたくしも貴方と同じたちの悪い人間ですわ。ですが、貴方が、自分に信頼を寄せる相手を裏切るようなわたくし以上の外道でホッといたしました」
 急激に部屋の気温がグッと下がったような気がして宗佑はゾクッとする。まるで全身が一瞬で凍り付いたかと思うような悪寒に、しかし、宗佑は覚えがあった。それは、瑞樹の凍てつく殺気だ。だが、その氷は以前のように冷たく怖いだけのものではない。
 それは、まるで硬い氷で宗佑を守るかのように包み込んでくれていた。殺気に守られる。そんな矛盾した感覚に宗佑は戸惑い、思わず動きを止めて瑞樹へと目を向けた。
「これで、安心して貴方を壊せますわ」
 と、不意に、瑞樹が動いた。軽く跳躍するように、一歩で健吾との間合いを詰める。それに反応して咄嗟に掴みかかってきた健吾の右手首を、瑞樹の右手が掴んだ。そして、瑞樹はクルッと身体を反転させる。丈の長い水色のフレアスカートがフワリと舞い拡がった。
 瑞樹の体勢は僅かに背負い投げに似ていた。と、次の瞬間、ゴキッと嫌な音を響かせて健吾の腕があり得ない方向に折れ曲がる。それは、以前、宗佑が瑞樹に対してやったような力任せとは違う、梃子の原理を応用して最小限の力で人体を破壊する技だった。
 健吾が悲鳴を上げる暇もなく、瑞樹は次の攻撃へと流れるように動きを繋げてゆく。
 骨を折った勢いのまま更に半回転しながら、瑞樹は、斜め上から踏み抜くように健吾の左膝を蹴った。ミシッと骨か靱帯が軋むような音を立てて、健吾の身体がグラリと揺らぐ。
 それでも瑞樹は止まらない。まるで踊るようなステップで、今度は左右の軸足を入れ替え、回転の遠心力を伴ったままの膝蹴りを放った。それは、ゴスッと鈍い音を立てて健吾の鳩尾に深々と突き刺さる。たまらず、健吾の身体がくの字に折れ曲がった。
 だが、健吾はそのまま頽れることはできない。なぜなら、すかさず瑞樹が下から掌打で顎を打ち抜いたからだ。その衝撃で、健吾の前歯が何本か砕けて鮮血と共にはじけ飛ぶ。
「ぐっ……げっ…………」
 無理矢理に立たされているような健吾が、ようやく小さく呻き声を上げた。そして続けて、ゴポッと粘つく黒い血が健吾の口から溢れ出す。顎を上に向けたような状態のため、それは歯が折れたことで湧き出した鮮血と混ざり合って、健吾の首筋を伝って流れ落ちる。
 健吾は、上を向いたまま、フラフラと数歩後ずさりをして――
 ドサッ!
 キッチンの流し台に背をもたれ掛けさせるように倒れ込んだ。健吾の黄色く濁った目は光を失い、口元からはダラダラと血が垂れている。あり得ない方向に折れ曲がった右腕が、壊れた人形を彷彿とさせた。蹲ったまま、健吾はピクリとも動かない。
 ふぅ、と小さく息を吐いて瑞樹は僅かに乱れた髪をかき上げた。瑞樹の真っ白なブラウスには、点々と真っ赤な鮮血が散っている。見れば、頬にも一筋の血が垂れている。ほとんど息も乱さず、薄笑いを浮かべたまま佇んでいる瑞樹は凄惨な美に溢れていた。
 宗佑は、まるで悪魔のような瑞樹の姿に戦慄する。だが、それと同時に強く惹き込まれていた。思わず、息をするのさえ忘れて見惚れてしまうほどに美しかったからだ。
 そして、瑞樹は宗佑に向き直った。その表情は、既にいつもの笑顔に戻っている。
「すぐに警察を呼んで、救急車の手配をいたしますわ。お母様の様子も見なければ――」
 と、不意にハッとして、宗佑は瑞樹の言葉をさえぎって叫んだ。
「瑞樹っ! 後ろだ!!」
 いつの間にか、健吾が再び立ち上がっていたのだ。口からは血を滴らせ、右腕はブランと折れたまま、左足も何処かバランスが取れていない。しかし、健吾は立ち上がっていた。その左手には、料理中だった静香が出しっぱなしにしていた包丁が握られている。
 宗佑の警告で気配に気が付いた瑞樹は、咄嗟に振り返って健吾に向かい合った。瑞樹は心の中で「あり得ませんわ……」と呟く。先ほど瑞樹は一切の手加減無しで健吾を叩きのめしたはずだ。致命傷ではないにせよ、普通に動けるような軽傷のはずがない。
「じゃ……ま……邪魔するなぁぁ!!」
 不意に健吾が吠えた。そして、怪我人どころか人間業ではない速度で、包丁を腰溜めに構えたまま瑞樹に向かって突撃してきた。予想外の速度に、瑞樹の対応が一瞬遅れる。
 ズンッと鈍い音が響いて、華奢な瑞樹の身体が軽々と吹っ飛ばされた。瑞樹の身体は、宗佑の近くの畳に叩き付けられる。瑞樹の長い髪は振り乱され、表情が見えない。
「みっ、瑞樹っ!!」
 瑞樹が包丁で刺された。そう思って、宗佑は慌てて瑞樹の側まで這い寄る。と――
「だ……大丈夫ですわ。咄嗟に、コレで防ぎましたから…………」
 そう呟きながら瑞樹が身を起こした。見れば、三角巾が裂け、ギプスの表面が大きく削れてヒビが入っている。宗佑は、瑞樹が無事だと分かってホッと胸をなで下ろした。だが、瑞樹も身体を床に打ち付けたため苦しそうだ。それでも、瑞樹の視線は健吾を睨んでいる。
 健吾は瑞樹にぶち当たった場所で蹲っていた。健吾の左足は変な方向にねじ曲がっている。どうやら、瑞樹に痛めつけられた膝が、先ほどの無茶な突撃で完全に折れたのだろう。だが、健吾は痛がる様子はまったく見せない。ただ、立ちにくそうにしているだけだ。
 瑞樹は、健吾の突撃を受けた時点で気が付いていた。そして、遅れて宗佑も気が付く。
 今の健吾は、完全にリミッターが解除されていた。
 考えてみれば、リミッター解除は憑依状態に限ったものではないのだ。あくまで、人間本来の能力を幽霊が補助して引き出しているに過ぎない。火事場のバカ力に代表されるように、危機的状況においては自然に解除されることもあり得るのだろう。
 それが、七海への強い妄執ゆえか、病に冒された身体ゆえか、それとも、瑞樹への敵意ゆえのものかはわからない。だが、これは宗佑と瑞樹にとって不味い状況だった。
「困りましたわ。リミッターが外れた人間相手では、わたくしでも押さえきれるかどうか……」
 瑞樹は、膝立ちで宗佑を庇いながら、健吾の方へと油断のない視線を向けている。
 健吾は折れた足をものともせずに立ち上がろうとしては転ぶということを繰り返していた。だが、程なく立ち上がるだろう。リミッター解除は反射神経も補強する。痛みがない骨折した足程度ならば、コツを掴めば義足のように使うことができるはずだ。
 すぐにでも健吾の脇を駆け抜ければ、逃げることは可能だろう。だが、今の宗佑にはそれほど俊敏な動きはできない。トラウマがある瑞樹では、宗佑を抱きかかえて逃げることも不可能だ。かといって、あの状態の健吾を抑え込むのは瑞樹にとっても命がけになる。
 七海のことだけを考えるならば、瑞樹を捨て石にして健吾にぶつけるのがベストだ。それでも勝てるかどうか怪しいが、七海が助かる可能性は確実に上がる。だが、宗佑にはそんな選択はできなかった。瑞樹は当事者じゃない。これ以上、危険に巻き込むわけには――
「間違っても、わたくしだけを逃がそうとか考えないで下さいまし。これは自己犠牲でなく、生き方の問題ですわ。わたくしは、寄せられた信頼だけは絶対に裏切りたくありませんの」
 しかし、宗佑の考えを先読みして、瑞樹が釘を刺してきた。宗佑は、その言葉に、思わず瑞樹の横顔を見上げる。瑞樹の表情は、決して揺るがない強い信念に溢れていた。
 そして、理解する。今、宗佑がやるべきことは、諦めて次善の策を練ることではない。瑞樹を信頼し、二人で最善の結果を得るために全力を尽くすべきなのだ。宗佑にできること。瑞樹にできること。それだけじゃない。協力することでできることもあるはずだ。
 そう思い直した瞬間、不意に、宗佑の脳裏に閃くものがあった。
 ――もしかして……いや、おそらく成功するっ!!
 宗佑は小さく頷いてから、「瑞樹っ!」と呼びかけた。瑞樹は健吾を警戒しつつも、チラッと宗佑の方へと目を向けてくる。二人の視線が交差し、おもむろに宗佑が口を開いた。
「オレを信用して、おまえの中に受け入れてくれるか!?」
 たった一言で、宗佑の意図が正確に理解できたわけではない。だが、瑞樹は宗佑の目に自分への信頼を見た。だから、瑞樹は「えぇ、よろこんで」と咄嗟に頷く。
 そして、宗佑は憑依を解除して、七海の身体から飛び出した。

 七海の話によれば、宗佑ほど――身体を完全に乗っ取れるほど憑依の相性がよい幽霊は初めてだったらしい。だが、七海は憑依によるリミッター解除を知っていた。つまり、幽霊が身体を乗っ取らなくとも、憑依することでリミッターは解除されるということになる。
 それに、七海は、憑依には魂と身体の相性問題があるが、まったく取り憑けないことは希だとも言っていた。だから、おそらく、宗佑は瑞樹に憑依することができるはずなのだ。
(よし、上手くいった! 憑依成功だ!!)
 唐突に頭の中で響く宗佑の声に、しかし、瑞樹は狼狽えたりはしない。
「これが……憑依状態ですの!? まるで、身体全体が急激に覚醒してゆくみたいですわ」
 むしろ瑞樹は、自分の身体に起こった変化で、宗佑の意図を完全に理解していた。
 そう、宗佑は憑依によって、瑞樹のリミッターを解除しようと考えていたのだ。七海に憑依する場合と違い、宗佑が瑞樹の身体を乗っ取ることはできないだろう。だが、今回の場合はむしろ好都合と言えた。なぜなら、瑞樹の方が宗佑よりも戦闘に長けているからだ。
「身体をぶつけた痛みも嘘のように引いていきますわ。凄いものですわね」
(だけど、肉体自体が強化されたわけじゃない。無理をしすぎれば筋肉を痛めたり、骨折したりもする。瑞樹、くれぐれも無茶をしないように注意しろよ)
 宗佑は、憑依自体は成功すると確信していた。だが、一つだけ、瑞樹のトラウマが気にかかっていたのだ。七海の身体に触れられることが怖いのか、宗佑自体が怖いのか分からなかったからだ。だから、宗佑は最終的に瑞樹が自分を信じてくれることに賭けた。
 そして、宗佑は見事に賭に勝った。瑞樹は震えることも怯えることもなく、宗佑を受け入れてくれたのだ。瑞樹は落ち着き払って、右手を握って憑依状態の感触を確かめている。
 と、健吾が、ようやく片足で立つコツを掴んだらしい。瑞樹の視界の端で健吾がゆらりと立ち上がったのを、宗佑の感覚が捉える。健吾は、先の曲がった包丁を握っていた。
(瑞樹、気をつけろ。あいつ、まだ包丁を手に持ってる)
「大丈夫ですわ。身体条件が五分なら、素人の刃物ぐらいは玩具とかわりませんもの」
 瑞樹は、背後で倒れている七海の身体をカバーしつつ、立ち上がって健吾と対峙する。宗佑が抜けることで、七海の身体が動かなくなってしまうことは分かっていた。だが、瑞樹ならば七海の身体を守りながらでも、健吾と十分に戦えるはずだ。
 健吾の体勢が整う前に、瑞樹は一瞬でその懐に飛び込んだ。とんでもないスピードに驚き、健吾はがむしゃらに包丁で斬りかかってくる。だが、そんなものが瑞樹に当たるわけがない。瑞樹は僅かに身をよじって切っ先を避け、そのまま健吾の胸に掌打を打ち込んだ。
 瑞樹の右腕を通じて、メキッという健吾のあばら骨を数本同時に砕いた感触が宗佑に伝わってくる。そして、健吾はテーブルの残骸を巻き込んで吹っ飛ばされた。
「憑依状態の七海さんほどではありませんが、これだけの力が出せれば十分ですわね」
 瑞樹は、健吾を吹っ飛ばした手応えからそう判断する。もっとも、七海に憑依して大暴れをした時は無我夢中だったため、宗佑には違いがよく分からない。
(で、瑞樹。どうやってあいつを止めるつもりだ?)
「両手両足を壊しますわ。物理的に動けなくしてしまえば、終わりですから」
 怖いことをサラッと言ってのけながら、瑞樹は床を蹴って大きく飛び上がった。
 瑞樹の身体が天井スレスレを舞い、着地点で倒れている健吾へ向かって全体重を乗せた蹴りを放つ。だが、健吾は慌てて横へと転がってそれを避けた。実は、強くなった力に慣れていない瑞樹が思わず高く飛びすぎてしまったため、やや狙いが甘くなっていたのだ。
 テーブルの残骸を踏みつぶしながら着地した瑞樹は、しゃがみ込んだ体勢からバネのように跳ね上がり後ろへとバク転して健吾から距離を取った。先ほどのジャンプと違い、今度は力のコントロールが完璧だ。ヒラヒラと舞う水色のフレアスカートとあいまって、瑞樹の動きはまるで舞踊さながらに無駄が無く洗練された美しさを魅せる。  初撃を外した隙を突かれないように距離を取った瑞樹だが、健吾はようやく立ち上がろうとしているところだった。その状況を一瞬で読みとって、瑞樹は再び攻撃に転じる。
 瑞樹は床を蹴って、今度はその力を上ではなく前へ集中させた。騎士槍ランスでの刺突を思わせるような強烈な蹴りが一直線に健吾の左肩へと向かう。当たれば、骨どころか腕が千切れ飛ぶのではないかと思えるような勢いに、健吾は必死で身を逸らせた。
 蹴りは僅かに健吾の肩をかすめ、そこから軽く血飛沫が上がる。そして、蹴りはそのまま健吾の後ろにあった小さなテレビを段ボールのように易々と貫いて破壊した。
(ちょ……ちょっと待て、瑞樹!! 無茶しすぎだ! おまえの身体が持たないぞ!?)
「加減をして負けたのでは本末転倒ですわ。結果を恐れては何もできません」
 瑞樹は宗佑の慌てた声を切り捨てて、クルッと回転して再び健吾から距離を取った。
 明らかに狂っている健吾にも、身の危険は理解できるのだろう。健吾は左足を引きずるように立ち上がると、瑞樹に背を向けて逃げようとした。むろん、それは大きな隙を生む。
 がら空きになった健吾の右膝に、間合いを詰めた瑞樹が背後から横薙ぎの回し蹴りを放つ。それは狙いをあやまたず、一撃で健吾の膝を砕いた。これで健吾は両足を失ったことになる。
(よし!! これで、あいつは逃げられな――っ!?)
 宗佑は勝利を確信して思わず声を上げる。だが、次の瞬間、蹴りの余波でゴロゴロと転がった健吾を目で追っていた瑞樹の視界に映ったものに宗佑は驚愕した。
「……失敗しましたわ。七海さんに気を取られて、お母様の存在を忘れておりました……」
 宗佑に見えているものは、当然、瑞樹にも見えている。それは、玄関脇でグッタリと意識を失っている静香の首に、唯一無事な左手をかけた健吾の姿だった。
 健吾が、蹴られる方向を予想して誘った可能性はまず無いだろう。だから、あくまで偶然の産物だ。いや、狭い家の中で七海から健吾を遠ざけるように戦っていた以上、これは必然なのかもしれない。主戦場を挟んで、七海と静香は反対方向で倒れていたのだから。
「う……動くな……七海を……姫を……僕に……渡せ……」
 健吾は静香を人質に取って、七海を要求してきた。こんなボロボロの状態でも逃げることではなく、七海を求める執念は半端ではない。だが、それだけに、健吾は本気だ。
 瑞樹と健吾の距離は二メートルを切っている。今の瑞樹ならば、一瞬で間合いを詰めて健吾の腕を正確に破壊できる距離だ。だが、宗佑も瑞樹も、リミッターを解除した人間が一瞬で人体を破壊できることを知っているため動くことができない。
 瑞樹が攻撃すれば、健吾は手を握りしめて静香の首を折るだろう。首が折れる前に、瑞樹が健吾の手を潰せる可能性もあるが、そんな一か八かの賭には出られない。
 瑞樹が手を出しあぐねていると、不意に静香が薄く目を開けた。健吾に首を掴まれている感覚に意識を取り戻したのだろう。そして、静香は反射的に口を開く。
「な……七海、逃げて…………」
 静香に今の状況が飲み込めているはずはない。だが、それでも、静香は娘の危機を敏感に感じ取っていた。そして、静香は重い身体を引きずるように、健吾の肩に手を回す。
「私は、いいから。だから、逃げて…………」
 静香は健吾を抑え込もうとしているのだ。もちろん、リミッターが解除された健吾に対しては無意味なのだが、静香にはそんなことは分からない。自分の首に健吾の手がかかっていることも意に介さず、ただ、七海を守るために必死に身体を密着させてゆく。
「かなり不味い状況ですわ。あれでは、余計に手が出しにくくなってしまいます」
 冷静な分析とは裏腹に、瑞樹はかなり焦っていた。宗佑に至っては、口を開くだけの余裕すらない。と、混濁する意識の中で静香がポツリと呟くように喋りだした。
「前は、七海を守ってあげられなかった。良いお母さんにもなれなかった。でも、今度は絶対に守りきる。そうじゃないと……天国のあの人に――宗佑さん・・・・に顔向けできない」
 唐突に静香の口から飛び出した自分の名前に、宗佑は驚愕する。もちろん、宗佑は静香に名前を教えてなどいない。それどころか、存在すら知らないはずなのだ。だが、静香はハッキリと「宗佑さん」と言った。その懐かしい響きに、不意に、宗佑の記憶が繋がってゆく。
 静香は宗佑を「天国のあの人」と呼んだ。そして、七海を守らなければ顔向けできないと。他人を引き合いに出して、顔向けができないと言うはずがない。七海の母親である静香が、娘を守れないことで顔向けできなくなる相手など世界中を探しても一人だけだろう。
 それに、先ほど健吾は七海のことを「静香の連れ子」と称していた。ということは、七海の本当の父親は別にいることになる。それは、誰なのか。答えは明白だった。
(そう……だったのか!? だから、あんなにもいとおしくて……懐かしくて…………)
「なんですの、宗佑さん? どういう――」
 宗佑の呟きに困惑した瑞樹の言葉を遮って、宗佑は短く事実を告げた。
(七海は……オレの娘だ!!)
 たったそれだけの言葉で、しかし、察しの良い瑞樹は全てを理解した。そして、思わず息をのむ。それならば、なおさら今の状況は不味かったからだ。七海が宗佑の娘ならば、静香は宗佑の恋人だったはずだ。その恋人を見捨てて、娘だけを助けるわけにはいかない。
 八方ふさがりの状況に、瑞樹はギリッと歯噛みした。と、不意に――
「お父さんっ!」
 という声が横合いから響く。それは、瑞樹にとっては聞き慣れた、宗佑にとっては懐かしい、健吾にとっては求め続けた声だった。瑞樹と健吾の視線が声に吸い寄せられる。
 そこには――七海が立っていた。
 それは、宗佑が動かしているのではない、本物の七海だ。二人の父親の意識が、完全に七海に奪われる。見れば、七海は口元から一筋の血を流していた。七海は唇をきつく噛んで、宗佑でさえ耐えかねていた、恐怖による震えを必死に堪えて立っているのだ。
 生理的な嫌悪感や恐怖を精神力で抑え込みながら、七海は無理に笑顔を浮かべる。
「お父さん、わたしが欲しいんでしょ! ほら、わたしはここだよ!!」
 七海は「さぁ、おいで」とでも言うかのように、両手を大きく広げていた。
 歪んだ妄執ではあったが、健吾は四年以上も七海だけを求め続けてきたのだ。だから、その意識が七海へと引き寄せられたのは当たり前のことだった。狂おしいほどに欲して、全てを捨てて欲して、ようやく探し当てた七海が両手を広げて自分を呼んでいるのだ。
「う……ぁ……な……な……み……七海……僕の……姫……」
 健吾の左手が静香の首から離れた。そして、健吾は折れた足を引きずるように七海へ向かって骸骨のような手を伸ばす。健吾の注意が、完全に静香から逸れた。
 その隙を、瑞樹が見逃すはずがなかった。そして……それが全ての決着をつけた。



3.

 砂川すながわ総合病院には、通称スイートルームと呼ばれる特別病室がある。本当に続き部屋スイートルームというわけではないが、その設備や内装は高級ホテルにも決してひけは取らない。
 そのスイートルームの真っ白なベッドの上で、淡い緑色の病衣を纏って横たわっている瑞樹は、見るからに痛々しい姿をしていた。左腕のギプスはともかく、今は右足もギプスで固定され、天井から吊されている。さらに、右手は指先まで包帯でグルグル巻きだ。
 瑞樹の怪我の内訳は軽い方から順に、治りかけの左腕の骨折、全身打撲、極度の筋肉疲労、そして右足首の剥離骨折となっている。幸いにも障害や傷痕が残るような怪我はない。だが、瑞樹は数日間の絶対安静と数週間の入院を余儀なくされてしまっていた。
 むろん、瑞樹の怪我は憑依状態で健吾と大立ち回りを演じたためのものだ。
(瑞樹、その……悪かったな、七海や静香のために無理をさせてしまって……)
 ベッドサイドにあるこれまた豪華な椅子に腰かけて、宗佑は瑞樹と向かい合っていた。今の宗佑は、七海の身体に憑依した姿ではなく、自分本来の――幽霊の姿だった。
「いいえ、宗佑さんの警告を振り切ったのはわたし自身ですわ。気になさらないで下さいませ」
(オレがもう少し冷静だったら、せめて痛みぐらいは軽減してやれたのにな……)
「あの場合は仕方がありませんわ。ずっと呼び戻そうとしていた七海さんが戻ってこられたのですから。夢中になって、周りが見えなくなったとしても責められませんもの」
 申し訳なさそうな表情かおをしている宗佑に、しかし、瑞樹は笑顔でフォローを入れる。
 健吾との決着から、既に一夜が明けていた。
 あの後、七海が戻ってきたことに驚喜した宗佑は、憑依状態で暴れた肉体がどうなるかをすっかり忘れて瑞樹から咄嗟に飛び出してしまった。結果として、瑞樹は極度の全身疲労で倒れてしまい、刺された静香と同じく救急車で運ばれる羽目になったのだ。
 昨夜、七海が住んでいる小さなアパートは、たくさんのパトカーと救急車で一時騒然としてしまった。瑞樹と静香に付き添って病院へ行くところから始まり、警察による事情聴取、その他色々なことを、七海は戻ってきたばかりだったが気丈にこなした。
 宗佑はその時まで知らなかったのだが、瑞樹は砂川総合病院の院長令嬢だったらしい。言われてみれば、瑞樹の苗字も『砂川』だ。お嬢様っぽいとは思っていたが、本物だったことに宗佑は少なからず驚かされた。もっとも、おかげで色々と便宜を図ってもらえたのだが。
 最優先で治療を受けた静香の容態は、思ったよりも悪くなかった。健吾のナイフは奇跡的に内臓の隙間を縫うように刺さっていたからだ。静香は、軽い縫合手術だけで危機を脱した。そして、瑞樹と同じスイートルームへ無料タダで入院させてもらえることになった。
 もっとも、そんなこんなでドタバタしていたため、宗佑が七海と落ち着いて話をすることができたのは夜遅くになって家に帰った後だった。病院に泊まり込むこともできたのだが、静香の入院準備を整える必要があったので翌日出直すことにしたのだ。
「ところで、七海さんはどうされたのですか?」
(あぁ、今は静香の病室にいる。後で、こっちにも顔を出すって言ってたよ)
 つい先ほどまで、宗佑も七海と一緒に静香の病室にいた。家から持ってきた身の回りのものを病室の棚に仕舞ったあと、七海と静香は他愛ないお喋りを交わしていた。本物の七海が静香と会話をするのは、昨夜の手術直後の一言二言を除けば、七海が消えて以来初めてのことだ。だから、七海はやや戸惑っていて傍目にもぎこちない様子だった。
 それでも、七海が消える前よりは、二人の様子は遥かに母娘おやこらしかった。
 そんな二人の様子を、宗佑はしばらく目を細めながら見守っていた。だが、静香は七海と違い、宗佑の声を聞くことも姿を見ることもできない。だから、自分がここにいてもできることはないだろうと判断して、一足先に隣にある瑞樹の病室へと顔を出すことにしたのだ。
「心配していたのですが、そのご様子ならば七海さんの件は大丈夫だったみたいですわね」
(あぁ。七海は、もう一度生きてみると約束してくれたよ。昨日、家に帰ってから必死にお願いしたら、意外にもあっさりと戻ってくることを納得してくれたんだ)
 昨夜、家に帰り着いてすぐに、宗佑は七海に話を切り出した。七海の絶望を知っている宗佑には、呼び戻したいという思いがエゴかもしれない事は分かっていた。だから、七海のためだとか、人生には楽しいこともあるとか、そんな余計なことは一切言わなかった。
 ただ、宗佑はお願いしたのだ。心から「七海に生きて欲しい」と、それだけを願った。
「なるほど、『お願い』ですか。それは……断れませんわね」
 宗佑自身、どうして七海があっさりと納得してくれたのかよく分かっていなかったのだが、瑞樹は理解したようだ。そして、疑問顔の宗佑に、別の質問を投げかけてきた。
「おそらくですけれど、七海さんは、心を閉ざした振りをしていたのではありませんか?」
 瑞樹の言葉に、宗佑は目を丸くする。なぜなら、まったくその通りだったからだ。
(瑞樹、よく分かったな!? オレは昨日の夜に七海から聞かされたんだけど、実は、七海はほとんどずっと外の様子を見ていたらしいんだ。最初は、人生を押しつけたのが申し訳なくて覗いていただけだったけど、見ているうちに目が離せなくなったって言ってたよ)
「でしょうね。そうでなければ、あのタイミングで戻ってくることなどできませんもの」
 瑞樹は、おそらく七海が目を離すことができなくなった直接の切っ掛けは、静香との擦れ違いの解消だろうと考えていた。自分が絶望していた世界が実は少しだけ違っていたことに気が付いた時には、七海はもう宗佑に人生を譲り渡した後だったのだ。
 しかも、七海のためとはいえ、宗佑は友達を作り楽しく暮らしていた。そのことに、七海が興味を示したかどうかは瑞樹には分からない。だが、仮に興味を持ったとしても、勝手に人生を押しつけた立場では今更「戻りたい」などとは口が裂けても言えなかっただろう。たとえ、宗佑がそれを望んでいたとしても、それはあまりにも自分勝手だからだ。
 だから、七海は心を閉ざした振りをして外の様子を――自分にはできなかった幸せな生活を送っているもう一人の『結城ゆうき七海』を見続けていたのではないだろうか。
(あのタイミングって、静香が人質に取られた時のことだよな?)
「そうですわ。お母様の危機に、いてもたってもいられなくなって、七海さんは全てを押して戻ってこられたのだと思います。もっとも、そのままならば、遅くてもお母様が完全に回復されたころには再び消えてしまうおつもりだったはずですわ。ですが…………」
 七海はあの時点で既に、宗佑が実の父親であったということに気が付いていた。正確に言えば、それより少し前、宗佑が帰り道で瑞樹に未練の話していた時点で気が付いたのだ。なぜならば、七海自身も小学校低学年までは園部そのべ姓を名乗っていたからだ。
「娘想いの父親から『生きて欲しい』とお願いされて、断れる娘はいませんわ」
 それが、七海が生きようと決意してくれたことに対する、瑞樹なりの結論だった。
 もっとも、瑞樹は密かに、七海も多少は「戻りたい」と思っていたのではないかと考えていた。人生を自分勝手に押しつけた相手が他人なら、七海は負い目で戻ってくることはできなかっただろう。だが、父親だったからこそ、素直に甘えることができたのかもしれない。
「そもそも、実の父親に出会うこと。そして、義理の父親からの脅威を退けること。それこそが、七海さんへ与えられた本当の『救い』だったのかもしれませんわね」
 瑞樹は言葉を省いたが、他にも七海に対する『救い』に相当しそうなことは色々とあった。だが、どれもこれも、全ては一つの出来事に端を発しているように思われる。
 それは、七海が百人目の幽霊に――宗佑に救いの手を差し伸べたということだ。
(そう……だな。七海の絶望が全て解消されたわけじゃないけど、少しは生きやすい状況になったのかもしれない。それに、消えることが救いだというよりは納得できる)
わたくしは神様など信じていませんが、もしかすると実在するのかもしれませんわね」
 瑞樹の言葉を聞きながら、宗佑は遠い目をして微妙な表情を浮かべる。
(だけど、神様がいるなら『百人の彷徨える魂を救え』なんて言わずに、最初から助けてくれれば良かったのにな。そうすれば、七海だって苦労しないで済んだのに……)
 七海が九十九人の幽霊を救うためにどれだけ無茶をしてきたか、その一端なりとも知っている宗佑としては、完全に手放しで神に感謝を捧げる気には到底なれないのだ。
「神は自ら助けるものを助く、と申しますわ。助かるために必死で努力した者にしか、神様は救いを与えてくれないのかもしれません。神様とは、案外ケチなものですわ」
 瑞樹は、暗くなりそうな宗佑の気分を盛り上げようと、僅かに悪戯っぽい笑みを浮かべて軽口を叩いてみせる。それに釣られるように、宗佑も小さく微笑んだ。
(まぁ、なんにせよ、瑞樹には随分と迷惑をかけたな)
 宗佑は、瑞樹の二箇所に増えたギブスにチラリと目を向けながらポツリと呟いた。
「左腕は自業自得。右足や他の怪我は、自分の意思で動いた結果ですわ。宗佑さんや七海さんの責任ではありません。それに、わたくしは神様の駒になったつもりもありませんから」
 とても瑞樹らしい返事に、宗佑は(瑞樹は強いな)と素直な感想を口にした。
 ほとんど無意識に「神様の駒」という言葉を口にした瑞樹だったが、その言葉から不意に強く連想したのは健吾だった。それは、矛盾する感覚だ。神が七海を助けようとしていたのならば、駒は宗佑でなければおかしい。事実、宗佑が全てのキーワードになっている。
 それなのに、瑞樹の中で何かが腑に落ちなかった。やり方が回りくど過ぎるのかもしれない。七海にとって健吾が危険ならば、遭遇しないようにすればいいのだ。十五年も幽霊として彷徨っていた宗佑を引き合わせるよりはよほど簡単だろう。むしろ、日本中の何処にいるか分からない七海を、健吾が探し当てたことの方が神の奇跡ではないだろうか。
 一連の出来事は偶然にしてはできすぎている。だが、仮に神が実在するとすれば、その真意は何だったのだろうか。少なくとも、七海を救うためだけにしては――
 と、不意に病室の扉がコンコンとノックされ、瑞樹は思索から引き戻された。そして、ガラガラと扉が引かれて七海が病室に入ってくる。七海は瑞樹と目が合うと、何処か申し訳なさそうな表情かおを浮かべた。そして、やや抑揚の薄い独特な喋り方で口を開いた。
「瑞樹さん、色々とごめんなさい。でも……ありがとう」
 その言葉に、瑞樹はやや微妙な笑みを浮かべた。と、宗佑が七海の方へ振り返った。
(七海、母さんの方はどうだ?)
「退院予定が決まったよ。だいたい一週間後ぐらいだって」
(そうか、良かったな。ところで、悪いけど、少し身体を貸してくれるか?)
 何気ない宗佑の言葉に、七海は軽く頷いて「いいよ」と承諾した。
 慣れた様子で七海に憑依すると、宗佑はベッドサイドに置いてあったお見舞い品らしきリンゴと果物ナイフを手に取った。そして、鮮やかな手つきでクルクルと皮を剥き始める。
「宗佑さん、随分とお上手ですわね。料理とか、お得意なのですか?」
「いや、全然。これは、生前にオレが、風邪を引いた静香のために果物を剥いてやったのが切っ掛けで練習したんだ。いつも、家事は任せっぱなしだったからな……」
 宗佑は僅かに遠い目をしながらも、リンゴを一口サイズに切り分けてゆく。そして、同じくベッドサイドに置いてあった皿に乗せてフォークと一緒に瑞樹に差し出した。
「オレにはこの程度しかできないけど、せめてものお礼の気持ちかな」
 差し出された皿を見つめて、瑞樹は僅かに困ったような表情かおを浮かべる。宗佑は一拍おいてから思い至った。今の瑞樹は、指一本動かしても涙が出るほど痛む状態なのだ。
「あっ……悪い、うっかり忘れてた。リンゴ、どうしようか?」
「そうですわね。せっかくですから、宗佑さんが食べさせて下さいませ」
 瑞樹はニッコリと微笑むと、あーんと口を開けてきた。まさか、そう来るとは思っていなかった宗佑は目を丸くしてしまう。だが、お礼と言った手前、断るわけにもいかない。宗佑は恥ずかしがりながらも一欠片のリンゴをフォークで突き刺して瑞樹に食べさせた。
 瑞樹はリンゴを頬張り、シャリシャリと美味しそうに食べる。そして、不意に――
「……やはり、逝ってしまわれるのですね」
 と、ポツリと呟いた。宗佑の未練を含めて全てを知っている瑞樹は、既に別れを予期していたのだ。そう呟いた瑞樹の表情は、見たことがないほどに寂しそうだった。
「あぁ、七海も戻ってきたくれたし、結果的には恋人にも娘にも会えた。それに、瑞樹がいてくれたおかげで、二人の危機を救うことまでできた。もう、未練はないよ」
「そうですか……。いつまで、こちらにいられるのですか?」
「七海の話だと、未練を解消した幽霊は、未練を無くした瞬間か、長くても数日で空気に溶けるように消えてゆくらしい。だから、オレも今日か明日で消えるんじゃないかな」
「寂しく……なりますわね」
 瑞樹はそのまま項垂れてしまう。ギプスや病衣とあいまって、その姿は見ていられないほどに痛々しい。宗佑も辛いのだが、まだ、瑞樹に頼まなければならないことがあった。
「瑞樹、七海のことをよろしく頼む。友達になってやってくれ」
わたくしのようなたちの悪い女など、七海さんの方から願い下げではありませんの?」
「七海は瑞樹のことを恨んでないよ。むしろ、感謝してるってさ」
 その言葉に反応するように、宗佑の脳裏で(うん、感謝してる)と七海の声が響いた。
「おまえの退院までいてやれなくて悪いな。短い間だったけど、瑞樹がいてくれて本当に助かった。それに、色々と楽しかった。変な言い方だけど、成仏しても忘れないよ」
 七海の身体で、宗佑は優しげな笑みを浮かべる。今の宗佑は小柄な少女の姿だったが、その笑顔に、瑞樹は自分の心に芽生えつつあった想いの正体を確信した。
 瑞樹は、自分には想いを口にする資格がないと考えていた。七海には、相当酷いことをしたからだ。だが、チャンスは今しかない。初めての想いに気が付いた時には、既に終わりが目前に迫っていた。だから、せめてこれぐらいなら……。瑞樹は思い切って口を開いた。
「最後に一つ、宗佑さんに、お願いをしても構いませんでしょうか?」
「なんだ? オレにできることなら、何でも言ってくれ」
「では、わたくしをギュッと抱きしめて頂けませんか?」
 瑞樹の最後のお願いにビックリして、宗佑は「えっ!?」と目を丸くした。
「ちょ……ちょっと待て!? 瑞樹、おまえ、オレに触れられるのが怖いはずじゃ――」
「ですから、ショック療法ですわ」
 宗佑の言葉を遮って、瑞樹はもっともらしい言い訳を口にする。しかし、宗佑は困ったように、そして少し恥ずかしそうに「だけど……」と呟いている。
わたくしの心の傷を、このままにして逝かれるおつもりではありませんよね?」
 怪我もトラウマも自業自得だと思っている瑞樹にとって、これはもちろん本心からの言葉ではない。だが、宗佑としてはそう言われてしまうと拒否することなどできなかった。
「……分かった。でも、途中で辛くなったらすぐに言えよ」
 瑞樹は痛みを押してベッドから僅かに身を起こした。そして、腕を横に広げる。
 やや躊躇ったが、宗佑はベッドの端に膝を乗せて瑞樹に身を寄せた。昨日、瑞樹に抱きしめられた時と違い、二人の目線はほぼ同じ高さで向かい合っている。瑞樹の寂しそうな瞳が宗佑を捉えた。いつか七海の瞳にも感じた吸い込まれてしまいそうな感覚に襲われる。
 宗佑は瑞樹に近づき、ゆっくりと背中に腕を回して……そっと触れた。
 僅かに、瑞樹がビクッと身を竦ませたのが分かった。だが、宗佑はそのまま、少しずつ腕に力を入れてゆく。そして、瑞樹が痛がらない程度にギュッと抱きしめた。薄緑の病衣一枚を通して、昨日よりもハッキリと瑞樹の身体の柔らかな感触が感じられる。
 宗佑の腕の中で、瑞樹は明確に震え始めていた。ほとんど完全に密着している瑞樹の胸から激しい心臓の鼓動が伝わってくる。それに呼応するように、宗佑の胸もドキドキと高鳴る。これはショック療法なんだからと、宗佑は必死に邪念を振り払おうとした。だが、華奢ながらも抜群のプロポーションを誇る瑞樹の身体は、否応なく宗佑に異性を感じさせる。
 と、不意に、宗佑の頭の中で七海が慌てたような声を上げた。
(宗佑さんっ!? 瑞樹さんが……泣いてる!)
 その言葉にハッとして、宗佑は驚いた。完全に密着しているので瑞樹の表情かおは見えない。だが、いつの間にか瑞樹は「うっ……ふぅ……」と小さな嗚咽を漏らしていたのだ。
 慌てて身を離そうとした宗佑の背中に何か硬いものが――瑞樹の左腕のギプスが触れた。続けて右手が添えられる。ほんの少し動かしても痛むはずなのに、瑞樹は宗佑の背中に両腕を回していた。だが、これでは、無理に身体を引き離せば瑞樹の手を痛めてしまう。
「みっ、瑞樹!? 手を下ろせっ! じゃないと離れることが――」
 宗佑の焦った声に、しかし、瑞樹は嗚咽混じりの言葉で想いを口にする。
「構いませんっ! 構いませんから……どうか、このまま抱きしめていて下さいまし」
 激しい恐怖、別れの悲しみ、身体の痛み、そして……抱擁の悦び。様々な感情が瑞樹の中で湧き上がり、堪えきれない涙となって双眸から流れ落ちる。もう既に完全なパニック状態だ。だが、それでも、瑞樹は一分でも一秒でも長くこうしていたかった。
 瑞樹は溢れ出す涙に嗚咽を漏らしながら、痛む腕でギュッと宗佑を抱きしめ続けた。

エピローグ

「――っ!? あんまり甘くないのに……すごく美味しい」
 すめらぎ珈琲店のマスターの手作りアップルパイを一口食べて、七海ななみは目を丸くした。
「マスターはお菓子作りもお上手なんですわ。美味しさは常連のわたくしが保証いたします」
 素直に笑顔を浮かべた七海を見つめながら、瑞樹みずきは目を細める。今、二人は皇珈琲店のボックス席で向かい合って座っていた。学校帰りなので、二人ともボレロの制服姿だ。
 テーブルの横には松葉杖が立てかけてある。見れば、瑞樹はまだ右足にギプスをしていた。だが、左腕のギプスは既に外されている。その自由を楽しむように、瑞樹は左手でカップを持ってレギュラーコーヒーを燻らせた。芳醇なアロマがフワリと立ち昇る。
 二週間ほど入院していた瑞樹には、あの一連の出来事について考える時間が嫌というほどあった。だが、どれほど考えても、やはり腑に落ちない点が多いのだ。少なくとも、神かそれに類する何かが背後にいるような気はするのだが、その目的が分からなかった。
 事件の日、健吾けんごは警察の判断で砂川すながわ総合病院へと送致された。そこで、両手両足の骨折よりもむしろ、内臓の方が生きていることが不思議なほど深刻な状態だと判明した。そして、実際に健吾は二日後に息を引き取った。まるで、自分の役目を終えたかのように――
 不意にハッとして、瑞樹はいつの間にか再び考え込んでいた自分に気が付いた。ついつい、深読みしてしまう。瑞樹の悪い癖だ。本当に、もう考えるのはやめよう。一連の出来事で七海は救われた。それで良いではないか。それに、瑞樹も……。
 瑞樹はカップをソーサーの上に戻すと視線を前に向ける。見れば、七海はコーヒーをちびちびと飲んでいた。と、七海はカップをフォークに持ち替えながら隣の人物・・・・に声をかける。
「アップルパイ、美味しいよ。宗佑そうすけさんも食べない?」
 そこには、七海と瑞樹以外には見えない人物が――宗佑が座っていた。
(ん? じゃあ、もらおうかな)
 そう呟くと、宗佑はスッと七海の胸に手を差し入れた。そして、そのまま七海の身体へと吸い込まれてゆく。それと同時に、七海の表情がやや変化した。
 七海は――宗佑はフォークで突き刺してアップルパイをパクリと口にする。
「うん、旨いな!」
(でしょ。わたしは、もう少し甘くてもいいんだけどね)
 宗佑は、先ほどまで七海が飲んでいたコーヒーを手にとって一口啜った。舌に触るザリッとした感触と、目眩を起こしそうなほどの強烈な甘さに、宗佑の顔が僅かに歪む。
「七海、砂糖入れすぎ……。ミルクで薄めていいか?」
(いいよ。カフェオレも好きだし、後は宗佑さんが飲んじゃっていいから)
 宗佑は甘すぎるコーヒーに、ミルクピッチャーからコポコポと大量のミルクを注ぐ。
「しっかし、なんで成仏できないんだろう? 瑞樹の左腕が気がかりだったから、もしかしてそれが未練になっているのかもと思っていたんだが、完治したしなぁ……」
「あら、心の傷はまだ癒えておりませんわ。なんなら、もう一度ギュッとされますか?」
「おまえ……それで一時的に悪化しただろう!? 瑞樹のショック療法に付き合っていたら、永遠に成仏できなくなっちまうよ。だいたい、気絶するまで手を離さないし……」
 瑞樹のしれっとした言葉に、宗佑はカフェオレ擬きを啜りながらジト目を返す。
「それはともかくとして、わたくしもようやく退院できましたし、これからは本格的に未練探しをお手伝いいたしますわ。七海さん、それで構いませんか?」
(うん、一緒に頑張ろう。でも、足の怪我が治ってからの方がよくない?)
「足の怪我が治ってからにしろってさ。まぁ、オレも別に急ぐわけじゃないしな」
 宗佑が翻訳した七海の言葉に、瑞樹は「そうですわね」と小さく微笑む。その笑顔は、何処か楽しそうな印象を受ける。いや、本当に楽しいのだろう。宗佑が成仏できない理由は分からないが、そのおかげで瑞樹はそれなりに幸せな日々を送ることができていた。
 七海も、本当の父親と一緒にいられてきっと嬉しいだろう。成仏時期を気にしている宗佑だって、まんざらではないはずだ。だから、もう考える必要はない。全ては終わったのだ。現状でみんなが楽しいならば最高ではないか。瑞樹はゆっくりとコーヒーを啜った。
「ところで、里佳りか頼子よりこはどうしたんだ? おまえの退院祝いなのに来ないのか?」
 と、不意に、宗佑は先ほどから気に掛かっていた疑問を口にした。七海と一緒に学校に行っている宗佑は、当然、里佳や頼子とも会っている。今日は、瑞樹が病院を退院してから最初に登校した日なので、みんなで遊びに行こうという話になっていたはずだ。
 学校を出る時に一緒ではなかったので、てっきり後で合流すると思っていたのだが。
「里佳さんは、いつも通り生徒指導の山本やまもと先生に捕まりましたわ。適当に話を聞き流してからこちらに向かうそうです。おそらく、そろそろではないでしょうか」
 瑞樹の答えに、宗佑は「なるほど、里佳らしいな」と呟きながら、ジャージ姿の体育教師を思い出した。思えば、宗佑が七海をやっていた頃も、里佳はよく捕まっていた。
 瑞樹は里佳の動向を説明すると、いそいそとコーヒーを啜り始めた。その、何かを隠すような態度を訝しみつつ、宗佑は「で、頼子は?」と尋ねる。すると、瑞樹はやや目を逸らしながら、僅かに口ごもってゴニョゴニョと小声で返事を返してきた。
「……頼子さんは……その……マスターとあまり相性が宜しくないというか…………」
 瑞樹の視線がチロチロとマスターの方を向いているのを見て、宗佑は合点がいった。アップルパイを頬張りながら、もう一度「なるほど」と頷く。と、不意に――
 ブルルルルッ――
 店の外からバイクの音が聞こえてきた。早速、里佳がやって来たらしい。ややあって、カランと音を立てて皇珈琲店の扉が開き……大きな丸眼鏡の少女が顔を出した。
「置いて行くなんて、みんな、ひどいよぉ!」
 唐突に現れた頼子に、瑞樹の目が丸くなる。と、マスターの目はギロリと鋭くなった。
 そして、頼子に少し遅れて里佳が入ってきた。里佳は申し訳なさそうな顔で――
「瑞樹……ゴメン。いつのまにか頼子がバイクの後ろに乗ってたのよ。あたしも運転中に気が付いたもんだから、ビックリして危うく事故りそうになっちゃってさぁ……」
 何処の悪霊の話だ、と突っ込みを入れたくなるような言い訳を口にする。もっとも、頼子の場合は、嘘ではなく全て正味の話として納得できてしまうから不思議だ。
 と、頼子はトテトテと宗佑の方に近寄ってきて、アップルパイを見て声を上げた。
「あ〜美味しそう! あたしにも、一口ちょ〜だい」
 みんなに置いて行かれたことに関しては、辿り着いた時点で既に問題なしなのだろう。屈託無く「ちょ〜だい」を繰り返す頼子に、宗佑は小さく笑って、フォークで一欠片を切り分けて差し出してやる。と、頼子は、何処から出したのかと思うほどの早業でアップルパイの上にマヨネーズを塗った。そして、パクリと口にして叫んだ。
「う〜ん、サイコー。やっぱり、アップルパイにはマヨネーズだよね!」
 明らかに強まったマスターからの視線をビリビリと感じながら、瑞樹は片手を額にあてて盛大にアチャーといった仕草をする。四人が――いや、四人+一人が皇珈琲店への出入り禁止を喰らうのもそう遠い話ではないのかもしれない。

……「憑依ポゼッション −百人目のあなた−」 終


この作品が気に入っていただけましたら『高得点作品掲載所・人気投票』にて、投票と一言感想をお願いします。
こちらのメールフォームから、作品の批評も募集しております。

●感想
うっぴーさんの感想
 うーん、第一印象として冒頭が意味不明でした。
 作家志望の方に共通して言えることなのですが、冒頭で読者を惹きつけようとして、
 謎の、悪く言えば意味不明なエピソードを頭に持ってきがちです。

>そうだ。自分には、やらなければならないことがある。
>だから、立ち止まるわけにはいかない。
>だけど……それは何だっただろうか。
>頭に、もやがかかったみたいで何も思い出せない。
>それでも、立ち止まってはいられない。
>ほら、今も人々は歩き続けている。
>脇を小さな子供がもの凄いスピードですり抜けてゆく。

 すみませんが、この文章を読んだ時点で多少イライラしました。
 何を言っているのかよくわからない上に、非常に抽象的です。人々が歩き続けているというのは、
 実際の風景なのか、比喩なのかも判然としません。
 その後、第一章で、主人公の置かれている境遇がわかって、なるほどそういうことかと納得できましたが、
 この冒頭はあまりいただけませんでした。

 幽霊になってしまった青年が、なにもわからないところから自分の記憶を取り戻そうとしていく展開は、
 なかなかおもしろいと思います。
 ただ、主人公を救おうとする七海の行動に現実性が感じられませんでした。
 なんというかいかにも作り物めいたキャラで、作為臭さがあります。
 幽霊とはいえ、男性にトイレまで付いてこいなどと言うなど、高校生にしては達観しているところや、
 序盤では彼女の目的は明かされていませんが、献身的に主人公を救おうとするところが、
 いかにもご都合主義的に感じられました。
 なぜそこまで、彼を気遣い、つくそうとするのか? 
 目的を知りたいというより、有り得ないだろう思いが先行してしまいました。

 主人公にしても、無個性でおもしろ味がありません。
 序盤では説明やどうでも良いやりとりが多く、あまりおもしろいとは思えませんでした。
 七海との交流を描きたかったのでしょうけど、達観しきった女子高生と、無個性幽霊とのかけあいには、
 ユーモア性がなく、あまり引き込まれる物がありません。

 ラーメン屋に入るというエピソードが入っていますけど……
 これも説明的な話で、たいして必然性も感じられず、さっぱりおもしろくありません。
 また、ここでも七海が、それが食の喜び、などと達観したことを言っていて、
 どうにもこうにも鼻に突く印象がありました。
 お説教臭く、陳腐です。
 
>「おかしいよね。今までなら、そもそも隠そうとさえ思わなかったのに。だけど、宗佑さんにだけは絶対にバレたくないって思ったの。昨日の夜、宗佑さんが本気で怒鳴ってくれたからかな……。わたしのことを気にしてくれて、少しだけ嬉しかった」

 このセリフはあまりにも唐突で、面食らいました。
 七海は、それまで、物みたいに扱っていた宗佑に、突如、恋心を覚え態度をガラリと変えます。
 しかも、2人は、まだ出会って二日目であり、この心境の変化にはついていけませんでした。 

 う〜〜ん、それと、エロいシーンや、性的な話がメインストーリーに入っており、
 中高生向けな話では無いような気がします。
 いじめのシーンなどはなかなか凄惨でよかったのですが、七海としてもバラされるのが嫌なら、
 そもそも援助交際などしなければいいので、自業自得なところがあり、なんだか微妙でした。
 ふだんは自分の身体をまったく大事にしないで、投げやりに生きているのに、
 親や学校に売春を知られたくないというのは、あまり良い心根でない気がします。
 貧乏だというのはわかるのですが、それなら売春などよりバイトをした方が良いのでは?
 それに彼女は、神様に救ってもらうことのみを目的に行動しているのですから、
 その目的を達成さえすれば、 学校にバラされるくらいなんでもないのではないでしょうか?
 悲劇のヒロインを気取っているけれど、実は彼女の悲劇は、その大半が自ら招いた物であり、
 同情の余地はあまりあまりません。

>(いいえ、することになる。だって、わたしはこれから消えるから。わたしが消えて動かなくなった身体を目の前にすれば、優しい宗佑さんがそれを放っておくことはきっとできない。それに、これは運命。神様が与えてくれた救いだから……)
 
 すみませんが、彼女はとことん後ろ向きで暗いです。
 どうしても、あまりよい子には思えません。
 思いこみが強くネガティブで、自ら不幸を呼び寄せて、同情してくれと叫ぶどうしようもない少女です。
 去っていってしまったのも、子供じみていると思いました。

 後半になって瑞樹の出番が多くなってくると、確実におもしろくなってきます。
 人間の両面性をテーマにしているのも良いですし、なにより瑞樹というキャラが立っています。
 だた、しばらくというか、かなり後半まで七海が出てこなくなり、
 瑞樹がヒロインに取って代わったように活躍しだします。
 このヒロインの交代、もしくはヒロイン不在の状態というのも微妙でした。
 七海がヒロインなら彼女を物語の中心に持ってきた方が良いでしょう。

 それと、七海のお父さん、変態でおもしろいです。
 血が繋がっていないとはいえ、ここまで徹底して娘を偏愛しているとは思いませんでした。
 それにしても、主人公を助けてくれたのが瑞樹とは……七海は、本当に良いところがありませんね。
 また、最後のどんでん返し、主人公が七海の本当の父親だとは意表を突かれました。
 これは、なかなか意外な展開でよかったです。
 
 総評として、おもしろいところもあるけれど、全体として荒削りです。
 また、性暴力をストーリーに入れているので、一般受けはしないと思います。
 なにより七海がとことんネガティブで、完全に瑞樹にお株を奪われています。


くろさんの感想
 初めて、この掲示板に参加させてもらいます。
 実を言えばネットで小説を見たのは、この作品が初めてです。
 なので批評するというのは今回が初めてで
 正しい評価を下せるか、また正しい文章で伝えられるかどうか
 不安がありますがよろしくお願いします。

 冒頭ですが、ダークサイドの重く複雑なストーリーだと思わせる書き方なので
 無駄に伏線を深読みしすぎました。
 複雑なストーリーではない、とは言いませんが
 伏線の意味がわかり易過ぎて、七海・静香親子が宗佑と深いかかわりがあるというのが
 序盤でわかってしまい、後半への期待が半減してしまいました。
 そのことについて、警戒心を高めない冒頭にするか
 もっと無駄な伏線や真実をぼかすような描写があったほうが良かったと思います。

 その後の展開は安心して読めましたが
 七海の性格・意思がころころ変わっている印象を受けました。
 「おかしいよね。今までなら、そもそも隠そうとさえ思わなかったのに。だけど、宗佑さんにだけは絶対にバレたくないって思ったの。昨日の夜、宗佑さんが本気で怒鳴ってくれたからかな……。わたしのことを気にしてくれて、少しだけ嬉しかった」
 は突然すぎた気がします。
 ここから後の七海はどうでも良くなってしまったくらいです。
 もう少し性格をわかりやすくしたほうが、いいと思います。

 中盤以降の展開はとても面白く
 前半の暗さと後半の明るさのギャップがとてもいい感じに出ていて
 まるでアメリカの映画の逆転劇を見ているようでした。
 あまりにテンポが良すぎて、前半の伏線への警戒心がまったくなくなってしまい。
 蒼の王子=父親であることに静香が
「けっ、健吾(けんご)さん!! どうして……ここが…………」
 と、言うまで気づかなかった程です。

 戦闘シーンは中盤以降の流れが速すぎたためか
 流れを理解するのが精一杯になってしまいました。
 いうならば、ブレーキを掛けながら読んでいる気になってしまい
 その結果、臨場感が薄れてしまい印象に残りにくいです。

 最後に関してはわざとらしい位のお涙頂戴のほうがいい感じに終わったと思います。
 ハートフルな暖かい終わり方は大好きですが、
 最後にそういったインパクトがあったほうが読み終わったあと、余韻に浸れると思います。

 最後にキャラクターについてですが、
 ハッキリとわかる個性であって親しみのある個性ではなかった気がします。
 それに、個人的には頼子がなぜ七海に興味を示したのか
 もう少し詳しく書いてほしかった気もします。
 
 いろいろと生意気なことを書いてしまいましたが、全体的に面白かったです。
 既に書いていますが、中盤からのあのノリはとても爽快でした。
 これからの活動もがんばってください。


オジンさんの感想
 こんにちは、鈴忌さん。オジンと申します。「憑依(ポゼッション) −百人目のあなた」を読ませて頂きました。

 冒頭、桜の花びらが身体をすり抜けていくところで、これは幽霊かなと思いました。そう思ったところで、冒頭の時間感覚のおかしさの意味が分かりました。 意識が弱くなっていて、ところどころしか認識できなくなっているようですね。この部分は後の憑依された肉体の凄まじさとの良い対比になっていたと思いまし た。

 さて、ストーリー。暗いですねーw。家庭内レイプの過去に、自分が消え去るための幽霊の成仏の手伝い。その途中での援助交際、虐め……。しかも動機が単 純な誤解に基づいていて、七海は完全に人生を投げ出していて、最後まで完全な改心はきちんとは描かれない。なんとなく戻ってきた感じでいついている……。 なんとも後味が悪いです。憑依の過程の描写は楽しめました。ラーメンを思いっきり食うのもいいです(笑)。宗佑が七海とともに生活しだしてだんだん過去の 記憶を取り戻す過程も丁寧に描かれていて良かったです。輪姦未遂後の女子高生の生活をギクシャクと謳歌するのも、それなりに楽しかったです。

 瑞樹があれほどに凄まじいリンチ(三人での輪姦)をしようと考えた動機が理解できませんでした。悪霊を憑依させて、無理やり援助交際の相手にしていると 考えていたようですが、ありえないほど頭がよく用意周到な瑞樹らしからぬ考え方でした。無理やり何かさせることができるのなら、単にお金を出させればい い。わざわざ援助交際をする必要はないことに思い至らないはずはないキャラですよねw。悪人という設定であったにしても、後の瑞樹の行動からは少し外れる 印象を受けました。

 特に気に入らなかったのは、ラストでした。宗佑が幽霊になって彷徨っていたのは、静香とその子供への未練のはずです。しかし途中から、宗佑と瑞樹の恋愛 未満の関係が中心になってしまっています。ラストもそのままでした。幽霊の執念がどこかに消えてしまっているのが、残念でした。

 ストーリー、描写、文章ともかなり高い水準に達していると思います。しかし、登場人物の行動原理が揺らいでいるのが気になります。別の言い方をすると、動機が弱く且つぐらついている感じなのです。
 七海:彼女は消え去ることが目的でした。きわめて確固としているように受け取れましたが、そのときがきても消えません。ぐずぐず居残り、健吾襲来の時点 でのこのこ復活します。復活が悪いわけではないのですが、これはやはり少しは迷いがあるという伏線が欲しいです。できれば、宗佑と静香の生活を見て、再度 生きていく決意に至ると良かったと思います。
 宗佑:コイツは少し変でした。娘を守ろうとするのは当然なんですが、静香をつんぼ座敷に置いてきぼりはないでしょうw。宗佑の思いとしては静香が一番で 無ければおかしいですw。彼女を求めて、もしくは彼女の安否を確めたくて彷徨っていたのでしょうから。それなのに、話す機会がいっぱいあっても話そうとし ない。あまつさえ、ラストを瑞樹と迎える。許せん奴だ(笑)。
 アイデア、ストーリー、キャラはいいので、動機の部分を点検して、一貫したものにするか改心するならそれをきちんと書けば良作になるだろうと思いました。頑張ってください。


Cさんの感想
 こんにちは。はじめて書き込みさせていただきます、Cと言います。SF・ファンタジーが三度の飯より好きで、ライトノベルが主食です。

 憑依(ポゼッション) −百人目のあなた−を読ませていただきました。偉そうな言い方になりますが、かなり上手いと感じました。幾つか気になるところも ありましたので、感想を書いてみたいと思います。このサイトに来るようになったのは比較的最近なもので、見当違いなところもあるかもしれません。一つの意 見として参考になれば幸いです。


●プロローグ
 私は良いと思います。「お、これは何か変わったことが起きているぞ」と興味を持てる出だしです。七海の登場の仕方も印象的でした。ただ、そこから第一話 の冒頭で夕日の描写がまた出てくるのは(表現の仕方そのものは良いのですが)、プロローグと時間的に連続していることが分かりにくい。情景がリセットされ てしまった感じがします。プロローグと本編がまったく違う展開になる小説も多いですから、私は何か別のシーンの話が始まるのかと思ってしまいました。
 宗佑視点から第三者視点に切り替える目的でこうなったのだろうと推測しますが、それなら、(死神……なのか。オレを連れに来たのか?)という宗佑のセリ フから始めるとか、夕日がだいぶ沈んで空は暗くなっている描写にするとかしたほうがわかりやすいのではないでしょうか。あくまで一例ですが。


●ストーリー
 宗佑が七海や静香を懐かしいと感じ、七海が宗佑を他人のような気がしないと言っていた時点で「これは宗佑がお父さんなのかな?」と漠然と思っていまし た。後の展開は予想を裏切らなかったですね。「ああ、やっぱりそうか」と、読めてしまう展開でした。七海が消えたのと蒼の王子が義父だったのはびっくりし ましたが。もう少し健吾が早めに登場して七海に執着する様子などを入れたほうが、カモフラージュになって面白そうです。


●キャラクター
 瑞樹に違和感があります。もともと美少女で、頭もよく、武術もできるお嬢様。意志が強くて、結構人望もあり、霊能力もある。何だかスーパーレディ過ぎる気がします。某ハンター漫画みたいな殺気まで出せますし(笑)。
 最初は悪役ですが、仲間になってからは「万能便利屋さん」になっているような……。七海と宗佑が性格は比較的普通なのに対し、サブキャラたちはいかにもという造形なのが違和感の原因かもしれません。


●オリジナリティ
 安心して読める作品でした。が、独創性があるかどうか……。ここが正直、きびしいと思うのです。幽霊の設定なんかもオーソドックスで、取り立てて目新し いものではない。表現が巧みなので、読んでる間はあまり気にならないのですが。新人賞で他の作品と比べられた場合、競り負ける可能性があるのではないか と。特にライトノベルの場合、斬新さが求められる気がするので。

 あと児童文学なのですが、森絵都の「カラフル」って作品をご存知ですか。映画化もされているそうです。
 これは過ちを犯して死んだ「僕」が天国の抽選(!)に当たり、やり直すチャンスをもらう。「自分の過ちとは何か」を思い出すため、自殺した少年の身体を 借りて暮らし始めるという話なんですが……。複雑な家庭環境とか、援助交際ネタとかも入ってまして、この作品とちょっと似ています。ジャンルは違えど、こ れを超えられるレベルの作品でないと難しいかもですね。


 脈絡なく感想を書き散らしてしまいましたが、鈴忌さんの作品は表現力というか筆力というか、そこが凄いなと思いました。一次選考は余裕で通るのではないでしょうか?
 もっとぶっとんだ設定でも、この筆力があればモノにできるのでは? という感じがします。冒険してみた作品がありましたら、そちらもぜひ読んでみたいですね。

 以上、お粗末さまでした。今後も楽しみにしています。


猫の盛りさんの感想
 だいぶ遅らばせながら、遂に決意した野良猫です。
 勇気を振り絞って、オイラごときが鈴忌さんの作品にあーだ、こーだ言う無礼をお許しください。

 なんだか、うっぴー 様を引き合いにばかり出すのは妙な話ですが、序盤はそれほど悪いとは感じません。
 しかし、バランスが悪いのはオイラも感じました。

 書き出しから、情景と自己に対する叱咤が続くわけですが、唐突……という印象で不意に「ほら、今も人々 は歩き続けている。」ときたので、おや? と思いました。

 この辺は事前に人影等をさりげなくフって、フェードインするように表現してほしいと思いました。

 えーと、お話は再び叱咤と情景描写に戻る訳ですが、七海嬢の登場によりお話が動き出します。この辺は安心してみていられる部分でした。

 そして第一話に入るのですが、冒頭の情景描写がどうもギクシャクしているような気がします。
 まあ、猫の感性が変であるのは疑いようがないわけですが、それでもどの辺が気になるかというと、「まわりをみまわせば」とかですね。見回すというのはなん だかキョロキョロしているような印象を受けます。もちろん、初めての同調を体験した宗佑氏には珍しいのかもしれませんが、冒頭のこの部分は、登場人物の主 観のない読者の為の描写の部分なので、「見渡す」かなぁと思いました。
 そして店舗が点在する商店街の描写につながるのですが、「それなりに人が多い」が、商店街ではなく土手のほうへ行ってしまうので、商店街の描写の意味がなんだか薄れてしまう気がします。
 都内には何箇所か土手の上に駅がある場所があって、そこから土手を通って商店街に人の列が進む様を思い浮かべてたのですが、どうにもしっくりこない感じなのです。

 そこからは、初心者幽霊さんの宗佑氏と七海嬢のやり取りがある訳ですが、最初は七海嬢がリードをしつつ、ちゃんと憑依の暴走があったりとお話のメリハリもばっちり!
 こだわりの店”亞々麺”の登場!直前にリミッターの説明をしてから、リミッターが外れるとは、どういうことかのソフトな例もそつなくこなし、猫的に「うんうん」と頷きながら読んでました(嗚呼、斜めな視線で話を読むのは嫌だなぁ)。

 宗佑氏の感覚による表現が、すこし速めに「普通」になったかなと思いましたが、オイラ的には問題はないと思います(なら書くな)。

 とここで、アトラクション付の「初心者幽霊憑依演習」は終わって、話は少しだけ七海嬢に触れるわけですが、うまい演出だと思います。
 七海嬢の行動、遊んでいる風な振る舞い、実態の生活環境。そして、自分を全く省みないドキリとする一言。
 ただ、少々「急いでる感」を感じました。
 お話に緩急をつけておられるのは解るのですが、寝たふりからの七海嬢の台詞は、もう少し行を裂いてほしい気がしました。まあ、この時点で真相は出さないまでも、少し極端ではと思いました。

 さて、序盤から中盤の最大のイベント、瑞樹嬢が登場します。
 この時点で宗佑氏が見えているだろうことは、バッチリ匂わせているのでオイラ的にワクワクしています。あとお話の核となる「神の言葉」が登場しますね。
 瑞樹嬢の追求に予想外に動揺する七海嬢。泣き出して瑞樹嬢も引いてしまうわけですが、ここでもう少し解りやすく宗佑氏との関係につながる複線をさりげなく蒔くと、あとでかなりよい芽が出ると思うのですが……。

 そしてマヨラー頼子嬢、行動がカワユイ里佳嬢とお話内の基本人物は揃います。

 そして単車でお金をおろしてきた瑞樹嬢の用意周到な罠。まあ、あのくらいの展開がないと瑞樹嬢は後の協力者側には回らないでしょうし、ぜんぜんOKではあるのですが……。

 しかし、後に明かされる瑞樹嬢の七海嬢への攻撃の動機が、いまいち弱い気が。
 要は自分はキッパリ無視してきた、得意な能力を使って面白おかしく生きている悪党が同じクラスにいる。しかし、そいつは基本的に学校内では手下を連れているだけで、特に悪さはしていないし、瑞樹嬢の仲間にも別段被害は出ていない。
 しかも瑞樹嬢の推理だと七海嬢は赤の他人(援交の相手)に手下の幽霊を自在に憑依させられる。個人同士の物理的な対決ならともかく、用意した男達や里佳嬢が憑依されたときのリスクが抜けている気が……。

 えーと、お話は家に帰って、七海嬢が消失し、まあ、ここで死ぬと未練に囚われ易い、この世界観にもかかわらず、あっさり七海嬢が消失しする点に「おやお や」っと複線の匂いをかぎ付けたりしましたが、それは流しつつお母さんとお風呂の「探している!? ……そうか、探しているんだ!!」の時点で母親も、四 年前の娘の苦悩に気づいてやれなかった事を悔やみすぎてるだけなんだと判明し、オイラはとても満足。

 この後、瑞樹嬢からの取引の持ちかけ、それから一気に和解し、協力関係に進み、夢の女子高生ライフが始ま訳ですが、この辺までくるとお話の大きな山を越えたのでお話もスイスイ流れていき、読み手も気持ちよいのでした。

 メンチカツで宗佑氏の恋人が誰だったのかも解って満足だったんですが、この時点では宗佑氏の未練が不明なので、七海嬢消失といっしょにどう解決するかがとても楽しみで、ノリノリで勘ぐりつつ読みました(斜め視線読み……)。

 で、新しい複線のなぞの悪霊と、「蒼の王子」がきて、ふむふむとかんぐって、当然、宗佑氏バージョンの七海嬢が狙われるんだろうなと想像しつつ、がんがん読み進めます。
 もちろん、情報のちりばめ方、お話の緩急は十分で大変楽しめました。

 そしてラストの大活劇。
 惜しむらくは、室内の”狭さ”や物がたくさんある様子を戦闘中の視線の一部として描写してほしかった点でしょうか?(猫はマニアなのです。あと下からの掌 打で歯を折るのは難しいです。噛み合わさる方向には強度がありますから。もちろん絵的なカッコよさはバッチリです^^)

 大段円なわけですが、宗佑氏は消えてもよかったかもですが、瑞樹嬢の未練になりますかね?


 本作は、オイラ的には面白かったです。
 ありがとうなのです。
                                  ではでは


般若さんの感想
 こんばんわ、初めまして。
 批評は誰でもして構わないとあったので思い切って・・・。
 自分、こんな本格的な小説は一度も書いた事がありません・・
 もっぱら、読んで楽しむだけを目的にこちらのサイトに伺いました。

 こちらの作品の題名を拝見して、妙に心引かれて、どこに掲載されているのか探しました。投稿と批評をメインに書かれた入り口だったのでずっと気がつきま せんでしたが・・貴作品を読み始めて、一気に読んでしまいました。これほど没入して読んでしまったのは本当に久しぶりで・・門外漢のド素人なのでこのよう な批評の場に感想を書くかどうかは悩みましたが・・・書く事にします。ちなみに、文章上の構成や技法や技術は全く分かりませんので・・・。


 では。本題です。

 冒頭部分が悪いという批評がついています。私は大して気になりませんでした・・と言いたい所ですが、自分はよほど最初にインパクトが無い限り、前半部分 はサッと動かして大体の情報を読み取って興味あるか調べてから読み始めるので・・冒頭〜序盤を分かった上で冒頭を読んでしまっていて・・判断つきません。 ただ、普段からパスワーキングやら魔術やら霊物ネタは好きというか、結構関わってるので「多分これはそういう描写なんだろうな」というつもりで頭の中でイ メージ化して読んでいたので、あまり違和感は感じませんでした。

 序盤の霊物設定ですが、こういった詳細設定があることでリアリティが出るというか・・自分はなりきりチャット畑なのですが、キャラクターを動かす際、世 界を作る際、細部まで予め破綻なくできているからこそ応用が利いて良いと言えばいいのか・・。どう言えば良いのでしょうか。「この設定であるべきだな」と いうか、「当然だな」というか・・非常にすんなり受け入れる事が出来ました。極端に好みであったというか、私の捉え方に非常に近い気がして、霊物設定の長 さなどは気になりませんでしたが・・純粋に作品に対する必要性などで言えば短くてもいいのかもしれません。しかし、個人的には好きです。

 最初、既存作品の「ブリーチ」のようにファンタジックなものかと思っていました。なので、食の喜び、等、三大欲求を悟りすまして教えてやる部分も受け入 れられました。が、話が進み、日常的な、リアリティのある話としてキャラ付けが進むにつれて七海のイメージは現実的になり、ファンタジックなイメージは 減っていきます。しかしこれは、「こういう作品だと思わせておいて実はこうだった。薄皮をはがすようにタネ明かしを・・・」と、故意にされているんだろう な?と思って読み進めていました。

 リミッターの説明、霊物設定、不幸ごとの不幸さなど、現実っぽさから離れすぎず、かつ霊物を絡めることでリアリティを消すことなく感情移入できました。 強姦→反撃のシーンでは本当に感情を揺さぶられました。主人公の反撃シーンを全て明記するかどうかは・・・私には分かりませんが、「前後不覚無我夢中に なった」表現として書かないのも面白いかもしれません。

 七海が居なくなるくだりでは、ヒロインが不在となり、これからの展開に予測がつかず、「こういう流れの物語が順番に進んでいるんだな」という予想を裏切 られ、ドキドキしつつ、読むスピードが上がりました。瑞樹が実際のヒロインというのは読んでいて分かりませんでしたが・・・悪役として魅力あるな・・と、 中盤ではキャラクターとして惚れていました。後半は完全に味方として書かれていると思います。

 何度も何度もどんでん返しがあり最高に楽しめました。ラストバトルも、現実寄りの設定として臨場感があり、非常に強く感情移入できました。目を閉じれば キャラクターの息遣いと声、強姦した父親の容姿、息使い、吐き戻すような嫌悪感などがありありと眼前に浮かびます。世界観が好き過ぎて正しく感想を書けた か自信がありませんが・・・・非常に楽しい時間を過ごすことができましたし、一つの世界観としてもう心の中に息づいてしまって・・今夜辺り夢の中でこの町 が丸ごと出てきそうで、怖いです(笑)


ぱんどらさんの感想
 はじめまして、ぱんどらと申します。
 『憑依』を読ませていただきました。ちなみに私、霊感ゼロです。

 文章はこなれた感じがあって、安心して最後まで読めました。展開や構成も好き嫌いはともかく、しっかりしています。七海(偽)と静香のシーンは微妙な距 離感をうまく書いていると思います。伏線もいいし。賞への応募作ということなのですが、ひょっとすると……と思わないでもない出来だと思います。ただし、 私自身はあまり楽しめなかったというのが正直なところでした。感想レスを見る限り、ある程度「わかって」このような作りにしてるのだろうと思うのですが。

 まずは感じたことを簡潔に。あくまで、一意見です。
 序盤に季節を示してほしいです(私の読み落としかも)。作品イメージから冬かと思いましたが、中盤(高校に入って2ヶ月うんぬん)になって6月ごろだと気づきました。
 奇抜な本編に対して、プロローグがごく一般的なパターンなので損をしています。「いいえ、あなたはもう死んでいる」以降の10数行だけのほうが印象的では?
 区別化のため「幽霊さん」や「青年」はよくないかと。「じゃあ、幽霊だからユウさん」などと仮名をつけたほうが読者が親しみやすいし、特別っぽさが増し ます。個人的には、徐々に記憶が戻る設定であっても「宗佑」という名前は終盤まで思い出さないでほしいです。そのほうが「かりそめの今」の時間がくっきり しますから。
 幽霊のルール、力のリミッター、七海の過去、屋上の事件の事後処理。いずれもやや設定を語りすぎているような気がします。……これは感覚的なものですか ら、加減は難しいと思いますが。特に1章はせっかく「私は誰?」「目的は何?」から始まっているのに、設定の披露で終わってしまっているような気がしま す。
 タイトルがやや平凡だと思います。まだ『百人目のあなた』だけのほうが……。
 エピローグはやっぱり成仏、あるいは成仏しそうな雰囲気で終わってほしいです。余談ですが、電撃大賞の選考には鈴忌さんに共感するところはあります。

 さて。作品の核でもありますし、鈴忌さんのビジョンは揺るぎないものだとは思うのですが、一言。
 目的のために自分の身体を大切にしない七海。他人の尊厳を踏みつけにする瑞樹。いずれも改心しますが、やはり好意的には見れませんでした。キャラクター はすごく立つんですけど。瑞樹なんて根本の性格は変わっていないように思えるし。また、援助交際、陰湿ないじめ、性的虐待など。それぞれライトノベルでも 書かれなくはないかもしれませんが、ここまできれいに(?)流れてくると、やや気分が重くなりました。
 だからって必ずしもダメだとは思いません。新人賞は作者、作品共に個性も重要だと思うので。凡庸な作品群に埋没するよりも、狙って目立ったほうがずっといいですし。微妙な判断をされそうな作品だなぁと思いました。


アトベさんの感想
 はじめまして読みましたので観想書きます。アトベです。
 
 今回は賞応募なんでかなり本気書きます。まず、結果から
 個人的には大絶賛です。◎

 先にありました感想を読む限りエロとかグロとかあるのかなと思いましたが想像したようなものはなかったです。というより普通にライトにまとまっていました。問題定義のしかたもとくに違和感なかったかと思います。
 本稿ですが、どうも筋道たてて物語の流れ読む人か感情優先で読む人かによってかなり意見が分かれるみたいです。(ちなみに僕は前者です)
 個人的には全てのシーンには理由付けがあると読み取りましたので うっぴー様の感想には激しく『???』 を浮かべる次第なのですが、まあ、この辺は主観の問題なんでやめます。うっぴー様、気分を害されたら謝罪します。
 好きな部分はプロローグとエンディングを抜かしたほぼ全部です。

 さてさて重箱つつきです。

1.重要な問題点(個人の主観)
 @不良が瞬殺されている点
  七海が暴行を受けるときに主人公が怒り狂って助けに入りますが、このシーンがすっぱり切られてます。全文を読む限り意図的に切ったのはわかるのです が、なぜ描写しなかったのでしょうか。はっきりいってこのシーンは見せ場です。暴れまわる主人公を描写しないのはとっても勿体ないことだと思います。

 Aエンディングについて
  成仏させましょうよ。本文の流れではここだけが美しくないです。次回作に持ち越す意図がないならば、絶対に成仏させるべきです。それに賞は一話完結が望ましいですので、その観点からしても成仏させたほうがよいです。

 B規定枚数を超過していることについて
  ドンマイ♪(これしか言えません)

2.細かなつっこみ(個人の主観)
 @イジメの文字を出すのが早すぎる。
>意地悪そうな笑みを浮かべながら、瑞樹は七海の口まねをしてみせる。それを見て、宗佑はようやく二人の関係を理解した。七海は、瑞樹からイジメを受けているのだ。<
 このタイミングでイジメが起きていると知ることができる第三者は超能力者だけです。もっとオブラートに包んで「いやがらせを受けている」程度にしといたほうが妥当です。
 2回目の「イジメ」を出したタイミング(レイプ直前)ではどっちでもいいかと思います。個人的には「=悪戯にしては度を越えている」辺りがオススメ。
 3回目以降は違和感はありません。

 A抜け殻になった七海に憑依した後の心理描写
  物語のストーリは
   やばい何とかしないと ⇒ ばれるかな、ばれるかな(ドキドキ) ⇒ 何ですかこの母親(怒)
  上記になってますけど、こうじゃないですか?
   やばい何とかしないと ⇒ ばれるかな、ばれるかな(ドキドキ) ⇒ 良かったばれなかった ⇒ 何ですかこの母親(怒)

 B魅せる。  初撃を外した隙
  後半のバトルシーンの箇所でミスタッチがありました。(スペース2つ)

 Cプロローグについて
  本編がいいんで、明らかに見劣りしてますね。でも普通な感じがします。


樋口里亜さんの感想
 初めまして、樋口里亜です。
 今回は「憑依―百人目のあなた―」に関する簡単な批評を書きたいと思います。
 
 私は冒頭は良いと思いますよ。
 そんなに気になりませんでした。印象的で幻想的ないい出だしだと思います。映像にしたら映えそうな感じですね。

 ただうっぴーさんの言うように「ほら、人々が〜」がよく分からなかったです。
 ほら、と言うのは“何かを指し示して、相手の注意をひくときに発する声”なので、自分自身にいうのには適切ではない気がします。
 それに主人公が気づく前から人々が歩き続けているなら、最初の時点で道は純白ではないのではないでしょうか?
 主人公が気づいた時から、道が汚されていくのはなんとなくおかしい気がします。


 それと……が多いのが気になりました。

 他には、細かくて申し訳ないですが、七海の言葉で「外見に目立った外傷が残っていれば〜」と言う場面があるのですが、言葉の重複という気がしてくどく感じてしまいました。体に目立った外傷が残っていれば〜でも十分だと思います。

 他には大体うっぴーさんが言ったことばかりですので、このへんで止めておきます。
 後半からぐいぐいと引っ張ってくださり、物語が盛り上がったのも良かったと思います。ただ、やはり七海がヒロインだとしか思えません。
 この物語は七海に出会ったことから始まり――七海と共に終わるのですから。
 それに、瑞樹よりも七海の方が魅力的に描かれているため、どうしても七海=ヒロインに結びついてしまいます。
 もし瑞樹をヒロインにしたいのであれば、もう少し瑞樹を魅力的に描いてあげてもいいのではないかと思います(キャラは濃いのですが)


 性描写や暴力はノワールを目指したのでしょうか?
 一般のノワールに比べて(白夜行など)ならまだ柔らかいと思いますが、新人賞に出すのであればもう少し柔らかい方が無難です。
 性描写を万人受けできる程度に抑えてかければ、別に減らす必要はないかなと思います。
 ただ、ノワールは「人の心の闇」などを、性描写や暴力という一要因で見せるだけなので、メインではない方がいいです。あくまで後押しをするだけといった感じで。

 全体的には、読みやすく着眼点もいいと思いますから最終的にどんな感じになるか楽しみです。新人賞での健闘を期待しています。


一言コメント
 ・話の展開が読める感じがしたけれど。
 ・以前、鈴忌さんのサイトで読みましたが、その時からいいな〜と思いました。
 ・面白かった。お金を出してもいいと思えます。陰惨な話なのに、読後感がとてもよかった。
  この作者さんの話をもっと読みたいですね。
 ・瑞樹のファンになりました。宗佑にはずっとこのまま成仏しないで一緒にいてもらいたいな。
 ・一言、感動しました。

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