高得点作品掲載所     野々宮真司さん 著作  | トップへ戻る | 


人形師は祈る

 1

 あくまでも白く冷たく、滑らかな肌。それを包むシックな黒いドレス。
 豪奢に流れおちる金髪。ヒスイ色に輝く、無表情な瞳。
 それらはすべて、見る者を居竦ませるような完璧な美に満ちあふれている。生身の人間ではとうていあり得ない、完璧すぎる美だ。
 あまりにも美しすぎて――近づくことさえ、憚られる。
 そして、やはり異様なほどに整った紅い唇がわずかに開き、そのモノが声を発する。
「はじめまして。わたしの名前は、マライア、です」
 それはどこか非人間的な、奇妙な声だった。
 いや、声自体は普通の人間と変わらない。むしろ、美しく耳に心地よい声、と言ってもいいぐらいだ。
 だが、そこには人らしい感情というものが、まったくこもっていない。初対面の他者に対する緊張感、あるいは相手に対する親しみ――本来あるべき、そうした表情が欠片ほども感じられないのだ。
 好感も嫌悪もなにもなく、ただ、美しい声だけがそこにある。
「なるほど……たしかに綺麗な仕上がりだ。さすがはベッポ師の弟子、といったところだな」
 丸太を組み合わせて作られた、ロッジ風の店のなか。
 背の高い初老の紳士は金縁眼鏡に手をそえ、窓辺の椅子に腰掛けたソレを熱心に見つめながら呟く。
「良い素材を使っているし、焼き具合も完璧だ。人間の肌のような質感を、実によく再現している」
「――お気に召していただけましたか」
 背後からかけられた静かな声。
 老紳士が振り向くと、そこに立っていたのは、二十代後半とおぼしき若い女性だった。
 紺色の作業服に、黒い前掛け。長い黒髪を後ろでざっくばらんにまとめている。化粧っ気のない顔といい、意志の強そうな瞳といい、女性らしい外見とはお世辞にも言えない。しかし、それはいかにも職人的な雰囲気を漂わせる姿だった。
 よく言えば、ストイックな――悪く言えば、頑固そうな。
 老人はわずかに値踏みするような視線で彼女を見つめる。そして、ひとつ納得したように、ふむ、と頷くと言った。
「あなたが、ニコさんですか。お噂はかねがね。このドーレムはあなたの作品ですね?」
「ええ。これが最新作になります。かなり気合いを入れて作ったので、この一体に三ヶ月もかかってしまいましたよ」
「ほう。それはそれは」
「いかがでしょう? 率直なご感想をお聞かせいただければ有り難いのですが」
「率直な感想ね――」
 老人はちょっと意地悪そうな微笑みを浮かべる。そしてあらためて、目の前に展示された人形――ほぼ等身大に造形された、精巧なビスク・ドールを眺めながら言う。
「とても美しい作品だ。工芸品としては一級のレベルと言ってよいでしょう」
 ありがとうございます、と頭を下げようとするニコを遮って老人は続ける。
「だが、ドーレムとしては、まったく魅力がない」
「………」
「実に、つまらないドーレムだ」
 老人の辛辣な言葉に、しかしニコは表情を変えないままじっと聞き入っている。
 気分を害しているようでもなければ、落ち込んでいるようでもない。そんなニコの様子を見て、老人はまた何度か頷きながら笑う。
「そう、あなた自身、それは分かっておられるんだ。ベッポ師の弟子として、ずいぶん長く修行を積んできたのでしょう? ならば分かっていて当然だ。師の作品と比べてみれば――あなたのドーレムには、明らかに欠陥がある」
「……おっしゃる通りです」
 ニコは頷く。
 そして二人は、店内に所狭しと並べられた沢山の人形たちのほうを振り返る。
 そこには、窓から射し込む西日に赤々と照らされて、数十体の人形たちが思い思いのポーズで静かに並んでいる。等身大のものから、手の平に乗るようなものまで、サイズはさまざまだ。
 ある者はただぼんやりと佇み、ある者は椅子に腰掛け本を読んでいる。なかには、ニコと老人の視線に気づいて、ふとこちらに顔を向ける者もいる。
 人間のように確かな存在感があるわけではない。しかし、ただの人形とも違う。彼らは間違いなく、生きてそこにいた。彼らは、モノの静けさと、ヒトの温もりを同時にそなえているのだ。
 人形師と呼ばれる専門の術師たちによって、命を吹き込まれた魔法人形――ドーレム。ヒトでもなく、モノでもない、不思議な生命のかたち。
 この街では古くからドーレム作りが盛んで、通りには数多くの人形工房が軒を連ねている。なかでも、ニコがそのもとで修行しているベッポ師は、飛び抜けて優れた天才人形師として街中で名声を博していた。このロッジ風の店舗はベッポ師の住居と工房も兼ねており、店内に陳列されているドーレムたちのほとんどは彼の手になるものだった。
 ふと自分のマントが下から引っ張られるのに気づいて紳士が見下ろしてみれば、そこには膝丈ほどの小さな妖精の女の子がいて、小声でくすくす笑っていた。
「こんちは」
 もちろん彼女も人形なのだが、とてもそうは見えない。くるめく大きな瞳といい、生き生きとした頬の艶といい――人の手で作り出されたとはとうてい信じられないような、自然な表情に満ちている。
「これ、あたしが見つけた宝物なの。おじさんにあげる」
 少女は老人の手の平に、小さな丸い玉をコロンと転がし入れた。
 見れば、それは人形の目玉に使うガラス玉だった。あわててニコが少女を叱責する。
「まったく、あんたって子は! 工房の道具には触るなってあれほど言ったのに!」
 妖精の少女は、おかしくてたまらないようにケラケラ笑いながら、店の奥のほうへ走り去ってしまった。まるで、本物の妖精さながらの軽やかな足取りだ。
「――ふっふ、元気なお嬢さんだ」
 老人は顔をほころばせてそれを見送ると、ガラスの目玉をニコに返した。恐縮しながら、それを受け取るニコ。
「すみません、お客さま。失礼をいたしました」
「いや、いいんですよ。しかし、さすがはベッポ師の作品ですな。あそこまで生気に満ちあふれたドーレムは、そうそうお目にかかれるもんじゃない」
「そうですね……私の作品とは大違い。十年来ベッポ先生のもとで修行していますが、未だに先生の創作の秘訣がどこにあるのか、分からないんです」
 ニコの作るドーレムは確かに美しかったが、それだけだった。その見栄えの良さに足を止めてくれる客は多かったが、しばらくドーレムと話しているうちに、ほとんどの人はつまらなそうな顔をして、ベッポ師の作品のほうを手に取るのが常だった。
 ニコの作品には、師のそれと比べて、豊かな表情や生命力といったものが微塵も感じられないのだ。老紳士の言う通り、それはニコ自身よく分かっていることだった。
 私には才能がないのかもしれませんね――
 そう言って少し哀しそうに笑うニコに、老人は励ますように言った。
「一流の人形師になるためには、時間がかかるものです。あなたはまだ若いのだから、焦ることはない――と言いたいところだが」
 そこで老人は言葉を切り、眉を曇らせる。
「ベッポ師のご病気は、相当お悪いそうですな」
「ええ。この一ヶ月がヤマだと、医者は言ってました」
「そうですか……では、彼らの命も危険にさらされている、というわけだ」
 そう言って老人は、店のなかの人形たちを哀れみに満ちた眼差しで見渡す。
 そう。ドーレムたちの生命力の源泉は、それに命を吹き込んだ人形師自身の魔力にある。だから、万が一ベッポ師が亡くなってしまえば、彼の作った人形たちもまた、同時に命を失うことになるのだ。
 そのベッポ師は現在、街の施療院で長いあいだ入院治療を受けている。
 ニコが見舞いにいく度に、師の姿は前よりやせ細って見えた。素人目でも、その命がもう長くないことは明らかだった。
 老紳士は気がかりそうな様子でニコに問いかける。
「ベッポ師がそのような状態では、ドーレムの売り上げにも響くのではありませんか?」
「たしかに、以前ほどの人気はありませんね。でも、ベッポ先生の名人芸を味わう機会もこれが最後だろうから、と言って買っていかれる方が結構いらっしゃいます。ドーレムの寿命が長くもたないだろうことを承知で……」
「なるほど。なにせ、百年に一度の天才と言われるベッポ師ですからな。それも無理からぬ話だ――どれ、私もひとつ、買っていくことにしよう」
 老人はテーブルの上に置いてあったピエロの人形を手に取った。鮮やかな道化師の衣装に身を包んだドーレムの少年は、にっこりと微笑んだ。ぼくを選んでくれてありがとう、と言うかのように。
 精算をすませた老紳士は、帰り際にもう一度、ニコを振り返った。
「このお店は、あなたが継がれることになるのかな。なんでも、ベッポ師の弟子はあなた一人だと聞いているが」
「ええ、私一人だけです。でも、未熟な私の力では、一人で店を維持することなんて、とてもできないでしょう。この店は畳んで、またどこかの工房に弟子入りすることになると思います」
「そうですか……」
 あまり気落ちされないように、と言って帰っていく老紳士を、ニコは店の外まで見送った。
「――ありがとうございました」
 太陽は今まさに西の山陰に沈みこもうとしており、辺りはすっかり暗くなっていた。そろそろ閉店の時刻だった。
 ニコは、真っ赤な夕陽が、黒いシルエットと化した山々の稜線に飲み込まれていく様をじっと見つめていた。そして、時間を止めることは誰にも出来ないんだ、と思った。
 老いることのないドーレムたちでさえ、いつかは死んでしまう。ただの人形に還ってしまう。ベッポ師の作品も、おそらく近いうちにそうなるだろう。
(私はけっきょく、先生の技を学びきることができなかったんだ――)
 十年間、ベッポ師のそばについて、必死でその技を盗もうと努力してきた。お陰で、人形の「形」を作ることに関しては、ほぼ完璧にマスターできたと思う。けれど、もっとも肝心な「魂を吹き込むこと」については、ほとんど進歩していないと言ってもよかった。
 天才ベッポ師のもとで修行するという素晴らしい環境に恵まれながら、自分はその幸運を十分に活かすことができなかったのだ。
 せめて、あと二、三年、師のもとで修行できれば良かったのだが――しかし、それは今さら言っても仕方ないことだった。
 いつの間にか、太陽はすっかり山の向こうに姿を消し、通りには晩秋の冷たい風が吹きはじめていた。ニコは思わず自分の肩を抱いて身震いした。
 後片付けと掃除をするためにニコが店内に戻ってみると、そこには一人の少年がいて、窓際の椅子に腰掛けたドーレムを熱心に眺めていた。ニコが手がけた、「マライア」の人形の前だ。
 年の頃は、十二、三歳ぐらいだろうか。茶色の髪をおかっぱにしていて、一瞬女の子に見間違えそうになってしまう。白い絹布のシャツの上に上品な黒のブレザー、同じく黒の膝丈までのズボン。どこかの良家の子女、といった雰囲気だ。
 いったい、いつの間に店に入り込んだのだろう。
 訝しんだニコが声をかけようとする前に、少年がこちらに振り向いた。
「――ん。ああ。あなたがニコさんだね。ベッポ師の弟子だっていう」
「え、ええ。そうだけど……」
 この少年は……?
 瞬間、ニコの頭のなかに微かな記憶のきらめきが走る。
 私は、この少年に会ったことがある。果たして、どこで会ったのだったか――
「閉店間際に悪いんだけど、あなたに話があるんだ。座ってもいいかな?」
 少年は赤みを帯びた薄い色の瞳をきらめかせて、いたずらっぽく笑う。
 その微笑みが誰かに似ている、とニコは思う。だが、それが誰なのか思い出すことができないまま、ニコは少年の言葉にただ黙ってうなずいた。


  2

「ユマール家からのお使い?」
 入り口のドアに『閉店』の掛け札をかけておき、ニコは店の中央に置かれたテーブルを挟んで少年と向かい合っていた。
「そう。町外れの“影の森”に、ユマール家の別荘があるのは知っているよね? 僕はあそこから来たんだよ」
 テーブルの上に置かれたランプの灯りを、なんとなく瞑想的な眼差しで見つめながら少年は言う。
 少年の言葉を聞いた瞬間、すっと辺りが暗くなったような、そんな気がした。影の森――その言葉には、ひそかな予兆めいた響きが含まれている。なんの予兆かは分からないけれど、ニコは確かにそれを感じる。
 薄暗い店内には、ドーレムたちの静かな気配が澱のように漂っている。彼らは黙って少年とニコの話に耳を澄ませている。あるいは何も考えず、ただそこにいる。
 少年はしばらくの間、彼らの沈黙に同調するかのように、身じろぎもせず黙り込む。通りを吹き渡る風が、窓ガラスをかたかたと鳴らす。部屋のなかの闇がまた、少しずつ濃くなっていく。
 やがて少年は、ランプの灯りから目を上げると、ニコの瞳をまっすぐに覗き込んで微笑んだ。どこか子供離れした、蠱惑的な微笑だ。
「この店は変わらないね――陳列されてるドーレムの顔ぶれは変わっても、そこにある暖かみは変わらない。ベッポ師の人柄が人形からにじみ出しているんだろうね。もっとも、あなたはだいぶ変わったようだけれど」
「え――私が?」
「うん。以前に比べて、顔つきが鋭くなった」
「この店に来たことがあるの?」
「ずっと前にね」
 やはり、少年とニコはかつてこの店で会っていたのだ。でも、それは一体いつのことだったろう? ニコは少年の顔を見つめながら懸命に頭のなかの思い出を探っていた。
 それにしても、年齢のわりに、ずいぶんと大人びた子供だ。こうして向かい合っていると、自分より年上の人間を相手にしているような気分になってくる。こんな不思議な子供と出会っていたら、もっと印象に残っているはずなのに――どうして、こんなに記憶が曖昧なのだろう。
 ニコがその疑問を口にしようとすると、それを封じるかのように少年が訊ねた。
「“影の森”に行ったことはある?」
「いいえ」
 ニコは首を振る。
「あそこは人通りも少ないし、昼間でも暗いし――なんだか怖い場所だわ。できるだけ、あそこには近寄らないようにしてる」
「そう。誰もあそこには近づきたがらない」
 少年はテーブルの上に陳列されているドーレムを見、それからまたニコに視線を戻して続ける。
「――常に結界が張ってあるんだ。人の精神に作用して、“なんとなくイヤな感じ”を与えるようにしてある。森に深く踏み込めば踏み込むほど、その感じは強くなってくる。だから、あの別荘に辿り着くのは簡単じゃない。少なくとも普通の人にとっては」
「専門の結界師を雇っているのね?」
 少年は頷く。
 ニコは少し躊躇いながら、問いを重ねる。
「あの別荘には、誰かが住んでいるの? つまり、一時的な滞在ということじゃなくて」
 少年はふたたび頷く。そして、すっかり暗くなった窓の外――“影の森”のある西の方角を見つめながら言う。
「十七歳の女の子が住んでいる。名前は教えられない。僕も本当の名前は知らないんだ。彼女が現在のところ、あの館の主だ。他には執事が一人、女中が二人、庭師が一人――それから小間使いの僕」
 森に人が住んでいたことは、ニコにとって予想外のことだった。“影の森”は、なんとなく人の住む場所としてふさわしくないように感じられたからだ。
 あの森には非人間的とも言うべき、独特の空気がある。それはただ単に、結界が張られているからというだけの理由ではないような気がする。あそこに漂っている不気味な雰囲気は、たとえて言うならば、そう――
 墓地、だ。
 その“影の森”にずっと住んでいるなんて、いったいどんな人なんだろう。
「その女の子は、ユマール家の人なのね?」
 ニコの問いに、少年は肩を竦める。
「たぶんね」
「たぶん?」
「言っただろう、彼女の名前も分からないって。僕らはユマール家に雇われて、彼女の世話をしているだけなんだ。とにかく謎に包まれた人だよ。僕らは“女王”って呼んでいる」
「その“女王”が――私に仕事の依頼を?」
「そう。女王さまは、一体のドーレムを所望している。用件を一言で言えば、こういうことだ。つまり」

「――あなたに、僕を作ってほしいんだ」

「――え?」
 一瞬、ニコは何を言われたのか分からなかった。
 少年はそんなニコの反応が可笑しかったのか、くすくすと笑いながら続ける。
「何をそんなに驚いているのさ。あなただってプロの人形師なんだ。今さら、この程度の依頼で驚くこともないでしょう?」
「え、ええと。つまり、あなたそっくりのドーレムを作ってほしい、ということなのね?」
 戸惑いつつニコが確認すると、少年は首を振った。
「違うよ。そうじゃない。“僕そっくりのドーレム”じゃなくて、“僕そのもの”を作ってほしいんだ。それが、我らが女王の望みだよ」
 少年の言葉に、ニコは溜め息をついた。
 女王だかなんだか知らないが――金持ちというのは、いつでも無茶な要求をするものだ。報酬に目がくらんでそういう仕事を安請け合いすると、あとあとトラブルに巻き込まれるのがオチだった。
 この件にはあまり深く関わらないほうがよさそうだと判断し、ニコは硬い声で言う。
「私は人形師よ。ドーレムを作ることはできても、人間を作ることはできないわ」
「そうかな?」
 少年はニコの顔を面白そうに見つめる。そして、アーモンド形の美しい瞳をわずかに細めて笑う。
「人間ってのは、つまるところ、よく出来た人形に過ぎないんじゃないかな」
「――え?」
「少なくとも僕には、人間とドーレムのあいだに本質的な違いがあるとは思えない」
 少年はそう言って手を広げ、部屋のなかに佇むドーレムたちを指し示した。
「ドーレムがただの物体なのか、それとも魂を持った生命体なのか、ってことについては古くからいろんな哲学者や魔術師たちが議論してる。ドーレムはたしかに、心ある人間のように振る舞っている。でも、それは魔力によってそう見せかけているだけだ、とある者は言う。心があるように見えるのは表面だけであって、実際には彼らはただの物質の塊に過ぎないってわけだ。でも、それを言うなら、人間だって同じことじゃないか?」
「………」
「僕もあなたも、結局のところは物質の塊だ。身体を解剖したって、そこに心があることを確かめることができるわけじゃない。じゃあ、僕らは何をもって、他人に心があるってことを判断してるんだろうね?」
 突然、饒舌になった少年に戸惑いながらも、ニコはいつの間にか、彼の問いかけについて真剣に考えている自分に気がついた。
 ドーレムと人間の違い。
 それは、人形師であれば誰でも一度は取り憑かれる問いだった。特に、人形に魂を込めることが上手くできない今のニコにとって、それはただの哲学的な議論ではなくて、職業上の悩みでもあったのだ。
 人形に魂を込めるのが、人形師の仕事だ。じゃあ、その魂とは――あるいは心とは――いったい、なんなのだろう?
「僕らはふつう、心ってものが身体の内側にあると思ってる。でも勿論、身体を切り開いてみても、そこにあるのは内臓だけだ。だったら答えは簡単だろう? 心は身体の外側にあるのさ」
「外側?」
「そう――つまり、表面だ。言葉や、表情や、身体の仕草。そういうものの総体が、心と呼ばれるものの正体なんだ。要するに、人間もドーレムもおんなじ、ってことさ」
「うーん……」
 身体の表面に現れるものが、心を形作っている――というわけか。
 少年の言葉にはそれなりの説得力があった。
 でも、本当にそれだけなのだろうか? 人間とまったく同じように振る舞うドーレムが存在したとしたら、それは人間と同じ心を持っていると言ってよいのだろうか?
「――これは前金だ」
 少年は懐から、かなりの額の札束を取り出して言った。
「“僕”が完成して、女王さまがその出来に満足されたら、この倍の報酬が出る。もし、女王さまが気に入らなかった場合、報酬は出ないけど、前金は返さなくていい。仕事料だからね。――悪い話ではないだろう?」
 少年は札束を無造作にテーブルの上に放りだすと、もう話は済んだとばかりに立ち上がった。
「ちょ、ちょっと! まだ、仕事を受けるとは言ってないわ!」
「いや、あなたは受けるよ」
 少年は何故か、鋭く、刺すような眼差しでニコを見つめる。
「受けざるをえないんだ」
「そもそも、どうして私なの? 他にも人形師はたくさんいるのに。私なんかより、ずっと才能のある人たちが」
「それはね」
 少年は店の出口に歩いていきながら、振り返りもせずに答える。
「あなたが、ベッポ師の弟子だからだ。ほんとうは、ベッポ師にやってもらえれば一番いいんだけど……彼はあんな身体だからね。だから、他に腕のいい人形師の心当たりがないか、ベッポ師に訊いてみたのさ」
「え?」
「そしたら、ベッポ師は言ったんだ――これは弟子のニコがやるべき仕事だって」
「先生が? 私の仕事……?」
 混乱するニコを尻目に、少年は店のドアを開き、最後に一度だけ振り返って言った。
「これから毎日、ここに来る。僕の姿をよく観察しながら制作を進めてほしい。“僕そのもの”を正確に写し取ってもらわなくちゃならないからね」
 少年の瞳は、ランプの光を反射して紅く輝いていた。
 瞬間、ニコの心がざわめく。
 この瞳は。この輝きは。
 何かを思い出しそうになる。何か、重要なことを。けれど、ニコの記憶の蓋は、未だ固く閉ざされたままだ。
「――僕の名前はレイだ。それではおやすみ、ニコさん。また明日」
「ま、待って!」
 少年はもう、何も言わずに店を出ていった。
 ひとり店内に取り残されたニコは、ただ呆然とその場に立ちすくんでいた。
(先生が――どうして)
 ドーレムたちは、何かを知っているような眼差しで、少年が消えていったドアの向こうの通りを、無言のまま見つめていた。


  3

「そうか……レイが店に来たか」
 翌日の朝。
 ニコは店を開く前に、街の施療院にベッポ師を訪ねた。
 老いた師は、もはや上半身を起こすだけの気力もないらしく、ベッドに身体をあずけたまま、ニコの話をじっと聞いていた。ニコはベッドの傍らの椅子に腰掛け、昨夜レイが訪れた時のことを師に伝えた。
 ベッポ師は深いため息をついた後、ニコの瞳をまっすぐに見つめて言った。
「ニコ。その仕事、引き受けてくれまいか」
「………」
「どうしても、おまえにやってもらいたい仕事なのだ」
 長い闘病生活のために、ベッポ師の声はすっかり嗄れていた。全身の衰弱もさらに進んでいるようだ。白い髭に覆われていても、その頬が以前よりもだいぶこけてしまっているのがはっきり分かる。
 それでも、その瞳はあいかわらず強い光を放っていた。相手を怯ませるような鋭さを持つと同時に、どこか子供っぽい純粋さも残しているような――そんな不思議な眼差し。職人の目だ。
 ニコはベッポ師から視線をそらすと、うつむいて言った。
「出来ることなら、先生のほうに依頼したかった仕事だとレイは言ってました。私ではとても、先生の代わりにはなりますまい」
「………」
「こんな重要な仕事を任せていただいて、とても光栄なことだとは思います。どっちにしろ、前金はもらえるのだから、損な話でもないでしょう。でも、やるからにはお客さまを満足させるものを作りたいし、先生の代役として立派な作品を作り上げたい。けれど」
 ニコはぎゅっと拳を握りしめる。そして、絞り出すような声で続ける。
「けれど……私にはとても無理だ……“人間”を作るなんて……!」
 しばしの間、病室に沈黙が落ちる。
 窓の外では、秋の柔らかい陽射しのもと、小鳥たちが平和そうな囀りを交わしている。
 ニコは握りしめた自分の拳を見つめたまま、うつむいていた。
 そう。ベッポ師であればともかく――未熟な自分の力では、“レイそのもの”を作ることなど、絶対に出来ない。ニコ自身、自分の力の限界はよく分かっている。
 最初から出来ないと分かっている仕事を、前金目当てに引き受けることは、ニコの誇りが許さなかった。不満足なものしか作れないのなら、最初からそんな仕事は引き受けないほうがいい。
 今日レイが来たら、前金は返します――そう言おうと思って、顔を上げた矢先だった。
 ベッポ師がしみじみとした口調で、静かに言った。
「ニコ。おまえが、初めて作ったドーレムのことを憶えているか」
「え――?」
「あれは、もう十年以上も前になるのか……時の経つのは早いものだな。あの頃、おまえはまだ、ほんの子供みたいな顔をしていた」
 ベッポ師は、窓の外、施療院の庭をちらりと見遣る。そして、小鳥たちの囀りに耳をすませるかのように目を閉じて言う。
「おまえは突然、わしの工房にやってきて、自分の作ったドーレムを見てほしい、と頼み込んできた。出来れば、弟子入りさせてほしい、と言ってな。わしは弟子を取るつもりはなかったから、最初は追い返そうと思ったんだよ」
「――憶えています」
 あれは、ニコが街の職人学校に在籍していた最後の年――
 ちょうど、今ぐらいの季節のことだった。
 ニコは、初めて自分で作ったドーレムを持って、ベッポ師の工房を訪れたのだ。ドーレムはそれほど大きなものではなく、片手で持てるサイズの、少年を象ったものだった。
 ――お願いです! 作品を見てくださるだけでも結構ですから……!
 ニコは、どうしても自分のドーレムをベッポ師に見てほしかった。何度も頭を下げて、必死に懇願した。
 今振り返れば、それは若さゆえの、勢いに任せた申し出だったと思う。突然押しかけていって、ベッポ師もさぞ困惑したことだろう。
 けれど師は、作品を見るだけだったら、と言って、がちがちに緊張したニコを工房のなかに案内してくれたのだった。
「――自分でも、ずいぶん非常識な娘だったと思います。ほとんど熱意だけで、無理矢理弟子入りしてしまったようなものですからね。初めて作ったあのドーレムも、今から考えると、拙い出来映えでした」
「いや……熱意だけだったら、おまえを弟子に取ったりはしなかったさ」
「え?」
 ニコは思わず、師の顔をまじまじと見つめる。ベッポ師は、当時の思い出を瞼の裏に思い浮かべているのか、目を閉ざしたまま続けた。
「他にも、弟子入り志願者はたくさんいた。そのなかで、おまえだけを弟子に取ったのは、おまえの作ったあのドーレムを見たからだ」
「でも、あれは……」
「そう、たしかにひどい出来映えだった――」
 ベッポ師の口元が、ふと緩む。
「左右のバランスも取れていなかったし、関節もグラグラだった。顔の作りも、目ばかりぎょろぎょろ大きくて、かわいいというよりは不気味な感じだった。見た目だけで言えば、落第点といってよかったさ。だが」
 ベッポ師は目を開き、ニコのほうを見た。鋭い眼光が、ふたたびニコの瞳を射る。
「ドーレムと話しているうちに、初めの印象は覆った。そのドーレムにはたしかに、人間の魂が宿っていたのだ。作り物ではない、本物の魂が。わしは驚いた。初めての作品で、これほどのものを作れる人間はそうそういない。この娘はいずれ、街一番の人形師になる――わしはそう確信したのだよ」
「………」
「ニコ。おまえは、わしが生涯で認めた、ただ一人の弟子なのだ。自信を持ってよいのだぞ」
「……しかし、私はまだまだ修行不足です」
 ニコはそう言って唇を噛んだ。
 そうだ。自分の今の実力では、師の足許にも及ばない。師の代わりを務めるには、まだ学ぶべきことがあまりにも多く残っている……
 しかし、ベッポ師は、ニコの言葉に対してゆるやかに首を振った。
「いいや。技術的なことに関して言えば、おまえは全てを学んだのだ。わしがおまえに教えられることは、もう何もない。ここから先は、おまえ一人の足で歩んでいくしかないのだよ」
「私、一人で……」
 不安げにそう呟くニコの手を、ベッポ師はそっと握りしめる。
「大丈夫だ。おまえだったら、きっと出来る。この天才ベッポが言うのだから、間違いない」
 そう言って師は、老いた顔にいたずらっぽい微笑みを浮かべるのだった。


 レイは再び、閉店間際にやってきた。昨日と同じ服装に、今日は臙脂色のベレー帽をかぶっている。
「お店を開けている間は、思うように制作に打ち込めないだろうからね。これぐらいの時間のほうが都合がいいだろう?」
 そう言うが早いか、勝手知ったる、とばかりに店の奥の工房へつかつかと歩み入っていく。ニコは溜め息をついて、少年の後に続いて工房に入っていった。
「私が仕事を断るかもしれない、とは考えないの?」
 ニコが訊ねると、少年はとぼけたような顔をして振り向いた。
「いいや? だって、引き受けてくれるに決まってるもの。そうだろ?」
「……ええ、やるわ。やりますとも」
 ニコはすっかり観念して言った。
 ベッポ師にあそこまで言われては、もう断るわけにはいかなかった。とにかく、自分に出来る最大限の努力をするしかない。そう腹をくくった。
 工房のなかには、作りかけのドーレムの手足や首などがバラバラのまま並べられていた。ランプの灯りに照らされたそれらはかなり不気味な雰囲気を醸し出していたが、レイはさして気にする様子もなく、その場でするすると服を脱ぎはじめた。
「え。え――?」
 ニコの頬がたちまち真っ赤に染まる。
「ちょ、ちょっと! 何いきなり脱いでんのよ!」
「だって、最初にまず身体の寸法を測んなきゃなんないだろ。とにかく、隅々まで厳密に測ってほしいんだ。なにしろ“僕そのもの”を作るんだからね」
 少年はさも当然といったような感じでそう言うと、あっという間に素っ裸になってしまった。
 筋肉もまだそれほど発達していない、少年らしい薄い身体つきだ。だが、その青白い裸身は、何故だかぞっとするほどの色気を放っていた。
 ニコは思わず、声を失った。
(なんて……なんて、綺麗な子)
 一目見ただけでもう、目を逸らすことができない――ほとんど麻薬的と言ってもいいほどの、むせ返るような色香がニコを捉える。少年の紅みを帯びた瞳が、あの妖しい光を放ちながらニコを見つめている。
 惚けたように立ち尽くしているニコに、レイは相変わらずなんでもなさそうな声で言った。
「そんなところに突っ立ってないで、早く作業を始めてよ。いつまで僕の裸を眺めてるつもり?」
「ご、ごめんなさい!」
 ニコは急激に高鳴ってくる胸を抑えながら、慌てて少年から目を逸らす。
(子供相手に、何を緊張してるんだ――落ち着かなければ。ええと、必要な道具は……)
 ようやく探しあてた巻き尺を手におずおずとレイに近づくと、少年はニコの手を取り、静かに言った。
「ニコ……実を言うとね」
「――?」
「あなたにこの仕事を頼んだのは、ベッポ師の推薦だけが理由じゃないんだ」
「えっ?」
「僕は、あなたに“僕”を作ってほしかったんだよ」
「………」
 レイの瞳が間近からニコの顔を見上げている。ニコは何も言うことができないまま、ただただ吸い寄せられるように、少年の美しい顔を見つめていることしかできない。
「ねえ、ニコ。僕はいずれ、この街を去らなくちゃならない。でも、女王さまにはどうしても僕が必要なんだ。女王さまはきっと、僕なしでは生きていくこともできない。だから……だから……」
 なにを大げさな――と言おうと思ったが、レイの瞳は思いのほか真剣だった。その眼差しには、何か怯えのようなものさえ含まれていた。レイの長い睫毛はかすかに震えていた。
 そうしていると、レイは急に幼く見えた。先ほど垣間見せた妖しいまでの色気が嘘のように消え失せ、いま目の前にいるのは年齢相応の子供でしかなかった。
 そうなのだ。いくら大人びているとは言え、彼はまだ子供なのだ――ニコはあらためてそう思った。
 ニコは少年の頬に手を添えると、力強く頷いて言った。
「大丈夫よ――私に任せなさい。きっと“あなた”を作ってみせるから」


 4

 こうして、毎日店にやってくるレイを観察しながら、ドーレム作りに没頭する日々が始まった。
 身体の各部分の寸法を採り、その詳細なスケッチを描くことから始めて、全体のデザインを決定した。おおまかなデザイン画に基づいて木を削り、ボディの芯を作る。
 芯が出来たら、その上にラム土を主成分とする粘土でボディを造形する。ドーレムの作成だけに使われる特殊な粘土だ。
 身体の表面に現れる鎖骨や肋骨の凹凸、さらには筋肉のひとすじひとすじまで正確に再現するため、ニコはレイの肌に直接触れ、その感触を慎重に粘土の上に写し取っていった。初めのうちくすぐったがっていたレイも、すぐに慣れて、大人しくされるがままになっていた。
 作業は思っていたよりずっと順調に進んだ。ニコの手は、まるでそれ自身の意志を持っているかのように、実に要領よく少年の身体をトレースし、迷うことなく粘土をこねあげていった。ニコは時々、自分が操り人形になってしまったような奇妙な錯覚さえ抱いた。
(何故だろう……以前にも、これと同じような作業をしたことがあるような気がする)
 胴体、腕、足がつぎつぎと出来上がり――街が白い雪で覆われる頃、ニコはいよいよ頭部の造形に取りかかった。集中した仕事ぶりのお陰か、今までになく良いものができつつあった。
 これなら――もしかしたら、いけるかもしれない。
 ニコは久しぶりに、人形を作り上げていく喜びと充実感を感じていた。
 それはただ単に、制作が順調に進んでいることだけが理由ではなかったかもしれない。
 レイと一緒にいると、ニコは不思議と懐かしい気分に浸ることができた。
 彼の姿を見ていると、自分が十代だった頃を思い出す。まだ初々しい情熱をもってドーレム作りに打ち込むことができた、あの頃を。
(そうだ。以前は、ドーレムを作ることが、楽しくて楽しくてしょうがなかったっけ……)
 ニコが、少年のうなじに触れたまま物思いに耽っていると、レイが振り向いて言った。
「どうしたの? なんか変なものでもくっついてた?」
「い、いいえ。なんでもないわ」
「頼むから、もっと集中してやってよね。なにしろ“人間”を造るんだ。神様になったつもりで、厳粛にやるんだよ」
 口を尖らせてそう言う少年に、ニコは苦笑しながら応える。
「神様、ねえ……そんな大層なものとは思えないけど」
「まあ、確かに、神様は子供の裸に見とれたりはしない」
「もう! そんなこと言うと、仕事しないよ!」
 ニコが少年の頭を後ろから小突くと、レイは子供らしい快活な声をあげて笑った。


 制作も終盤にさしかかった、ある夜のこと。
 いつものように、ニコは少年の顔立ちを注意深く観察しながら粘土を捏ねていた。工房の中はしんと静まり返っていた。窓の外で降りしきる雪が、街中の音という音を吸収しつくしてしまったかのようだ。
 レイが、闇のなかに降り続ける雪を見つめながら、ふと呟くように言った。
「――そろそろだな」
「え?」
 ニコは作業の手を休めて、思わず顔を上げた。
「ニコ。僕はもうすぐ、この街を発つことになる。もう、あまり時間は残されていない」
 レイの声には普段とは少し違う、強張った響きが感じられた。
「――どうしても、行かなくてはならないのね?」
 ニコが訊ねると、少年は窓の外を見つめたまま頷いた。
 そして、ニコのほうに振り向くと、決然とした声で言った。
「作業をすこし急いでほしい。年が明ける前には“僕”を完成させなくちゃならない」
「ねえ――レイ。前から訊こうと思ってたんだけど」
 ニコは少し躊躇いながら、レイに訊ねる。
「一体あなたは、どこに行こうとしているの? どうしてそんなに急がなくてはならないの?」
「それは……」
 レイは珍しく口ごもった。
 眉根をよせてうつむいたまま、レイは長いあいだ黙っていた。
 ランプの燃える微かな音だけが、沈黙を埋める。
 いつまでも答えようとしないレイに、やがてニコは溜め息をついて言った。
「いいわ。無理に答えなくても」
「………」
「できるだけ急ぐことにしましょう。大丈夫、今年中にはきっと完成させるわ」
「ありがとう、ニコ」
 そういう少年のうつむいた顔は、いつになく儚げに見えた。
 そして、レイはふいに顔を上げると、真剣な眼差しで言った。
「あと、変なお願いなんだけど、いいかな?」
「なあに?」
「出来上がったドーレムに、僕の髪の毛を植えつけてほしいんだ」
「髪の毛? ――それも女王さまの要望なの?」
 怪訝そうに訊ね返すニコから、少年はついと目を逸らす。
「うん……まあね。ねえ、ニコ、お願いできるかな」
「ええ、それは構わないけれど……」
 ニコは、なんとはなしに不安を覚えながらも、ドーレムの顔を造形する作業に戻った。
 窓の外では、しんしんと雪が降り続けていた。まるで星空が地上に降りかかってくるかのような光景だった。雪は、どこか不吉な予感を孕んで、音もなく地上に積もっていった。


 そうして、年の瀬も押し迫ったある日――
 ニコはようやく、ドーレムの造形をすべて終えることができた。
 各関節をつないで仮組み立てをすると、ニコはドーレムを工房の椅子に座らせた。髪の毛はつけていないし、瞳もまだ入っていなかったが、それでもだいぶ人らしい姿に見えてきた。
 出来上がったボディを詳細に点検した後、レイは満足そうに頷いて言った。
「――素晴らしい出来映えだ。本当に、もう一人の僕がそこにいるみたい」
「とりあえず身体だけは、なんとか上手く仕上げられたみたいね。でも、本当に大変なのはこれからよ」
 そう。この後、ドーレムに魂を込めるための、「魔焼成」という最も難しい作業が控えているのだ。ドーレムは普通の炎ではなく、「フォア」と呼ばれる魔法の炎で焼かれることによって初めて生命を獲得する。術者の精神力も試される危険な作業だ。
「フォア」を焚くための魔法陣は、工房のさらに奥に設けられた呪術室にあった。「フォア」で焼く前に、まずはドーレムの全身に上薬を塗らなければならない。
 ニコは、独特の芳香を放つ薬の壺を持ってくると、刷毛を手にした。
 そして、ニコがドーレムの表面にそれを塗りつける作業を始めようとした、まさにその時だった。
「ニコ……」
「ん?」
 突然、レイがふらふらとニコの身体にもたれかかってくる。
 レイの表情は虚ろで、目の焦点が合っていなかった。
「レイ!? どうしたの?」
 ニコは慌ててレイの身体を支えようとしたが、間に合わなかった。
 レイの細い身体が、そのまま工房の床に叩きつけられる。ゴトン、という硬質な音が、工房に響き渡った。
 そして、その衝撃によって――レイの首が、ごろりと「外れた」。
「……え?」
 床に転がったレイの首が、虚ろな眼差しでニコを見上げている。
 その瞳には、もはや生気のかけらもない。首の付け根には、ぽっかりと空洞が開いていた。
「レ、イ?」
 ニコは、力を失ったようにその場にへたりこんだ。
 なんだ、これは。一体、どういうことだ……?
 震える手で、レイの首を拾い上げる。
 レイの首は冷たく、硬く、そして軽かった。耳の部分に、かすかにヒビが入っていた。
 ニコは恐る恐る、首の内側を覗き込んだ。そこにはやはり、冷たく乾いた空洞が広がっている。そして、その片隅に、「それ」を作成した者の銘が刻まれていた。
 トール・クラディウス・ベッポ――と。


  5

 数時間後。
 ニコは、月の光に照らされて工房のテーブルに横たわったレイを見つめながら、深い溜め息をついていた。
 彼が倒れたあの後――
 ニコは、レイをとりあえず工房のテーブルの上に横たえると、急いで街の施療院に向かった。
 だが、彼女が駆けつけた時、すでにベッポ師は息を引き取った後だった。
 師の作ったドーレムが命を失っているのだから、当然のことだったが――それでもニコは、その現実を咄嗟には飲み込むことができなかった。しばらくの間、ニコは放心したまま、すでに冷たくなった師の傍に長いあいだ座り込んでいた。
 ベッポ師の亡骸は、苦しんだ跡もなく、ひっそりとベッドに横たわっていた。
 涙は出なかった。ニコはただ呆然と、冷たくなったベッポ師の手を握りしめたまま俯いていた。なにも考えることができなかった。
 施療院の医師が、いつまでもそこを動こうとしないニコに声をかけた時にはもう、真夜中を過ぎていた。
「――ご遺体の処置は我々に任せて、あなたはいったん家に戻ったほうがいい。だいぶお疲れのようですぞ」
 ニコはのろのろと顔を上げると、無表情のままぼんやりと頷いた。
 やがてようやく落ち着きを取り戻したニコは、施療院を後にすると、再び店に戻ったのだった。
 そして、今――
 ニコは灯りもつけないまま、工房の入り口に、ただ一人佇んでいた。
 窓から射し込む月の光が、やけに鮮やかな青さで室内を染め上げている。
 工房の中央のテーブルには、レイが眠るように横たわっている。そしてその傍らでは、ニコの作った「もう一人のレイ」が、双児の弟のようにじっと座っていた。彼は、目の前で音もなく眠り続ける兄の横顔を、無言のまま見つめていた。
 いや、見つめているのではない。彼にはまだ、瞳もなければ髪の毛もなく、そして「魂」もないのだから。彼はただそこに「ある」だけだ。「もう一人のレイ」はまだドーレムではなく、ただの人形なのだった。
 既に魂を失った兄と、未だ魂を持たぬ弟――
 すべてが、死に絶えたように静まり返っている。
 だが、テーブルの上のレイを見ていると、今にも彼がひょっこりと起き上がり、ニコに向かって声をかけてくるのではないか、という気がしてならない。
 ――どうしたの、ニコ? そんな辛気くさい顔をして。ああ、でも辛気くさいのはいつものことだっけ……
(……レイ)
 命を失ってなお、彼は「人形」ではなく、「人間」であり続けていた。
 それは、ベッポ師が作り上げた他のドーレムたちとも、一線を画する存在だった。間違いなくレイは、ベッポ師の最高傑作だった。
 そう。ベッポ師は、“人間”を作り上げたのだ。
 一ヶ月以上ものあいだ、ニコは毎日レイと喋ったり、その身体に触れたりしていたが、彼がドーレムかもしれないなどと疑ったことは一度もなかった。
 考えてみれば、驚くべきことだ。レイの関節は球体関節だったし、その肌は硬く冷たい磁器でできていた。ニコは何度もそれを目にし、それに触れたはずだった。その動きも、その声も、ふつうの人間とは明かに異なるものだったはずなのに――それでもニコにとって、レイは最後まで「人間」だったのだ。
 恐らく、レイ自身も「人間」でありたいと願い、常に「人間」であろうと努めていたのだろう。だからこそ、自分が実はドーレムであり、いずれベッポ師の死とともに命を失う存在であることをずっと隠していたのだ。そして彼は、見事にニコを欺きとおした。
 ニコは再び、深い深い溜め息をついて思う。
(本当に、奇蹟のような技だ。ドーレムを完全に人間と思い込ませるなんて……私にはとても、そんなことは出来ない)
 けれど――
 けれど、もしかしたら。
 ニコは顔を上げると、レイの横たわるテーブルに歩み寄った。
 少年の物言わぬ唇にそっと触れて、ニコはレイが言っていた言葉を思い出していた。
 ――出来上がったドーレムに、僕の髪の毛を植えつけてほしいんだ。
 レイは確かにそう言っていた。
(古いドーレムの部品を新しいドーレムに組み込むと、その記憶が不完全ながらも引き継がれると聞く……)
 たぶん、レイは自分の髪の毛を植えつけることで、自分の持っている記憶を少しでも「もう一人のレイ」に受け継がせようとしたのだろう。
 だとすれば――あるいはレイを蘇らせることも、できるかもしれない。
 自分の未熟な力でも、なんとか“人間”を作り上げることができるかもしれない。
(髪の毛……それから、そう、この瞳も)
 ニコは閉ざされたレイの瞼を開いた。月の光のなかで、レイの瞳が不思議な色合いで輝いた。
 ニコはそっとレイの滑らかな頬を撫でた。
 もう一度、彼と話をしたいと思った。その美しい笑顔を見たいと思った。
 ニコはレイの瞳を取り外すと、「もう一人のレイ」の眼孔にそれを嵌め込んだ。
(そうだ……ベッポ先生のためにも、私はこの仕事をやり遂げなくてはならない。先生、どうか私に力を貸してください)
 心なしか、人形の紅い瞳がニコの顔をじっと見つめている気がした。


 呪術室は、真の闇に包まれていた。
 自分の手の平すら見ることのできない濃闇のなかで、ニコは静かに呪文を唱えはじめた。
「イン・シスタ……ドーレム、ヒュム」
 闇のなかに、ぼうっと紫色の光が浮かび上がった。床に描かれた魔法陣がかすかに放つ燐光だ。
 何重にも重なる同心円の内部に、さまざまな図形や文字がびっしりと刻み込まれている。そして、それらの中心に、ニコの造型した「もう一人のレイ」が、裸で佇んでいた。
 いや――佇んでいるのではなく、わずかに宙に浮いているのだ。彼の目は、今はまだ閉ざされていた。水のなかに浮いている人のように、少年の身体は微かに上下し、その髪はゆるやかに波打っていた。
 すでに植毛まで終えたその姿は、ほとんど人そのもののようにも見える。植えられた髪の毛には、一房、「古いレイ」の髪の毛を混ぜてあった。だが、そこにはまだ「魂」の気配は感じられない。目の前にあるそれは、未だ「ヒト」ではなく「モノ」でしかなかった。
「――イン・トラ・フォアルム、セス・クレア。ヴェネアータ、ビューム」
 ニコは魔法陣の外に立ち、指で奇妙な印を空中に描きながら呪文を唱えていく。
 やがて、紫色に光る魔法陣のそこここから、ちろちろと緑色の炎のようなものが立ちのぼり始める。ドーレムに魂を与える魔法の炎――フォアだ。
 ドーレムに真の魂を与えるためには、ただ機械的に呪文を唱えているだけでは駄目だ。自分がドーレムに与えようとする「魂の形」をはっきりとイメージし、それを的確に声に乗せなくてはならない。ちょうど、レイの身体をなぞりながら、その肉体の細かい肌理までをも粘土の上に乗せていったように。
(レイの魂の形――)
 そう。いくら記憶が引き継がれても、心の形を蘇らせることができなければ何の意味もない。ただ記憶を保持しているだけでは、蓄音機と変わりがないのだ。
 では、魂の形とは、いったい、なんなのか。
 それが分からないために、ニコは今まで満足のいくドーレムを作れないでいた。
「トワ・ソワルム、ムジカ。ソール・マジール……ドレムス・マール……」
 レイは言っていた。身体の表面に現れるもの――言葉や表情や仕草が、心を形作っている、と。
 確かに、それらは魂を形成する重要な要素ではあるだろう。しかし、おそらくそれだけでは足りないのだ。
 初めて店にやってきた時のレイ、ニコの前でなんのためらいもなく裸になってしまったレイ、微笑むレイ、不安そうなレイ――
 さまざまなレイの姿が、脳裏に浮かんでは消えていく。ニコは呪文を唱え続け、印を描き続ける。
「カルマ・イルマータ・リネアーテム――ウェルネキス、サマトラ・スム」
 魂を形成するためには、まだ何かが足りない。でも、何が足りないのかわからない……
 炎が次第に大きくなる。渦を巻きながら、緑色の火炎はみるみるうちにドーレムの身体を包み込んでいく。ざわざわと少年の肌を撫でまわすその姿は、どこか生き物じみている。
 フォアはまったく熱を持たない特殊な炎だったが、それでもニコの額には緊張のために玉の汗が浮かびはじめた。
 ざわざわ、ざわざわと――炎は巨大に成長してゆき、いまや竜巻きのごとく、魔法陣の内部で轟々と唸りをあげていた。
 ニコは目を閉ざした。激しいフォアの影響で、嵐のように思考がかき乱された。頭のなかに浮かぶレイのイメージはどんどん断片的になり、やがて他の雑念と混じりあっていく。
(――ダメだ。レイの魂の形を見失ってしまう)
 目を閉じていても、瞼の裏側にフォアの光がちらちらと映る。炎が鳴らすゴウゴウという響きがますます大きくなってくる。
 炎が勢いを増していくとともに、ニコの心も激しく波打った。
 恐怖、混乱、哀しみ、怒り――さまざまな感情、さまざまな想念が次々と湧いてきてはニコを翻弄した。
 集中力が次第に途切れていく。何も考えられなくなり、ただただ、早く作業を終わらせてしまいたいという思いが強くなってくる。いつもと同じように。今まで失敗を繰り返してきた時と、同じように。
(流されてはダメだ――!)
 いつしか様々な色の光が、闇のなかに溢れていった。轟音のなかで、それらの光は踊り狂った。
 もはや、自分が目を閉じているのか開いているのかも分からない。
 赤い光が嗤い、青い光が叫ぶ。紫の光が泣き、緑の光が歌う。
 衝突し、弾け飛び、破壊し、嘲笑し、惑乱する。
 このままでは、自分の意志を保てなくなる――
(レイ、どこにいるの? どれが、あなたの魂なの?)
 混乱するニコを嘲るかのように、たくさんの光の塊が闇のなかを出鱈目に飛び交う。
 轟音はやがて堪え難いほどまでに巨大になった。まるで闇そのものが吹き荒れているかのようだ。ニコはもう、その場に立っていることすらできなくなった。
 早く作業を終えて「フォア」を鎮めなければ、自身の精神が危うくなってしまう。
 ニコは叫んだ。
「レイ――!!」
 瞬間。
 ニコは、自分のすぐ目の前に、一体の小さなドーレムが浮かび上がっているのを見た。
 こじんまりとした、いびつな身体。巨大な瞳。茶色い髪の、おかっぱ頭。
『ニコ』
 と、その者が言った。
「――あなたは!」
 それは、ニコが初めて作った、あのドーレムだった。ベッポ師に見てもらい、ニコが人形師になるきっかけとなった思い出深い作品――
 ドーレムの瞳が拡大し、紅い光がニコを飲み込んでいく。
(紅い瞳……あなたは)
 次の瞬間、一転して辺りが暗くなり、ニコの意識は急激に遠のいていった。
 消えかける意識の片隅で、ニコは闇の彼方から小さなドーレムが呼びかける声をたしかに聞いた。
『思い出すんだ――自分がどうして人形師になろうと思ったのか。どうしてドーレムを作りたいと思ったのか』
 どうして――私は――
『思い出すんだ、ニコ』
 声が遠ざかっていくとともに、やがて辺りは始めと同じく、真の闇に覆われた。


 なぜ、私はドーレムを作りたいと思ったのだろう――なぜ、人形師になりたいと思ったのだろう。
(それは……)
 それは、十一年前。
(そうだ。十一年前、“あの子”に出会ったからだ――)
 その日、ニコは憧れだったベッポ師の店に、初めて足を踏み入れた。よく晴れた、十月のある日のことだった。
 店内には誰もいなかった。おかげでニコは、ベッポ師が作り上げた数々の傑作たちを心ゆくまで鑑賞することができた。ひとしきりドーレムたちとのおしゃべりを楽しんだあと、ニコはふと顔を上げた。
(そう言えば、ベッポ師はどこにいるんだろう?)
 そう思って辺りを見回すと、勘定台の奥に、工房へと通じるらしい扉が見えた。扉のむこうからは、微かに人の動き回る気配がした。
 ニコは、店内に人がいないのをいいことに、奥の工房にこっそり忍び込んでみることにした。ひょっとすると、ベッポ師が仕事をしているところを見られるかもしれないと考えたのだ。
 果たして――
 扉の影からそっと工房のなかを覗くと、そこでは今まさに、ベッポ師が一体のドーレムを前に、最後の仕上げを行っているところだった。ベッポ師はこちらに背を向けて、ドーレムの顔の表面にうすく化粧を施していた。
 すでに焼成を終え、服を着せられたその少年型のドーレムを見て、ニコは息を飲んだ。
 おかっぱに切りそろえられた、艶やかな茶色の髪。
 窓からの陽射しに柔らかく照り輝く、白皙の肌。
 少年らしい初々しさをたたえたその顔は、同時にぞっとするほどの色香を帯びて微笑んでいる。
 まるで生きているかのように瑞々しく、まるで生きていないかのように儚げな、その美しい姿――
 感嘆のあまり、思わず声を上げそうになった。そして、ニコが慌てて自分の口を抑えた、その瞬間だった。
 ドーレムの目がきょろりと動き、こちらを見た。
 紅の光を放つアーモンド形の瞳がニコを捉えた。
(見つかった!)
 逃げなければ――そう思ったが、身体を動かすことができない。
 ほんの、二、三秒のことだったが、ニコはその場に硬直したまま、少年と見つめあっていた。彼の姿から、どうしても目を逸らすことができなかった。
「――ん? なんだ、誰かいるのか?」
 ドーレムの視線の動きに気づいたベッポ師が、そう言って振り向いた。
 ニコは慌ててその場を離れると、逃げるように店を出ていった。
 家に向かって通りを駆けていきながら、ニコの脳裏には、あの少年のどこか淋しげな微笑がいつまでも焼きついて離れなかった。
(凄い。まるで、ほんとうの人間みたいだった! なんて綺麗なドーレムだったんだろう!)
 自分もいつか、あんな素晴らしいドーレムを作ってみたい――ベッポ師の作るドーレムのように、街中の人々を楽しく幸福な気分で満たしたい。そうだ、さっき見たあのドーレムをモデルにして、ひとつ見よう見まねで作ってみよう。そして、それをベッポ師に見てもらうんだ……
 家に帰りつく頃までには、ニコは心に固くそう決めていた。
 そうして、かじりかけの知識でなんとか作成したのが、ベッポ師に最初に見せた、あのドーレムだったのだ。職人学校で普通の人形の作り方は教わっていたが、ニコにとって本格的なドーレムを作るのはそれが初めてのことだった。
 工房で見たあの少年をモデルにして作ったつもりだったが、完成してみると似ても似つかない姿になってしまった。それでもニコは、心を込めてひとつの作品を作り上げた充実感でいっぱいだった。
 出来上がったドーレムの姿を眺めながら、ニコは今まで感じたことのない嬉しさが込み上げてくるのを抑えきれなかった。
(きっと私は、恋をしていたんだ……)
 そう。
 ベッポ師の工房でかいま見たドーレムの姿に、ニコは心底惚れていたのだ。いま振り返ってみると、それは恋の感情に限りなく近いものだったと思う。
 あの少年に、また会いたいと思った。あの微笑みを間近で見たいと思った。
 だから、ニコにとってドーレムを作ることは、「祈り」のようなものだったのかもしれない。あの少年にまた会えますように、というニコの「祈り」が、ドーレムに命を吹き込んだのかもしれない。
(どうして、今まで忘れていたんだろう……)
 紅く妖しい輝きを帯びた瞳を持った、あの美しい少年――
 そして、それこそは、完成したばかりのレイの姿にほかならなかったのだ……


(十年以上も前に、私たちは出会っていたんだ)
 誰かに呼ばれたような気がして、目を開くと――ニコはいつのまにか、呪術室の床に倒れていた。
 すでに緑色のフォアは消え去り、ただ紫の魔法陣だけが闇の中にぼうっとした燐光を放っている。
 そして、ニコの傍らには、一人の少年が座っていた。少年はニコの頬に触れると静かに言った。
「――ニコ」
 ニコは驚きに目を見張って、少年の顔を見上げた。
「レ、イ……?」
「よくやってくれたね、ニコ。完璧な仕上がりだ。あなたはちゃんと、僕の魂の形を見つけてくれた――ほんとうに、ありがとう」
 ニコは、どっと肩の力が抜けるのを感じた。我知らず、涙がこぼれそうになった。
 差し伸ばされたニコの手を、レイはしっかりと握りしめた。冷たく硬いはずのその肌が、このうえなく暖かいもののように、ニコには思われた。


  6

「――失礼いたします、女王さま」
 黒のフロックコートに身を包んだ老執事は、巨大な扉をノックすると静かに室内に入った。
 天井の高い室内には、白を基調とした豪奢な調度がそこここに配置されていた。しかし、あまりに部屋が広いせいか、どこかがらんとした淋しげな雰囲気が漂っている。
 部屋の向こう側は、一面の巨大な窓となっており、外のバルコニーに続いていた。さんさんと陽光の降り注ぐその窓に向かって、一人の少女が、女中に付き添われて車椅子に座っていた。
 白いワンピースドレスに身を包んだ少女は、病人のように痩せていた。瞳の色が薄く、長く伸ばした髪は真っ白だ。
 彼女がこの館の“女王”だった。十七歳にしては身体も小柄で、一見したところでは十四、五歳ぐらいにしか見えない。少女はまるで人形のごとく無表情で、車椅子に腰掛けたまま微動だにしなかった。
「女王さま。件の人形師をお連れいたしました。“レイ”も一緒でございます」
「レイ……?」
 少女が、ようやく執事の言葉に振り向いた。
「どこに、いるの?」
 子供のように舌足らずな口調で、女王は訊ねる。
 執事が、ドアの外に向かって声をかけた。
「ニコさん。どうぞ、お入りください」
 扉の陰からニコ、続いてレイが入ってきた。
 ニコによって完成されたばかりのレイは、輝くばかりの美しさだった。その滑らかな肌は透き通るような白さで、しかし同時にみずみずしい生気に満ちあふれてもいた。
「女王さま。ただいま、戻りましたよ」
 レイがやわらかく微笑んで言った。
「レイ」
 女王は、震える声でそう言ったかと思うと、車椅子からよろよろと立ち上がった。
 慌てて女中がそのほっそりとした身体を支える。
「レイ……!」
 女王は、こちらに手を差し伸ばしながら泣いていた。
 レイが、幼い女王に向かって駆け寄っていく。そして、女中の手から離れ、前のめりに倒れそうになる女王をしっかりと抱きしめた。
 レイの腕のなかで、女王は子供のようにしくしくと泣きだした。レイは、その白い髪を撫でながら、ごく小さな声でなにかを呟いていた。
 ニコはその場に立ち尽くしたまま、じっとその光景を見つめていた。
 陽光のなかで抱き合う二人は、まるで兄妹のように見えた。そこには何か、絵画的な美しささえ感じられた。
 老執事はその様を涙ぐんだ目で見守っていたが、やがてニコのほうに向き直ると、深々と頭を下げた。
「――ニコさん。本当になんと言ってお礼を申し上げたらよいか分かりません。レイを無事に完成してくださったこと、私ども一同、深く感謝しております」
「こちらこそ――私のような若輩者にこのような重大な仕事を任せていただき、感謝しています。女王さまにも喜んでいただけたようで、ほっといたしました。女王さまには、よほどレイが大切な存在だったんですね」
「ええ。左様でございます……」
 執事は、レイに抱きしめられて泣いている女王を見つめながら、ニコにそっと打ち明けた。
「――女王さまは幼少の頃から心を病んでおりまして、レイとしかお話にならないのです。ですから、ベッポ師の余命が幾許もないという話を聞いた時は、本当にどうしようかと困り果てておりました。レイがいなくなってしまえば、お身体の弱い女王さまのこと、食事も摂らずに衰弱してしまうことが目に見えていたのです」
 自分がいなければ女王さまは生きていくこともできない、と言っていたレイの言葉はけっして大げさなものではなかったのだ……
 ニコは、レイに抱きついたまま静かに泣き続けている女王を見つめながら、あらためて人形師の責任の大きさを感じた。
 そんなニコに、老執事は意外な言葉を告げた。
「――もともと、レイは、この屋敷に小間使いとして勤める人間の子供だったのです。彼はベッポ師のお孫さんでした」
「えっ?」
 ニコは思わず、驚きに目を見開いた。執事は遠くを眺めるような眼差しで続ける。
「――ずいぶんと大人びて、不思議な魅力を持った子供でしたよ。それまで、女王さまの心をひらくことができた者は一人もおらず、医者もすっかり匙を投げていたのです。しかし、彼はここに来てたったの数週間で、すっかり女王さまの心を溶かし、仲良く遊ぶようにまでなりました。レイと出会って以来、女王さまも少しずつ元気になられたのですが――しかし、レイは十三の歳に流行り病で亡くなってしまったのです」
「――それで、ベッポ師にドーレムの作成を依頼したのですね?」
「そうです。レイが死んで、再び塞ぎ込んでしまった女王さまの心をひらくためには、そうするより他ありませんでした。ベッポ師ほどの腕を持つ方は他に思い当たりませんでしたし……」
「そうだったのですか――」
 ニコは、十一年前に見た、ベッポ師のあの後ろ姿を思い出していた。レイに最後の仕上げを施していたその背中には、確かに、言い知れぬ淋しさのようなものが漂っていた気がする。
 ベッポ師は、いったい、どんな気持ちでレイを作っていたのだろう。
「師にとっては、お辛い作業だったかもしれませんが――しかし、彼は私たちの予想を上回る素晴らしいドーレムを作り上げてくださいました。出来上がったドーレムは、まさに“レイ”そのものだった。女王さまはもちろんのこと、私たちでさえ、彼によって心慰められ、元気づけられました。私たちにとって、彼はレイの代わりなどではなく、蘇ったレイそのものだったのです」
 ニコと同じく、ベッポ師にとってもレイは特別な子供だったのだ。それは彼にとって、かけがえのない、大切な命だったのだ。
(呪術室の闇のなかで、先生はどんなふうにして、レイの「魂」と出会ったんだろう……)
 師が亡くなった今、その答えを聞くことはできないが――けれど、ニコはようやく、ベッポ師の創作の秘密の一端に触れた気がしていた。ベッポ師は、自分の最高傑作であるレイを通じて、ニコに最後の教えを授けてくれたのだ、と思った。
「ベッポ師が蘇らせたレイを、あなたは再び死の淵から救ってくださった。ほんとうにありがとうございました」
 老執事はそう言って再び深く頭を下げた。
 そろそろ退出する頃合いであった。森の外までお送りいたしましょう、と言う執事に案内されて、ニコは廊下に通ずるドアに向かって歩いていった。
 ニコは、最後にちらりとレイのほうを振り返った。レイは女王を抱きしめたまま顔を上げ、ニコの顔を見た。彼はあいかわらず、一点の曇りもない美しい微笑みを浮かべていた。
 レイは恐らく、一生“影の森”のこの別荘で、女王とともに暮らしていくのだろう。これからは、そう簡単に会うことも叶わなくなる。そう思うと、少し淋しい気がした。
(まあ、これも人形師の宿命ね。ドーレムは私のものではなく、お客さまのものなのだから。女王さまは、私よりもずっとレイを必要としている)
 何かを振り切るかのように首を振ると、ニコは執事の後に続いて廊下に出ようとした。
 その時、部屋を出ようとするニコを、か細い声が呼び止めた。
「――まって」
 ニコが振り返ると、泣きはらして赤い目をした女王が、レイに支えられてこちらに歩み寄ってくるところだった。
 レイ以外には話しかけないはずの女王が――ニコのほうをまっすぐに見つめて、何かを言おうとしていた。老執事とニコは思わず顔を見合わせた。
 それから、ニコは自分のほうから女王のそばまで歩いていくと、できるだけ少女を怯えさせないように、やさしい声で言った。
「なんでしょう? 女王さま」
 ニコが背をかがめると、少女はニコの耳元にそっと口を寄せ、聞こえるか聞こえないほどの、微かな声で言った。
「ありがとう、ニコ――ごめんなさい」
 魂のわずかな震えのように呟かれたその言葉を、自分はこの先ずっと忘れないだろう――そう、ニコは思った。


 レイは、“影の森”の出口まで見送りについてきてくれた。森を抜けると急に視界が開け、ニコは思わず目をしばたたいた。降り積もった雪に太陽が反射し、あたりは眩しいほどの光に溢れていた。
 レイは、別れ際にニコに訊ねた。
「これから、どうするんだい? また、どこかの工房に弟子入りするの?」
「そうね……」
 ニコは少し首を傾げて考えてから、微笑んで言った。
「しばらくは、ベッポ先生のお店を継いで、一人で頑張ってみようと思うの。まだ、あまり自信はないけれど――」
「そっか。きっとニコはそうするんじゃないかって思ってたよ」
 そう言ってレイは嬉しそうに笑う。ニコは店のある方向を遠く眺めながら言った。
「幸い、今回の仕事の報酬で、だいぶ経済的な余裕も出てきたしね。それに、あんな素敵なお店を閉めてしまうのも勿体ないでしょう?」
「そうだね。ニコだったらきっと、一人でも十分やっていける。僕が言うんだから間違いない。なにしろ、こんな美しいドーレムを作れるんだからね」
 レイは自分自身を指差すと、悪戯っぽい微笑みを浮かべてそう言った。
 祖父とよく似た孫だった。
「――まったく、ナルシストな子ね」
 ニコがそう言ってレイを小突くと、少年は「自分を好きでいることはいいことさ」と言って、快活な笑い声を上げた。
「それじゃあ、またね」
「うん。また、いつか」
 レイに手を振って別れると、ニコはもう振り返ることなく、街へと続くゆるやかな下り坂を足早に歩いていった。
 顔を上げ、まっすぐ前を向いて歩きながら、ニコは思う。
(魂というものがなんなのか、まだ私にはちゃんと分かっていない。けれど)
 けれど――
 闇のなかで、レイの魂を探り当てたあの感触を忘れなければ、これからも、きっと上手くやっていくことができる気がする。そうしていつか、ベッポ師に負けないほどの、素晴らしいドーレムをたくさん作ってみせるのだ。
 ニコはあらためて、自分にそう誓った。
 行く手には、山々に囲まれた美しい街並が、真っ白な雪をかぶってきらきらと輝いている。
 まだ春は遠かったが、そこには新しい年を迎えようとする歓びが、かすかな予感のように孕まれていた。


この作品が気に入っていただけましたら『高得点作品掲載所・人気投票』にて、投票と一言感想をお願いします。
こちらのメールフォームから、作品の批評も募集しております。

●感想
一言コメント
 ・人形の特徴(?)の書き方うまい!!レイくんかっこよすぎ!!現実にあんな少年いたらいいのに・・
 ・文章量と反比例する話の濃さがよかったです。・
 ・とても読みやすく充実した時間でした。おりがとうございます。
 ・筋が一本通った感じで、読んでいて素直に理解できました。内容も深くて良かったと思います。
 ・人間と人形の違いなどの主要テーマは興味深く、ムダのない構成で一気に読んでしまいました。
  楽しい時間をありがとうございました。

高得点作品掲載所 作品一覧へ
戻る      次へ