高得点作品掲載所     小雪さん 著作  | トップへ戻る | 


五月の蠅

 五月の連休初日。嫌味なほどの快晴。
 本当ならオレは今頃、博多スペースワールドで絶叫マシーンに乗っているはずだった。明日はマリンワールドでイルカと遊んだあと、ドームでナイター観戦。オレによるオレのためのスケジュール。一ヶ月以上前から、この連休だけを楽しみに宿題も手伝いも完璧にこなしてきた。それなのに……。
 ソファーの上で寝返りをうって脱力した体を反転させると、きりりと晴れた五月の風景が視界に飛び込んできた。リビングの窓から見える空は宇宙が透けて見えそうなほど鮮やかに澄んでいて、一層オレを憂鬱にさせる。ため息をつきながら奥の和室へちらりと視線を移すと、薄く開いた襖の間から高熱を出して寝ている妹の赤い顔が見えた。
「そんな、わざとらしく何度もため息つかんでもいいやろ。福岡くらい、夏休みに入ったら何度でも連れてっちゃるわ」
 楕円形のテーブルを挟んで向かいのソファーに座っていた父さんが、新聞から顔を上げた。
「ふん、どうせまたダメになるに決まっとる。楽しみにするだけ馬鹿をみるわ」
「何や、いつまでもうだうだとしつこいヤツやなあ。男らしくないぞ」
 父さんは新聞を畳んで脇に置いた。眉根にシワが寄って怖い顔になっている。だけど、一度口をついて出た不満は止まらない。
「すみれはいつだってそうや。オレの楽しみをことごとく潰していきよる。ほんと、厄介なヤツ」
 次の瞬間、顎の上あたりにゴツッと鈍い衝撃が走った。
 呻きながら半身を起こすと、鬼のように顔を紅潮させた父さんが拳を握り締めてこちらへ身を乗り出していた。
「一番しんどいのは、病気のすみれやぞ。五年生にもなって、そんなことも分からんか! 兄ちゃんのくせに、思いやりの無い!」
「好きで兄ちゃんになったんやないわ。いっそ、すみれなんか生まれてこんければ良かったっちゃ!」
「何を〜!!」
 二度目の鉄拳を防御するために、両腕で頭を抱え込み体をよじった。しかし、予測したような衝撃は襲ってこない。そろそろと両腕の間から顔を出すと、目の前には仁王立ちして二人の間を割る母さんの姿があった。
「もう、あんたら、病人がおるのに大声出しなんな。恭一もいい加減にせんね!」
 腰に手を当ててオレを見下ろすその視線は、いつも三日月形に目を緩ませている母さんのものとは思えないくらい鋭くとがっていた。
 突然、家中の全てのものがオレを悪者だと指をさしているような気がしてたまらなくなった。
「こんな家、出て行っちゃる!」
 吐き捨てるようにそう言って、オレは勢いよく立ち上がった。
「ちょっと、恭一!」
 どすどすと大袈裟に足音を立ててリビングを出て行くオレの後を、母さんの声が追ってきた。
「止めても無駄やけんね。ずっと我慢しとったけど、もう限界や」
 玄関の框に腰掛けてスニーカーを履くオレの目の前に、母さんが千円札をひらりと差し出した。
「出かけるんやったら、ついでに卵買って来て。卵粥にせんと、すみれは食べんけんね」
「そんなん、知らんわ!」
 そう言いながらも、しっかり母の手から千円札を奪い取ってから玄関を飛び出した。
「白じゃなくて赤いやつね〜」
 閉じた扉の向こうから、母さんの呑気な声が響く。
 オレは舌打ちをして、足元の石ころを思い切り蹴散らした。

 どこへ行こうか……。顔を上げると、見渡す限りの田んぼと畑と山。圧倒的な緑の濃淡の中にポツンポツンと民家が点在し、その軒下で日の丸がゆらゆらとのどかに揺れている。
 勢いで家を飛び出してきたが、行くあてなどなかった。こんなに良い天気の祝日だもの、仲良しのイケちゃんも光輔も、きっと家族で出かけてしまっているだろう。いや、もし彼らが家にいたとしても、今日の予定を自慢げに話して羨ましがらせた手前、今更どの面下げて訪ねて行けようか。
 このまま遠くへ旅に出られたら、どんなに幸せだろう。甘ったれでいつもオレにまとわりついてくる妹や、妹びいきの両親がいない遠いところ。だけど今、オレのポケットの中にあるのは、千円札が一枚だけ。
 仕方がないので、どこまでも続く畦道を気持ちが落ち着くまで歩いてみることにした。田んぼにはまだ苗の姿はなく、代わりにれんげの濃いピンク色が一面に広がっている。ただ、田植えは間近なようで用水路はきわ近くまでなみなみと水をたたえ、清々しい水音を辺りに響かせている。オレは膝の辺りまで伸びた雑草をぶちぶちと千切って用水路へ投げ込みながら、水の流れに誘われるように歩いた。
 祝日は農家も休みを取るのか、見渡す限り人っ子一人いない。用水路を走る水以外は動くものは何もなく、まるで風景画の中を歩いているようだ。
 
 どこまでもおだやかな景色の一部に溶け込んでしまうと、さっきまでの血が沸き立つような苛立ちも波が引くようにすうっと醒めていった。代わりに、父さんに殴られた顎のあたりがうずきだす。そっと押さえてみると、鈍い痛みが胸まで届く。多分、殴られて当然のことを言ったのだと思う。だけど、今回だけは我慢の限界だった。妹が生まれてから初めてオレの希望通りに計画された旅行。結局、何一つ叶えられずに糠喜びで終わった。
 言ってしまった言葉に、罪悪感はあったが後悔はしていない。ずっとずっと言ってやりたかったことだ。やっと言えて、すっきりしたくらいだ。
 オレの中で、長い間くすぶっていた気持ち。
 妹がいなかったら、妹さえ生まれてこなかったら……。その思いは、腹の中で成長してゆく寄生虫のように、日に日にオレの中で大きくなっていた。

 三歳年下の妹は生まれつき体が弱く、赤ん坊のころは何度も入退院を繰り返していた。以前に比べれば最近は随分と丈夫になったが、それでもしょっちゅう熱を出して学校を休む。両親はそんな妹を常に気に掛け、壊れ物のように大事に扱っていた。食事の献立にしてもテレビのチャンネルにしても休日の過ごし方にしても、家族内のことは全てにおいて妹が優先権を持っていた。兄ちゃんなんだから、兄ちゃんのくせに。オレの主張や希望は、いつもその言葉でどこかへ押しやられてきた。
 更に腹立たしいのは、妹は誰もが彼女を見ると微笑まずにいられないような、全ての人を味方につけてしまうような愛らしい容姿をしていること。つやつやの白い肌に黒目勝ちの大きな瞳。肩のあたりでぱつんと切り揃えた薄茶色の髪はいつも光を含んでサラサラと揺れていた。一度も口に出したことはないし言うつもりもないが、すみれが大事にしているリカちゃん人形とそっくりだと思う。しかし、だから何だというのだ。実の妹がどんなに可愛くたって、そんな事うれしくもなんともない。かえって自分が添え物のように思えてみじめさが増すだけだ。
 両親にとっては、オレがテストで百点を取っても、学年リレーの選手に選ばれても、感想文で表彰されても、たとえこれからどんなにすごいことをやり遂げたとしても、妹が一ヶ月学校を休まなかったことに比べれば、取るに足らない出来事でしかないのだ。
 いつだって太陽は妹。オレはその周りをぐるぐると回るちっぽけな惑星。自分から光を放つことは、ない。
 
 苦い気分のまましばらく歩いていると、いつのまにか広い川に出ていた。用水路と川の境目に掛かった小さな橋の傍らに『ほたるの里』という木製の看板が立っていた。それを見て、ここが去年の夏に母さんと妹と僕の三人で蛍を見に来た場所だと気付いた。
 あの夜、すみれはやけにオレと手をつなぎたがった。薄闇の中で、一斉に光っては消える淡い光の群れに、オレは言葉を失うほど感動していた。目の前に広がる幻想的な光景にひたすら集中したかったオレにとって、妹の甲高い幼稚な声ややたらと体温の高い掌は、ねっとりと体にまとわりつく汗くらいにうっとうしいものだった。
 オレが妹の手を拒んで掌を背に回して隠すと、妹は声を上げて泣き出した。母さんがいつものように「兄ちゃんなんやから、手ぇくらいつないであげんね」と言った。オレが渋々と手をつなぐと、妹はまだ涙の光る目でオレを見上げて「ねえ、きれいやね。兄ちゃん」と微笑んだ。オレは腹の底から嫌悪感が沸き上がるのを感じた。何でも自分の思い通りにしてしまう。こんなヤツ大嫌いだと思った。蛍が放つ澄んだ光は、もうオレの心まで届いてはこなかった。
 
 妹のことで我慢を強いられるたびに、オレの内側は錆付いた沼のようにどろどろと濁っていくのが分かる。このまま我慢を続けていたら、オレの心はきっと腐ってしまう。だから、もう我慢するのはやめだ。
 どんなに泣かれようと、どんなに親に叱られようと、もう妹に手を差し伸べたりしない。二度と手もつながない。泣いて泣いてまた熱を出して、それで、死んでしまえばいいと思った。
 その時、急に耳鳴りが襲ってきて、オレはその場にしゃがみこんだ。最初は小さく、次第に大きくなるブーンという音。最近、よくこの耳鳴りがする。
 どんなに振り払ってもまとわりついてくる羽虫の音。うっとうしい、うっとうしい、うっとうしい………。
 オレは両手で髪を掴むようにして頭を抱え込んだ。孫悟空が悪さをするたびにギリギリと頭を締めつけるきんこじのように、意地悪なオレに神様がこの嫌な音で罰を与えているのか。
「君、大丈夫?」
 突然耳元で人の声がして驚いて顔を上げると、いつの間にそこにいたのか一人の少年が傍らに立っていた。
 少年はオレと同じような背格好だったが、全く見た事のない顔だった。きっと、休みでよそから遊びに来ているヤツだ。一学年に十人程度しかいないこの田舎町の小学生の顔を、オレは全て覚えていた。
 見知らぬ少年は、当然のようにオレの隣にすとんと腰を下ろした。
「どうかしたの? 頭痛いの?」
「あ、いや、なんかブーンって耳鳴りがするけん」
 そう言った途端、心配そうにオレを覗きこんでいた少年の表情が、ふっとやわらいだ。
「きっと、これのせいだよ」
 ふいに少年の右手がこちらへ伸びてきた。オレは反射的にビクッと体を震わせて身構えた。少年はそんなことお構いなしに、オレの左耳あたりでふわりと拳を作り、目の前にそれを突き出した。
 拳を裏返してそっと開いた掌には、一匹のハエが止まっていた。まだ成虫になったばかりのような、小さな小さなハエだった。少年が掌にふうっと息を吹きかけると、ハエは催眠術から醒めたかのようにフラフラと飛び立ち、あっという間に緑の景色の中に吸い込まれていった。
 一流手品師のように優雅で滑らかな少年の動作に見とれていたオレは、ハエが消えてしまって随分たってからはっと我に返った。
「な、なんでせっかく捕まえたのに、逃がすんや?」
 少年は、オレの言葉に不思議そうに首を傾げた。
「なんでって、じゃあどうすればよかったの?」
「ハエなんて、殺してしまえばいいが」
 オレが物騒な単語を出すと、少年は表情を少し曇らせた。
「次に生まれ変わった時、ハエになるかもしれないと思ったらそんなひどいことできないよ」
 なんだ、こいつ、冗談言ってるのか。それとも、頭のネジがゆるんでるのか……。オレは段々と気味が悪くなってきた。
「それに、まだ夏を知らないうちに殺してしまうなんてかわいそうだよ……」
 駄目だ、付き合いきれない。逃げ出してしまおうと腰を浮かせかけたとき、ふと気が付いた。耳鳴りがすっかり消えている。それと同時にずっと喉や肺のあたりにつかえていたもやもやした塊までもが消えて、心が少し楽になっていた。
 オレは驚き、改めて少年の顔をじっくりと眺めた。その横顔は、すうっと吸い込まれていきそうな不思議な印象をしていた。蓮の花から生まれたというお釈迦さまは、少年時代、こんな顔をしていたんじゃないかとぼんやり思った。その少年の醸し出す柔らかい雰囲気に、オレの警戒心は次第にゆるんでいった。
「なあ、おまえ、どこから来たん? この辺の子じゃないやろ?」
「うん。遠くから来た」
「遠くってどこや?」
 少年はオレの問いには答えずに、自分の顎のあたりを指差して言った。
「ねえねえ、君、ここ赤くなってるよ」
「あ、ああ、妹にひどいこと言ったら、父さんに殴られた」
「君にも妹がいるんだ」
「おまえにもおるんか?」
 少年はこくりと頷いた。オレは意外な共通点を見つけ出したような気分になり、少しうれしくなった。
「僕、今も妹が来るのを待っているんだ」
「そうなんや。けど、妹ってうっとうしくねぇ?」
「そりゃ、たまにはね。でも、兄弟って世界一分かり合える存在だと思うよ」
「はぁ? ありえね〜」
 少年は真剣な顔で続けた。確かにオレのほうを見ているのに、その焦点はずっと遠くに定まっているような不思議な瞳をしていた。
「僕は、以心伝心ができるとしたら、それは恋人や親よりも兄弟だと思う。だって、同じ親から生まれて、同じ環境で、毎日同じものを食べて育つんだよ。その気になれば、考えていることを読みとったり、同時に同じ夢を見ることだって可能だと思うんだ」
 普段だったら、馬鹿にして笑い飛ばすような話なのに、オレはただ静かに耳を傾けていた。少年の穏やかな声を聞きながら澄んだ水の流れに寄り添っていると、トゲトゲした気持ちまで洗い流されてゆくようだ。
 気付くと、ほんのりとした眠気を感じるほど、オレは緩んだ気持ちになっていた。
 うーんと体を反らしてそのままどさっと草の上に横たわると、隣の少年も後に続いた。草の露が、Tシャツの背中をしっとりと濡らす。
「よう、晴れとるなあ」
 返事はなかったが、隣の草がかさりと揺れて彼が頷いたのがわかった。
 とろりとした目で五月の空を見上げる。この澄んだ青い空にぐんぐんと吸い込まれていけるのなら、次は虫に生まれ変わってもいいような気がした。
「空を飛べるんやったら、ハエもいいかもなあ……」
 オレが独り言のように呟くと、隣の少年は少し身を起こしてオレを見つめた。
「ホントに? ホントにそう思うの?」
 少年があまりにも真剣な顔で聞くので、オレは思わず噴き出した。
「んなわけないやろ。ハエはゲームも野球もできんが」
 少年はつまらなそうに小さくため息をついて、川の流れへ視線を向けた。
「目の前にこんなにきれいな川があるのに、君は川には入らないの?」
「ここはな、流れが穏やかそうに見えるけど、急に深いところがあって足をとられるけん、子供たちだけでは絶対に入ったらいかんって言われとるんや」
「……知ってるよ」
 少年はこくりと頷いた。その瞳には、なぜか淋しげな影がゆらゆらと揺れていた。


 どれくらい経っただろう。賑やかな声が響いてきてふと目を開けると、少年が膝まで川に浸かって水遊びしていた。そのすぐ隣にはオレたちよりも少し小さな女の子がいた。二人の顔はよく似ていて、一目で兄妹だと分かった。
 妹、やっと来たんだ。よかったな……。
 オレは寝そべったまま、ぼんやりと楽しげに遊ぶ二人を眺め続けた。
 水を掛け合う二人の周りでは、しぶきがガラス玉のように光を集めてやけにキラキラと光っている。
 あまりにも二人が楽しそうに笑っているので、オレは我慢できなくなって立ち上がり、土手の急斜面を滑り降りた。そろりそろりと川の中へ入っていったが、水は少しも冷たくない。オレの体温と全く同じ温度の水は、足元で不思議な色の波紋を作ってはどこか遠くへと流れていった。
 オレは仲間に入ろうとして二人に声を掛けた。それなのに、二人は無視してどんどん遠くへ行ってしまう。
「そっちは、危ない。行ったらいかん」
 そう叫んでみて、声が全く出ていないことに気がついた。
 二人の背中に伸ばした指が、虚しく空を切る。
 声が出ないかわりに、なぜだか涙が後から後からあふれてくる。
 その涙の雫が水面にパタパタと落ちるたびに、川は一層流れを激しくする。
 二人の背中はどんどん小さくなり、やがて虫ほどの大きさになった。
 そっちへ行っちゃだめだ。
 ハエなんかになっちゃ駄目だ!
 オレは二人を追いかけようとした。
「兄ちゃん!」
 その時、妹の声がしたような気がした。
 振り返った丁度目線あたりの川岸に、スミレの花がゆれていた。


「ねえ、ちょっと、起きて、起きてよ」
 頬の辺りに軽い衝撃を感じて、目が覚めた。そこには心配そうにオレを覗き込む若い女の人の姿があった。
「あなた、もう少しで川に落ちそうだったわよ。こんなところで寝てたら、危ないじゃない」
 オレは慌てて辺りを見回した。女の人の言うとおり、足元のすぐ下まで川の流れが迫っていた。もっとずっと水辺から離れたところにいたはずなのに、眠っているうちにここまで転がってきてしまったのだろう。ぞっとして、一気に眠気が吹き飛んだ。
 空気がほんのりと蜂蜜色に染まっていて、夕暮れが近いことを物語っていた。どうやらかなり長い時間眠りこんでいたらしい。
「あ、あの、お姉さんが来たとき、オレ一人だけでした?」
「ええ、そうだけど。他にも誰かいたの?」
「いえ、オレがぐっすり眠り込んでしまったけん、あきれて先に帰ったんやと思います」
 どこからどこまでが夢の中の出来事なのか、オレは頭の中でその境目を探ろうとした。けれど、羽音のような耳鳴りも、少年の遠くを見つめる瞳も、ガラス玉のように光る水しぶきも、スミレの花の薄紫色も、やけに生々しくくっきりとその残像が残っていて、胸苦しいほどだ。
 これも、夢の続きだろうか。そう思いながら、女の人を見つめた。よく見ると、彼女はとても悲しげな顔をしていた。元々そういう顔立ちなのか、悲しい出来事があったのかは分からない。だけど、かなり綺麗な人だということは分かった。今年新卒で担任になった山崎先生と同じくらいに見えるので、年は二十代前半だろう。シンプルだけどセンスの良い服装や抜けるような白い肌で、土地の人でないことはすぐにわかった。さっきの少年の家族だろうか。
 オレが不躾にジロジロと観察していると、女の人は何だか苦しそうに視線をそらした。そして、ためらいがちに呟いた。
「あなた、私の知ってる人に雰囲気が似てるからびっくりしちゃった」
 オレは、ゆっくりと女の人の腕の中にある菖蒲の花束に視線を落とした。
 突然、心臓がどきどきしてきた。

 腕に抱えられた花束。妹を待っていると言った少年。僕を見る女の人の今にも泣き出しそうな顔。同じ輝きを持つそっくりな瞳。
 パズルのピースが一つ一つはめ込まれて一つの答えが導き出されとき、背中を冷たい電流がぞくりと駆け上がった。
「そ、そろそろ家に帰らんと……」
 震えだした指先に気付かれないように、オレは慌てて立ち上がった。
「そうね。もう日が暮れるものね。気をつけて」
 言葉とは裏腹に名残惜しそうな顔をしている女の人に、オレはぺこりと小さく頭を下げて背を向けた。
 きっと今、彼女はオレの後姿をじっと見ている。悲しみをいっぱいにたたえた瞳で、静かにオレの背中を見送っている。オレは震えないように足を踏ん張りながら、もくもくとひたすら歩き続けた。

 ……そうだ、確かあの夜、母さんはこう言っていた。
「十年前、あんたくらいの男の子がここで溺れたんよ。連休に、東京からお祖父さんの家に遊びに来てた子やったわ。なんでも、深みにはまった妹さんを助けようとして自分が溺れてしまったんやって。妹さんを川岸に押し上げたあと、お兄ちゃんのほうは力尽きて、そのまま流されてしまったらしいわ……」


 玄関の扉を開けると、むわっとしたカレーの匂いがオレを出迎えた。カレーはオレの大好物だけど、妹が苦手という理由で滅多にうちの食卓には上がらない。
「何やお前、えらい汚れてきたなあ」
 廊下の奥に、父さんの姿があった。俯いて自分の体を見下ろしてみると、Tシャツの所々に草の切れ端が張り付き、膝小僧が黒ずんでいた。
「川原で眠りこけとった」
 靴を脱ぎながらオレが答えると、父さんは少し笑った。
「早く風呂に入れ。今、丁度いい具合に沸いとるから」
 そう言いながらすれ違いざまオレの頭をくしゃっとした父さんの顔は、少し緊張しているように見えた。
 台所に入っていくと、鍋から次々と湧き上がる白い煙の向こうに母さんが立っていた。
 リビングとの仕切りになっているカウンターの上に、無言で卵とお釣りを置くと、カレーの鍋をかき混ぜていた母さんが振り返った。
「ああ、ありがとね。お釣りはあんたにやるけん、取っとき」
 遠慮なくお釣りをズボンのポケットに戻しながら、聞いてみた。
「すみれの具合はどんなね?」
「熱は随分下がったよ。さっき目を覚ましたとき、あんたのこと探しとったから、ちょっと顔見せてあげないよ」
 オレは洗面所に行ってから、そっと和室の襖を開けた。熱は下がったと母さんは言っていたが、額に冷却シートを乗せて眠る妹のほほや唇は、いつもよりもまだ赤い。
 安らかに上下している肩先あたりにそっと跪いて、妹の顔を見下ろした。
 妹はオレの気配に気付いたのか、ゆっくりと目をあけた。パチパチと何度か瞬きしたあとにオレをほうを見て、少し驚いたような顔をした。寝ぼけてぼんやりした顔が、赤ちゃんみたいだ。
「ほら、これ」
 目の前に突き出した空の乳酸飲料の容器には、三本のスミレがつっこんである。
「わ〜。かーわいい」
 妹は無邪気に笑った。枕の横に置いたそのささやかな花束を、そっと指先で触れたり眺めたりしたあと、はっと思い出したようにオレを見て言った。
「兄ちゃん、今日、川に行ってたやろ」
「うん。何でわかる?」
「夢見たから」
「夢? どんな?」
「あのね、兄ちゃんと、もう一人同じ年くらいの兄ちゃんと、あと兄ちゃんたちより少し小さな女の子の三人でね、楽しそうに川で遊んどる夢やった」
 心臓がどきりと跳ね上がった。
「そ、それで?」
「あとは、よく覚えとらん。だけど、目が覚めたときなんだかすごく悲しい気持ちやった。なんでやろね」
 オレは言葉もなく、呆然と妹を見下ろした。
「熱が下がったら、私も川に遊びに行きたいなあ」
「川はやめとき。危ないから、行かんほうがいい」
 オレの狼狽ぶりに妹が眉をひそめて怪訝な表情を浮かべたので、慌てて言葉を付け足した。
「川遊びよりも……、そうや、すみれの大好きなリカちゃん人形で遊んでやるけん」
「兄ちゃん、死んでも人形遊びなんかできんっていつも言っとるくせに」
 確かにそうだけど、リカちゃん人形のことは、ずっとかわいいと思っていた。もちろん、そんなことは口が裂けても言わないが。
「人形遊びでも何でも、元気になったらすみれの好きな遊びに付き合っちゃるけん、早く良くならんと」
 そう言いながら、肩まで布団を引き上げてやった。それでも、妹は目を閉じようとしない。
「熱があると嫌な夢ばかり見るけん、眠るのが怖いわ」
 いつもの甘ったれた瞳でオレを見上げた。
 オレは妹の隣にゴロンと寝転がった。畳のひんやりした感触と井草の青い匂いが心地良い。
「兄ちゃんがずっとここにおるけん、大丈夫や。怖い夢なんか追い払っちゃる」
 オレたちは同じ目線でにっこりと笑い合った。妹は、小さな手を伸ばしてきた。オレはその手をそっと握った。
 分ってる。分っている。
 どんなに鬱陶しい、うるさいって思ったって、妹が本気で困って手を伸ばしてきたら、オレは決してその手を振り払ったりはできない。命まで投げ出せるかは自信はないけど、きっと妹の手を握り締めて離さないだろう。
 すみれは安心したようにやっと目を閉じた。しばらくすると、隣から安らかな寝息が響いてきた。
 オレもそっと目を閉じる。こうやって手を握って体温を分け合い、妹の寝息に呼吸を合わせていくとまた同じ夢を見れそうな気がする。
  
 白く滲む霧が幕を下ろすように意識を覆ってゆく。霧の向こう側ではきっと、楽しい夢がオレたちを待っている。
 きっともう、羽音は聞こえない。


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●感想
一言コメント
 ・丁度その位の子どもがいるので、興味深く読みました。

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