高得点作品掲載所     やまやまさん 著作  | トップへ戻る | 


オッチャンと少女

 ヤスオは困っていた。
 ベンチには30代後半の男と小学校低学年ほどの少女。隣に座る少女をヤスオはチラリと見た。空いてるベンチは他にもあるのに……
 このベンチは、ヤスオにとって午後の読書を楽しむ特等席だった。読書といってもスポーツ新聞のエロ記事を読むだけだが。隣に誰かいると落ち着いて読書に没頭できない。黙って並んで座っているというのがどうも居心地が悪いのだ。
 楽しませねば。
 余計なサービス精神を発揮してしまうO型のヤスオであった。
「お嬢ちゃん、飴ちゃんいるかい? 酢イカもあるよ。あ、スイカじゃないよ。イカのほうね」
「けっこうです」
「……そう?」
 大人びた口調で拒否する少女。とりあえずエサで釣る初級の作戦は失敗だった。まあ、犬や猫じゃないしな。ヤスオは諦めなかった。
「お嬢ちゃん、ピカチュー知ってる? あれスゴイ人気だよね」
「知ってます」
「アレだよね。やっぱピカチューってスゴイよね。人気者だしね。アレかな。何食ってんだろうな。酢イカ食うかな」
 とりあえず子どもに人気のありそうな話題を出してみるものの、それ以上の知識がないために話が続かない。見切り発車で底の浅さを露呈してしまうのもいつもの事であった。
 少女がふう、とため息をひとつついた。
 やばい、退屈しているのかな。空気を読めないヤスオは間違った方向に頑張ってしまう癖があった。
「よし、じゃあとっておきのモノマネを見せてあげよう。オッチャンの考えたオリジナルのやつな。ちゃんと見ててよ」
「はい」
 ヤスオは渾身のモノマネを披露した。宴会芸として鏡の前で何度も練習したやつだ。はっきり言って自信があった。
「……誰ですか? 知りません」
「トシ。タカトシじゃないよ。田原トシヒコね。……そうだよね。トシちゃん知らないか。若いもんね……昔、有名だった人だよ。いや、いい。忘れて」
 さすがのヤスオも、何も考えずに突っ走るのは限界があると後悔した。そして、今更ながら自分にはエンターテイナーとしての素質がないかも、と思い始めた。
 少女がまたため息をついた。
 ここに来てようやく、もしかして悩みでもあるのではないか、と思い至る。
「お嬢ちゃん。何か悩みがあるならオッチャンに言ってみ? オッチャンも伊達に歳食ってへんで。相談なら乗ってあげるで」
 少女はまっすぐにヤスオを見つめた。澄んだ瞳。穢れのないその瞳に己が映るのが申し訳なくなるような。艶のある黒髪に包まれた小さい顔は、この歳の少女には似つかわしくない憂いを帯びている。
 遠くから、キャアキャアと騒ぎながら駆け抜けていく一団の声が聞こえてきた。ベンチに座る少女と歳はそれほど変わらないだろう。どの子も屈託のない笑顔で、大きな声で笑いさざめきながら活発に駆け回っている。
 少女は軽く目を伏せた。長い睫毛が影を落とす。
「別に悩みなんてないです。……今日は楽しかったです」
 少女は静かに立ち上がると、たたた、と駆け去ってしまった。
 一人ぽつんと取り残されたヤスオであったが、楽しかった、と言われてあっさり有頂天になっていた。やはりエンターテイナーとしての素質があるのかも、などと気楽な事を考えている。
 突然隣に腰掛け、唐突に去っていった少女。
 それは何気ない日常のひとコマにすぎない。気をとりなおしたヤスオは、初夏の日差しにうっすらと汗を浮かべながら、日課の読書に精を出すのであった。

「いらっしゃい! ……なんだ、ヤスオかい」
 くたびれた食堂の戸を開けたヤスオを面倒くさそうな声が迎える。
「なんだはないでしょ、オバァ。お得意さまにむかって」
 店の女将は、歳の頃は五、六十だろうか。濃い目の化粧でも顔のシワは隠し切れないが、髪に紫のメッシュを入れ、背筋はピンと伸びている。片手にタバコをつまみながら、お冷をカウンターに置いた。
 店に客は少ない。作業着姿のおじさんが二人、テーブルに向き合って新聞を読んでいる。メニューはビニールが剥がれてヨレヨレで、テーブルクロスも黄ばんで煤けている。古い14インチのテレビは高校野球の中継を映し出しているが、ブラウン管に映る画像は色褪せていた。安い扇風機が唸りながら首を振る。この場末感がヤスオは好きだった。
 ヤスオは音を立てて椅子を引いた。
「とりあえずいつもの鉄火丼ね。大盛りで。オバァ、俺また新しい商品考えたよ。今度のはイケるんじゃないかと思うんだけど」
 カウンターに腰掛けるなり、おしぼりで顔や脇の下を拭く。
「まだそんな事言ってるのかい。オメェもうじき40にもなろうって男が夢みたいな事ばっか言ってるんじゃないよ。いいかげん結婚するなり定職につくなりしとけって」
 慣れた手つきで注文されたメニューの用意をしながら、背後のヤスオに返事をするオバァ。
「今度こそマジだって。いや、いいから聞いて。『ダイエット食器』コレ! 来るよ絶対。茶碗もスプーンもフォークも、全部フツウのサイズより小さいの。必然的に食べる量も減って、絶対痩せられるってわけ。どうコレ。特許取ろうと思うんだけど」
「その前にオメェが痩せろ」
 オバァはまったく相手にしていない。自称発明家のヤスオに変なアイデア商品を聞かされるのは慣れっこだった。自称発明家の前は自称投資家だった。豆株をちまちま買ったり売ったりするだけだが。その前は自称パチプロだった。
「商売の究極の理想はさ、客の需要を100%察知する事だと思うわけよ。その点ダイエット需要は常にあるはずだから、100%売れるわけよ。需要と供給ってやつよ。どう、この理論」
「何が需要と供給だい。お前なんかに言われんでも商売やってりゃ常識だろ」
 オバァがヤスオの前に乱暴に丼を置く。
「いや、それが案外難しいんだって。わかってても実践できてないもんだよ。だいたいこの店のメニューだってそうだろ、なんだよ『春風のマリネ』って。この店の客がこんなメルヘンチックなメニュー頼むかぁ? 需要ないよ」
「うるさいね! 余計なお世話だよ」
 オバァは少し照れた。これが噂のツンデレってやつかなぁとヤスオは思ったが、すぐにやっぱり違うだろう、と思いなおした。
「来たね。俺の時代が。さっそくこの企画売り込んでくるよ。億万長者になったらこの店建て替えてやるよ、オバァ」
 ヤスオは行動力だけは無駄にあった。これだけ行動力があって、そのことごとくが空回るのも、ある種の才能だろうか。自称パチプロの頃も謎の必勝理論を実践すると言ってパチンコ屋巡りをしていた。もちろん空振りだったわけだが。
「もう皮算用かい。相変わらず、名前の通り安い男だね」
「違うよ。ヤスオのヤスは安らかのヤスだよ。安らかな男なの。俺の心は湖の如く穏やかだからね」
「なぁにが湖だい。ネッシーやらイエティやらがうじゃうじゃ棲んでそうだね」
「そんなもん棲んでないっつーの。妖精が住んでるっつーの」
 ヤスオは食べ終わった丼と勘定を置き、席を立った。丼一杯食べ終わるのに2分とかかっていない。早メシ早グソはヤスオの得意技だった。
「んじゃ、ごっそさん。俺、バイトあるから!」
「いつまでフリーターやってるつもりだい。このままじゃオメェ、一生独身だよ」
「なんとかなるって。それに俺、この生活気に入ってるし」
 膨れた腹をぽんぽん叩き、意気揚々と店を出るヤスオを、オバァはため息とともに見送った。

 次の日。ヤスオが読書を楽しんでいると、先日の少女が再びやってきて、ベンチの隣にちょこんと腰をかけた。丸々とした体型に髭面のおっさんと、幼い少女。世間的に見て、怪しい事この上ない。ヤスオは一瞬躊躇したが、結局話しかけた。
「お嬢ちゃん、また会ったね。オッチャンの事覚えてる?」
「おぼえてます。こんにちは」
 少女はヤスオを見上げて礼儀正しく挨拶した。顔や手足など全てのパーツが小さくて、お人形さんのようだとヤスオは思った。思わず頭を撫でてしまいたくなったが、さすがに自重した。
 ヤスオにとっては、未知の生物といっていい。どうやったらコミュニケーションがとれるだろうか。まず、ヤスオは自分の得意な話題を羅列してみる事にした。
 下ネタ、ギャンブル、楽して稼げる話、経済(かじる程度)、格闘技、昔のアイドル、昔のアニメ、昔のマンガ……
 どれも少女とコミュニケーションをとれそうな話題ではない。
 キン肉マンは知らないだろうし、ビックリマンも知らないよな……いや、新しいやつ出てるんだっけ? そんな事を考えながらも、とりあえず間を持たせるために何か喋る事にした。
「オッチャンな、ヤスオっていうんだ。安らかのヤスね。お嬢ちゃん、名前は?」
「…………タカコです」
 少女――タカコは素直に答えた。自分から話しかけてくる事はないが、何か聞けば素直に答えてくれるようだ。ヤスオとの会話を嫌がっている様子はなかった。
 その事にヤスオは気を良くした。
「タカコちゃんね。アイス買ったろか。暑いでしょ」
 日差しは容赦なく照りつけている。小学生はもう夏休みに入っているのだろうか。昼間に街をうろついていても、子ども達を見かける事が多くなった。ヤスオが袖で汗をぬぐう。
「ごめんなさい。知らない人に物もらっちゃいけないって言われてます」
「そう? そうだよね。えらいねタカコちゃんは。ご両親の教育が行き届いているのかな」
 ヤスオは少し残念だった。知らない人と言われた事もそうだが、実は自分がアイスを食べたかったのだ。会話を切り上げてアイス買いにいくのも失礼だし、飲み物の自動販売機も近くにはなさそうだった。
 その様子に敏感に気付いたのだろうか。
「私、おかね持ってます。一緒にアイス買いにいきますか?」
 初めてタカコのほうからヤスオに話しかけた。そのことに、ヤスオは非常に気をよくした。
「よし! いこか。近くに駄菓子屋あるよ」
 
 公園のすぐ近くに駄菓子屋があった。タバコ屋と一体になったような小さな店で、バァさんが一人で店番している。何十年前に書かれたのかわからない看板。店の前には、年季の入ったガチャガチャの機械が置いてある。
「バーちゃん。アイス二本ちょうだい」
「ヤスオちゃんかい。大きくなったねぇ」
「バーちゃん、来るたびにそれ言ってるね」
 ヤスオは小学生の頃からよくこの店に通っていた。その頃から店番をしているバァさんに変化がないような気がする。
「ほら、タカコちゃん、アイス選びな。当たりつきのやつないかな。最近あんまり見ないな」
 タカコがアイスを選んでいる間、ヤスオはチラリとバァさんの様子を窺った。バァさんはポカンと口を開けてテレビに見入っている。その隙に、くじ引き飴を箱からまとめて抜きだした。紐の先に飴が付いており、当たりであれば紐の根元に赤い印がついている。当たりの紐を選り分け、紐の先を少し折って、全ての飴を元にもどす。慣れた手つきの、電光石火の早業だった。
「アイス決まった? お、ホームランバーか。六十円のやつな」
 タカコは小さくて四角いアイスを取り出し、ポケットから取り出した財布を覗いていた。キャラクターがプリントされた可愛い財布だ。
「タカコちゃん。くじ引き飴おごったる。コレコレ、引いてみ」
「なんですかコレ」
 箱の前にちょこんと座り、説明書きを読んでいる。興味を示しているようだ。
「当たったらもう一本もらえるよ。バーちゃん! くじ引きやるよ」
「イカサマすんじゃないよ!」
 バァさんはテレビを見たまま面倒くさそうに答える。
「大丈夫。俺は指一本ふれないから。選ぶのはタカコちゃんだよ。バーちゃん、心配なら見てればいいじゃん」
 すでに仕掛けを済ませておきながら、ヌケヌケと言うヤスオ。
「ほれ、この紐とかよさそうな気がするよ。まあ、決めるのはタカコちゃんだけど」
 一本だけ、すごく掴みやすそうな紐がチョロンと出ている。案の定、タカコはその紐を引いてくれた。もちろん、赤い印のついた当たりの紐である。
「おっ、当たりだ! すごいよタカコちゃん。当たりだよ」
 それを見たタカコは、ヤスオを見上げて心から嬉しそうな笑顔を見せた。歳相応の、無邪気な笑顔。ヤスオは嬉しくなった。
「しょうがないね。じゃあもう一本引いていいよ」
 飴二本とアイスを持って、タカコがバァさんにお金を差し出す。十円玉と、五円玉、一円玉がそれぞれ数枚。小さい手で硬貨をつまんで、レジの横に丁寧に置いていく。
 そのいたいけな様子に、ヤスオは思わずギュウッと抱きしめてほお擦りしたくなったが、自重した。他所の子だし。
「はい。おじさんの分です」
 タカコは飴を一本ヤスオに差し出した。
「おっ、うれしいねぇ。オッチャンにくれるんか?」
 ヤスオは飴を受け取り、自分のアイスを買ってタカコと一緒に店を出た。
 店を出たヤスオ達は、いつものベンチに腰掛けて仲良くアイスを食べた。
「アイスおいしい?」
「おいしいです」
「飴ちゃん当たってよかったね」
「うれしいです」
 タカコは相変わらず多くは話さなかったが、表情は最初に会った頃より柔らかくなっている気がした。
 アブラゼミの合唱を聞きながら、ベンチに並んでアイスを食べるおっさんと少女。
 アイスを食べ終わると、タカコはごちそうさま、と言って席を立った。短く別れの言葉を残して帰っていく。その後ろ姿を見つめながら、ヤスオは癒されている自分を感じていた。

「いらっしゃいませ〜」
 フロントに立つヤスオが間延びした声をあげる。夕方からは、漫画喫茶でアルバイトをしていた。マンガがタダで読めるというのが志望動機である。
「岬さん、あそこのタウンワークの文字見える?」
 ヤスオはバイト仲間の岬さんに話しかけた。18歳。女子高生である。ヤスオはウキウキしていた。
「駅チカバイトスペシャルですか? 読めますよぉ〜」
「さすが。若いから目ぇいいね〜」
 ヤスオはデレデレであった。岬さんは、顔もそこそこ可愛いが、なんといってもくびれた腰と豊かに実った胸が魅力的であった。シャツを押し上げる胸と、白いシャツにうっすら透けて見える赤いブラにヤスオの目が吸い寄せられる。それをごまかすように、他愛のない話題を繰り出すのだ。岬さんも、嫌がらずに応じてくれるので、ヤスオはますますご機嫌になる。
 この時間は、岬さんと二人きりだった。女子高生とタダでお話しできるなんて、ヤスオにとってはパラダイスのようなバイトであった。
「俺、最近太っちゃってさぁ〜、ダイエットしようかと思ってるんだよね」
 はっきり言って今更少しくらい太ったところで見た目にはほとんどわからない。
「え〜、ホントですかぁ。私も少し頬のあたりが気になっちゃって。頬だけ部分やせとかできないですかね?」
「そう? あんまりわからないけど。でもお肉が付くときは、全身まんべんなく付いてるらしいよ。実はお腹にも肉付いてたりして」
「ええ〜、そんな事ないですよぉ。ホラ、付いてないと思うけどなぁ」
 そういってウエストのあたりに手を当てる岬さん。実際、ウェストはくびれていて余計な肉は少なそうである。シャツをひっぱって腰のラインをはっきりと見せているので、必然的に胸のふくらみも目立つ。
「どうですか? つまんでみてください」
 岬さんはヤスオにエロい目で見られている事に気付いていないのか、そんな事を言い出した。
「ほぉ〜、どれどれ」
 ヤスオは指をつきだして岬さんの横腹をつまんでみた。やわらかさが指に伝わり、甘美な心地よさが全身に広がっていく。思わずヤスオの重要な部分がムクリと起き上がってしまった。
「う〜ん。よくわからんな」
 頭の中はエロスでいっぱいだったので、ほとんど無意識にそう言っていた。岬さんはくすぐったそうにしながらも嫌がる素振りはない。
「もぉ〜、付いてないって言ってくださいよぉ〜」
 この時ヤスオの頭にあったのは、これはイケるのではないか? と、いう事であった。
 まったく好意のない人間に脇腹をつまませるだろうか?
 いや、ない。
 誘っているのではあるまいか? 一度都合のいい想像が頭を占領すると、それ以外の可能性が全て追い出されてしまった。もうこうなってしまうと全ての客観性は消えてなくなり、楽観的な妄想にまかせて突貫あるのみである。
「いやいや、余計な肉なんて付いてないよ。それだけスタイルよければ水着とか似合うだろうなぁ〜。そういえば近くにプールあったね。岬ちゃんはプール行ったりするのかな? オッチャンと一緒に行かない? なーんて言ってみたり!」
「え〜、プールとかあまり行かないですね〜」
「そう? インドア派なのかな。そういえば映画のチケットが余ってたような気がするなぁ〜。岬ちゃん、一緒に行かない? なんて言ってみたりみなかったり」
「最近スケジュール混んでて〜、行く時間ないですね〜」
 アレレ? ヤスオは、なんかおかしいなと思い始めていた。予想していた反応と違う。
「そっかー。忙しいんじゃしょうがないね。じゃーバイトが終わった後でメシでも食いに行かない? オッチャンおごったるで」
 ヤスオはわずかに残った可能性に賭けてしつこく食い下がった。
「バイト終わった後は予定入ってるんで……すいません」
 いつの間にか、岬さんとの間に心の距離だけでなく物理的な距離も開いていた。先ほどまで手を伸ばせば届く距離にいたのに、知らない間に手を伸ばしても届かない距離にいた。
「そうだよね。うん。しょうがないよね」
 それからバイトが終わるまでの間、ヤスオは気まずさをごまかすようにどうでもいい事を喋り続けた。
 バイトが終わる頃、若い男が岬さんを迎えに来た。身長はヤスオより高く、茶色の髪で色の入った眼鏡をかけている。私服に着替えた岬さんは、楽しそうに話しながら店を出て行く。店を出る間際、ヤスオに向かって「お先にしつれいしまーす」と声をかけた。男と並んで。
 ヤスオは、ポーカーフェイスを装いつつ「おつかれー」と応える。
 男と話す岬さんは、ヤスオの知らない話し方だった。声のトーンも少し高い気がする。
 ぽつんと取り残されたヤスオは、もそもそと着替えながら一人で呟いた。
「風俗でも行くか……」
 しかしヤスオの財布には千円札が数枚。風俗行きはあえなく断念する。
 その夜、ヤスオは思春期の少年のようにもんどりうち、なかなか寝付けなかった。


 タカコは家に帰ると、リビングに向かって「ただいま」と声をかけた。返事はない。
 リビングに入ると、母親がテレビも点けずに座っていた。その背中にむけて、もういちど声をかける。
「お母さん、ただいま」
 母親がかすかに振り向いた。が、すぐに面倒くさそうに前をむきなおし、再び動かなくなった。
 今日は話しかけないほうがいい日だ。
 タカコはその事をよくわかっていたので、それ以上何も言わずにリビングを通り過ぎた。まっすぐ自分の部屋に向かうと、ベッドに仰向けに身を投げ出した。天井を見上げながら、ぼんやりと考える。
 今日もお父さんは帰ってこない。
 お母さんは一日中、口をきいてくれないだろうな。
 こんな生活が、もう半年になる。
 たぶん、最初は半年前のあの日だ。

 半年前のあの日、タカコは帰ってくるなり元気よくリビングに駆け込んだ。
「ただいまー!」
 返事がなかったので、お母さんは買い物かなぁ、と思った。
 冷蔵庫に直行し、中を覗く。おやつはなかった。少しがっかりしながらも、お母さんが買い物から帰ってきたら何か買ってきてくれているかもしれない、と思った。
 自分の部屋に向かおうとした時、リビングの入り口にお母さんが無言で立っているのに気付いて、少しびっくりした。
「お母さん、ただいま」
「……おかえり」
 お母さんは疲れているようだった。目の周りが赤い。泣いていたのかもしれなかった。
 タカコは、お母さんを元気づけよう、と思った。
「今日、図工の時間にお父さんとお母さんの絵を描いたよ」
 ランドセルに丸めて差していた画用紙を抜き取り、するすると広げてお母さんの前に持っていった。先生がほめてくれた、自信作だった。
 お母さんは、少しの間、黙って画用紙を見つめていた。画用紙には、太陽と、お父さんとお母さんがニコニコと笑っている姿が描かれている。二人の間にはタカコがいる。タカコも笑顔だ。
 お母さんもほめてくれると思っていた。
 でも、絵を見ていたお母さんの顔は、見たこともないくらい怖い顔になっていた。
 お母さんは、絵をひったくると、力任せにビリビリに破ってしまった。細かく、細かくなるまで何度も何度も千切った。
「何でこんなもの描くの! 痛々しいのよッ!」
 お母さんはヒステリックに叫ぶと、タカコをつかまえて頬をひっぱたいた。
 タカコはびっくりしてお母さんを見上げた。悲しいとか怖いとかより、ただびっくりしていた。
「何よ、その目」
 お母さんはまたタカコを叩いた。お母さんは泣いていた。タカコは叩かれても逃げたり騒いだりしなかった。ただ、お母さんを見つめていた。
「何よッ! そんな目で私を見るな! 泣けッ! 泣きなさいよ、子どもらしくッ!」
 お母さんは、さらにヒステリックに何度かタカコを叩いた。
 タカコは泣かなかった。
 泣いているお母さんが可哀想だったから。
 なにがなんだかわからなかったけど、お母さんはすごく悲しくて、苦しいんだと思った。散らばってしまった自信作も気にならなかった。頬も痛かったけど、叩いていたお母さんの方が可哀想だったから、お母さんが心配だった。
 自分が守ってあげなきゃ、と思った。タカコは味方だよ、と言ってあげたかった。
 でも何も言えず、泣き崩れるお母さんを、ただじっと見つめていた。

 その日以来、タカコの家はおかしくなった。
 お父さんはたまにしか帰らず、帰ってきてもお母さんとケンカしてすぐに出て行ってしまう。 お母さんもあまり喋らなくなった。お弁当も作ってくれなくなったので、タカコは自分で作った。握りすぎてべちょべちょになってしまったオニギリは、あまりおいしくなかった。
 お母さんの機嫌が特に悪い日は、外で時間をつぶした。
 家に帰るのが遅くなっても、誰にも叱られない。
 夜更かししても、寝る前にお菓子を食べても叱られない。
 誰にも叱られない自由な生活に憧れた事もあったけど、でも、実際にそうなってみると、全然楽しくなかった。
 タカコは、友達ともあまり遊ばなくなった。


 翌日、ヤスオが公園に行くとすでにタカコがベンチに座っていた。
「おー、今日は早いな。オッチャンの事覚えとるか〜?」
 ヤスオはのんきに声をかける。
「おぼえてます。こんにちは」
 先日と同じように、タカコは礼儀正しく挨拶する。だが、先日より少し元気がない事に、ヤスオは目ざとく気付いた。
「どったの? 悩みでもあるん?」
「…………」
 タカコは答えなかった。足をぶらぶらさせながら、弱々しく首を横にふる。
「オッチャンでよかったら力になるで。そや、オッチャンの友達で仮面ライダーやっとる奴がおるから、何なら相談してあげよか」
「そんなのいません。テレビの中のつくりごとです」
「そ、そうね。いや、ホンマおるんやけどな……まあ、それはともかく。実はな、オッチャンもヘコんでるんだよね。相談にのってくれる?」
 タカコは明らかに元気がない様子だったので、ヤスオは揺さぶりをかけてみる事にした。自分の悩みを打ち明ければ、タカコも心を開きやすいと思ったのだ。
「はい。のります」
 タカコは素直に頷いた。
「いや、オッチャン、最近失恋したんよ。まあ、失恋は慣れてるんだけどね……なんかこう、胸のあたりがキューッと切ないんだわ。タカコちゃんは失恋したことある?」
 ヤスオは、タカコの悩みは恋愛関係とか、友達とケンカしたとか、その辺ではないかと当たりをつけていた。その線で、さりげなく探りを入れてみる。
「……ないと思います」
 タカコは少し考えて答えた。残念ながら、ヤスオの探りには食いついてこなかったようだ。女の子は恋愛話が好きかと思ったのだが。
「そっかー。まぁ、それがオッチャンの悩みかな。じゃ、次はタカコちゃんが悩みを打ち明ける番だよ」
 少しずるいとは思ったが、ヤスオが打ち明けた後なら言いやすいかと考えたのだ。
「………………」
 タカコはしばらく黙っていた。
「あ、いや、言いにくかったら無理に言う必要はないよ。なんかもっと楽しい話する?」
 タカコは、ふるふると首を横に振った。そして、少し考えてから、ぽつりぽつりと話し始めた。
 お母さんとお父さんがケンカしたらしい事。
 お母さんの様子。
 お父さんがあまり家に帰ってこなくなった事。
 タカコくらいの歳の子にしてみれば相当重いであろう事を、言葉少なに淡々と話す。
 ヤスオは神妙な面持ちで聞いていたが、早々に、『これは手に負えん話だわ』と思った。家族の悩みは部外者のヤスオには立ち入りづらいものがある。下手に慰めた所で、本人にとっては気休めにもならないだろう。かといってヤスオに根本的な解決ができるとも思えない。
 それでも、人に話す事で少しでも楽になるのなら、と思い、最後まで真面目に聞いた。こんな悩みは同年代の友達にはしづらいだろう。大人の自分が聞いてやらねば、と思った。
「そっかー。タカコちゃん、苦労人だね。若いのに。人に話して少しは楽になった?」
「……なったような気がします」
 タカコは相変わらず元気がなかったが、健気にも笑顔を作ってみせた。ヤスオはこの子のためになんかしてあげたい、と思った。
 遊園地にでも連れて行ってあげるか? しかし、赤の他人が『遊園地連れていってあげるからついておいで』とか言うのもなんか怪しすぎる気がする。しかもヤスオが言うとなおさらだ。
 そもそも、金がなかった。
 少し考えていたが、やがて何かを閃いた顔になった。
「そうだ、タカコちゃん。おっちゃん、明日ちょっとした仕事があるんだけど、手伝ってみるかい? 気晴らしになると思うけど。バイト代も出すよ」
 タカコは少し驚いたようだった。
「お仕事ですか?」
「そう! おっちゃんな、いい商売思いついてん。商売の究極の理想はな、客の需要を100%察知する事やと思うんだけど、天気予報によると明日、雨が降るんだわ。そんで、近くで野外ライブみたいのがあるのよ。コレは絶対、『雨ガッパ』が売れると思うんだわ。ライブじゃ傘は邪魔になるでしょ? カッパなら売るのにもかさばらないし、量をさばけると思うわけ。どう、コレ。完璧な作戦でしょ? こんな時のために、カッパを沢山仕込んであるんよ」
 少し説明が難しかったのか、タカコはしばらくきょとんとしていた。
「私にもできますか?」
「もちろん。タカコちゃん可愛いから、お客さんいっぱい来るよ」
 しばらく考えてから、タカコはこくりと頷いた。

 翌日。
 空は白く煙り、朝から雨が降り続いていた。幸いな事に、天気予報が当たったのだ。
 ライブ会場まで少し距離があったので、食堂のオバァに無理を言って車を借り、カッパを積み込んで移動した。雨の中、カッパを着込んだヤスオとタカコが車から荷を下ろす。ピクニックで使うようなパラソルを立て、その下に台を置いてカッパを並べた。お金を入れる箱を、ヤスオとタカコともに肩から提げる。プラ看板には、『カッパ500円!』の文字。
 ヤスオ達が陣取ったのは、会場と最寄駅の中間あたりだった。会場でもカッパの販売は行っているだろうけど、その前にゲリラ的に売ってしまう作戦だった。
「お客さん、いっぱい来てくれるといいなー」
「はい。いっぱい来てほしいです」
 大柄のおっさんと、小さい少女が並んで立つ。
 販売用のカッパはタカコには大きかったので、黄色い子ども用のカッパを着ている。朝早くに家を出たので、車の中ではタカコは眠そうだったが、準備を始めるとテキパキと動いた。
 今は準備完了し、あとはお客さんを待つだけだ。野外ライブが開場になる時間まで、まだ少しある。
「きんちょうしてきました」
 ヤスオを見上げる。少しそわそわしているようだ。
「大丈夫だって。よし、おっちゃんとどっちが多く売るか競争な」
 空気は蒸し暑く、少しくらい濡れても気にならない。夏の雨は道路が霞むくらいに激しく地面を叩きつける。降り過ぎてライブが中止になったりしないだろうか?
 などと心配しはじめた頃、ぽつぽつとライブの客らしき人たちが現れ始めた。中には、ライブ会場が傘禁止と見込んでカッパを着て来ている人もいたが、ほとんどのお客さんは、傘を差して移動している。
「カッパ〜、カッパいりませんか〜。ライブ会場では傘は邪魔になりますよ! カッパひとつ500円。カッパいかがっすか〜」
「カッパ買ってください」
 ヤスオの野太い声と、タカコの可愛い声が響く。少しブカブカのカッパを着て一生懸命声を張り上げるタカコに、人々の注目が集まり始めていた。
「キャ〜、カワイイ! 君、おうちのお手伝いしてるの? 偉いね〜」
 女性客の二人連れが、タカコから二つカッパを買っていった。
「売れました」
 うれしそうにヤスオを見上げる。
「さすがだね〜。タカコちゃんは商売の才能があるよ」
 会場に向かう客の流れは密度を増し、歩道を埋めるほどの行列になっている。行列を離れ、ヤスオ達からカッパを買っていく人も増えていた。
 お金を受け取り、商品を渡し、お釣りを返す。それだけの事だが、タカコは最初の内は緊張してぎこちなかった。しかし、それも何回か繰り返すうちに慣れていった。
 開場時間になり、前座の演奏が始まっても、客の流れは絶えなかった。ライブ会場から遠くに聞こえる楽曲を聴きながら、順調にカッパは売れていく。
 人の流れが一段落ついたのは、カッパ売りを始めて三時間ほど経ったころだった。
 販売個数は、ヤスオが32個、タカコが71個だった。ヤスオの完敗である。負けず嫌いのヤスオであったが、相手がタカコであれば苦笑いするしかない。
 車に戻り、缶コーヒーを飲みながら売り上げを数える。仕入れ値が百円で、一個五百円で売っていたので、約四万円の稼ぎである。三時間働いた稼ぎとしては、まあまあの結果と言っていいだろう。
「いやーけっこう売れたね」
「売れました」
 タカコは初めてのアルバイトの成果に、頬をやや紅潮させて興奮冷めやらぬ様子だった。小さい手で、何度も五百円玉と千円札の束を数えなおす。
「よし、打ち上げに焼肉屋でも行くか!」
 ヤスオは満足気な顔で提案した。もちろんタカコは喜ぶと思っていたのだが、タカコは少し寂しそうな顔をした。
「焼肉以外でも、いいですか?」
 申し訳なさそうに答える。
「ん? 焼肉嫌い?」
「嫌いじゃないです。けど」
 タカコは少し考え、言葉を選んでいるようだった。
「お父さんが焼肉好きで、たまに家族でつれて行ってくれました。焼肉は、お父さんの思い出にしたくて……ごめんなさい」
 焼肉の思い出はお父さんとのものだけにしたいと言う、少女の繊細な心の機微はヤスオにはピンと来ないものであったが、鷹揚に頷いておいた。
「そっか、じゃあ、しゃぶしゃぶならどうかな? 肉でも焼かないなら大丈夫っしょ!」
「はい。ありがとうございます」
「よしよし、いっぱい食っていいよ!」
 とりあえず、ヤスオは肉を食いたかったのだった。

「いやー、久しぶりに牛食ったな」
 ヤスオはパンパンの腹をさすって満足気だった。ズボンのボタンも外し、リミッター解除済みである。しゃぶしゃぶ鍋のお湯はすでに濁り、テーブルの上には追加注文の一品皿が乱雑に並んでいる。
「おいしかったです」
 タカコも、ごはんをおかわりして食べた。タレは、ヤスオに勧められて色々ためしていたが、ぽん酢がお気に入りのようだった。
「いやーこの店のしゃぶしゃぶイケルな。タカコちゃんはしゃぶしゃぶ食べた事ある?」
「はじめてです」
「そかそか。しゃぶしゃぶと言えば、ノーパンしゃぶしゃぶっていうのが昔あってな。清原とかも行ってたらしいで」
 酒を飲んでもいないのにいい気分になっているヤスオが余計な事を言い出した。
「ノーパンしゃぶしゃぶって何ですか?」
 律儀に質問するタカコ。聞かれれば答えないわけにもいくまい。
「ん? アレだ。女の人がな、パンツをはかずに、エッチな格好で接待してくれるという……まあ、そういうのがあるわけだ」
 小学生相手に下ネタはまずいよなぁ、と思いつつもペラペラと説明する。
「なんかキモイです」
「そ、そうね。そうかもね」
 まあ、言いたい事を言えるようになったのは良いことだ。そう思う事にした。
「いやー、オッチャン、タカコちゃんみたいな娘がほしいなぁ。まあ、その前に結婚せんとあかんけどな。結婚できるんかな……オッチャン、不思議な事に女の人にモテないみたいなのよ」
「結婚なんてしないほうがいいです。私はずっと結婚しないでいたいです」
 タカコの家庭の事を思い出し、ヤスオは口が滑ったかなーと思ったが、タカコは特に気を悪くした様子もなかった。
「おじさん、良い人だからいつかモテますよ。きっと。私が知っているおまじないを教えてあげましょうか。お母さんに教えてもらったやつです」
 タカコは、だいぶ話をしてくれるようになっていた。心の距離が縮まっているのを感じる。元々、明るい少女なのだろう。おまじないの説明をするタカコを見ながら、ヤスオはそう思っていた。
 家族以外の他人と仕事をし、自分でお金を稼ぐ事で自立心が芽生え、家族に依存する気持ちが薄まったのかもしれなかったし、ただ単に、ストレスを発散する事で楽になったのかもしれない。
 何にしろ、いい傾向だと思った。やってよかったと思う。
 ヤスオは、タカコにバイト代を渡した。千円札が三枚。本当は売り上げを山分けにしようかとも思ったが、小学生にあまり大金を渡すのもどうかと思い、時給千円という事にしたのだった。
 タカコは、生まれて初めてのアルバイトで得たお金を、大事そうにキャラクターのプリントされた財布に収めた。


 その日以来、タカコは公園で会う度によく話すようになった。時折見せる笑顔は、歳相応に無邪気で可愛かった。
 時々、友達と一緒にいる姿も見かけた。アルバイトの事を自慢しているようだった。少しお姉さんぶっている様子が可笑しかった。敬語を使わずに話しているタカコはヤスオにとっては少し新鮮だった。タカコは、友達と遊んでいても、決まった時間になるとヤスオの元に来てくれた。
 この日も、いつもの時間にタカコはやってきて、ヤスオの隣にちょこんと座った。
「よっ、タカコちゃん、今日も元気かな?」
「元気です。おじさんも相変わらず元気そうです」
「おうよ。オッチャンな。また次の商売考えとるんよ。次は神社とかの参拝客を狙おうと思っててな……」
「私にもお手伝いできますか?」
「もちろん。タカコちゃんが手伝ってくれるとお客さんいっぱい来るからなー」
 いつものように一つのベンチに腰かけて仲良く話していると、自転車の急ブレーキの音が会話を遮った。驚いて顔を上げる二人。その視線の先には、公園の入り口で自転車を止めて、じっとこちらを見ている女性の姿があった。
「お母さん……」
 タカコがぽつりと呟く。
 タカコのお母さんは、慌てた様子で自転車を降りると、まっすぐタカコに向かって小走りに駆けてきた。頬はやつれ、思いつめた、神経質そうな目をしている。おそらく、二十代後半から三十代前半かと思われるが、実年齢より老けているかもしれない。タカコに駆け寄るやその小さい体を抱え上げた。ヤスオにきつい一瞥を投げつける。
 何を言いたいのか、一目瞭然であった。まあ無理からぬ事かもしれない。髭面でごついおっさんが自分の娘に親しげに話しかけている様は、事情を知らなければ心配にもなろうというものだ。
 しかし、露骨すぎるだろう……とヤスオは思った。
「お母さん、どうしたの? おじさん……」
 タカコが心配そうに母親とヤスオを交互に見る。
「知らない人と話すんじゃないって言ってるでしょ」
 母親は、押し殺した声で言い捨てる。本人の目の前で言う事はないだろう、と思いつつも、ヤスオは割って入った。
「あのー、私、こう見えても全然怪しい事ないですよ。ご近所ではひょうきんで愉快なおじさんとして有名で……」
 そんな事実はないのだが、安心させるためにそう言っておく。
 だが、母親はタカコを抱えたまま、無言で駆け去ってしまった。とりつくシマもないとはこの事だと思った。
 一人ぽつんと取り残されたヤスオは、タカコのために買ってきていたジュースを一人で飲みながら、潮時かな、と思った。
 いつかはこうなる気がしていた。タカコといる間はすごく癒されたし、タカコが元気になっていくのを見るのも嬉しかった。
 だが、昼間からブラブラしているようなオッサンが小学生の女の子と仲良くしているのは色々と世間体もよくなかろう。ご近所の目に留まれば、よからぬ噂にもなりかねない。こんなご時世である。
 大分うちとけて、なついてくれるようになったタカコと離れるのは後ろ髪を引かれる思いだったが、タカコくらいの歳の子にとって、プータローのオッサンより同年代の友達と遊ぶ方が大事だと思う。幸い、タカコは本来の明るさを取り戻して友達と遊ぶようになりつつある。
 自分のような大人と一緒にいては、あまりいい影響を与えない気がする。ヤスオは、半端に自分のダメさを自覚していた。
 俺の役目はここまでかな。
 アブラゼミ達が生を主張するかのように声を張り上げる中、ヤスオは深くベンチに腰掛けた。 二人分のジュースが汗になって流れ落ちる。
 空はとぼけたように青かった。

 翌日。
 いつもの時間にタカコはやってきた。申し訳なさそうな笑顔を見せる。
「昨日はごめんなさい。びっくりしましたか?」
 タカコはいつもどおり振舞おうとしているようだが、気を遣っているのか、いつもより積極的に話しかけてきた。
「昨日の話の続き、聞きたいです。商売のやつ」
 タカコの笑顔を見ていると決心が揺らぎそうになる。
「あー、それな、そのう……」
「私、前より上手にできますよ。まかせてください」
 タカコなりに、ヤスオが傷ついていると思って元気づけようとしているのだろう。これ以上、会話を長引かせてはずるずると先延ばしにしてしまいそうだ。ヤスオはもじもじしながら切り出した。
「うん……それなんだけどね。オッチャンな、重要な仕事があって、当分タカコちゃんと遊べんようになってしまったんよ。ほら、オッチャンて優秀だから、引く手あまたなのよ。色んな奴がオッチャンを頼りにしてるからなー」
 タカコの表情がみるみる曇っていく。心が痛んだ。
「お母さんが……昨日、あんな事言ったからですか?」
 タカコには、ヤスオの嘘などお見通しだった。だがここで引き下がるわけにはいかない。
「違うよ。本当だって。ごめんよ。オッチャン、タカコちゃんと遊びたいけど、しょうがないんよ。一生会えないわけでもないし、引っ越すわけでもないし。この辺ブラブラしてる事はよくあるからさ。見かけたら挨拶してよ」
 タカコは、俯いて押し黙った。口をぎゅっと引き結び、伏せた睫毛が震えている。
 ヤスオは罪悪感に耐えられなくなりそうだったので、逃げるように席を立った。
「な? タカコちゃんは友達と遊びな。オッチャンとはしばらく会えないだろうけど、忘れんといてな」
 ヤスオは、タカコとゆっくり話すのはこれが最後になるだろうと思っていた。名残を惜しむように、タカコの頭をポンポン、と軽くなでる。
「おじさん……もう会えないんですか?」
「そんな事ないって。いつでも会えるよ。心配せんでいいよ」
 嘘をつくのがこれほど苦しいと思ったのも久しぶりかもしれなかった。
 タカコがまっすぐヤスオを見つめる。
 澄んだ目。その瞳に自分が映るのが恥ずかしくなるような。ぱっちりとした大きな目は涙で潤んでいた。無垢なその目には、大人達はどのように映っているのだろうか。どんなに隠しても、全て剥き出しにしてしまいそうな純真な目。ヤスオは目をそらした。
「おじさん……」
 タカコのすがるような眼差しから、ヤスオは逃げた。
「そろそろ行かなきゃ。元気でな」
 色々言いたい事はあったはずだが、いざとなると言葉が出てこなかった。ぎこちない泣き笑いのような顔でそう言うと、背中を向けて歩き出した。
「おじさん!」
 ヤスオの背中にタカコの声が追いすがる。
「私、忘れませんよ。おじさんの事。カッパ売りの事も」
 ヤスオは一度だけ立ち止まった。
「うん。おっちゃんも忘れんからな。楽しかったよ」
 それだけ言うと、もう振り向かずに歩きだした。
 公園を出ると、突然いたたまれない気持ちになり、ぐるっと公園を回って、茂みの影からタカコの様子を窺った。
 タカコは、まだベンチに座っていた。
 目をギュッとつぶり、大粒の涙をぽろぽろ零していた。小さい手を膝の上で握りしめて。
 声を押し殺して、泣いていた。
 ヤスオは思った。
 子どもにこんな泣き方をさせてはいけないと。
 声を張り上げて泣けばいい。それが許されるのが子どもなのだから。
 子どものうちから、感情を押し殺す事なんて覚えなくていい。
 ヤスオは、少し後悔していた。自分が遠ざかった所で、何も解決しない。少し明るさを取り戻して、友達と遊ぶようになったとは言え、根本的な問題は解決していないのだ。
 タカコを、あんな家庭に置き去りにして、見てみぬふりをすると言うのか。自分の預かり知らぬ所でなら、どうなってもいいというのか。ここでただ逃げるのは、あまりに無責任ではないのか。何か、自分に出来ることはないのか。
 その日、ヤスオは家に帰ってからも必死に考えた。だが、家族の問題にヤスオが立ち入れる部分があるとは思えなかった。ヤスオは悩みに悩んでもんどりうち、なかなか寝付けなかった。

 その日以降も、ヤスオはタカコの事をひきずって悶々としていたが、ある日、朝から街をブラブラしていると、「行ってきます」と、聞き覚えのある声が聞こえてきた。
 タカコの声だ。
 ヤスオはとっさに物陰に隠れた。建売の一軒家からタカコが出てくる。どうやら、あそこがタカコの家らしかった。ランドセルを背負ったタカコが道路の向こうに消えた後も、ヤスオはぼんやりと佇んでいた。ひさしぶりに見たタカコは、あまり元気なようには見えなかった。
 やがて、タカコの家からスーツ姿の男が出てきた。タカコの父親だろうか。男は、タカコが学校に向かったのとは別の方向へ歩いていく。
 ヤスオは複雑な思いだった。自分が父親ならタカコちゃんをいっぱい大事にするのに。この男はタカコちゃんに悲しい思いをさせて何をやっているんだ。ヤスオは、なんとなく男の後をつけて歩き出した。一言、言ってやりたかったからなのだが、見知らぬオッサンがいきなり声をかけるのもどうかと思い、悩んでいるうちに駅に着いた。

 男は電車に乗り、二駅ほど行った所で降りた。ヤスオは、自分は何をしているんだろう、と思いつつも、男の後についていった。男は自分がつけられているのに気付いていないようだ。
 やがて、男はとあるマンションに入っていった。マンションはオートロックだったので、ヤスオは入り口で立ち往生するはめになってしまった。
 今更立ち去りがたく、マンションの裏手のあたりをうろうろしていると、男が三階あたりの一室で立ち止まり、インターホンを押すのが見えた。
 中から若い女が顔を出し、男となにやら話している。やがて、男はするりと部屋の中に入っていった。
 あの野郎。会社も行かずに女と逢引きかい。
 タカコちゃんが悩んでいる一因を作っておきながら、あんな若くて綺麗な女といちゃついてヘラヘラしてやがるのか、あの野郎は!
 ヤスオの義憤が燃え上がり始めた。厄介な兆候である。
 こうなるとヤスオの行動は素早かった。
 入り口でマンションの住民が通るのを待ち、同じ住民を装いさりげなく後ろにくっついてオートロックの入り口をくぐる。やけに豪華なエレベータに乗り、三階へ。
 外から見たところ、たしか端の方の部屋だった。それらしき部屋にたどりつくと、迷いなくインターホンを押す。
「は〜い」
 女の声。
「すいません! そちらにタカコちゃんのお父さんはいらっしゃいますか?」
 直球だった。しばらく返事がなかったが、やがて怪訝そうに女が訊いた。
「……どちら様ですか?」
「タカコちゃんの担任をしておる者です」
 しばらく何か話している声がぼそぼそと聞こえたが、ややあって、男がドアを開け、チェーンロックの向こうから顔をのぞかせた。
「どなたでしょう」
「タカコちゃんの担任をしておる者です。少しお話しがあるのですが、よろしいですか?」
 ヤスオがさりげなくドアの間に靴をはさむ。
「タカコの担任は佐々木さんだったと思いますが」
「では学年主任です」
 ヤスオはしれっとバレバレの嘘をついた。男は、当然のように胡乱げな眼差しだ。
「……どうしてここを? あなた誰です?」
「まあまあ、こんな所で立ち話もなんですし」
 ヤスオはちょいちょいと指でチェーンロックを指し示す。男は少し迷った後、チェーンロックを外して外に出てきた。女がいる部屋に怪しい男を上げたくないらしい。後ろ手にドアを閉めつつ、ヤスオに不躾な視線を投げつける。
「どうしてタカコをご存知なんですか? 何故ここに?」
「そんな事はどうでもええやろ。あんたこそ、こんな所で何やってんの? 家庭崩壊の原因を作っとんは、あんたなんやな?」
 ヤスオは作り笑いをかなぐり捨て、男ににじりよった。男は三十代の前半あたりだろうか。身長はヤスオよりやや高く、けっこう男前だ。今は上着を脱いでカッターシャツ姿だが、やや着崩した感じがチョイ悪オヤジを気取っている感じだった。なるほど、女にもてそうな外見ではある。
「なんなんだ、あんたは。警察を呼ぶぞ」
「あーけっこう。呼べばええんちゃうけ。なんなら俺が呼んだろか? みなさーん! この人は会社サボって不倫してまっせ!」
 ヤスオは大学時代に身に着けた胡散臭い関西弁でがなりたてた。男がとっさにヤスオの肩を乱暴に掴んだ。
「ちょっと! 本当になんなんだ! 学校関係者じゃないんだろ?」
「通りすがりの正義の味方じゃい」
 ヤスオは悪びれずに胸をはる。男は、やましい所があるだけに警察を呼ぶわけにもいかず、苛立ちを隠さずに舌打ちした。女が心配そうにドアから顔を出す。
「警察呼ぼうか?」
「いや、いい。ちょっと入ってて」
 ドアが閉められるのを見計らって、ヤスオは切り出した。
「ええか。よぉ聞けや。あんたがここでヘラヘラしてる間にも、タカコちゃんは家族の事で悩んで苦しんどんじゃ。オヤジは帰ってこん、オカンは荒れてる。こんな家庭で、タカコちゃんがどんな想いでいると思う? あの健気な子は、それでもいつか元通りになると思って耐えとる。そうするしかないからな。誰も頼る人もおらんのやろ……」
 男は、苛だたしげに目をそらした。一応、タカコへの罪悪感はあるのだろう。
「あんたに人の家庭の何がわかるってんだ。こっちだって色々あるんだ…… 親だって人の子なんだよ! しんどい事がありゃ逃げたい時だってあるだろ!」
「お前の都合なんてどうでもええ。せめてタカコちゃんが自立できるまでは責任もって家庭を守ってやれや。それが出来んなら最初から結婚なんてするな!」
 結婚もせず定職にもついていないくせに、完全に上から目線である。しかしそんな事はこれっぽっちも気にかけていなかった。
「お前かって、タカコちゃんが可愛いやろ。あの子のためにも、もう少し辛抱したらどうや? 考え方一つで、どうにでもなるやろ。お前はできる子や」
「そんな事他人に言われるまでもない! でも今更どうしろってんだ? もうどうしようもないんだよ。勝手な事言いやがって……」
 この後に及んでグダグダ言う男にヤスオの怒りはあっさり沸点に達した。
「やかましいわ! つべこべ言わずにやってみろや! ワシが気合入れたる! こう見えても若い頃は柔道でならしとったんじゃ。覚悟せえや!」
 ヤスオは両手をあげ、左手で男の奥襟を取った。しゃがみこんで見苦しく逃げようとする男を力づくで立たせる。
「これはタカコちゃんの悲しみの分だッ!」
 ヤスオの渾身の右フックが男のこめかみにめりこんだ。受身も取れずに派手に倒れた男を再び引きずりおこす。
「そしてこれは俺の分ッ!」
 体重を乗せたボディブローが男の肝臓付近を直撃した。息も絶えだえによろめきながら崩れ落ちる男。
「あんたの分は……関係ないんじゃ……」
 もっともである。だが、漫画の主人公気取りのヤスオには右から左であった。
「どうや! これからはちゃんと家庭を大事にするか!」
 いつの間にか、近所の住民達が薄くドアを開けて様子を窺っている。男はぐったりしながらも頷いた。
「する……するって……」
「うむ。わかればええんや。では、ちゃんと帰れよ。たまに様子見に来るからな」
 偉そうな事を言いながら、本当に警察を呼ばれる前にヤスオはすばやく退散した。

「ホント、呆れた奴だな、オメェはよ」
 ヤスオは、オバァの食堂で好物の鉄火丼をかきこんでいた。
「それってれっきとした犯罪行為だろうが。大事になってもおかしくないぞ」
「いいじゃん。結果オーライなんだから。アレ以来、たまに公園でタカコちゃんの家族を見かけるよ。あの夫婦はさすがにぎこちなさそうだったけど、一応タカコちゃんをはさんで会話もあるみたいだし。あの男はやればできる奴だと思ってたよ」
 見る間になくなっていく丼の中身に呆れながら、オバァがお冷を注ぐ。
「結果的にうまくいっただけで、致命的にこじれる可能性だってあったろうが。お前の考えなしの暴走にはもう呆れるしかないね。何が安らかな男なんだか……」
「大丈夫だって。だいたい、あの素直なタカコちゃんの両親が、根っからの嫌な奴のわけないって。俺にはわかってたね」
「お前みたいな奴は一度捕まったほうがよかったんだ」
 ヤスオは食い終わった丼を置いて椅子を引いた。
「ひでーなぁ、オバァ。それより、俺また新しい目標を見つけたんだよね。今度は官能小説家を目指そうと思ってるんだよね」
「バカの毒がついに脳みそにまでまわったか……」
「タカコちゃんが大きくなった時に、胸をはって会いたいからね。その頃俺は作家先生だよ。惚れられたらどうしよう」
「官能小説じゃダメだろう……それよりオメェまともに文章とか書けるのかよ」
「今から練習するんだよ! 最近じゃホームページ上で批評してもらえるサイトとかあるらしいし。んじゃ、ごっそさん」
 意気揚々と店を出るヤスオを見送りながら、ため息をつくオバァ。
 店を出たヤスオは、あの公園に寄っていこう、と思っていた。
 ヤスオとタカコが会っていたあの公園は、今ではタカコが家族と憩う場所になっている。
 ぎこちないながらも、今のタカコは幸せそうだった。友達とも元気に遊んでいる。
 それでも、いつものあの時間に一人でベンチに座っているタカコを見ると胸が苦しくなる。
 ヤスオは、タカコが成長していくのを遠巻きに見守っていよう、と思っていた。
 ストーカーに間違われない程度に。
 立派な官能小説家になったら、会いにいってもいいかな。
 そんな事を考えるヤスオであった。

 おしまい


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●感想
一言コメント
 ・オッチャン視点の小説で軽い気持ちで読めたことが嬉しかった。

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