高得点作品掲載所     ぺぺろんさん 著作  | トップへ戻る | 


囲め囲め

 かごめかごめ

 冷たいコンクリートの感触を頬に覚え、私は目を覚ました。一番最初に見えたのは、黒く重そうな鉄製のドア。周りはコンクリートの壁で囲まれていて、小さなはめ込み式の窓が一つだけかなり高い位置にあり、そこからおぼろげな月の光が差し込んできている。それと、小汚い便器がむき出しの状態で部屋の隅に設置されていた。
 他には何もない。電球すらないので、部屋の中は薄暗いというか、ほぼ何も見えないといったほうが正しい。それでも妙な逼塞感があり、ここが大して広くはない小部屋なのだということだけはわかった。
 ここはどこだろう――私は目をこすり上体を起こした。なぜかガンガンと強烈な頭痛を感じる。気分もあまりすぐれず、まるで重い風邪でも引いているみたいだ。ゆっくりと周りを見渡す。暗くてよく見えないが、やはり見覚えのある場所ではない。
 なぜこんな所にいるのだろう――私は小首を傾げる。自分がどうやってこの部屋に入ったのか、全く思い出せなかった。
 覚えているのは、大学から家への帰宅途中、夕飯の買い物を済ませていつものように人気の少ない川沿いを歩いていたということだけ。今日は妹の――春香の好きなカレーを作ろうと思って、幾許かの野菜とカレールーをスーパーで買い込んだはずだ。
 そう、たしかそれから――春香の喜ぶ顔を脳裏に思い浮かべながら気分よく鼻歌を歌っていると、誰かに後ろから話しかけられたのだ。聞き覚えのある声だった。振り向くと、突然口に何か布のようなものを当てられた。急に気分が悪くなって、意識がなくなっていくのがわかった。
 そして、気がつくとここにいた。
 私はとりあえず時間を確認しようと、スカートのポケットをひっくり返して携帯電話を探す。だが、見つからなかった。携帯どころか、財布も、屋敷の鍵も、全てなくなっている。誰かに取られてしまったのだろうか。私をここに連れてきた、誰かに。
 嫌な予感がした。私は痛む頭を押さえながら立ち上がり、ドアに近づく。ノブを回し引っ張ってみたが、ガチャリ、と錠前がなる音がしただけで、ドアが開く様子はなかった。
 そこで、はじめて恐怖を感じた。今自分の置かれている状況。頭が冷えてくるに連れて、それが少しづつわかってきた。
 ――自分は誰かに拉致されて、ここに監禁されている――ここに来る前の記憶、さらにドアが開かず携帯までも取られていることから推測するに、それしか考えられない。
 急いで、私は服のポケットをもう一度ひっくり返した。だが、スカートのポケットにもカーディガンのポケットにも、何一つ入ってはいない。窓から出られないか、とも思ったが、かなり高い場所にあるため手が届かない。それに、どう考えても、それは人間が通れる大きさではなかった。
 激しく頭が混乱してきた。親指の爪を噛みながら意味もなく暗い部屋の中をうろうろと歩きまわり、何度もドアを開けようと試した。
 だが、全て無駄だった。立ち込める暗闇と鼻腔に突き刺さるカビの匂いに不安を掻き立てられ、私は思わず叫ぶ。
「誰か! 助けて!」
 ドアを叩きながら、何度も何度も同じ台詞を続けた。だが、無論返事は返ってこず、ただ自分の奇声だけが部屋中に響き渡り、次第に消えていく。
 なぜ、こんなことになってしまったのだろうか。本当なら今頃は春香と一緒にカレーを食べながら談笑を交わしていたはずなのに――唐突に涙が溢れ、ぽたぽたと床に落ちた。
 

 その時、錠前の開く音が鳴り、私が押しても引いてもピクリとも動かなかったドアが徐に開いた。

「やぁ、目を覚ましたんだね。大崎さん」
 男が一人、部屋の中に入ってきた。彼は蛍光灯が中に納まったランプのようなものを持っていて、部屋の中はたちまちぼんやりと明るくなる。
「――あなた」
 その光の中に照らされ、輪郭を現した男のニキビ面を見て、私は思わず声を上げた。
「遠藤君? どうして――」
 現われた人物は知っている男だった。遠藤秀一。大学の同級生で、私と同じゼミに属している。わいわい騒いでいるゼミ生達を少し遠巻きに見ながら微笑んでいるような、少しおとなしい性格の男だ。
「ん? まぁちょっとね……」
 遠藤は少し困ったように笑い、短く借り上げた髪の毛を触りながら後ろ手でドアを閉める。そして、おそらくこの部屋を外から封鎖していた原因、金色の南京錠をジャケットのポケットにしまった。
「お腹すいてないかい? パンと弁当を買ってきたんだけど、好きなほうを選んでいい」
 遠藤がこちらに何かが入ったコンビニのビニール袋を手渡してきた。中に菓子パンがいくつかとから揚げ弁当が一つ、入っているのが見えた。
「――遠藤君が私をここに拉致したの?」
 私は袋を受け取らず、少し彼から距離を取りながら、訊いた。心外だな――と、遠藤はかぶりを振り、
「拉致だなんて、穏やかじゃない言い方止めてくれ。僕は帰宅途中の君に薬をかがせて気絶させて、ここまで連れてきただよ」
 さらりと、世間話をするかのような口調で答えた。
「それが拉致っていうのよ! 何でそんなことしたの!」
「ん? いや、それは今から話すから、とりあえずご飯を食べよう」
 なんでもないような顔をして、再び遠藤がビニール袋を差し出してくる。薬なんてとんでもないものを使って、私をここに無理やり連れてきたことに、この男は何も感じていないのだろうか。そう考えると、心の底から沸々とわきあがる怒りを感じて、私は食事の入ったビニールを手で思いっきり払いのけた。
「――何がご飯よ! ふざけないで!」
 袋が中身を撒き散らしながら床に落ちる。空っぽになった片手をぽっかりとこちらに突き出したまま、遠藤は悲しそうな表情をつくり私の顔を見据えた。
「――何てをするんだ……弁当がグシャグシャになってしまうじゃないか」
「それはこっちの台詞よ! あなた、自分が何したのかわかってるの? 私に薬を嗅がせて、無理やり拉致してきたのよ? 間違いなく、犯罪行為よ?」 
「だから、拉致じゃないんだってば」遠藤が苦虫を噛み潰したような顔をした。「僕はただ君とおしゃべりして、ご飯を一緒に食べたかっただけだよ」
「そんな言い訳通用するわけがないでしょう! おしゃべりなんて学校でいつもしてるじゃない!」
「それは他のやつらも交えてだろう。僕は君と二人きりで話してみたかったんだ」
 意味がわからない――私は頭を抱えた。彼が以前から自分に好意を抱いていたことは前から薄々は気がついていたが、それでもなんでこんな犯罪まがいな行動に走ったのかが理解できない。
「二人きりで話したいなら大学でもどこででも、私が一人きりのときに話しかければ済む事じゃない――なのになんで――こんなのことを……」
 私がため息まじりにいうと、遠藤は目を伏せ、
「君に話しかけるなんて、僕にはできないよ。君は誰もが振り返るような美人だし、性格も明るくて人気者だ。そんな君に、僕みたいな取り柄が何もない人間が易々と話しかけることなんて、できない。それに僕らの関係はただ同じ教授のゼミを取っているだけで、それほど親しいわけじゃない――」
 蚊の鳴くような声でそう答えた。
 確かに、一理ある、と私は少し納得してしまう。私と遠藤とは一応友人と呼称される関係ではあるが、別に大して親しいわけではない。彼の言うとおり、ただ、同じ教授のゼミを選択しているだけで、学校以外の場所で一緒に遊んだりした事はない。そもそも遠藤は率先して女の子と交流を持つタイプじゃない。そんな彼が、たいした話題も用意せず、いきなり女の子に話しかけるなんて、確かにできそうもなかった。でも――
「それでも――こんな方法をとるなんて最低よ。あなたがただ意気地なしだっただけじゃない!」
 私は感情に任せて怒鳴り散らした。許せることではない。いくら彼がおとなしい性格で、考えて考え抜いた結果、この方法を選んだのだとしても、許せることではなかった。ビクリ、と遠藤の体が強張り、ぷるぷるとかすかに震えはじめる。
「ご、ごめんよ――でも、僕は本当に――君のことが……」
 最終的に、遠藤は目を伏せ泣き始めた。いつもの私なら少し同情してしまい、怒鳴ってしまったことについて謝罪の言葉の一つでも吐いていたかもしれないが、今回は状況が状況なので、怒り以外の感情は一つも沸いてこない。
「ほんと――最低」
 私は泣いている遠藤を横目に、ドアのほうにへと大またで歩いていった。
「ど、どこにいくの?」
 遠藤が慌てたように立ち上がり、私の肩を掴んだ。すぐに振り払い、
「どこにって、帰るに決まってるじゃない。妹がお腹をすかせて待ってるの。あなたのくだらない遊びに付き合っている暇は、私にはないの。今日のことは誰にも言わないであげるから、もう二度と私に話しかけないで。じゃあ」
 一息にそういい放って、私はドアノブを引いた。家で妹が――春香が待っている。あの子は私がいないと何も出来ない子だから、今頃お腹をぐーぐー鳴らして私の帰りを今か今かと待っていることだろう――そんなことを思いながら、部屋の外へ一歩踏み出した。
 だが――
「――そんなの駄目だ!」
「――きゃ!」
 いきなり、遠藤がわめき声を上げはじめ、腰まで伸びる私の長髪を荒っぽく掴みあげた。頭部を引っ張られる激痛に、私は顔を歪め、悲鳴を上げた。
「な、なにやってるの! 離して! 痛い、痛い!」
 しかし、遠藤はそんな私の様子もお構いなしに、私の髪の毛をぎゅうぎゅう引っ張りながら狂ったように叫び続ける。
「いや、離さない! 君はここにいて、今から僕と一緒にご飯を食べるんだ!」
「嫌よ! 離して!」
「駄目だ駄目だ駄目だ駄目だ駄目だ! ここにいろ! ここにいろ! ずっと僕の近くにいろ! 家に帰してなんかやらない! 君は僕だけを見てればいいんだ! ずっと! ずっと! ずっと!」
 髪の毛を後ろに思い切り引っ張られ、私は体勢を崩し床に転げた。震えながら顔を上げると、遠藤の手にきらりと光る何かが握られていることに気づいた。
 ナイフ。瞬間、背中に冷たい何かが通り抜けた。
「――小夜子」
 狂った光を目に宿しながら、遠藤が私を組み伏せ上にのしかかってくる。
「ずっとここにいろ小夜子――でなければ殺す……」
 冷たいナイフを首筋に当てられ、私は息を止めた。あまりの恐怖に声も出ず、ただ死にたくなくて、
「……わ、わかった」
 唾を飲み込み、少しだけ頷く。すると、遠藤はほっとしたように顔を綻ばせ、そのままナイフをジャケットの内ポケットにしまった。
「よかった。わかってくれて……ごめんね、怖い声出して。本当はこんなことしたくないんだ。でも、君が出て行こうとするから、悪いんだよ。いいかい、死にたくなければ君はずっとここにいるんだよ。ずっと、ずっと、ここにいるんだよ。間違っても逃げるなんて考えを起こしちゃいけない。わかったね――」
 遠藤が口元を捻じ曲げながら、その脂ぎった手のひらで私の頬を撫でた。気色悪い感覚に全身が総毛立ち、ガチガチと歯がせわしく音を立てはじめたが、私はどうすることもできず、何度も何度も、声を押し殺したまま頷き返した。不条理な目に会わされた怒りよりも、突きつけられたナイフへの恐怖が勝った。
「――いい子だね小夜子。じゃあまずご飯だ。君は弁当のほうを食べるといい。僕はパンを食べよう」
 にっこりと遠藤は笑い、私の体から降り、床に散らばったパンを拾い集めだす。それから腰が砕けて動けない私に弁当を渡し、自分も床に座ってパンを食べ始めた。
 パンを咀嚼しながら、遠藤はしきりに私に話しかけてきた。自分の家族構成、通っていた高校の校風、小学校時代好きだった女の子の話など、くだらない話を満面の笑みを浮かべながら延々と続けた。私はただ震えながら手元にある弁当のおかずをつまんだり離したりしているだけで、彼の言葉になんの反応もすることができなかった。それでも遠藤は楽しくてしょうがないのか、ひたすら話し続け、笑い続けた。
「君は本当に綺麗だ小夜子」
 パンを食べ終わり、汚らしいげっぷを一つ吐くと、遠藤は震えている私を舐めるように一瞥した。
「その肌、その髪、その目、その耳、その口、その声――最高だ。まるで宝石のようだよ。はじめて大学で君の姿を目にしたとき、僕はすぐさま恋に落ちた。好きだ、好きだよ小夜子――」
 そしてずりずりと床を這うようにこちらに近づいてきて、私の手を取った。
「あぁ、綺麗だ……食べてしまいたい――」
「――や」
 首筋に、生暖かい舌先の感触。遠藤は何を思ったか、私の首筋をぴちゃぴちゃと舐め始めた。脊髄を通り抜けるような悪寒を感じ、私は唇を噛締める。
「……止めて」
「あぁ、おいしい……君の味がするよ」
「――お願い止めて」
「ずっと、こうしてみたいと思ってた――君の首筋舐めてみたいって。普段は、気まぐれに君は髪を括ったときにしか、見えなかった首筋――あぁ、ようやく夢が叶った」
 何度懇願しても、遠藤は私の首を舐めるのを止めない。再び、涙が溢れてきた。怖い――目の前の男が、どうしようもなく怖い。
「小夜子――」
 安藤の手が、私の胸に触れた。限界――私はこれ以上自分を蹂躙されることに耐えられなくなり、
「――止めて!」
 恐怖を心の底に沈め、力の入らない腕で遠藤の肩を押し戻し、なんとか拒絶の意思を表した。
「――あ……」
 遠藤がはっとしたように両目を見開き、
「ご、ごめん」
 そわそわと視線を宙に泳がせながら、ずりずりと私から距離をとり、後ずさった。その突然の変貌ぶりに、私は何が起こったかわからず、ただただ自分の首筋に纏わりついた唾液をカーディガンの袖で拭っていた。
「べ、別に僕は君をどうにかしたいとか、そういうわけじゃないんだ!」遠藤が床に向かって吐露するように叫ぶ。「僕は暴力で君を屈服させるような、そんな意地の汚い男じゃないんだ! 君がまだ怖いのはわかるよ。いきなり変なことしてごめんよ! ごめん! 許してくれ! 僕はただ君を愛しているだけなんだ。そして――君にも僕を愛して欲しいだけなんだ」
 遠藤が謝罪の言葉をわめき散らす様を見ながら、私はふと、犯罪心理学の授業で教授が口にした一言を思い出した。
『異常な犯罪行動に走った人間は、その言動や行動原理に一貫性が見られない場合が多々ある。そういうケースの場合、その人間は自分自身でそのことに気づいていないことが多い』
 さっきからの遠藤は、その言葉をそのまま体現している。私を組み伏せてナイフをちらつかせた時は、ドスの効いた声で「殺す」とまでいってこの部屋に残るよう強要してきたのに、今度は少し拒絶を表しただけでこの有様だ。まるで、一貫性というものが見えない。大学では、ただのおとなしい男だったのに、まさかこういう一面を持っていたなんて。異常者というものは、意外と自分の近くに多くいるのかもしれない――というか、実際いた。
「許してくれ――」
 悲痛な声を上げ、遠藤が顔を両手で覆う。泣いているのかもしれない。泣きたいのは確実にこっちなのだが、と私は思った。
「帰って……」
 私はいった。とにかく、この男と同じ空気を吸っていたくなかった。早く帰って欲しい。せめて、少しの時間だけでも一人にさせて欲しい。そうしないと今にでも気が狂ってしまいそうだ。
「お願い……帰って……別に怒ってないから……」
 遠藤の動きが止まり、縋りつくような眼差しで私を見つめてきた。
「許して……くれるのかい? 本当に」
「許す……許すから……今日はもう帰って……お願いだから……」
 泣きながら、そう続ける。すると、遠藤の表情が一転し、母親に抱きしめられて心から安心しきった子どものようになった。
「――君は本当にいい子だね小夜子」床に散らばったパンの袋を集め、遠藤が立ち上がる。「うん、君のいうとおり、今日はもう帰ることにするよ。突然こんな所に連れて来られて、君も少し混乱しているだろう。でも大丈夫。すぐに慣れるよ。それに寂しくない。僕が毎日来るからね。うん、大丈夫大丈夫。君はきっと僕のことを好きになるよ。じゃあ――また明日ね」
 最後に、床に置かれたランプを拾い、彼は部屋を出て行った。ガチャリ、と錠前の閉まる音が聞こえ、部屋の中は再び暗闇に包まれる。
 暗闇の中で足を抱き、私はガタガタと震えた。部屋の中は寒いわけではなく、どちらかというとじめじめして蒸し暑いぐらいなのに、震えはいつまで経っても止まらなかった。
「春香――」
 私は徐に、妹の名前を呼んだ。三年前、交通事故で両親が死んだ。今、私が家族と呼べる人間は、その妹しかいない。
 春香――私の一番大切な人。いつまでたっても私が帰ってこないので、今頃は心配して泣いてるかもしれない。そう考えると、私は妹が心配で心配でたまらなくなった。
「春香――」
 私は震える体を抱きしめながら、何度も何度も、妹の名前を呟いた。


 窓から差し込む太陽の光が眩しくて、私は目を覚ました。
 いつの間に眠ってしまったのだろうか。目を擦りながら上体を起こし、部屋の中を見渡す。
 コンクリートの壁と、汚いトイレが一つ。どう見ても、私の部屋ではない。昨日のことは、やはり悪い夢などではなかった。私は確かに、今も、あの遠藤秀一に監禁されている。
 今何時ごろなのだろうかと、私は思った。外から差し込んでくる光が昨日と違って明るいので、昼ごろだというのは間違いないのだろうが、正確な時刻はやはりわからない。
 いつごろ遠藤は来るのだろうか? 今がまだ午前中だとすれば、彼はまだ大学にいると思う。授業をほとんど欠席しない真面目な男、というのが、ここに閉じ込められるまで私が持っていた遠藤の印象だった。
 ふと、壁にはめ込まれている窓のほうに目線を移す。私の頭の先からおよそ一メートルほど高い位置にはめ込まれている窓。やはりジャンプしたところで、届きはしないだろう。大体、人間が通れるような大きな窓ではないのだ。あそこから逃げることはできない。
 しかし、外の様子を見てみれば、何か上手い脱出方法が見つかるかもしれない。まぁ、それも可能性はほとんどゼロなのだけど、このまま遠藤が来るまで何もせずにじっとしているというのは、気が狂ってしまえというのと同義だった。
 窓がはまっている溝には指が引っかかるくらいの隙間はあるようだったが、普通にジャンプしてもそこに手が届かない。だからといって、踏み台になるようなものの部屋の中にはない。八方塞がり。何か手はないのだろうか――
「――ん?」
 そこで、私はあるものの存在に気がづいた。便器。少し、窓枠には遠い位置にあるが、もしかしたらあれに乗って窓のほうに跳べば届くかもしれない。私は便座の蓋を閉じ、便器の上に乗る。
 そして勢いをつけて窓枠のほうにへと跳んだ。溝に指が少しだけかかった。だが、すぐに外れ、私は地面に転げ落ちる。
 服についた埃を払いながら、私はじっと窓の方向を睨む。
 ――あきらめない。指は引っかかった。次は届く。届いてみせる――
 私はもう一度便器の上に立つ。そして、深く空気を吸い込んでから――跳んだ。
 ガツン、と壁に鼻を打ちつけ、すぅっと、妙に清涼感がある痛みが鼻腔を通り抜けた。だが、指はしっかりと第二関節まで溝に引っかかってくれた。痛みをこらえながら、私は懸垂の要領で体を持ち上げ、顔を窓の前にやる。
 土が見えた。というか、地面。
 成程、私は一瞬で理解した。この部屋はおそらく地下室なのだ。悲鳴を上げる腕の筋肉をもう少しだけ我慢させ、さらに向こうを観察する。人っ子一人通っていなかった。見えたのはわずかに草が生えた地面と、その奥に広がる林。
 絶望――それが私の心に渦を巻いた。少しでも人気のある場所だったならば、大声を上げ続ければ誰か助けに来てくれるかもしれない。だが、こんな辺鄙な場所ではその可能性はほぼゼロだ。まぁこういう場所であるから、遠藤も監禁場所としてここを選んだのだろうけど。
 私は力なく窓枠から指を外し、床に下りる。自力でここを脱出するしかない――でもどうやって? 
 部屋の鍵は内側からでは確実に開かない。外から南京錠で閉じられているようなのだ。他に逃げられそうな空間もない。唯一のチャンスは、部屋に入ってきた遠藤を殴り倒すか何かしてそのまま脱出することだけれど、彼はナイフを持っているし、そもそも女の腕力で男に勝てるとは思えない。どうすれば――私は頭を抱え、地面に座り込んだ。
 その時、錠前の開く音が聞こえた。
 はっと顔を上げると、大きめのスポーツバックを持った遠藤が、薄気味の悪い笑顔を浮かべて私を見下ろしていた。
 機嫌よく、鼻歌なんか口ずさみながら。
「やあ小夜子」
「あ――」
 私は思わず後ろに後ずさった。そんな私の姿が見えていないのか、遠藤はにやにやと顔を卑しく歪めたままこちらに近づいてくる。
「今日、僕ははじめて学校を休んでしまったよ。小学生の時分から一度も学校を欠席したことなんてなかったのに。今日は、今日だけは、君に会いたくて――会いたくて、会いたくて会いたくて会いたくて会いたくて会いたくて――ついつい休んでしまったよ。あぁ――その綺麗な顔をよく見せてくれ」
「――近寄らないで!」
 そう私が叫ぶと、遠藤は一瞬顔を顰めたが、すぐに元の気味の悪い笑顔に戻り、
「――ははぁ。何をいってるんだい小夜子。照れ隠しのつもりかい? それとも本気で怒ってるのかい? まぁ怒っても仕方がないよね、こんな所にたった一人ぼっちにされて寂しかったんだろう? でも大丈夫さ。明日からは週末だから、僕はずっと君のそばにいられるよ。ほら――」
 遠藤がスポーツバックを床に置き、中身を取り出し始めた。中からは布団と毛布、それとペットボトルに入った水とコンビニ弁当が大量にが出てきた。最後に、彼は昨日持ってきたものと同じ蛍光灯が収まったランプを取り出して、
「週末は僕もここに泊まるよ。学校がないからね。二人で同じ布団に入り、愛の言葉を囁きながら眠るんだ。すばらしいだろ?」
 クククククク――と、低い声で笑った。この世の存在する何よりもおぞましい、ざらついた笑い声だと、私は思った。
「あなた――気が狂ってる」
「ん? おかしなことをいうね」遠藤はクスクス笑いながら小首を傾げる。「僕の気は狂ってなんかいないよ。僕はただ君が好きなだけだ。恋に焦がれた普通の男だよ」
「普通の男なら同級生の女の子をこんな汚い部屋に拉致したりしないわ!」
「しつこいな。だから拉致じゃないっていってるだろう。僕は君とただ、二人きりでいたいだけだ。ただ、それだけなんだよ」
 遠藤が徐に私の手を取り、それを自らの頬に摺り寄せてきた。
「――いや!」
 寒気と鳥肌を同時に感じて、私は無意識のうちに両手で彼を突き飛ばしていた。
「な……」
 遠藤は体制を崩し、無様に床に尻餅をつく。
「何をするんだ――」
「うるさい! 気持ち悪い!」
 気持ち悪い――という言葉に、遠藤の動きが止まった。
「気持ち悪い――誰が――?」
「あなたに決まってるでしょ!」頭が沸騰しはじめ、次々と口から言葉が飛び出してくる。「気が狂っていないでこんなことしてるなら変態よ! あなたは女の子を閉じ込めることでしか恋愛のできないただの意気地なし! 気持ち悪い! 早く私をここから出してよ!」
 半狂乱になりながら私は叫んだ。出たい――この部屋から出たい。家に帰りたい。春香に会いたい。会って、抱きしめて、一緒にご飯を食べたい――本来なら、そんな私のささやかな願いは簡単に叶えられていたはずなのだ。こいつが――この目の前の変態が、私を拉致なんてしなければ――

「……もう一度いってみろ」

 その時、遠藤がこれまでに聞いたこともないような、低くくぐもった声で、唸った。

「――あ」
 私は体がひくつくような威圧感を感じ、沸騰していた頭がさぁっと冷めていく感覚を覚えた。ほぼ同時に――耳の奥でけたたましいほどの警笛が鳴る。

 ――殺される。本能的に、そう確信した。

「やだ――」
 私は急いで開けっ放しになっているドアのほうへと走る。
 だが、遅かった。
 遠藤の手は既に私の首に絡みつき、その太い指で気道を圧迫していた。呼吸が止まり、視界が霞む。
「もう一度言ってみろ! このクソアマ!」遠藤が口元から涎を撒き散らしながら叫んだ。「誰が意気地なしだって! 誰が気持ち悪いだって! ちくしょうちくしょうちくしょうちくしょう――女はみんなそうだ! 人の内面をみようともしないで、外見だけで全てを決め付ける!」
「苦しい――離して……」
 何とかそう言葉を搾り出したが、遠藤には届かない。首を締め付けてくる力はどんどん強くなっていき、意識が次第に朦朧となっていくのがわかった。
「謝れ! 僕に謝れ! 謝れ謝れ謝れ謝れ謝れ謝れ!」
 血走った目。口角から吹き出ている泡。どう見ても、目の前の男は狂っているとしか思えない。殺される――謝らないと、私は殺される。
「……ごめん――なさい」
「聞こえない! もっと大きな声で、心から、心から謝れ!」
「――ごめんなさい! お願いだから離して!」
 私は体中の力を総動員して叫んだ。その瞬間、ふっと首を圧迫する力が無くなり、私は地面に崩れ落ちた。
「はぁ、はぁ、はぁ、わ、わかればいいんだよ。わかれば」遠藤が荒い息を吐く。「今の君には僕しかいないんだから、言葉には気をつけたほうがいいよ。全く」
 私を閉じ込めた張本人が何を――と、いってやりたかったが、いえない。そんな言葉を口にすれば、今度こそ私は殺されてしまうだろう。
「別に僕だってこんなことを本気でしたいわけじゃないんだ――でも、君があんなこというから――つい」
 遠藤の声はどんどん小さくなっていく。そして、結局は昨日と同じように、私に許しを乞いてきた。
「許してくれ小夜子――」
「――帰って」
 私は震える声でいった。遠藤が目を見開く。
「え?」
「許すから、帰って……」 
「だって君――昨日も……」
「お願い! 明日になったらあなたのいうことなんでも聞くから! 今日は帰って」
 叫んだ。遠藤はひくひくと目のふちを上下させ、口元を両手で覆いなにやら暫く考えこんでしまった。そして、
「わ、わかった。帰る。今日は帰るよ。でも明日、明日はまた来るからね。その時は、何でも僕のいうことを訊いてもらうからね。いいね」
 約束だからね――と声を張り上げ、遠藤はちらちらと私の姿を気にしながらおぼつかない足取りで部屋を出て行った。焦りすぎで部屋の鍵を閉め忘れてくれることを期待したがそれは叶わず、昨日聞いたものと同じ、錠前の閉まる無機質な音が部屋の中にこだました。
 私は暫く泣いたあと、まだ日の光が差し込んで明るい部屋の中を一瞥した。
 鍵こそきちんと閉めて帰ったが、遠藤はスポーツバックに入れてここに持ちこんできたものを全て忘れて帰っていた。ランプも、毛布も、水も、食料も、それらは未だ床の上に転がっている。
 そういえば、昨日から何も口にしていない。私は食料――コンビニで買ってきたのであろう安っぽい唐揚げ弁当に手を伸ばし、割り箸を使って食べ始めた。喉も渇いていたので、二リットルペットボトルに入った水もがぶ飲みする。
 そうしていると、だんだん恐怖が薄れてきて、頭が正常に働くようになってきた。同時に、遠藤に対する怒りが再びこみ上げてきた。
 なんで私がこんな目に会わなきゃいけない――唐揚げを咀嚼しながらそう思う。
 なんで私があんな気持ち悪いやつのいうことなんて訊かなきゃいけない――水を飲みながらそう思う。
 あぁ不条理だ。不条理だ。不条理だ。ここを絶対に出てやる。あんな男に好きになんてさせてやるもんか。ここを出て、春香が待つ家に戻る。
 私は徐にランプを手に取り、壁に向かって投げつけた。ランプはけたたましい音を発しながら砕け散る。床に散らばった、比較的大きなガラス片を拾い、残りは布団に包んで便器に放り込んだ。
 絶対にここを出る。どんな手を使っても――だから待っててね春香。私はガラス片の映る自分の顔を眺めながら、今は会えない妹に誓った。




 一睡もしなかった。
 ただただ起きていて、遠藤が来るのを待った。私は床に座ったまま、頭の中で静かにシュミレーションを繰り返す。昨日から寝ないで立てた作戦。男の腕力に対抗するために立てた、作戦。それを何度も何度も頭の中で思い浮かべる。大丈夫。私はやれる。必ず、ここを脱出して、春香のところに帰るんだ。胸がちりちりと痛む。だが、唇を噛んで我慢した。『隠し場所』としては、そこが一番いいのだ。
 昨日、遠藤が部屋を訪れてから、確実に二十四時間以上が経過している。窓からは夕焼けの橙色が差し込んでいるが、部屋の中は昼間ほど明るくはない。ちょうど、このぐらいの時間帯に来てくれるとこちらとしては非常に都合がいいのだが、じっと見据えたドアは未だ開く気配をみせない。
「――春香」
 祈るように、妹の名前を呟く。そうしていれば、先ほどから慢性的に感じている恐怖が、少しは緩和されていく気がした。
 ――春香、春香、春香。お姉ちゃんを守ってね。必ず、あなたの元に帰れるように、私を助けてね。お願いよ。お願い――。

「――やぁ、小夜子。いい子にしてたかい?」

 声が聞こえた。
 来た――ゆっくりと顔を上げる。いつのまにかドアは開いており、昨日のことをすっかり忘れてしまったかのような笑顔を浮かべた遠藤が私の目の前に立っていた。彼は部屋の隅にまとめてある弁当のゴミに気がづくと、なぜかほっとしたように胸を撫で下ろした。
「良かった。ちゃんとご飯を食べたんだね。少し心配してたんだ。君は一昨日もほとんど食事に手をつけてなかったし」
「……お腹、空いてたから」
 私は比較的落ち着いた声で答えるように努めた。実際のところ心臓は激しく高鳴り、冷汗が背中をじっとりと濡らしている。緊張と恐怖で今にも泣くか吐くかしてしまいたい。でも――拳を握りめ、何とか耐える。遠藤がこちらに近づいてきて、私のちょうど真向かいに座った。
「そうかい――ところで、昨日ここにランプを忘れて帰ったんだけど――あぁ、あの蛍光灯が中に入ってるやつね。あれが見当たらないけど、どうしたんだい?」
 遠藤が少し訝しげな顔をして、そういった。 どくん――と、心臓がこれまで以上に跳ねた。割れたランプ。今は便器の中に捨ててある――一部を除いてだ。その一部は、今私が身につけて隠している。それを遠藤にばれるわけにはいかない。それは私が遠藤に勝つための、ここから逃げ出すための、唯一の武器なのだ。
「――そんなことより、私お腹空いたんだけど」
 話を切り替えるべく、私はいった。あまりの緊張に少々声が震えてしまった。怪しまれただろうか――おそるおそる、遠藤の顔を覗く。
「あ、そうだね。ご飯が先だね。はい、これ」
 杞憂だった。遠藤はすぐさま表情に笑顔を引き戻し、昨日とは違うスポーツバックから弁当と割り箸を取り出して私に差し出す。私は素直にそれを受け取り、無言のまま食べ始めた。
 遠藤のそぶりにも表情にも、こちらを疑っている様子はない。彼は弁当を咀嚼している私を、まるでペットを見るような目つきで観察しながら、自分もパンを取り出し食べ始めた。
「だいぶここの生活にも慣れてきたようだね」
 パンを貪りながら遠藤がいう。私は何も答えなかった。下手に言葉を使って肯定の意を表すよりも、黙ったまま隠喩的にそれを表したほうが自然だ。とにかく、私はできるだけ自然な素振りで、『私が彼に恭順した』と思わせなければならない。少しでも疑われてはならないのだ。
 窓から差し込んでいる橙色は少しずつ薄くなっていく。食事を終えた私は遠藤のニキビ面をじっと見つめた。
「ねぇ、私はいつここから出してもらえるの?」
 そう訊いてみた。遠藤は少しも間を空けずに、
「――出さないよ。君はずっと、ここにいるんだ」
 予想通りの回答を吐いた。別に最初から期待なんてしていない。彼は、おそらく私が死ぬまでここに閉じ込めておくつもりなのだろう。そんなこと、こ私の首筋にナイフを突きつけてきた彼の顔を見たときから、とっくにわかりきっていることだった。今のは、そう――確認みたいなものだ。遠藤が私を飼い殺そうとしている――この状況の、確認。私は壁にもたれかかり、ふっと息を吐く。左右の胸の間がちりちりと痛んだ。不快な痛みだった。でも、我慢するしかない。今は。
「ふう、ご馳走様」
 パンを食べ終わった遠藤が両手を合わせた。
「君も、もうお腹はいっぱいかな?」
 頷いて答える。遠藤が笑い、こちらににじり寄ってくる。そして私の右手を取り、徐に唇を近づけてきた。
「君は本当に可愛い」
 手の甲に感じる感触。気色悪かった。でも、私は何もいわない。叫びたい気持ちも泣きたい気持ちも全て心の奥底に押し込み、ただただ黙り込む。
 それから、遠藤はぴちゃぴちゃと私の指を舐め始めた。まるで赤ん坊が母親の母乳を飲んでいるかのように、執拗に私の指を吸い続ける。どうやら、彼は女性を『舐める』という行為に、性的興奮を覚える性質のようだ。
「――ねぇ」
 五分ほど経ち、しゃぶられ続けた指がふやけ始めたころ、私は口を開いた。
「なんだい?」
「あなた、私としたいの?」
 瞬間、指先に感じていた遠藤の舌の動きが止まった。
「――したいって? 何が?」
 遠藤の顔が見る見るうちに真っ赤になっていく。おそらくは彼は私のいったことの意味はわかっているのに、自分からそれを口に出すのは恥ずかしいと思っているのだろう。だからご期待通りこちらから答えてやることにした。
「私を抱きたいんでしょ? 素直にいいなさいよ」
「え、いや――その――」
 遠藤は見るからにうろたえ始め、両手を顔の前で振りながら、「いや、僕はそんなつもりじゃ――」とか、「君が嫌がるなら無理やりには――」なんて言葉をぶつぶつ呟き始めた。もしかしたら、彼はかなり『うぶ』なのかもしれない。それならば、こちらが有利になる。
「――別に、私は構わないわよ」
 私ははっきりとした声で、そういった。遠藤が目を見開き、私の顔を覗きこむ。
「……本当に?」
「ええ」
 頷く。遠藤の目に卑しい光が灯り、その目線がじろじろと私の体を這う。そして体を震わせながら、私の胸に手を伸ばした。
「――あ、まだ駄目」
 慌ててその手を遮る。触れられるのは困る。『隠してある』のはまさにそこなのだ。
「服を脱いでからにして。こういうのは雰囲気が大事だから」
「え――あ、あぁ。ごめんよ」
 遠藤が恥ずかしそうに俯き、立ち上がる。そしてこちらに背を向け、おぼつかない手つきで服を脱ぎ始めた。
 やった――私はにやりと口びるを捻じ曲げた。服を脱いでしまえば、遠藤は丸腰だ。ナイフも、おそらくジャケットかズボンのポケットに入れてあるのだろう。これで私の勝てる確率はずっと高くなった。
「ぬ、脱いだよ」
 パンツ一枚になった遠藤がこちらを振り向いた。体は見るからに貧相で、あばらに骨が浮き出ていた。私は頷き、自分も羽織っていたカーディガンとブラウスを脱ぐ。日本人の平均よりもかなり大きめな私の胸が、下着をつけた状態のままで露になり、遠藤の目はそこに釘付けになった。
「ねぇ、外してみたい?」
 私は少し微笑んでやりながら、いった。
「は、外すって何を?」
「下着よ。女の子の服、脱がせてみたくない?」
 遠藤は暫く考えた後、決心したように唾を飲み込む。
「う、うん」
「じゃ、こっちにきて」
 遠藤がおずおずと私に近づき、目の前で立ち止まった。
「どうすれば――いいのかな?」
「後ろに手を回して。ブラのホックがあるから、それを外すの」
「わ、わかった」
 遠藤が私を抱きしめるように手を回してくる。ほぼ目と鼻の先に、薄すぎる遠藤の胸板が近づいてきた。

 今しかない――私は自分の胸の谷間に手を突っ込み、隠していた『それ』を掴む。そして――

「うああううう!」

 ほとんど形になっていないような叫び声を上げながら、『それ』を遠藤の腹部に『突き刺した』

「――え?」
 遠藤は私の耳元で素っ頓狂な声をあげ、
「――え? あれ? あれれ?」
 そのままふらりと後ろによろけ、コンクリートの床に膝を突く。その腹部には、深々と『それ』が――ランプを割った際に拾ったガラスの破片が――突き刺さっていた。
「――小夜子――いったい、何を――」
 信じられないようなものでも見ているかのような目つきで、遠藤が私を見上げる。私はいつのまにか荒くなっていた呼吸を何とか落ち着けると、すぐさま床に放ってあったカーディガンを拾い、開けっ放しになっているドアの方向にへと走った。
「ま、待て!」
 後ろから怒号。待つわけがない。下着姿のままカーディガンだけを羽織り、私は部屋を飛び出す。そして、部屋を出てすぐ目の前にあった階段を駆け上った。
 上手くいった――階段を登りながらガッツポーズを決める。駆けながら、後ろを一瞥した。遠藤が追ってきている様子はない。逃げ切れる。あれだけの怪我だ。追ってこれる筈がない。
 階段を登りきると、薄汚れたロビーのような場所に出た。どうやら、ここは潰れた病院だったらしい。錆びた点滴台や担架があちらこちらに放置されている。
「小夜子!」
 今しがた登ってきた階段の下から怒鳴り声が聞こえた。まさか――振り返る。そのまさかだった。
「畜生! 裏切りやがったな! 畜生畜生畜生! 殺してやる! ぶっ殺してやる!」
 腹から大量の血を流した遠藤が、階段下からこちらを血走った目で睨みつけていた。
 下着姿のまま、その手に光るナイフを持って。
「――嘘」
 体中がガタガタ震え出した。遠藤はまるで腹を刺された痛みなど感じないようなはっきりとした足取りで、一歩づつこちらに近づいてくる。殺してやる――と、唾を撒き散らし叫びながら。
 逃げなきゃ――私は震える体に喝を入れ、ロビーを走り抜ける。そして動かない自動ドアを両手で開き、外に飛び出した。
 昨日、窓の外から見えたとおり、外に人のいる気配はまるでなかった。病院の周りには、背の高い木々が生い茂っていて、その中を突き抜けるように道路が一本通っている。林の中に逃げ込もうか――一瞬、そんな考えが頭によぎった。だが、すぐに思いとどまる。道路沿いを走って逃げたほうが、人が乗った車などにすれ違う可能性が高い。とりあえず、誰かに助けを求めることが先決だった。
「待て!」
 後ろから、遠藤の声。振り返らなかった。そんな暇はない。走った。とにかく走った。
「待ちやがれこのアマ!」
 足音。遠藤が後ろを追ってきている。なぜ追ってこれるのだろう――私は恐怖で今にも泣き出しそうになった。確かにガラスは深く刺さっていたはずだ。それなのになぜ、追ってこれるのだろう。
 遠藤がじりじりと距離を詰めてきているのは、後ろから聞こえてくる『ぶっ殺してやる』という叫び声が少しづつ背中に近づいてきていることからわかった。おそらく、遠藤は自分が怪我をしていることなんて忘れてしまっているかのように、全力疾走で私を追いかけてきているのだろう。そのことがただひたすらに恐ろしく――後ろをついてくる化物がひたすら恐ろしく――ついに涙が溢れた。
 春香――私は泣きながら、ぎゅっと唇を噛締める。
 ――お姉ちゃんを守って、春香――
 可愛い妹。私にとって唯一の家族。彼女のことだけを頭に思い浮かべた。
 息も絶え絶えになりははじめたころ、ようやく交差点に出た。車など先ほどから一台も通っていないのに、目の前の歩行者専用信号は律儀に赤色――止まれを示している。律儀に従ってる場合じゃない。私は走るスピードを少しも落とさないまま道路を横断した。
「小夜子!」
 声。私は無意識的に後ろを振り返ってしまった。遠藤はもうほとんど離れていない距離にいて、今にも道路を渡ろうと――私を殺そうとしていた。
 その右手に握られたナイフ。私の顔を映しているような気がした。そこに映る私の顔――死に顔に見えた、気がした。
「小夜子――もう終わりだよ」
 遠藤が、その醜悪な顔を思い切り捻じ曲げ、笑った。
 その瞬間、私はすうっと全身の力が抜けていく感覚を覚え、そのまま地面に崩れ落ちた。遠藤の形相に恐怖したのか、それとも単に肉体が限界を向かえただけなのか、それはわからない。ただ、もう走れないということだけは、完全にわかった。
 遠藤がこちらに近づいてくる。ゆっくりと、ゆっくりと、ゆっくりとした足取りで、こちらに向かってくる。
 ――殺される。確信してしまった。
 春香。ごめんなさい。お姉ちゃんはもう二度と、あなたには会えないみたい――私は全てをあきらめ、溢れ出てくる涙をさえぎるように――目を閉じた。

 その時だった。
  
 けたたましい車のブレーキ音が聞こえ、今まで体に突き刺さっていた殺意の視線が綺麗さっぱり消えうせた。

「――?」
 おずおずと目を開けると、ブレーキ痕を道路にこすりつけて止まっている車と、アスファルトに倒れている血まみれの遠藤が見えた。
「うわ……マジかよ……」
 車の中から髪の毛を茶色に染めた男が出てきて、最早人間の形を成していない遠藤の下へ駆け寄る。
「ちょっと、ケンジ……その人死んでるの?」
 ほぼ同時に助手席のドアが開き、男と同じような色に髪を染めた女の子が出てきて、青い顔をして口元を押さえた。
「……どうやらそうらしい――あぁ、最悪だ――人を轢いちまった……」
 ケンジと呼ばれた男が倒れている遠藤の脇にしゃがみこみ、頭を抱えた。
「あ――」
 青い顔をした女の子が座り込んでいる私の姿に気づいたのか、ぱたぱたとこちらに駆け寄ってきた。
「あなた――どうしたの!」
 女の子が心配そうな顔をして、私の肩を抱く。その顔がなぜか春香のそれとだぶって見え、私はふっと笑ってしまった。
 泣きながら、先ほどまで自分を追ってきていた化物――遠藤を一瞥する。体中が通常ありえない方向に捻じ曲がっており、腰の辺りから半分にちぎりかけていた。もう動き出す気配はない。
 これで、終わった――心の底からじんわりと温かいようなものが湧き上がってきた。たぶん、安心感とかいう感情だろう。私は女の子の胸に頭をもたげ、そのまま目を閉じる。
「あ、ねぇ! しっかりして! ケンジ! 救急車! 救急車呼んで!」
 女の子の声が遠くに聞こえる。でも、それも次第に小さくなっていき、私の意識は完全に消えうせた。



 
 目を覚ますと病室にいた。女の子の腕の中で意識を失ってから、丸一日経過していた。私が遠藤に監禁された日から、四日経ったことになる。私の体は監禁二日目に締め上げられた首が少し腫れているだけで、他は特に何の異常もなかった。病室を訪れた医者が、大事をとって一週間ほど入院することを勧めてきたが、それは拒否した。一秒でも早く、春香の顔が見たかったからだ。とりあえず今日一日だけ病院で静養して、私は家に帰ることにした。
 医者が去った後、入れ違いのように刑事と名乗る中年男が入ってきた。刑事は遠藤の車に隠してあったという私の財布と携帯、それと家の鍵をベッドの上に置くと、事件のことを教えてほしい、といった。
「それで――あなたは自分に性的暴行を加えようとした遠藤を、胸に隠してあったガラスの破片でさして、逃げたと。そういうことですね」
 あらかた私が話し終えた後、ベッドの脇にあるパイプ椅子に座った刑事がその薄くなり始めた頭髪を撫でながらいった。
「はい……」
 私は頷く。まぁ、遠藤は積極的に私を抱こうとしていたわけではなく、私自身がそうするよう彼を仕向けたというのが正しいのだが、その辺は省いた。説明するのが面倒だったし、その必要性も感じなかったからだ。
「ふむ……あなた、とんだ災難でしたねぇ。とりあえず、無事でよかった」
 刑事は同情するような眼差しをこちらに向ける。私は病室で目覚めてからずっと心に引っかかってることを、彼に訊いてみることにした。
「あの――それで、遠藤君は……どうなりましたか?」
「――遠藤秀一ですか? 死にました。死因は車による轢死、医者がいうには即死だったそうです」
 抑揚のない、ただただ淡々とした口調で刑事は答えた。そこで、私はようやく真の意味で安心することができた。この目で確かに遠藤が死ぬところを見たが、やはり他人の口からそれが事実であったか確認しておきたかったのだ。
「遠藤秀一は前々からあなたに好意を持っていたらしいですね」
 刑事が手帳に書かれた文面に目をやりながらいった。私は頷き、
「えぇ、薄々は気づいていましたけど。私は見て見ぬ振りを決め込んでいました――その結果がこういうことになるなんて」
「ふむ。どうやらこちらの調べによりますと、遠藤が今回の凶行に走った直接的な原因は、親の経営する会社の倒産のようですね」
「倒産? それがどうして――?」
「大学を辞めざるおえない状況になったということです。大学を辞めてしまえば、あなたとも会えなくなる。だから――監禁して自分のものにしてしまおうと、そう考えたわけですな」
 全く、ふざけた思考回路ですが――そういって、刑事は手帳を閉じ椅子から立ち上がった。
「あっ、そういえば、あなた三日も失踪していたのに、親御さんはなんら警察に連絡してきた様子はないのですが――一人暮らしなのですか?」
 部屋を出る直前、刑事が思い出したかのようにそんなことを口走った。私は苦笑いを浮かべ、かぶりをふる。
「両親は私が高校生のときに事故で死にました。だから、私がいなくなっても誰も警察に連絡したりはしません」
「――ご家族は、誰もいないということですか?」
「はい。今、私は病院をいくつか経営していた父の遺産で、生活しているんです」
 刑事がしまった――とでもいうように後頭部を忙しく撫で、頭を下げてきた。
「不謹慎なことを訊いてしまいました。申し訳ない」
「いいえ――別に気にしていませんので」
 そう。私は気にしていない。両親が死んだ時は悲しかったけど、今はそのかわりに春香がいるのだ。春香さえいてくれれば、寂しいことなんてない。
「そ、そうですか。では、私はこれで――」
「えぇ、さようなら」
 私はにっこりと微笑み、そそくさと部屋を出て行く刑事を見送った。



 
 次の日、退院の手続きを済ませ病院を後にした。
 見舞いにきた大学の友人達が、昨日の今日でまだ怖いだろうからと家の前まで送ってくれることになった。
「ねぇ、今日一人で大丈夫?」
 屋敷の前に辿り着くなり、友人の一人が心配そうな声色でそう尋ねてきた。
「大丈夫よ。もう遠藤君は死んだんだから」
「でも――小夜子はこの大きなお屋敷にたった一人で住んでいるんでしょ? あんな怖い目に合ったばかりなのに―― 何なら、私泊まっていってもいいよ」
 それは困る。私は今日春香と二人きりで過ごすつもりなのだ。赤の他人にそれを邪魔されたくない。私は少しうんざりしたようにため息をつき、
「だから、大丈夫だってば。もう子どもじゃないんだし。家の中にいてきちんと鍵を閉めてれば、もう拉致されるなんて憂き目には絶対に合わないわよ」
「そ、そう。だったらいいけど。何か心配事があったらすぐに連絡してね」
 友人たちは門の前で散り散りになり、それぞれの家に帰っていった。
「さて――」
 私は門をあけ、家の中に入る。三日ぶりのだ我が家は、どこか埃っぽい気がした。掃除をする人間なんて、この家では私しかいないのだから当然といえば当然だ。
 とにかく、春香に会いに行こう――私は長すぎる屋敷の廊下を進み、そのまま裏口から裏庭に出た。
 平均的な小学校の校庭ほどの広さがある裏庭。その周りを囲んでいる森林を含め、屋敷の敷地内である。両親が残してくれた、この広い土地。両親が死んでからたった一人で暮らすようになってからは、いささか広すぎてどこか落ち着かなかった。でも、今はそんな空虚感を覚えることはない。庭を見て、私は無事家に帰ってこれたのだと安心することができる。庭の隅にこじんまりと打ち立てられているコンクリート製の納屋――そこに、春香がいるからだ。
 少し湿った足元の草を踏みしめながら、私は納屋に向かう。納屋には南京錠が掛けられてある。私が取り付けたものだ。こうしてないと、春香はここから出て行こうとしてしまう。うちの妹は家出癖があるのだ。マスターキーを使ってそれを外し、私は薄暗い納屋の中へと足を踏み入れた。
 
「ひっ――」

 暗闇の中から、少女の声。同時に、じゃらりと鎖が鳴る音が聞こえた。
 私は壁に手を伸ばし、電気のスイッチを押す。窓の無い密閉された空間が光で満たされる。
「――春香」


 ――コンクリートの壁で囲まれた部屋の奥。髪の長い、痩せた十代前半の少女が目を丸くしてこちらを見ている。春香。私の可愛い妹。しばらく見ない間に随分と痩せてしまったみたいだ――


「ああ……あ……」
 春香はガタガタと震えていた。寒いのだろうか。それとも、私に会えた喜びに打ち震えているのだろうか。後者なら、嬉しい。とても、嬉しい。
「――春香」
 駆け寄り、その脂ぎった頭を撫でてやる。あぁ――あとで髪を洗ってやらなければ。体も汚れているだろうし、お腹も空いているだろう。でも――その前に、その前に、私はとにかく彼女を抱きしめてやりたかった。
「ごめんごめんごめんねぇ、春香ぁ。お姉ちゃんちょっとゴタゴタに巻き込まれちゃってぇ、帰ってこれなかったのぉ。ごめんねぇ、寂しかったでしょう」
「は、離して――」春香が私の腕の中でもがく。「あなたなんてお姉ちゃんじゃない! 出してよ! 私をここから出して!」
「何をいってるの春香? 恥ずかしがってるの? それとも、五日間も放っておかれたことを怒ってるの? ごめんね、本当にごめんね。実はお姉ちゃん、気持ち悪い男の人に監禁されてたの」
「――監禁?」
 春香が訝しげな表情を作り、こちらを覗きこんできた。
「何を――いってるの? 私を監禁してるのはあなたでしょ!」
 春香は時々よくわからないことをいう。たぶん、私を困らせて楽しんでいるのだ。ちょっとしたイタズラみたいなものなのだと思う。
「あなたこそ何をいってるの春香? 私はあなたを監禁なんてしてないわ。ただ、一緒に暮らしているだけじゃない」
 私はくすりと笑い、春香の額にキスをする。春香が身を固くして、その細い両足に取り付けられた鎖をじゃらりと鳴らした。鎖は床に打ちつけた杭に繋がっている。こうしていないと、春香はいつも私の目を盗んで屋敷から出て行こうとするのだ。体の自由を制限するのは少し可哀想だけど、仕方がない。
「お願い――家に帰して……」
 何故だか、春香は嗚咽しはじめた。何をいっているのか、私にはさっぱり理解できない。春香の家はここであり、春香がいるべきところは私の傍なのだ。そう、私が彼女を拾った三ヶ月前のあの日から。
 一人っ子だった私は、昔から兄弟が欲しかった。特に、自分よりも年下で、同性である妹が欲しかった。両親が交通事故で死んでしまってからは、寂しさのせいかその願望はさらに強くなっていった。
 春香とは屋敷のすぐ近くにある公園で出会った。ブランコに乗り、なにやら憂鬱そうに地面に顔を俯けている彼女を見た瞬間、私は直感した。あぁ――この子こそ、私が長年夢見てきた理想の妹であると。だから――
 
 ――連れて帰った。

 医者であった父の部屋から拝借した眠り薬をハンカチに染みこませ、それで後ろから少女の口元を塞いだ。
 
 その日から、少女――春香は私の妹になった。薄暗い納屋の中に住む、可愛い可愛い『私だけ』の妹になった。

「家に帰して――帰してよぉ……」
 春香は咽び泣き続ける。意味がわからない。
「帰るも何も、あなたの家はここでしょ、春香」
 私が諭すようにいうと、春香は涙が溢れ出す目じりを押さえながら、ぶんぶんとかぶりを振った。
「違う! 私の家はここじゃない! ママに会いたい……パパに会いたい……お姉ちゃんに会いたい」
 お姉ちゃん――わからない。春香が何をいっているのか、私にはさっぱり理解できない。春香のお姉ちゃんは私で。私以外にはありえない。あぁ――わからない、わからない、わからないわからないわからないわからないわからない――
「ねぇ、春香――お姉ちゃんって、呼んで」私は春香の頭をぎゅっと抱きこむ。「ねぇ、呼んで。お姉ちゃんって、呼んで」
「――嫌よ!」
 叫び声。春香の。私を拒絶する、声。
「あなたなんか、お姉ちゃんじゃない! 私の――お姉ちゃんはあなたみたいに美人じゃないけど、私をこんな風に鎖で繋いだりしなかった!」
 ぽかぽかと、胸を叩かれた。痛い――胸が、痛い。
「ねぇ、春香――お姉ちゃんって、呼んで」
 私はほとんど縋るようにいった。でも――
「――絶対に嫌――」
 返ってきた答えは、私の望んだ言葉じゃなかった。痛い、痛い、痛い――



 ――痛い。


 ほぼ無意識のうちに、私の両手は春香の首を締め上げていた。


「あ――」
 春香が目を見開き、うめき声を上げる。腕を引っかかれた。痛かった。でも――胸の奥のほうが、ずっとずっと痛かった。
「離して――」
 春香が、苦しそうな声でいう。その目じりには涙が浮かび、顔色はどんどん赤黒く変貌していく。
 ――でも、私は離さない。さっきのは聞き間違いだ。私は春香のお姉ちゃんだ。春香は私を困らせようとして、お姉ちゃんじゃないなんて、そんな嘘っぱちを吐き出したに違いないのだ。
 だから、もう一度確認する。
「ねぇ、春香――お姉ちゃんって――呼んで」
「――お願い――離して――」
「お姉ちゃんって呼んで」
「お願いします……殺さないで――」
「呼んで、呼んで、ねぇ、呼んで。お姉ちゃんって、呼んで。呼んで呼んで呼んで呼んで――」みしり、みしりと、春香の首に私の指がねじ込まれていく。「――呼べ――呼べ――呼べ! 呼べ! 呼べ! 呼べ――呼びなさいよ!」
「――お姉ちゃん――ごめんなさい――お姉ちゃん――殺さないで――」
 蚊の鳴くような声で、春香がいった。瞬間、指に込めた力が、綺麗に抜けていった。
「――いい子ね、春香」
 私はにっこり笑って、赤く腫れ上がった春香の首筋にキスをしてやる。よかった。私は春香のお姉ちゃんだった。彼女が、そう認めてくれた。だから、私はやはり彼女のお姉ちゃんなのだ。
「お腹、空いたでしょう。すぐに何か作るから。ちょっと待っててね」
 首元を押さえ咳き込んでいる春香にそういって、私は立ち上がり納屋を後にした。



 キッチンで、カレーを作った。カレーが煮えるのを待っていた私は、ふと右手に持った銀色のおたまに自分の顔が映っていることに気づいた。

 ――そこに映っていた私の顔。何故だか少し、遠藤があの部屋で見せた、狂気的な表情に似ているような気がした。

「……まさかね」
 私と遠藤が似ている? そんなこと、ありえない。
 私は肩を竦め、煮立ったカレーを容器に盛ったご飯にかけると、お腹を空かせているであろう春香の下にへと向かった。

 鼻歌を口ずさみながら。


この作品が気に入っていただけましたら『高得点作品掲載所・人気投票』にて、投票と一言感想をお願いします。
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●感想
一言コメント
 ・意味深なタイトルにつられて読みましたが、これはすごい。
 ・被害者でもあり、加害者でもある主人公。被害者であった時の彼女の精神状態が、
  加害者に戻った時の彼女に何の影響も与えていないのがとても恐ろしかったです。
 ・面白かったです(><)wwまさか小夜子が!?みたいな意外な展開で、凄い楽しめました!
  人間の壊れる部分がよく書けてると思います!次の作品も頑張ってください!

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