高得点作品掲載所     龍咲烈哉さん 著作  | トップへ戻る | 


宮川くんとバウムクーヘン

 ダイスケ。

 名前を呼ばれて振り向くと、視線の先には蒔田恭子が「あ」の口で立っていた。
 ――やれやれ、またか。
「ゴメンな、宮川くんとちゃうねん。そっちの馬鹿の方や」
 誰が馬鹿の方だ、と僕の後ろの村上が悪態をついた。寝ていたようだったが、蒔田の声で起きたらしい。寝ぼけまなこの村上を見て蒔田が笑う。彼女の右手には茶色の紙袋。
「自分で分かってんねやったら、はよ返事してんか。はい、CD」
「おお、サンキュ。ありがたく貰っとくわ」
「アホ、誰があげる言うたねん。一週間以内に返したってや。そうそう、銀菓亭のバウムクーヘンも忘れんでな」
「高ぇよ、馬鹿。一高校生のふところ事情を考えろ」
「馬鹿に馬鹿、言われたないわ。別にええやん、ダイスケのサイフは私のサイフも同然や、神様もそうお告げしはったんやから」
「それきっと、俺に憑いた貧乏神だ」
「そうやろな、きっと」
「いや違うな、蒔田が貧乏神なのか」
 蒔田恭子は村上の額を小突くと、そのまま女子の輪の中に戻っていった。

 苗字のアタマがミとムのため、僕――宮川大介と村上大輔の席は近い。そして名前。呼ばれると、同時に反応してしまう。そのあとは、決まって顔を見合わせ笑い出すのだ。またかよ、とか言って。僕達が仲良くなったのは、自然の成り行きだった。 
 村上は勉強の成績こそ振るわないが、運動がよく出来た。背が高く不良っぽい外見とは裏腹に、人当たりがよく、付き合ってみるとすぐに好いヤツだと思えた。
 逆に、僕は勉強には自信があったが、スポーツも人付き合いもそこそこ。中肉中背で、黙っていても女の子が寄って来るような顔ではないが、生理的に嫌悪される様子もない。善意を押し売りできるほど持ってはいないけれど、授業をサボるにもびくびくするような小心者で、平々凡々といったことばがよく似合う人間、自分ではそう思っている。
 だからきっと「宮川くん」なのだ。
 そう思いたかった。

「宮川、五百円貸してくれ」
 その日の放課後、村上が僕に言った。
「何で?」
「銀菓亭。やっぱ、サイフが死んでた」
「ああ……大変だな、村上も」
「ったく、あの関西弁のせいで、レンタルより高くついちまった」
 村上は苦笑いしている。僕は五百円硬貨を自分の財布から出し、村上に渡した。そこで、ふと気づく。
「もう買うのか? バウムクーヘン」
「ああ、何か、どうせ買うなら一緒に食おうって言い始めやがってさ。俺が精魂込めてきちんと整理した部屋が、ガサツな蒔田に荒らされると思うと、気が滅入るよ」
 ふうん、と僕は言った。
 ぶうん、と僕の心が唸り声を上げる。静まれ。――静まれ。
「宮川も来るか? 家になら金もあるから、お前にも奢ってやるよ」
「いや、遠慮しとく」
 そうか、と村上は言った。
「来ればいいのに。蒔田も喜ぶぜ」
「遠慮しとくよ」
 語気が強くなってしまったことに、村上は気付いただろうか。

 家に帰ると、僕はベッドの上でぼんやり夢想に耽った。
 現在進行形の、村上の部屋。
 おそらく村上はいつも通りの彼なのだろう。肩肘を張らない自分の部屋で、人気ロックバンドのCDを聴き、銀菓亭のバウムクーヘンをフォークで口に運びながら、ああこのアルバムは微妙だなとかヌケヌケと言い放つのだ。いつも通りの苦笑いで。
 その横には、ほんの少しだけ嬉しそうな蒔田恭子。人様から借りといて何やねんその感想は、と決して本気ではない文句を言う――彼にそれとなく触れるために。
 ふと、彼女は彼の名前を呼ぶ。

 ダイスケ。――大輔。
 僕はそこで真っ白な枕に顔をうずめた。柔らかな羽が優しく僕を包んだ。 
 
 思い出す。あの後も、村上は「いいから来いよ」と僕を執拗に誘ってきた。
「女と二人きりってのは、あんまり好きじゃねえんだ」
「いいじゃないか、蒔田さんと二人きり。男はみんな羨ましがるぞ。僕がわざわざ邪魔することもないと思うけれど」
 どうして、建前というのはこうもすらすらと出てくるのだろう。
「ううん、そうかもしれないけどよ……そうだ、宮川、俺と代われよ。同じダイスケなんだから、入れ替わったってギャグで許してくれるって。なあ、良いだろ宮川大介」
 村上は好いヤツだ。ただ『殴りたくなるくらいに少しだけ鈍感』な、好いヤツなのだ。それがどんなに残酷なことか、きっと村上は知らないだろう。
 ――そして、蒔田恭子も。

 蒔田恭子は、僕たちが一年生の頃に和歌山から転校してきた。小柄だがショートカットが似合う可愛い女の子で、持ち前の明るさも手伝い、すぐに男女問わず人気者になった。
「二人ともダイスケなん? なんや、いろいろ面倒そうやなあ」
 しんみりとした台詞とは裏腹に、彼女は面白そうに笑った。  
 僕が初めて聴く生の関西弁は、テレビで芸人が無理してしゃべっている様なガシャガシャしたものではなくて、本当に心地よく、甘く耳に残った。彼女の口調は時々乱暴なところもあったが、それでも声が『柔らかい』と思えたのは、生まれて初めてのことだった。
 僕ら三人は一緒に遊ぶことが多かった。それは二年生になっても続いていたが、この頃はそうでもなくなってきた。
 村上は強面の割に女子に人気があったが、別に特定の相手を作りたいという訳でもなさそうだったから、よく蒔田と軽口を叩き合って遊んでいた。要するに、一番近くにいたのだ、村上大輔と蒔田恭子は。いつの間にかそこに僕の居場所はなくなっていた。

 そういえば「村上くん」はいつからダイスケになったのだろう。
 そんなことを思いながら、僕はいつの間にか眠ってしまっていた。

「宮川くん」と蒔田恭子が呼んでいる。僕は机に突っ伏し、彼女に気付かない振りをした。
「宮川くん? ……みやちゃーん? ミヤカワ?」
 起きない僕。 
「みやっちー、みーや、みやみやー、みゃあみゃあ……にゃんにゃん?」
「そこで何故ネコになる」
「あ、やっぱり起きてはった」
 彼女は嬉しそうに笑い、ハイこれ、と僕にキラキラ光る物を渡した。
「どうして蒔田さんが?」
「ダイスケがね、今日サイフ忘れよったから、代わりに払っておいてくれ言うてん」
「別に、いつでも良いのに……」
「宮川くんは優しいなあ。でも、ダイスケを甘やかしたらあかんわ。あいつはあれで、いろいろだらしないところがあるねん」
「蒔田さんは、村上のお母さんみたいな事を言うんだなあ。よく見てる」
「変なこと言わんといてや。ダイスケの母親なんて、死んでもゴメンこうむるわ」
 そう抗議する彼女の顔は、しかし緩むほっぺたを隠しきれずにいた。僕の手のひらの中で、村上に貸したはずの五百円玉がじっとりと濡れていく。
 宮川くん。ミヤカワ。みやちゃん。みやっち。みーや……結局、僕はダイスケどころか、大介ですらもなかった訳だ。
 昨日、ダイスケと蒔田はどんな話をしたのだろう。二人でダイスケの部屋に入ったのだろうか。人気ロックバンドのCDを聴き、銀菓亭のバウムクーヘンをフォークで口に運びながら、あーこのアルバムは微妙だなとか人様から借りといて何やねんその感想はとか――。
「昨日のバウムクーヘン、美味しかった?」

 村上大輔が、ダイスケである理由。
 宮川大介が、宮川くんである理由。
 それは蒔田恭子というたった一人の女の子の、ごくごく個人的で恣意的な、取るに足らない理由に過ぎない。
 ただ、それは僕にとって永遠に壊せそうもない壁。
 以前こんなことがあった。みんなで騒いでいて、何のきっかけか恋愛の話になったときのことだ。「付き合うなら、どんな人がいい?」そう聞かれて、蒔田はこう答えた。 
「うーん、付き合うなら……宮川くんみたいなひとがええなあ」
 周りは沸き立ち、聞いていた僕を囃し立てた。
「ほら、宮川くんて優しいやん」
 僕は「いやあ、照れるなあ」とごく当たり障りのない返事を返し、その場をうやむやにしたが、内心では物凄くショックだった。蒔田は深く考えずに言ったのかもしれないが、みんなも、そして蒔田自身もきっと気付いていないのだ。
『宮川くんみたいなひと』は、決して宮川くんでは有り得ないということ。
『宮川くん』から、最も遠い存在であるということ。
 名前が出ていながら暗に除外されているのだから、宮川くんは嫌い、などと言われるよりもよっぽどこたえる。
 甘く優しい、断頭台。

「昨日のバウムクーヘン、美味しかった?」
 僕は聞いていた。
「んー、まあまあやった」
「そっか。今度、僕も買ってみよう」
「でも、一人で食べるんはちょっと大変やで。こんなに大きいねん」
 目の前で、彼女の両手が二十センチくらいの輪を作る。村上のヤツ、ホールで買ったのか。きっと僕の貸した五百円だけでは足りなかっただろう。蒔田は僕の顔をのぞき見て、にやにやと笑いながら言った。
「ああ、せや。好きなひとでも誘ったらええねんな」
 好きなひと。 
「宮川くんは、好きなひとおるん?」 
「なんか、あそこで村上が呼んでるよ」
「あ、ほんまや。ぶんぶん手え振ってはる。馬鹿やなあ」
 蒔田は笑いを噛み殺しながら、教室の入り口で立っている村上の方へ行こうとして、振り向いた。
「さらりとごまかされた気がするわ。宮川くんは上手やな」
「そうでもないよ」
「ありがとな」
「ん? 何で」
「分からんわ。なんや、急に言いたなったねん。また、三人で遊ぼな」
 いつもの笑顔でそう言うと、彼女は村上の所へ向かった。
「なんやねん、ダイスケ」
 耳に甘く残る、関西弁とともに。

 ――つまり、今は二人で遊ぶということだ。
 僕はそれを理解しながら、言いようのない悔しさと嫉妬とあきらめとを抱きしめた。大人になるというのはきっとこういうことだ。自分に言い聞かせた。
 僕は彼女が好きだ。けれど、気付いてもいる。
 彼女の気持ちが、宮川大介ではないダイスケに向いていることに。
 なんだかんだ言いながら、村上大輔が彼女を気に入っていることに。
 二本の線が交わるのは、きっとそう遠い未来ではない。
 これでいいんだと諦観を覚える僕、意気地も勇気も無いクズだと吐き捨て蔑む僕。親友を憎く思い切れない僕、彼女に怒りと恨みとそいつらに比例した思慕を抱く僕。良いひと達を自分勝手に悪者に仕立て上げながらも、この糞ったれでどうしようもない感情を表に出すことなく、僕は再び机に突っ伏す人生をそっと選んだ。
 
 これからも、僕は「宮川くん」でいつづけるだろう。
 僕の好きなひとに、ダイスケと呼ばれる日まで。
 蒔田の顔以外思い浮かばなくても、今はそれでいいのだ。今は。
 
 銀菓亭のバウムクーヘンを仲良く分け合えるひとがいい、と僕は思った。  
 
      **


 その日は午前中から雨で、予定されていた体育はマラソンから体育館でのバスケットボールに変更になっていた。私は運動が得意ではないので、いつものようにぽつねんとおとなしくゴール下を守っていた。前線では味方がパス回しをしながら得点を狙っている。別に寂しいわけではない。私は私の役割、つまり守備をしっかりこなせば良いのだ。
 背の高い美紀が執拗なディフェンスをかいくぐり、同じバスケ部の香奈に向かって素早いチェストパスを出した。絶妙だ、と遠目にも分かる。そのパスはすんなりと通って、香奈が綺麗な3Pシュートを撃つ――ハズだった。
「あっ」
 一瞬のカット。弾かれたボールは敵の手に渡り、そして勢い良く私のいる方へと投げられた。速攻だった。恰幅の良い女の子が、空中のボールを追ってこっちに走ってきた。
 そうはさせない、と奥歯を噛みしめる。
「アユ!」
 美紀の声を聞く前に、私は飛び出していた。ボールを取らなくちゃ、と私の体が反応していた。後になって考えると、それは幸か不幸か、運動音痴の私にしては実に素晴らしい反応だったのだ。自チームゴールの前、空中のボールに飛びついた私。そこに更に飛びついた恰幅の良い女の子。ここは敢えて言うべきだろう。恰幅の良い女の子、だ。
 二人が同時にボールをキャッチした直後、予定調和のごとく私は吹っ飛ばされ、固い板張りの床に尻餅をついた。そこに勢い余ってボールごと倒れこむ女の子。支柱になっていた右腕に、質量かける重力加速度で求められるところの『力』が一気に加わったのである。恰幅の良い女の子によって。
 右手から、喩えようのない嫌な音がした――気がした。
 起き上がらず、悲鳴も上げずにうずくまったままの私に、周囲もざわつき始めた。激痛の中、私は思った。
 重戦車にケンカを売ってはいけない。

 ギプスって包帯みたいなんだね、と美紀が呟いた。隣の席に座って、その形の好い爪で、突っ伏している私の右腕をカリカリ引っ掻いている。もう少しで始業ベルが鳴る。
 あくる日の私の右腕の肘から下は硬く白く、一回り太くなっていた。半袖のブラウスから伸びるごつい腕。昨日ほどではないにしろ、まだズキズキと痛みが残っている。五本の指の中ほどまでしっかりと包む純白の鎧を見る度に、私の口はため息を吐き出した。
「最初は包帯みたいなのが、水で濡らすと暖かくなって、巻きつけると自然に固まってこうなるみたい。もう石膏のギプスは使われてないって先生が言ってた」
「で、医者はどれ位かかるって?」
 美紀が私の右腕を叩きながら聞いてきた。包帯ギプスがコツコツと乾いた音を立てる。
「私の場合は六週間だって」
 医者の診断は「撓骨遠位端(とうこつえんいたん)骨折」、その中でもコーレス骨折と言われる比較的頻度の高いもので、つまり前腕親指側の撓骨という骨の先が折れていたのである。レントゲンで見ると、素人の私にでも分かるほど見事な折れっぷりだった。神経や筋肉に損傷がなかったことと私自身の年齢が若いことから手術の必要は無かったのだが、代わりに固定と絶対安静を義務付けられ、「痛みが無くなったら、拘縮(こうしゅく)予防のために指や手首を少しずつ動かすように」とも言われていた。拘縮とは関節が固くなり動かしにくくなることだそうだ。ちなみに、通常は三、四週間ですむそうだが、私の場合は折れ方が凄かったらしい。
「うわ、長いなあ。アユも災難だね。それじゃあこれから一ヵ月半、何でもかんでも左手でしなきゃならないんだ」
 美紀の同情を含んだことばに、目の前がまた真っ暗になった。
 そうなのだ。ギプスが指を半分近く覆っている以上、右手では字も書けないし食事も出来ない。私は何をするにも空いている左手を使わなければならないのである。実際、昨日の夕飯は悲惨だった。カレーライスにサラダというごくごくありふれたものだったのだけれど、左手がまったく言う事を聞かないのだ。スプーンを握っても違和感があるし、スムーズに口元に持って行けず、何度もテーブルにカレーをこぼしてしまった。サラダをつつくフォークも同じだった。何度ギプスを叩き割ろうと思ったか分からないが、ギプスどころか右腕まで破壊しかねないのでやめておいた。目下の悩みは今日のお弁当である。
「ああ、憂鬱……」
 想いが口に出る。美紀に向かって愚痴を言いたくは無いが、出てくるものは仕方ない。
「ノートはどうするの? 板書、左手じゃ書けないでしょう」
 美紀の言う通りだった。食事でもたついている私にそんな器用な真似は不可能だ。昨日試してみたが、数分後にノートに出現したのは、果たして得体の知れない宇宙語の羅列だった。金釘文字と呼べるレベルですらなかった。
「ああ、それなんだけどね。美紀」
 代わりに取ってくれない、と言いかけた時だった。
「日高さん、腕どうしたの?」
 少し驚いた表情で机の横に立っていたのは、一人の男子生徒だった。ギプスを見て盲腸だと思う人はなどいないし、どうしたのと聞くのは彼なりの礼儀なのだろう。私が苦笑いを浮かべて「折れちゃった」と言うと、彼は目を丸くしていた。私は簡単に経緯を説明した。
 ちなみに日高というのは私だ。日高亜由美が私の名前。
「で、授業とかお弁当とか、これからどうしようって悩んでるところ」
「大変だね」
 彼は本当にそう思っているようだった。表情が物語っている。そうだ、と聞いていた美紀が声を上げ、彼に向かって微笑んだ。
「ねえミヤ、アユにノートのコピーしてあげてよ」
「ええ? ちょっと美紀、悪いよそんなの」
 親友の思いがけないことば。ノートをコピーするだけなら、別に彼でなくても良いのだ。だが、私とそこまで親しくないはずの彼はこくりと頷いて、快諾してくれた。  
「僕のでよければ、別に良いよ。どうせ板書はとるわけだし、二人分書くのでもないし」
「本当? いいの?」
「授業が終わってからコピーするだけなら、別に痛くも痒くもないよ」
「ね、そうしてもらいな。ミヤのノート、アユにとってはちょっと勉強になると思うよ」美紀が含み笑いをする。
「馬鹿で悪かったね。はいはい、どうせ成績じゃ美紀たちには敵いませんよ」
「あはは、そういう意味じゃないんだけどね。じゃあミヤ、早速今日からよろしく」
 美紀が言うと、彼は了解、と笑って自分の席に戻ろうとした。言い忘れていたことを思い出し、私は慌てて彼の背中に声をかけた。
「ありがとう、宮川くん」
 彼は片手を上げて応えてくれた。
 
 宮川大介というのが、彼の名前だ。
 誰にでも優しくて、敵を作らない、典型的な「いいひと」である。私の悲惨な成績に比べると、学年で十位以内の実力を持つ彼はまさに優等生だと言える。その意味では、確かに彼のノートをコピーさせてもらえるのは有難かった。
 けれど、ありがとうとは言ったものの、正直、複雑な気分だった。美紀に借りるほうが何倍も気が楽だったろう。親交の少ない異性に頼み事をするのは、いささか気が引けた。私だって少しは乙女なところもあるのだ。
「つまり、x軸との交点の数は、この判別式Dを解けば求められるということだ」
 教師が何か言った。私は慌てて教科書を繰り、二次関数のページを開いた。
 数学は私が特に苦手にしている科目だ。高校二年生になって半年、文理選択でうっかり理系を選択してしまった私のおつむは「式」の類をまったく受け付けないらしい。ちょっと美紀。その脳味噌、私に少し分けてよ。や、運動神経の方でもいいな。でも美紀のルックスがあれば、それこそ何の苦労も無いかもしれない。ノートにポイントを書き記す手段を持たない私は、自然と夢想に耽りがちになる。まったく板書を取らないのは落ち着かなかったが、それも慣れてしまえば眠気しか残らない。
「では、Dの解が0より大きい時は交点は幾つになるかね……鳥飼」
 美紀の名前が呼ばれた。
 宮川くんなら、授業の内容なんて苦もなく咀嚼できてしまうのだろう。そういえば、ちゃんと要点を書いてくれているかなあ。言っておくがね宮川くん、私は懇切丁寧な解説がないと伸びないぞ。アホな子は少しばかり手がかかるのだよ。
 心配になり、左前方に座っている彼を見ると、右手がまったく動いていなかった。こらこら優等生。君はノートを取らなくても良いかもしれないけど、ここに留年が掛かっているかもしれない人が一人いるのだよ。大丈夫かね優等生――。
 教師の質問に「二つです」とスマートに答えて着席した美紀が「ね、あれ」と私に耳打ちしてきた。彼女の目配せの先は、優等生を向いていた。
「どうしたの?」
「手」
「手?」
 参考にしたら、と美紀が笑う。私は机から身を乗り出すようにして宮川くんのほうを見た。右手はやっぱりほとんど動いていない。こら優等生と内心思いかけて――気付いた。せわしなく動くシャープペンシル。
 宮川くんは、左手で字を書いていた。

 学校指定のカバンを机に放り出し、数枚の紙を取り出すと、私はそのままベッドに倒れこんだ。カバンを開ける、ファイルを出す。こんな単純な動作も、利き手が不自由だともどかしくて仕方なかった。スカートのプリーツが伸びるかもしれないなと思ったが、着替える気にはなれない。疲れた。ただそれだけ。
 ぼんやりと一枚の紙を眺める。蛍光灯の光が透けて、ぎっしりと書かれた文字を浮かび上がらせた。紙に何が書いているのかは、コピーを彼から受け取った時には既にどうでも良くなっていた。少し右肩上がりの、それ以外は至って普通の、そして私の字よりは数段きれいな筆跡。矢印やアンダーラインなどにしっかり定規を使っているところは几帳面な宮川くんらしいと思う。見ていると、私でも書けそうだと思ってくるから不思議だ。
 私は起き上がって机に向かい、左手にペンを持って――やっぱりやめた。宮川くんがどんな風に字を書いているかも見てみたい。しばらくは彼の好意に甘えよう。
 一ヵ月半くらい、許してくれるよね。私はあくまで自分勝手にそう思った。

 フォークかスプーンで食べられるものを頼めばよかった、と私は本気で後悔していた。さっきから十分くらい空しい努力を続けてはいるが、私の握る箸はいっこうに白米を乗せてはくれなかった。たまにうまく捉えても、手が震えてぽろぽろと落ちてしまう。昨日も三十分以上かかってようやく食べ終えたのに、今日はそれに輪をかけて遅い。
「明日から購買のパンにしたら?」
 自前の弁当をつつきながら、美紀は半ば呆れていた。苛々する、というのが私の本音だった。目の前で宮川くんが苦もなく箸を使えているのが不思議でならない。本当に左利きなんだな、と改めて思った。
「焦らないでいいよ、日高さん。毎回左手を使わなきゃいけないんだし、すぐに慣れる」
 宮川くんは笑ってそう言った。いつも彼は親友やその彼女と一緒に昼食を取っているのだけれど、「アユに手本を見せてやって」という強引な美紀の誘いを断りきれず、今日は私達二人と机を共にしていた。今、三人の中で右手を使っているのは美紀だけだ。ついでにざっと周りを見渡したが、三十五人の教室で左手でご飯を食べているのは、宮川くんと私を除けば女子一人だけだった。
「すぐに慣れるって……宮川くんを見るだけでいまだに違和感を覚える、この私が?」
「あ、あたしも、ミヤの動き見てると変な感じがする」
「そう? そんなに変かな」
 宮川くんは自分の手元と美紀の手元とを見比べた。根が素直な性格なのだろう、その仕草に思わず私は吹き出しそうになった。美紀が続ける。
「変っていうより、何ていうのかな、サウスポーの動作って違うんだよね。ミヤがそうだって気付いた時も、その独特の動作が目に付いたの。なんか変に綺麗だなって。ほら、あたし達が見慣れた方向に動かないじゃん、横書きに字を書く時とか。あたし達はペンを引いて書くけど、サウスポーは押して書くしさ」
 確かにと呟き、彼は自分の名前を空書きした。
「でも、箸は持ち方も動きも一緒だよね。ただ、右と左が鏡写しになっただけ。それでも、変な感じがする?」 
「うん」「する」
 ほぼ同時に私と美紀が言った。美紀が不思議そうな表情で呟く。
「なんでなんだろう? 確かに、鏡に映せば同じはずなのに」
 見たところ、宮川くんは右手での正しい箸の持ち方をそのまま左手でやっているようだ。祖母にきっちり仕込まれた私と同じなのだから間違いない。美紀はと見ると、人差し指と中指を一緒に動かしており、持ち方だけなら彼女の方が奇妙に思えた。
「右利きの人を見慣れているからだよ」
 宮川くんは至極当たり前のことを言った。
「大勢と違っていれば、当然だよ。無意識のうちに、人が『こっちの手で食べている』という状況がスタンダードになっているからね。それでも、見ても違和感を覚える程度だからまだいいよ。そもそも数十年前は左手で食べることが恥ずかしくてみっともない事だと言われていたのだから、ホント、時代は変わったと思うよ」
「あんた、一体いつの人間よ」
「精神年齢は四十歳くらいだって言われる」
「オヤジじゃん。落ち着いてるなと思ったらそういう訳か」
 美紀の呆れ顔に、宮川くんはニヤニヤと笑っている。ちょっと嬉しかったようだ。
「おじいちゃんやおばあちゃんに、右手に直されなかったの?」
「この左腕は僕の誇りなんだ。そんなことをされたら、泣いて抵抗しただろうね」
 宮川くんは握りこぶしを作り、微笑んだ。その時は単純に、左利きとしてのプライドの事を言っているのだと思った。そして、私が宮川くんをちょっと変わった人だと思い始めたのは、どうもこの時だったようだ。

 慣れというのは不思議なもので、右手が使えないとあれだけ苦労していた事でも、一週間もすればどうにかこうにか暮らせるらしい。私にも学習能力が備わっているようで、朝起きてからの着替え、身支度、高校への自転車通学、トイレ、掃除などは左手でも苦労しなくなっていた。ボールを投げたりできないのは元からだけど、シャワーや水仕事はギプスをビニールでくるめば何とかなったし、やればできるものだと実感していた。夏場のギプスの下が猛烈に痒くなるのには閉口したけれど、右腕とギプスの間に耳掻き棒を差し込んでひたすら掻くことで、なんとも言えない快感を得られる事も発見した。ギプスの中でわずかに指を動かしたりもしていたから、そこまで筋肉が衰えたりもしないはずだった。
 けれど、一筋縄ではいかない行為もやはり多かった。食事と書字である。
 食べる動作はそこそこ上達していた。とは言ってもそれは手づかみの食事やスプーン、フォークの話であって、未だに箸は難しかった。人差し指と中指がうまく協調して動いてくれず、持ち上げる事に成功してもすぐぽろりと落としてしまう。母の配慮で家の食事はこのところ洋食が続いていたが、いい加減に私もご飯と味噌汁が食べたくなっていた。学校でも購買のパンを買うようになっていたため、なおさらだった。
 さらに問題なのが、書く事である。この一週間、私はほとんど全ての授業のノートを宮川くんに取ってもらっていた。私と宮川くんの選択した科目が異なっているときは、美紀に写させてもらった。あれから一度だけリベンジしたが、やはりうまく書けなかった。手が震える、直線が曲がる、はらいが書けない、ノートが破れる、スタート位置を間違える。そして何より圧倒的な違和感が、私のやる気を根こそぎ奪っていった。たった数行、ミミズが這ったような字を書くのにも十分かかってしまうのだ。これで授業の板書が満足に出来るはずがない。残り五週間は彼にお世話になろうと思った私を、誰が責められよう。
 世の中で右手が動かなくなった人がどれだけいるかは知らないが、皆私と同じような苦労をしているのだろうかと思うと、暗澹(あんたん)たる気持ちになった。

 歯を磨いていると、時々目の前に自分と目が合う。鏡に映った私は、ぎこちなく歯ブラシを動かしている。あれ、私、右利き。なんで? 違和感を覚えてめまいがする。左手の歯ブラシに気付く。あれ、私、左利き。そうだっけ? めまい、ぐるぐる。
 鏡に手を伸ばす。相手の右手と私の左手がそっと触れ合う。
 鏡の向こう側の住人。私にとって、それが宮川くんだった。 

 すっかり腕に馴染んだギプスを枕にして、私は机に突っ伏し、自分の左手を眺めていた。ぎゅっと握り、ぱっと開く。グー、チョキ、パーを作る。弾けもしないピアノを演奏するまねをする。何をやっても、どんなに動かしても、やはり右手とは違っていた。何がと聞かれても、きっと明確には答えられないだろうけど。
 右手と左手。利き手と非利き手。私と宮川くん。何が違うんだろう?
「何やってるの? 左手の練習?」
 いつの間にか、美紀の整った顔が私の顔を覗き込んでいた。休み時間に私の所に来るのが彼女の習慣らしい。
 すらりと高い背、運動が得意な癖に華奢なパーツ、緩いウェーブの掛かった栗色ショート。サバサバした性格の鳥飼美紀。私の親友の中で一番カッコイイ美人だ。
 私はと言うと、まあ普通かなと言うのが自己診断だ。背は一五〇ちょっとで普通、体型も痩せ過ぎず太り過ぎず、黒い髪は背中に届くくらいのストレート。明らかに美人ではないだろうが、頑張って見れば可愛いという評価をいただけなくもない気がする。と思う。
「どう、ミヤのノート。参考になってる?」
「時々眺めてるけど、右利きの字と変わらないよ。動作でも見れば違うんだろうけど」
「そうだね、あたしもそう思う。書いているのを見るとすごく違和感があるんだけど、字は普通だね。個人差の方がよっぽど大きいかな。右下がりかなと思うとそうでもないし」
「字だけだったら、恭子の方がよっぽど特徴あるかな。ゴマみたいに小さくて丸くてさ」
「ああ、あれはインパクトあるよね。誰が見てもマッキーのだって分かるし」
「なあなあ、あたしの字がどないしたん?」
 不思議そうな顔で、クラスメイトの蒔田恭子が立っていた。私たちが宮川くんや私の腕のこと、字の練習についてなどをかいつまんで話すと、恭子はふんふんと頷いた。
「それ、分かる。宮川くんだけやなくて、左利きの人って見てると違うねん。何が言われたら答えられへんけど、この間のバスケットかて、竹内さんておるやん、あの子の動き見てるとあれって思うもん。そっちでボール投げるん、って。器用やなあって思う」
 彼女が真面目な顔をしていると、背伸びして大人ぶっているように見え、物凄く可愛い。竹内さんというのは、このクラスのもう一人の左利きだ。もっと詳しく言うならば、今の私の礎を作った重戦車である。
 蒔田恭子は、一年生の頃に関西からこちらに転校してきた。小柄でショートカットの似合う子であり、クラスのマスコット的な存在である。私や美紀とは今度のクラス替えで一緒になったが、彼氏や宮川くんとは一年生の頃から同じクラスで、仲が良かったらしい。
「それで亜由美、怪我のほうはどうなってん?」
「痛みは無くなったし、骨はもうくっつき始めてるんじゃないかなあ」
「ふうん、良かったなあ。あと五週間やね」
 そうだねと私は頷いた。もうすぐ七月だから、一学期が終わる頃にはギプスも外れることになるだろう。って。
「……一学期が終わる頃?」
「そのくらいだね。どうしたの、アユ?」
「いや、ちょっとね」
 何だろう、何か大事なこと、大事なイベントを忘れている気がしたのだが……。
 私の思案は、恭子の行動に掻き消されてしまった。恭子が左手にペンを握り、いつの間にやら私のノートに一生懸命に落書きをしている。猫を飼っていることで有名な、可愛い猫のキャラクターだった。紅葉のようなというと大げさだけれど、とても小さな掌。
「何してるのよ?」私が覗きこむと、彼女は苦笑いをしている。
「ううん、上手く描けへんなあ。手が震えてしもた。結構、絵には自信あるねんけど」
「当たり前でしょ。左手でいきなり描けたら、頑張ってるアユの立場がないじゃない」
「あはは、それもそうやね。そんなんやったら、世の中の人みんな両利きになっとるわ。ちなみに今、亜由美はどんな感じなん? ちょっと書いて見せてくれへん?」
「両利きねえ。そんな器用で羨ましい宇宙人、見たことないなあ」 
 私は溜息を吐き、震える線で字を書いて見せた。あいうえお、ひだかあゆみ。なんだかこの前よりも上手く書けている気がした。傍から見たら小学生か幼稚園児のような稚拙な文字だったけれど、苛々を募らせながら書き終えたところで、友人から驚きの声が上がった。恭子が目を丸くしている。
「大変や、違和感ありすぎや。亜由美が亜由美でないみたい。でも、サマになってるわ。ここだけ見ると、ほんまのレフティさんみたい。カッコいいなあ」
「レフティ? ああ、サウスポーのこと」
「でも、なかなか上達してるんじゃん。アユ、あれから字を書く練習は殆どやってないんでしょ? いろいろ左手を使ってると、字も自然に書けてくるのかもね。骨折が治る頃には、右手なんか使えないなんて言ってたりして」
 美紀が珍しく私を褒めると、恭子も笑って言った。
「この際や、両手とも使えるようになったらええねん。目指せ、両利き!」
「無茶言わないでよ、二人とも」
 二人をたしなめつつも、内心私の顔は綻んでいた。人と違うことができる、それを褒められたことが少しだけ嬉しかったのだ。左利き、サウスポー、レフティ、そんなことばの響きもカッコいいなと思い始めている自分がいた。
「せや。ほんまに左利き目指すんやったら、宮川くんにいろいろ教えてもろたらええよ」
「それだったら、もうノートのコピーを」
 ちゃうねん、と恭子は笑った。
「あれで、宮川くんは教え方が上手いねんで。あたしもダイスケも、よく勉強教えてもろたし。鉛筆の握り方から箸の使い方まで、手取り足取り、みっちり教わったらええねん」
 恭子にダイスケと呼ばれたのは同じクラスの村上くんのことだ。
「でも、宮川くんに悪いよ」
「いいんじゃない。アユ、これを機会に親密になっとけば。それに、これからしばらくは左手とお付き合いしなくちゃならないんだし、自己流もいいけど、誰かにご教授願った方が効率がいいって。どう? 放課後の個人授業とかさ」
 美紀がニヤニヤしながら煽る。
「あのねえ美紀。宮川くんにあんなこと言ってたけど、あんたも相当なオヤジだよ」
「宮川くんにも、とうとう春が到来するんやなあ。そういう話は全然聞かんかってん、ちょっとヤキモキしてたねん。赤飯でも用意せなあかんかな?」
 私はもう一度溜息を吐き、恭子をじっと見た。あんただけはそういう事を言っちゃいけない、そう思ったのだ。美紀も美紀で、苦虫を噛み潰した苦笑いを更に濃い目のコーヒーでのばした顔をしていた。恭子は私たちの様子に気づかず、無邪気にはしゃいでいた。
 
 宮川くんは、筆入れからシャープペンシルを取り出して左手に持った。
「僕はこう握ってるよ」
 私と宮川くんは彼の机に向かって並んで座っている。箸の授業は明日の昼食の時に行うこととして、とりあえずは字の書き方を簡単に習うことにしたのだ。正直、これ以上書字に労力を裂くことには抵抗があったし、無理に左手を鍛えることには食傷気味だったのだけど、左利きの先輩として、彼の動作や書き方には興味があった。
 放課後の教室、残っている人は少ない。宮川くんも私も部活には入っていないから、授業が終わると帰宅以外の選択肢は本当に少なくなる。
「こうかな?」私は左手に、宮川くんと同じようにペンを握った。
「なんか、あんまり右手と変わらないね。ただ逆にしたって感じ」
「それでいいよ。個人差もあるし、自分の好きなように握ればいいんじゃないかな」
「なにそれ、投げっぱなし」私は笑う。
「そうだよ、実は僕は冷たい人間なのさ」バレバレの嘘を吐く宮川くん。
「で、こういう風に押して書く。ポイントは手首の付け根をきちんと固定すること、こまめに手を移動させること、字の配置とイメージを上手くつかむこと」
 宮川くんは続けた。
「手の置き方はペンが上向きの順手、ペンを巻き込むような逆手の二つがあるけど、僕は順手だね。日高さんも、右手で書き慣れている順手の方が良いんじゃないかな。ノートは自由に置いていいけど、おすすめは右を下げるように置く。この方が腕の動きに合っているから、長い文を書きやすいんだ。ほら、左手の円弧を描くような動きにぴったりでしょ? まあ、結局は個人のやりやすいようにするのが一番なんだけどね」
 私は宮川くんの言うようにノートを傾けてみた。なるほど、確かに力の入れ方がスムーズになり書きやすくなった気がする。
「最初は国語のように、縦書きで一文字ずつ練習していく。一文字一文字が十分に書けるようになったら、次は横書きだね。アルファベットは最後。それと、最初から右手と同じように書こうなんて思っちゃいけない。苛々して投げ出すのがオチだからね」
 嘘つきの優等生は、時には自分で書き、時には私の手をとり、あくまで優しく教えてくれた。
「ああそうそう、一日一回くらい、五十音を書き続けると良いよ。平仮名は曲線が多いから難しいけど、その分練習になるし、左手で書く習慣も身につく」
 三十分くらい経つ頃には、私は自分の名前くらいはスムーズに書けるようになっていた。
 私は正直驚いていた。無理なことはせず、かといって単にだらだらと書き殴っていた私のやり方とは違う。宮川くんの教え方は、右利きの私でも非常に理解しやすく、かつ実践しやすかった。まるで右利きの人の気持ちまで良く分かっているようだ。
「教え方が上手いね、宮川くん。書道の先生みたい」
「そうかな。人に教えるなんて初めてだったから、うまくできるか不安だったけど」
「宮川くんって、結構話し上手だよね。説明も上手いしさ。あんまり話したことなかったし、大人しいイメージだったから、無口な人なのかと思ってた」
「そう? あの二人と一緒にいるから、そう見えるだけかもしれないな。僕は普通に過ごしてるつもりなんだけど、あいつら、騒々しいからね」
 彼はさも可笑しそうに言った。あの二人というのはきっと村上くんと恭子のことだ。
 宮川くんは背丈も顔もあまり特徴的ではないけれど、なんだかその横顔を見ていると落ち着いた。目元が何というか、優しい。強くてスマート、若いながらも紳士。
 だから今、彼の心が痛くても、きっと周りは気付くことなく時間は過ぎ去っていく。彼の涙は、笑顔の裏に逃げ込んでしまう。彼は何も言わないし、きっと誰も何も言えない。 
 宮川くんが恭子を好きらしいというのは、クラスでは周知の事実だった。知らないのは鈍い恭子本人と、宮川くんの親友であり恭子の彼氏である村上くんくらいのものだろう。当事者は得てして事実に気付かない。皮肉なものだ。
「どう、家でもできそう?」
「分からないけど、やるしかないでしょ。いつまでも宮川くんに頼る訳にもいかないし、ここで左手が使えるようになっておけば便利だし」
 宮川くんがふふっと笑う。訳が分からず私が不思議そうに見ると、彼はごめん、何でもないんだと言った。
「そうだ、最後に宿題を出しておこうか」
「さっきの五十音ってやつ?」
「いやいや、それは自主練習。ちょっとしたクイズだよ」
「数学の三大問題とは何かとか、そういうのは勘弁してよ。私、バカだからさ」
「大丈夫。そういうのじゃないから。日高さんでも分かる」 
 意外と皮肉屋な宮川くんは笑った。フォローも何も無しかい、このやろ。
「僕と日高さんには、共通点が二つあります。それは何でしょうか」
「共通点? 二つ?」宮川くんと私に?
「この高校で同級生だとかじゃないよね。例えば美紀とも共通すること?」
「そう、一つは鳥飼さんや蒔田さん、村上とも共通すること。もう一つは、僕が知っている限りは僕と日高さんだけかな」
「私と宮川くんだけ? ヒントはないの?」
「そうだね、僕らはみんなBilateria(ビラテリア)だってことかな」 
 宮川くんは少し考えてそう言ったが、頭の出来が良くない私には意味がさっぱり分からなかった。ビラテリアって何だろう?
「ううん、降参。答えを教えてよ。気になる」
「はは、まあそのうちね。その答えが、月並みだけど僕が一番言いたい事なんだよ」
 結局、彼の口からは何も聞けなかった。ただ、私を煙に巻こうとしているのでないことだけは分かった。鏡の中の住人は、あくまで真摯だったから。

 帰り道、私はコンビニで安い大学ノートを一冊購入した。ギプスが外れるまでに使い終えているかは甚(はなは)だ疑問だったけれど、取り敢えず頑張ってみよう。そう思った。

 私に肩をぽんと叩かれ、寝ていた男子生徒はむっくりと起き上がった。
「いつ見ても、村上くんは寝てる気がする。よく眼が溶けないね」
「……なんだ、日高か。どうした?」
 寝ぼけて目を擦っているのは、村上大輔という生徒だ。宮川くんの親友で、恭子の彼氏。私より三十センチも背が高く、色黒で髪も茶色に脱色しているから、見た目は完全にチンピラである。ただ、人当りの良い好人物であったし、外見からは想像できないほどのハスキーボイスと強面ながら整った顔で、そのギャップに惹かれる女子が多い。成績は私とどっこいどっこいだったけれど、それが親近感を持たせるのだから馬鹿も馬鹿に出来ない。
「ちょっと聞きたいことがあって――私と宮川くんって、似てるかな?」
 唐突な問いに、彼の思考は一瞬停止したようだった。
「宮川と日高が?」
「うん。似てるというか、私と宮川くんに共通すること」
「話が見えないな」
 私は彼に、昨日の難題解決の協力を要請することにした。期待薄だけど、とりあえず昨日の経緯を話してみる。
「へえ、お前らに共通点。ビラテリアねえ。ふん、なるほど」
「何か分かった?」
「いや。全然」
 お約束だった。
「ここの生徒だとか、同じ年だとか、そういう話じゃないんだろう」
「当り前でしょう。まあいいや、どうせ村上くんには何の期待もしてなかったし。そうだよね、私とどっこいどっこいの村上くんに解けるはずがないよね」
 私は彼の助力をあきらめ、自分で考えることにした。
「何それ、ひっでえ。日高って意外ときついのな。蒔田みたい、勘弁してくれよ」
 村上くんは私を自分の彼女に喩えて苦笑していた。
「そう言えば、恭子も村上くんのこと、しょっちゅう馬鹿馬鹿言ってるね。愛情表現?」
「馬鹿言え、ありゃ性格だ。あれはヒトを苛めるのが好きなのさ」
「さすが彼氏、ストレス処理係をすすんで引き受けていらっしゃるのね」
「冗談じゃねえよ、あの関西弁と四六時中一緒にいたら、それこそストレスで抜け毛が増えちまわあ」まんざらでもない様子で、村上くんはほくそ笑んだ。
 ――幸せなのだ。とても。私は意地悪をしたくなった。
「そんで、宮川くんはカヤの外」
「おいおい、人聞き悪いなあ」
 私の吐いた毒に、村上くんは本気で困惑した様子だった。
「別に放って置いてる訳じゃねえぞ。三人で一緒に遊ぶことだってあるし、俺ら三人の仲は変わってねえ。俺と蒔田が付き合ってたって、それとこれとは別だろ。宮川は宮川でそれなりにモテるし、そろそろ彼女でも作るんじゃねえか」
「彼女ねえ」
「ここだけの話、あいつ、好きな子もいるみたいだしよ」
「知ってるの? 宮川くんが誰を好きか」
 私は少し驚いた。よりによって村上くんからそれを聞くとは思わなかったからだ。
「いや、知らないけどよ。宮川にもそんな奴の一人や二人いるだろ。あんまりそういう話はしないけど、なんとなくそういう感じ、あるぜ」
 私は妙に納得してしまう。彼は決して鈍感なのではない。ただ、その『可能性』を知らないどこかに置き忘れてしまっているだけだ。
 自分の親友が、好きな子の恋人だというのはどんな気持ちなのだろう。そして、それを悟られずに、いつもと変わらない日常を演じる。何故か、不思議なくらいに胸を締め付けられる思いがした。村上くんがそれを知ったら、彼はどう思うのだろう。三人の関係が壊れるのが嫌で、何も言わないの? 
 やっぱり嘘つきなんだね、宮川くん。

 それは傍から見たら、誰も気に留めないような光景だった。私だって、右手の骨を折っていなかったら、全く気付きもしなかっただろう。別段気付いたとて何も変わりはない、本当にどうでもいいことだった。ただ、その時の私の眼にはとても奇妙に映った。とある授業中、中年の教師がありがたくもない課題プリントを配り終わった時の事だ。A3サイズの大きな紙が数枚。ギプスを重石に左手で我ながら器用に折り、ホッチキスを借りようと美紀の方を見て、それに気付いた。
「美紀、左利きだったっけ?」
 親友は、左手にホッチキスを握っていた。
「ああ、これ? そういや、ホッチキスはずっと左手で使ってたかも」
 美紀は今気付いたとでも言いたげだった。私は何をするにも右手を使っている。それが当たり前だったから、周りもそうだと思っていたし、注視するようなこともなかった。美紀の仕草を見た瞬間、私の中で表層意識にも上らない、常識だったはずの何かが大きく揺らいでいた。私はカルチャーショックにも似た思いだった。四十五分の英語の授業が、二時間三十分くらいにも感じられた。
「宮川くん!」
「ああ、日高さん。どうしたの」
「利き手って、何なの?」
 授業の終わりばなに突撃された宮川くんは、私の唐突な質問にきょとんとしていた。「空は何故青いのか」「海の水はなぜしょっぱいのか」と同じレベルの不思議にぶつかった幼児のごとき私は、宮川くんの答えを待つ間もなく矢継ぎ早に質問していた。気付けば私は、苦笑した宮川くんになだめられていた。
「ええと、日高さんの疑問が漠然としてたからよく分からないけど、つまり利き手の定義、何をする手が利き手なのかをまずはっきりさせておきたい訳だね?」
 私が頷くと、宮川くんはそういう定義は無いよと言った。
「日高さん自身だって、何となく分かってるだろう? 左利きと呼ばれる人間が必ずすべての動作を左手でする訳じゃないし、逆に鳥飼さんのように、右利きでも左手で何かをする人もいる。動作から区別しようとしても、利き手なんてとても曖昧なものなんだ。特に左利きの人の中には、右手で字を書いたりご飯を食べたりする人が沢山いるからね。だけど、それをみんな右利きだとは言わない。極論を言えば、食事や書字ほか全ての動作を右手でする人がいたとしても、本人が左利きだと感じればその人は左利きなんだ」
「何で左利きだって分かるの? 物事を全部右手で済ませるなら、その人は右利きじゃないの?」
「左利きだよ。本人がそう感じるならね。当たり前だけど、結局のところ、利き手の定義はそれしかないのかもしれない」
「そうなのかな」
 宮川くんはあくまで優しく言ってくれるけれど、私には分からなかった。今まで考えもしなかった、例えるなら『空気とは何か?』のような、簡単そうで全く分からない疑問。
 いや、本当のところ、きっと私は分かっていたのだ。この一週間とちょっとで、私はそれを身をもって学んでいたのだから。
「じゃあ聞くけど、日高さんは右手を骨折していて、全ての行為を左手で行っているよね。もしギプスがなければ、何も知らない人が見たら、当然左利きだと思うだろう。けど日高さん、キミは今、自分を左利きだと思うかい?」
「思わない」
「そうだろうね。でもどうして? 動作は全て左手でやっているんだよ」
「……仕方なく使ってるから。右利きなのに、左手を」
「仕方がないのはどうして? そもそも、どうして右利きだって分かるの?」
「それは」
 一週間前には感じなかった、右手と左手の明らかな相違。宮川くんの言いたいことが、何となく、何となくだけれど、分かったような気がする。
「――違うから」
 宮川くんは微笑む。左手に感じている圧倒的な違和感は拭いようもないものだった。
「右手と左手じゃ、何かが違うから。うまく言えないけど、同じように動かしているのに、左手じゃうまくいかないから。練習しても変わらないような気がするから」
「そういうこと。使いやすい方が利き手、ただそれだけなんだ。そしてそれは、本人にしか分からないとても曖昧な、それでいて明瞭な感覚なんだよ」
 誰もが毎日使いながら、深層意識にも上らせない感覚の相違。床に落ちた消しゴムを拾う時、無意識のうちに伸ばしたのはギプスを嵌めたはずの右手だった。何をするにも、まず右手が動かされるのだ。
「それじゃ、突然だけどじゃんけんをしよう。いくよ。じゃんけん、」
 宮川くんが唐突に言ったので、私は慌てた。ポンの掛け声で私が出したのは左手のパーだったが、宮川くんは私の小さな動きを見逃さなかった。私も彼の意図に気付く。
「今、とっさに右手を動かしただろう。右手にはギプスがあるからじゃんけんなんてできないはずなのにね。これ、一番簡単に利き手を見るテストなんだ」
「やっぱり、右利きでいいんだ」
「テスト的にはね。まあ、そもそも日高さん自身がとっくに分かっているだろうけど。利き手を調べるテストには、他にもエディンバラテストなんてものがある」
 宮川くんが言った。名前からすると外国のテストのようだけど、つまり、外国にも利き手を真剣に研究している人間がいるらしい。私は感心を通り越して呆れた。
「変なことに詳しいんだね。それじゃあ聞くけど、どうして人間には右利きが多いの?」
「それについては、はっきりしたことは分かってないのが現状かな」
「特に理由はないってこと?」
「合理的な理由が説明できないってこと。右利きと左利きがはっきりと分かれているのは動物の中でも人間だけなんだけど、これがどうしてかすら分かっていない。『戦いで心臓を守るため左手に盾を持ち右手に剣を持つようになったから』なんて説があるけど、眉唾モノだね。古代エジプトの壁画を見るとその頃から右利きが大多数だったみたいだし。文字の多くが右手で書きやすいように作られていることから、少なくとも文字が発明される以前がら右利きが多かったことが分かる」
 宮川くんはさらに続けた。
「人の利き手は三歳から四歳くらいで完成すると言われているけど、国や時代を問わず、その時点で右利きが大多数なんだ。ついでに言うと、左利きが生まれる理由も分かっていない。一時期もてはやされた左利き遺伝子説はヒトゲノム計画の終了で否定されてしまったし、『種は多様性を好む』ってことで左利きが生まれるわけでもないらしい。親が左利きの場合は環境によって子供が左利きになる可能性はあるけどね。要するに、利き手については理論的には何も分かっていないも同然なんだ。どうして右手と左手で使いやすさが違うのかもね。感覚が優先的に鍛えられるとしか言いようがないよ」
 頭が痛くなりそうだ。
「それでも研究者によっては、大脳の言語中枢の側性が――」
 宮川くんの説明はエスカレートしていったが、私はただただ聞いていることしかできなかった。宮川くんはいつもこんな事を考えているのだろうか。やっぱり宮川くんは変わっているなと私は思った。

「蒔田、昨日の宿題やってきてある?」
 私が恭子と昨日の音楽情報番組の話題で盛り上がっていると、村上くんが話しかけてきた。相も変わらず眠たそうで、睨むような目つきが、ただでさえ怖い顔に余計な凄みを利かせている。たぶん本人に全くその気はないのだろうけど。
「村上くん、その表情はやめておいた方がいいよ」
 私が言うと、彼は「何で?」とでも言いそうな表情になった。
「ダイスケ、また何もやってきてへんの?」恭子が呆れたように言った。
 恭子は村上くんをそう呼ぶ。宮川くんも大介(ダイスケ)なのに、彼は「宮川くん」だ。
「昨日はゲームやっててそのまま寝ちまったんだ。不可抗力だろ」
「何でや、馬鹿。しゃあないなあ、見せるだけやで。貸しイチやから憶えといてな」
「サンキュ、蒔田。今度パスタでも奢るわ。ほんじゃな」
 恭子からプリントを受け取って揚々と去っていく村上くんを見送る。恭子の方を見ると、首をすくめて「まいったわ」と呟いていた。
「年中あんな感じや。勉強やる気がないのにも程があるわ。留年だけはさせたないから、勉強は教えてるねんけどなあ」
「でも、恭子と一緒ならちゃんと勉強するんでしょ?」
「そん時だけや。ダイスケはすぐ集中力が途切れてゲームに走りよる。心配しとるこっちの身にもなって欲しいわ、あの馬鹿」
 村上くんらしいやと私は思う。心配してるんだと冷やかすように言うと、恭子は、一応彼氏やからなと笑った。なんだかんだ言って、このカップルはこれでうまくやっているのだろう。恭子が少しばかり苦労しそうだけど。
「あれで成績が良いなら笑って許せるんやけどなあ。宮川くんの爪の垢でも煎じて飲ませたろか思うねん。同じダイスケなんやから、頭の出来くらい似てくれても罰はあたらへんわ。もし宮川くんが彼氏やったら、こんな悩みなんてあれへんのやろなあ」
「そうだね」 
 その「宮川くん」は彼氏よりも遙かに軽い響きのように私には聞こえ、恭子が宮川くんを優等生の親友と位置付けているのだと如実に物語っていた。

 私たちの高校の割合近い場所に、赤レンガ造りの洒落た小さな建物がある。通学途中でそばを通ると、バニラビーンズや焼けたリンゴや焦げたカラメルの芳香で大抵の生徒の空腹中枢が否応なしに騒ぎ出すのが常だった。その洋菓子店の名前は銀菓亭という。
 学校帰り、部活が休みの美紀と私は連れ立って買い食いに来ていた。看板商品であるバウムクーヘンは高校でも噂になっており、私たちの今日のお目当てでもあった。
「あ、今日は空いてるね。ラッキー」
「すみません、これとこれを二つずつお願いします」
 注文したバウムクーヘンとオレンジティーを可愛い制服の店員から受け取って席に着くと、私たちはそれらをさっそく口に運んだ。しっとりした食感と程よい甘さが広がり、私も美紀も無言でじたばたしてしまう。
「くうう、沁みる。またこのオレンジの紅茶がよく合うんだ」
「美紀、おやじ臭いよ。でも、いつ食べても本当に美味しいね」
「でしょ?」
 美紀の顔が綻んだ。美味しいものを食べているときの彼女は本当に可愛くて、私も嬉しくなってしまう。すっかりフォークを使うことに慣れた私の左手も心なしか軽い。 
 私たちがバウムクーヘンに舌鼓を打っていると、可愛い雰囲気の店にあまりそぐわない意外な人物がやって来た。彼はショーケースの品物を眺め、店員に何か注文している。
「何やってんの、村上」美紀がもぐもぐと口を動かしながら声を掛ける。
「お、鳥飼に日高」
 彼はこちらに気付き、買い物だよ買い物と言った。
「お前らが今口に詰め込んでる奴」
「バウムクーヘン? また顔に似合わないもの頼んで、まあ」
「うるせえ、俺の趣味じゃねえよ。まあ美味いんだけどな」
「恭子に頼まれたとか? これ、恭子も好きだもんね」
 村上くんが察しが良いなと私を褒めた。
「ということは今日は宅デートってわけね、お熱いことで」
「ふん、羨ましかったらお前らもさっさと彼氏作れ」
 私と美紀は顔を見合わせ、無茶言わないでよねと笑い合った。
「そういや不思議に思ってたんだが、鳥飼はどうして誰とも付き合わないんだ? 何度も告白とかされてるんだろう」
 村上くんの言うとおり、美紀ははっきり言って男子に人気がある。ただ、私も美紀が高校に入ってから誰かと恋仲になったという話は聞いたことがなかった。中学の頃は数人と付き合ったらしいけれど、あまり長続きしなかったようだ。
「私はバスケットボールが恋人だから。もうすぐ大会だし、男なんかにかまけてる暇はないの。それに、今はこうしてアユや恭子と遊んでる方が楽しいし」
「日高は?」
「私も今のところ、好きだって思える人はいないなあ」
「何だよ、二人して枯れてるなあ。それじゃあさ、うちの宮川なんてどうだ?」
 村上くんが彼の名前を出した時、私は少しどきりとしてしまった。
「ミヤならありだなあ。大切にしてくれそうだし」美紀が言う。 
「わ、私も。いい人だよね、彼」
 私もついそう答えてしまっていた。それを聞いて、村上くんは「宮川のやつ、やっぱりもてるんじゃねえか」と笑っていた。

 慣れないペースで走り疲れ、運動場の前で休んでいた私の上から、汗一つかいていない美紀が覗きこんでいた。
「こらアユ、何さぼってんの。始めたばかりじゃない」
 体育教師が休みのため、私と美紀、恭子はダイエットを兼ねてトラックを十周する事にしたのだが、一番の運動音痴である私が真っ先にリタイアしたという訳だ。他のみんなはフットサルなどをやっている。
「疲れた」もう走りたくない、面倒臭い。
「すぐにあきらめるから体力がつかないのよ。見な、恭子なんか真面目に走ってるわよ」
「見てよ、走る時ってギプスが意外と邪魔なの。それに、美紀だって今こうしてさぼってるじゃない」
「私はいいの。どうせ部活で放課後も走ることになるんだから」
「屁理屈。これだから体育会系は」
「あんた、さっきあんなに食べたじゃない。太るわよ」
 ぐ。年頃の女の子にとっての急所を的確に突いてきおって。私は一週間前にうっかり見てしまった体重計の目盛りを思い出し、憂鬱になった。
「アユ、見てみな。男子だってあんなに運動してるのに」
 美紀がグラウンドの方を指して言った。見ると、美紀の視線の先には、クラスの男子が二組に分かれて野球で熱戦を繰り広げていた。ピッチャーをやっているのが村上くん、その手前でファーストを守っているのが宮川くんのようだった。宮川くんが何か叫び、村上くんが頷いてボールを投げた。ここから見ても速いと分かる球に、バッターのスイングは虚しく空を切った。
「なんだ、村上の球、誰も打ててないじゃん」
 美紀の言う通り、手書きのスコアボードには0が並んでいた。
「凄いなあ。さすが村上くん、何でもできるんだ。部活は何もやってないはずだよね」
「あれれ、アユがチェックするべきなのは村上なの?」
 美紀がニヤニヤ笑って私を見た。
「あの一塁手、右手にミットはめてるよ。優しそうでいい感じじゃない? ねえアユ」
「何が言いたいの、美紀」
「ダイスケのやつ大活躍やなあ。ふっふっふ、ちょっとは見直したやろ?」
 私の声が掻き消される。いつの間に戻って来たのだろう、恭子が腰に手を当てて胸を張っていた。
「ああ見えて、ダイスケは元野球部やねんで。あれくらいはお茶の子さいさいや」
「もしかして、宮川くんも?」
「んー、確か柔道部か何かやったと思うねんけど」
「ミヤは元剣道部だよ……あっ!」
 美紀が補足した時だった。澄んだ音がして、ボールがジャストミートされてしまった。
 村上くんがしまったという表情になったが、ライト前に抜けるかと思われた打球は、思いきりジャンプした宮川くんのグローブに吸い込まれた。
 私は確かに見た。
 いつも柔らかな宮川くんの笑顔が、その瞬間消えていたことを。代わりに映ったのはボールを追う真剣そのものの瞳だった。私の喉から声が奪われる。
 ひときわ大きな歓声が上がり、宮川くんと村上くんが笑顔でハイタッチを交わした。
「やっぱり、息が合ってるね。あの二人は」
「ダイスケ、宮川くん、ナイスプレーや!」 
 恭子がはしゃいで言うと、村上くんが私たちに気付いて大きく手を振った。宮川くんも控えめにグローブをひょいと上げ、恭子も親指を立てて返す。どうということのない光景だったが、私は少しだけ胸が痛むのを感じていた。 

 蛍光灯を真横にしたような器具――シャウカステンと言うのだそうだ――に、私の右腕のレントゲン写真が二枚、折れた時のものと今日撮影したものが貼られた。骨折した時に比べれば骨の隙間は埋まってきているし、骨自体も固定によってまっすぐになってきていた。心なしか、前より太くなっている気がする。
「ここに仮骨ができつつありますね。つまり新しい骨が出来ているということで、まあ順調だと言えます。あと三週間ちょっとすればギプスは取ってもいいでしょう」
「本当ですか?」
 思わず私の声が弾む。眼鏡をかけた医者はにっこり笑って頷いた。
「大変でしょう。右腕が使えないというのも。ご飯は食べられていますか?」
「食事は何とか出来ているんですけど、字を書くのが大変ですね。今は左手で字を書いていますが、かなり難しいです。利き腕って大事なんだって、改めて思いました」
「右腕を折られると大抵の方がそうおっしゃいますよ」
「先生。お聞きしたいんですけど、私のような右利きが右手を骨折した場合、左利きに変えることって出来るんですか?」
 私の疑問に、医者は首を振った。
「本質的な、と言う意味では出来ないでしょう。利き手は幼い頃にすでに決まっているもので、ほいほいと変えられるものではないんです。あなたが言っているのは使用手交換というものにあたります」
「使用手交換?」
「リハビリで作業療法士が主に行う訓練ですな。使用手は、文字通りある行為をする時に使う手のことで、利き手とは別のものです。脳梗塞で右手が麻痺したり骨折して使えなくなった方が左手でご飯を食べたり字を書いたりする練習がありますが、それに近いでしょう。代用的な動作は十分に可能になりますが、どう訓練しても元々の利き手と同じレベルの巧緻性、細かい動きや感覚を獲得することは難しいようです。あなたのように左手を訓練する人は大勢いますが、それは応急処置のような一時的なもので、ギプスが外れれば右手がメインの生活に戻ることがほとんどですね」
 医者はただ、と付け加えた。
「それも努力次第でしょうな。人間の可塑性や順応性は侮れませんから。少なくとも私自身は、努力次第で利き手交換も可能だと思っていますよ」
 
 ここ数日で、私の左手の技術はわずかではあるが確実に向上していた。もちろん右手の器用さには到底及ばないが、今日初めて日本史の板書を全て左手で取り終えたときは、自分自身に感動すら覚えていた。見返したノートは筆圧が強いせいでデコボコになっており、ミミズの這ったような筆跡も酷いものだったが、これで少しは宮川くんに近づけたかなと嬉しくなる。
 終業後、私はノートを持って宮川くんのところへ駆け寄った。   
 宮川くんは机に突っ伏していた。村上くんもよく寝ているが、親友同士だと行動も趣味も似てくるのだろうか。彼の名を呼んだけれど、起きる気配はなかった。私は少し意地悪をしてみたくなり、彼の耳元で「宮川くん」と囁いた。宮川くんの体がびくりと動き、寝惚け眼が私の方を向いた。 
「まき――いや、日高さんか」
 私の中で何かが大きな音を立てる。 
「どうしたの?」
 私はノートを見せた。宮川くんが目を丸くし、すぐに破顔する。 
「凄いじゃないか。頑張ったね、日高さん」
 宮川くんが私を褒めたけれど、いちおう私も笑顔で返したけれど、嬉しいという気持ちはどこかへ消え失せてしまっていた。

 私は左手をぎゅっと握りしめた。彼と同じ左利きになれる気がしたから。
 私は恭子じゃないよ、宮川くん。 

「宮川くん、一緒にご飯食べよう」
 昼休み、宮川くんを私の机に誘うのがこのところの日課になっていた。宮川くんも二つ返事で弁当を持ってこっちに来てくれる。今日のメニューは炊き込みご飯と夏野菜の炒め物だった。いつものように食べていると、宮川くんが感心したように声を上げた。 
「日高さん、箸の使い方が上手になったね。まだ少しぎこちないけど、ぱっと見たかぎりでは不自然さがなくなってる」
「本当?」
 宮川くんに褒められ、私は嬉しくなった。
「うん。最初はスプーンもままならなかったのにね」
「頑張ってるものね。ギプスが取れてないから強制なんだけどさ」
 美紀が笑った。
「頑張ってればミヤがちゃんと見てくれるし。ね、アユ」
「ん?」不思議そうな顔の宮川くん。
 私は机の下で、美紀の足を思い切り蹴飛ばしてやった。
 
「帰りに銀菓亭に寄って行かない?」
 私が誘うと、美紀はごめんと言った。大会が近く、バスケ部が抜けられないのだそうだ。その日は仕方なく、私一人で銀菓亭に行くことにした。誰かと一緒じゃないとつまらないなと思いつつ、あの美味しいバウムクーヘンの誘惑には勝てなかったのだ。太るよ、という心の中の美紀の声はあえて黙殺した。
 自動ドアをくぐると、先客がいた。後ろ姿でそれが誰だかはすぐに分かった。最近よく目につく人物だ。
「宮川くん」
 声をかけると、変わりものの紳士は私に気付いた。黒い学生服がおしゃれな洋菓子店に似合っていなくて、ちょっとだけ可笑しかった。
「偶然だね。日高さんもよくここに来るの?」
「ここのバウムクーヘンが最近のお気に入りなの」
「じゃあ同じだ。僕も今日はそれを買いに来たんだよ」
「一人で?」
 私は哀れむような眼で、もちろんわざとだけれど、悲しそうに呟いた。放っておいてくれと宮川くんは笑った。
「日高さんだって、一人じゃないか」
「私は美紀にふられたの。良かったらうちで一緒に食べようよ。近いんだ、ここから」
 言ってから、私は自分がとんでもないことを口にしていることに気付いた。慌てて、もちろん宮川くんが良ければだけど、と言い訳がましく付け加える。
「それじゃあ、お邪魔しようかな。ホールでいいよね?」
 宮川くんは特に意識した様子もなく、店員にバウムクーヘンを注文していた。

 きれいな部屋だね、と宮川くんが言った。彼を部屋に案内するのは緊張したけれど、不思議と抵抗はなかった。男の子と家で過ごすなんて小学校以来だ。幸か不幸か、今日に限って両親は所用で出かけていた。昨日掃除をしておいて心底良かったと思う。
 私の部屋に宮川くんがいる。そんな非日常が、私の胸をきゅうっと締め付けた。
「はい、どうぞ」
「ありがとう」
 台所で切り分けてきたバウムクーヘンとキンキンに冷えたウーロン茶を、宮川くんに手伝ってもらって小さなテーブルに置き、私たちは向かい合って座った。
「うん、やっぱり美味しい」
 バウムクーヘンを口にすると、開口一番に宮川くんはそう言った。彼の笑顔にほっとし、私も続いた。気のせいか、この前美紀と食べたものよりも美味しかった。夢中でほおばっていると、そんな私の様子を見て、宮川くんがくすくすと笑っていた。私は急に恥ずかしくなり、何、と口を尖らせる。
「私の食べ方、そんなにおかしい?」
「ごめんごめん。違うんだ」
 これでも緊張してるんだよと宮川くんが笑った。
「女の子の部屋に来るのって久しぶりだからさ」
「私も。それが宮川くんだとは思いもしなかったなあ。つい一か月前までは、こんなに話すことなんてなかったのにね」
 きっかけは私の骨折だ。彼の手元を見ると、やっぱり左手でフォークを握っていた。
「不思議に思ったんだけど、宮川くんはどうしてそんなに利き手に詳しいの? 左利きの人だって、普通はそんなにこだわらないでしょ?」
 僕は利き手研究者だからね、と宮川くんは言った。
「初対面の人でも、まずそこを見てしまう。腕時計はどちら側にしてるとか、ちょっとした仕草とかさ。それで、その人がどっち利きなのかを推理するのが面白いんだ」
「呆れた……ほんと、変わり者ね」私はたぶん本気でそう言った。
「じゃ、私たちのクラスも全員分析済み?」
もちろん、と宮川くんは言った。
「で、どうだったの?」
「左利きは竹内さんだけだったね。彼女とは話す機会が多いんだけど、けっこう不満があるみたいだよ」
 竹内さんはおおらかで気立ての良い子である。その体重をもってして私の右手を折った張本人だが、あの事故の後は心から謝ってくれた。彼女は本当に責任を感じていたみたいで、私が美紀にノートを頼む前に、自らノートを取ることを申し出てくれたのだ。かえって申し訳なくて断ったのだけど、そんな彼女が不満を口にする光景が想像できなかった。
「それって、何に対しての不満?」
「右利き社会に対してさ」
「右利き社会?」
「そう。世の中のものは、大抵が大多数を占める右利き向けに作られてる。例えばハサミなんかそうだ」
 確かに、普通のはさみを左手で使うと上手く切れない。宮川くんに理由を聞くと、右手で持って力を入れた時に刃の間隔が狭まるように組み合わせられているのだと言った。
「他にも、改札や自動販売機のコイン入れ、急須、腕時計、ワイシャツ、トランプ……ぱっと思いつくだけでもこれだけある。君がさっき使った包丁だって刃が右向きについているし、僕らが毎日書く文字だってそうだよ。これらは、竹内さんのような左利きの人間には本来使いにくいものが多いんだ。すっかり慣れてしまう人もいるけどね」
「それって、どうにもならないの?」
「最近は昔のように右に矯正されることも少なくなってきたし、左利きの存在も認められてきているから、左利き用や右でも左でも使えるユニバーサルデザインの商品が増えてきた。昔よりはずいぶん暮らしやすくなってはいるみたいだよ。でも、そういう商品を取り扱う店はやっぱり珍しいし、その分値段も高かったりするんだ。文字なんかは慣れるしかないし……やっぱり肩身は狭いよね」
 宮川くんの笑顔に蔭りがさす。
「この現代でも、左利きは悪癖だって言う人がいるし、子供の左利きを矯正する親がいるのは事実だし、僕だってじいちゃんやばあちゃんに」
「でも!」私は宮川くんの話を遮って思わず言っていた。宮川くんの寂しそうな表情が我慢できなかったのだ。
「左利きはかっこいいじゃん! 少なくとも私は宮川くんを見ててそう思うよ。私は右手が使えなくなって初めて左手の大切さに気付いたし、そのおかげで宮川くんと仲良くなれた。右手の代わりになってくれてる左手には感謝してるよ。なんでそんなに卑屈になるの? いいじゃん、左利き。その左手は誇りなんでしょう?」
 宮川くんは最初驚いたようだったが、やがて静かに微笑んだ。
「ありがとう、日高さん。そうだね。僕もそう思うよ」
 紳士と呼ぶに相応しい、穏やかで優しい笑顔だった。

 気付くと、私は人の手元を見るようになっていた。
 左利き用のハサミを買いに宮川くんと二人で街に行った時、横を通りすがった女の子を見て、私は大発見をしたように言った。
「あの子、きっと左利きだよ。右手に時計してる」
 宮川くんが苦笑する。
「日高さんもすっかり利き手研究者だね。いや、ただの変わり者かな?」
「あなたほど変わってはいないと思うけど」
「違いない」
 私と宮川くんは、お互いにぷっと吹き出した。ギプス姿で街を歩くのはちょっと抵抗があったけど、それも最初だけだった。宮川くんといると、不思議と何も気にならなかった。
「今の子、可愛かったね。じっと見てたでしょ」
 私が悪戯っぽく言うと、宮川くんは恥ずかしそうに頭を掻いた。
「そりゃあ僕も男だからね。きれいな女の子には目も行くさ」
「宮川くん、彼女はいないんだよね。優しいし、もてそうなのに」
 好きな人はいないの、と私は試しに聞いてみた。それは私自身が彼の口から聞いてみたい事だったが、私の声はかすかに震えていた。
「いたけど、ふられたよ」
 意外な答えが返ってきて、私は驚いてしまった。
「告白したんだ。凄いね」
「いや、何もできなかった。戦いを挑む前に玉砕したよ」
「あきらめたの?」
「知ってたんだ。僕が好きな子には好きなやつがいて、そいつもきっとその子が好きなんだってこと。知ってたのに、僕は彼女が好きだった」
 淡々とことばを紡いでいく彼。
「けれど、二人の間に僕が入る隙間はなくなっていた。いつの間にかね。雰囲気で分かっちゃう時ってきっとあると思う。彼女の中では僕はあくまで親友どまりなんだ。気が付いた時には、そいつと彼女は付き合ってた」
 みんな気付いていると思うけどと前置きして、彼は言った。
「僕は、蒔田さんが好きだった」
「知ってる」私が言うと、宮川くんはやっぱりねと言った。その悟りきった笑顔が何だか哀しくて腹立たしくて、私はついでに「嘘つき」と言ってやった。
「好きだった、じゃないくせに」
 宮川くんは立ち止って黙ってしまった。彼を困らせるつもりはなかったけれど、私の胸は小さな痛みを覚える。彼の態度に苛立ちを抱えながらも、どうしようもない無力感に襲われる私がそこにいた。

 鏡の中の私は左利きだ。私が左手に覚えている違和感を、相手は右手に覚えている。
 ガラスと銀の被膜に手を伸ばしても、向こう側の住人には触れることすらできない。
 彼のいる世界には永遠に辿り着けない気がした。

「ノート貸してくれる?」
 一日の授業が終わり、私は宮川くんの元に駆け寄った。宮川くんはちょっと戸惑った様子だったが、やがて笑顔でいいよと言ってくれた。この間から少しだけ気まずかったから、私自身もほっとしていた。
「今日はどうだった?」
「ううん、英語は相変わらずダメ。アルファベットってどうしてあんなにぐにゃぐにゃしてるの? 書きにくいったらありゃしない。漢字ならまだしもね。とてもじゃないけど、授業中に板書し終わるなんて無理だったよ」
 宮川くんからノートを受け取り、愚痴をこぼしながらパラパラめくる。少し癖があるが、それでも奇麗な筆記体が並んでいた。最近は宮川くんのノートのコピーを貰うことはせずに、ノートそのものを借りて写すことにしている。授業内容の半分くらいは書けるようになってきていたからだ。
「あ、スペルミス発見」
 私が声を上げると、宮川くんが「どれ?」とノートを覗き込んできた。
「ほらここ。お菓子でsweetでしょ? sweatになってるよ。珍しいね、こんなミス」
「そこは『ケビンは汗をかきながら仕事をした』だから、汗のsweatでいいんだよ」
 私はきっと鬼の首を取ったような顔になっていたことだろう。冷静に解説されてぐうの音も出ない私に、勉強になったかいと宮川くんが笑って言う。
「うるさいこの優等生め恥ずかしいんだから黙ってさらっと受け流せ」
「いたたたた」宮川くんを固いギプスでポカポカ殴っていると、村上くんが楽しそうにこちらを見ているのに気付いた。
「まだ夜には早いってのに何をじゃれあってんだ。お前ら二人、最近仲が良いよな」
「君たちカップルほどじゃないさ。ねえ、蒔田さん」
 宮川くんが村上くんの背後に視線をやって言い返す。村上くんが不思議そうに後ろを振り向くと、彼の背中から恭子がひょっこり顔を出していた。
「何や、バレバレやったなあ。ダイスケは背が高いから見えへんやろ思ったのに」
 村上くんが呆れて「何やってんだ、馬鹿」と言った。
「ええやん別に。ね、宮川くん」
 恭子が無邪気に同意を求めた。宮川くんはそうだねと頷いている。
「可愛い彼女の可愛い悪戯じゃないか。村上は幸せ者なんだぞ、こんな出来た彼女がいて」
 村上くんは「こんな馬鹿におべっか使う必要はないぞ」と宮川くんに言ったけれど、恭子は実に嬉しそうだった。
「うん、やっぱり宮川くんは上手やなあ。こんな女心の機微の分からんダイスケなんて放っておいて、今度どこか遊びに行こか」
「ははは。光栄の極みだけど残念ながら遠慮しておくよ。村上に恨まれたら怖いしさ」
「俺は別に構わないぜ。こんなうるさい関西弁なんか、宮川にとっては邪魔にしかならないだろうけどな」
「またまた、そう言ってすぐ寂しがるくせに――どうしたん、亜由美? さっきから表情が硬い気がするねんけど」
 恭子の気遣いが空々しく聞こえる。それはもちろん私の気のせいなのだけど、針のムシロということばはこの状況のために在ったのかと思うほど、私は居たたまれない気持ちになっていた。出来ることなら宮川くんの手を取ってこの場から逃げ出したかった。
 それでも、嘘つきの宮川くんはいつもと変わらずに彼らの親友で居続けていた。
「そんなことないよ。私も、恭子も村上くんも両想いで羨ましいなあって眺めてたの。私にはそういう人がいないからさ」
「心配せんでも大丈夫や。亜由美は器量良しやし、彼氏の一人や二人すぐできる。私が保証するわ」 
「蒔田印の保証書なんか何の当てにもならんだろ」
村上くんが言うと、恭子は頬を膨らませて抗議した。
「そんなことないわ、これでも私は恋愛にはうるさいほうやねんで。見とき、亜由美には素敵な彼氏さんが出来るはずやわ。いつになるかは分からへんけど」
「ほっといてちょうだい」
「こいつには?」村上くんが宮川くんを示すと、恭子は言った。
「宮川くんは優しいやんか、絶対すぐにいい人が見つかる思うねん。今までおらんのが不思議なくらいや。もし、もしやで、ダイスケと会わへんかったら、私、宮川くんと付き合うてたかもしれへんわ――」

「宮川くんは、いつまでそうしてるつもりなの?」
 恭子と村上くんが日曜日の予定について話をしながら去っていくのを見届けて、私は宮川くんにそう言った。
「恭子が好きなんでしょう。このまま何も言わないで過ごすの?」
「その事か。もう好きじゃないよ、そりゃあ親友としては今でも好きだけどさ」
 やっぱり嘘つきだね、と私は言った。
「さっきの一言、ずしんときてるくせに」
 日高さんは利き手じゃなく恋愛研究家の方が向いているのかもしれないね、と宮川くんは言った。「それで、僕にどうして欲しいの?」
「楽になってもらいたいの。見てるこっちが辛いから。あきらめられるならあきらめる、忘れられるならきっぱり忘れる。でも、宮川くんはそんなに器用じゃないでしょ? それならいっそのこと今からでも」
 告白しなさいってことかい、と宮川くんが私のことばを遮って言った。
「今さら何て言えばいい? 好きだって? 冗談じゃないよ、日高さん。蒔田さんには彼氏がいるんだ。それも、僕の親友である村上がね。わざわざ告白したところで結果は見えているし、今の村上との関係だって壊れてしまうだろう。このまま黙っていれば済む話なんだ。何も言わずにいるのが一番良いんだ」
「今でも好きなのに? 二人の傍観者でいることがあれほど辛そうなのに?」
「そのうち気持ちは醒める。どうでも良くなる。そうなるのを待てばいいだけだよ」
「そうなってなんかいないじゃない」 
 とうとう私は我慢ならなくなった。静かな教室にエゴイスティックな棘が散らばる。
「宮川くん、見てられないくらいにウジウジしてる。まるで無いものねだりの子供だよ。二人のために何も言わないのが大人だって思ってる? 悟った風に見えても、それは単に勇気がないってことでしょう」
「好きな子に彼氏がいたら、誰だってこうするさ。それに、僕がどうしようが、日高さんには関係無い話じゃないか」
 関係あるよ、と私は言った。
「そんな卑屈な宮川くんを認めかけた私が嫌なの」
 宮川くんは飲み込めていない顔になったけれど、私は構わずに続けた。
「自分がめちゃくちゃな事を言ってるのは分かってる。でも、宮川くんと村上くん、宮川くんと恭子はそんな安っぽい仲なの? 打ち明けたら関係が壊れるって言うけど、宮川くんは親友二人に嘘をつき続けてるんだよ。はっきり言って、あの二人は仲が良いわ。別れるなんて想像もつかない。結果が分かってるなら、どうせあきらめるなら、なおさら真正面からぶつかってもいいじゃない」
 勝手な事を言わないでくれないか、と宮川くんは言った。
「日高さんには、僕の気持ちは分からないよ。叶わない片想いの苦しさは」
「分かるよ」私は思わずそう言っていた。
「私も多分、同じだから」 

 以来、宮川くんと私はあまり話さなくなった。ある意味で一ヵ月前よりも遠い関係。私の日常から覗ける鏡はぼやけていたし、思考が別の世界に飛ぶこともなかった。ギプスに包まれた右手のように、少しだけ我慢できるくらいの息苦しさを覚える私がいた。どこまで耐えられるか自信はなかったし、実際すでに呼吸困難に陥っていたわけだけど。

「……忘れてた」
 大事なイベントを嫌でも思い出したのはちょうどその頃だった。
太陽が本格的に肌を焼き始め、ようやく一学期も終わりかと思った矢先、教室に貼り出された一枚の紙を見て私は思わず天を見上げた。注意していれば、周囲のざわつきももっと早くから感じ取れていただろうにと過去の自分を恨む。貼り出されていたのは夏休み直前の期末考査、期末テストの時間割だった。残り一週間と少し。
「亜由美、どうするん? その左手で受けて大丈夫なん?」
「難しいかもだけど、さすがに代筆って訳にもいかないでしょ。私は右手を骨折しているので早く書くことができませんって、先生に直談判してきたら?」
 恭子と美紀が心配して言ってくれた。そう、左手でテストに回答するというのは、私、いや右利きの人間にとってウルトラEクラスの技術なのだ。
授業の板書は私は集中して字を書いていれば良かった。時間制限があるとはいっても書き損なっても宮川くんのノートがあったし、小テスト以外は成績に直結するするということもなかったからだ。ただし、テストは違う。震える手で慎重に書いていたら到底時間が足りないし、プレッシャーでテストに集中することも難しいだろう。授業で小テストがあった時点で期末考査に思い至らなかった私の脳味噌を今さら恨んでも後の祭りだった。

「テスト、何とかなりませんか?」
 私は右手を担任に見せて言った。職員室に泣きそうな声が響く。
「この手じゃ書くのは無理です。あと二週間ほどでギプスも外れるので、それまで待っていただけませんか」
 白髪混じりの担任は、腕組みをしながら眉間に皺を寄せた。哀願の手ごたえはない。
「再試験にしろということか? そうは言ってもなあ……テストはみんな平等な条件で受けるものだし、お前を疑うわけじゃないが、カンニング防止のためにも日高だけ特別扱いするわけにはいかん。それにお前、左手で書けてるじゃないか。何とかなるだろ」
「なりませんよ! 先生、左で書くのがどれだけ大変だか分かってるんですか?」
「知るか。骨折したのはお前だろ。管理能力がない奴が悪い」
 無慈悲にも担任はそう言い放ち、更に私の感情を逆撫でするような台詞を吐いた。
「大体、お前がテストをちゃんと受けられたって成績はたかが知れてるだろう。書くのが右手だろうと左手だろうと、どうせ下から数えた方が早い結果になるのは目に見えてるんだ。これ以上他人の手を煩わせるんじゃない。分かったな」

「何それ、腹立つ!」「絶対おかしいわ。生徒の気持ちを全然分かってへん」
 私の感情を代弁して美紀が憤っている。恭子も珍しく眼が三角だ。
「もう一度私ら三人で抗議に行こうよ。アユがちゃんとテストを受けられるように、日程をずらしてもらうか再試験にしてもらうかしないとね」
 美紀が提案し、恭子が賛成してくれた。二人は私のために動いてくれている。助けようとしてくれている。私が友情の素晴らしさに改めて感動していると、やめなよ、と声がした。振り向くと宮川くんが立っていた。あの日以来何となく避けていたのに、こんな形で話しかけられるとは思ってもいなかった。
 宮川くんは真面目な顔で言った。
「それって、先生の言うとおり日高さんを特別扱いすることになるじゃないか。病気でテストが受けられない訳でもないし、怪我といっても字が書けない訳じゃないだろう」
 冗談を言っている様子はない。私は溜め息をついた。
「あのね宮川くん、授業で板書をするのとはわけが違うの。どれだけ努力しても、この手でテストを受けるのは無理だよ。書くスピード、どれくらい遅いかは宮川くんも分かってるでしょう。ギプスが外れれば利き手で書けるんだから、」
「それまで待ってくれと頼むのかい」
 それは甘えだよと宮川くんは言った。
「日高さんが言っているのは単なる我儘さ」
「ミヤ! 言い過ぎよ」美紀がたしなめる。
「そうや、この場合はしょうがあらへん。これでも亜由美は十分頑張ってるねんで。宮川くんがこんな分からず屋なことを言うんはちょっと心外やったわ」
 恭子は怒っているようだったが、宮川くんは意にも介さない様子で、そうかなと言った。
「もしこれが人生に一回きりのテストでも、日高さんはそう言える? 本当に最後まで努力したって言いきれるかい? そうじゃない、あと一週間あるだろう。今の日高さんは左手で字が書けるんだ、それだけでも恵まれてると感じる人が世の中には大勢いる。先生に然るべき対処を直訴する前に、やるだけの事をやってみる方が先決じゃないかな」
 二人の前で、私と宮川くんの視線が真っ向からぶつかり合った。その瞬間、ふっと彼の眼が和らいだような気がした。
「日高さんならできる。いや、これまで頑張ってきた日高さんだからこそ、やらなくちゃならないんだ」
「どうしたん? 宮川くんらしくないで」
 前に出る恭子を制し、私は宮川くんに言った。
「励まされたって、できないものはできないわ。左利きじゃない私がどれだけ練習しても、あの違和感は拭えない。あなたとは違う。解答をさらさら書くなんて到底無理なの」
「それでも、やってやれないことはない」 
「私のしてきた苦労は、宮川くんなんかには分からないよ!」
 やっぱり先生にもう一度言ってくる、そう言って駆け出そうとした私の腕が、突然宮川くんの手に捕まった。思いのほか強い力を左手首に感じる。
 美紀と恭子が少し驚くのが分かった。当然だ。私もちょっと驚いた。
「今日の放課後、空いてる?」
 宮川くんが私に聞く。気圧されて私が頷くと、私の聞き間違いでなければ彼は次にこう言ったのだ。デートでもしようよ、と。

 宮川くんが私を誘ったのは、学校近くのバッティングセンターだった。元野球部の村上くんが宮川くんを連れてよく来るんだと言っていた場所だ。運動音痴の私にはこんな事でもない限り縁遠い場所でもある。
「こっちだよ」
 宮川くんが手招きをした。そこはバッティングコーナーではなくて、ボールを投げるコーナーだった。テレビでよく見るストラックアウトとかいうやつだ。
 宮川くんは学生服を脱いで身軽になると、機械から飛び出て来たボールを掴んだ。そのまま、ピッチングフォームに入る。
 彼が左手で投げた球は見事に向こうの的に当たった。速い、と直感的に分かるボールだった。この間の村上くんの投げるボールとどっちが速いだろうと思っていると、近くのスピードガンが球速を表示しているのに気付いた。
「百十七キロ……」
「自慢じゃないけど、野球の素人としてはかなり速い方だと思うよ。これでもみっちり練習したからね」
 そのまま数球投げる宮川くん。きれいなフォームから投擲されるそれは、次々とストライクに決まっていった。しばし見惚れていると、どうだいと宮川くんが聞いてきたので、私は正直に凄いねと言った。
「コントロールも良いし、さすがサウスポーだね」
 でもそれがどうかしたの? 上手いのは当り前じゃない。私は内心そうぼやいた。
「それじゃあ、面白いものを見せてあげるよ」
 宮川くんはにやりと笑うと、ボールをひょいと持ち換えた。
「――右?」
 そのまま彼が右手で投げたボールが見事にストライクに決まったのを見て、私は呆気に取られてしまった。百二キロという数字も驚いたけれど、右利きの私が見ても違和感がないくらいにフォームがきれいだったのだ。
 ケージから出てきた宮川くんに、私は思わず聞いていた。
「もしかして、宮川くんは右利きに挑戦中?」
 逆だよと宮川くんは言った。私が意味を飲み込めないでいると、彼は微笑んだ。
「日高さんと同じさ。左利きに挑戦中、つまり僕はもともと右利きなんだ」
 宮川くんはペンも箸もボール投げも左で行う。今まで左利きだと信じて疑わなかった彼がそう告白したのだ。私が呆気に取られたのも無理からぬことだったと思って欲しい。
「何言ってるの? 宮川くんは」
「自分で左利きだと言った覚えはないよ。大体、日高さんの部屋でも言ったじゃないか、左利きは竹内さん『だけ』だったってさ」
 右利き? 私と同じ? 左利きに挑戦中? 様々な混乱と疑問が湧き上がり、私が口にできたのは「どうして」という一言だけだった。
 宮川くんは自動販売機で缶コーヒーを二本買うと、私に一本をくれた。そのまま彼に促されてベンチに腰掛けると、彼は自分のを一口飲んでから話し始めた。
「僕の場合は骨折みたいなきっかけはなかったなあ。小学生の頃、仲の良かった友達が左利きだったんだ。友達が器用に左手でご飯を食べたり字を書いたりしてるのを見て、小さかった僕はすごく不思議だったし、自分ができない『特技』を羨ましく思った。どうして僕は友達のように出来ないんだろう、友達と僕は何が違うんだろうって考え出したその時から、僕は利き手に興味を持った。利き手について書かれた本を、小学生なりに苦心しながら沢山読んだ。そのうち自分も左手が使えれば便利なんじゃないかって思い始めてね」
 最初は日高さんよりひどかったよ、と宮川くんは笑って言った。
「そりゃあ苦労した。何でこんな馬鹿なことを始めたんだろうって後悔もした。未だに日高さんの言う違和感も少しだけ残っている。けれど、小学生の一大決心は意外と固いものだったんだね。今では左手で出来ないことはほとんどなくなった。この左腕は僕が育ててきた、誇りそのものなんだよ」
 私が味わった苦労を、彼は望んでやってきたということなのだ。それを誇れるほどに、彼は努力してきた。私と同じだけど、私とは違うのだ。宮川くんは鏡の世界の住人であり、こちら側の人間でもあるのだ。以前に彼が出した宿題を思い出し、私は言った。
「私と宮川くんの共通点って『右利きであること』でしょう?」
「正解。村上たちとも同じだけどね」
 彼は頷いた。
「日高さん。右利きの僕から言わせてもらえば、左手だって出来ないことはないんだ。確かに違和感はあるだろうし、状況は日高さんにとって不利だ。でも決して書けない訳じゃない。そのために日高さんは努力してきたし、力も付けてきた。それがもし不足していたとしても、限られた条件で全力を尽くすことが時には重要じゃないかと僕は思う」
 君はまだまだ努力できる、宮川くんはそう言った。
「あと一週間、必死で頑張ってみようよ」

 正直言って、宮川くんに丸め込まれた感は拭えない。あの温厚な紳士は変わり者で嘘つきだから、私のような馬鹿をペテンにかけるのはきっと朝飯前の事なのだ。
 それが分かっている私が今、机に向かっているのは一体どうしたことだろう。数式とにらめっこをしながら左手を走らせているのはどういった心境の変化だ、日高亜由美? 
 分かってる、できることは自分でやらなくちゃ。右手に期待して甘えてはいけない。
 無理をさせてごめんね、左手。
 頑張って。もう少しだけ。
 人が変わったように勉強をする私を見て、美紀も恭子も不思議そうだった。 

「頑張ってるね」と言う宮川くんに、私は当然でしょうと胸を張った。
「自分でけしかけたくせに、頑張ってるねとは随分な言い草じゃない」
 そうだったっけととぼける宮川くんを本気で煙に巻いてやろうと思い、私は含み笑いをしながら言ってやった。
「同じ世界の住人に励まされたんじゃ、やるしかないでしょ」

 私は文字通り必死に頑張った。左手が腱鞘炎になっては元も子もなかったけれど、とにかくそれくらいに勉強し、英単語も古典漢文も人物名も元素記号も複素数も登場人物の心境もひたすらに書き殴った。その一週間に悔いはない。思い残しもない。
 ただ、その努力が結局は肩すかしを食うことになったのも事実だった。
 
 私が職員室に呼び出され、担任に『お前だけ一週間後に再試験だ、別問題だから他の奴に答えを聞いても無駄だぞ』と言われたのは、テスト開始も二日後に迫った頃だった。
「良いんですか?」
 私はそれを聞いて歓喜した。一週間後には右手を包むギプスも外れている。わざわざ苦労して左手で字を書く必要がなくなったのだ! ガッツポーズでも決めたい気分だったが、すぐに当然の疑問が浮かんだ。
「でも、この間はダメって言ってましたよね。どうしてまた?」
 担任は白髪混じりの髪を書きながら苦笑して言った。
「ある奴から嘆願されたんだよ。職員室に乗り込んできた時はそりゃあ凄い剣幕でよう、さすがの俺も気圧されたね。『あなたは右手を失ったことがあるんですか、無いなら一度ためしてみるといい』なんて生意気な事を言いやがって。名前は伏せるがな、日高、そいつにせいぜい感謝しとけよ」
 なんだ、頑張れだの何だの冷たいことを言っておいて、裏ではちゃっかり助けてくれているんじゃないか、あの嘘つきは。
「どうした日高、顔がにやけてるぞ。テストが延期になったのがそんなに嬉しかったのか」
「いえいえ、何でもないです」
 感謝なら言われなくてもたっぷりしてますよ、先生。

 教室で机に突っ伏し堂々と居眠りをしていた宮川くんの首根っこを掴んで問い詰めると、彼は渋々、先生に延期を頼んだのが自分だと白状した。
「美紀や恭子と話してた時から、先生に抗議をしようと思ってくれてたんでしょう? それならそうと最初から言ってくれれば良かったのに」
「最初からそう言っていたら、日高さんは何もしなかったんじゃないかな」
 図星を付かれて私はことばに詰まった。優等生には何でもお見通しだというわけだ。神妙に反省し、私がお礼を言いかけた時、宮川くんが機先を制して言った。
「これで再試験での言い訳はできなくなったね。赤点だけは取らないように祈ってるよ」
 その皮肉を込めた台詞がシャクにさわった結果、宮川くんへ言うはずだったありがとうは頭頂部へのチョップへと変わっていた。 

 宮川くんの行動を知って仲直りした美紀や恭子が見ていて切なくなるくらい落ち込み、村上くんに至っては絶望の面持ちで「さよなら」と呟いた期末考査も終わったその日、一ヵ月半の長きに渡って私を苦しめたギプスが医者の手によってようやく外された。
 痩せてしまって関節も固くなっていた右手だが、それが痛みもなく動くのをしっかりと感じ取る。左手とは全く違うその感覚が、自分は右利きなのだと私に再認識させた。待ちに待った瞬間のはずだったが、これで左手の修行も終わりだと思うと、私はほんの少しだけ寂しさも感じていた。
 
 私はそっと両手を合わせた。生まれ変わった大切な右手が初めに触れるのは、ずっと前からこれだと決めていた。指が遠慮がちに絡み合う。正面から触れる、私の右手と彼の左手。それはいつかの鏡のようだった。

 私だけの地獄の再試験が終わった日、同時に一学期も終わりを告げた。私と美紀、恭子は休み中も遊ぶ約束をして別れた。とは言っても、携帯でのメールがあるから永遠の別離というわけでもなかったのだけれど。
 終業式の次の日、つまり生徒にとって待ち焦がれた夏休みの第一日目、珍しくワンピースなんかを着た私は冷房の利いたファミリーレストランにいた。三十二度の外は真夏日もいいところである。注文したトマトとホウレンソウの冷製パスタに舌鼓を打っていると、この暑い中に熱々のドリアを食べながら、目の前のシャツの男が口を開いた。
「昨日のテストの出来はどうだったの?」
「何とか赤点は免れたって感じだけど、再試験になって本当に良かったと思うよ。国語の自由回答は右手すら大変だったんだからね」
 嘆息する私に、宮川くんはお疲れ様、とねぎらいのことばをかけてくれた。 私は右利きであるから、右手が使えると分かればあんなに苦労して練習した左手に頼ろうとは思わなかったのだ。人間とは現金なものだとつくづく思う。
「それで、話って何?」
 私は宮川くんに尋ねた。ちょっと前に教えてもらったアドレスから食事の誘いのメールがあったのが今朝のことだ。ドリアを食べ終えた宮川くんは、ブラックのコーヒーを飲んでから言った。
「昨日、終業式が終わった後で、蒔田さんに告白した」
 私は「そう」としか言えなかったけれど、受けた衝撃はそれほど大きなものではなく、むしろやっぱりなという気持ちの方が大きかった。告白をけしかけたのが自分だったということもあったが、宮川くんは遅かれ早かれそうするだろうという気がしていたのだ。第一、宮川くんの眼が少し赤いのはレストランの照明のせいではない。
「村上にも、ちゃんと報告した」
「うん」
「結果が分かりきっていたとはいえ、やっぱり好きな人に振られるってきついね。僕の話を聞いて、村上は馬鹿だなと笑っていたよ。『わざわざそんなことを言いやがって、不器用な親友を持つと苦労するぜ。あの関西弁は絶対やらねえから諦めろ、宮川』。それから『今度またバッティングセンターでも行こうや』って」
 宮川くんは席に寄りかかり、エアコンのある天井を見上げた。
「蒔田さんは本当に幸せ者だと思う。僕も、あいつと親友で良かったと思う」
 村上くんが女の子に人気なのは、強面でカッコいい外見の恩恵ではないのだ。私はそんな彼が惚れ込んだ女の子の顔を思い浮かべた。
「本当に、好きだったんだね」
「うん。大好きだった」
「今でも?」
「正直、分からない。もしかしたらまだ好きなのかも知れないし、でもそれは親友としての好きかも知れない。でも、僕の気持ちは伝えておかなくちゃ後悔するって思ったんだ。それで振られたんだから、悔いはない」
「頑張ったんだね、宮川くん」
 私が言うと、僕なりに全力でと宮川くんは言った。それから彼は私に向き直り、晴れ晴れとした表情で頭を下げた。そこに、気持ちをひたすら隠して親友を演じていた頃の鬱屈とした陰りはなかった。
「蒔田さんに気持ちを全部言えたのは日高さんのおかげだ。発破をかけられた時は正直腹も立ったけれど、彼女に振られて気持ちがすっきりしたよ。ありがとう」
 ありがとうという単純なことばが、これほど胸に染みるものだとは思わなかった。それが本心からのものだったからか、それとも口にしたのが宮川くんだったからか、私にはよく分からなかった。ただ一つ言えるのは、私も嬉しかったということだ。もちろん、彼が恭子に振られたからではない。
「じゃあ、御褒美をくれる?」
 私は少し考えて言った。宮川くんは高いもの以外でお願いしますと笑った。
「いつかの宿題の答えを教えて。みんなとの共通点は右利きであることだけど、もう一つ、私と宮川くんだけのは共通点は考えても分からなかった。答えを教えて。ビラテリアって何なの?」
 宮川くんはよく憶えていたねと言った。皮肉で言っているわけではなさそうだった。
「Bilateriaというのは左右対称の生物のことだよ。自然界では多くの生物がそうだし、臓器は左右非対称だけど、外見上は人間もそうだね」
「それが、私たちとどう関係があるの?」
 私がそう言うと、宮川くんはテーブルに備え付けの紙ナプキンを手にし、持っていたペンで字を書き始めた。左手できれいに書かれた『縦書き』の単語は実に見慣れたものだった。 
 
 宮  日
 川  高
 大  亜
 介  由
     美

 あ、と思わず声が出る。そういうことか!
「気付いた? くだらないけど、ちょっとだけ面白いだろう」
 宮川くんはペンをくるくると回しながら言った。
「でも時々、みんなこうならいいのにと思うことがあるんだ。右も左もない鏡の中、裏も表もない世界なら、きっと差別もなくなると思うから」
「うん――そうだね」
「利き手が個性ととらえられるならそれはそれでいい。でも、本当はそんなの関係ないと僕は言いたい。右利きだろうが左利きだろうが、大したことじゃないんだ。宮川大介がいて日高亜由美がいる。鳥飼美紀がいて村上大輔と蒔田恭子がいる。それでいい」
 宮川くんのことばを聞いて、私は自分の気持ちに間違いがなかったことを確信した。宮川くんは鏡の向こう側の住人ではなかったけれど、私にとって遠い存在でもなかった。右も左もない世界なら、私のすぐそばにあったのだ。
「ね、下の名前で呼んでもいい? ううん、呼びたい」 
「いきなりどうしたの?」
 唐突に言った私に、宮川くんは笑いかけてくれた。やっぱり彼は紳士だと思う。嘘つきで、意外に皮肉屋で、痛いくらいに優しい紳士。
「これから銀菓亭にでも寄って帰ろうよ」
 私は伝票を持って立ち上がる。
 彼が何か言いかけたけれど、返事を聞く前に私は彼を呼んでいた。

「ね、ダイスケ!」


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