高得点作品掲載所     佐伯涼太さん 著作  | トップへ戻る | 


オレンジフィルムガーデン

 やってきたバスに乗り込むと、そこには既に何人かの学生が座っていた。みな僕と同じ紺色のブレザーを着ている。そんな彼らのうちの一人が、チラリとこちらを見た。眉根がすっと寄る。見たこと無いやつだな、とでも言いたげな表情。それは、こっちのセリフだ。
 入り口付近の座席に腰を下ろすと、巨大な図体をノソノソと揺らすようにしてバスが走り出す。後ろでは、さっきの学生達がなにやら小声で話を始めた。エンジンの駆動音が邪魔で聞き取ることはできないが、大方の内容の予想はつく。
 窓の外の風景は順調に流れていく。背の低いビル。木造平屋建ての住居、セーラー服を着た女の子、店先で準備を始める八百屋さん。それらの景色は見覚えがあるような気もするし、無いような気もする。記憶を掘り下げてみるが、頭の中では今まで見てきた無数の景色が雑多に散らばっていて、うまく引き出すことができない。新しい情報ではないのだから、必ずどこかにあるはずなのだが。
 いや、別にどうでもいいことだ、と考えるのをやめた。どうせそう長くないうちに、また新しい景色を見ることになるのだから。僕はただ、海に浮かぶ椰子の実みたいに、行き先も分からぬまま海流に身をゆだねて流されていくしかないのだ。どこかの海岸にたどり着けるのは、おそらくまだ先のこと。
 ふぅ、と小さくため息を漏らして窓の外を見ると、遠くに僕の通うこととなる学校が見えてきた。


 まだ生徒が登校するには少しだけ早い時間帯。校門をくぐる生徒はそう多くない。校門脇に掛けられてある錆びた銅のような色をしたプレートには、ここの学校名が彫り込んである。全校生徒は三百人程度だ、というのは昨日の説明で聞かされた。白が眩しい三階建ての一般教室棟はそれぞれの階に三つの教室があり、上から一年、二年、三年と使っているらしい。校門から見てその右隣には専門教室棟が並ぶ。こちらは塗装されて随分経つのか、壁の白が随分とくすんでいる。職員室はそこの一階、と頭で確認をとり、生徒が進む列から逸れて専門教室棟の玄関を目指した。

「おっ、永野君。おはよう!」
 失礼します、と職員室に入ると、机の上の書類に目を落としていた渡辺先生が顔を上げてにこやかに笑った。僕も机に近づき適当に挨拶を返す。彼女が僕の担任になるそうだ。教師になって七年、初めて担任として受け持っているクラスらしく、そのクラスに転校生がやってくるとなれば彼女にとっても一大イベントなのだろう、昨日手続きをしている間もあれこれどうでもいい質問を繰り返していた。
「随分早いのね。もしかして、昨日は眠れなかった?」
 はつらつとした声が、まだあまり動き出していない職員室に響き渡る。今日も朝からテンションが高い。
「いえ、ぐっすりと眠れました」
「そう、それはよかった」
 一人で納得すると先生は「そこに座ってて」と自分の席を立つ。言われたとおりに彼女の椅子に腰掛けてると、少ししてマグカップを二つ持って帰ってきた。立ち上がろうとした僕を手で制し、自分は隣の先生の椅子に腰掛ける。
「コーヒー、飲めるよね」
「一応」
「うん、それでいい。君くらいの年の男の子はちょっと背伸びをするくらいじゃないとね」
 訳の分からない持論を展開しつつ、渡辺先生はマグカップを僕に手渡した。フチのところが少しだけ茶色く染まっている。これは先生が普段から使っているものなのだろうか、とどうでもいいことが少しだけ気になった。
「永野君、昨日言わなかったけどさ、昔ここに住んでたんだって?」
「ええ、まあ」
 カップに口をつける。コーヒーには砂糖を全く入れていないようだった。
「なんだ、だったらすぐにクラスに馴染めるじゃない。私、余計な心配しちゃった」
「あ、でも一年間くらいしか住んでませんでしたから」
 僕の父親はいわゆる「転勤族」と言うやつで、およそ半年に一回くらいのペースでどこかに転勤を強いられている。それに引っ張られる形で僕も毎回新しい土地への転校を余儀なくされるのだが、実は、この町には一度来たことがあった。確かあれは小学校六年の時だったと思う。そうだ、確かあの時は珍しく丸々一年間その土地にいることができたのだ。
「でも、知ってる人が全く居ない訳じゃないでしょ?」
「そうですね、一応知ってる人はいると思います」
 それを聞いて渡辺先生は満足そうに頷いた。もう三十近くのはずなのに、その笑顔は不思議と若々しい。
「じゃあ、早くみんなと仲良くなれるといいね」
「……そうですね」
 コーヒーを一気に飲み下した後に、僕はそんな心にもないことを口にした。仲良くなる気なんて、さらさら無いのに。

 始業のベルが鳴るのを待って、先生と共に「二年三組」と書かれた教室のドアをくぐる。入った瞬間、みんなの目線が僕に集中するのが分かった。
「はーい、静かにしてー。みんな前々から聞いてたとは思うけど、今日からこのクラスに新しい仲間が加わります」
 先生は、じゃあ自己紹介を、と目で合図して、教壇から脇に退く。
 この瞬間は、何度繰り返しても嫌なものだ。緊張する、という意味ではない。
「えー、永野征宏です。両親の都合で転校が多く、ここにも長い間居れるかどうか分かりませんが、よろしくお願いします」
 感じるのは、疎外感。少なくとも一年以上同じ学校で育ってきて、そして五月も半ばを過ぎてようやく纏まってきた新しいクラス。そう言った中に入るということは、せっかく混ざり合っていい色ができているパレットの中に、さらに余計な絵の具を足すことに他ならない。こいつのせいで濁らなければいいけど、ということが視線から読み取れる。だから僕も、無色透明になりきろうと、何度も繰り返してきて既にテンプレートとなったセリフを事務的に読み上げる。仲良くしてください、などとは言わない。こっちから関わることは無いから、気にしないでくれ、と。
 短すぎる自己紹介に渡辺先生はやや不満そうであったが、それ以上僕が喋らないのを察したのか、
「じゃ、永野君はあそこの空いてる席を使って」
 と、教室の隅にある無人の席を指差した。
「隣は委員長の井上さんだから、分からないことがあったら彼女に頼るといいよ」
 はい、と短く返事をして、机の隙間を縫うように歩いていく。この瞬間も、みんなの目が僕を追うように動いている。じっとりと、値踏みされていることを嫌でも感じる。だからなるべく何も目に入れないようにして、指示された机に座った。
 僕が座ったのを確認した先生は、連絡事項を伝え始めた。
「久しぶり、だね」
 先生の話をぼんやりと聞いていると、隣の席の井上さんと紹介された女の子が声を掛けてきた。久しぶり、ということは昔同じクラスだった人なのだろう。しかし、今目の前にいる茶色い眼鏡を掛けた彼女を見ても、思い当たる人物が出て来ない。
 困ったように顔を見ていると、彼女は人差し指をピシッと僕に向け、批難するような声色で言った。
「あー、その顔。私のことちっとも覚えてないでしょ?」
 ここで嘘をついたところでどうにもならないので、素直に「ごめん」と頷く。
「がーん、ショックぅ。ほら、夕子よ、井上夕子。小学校の時に同じクラスだったでしょ?」
 井上夕子、とフルネームを聞いて、ようやくおぼろげながら当時の彼女の顔が浮かんできた。
「あ、眼鏡」
「ん? ああ、そうね。高校に入ってから掛け始めたの」
 そう言って眼鏡を外すと、なるほど、確かに当時の面影を残しているような気がした。
「ひどいよ、結構仲良かったと思ってたのに。忘れるなんて」
「……ごめん、転校ばっかりだから、人の顔を覚えるの苦手なんだ」
 人の顔を覚えるっていうのは僕にとってかなりの苦労で、こう頻繁に転校していると次から次に顔を覚えなくてはいけなくなる。だから顔の造形で覚えるのではなく、例えば眼鏡とか、髪型とか、背の高さとか、そういう記号的なことでないと覚えることができない。どうせ長い間居ないので、それで十分だと思っていた。
「ふーん、まあいいわ。せっかくこの町に帰ってきたんだから、また仲良くしましょうね」
 そう、夕子……井上さんは微笑む。善意で言ってくれているのだろうが、そもそも僕はこの町に「帰ってきた」つもりなんて全くない。もしそう言ったら彼女のこの笑顔は一瞬にして曇るのだろう。だから無色透明を決め込んでいる僕は、「ああ」とも「いや」ともとれるような曖昧な言葉を返した。


 転校してすぐの授業というものは、それぞれの学校による進度というものが違うのでついて行けないことがあるのだが、先生も最初は気を遣って当てないでいてくれるのであまり困ることはない。だから授業をぼんやりと聞いていると、いつのまにか午前中の授業が終わっていた。
 昼休みの到来を告げるチャイムが鳴ると、途端に教室が騒がしくなる。そんな喧噪の中で、井上さんが教科書を片付けながら声を掛けてきた。
「ねえ永野。お昼一緒に学食で食べない? せっかくこうして再会したんだし、いろいろと聞きたいこととかあるんだ」
 井上さんは、断られることなんて微塵も考えていない明るい表情で言う。僕としては、できればこういう誘いは断りたかった。けれど、露骨に断って波風を立てるのも好きではない。
 どう返事をしようかと考えていると、脇から声が聞こえてきた。
「なんだよ委員長ー。いくら俺が誘っても断るくせに、そいつとなら良いのかよー」
 声がした方を見ると、背が高くて目つきの鋭い男が井上さんの隣に立っていた。男の顔に見覚えはないし、話の様子からもどうやら僕のことを知っている人間ではなさそうだった。そもそも、昔この町に居たときに仲が良かったのなんて小さな小学校で同じクラスだった十数名だけだったし、高校にもなれば別の地域からやってくる奴だって多い。こうして転校してきたクラスに、かつてのクラスメイトがいるなんて、相当低い確率なのかもしれない。
「なによ直樹。アンタはそうやってみんなに声かけてるじゃない。私は永野と話がしたいのっ」
 二人の会話を聞いていると、どうやら井上さんの誘いを受けるのは無色透明を決め込むつもりの自分としてはあまり得策ではないように思えた。
「……仲の良い奴と一緒に食べればいいよ。それに、職員室に行く用事があるから」
「あ、そうなんだ。残念」
 直樹、と呼ばれた男は僕をじっと見ていた。ただでさえ鋭い目つきはさらに細く尖って、まるで鋭利な刃物を突き付けられているようだ。なんだよお前は、俺たちの中に入ってくるんじゃねえよ、と目が語りかけてくる。そう思った。
「じゃ、また後で」
「あ、うん」
 僕はそれだけ言い残して、教室の外へと向かう。廊下に出てドアを閉めると、ふう、と小さなため息が漏れた。嘘をつくのはやはり僅かながらも罪悪感が残る。本当は職員室に用なんて無い。そんなの、断るための口実だ。
 それでも僕はそうやって過ごす、と決めたのだ。その考えを撤回するつもりは毛頭無い。

 生徒が向かう方向について行くと、購買部があった。そこで適当にパンと飲み物を買った。
 どこか、人気のないところへ行こう、と考えた。教室や人の多いところは周囲の仲の良さを見せつけられるようで、どうも居心地が悪い。
 専門教室棟をうろうろしていると怪しまれるので、教室棟の階段を上り、一年生が居る三階を越えてさらに上を目指す。屋上を開放している学校は希なので、そのドアの手前のスペースにはまず人はやってこない、ということを経験上知っていた。実際に行ってみると、読み通りそこには使われていない机や椅子が無造作に置かれているだけで、人の姿などはなかった。近くにあった椅子と机を引っ張ってきて、そこへ座る。そして、一人で昼食を取り始めた。
 委員長の申し出は、ありがたくないわけではなかった。きっと、早くクラスに馴染めるように、昔の友人に対して気を遣ってくれたのだろう。委員長という責任感からそうさせたのかもしれない。だからと言って、変にクラスに馴染むわけにはいかない。何事もないようにクラスにやってきて、そしてまた何事もなかったようにクラスを去っていく。それが自分の成すべき行動だと思った。
 いっそ、空気みたいに扱ってくれれば楽なのに。そう思った。
 会話する相手も居ないので黙々とパンを食べ、午後の授業が始まるまでの一時間近くをどうつぶそうかと考える。今までの学校では、図書室で本を読んだりして過ごしていたのだが、今日に限って眠気が襲ってきた。
 まあ、どうせ誰も来ないし、とそのまま机に突っ伏すように目を閉じた。



「ねえ、ユキ。教室に戻らなくて良いの? せっかくの転校初日なんだし、クラスメイトとうち解けるチャンスじゃない」
 女の子の声が居る。ユキヒロ、という僕の名前の最初の二文字をとって、ユキ。そう、僕のことを呼ぶ。
「いいよ、俺は。そういうのはいらない」
「なんで? 仲良くなった方が楽しいに決まってるよ」
 目の前に居る短い髪の少女は、まだあどけなさの残る表情で語りかける。その声は妙に懐かしい。僕は普段、物事をよく考えて必要最低限のことしか口にしないようにしているのだが、その声に導かれるようにして考えるままのことが口に出る。
「……でも、未練が残る」
 女の子が口をつぐむ。
「どうせまたどこかに転校して行かなきゃいけないんだ。仲良くなればなるだけ、別れが辛くなるだけだ」
 そこまで言うと、女の子がくすっと笑った。今、何かおかしなことでも言っただろうか?
「ユキ、相変わらずだね。そういう、変に優しいところとか変わってない」
「誰が優しいって? 俺はただ、自分が辛い思いをするのが嫌なだけだよ」
「うん、そうだね。ユキは相手の傷も自分の傷のように痛がるから」
 そして女の子は少し寂しそうに笑った。
「去っていく方も辛いけど、去られる方も辛いもんね」
 その一言を聞いて、僕は不覚にも泣きそうになってしまった。何故だろう、なんだかその言葉をずっと言ってほしかったような気がする。僕のことをちゃんと理解してくれる人をずっと求めていたような、そんな気が。
 何か言わなくてはいけない。この子に、何か言ってあげたい。けれど、なんて。
 考えても答えなんて見つからなくて、けれどなにか言葉のような、感情のような、よく分からないもの込み上げてきて、そして口を開いた。



 重々しいチャイムの音で我に返った。もう午後の授業が始まってしまったのかと慌てて腕時計を見るが、どうやら今のは昼休み終了五分前のチャイムだったらしい。ほっと胸をなで下ろし、とっさに持ち上げた腰を再び椅子に下ろす。
 やけに腕がだるい。服をまくって見てみると、顔が当たっていた部分だけが赤くなっていた。どうやら、随分と寝入ってしまっていたらしい。
「……とりあえず、戻るか」
 パンやジュースのパックをまとめて袋に入れる。そして階段をゆっくりと下りていった。

 程なくして、教室には渡辺先生がやってきた。次の授業は彼女が受け持つ英語らしい。「はーい、静かにしてー」と生徒を静まらせ、彼女は授業を始めた。
 さっきのは何だったんだろう。
 ふと、さっき見た夢のことを思い返した。所々記憶に穴が開いていて全てを思い出すことはできない。けれど、なにやら懐かしい匂いのする女の子が出てきたような気がする。そして何か大事なことを、大切な話を彼女としたような気がするのだが。
 まあ、所詮夢なのだから、と言ってしまえばそれまでだが。
「じゃあ、この訳を……松永君」
 そう言われて立ち上がったのは、昼休みに井上さんと話していた直樹とか言う男だった。松永直樹と言うのか。
「……っと……分かりません」
 松永は昼休みのような鋭い眼光はどこへ行ったのか、弱々しい表情で申し訳なさそうに呟いた。どうやら、あまり勉強は得意ではないらしい。これくらい、簡単だろうに。などと思っていたら、
「じゃあ、永野君。分かる?」
 と当てられてしまった。もしかして、顔に出ていたのだろうか。ともかく、当てられた英文を日本語に訳して答えると、きちんと正解していたようで、「そう! ここが……」と赤いチョークで文字を書き始めた。
 安心して席に座ると、一瞬だけ松永がこっちを見て、そして興味なさそうにまた前を向いた。相変わらず、目つきは鋭い。って、ちょっと待て。なんで当てられた問題を答えただけで睨まれなくてはならないんだ。僕はただ、空気のように扱って欲しいだけなのに。
「……勘弁してくれよ」
 僕は周囲の人には聞こえないように、そう呟いた。

 午後の授業も終わり、HRが終わると教室は堰を切ったかのように喧噪に包まれた。部活に行く準備をする者、どこかに寄って帰ろうと友達に声を掛ける者、教室の隅に固まってお喋りに興じる者。こういう風景はどこに行っても変わることはない。暖かくて、和やかで、爽やかな、そんな喧噪。ただ、僕にはちょっとうるさすぎる。
 ふぅ、と小さく息を吐き、鞄を持って立ち上がると、横から声を掛けられた。
「あ、帰るの?」
 隣の席から見上げる井上さん。頷いてみせると、
「そっか、じゃあまた明日ね」
 と、屈託のない笑顔を見せる。
 彼女はいつまでこういう風に声を掛けてくれるのだろうか。一週間、いや、それより短いかも知れない。僕らの年代の仲間意識なんて薄っぺらいものだ。自分が親切を振りまいても、それと同じだけ返ってこなければ裏切られた気分になる。彼女だって、じきに気づくだろう。僕からは何も返ってこない、と言うことを。
「うん、また」
 井上さんの目は見ずに、事務的に返事をして教室を出た。少しだけ胸が痛いような気がする。けれど、そんな感情なんてきっと錯覚だ。きっと。

 行きと同じバスに乗り込んで、自宅近くのバス停で下車する。そこから見える、五階建てのグレーのマンション。どことなく寂れた雰囲気のある町並みの中で、そのマンションだけがやけに浮いて見える。まあ、よそ者の僕たちには合っているのかも知れない。そんなことを考えながら、マンションの方角へと歩を進める。
 僕の家は、その賃貸マンションの三階だ。自分の家の部屋番号を頭で確認しながら、それが記されたドアを開ける。
「ただいまー」
 狭い玄関を抜けて、キッチンに顔を出すと洗い物をしていた母親が振り返る。
「あらお帰り。早かったのね」
「うん、今回は学校からそんなに遠くないしね」
 ダイニングテーブルに鞄を置いて、冷蔵庫の中から麦茶を取り出す。
「どうだった?」
 そう聞いてくる母親の言葉に、余計な説明は無い。何が、などと聞かなくても分かっているからだ。
「別に、今までと一緒だよ」
「……そう」
 それを聞いて、あからさまではないにしろ母親はがっかりしたようだった。
「……今回は昔来たことある土地だったからねぇ、友達だった子とかがいるかもしれない、って思ったんだけど」
「ま、もう何年も前の話だからね」
 諦めたようにそう呟くと、母親は申し訳なさそうに眉を寄せた。
「……ごめんなさいね、征宏。転校ばっかりで、いつも迷惑かけちゃって」
「はは、なんだよ。別に母さんが謝ることじゃないだろ? それに、父さんだって俺たち家族を養うためにこうやって働いてるんだから」
 僕はできるだけ明るい口調で母親に応えて見せた。なにも、苦労してるのは僕だけじゃない。突然慣れない環境に放り込まれるのは父さんも母さんも同じだ。
「それより、今日の晩ご飯何? もうお腹減っちゃってさー」
 血の繋がりは、何があってもそこにあり続ける。距離も、時間も、関係なく。たわいもない友人関係のように、消えてしまうことはない。だから、ここでは、ここでだけは、僕は本当の僕でいられる。他人を遠ざけるための仮面を被る必要なんて、どこにもない。

 夕食を食べ終えた後、部屋に戻るとまだ部屋の隅に積まれたままの段ボールが目についた。この家に引っ越してきたのは三日前。とりあえず普段の生活で必要となる物は整理し終えたが、それ以外の物はまだ段ボールの中に入れたままだ。
 さすがにそろそろ片付けないといけないだろう。そう思い立ち、一つの段ボールを開ける。その中は手近にあったものをそのまま放り込んだかのように、物がぐちゃぐちゃになっていた。その光景にため息をつきたくなったが、実際、手近にあった物をそのまま放り込んだので仕方ない。とりあえず中の物を一度外に出してみることにした。
 すると、以外と不必要な物が多く出てきた。昔貰った賞状とか、前の学校での時間割表とか、主にプリント類。こういった物は、次の引っ越しの邪魔になるだけである。せっかくの機会なので一斉に捨てようと考え、荷物の整理を始めた。
 すると。
「……なんだこれ?」
 プリントの束の中から、封筒が出てきた。業務用に使うような白や茶色の細長い物ではなく、レターセットか何かだろう水色の模様が入った幅の広い封筒だった。
 表面にはやや丸まった文字で僕の名前と昔の住所が書かれている。裏返して差出人を見てみるが、そこには名前はない。
 中を開けると、同じく青い模様の入った便箋が二枚、折り畳まれて入っていた。それを広げた瞬間、普段は思い出さないように努めている記憶が鮮明に蘇った。
「――ああ、これは」
 それは、昔この土地を離れる際に仲の良かった女の子から貰った手紙だった。その子の名前は、千尋。忘れるはずはない、初恋の相手だ。

 あれは小学校六年生の時。その頃はまだ、転校して新しいクラスになる度に、みんなと仲良くなろうと頑張っていた。クラスメイトも、転校生という存在を良い意味で注目してくれていた。そして、たまたま家が同じ方向でよく一緒に帰っていた千尋のことを、気付けば好きになっていた。なんて、よくある初恋の話である。
 あの頃の僕たちは、周りのクラスメイトが冷やかすのを諦めるくらいに仲が良かった。朝は千尋が僕の家に迎えに来て一緒に登校し、休み時間には一輪車やボールで一緒に遊び、放課後は暗くなるまで道草を食って、そして彼女を家まで送っていく。そんな毎日だった。今となれば、何故あんなに仲が良かったのか、不思議なくらいである。
 いつもは半年周期で転校を繰り返していて、学年があがる時と夏休みの終わりに引っ越しを行うのだが、そのときに限って夏休みが終わっても僕はその学校にいることができた。千尋とは相変わらず仲が良くて、クラスにもばっちりと馴染んでいた。もしかしたらこのままずっとここに居られるかも知れない、といった想像をしては幼い胸をときめかせていた。それだったらどんなに幸せなことだっただろう。
 別れはしっかりとやってきた。小学校の卒業式も終え、自由な春休みのことだった。千尋とは中学生になったら一緒にバスケ部に入ろうと約束していた。朝は一緒にランニングをして、練習が終わった後も近所の公園のゴールで特訓をしよう。そして、二人そろって一年生レギュラーとして活躍するんだ、などと笑い合っていた。
 けれど、僕が中学生になった時、僕は千尋の隣にいることができなかった。例のごとく、転校を余儀なくされたからだ。
 初めのうちは頻繁に手紙のやりとりをしていた。二人の仲は容易く切れたりしない、そう思っていた。けれど手紙でのやりとりは顔を合わせて直に話すのとは微妙に感覚が異なる。こっちが手紙を送って、相手が受け取り、その返事が返ってくるまでに一週間近く。そのタイムラグが、微妙なすれ違いを生じる。
 それでも千尋は「夏休みに遊びに行くから」と言っていた。僕もそれを楽しみに毎日を過ごしていた。会ったら何を話そう、どこに遊びに行こう、そう考えるだけで胸がいっぱいになった。
 けれど、それも叶うことはなかった。なぜならば、僕たち家族はまた引っ越さなくてはならなくなったからだ。それも、千尋が住む町からはさらに遠いところへ。十三歳の僕たちにとって、飛行機を乗り継いで行かなくてはならないその距離は余りにも遠すぎた。結局、千尋は夏休みにやってくることはなかった。それからも少しの間は手紙のやりとりが続いたものの、次第に手紙を交換する間隔は長くなり、いつしかそれすらなくなっていった。

 忘れていたのではない。思い出さないようにしていた。手紙を持ったまま、一瞬だけ捨ててしまおうかと考えたが、すぐに思い直して机の中に仕舞う。千尋との想い出はどうしても痛みを伴うが、それを「嫌な想い出」として括ってしまうのには些か抵抗があった。
 今頃、あいつはどうしてるんだろう。最後に会ったのはもう五年以上も前の話だ。短い髪の毛や、どこか少年っぽい顔立ちは、少しは変わっただろうか。曖昧な記憶を頼りに、頭の中で思い描いてみる。すると、その姿は昼間にみた夢に現れた少女と、不思議なくらいに重なった。夢をハッキリと覚えているわけではないし、その女の子の顔もうろ覚えだ。しかし何故だろう、どうもその少女が千尋であったような気がしてならないのだ。そもそも、僕のことをユキと呼んでいたのは、彼女しか居ない。
「……ま、確かめようはないけどな」
 所詮夢での出来事。それが千尋であろうと無かろうと、どうでもいいことだ。
 しかし、僕はある言葉を思い出す。夢というのは、無意識下にまで沈んだ記憶や感情が、池の中に石を投げ入れると底で泥が舞うように、ふとしたきっかけで意識化にまで浮かび上がってくるのだ、と。そう考えると、気づかないうちに千尋の顔を見たのかもしれない、そう思い始めていた。例えば通学路で、街の中で、学校の廊下の中で。
 そうだ、千尋もあの学校に通っているかも知れない。だから、あんな変な夢を見たのだ。その考えは、妙に説得力があるように思えた。だとしたら。……だとしたら何だというのだろう。声でも掛けるつもりなのか。また昔みたいに仲良くしようぜ、とでも言うつもりか。
 はん、と自嘲気味の笑いが込み上げてきた。
「そんなこと」
 できるはず無い。分かりきっていることだ。人は変わっていく。関係性だって同じだ。変わらない人間はいないし、変わらない友情なんて存在しない。だから初恋の相手に変わらないでいてくれと祈ることも、昔と同じような関係を築けられないいと願うことも、あってはならないことだ。太陽を目指してロウの羽で飛んだイカロスのように、届くはずのない夢に触れようとすれば、その灼熱に羽を焼かれ墜ちてしまう。
 だから僕は、地上から太陽を眩しく見上げるしかないのだ。いつまでも。



「ユキ、やっぱり気にしてたんだ」
 そう、目の前の女の子が呟く。心なしか、声に元気がない。
「……ごめんね。私、嫌われちゃったかな」
 僕には彼女が何のことを言っているのかがよく分からなかった。話からして、彼女が僕に対して負い目を感じるような出来事があったのだろう。まったく、何を気にしてるんだろう。僕にとっては、そんなことちっとも重要ではないのに。
「ばか、昔のことなんてどうでもいい。大事なのは、今俺の前にお前がいる、ってことだ」
 彼女が顔を上げて目を見開く。くりくりとした大きな目から、瞳が零れそうになるくらいに。
「俺はお前がいてくれればそれでいいんだ。だから、細かいことは気にするな」
 困ったように眉を寄せた彼女は、何かを言おうとして弱々しく口を開く。しかしそこでぐっと息をのみ、手の甲で目元をぬぐう。
「うん、わかった。これからは、ずっとユキのそばにいる」
「俺もずっとお前のそばにいる」
 そう言うと、彼女は頷いた。まだあどけなさの残る表情で、満面の笑みを浮かべながら。
「じゃあ、これからはずーっと一緒ね」



 目覚まし時計を止めて、さっきまで見ていた夢を頭の中で思い返す。そこで僕はハッと我に返った。
 今の夢!
 再び出てきた、あの女の子。早くも靄がかかりだした夢の中の記憶から先ほどの少女を引っ張り出す。やはり、幼かった頃の千尋の面影が、色濃く残っているように思う。
 同じような夢を二度見ると言うことは、珍しいことなのだろうか。少なくとも、僕には今までそんな記憶がない。何故今頃になって彼女が現れるのだろうか。そもそも、あれは本当に千尋なのだろうか。
 これ以上続けば、どうでもいい、の一言で片付けられなくなるかもしれない。僕はそんな自分に若干の不安を感じつつも、こうして二度続けて現れた千尋と思しき人物に対し、興味が沸いてきた。


 転校初日と同じ時間のバスに乗る。昨日と同じ入り口付近の席に座り、学校に着くまでバスの揺れに身をゆだねる。それから二十分程で、バスは学校へとたどり着いた。
 僕はまず職員室に向かい、担任の渡辺先生を捜した。彼女は職員室の隅で他の先生達と談笑していたが、僕の姿に気づくとこちらへやってきた。
「おはよう、今日も早いわね」
 彼女は今朝もテンション高く微笑みかける。
「どうしたの? 私に用?」
 そう問われて、僕はバスの中で準備したセリフを口にした。
「この学年の生徒の名簿を見せて欲しいんです」
「名簿?」
「もしかしたら同じ学校に通ってる昔の友達がいるかもしれない、と思って」
 そう理由をつけると彼女は納得し、「わかった。ちょっと待っててねー」と自分の机をガサゴソと捜しだした。そして一枚の紙を持って戻ってくる。
「はい、これ」
 手渡されたそれには、この学年の生徒約百名ほどの名前が連ねてあった。
「課題のチェック用に使う奴だからね、持って行っても良いよ」
「いいんですか?」
「うん、頑張ってたくさん友達見つけてね」
 そう言ってひらひらと手を振る先生に頭を下げて、職員室を後にする。そのまま教室に向かいながら紙を見た。探す名前はただ一つ。岡本千尋。その名前が無いかどうか、名簿の人物名に目を走らせていった。

 二度三度と繰り返して名簿を見直す。しかし、その中に彼女の名前は無かった。僕はてっきり、千尋はこの学校に通っているのだと思っていた。転校初日の最初の夢を見るまでの間、つまり午前中、どこかで視界の隅に彼女の顔をとらえたのだ、そうでなければ、夢の中に千尋が現れるとは考え辛い、と。
 教室に着くと、隣の井上さんは既に来ていた。僕の姿に気づくと、声を掛けてくる。
「あ、永野。おはよう」
「ん、おはよう」
 井上さんに聞いてみようか、と考えてみた。千尋は今何をしているんだ、と。けれど、突然そんな個人名を挙げてしまってはおかしくないだろうか。僕は別にどうかしたいわけではない。ただ気になるだけなのだ。だから井上さんに話して変に気を回されるのは避けた方が良いと判断した。
「どしたの? さっきからジッとこっち見て」
 考え事をしている内に、井上さんが怪訝な表情で僕を見ていた。答えあぐねていると、不安そうにぺたぺたと自分の顔を触りだした。
「あ、ごめん、顔に何か付いてる訳じゃないから」
「本当? よかったー、心配しちゃった」
 そう笑いかけてくる井上さん。まるで普通に仲の良いクラスメイトみたいに――
 ダメだ。ダメだダメだ。このクラスでは空気のように過ごすと昨日決めたではないか。そう自分を戒めるように、僕は無表情を顔に貼り付けて、何事もなかったかのように席に着いた。

 午前中の授業は千尋のことばかり考えていた。夢の中に昔好きだった女の子かも知れない人物が出てきたってだけの話だし、別に無視したって構わないのだけれど、なんだか妙に気になるのだ。
 昼休み、購買で買ったパンを手に昨日と同じ場所へ向かう。そそくさと食事を済ませて、その辺に放置してある机に突っ伏した。
 もしかするとまた、夢の中に現れるかも知れない。そう思ったのだ。現れたからといってどうこうするわけではないのだが、あれが千尋なのかどうかをハッキリと確かめたかったのだ。
 しかし、そうやって意気込んだからと言って、眠気は簡単にはやってこなかった。目を硬くつぶって広がる闇の中に意識をとけ込ませようとするが、上手くいかない。昼休み終了の五分前を告げるチャイムが鳴る寸前まで試みたのだが、そもそも睡眠なんて頑張ってとる物じゃない。また夜になれば嫌でも眠れるんだからと、ゴミを片付けて教室へと戻った。
 教室に帰ると、僕の持っているパンの包装紙を目敏く見つけた井上さんが、
「あれ、永野。お昼一人で食べたの?」
 と声をかけてきた。
「なによもう、昨日誘ったのに。一人で黙々とご飯食べても美味しくないでしょ?」
 そう言って唇を尖らせる井上さん。けれど、僕はその誘いには乗ることが出来ない。だから毎回言葉を濁すより、ちゃんと断っておいた方がいいだろうな、と考えた。
「ああ、ごめん。一人の方が落ち着くんだ」
「……そう?」
 井上さんの表情が陰るのを見て、少しだけ気の毒になった。けれど、こうして一度言っておけばこれから誘ってくることはないだろう。
「やーい夕子、ふられてやんのー」
 そう言って話に割り込んできたのは、井上さんの後ろの席の松永。机の上に足を乗せて、にやにやと笑っている。
「ば、ばかっ!」
 彼女としては、転校してきたばかりの旧友を早くクラスに馴染ませよう、という委員長としての義務感みたいなものだったのだろうが、松永に冷やかされるとばつが悪そうに顔を赤くした。そんな彼女の反応を楽しみながら、松永がこちらを見る、いや、睨む、といった方が妥当かも知れない。眼光は相変わらず鋭い。
「一人がいいって言うなら、一人にしておけばいいじゃん。夕子もそんな奴に構うことねえよ」
 その言葉には少なからず敵意が込められているのだが、僕にしてみれば彼女のように構ってくるより、そう言われている方がありがたい。まあ、なめられるのは好きではないが。
 不穏な空気を感じ取った井上さんが、不安そうに僕を見る。だから僕は彼女に
「そういうことだって」
 と曖昧に笑って答えた。

 鐘が鳴り、午後最初の授業が始まる。やってきたのは初老の先生で、持ってきた現国の教科書を開き、小さな声でぼそぼそと喋り始めた。どうやらこの先生は「安牌」らしく、授業が始まった途端何人かの生徒が居眠りを始めた。
 窓の外に目をやると、外には透き通った青色の上に所々雲をちぎって浮かべたような気持ちのいい晴れ間が広がっていた。校舎脇に植えられている木が太陽の光を遮っていて、ときおり吹く風に葉っぱが揺れている。
 目を閉じてそんな木のざわめきに耳を傾けていると、先ほどはあれだけ求めてもやってこなかった睡魔がいとも簡単にやってきた。



 周囲を見渡すと、何とも言えない眩しい光景が広がっていた。所々赤や青、橙や紫が薄く明滅している以外は、目の覚めるような白。いや、白と言うよりは光だ。ここは光の中だ、とぼんやり思った。
 そこに、背後から聞き覚えのある声がやってきた。
「あーあ、授業中なのに。ユキったら不良ー」
 弾かれるように振り向くと、髪の短い、まだ幼さの残る顔をした女の子が立っていた。昨日から夢に出てくる、あの少女が。
 夢を見ている、という自覚が明確にある。そうだ、今ここは夢の中で、目の前には初恋の人に似た女の子が立っている。聞くならば今しかない、と思った僕はその子に向かって一番の疑問を口にした。
「千尋なのか?」
 するとその子は、んー、と何か考えるような表情をして答える。
「昔と呼び方、違うけどね」
 呼び方、と言われて瞬間的に思い出す。
「――ヒロ?」
 それを聞いて、女の子はパッと表情を明るくした。
「あっ、覚えてくれてたんだ」
 ということは、だ。
「ヒロなのか!?」
「もう、同じ事を何度も聞かない」
「なんで俺はこうしてお前の夢ばっかり見るんだ!?」
「違う違う、私の夢を見てるんじゃなくて、夢の中に私が居るんだよ」
「どう違うんだよ?」
 しかしヒロはその問いに答えず、穏やかに笑うだけだった。そして拗ねたような口調で言う。
「ユキ、さっきから質問ばっかり。他に言うことはないの?」
「だって、俺はお前に聞きたいことが沢山――」
「はいはい、分かったってば。答えてあげたい所なんだけど、そろそろ起きた方がいいと思うな。次、当てられちゃうから」
「えっ?」
 突然何を言い出すかと思えば。当てられるって、何が。
「じゃ、また夜にね」
 その言葉を合図に、周囲で瞬いていた光が拡散していき、視界一面に広がっていった。そしてヒロの姿が見えなくなった頃――



 顔を上げると、目の前の生徒が立っていた。教科書の内容らしき文章を読んでいる。
「はい。じゃあ次、後ろの人……永野君だったっけな、続きを読んでくれ」
 それを聞いた瞬間、一瞬にして眠気が吹っ飛んだ。
『次、当てられちゃうから』
 ヒロは確かにそう言っていた。そして今、実際にそれが現実となっている。何故だ。
「永野君?」
「あ、はいっ!」
 慌てて立ち上がり、前の奴が読んでいた文章の続きを探して読み始める。
 正直、頭の中は疑問だらけで、全然意味が分からない。唯一ハッキリしていることは、夢の中の彼女がヒロだとなのったことだけだった。

 学校が終わった後、夕食を手早く済ませ、風呂にも入り、その日の課題を片付けてしまったところで、部屋の電気を消し、早々にベッドの中に入った。
 なるべく何も考えないようにして眠気の到来を待とうとするのだが、どうしても昼間の夢が頭から離れない。繰り返し現れるあの少女がヒロかも知れない、ということが分かったところで、疑問は解消されるばかりかさらに増えていった。
 ただ、『じゃ、また夜にね』と言ったからには次も現れるのだろうと考えていた。だから今はその言葉を信じながら、ぎゅっと目を閉じて睡魔の到来を待つほか無かった。



 再び、あの光があふれる眩しい場所へとやってくると、今度は頭上から声が聞こえてきた。
「あれ、随分早いんだね。まだ十時過ぎだよ?」
 見上げると、彼女は何かに腰掛けるような姿勢のまま、宙に浮いていた。白い半袖のTシャツに、ヒダのたくさんついた紺色のスカートといった風貌。もう彼女が現れたからと言って、驚きはしない。
「色々と、聞きたいことがあるからな」
「そだね」
 よっ、とその場で勢いを付けた彼女は、風船が落下するかのようにゆっくりと降りてきて、僕の側へと着地する。
「さてと、何から話そうか?」

 僕が聞きたかったのは、大きく二つ。この不思議な空間についてと、そして何故毎回千尋が夢に現れるのか、ということ。
 前者は、あっさりと「夢の世界だよ」という言葉で片付けられそうになった。そんな言葉で納得するわけもなく、もっと詳しいことを、と問いただす。
「んーと、実は私もよく分かってないんだけどね。人が眠りに就いて脳が休んでいるときに夢を見るって言うけど、私の感覚だとちょっと違って。意識だけが別の世界に飛ぶ、っていうのかな。そういう感じ」
 つまり、彼女自身詳しいことは分かっていない、と言うことらしい。
「ねえユキ、こんな事例を聞いたことない?」
 彼女はそう切り出した。
「ある人の夢の中で、知り合いが出てきたんだって。その事を話してみたら、その知り合いも『同じ夢を見た』って言うの」
「あー、聞いたことあるような気もする」
 そう言うとヒロはにっこりと笑って「だったら話が早いや」と言う。
「つまり、同じ夢を見た二人は、何かがきっかけで夢の世界が繋がった、ってこ」
「きっかけって、何だ?」
「さあ、それは人それぞれだからね。例えば同じ経験をしたとか、同じようなことを考えたとか、そういう事じゃないかな。だから、ユキの場合は昔住んでいた場所に戻ってきた、っていうのがきっかけかもね」
「俺とヒロの夢が繋がっている、と?」
 するとヒロは、
「そういうこと」
 と、わざとらしく人差し指をピンと立てた。
「普通は人って夢の中では自由に身動きとれないし、自分が夢を見ているっていうことに気付かないんだけどね。それに、夢って見ようと思って見られる物じゃないでしょ。意識していた部分より、意識していない部分が夢に現れたりして。けど、たまに『あ、今自分は夢を見ている』っていう意識を持ったまま夢を見ていることがあるの。そういうの明晰夢って言うんだけど、そうすると無意識の領域を自在に動かせるわけ。だから私はこうやって繋がった穴からユキの夢の中へとやって来られるの」
 そこまで言うと、広げた手をこっちに向けて「ご理解いただけましたか?」と首を傾ける。
「……理解は出来るけれど、納得は出来ないな」
 僕が本心をそのまま言うと、ヒロは待っていました、と言わんばかりのタイミングで吹き出した。
「だって、夢の世界だもん。そんなものだよ」
「そう言われてもなぁ……」
「人の夢って、今の科学じゃ全然解明できないって言うじゃない。だからそんなに頭ひねらなくても大丈夫だよ。まあ、数百年後にはその辺のメカニズムも解明されるのかも知れないけど」
 一通り説明は終わったようで、ヒロはくるりと背を向け、後ろに手を組んでゆっくりと歩き始めた。僕もその後を追う。小学校の頃から短かった髪は、今も耳にかかる程度の長さしかない。当時はくりくりとした目にそれがよく似合って少年のような溌剌さがあった。それが、面影を色濃く残しているとは言え、どこか全体的に線の柔らかくなったような顔立ちに対して、僅かなアンバランスさを感じさせる。その微かな違和感が、余計に彼女の存在を引き立たせている。ごく自然な風貌をした人とすれ違ってもそれは風景の一部でしかないのだが、そこ中に小さく際だつ一つのアクセントとして、思わず振り返ってしまうような、そんな感覚。
 正直、謎だった部分は殆ど解明されていない。夢が簡単に解析できるとは思っていないが、それでもどこかモヤモヤした気分は晴れないままだった。そう考えていると、ヒロは後ろを向いたまま話し始めた。
「でもね、私はそんな難しいことなんてどうでもいいんだぁ」
「……なんで?」
 そこでヒロは芝居じみた動きで、膝丈ほどのスカートを翻してくるりと振り返った。そして軽く腰をかがめ、幼さの残る顔をこちらに向ける。
「だって、またこうしてユキと一緒にいられるから」
 そうやってこちらへ向ける笑みに、思わずドキッとした。幼い少女が成長する過程で僅かの間だけ見せる、大人びた笑顔。
「でも、俺は――」
「大丈夫」
 全部言い終わらない内に、ヒロが言葉をかぶせる。それは僕がこの先何を言おうとしているのかを全て知っているかのように思えた。言えば少なからず傷ついてしまうそのセリフに、優しく手で蓋をするように。
「もうユキの側から離れたりなんかしないから。夢の世界だもん、距離なんて関係ない。だから、安心して仲良くなろう?」
 その言葉に、心臓がトクンと震えた。夢の中なのに。実際の出来事ではないのに。胸がきゅうっと締め付けられる。
 だから僕は恐る恐る確認の言葉を口にする。
「……本当か?」
「もちろんっ」
 そう笑うヒロの表情は、もうさっきまでのドキッとする顔ではなく、無邪気な笑顔そのものだった。それを見て、ああ、もしこれが夢ならば永遠に覚めないでくれと思った。



 ガヤガヤとわめき散らす目覚ましの音で目を覚ました。手を伸ばして時計を掴み、時間を確認する。そろそろ起きないといけない時間だった。
 まだ眠っていたいと訴える重たい身体を無理矢理起こして、一つ、背伸びをする。不思議と、夢の中での出来事は鮮明に覚えていた。いつみ見る夢のように、霞がかかったようにフェードアウトしていかない。
「……夢、だよなぁ」
 そう、夢だ。所詮夢でしかない。ヒロが言っていたことを全面的に信じることは出来ない。明日になれば今までのようにまったく脈絡のない夢を見る可能性だって大いにあり得る。けれど一瞬だけ。もしこれからも隣にはヒロがいて、消えてしまうことのない関係が築けるのだとしたら、それはどんなに幸せだろう。そう思った。
「どうなんだろうな」
 そう夢の中に現れた人物に向かって呟いてみたが、当然その問いに答えは返ってこなかった。

 外に出ると、一足早く夏が訪れたのではないかと思うくらいの熱さに思わず顔をしかめた。見上げる空は、今日も変わらず青い。今日もまた新しい一日が始まるのだということを感じながら、バス停へ向かって歩を進めた。
 転校三日目と言っても、ここ数年は僕の日常に大きな変化はない。昔のように新しいクラスでなんとか自分の居場所を見つけようと模索することもなく、ただただ無害で目立たない生徒を演じる。
 ただ、日常じゃない部分、非日常的な所では若干の変化が現れた。
 千尋のことだ。
 転校初日から夢の中に現れるようになった、昔の友人でいて、初恋の相手。昨日の夜に見た夢の中では「ユキの側から離れたりしない」と言っていたが、果たして本当かどうか。ただ、夢の中に彼女が現れることを楽しみにしている自分が居ることは徐々に自覚していた。もしこれが日常の中の出来事であれば、受け入れることは出来なかっただろう。けれど、これは夢だから。眠る直前に「良い夢が見られるといいな」と考えることくらい、許してやろうと、そう思う。

 午前の授業中。教壇では化学の先生がなにやら板書をしていた。それをノートに写しながら、僕はぼんやりと千尋のことを考えた。昨日の夢で言っていたことが正しいかどうかについて。正直、半分は疑っている。けれど残り半分は期待をしている。
 本当に現れるのか?
 現れてくれるのかな?
 判断するのは簡単だ。実際に眠ってみればいい。思い立つとすぐに目を閉じて顔を伏せた。幸い、この先生は生徒が寝ていても注意することはない。そうして、静かに夢の世界の到来を待った。



 目を開ける感覚はなかったが、色とりどりの光が滲む光景が自然と飛び込んできた。どうやら夢の世界へと辿り着いたらしい。
「信じてなかったでしょ。私が言ったこと」
 振り返ると、ヒロが唇を尖らせていた。千尋が拗ねたときによく見せていた仕草だ。本当に、また現れた。現れてくれた。
「あ、いや、別にそういう訳じゃなくて」
「本当ぅ?」
 不必要に語尾をのばして、僕の顔をのぞき込む。実際、全くの嘘ではない。まあ、疑ってなかったかと言えばそれも嘘になるのだが。
「ん、まあいいや。これで信じてくれたかな」
 ヒロは一人で納得したらしく、険しい表情を解いて笑いかける。
「だから、ちゃんと信じてたって」
「はいはい、そうだったね」
 実際この瞬間、信じても良いかな、と思った。確かに約束通り、ヒロは夢の中に現れた。もしこれからも現れ続けるならば、きっと消えることのない確かな関係を積み上げていくことができる。他ならぬ、ヒロとならば。
「夢の世界はね、もの凄く不安定なの。だからユキがここの世界のことを疑ったりしちゃったら、二人の夢を繋ぐ道が塞がっちゃうかも知れない。でも逆に、ユキが信じ続けていれば、ここはなくなったりしないよ、絶対に」
「絶対に?」
 そう問うと、ヒロは答えに困ったように頭を掻いた。
「……えっと、ごめん、勘」
 予想していたとおりの答えに、思わず笑みが漏れた。
「だろうと思ったよ」



 放課後になると、僕は朝来た道を同じようになぞって、真っ直ぐと帰宅した。夕飯までの間に課題を終わらせ、食事をとった後に再び机に向かう。部活に入っていない、放課後遊ぶ友達もいないと来れば、することと言えば勉強くらいしか思いつかない。たまに図書室で借りてきた本を読むこともあるが、同じように文字を追っかけて頭を使うのならば、勉強していた方が有意義な気がする。
 おかげで、授業中に多少居眠りした程度では成績が下がったりすることはないし、転校先の学校で課せられる転入試験で頭を悩ませたことはない。それに、今きちんと勉強しておけば、大学に進学する際に選択の幅が広げられる。
 大学生になれば、一人暮らしを始めようと思っている。高校ではバイトが禁止の所も多いし、雇う側もあまり採りたがらない。けれど、大学生になればアルバイトで生活費を稼ぐことだって出来る。それだけで足りなければ、奨学金を貰ってもいい。
 だから、それまでの辛抱だ。日頃からそう、自分に言い聞かす。もう数年すれば、バタバタと各地を転々とする生活も終わりになる。その土地にどっしりと腰を下ろして生活することが出来る。だから今は、我慢だ。
 時計の針が頂点を指す頃、電気を消して布団の中に潜り込んだ。多分、ヒロは現れる、と根拠のない自信があった。だから昨日のように慌てて眠ったりはしなかった。目を閉じて意識が落ちる寸前まで、今日は何を話そうかと、そんなことを考えていた。



「今日は学校、どうだった?」
「……なんか、母さんみたいなこと聞くんだな」
 今の、少年と大人の女性が同居したようなヒロには、あまり似合わないセリフだった。
「どうもこうも、別に、いつもと同じだよ」
「クラスのみんなとは仲良くやってる?」
「んー、一人だけ、変な奴が居る。いっつも俺のこと睨んでくるんだ。えーと、松永っていう奴なんだけど。俺、別に何もしてないのに」
「仲、悪いの?」
「別に、仲が悪いわけじゃない。俺が一方的に嫌われてるんだよ、きっと」
「そういうのを仲が悪いって言うんじゃない」
「俺は嫌ってない。勿論、好きじゃないけど」
 ヒロが「変なのー」と笑う。僕たちは今、河原の斜面と思われる場所に座っている。思われる、というのは現実の世界のそれと違うからだ。僕たちが座っている少し先に、無数の光の粒子がキラキラと流れている。たぶんそれが川で、だとしたらここは土手になるのではないか。寝転がっても土や草の匂いはしないし、背中がチクチクすることもない。けれど、草の上に寝転がったときの突き抜けるような開放感は同じだった。だから、ここは河原でいいのだ。
「夕子は? 元気にしてる?」
 僕がそうしているのに倣って、ヒロも斜面に身体を横たえた。倒れた反動で両足が空を向き、いつも履いている紺色のスカートがまくれ上がりそうになるのを慌てて押さえた。
「そうだなー、やたらと気を遣ってくれてるみたいだけど。なんなんだろう、あの熱意って言うか、使命感っていうか、ちょっと気圧されるんだよなぁ……」
「あはは、たぶん夕子はユキのことが好きなんだよ」
「まさか」
 ヒロと会話すると、流れるように言葉が出てくる。何も気取ることはないし、無理することもない。日常のように「人畜無害の目立たないクラスメイト」フィルターを通す必要もない。思ったことを、ただ伝えれば良いだけ。
 普段使っていない脳の回路が、ヒロとの会話で元気を取り戻す。
 ヒロは昔の友人で、初恋の女の子で、夢の中の人物で、一度疎遠になった子で。でも、そんなことはどうだっていいように思えた。だって今、楽しいと感じているのだから。そしてヒロは、信じ続けていればここはなくなったりしない、と言う。
 それが真実であれば、なんと幸せなことであろうか。
 願わくば、本当に消えて無くならないで欲しい。そう、誰に対するわけでもなく、強く祈った。



 楽しかった夢の世界から目を覚ますと、目の前の世界は驚くほど色褪せて見えた。夢の中の、あの色とりどりに光る景色は、脳の中に直接響くかのように輝いていた。けれど目を覚ましてみると、空の青も、白い壁も、カーテンの緑も、現実の世界の景色はどこか濁って陰鬱に見える。
 もしかすると、それは僕が長年被ってきた仮面のせいなのかも知れない、と思った。僕が周囲を遠ざける仮面を被るたびに、周囲も僕を遠ざけているのではないか。
 だとしたら。
 ……いや、だとしたら、どうだというのだろう。僕はこれからもこの仮面を付け続けなくてはいけない。誰かにそう言われたわけではなく、自分自身でそう決めたのだから。

 教室の様子は、何度見ても変わり映えしないように見えた。数人で頭を寄せ合って漫画を覗き込んでいる男子生徒も、おしゃべりに花を咲かせている女子生徒も、どこか遠い存在で、僕は一人それを外から眺めている。
 まるでテレビのモニターを見ている気分だ。視聴者はテレビの中の出来事に干渉することなく、ただ一方的に情報が与えられるだけ。まさに、今までの僕の状況と同じだ。

 午前の最後の授業、本来なら数学の授業なの筈なのだが、予定が変更されて渡辺先生がやってきた。なんでも、夏休み明けから始まる文化祭の話し合いを始めるのだそうだ。授業が潰れたことにはしゃぐ生徒達を、先生は生徒名簿をポンポンと叩き「はーい、静かにしてー」となだめる。
 先生やら文化委員やらが準備期間だとか予算、注意事項などを一通り説明した後、、まずはどんな模擬店を出すかを決めるらしく、近くの席の人で班を作ってそれぞれ意見を出すことになった。
 机をガリガリと移動させると、向かい側には井上さん、その隣には松永と、なんだか面倒くさいメンバーだなぁ、と思った。
「んーと、じゃあとりあえずはみんあ自由に意見を出し合ってみようか。ある程度意見が出たら、有力そうなのをピックアップして検討、ってとこかな?」
 井上さんはここでもリーダーシップを発揮して、先導を採って話を進める。周りのクラスメイトが、食べ物やがやりたいだとか、準備が楽なのが良いとか、そういった意見を出し合っている。松永も「夕子がコスプレして、メイド喫茶とかどうよ?」などと言って怒られている。
 僕はやはり、その光景を流されている映像のようにただ眺めていた。すると、
「ねえ、永野は何か『これやりたい!』っていうのはないの?」
 突然、画面の中の井上さんが語りかけてきた。違う、こんなんじゃない。僕はただ、自ら干渉することなく、遠巻きに眺めているべきなのだ。だから、こうやって話しかけられるような距離にいてはいけない。話しかけるのを躊躇うくらいに、もっと、もっと、距離を置かなくては。
「……俺は、別に」
 できるだけ関心がなさそうに呟いてみる。しかし、井上さんは避難めいた口調で続ける。
「えーっ、ちょっと真剣に考えてよー。永野だってこのクラスの一員なんだからさー」
 まるで友達に文句を言うような気軽さで言われる。だから、違う。違うんだ。僕を、僕のことを放っておいてくれ。
「その頃には、もう俺はいないだろうし」
 一瞬、井上さんの表情が固まったように見えた。遠回しとは言え、明らかな拒絶。それを理解できないほど、井上さんだって鈍感ではないはずだ。
 井上さんが次の言葉を探しあぐねていると、隣の松永が面倒くさそうに口を開いた。
「夕子、もういいって。本人がそう言うんだから、好きにさせればいいんだよ」
 そう言う松永は、一度だけ僕をジロリと睨みつけると、それ以降はもう目も合わせなかった。
「……はいはい。ちゃんと考えておいてよね」
 井上さんも諦めたように、静かにため息をついた。それでいて、ちゃんと考えておけ、と釘を刺すのを忘れない。もし僕が普通に暮らしていたのなら、彼女とは良い友達になれたかもしれないのにな、なんてことを一瞬だけ考えた。



「ねえユキ」
 昼休み。階段上の机置き場から夢の世界へとやってくると、すぐさまヒロが口を開いた。
「あれはちょっと可哀想なんじゃない?」
 最初、何を言っているのかが分からなかったが、何のことはない、さっきの僕と井上さんのやりとりのことだった。
「夕子が言ってたとおり、ユキだってあのクラスの仲間なんだから、もっと打ち解けるべきなんじゃないの? 文化祭の準備なんて、絶好のチャンスじゃない」
 ヒロの言うことは大方正しい。一部を除いては。
「……どうせすぐに出て行ってしまう奴の事なんて、誰も仲間だなんて思わないって」
 僕はそれを、今まで嫌という程経験してきたのだから、身をもって知っている。たかが半年やそこらの付き合いなんて、圧倒的な距離の前では無力に等しい。あれだけ仲の良かった千尋とでさえ、一度は関係が切れてしまったのだ。そんな、悲しい結末を迎えることが分かっているのに、どうして人間関係が作れるだろうか。
「……ユキは、それで寂しくないの?」
 恐る恐る、といった様子でヒロが尋ねる。
「もう、慣れた」
 僕がそう言うと、千尋はそれっきり俯いて何も言わなかった。そして、夢の中にも昼休みの終了を告げるチャイムが響き渡る――



 午後の授業をぼーっと受けていると、いつの間にか放課後になっていた。教室のあちこちから、「何か食べて帰ろうぜー」とか「たまにはカラオケ行こうよ」とかいった会話が聞こえてきた。廊下には別のクラスのHRが終わるのを待っている生徒がチラホラと見られる。昇降口で靴を履き替える生徒達は、口々に「また明日っ」と言い合っている。
 きっと、これが本来の学生生活の形なのだろう。もしも、こう転校が続く環境でなかったならば、僕もあの中の一人みたいに放課後に遊ぶ約束をしたり、気軽に別れの挨拶をすることも出来たのかもしれない。
 空には分厚い雲がたれ込めている。近々、この地域も梅雨入りになるだろう。ひゅうっ、と湿気を含んだ重たい風が吹いた。少しだけ寒い、と思った。それは風のせいなのだろうか。それとも、僕の内側からにじみ出たものなのだろうか。



 夜になり、夢の世界へと降り立つと、目の前ではヒロが泣きそうな顔をしていた。口をへの字にして、懸命に涙を堪えている、といった様子。前にもこの顔を見たことがある、と思った。あれはいつのことだっただろう。
「……なんでそんな泣きそうな顔してんだよ」
 ヒロは小さく喉を震わせると、いつもより少し低い声で言った。
「ユキが顔に出さないから、その代わりに」
 僕の方へと歩み寄ってくると、そっと両手を出して僕の身体を包んだ。
「……ヒロ?」
「いいの。喋らないで」
 このとき、ふとした弾みで思い出した。この表情をどこかで見たことがある、と思っていたら、僕が転校していくときの最後のお別れでヒロが見せた表情だった。
「もう慣れた、って言ってた」
 僕の胸の辺りに顔を押し当てたまま、ヒロが言う。
「寂しくない訳じゃないんだよね」
 そう言われると、まるで自分の心を取り出されて目の前に晒されているような気分になった。なんで、お前はそんなに僕のことを知っているんだ、と。でも、不思議と悪い気分ではなかった。
「もしかして、私のせい?」
 見上げるようにして僕の顔を覗き込み、昔とあまり変わっていない幼い顔立ちに、不安の色を覗かせる。だから僕はあやすように言った。
「俺が勝手に決めたことだ。ヒロのせいじゃない」
 きゅっ、と僕の身体を掴む力が強くなった。だから僕もヒロの頭に頬を乗せて、空いた手で後ろ頭を撫でてやる。
 暖かい、と思った。それはヒロの体温のせいなのだろうか。それとも、僕の内側からにじみ出たものなのだろうか。
 たぶん、どっちも。なんとなく、そんなことを思った。
 そして、このまま夢から覚めなければいいのにと思った。



 それでも夢は確実に覚める。あっちの世界は夢の中でしかなく、こっちが現実なのだ。その事実は、どうやたって曲げられるものではない。
 目覚まし時計を止め、部屋のカーテンを開く。昨日、ずっしりとたれ込めていた雨雲は今日も居座り続けていて、パラパラと雨粒を落としている。街の景色は、どんよりと暗い。夢の中ではあんなに眩しい世界が広がっているのに。無意識にそう考えた自分に気付き、慌てて窘める。
 そうだ、いくら夢の中の方が楽しいからといって、こっちが現実なのだ。このどんよりと暗い世界で生きて行かなくてはならないんだ。
 ふぅ、と知らず知らずのうちにため息をついていた。

 学校での時間は相変わらず退屈だった。授業はきちんと聞いていなくたって家での勉強で理解は出来るし、休み時間は何もすることがない。周りのように、クラスメイトと話すことなんて僕には出来ないのだ。
 午前の授業、今は現国の時間。寝られないことはないな、と思った。夢の中に行けば、ヒロと会えるかも知れない。いや、きっと会える。そう考えてしまうともう、僕の行動は止まることはなかった。



 目の前を覆っていた靄が取れ、ああ、夢の中へとやってきたんだな、と気付く。すると突然、
「こらっ!」
 と後ろから耳元で叫ばれて、僕は思わず飛び上がった。
「びっくりした……なんだよ、脅かすときは一言声をかけてからにしろよ」
 そんな僕の戯言を完全に無視し、ヒロは両手を腰に当てて、小さい子供を叱るように軽く身を乗り出した。
「だめじゃない、居眠りなんて。今は授業中でしょ?」
「や、でも――」
「はいはい、デモは機動隊が鎮圧しました。もう、心配しなくても夜になったら会えるんだから。ほら、帰った帰った」
 そう言われると、まるで意識が天井に吸い込まれるようにして、目の前に再び靄がかかっていった。



 はっ、と目を覚ます。黒板を見ると、授業は先ほどから殆ど進んでいないようだった。
「くそう、あいつめ」
 そう誰にも聞こえないように口の中で呟く。夢の中でヒロと合うようになって、最短記録で追い出されてしまった。
「なんだよ、ヒロだっていつも夢の中にいるくせに」
 これまた周囲に分からないように呟く。……まてよ。このとき、僕は重大すぎる事実に気がついた。逆に、なぜ今まで気がつかなかったのだろう、と自分自身の思考回路を疑う程であった。
――なぜ千尋はいつも夢の中にいるのか。
 夜に会えるのならば、まだ納得できる。誰だって、夜になれば眠るのだから。では、昼休みや授業中に会えるのは何故だ。たまたま同じ時間に、現実の千尋が居眠りをしている、というのはあまりにも考えづらい。そんな偶然、あり得るはずがない。
 では、どうして。
 混乱する。考えがまとまらない。
 外で降る雨の、雨脚が強くなってきた。教室内にもザーッという音が大きくなっていく。僕にはその音がまるで、砂嵐のノイズ音のように聞こえた。

 昼休み、いつものように階段を上る。教室がある三階の階段の更に上。屋上へと出るための小さなスペース。いつもならば早々に昼飯を食べて眠りに就くのだが、今日ばかりはそうしようとは思わなかった。
 頭の中では、延々と考えが巡っている。ヒロがいつも夢の中にいる理由は何故だろう、と。いや、むしろ無理矢理にでも理由をひねり出して、自分自身が早く安心しようとしているのかも知れない。そう思っても、考えは止まらない。
 できるだけ、ヒロが嘘をついている、という可能性については考えないようにした。これ以上疑ってしまえば、真実がどうであれ、これからは二度とヒロに会えなくなってしまうような、そんな気がした。
 例えば、ヒロも居眠りの常習犯である、というのはどうだろうか。全くあり得ない訳ではないようにも思える。とは言え、そうであって欲しい、という感情が上乗せされている分、冷静な評価とは言い難いが。
 他に考えられることとして。実はヒロは今外国に行っていて、時差の関係で日本では昼間でも向こうに行けば夜になるのではないか、ということを考えてみた。しかし、それだと逆に夜に現れる理由が見つからなくなる。
 一日中、眠っていないといけない状況にある、というのはどうであろう。例えば何か病気にかかっていてずっと眠っているとか、また交通事故か何かにあって未だ昏睡状態が続いているとか。
 あれこれと考えてみたところで、それらは全て想像の域を超えることはない。あたりまえだ、全て想像なのだから。
 だから僕が結論として出した答えは、一度ヒロに聞いてみるべきだろう、という事だった。これ以上余計なことを考えていると、頭がパンクしてしまいそうだ。



 その日の夜、夢の中へと降り立つと、僕は慌ててヒロの姿を探した。
「ヒロ? どこにいる? ヒロ!?」
 ぐるりと周囲を見渡してみても、彼女の姿は見えない。もしかして、と嫌な想像が頭をよぎる。そんな考えを振り払おうと、かぶりをふる。
「どしたの? そんなに怖い顔して」
 頭上から声がして、見上げるとそこには不思議そうな顔をしたヒロが居た。いつか見た、まるで見えない木の枝に腰掛けているような姿勢で、宙に浮いている。
「……聞きたいことがある」
 ヒロは何かを感じ取ったのか、黙って頷いて、ふわりと降りてきた。
「何? 聞きたい事って」
 落ち着き払った様子で、ヒロが言った。僕は内心不安で仕方なかったのだが、勇気を振り絞って口を開く。
「ヒロは、なんでいつも夢の中に居るんだ?」
 ヒロの表情は、変わらない。できればこんな質問、したくなかった。けれど、僕の中だけで閉じこめていたら、いつかヒロのことを疑ってしまいそうだった。
「おかしくないか? 夢の世界が繋がってるって言うんだったら、昼間に俺たちが会えるわけないんだよ。なあ、なんでだよ? 答えてくれ!」
「……まいったなぁ、気付いちゃったんだ。できれば、あんまり言いたくなかったんだけどなぁ」
 少し間をおいて、ヒロは表情を崩した。後ろ頭をポリポリと掻く。
「実は私ね、もう何年も入院してるんだ」
 そう言って自分の身体の一部分を指差す。
「ここが悪くて」
 ぴんと張られた彼女の細い指の先には、左胸だった。つまり、心臓。
「もう殆ど寝たきり状態。身体に負担がかかるからって、自力でベッドから起き上がることもできないの」
 そして「ほら、テレビで見たことない? リモコン押すと電動でベッドが傾いて起こしてくれるやつ。アレ使ってるんだ」と言って彼女は笑う。諦めたかのように。全てを悟ったかのように。
「今年の五月くらいから、かなぁ。ちょっと本格的に体調崩しちゃって。それまでは家族とか看護婦さんとかとお話も出来てたんだけど、それもちょっときつくなっちゃって」
 想像する。出来ることは殆ど無い、話し相手も居ない、そしてベッドで眠り続けるヒロの姿を。僕と似ている、と思った。
「だから、今はこうやってユキと話している時間が、生きてる中で一番楽しいの」
 生きている中で、という言葉が重く響く。
「なんで俺なんだ?」
 ふとした疑問を投げかけると、眉根を寄せて困ったような表情を作った。そしてそっぽを向く。短い髪から見える耳が赤く染まっている。
「……そ、それくらい気付け、ばかっ」
 そう言われてから、ようやくその言葉の真意を理解して、そして今度は僕が赤くなった。
「――あ、ご、ごめん」
「ちょ、ちょっと、謝らないでよ。なんか、フられてるみたいじゃない……」
 お互いに気恥ずかしさから俯いてしまい、しばしの沈黙が流れる。それでも僕はその気恥ずかしさを払拭しようと、なんとか言葉を探してきて、質問を口にした。
「手術とかは、しないのか?」
 その質問に、ヒロの表情がスッと消えた。先ほどまでの、照れたような表情はもう無い。
「んと、今はドナー待ちの状態、だと思う。ごめん、あんまり起きてないから、よく分からないけど」
 それだけ聞けば、ヒロが今どのような容態なのか、僕にだって分かった。もう、自分一人ではどうしようもない、どうにもならない、という状態。
 重たすぎる事実に僕が何も言えないでいると、困ったように笑った。
「だからね、本当はユキには言いたくなかったんだ。余計な心配かけちゃうから」
「……ごめん」
「だから、謝らないでってば」
 そう言えば、今までヒロは自分のことを話すことは殆ど無かった。この夢の世界についても、詳しい説明をしたがらなかった。たぶん、このことがあったからなのだろう。
「ユキ、そろそろ朝になるよ」
 ヒロが先に切り出す。今日はもう、ここまでだ、と。
「……分かった。また、明日」
「うん、また明日」
 意識に靄がかかる寸前に思った。
 その明日は、本当にやってくるのだろうか。



 十分に睡眠をとっても、頭は重たいままだった。
 僕の中から、暗い声が聞こえる。自分の声だ。
『なあ、これ以上深入りしない方がいいんじゃないか? お前だって、自分で言ってただろ。別れることが分かりきっているのに、それを前提で人間関係が築けるか、って』
 言った。確かに言ったけれど、それとこれとは別の話だ。
『いいや、同じだね。あの子の終わりは明日かも知れないんだぞ。なのにお前はこれまで通り接してあげられるのか?』
 馬鹿なことを言うな。終わりなんか来ない。来るはずがない。
『違うね。お前だって分かっているはずだ。そうやって自分を誤魔化してどうなる?』
 誤魔化してなんかいない! 僕はただ、ただ……
『ただ、何だって言うんだ?』
「俺はただっ!」
 不安ばかりをかき立てる声を吹き消すように、声を飛ばす。確かに別れはすぐそこにあるかもしれない。これまでのように接してあげられないかもしれない。
 でも、夢の中で会う、一人の少女のことが頭から離れない。彼女は今頃、どこかの病院のベッドの上で、今もまだ眠り続けているかもしれない。僕の居ない夢の世界で、たった一人きりで、いつやってくるか分からない終わりに唇を噛みしめて必死に耐えているかもしれない。夜になって僕が現れるのをただひたすら待ち続けているのだろうか。
 いや、本当はそんなことどうだっていいんだ。僕はただ――
「あいつのことが好きなんだよっ!」
 これが理由ではダメだろうか。足りないのであれば、必死に頭を絞って考えるから。だから、許してくれ。もう、別れなんて味わいたくない。例えそれが終了までのロスタイムのようなものだとしても、既に大差が付けられて負けが確定していたとしても、僕はまだヒロの隣に居たいんだ。あの頃も。今も。
 なあ、それじゃあ足りないだろうか。教えてくれよ、ヒロ。

 1限の授業が始まると同時に、僕は顔を伏せて目を閉じた。ヒロの言っていたことが事実であったところで、僕の孤独を理解してくれるのはヒロしか居ないし、ヒロの孤独を理解してあげられるのは僕しか居ない。そのことは、変わらない。
 きっと、この先も。



 目を開ける。光が滲む眩しい世界。キラキラと光が流れる川のほとりに、人が座っているのを見つけ、そこに向かって歩み寄る。
「あーあ、やっぱり」
 足音で気付いたのか、ヒロは振り返って僕の姿を確認すると、すぐに顔を戻し、水面のまぶしさに目を細めながら言った。
「ユキのことだから、絶対にこうやってすぐに駆けつけるんだろうな、って思ってたんだ。そしたら、思った通りだった」
 わざと拗ねたような口調だったが、目は笑っていた。
「別に、ヒロのために来てるわけじゃないんさ。ただ、俺がもっとヒロと一緒にいたいから、だよ」
 隣に腰を下ろして、顔を覗き込む。ヒロはとても真剣な顔をしていた。
「……それ、信じて良いの?」
「うん」
 僕が強く頷くと、ヒロは照れたようにニコッと笑った。子供のような笑顔だった。
「えへへ、嬉しい。ありがとう」
 その言葉を最後に、二人で黙り込む。甘い、沈黙。川が流れる音に耳を傾ける。結晶の欠片がぶつかり合うような、キラキラとした音。しばらくの間、光のせせらぎを聞いて、そして僕はあることを思いついて立ち上がる。
「なあヒロ。何かしたいことないか?」
 ヒロは座ったまま、僕を見上げる。
「現実でいつも寝たきりだっていうんだったら、こっちでいろんな事をすればいい。俺だって居るし、協力するよ」
「んー、そうだなぁ……」
 川の流れに目をやって、考え込むヒロ。そして、まるで女友達に好きな人を打ち明けるかのような小さい声で、そっと呟いた。
「一度で良いから、好きな男の子と普通にデートがしてみたかったなぁ」
 そう言って、僕を見上げる。
「……誘ってくれる?」
 そんなの、言うまでもない。答えは決まり切っている。
「一度と言わず、何度でも誘ってやるよ」
「むー、『誘ってやる』って、なんか上から目線」
 ヒロがそう言って唇を尖らせるもんだから、僕は慌てて修正した。
「――誘ってもよろしいでしょうか?」
 わざとらしいくらいに丁寧な動きで、ヒロに向かって手を差し出す。僕の口調がおかしかったのか、ヒロは小さく吹き出すと、立ち上がって自分の手を重ねた。
「いいわよ、誘われてあげる」
 そして、さあ行こうか、というときに、「永野!」と僕の名前を強く呼ばれた。



「――野、ねえ、永野ったら!」
 誰かに肩を強く揺すられ、驚いて跳ね起きるとそこは教室だった。周囲が騒々しい。どうやら授業はとっくに終わっているようだった。
「ねえ、朝からずっと寝てるけど、体調でも悪いの?」
 手を引っ込めた井上さんが、心配そうに見下ろす。
「……いや、大丈夫。寝不足なだけだよ」
「そう? なら良いんだけど。だったら、早く起きないと昼休み終わっちゃうよ?」
 黒板の上の時計を見ると、確かに、昼休みの時間は半分以上過ぎていた。
「……ああ、悪い」
 起き抜けでフラフラする頭で立ち上がり、教室を出て購買へと向かう。売れ残りの適当なパンを買って、近くに設置されているテーブルでモソモソと食べた。昼休みになった直後は混雑するこのスペースも、この時間帯は閑散としていた。
 午後の授業が始まると同時に、さっきの夢の続きを見ようと眠りに就いた。



 夢の中へと戻ると、ヒロは頬をふくらませて怒っていた。
「デートの途中で女の子一人残していなくなっちゃうなんて、ちょっと非道いんじゃないかなぁ」
「ゴメン、ゴメン。井上さんに起こされちゃったんだよ」
 手を合わせて弁解すると、ヒロもどうやら本気で怒っていた訳ではないようで、すぐに表情を崩した。
「ちぇ、夕子のお邪魔虫め」
「まあ、いいさ。まだ時間はあるんだから」
「ん、そうだね」
 どちらからともなく手を差し出して、キュッと繋ぐ。
「じゃあ、行こうか」
「うんっ」
 夢の中には道など無く、ただただ眩しい光が広がっているだけだ。光の中に明るい色がじわりと滲んで広がる。真っ白なキャンバスの上に、たっぷりと水を含ませた絵の具を垂らすように。光の中に花が開くように。そんな道無き道を、ヒロと手を繋いで歩く。
「……まるで水彩画の中に迷い込んだみたいだ」
 僕がそう呟くと、「格好付けすぎ」と笑われた。
「ユキって、そんなに詩人みたいなこと言うキャラだったっけ?」
「う、うるさいな。そう思ったんだよ、悪いか」
「んーん、全然悪くない。ユキ、今度詩でも書いてみたらどう?」
「……そうだな、それもいいかもしれない」
「えっ、嘘でしょ?」
「ああ、嘘だよ」
 そんな他愛のない会話をしながら、二人で歩いていく。ただ、それだけのこと。けれども、この瞬間だけは。こうして手を繋いで歩いている時だけは、僕も、ヒロも、孤独ではない。そう思った。

 ただ二人で散歩をするのを「デート」と呼べるのかどうか。どこぞのクラスメイトに聞いてみれば、「そんなに日和ってデートなんて呼べるか」なんて返ってきそうだが、まあ僕たちにとってそんなの些細なことであった。
 夢の中には、カラオケもなければ、映画館もない。喫茶店だって、ゲームセンターだってない。けれども、僕はこうして手を繋いでいる女の子のことが好きで、その女の子も多分僕のことを好きでいてくれている。それだけで十分だった。
 そんな僕らなりの「デート」も回数を重ね、いつしか日課のようになっていった。

「永野、昼休みだよ」
 肩を揺すられ、目を覚ます。かすむ視界の中に、井上さんの姿が映った。ここ一週間は、こうして井上さんに起こして貰うケースが続いている。小さく「ありがと」と礼を言って、購買に向かうべく立ち上がる。そして教室を出ようとすると、パタパタと後ろを追ってきた井上さんに制服の裾を引っ張られた。
「ねえ永野、アンタ大丈夫なの? ここ最近、いっつもそんな感じじゃない。本当にどこか具合が悪いんじゃないの? 保健室に行く?」
 本気で心配してくれている、のだと思う。昔の友人としての誼なのか、委員長としての責任感か分からないが。けれど、こうして心配される理由が見つからない。こっちにその気がないのに好意を押しつけられても、正直に言って迷惑なだけだった。
 勿論、そんなことは口には出さない。だから僕は無色透明を装う仮面を被る。
「大丈夫。気にしないでくれ」
 そう言って立ち去ろうとしたとき背後から、
「いい気になってんじゃねえよ!!」
 と怒声が飛んできた。振り返ればすぐそこに松永がいて、勢いよく胸ぐらを掴んでねじ上げる。
 あまりに突然のことで、頭が真っ白になった。
「ずっと聞いてりゃあよお、そうやって人を小馬鹿にしたような態度とりやがって。夕子がこんだけ心配してやってんのに、それが心配かけてる奴のとる態度か? ああ!?」
 眉根がグッと下がり、ただでさえ鋭い目つきが今は研ぎ澄まされたナイフのように突き刺さる。
 教室中が僕たちのことを見ている。違う、ダメだ、こんなんじゃない、僕は無難に過ごして無難に出て行かなくてはいけないんだ。落ち着け、落ち着け、俺っ!
 それでも予期せぬ事態に巻き込まれて混乱する頭からは、気の利いた言葉が出てこない。
「お、俺は別に……」と言葉を濁すと、
「『別に』なんだよ!? ハッキリ言えよ、コラ!!」と返された。
 服を掴む手に力が込められる。首筋が締まる。
「ちょ、直樹やめなってば!」
 我に返った井上さんが松永を止めに入る。奴の手を掴んで僕から引き離そうとするが、女の子の力ではどうにもならない。
「止めんな! マジ、俺コイツのこういうところが気にいらねえんだよ! そうやって無害そうな人間装いやがって、影で何考えてるか分かりゃしねえ!」
 息が苦しい。頭の後ろがチリチリと痺れる。腹の底が熱く沸き上がってきた。
「なあ、おい! てめえ何も言い返せねえのかよ!!」
「お前に俺の何が分かるんだよ!!」
 あらん限りの力で、松永の腕を振りほどいた。それと同時に、被っていた仮面もどこかに飛んでいった。
「人の気持ちも知らねえくせに好き放題いいやがって!」
 暴力的な衝動を、言葉にして松永に叩きつける。黙って言わせておけばいい気になりやがって。調子に乗っているのはどっちだ。
 教室の中はまるで静止画のように固まっていた。誰もが息を殺し、まばたきするのも忘れ、僕と松永を見ている。
 喉の奥に刺すような痛みが走った。さっき叫んだときに痛めたらしい。その痛みで、少しだけ冷静になった。そして冷静になって、理解する。手遅れだ。
 松永は突然の激昂に驚いたようで、細い目を大きく見開いている。もう、ナイフのような鋭さはない。
「……どいてくれ」
 かすれた声でそう言い残し、松永の脇をすり抜けてそのまま教室を出た。
 もういい、どうでもいい。嫌われようが、疎まれようが、どうせすぐに別れが待っている。その間、少しだけ居心地の悪さに耐えればいいだけだ。それだけのこと。たった、それだけのことだ。

 専門教室棟へ続く渡り廊下を通り、保健室を目指した。ドアを開けると白衣を着た、四十代ほどの女性が椅子を回して振り返る。
「すいません、頭が痛いんで横になりたいんですけど、ベッド使っても良いですか?」
 かすれた声が、風邪を引いているかのように聞こえたのか、保健室の先生は快くベッドを使わせてくれた。
 ヒロに会いたい、と思った。
 会えば、あいつのことだ、こんな悶々とした空気を吹き飛ばしてくれるだろう、そう思った。しかし、横になって目を閉じても、一向に眠気が襲ってこない。頭の中ではついさっきの光景がグルグルと回っていた。掴みかかってくる松永、青ざめた表情の井上さん、傍観するクラスの連中。彼らの顔が、渦を巻くように脳裏に浮かぶ。
 ベッドの底に引きずり込まれそうな目眩を感じた。目を閉じると、意識がグルグルと回って落ちていく。横になる向きを変えてみたり、仰向けになったりしてみたが、目を閉じればその目眩は執拗に僕を離さない。
 腹立たしかった。
 眠ることの出来ない自分も、僕のことを放ってくれない周囲も、全部。あいつは「距離も時間も関係ない」と言っていたが、こうして現実が邪魔をする。いつでもどこでもヒロに会いに行くことが出来たならば、どんなに良いだろう。
 その時、僕は思いついてしまった。現実の世界に邪魔されずに、眠りに就く方法を。
 チャイムが鳴る。どうやら昼休みが始まったようだ。
「調子はどう?」
 ベッドを囲うように閉められていたカーテンをそっと開き、保健室の先生が顔を覗かせた。
「……あまり」
「あら、困ったわね。もう少し休む? それとも、今日は早退する?」
 口元に手を当てる先生。不安定な子供に対して、私は理解を持っている、といった風を装うような顔をしている。この人ならば、何とかなるのではないか。そう考えた。
「……あの、先生」
「なに?」
 僕は、悩み抜いた末に切り出した、と見えるようにたっぷりと間を空けて「実は」と切り出した。

 話を終えた後、先生は少しだけ悩んで、けれども話が分かる大人を演じるように、笑顔を浮かべた。
「ごめんなさい、私は専門じゃないから何も言えないわ。でも、そっちが専門の知り合いのところなら紹介できると思うの。よかったら、行ってみる?」
「……お願いします」
 先生は小さなメモに簡単な地図を書いて渡してくれた。
「行くなら、なるべく早い方がいいと思うけど。どうする、今日行ってみる?」
「……はい、一度お話だけでも聞いてみます」
「分かったわ。じゃあ後で連絡して簡単な事情を説明しておくから。一人で大丈夫?」
「はい、大丈夫です」
 先生に頭を下げて、保健室をドアを開ける。出る間際に、
「ちゃんと学校には来なさいね。辛いんだったら、いつでもここに来て良いから」
 そう言われたので、僕は頭だけ下げてドアを閉めた。閉まった瞬間、浮かび上がる笑みを抑えることが出来なかった。
 授業中の教室に鞄を取りに行くのも面倒なので、そのまま校舎を出て、地図に書かれた場所を目指す。幸いにも目印となるような場所を覚えていたため、迷わずにすみそうだった。

 ここ最近雨続きの天気だったが、今日は久しぶりに晴れ間が覗いている。西から差し込む夕日に背中を焼きながら、手にした袋を大事に抱えて自宅へ向かって歩く。まさか、こんなに簡単に事が運ぶとは思いもしなかった。歓喜に、思わず口元が歪む。
 手にした袋の中身は、頭痛薬、そして睡眠導入剤。いわゆる、睡眠薬。
 保健の先生と、病院の医師にした説明に、大きな嘘は無かった。僕が転校を繰り返す特殊な環境にあること。そのためクラスにうまく馴染むことが出来ないこと。それが原因かどうか分からないが、睡眠が足りていないこと。
 そう説明すると、先生も、医師も、勝手に感情移入をした。そう、辛かったのね。可哀想に、よく頑張ったな、と。もちろん、実際はクラスに馴染めないのではなく馴染まないのであり、睡眠が足りないというのはもっとヒロと会う時間を増やしたい、ということなのだが。
 そして先生に紹介して貰った医師は、
「とりあえず、一番軽い奴を服用してみて様子を見てみようか」
 と、拍子抜けするほど簡単に薬を処方してくれた。本当は頭痛薬などはいらなかったのだが、そこはストレスが原因である、という医師の考えに合わせる形になった。
 これを使えば、いつだってヒロに会える。保健室という逃げ道だって出来た。もう、こっちの世界の煩わしさなんて関係ない。
「待ってろよヒロ、すぐに会いに行くからな」
 そう呟くと歩調を更に速めて家を目指した。

 家に帰り、気分が悪いから今日はご飯もいらない、すぐに寝る、ということを母親伝えると、早速睡眠薬を取り出した。メモ帳の上でそれを砕いて粉末状にすると、口の中に流し込む。どれくらいで効き始めるのだろうか考えていると、約十分後、そういった思考が上手くできなくなってきた。頭の中が霞む。ああ、眠気がやってきたと、その考え自体が溶け出すようにして、僕は夢の中へと落ちていった。



「ユキ、自分がしたこと分かってるの!?」
 ヒロはとにかく怒っていた。ただ怒っているわけでもなく、ただ悲しんでいるわけでもない。たくさんの色をした感情が混ざり合って、真っ黒になってしまったような、そんな顔だった。
 目を大きく剥いて、今にも掴みかかってくる程の勢いで、僕に詰め寄る。
「薬のことか?」
 僕は分かっていて聞き返す。
「私はっ、ユキにこんな事をさせるために話したんじゃないの!」
 強い口調で、ヒロはそう言う。じゃあ、何のために病気のことを話したのか。本当は、心のどこかでヒロも望んでいたのではないか。だって、僕はこんなにヒロのことを必要としているのに。僕たちは、心が通じ合ってるんじゃなかったのか!?
「ねえ、お願いだからこんなバカなことはやめてっ。薬も、すぐに捨ててよっ」
 バカなこと、と言われて頭に来た。何故だ、お前は僕の事を分かってくれているんじゃなかったのか。僕の孤独を理解してくれてるんじゃなかったのか!
 薬さえあれば、いつでもあの億劫な世界から抜け出せる。いつでもヒロの待つ夢の中へとやってこれる。そう考えたのに。
「今更あっちの世界に戻れって言うのか!?」
 何かを言いかけて、そこで躊躇うようにヒロが止まる。
「別れなきゃいけない前提での付き合いに何が残るって言うんだ!? 仲良くなったって、どうせいつか去らなくちゃいけない。いくら口で『離れてたって友達だ』なんて綺麗事言ったって、いずれみんな俺の事なんて忘れ去っていく。想いなんて、圧倒的な距離の前じゃ無力なんだ。そんなこと、今まで嫌ってくらい経験してる!」
 一度はヒロだって離れていった。あんなに仲が良かったのに。通じ合っていたのに。それでも、離れていった。離れていかなくてはならなかった。
 何も言えないで俯くヒロを、力任せに抱きしめた。本当は、僅かな時間でさえも離したくない。その一瞬の間に、煙を掴むみたいに手の中からするりと抜けてしまうかも知れないから。何事もなかったかのように、消えていってしまうかも知れないから。
 離したくない。もう、離したくなんかないんだ。二度と。絶対に。
「……頼むよ。今の俺には、お前しかいないんだ」
 弱々しい声が出てしまった、と思ったら、そこで自分が泣いていることに気付いた。ボロボロと音がするくらいに、大粒の涙が止めどなく溢れてくる。情けない。けれど、この涙を止める術を、僕は知らない。
「……お願いだから、そんなに泣かないで」
 腕の中で硬く身を強張らせていたヒロが、おずおずと僕の身体を抱きしめ返してきた。子供をあやすように、背中をポンポンと優しいリズムで叩いて、耳元に顔を寄せて囁く。
「大丈夫、分かったから。ユキの気持ちは、ちゃんと届いてるから」
 その声が、まるで心に染み入るようで、心の中心を揺さぶられたようで、余計に涙が止まらなくなった。
 頭の中は、もうぐちゃぐちゃだ。ありがとうとか、ごめんなさいとか、ずっと一緒にいたいとか、なんで離れていったんだとか、理解してくれて嬉しいとか、けれど何故か寂しいとか。
 様々な感情が、まるでもつれたパスタのように複雑に絡まって、そのせいでいろんな想いがいっぺんにやって来る。もう、自分では解くことが出来ない。
「ちゃんと待ってるから。ユキのこと、待ってるから。だから、明日も忘れないで来て。ね?」
 ヒロの吐息がかかる耳が、燃えるように熱い。柔らかい髪が、僕の頬に当たってさらさらと揺れる。背中に回された細い指先が、制服越しに肌に食い込む。
「約束したでしょ? ずーっと一緒だって」
 ああ、そうだ。僕たちはずっと一緒に居るんだ。永遠なんて言葉じゃ足りないくらいに。ずっと。ずっと。



 夜が明けて、朝がやってきた。身体を起こしてみると少し頭が重たかった。夢の中に居た意識を無理矢理に引き剥がしてこっちへ連れてきた、その痛みではないかと思った。
 洗面所へ行って顔を洗おうとしたら、目が赤く腫れていることに気がついた。その腫れを引かせるように、冷たい水で顔をごしごしとこすった。

 玄関を空けると、今日も小雨がパラパラと降っていた。空を覆う雲は、重たく動かない。
 いつもと同じように家を出て、同じバスに乗り込む。学校手前のバス停で降りて、雨で濡れた道を歩く。しかし、教室は目指さない。向かうのは保健室。ポケットに手を入れて、中の物を確認した。小さなビニールの袋に小分けされた睡眠薬。
 ドアを開けると、保険室の先生が穏やかに出迎えてくれた。
「おはよう。学校には来たのね、偉いわ」
 そんな見当違いなセリフを聞きながら、適当に頭が痛いなどの理由を付けてベッドに潜り込んだ。鞄に忍ばせておいたペットボトルを取り出し、薬の飲み下す。
 そして、眠気が僕を飲み込んでくれるのを、今か今かと待ち続けた。



「おはよう、ユキ」
 数時間前まで会っていたばかりなのに、ヒロはそんな挨拶をする。その表情が心なしか悲しそうに見えるのは、きっと気のせいではない。しかし、ずっと手に入らないと思っていた消えていくことのない関係を手に入れた今、僕がするべき事はそれを絶対に手放さないことだけだ。
「おはよう、ヒロ」
 彼女の手を取って、強く握る。ちょっとやそっとでは離れないように、互いの指を絡ませて。
「さあ、いこう」
 僕が笑いかけると、ヒロも何かを振り切るように、満面の笑みで応えた。
「うんっ」
 そして二人、道無き道を歩く。



 それを境に、僕の日常は大きく変化した。教室に向かう代わりに、保健室へ通うようになった。そこで睡眠薬を服用して、可能な限り眠る。病院から処方された睡眠薬は短期間で睡眠へと導く代わりに効き目が切れるのも早いらしく、途中で目を覚ますたびに薬を飲んだ。
 僕は一日は殆どがヒロと過ごすことで占めた。学校に行けば早速眠り、昼頃に一度目を覚まして、再び午後から眠りに就く。家に帰ればそそくさと夕食と風呂を済ませ、また夢の世界へと戻る。実際に現実の世界に滞在している時間は一日五時間程度で、残りは全てヒロとの時間だった。夢の中では何もしなくていい。ただ、ヒロといるだけで良かった。それこそが、僕の望んでいた物。決して壊れることのない、硬く強い関係性。欲しかった物を、僕はようやく手に入れた。
 最初に異変に気付いたのは、放課後。目を覚まして家へと帰ろうとしたときだった。身体を起こすのが億劫になるくらいに、全身が怠かった。その時は寝起きだからだろうと思っていたのだが、どうもそれが原因ではないらしく、家に帰って夕飯を食べても、風呂に入っても、身体の怠さが抜けない。それが毎日のように続いた。
 知らない間に、体重も三キロほど落ちていた。確かに最近は食欲が沸かないことが多かったが、どうもそのせいだけではないように思えた。
 副作用というのに気付いたのは薬を飲み始めてから数日経ってから。一瞬だけ、そこまで気がつかなかった自分の精神を疑ったが、副作用だと理解してからは、これらの症状は苦にならなくなった。ヒロに会うためだと考えれば、全てやり過ごせる。体重なんていくらでも持っていけ、と。
 時折ヒロは心苦しそうに「本当に身体、大丈夫なの?」と聞いてくる。けれど僕が「ヒロの方こそ、大丈夫じゃないだろ」と返すと、困ったように笑うだけだった。

 そしてそんな日常にすっかり慣れ始めた頃、事件は起こる――。

 最初に処方された睡眠薬が、一週間ほどで早くも底をついた。短い期間で「また薬を処方して下さい」などと言えば当然怪しまれる。薬を頼らずに寝ることを試みてみたが、僅かほどの眠気もやってこなかった。眠れぬ夜は、苦痛でしかない。小さく膝を抱えて僕が現れるのを待っているヒロの姿を想像すると、僕は居ても立ってもいられなり、余計に目がさえてしまった。
 暗い部屋の中、僕も膝を抱えてうずくまる。
「ヒロ、今行くから……」
 そう呟いている内に、夜が明けた。

 結局その日の放課後、病院に行くことにした。薬を貰っても不自然じゃない理由を必死で考えて、副作用が原因で体調が優れない、だから薬の種類を変えてくれ、そう言おうと決めた。実際に医者の前でそのことを説明し、体重がごっそりと落ちたことも告げる。そうすると、以前に来たときと比べると幾分痩せこけた僕の顔を見て、医者は別の種類の睡眠導入剤を処方してくれた。ただし、「少しだけこれで試してみて」と、少量の処方であったことが僕を悩ませた。
 薬を受け取り、次に行くときの言い訳を考えながら家へと向かう。病院は僕が昔通っていた小学校に近く、多少は町の景色も変わってしまったとは言え、周辺の地理は十分に理解できた。
 川沿いを歩き、小さな駅を通り過ぎる。その先を走る国道を横切ろうと、横断歩道で信号が変わるのを待つ。
 道路の向こう側の歩道を、セーラー服を着た髪の長い女の子が歩いていた。今時、多くの高校は僕の通う高校と同じようにブレザーで、だからそのセーラー服を物珍しい気持ちで眺めていた。
 よく見ると、その子は誰かに似ているような気がした。
「……ああ、ヒロに似てる」
 そうだ、彼女はヒロに似ている。そっくりだ。

……ヒロに似ている!?

 それに気付いた瞬間、背筋を冷たい汗が流れた。慌てて、道路の向かいの彼女を観察する。くりっとした大きな目に、微かに幼さの残る顔立ち。髪はあの頃と違って胸の辺りまで伸びているが、そんなのどうにだってなる。
 いつも会っているヒロとは、微妙に違う。ヒロの方が、もっと童顔だ。けれども、これは他人の空似で済ませられる次元ではない。それくらいに似通っていた。
 ヒロに、妹が居るなんて話は聞いたことがない。親戚かもしれないとも考えたが、それにしたって似すぎている。今すぐ駆けていって彼女に直接問いただしたい所だったが、信号はずっと赤のまま変わらない。今か今かと待っている内に、彼女はどこかのビルの角を曲がっていってしまい、その姿も見えなくなってしまった。
 少しして、信号が青に変わる。慌てて彼女の曲がった道へと走るが、全身が怠くて思うように前へ進めない。その道の前に出たときには、もう彼女の姿はどこにもなかった。
 とにかく、頭が混乱していた。何年も会っていないとは言え、初恋の相手を忘れるはずもない。あの子はヒロ……だと思う。ただ、夢の中に現れるヒロとは微妙にズレている。しかし、無視しても構わない程度のズレのようにも思える。
 道の真ん中で、僕はただ立ちつくす。

――彼女はいったい、何者だ?



 二日ぶりに夢の中へと戻ってくると、ヒロは斜面に足を投げ出して、川の流れる様子を眺めていた。僕がゆっくりと近づくと、短い髪をさらさらと揺らして振り返る。
「ユキっ!」
 満面の笑みを浮かべたヒロが、こっちへ向かって走ってくる。そして両手を広げて飛びつくように抱きついてきた。その勢いを受け止められずに地面に倒れた。
「何してたのよ、もう。ずーっと待ってたのに」
 僕の胸の上で、はっしゃいだ声を上げる。
「ごめん、ちょっと色々とあってな」
 僕がそう返すと、ヒロの表情がふっと険しくなった。
「……ユキ、どうしたの? なんか、怖い顔してるけど」
「そうかな?」
 ヒロの顔をじっと見返す。目の前に居る女の子は、確かに小学校の頃のヒロと同じだ。こぼれ落ちそうな大きな瞳も、幼い少年の雰囲気を併せ持ったあどけない顔立ちも、耳が見えるくらいに短くされた髪型も。誰が見ても、これはヒロだと、そう思うだろう。
 しかし、逆にそれが不自然にも思える。あの頃のヒロをそっくりそのまま持ってきたかのような、イメージの中のヒロをそのまま背丈を伸ばしたような、そんな出で立ちだ。
 勿論、成長しても容姿が殆ど変わらない人だって居る。そう考えれば、不思議ではない。しかし、今日町で見かけたあの少女と比べてみると、目の前のヒロは完璧すぎるくらいにヒロだ。そこに、微かな違和感が存在する。

『ユキが信じ続けていれば、ここはなくなったりしないよ、絶対に』

 かつてヒロが口にしたセリフが、警鐘のように頭の中で響く。そうだ、疑ってはならない。疑念を抱いてしまえば、この世界は閉じてしまう。今僕が信じるべきなのは目の前にいるヒロであり、守るべきなのは二人の時間だ。
「…………ユキ?」
 ヒロが、恐る恐るといった様子で、再び僕の名を呼ぶ。だからそんな不安を取り除くように、優しく頭を撫でてやった。
「大丈夫、なんでもないって」
 くすぐったそうに目を細めるヒロが、そこでようやく笑った。そう、これでいい。こいつが笑ってくれてさえいれば、僕は欲しい物なんて無いんだ。決して我が儘な望みではない。だから、これくらいは守らなければ。



 そうやって自分を納得させたつもりだったが、いざ目を覚ましてヒロが居なくなると、猛烈な不安に襲われた。町で見かけた女の子のことを、他人の空似だと言い聞かせても、「そうじゃないだろ? それだけじゃないだろ?」と冷たい声で囁きかけるもう一人の自分がいる。
 いくら耳をふさごうとしたって、疑うな、考えるな、と言い聞かせることは、疑っている、考えている、ということと同義だ。
 ただでさえ不安定だと言った夢の世界。この不安のせいで崩れたりするのではないか。そう危惧した僕は、たっぷりと考え込んだ末に決断した。もう一度、あの子を見てみるべきだ、と。

 今日は午前中からずっと雨が降り続いていて、放課後となった今も止む気配はない。梅雨が明けるのは、もう少しだけ先のことになるらしいと、ニュースキャスターが言っていたのを思い出す。
 きっちりと白黒付けようと、昨日ヒロによく似た女の子を見た場所へと向かう。しかし、意気込んでみたものの、いざそこへ向かうとなると、途中で何度も引き返したい衝動に駆られた。それでも、なんとか昨日の交差点まで行く。ちょうど、通りを見渡せる位置にコンビニがあったので、そこで立ち読みをするフリをしながら彼女が現れるのを待った。
 この期に及んで、僕の心はまだ迷っていた。自分はどっちを求めているんだろう。
 現れて欲しいのか。
 現れて欲しくないのか。

 コンビニに立ちつくして三十分。彼女らしき人物は、一向に現れる様子はなかった。雨脚は強くなる一方で、通りを歩く人の数自体が少ない。その殆どが、スーツを着たビジネスマンか、買い物に行く主婦である。時折、ワイワイと会話をする学生の集団が通り過ぎるが、その中には彼女の姿は見えない。
 これだけの雨が降っているのなら、車やバスで帰ったかも知れない。いや、きっとそうだ。
 いつの間にか、そうやって自分自身に言い聞かせようとしている自分に気付く。真実を確かめたい。けれど、確かめるのが怖い。
 僕はただ、ヒロと一緒にいたいだけなのに、何故こんな事をしているんだろうか。果たして、この行動に意味はあるのか。
 感情が、バラバラだ。何をしたくて、何をしたくないのか。輪郭がぼんやりとして、境界が歪んでいく。
 今日はもう帰った方がいいかもしれない。
 そう決めて、長い間持っていた雑誌を棚に入れたときだった。
 ガラスの向こう側で、水色の傘を差した女の子が通り過ぎたのを見た。
 慌ててその子を目で追う。ほんの一瞬だけ見えた横顔は、あの子によく似ていたような気がする。
 僕は弾かれたようにコンビニを出た。傘立てから自分の傘を抜き取り、前方で揺れる水色の傘を追う。昨日見失ってしまった角を曲がり、怪しまれないように距離を置きながら様子を伺う。直接彼女に詰め寄れば、その正体ははっきりするのだが、出るかも知れない結論がたまらなく恐ろしい。
 道路には至ることころに大きな水たまりが出来ていた。けれどそれを器用に避けられるほどの冷静さは今の僕にない。足下はずぶ濡れになり、靴下にまで雨水が染みこんでいる。
 周囲の建物に見覚えがあるような気がしてきたのは、五分ほど歩いてからだ。何となく見たことのあるような風景が続く。住宅地の真ん中に建つ神社。大きなジャングルジムがある公園。広い駐車場。
 一緒になって、思い出が呼び起こされる。
 夏になるとアイスを買って神社の境内で涼んでいたこと。ジャングルジムから落ちて足を挫いたあいつを、おんぶして家まで帰ったこと。広い駐車場でよくバトミントンをしていたこと。
 そんな古い記憶達が、さらに僕を狼狽させる。いや、まだ分からない。偶然かもしれない。そう、たまたまこっちに用事があって歩いているのかもしれない。そうやって、際限なく浮かび上がってくる嫌な考えを、一つずつひねり潰していく。それでも、スピードが間に合わない。嫌だ、認めたくない。認めたくないっ。
 いっそのこと逃げ出してしまおうかと考えた。限りなく疑わしくとも、まだ決定的な結論が出たわけではない。今引き返せば、まだヒロのことを信じていられるかもしれない。必死で自分の考えを押し殺せば、何事もなかったように彼女と過ごす毎日に戻れるかもしれない。
 しかし、水色の傘を構える彼女はそんな考えを裏切るように、とある家に入っていった。小さな庭がある白い壁の家へ。
 その家を、知らないわけがない。何度も何度も、足を運んだことがある。
 ふらふらと、吸い寄せられるように彼女の家の前に立つ。この期に及んで、僕はまだ可能性を探していた。彼女は引っ越したかも知れない。それで、彼女が住んでいた家にたまたま彼女によく似た人物が越してきたのだと。そう考えることが、できなくもなかった。
 郵便受けの上に貼られた、家の表札に目をやる。アルミのプレートに、左側に彼女の家の名字、その右側には全員の名前がゴシック体で書かれていた。
 書かれた名前は四つ。親御さんと、少し年の離れた兄。そして一番下には、
「……岡本、千尋」
 ヒロの名が、確かに記されていた。
 肩に食い込む鞄が重い。雨を受ける傘も重い。水を吸った靴も重い。そして僕自身の頭も、心も、身体も重たかった。

 家に帰ると、ずぶ濡れだった僕の姿を見て母親がすぐにシャワーの用意をした。僕は言われるままに熱いお湯を浴びて、着替えに袖を通して、そして自室のベッドの上に倒れ込んだ。
 もう、何もする気が起きない。
 何を信じればいいのか分からない。
 布団の上で、考えることも、感じることも全て放棄した僕は、意識を失うように夢の中へと落下していった。



「あ、やーっと来た。もう、昨日といい今日といい、遅いよユキ」
 目の前にはヒロがいる。いや、お前は本当にヒロか?
「……あれ、今日も怖い顔してる」
 いつもなら軽快に笑い返してやれるセリフが、今は全く浮かばない。
 目の前にいるヒロはどう見てもヒロで、誰がどう見たってヒロで、……けれどヒロであるはずがない。
――お前はいったい何者なんだ?
 その一言を口にするのは、底知れぬ勇気が必要だった。聞いてしまえば、おそらく全ての決着は付く。付いてしまう。
 せっかく再会した初恋の相手も、消えることの無いと信じていた絆も、二人で過ごしてきた日々も、全て、まるで夢のように消えてしまう。
 まだ間に合うかも知れない。それこそ死にもの狂いでヒロを肯定すれば、しっかりとヒロの存在を確かめることが出来たのなら、まだ間に合うかも知れない。
「ねえ、ユキ。本当に大丈夫?」
 だから僕は、心配そうに顔を覗き込んできたヒロを、
「――きゃっ」
 強引に抱きしめて、地面に押し倒した。
 黒い瞳がこぼれ落ちんと言わんばかりに広がる。桜色の唇が何かを言おうと震える。
「……これって、もしかして千尋ちゃん貞操の危機ってやつ?」
 ヒロはそう、ふざけるように、諦めるように、全てを悟ったかのように、小さく笑う。
「だとしたらどうする?」
「……いいよ、ユキなら」
 そう言って目を閉じた。それを合図に、僕は強く唇を重ねた。

 僕は、しっかりとヒロの存在を感じたかった。お前はちゃんとここにいるんだと、そう信じたかった。
 けれど、いくら汗ばんだ肌に口を付けても、身体を重ねても、全てが嘘ごとのように思えて仕方なかった。まるで現実の世界を眺めているかのように。
 自分を偽って、周囲の流れにできるだけ合わせるようにして、傷つけずに、傷つかずに、そう構えて。でも、そうしたって、結局は周囲を傷つけ、そして自分自身も傷ついている。いつも自分を騙して、その事実に気付かないフリをしていたのだ。
 今、腕の中にいるヒロは、何かに耐えるように全身を強張らせ、背中に回した腕にグッと力を込めて、時折喘ぐように「ユキ……ユキっ」と僕の名を呼ぶ。
 僕は、知らず知らずのうちに泣いていた。一度流れ始めた涙は、堰を切ったかのようにあふれ出す。
「……俺を不安にさせないでくれ」
 聞こえるか聞こえないかの曖昧な声が、思わず口から漏れた。

 今はただ、心が痛い。



 朝が来て、僕は機械的に学校へ行く支度をした。バスに乗り、校舎を目指す。一瞬、教室に向かおうかとも思った。今はもう、ヒロに会うような気分ではなかった。
 それでも、授業を受けたって先生達の話が頭にはいるとは思わなかったし、なにより頭が重たかった。脳みその代わりに鉛を埋め込まれたのではないかと思うくらいに、ずっしりと鈍い痛みがある。
 靴を履き替えながら少し考え、結局保健室を目指した。
 保健室の先生は、僕の顔を見るなり眉をひそめた。
「あら、今日は特に顔色が悪いわね。大丈夫?」
「……横になってもいいですか?」
 そういうと、先生が心配そうに頷いた。
 いつも使っているベッドに横になる。眠る気はしないし、授業に行く気にもなれない。だから僕は有り余る膨大な時間で、ひたすらヒロのことだけを考えた。



 思えば、ヒロはいつだって僕の事を理解してくれていた。

『うん、そうだね。ユキは相手の傷も自分の傷のように痛がるから』
『去っていく方も辛いけど、去られる方も辛いもんね』

 僕の待っていた言葉を、それこそ狙い澄ましたかのように口にした。

『うん、わかった。これからは、ずっとユキのそばにいる』

 そんなセリフが心の隙間にスルリと入り込む物だから、僕は不思議にこそ思えど、疑う事なんてちっともしなかった。

『でもね、私はそんな難しいことなんてどうでもいいんだぁ』
『だって、またこうしてユキと一緒にいられるから』

 今、冷静になって考えて、ようやくおかしいことに気がついた。

『寂しくない訳じゃないんだよね』

 ヒロといれば確かに心が安まる。何よりも僕のことを分かってくれていたし、僕だってヒロのことを分かっているつもりだった。

『だから、今はこうやってユキと話している時間が、生きてる中で一番楽しいの』
『……そ、それくらい気付け、ばかっ』

 けれど、それはただの勘違いで、僕はただ自分の理解の範疇でしかヒロを分かっていなかったのだ。

『ちゃんと待ってるから。ユキのこと、待ってるから。だから、明日も忘れないで来て。ね?』

 だから僕は、これからそれを確かめに行く。

『約束したでしょ? ずーっと一緒だって』



 降り続ける雨が原因か、湿気で滑るリノリウムの床を注意深く歩きながら、僕は事務室脇に設置された公衆電話を目指していた。廊下には誰もいない。この雨では部活も出来ないし、そうでない生徒はそろそろ帰宅しているはずだった。
 暗い廊下に、ポツリと赤いランプが光っているのが見える。学校に一台だけ設置された緑の公衆電話だ。学生の間にも携帯電話が広く普及しているため、利用する生徒はまずいない。
 受話器をフックから取ると、震える指で十円玉を投下した。もとより、会話をするつもりは無い。
 そしてポケットからメモの切れ端を取り出して、書かれた番号を順番にプッシュする。残りの数字が減るにつれて、まるでカウントダウンされているような気になった。
 最後のボタンを、迷いを振り切るように押し込む。少し遅れて呼び出し音が聞こえてきた。その音の隙間から、自分の心臓の音が漏れ聞こえた。
 この先に待っているものを、僕はしっかりと理解しているつもりだった。けれど、だからといって怖くない訳ではない。誰にでも死はやって来るものなのに、皆が恐れるのと同じだ。
 呼び出し音が途切れる。硬化が落ち、ブザーが鳴る相手が電話に出た。
「はい、岡本です」
 懐かしい声が、耳元から聞こえた。

 一時間ほど前。帰りのホームルームが終わるのを見計らって、約二週間ぶりに教室に顔を出した。
 教室に微かにどよめきが起こったのが分かった。みんなが僕を見ている。けれど、今は気にしている場合ではない。
 井上さんの席に行くと、彼女も驚いたように目を丸めていた。
「なあ」
 僕は単刀直入に切り出す。
「千尋、岡本千尋のことって、覚えてるか?」
「千尋? そりゃ、中学まで一緒だったから知ってるけど」
 井上さんが少し怯えたように答える。そんな様子にも、今は構っていられない。
「今、あいつどうしてる?」
「隣町の私立高校に通ってるけど……そう言えば、二人って凄く仲良かったよね」
「連絡先、知ってる?」
「え、知ってるけど……永野知らないの?」
「うん。だから教えてくれないかな。どうしても確かめないといけないことがあるんだ」
「……わかった、いいよ」
 少し迷うそぶりを見せたが、井上さんは机から小さなメモ帳を取り出して、千尋の携帯の番号をそこに書き記してくれた。
「ありがとう、助かる」
 短く例を言い、僕はすぐにその場を立ち去った。そして、学校から生徒が居なくなるのを見計らって、公衆電話からヒロの携帯へと電話をかけた。

「もしもし?」
 何も言い返さない電話の相手に、ヒロは何度も問いかける。間違いなく、ヒロの声だった。
 ヒロは長い間入院している訳でもなく、心臓が悪い訳でもない。今も同じ家に住んで、ここより少しだけ偏差値の高い高校へと通っている。それが、結論。
 それでもなお、事実を否定しようとするもう一人の自分がいて、だから僕は引導を渡すようにハッキリと言い放った。

――夢の中に出てきた女は、ヒロではない。ニセモノだ。

 僕の中から、色んな物が失われたような気がした。離さぬよう大事に抱えていたそれらが、幻のように実態のない物へと変わっていく。慌ててつかみ取ろうと藻掻いても、幻影は指の間からすり抜けていく。
「もしもーし。あれ、電波が悪いのかなぁ……」
「……すいません、間違えました」
 そう言うのが精一杯だった。受話器をフックにかける。
 この結末を予想していたのに、覚悟はしていたはずなのに、一筋だけ涙が零れた。



 もう現れないかも知れないとも思っていたのだが、ヒロは――いや、奴はその日の夜に現れた。
「今日も、随分と遅かったのね。……まったく、デートで女の子を待たせるなんて、良い度胸してるじゃない」
 土手に座っていたソイツは、芝居がかった口調でそう言うと、わざとらしく頬をふくらませて見せた。しかし、すぐに姿勢が元に戻る。一度だけ肩をすくめて、観念したように呟いた。
「なーんて。もう全部ばれちゃってるんだよね」
 僕はゆっくりと奴に向かって歩く。
「そうだな」
 独り言のように、小さく呟いた。もう、心はしぃんと落ち着いている。奴のことも、自分のことも、全てひっくるめて、受け止める覚悟はできた。
 だから、ここで確固たる決着をつけなければいけない。

――この長い夢の。

「さてと、何から聞きたい?」
 奴はあきらめにも似たような笑顔で、僕を見る。聞きたいことは、そんなにない。ただ、確認がしたいだけだった。
「……最初はな、やけに俺のことを理解してくれるな、って思ってたんだ」
 今思い起こせば、苦笑いしか浮かばない。ガタガタとすきま風の吹いていた心に、まんまと忍び込まれ、盲目と言っていいほどに信じ切っていたのだから。
 僕が自嘲気味に笑うと、奴もクスリと笑った。
「本当は、もうしばらくは騙し続けられると思ってたんだけどね」
 少しも悪びれる様子もなく、そんなことをしれっと言ってのける。
「薬を使われ出した辺りから雲行きは怪しかったんだけど、まさか本当のヒロに会っちゃうとはね。完全に予想外だった。あれが決定打だったね」
 そう、屈託なく笑う。
「あれさえなければもうちょっとデート楽しめたんだけどねー」
「バカ言え」
「うわー、それが初恋の相手に言う台詞ぅ?」
 僕はきっぱりと言い放つ。
「お前はヒロなんかじゃない」
 そうだ。なぜ気がつかなかったのだろう。本当に好きなんだったら、気づいてもよかったはずなのに。


「お前は――俺だ」


 ヒロの姿をした「奴」は、ただニヤニヤと笑っていた。無言で続きを促す。
「おかしいと思ったんだ。なんで夢の中にしか現れないヒロが、俺の現実での出来事について知ってるんだろう、って」
 例えば「次当てられるよ」と指摘されたとき。井上さんに対する態度に注意を受けたとき。薬を使用したのがばれたとき。ヒロは現実での僕の行動も把握していた。
 にも関わらず、学校での様子を聞いてきたり、僕がヒロに抱いた不信感についても気づいている素振りはなかった。矛盾だらけで、曖昧だ。
「それは、お前が俺だから。だから俺の現実での様子を知っていて当然だし、都合の悪い部分は知らない振りをしていればいい。違うか?」
「んーん、違わない」
 そう言って、奴は首を振る。
「だからだよな、お前はいつだって俺がかけて欲しい言葉を口にしたし、俺のことも理解してくれていた。でもそんなの当たり前だ、自分のことなんだから」
「うん、正解。ほぼ模範解答だよ」
「……ほぼ?」
「少し、私の話を聞いてくれる? ……って言っても、私はユキそのものなんだから、敢えて言う必要はないんだけど」
「……聞くよ」
 奴は一度大きなため息をついて、そして何か思案するように空を仰いだ。様々な色が混じり合って出来た、水彩画のような空。気のせいか、色が濁っているように見えた。
「ユキ、私が最初にした夢の話、覚えてる?」
「……何だったけな」
「夢って無意識の部分が現れるんだよ、って言ったやつ。いつも考えてることや、頭の中にハッキリとあることは夢の中には出にくくて、逆に昔の記憶とか、普段胸の奥に押し込めている思いとかが夢になりやすいの」
「ああ、覚えてる」
「ユキは、いつも自分自身に孤独であることを義務づけてた。そうしなければいけないんだって、強く。でもそれは私……本当のヒロとの別れが原因であって、本当はユキはいつだって理解してくれる人を求めてた。人との繋がりを欲していたんだよ」
 そう言って、最後に「ユキは認めたくないだろうけどね」と付け足した。これが、もし現実のクラスメイトか誰かに言われた言葉なら、即座に否定しただろう。でも、ここは夢の世界。ヒロが……俺が、そう言っている。納得をせざるを得ない。
「だから、ユキは私を作り出した。……いや、作り出してしまった、って言った方が良いかな。夢の中では無意識が何よりも強いから、意識してもどうすることも出来ないもん」
 諭すように囁きかける、ヒロの姿をした僕。
「ユキが抱えていた無意識は大きく分けて二つ。ヒロとの別れを未だに引き摺っていることと、切れることのない繋がりを求めていたこと。その両方を満たすために、だから私はいつだってユキの夢の中に現れた。昔の傷を癒すことと、終わることのない人間関係をつくること、両方を満たすためにね」
 そこまで一気に話し、小さく息継ぎを挟んで、奴はまた口を開く。
「ユキは理解してくれる人を求めていたから、私はいつだってユキが言って欲しい言葉を投げかけた。なんたって私はユキの無意識の部分そのものだからね、とっても簡単だった。だから、しばらくの内はそれで上手くやってこれていた。でも、次第にユキの状況が変わっていく。分かるよね?」
 僕は小さく頷いた。
「過去の傷も癒え、理解者も手に入れた。もう望むものは他にない。そうなると、今度はそこに依存が生じはじめて、ユキはいつもいつも眠るようになった。だから私も、ユキの都合が良いように、心臓が悪くて入院してる、って設定にされちゃったけど。でも、それはユキにとって必要な良い訳だったの。本当は、このまま依存してしまってはいけない、って分かりはじめてたから。最初に薬を使い始めた時、私怒ったよね。アレは、無意識の部分でユキが止めて欲しい、って思ってたからだよ」
 覚えている。こんな事をさせるために話したんじゃない、と猛烈に怒られたのだ。あれは、自分自身からのサインだったのだろう。
「まあでも、そこまでならユキは幸せだったんだけどね。でも、現実で本当のヒロに会っちゃった。こればっかりは、ユキにも、私にも、どうにも出来ない偶然だったね。……いや、もしかしたら偶然じゃないのかもしれないけど」
「……どういう意味だ?」
 僕がそう問いかけても、「それは後で」と、ただ曖昧に笑うだけだった。
「もうそこからは坂から転げ落ちるのをただ待っているだけ、って感じだったかな。意識している部分では私の正体を疑っていて、でも無意識の部分ではその考えを否定していた。でも意識と無意識が逆転するのは時間の問題だったし。ま、ユキは最後までそれに抗おうとしてくれてたからね。無理矢理押し倒したことも、水に流してあげる」
 最後に、ヒロの姿をした「奴」は、そう言ってはにかんでみせた。
「……全部、俺が悪かったんだな」
「んーん、そんなことないよ。無意識なんて人が意識してどうこうできる部分じゃないし、ただユキは他の人と少し違った経験をしてきたから、その無意識の部分が強かった。ただそれだけだよ」
「……それは、俺がそう慰めて貰いたいから、か?」
「えへへ、よく分かってるじゃん」
 奴が笑う。それを見て、僕も思わず笑ってしまった。思えば、今日初めてこうして笑ったかもしれない。
「さてと。私が話すべきことはほぼ話したけど。他に何か聞きたいことはある?」
 本当は少しだけ気になる部分があったのだが、僕は首を横に振った。こいつが知っていることは、僕が無意識に内に知っていること。きっと、自分と深く向き合うことが出来たら、自ずと見えてくるだろう。
「そう、よかった。もう夜も明けたし、この世界の寿命も残り僅かだからね」
 奴が、もう一度空を仰いだ。あれほどたくさんの色に満ちあふれて光り輝いていた夢の世界が、徐々に周囲の色を取り込んで黒く変わってきていた。壁に塗られたペンキが濁りながら下へ下へと垂れていくように、ゆっくりと、しかし確実に。
 もうすぐ、夢が終わってしまう。僕の無意識が作り上げたという、この長い、長い夢が。それを寂しいと思うのは、いけないことだろうか。
「ま、いろいろあったけどさ、私は楽しかったよ、結構。ユキは?」
「……そうだな、楽しかったよ、俺も」
 それを聞いて、奴が満足げに笑う。空はすでに黒く塗りつぶされ、見渡す地平線からレンズの焦点が絞られるように、闇が集まってきている。もう、終わりが近いということは、僕にでも分かった。夢から覚めれば、今までと同じ現実が待っている。あの現実が。夢という逃げ場所を失って、果たしてこれから先、うまくやっていけるのだろうか。
「よし、じゃあ最後にとっておきのことを教えてあげる」
 黒く爛れていく風景を背に、奴はとびっきり明るい声を出した。何事かと、僕は顔を上げた。
「私の存在はね、実は全部が全部ユキが作り上げたんじゃないんだよ」
「どういうことだ?」
「私にも詳しくは分かんない。けれど、もしかしたら私の中の一部分に本物のヒロが居るかもしれない、ってこと」
「それも……」
 今、アイツの足下も飲み込まれ、足下から上へと向かって闇が這い上がってくる。
「それも俺の願いか?」
「さあ、どうだろうね。信じるか信じないかは自由だよ」
 下半身を全て飲み込んで、残り僅かというところ。最後の最後に、奴は笑顔で手を振った。
「じゃあね、もう二度と顔見せるんじゃないよ、ユキ」
 そう言って、奴の全ては闇に溶けていった。そして、その姿を目に焼き付ける暇もなく、僕の足下も全て、闇に覆われ――――。



 目を開くと、天井が淡いオレンジ色の光の線が走っていた。ベッドの上から体を起こす。不思議と目覚めは良かった。頭もしっかりと働いている。
 光は、カーテンの隙間から差していた。立ち上がってカーテンを開くと、鮮やかな朝焼けが部屋の中に広がる。いつの間にか、梅雨は明けたようだ。

――夢が、終わった。

 あれは、ずっと自分の心を偽り続けてきた成れの果てだ。自分の殻に閉じこもるための、自分だけの世界。そこは本当に居心地が良くて心が安らいだ。
 そんな逃げ場所は、もう存在しない。
 視界いっぱいに飛び込んでくる朝の光は眩しくて、本当に眩しくて、目に染みたのかもしれない。僕は少しだけ涙をこぼした。

 いつものようにバスに乗って、いつものように通学路を歩く。そして、昇降口で靴を履き替え、少しだけ考えて、教室の方へと歩いていった。もう、保健室に行く理由はなくなった。
 チャイムぎりぎりに教室に着くと、教室内は慌ただしい喧噪に包まれていた。必死に課題を写す者、おしゃべりに興じる者。そんなクラスメイトの間を縫うように、自分の席に腰を下ろした。
「あっ、永野。もう学校に来ても大丈夫なんだ」
 隣から聞こえてきた声に顔を向けると、井上さんがホッとしたように表情を崩していた。
「ビックリしたよ。長い間休んでたのに、昨日の放課後に突然現れるんだもん。私、幽霊かと思っちゃった。もう体調は良いの?」
「体調?」
 話が見えない。僕は毎日学校に来ていたし、学校を休んだことはなかった。保健室に行っていたことを知らずに、僕が体調を崩して休んでいるとでも思っているのだろうか。
「はーい、みんなー、席についてー。ホームルームはじめるよー」
 その時、教室に入って来た元気な声によって、僕は井上さんに事の説明をする機会を失った。担任の渡辺先生は、教室中をぐるりと見渡すと、僕の方を見てニコッと笑った。
「おっ、永野くん。無事退院出来たんだねー、おめでとう」
「……退院?」
「ちょっと後で話があるから、あとで一緒に職員室に来てね」
「……は、はい」
 先生の強引な話し方に、僕は何も言い返すことが出来なかった。そして先生は、ぱぱっと朝の連絡事項だけ述べて、僕を引っ張るように職員室へ連れて行った。

「先生、僕が入院って、どういう事ですか?」
 教室とは打って変わって、静かな職員室。僕は転校初日のように先生の椅子に座らされて、コーヒーを飲んでいた。
「何も言わなくて良いの」
 僕の問いを、先生はニコッと笑って遮った。
「若いうちは色々あるからねー。そういうのを理解してあげるのが大人の役目ってモノじゃない。分かる?」
「は、はぁ……」
「あー、いいなぁ、青春だねぇ。私も若い頃に戻りたい。知ってた? 私もここの卒業生なんだよ。その頃はね――」
 渡辺先生は完全に語りに入って、僕の事なんてお構いなしに思い出話に大輪の花を咲かせた。そして一時間目の授業が始まる直前になってようやく、
「あ、ちなみに、みんなには永野くんは体調を崩して入院してる、って事にしておいてあげたから。いいよね?」
 などと勝手なことを説明しはじめた。僕が反論する暇もなく、先生は笑って僕の肩を叩いた。
「ま、若いうちは悩めるだけ悩んだ方が良いよ。きっと将来の糧になるし、大人になったら悩んでる暇なんてないんだから」
 とりあえず、何かもの凄い勘違いをされている、ということは分かった。けれども、先生には先生なりの考えがあってこういう扱いにしたのだろう、ということだけは理解した。
 悪い先生ではないな、と思った。相当ズレてるけど。この先生の元なら、もしかしたら楽しくやれるかもしれない、なんてことを少しだけ思った。

 久しぶりに受ける午前中の授業は、頭に入らなかった。長い間授業には出てなかったし、家での勉強もずっとしていなかった。だから授業内容には全くついて行けなかったので、僕は諦めて考え事をすることにした。
 思えば、夢に出てきたヒロは、しきりに「クラスメイトと打ち解けるべきだ」と言っていた。ということは、僕自身がそう願っていたのだろうか。無意識にもう一人のヒロを作り上げてまで、自分自身に言い聞かせたかったのだろうか。
 隣の席を見ると、井上さんが黒板に書かれた英文をせっせとノートを取っていた。
――例えば、そう。休んでいた間のノートを貸してくれ、などと言ってみてはどうだろうか。自分の方から少し歩み寄ってみれば、彼女ならこんな僕のことをまだクラスメイトとして受け入れてくれるかもしれない。
 今までの僕は、結局その一言が言えないでいた。つまりは、僕には勇気がないのだ。一歩踏み出す勇気が。傷つくかもしれないと、事前にバリアを張って。その逃げ道として、夢の世界を作ってしまった。けれども。

『なんで? 仲良くなった方が楽しいに決まってるよ』

 ふと、あいつの言葉を思い出した。そうだ。もうそんな逃げ道はない。僕はもう、こっちの世界で生きていくしかないのだ。あれだけ、もう一人のヒロに背中を押して貰っておいて、まだ迷うというのか。そんなままじゃ、いつまでたっても、本当のヒロに顔向けできない。

 午前中最後の授業が終わった。僕は覚悟を決めて井上さんに声をかけた。
「あの……井上さん?」
「ん、何?」
 井上さんが、振り返る。思えば、こうやって自分から誰かに話しかけるのなんて、いつ以来だろうか。高鳴る心臓を、必死で鎮めて口を開く。
「えっと、さ。休んでた間のノート、見せてくれないかな?」
 僕が勇気を出した一言に対して、井上さんは「いいよ、はい」と、あっさりとノートを手渡してくれた。
 ああ、こんなことでいいのか。
 僕が拍子抜けしていると、井上さんがニコッと笑う。
「ねえ、永野。今日もお昼は購買?」
「え、うん」
「じゃ、学食行かない? 永野、まだ行ったことないでしょ。退院祝いに奢ってあげるからさぁ」
「いや――」
 反射的に、まず否定の言葉が出ようとする。違う、それじゃダメだ。もう覚悟を決めるんだろ? そう、自分に、もう一人の自分に問いかける。
「――いや、俺が奢るよ。ノート貸して貰うお礼」
「え、いいの!? やった、じゃあ行こっ!」
 嬉しそうにはしゃぐ井上さんを見て、ようやく緊張が解けた。僕の味方になってくれそうな人は、確かにいる。それが嬉しかった。
「ねえ、直樹。アンタも一緒に学食行かない?」
「あん?」
 井上さんが声をかけた方向。松永が、鋭い目つきで振り返る。その瞬間、胸の中に冷たい震えが走った。
「いいよ、俺は。そんな奴と一緒じゃメシが不味くなる」
「またアンタはそういうことを言う!」
 目をつり上げて怒る井上さんを尻目に、そういえば松永に「本音を出せよ」と罵倒された出来事を思い出した。あれは堪えた。
 だから。それに応えてやろうと、ちょっぴり悪戯心を忍ばせて、僕は口を開いた。
「そっか、よかった。俺も昼飯くらいゆっくり食べたいんだ。食べてる途中に胸ぐら捕まれたくないからな」
 松永の鋭い目が、一瞬だけ丸くなった。井上さんも驚いた様子で僕のことを見ている。ふん、と小さく鼻を鳴らした松永は微妙に顔を歪めて、それっきりそっぽを向いてしまった。
「行こう、井上さん」
「あ、うん」
 困惑する井上さんを促して、僕は教室の外に出て学食の方へ歩き出す。相変わらず驚いた表情の井上さんが僕の方をまじまじと見ているので、「何?」と問いかけた。すると彼女は少しだけ目を細めた。
「びっくりした。永野も結構言うじゃん」
「今までは猫をかぶってたんだよ」
 にゃー、と猫の声まねをしてみせると、井上さんは「面白くない」と言いながら声を出して笑った。
「でも、さっきの直樹の顔、見た? あれ、実は内心喜んでるんだよ」
「本当に?」
 僕には苦虫を噛み潰したような表情にしか見えなかったが。
 時間はかかるかもしれないけれど、松永とも上手くやれたらいいな、と少しだけ思った。

 学食はそれなりに多くの人で溢れていたが、座れないほどではなかった。僕はカツカレー、井上さんはオムライスを注文して、奥の方の席に座った。僕がカレーを口に運ぼうとしたとき、「そう言えば」と井上さんが口を開いた。
「昨日、千尋と連絡取ってみたの。永野が昨日突然名前出すもんだから、気になっちゃってさ」
 フォークを持つ手が思わず止まった。小学校の頃に別れたきりで、その後は遠目に見た姿と、声しか聞いたことのない、ヒロ。なんとなく、重要な話のような気がして、僕はフォークを皿に置いて井上さんの話に臨んだ。
「最初にお互いの近況報告とかを話してたんだけどね、永野が私のクラスに転校してきた、ってことを話したら千尋、『私、最近ユキの夢をよく見るの』って、もの凄い驚いてた」

――もしかしたら偶然じゃないのかもしれないけど。

 本当に、偶然じゃなかったのか? そういう意味だったのか? なあ、ヒロ。
 いろんな思いが、いろんな場面が、まるでフィルムのコマ送りのように、一気に頭の中に広がった。心の中が熱い。痛い。苦しい。溢れてはみ出しそうになった感情を必死でせき止めて、僕は何とか言葉を紡いだ。
「……まだ俺のことユキって呼んでるんだ」
「そうみたいだね。嬉しい?」
「恥ずかしいよ」
「あはは、そっか」
 結局。僕は胸がいっぱいになってしまって、頼んだカツカレーを少し残してしまった。

 それから少し日が経った今でも時々、夢の中であの世界が現れることがある。でも、そこはもう光が溢れる眩しい世界ではない。周囲は黒く、塗りつぶされてしまっている。そんな中、僕一人にだけピンスポットライトが当たっているかのように、足下を照らしている。
「なかなか、上手くいかないもんだな」
 僕はそこに腰を下ろす。
「井上さん……いや、夕子か。夕子は親切に仲良くしてくれてるし、周囲にも気を配ってくれてるんだけどな。あ、そうそう、この前『井上さん、とか他人行儀な呼び方はやめてよ。昔みたいに夕子って呼んで』って怒られたよ。でも、なんだか照れくさくてさ」
 何もない、闇の方へ向かって語りかける。独り言のように、自分自身に問いかけるように。
「松永なんて、夕子と話してるとこっちの方を睨んでくるし。あれ、絶対夕子に気があるよな。それとも、仲間に入れてほしがってるのかな。どっちだろう」
 声は返ってこない。でも、それで良いんだ。
「でも、まあ、頑張ってみるけどな」
 そうして僕は、自分自身へ届かない手紙を出すように、思いを綴って、現実の世界へと戻っていく。
 学校の生活でも、ぎこちないながらもクラスのみんなと会話らしい会話をするようになったし、最初はどんな言葉にも殆ど無視していた松永も、少しずつ言葉を返してくれるようになった。いつまでこの土地に居られるか分からないけれど、悔いを残さないくらいには仲良くなっておきたい。
 昔の出来事を引き摺っていない、といえば嘘になる。今でも、怖い。けれども、前に進んでいない訳ではなかった。

 するとある日、昼食を食べていると夕子がこんな誘いを持ちかけてきた。
「あれから頻繁に千尋と連絡取ってるんだけどさ、今度の土曜、一緒に遊びに行くことになったの。それで、千尋が『ユキと会いたい』って言ってるんだけどさ、永野も来ない?」
 僕は少し考えてから、オッケーの返事を出した。夕子も嬉しそうに笑ってくれた。
 そして――

 夕子からの電話で、とりあえず昼ご飯を食べながら、その後どうするかを決めよう、とのことで、僕は待ち合わせに指定された近所のファミレスに向かって歩いていた。
 正直に言えば、緊張している。逃げ出したい気持ちもある。それでも、会いたい、という思いが強かった。
 もう、昔のように石を蹴りながら町の中を一周したり、公園ではしゃぎまわったりは出来ない。僕も変わったし、ヒロもきっと変わっている。それでも、今でも僕のことを「ユキ」と呼んでくれていることが、昔と繋がっていることを証明してくれている。
 人と深く関わり合うことが出来たなら、例えすり減って細くなろうとも、人と人とを結ぶ糸はそう簡単に切れたりはしない、ということが分かったのだ。

 道すがら、僕はヒロに再会しての第一声をなんと言おうか、と下らないことを考えた。久しぶり、では簡単すぎるような気がした。綺麗になったな、などとキザな台詞は言えない。どれもこれも相応しくないように思えて、頭を捻らせていると、

『まずは、押し倒してごめん、じゃない?』

 と、どこからか声が聞こえたような気がした。驚いて振り返っても、そこに人の姿はない。空耳か、それとも――。
 思わず、苦笑いが浮かんだ。そう言ったら、ヒロはどんな反応をするだろうか。意味が分からない、といった表情を見せるか、それとも顔を真っ赤にするか。
 この角を曲がれば、少し向こうに待ち合わせ場所が見えてくるはずだ。考え事をしながら歩いたせいか、時計を見ると待ち合わせ時間を僅かに過ぎている。ヒロは、もう着いているだろうか。先に席に座って氷をガリガリと噛んで待っているかもしれない。
 そんなことを想像しながら、道を曲がると、ジリジリと痛い太陽の光が照りつけた。見上げれば、青い空の上を雲が気持ち良さそうに泳いでいる。耳を澄ませば、少し早い蝉の鳴き声も聞こえてくる。
 夏の到来を確かに感じながら、僕は彼女との再会に胸を弾ませた。

<了>


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●感想
一言コメント
 ・すっごいよかった。

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