高得点作品掲載所     龍乃光輝さん 著作  | トップへ戻る | 


世界の知りかた

 人間と、世界はどう繋がっているのだろう。
 学校に籍を置く。会社に入社する。国に戸籍を置くと答えるかもしれない。はたまたこの世界で生きているとくるかもしれない。けど聞きたいのはそういうことじゃない。
 人間は、どうやって世界を知る?
 テレビを見る。ネットをする。井戸端会議をする。
 それもまた世界を知るためには重要なことだ。だがもっと根底の部分がある。
 それは、世界から目や耳に情報を送るのではなく、目や耳から脳に情報を送ることだ。
 そうなれば答えは、当然見る、聞くことによって人間の脳は目の前の世界を知るとになる。
 目が見えなければ世界の七十%が見えなくなり、耳も聞こえなければ匂いと触覚だけしか世界が分からなくなる。
 生まれたときから死ぬまで一緒にいる感覚であるからこそ、自分は世界を知ることが出来る。
 それはわざわざ考えることでもない自然のことだ。
 恐らくこの自然は、失って初めてあることの重要さを知るだろう。
 突然無明の世界に陥るか、突然無音の世界に入り込まないと、健康な人間は誰一人その大切さを理解しようとしない。
 だって、理解する以前にそれが当たり前なのだから。
 僕は思った。
 人間の体には一切不要なものなど存在しない。完璧とまでは言えないが、一種類でも体から何かが喪失すれば、その人は生きるためには多大な犠牲を払わなければならない。
 どんなに失ったときの事を後悔しようと、反省しようと、もうどうにもならない。
 あの時、僕の中の世界は一変した。


一.『交通事故』

 日本はお盆休みに入って家族連れでの旅行が始まった。気温は例年よりは少し下回り、野菜たちの発育には大打撃とも言える冷夏らしい。暑がりのやつらや、お盆休みとか関係なく働く人たちにはほんの少しだけ喜ばしいことだろう。
 それでも熱中症者を出すのだから侮ることは出来ない。
 そんな世間は遊びムードたっぷりの夏休みだが、僕は病院で目を覚ました。
「……井上さん、残念ですがひと月ほど入院していただきます」
 オキシドールの臭いがする真っ白い天井の下で目が覚め、入ってきた医師と思う白衣を着た人の第一声はそれだった。
 まず状況が理解できなかった。
 確か傷心旅行に出かけたはず。日帰りで温泉に浸かって帰る予定で、高速道路をバスで移動していたはずだ。なのに記憶が途中でない。
 僕はまず状況整理を始めようとしたら、若い医師の隣にいた看護師が説明してくれた。
「井上さんが乗車していたバスが高速道路で事故に遭ったんです。幸い死者は出ませんでしたが、二十人も重軽傷者が出たんですよ」
 ああそうなんですか。なんて答えられるわけがない。
 それ以前に声が出ない。
 空気は出ているけれど「あ」や「い」など声が出ようとしない。
 体中が針を刺すような痛みを発していても左腕は痛まず、ゆっくりと動かして喉へと持っていく。
 いつもなら喉仏に当たるところが、異様なほどに柔らかかった。
「井上さん、実は喉にガラスの破片が刺さり声帯が損傷したのです。治るのですが半月ほど発声はできません」
 僕は目を見開いて先生を見た。
 最悪だ。コミュニケーションするのに一番大事な声がやられた? 毎日のように出す声が出ないなんて、どうやって自分の意思を相手に伝えればいいんだ。
「他は打撲と裂傷ですので、一週間ほどで歩くことは出来ます。ですが過度の運動をしますと傷が開きますので気をつけてください」
「何かありましたらナースコール押してくださいね。トイレなら尚更呼んでください」
 トイレと言う単語を聞いて、ぼっ、と顔面が熱くなった。
「それが仕事ですからお気にならずに」
 表情を読まれた。顔から火が出そうだ。
「失礼ですが身分証を拝見してご家族に連絡しました。数時間後には来ると思います」
 返事として頷くと医師と看護師は病室を出て行き、廊下の騒音と蝉の合唱を除いて静寂になった。
 はぁ、と深くため息が漏れた。
 ニュースで毎日のように事故や殺人とかが報道されるけれど、実際に自分が巻き込まれるとは思わなかった。
 死ななかっただけ良かったけれど、声を失ったのは非常に痛い。
 失恋して事故に遭って、声を一時でも失って、ついてないな……。

 ペラ

 紙の音が聞こえた。
 そういえばここは個室よりは広く、大部屋よりも三人部屋よりも狭い。恐らく二人部屋で、僕の他に同室の人がいるのだろう。
 左腕を支えに上半身を起こして前を見る。
 僕のいるベッドの斜め右には、基本相部屋になるはずがない女性がいた。
 水色が基調で、真っ白い円を描く太陽の模様を右胸にあって、裾のところにはたくさんのひまわりの絵が描いてあるパジャマを着ている。髪はセミロング。少し幼さが残りそうだが大人の仲間入りしそうな顔立ちは、どこか美人と言うよりはまだまだ可愛い部類に入る女性だった。
 容姿からすると女子高生か中学三年くらいだろう。僕のことは見向きもせず本を読んでいた。
 声を掛けようにも声が出せないから、迷惑だろうがベッドの手すりの金属部分を指で叩く。
 皮越しの骨と金属の音が病室に響き渡るも、彼女は僕を見ようとしない。
 もう一度叩くがそれでも反応しない。
 僕は小さくため息をついた。
 ……無理もない。年齢的に大差のない男女が同じ部屋にいるんだ。関わり合いたくないと思うのだろう。もっとも今の僕じゃまともに動けないから間違いが起きることもない。
 出来ればどうして女性と相部屋になったのか教えてほしかった。
 まあいい、今は状況整理を行おう。声が出ないこの状況で何をするのも無理だし、少し頭が混乱している。
 はっきりしているのは僕が乗っていたバスが高速道路で事故を起こして病院に担ぎ込まれ、全治は知らないけど入院をひと月ほどするということだ。
 重傷は喉だけであとは階段から酷く転げ落ちた程度。それでひと月とは長い気もするが、それはきっと傷が多すぎるからだろう。でも不幸中の幸いか、利き腕の左が無事なのはよかった。
 怪我したことや喋れないことにぐだぐだ考えても仕方がない。
 僕はベッドに倒れ、眠るわけでもなく目を閉じた。
 だが予想以上に精神は参っていたのか、すぐ何も考えられなくなった。



 先生の言った通り、意識が途切れたから二時間後に両親は駆けつけてきた。
 声が出せないことで顔面蒼白になったけれど、先生がはっきりと完治すると言って安心してくれた。
 ひとまず声が出せないから、コミュニケーションをするために必要なスケッチブックとペンを置いて今日のところは帰っていった。
 大学生になっても親は親だ。ちゃんと心配してくれている。
 さて、これでスムーズには行かずとも会話は出来るようになった。
 まず向かい斜めにいて、今でも無視を続けている女の子に声を掛けてみよう。
 僕はどういうわけか食べれもしないのに親が持って来たチョコ菓子を一つとって、それを彼女に向けて投げた。
 一体何冊本を読んでいるのかベッドにはさまざまな本が雑に置かれていて、弧状に飛んだチョコ菓子は百科事典くらいの分厚い本の上に落ちた。
 いくら無関心で流そうとしても投げ込まれれば反応をするしかなく、女の子は本から目線を外してこっちを見た。
 間を作るわけにもいかず、先にスケッチブックに書いておいた文字を女の子に見せる。
《こんにちは。今日から同室の井上誠治です》
「あ、よろしくお願いします。私、稲葉ヒカリです」
 意外にも普通に返事が返ってきた。
 さっき無視したのは男だからだろうか。
《いきなりで悪いんだけど、なにか本貸してもらえる? 暇つぶしのものがなにもなくて》
「いいですよ。なに読みますか?」
 素直に僕の文字を受け取った女の子は、雑に置いた本を手に取って何を渡そうか選んでくれてる。
《なんでもいいよ。稲場さんが気に入ってるものなら》
「じゃあ映画の原作を。あ、あといなばの稲は合ってますけど、ばは葉っぱの葉です。ヒカリはカタカナですよ」
 そう言って稲葉さんは横にずれて自分の名札を見せた。確かに名札には『稲葉ヒカリ』と書いてあった。
《そうなんだ。ごめん》
「謝る必要なんてありませんよ。はい、SF映画の原作です」
 稲葉さんは雑に置いた本の中から、文庫本サイズの本を差し出してきた。
 しかし僕と稲葉さんとの距離は三メートル近くあって届かない。
 僕は左腕で下手投げをする動作を稲葉さんに見せる。
「じゃあ投げますよ」
 ジェスチャーは稲葉さんに伝わり、本を一冊下手投げで投げた。
《ありがとう》
「井上さん、事細かに書くと大変ですからお礼くらい簡略していいですよ。律儀な人だって言うのは分かりましたから」
 確かに、ありがとうと書くのに五秒近くかかるから時間短縮のためにもそこは気持ちを読み取ってもらうほうが得策だろう。
 でもせめて形だけでもと、僕は口パクで「ありがとう」と言う。
「ふふふ」
 稲葉さんは軽く笑うと、また本を読み始めた。
 僕はまず表紙と背表紙を見る。
 渡された本は再来週公開される、有名な監督がやる機械の存亡を賭けたSF映画だ。機械をテーマとするとロボットが反乱を起こし人類を殺戮するのが一般的だが、この作品は逆に地球上から機械が使い物にならなくなるというちょっと変わった作品だ。簡単に言えば機械が絶滅し現代の文明から一瞬で石器時代になってしまったというストーリーだ。
 ちょうど見てみたい気持ちもあったし、原作を読んで映画を見るのも悪くない。
 僕はさっそく一ページ目を捲り読み始めた。


「ヒカリちゃん、ご飯の時間よー」
 そろそろクライマックスシーンに入るところで、看護師さんが夕食をトレイに乗せてやってきた。
 もう晩ご飯の時間らしい。
 チョコ菓子の袋を栞代わりに挟み、背中を逸らせばきばきと音を鳴らさせる。
 集中して読みすぎたらしい。近いものに何時間も目を向けていたから、少し天井がぼやけて近眼の症状が出ていた。
「ヒカリちゃん」
 看護師さんが稲葉さんを呼んでいるのに、稲葉さんは無視して本を読んでいる。
「ヒーカーリーちゃん」
「え、はい。あ、ご飯の時間ですか」
 看護師さんは大きく言って肩を叩き、そこでようやく稲葉さんは顔を上げ看護師さんが来たことに気づいた。
「三十分したら取りに来るからね」
 看護師は指を三本見せたあと、他の病室に行くためにトレイを持って出て行った。
 稲葉さん、もしかして耳が悪いのだろうか。
 僕はスケッチブックにペンを走らせて稲葉さんの前で手を振る。
 すると手の動きに反応してこっちを見た。
《夕食の後で聞きたいことある》
「何をですか?」
《食べた後でいいよ》
「……分かりました。いただきまーす」
 稲葉さんは律儀に両手を合わせ、あいさつをしたあとに病院食を食べ始めた。
 今夜の病院食はぶりの照り焼きと野菜炒め、味噌汁という和風定食だった。


「ご馳走様でした」
 二十分ほど時間を掛け、何も食べていない僕には高級レストランのディナーに見える病院食を食べて稲葉さんは両手を合わせてあいさつをした。
 いくら点滴に空腹感を感じさせない薬が混ざっていても、目の前で食べられると空腹感がこみ上げてくる。
 とろとろのデミグラスソースがついた肉汁のたっぷりなハンバーグ。香ばしい匂いが漂う焼き魚。この際塩だけの三角おにぎりでもいい。
 嗚呼、腹減った。
「井上さん、それでお話とは何ですか?」
 食欲に心が満たされていると、僕の目を見て稲葉さんは聞いてきた。
 すぐに食べ物に対する気持ちを切り替え、スケッチブックに文字を書く。
《初対面で聞けることじゃないから答えなくてもいい。稲葉さんはどうして入院を?》
「私? 私は感覚失調症なんです」
 何の気兼ねもなく、まるで風邪やインフルエンザと答えるかのように返してきた。
 そしてその病気を聞いて、僕は激しく質問したことを後悔した。
 『感覚失調症』はウイルスによって発症する知覚障害だ。
 血液、空気、性交渉など感染してもおかしくない経路でも殆ど発症しない病気だが、認知度は上と結構知られている病気である。
 アメリカの奥地の農家で最初の発症者を出し、人知れずにウイルスは広がり二十年で世界中に蔓延したと言われている。
 しかし感染したところで発症率は非常に低い。感染したとしても発症率はなんと二十万分の一しかなく、ウイルス自体も十分間紫外線を浴びると死滅する。そのためエイズよりも発症率が低いから国も予算を出してまで患者を隔離し封鎖をしようとしないのだ。
 病状は至ってシンプルで、基本知覚における『視覚』『聴覚』『味覚』『嗅覚』『触覚』が一つずつ失われていくだけだ。
 だが人が世界を知るための五つの感覚が削がれたとき、その人は言わば生きながら死んだことと等しくなり、国の対応とは反面して別名『拷問病』とも言われるほど残酷な病気となる。
 そして日本で初めて安楽死が認められたほどの病気なのだ。
 外国じゃ治療薬の開発に専念していても近年でできるかはわからないのが実情で、その患者さんが目の前にいる。
「もう味覚、嗅覚、聴覚がやられちゃって、あとひと月かひと月半で真っ暗になっちゃうんです」
 稲葉さんはまるであまり語りたくない苦い思い出を語るような口調で話してくる。
 ……よく明るく話せるものだ。
 あとひと月で光が消えて、特効薬が出来ない限り一生外界のことを知らずに過ごす事になるというのに、よく不安や恐怖の感情を含ませずに喋れる。
 一つの感覚を失うだけで大変なのに、その全てが無くなってしまえば生きた心地はまずしない。もし僕がかかってしまえば早めに安楽死させてくれと言うだろう。
《辛くはない?》
「もちろん辛いですよ。何を嗅いでも匂わなくて、何を食べても感触しかなくて、今ちゃんと喋っているのかも分からないんですから」
 そうか。自分の声は自分の鼓膜に届いているから、ちゃんと発音したかどうかが分かる。聴覚がなければ当然自分の声は分からないから発音しているかが分からないんだ。
「私ちゃんと喋れています?」
《ちゃんとしゃべれてるよ》
「よかった。何にも聞こえなくなってから一週間くらい大変だったんですよ。何にも聞こえないと妙に気持ち悪くなって、何度トイレに駆け込んだのか分からないんですから」
《僕にできることがあったら言って。手助けする》
「ふふ、今のままですと、私が井上さんを手助けしそうですけどね」
《一週間で動けるから、そのときに》
「はい。そのときはよろしくお願いします」
《アメリカやドイツはこの病気に対して薬を開発してる。がんばって》
「でも過度な期待をすると駄目なときがっかりしますから、病気と期待のことはなるべく控えてもらえます?」
 僕は頷いて文字を書く。
《すこし軽率だった。もうこの件に関しては聞かない》
「井上さん書くの速いんですね」
《速い代わりざつ。読めればいい》
「ちゃんと読めてますよ。あ、それと井上さんは今大学生なんですか?」
《大学一年》
「私高校一年なんです。もしよければ勉強教えてもらえますか?」
 高校一年生ということは十五か十六だ。青春真っ只中だと言うのに、カラオケやデート、部活とかで友達と楽しむことも出来ないのか。
 そう考えるとさらにかわいそうに思える。
《いいの? もうすぐ何もわからなくなるのに勉強なんかして》
「勉強したいんです。もし治ったとき中学校の学力じゃ社会で生きていけませんから。少しばかり飛び級する気持ちで勉強したいんです」
 他の人とは違う境遇だからか、僕の知っている女子高生よりすごく大人びて見える。
 なんか遊び盛りって子よりはしっかりした女性って感じだ。
「あの、井上さん?」
 僕は少し考えていると首をかしげながら稲葉さんが呼んで、慌てて文字を書く。
《文字で教えるから遅いけどいいよ》
「よかった」
《あとどうして稲葉さんと同室?》
 ちなみに、これだけの会話で三十分も時間を費やしていたりする。稲葉さんからの返答は早いけど、稲葉さんへの返答には時間がかかって仕様が無い。
 喋っていれば十分も掛かってないのに文字にする時間がどうしても長くなり、それを考えると声がどれだけ大事なのかがよく分かる。
「確か病室がいっぱいで、私のところしか井上さんを置ける場所が無かったからと言ってました。男の人と女の人の釣り合いが丁度なんですって」
 『言ってました』というのは、文字にして教えてもらったのだろう。
 だからって年の近い男女を同室にするのはどうかと思う。
 僕だって体中怪我をして身動きが取れない状態であれ健全な男だ。年があまり変わらない女の子と一緒にいて何も考えないわけがない。
 でも犯罪をして親を苦しめるのはいやだし、なにより前科を持ちたくない。
 なんとか間違いを起こさないように善処しよう。
「あ、でも大丈夫です。もし井上さんが何かしようとしたらすぐにナースコール押しますから」
 にっこりと笑う彼女の右手にはしっかりと警戒の表れとなるナースコールを持っていて、僕は苦笑いしか出来なかった。



二.『友達』

「なるほど、だからここはX=3になるんですね」
 交通事故によって入院させられること二日目。僕は初日の約束通り稲葉さんに勉強を教えることにした。
 稲葉さんはすでに教科書類は持ち込んでいて、朝食を食べ終えるとさっそく数学の勉強を始め、僕は分からないところを指導する。
 とはいえ人に物事を教えること自体初めてに加え、僕から稲葉さんへの声の伝達が遅いから大変だ。どうしても即答と言う事が出来ず、声に含まれる感情を相手に伝えることが出来ないため言葉を選び更に遅れてしまうからだ。
 あと利便上稲葉さんの隣でないとやりにくいため、拳二つ分の間隔で僕と稲葉さんは同じベッドの上に座っている。
《稲葉さんが弱いところは文章問題の読み取り》
 教科書とノートとは別に、僕の声の役割をするスケッチブックを置いてなんとか会話を成立させる。
「そうなんですよ。計算式が出てれば解けるんですけど、文章から数式が出てこなくて」
《まったく分からなくても方向性はある。そこに合う公式を当てはめていけば解けるよ》
「難しいですよ」
《大丈夫。やって》
「はーい。えーと……これは連立方程式よね」
 稲葉さんはぶつぶつと呟きながら再度文章問題に挑戦し始めた。
 今やっている問題は比較的簡単だ。きっと僕の教えがなくても解けるだろう。
 僕はベッドの側で山積みとなっている本を一冊拾い、最初からではなく真ん中からぺらぺらと捲る。
 五分ほど僕の教えなしで稲葉さんは問題と睨めっこしていると、病室の引き戸が開いた。
 病室に入ってきた人は、無地のシャツにスカートだけという買い物に出かけるような簡単な服装をした四十代くらいの女性だった。僕の知っている人じゃないから恐らく稲葉さんの母親だろう。
 稲葉さんは気づかないままノートと格闘を続けていて、僕は彼女の太ももを数回指でつつく。
「なに?」と入ってきた人にはまったく見向きもせず僕を見て、そのつついた指でドアを指差す。
「あ、お母さん」
「ヒカリ、そこの人はどなた?」
 さっそく僕を聞いてきた。親なら年頃の娘の側に男がいれば当然聞きたくなるから無理もない。
《僕のこと言って》
 僕は声が出せないから、聞こえない稲葉さんに文字で指示すると僕の代わりに答えてくれた。
「昨日交通事故で同室になった井上誠治さんだよ。今はベッドがないからここにいるけど、空いたらそっちにいくの」
「……井上さん、ヒカリにはなにもしてませんよね?」
 再度稲葉さんに向けて文字を書く。
《君に何もしてないことを言って》
「お母さん、井上さんはなにもしてないよ。今だって勉強を教えてもらってるだけなんだから」
 すると母親も紙とペンを手提げかばんから取り出して書き始めた。
《本当?》
「本当だよ。それにほら、左手にはナースコール持ってるもん」
 もし僕が何をしてもすぐに助けを求められるように、僕とは反対側の左手にはしっかりとナースコールが握っていることを見せた。
《それに他の部屋のベッドが空き次第出て行きます》
「あなた喋れないの?」
《ノドをケガしていて、当分は無理なんです》
 母親はすぐさまペンを走らせると、僕ではなく稲葉さんに向けて紙を見せた。
《ヒカリ、本当に何もされてない?》
「うん。大丈夫だよ」
『ならいいけど』
 気づかれないようにはぐらかすのと違って素の表情で言ってくれれば説得力は高い。おかげでどうにか稲葉さんの話を信用してくれた。
「井上さん。同室と言うならヒカリの病気は知ってるわね?」
 頷いて知っていると返事をする。
「くれぐれもヒカリの気を落とさせることは言わないように」
 もう一度頷く。
「じゃあ少し席をはずしてもらえる? ヒカリと話したいの」
《母が君に話しがある。デイルームに行く》
「でもまだ部屋から出歩けないんじゃ」
《車いすを使う》
 いくら怪我していてもこの小さな病室内だったら歩くことは出来る。それと脚を怪我した人のために車椅子も用意されていて、僕はベッド側においてある車椅子まで歩くも、脚に体重を乗せるたびに痛みが脳に瞬時に来る。
 脚が痛むのは当然だった。病院で目を覚まし入院宣告を受けた次の日に立っているのだから、痛みを出さないほうがおかしい。
 左腕以外は何針も縫う裂傷が多数あるため怪我する前のように歩くことが出来ず、自然と老人が歩くように鈍く重心を下げるように前かがみとなってしか進めない。
 僕はなんとか一度自分のベッドに座り、折りたたまれた車椅子を開いてそれに座る。
「お母さん、少しは助けてあげてよ。井上さん私の勉強見てくれたんだよ」
 ……出来れば歩き出したところから言ってほしかった。
 まあ、女性から見れば男は少し苦労したほうがいいと思っているのだろう。あくまで知り合いであって友達じゃないのだから。
 僕は普通に動く左腕と、鈍痛する右腕を動かして病室を出た。
 ……なんだろう。身分的には男のほうが上だけど、立場的には女のほうがはるかに強い気がしてならない。
 何もしてないのに痴漢と言われれば一方的に罪にされ、何か物を言えば変な話を膨らませられる。知り合って二日目だと、少し離されるのが普通なのかそうでないのかいまいち分からない。
 だが、最終的にフィーリングが合わなければ早々に会わずになって終わりだ。
 稲葉さんとも、病室が変わればそういう関係で終わるだろう。
「井上さん」
 談話室の前まで車椅子を移動させていると、背後から稲葉さんの声がして、その声が次第に大きくなってくる。
 左車輪だけを回して振り返ると、廊下の置くからパジャマ姿の稲葉さんが走ってきていた。
 さすがに「どうかしたの?」と文字にする時間がない。
「ごめんなさい。お母さん、井上さんに変な不信感持ってて」
 娘が男と一緒にいればそう思うだろうさ。高一だったら彼氏の一人くらいいても不思議とは言わないが、堅物の親なら心配して当然だろう。
《気にすることない》
「お母さんには何度も大丈夫な人だって言っておきました。さ、病室に帰りましょう」
 稲葉さんは車椅子の背後に回り込むと、グリップを掴んで車椅子の主導権を僕から奪った。
《いいの?》
「はい。勉強の続き教えてもらいたいですし」
 車椅子は人が歩くほどの速さで動き始め、燦々と窓から注がれる日の光を全身で受けながら廊下を進む。
 どうやら稲葉さん自身は僕のことはどうでもいいとは思ってないらしい。少しマイナスに考えすぎたようだ。
「それとも談話室に行きたかったですか?」
 首をゆっくりと横に振り否定する。
「じゃあ勉強教えてくれます?」
《いいよ》
 車椅子は左手に見えるナースステーションの前を通る。横目でその中を見ると、なにやら看護師たちが僕らを見ながらくすくすと笑っていた。
《ところで何を話した?》
 僕は気を紛らわそうと、ナースステーションとは逆の右側にスケッチブックを出して後ろの稲葉さんに見せる。
「簡単に男を隣に座らせるなって言われました。私もう十六なのに心配しすぎですよね」
《十六だから間違ったことはしてほしくないんだ》
 今の稲葉さんが万が一妊娠すると、いずれなる触覚の喪失で痛みが分からなくなってもし陣痛が起きたときにそれが分からなければどうしようもない。
 それに万が一子供も遺伝として発症した状態となれば、生まれてすぐ死んでしまう可能性があるからだ。
「これでも二人付き合った人がいるんですけどね」
 ……人それぞれだけど、十六で彼氏二人もいるのは多いのかな。そういう話は男子間ではしないからいまいち分からない。
「でももう別れちゃいましたけど」
《両親は知っている?》
「はい。知っているから心配してるんですけどね。ひょっとして井上さんも狙ってます?」
《狙っていればもっと君のこと聞いてる》
「それもそっか。じゃあ友達でいいですか?」
 なにがじゃあなのだろう。
 とは言え言って断る理由もない。
《いいよ》
「じゃあ誠治さん」
 僕は稲葉さんの顔を見た。
「お友達なら名前で呼びましょうよ。一つの部屋で寝る仲なんですから」
 ぎょっとして周りを見る。
 今いるところは病室へと続く廊下で、人数は殆どいなく聞いている人は見当たらない。
 もしここで噂好きな看護師に今の台詞を聞かれたら、たちまちこの病院内では有名人だ。
 間違った表現とは言わないが、非常に危険な表現だ。
「ふふふ」
 その笑い声を聞くと、わざとしか思えず冷や汗が額から流れてきた。
 ひとまず返事はしておこう。
《わかった。ヒカリさん》
「ヒカリでいいですよ。年上なんですから」
 こうも主導権が次々に奪われてしまうとやりにくい。
 早いところ声よ治ってくれ。
 僕は胸中でそう思いながら、僕とヒカリは自分らの病室へと入ったのだった。


三.『外出』

 入院すること一週間。良いことと悪いことが先生から告げられた。
 良いことは、ようやく車椅子なしで歩けるようになったことだ。歩けるといっても当然痛みはするし、半日も歩き続ければ足のつま先から股間まで痛む。しかし、車椅子を使わずに移動できるようになったのはありがたい。
 悪いことは、本来なら二週間で声が出せたらしいのに自然治癒が遅いらしく、流動食なら飲めるも声はもう少し経たないと出ないらしい。
 それと歩けるようになる少し前だが、僕の病室は変わって六人用の大部屋へと移された。もちろん病院側としては当然の措置であるため文句もない。ただヒカリとは友人関係になったため、気軽にヒカリのいる部屋に入れる。
 やはりというか、入院患者は中高年が多く十代後半は僕一人しかいなかった。
 交通事故に巻き込まれた人たちの大半はまだ集中治療室に入れられ、軽傷の人たちはすでに退院している。
 僕みたいな中途半端な怪我の人は他にはいなかったらしい。近い人がいれば話も出来るも、二十も三十も離れていれば少し無理だ。
 もっとも殆どの人たちは関わりを持たずカーテンを引いて自分の空間を作っているから、話しかけ自体に応じないのだから知り合いにもなれない。
 仕方がない、ヒカリのところに行って時間を潰そう。
 僕はベッドから降りて、壁伝いで病室へと向かう。
 基本病室というのは自分らのベッドの周囲を覆うカーテンがあるため、個室以外では病室のドアを閉めることはない。けれど今ヒカリの病室は二人部屋でも利用者は一人で、年頃の女の子ということで扉は閉まっている。
 僕が来ても同じで、『稲葉ヒカリ』と書いてある名札のある病室は閉まっていた。
 ……いるかな。
 僕は戸を開けヒカリのいる病室に入る。
「んーと……」
 今日は読書ではなく、参考書やノートを開いて勉強をしていた。
 少し書いては止まって、少し書いては止まってと、ゆっくりながら確実にノートにペンを走らせる。参考書を見ると今日は英語のようだ。
 僕は気づいてもらおうと、ヒカリの視野に入るところで手を振る。
「あ、誠治さん」
 やはり動くものに反応するのは動物の本能だ。ヒカリはすぐに僕に気づいて顔を向けた。
《ひまだから来た》
 なんだか女に会いに来た男の言い訳な気がするが、考えないようにしよう。
「じゃあ教えてください。英語大の苦手なんです」
《文法は教えられるが、発音は無理》
「分かってますよ。発音は読みを書いて教えてくださいね」
 ヒカリは文字で教えられることにあまり気にせず、再び勉強に集中し始めた。


「……誠治さん」
 僕が病室に来て一時間。ノートに英文を書きながらヒカリは口を開いた。
 なんだろう。
「ばかばかしいですよね。もうすぐ世界が分からなくなるのに勉強してるなんて」
 なんだか重い話をし始めた。
《ならどうして勉強をする。この前は治ったときのためと言った》
「単なる気休めです。本当ならたくさんの思い出を作りたいんですけど、入院してから友達も来なくて。だから本とか読んで、暗闇で思い出そうと思っていたんですけど、もし治らなかったらと思うと……」
 ヒカリは平常心を保っているようだが、表情は今すぐにでもやってくる絶望に恐怖して泣きそうになっていた。
 ……要するに暗闇の未来を恐れているわけだ。
 もうすぐヒカリはいつ光が注ぐか分からない暗闇の世界に身を投じようとしている。それから一生を暗闇で過ごすのかもしれないし、ひょっとしたら光が注ぐのかもしれない。もし後者なら世界を知らないままだから一般学問を身につけようと思って勉強をしているんだ。
 ただ社会に出ると学問は一部ぐらいしか役に立たないし、高校一年の一学期に行う授業は中学の復習を主にするのであって大した進展もしない。
 僕からすればはっきり言って時間の無駄だ。
《僕はヒカリじゃない。僕は病気じゃないから辛さも知らない。もし暗闇になるならその暗闇の中で照らす光を見る》
 当然今書いた光は名前のヒカリではない。
「光?」
《思い出。僕から見たら勉強はムダだ。光が戻ったあとに勉強したって遅くないし、学生時代で勉強が終わるわけでもない》
「でも入院してるから外に出られないです」
《先生と話をすればいい。感覚以外は健康だから親と一緒に外出できる》
 今のヒカリには思い出が無さ過ぎる。
 僕が来るどれくらい前から入院していたのかは知らないけど、ヒカリはこんな毎日毎日何の変化もないところにいるより外に出るべきだ。
「先生許可してくれるかな」
《思い出を作るなら言え》
 命令調だけど、ヒカリのためならこれぐらいしたほうがいい。
「じゃあ先生に言います」
 ヒカリはそう言った後、教科書とノートを閉じた。
「はぁ、もういいや。得にならない勉強するのはやーめた」
 そう言って大きく背伸びをすると仰向けでベッドへ倒れた。
《勉強し始めた日にそれを思えば、もっと別の思い出があった》
「言わないでください。分かっててやってたんですから」
 むくれるように頬を膨らませ、頭にあった枕を抱きかかえ顔を隠した。
《これからは別のことしろ》
 枕を剥ぎ取り、見せないと分からない僕の言葉を見せる。
「はい。それであたしの回診は一番後なので、誠治さんの回診が終わったら来て一緒に言ってもらえます?」
 僕は口で「わかった」とゆっくりと動かし返事をした。いくら声が聞こえなくても、口の動きでその人が何を喋っているかは分かったりする。
 確かそれは読唇術と言うのだったかな。
 そしてなんだか押し倒している形だと僕は気づき、急いでヒカリから離れたのだった。



「稲葉さん、回診の時間ですよー」
 僕の回診が終わって十分後、二十代半ばか後半の医師がヒカリの病室に入ってきた。ネームプレートには『荒垣みつや』と書いてある。
「おや井上さん、どうしたんですか?」
《ちょっと稲葉さんについて話があって》
「……分かりました。ひとまず診させてください」
 僕はスケッチブックを閉じてドアへと向かうと、先生と看護師はカーテンを引いて診察を調べ始めた。
 シルエットで薄くだけど先生達とベッドに座るヒカリの様子がわかる。ヒカリは最近聴覚と失った事で手話が出来ない。医師や看護師が手話を身につけているかは知らないが、こういうとき会話がしにくいのはどちらとも面倒だ。
 それでも先生は紙に文字を書いてヒカリに見せているのが見え、ヒカリはパジャマの上着を脱いだ。
 さすがに見るわけにはいかず後ろを向いて待つ。
 数分ヒカリと先生はやり取りをするとカーテンが引く音が聞こえ、僕は振り返るとパジャマのボタンを止めるヒカリが目に映った。
 友達とはいえ外に出てれば良かったと思った。
「感覚以外に不調は見当たらないね。それで話とは何ですか?」
《稲葉さんは、感覚を失っている以外は健康ですよね》
「健康と言うのは少し違いますが、肉体的なことに関しては健康ですよ」
《外出届を提出しても大丈夫ですか?》
「……そうですね。息をするだけですとウイルスは拡散しませんし、汗なども小まめに拭けばウイルスも拡散しない。今現在の症状ですと付き人がいれば外出と外泊は許可できますよ」
《外出OK》
 即座に大丈夫なことを伝える。
「よかった。じゃあお母さんに連絡しないと」
 感染しても発症せずに終わるウイルスだからこそ認められることだ。もし確率が高ければ外出なんてさせられない。
 こういうのを不幸中の幸いとでもいうのかな。
「井上さんが来て以来、稲葉さん元気になりましたね」
《僕はひまだから来ているだけです。それに同情もしている》
「もし井上さんも外出するときは、ちゃんと外出届を提出してくださいね。それでは」
 なんとも人当たりのいい荒垣先生は笑顔でそう言って、看護師の木原稔さんと共に病室から出て行った。
《僕の補助はここまで。あとは家族と一緒に色々なところに行ってきなよ》
「はい。あ、最後にもう一ついいですか?」
「なに」と口パクで聞く。
「お母さんの声を文字にしてください」
 少し考え、なるほどと僕は自分の手を叩いた。


「じゃあ電話しますね」
 触覚と視覚が失う時期は大まかにしか分かっていない昨今では、一日も早く思い出を作りたいらしい。
 今日はヒカリの母親は来ないらしく、そのため院内の公衆電話から掛けることになった。
 とはいえ非常に恥ずかしい。
 その理由は格好にある。
 聞くのは僕の役目で話すのはヒカリの役目。耳の役割をするためにはヒカリに親の言葉を文字にしなければならず、二人羽織のように後ろから手をヒカリの前に回してスケッチブックに文字を書かないといけない。つまり必然と密着しないことにはうまくいかない訳だ。
 ヒカリは周囲の目なんか気にしてないらしいが、同じ入院患者の人達は小言をしたりして僕らを見ている。
 理由を知っていればこの格好は間違いでないと分かるが、分からないとやっぱり危ない人と思うのだろう。
 いつ呼び止められるのか分かったものじゃない。
《最初はこの状態を話して返事するまでに少し時間かかると言え。母の声は「:」君が言う言葉は「・」と語尾に付ける》
「はい」
 ヒカリは長時間になると予想し、百円を入れてボタンを押し始めた。
《受話器持ってて》
「はーい」
『トゥルルルルルル……トゥルルルルルル……はい稲葉です』
 受話器の奥からこの前聞いたときと同じ女性の声が聞こえてきた。
《母》
「お母さん。私、ヒカリ」
『ヒカリ? え、耳聞こえるようになったの?』
《きこえるようになったの?:》
 漢字を書く時間はないからひらがなで書く。
「誠治さんにお母さんの声を文字にしてもらってるの。だから少し返事に時間が掛かるけど我慢してね」
『じゃあ今私の声を聞いてるのは井上さん?』
《そうだよ・》
「そうだよ」
《用件を言って》
「それでお母さんに頼みたいことがあるの。出来ればなんだけど視覚が失うまで色々なところに行きたいの。思い出作りたくて」
『思い出?』
 スケッチブック一ページを使い切り、次のページに捲って文字を書く。
《思い出?:》
「うん。だめかな」
『駄目じゃないけど、私若い人の遊ぶこと何も知らないわよ?』
《若者の遊ぶこと知らない:》
「いいよ。日帰りでもどこでも。私、ずっと病院にしかいないで真っ暗になるのはいやなの」
『……井上さん。一緒に出かけてもらえます?』
《僕が?・》
「え、僕が?」
 今のヒカリのクエスチョンは、ヒカリの母親に対してじゃなくて僕に向けてだろう。
 僕のクエスチョンは母親に、喋ったヒカリは僕へとなんとも不思議な構図が完成した。
『もちろん日暮れまでに戻って来てもらいますけど、私みたいなおばさんとじゃ娘がつまらないだろうから、娘をよろしくお願いします』
 予想外な返事が返ってきた。
 十六という年齢を考えれば自立という言葉が出てくる。だがそれはあくまで精神面的であって社会的、肉体的に自立が出来なければ親が手助けをするのが普通だ。それに親は二十までは子供を育てる義務もある。
 偏見的な解釈になるけど、つき合わされたくないのだろう。もちろん今言ったのが理由なのかもしれないが、どっちにしろ親としての言葉ではない。
《わかりました・》
「わかりました」
『娘のことよろしくね。何かあったら許さないから』
 だったら自分が行けと言いたい。けどヒカリの口から言わせるわけにもいかず、そう思っているうちに通話は切れた。
 ヒカリが持つ受話器を僕は取り電話に戻す。
「それで一体何がどうなってるんです?」
 ヒカリにとっては僕が書いた文字を言うだけであって、しかも文字だけでは内容はまず読み取れないのだろう。
 僕の腕の中でヒカリは振り返って聞いてきた。
《僕が付き人をやれだと》
「誠治さんが?」
 頷いて肯定する。
「お母さん、嫌なんだね。行くの」
 そう受け取る以外ない。普通の親なら娘が不幸になるのだから親子水入らずで日帰りでも一泊旅行でもする。十六を考えれば友達か彼氏ともなるけど、親から見れば前者を考えたくなるはずだ。なのに後者を選んだということはやはり嫌なのだろう。
《ヒカリが嫌なら僕は行かない。どうする? 友達と行く?》
「お願いします」
 すごい嫌々っぽく答えた。
《嫌ならはっきりと言えばいい。こんな状態で外に出ても思い出にならない》
「……少し考えます。明日、朝の回診が終わったら来てください」
 最後に一度だけ頷いて僕はヒカリと別れた。


四.『デート』

 入院をすると第一に思うこと、それは退屈≠セ。
 家にいればネットしたり、テレビや本を見たりして時間を潰すのは簡単だ。でも病室内には有料テレビしかなく時間を潰すものが殆どない。一応両親から暇つぶしの物は持ってきてはくれたもののそれは二冊だけの漫画だ。携帯ゲームも持ってきてくれたが充電式で病室にコンセントはない。しかも充電器を持ってきてもない。
 つまり退屈だ。
 もっとも回診の後に会うヒカリの返事次第で今日の予定は変貌する。
 耳が不自由なヒカリが楽しめる場所。ありそうに見えて少ないが、あるといえばある。基本的に娯楽施設は目と耳で楽しむのばかりだから、耳が使えないと楽しさは半減する。
 運動系だと僕が満足に動けないし、かといって映画館だとヒカリがつまらない。音がなくても楽しめる場所。それが問題だ。
「回診の時間でーす」
 行動の引き金となる回診の時間がやってきた。

 時刻は八時を回り、僕はほぼ毎日来ている外科二人部屋へときた。
 ヒカリにとっては納得のいかない状況だろう。何がうれしくて出会って一週間そこそこの男と外出しなきゃいけないのだ。考え方は人それぞれだけど、せめて数年以上は友人関係で一緒に遊びに出かけたいはずだ。
 ただ遊びに良くのなら構わないかもしれないが、ある境を過ぎたらそれで終わりだ。その貴重な時間をまだ深く知らない僕と出かけるのはいい気持ちはしないだろう。
 それでも言い出したことだから、できる限り笑ってもらえるように努力をしよう。
 僕はそう思いながら戸を開けて中に入る。
 瞬間僕は硬直した。
 二人部屋だが同室になる人がいないため実質一人部屋だ。
 だからか、ヒカリはベッドの上で着替え中なのか生まれた姿の一歩手前である下着姿で座っていた。
 僕は慣れない光景に固まっているとヒカリがこっちを見て、叫んだ。
「きゃああああああああ!」
 高音の悲鳴が狭い病室内で反響し、花瓶が俺の顔面に――――



「ごめんなさい!」
 両手を合わせて、ヒカリは深く謝罪してきた。
 僕の鼻には巨大なガーゼが張られ、つーんと来るオキシドールの臭いが強制的に嗅覚を刺激する。
《女性の部屋に入ったのはこっちのせいだが、せめてカーテンは引いてほしかった》
「看護師さんと先生以外入ってこないから油断してました。痛いですか?」
《花びんをぶつけられれば痛いよ》
「ごめんなさい」
 これで七度目の謝罪。
 確かに友人以上カップル以下であるため、着替えを見られれば悲鳴を上げるのは許せる。だがどうやれば十キロ近くにもなる水の入った花瓶を投げられるのだろう。幸い重過ぎて速さがなかったから鼻血程度で済んだけど、下手したら骨折していた。
 ただそれ相応のいいものは見せては貰った。
 なにせ座っている状態とはいえ位置的にはヒカリの全身図が見えたのだ。シャツを着る前の状態で純白のショーツと、やや小ぶりで手に収まるほどの胸を覆うブラも全てが鮮明に脳内で記憶された。ああいう姿はネットじゃ簡単に見ることは出来るけど、これで花瓶をぶつけられたのは我慢しよう。
《それで昨日の答え。僕にえんりょしないで思ったことを言って》
「…………お願いします」
 姿だけで答えのように、いつものパジャマではなくジーンズに薄い長袖のシャツというシンプルだが出かける意思表示を僕に見せた。
《ぐうぜん同室になっただけの僕でも?》
「あれから看護師さんにお願いして他の人にも電話したんです。でも友達も嫌がって、付き合ってくれるのは誠治さんだけなんです」
 ヒカリは指をもじもじと擦り合わせながら、俯いて昨日のことを話した。
 どうして障害という言葉が付くだけで友達は離れていくのだろう。初対面でどこか異変や変わったところがあれば失礼だけど自然と離れようとするが、ヒカリは病気で感覚を失っているだけで変わっているわけではない。友達なら助けてあげるのが当然なのに、どうして離れよとするのか分からない。
 もしここで僕まで避けたらヒカリは病院から出ようとはしなくなる。
《いいよ。言い出したのは僕だ。最後まで付き合う》
「お願いします」
 そんなに頼れる人脈がないのか、ヒカリはお辞儀までしてお願いをしてきた。
《外出届、出しに行く》
「はい」
 僕の文字を見て、ヒカリは少しだけ表情が和らいだ。


「んー、久しぶりの外だー」
 そう言ってヒカリは燦々と注ぐ真夏の日差しを全身で受け、大きく背伸びをした。
 本日の天候は曇り時々晴れ。空には疎らに雲が散りばめられ、日差しが地上を照らしアスファルトを熱し、セミが絶え間なく鳴り響いて今が夏だと温度と音で伝えてくる。
「それで誠治さん、どこに連れて行ってくれるんですか?」
 すっかりデート気分のヒカリは聞いてきた。
《遊びを目的なら遊園地。風景を目的なら東京タワーか高層展望台》
 さすがにスケッチブックは持てないから、メモ帳にボールペンで文字を書く。
 音を無視して楽しむにはそれ以外の感覚で楽しむ必要がある。もう一つの定番として映画が来たが、字幕の出る洋画しか見られず、必然的に邦画は採用できず楽しみも半減する。今では効果音や音楽に合わせてシートが振動する映画館があるが、それでもヒカリが望まないうちは誘わないほうがいい。プールと言う選択肢もあるが、僕自身が入れないため却下だ。
「遊園地がいいです」
《じゃあ行こう。混雑してるだろうから手をにぎるけどいい?》
 するとヒカリは僕のかばんの紐を掴んだ。
 ちゃんと考えてくれている。僕は両手を使って文字を書くから、腕や手を握られれば書けなくなる。しかも恋人みたいに腕や手ではなく肩掛けかばんの紐を握れば、おのずと関係が友達程度だと示唆される。
 僕は人差し指と中指で病院の門を指差して、僕たちは歩き出した。


 さすが行楽日和であり、行楽時期であり、行楽施設だけはある。遊園地入場券売り場だけで長蛇の列が並び、駐車場は満員御礼のように満車状態となっているほど人が来ていた。
 遊園地など娯楽施設はこの時期が書き入れ時だから仕方がないといえば仕方がないが、こうも多すぎると気が滅入ってしまう。
 ただ他の遊園地を比べて違うのは、夏場専用のプールがアトラクション地区と同等の広さで併設されていて、ウォータースライダーや飛び込み台、波や流れるプールなどがあって人気の一つだ。
 泳ぐスペースも無いとまでは行かずとも海まで行かずに冷たい水に浸かれ、しかも水着姿のままでアトラクション地区でも遊べるから来場者は多い。
 閉鎖を続々とする遊園地が多い近年ではよく長持ちしていると思う。
《学生二枚と言って》
 指示する紙を見せ、料金表に書いてある二人分の料金をヒカリに渡す。
「あ、はい。学生二枚です」
「では学生証を見せてください」
 すっかり大事なものを提示するのを忘れていた。明らかに見た目で判断できる小中学生はいいにしても、高校生以上からは学生証を見せないと学割は効かないんだった。
 僕はすぐに文字にしてヒカリに学生証を出すように指示する。
「あっ」
 ヒカリも気づき、僕らは学生証を取り出して販売員に見せた。
「はい。どうぞ」
 販売員は入場券と一日使用できるフリーパスを僕らに渡して、列から横にずれる。
《まずはなに乗る?》
 そう書いたメモ帳をヒカリに渡して、チケットと一緒に渡された地図を開く。
「そうですねぇ。誠治さんはどういうのがだめなんです?」
《体が激しく動くのがダメ。荷物番してるから色々と楽しんで》
「誠治さんも楽しみましょうよ」
 そう言いながらヒカリは僕のかばん紐を掴んで入場口へと引っ張る。
《僕の体はまだ完全じゃない。松葉杖なしで歩けても無理な運動は出来ない》
「じゃあどこいきます?」
 それをこっちが聞いたんだけど。
「あ、誠治さんが聞いてたんだった」
 ノリツッコミ? と胸中で突っ込みを入れてしまった。
「じゃあですね……お化け屋敷!」
 また突っ込みを入れたくなったが、この遊園地デートはヒカリのためにやっていること。僕の意見は僕自身で破棄しよう。
 僕たちは入場して、はっきりと言って最初にはまず行かないお化け屋敷へと向かう。
 人気はジェットコースターと比べるとやや少ないお化け屋敷。でも二十人と親子やカップルが並び、雲の隙間から降り注いでくる日差しの所為で誰もが手や団扇などで扇ぎながら待っていた。
「暑いですね。誠治さん暑くないですか?」
 もちろん暑い。
 手の甲にはきらきらと光る汗が見え、冷夏とニュースでは言ってもうすぐ九月になるにしてもやはり暑く、帽子を持って来ればよかったと何度も思う。
 タオルで何度顔を拭こうとすぐに汗が染み出て額を伝っていく。
 ヒカリも暑いらしく、何度も何度もタオルで顔や腕を垂れる汗をふき取っていた。
「なにか飲み物買って来ましょうか?」
 まばらに雲が見えようと日差しは僕らを照らし水分を奪っていくため、我慢できなくなったヒカリは提案してきた。
《僕が行く。なに飲む?》
「あ、じゃあスポーツドリンクをお願いします」
 僕は頷き、メモ帳をポケットにいれて近くの自販機へと向かった。
 やはりプールが併設されているからか、プール目的でここに入場した後に水着姿でいる人たちが多い。その大半はカップルでなんとまあイチャイチャと腕を組んだり手を握り合ったりしている。
 なんだろう、日差しよりカップルのほうが暑い気がしてならない。
 そんなことを思いながら自販機の前に差し掛かると、隣にあるお土産品が売ってある売店でいいものがあった。
 ……これも買っていくか。
 ついでに売店に置いてあるものにも手を出した。


「はぁ……プール入りたい。せっかくプールと一緒のところに来たんだから、入りたいなぁ。わぷっ」
 ブツブツ文句を言っているヒカリに背後から近づいて、無防備のその頭に買ったものをかぶせた。
「え、帽子?」
《ボウシがないときつい。買った》
 買ったのは需要があるのかいまいち分からない、太陽光で動くミニ扇風機付の帽子だ。帽子のつばに扇風機が、帽子の頂上にはソーラーパネルがつけられていて、太陽がある限り永遠と回って涼しい風を顔に浴びせる微妙に得する帽子だ。
「え、でも……いいんですか?」
 頷く。
「あ、ありがとうございます」
 スイッチを入れると太陽の光を吸収して電気に変え、扇風機は回りだして風が顔の熱を冷ましていく。
「涼しい」
 それとリクエスト通りにペットボトルを渡す。
《飲みすぎると汗が出るから、ほどほどに》
「うん」
 子供じゃないんだからそんな幼さを感じる返事はしないで欲しい。
 ヒカリはそんな僕の気持ちなんか無視して、ペットボトルの中身を胃へと流し込んでいく。
 そろそろ順番だ。


「うえぇぇぇ、怖かったですぅ」
 僕の腕にがっちりとしがみ付きながら、目じりに涙を溜めてヒカリは喚いた。
 ここに入るときと比べるとテンションは天から地だ。確かに失神するほど怖いお化け屋敷があるところはあるけど、ここは比較的子供が驚く程度だからここまで怖がらない。
 僕でさえビクつくことはあっても声は出たりしないのによくここまで怖がられると思う。
 最初に入ったときは一人で歩いて僕がすぐ後ろを付いて行っていたはずなのに、ゆっくりと僕との距離は縮まって最終的には僕の腕にしがみ付くまでになった。
 お化け屋敷から出ても僕の腕を離そうとしないが、代わりにヒカリの胸を押し付けられる形となってそこは少しばかり嬉しい。
 ヒカリが僕の腕を開放してくれたのは、お化け屋敷から出て五分経ったあとだった。
《どこかベンチ行く?》
 お化け屋敷から離れ、落ち着いたところで僕は休む提案を出す。
「いえ、せっかく誠治さんがお金出してくれたんですから、今日一日たくさん楽しみます」
 正直言うとそうでないと困る。入場料と一日フリーパスは全部僕守っているのだ。せめてお互いに満足してから帰らないと元が取れない。
 けど男の意地としてそんなことは決して顔にも文字にも出せず、次の行動を聞く。
《次は?》
「んー……メリーゴーランド」
 ……気のせいか、段々病院にいたときのヒカリと今のヒカリが別人で見える。簡単に言えば子供っぽい。というより子供だ。
《メリーゴーランドは一人で乗ってくれ》
 さすがにメリーゴーランドには乗れない。
「えー、乗りましょうよ」
《親子でならまだしも、カップルじゃ乗れない》
「ぶーぶー」
 お願いだから大人の対応をしてくれ。メリーゴーランドは本来小学生以下が乗るのが大半だ。中にはカップルで乗るのもいるけど僕はごめんだ。
 いくらヒカリの意見を尊重しようと、こればかりは断固拒否だった。
「じゃあいいです。ジェットコースターに行きましょう」
 普通なら一回目がジェットコースターのところを、なぜお化け屋敷なのだろうか。
「誠治さん行きましょう」
 年齢制限と純粋な拒絶を無視すれば万人がまず選ぶのはジェットコースターだ。こればかりは僕も拒む理由はどこにもなく、ヒカリもそれは分かっているのか手を引っ張ってジェットコースターへと行くことにした。


「あー楽しかった。やっぱり遊園地とくればジェットコースターですよね」
 お化け屋敷を終えてから二時間後、ようやく二回目のアトラクションが終わった。遊園地の目玉がジェットコースターだから、どうしても人は集まってしまい順番がくるのに軽く二時間かかってしまった。
 しかも左右上下さまざまに動くから、体中の傷口より悲鳴が出てくる。せめて喉だけは無事でいて欲しいところだが、なんだか痛みを感じるから安心出来ない。
《もうお昼回ってる。昼食食べる?》
「あ、はい」
《レストランは満員。ラーメンでも食べる?》
「でも誠治さん、喉の傷治ってないから食べられないんじゃ……」
 そんな心配をさせないように、僕はかばんから食事を取る時間が無い人でも一日元気に働けられる飲料栄養食を取り出す。
《これなら平気》
「じゃあ食べに行きましょう。丁度あそこに出店ありますから」
 出店いうな。
 ヒカリは僕の手を引っ張って、ラーメン屋に出来ている列の最後尾へと並ぶ。
「でも残念です。せっかくご飯食べるんですから一緒に食べたかったです」
《来週か、再来週には食べれる》
「そのときには触覚が消えちゃってますよ」
 そうだすっかり忘れていた。ヒカリが外を知るすべはあと少ししかなかったんだった。顎を動かしている感触さえ分からなくなれば食べている実感すらないのになに言っているんだ。
《ごめん》
「いいですよ。止められないんですから」
 そう言ってヒカリは微笑んだ。けど笑顔の奥底の表情は少し落ち込んでいるように見える。
 思い出を作るために外に出ているって言うのに、なに落ち込ませているんだ僕は。
「それよりも楽しませてくださいね」
 それだけは精一杯してやろうと心に誓った。


「次は何に乗ります?」
 濃厚で香ばしい香りが漂っていたラーメンを食べ終え、満腹そうにお腹を摩りながらヒカリは聞いてきた。
《ヒカリがメインだから乗りたいのを言って》
「だったらメリー…………はいいです」
 それだけは勘弁してくれとばかりに、僕は無言で眼差しを送ると根負けしてくれた。
 ここの遊園地にはプールのほかに三十近くものアトラクションがある。プールだけでも一日が終われるほど楽しく、アトラクションだけでも一日だけで全てはまず乗れない。
 メリーゴーランドは諦め、ヒカリは地図を見ながら次何を乗ろうか模索する。
「……誠治さん、水着になってもいいですか?」
 唐突に何を言うかなこの人は。
 すぐに意図はわかったけど、下手すれば変人のレッテルが貼られるぞ。
「ダメですか?」
《いいけど僕は化け物になる》
 言っては何だけど僕の全身の六割はガーゼや包帯が巻きついてる。事故からまだそんなに経ってないから包帯を解くには早く、今ここで水着になると痛々しくにしか見えないため水着にはなれない。
「じゃあ私だけで」
 意外と普通に僕のことは棚に上げて自分の要求を通した。
 もちろん止める理由なんてないし僕も構わない。
 僕はパンフの地図でレンタル水着のある場所を見て、その方角へと指を差す。
「ごめんなさい。わがまま言って」
 首を振って否定する。
《ヒカリが主役なんだ。これぐらいわがままでもなんでもない》
「ありがとうございます」
 やはり真夏の空の下だけあって、人の比率はアトラクションよりはプールのほうが圧倒的に多い。ざっと五倍ってところだろう。プールで一番の目玉はウォータースライダーで、敷地のどこからでも見える三十メートル以上ある高台から走る白・青のチューブがよく目立っていて、僕らはそこに向けて歩き出した。
 レンタル水着はプール入場口手前のお店で借りることが出来る。以前誰かが着ていたということで衛生的に嫌われるが、流行に沿って毎年水着チェンジをして煮沸除菌しているため女性陣はさほど抵抗せずに着たりする。
 さすがに自前のほうが多いが、ヒカリみたいに持ってきていない人のために用意してあり、僕らはカップルがたくさん集まるプール入場口前の建物の前に着く。
「じゃあ選んできますね」
 レンタル水着の店は男女完全別に区別されていて、耳が不自由で困ってしまうかもしれないも僕は手助け出来ない。念のためメモ帳とペンを渡せてあるから心配はないだろう。
 僕は着替えることが出来ないから、ヒカリが戻ってくるのを暫し待つ。


「お待たせしました」
 二十分程度僕は扇風機付き帽子で暑さから耐えていると、同じように帽子をかぶったヒカリが店内から出てきた。
 着てきたのは上半身がキャミソール、下半身はビキニで構成されるタンキニという水着だった。多分空をイメージしているのか、基調は青で輪郭は薄くも中心は真っ白い雲が一緒にあり、わき腹には燦々と輝く太陽の絵もある。
 パジャマといい水着といい、空か水色が好きなのだろうか。いや、名前がヒカリだから光の象徴となる太陽を選んでいるのだろうか。
《ビキニじゃないんだ》
 てっきりビキニかと思っていたから少し不思議に思った。
「恥ずかしいですよお腹を出すなんて」
 ヒカリの世代じゃまず言わない台詞だ。周りを見てもヒカリや僕に近い世代の女性たちはワンピースではなく露出度の高いビキニを着ている。夏だからオープンという考えであるだろうし、自分の体を男に見て欲しいと言う意思表示でもあるのだ。そして、ヒカリも十分に自分をアピールしていい体をしているのにお腹を出すのがいやというのは不思議だ。ワンピースじゃないところを見ると、彼女なりの妥協の結果だろう。
《似合ってるよ》
「へへ、本当なら一緒にプールに入りたかったです」
《僕も久しぶりに入りたいよ》
 最後に行ったのが中学の二年だったから素直に言えば入りたい。だが、今入ったらプールにいる雑菌を体内に入れることになるし、僕の血が水に流れ出すから常識的に考えて無理だ。
「じゃあ乗り物に行くとして、コーヒーカップとかどうです?」
《回しすぎて目を回すな》
「はい」
 服は確か貴重品を除き店内のコインロッカーにしまうようになっていているはずだ。だから僕はヒカリから身につける所のない財布を預かり、アトラクション方面に歩き出した。
 ……しかし男の性か、横に水着の女の子がいるとついつい見てしてしまう。
 紳士を貫こうというわけではないが、やっぱり僕は男なんだなと痛感する。
「誠治さん、そんなジロジロと見ないでくださいよ。見て見ぬ振りするの大変なんですから」
 おまけに気づかれている。どこの中学生だ僕は。
「誠治さん、大人に見えて結構子供なんですね。今じゃ女の人の裸だって普通に見れるのに」
《親しい人の水着姿は水泳の授業以外見ないんだ》
「どこの中学生ですかそれ」
 つい今考えたのと同じ事を言われた。
「そうですねぇ。遊びに連れて行ってくれたお礼で、私の水着姿は見ていいですよ。たっぷりエッチな目で見てください」
 僕は無言でヒカリの頭を引っぱたいた。
 やっぱり女は立場的に上だ。


 空の色は水色から朱色へと変わり、どこからともなくスピーカーの点検を兼ねて放送される帰宅放送が聞こえてくる。
 今日は久々に遊園地を満喫する事ができた。今までは友達同士の集団行動で好きに乗り物に乗る事はできなかったけど、二人っきりであれば少しだけ自分の意思を通す事はできる。ヒカリに合わせる感じだったけど、お陰で本当に楽しめることができた。
 時間は六時。そろそろ帰らないと病院の帰宅時間に間に合わないため、僕らは入場口へと戻ってきていた。
「あー、楽しかった。誠治さんは楽しかったですか?」
《楽しかったよ》
「こんなに遊んだの久しぶりでした」
《僕から見ると君は子供だったけどね》
「こういうときぐらいは子供に戻りますよ。人間たまに童心に返らないとやっていけませんよ」
 なんだろう。それをヒカリに言われると負けた気がしてならない。
 いや、水着姿を気にした時点で負けか。
「誠治さんだって、人目を気にせず子供に戻りたいときあるでしょ?」
《否定はしない》
「さっ、帰りましょう」
 僕たちは帽子の扇風機のスイッチを切って、病院へと戻ることにした。


「声が出せるのは二週間後ですね」
 帰宅早々の回診で、担当医師にそう言われた。
「本当でしたら今週末か来週には発声練習なのですが、喉の傷が開いているのでもう少し様子を見てから練習をしましょう」
 やっぱり激しく振動する乗り物に乗ったことが原因らしい。
 元々遊園地に行くことを伝えてなかったから僕の自己管理ミスだ。
《いいです。自分のせいですから》
「稲葉さんと外出するときは、くれぐれも気をつけてください」
 どうしてそのことを、という目で僕は先生を見た。
 いくら入院したとき同室だからって一緒に行動するとは言ってないはずだからだ。
「病院内ではもう有名ですよ」
 鎌をかけた風には思えず、普通に知っているような口で先生は言った。
 有名になってほしくないのに僕らの話はもう看護師達の肴となってしまっているらしい。無理もないか、花瓶をぶつけられ、毎日出入りしていれば噂にはなっても不思議じゃない。なにより病院という閉鎖空間内じゃ何かを隠し通すのは無理があった。
「くれぐれも不衛生なことはやめてくださいね」
 それに対して突っ込みを入れたかったが、馬鹿らしくまた目で訴える。
 するわけないだろ、と。
「彼女と違って井上さんのダメージは表面に出ますから気をつけてくださいね」
 先生はそう言って病室から退出していき、僕は左腕で顔に乗せて目を閉じた。
 参った。侮っていたけど僕の喉ってそんなデリケートだったのか。今まで何度も声を出そうとして我慢してきたのに、左右前後に激しく揺らしただけで完治延長だなんてあんまりだ。
 次から行くところは比較的動かないところにしよう。
 僕はそう思いながら疲れた体を癒す事に専念した。


五.『元カレ』

 遊園地での教訓から、僕は体を動かすところに行く気持ちは失せた。これ以上僕自身の怪我をひどくするわけにもいかないのと、もう一つ大事な理由があったからだ。
 それはヒカリに対してで、遊園地に行ったその日の夜にヒカリは錯乱状態に陥り一晩中騒ぎ立てる事件があった。
 病院に帰宅するまでなにもなかったから、付き添った僕にとっては意味不明の行動だった。
 翌日先生に聞いたところ、現在の状況と過去の状況との差が原因で引き起こした発作的な精神不安だという。元々予兆もなく突然感覚がシャットアウトする病気であって、次第に小さくなって慣れいくわけじゃない。そのため記憶の中にある音の世界と現在の無音の世界の差が大きく、そのことが精神を徐々に壊してい帰宅後に決壊したらしいのだ。
 そしてヒカリの脳は精神を守るためその暴れたときの記憶を封印したらしく、ヒカリは暴れたことを覚えていなかった。
 荒垣先生の話だと、毎日のように現在と過去のギャップを実感させていると発作が起こりやすくなるため、二日に一度で外出させて欲しいと言うことだ。
 予想でヒカリの触覚が消えるのは約九日後。つまり、あと肌で体感させられることは四回あるかないかとないかだ。こっちの資金と、ヒカリが楽しめるようなことを考えなければこの作戦は全て水の泡になってしまう。
 だから肌で感じることはできる限り避けるように考えて、今日もまたヒカリと街へ向かう。
「お待ちどうさまでした」
 病院の門の前で僕は待っていると、前に買ってあげた帽子を被ったヒカリがやってきた。
 かわいらしいキャミソールのワンピースを着ていて似合っているのだが、被っている帽子はまったく似合っていなかった。
 被ってくれるのはありがたいのだが、こういう場合は控えてほしいと思う。
「この前はなんか暴れたみたいですね。私全然分からなくて」
《仕方がないよ、僕だって同じ病気なら暴れるかもしれない》
「自分のことなのに、暴れたことが分からないなんていやです」
《忌まわしいことを覚えさせないために脳が行った応急処置》
「自分の体が自分のじゃないみたいでなんかいやなんです。それに誠治さんの喉も悪化させちゃいましたし」
《気にしてない。書くことも喋らないこともなれた》
「それで、今日はどこに行きます?」
《ゲーセン。あそこならハデに体は動かさない》
 だが本来あそこは騒音の巣窟。ヒカリだとそこは無音になるから大丈夫かは分からないものの、短時間であればそんなに悩む必要もない。なにより夢中になりさえすれば平気だろう。
《どうする?》
 単刀直入に紙に書いて尋ねる。
「……私、ゲームセンター入ったことないんです」
 予想とはまったく違う答えが返ってきた。
《入ったことないって、一度も?》
「はい。デパートとか子供が多い所だと側は通ったことはあるんですけど」
 本当に人それぞれで行く行かないはあれど、現代の子がゲーセンに入ったことがないというのは驚きだ。偏見で見ているとは言え、堅物な性格でなければ友達同士で一度は入ったりするはずだ。僕でさえ中学や高校では友人たちとちょくちょく遊びに行ったりしていたから、側を通った程度で入ったことがないというのには驚いた。
《行く? 行かない? 行かないなら高層展望台に行く》
「行きます。でも怖いです。ゲームセンターって不良のたまり場って聞きますから」
《それはひと気のないゲームセンター。これから行くのはこの街にあるし、警官の立ち寄り所でもある》
「じゃあ行きましょう」
 安全と分かるや否や、ヒカリは歩き出した。
 あいつもまた偏見で世間を見ているんだな、と思った。


 着いた場所はデパートなどワンフロアだけのゲームセンター施設ではなく、三階建てのゲームセンターの店である。全ての階にアーケードゲーム機が置かれ、老若男女問わず誰でも一日中遊べるのことをテーマとしたゲームセンターである。
 街のシンボルとまでは言わずとも、友達と遊びぶ場所やカップルのデートスポットとしてはやや有名で定期的に新機種を搬入している。プリクラなども豊富にあるため、自然と若者が多くここを利用としている。
 やはりゲームとなればテンションを上げさせるからか音楽が大きく、思わず耳を塞ぎたくなるほどの大音量の音楽が鼓膜を刺激してきた。
「ここがゲームセンターですか」
 きっとヒカリはここが騒音の巣窟というのは雰囲気だけで実感はないのだろう。ヒカリにとっては何も聞こえない空間でも、騒音である事を知らないから気にしているようには見受けられない。
《頼むから大声は出すな》
 ゲームセンターに入って最初に僕は忠告のメモをヒカリに見せる。
「え、出しませんよ?」
 遊園地で子供のようにはしゃいだのはもう忘れているらしい。
《安全でも絶対じゃないから、僕の服掴んでで》
「はい」
《UFOキャッチャーやカーレース、色々とあるけど何から遊ぶ?》
「色々と見ます。あたしここ何も知らないから」
《ここの三階にスロットルする場所がある。そこが基本不良のたまり場》
 もちろんそこだけにいるわけじゃあないが、不良=スロットは定番だ。ヒカリがまさかスロットに興味あるとは思わないが近寄らないのが無難だろう。
 大体ここにいる不良、つまりカツアゲしてくる連中はここで遊ぶ金欲しさにやってくる。青年が犯罪を起こして遊ぶ金欲しさとは、ここか如何わしいところに行くか女への貢に使うためが殆どだろう。
 それに一階は万人用。二階は対戦ゲーム及び技能ゲーム。三階がスロットやパチンコだから、一階だけのアーケードゲームで終わらせれば何の心配もない。
「こんな景品があるんですねぇ」
 最初に近づいたのはUFOキャッチャーの台で、ヒカリはその中にある特大の菓子袋を見て言った。
 ヒカリは知っているのかは分からないが、通常の十数倍はある巨大菓子は外見だけで中身も巨大と言うわけではなく市販されているサイズのが数十個入っているだけだ。
《こういうのはザラにあるよ。中には本物の宝石が景品のもある》
「どこどこ?」
 だから中にはだって。
 宝石に敏感になるのはやっぱり女の子だ。
「……あ、これ欲しいです」
 十台ほど並んでいるUFOキャッチャーのなかで、一つだけヒカリの動きを止める台があった。
 横から覗いてみると、それは懐かしい十年前に流行ったアニメキャラのぬいぐるみが無造作に置かれている台だった。上の名称には『レトロキャッチャー』と書いてある。
 なるほど。十年前に流行ったアニメのぬいぐるみを並べて、当時見ていた人たちをターゲットにしているんだ。
 子供のときに見ていたのなら大人でも恥ずかしくなく取ることができる。
 むしろここにあるのは全て、今の子供達は知らないキャラクターばかりだろう。
《ここにあるの全部見た》
「本当ですか? 私も見てたんですよ。毎日が楽しくてよくビデオに撮ってました」
《今の子供は知らないけど、僕らの世代だとみんな知ってる。どれが欲しい?》
「あれです、あのヒロインです。これ見たとき毎週楽しみでした。最終回なんて泣いちゃったんですよ」
 ヒカリは昔のことを思い出せて嬉しいらしい。子供のようなはしゃぎ方をしてぬいぐるみに埋もれたアニメの主人公の妹を指差した。
《分かった》
 とはいえ僕自身UFOキャッチャーは経験豊富というわけではない。七回やって一回取るか取れないかだ。しかも欲しいものは外に出ているわけではなく、他のアニメのぬいぐるみに埋もれているからあれを取るにはまずいらないものを退けなければならない。
 お金足りるか分からないが、ひとまず財布から一回分のお金を出して入れる。
「がんばってください」
 仕方ない、出来る根拠は何一つないがやれるだけがんばってみよう。

――三十分後

「わ、取れたー!」
 苦労すること二十五戦。やっと本願のぬいぐるみを台の片隅の穴に落とすことが出来た。
 ただ本願のを取るために、四つもいらないものまで手に入れてしまった。
「誠治さん、次カーレースやりたいです」
 僕のがんばりはそこで終わり、五つもぬいぐるみを抱えたヒカリはカーレースのある台へと近づいていった。
 僕はその五つのぬいぐるみを受け取って、持参したバッグの中につぶれないように入れる。タオル類を入れるために持ってきたスマートなかばんは見事なまでにポッチャリとなってしまった。
 ヒカリが元気なのはうれしいけど、僕の財布は元気がない。
「ひょっとしてもうお金ありません?」
 お札のない財布の中身を見ていると、ヒカリが気づいたみたいで聞いてきた。
 これに関しては頷くことしか出来ない。遊園地で使いすぎた。
「ごめんなさい。これからは私が持ちますね」
《ごめん》
「いえ、私も少しわがままでした。今度からは全額私が持ちますね。私あまりお金使わないのでスクーターぐらいは買えるんです。はい」
 そう言っていつ両替したのか、大量の百円玉を僕の手の平に乗せてきた。
「後で遊園地とさっきの分も幾分返しますね」
 理由を知らなければ女に金をたがる情けない男となる構図だ。
 ただヒカリはそう言うのは気にしない様子で、四人対戦可能のレーシングゲームに座ってハンドルやアクセルなどを踏む。
「ほら誠治さん」
 バンバンと隣の席を叩く。一体どっちが年上で主導権を握っているのか分かったものじゃない。なんだか子供と遊びに来た親の気分だ。
 僕は指定どおり隣に座って、お金を入れた。


「うう。素人じゃやっぱ勝てないです」
 七回ほどレーシングゲームを終えたところで、ヒカリは落ち込んだ表情を見せた。
 コンピューターを含めたレースをして、七回中七回すべて最下位じゃ落ち込みたくもなる。ちなみに僕は一位と二位ばかりだった。
《今日が初プレイならしょうがない。次行こう》
「あ、私お手洗いに行ってきます。そこで待っててください」
 僕は頷くと、我慢していたのかヒカリは手洗いの案内を探して向かっていった。
 背後では何人かの子供たちがいて、邪魔になるから僕は席を立って子供たちに席を譲る。
 レーシングゲームが見える壁際で僕は寄りかかり、先ほど手に入れたぬいぐるみをかばんから出して眺める。
 そういえばヒカリが欲しがっていたヒロインのアニメは全話ビデオからDVDに焼いていたから、今度家に来るときがあれば見せてやろう。どれほど美化した状態でヒカリが覚えているかは知らないけど、雰囲気は思い出せるだろう。
「はぁ」と、一度ため息が出た。
 財布を取り出して見ても、あるのはヒカリがくれた小銭だけで紙幣は一枚も残っていない。やっぱり遊園地で散財してしまったのだ。ヒカリには悪いけどこれからはヒカリが持ってくれないとなにも出来ない。
 そう考えていたら、下半身から脳に向けて尿意が来ていることに気づいた。
 ……僕もトイレに行こう。
 あと数時間は遊ぶのだから今のうちにトイレは済ませておこう。僕は矢印方向で知らせる青と赤の男女のマークを見てトイレへと向かった。


「ちょっと、あなた聞いてるの! 何か言いなさいよ!」
 関係者以外立ち入り禁止口とトイレがある通路に行くと、どういうわけかヒカリは子連れの母親になにやら怒鳴られていた。
「すみません。だから聞こえないんです」
「なにが聞こえないよ! あなた学校どこ? 家の住所は? 言いなさい!」
 一体なにが起きているのか分からないが、分かるのはヒカリが叱られ誰かの母親が叱っているということだけだ。ずぶ濡れの服を着ている三歳くらいの男の子が側にいるのを見ると、原因はこの子供だろう。
 ヒカリは聞こえないから何を言われているのか分からない。答えようもないから逃げられないんだ。
 僕はメモ帳に文字を書いてヒカリに近づく。
「あ、誠治さん!」
《何があった》
 ヒカリは僕に気づくと、逃げるかのように僕の後ろに隠れた。
「あなた、連れの男ね」
《すみません。この子は耳が聞こえないんです。私は声が出せません》
 ひとまず無駄に化粧が濃い母親を静めようと文字に書いて見せて、またヒカリに聞く。
《何があった》
「手洗いに行こうとしたら、あそこの冷水機で遊んでた子がいたからやめさせたらいきなり」
 ヒカリは目線で、トイレとは逆側の通路に置いてある冷水機をさした。
 なるほど。ヒカリにとっては悪戯していたのを注意したのに、親はヒカリがしたと見て激昂したのか。
 子供を溺愛していれば、注意した大人より子供優先で見る母親の悪いところだ。
「大事な服がぬれちゃったじゃない。弁償、してもらうわよ」
《待ってください。ヒカリは水のみ場で遊ぶこの子を注意しただけです》
「私のさとしちゃんがそんなことするはずないでしょ」
 一体何の根拠だよ、と僕は思った。もしヒカリも今の台詞を聞けばそう思うだろう。
《では聞きますけど、ヒカリがその子を濡らしてなんの意味があります?》
「知るわけないでしょ」
《いたずらをした子供を注意して、親がその人を注意する。おかしくないですか?》
「だからその人が私のさとしちゃんに水をかけたのよ」
《高校生が子供の服をぬらすなんてどれだけ精神年齢が低いんですか。それに、溺愛しているのなら一人にするのもだめだし、こんな教育の悪いゲームセンターに連れてくる親のほうが悪い》
 我ながらもっともな攻め方だ。
 確かに遊ぶとしてゲーセンは良いのかもしれないが、これから世界を知って覚えていく子供をこんな騒音だらけのゲーセンに連れて行くのは大間違いだ。
 ヒカリが嘘を言っているようには思えないし、男の子の服を濡らす悪戯なんて馬鹿馬鹿しいことは断言してもしない。
 考えてみればすぐに分かるようなことなのに、子供の母親は何度も舌打ちをした後子供を連れて立ち去った。
 あの子供、きっとまともに育たないだろうな。
 もし相手が数人の不良だったらこんな風には行かない。僕の心が折れずとも逃げることも出来なかったに違いない。
「うえええ、怖かったですよぉ。服濡らしたから止めようとしただけなのに、そしたらいきなり突き飛ばされて」
 僕の緊張よりも、ヒカリのほうが突然理不尽な事をされて参っていたらしい。涙目となって僕の服を強く握って来た。
《世の中にはああいう人もいるんだ。正しい事を間違って受け取る人がね》
「なに言ってるのか分からなくて、聞こえないって言っても分かってもらえないみたいで本当に怖かったです」
 ヒカリは真面目に育ってきた分、家族以外の人から叱られた事がないのだろう。十六ならバイトもまだしていないろうから叱られる経験がない。この場合は向こうが完全に悪いけど、怒られることがないから余計に弱気になったんだ。
「誠治さんが来てくれなかったらどうなってたか分かりませんでした」
《帰りが遅ければ見に来てたよ》
「格好良かったですよ。あ、トイレ行ってきます」
 まだ行っていなかったのか、ヒカリは少しもぞもぞとするとトイレへと駆け込んで行き、僕も男子トイレへと向かった。


《楽しめた?》
 病院への帰宅途中に僕はヒカリに聞いた。
 時間はもう四時を回り、これ以上長居してあの発作を起こさせるわけには行かないから帰ることにした。
 あと今日消費した金額はあまり言いたくない。僕とヒカリが今日あわせたのを使えば軽く旅館で一泊はできるから、全額も考えたくない。
「はい、少しだけ怖かったけど他は全部楽しかったです。つくづく私って井戸の中の蛙だったんだなーってわかりました」
《人間一生掛けても世界の全てを知ることはできない》
「こんなことだったらもっと色々なところに行けばよかったと思います」
《あと数回。どこに行きたいか考えておいて》
「はい……ぁ」
 急にヒカリは立ち止まり、歩く僕の隣から消えた。
 振り返ると、ヒカリは顔を強張らせて立ち竦んでいる。ひょっとして例の錯乱かと思ったが少し違うようだ。
 僕は近づくと、ヒカリは振り返って逆方向に進みだした。
 呼び止めができないから、ヒカリの肩を掴んで止める。
「誠治さん、こっちから帰りましょう」
 あまり冴えない表情を見るとなにか訳ありらしい。けどここから逆方向から帰ると倍近く歩くことになる。
《どうした?》
 ひとまず僕はヒカリに聞く。
「ちょっと会いたくない人がいて」
 ……なるほど。この言動からすると本当に会いたくないのだろう。まだ全身が少し痛むから正直言えば最短で帰りたいが、ヒカリのことを考え少し鞭を打つとしよう。
《行こう》
 ヒカリは俯くように頷いて、遠回りする帰路についた。


「ごめんなさい。遠回りさせて」
 遠回りを始めて十分。普通に行けばもう着いていたのだが遠回りしたことでまだ半分しか移動していない。人通りの多い道とは違い、遠回りするところは幅の狭い路地でヒカリは下を向きながら謝ってきた。
 僕はヒカリの肩を叩き、顔を上げたところで首を振って気にしてないことを知らせる。
「でも私のわがままで……」
《会いたくない人の一人や二人はいる。それぐらいで怒らない》
「誠治さんてやさしいんですね」
《もうすぐ僕が怒る以上に辛いことになるんだ。怒るなんてしない》
「出来れば普通の女の子で接して欲しいです」
《これぐらいで怒らない》
「やっぱりやさしいですよ」
《他の男は知らないが、これが僕だ》
 それで痛い目にあったのも事実だ。知り合いには優し過ぎるって言われるけど、じゃあ暴力的になればいいって言うのも違う。
 ……少し押しを強くしてみるか。
《会いたくない人って、男?》
 言葉ならゆっくりと聞けるけど文字なら単刀直入だ。しかし僕は話術とか高尚なものはないから仕方がない。
「え?」
《女の子が会いたくないのはそれぐらいと思って》
 僕の言いたい言葉をダイレクトに伝えてしまうのは少し痛いが、ヒカリは自分のわがままを聞いてくれた返しで返答をしてくれた。
「……はい。元カレです」
 会いたくないで予想はしたけど、確かに別れた男にこうした状態で出会えば確かにいやだろう。いくら僕らの関係が友人止まりでも男女がペアになって歩けばカップルと見えるからだ。
《もう聞かない》
 これ以上彼女の内部に足を踏み入れる資格は僕にはない。
 僕はこれ以上聞くことなく病院へと戻るのだった。



六.『喪失』

「誠治さん、映画見に行きましょう!」
 自分の病室で本を読んでいると、心臓の弱い人なら発作を起こすかもしれない大音量でヒカリが叫んできた。
 思わず出せないのに声を出そうとしてしまった。
《いきなりどうした》
 すぐにスケッチブックとペンを取って文字を書く。
「最初に誠治さんに見せた本の映画ですよ。地球上から機械が使い物にならなくなるあれ。いよいよ明日公開なんです」
 そういえば読んだっけ。そうか、今日は金曜日だから明日から公開だ。
《でも音楽や声が聞こえない》
「大丈夫です。なんでも音楽や効果音に反応してシートが振動する映画館があるみたいで、そこなら多少は音楽を楽しめます」
 音楽と言うよりは臨場感をだ。
 ザ・マシーン≠ヘ地球上の機械が使い物にならなくなって、人の大半が死んでしまう機械をテーマとしては変わった映画。元々見るつもりだったから断ることもない。
《いいよ。明日行く?》
「はい。私ああいう作品好きなんですよね」
 機械に依存している人類が突然機械を失う。当然世界は機能しなくなるからそれに対しての人類の対応は見ものだ。
《僕も好きだよ》
「よかったです。じゃあ私これで」
 よほど映画が楽しみなのだろう。もうすぐ触覚が分からなくなると言うのに微笑んで病室を出て行った。
 本当に健気で、次の恐怖がすぐ背中まで来ているのに明るくしている。だからこそ発作的な錯乱をするのだろうけど、感覚を失う恐怖を目の当たりにしても平然としていられるヒカリは本当にすごいと思う。
 毎晩寝るたびに僕は感覚に対して考えている。
 嗅覚。一見別に大丈夫と思う感覚でも、火事の時焦げ臭さを感じられば身を守ることが出来るし、美味しい料理の香ばしい匂いも分からず腐っているかもわからない。
 味覚。一目瞭然のように食べ物の味が分からない。どんなに健康面で危ないものでも味が分からなければ食べれてしまう。
 触覚。存在感が著しくなくなる。体全体で今自分が世界にいるという実感を与え、どんなに触られても乱暴されても何も感じず、銃で撃たれようが目を刺されようが痛みを感じない。
 聴覚。世界から音が消える。後ろから声を掛けても気づかないし、車のクラクションにも聞こえないから後ろのことが何も分からなくなる。
 視覚。言うまでもなく世界から映像が消える。一体どこに何があるのか分からず、触覚と耳だけが頼りとなる。
 今ヒカリは大事な感覚の三つが消えて、あと数日で触覚が消える。匂いが分からない。音が聞こえない。味もしない。これから触っても気づかなくなると、もうそれだけでも幽霊に近い。
 こんな病状を持つ人が世界に数万もいると思うとやるせない。しかも八割の人たちは安楽死を望んで、まだ完成しない治療薬を待たずに死んでいる。
 生きているのか死んでいるのかわからない状態で、孤独を解消できるのは記憶と想像力だけなんて惨い。
 なんとかヒカリの記憶には楽しいことを精一杯入れてやってやろう。
 僕はそう思いながら明日使うメモ帳の整理を始めた。
 スケッチブックとメモ帳、それぞれ合わせて頻繁に使う言葉を単語帳やメモ帳へと書き写す。
 病院ではスケッチブック、外出ではメモ帳と使い分けていて、かれこれ二週間近く使っているとそれぞれ三冊も溜まってしまった。
 かさばるし書くのに時間がかかるのがデメリットだけど、メリットとしては自分が何を言ったのか分かるのがいい。
 日常の台詞でよく使うのを別のメモ帳に用意しておけば、いちいち書くよりすぐに出せるから時間のロスはなくなり効率も上がる。
 しかも、普段そう書くことはなかったから初日と比べると速く書けて上手くなっていた。
 書く手間はどうしようもないが、字を書くにしては良いことだ。
「あ、誠治君。今日はここにいるのね」
 二週間分の声を整理していると、入り口のほうから稔さんの声が聞こえた。
 声に反応して顔を上げると、稔さんが常に開いている病室入り口にいて手を振っていた。
《こんにちは。休憩?》
「そんなところ。ちょっと聞きたいんだけど、誠治君の地元はここよね?」
 唐突で今更のような事を聞いてきたが、頷いて答える。
「じゃあ夏夜祭りは知ってる? 毎年夏休み中にやってた美柳高校のお祭り」
 そういえばあった。
 夏休みだと言うのにどういうわけかその時期に文化祭を行う。夏夜祭り≠ニ言って、任意参加でいわば文化祭と街の夏祭りを混ぜた祭りを高校で行う伝統行事だ。しかも半年前まで僕が在学していた高校で行われていた。
《僕の母校》
「あ、そうなんだ。世間て狭いわねぇ。じゃあもうすぐ開催するの知ってたりする?」
 首を横に振って否定する。
「私もそこの生徒だったんだけど、仕事でどうしてもいけないの。だからヒカリちゃんと良かったら行ってみたらと思ってね」
 稔さんは折り畳まれた紙をナース服のポケットから取り出すと、それを広げてサイドテーブルの上に置いた。
 それより驚きなのが、稔さんは僕の先輩に当たる人だったことだ。
《失礼だけど今何歳?》
「うわ、本当に失礼な質問。なーんてうそうそ。今二十五よ」
 二十五という事は七年先輩となる。世間は狭かったり広かったりするけど、一体どっちなのか疑問になってきた。
「あ、それでカップルを作るあれはまだ健在してる?」
 別名として言えばいいのか、裏と言えばいいのかは分からないが、この祭りでは準備期間内で七割の生徒は彼氏彼女を作っている。その理由は共同作業で男女が一緒に行動する比率が普段の生活の何倍も跳ね上がるからだ。今では故意に男女同士のペアで行動して、とっかえひっかえでペアを変えている。だから相性が合うか、告白することで大半がカップル成立となるのだ。ある意味バレンタインなどよりも燃え上がるイベントと言える。
 そして、一度でも不祥事が起これば祭り自体消えてしまうため、彼氏彼女を作りたい生徒たちは欲求に任せた馬鹿なことはしていない。
 もちろんと言えば恨まれるが、生理的に受け入れられないやつらはペアすら出来なく、彼氏彼女を作らないうちの二割が該当したりする。
 残りの一割は、自主的に彼氏彼女を作らない生徒で、僕もその一人だった。
 まあ、卒業した今の僕にとっては意味のないイベントだが、一応あることを紙に書いてみせる。
「じゃあ誠治君もそれで彼女作ったりしたんだ」
 そのことには、稔さんとは逆方向に顔を向けることで「作っていない」と示す。
「あ……ごめんね」
《別にいい》
「あ、もしかしてそれ今までの誠治君の声?」
 話を逸らそうとしているのか、稔さんは僕の膝の上に乗せていたスケッチブックを手に取った。
「これって結構面倒よねぇ。でも字数の多い漢字以外はちゃんと書いてるんだ」
《漢検二級持ってる。ひらがなは書く時間がないだけ》
「だからか。今時の人ってよく携帯で変換するから見ずにかける人って魅力よね。確か二級って普段目にする漢字は皆書けるんだったわね。私も大学生のときせめて二級はやっとけって親に言われたわ」
 別にそんなつもりで感じ勉強をしたわけではないのだが、した事に関しては今役には立っている。
 前に漢字を覚えようとしない子供たちという題名でのニュースがあった。
 ひらがなさえ書ければいいという子供たちや青年たちを対象としたもので、漢字の大切さを教えるためにひらがなだけの文章を対象の人たちに見せた。
 すると全員が「読みづらい」と答えたのだ。
 漢字には同音異義語という同じ読みだがまったく違う意味を持つ漢字が数多くある。確率を確立と間違えるのが良い例だ。だから前後の文字を見れば分かるけれど、ひらがなだけだと理解するまでに時間が掛かってしまった。
 自分に対してでは漢字は書けなくてもいいのかもしれないが、もし会社に就職した後に比較的簡単な漢字すら書けなければ、同期や上司からは決していい目では見られず、自然と見下された目で見られるということがある。
 実は、このニュースを見たから勉強をして漢検二級を取ったという動機があったりする。
「っと話しずれちゃったけど、日時は紙に書いてあるからヒカリちゃんと一緒に行ってね。あの子も同年代のところに行きたいだろうし」
《誘います》
「じゃあね」
 稔さんは手を振りながら片目ウィンクをすると病室から出て行き、渡された紙を手にする
 紙には美柳高校と書かれ、手書きの『美』と描かれたイラストが半分を占領していた。日時は次の土日だ。
 ……明日ヒカリを誘って行ってみよう。



「人、たくさんいますね」
 土曜日の早朝。映画館のチケット販売のところでは長い行列が出来ていた。土曜日であり注目作品ということでこれだけ集まっているのだろう。
《うわさでもそう悪くはないらしい》
 病院内での情報収集は専ら稔さん経由で貰っている。他の病院ではネットブースなどインターネットが出来るところがあるけど入院している病院にはなくて、知り合い関係となってる稔さんに頼んで調べてもらって気になる情報は得ていた。
 なんでも試写会で見た人たちが掲示板などで書いていたらしく、どこか王道的なところを感じるも映像的には素晴らしいや面白いなどの感想が多いとのことだ。
「当然ですよ。私がいいなと思った映画はみんな評価がいいんです。私、人の見る目はないですけど物の見る目って結構あるんですよ」
《評論家じゃあるまいし、普通だよ》
 誰だって良い作品とつまらない作品ぐらい見分けられる。自分の好みを除いてもそれぐらい分かることだ。ヒカリが言っていることは自分の考えを過大評価した一般論でしかない。
「むー。私、ハズレを引いたことないんですよ」
 と、しかめっ面で主張してくる。まあ、病室に放置されいてる本によって目利きが良くなっているのなら、間違いはないだろう。
《ヒカリが面白いやつは見てみようかな》
「それだったらたくさんありますよ。今度教えますね」
 そう話しながら時間を潰していると順番が回ってきた。
「ザ・マシーン字幕、学生二枚で」
 ヒカリはそう言って学生証を二枚渡す。
「指定席でどちらにしますか?」
《指定席》
 そう聞かれるのは分かっていたから、事前に書いておいた文字をヒカリに見せる。
「あ、真ん中をお願いします」
「ではH列の中央が空いておりますね。こちらでよろしいでしょうか」
 販売員はテーブルに貼り付けられている座席表の、まだ誰も指定していない場所二つを指差した。
「はい。お願いします」
「学生割引で三千円になります」
 レジには3000と表示され、ヒカリは三千円を渡し販売レジから離れる。
 するとヒカリは腕を組み、またしかめっ面で愚痴りだした。
「やですよね、聞こえないのに尋ねられるの」
《知らないのに無茶言わない》
「出来ればこの映画ぐらいは聞こえればいいんですけどね」
《そうだね》
 僕はそんなことしか返せない。
「ほら、ポップコーンを買って入りましょ」
 頷くことで僕は返事をして、パンフレットの飾ってある売店へと向かった。



「うっ……うっ……」
 二時間にも及ぶ映画は終わり、僕らはスクリーンから出てロビーへと出る。ヒカリはよほど感動したのか号泣してハンカチを涙で濡らしていた。
 確かに涙さそうストーリーだった。さすがに泣くほどじゃなかったが、満足の行く内容ではあった。
「機械の大切さが、っ、良く分かりました」
 そっちの感動かい、と心の中で突っ込みをしてしまった。口頭で伝えたいのに、心の中でしかいえないのは辛い。
「機械が使えなくなるだけで、あんなにも人が死ぬなんて……」
 僕らが食べ物を食べるまでには生産者から数多く様々な機械を経由している。だから機械が止まれば当然食べ物が手に入らなくなって、本当に食べれそうなものは草でも虫でも食べようとする。かなりリアルに作られていて、今この瞬間に機械が完全停止すれば僕らも映画と同じ道を進むに違いない。
 確かに機械は大切な人類の相棒だ。この映画はヒューマンドラマやSFというよりは機械の大切さを認知させるのを目的としているのだろう。
《楽しめた?》
「はい。声も音楽も何も聞こえませんけ、振動でなんとか雰囲気は分かりました」
《それはよかった》
 時間はまだ昼前、まだ間に合う。
「お腹空きましたね。何か食べに行きます?」
《近くで祭りやってるんだけど、そこ行って何か食べる?》
「祭り、ですか?」
《僕の母校が今日と明日だけ祭りをやってるんだ》
「……ひょっとして美柳高校ですか?」
 僕はヒカリを見た。
「私、そこの生徒なんです。もしかし誠治さん、私が通ってる学校の卒業生なんですか?」
《そうなるね》
 世間は広いも狭いとも言うが、この街のほとんどの人はまさか皆同じ高校出身じゃないだろうかとそう思いたくなる
「わぁ、そうだったんですか。もっと早く聞けばよかったです」
 ヒカリは両手を合わせ、喜びの表情を僕に見せて言った。
 そう言えばお互い色々と話をしていても、学校とかの話を切り出さないから出会って二週間近くもいても細かいところまでは知らなかった。
 もしヒカリがいいなら色々と生活のことの話でもしようかな。
「でもあまり行きたくないんですよね」
 同じ高校ということで喜ぶもつかの間、少しだけ表情を暗くしてしまった。
《だったら普通に何か食べて帰るだけ。行きたくないのに行きはしない》
 行ったところで先生と会うか懐かしむ程度だから、ヒカリが嫌がるなら別に行かなくてもいい。
「ごめんなさい」
《あやまることなんてない。あと映画のパンフ買ってく?》
「え、いいんですか?」
《面白かっただろ?》
「はい。ぜひ」
《じゃあ買おう。僕も見たい》
 映画を一回だけじゃ解説がないから理解しにくいけど、パンフを見れば作中だけに登場する用語とかが分かるから僕らはパンフを買うことにした。
「ありがとうございます」
《いいよ。じゃあ何か食べて帰ろう》
「夏夜祭りに行きましょう」
 意外な言葉に僕はヒカリを見た。
「ここまでやってもらって、誠治さんの頼みを却下するなんて最低ですよ」
《僕は来年でも行けるからいい。ヒカリがいやだろ?》
「いいですよ。友達がどういう反応をするのか見たいですし、何かあれば守ってくださいね」
 そう言ってヒカリは僕の手を握ってきた。
 慣れない所為もあって内側からボッと熱くなってくる。
 パンフは僕のかばんに少し折り曲げる形で入れ、ここからそう離れていない美柳高校へと向かった。


「いらっしゃいいらっしゃい、美味しいたこ焼きがあるよー!」
「あと五分で次の公演が始まりまーす!」
 まだ敷地の外だというのに、生徒たちの活気あふれる呼び声が聞こえてきた。
 やっぱり、ただ勉強や部活をしているよりはこういうときのほうがやる気が出てくるのだろう。僕もそうだった。
「いいなぁ。私もこんなんじゃなかったら参加したかったです」
 ヒカリは今年の六月に入院したらしいから、当然学校行事も入学式以外は何もしていない。やっぱり参加したい気持ちがあるのだろう。
《さすがに今から君のクラスに行って参加させるのは無理》
「分かってますよ。じゃあ腹ごしらえで何か食べましょうか」
 祭りで何を食べるかとくれば定番はヤキソバが頭をよぎった。
 夏夜祭りはただの文化祭だけでなく、この街内で行う夏祭りも兼ねていて生徒以外に街の人たちも店を開いている。
 大きく見れば高校の文化祭に当てはまるも、中身は街が開く祭りと大して変わらない。
 基本校庭は街の人たちで、校舎内は生徒と別けられて店を構えている。ヒカリのことを考えれば校庭内だけにすればいいだろう。
 校門で受け取ったパンフレットで食べ物の売っている場所を探す。
「なに食べます?」
 僕は指でヤキソバと書いてある場所を指す。
「えー、少しは変わったのを食べましょうよ。このヤキソバスープとか」
 そう言って指差すは、うどんなのかラーメンなのかいまいち分からないイラストのある欄だった。そこには確かに『ヤキソバスープ』と書いてある。
《ヤキソバにしよう》
「誠治さんがそういうならいいですけど。少しは変わったもの食べたかったなぁ。味分からないけど」
《味が分からないならまともな方がいい》
「じゃあそれでいいです」
 いくら興味本位だからってこればかりは止めたほうがいい。まずいものを出すとは思えないが、想像した限りじゃ不味そうにしか思えない。
「えーとここから近い場所は……体育館前ですね」
 数ある食べ物があるなかでヤキソバは複数あるが、校舎外では体育館と校舎を繋ぐ連絡通路だけで、僕らはそこへと向かった。


「美味しいヤキソバだよー! 一つ三百円だ」
 ヤキソバや食べ物が多く売れるのは昼とその前後。大体は常にお客さんは来るが、書き入れ時は今の時間帯だろう。ずらりと長い行列がその証拠だ。
 僕らはその列に入って順番を待つ。
「誠治さんは一年の時どのクラスだったんですか?」
《三組。ヒカリは?》
「二組です。それで、彼女とかいたんですか?」
 それでとか言いながらすごい路線変更をして、しかもその内容で僕は少し顔が引きつった。
《高校はいない。大学で一人》
「へぇ。可愛い人でした?」
《痛い思い出だから言いたくない》
「あ、ごめんなさい」
《いいよ》
 しかし、なぜ初日か数日以内にしていそうな会話を僕らはいましているのだろうか。
「ちょっと、ヒカリじゃない?」
 不意に横からヒカリを呼ぶ声が聞こえてきた。
 僕はヒカリの肩を叩くと、ヒカリは周りを見て声を出す女子生徒に気づいた。
「美知代。恵子」
 ヒカリに呼びかけてきたのは、恐らく同級生だろう。
「どうしたの? あれ、入院してたんじゃないの?」
《どうしたの? 入院してたんじゃないの?:》
 すぐに文字にしてヒカリに見せる。
「外出。せっかくだから来ようと思って」
「へぇ。あれ、この人は? ひょっとして彼氏?」
「この人? この人はたまたま病院で知り合った人だよ」
 ヒカリは僕に向けて指差したのを見たからか、質問を察知して文字にする前に先に答えた。
「喉を怪我してて、文字に書いて喋るの」
「そうなんだ。大学生ですか?」
 という質問には、頷いて答える。
「ヒカリ、病気とかいっちゃってちゃっかり男作ってるじゃない。隅に置けないなぁ」
「入院する前あんなことあったのにね」
 この二人は聴覚が失っていることに気づいていないのか、ヒカリの友人たちは普通に話しかけている。
 ヒカリは何も聞こえないと書いて見せようとしたら、ヒカリがそれを止めた。
「行きましょう」
 僕の手を掴むと、まだヤキソバを買っていないのに列を離れて校舎の中へと引っ張っていった。
「ちょっとヒカリーっ!」
 呼び止めが出来ないことを良いことにどんどん校舎の中を進んでいって、着いた場所は人のいない休憩室だった。
 使用頻度が少ない休憩室と書かれた教室。ベニヤ板の天板にスチールパイプ製の机ではなく、横に長い複数座る事のできる机がいくつも均等に並び。休憩室にしては絵も何もない殺風景だが、人はいたみたいで飲みかけのペットボトルなどが散乱していた。
 教室に入って少し荒くなった息をヒカリは落ち着かせると、僕の顔を見ないまま喋り始めた。
「私が入院したのは味覚が消えたときからなんです。それから嗅覚聴覚となんですけど、みんな私が何も聞こえてないの知らないんです」
 それなのに喋りかけてくることに腹が立ったのか。
 ヒカリの言葉通りなら見舞いにも来てないから病状経過を知らない。だから聞こえる風に言えたんだ。
「入院したときは会いに来るねとか言っておきながら、一週間後にはもう誰も来てないんです。中学の友達すら来てないんです。嫌になりますよ。だってお母さんたちだって来なくて……」
 寂しさを紛らわして欲しいのに誰も来ない。誰かと話したり心配したりしてもらいたいのに誰も来ない。確かに嫌気が差すはずだ。
 友達はともかく、愛娘がこんな状況で親が来ないのは親失格だろう。
「誠治さんも、私のこと忘れちゃうんでしょうね」
 友達に不謹慎な事を言われ、ヒカリは酷く落ち込んでしまった。
《忘れるならこんなに付き合うことはしないし、誘いにも乗らない》
「誠治さんには本当に感謝してます」
《どこかご飯食べて帰ろう》
 これ以上ここにいても良いことは起こらない。早いところ出て病院へ戻ろう。そう思って僕はヒカリの腕を掴む。
「はい」
「――マジで人いねーんだって。へーきへーき」
「ほんとぉ?」
「まさかこんな日にするバカなんていないだろ。だから裏をかくんだよ」
 誰かが近づいて来ている。
《行こうか》
「あ、はい」
 お互いに少し荒れた息は整って、僕らは踵を返して教室を出ようとしたら廊下の方から制服違いの男女が入ってきた。
 男はぼさぼさ頭に茶髪、ネックレスやズリ下げたズボンをしていて明らかに不良の部類に入るやつだろう。女はここの制服じゃないから他校の生徒だ。
 雰囲気から見てナンパして口説いたのだろうと思っていると、グッとヒカリは僕の腕を締め付けてきた。
「タケル……」
「あ? チッ、人いんのかよ。空気読んでねぇなってお前……まさかヒカリか?」
 空気を読んでいない男は舌打ちをして不満をあらわにするも、ヒカリの顔を見て表情を苛立ちから驚きへと変えた。
「誰その女」
 ボサボサ頭の男へと隣にいる、決して可愛いと思えない変な化粧をした女子生徒が尋ねる。
「ああ、俺の幼馴染の稲葉ヒカリ。こいつ今すげー難病にかかってるらしいんだ」
「にしては元気そうだけど?」
「感覚なんとか症で、見えなくなったり聞こえなくなるんだってよ」
「誠治さん、なんて言ってるの?」
 どう教えればいいのかわからない。ヒカリを見下していることをそのまま書くべきか、やめとくべきか。
「で、お前誰?」
 僕にも聞いてきた。
 ……なるほど、この男がこの前ヒカリが会いたくない男だ。間違いない。
 僕だってこんな馬鹿以下の奴とは二度と会いたくない。
《同じ病院に入院している井上誠治。ノドをケガしてしゃべれない》
「それでヒカリといるわけか」
「タケル、また他の人をナンパしたの? そんなにコロコロ変えるの、よくないよ」
 見た目どおり女たらしか。
「うるせーな。俺の勝手だろ、口出しすんな!」
「私が病気になったとき、心配の言葉を掛ける前に別れの言葉は酷いよ」
「はっ、お前が告ってきたから付き合ってやったんだろ。させてもくれねーお前なんかいらねーよ」
 女たらしに最低男。
 初めてだ、ここまで低レベルの人間を見たのは。
「……ぁ」
 少しだけ声が出る。本当は発声練習をしなきゃいけないけど、文字じゃ僕の感情は伝わらない。先生には悪いけど言わせてもらう。
「彼女を……簡単に変えて……何が楽しい」
 小さくガラガラ声しか出ない。まだ治り途中だ。
「あ?」
「お前は、恋愛したこと……ないだろ」
「なに言ってのお前。恋愛しなきゃ彼女作れねーだろ。バカじゃね? て言うかバカだろ」
 タケルはナンパした女の肩を掴んでそれらしくアピールしている。けど僕にはそうは見えないし、馬鹿と言われても怒る気持ちなんてまったく起きない。
「だったらヒカリを捨てる理由が違う。お前は、ただ女を作ればそれでいい。それだけだ」
「悪いか?」
 矛盾しているのを肯定した。この最低男には言うだけ無駄だ。
 女のほうもよくこんな外見すら取り得のなさそうな男に口説かれたものだ。
 こういう馬鹿に対しては平気とは思えないほどの過ちを犯したときに初めて後悔という念が生まれる。大抵の人間はこれからする事の結果を想像して、少しばかり結果に対する後悔をも考え、その覚悟を持って行動を起こす。でもこいつは結果も後悔も考えず目先だけの欲求を満たせればそれでいいとしか思ってない。
 典型的かどうかは知らないが太く短い人生を歩む奴だ。
 こういう状況での後悔は、低レベルな発想だけど身篭らせるかやばい連中の女に手を出すかだろう。
《ヒカリ、行こう》
「うん」
 僕はヒカリの手を握って教室を出ようとする。
「ふん。弱ったヒカリをうまく口説き落としたわけか」
「……嫉妬か?」
 怒りの感情を込めた言葉にタケルは怒り心頭になるも、その前に言葉を続ける。
「ヒカリをフッたんだろ。じゃあヒカリがどの男を付き合おうが勝手だ」
 僕はそれから言うタケルの言葉は全て無視して廊下へと出て、出来る限り人ごみの中を通って校舎の外へと出た。
 まさかヒカリが付き合っていた男があそこまで最低だったとは思わなかった。いくらなんでも近い環境の中で育ったのになぜあそこまで性格が変わるのだろうか。
 発声練習なしで声出したから、扁桃腺が腫れたような痛みが喉の真ん中からしてくる。
 下手したら声一生出せないと先生に勧告されそうだ。
「誠治さん、ごめんなさい。せっかく面白い映画見てきたのにこんなことになって」
《誘った僕が悪かった。あの男が会いたくない元カレ?》
「幼馴染だったんです。子供の頃から一緒に遊んでて。お兄ちゃんのような感じで好きだったんです。でも中学の終わり頃から雰囲気が変わって……」
 中学の終わりとなると悪い友人と会ったかそれとも初体験をしたかだろう。
「でも好きだったから告白したけど、病気になった途端……」
 フラれたわけか。もし付き合うなら彼女が病気なったらその彼女のためにしてやるのが彼氏の義務だ。それを病気になった途端に捨てたのが、ただ肉体関係を結べれば良いとしか思っていないと自分自身で証明している。
 そこまで相手のことを思っていないなら死んだところで「ふーん」の一言で終わるだろう。
「男の人って、そんな簡単にフッたりするんですか?」
 ぐっと僕の手を握る手に力が込められ、僕の目を見て聞いてきた。
 僕もこの前別れたから助言が出来ない。
 かといってこの状況で無言は出来ず、僕はメモ帳にペンを走らせる。
《両想いじゃなければいずれ別れる。タケルの言動を見ると、ただヒカリがかわいい女だからという風に感じる》
「誠治さんも、そうなんですか?」
《僕はヒカリとは仲良くなりたいと思ってる。そんな体だけとかじゃない》
「………………」
 ものすごく遠まわしではっきりとした意思表示じゃないけど、ヒカリは顔を俯かせて僕に寄り添ってきた。
 しかし、寄り添うもつかの間で表情を顔面蒼白へと変えて僕を見た。
「あれ?」
 ペタペタとヒカリは自分の体と僕の体を触る。
「誠治さん、私の顔を触ってください」
 一瞬何を言っているのか分からなかった。ヒカリは驚きの表情を隠せないまま、僕の手を掴むと顔じゃなくて胸に押し付けた。
 僕は驚いたがヒカリはそれ以上に驚愕の表情をしていて、そんな表情を見ても柔らかい胸の感触が手の平から脳へと伝達してくる。
「うそ……そんな……」
 ヒカリは腰が抜けその場に崩れ落ちてしまった。
 この様子、まさか……。
「ぁ……あ……」
 僕はすぐに自分の手をヒカリが押し付ける胸から外し、肩を掴んで敷地の外に出る。
 学校の外は大通り並ではないが交通量はある通りで、片手を挙げるとタクシーが一台止まった。
「三つ葉総合病院へ」
 ガラガラの声と痛みのする中、なんとか運転手に目的地を告げて病院へと向かった。



七.『告白』

「ついに触覚まで消えましたか」
 ヒカリの病室で、主治医の荒垣先生はヒカリのあらゆる部分を触診して結論を言った。
 学校での反応で分かってはいたけど、ついに触覚が消えて感覚は視覚だけとなった。
 これではもう見えるだけの幽霊に近い。前に読んだ本じゃ、触覚が消えただけでもその人はまるで幽霊のような気持ちとあったから、多分そんな感じなのだろう。
「これでは体調管理も難しいですね。これ以上外出は認められません」
《どうしてもですか?》
 まだまだ使わなければならないスケッチブックに文字を書いて聞く。
「脳に体に触れる気温が伝わらなければ汗を出していいのか出さなくていいのか分からず体温調節ができないんです。なのでこれからは常に見ていなければいけません」
 触覚が消えると色々と大変らしい。
《先生、内臓は大丈夫なんですか?》
「そうですね。この病気は直接内臓に関わることもあります。ですがまだ視覚が残っている今では起きる事はありません」
《失禁などは》
 触覚と聞いてまずそれが思いついた。触覚が消えると言う事は便意も尿意も脳に伝わっていないことになる。
 まだ女の子として可愛い状態でいたいのに垂れ流しなんて酷過ぎる。
「その心配はないですよ。確かに排便をするときの痛みなどは脳には伝わりませんが、筋肉がゆるくなるわけではないので失禁すると言うことはありません。普段も無意識に我慢しているので、ある程度の量を超さない限りもらすと言うことはありません。ただどうしても看護用オムツは着用をしないとなりませんが」
 じゃあトイレはと聞きたいところだけど、きっと何とかしてくれるだろう。それでもオムツは可哀想だ。
「稲葉さん。もしなにか感じればすぐにナースコールを押してくださいね」
 そう言いながら文字に書いてヒカリに見せるも、ヒカリはベッドに座ったまま目の前を見つめるだけで先生の持つ文字を見ようともしない。
 視覚、嗅覚、味覚はその気になれば何も感じないことはできる。でも生まれてから死ぬまで触覚は普段では絶対に出来ないからショックが大きいんだ。
 荒垣先生と稔さんは病室を出て行き、僕はヒカリに近づく。
 いつものように目の前で手を振る。ヒカリは目の前の壁を見ながら時折自分の体を触ったり、感覚がないかを確認して僕の手は完全に無視をしている。
 触っても分からないなら完全に視野に入った状態で文字を見せないと気づかない。
 僕は絶対に見えるところでヒカリに文字を見せる。
《おーい》
「…………」
 見えているはずなのに無反応だ。
 これを見て僕は出来る限り側にいてやろうと思った。二時間前のこともあるし、ここで帰ったらもっと絶望が襲ってくる。
 僕はスケッチブックとペンを置いてヒカリの隣に座り、窓の外を眺めた。
 たまには何も考えずボケーっと座っているのも良さそうだ。



 ……なんと世界はゆっくりと回るのだろうか。
 月単位、年単位で世界を見ていけば風景は大きく変わり世界も変わっていくが、一日や二日では窓から見える世界は変わろうとしない。
 唯一変化をするのは空だけだ。朝、日が上がれば燃えるような橙色が地平線を染め上げ、橙色からは澄んだ空色へと変わり、そしてまた橙色へと染め直し黒色へと世界を包む。
 決して窓から見える生い茂る木々の葉っぱは、緑から紅葉へとなることはない。
 しかし今日は不思議にも二回に分けて日を過ごした気がする。
 そしてヒカリにとっては一回目の映画館に行ったことだけが至福だったはずだ。
「ヒカリちゃん、晩ご飯の時間よ」
 ただボケーとしていたら三時間が秒で換算できるほど早く過ぎ去り、気づけば稔さんが夕食を持って来ていた。
「あら誠治君」
 もう晩ご飯の時間らしい。僕はベッドのスプリングを軋ませながら立ち上がり、猫背となった背骨をS字に正す。
「まさかずっとここに? 回診は?」
《自分の病室と、ここかパターン化してる》
「来てくれたのね。先生も不憫なこと」
 本当に不憫と思っているのかは分からないが、ヒカリの方は心配してくれているらしい。稔さんはヒカリの視野の中に入って手を振った。
「ヒカリちゃん、やっぱり元気ないみたいね」
 稔さんでさえヒカリは反応を示さず、石像のように目の前を見ているだけだ。
《ショックが大きいんだ。僕も最初真っ白になった》
「誠治君、よくここまで付き合ってくれるわね」
《友達ならこれぐらい同然。病室に戻っても何もしないならここにいる方がいい》
「今のヒカリちゃんにはあなたしかいないと思うの。好きになるかは置いておいても、友達ではいてあげて」
《今更なことを聞くな》
 関わる気がないのなら初日の挨拶だけで話しかけたりはしない。しかも旅行にいけるほどの金額だって出しはしない。
 稔さんは僕の声を見るとくすくすと笑いだした。
「ふふ、そうね。じゃあ誠治君、そろそろ病室に戻ってくれるかな」
 そういえば夕食を持ってきたのだった。清拭もやらないといけないだろうから帰ったほうがいいか。
《また明日》
 僕はヒカリにその文字を見せて出ようとするも、やはりヒカリは目線一つ動かそうとしなかった。



「では来週退院し、通院で発声練習をすることにしましょう」
 ヒカリの触覚が喪失してから翌日の回診で、僕のガラガラ声を聞いて主治医は判断した。
「本当ですか」
「まだノドが痛むようでしたら控えめに」
 少し焼けるような痛みを先生に見抜かされ、スケッチブックに声を書き込む。
《元の声に戻る?》
「多少ガラガラ声と低くなるのはどうしようもありませんが、殆ど普通に話すことは出来ます。ガラガラと言っても自分がそう思う程度です」
 だったら妥協するしかない。元々事故で怪我したから、一生喋れなくても文句も言えないのだから良いほうだ。
 もうすぐ退院か。このことをヒカリに伝えないと。
《無理して喋っても悪くはなる?》
「痛みのする中で喋ると、炎症を起こして元通りになるのに時間がかかります。喋りすぎは禁物ですよ」
《わかりました》
 朝の回診を終え、僕は一体何度来たか分からないヒカリの病室の前へと来た。
 ここまで付き合えば看護師達からは交際しているとか言われそうだけどそれでもいい。はっきりと口や文字にするのは気恥ずかしいが、ヒカリを友達とは思いたくないのは事実だ。もっと上の関係に行きたいのも認める。
 ただヒカリを考えるとこの気持ちは心の奥底に沈めるしかない。今スケッチブックを使って告白したところで直に視力まで失ってしまうヒカリには余計な気遣いを作ってしまうだけだ。
 僕は一体ヒカリにどういう言葉を掛ければいいのか分からず、ヒカリのいる病室のドアを開けた。

 ピチャチャチャチャチャチャチャチャ

 ドアを開けた瞬間。まるで水飲み場の水を飛ばして地面に落ちる時のような音と、目の前の光景を目にして思考が完全に停止した。
「あは、あはははは、すごーい。全然痛くないやー」
 そんな、ヒカリが発狂したかのような喜び声を聞きながら、僕は腰を抜かして尻餅をついた。
 本来病室は清潔を現す白が基調なのに、ヒカリの部屋は白じゃない別の色で統一されていた。それは鉄分を含み、長時間外気に触れていると黒く変色する、人間が生きるためには当たり前に必要な、血。
「あはははは、っははははははははは!」
「誰か来てくれええええええええええええええ!」
 今まで生きてきた中で一番大きく僕は叫んだ。
 喉は引き裂かれるような激痛に襲われたが、今はそれどころじゃない。
 すぐに医師と看護婦が駆けつけ、僕は病室から追い出された。



「いいか、絶えず様子を見て少しでも変動があれば知らせろ。あと親御さんに連絡だ」
 一時間後、先生が看護師たちに指示をしながら病室を出てきて、僕は先生に近づく。
《どんな様子なんですか?》
「情緒不安による暴走行動だ。四つもの感覚が喪失したことで正気が保てなくなったんだ」
《ヒカリは?》
「鎮静剤を打って眠っているが油断は出来ない。出血量が千ccを超えているから急変する可能性もある。これからICUに運ぶ」
 最後に血まみれのベッドが病室から出てきた。ベッドの上には酸素マスクを付けられ血を輸血されているヒカリの姿が見える。
 まさかあそこまで精神が追いつまれているとは思わなかった。いくら痛くない、何も感じなくても、テレビで見るような感覚で大出血を起こすのは容易じゃない。僕もヒカリみたいに視覚以外消え去ったら、自分の体を傷つけたりするんだろうか。
 分からない。
 ヒカリの今の心が何も分からない。
「ヒカリ……」
 僕の声は叫ぶ前以上に声はガラガラ声となっていた。


 ピッ……ピッ……ピッ……

 電子音の鳴り響く集中治療室で、ヒカリは人工呼吸器をつけて眠っている。右腕には一体何で切ったのか手首から肘まで達するほどの切り傷が出来ていて、今は包帯で巻かれうっすらと赤い線を作っていた。
 こうして見るとただ手術を受けて眠っているだけにしか見えない。
 僕は無傷の左腕に触れる。
 暖かく、柔らかい。僕にはヒカリの感触は分かるのに、ヒカリには僕が握っていることに起きていても見るまでは気づかないなんて、なんて近くて遠いんだ。
「井上さん」
 背後から声を掛けられ、振り返るとヒカリの母親がICUの入り口にいた。
 どうもと頭を一度下げる。
「ヒカリが大変なことになったと聞いて……」
「見えるだけなんです。壊れても不思議じゃない」
「井上さん、声……」
「一生喋れないわけじゃない」
「それでヒカリは……」
《先生に聞いてください》
 やっぱり喋っていると喉が痛いから、途中で文字にして母親に見せる。
「あなた、ここにいることは知っているのでしょう?」
 先生に聞けば詳細を教えてくれるのに、なぜか強く僕に聞いてくる。
 とはいえ拒むとなに言われるか分からないから、メモ帳に詳細を書く。
《右腕を刃物で切りつけた。幸い神経には届いていない。傷は塞いで今は麻酔で眠ってる》
「どうしてこんなことに」
 どうしてって、それでもヒカリの親かあんたは。少しは娘の気持ちを考えろよ。皮膚感覚が消えたその日も、僕が一日中いても見舞いに来ないでなに聞いているんだ。
《少し、話いいですか?》
「え、ええ」
 僕はこのまま放っておくわけにも行かず、ヒカリの母と一緒に屋上へと上がった。


「それで話とは何?」
 屋上には毎日のように取り替えられるベッドシーツや枕カバーが干され、人らしい人は見当たらず、ヒカリの母親は腕を組んで聞いてきた。
《文字だから無礼に感じるかもしれないことを先に伝えておきます》
「ええ」
《単刀直入に、あなたはヒカリのこと本気で心配してない》
「な、何をバカなことを」
《触覚が消えた日。ヒカリに会いに行った?》
「連絡は来たけど、その日は遅かったから」
《一時前が遅いか。親の発言とは思えないな》
 こういう場合は何時であろうと会いに行くのが当たり前だ。それ以前に危篤に陥ったときはたとえ夜明け前だろうと病院は連絡を入れる。母親の言っていることが嘘なのは火を見るよりも明らかだ。
「家族のことに口出ししないで。何様のつもりよ!」
「もうすぐ一人になるのに、親が側にいてやらないでどうする」
 今の僕の言葉は、今まで見てきたヒカリの家族素直な気持ちだ。もし違えば土下座でも何でもをして謝るが僕の考えは多分当たっている。
 この人はヒカリを本気で心配してない。
 僕はいくら母親が本気で憤慨しても、引き下がらず母親の目を睨みつけるように見る。
「十六の女の子がこれから一生一人になるんだ。今を一人にするな」
「だから家族のことに口出ししないで」
「あなたにとってヒカリはなんだ。まだワクチンの見つからないウイルスに侵され、自分の体を傷つけるまでに情緒不安になって、どうすれば心配もしないで平然といられるんだ」
「何を勝手に……不謹慎よ!」
「じゃあ会いに来ない理由を教えてくださいよ」
「どうしてあなたに教えないとならないのよ」
「ヒカリのことが好きだから。病気からは助けられないけど、心は助けてやりたいんだ」
 くそっ、喉が悲鳴上げている。これ以上は喋れないな。
「だからって教える必要はないわ。どうせあの子には未来がないんだから」
 それが親の台詞かって言っているんだ。不謹慎はお前の方だ。
 最低な彼氏に見放され、親に見放され、友人に見捨てられ、どこまで不幸なんだ。
「話はこれで終わりね。先生と話してくるわ」
 僕の話はまったく無駄だったらしい。ヒカリの母親は表情一つ変えずに病院へと引き返していった。
 取り残された僕は無言で物干しに使われる支柱を蹴った。支柱は埋め込まれていて硬く、向こう脛に一筋の赤い線が現れた。


「スゥ……スゥ……」
 ヒカリの自殺未遂事件から二十四時間経過した翌日。ヒカリは集中治療室から元の病室へと移された。本来なら半日で戻されるところだったのだが、病室が血塗られてしまい、掃除の人と看護師が総動員して変色し乾いた血をふき取るので一日待つことになったのだ。
 麻酔は切れ、目が覚めるのも時間の問題ではあるも、身動きは取る事は出来ない。
 なにせ手首を切ったのではなく手首から肘にかけて切り付けたのだから、再び切り付ける可能性は大いにあった。そのため病院は母親に許可を貰い、皮製で円柱の拘束具を両手両脚に施した。人権侵害と言われなくもないが、人命を守るためならいいとのことだ。
 それと移される前に分かったことだが、腕を切りつけた刃物は文房具のハサミだった。恐らく新聞記事を切り取るために持ち込んだのだろうが、その所為でヒカリは一生残る傷が出来てしまった。
 ……ヒカリは内部と外部、双方から追い込まれて壊れたのだ。散々『感覚失調症』の人は精神がおかしくなると聞いてヒカリが壊れてきているのも見てきたのに、一番重要なところで見落とすなんてこれほど悔しいと思った事はない。
「……ん」
 自分の愚かさに自虐していると、うっすらとヒカリの目が開いた。
 僕は覗き込むようにしてヒカリを見る。
「ヒカリ?」
「誠治……さん」
 よかった。寝起きだから落ち着いていた。
《おはよう》
「おはよう……ございます。あれ、私……」
《全部知ってる》
「私……私」
 事故によって大怪我したわけでもなく、痛みで気絶したわけでもないからきっとヒカリは処置されるまでの事は全部覚えているのだろう。自分で自分の右腕と右手を殺そうとした事も、あの夥しい量の血液も。
「落ち着いて」
 まず落ち着かせようと、はっきりと口の動きで分かるように僕はヒカリに話しかける。
「誠治さん。私、怖いです……まるで宙に浮いてるみたいで、何も感じないんです」
「僕も怖いよ。ヒカリが、壊れていくのを見ると」
「え?」
 やっぱり読唇術には無理があった。僕はすぐに文字にして今言った言葉を見せる。
「何も感じることが出来ない私の苦労なんて……」
 分かるはずもない。生まれてから死ぬまで後天的なことが起きない限り永続的に働く感覚。それが消えるなんて想像をすることも出来ない。
《わかるよ。でも自暴自棄になることない》
「もうすぐ何も分からなくなるのに無理よ。今ちゃんと喋れているろかもわからないのに」
 確かに少し呂律が回っていない。でも微々たるものだしちゃんと分かる。
《しゃべれてる。ヒカリ頼むから悲観するな》
「死にたい。こんなに怖くなろならいっそ……っ、死んだほろがいいよ」
 ヒカリは嗚咽しながら言った。
「夢見てるみたいで。ひっ……っ。何をしても実感なくて、ろうしたらいいのか分からないよ」
《そんなこと言うな》
「いいですよね。誠治さんは声が出にくいだけで、交通事故の怪我はもう治ってて」
 普段のヒカリからじゃまず聞かない皮肉だ。これだけでヒカリの心がどれだけ小さくなっているのかが分かる。
「ヒカリ」
「どうせ何も分からなくなっさらもう来なくなりますよ。それで他の人ふぉ付き合って、私のこと忘れるんです」
《忘れない》
「嘘よ。そう言っておきなぎゃら誰も来なくなったのをたくしゃん見た。誠治さんたって同じよ」
「好きだから」
 一瞬、世界が無音になった気がした。
 ヒカリは僕の口を見て、目を見開いて固まった。
「好きなのに忘れるわけない」
 ヒカリは尚も僕の口を凝視しする。言った。言ってやったんだ。心の中で思っていた言葉を告げたんだ。
「こんな私を好きにぃなるなんておかしいよ。どうせ励ますための嘘に決まっふぇる」
《どうでもいいなら毎日ヒカリのところに来るわけないだろ》
「でも……でも」
 ヒカリにとっては予想外の告白だったらしい。もうすぐ一人になるというのに男に告白されるんだ。その気持ちは分からなくもない。
 それと、多分自分から告白することはあってもされたことはないのだろう。錯乱とは違い挙動不審になっている。
 感じないだろうけどそっと顔に手を添えて、ヒカリの唇と僕の唇を合わせた。
「………………!」
 両手両足が拘束具で固定されて抵抗できず、触れている感触もないから実感できず、ヒカリはただただ目をまん丸にしているしかできないでいた。
 数秒だけ繋がっていた僕はヒカリから顔を離して、ベッドの隅に座る。
「卑怯ですよ。体が動かないにょに襲うなんて」
《このままわからないままは嫌だった》
「答えもないままするなんてひどいですよ」
《ヒカリ、きっと治るって信じる。どこの国でもいい、ワクチンが出来るまで生きろ》
「…………誠治さん、これ解いてくだしゃい。暴れませんから」
 ヒカリの表情は落ち着いていて、僕はそれを信じて手足の拘束具を解いた。
「誠治さん、好きたって言うこと……嘘じゃないですよね」
 感じもしないのに拘束されて赤く残ってる手足を摩りながら、小さく聞いてくる。
《安楽死を強く希望してしまうこの病気にウソで長らえさせてどうする》
「ですよね」
《ヒカリの答えはあとでいい。今は死に行くことだけはするな》
「……誠治さん、側にいてくれます?」
 いると言うように僕は頷き、壊さないように、でも強くヒカリの手を握る。
「私も…………好きです。誠治さん」
 再びヒカリは泣き出し僕にしがみ付いた。でもそれは悲しい涙じゃなく、嬉しさからくる良いほうの涙だった。


「井上さん、一体どんな魔法を使ったんですか?」
 ヒカリの将来を賭けた告白から翌日、早朝回診に来た先生は驚きの表情で僕に聞いてきた。
「どうして稲葉さん、以前と変わらない状態に?」
《僕とヒカリだけの秘密です。先生、ヒカリの目が見えなくなるまでどれぐらいなんです?》
「個人差にもあるが、来週には視力も失ってしまうよ」
 来週ということはちょうど僕の退院とも重なる。少し微妙なところだ。
《ワクチンの話はまだありません?》
「まだないね。それに今この瞬間出来たところで国の使用許可が下りないと国内での投与もできないんだよ」
 近年こんな問題をよく目にする。
 日本も新薬を開発する中ではトップクラスといわれているが、日本で薬が完成したところですぐに市販、投与というわけには行かない。まずその薬が安全かどうか、ちゃんと病気に効くのか臨床治験を繰り返す。しかも許可されようとすぐに投与されるわけもなく、さらに数ヶ月は掛かってしまう。
 しかし、もし危険な副作用があって数十万という人に投与されれば責任は重大だから、注意深く見るのは分かる。分かるけど、その間に苦しむ人を考えると早くしろと強く思う。
《臨床治験はどれぐらい掛かるんですか?》
「最低でも四年は掛かります。しかし、生存日数が非常に短い病気ではかなり短縮はされます。感覚失調症の生存日数は八割の人たちが半年以下なので早まる可能性はありますね」
 もし今完成した話しがあればもっとヒカリが生きる目的になれたが、こればかりは仕様が無い。
「アメリカの研究所じゃ数年以内には副作用のない治療薬を作ると言っているけれど、信憑性はないかな」
《わかりました》
「……ではこれで。井上さんも、たまには自分の病室で回診受けてくださいよ」
 僕はその質問には苦笑いで答え、荒垣先生は病室から出て行った。
「誠治さん、私の目はいつごろに見えなくなりゅんですか?」
《一週間後》
「……だったら十冊は読めまふね」
 ヒカリはもう最悪な結果は考えはいても落胆はせず、これからくる世界に向けて準備を考えていた。多少痩せ我慢でやろうとしているのだろうが、ここは精一杯ヒカリのためにしてやろう。
《面白い本持ってくるよ》
「はい。でも完結したのをお願いします。連載してるのは先が気になってしょうがないですから。あと漫画も持ってきてください」
《家にある本、明日持ってくるよ》
「お願いします」
《任せろ》
「ただ彼女らしいこと、してあげられないのがいやでしゅね。その……エッチな事もして上げられなくて」
《もちろん僕も男だからその気持ちがないわけでもない。でもこんな状況で目先に囚われたらタケルと同じになる。ヒカリが治ってからでも大丈夫だよ》
「……誠治さん、どこまで好きにさせるんですか」
 こっちも背中がチリチリと熱くなったけど、ヒカリは僕以上に赤面して布団の中に顔を沈めた。
「でもゲームも本もないとつまらないですよね……あ、そうだ」
 何か思いついたのか、バッと布団から出て僕を見てきた。
「私の暗い彼氏話したんですから、今度は誠治さんの彼女話してくださいよ」
 そのあまりにも唐突で、明けたくない思い出にヒカリは首を突っ込んできて僕は少し後ろに引いた。
「逃げないでくださいよ」
《聞いても面白くない》
「誠治さんのこともっと知りたいんです」
 そういうフレーズは嬉しいけれど、内容は最悪だ。
 だがヒカリの過去に何度も足突っ込んでいるからここで隠すのは少し気が引けた。
 僕は折れ、スケッチブックに簡潔に書く。
《一人。半年だけ付き合った》
「馴れ初めはなんです?」
《高校の時の同級生。同じ大学に受かって、卒業式に告白した》
「うわぁ、なんとも狙ってる感じですね」
 うん。それで何度も友人たちから弄られた。
《最初は彼女もその気で楽しくやってた。でも彼女が合コンをやるようになって、段々わがままになってきた》
 友人に誘われ遊び気分から始めたといっていたけれど、あそこで本気で止めていればきっと全ての流れが変わっていたと思う。この状況になるに至った変更点はあそこからだろう。
「どうして合コンをやってわがままに?」
 僕は肩をすくめた。
《二股ってやつ。金持ちの男に欲しいものを貢いでもらって、その気持ちが僕にも来たわけ。金ないの知ってるのにブランドバックねだって、渋ったらさよならされた》
「ひどい……ひどすぎですよ。交際ってそんな簡単に終わるものなんですか」
《簡単にヒカリは終わらせようとした》
 しかも、終わらせ方が自分の命を絶つ方法だから冗談で済まされない。
「揚げ足を取らないでくらさい」
《それで初めての失恋だったから、傷心旅行に出かけてここに来たわけ》
「誠治さんも大変だったんれすね」
《初々しい頃は楽しかったけど、わがままになると辛い》
「私、わがままでしぃた?」
 思い返してみると結構ヒカリに対してお金は使っていた。ただ違うのがこっちのお金が無いと知るとすぐに自分のを出して今まで使った半額を返したことだ。
 あいつの場合は金欠になるとそこで終わっていたから、違いは大きい。
《あのままブランド物をねだるとちょっとね》
「私、そんなに出させました?」
《二人で楽しむなら出すけど、ヒカリだけだと割が合わない》
「あ、そっか」
 考えてみれば、それが僕に対するあいつの気持ちなのだろう。さすがにヒカリのダメな元カレとは違うも、似ているところはある気がする。
「私、欲しいものは自分で買うんですけどね」
 僕の持論じゃ結婚するまでは記念日のプレゼントを除いて、自分のものは自分で買うのが当たり前だと思う。男と女は比べると少しばかり男のほうが給料がいい。だが女は払わず男が一方的に払えば当然散財して出せなくなる。もちろん全員がそんな考えじゃないのは分かるが、そんな考えしかしない女が数多くいるのがいやだ。
 普通、お金という変動して見えるもので繋ぎとめるものじゃなくて、心と言う不動で見えないもので繋ぎとめるのが『愛』だと僕は思っている。
 金の切れ目が縁の切れ目という諺があるも、それは最低な関係としか考えられない。
 一応ヒカリの考えと僕の考えは合うわけだ。
「でも、もうそんなの言ってられないですけどね。今の私には誠治さんが居てくれるだけで十分です」
 さらっと恥ずかしいことを言った。
《これで僕の過去話は終わり。次はヒカリの最初の彼氏を教えてよ》
「え?」
《二人付き合ったことがあるんだろ?》
「いやですよぉ。それに殆ど友達ってレベルで終わりましたし。小学校の話ですし」
 ヒカリは激しく両手を振って、できる限りその話は思い出したくないらしい。なにか苦い思い出でもあるのかは知らないが、これ以上僕がヒカリを追い込むのはよそう。
《冗談だよ。そこまで追求しない》
 それ以前にもう他の男とか聞きたくないし、どうでもいいことだ。
「意地悪ですよ」
 と、しかめっ面になった。可愛いやつめ。
「誠治さんがそんな意地悪な人とは思いませんでした」
《お互い壁を崩すまではみんな猫を被ってるんだよ》
「……今更なんですけど、誠治さんよく漢字を簡単に書けますよね。携帯で変換してるわけでもなふ、スラスラと」
 稔さんも言っていたことだけれど、普通漢字は何かを見て書くのではなく見ずに書くのが当たり前のはずだ。あのニュースを見てから勉強をした僕だと説得力は少し無いが、基本的なものくらいは書けないと辛いだけだ。
《漢検二級持ってる。これぐらいは書ける》
「そうだったんですか? いいなぁ、私半分も書けないです」
《病気が治ったらみっちり家庭教師してあげるよ》
「おばさんになっても?」
《なっても》
「誠治さん、もし嘘ついたら恨みますからね。絶対に人生壊しに行きますから」
《わかってるさ。信用度低いけど、今は僕を信じてよ》
「そうします」
 それからも僕はヒカリの側にい続け、他愛もない雑談を続けた。



八.『ラストデート』

 最後の感覚である『視覚』が生きていられる時間は触覚を失ってから七日前後。引きこもり、自虐を含め正気るのに三日かかり、推定消失まで四日間だけとなった。
 それから三日間、ヒカリは本を読み漁った。
 寝る間を惜しんで本を読み、漫画を読み、字幕だけ出る無声映画を見て、ヒカリは自分の中に記憶として知識を残していった。
 ヒカリは『治る』希望をもって、これから来る無音無明の世界に向けて知識を蓄えた続けた。
 覚悟の強さは僕の想像を超えていて、ヒカリは食べる時間と眠気を消してほしいと言ったほどだ。当然先生たちは良い返事はしないものの、死ぬわけでもなく、あともないのと稔さんが後押ししてくれてヒカリの要求は最大限に活かされることとなった。
 トイレもオムツをすることによって時間省略し、ヒカリはまるで本の神様に憑かれたかのように本を読み漁り、僕はそんな夢中のヒカリを見守り続け日は過ぎていった。

 予測消失まで一日。
「いよいよ明日で何も見えなくなるんですね」
 ヒカリのベッドのサイドボードには数十冊もSF、ホラー、サスペンス、ファンタジーなどの小説が並び、ベッドの上には無造作に漫画本が放置されている。殆どは僕が幼い頃からもっていたもので、みんな連載は終了した完結作品ばかりである。
 一体どれだけヒカリの頭の中にその知識が入っているかは分からないけれど、大まかな筋は全部叩き込んでいるはずだ。
 聞いた話によると、入院してから読んだ本は百冊を超えるらしいから恐ろしい。
 でも、それ以上に恐ろしいのはこれからヒカリに訪れる生きているのか死んでいるのか分からない世界だ。
《怖い?》
「怖いですよ。まぶたを閉じればその再現ができるんですから。でもなんとか我慢します。誠治さんに悪い虫がつかないようにしたいですし」
《大丈夫。目が覚めた時すぐ側に居るから》
「……誠治さん、今日退院なんですよね」
 まだ喉の治療は済んでいないけれど、酷かった裂傷などはもう完治して今日僕は退院する。声がある程度戻るまでは通院はしないといけないけれど、ひとまず病院からは出られるようにはなった。
《あと一日待ってくれてもいいのに》
「しょうがないですよ。今まで入院していたのだって外出のせいなんですから」
 本当ならもっと早く退院していたところを、ちょくちょくと出歩いて治りを遅延させ続けたのが原因だ。自業自得だからしょうがないが、あと一日ぐらい待っていて欲しいと強く思う。
 でもベッドの空きを増やして患者さんを入れたい病院にとって僕は邪魔以外になく、なにより入院費が親もちだからなにも言えない。
「それで話があるんですけど、誠治さんは一人暮らしですか?」
《両親と暮らしてる。なんで?》
「最後ぐらい、誠治さんの家に行ってみたいと思って」
《僕の家に?》
「はい。うちのお母さん親戚以外断固家に入れるのを拒む人だから、私の部屋には招待できないけど誠治さんの部屋は見てみたいんです」
 なんとも最後らしい要求だ。この一週間思い出は捨てて本という本を読んで知識と物語の筋を頭に叩き込んだものの、最後くらい違うものを見てみたいんだろう。
《別にいいよ。普通の部屋だけど》
「ありがとうございます。がんばってエッチなもの探します」
「おい」
 そんなもの探さないでほしい。
「冗談ですよ。ただ見てみたいだけです」
《じゃあ外出届を出す? こっちは母さんが手続きしててすぐ終わる》
「もう出してます。稔さんに誠治さんの家に行きたいって言ったら即OKしてくれました」
 ……女って恐ろしいな。行動力ありすぎ。
「だから支度するの手伝ってください。もう一人じゃ服も着れなくなって」
 ヒカリはそういうと、僕に背を向けてパジャマを脱ぎだした。
「お、おい」
「初心じゃあるまいし大学生が下着姿の女の子を見て動揺してどうするんですか。服はそこの戸棚の中にあります」
 一体いつの間にそんなことを言えるようになったのか、最初会ったときとはえらく変わっていた。
 僕はヒカリの言うとおりに入院者用の小さな戸棚から服を取り出して、背後から着させていく。
 遊園地に行ったときに水着に着替えているからうっすらと肌が小麦色へと変わっているのが見えた。こう見ると華奢で、綺麗で、思わず抱きしめたくなってしまう。
 だが、そんな突発的な欲望で行動してしまうとヒカリはただの女と見ているのと同じだ。
 僕はそれだけは我慢して、シャツを頭から着させる。
「それでいつここを出るんですか?」
《もう行く》
「あ、じゃあ車椅子に……あれ?」
 四つんばいになりながら広げられている車椅子に近づくヒカリを、僕は気づかれないように抱き上げた。
「え、え、誠治さ、え?」
「最後だからね」
 こういう恋人らしい事をしてあげられるのは今日で終わりかもしれないんだ。ヒカリは見ることしか出来なくとも、僕がしっかりと五感全てで覚えておく。
 ヒカリは恥ずかしいのか顔を両手で隠したままで、車椅子に座らせるまで手を顔から離さなかった。
「いきなりひっくりするじゃないれすか」
《一度やってみたかったんだ》
「むぅ。こういうとひふらい感触が戻ればいいんですけそね」
《治ればしてやる》
 ただ呂律が少しだけだけど悪化してるのが気になるも、ヒカリにとっては思う程度だから仕様がない。
 僕は後ろから車椅子を押して病室を出る。
 まさか最後まで自分の病室で別れをしないとは、この病院始まって以来だろうこんな患者。
 エレベーターを使い一階に降りると、ヒカリの耳には聞こえないだろうが百人を超す人々の話し声が僕の鼓膜に響いてきた。
 もし聴覚のオンオフができるなら、こういうところじゃオフにしたい。
「もうすぐこんなにもぉたくさんひる人たちも見れなくにゃひゅんですね」
 周りを見渡しながらヒカリは呟く。
 待合室になる一階には老若男女さまざまな人が順番待ちをしていた。夏風邪を引いて口にマスクをしている老人。どこか痛いのか大泣きしている子供。怪我をして血のついた布を抑えている人。たくさんいる。
 でも、どれもこれも一ヶ月内には治るのだろう。
「誠治」
 入り口に向けて車椅子を運んでいたら背後から呼び止められた。
 背後から現れたのは僕の母だった。
「手続き済ませたわ」
「ありがとう」
「入院費、就職したら返してもらうから」
「分かってるよ」
 こんな大衆の面前でそんな話はしないでほしい。
「この子ね、あんたの彼女は」
 一応大まかなことは家族には話してあるから、母はそんな驚いたそぶりもなくヒカリの前に身を乗り出した。逆にヒカリは突然現れた知らない人にびっくりした。
《僕の母さん》とヒカリにカンペを見せる。
「誠治さんのお母さん?」
「ええそうよ。あなたがヒカリちゃんね」
「母さん、ヒカリの病気知ってるだろ」
「あ、そうだったわね。それで見送りに?」
「僕の部屋を見せるんだよ。今日が最後の日だから」
「いいの? 最後に見るのがあんたの部屋で」
「そう言ってるんだから尊重してあげようよ」
 僕は車椅子を押し、ひと月半ぶりの我が家へと足を進めた。


「ここが誠治さんの部屋ですか」
 机、テレビ、本棚、タンス。パソコンとそれ以外目立つものがない殺風景な和室を見て、僕におんぶされているヒカリは呟いた。自慢じゃないが目立つようなものは本当にない。何か特別な趣味やコレクションをしているわけでもないから、自然と日常生活内で必要なものしか置かないのだ。
「本当に普通ですね。ベッドもないんだ」
 ヒカリを畳みの上に乗せ、押入れからクッションを取り出してヒカリの下に敷く。
《昔から布団だったからベッドはない》
「……よかったです。誠治さんの部屋に来れて。彼女たるもの一度は来たかったですから」
《何もないけどね》
「色々と見てもいいですか?」
《いいよ》
 触覚を消失してしまうと、痛みを感じないだけでなく力加減という制限もかけることが出来なくなり、下手に動くと余計に人体に負荷をかけてしまう。そのためヒカリはできる限り動きを抑えるようにゆっくりと動いて椅子に腰掛けた。
 机には大学ノートや参考書が散乱したままで、ヒカリはその中の一冊を手にとって開いて眺める。
「……全然分からないです」
 当然入学して僅か四ヵ月程度のヒカリでは大学の物を見ても分かるはずがない。
《本当にさ、こんな何もないところでいいの?》
「はい。別になにもしなくていいんです。好きな人の部屋にいるだけで」
《ヒカリがそうしたいならいいけど》
「うわ、すごいDVDの数、みんな焼いてるんですか?」
 本棚の下にはDVDファイルがいくつもあって、そこには子供の頃から地道に集めてきた連続物のドラマや映画が納められている。ヒカリはそれを見つけて聞いてきた。
《ドラマとか映画を残してるけどなにか見る?》
「こういうのにエッチなのを混ぜてるんですよね」
《僕は中学生か》
「冗談ですよ。うわ、十年前のアニメもあるんですか?」
《ビデオで残したのをダビングした》
 今考えればよく几帳面に各話ずつ残したと思う。子供ならただ録画できればそれで良いと思うのが大半なのに、小学校の頃から見た連番ものは各話ずつ順に標準で録画していったから本数が増えて親に叱られたりもした。でもおかげでDVDボックスやレンタルに頼らなくていいから損はあまりなかったりする。
「懐かしい。みんな見てたやつですよ。うわ、こんなのもあるんですか」
 白地のディスクに書いてあるタイトルを見て、ヒカリは驚きの表情を見せた。
 ビデオの需要が低くなっていると、やっぱり十年も前の映像が残っているのは驚きなのだろう。
《ヒカリって、アニメとか結構好きなんだ》
「昔のアニメは見ますけど病気になる前から最近のは見てないですね」
《見たければ見ていい。ディスクに残したのは全話ある》
「ぜひ!」
 レンタルもしている作品なのに見たいらしく、目を輝かせながらヒカリは言った。
《好きに見ていいよ。僕も一緒に見る》
「はい」
 ヒカリはタイトルと話数の書いてあるディスクを見て、ある一枚を選んだ。
 そのタイトルは、前にゲームセンターで取ったぬいぐるみが出ている作品だった。
 様子から見て相当この作品にはまっていたのだろう。
「うわっ、うわっ、なつかしー……すごい。記憶のままですよ」
 たまたま子供の頃に残していたビデオがあって、劣化する前にダビングしたのだけれどダビングしていて本当に良かった。
「最後の最後に古い記憶を思い出させてよかったです。今日、誠治さんの家に来れて本当に良かったです」
「ヒカリ……」
「……実は一つ誠治さんだけに話しておきたいことがあるんです」
 いつになく真面目な表情で、こんな最後の時に語りかけてきた。
「私ろ、お母さんたしのことれす」
 ……気になる事だと言えば気になる事だ。ヒカリが自殺未遂したというのにヒカリの母親と父親は、普通その日かその時間のうちに来るのに用事があると言って来たのはその翌日だから気にはなっていた。
《僕に話していいの?》
「誠治さんたから話しぇるんです。今の誠治さんには全てを任せらりぇますから」
 僕を見るそのヒカリの目を見ると、胸に疼きを感じた。
 皆まで言わずとも分かる。本当に稲葉ヒカリという存在全てを僕に託しているということを。その目を見ればその全てを僕に教えてくれようとしているのが分かる。
 ヒカリは体育座りの体形となって、アニメを見ながら語り始めた。
「私の親。実はお父さんは違う人なの」
 ……父親は違う。そうなると義理ということだろうか。
「義理……といえばそうなるろかもしれないけど。私代理出産で生まれたの」
 代理出産。それは正規の夫婦同士では子供を産むことが出来ないため、代理の母親に受精卵を着床させて子供を産むということだ。
 しかし、日本内で代理出産は認められておらず原則禁止となっている。だからアメリカなど海外で代理出産するケースが多数あると前にニュースで見た。
 ヒカリの父親は病気か何かで精子が作れないから、母親の血だけを受け継がせたのだろう。
「私にとって本当のお母さんとお父さんはもう死んでりゅんです」
 死んだ?
 僕の予想とはまったく違う答えが返ってきた。
「本当の両親の間で私は産むことが出来なくて、受精卵を今のお母さんに移したんです。でも中絶出来ないほど私が育ったとこりょで本当の両親が交通事故で死んでしまって、今のお母さんは私を産むしかなかったんです」
 なんとも重い話だ。
 本当ならばちゃんとした両親の元で生まれるはずだった。受精した瞬間にヒカリが生まれることは確定されても受精卵から生まれる過程を正規の母親で踏めず、かといって大事な子孫を諦めるわけにも行かず、苦肉の策として代理出産を選んだ。
 だが着床し出産までの間にヒカリの本当の両親は死に、中絶出来ないまでに育ったヒカリは産むしかなかった。
 しかし父親だけ違うというのはどういうことだろうか。
《父親だけ違うって言うのは?》
「今のお母さん、本当のお母さんの双子の妹なんです。だから私と今のお母さんはDNA上親子関係であると言えるんですが、お父しゃんは違うんです」
 なるほど。確かにそれなら父親が違うというのは納得がいく。もし代理出産で生まれたヒカリをもらうのならそれは養子に近い。だが一卵性双生児であるならばDNAはほぼ同じであるため、代理出産であろうとDNAだけで見れば親子関係と言える。
 何とも不思議な関係図だ。
「私、それでお母さんとお父さんに嫌われているんです」
 一体どういう状況で出産し、今に至っているのかは分からない。だが嫌われるのはなんとなく分かる。
 どんなに姉夫婦の受精卵でDNAは似ていようと、結局は他人の受精卵。否が応でもあの夫婦にとってヒカリは他人の子供にしか感じないだろう。もし姉夫婦で生まれれば姪ということで可愛がることはできたかもしれないが、出来なかったんだ。
「私、高校に入るまでそんなこと全然聞かされていなくて、入った後にこのことを知らされたんれす。で、高校卒業したら家を出て行けとも言われました」
 ぶわっと何かがあふれるような感情が湧いてヒカリを見た。
 けど、辻褄は符合する。普通の親であればなぜ自分の娘の心を助けてやろうと思わないのかとずっとそれが疑問だった。けど今ヒカリが話してくれたことで納得した。
 ヒカリの母親は十六年間一緒に暮らしても、年頃の女の子まで育てて来てもヒカリは姉夫婦の娘としか思えなかったんだ。きっとその原因は、やはりヒカリ。
《ヒカリ、ひょっとして今の母親も子供が埋めない?》
「え、なんで知ってるんですか?」
 鎌掛けたつもりは無いが、これで完全に分かった。
 どうしてヒカリの母親がヒカリを愛せないのか。それはヒカリを産んだ直後、それともしばらくしてか、ヒカリの母親自身も子供を身篭ることができなくなってその恨みでヒカリを愛せなくなったんだ。
 どんなに愛してもヒカリは自分の娘でなく、どんなに望んでもヒカリの母親は本当の子孫を残せない。代理出産の話がこようと、姉夫婦と同じ道を進むからきっと望まない。だから恨んでいるんだ。
「なんでも遺伝らしくて、私を産んですぐに埋めない体になったらしいです」
《ヒカリは、生まれたことを後悔してる?》
「そうですね。こんなことになって生まれて幸せでしたなんて思えないですよ。半月前までは」
 ちゅ、と僕の頬にキスをしてきた。
「誠治さんに会えたことで私は幸せになれました。だから私は誠治さんに全てを任せられるんです。これで暗闇の世界の中にいけます。誠治さんは、新しい彼女でも見つけてください」
 そのヒカリの言葉で心になにかが刺さった。
「なに言って……」
「世界中には何十年も前から研究が進んでいて治らない病気がたくさんあるんです。私の病気もきっと何十年経っても治らないですよ。だから誠治さんはちゃんとした道を進んでください」
《そんなことできるわけないだろ》
「誠治さんの気持ちは嬉しいです。でも誠治さん格好いいですから、きっとすぐに彼女できますよ。そのときは少し強気のほうがいいですかね」
《なんでそんなことを言うんだ》
「私の所為で誠治さんの大事な若い時期を壊したくないんです。私、友達でも幼馴染でも男の人に恵まれなかったけど、誠治さんと出会って本当に嬉しかった。だから幸せになってほしいんれす」
 僕はそんなヒカリの話を頭の中で反芻して、最終的に出た答えを文字として書く。
《勝手にする》
「勝手?」
《ヒカリがそういうなら僕は勝手にする。嫌気が差せば他の女に行くし、ヒカリを想えば待ち続ける。これなら文句ないだろ》
「そういえば、どうして私のことを好きになったんですか? 理由聞いてないです」
 言われてみれば僕たちはお互いにどこが好きになったのか言い合ってなかった。まあ僕から言わせてもらうとどこが好きになったわけじゃないのだが。
《特に理由はないよ。ただヒカリと居たいと思っただけ》
「それだけでこれから何年何十年と待つんですか?」
 頷く。
「ばっかみたい。普通それだけで人生棒に振ります?」
《バカでいいよ。それでも居たいって思ったんだから》
「ホントバカです。こんな私に優しくして、一緒にいてくれて、一緒に人生壊して……」
 アニメはアイキャッチに入りBパートが始まった。ヒカリはもうテレビは見てなくて、体育座りで曲げた膝に腕を絡ませ、膝の皿に顔を乗せて僕を見て言った。
「もし私が別れた彼女のような人ならどうしてたんですか?」
《告白もしないし家に招待もしなかった》
 気づけばスケッチブックは全て文字で埋め尽くされ、残りは一ページ分しかない。
 買い置きがないか探そうと思ったら、ヒカリが僕の服を掴んで動くのを制した。
「……なんで、こんな病気で誠治さんと会ったのかな。普通に出会ってもっと一緒に遊びたかった。もっと話したかった。恋人らしいことしたかった……なのに明日から何も分からなくなるなんてやだ」
 ヒカリ……。
「もっと誠治さんに触りたかった。触って欲しかった。キスもしたかった。声も聞きたかった」
 ヒカリは泣いているのに気づいたのか、できる限り体を畳んで小さくなった。
 出会ったときにはもう聴覚は失われていたから、最初からヒカリは僕の声を聴いたことがない。いや、そもそも僕自身声はでなかったから仕方がないにしても酷い仕打ちだ。
 かすかに震えるヒカリの背中。顔を見なくても今何を思い、どんな表情をしているのか嫌というほど心の中で表現される。
 アニメは僕らの心境を無視し、視聴者を引き込ませると少し派手なクライマックスシーンに入った。
 僕はそっとヒカリの肩に手を乗せる。触られても感じないから、ヒカリの脳は肩に触れている信号を受けない。つまり反応をしない。
 髪の毛を触っても、わき腹を触っても、嫌がらず嗚咽しつづける。
「ドラマとか」
 顔を上げず声が出た。
「ドラマでも似たようなシーンがあるけど、所詮はドラマ。映像の中でどんなに死んでも、ドラマの中の人は死ぬけど役者は健康だから、そう思うと実際にあった人が見ると憤慨します」
 ドラマの中でどんなに重い病気になっても、それはあくまで演じるだけであって役者自身がその病気を持っているわけではない。経験者なら許せても病気を演技しようとするのは許せないということか。
 僕はヒカリの体を揺する。
「なんですか?」
 視野が揺れたことで揺らされたと察したのか、顔を上げて僕を見る。ヒカリの顔は、あふれんばかりの涙で顔中が濡れて目が真っ赤になっていた。
《待ってるから。恋人らしいことはそれからやろう》
「……誠治さぁん!」
 頬を涙で濡らし、ヒカリは僕に抱きついてきた。
「ああああああああああああああ! あああああああああああ!」
「待ってるから、何年後でもまた会おう」
 ヒカリはそれから日が暮れるまで延々と僕の懐で泣き続けた。



「誠治、もう七時だよ。ヒカリちゃん病院に送らなくていいのー?」
 時計の針が午後七時を指した頃、下の階から母の声が聞こえてきた。
「分かってるよ」
 とはいえ運ぶのは少し面倒だ。
 理由は単純で、泣き疲れてぐっすりと眠っているからである。しかも感覚がないくせにがっちりと僕の体を掴んで離そうとしない。
「ヒカリ、ヒカリ」
 最終症状になってしまえばもう人に起こしてもらうというのは無意味となる。とはいえ何もしないわけにもいかないからとりあえず揺する。
 当然ヒカリは嫌がるそぶりも体を動かすそぶりもない。いくらヒカリの体に悪戯やセクハラをしようと脳がそれを認知しなければ分かるはずもないが、さすがに僕はしたくない。
 ひとまず病院に連絡入れよう。
 僕は家にずっと置きっぱなしでバッテリーの切れた携帯を取り出し、充電器に接続して病院へとかけた。
『はい、三つ葉総合病院です』
「今日そちらで退院した井上誠治です。看護師の木原稔さんを呼んでもらえませんか?」
『少々お待ちください』
 多分僕の事を調べているのだろう。保留のメロディーが流れ、携帯を耳に当てたまましばし待つ。
『はい。木原です。お電話代わりました』
「井上です」
『あ、誠治君?』
 体裁を保つ対応は最初だけで、僕と分かると途端にいつもの口調に戻った。
『そっか、今日退院だったんだね。見送りに出れなくてごめんね。丁度オペに出てたから』
「気にしてませんよ。どうせヒカリの見舞いでまた行くんですから」
 やっぱりまだ喉は痛むから長時間話は出来ないな。
「まだ喉が痛いから用件だけ。ヒカリが今家にいるんですけど、どうしたらいいです?」
『別に問題ないわよ?』
 そういわれ、僕は携帯を見た。
『だって外出届けじゃなくて外泊届けだから、明日帰ってくれば問題ないのよ。ひょっとして聞いてない?』
 僕は無言で眠っているヒカリを見る。
 そういえば届けを出したといって外出外泊どっちも言っていない。
『聞いてないみたいね。とまあそういうことだから、しっかりとカップルしてあげなさい。ただ急変したらすぐに連絡入れること』
「分かりました」
『じゃあね』
 そう言って通話は切れ、携帯を閉じて畳みの上に置く。
 最後ぐらいすることなすこと全部許してやろう。
 僕はそう思って、しがみ付くヒカリの頭を撫でてやった。



「ん……あれ……私……」
 僕の腹からは夜の世界でも鳴り続ける蝉と対抗するように腹の虫がなり続け、脳からも何か食べさせろと唾液を分泌させてくる。
 短針が十時を指した頃で、ようやくヒカリは目を覚ました。
《おはよう》
「おはようございます。え、もう朝なんですか?」
 朝という臭わせぶりに驚いたのか、ヒカリは周りを見て最後に時計を見た。
「なんだまだ夜の十時じゃないですか」
《結構寝たね》
「……四時間位?」
《病院に電話した。外出なら戻らないといけないから。ヒカリ、外出じゃなくて外泊届けを出したな》
「あ、ばれちゃいまひた?」
 まるで隠していたかのように、気づかれたことに茶目っ気で返してきた。
《最初から泊まるつもりだったのか》
「はい。最後ひゅらひ好きな人ひょ一夜を過ごしたかったれしゅから。迷惑ですか?」
《迷惑じゃない。ただ病院で言って欲しかった。眠ったまま連れて帰ろうか考えてた》
「ごめんりゃさい」
《いいよ》
 それだけ台詞を見せて、ぎゅっと抱きしめた。
「まさか最後にこんなことになるなんて思わなかったれす」
 ヒカリは親から見放され、友達や彼氏から見放され一人寂しく行くところだった。誰もがそう思って、ヒカリはそう覚悟していた。
 そこに僕が現れて予定が変わったんだ。
「誠治さん、色々と言ってきましたけど、本当に自由でいいですから。他の人のところに言ってもいいし、待っててもいいです。私は誠治さんの言葉を頼りに安楽死は選びません」
「うん」
 なんとも近くてなんとも遠いんだと、それを何度も考えてしまう。今こうして服越しでも抱きしめ合っていると言うのに、脳との距離も五センチと離れていないというのにヒカリの脳がそれを認知していない。本当に近くて遠い。
 この病気は生きるための必然の機能を残酷にも奪う。
 ヒカリは明日から生かされる。「死にたい」という言葉が連日出るまで、すでに死んでいるのかまだ生きているのか分からない世界へと身を投じる。
 記憶と想像以外絶対に光明が差し込まない完全無明・無音の世界。生半可な精神じゃその孤独と静けさに耐えられず、誰しもが殺してくれと口ずさむ。肉体ではなく精神にダメージを与えていく。
 僕は、ヒカリにとんでもないことを言ってしまったのかもしれない。
 だって僕はヒカリじゃない。ヒカリの苦悩は僕にはわからない。ヒカリの辛さは感じることが出来ない。いっそ死んだほうが幸せだと思うのかもしれないのに、我慢させようとしているのだから。
「誠治さん、大好きです」
 その言葉の直後、ヒカリから世界は消えた。



『世界の中の一人』

 誰か聞こえる人はいませんか? 私はここにいます。
 私、稲葉ヒカリはこの暗闇の世界にいる。誰かいるなら答えて。
 ……なーんて、自分の頭の中で他人を考えてどうしよっていうのかな。ばかばかしい。やめやめ。
 何も見えなくなって多分一日くらい過ぎたかな。時計とか見えないから今何日で何時なんて分からない。息をしているのか、今考えていることは口に出して喋っているのかも分からない。
 視覚があったときは、誠治さんが反応していたから喋れたと分かるけど、今だと分からない。とりあえず口は塞いでいるつもりでいよう。
 くやしいなぁ、だったらもっと練習して置けばよかった。目隠しをすればこの状態と変わらなかったのに。
 それに生きている実感がまるでない。宙に浮いている感じで、今頃だともう病院で布団に被っていると思うけどそれも感じない。音も、光もない、今横なのか立っているのかも分からない。お腹も空かない。どこも痛くもない。
 本当に今稲葉ヒカリは生きているのか、それとももう死んでいるのか。今の私にはそれを知る手段はない。
 夢ならホッペをつまんで痛くなければ夢だけど、その痛みも、その体もない。
 ……急に不安がでてきた。
 安楽死を選ぶ理由がなんとなく分かる気がする。どうしてそう思うのか上手く表現出来ないけど、こう心が押しつぶされそうな感じがすごく来る。
 今はまだ平気だけど、きっとすぐに押しつぶされる。
 誠治さん、あなたなら今の私になんて伝えてくれますか?
「がんばれ」とか「生きるんだ」じゃない、誠治さんとしての言葉を掛けてくれますか?
 誠治さんと会わなければ、私はきっと稔さんと荒垣先生だけしか知らずに死んでいったと思ういます。
 こんな彼女らしいことをしてあげられない私のことを、好きと言ってくれた。
 待っていてくれる自信はない。誠治さんのことだから何ヶ月かは見舞いに来てくれると思うけど、一年もしたらきっと他の彼女さん作るんだろうな。
 できれば作って欲しくはないけど、私は薬が出来るのを待つしかない。それまでは絶対に「死」は考えない。
 ……なにか物事を考えて、それで暇を潰そう。
 そうだ。物語を考えよう。どうせ時間は永遠にあるんだし、ゆっくりと考えられる。
 はは、目を覚ましたとき浦島太郎になっていたらどうしよう。
 その前にこの真っ暗な世界に人々を作って、そのあとに三次元の世界を築こう。


九.『大災厄』

「小百合は……ツン、というひょりは笑顔を見せない超が付くほどのクールな性格かな。デレデレになるにょは、今はもういない一人の男だけで、それ以外体は許しても心は許さないの」
 ヒカリが見る世界が消失して三日目。大学はもうじき夏季休暇が終わり、夏季の課題を一斉に出さなければならない。
 一応半分はやっておいたが、残りの半分は間に合わず友人たちに頼んだ。今後半年パシリにされるが、課題を落とすのはまずいから致し方無い。
 で、今僕が居るのはわざわざ考えるまでもないヒカリのいる病室だ。しかし、二人部屋だがその病室にはヒカリしかいない。
 理由はヒカリが自殺未遂したせいで血が病室を染めた噂が広がり、この病室には『血塗れ病室』とホラーチックな名前が付いたためだ。
 なので二人部屋を占領する稲葉ヒカリは他人を気にせず喋っている。もっとも誰かが入ってきたところで分かるわけもない。
「んー、体を許すといっても一緒に行動をする貫之だけで、他の人はたとえ女子でも断固許否」
 今ヒカリが話しているのは、ヒカリが考えた自作物語だ。
 一昨日から話し始め、昨日と一昨日は世界観と大雑把なあらすじ。今日はキャラ設定を考えて喋っては訂正喋っては訂正をしてキャラクターを人ずつ増やしていく。
 タイトルはまだ無く、ストーリーは世界を動かす事ができる『四次元』の空間の奪い合いをするSFとファンタジーを混ぜた物語だ。しかもちゃんと三次元に時間の概念を加えてもある。
 せっかく喋っているのだからそれを記録しようと僕は最大四百時間録音可能で、パソコンにデータ転送できるボイスレコーダーを購入してヒカリの側に置いている。これなら雑音が多くてもヒカリの声を優先的に録音できるはずだ。
 もう一つの理由として、この病気は極稀に数秒から数分間知覚が戻る場合があるらしい。そのとき誰もいなかった場合、様子が分からなくなるため記録としてでも残したいのだそうだ。
 もちろんデータはコピーを渡してオリジナルは僕が持つことになっている。
「……あ、そういえば人の血ってどれくらい消えたら危ないんだっけ。確か一リットルぐらいなくなると危ないって言ってたから、それぐらいかな」
 間違ってはいない。人間の血液は体重の十三分の一。七十キロの人なら血液量は約五キロで、抜いて平気なのは血液の四分の一まで。命に関わらないなら一キロなら耐えられる。
 なんでこんなことを僕が知っているのかというのは、ヒカリの自殺未遂が起きてから一度だけ調べておいたからだ。
 ちなみにヒカリの体重だと一リットルはかなり危険で、本当に自殺未遂の時は危なかった。
「まあいいや間違っても。術を発生するエネルギーは血液で、一度術を使うと血がなくなっていく。使いすぎると意識が朦朧として倒れるから使用頻度は守らないといけない。術が強力になるにつれて消える血も多い。だから中には吸血行為を行う人たちも現れるの」
 などとヒカリの中で設定をどんどん膨らませていく。
 人間何もしないで誰とも会わず、ずっと一人でいた場合数日で壊れ始めるって言うが、でもそれは環境によると最近思う。
 考えてみればそうだ。今この瞬間地球から人が消えて、どんなに探しても見つからなければ不安と恐怖で心が壊れるのは明白だ。
 だがヒカリの場合はちょっと違う。確かにヒカリは今一人だ。暗闇、無音、これ以上の孤独は無いがそれを想像で補っている。簡単に言えば頭の中に別の人格を想像すればいい。結局は自分が言動を考えてそのキャラクターを動かすことにはなるけど、自分の理想の人格を作って話し相手にできる。
 そりゃ一般人がそういう風に話せば変人と思うが、今のヒカリを見ればなんとも感じない。あとはヒカリの中の世界をどれだけ膨らませるかが問題だ。

 ブーン……ブーン……

 ポケットにマナーモードで入れていた携帯が震えだした。
 一瞬メールかと思ったがメールの着信時間は五秒と設定している。これは十秒を超えているから音声着信だ。
 さすがに病室内で携帯は開けないから、廊下の窓際で携帯を開く。
 ディスプレイに映る発信先の名前は吾妻彩子。
 僕の元カノからだった。


 電話に出て呼び出された場所は、高校時代よく下校途中で立ち寄っていた学生中心のファミリーレストランだった。
 ここではよく友人同士で立ち寄って、学校でもできると言うのにばかな話をして時間を潰していた。受験の勉強のときでもここは頻繁に利用していた思い出もある。
 あの時別れて以来電話すらなかったのに今更何の用だろう。
 レストランの中に入って見渡す。受験のために勉強する学生。家族で食べに来ている人。学生同士で駄弁っている。そんな中で、店内の奥で一人だけ俯く女が一人いた。
 大学生という雰囲気を出す大人びた服装で、一番目立つ髪は座席まで届く長さを誇り、顔立ちは可憐でよく僕が付き合うことが出来たなという女が一人、コーヒーを飲まずに待っていた。
 僕は待ち合わせとウエイトレスに言って、彩子の元へと行く。
「あ、誠治」
「久しぶり」
 別れた手前親しく話せない。
 僕は彩子の向かいに座ると、ウエイトレスが水を持ってきた。
「それで、呼び出した理由ってなに?」
 まだガラガラ声で、ある程度喋るとまたメモ帳とペンに頼ることになりそうだ。
「声、大丈夫?」
「途中で文字に変わる。それで用件は?」
「その……謝ろうと思って」
 薄々分かってはいたけれど、やっぱりそれだった。
「私、目先のことにとらわれてあなたのこと忘れてた。図々しいけど、元に戻せないかな」
 正直に言えば嬉しい。高校からの知り合い関係から見れば二年も付き合ってきた。
 僕も出来ることなら復縁したいけど、それを考えてしまう点が三つもある。
 彩子のことは本当に好きだった。高校時代から三年間一緒のクラスで、同じ大学に受かって、だめもとで卒業式に告白してOKしてくれたときは本当に嬉しかった。このまま付き合って、果てに結婚というのも片隅に考えていたほどだ。
 だからこそ一度拒んだだけで呆気なく別れされたのは辛く、事故で怪我したのに知り合いとして見舞いにも来なかったのは悲しかった。そして何よりヒカリが今病魔と暗闇に耐えているのだ。即座に返事をすることはできない。
「お前が付き合うようになった男はどうした」
 一口喉を潤すために水を飲む。
「他にも女がいて、何度か……そのあと音信不通」
 何度か寝た後に消えたわけか。その男も恋だの愛だのより女を見たのだろう。
「ねぇ、縒りを戻しましょう。もうお金のことで何も言わないから」
「悪いけど無理だよ」
 彩子は僕の目を見た。
「どうして? ひょっとしてヒカリって子がいるから?」
 ヒカリのことは友人から聞いたのだろう。その質問には彩子の目を見てそれを肯定していることを知らせる。
「どうして、二年半も一緒にいたのに……ひと月ぐらいの子を取るの?」
「時間は関係ない。そっちだって一言で終わらせただろ」
 喉が痛い。そろそろメモに切り替えるか。
「だからって……そんな簡単に」
《そっちにとっては軽いことだろうけど、こっちは重いんだよ。彩子は僕の性格知ってるだろ》
「ええ」
《僕は自分から誰かを見捨てることはできない。見捨てられて僕は誰かを見捨てるんだ。彩子は僕を一時的でも見捨てた。だから僕も見捨てたんだ》
 メモ帳を見開きにして、縦よりは横文字で長文を書いて彩子の前に置く。もう少し喉の痛みが弱ければいいのだけれど、休ませながらでないと喋れない。
 幸い彩子は書いている時間は無言で待って、真面目に読んでくれている。
「ごほっ、彩子は美人だから新しい彼氏はできるさ。だから次は友達として会おう」
 水を熱くなった声帯に流し込んで席を立つ。
 彩子のことだ。怒る事はあっても泣くことはない。僕は彩子が飲んでいたコーヒー代を支払って、ファミレスを後にした。
「……はぁ」
 まだ引きずっている。二ヶ月ぐらい前に突然別れ、今日までにヒカリのことが好きになった。そして復縁話。悩まないほうがおかしい。
 でももう終わったんだ。彩子にはまだ他の男がいる。作ることが出来る。逆にヒカリはもういないんだ。この先の未来があるのかも分からないし、親の手助けもない。
 同情の形でヒカリを取る感じに思えて少し引っかかりを持つけど、ヒカリへの気持ちは変わらない。いくら二人の女性から求められても絶対に二股なんて出来ない。
 僕は最後に外から見える彩子を見て、自分の家の方面へと歩き出した。



 ……そういえばヒカリの家って遠くなかったっけ。
 自分の家まであと十分のところで、ふとヒカリが僕の家に来たときに無意味と言いながら住所を教えてくれたことを思い出した。ただ親子関係を聞いた手前あまり意味はない。
 住所は携帯に入れてあって、ディスプレイを見て確認する。場所はそう遠くなく、歩いて五分とない。
 入れてくれるとは思えないが、もし運がよければヒカリの部屋を見ることができるかもしれない。物色する考えはないが、僕の部屋を見せたから見てもいいだろう。
 僕は進行方向の真横の横道に入ってヒカリの家へと向かった。

 ヒカリの家はどこにでもある一軒家だった。駅からは歩いて数分だから場所的にはそう悪くない。僕の家より場所は良いがなにか飛びぬけたところもない普通の一般住宅である。ただ一台のトラックがその家の前に止まっていたのが少し気になった。
「はいよろしくお願いします。あの部屋にあるものは全て持っていって構いませんから」
 敷地の中で、トラックの乗っていた人にヒカリの母が話しかけていた。
『あの部屋にあるものは』
 不安が出る嫌な言葉が耳に残った。そして、不安は的中して家からは学習机などが運ばれて荷台に乗せられていく。
 僕は急いでヒカリの母へと向かう。
「あら、井上さん」
 やはり、僕を見るとヒカリの母親は嫌な顔をした。
「……ひょっとしてヒカリの家具を粗大ゴミにしているんじゃ」
 回りくどいことはせず、単刀直入に聞く。
「ええそうよ」
 向こうも変にはぐらかさずに肯定してきた。
「そこまでしてヒカリの物はいらないのか」
「なにあなた、家族事に首を突っ込まないでくれない」
 ヒカリの言っていたこと、僕の思っていたことは間違っていなかった。
 でもまさか家具まで捨てるとは思わなかった。ここまでするなら気持ちを変えることはまずない。ここで憤激しようと、何をしようと僕が悪者だ。
 腹立たしい。いくら血が似通って違うといっても、十六年も育てた娘に対してやることじゃない。ニュースなどで親が子を虐待するのは目にするが、この親は異質で最低だ。
「邪魔だから消えて」
 そして人柄にも腹が立ってきた。
 出来ないと思いながらも、良ければヒカリの部屋を見せてもらおうとしたがもうそれは無理だ。まさかヒカリを憎む気持ちがここまで大きかったとは予想もしていなかった。
 家具は次々に運び込まれ、二tトラックの荷台を占拠していく。
 僕は自然と離れるように歩き、見えなくなったところで走り出した。



「はぁ……はぁ……ごほっ! はぁ」
 あの母親に対しての憎しみを消し去るために、多数の傷口から脳髄にやってくる痛みに耐えながら僕は走った。
 今まで怒る事はいくらでもあった。してないはずなのに悪戯をしたことで親に怒られ、嫌いなクラスメイトに虐められ、受験勉強でストレス溜まって親と激突したりした。怒った事はたくさんある。けどこれは今までのとは別次元だ。
 一体どれだけ走ったのか、まだまだ夏の名残を残す日照りと運動で熱せられ全身が火照り、体中から汗が噴出して服が肌に吸い付いてきた。
 汗が傷に入り込んでさらに痛みを引き起こし、その痛みに耐えながら僕は公園へとやってきた。
 子供を狙う事件が後を絶たない昨今では公園にいる子供たちは少なく、いたとしても母親と一緒だ。僕が子供の頃は友達と日が暮れても遊んだというのになんと淋しいことだろう。
 僕は公園に設置されているベンチへと腰を下ろす。
 もうヒカリに帰る場所はない。入院費は仕方がなく請け負うかもしれないけど、それもいつやめるのか分からない。
 ヒカリはどこまで不幸なんだ。ただでさえ難病にかかって、頼る親に見捨てられて、独りぼっちになって、僕まで見捨てればヒカリは完全に一人だ。
 ……今日は色々と含めて厄日だ。
「おい」
 ヒカリの不幸さに共感していると背後から声を掛けられた。
 反射的に振り返った直後、世界が歪んだ。
「ごはっ!」
 何かが口から飛び出し、痛いようで痛くない感覚が喉を襲った。
 その歪んだ中で見えた僕の口から出たのは、血だった。
「ごほっ! げほっ!」
 地面に背中から落ちると、公園の隅からは母親の悲鳴がこだました。何かが起きたのは分かったけど、その何かが分からない。
 右手をついて四つんばいになると、今度は腹部に激痛と衝撃が来た。
「てめーの所為で女に逃げられちまったよ」
 言っている意味が分からない。
「お陰で俺は悪者だ。死ねッ! 死にやがれ!」
 何発も腹部に衝撃と激痛が来て、体中に力が入らず目も焦点も合わさず仰向けとなった。
(……た……け―――)
 青い空に太陽が見え、同時に空をかき消すように靴底が広がってきた。
 ……きっと次の行動は生物が持つ反射行動だったと思う。
 気がつけば僕は空を見ていたはずなのに、いつもの視点となって地面に立っていた。
 口の中一杯には血が充満して鉄の味が感じられて、視野の所々がかすれている。
 息をしようにも血が邪魔して満足に息が出来ない。
 まるで意識と体の繋がりが一本の線だけしかない感じだ。
 意識はあるけど体との連絡がうまくいかない。夢の中の自分の体を動かしていると言う感覚だ。
「ちっ、死にぞこないが」
 口からは絶えず血が流れ、土の上に血が絶え間なく垂れ落ちて血がしみこんでいく。
 服もきっと喉と口から出る血で血まみれだろう。
 そして気絶する寸前の僕の目の前にいるのは、ヒカリの元カレのタケルだった。
 がくがくと震える足をなんとか崩れないように大地を踏み、いつ真っ暗になるのか分からない世界をしっかりと見て、タケルと対峙する。
「てめーのせいで俺は最悪なんだ! 今ここでぶっ殺してやる」
 駄目だ。ほとんど右から左でタケルの声が頭の中で残らない。
 タケルはふらつく僕に向かって走ってきて、一発膝蹴りが腹部に直撃した。
「げはっ!」
 口に溜まっていた血が噴出し、それがタケルの顔面に掛かった。
「ぎゃあああああああ! てめぇ、なにしやがるんだ!」
 気をしっかり持て。どうせもう喉は駄目だ。最悪命を落とすかもしれないけど、こんな最低な男に命は落とさせてたまるか。
 ヒカリがまだいるのに、こんないきなり命は落とすな!
 僕は意識と体の繋がりの糸を増やして意識をしっかりと定着させる。同時に喉から尋常じゃない痛みが脳に送り込まれてさらに意識がはっきりとしてきた。
 しかも、息が出来ないことに気づいた。きっと気管に血が流れ込んでいるんだ。すぐに息が出来なくなる。
 吐き出そうと咳き込むと激痛が全身を光速で駆け巡り、でもちゃんと血は吐き出された。
「殺してやる。殺してやる!」
 タケルは指に金属のようなものをはめていて、また殴りかかってきた。
 どうせ逃げられないなら突っ込むまでと、僕はそんな重くない体でタケルに向かって走った。
「しねっ!」
 足は向こうのほうが速く、タケルの拳が僕の喉に直撃した。
 喉と意識が吹き飛ぶような衝撃がまた襲ったが、喉に食い込む腕を払う。そしてこめかみを掴み、渾身の頭突きをタケルの眉間に最初で最後の抵抗としてぶつけた。
 皮越しの骨と骨のぶつかる鈍く低い音が公園中に響き渡り、目の前が真っ暗となった。



 目を覚ましたそこは、見覚えのある場所だった。
 蝉の騒音が外から響き渡り、窓というフィルターで軽減されても音を感じさせる。
 寝起きのためかまぶたは異様に重いが、それでも見えるのは真っ白い天井。
 嗅覚を刺激するのは救急箱以外では病院しか嗅がないオキシドール。
 味覚を刺激するのは鉄を舐めているような血の味。
 そして腹部を中心に傷みが全身を駆け巡っていた。
 ……また病院に来たらしい。
 ただ以前ここに来たのと違うのは、横には心電図があるということだ。
「貫之は生きていふために必要な血液を全部使い切ってしまって、ついに限界を超えて術を使うの」
 ヒカリの声が聞こえる。
 なるほど、退院して三日目かそこらでまた逆戻りしてきたわけだ。
 段々と頭が冴えて来た。
 ヒカリと同じ病室。きっと僕がヒカリに対して無害と病院側が考慮したのだろう。
 とにかくナースコールを……。
 起きたらすぐに押してもらえるように、右手のすぐ側にはナースコールが置いてあって僕はそのボタンを押した。


「お早いお帰りね。誠治君」
 開口一番で稔さんは皮肉を言ってきた。
 声を出そうとしても声がまったく出ない。
「井上さん、よく聞いて下さい」
 今まで主治医をしていた先生が、申し訳なさそうに言った。
「起きてすぐに言うべきではないのですが、もう二度とまともな発声はできません。声帯の損傷が酷く、手術による完治はもはや無理です」
 声が出ない直後に予感していたことが、見事に的中した。
 もう頭も真っ白にならない。
「内臓にもダメージがありましたが破裂はなく一週間ほど様子を見ます。手足などの傷は少し開いた程度ですので大丈夫ですが、やはり問題は喉ですね。肺にもかなり血が溜まっていて、危うく死ぬところでした」
「あと明日辺り警察の人が来ますよ。誠治君誰かに襲われたみたいだから事情聴取ね」
 ……思い出してきた。公園に入ったところで記憶が途切れてきたけど、全部思い出してきた。
 タケルに襲われて、それで気絶する手前で一撃浴びせたんだ。
「声は完全に失ってしまいましたが、それでも一般的な小声でしたら発する事はできます。それは声帯を使いませんから」
 けど声が失われたことには違いない。
「誠治君しっかりね」
 僕は両手を出して、ペンで文字を書くジェスチャーをする。
「何か言いたいのね。待ってて」
 稔さんはそういって、小走りで病室から出て行った。
「先生。他に悪いところはありませんか?」
 息を吐きながら口を動かすと先生も聞くために耳を近づいてきた。
「内臓の破裂の恐れ以外は大丈夫ですよ。一週間か二週間で退院です」
「わかりました」
 本当に声はまったく出ず、僕は目を閉じた。



 目が覚めたその日の夕方で暴行事件としてニュースが報道され、ようやく全容が分かった。
 犯人は見間違えなく、美柳高校一年四組に在籍していた三浦タケルだった。しかも警察が来たときあいつは逃げ出したあとで、僕だけがそこの公園で倒れていたらしい。
 警察に通報してくれたのは同じ公園にいた親子で、襲われてから十分ほどで警察が来てくれて救急車を手配してくれた。もしあと数十分病院に行くのが遅ければ肺に血が溜まって窒息と出血多量で死ぬところだったらしく、少しだけ肝を冷やした。
 犯人のタケルは全身に僕の血を浴びていているため言い逃れも隠す事もできず、親が通報して身柄を拘束された。
 僕の喉を潰した凶器はナックルダスターという指にはめて攻撃をする金属らしい。
 動機はなんとも単純で、あの夏夜祭りで僕らがした会話がネットに流れたのが原因だ。流した人はそのときタケルに口説かれた他校の生徒で、名指しと写真で悪く批判したことによって同級生の女子生徒からはまったく相手にされなくなったらしい。ネットで詳細を知っていた稔さんに更に聞くと、携帯に登録している女友達からも音信不通にもなったとのことだ。
 噂を流して集るのは女子が中心だから広がるのは早く、ネットなら鼠算以上の早さだった。
 そして逆恨みしたあいつは人目に付くと分かっていながら感情に任せて僕を殴打し、声と言う自分の中の世界を外部に知らせる手段を永久に封じさせた。
 人の噂も七十五日=B半年くらい真面目に取り組めば気を許す女子が現れたのに、余計な悪態を披露して逮捕されては誰一人構わなくなる。
 僕から言わせればざまーみろだった。
 でも、あんな最低野郎に僕の声は一生奪われた。人工声帯というのもあるらしいが、どんなに似せようと自分の声じゃない。付ける気持ちなんてなかった。
 ……これからどうしよう。
 友人たちとのコミュニケーションはメモ帳を通すか小声で話すかでなんとかなる。けど講義での質問や就職活動じゃ致命的だ。会議をする時だって喋れなきゃどうしようもない。接客業なんか問題外だ。
 今の職業はほぼ全て声と技能を中心とするから、声の出ない僕が出来る仕事なんて、無い。
 ……ヒカリの気持ちがどことなく分かった気がする。
 前回は治るから深刻な考えはしていなかった。ヒカリはこれから確実に永遠の闇が来ることが分かっていた。この時点でもう僕とヒカリにはずれがあったんだ。
 それが少し遅れて僕も実感した。永遠に喋れないってことに。
 決してヒカリより悪くはない。意思表示も以前の入院の時のようにできる。
 ただやはりこれからする仕事に関しては致命的だ。
「貫之はそこで走って、『爆』の陣を捨て身で与えるの!」
 ヒカリは白熱した様子で戦闘シーンを創作していた。
 そろそろデータをパソコンに取り込んでレコーダーのデータを消去しないと録音が出来なくなる。
「こんばんは。誠治君」
 戸が開いて、稔さんが入ってきた。
 窓の外を見てみればもう日は暮れて夜になっていた。
「もう夜か」
 やっぱり小さな声しか出ない。
 こういう極限状況になると時間の流れがゆっくりのと早く流れるのかどっちかになる。
 僕の場合はまだ午前中と思っていたから後者のようだ。
「ヒカリちゃんの様子は?」
《ストーリーを進めてる》
「そう。誠治君は体調どう?」
《声が出ない限り平気》
「それはそうよね」
《稔さん、声がなくても働ける仕事って何かある?》
「え……急に言われても分からないわよ。そうね……自然と一人で仕事をする比率が高くなるから、クリエーターかな。でも会議とかに出ちゃうし……強いて言えば作家? あれなら編集者との打ち合わせぐらいしか喋らなくてもいいけど。一番いいのが株をやることね」
 株は完全に却下だ。
 たまにニュースで報道されるのを見ると、パソコンを凝視して数字を打ち込むだけだ。証券取引が行われる午前九時から午後三時までの間が仕事で、株を売買して株の上昇分だけ手に入れる。簡単に言えば一万の株を買ってその株が四万まで上昇したらすぐに売れば三万儲けるという計算だ。けどいつ上がるのか下がるのか分からないし、ギャンブルには違いない。なにより株自身僕は知らないから無理だ。
 でも作家ならあるいは……。
《稔さん、読者の役を請け負ってもらえる?》
「読者?」
 ヒカリにとっては不本意だろうけど、せっかく考えている物語を棒に振るうことはない。
 なんとか僕とヒカリの不安定な未来を、安定した未来にするしかない。
 早速僕は、手当たり次第に本を読み始めた。


十.『発作』

 再度入院すること六日目。僕はヒカリが暇な時間に読んでいた本を読んでいた。
 多少は僕自身が持ってきた本が混ざって入るも、よくこれだけさまざまなジャンルをもっていたと感心する。
 多くは映画の原作、ファンタジー中心のライトノベル。ミステリーやホラーなど若者向けかと思えば世界的有名な著者の純文学まであったりする。
 しかも、どれもこれもがつまらない気持ちが起きないのだ。僕が読む本は当たりはずれがあって最後まで読みきることは少ないが、ヒカリの持っている本は目が疲れて本を離してもまた読んでしまう何かを持っていた。
そういえば前にヒカリが見る目があるといったが、それは間違いではなさそうだ。
 だが、ただ単に引き込まれしまっては普通の読者にしか過ぎないため、僕は左手で本を持ち、右手でペンを持ってノートに気になることや比喩表現などを書き写していく。
 さすがプロと言ったところだろうか。僕の考えだと単調な表現で終わるも、プロはしっかりと味のある書き方をしている。
 あと意味深な伏線も重要だ。そうでなければ引き込ませる力が無い。
 ノートはもう半分以上雑に書いた文字で埋め尽くされ、僕は一度読みかけの本に栞を挟んで本から目を離した。
 大きなため息が数秒漏れ、ベッドへと倒れる。
 もう十五冊は読んだ。
 人間やれば出来るとは言うが、よく三日で速読もせずに読んだと思う。
「こんにちはー」
 声が聞こえ僕は起き上がり入り口を見ると、もはや定番とも言えるほどやってくる稔さんがいた。
《こんにちは。休憩?》
「そっ。もう愚痴を言ったり文句を言われたり、平気でお尻を触ってくる患者さんが多くて困っているのよ。誠治君はそんなことしないだろうからここに来たってわけ」
 一体何の根拠に僕の素行を信じているのだろうか。
 別に触るつもりはないが、稔さんはきっと愚痴を零しに来ただけなのだろう。
 病院だってサービス業に入るんだ。患者さんの素行の悪さには注意をするだけで、よほどのことがない限りこちらから何かをするわけにはいかない。
 確かにストレスとか溜まって愚痴りたくもなる。
「すごい本の数ね」
 そう言って稔さんは、ベッドの側においてあるパイプ椅子に座って本を一冊拾った。
「これ全部読むの?」
《読まないと知識がつかない》
「誠治君、本当に小説家になるんだ」
《ヒカリと僕が生きるにはこれがいい》
 世の中声を必要としない職業は数えるほどしかない。そのなかでヒカリを活かして僕が生きるためにはこれが一番なんだ。
 今でもヒカリが喋り続けている物語を本にするためには、僕ががんばって賞を取って作家になるしかない。
 決して楽な道じゃないのは分かるが、やるしかないんだ。
「じゃあ退院した後に作品出来たら見せてね。家のパソコンのメルアド後で教えるから」
 僕は頷こうと、首を傾けた瞬間

 ピ――――――――――――

 病室中に電信音の警報音が鳴り出した。
 あまりの唐突さに僕は全身を使って反射反応をして、僕と稔さんは音の発信源に向くと顔面蒼白となってじまった。
 なぜならヒカリの生きている証となる心電図が0となっていたからだ。


「これからICUに移す。急変する可能性があるため用心するように」
 ストレッチャーのタイヤの音を響かせながらヒカリが病室から出て行く。
 さすがプロと言うべきか、慌てふためいたのは僕だけで、一緒にいた稔さんは冷静に処置をして途中から先生も合流して心拍を再開させた。
 僕はただベッドの上で呆然と見ているしか出来なかった。
 先生と看護師は出て行き、稔さんはここに残って僕に向く。
「驚いたわ。いきなり心拍が停止するんだもの。でも私が近くにいてよかった」
 タケルに襲われた僕と同様に、心拍が停止してから何分か過ぎると脳に障害が出るらしい。けれども迅速な措置を施してくれたお陰で、後遺症が残る前に回復したから問題はないとのことだ。
《どうして突然?》
 そこが分からない。内蔵に症状が出る可能性はあるとは言っていたが、まだ一週間も経ってないで心臓発作だ。何がどうなっているのかまったく分からない。
「そこは先生に聞いて。あとヒカリちゃんがこんな状況になると親御さん呼ばないと行けないわ」
 ……来るはずがない。
 ヒカリの親と聞いてそうまず思った。
 あの親にとってヒカリは邪魔な存在。ヒカリが心臓発作したところで気にすることはない。これは過信になるけどむしろ死んで欲しいとも思っているんじゃないかと思う。
「じゃあ連絡しないといけないから私行くわね」
 ヒカリがああなってしまっては私用で残ることはできない。稔さんも後を追うように病室から出て行った。

 ……気づけば、病室で僕一人なのは初めてだ。
 聞こえてくるのは残り少ない命の蝉の鳴き声と廊下から聞こえる音だけ。僕自身の吐息の声はほとんど聞こえない。
「ヒカリ……無事だといいけど」
「井上さん」
 ヒカリの心配をしていると、荒垣先生が戸を開けて入ってきた。
「稲葉さんは落ちつきました。親御さんは外せない用事があると言って来れないみたいです」
 やっぱりそうだ。外せない用事ってのは十中八九嘘に決まっている。
 ここまで来ると怒りを超えて殺意まで湧いて来た。
「それでヒカリは……」
「これは『感覚失調症』の独特の発作です。内臓や心臓を動かすのは脳なのは知っていますよね?」
 そんなこと小学生のときに習う常識だ。知らないはずがない。
 脳の中には微弱な電気が溜められていて、その電気を神経に通して流し命令を指令先に送ることで指を動かしたり体を動かしたりする。
「感覚がなくなってしまえば脳はちゃんと心臓が動いているのか分からなくなる。そのため送っていいのか分からなくなり、たまに電気信号を止める場合があるんです」
「じゃあ、内臓神経がやられたわけじゃない?」
「それとは別です。ただこれが起きるのは一年か半年ぐらい経った後と聞いていたから焦りました」
「じゃあ死ぬことはないんですか?」
「いや、もし多臓器不全させれば救命は難しい。幸い三つもなる症例はないから危険視はしなくていいとは思うが、何とも言えませんね」
 けど絶対じゃない。
 なんてことだ。じゃあ今のヒカリは自分に対して生きた不発弾を抱えているということだ。
「できればこの事を親御さんに話さないといけないんだが、なぜか都合が合わないんだ」
 恐らく一生来ない。ここまでしてこないのなら墓に入れるのすら嫌うはずだ。
 親権と言うのは義務で二十歳になるまでは守らなければならない。もし僕が思っているほどヒカリが邪魔なら、まずヒカリを見守るようなことはまずしないだろう。親権喪失というのも家庭裁判所でできるけど、理由がそんなことではまず認められない。
「薬が出来るまで無事でいられますか?」
「すまないが何ともいえないんだ。精神に関しては恐らく大丈夫だろうが、他に関しては何も答えられない」
 舐め過ぎていた。二年先に生きている人がいたから近年に薬が出来れば済むと思っていた。でもその前に内臓神経をウイルスが侵すかもしれないし、自分自身で命を絶ってしまうかもしれない。
 いやだ。死んで欲しくない。せっかく復縁を持ちかけてきた元カノと決別したのに、これでヒカリが死んだら僕は……。
「今までこんな症例は本当に初めてなんだ。一期症状は一般的だが、二期症状は例外だ」
「一期? 二期?」
「『感覚失調症』には二段階の症状時期があるんです。一期目は五つの感覚が順に喪失し、二期目は死ぬまでの症状。二期目の症状は『精神不安』『内臓発作』『内臓神経停止』とあるんです。今のところ二期目が発症するのは精神不安が翌日。内臓発作は半年から一年後。十日未満で発症するのは例外だ」
 十日未満と半年から一年じゃ確かにズレが大きい。
「ただ内臓発作は生きる欲求が元々少ない場合は起こりやすくなると言います」
「生きる欲求?」
 じゃあつまり、今のヒカリには生きたいという気持ちが少ないって言うことだろうか。
 嘘だ。だって今まで物語を創作して生きようと孤独から逃げているじゃないか。僕が待っていることだって知っていたはずだ。なのになんで生きる気持ちを持ってないんだ。
 なんで……なんでだ。
「恐らく稲葉さん自身は生きようと思っているが、深層心理の部分ではもう絶望視しているんでしょう。心理学は専門外だから答えようもないけど、無意識に生きることを望んでいないのだとしたら、そうなる」
「それだったら一期目が終われば誰もがそう思うんじゃないんですか?」
「いや。それだったら精神不安が起きる。深層心理は今までの人生の中で蓄積された経験の無意識であって今更どうすることも出来ない」
 僕の中でヒカリを死に追いやる爆弾が酷く、大きく変貌する。
 言ってしまえばほんの小さな衝撃で爆発するニトログリセリンだ。
 先生の話を理解すると、ヒカリの無意識がそうするのは理解できる。
 ヒカリは生まれながらに親に毛嫌いされ、かといって自分の子でもあるため捨てることも殺すことも出来なかった。虐待された様子はないけど、愛情はまったく注がれずに育ったため普通の子供よりは少し違う育ち方をした。
 そして高校に入ったところに代理出産で産まされたと知らされ、家を出て行けと宣告され、そしてこの病気に犯され、友達からも全て見放されるという五重苦。
 死や絶望を連想しないほうがおかしい。
 少なくとも今まで見て出会ってきた人の中ではヒカリは一番の不幸人だ。
 どうしてヒカリはここまで不幸を背負うんだ。あんなにも明るくて、健気なのに。
 世界に意味のないものはない、というけれどヒカリはなんだ。この世界に不必要なのか。違うだろ。男が生まれ、女が生まれ、結ばれ、子を残すために生き物は生まれたんだ。なのになんでヒカリはここまで苦しむ。自ら死なせるなんて残酷なことをさせるんだ。
 気づけば、大量の涙が僕の頬と顎を濡らしていた。
「では私はこれで。ICUには話を通してありますから君は普通に入れますよ」
「あ、ありがとう……ございます」
 先生が退出した後、声が出ないことをいいことに派手に泣いた。
 子供から大人になって初めての大泣きだった。



十一.『奇跡』

 内臓発作。心臓発作と同様に突然内蔵の活動が不安定になることを指す。他の病気でこのような多臓器が不特定に活動を停止、過剰、変則に動くかは分からないけど、『感覚失調症』の患者には高確率で一度は起こる。
 原因は脳から送られる電気信号が送られず、内臓筋の動きが不規則になることだ。
 腕や足、呼吸をする横隔膜などは自分の意思によって動かすことが出来るが、内臓筋は意識とは無関係に動き続ける。しかし感覚が消えたことによって脳がちゃんと内臓が動いているのか分からず、ちゃんと電気信号が届いているのか分からず混乱が生じるらしい。
 だけど脳はそうすぐに電気信号を止めることはしない。
 なぜなら生物は誰しもが本能的に生きようと考えているからだ。たとえ体中の感覚が消えようと、生きようとして電気信号を送り続ける。
 ただ無意識のうちから死を望む形であれば、多々の絶望から自ら送るのをやめる場合もある。
 ヒカリはまさにその状況に陥り、常に見張っていないと危険な状況になっていた。
 時刻は午前九時。ヒカリが発作を越した時から眠れず、外は明るくなっていた。
 昨日の消灯から今時計を見て時間を知るまで、何を考えていたのか自分自身分からない。寝ていないのは明らかでもそれ以前に眠気なんてまったく感じない。いや、すでに夢なのかすら分からない。
 ……考えたくない。頭の片隅にも入れたくない。けど離れない。ヒカリが死ぬ光景がいくら振り払おうとこびり付いたまま離れようとしない。
 ヒカリの命はそう長くない。そう僕自身が僕に囁いて来る。
 いますぐ薬が出来たところで、異例の早さで使用許可が下りるとしても半年はどうしてもかかってしまう。
 もしその間に多臓器で内臓発作を起こしたら命はまずない。死ななくてもいいのに死ぬなんて理不尽にも程がある。もし感染と発症率が高くなれば、苦しむ事はないが何も出来ずに死んでいってしまう。
 今更になって僕も発症するかもと怖くなってきた。
 僕はヒカリのために取ったUFOキャッターのぬいぐるみを、年甲斐もなく強く変形するまで抱きしめた。
「はぁ」
 小さな空気の吐く音が僕以外誰もいない二人部屋に響き渡る。
 これで一体何度目のため息だろうか。
 もう九月に入っているというのに、外にいるセミたちは数が減りつつあってもまだ子孫を残そうと鳴り続け、まだ季節は夏だと知らせる。
 まだがんばろうとする蝉の合唱を聞いていると、ノックの音が蝉の鳴き声に対抗して病室に響いた。
 当然返事はできないから待っていると、少しして戸が開いた。
「こんにちは」
 そういって顔を出した人を見て、僕は目を見開いた。
「本当に入院したんだ」
 入ってきたのはこの前復縁話を持ちかけ、僕が拒否した元カノの彩子だった。
 目と一緒に開いた口が塞がらず、思考が混乱している間に彩子は病室内に入ってきた。
「ごめんね押しかけちゃって。ただあの日に入院したって聞いて来たんだけど、迷惑だった?」
 本当ならここで頷きたいところだが、ここまでわざわざ来てもらって帰すのも出来ない。
《何しに来た》
 出来れば早く帰ってほしく、少し雑な字で見せると彩子は深く頭を下げた。
 同時に腰にまで届く彼女のトレードマークとも言える長い黒い髪は、清潔とはいえ汚れている地面にさらりと落ちる。
「本当にごめんなさい。私の勝手な行動で誠治をここまで苦労させて」
 彩子は頭を下げたままあげようとしない。僕からの返事を待っているのだろうが、声が出なくてどう気づかせろと言うのだろう。
 僕は二度ほど手を叩くと、彩子は顔を上げた。
《もう気にしていない》
「でも……」
《気持ちだけ受け取る》
「うん。あのそれで、ふくえ――」
 パァンと大きくもう一度叩く。彩子は大きく体を跳ねつかせ今にも泣きそうな目で僕の目と向き合う。
 これだけやれば僕の気持ちが伝わってくれて、彩子はまた俯いて何も言わなくなった。
 しかし途端、ドアが開いて稔さんが入ってきた。
「はぁ、はぁ、誠治君、ヒカリちゃんが!」
 心臓がまた大きく鼓動した。



「電気ショックはまだか!」
「あと少しです!」
「心臓、胃、肝臓、大腸、脾臓まで活動を停止しています。先生!」
 集中治療室は戦場と化していた。
 意味の分からない医薬品の名前が飛び交い、荒垣先生と看護師は注射を打ったり、電気ショックの準備をしたりしていた。
 それだけでヒカリの今の状況が分かる。
 そして僕の頭全体でこう訴えてきた。
『稲葉ヒカリは今ここで死ぬ』と。
 いてもたってもいられず、僕はICUに入ってヒカリに近づく。
「ヒカリ、ヒカリ!」
 こんな叫び声が行き交う中で僕の声はすぐにかき消されてヒカリまで届かない。なんとか声を出そうとしても、まったく出る兆しがない。
 ヒカリは口を閉ざし、目を閉じたまま動こうとしない。心電図は0を表していて、簡単に言えば今死んでいるのと同じになっていた。
「死ぬな。ヒカリ」
 心電図に変化が来ない。
「稲葉さん、井上さんが側にいるぞ。早く起きるんだ」
 ヒカリ、お前は一人じゃない。僕だって稔さんだって先生だって、お前が消えていいと思っているやつはここにはいないんだ。自分で自分の命を絶つんじゃない。
 心電図に動きは見られない。
「あと三分で手遅れになる。稲葉さん起きるんだ」
「ヒカリ! 先生、なんとかならないのか?」
「無理だ。機能低下だけなら何とかなるがこれは完全に活動を停止している。心臓だけを動かしたところで内臓が壊死して死んでしまう」
 打つ手が……ない。
 必死に生きようと物語を作っていたのに、未完結で死ぬ。

 ――――ピッ……ピッ……ピッ……

「先生! 心拍が戻りました」
「なにっ!」
 僕はすぐにヒカリを見る。
 うっすらと、今まで閉じていたヒカリの目が、開いた。
「……ヒカリ?」
「せ、誠治さん。あれ……」
 まさか、僕の事が見えているのだろうか。
 信じられない。なんで、なんでヒカリの知覚が……戻ってるんだ。
 なにがなんだか分からなくなっていると、ヒカリの目が僅かに動いて僕の目と向き合う。
「……約束。守ってくれましたね」
 約束……。
 きっとそれは次に起きたときに側にいると言った約束のことだ。
 嗚呼、奇跡だ。ヒカリが戻ってきた。
「……治ったときも待ってるから、生きてくれ」
 なんでこんなときに声が死んでいるんだ。お願いだから声出てくれよ。
「あ……暗くなって来た」
 また症状が現れたらしい。今のうちに言える限りのことを言わないと最悪な結果になる。
「絶対に死にたいなんて思うな。僕がいるから、生きてあの映画を一緒にまた見よう」
「ザ・マシーン≠ワた見たいですね」
「死にたいなんて考えないでくれ。頼む」
「はい。約束、です」
 僕は渇望するかのようにヒカリの手を握るが次第に目は焦点が合わさなくなって、そして目から一筋の涙が垂れた。
 だが心電図の警報音は鳴らず、六十七を示していて先生を見る。
「…………大丈夫。心臓を含め他の臓器も活動を再開したよ」
 先生のその言葉を聞いて、腰が抜けるようにその場に座り込んでしまった。
「稀に知覚が戻る事があると聞いた事はあったが、奇跡と言うのは実際にあるものだ。まだ六年しか医師をやっていないが初めてだよ」
 まだ腰に力は入らないけどベッドの手すりで体を起こして先生に耳打ちをする。
「内臓は……大丈夫なんですか?」
「それは彼女自身だ。井上さんと稲葉さんの間に何があったかは知りませんが、心底生きる欲求を持てれば大丈夫かもしれません。以前危険な状態なのには変わりありませんが」
「誠治さん」
 一言、また知覚が消えたヒカリは僕の名前を呼んだ。
「一体何が起きたのか知らないけど、どれぐらい時間が経ったのか知らないけど、待っていてくれたのは嬉しかったです。私、約束守りますから、誠治さんも約束、守ってくださいね。やっぱり私、誠治さんには待っていてほしいです」
 ヒカリは、光の中で言えなかったことを、まだ僕が側にいると思って口にする。
「今、私の中にある世界が朽ち果てるまで、私は世界を待ちます」
 それからヒカリは眠ったみたいで、小さな吐息を立てながら喋らなくなった。
 僕は震える体を動かして、再度ヒカリの手を握る。
「守るよ。だから生きて」
「じゃあ誠治君、こっちに。邪魔になるから」
 容態が安定してもまだ調べることがあるのだろう。僕は稔さんに腕を引っ張られICUを出た。
「誠治君、本当に良かったわね」
 稔さんも本気で心配してくれて、目じりに涙が浮かんでいた。
 病院で仕事をする以上、患者に感情移入し続けていると長続きしないと聞いた事があったけど、患者の知り合いや親族にとっては共感してくれて嬉しく感じる。
 僕は涙目で頷くしか出来なかった。
「ヒカリちゃん、きっと生きるわ。誠治君もしっかりね」
「はい」
「ヴァイタルが安定したら呼ぶからそれまでは病室に戻ってて。お見舞いの人もいたんでしょ」
「あっ」
 はっと病室のほうを見る。
 ヒカリが発作を起こした事で完全に彩子のことを忘れていた。
「じゃあね」
 稔さんは片目ウィンクをするとまたICUへと戻っていき、僕は病室へと急いだ。


「彩子」
 病室に戻ると、そこに彩子の姿はなかった。
 ICUからここまではまっすぐ来たから、彩子もついてきたのなら途中で会うはずだ。ということは帰ったのだろう。
 少し悪い事をしたから後味が少し悪い。
 退院したら一度彩子に話しないと。と思いながらベッドに近づくと、しまっていたはずのメモ帳がベッドの上にあって何か書いてあった。
 手にとって見ると、それは彩子からの手紙だった。

『誠治へ。
 こんな手紙を残して帰ってしまってごめんなさい。
 本当はお見舞いしに来ただけなんだけど、ひょっとしたらと言う気持ちであんな事を言ったの。でも誠治がヒカリさんのことをどれだけ考えていること分かったから、今度こそ諦める。でも友達はやめないから電話ぐらいは気軽にしてね。
 私はヒカリさんのことは何も知らないけど、不幸にはさせないでちゃんと繋ぎとめるのよ。
 あと、誠治が入院した原因は私にあるから、誠治は嫌がるだろうけど困った事があったらなんでも言って。お金に関してでも多少は援助できるから。
 私もがんばって男作るから、それまでは誠治のこと好きでいさせてね。
                                       彩子』

 手紙はそこで終わっていて、僕はメモ帳を閉じた。
「ありがとう」
 僕はそれだけを言って、もうヒカリしか見ない覚悟を決めた。
 そして読めないでいた本に手を伸ばした。


十二.『再会』

 孤独というのは二通りに大別できる。
 一つはまったくの人脈を持たず、知り合いも家族も誰もいない孤独。
 一つは全ての人間が消え、真昼の大都会に行こうと誰もいない孤独。
 どちらとも辛いといえば辛いが、後者こそ真の孤独だと思う。
 『感覚失調症』はそれを絶対的に体感できてしまう。
 大抵の人たちは約一週間で無音無明に耐え切れずになり、殺してくれといって発狂する。中には暴れまわって窓から落ちた人もいた。
 『感覚失調症』の人たちの末路は二種類。薬剤による安楽死か自殺しかなかった。でもそれももう終わる。
 発病者が現れて二十年。患者数が六十万に届き、拷問病とも言われる感覚失調症のワクチンがアメリカで完成したのだ。
 ただまだ完全ではなく、五感のどれかの機能が百%から十%くらいになるらしい。こればかりはまだまだ研究が必要らしいが、五感で世界を知ることは十分にできる。
 ワクチンの完成で世界中の患者の親族は大変喜んだ。なにせまた大事な家族や友人と会話がすることが出来るのだから。僕もまた薬の完成を喜んだ一人だ。
 薬が出来るまでヒカリから世界が消えて五年も経ったけど、ヒカリはまだ生きている。
 一週間から一ヶ月で死を選ぶこの病気で五年も生きた人はわずか二百人しかいず、現在生存しているので五十人しかいないから驚きだ。睡眠薬によって眠らせ続けてもコストがバカにならず、かつ年を超える長期での使用では人体に影響を及ぼすため患者自身が孤独に耐えるしかない。
 そして生存し続けた二百人が取った対処法は、やはり創作だったという。
 世界が見えないなら自分の中で世界を作る。そういう手法で自分の中に世界でも物語でも作って絶対的な孤独に耐えたらしい。
 本来新薬が他国で開発された場合、日本国内で使用許可が降りるためには数年はかかるが、今の日本の患者数は八千人を超し、その大半が安楽死を望んでいる。厚生労働省は八千人の命を守るため半年という最短期間で新薬の承認をした。
 国内でもっとも生存年数が長いのは、若干十六歳で発症し現在では二十一歳となる女性の稲葉ヒカリ。いずれ全国で薬が投与されるが、最初は年数が長く二度だが内臓発作も起こしたヒカリとなった。
 ちなみにヒカリより二年長生きしていた人は、六年目に内臓神経が麻痺して命を落としていて危うかった。
 もし国の許可が下りるのが例年通りだったらヒカリの命はなかっただろう。
「では投与します」
 五年間ヒカリがい続ける三つ葉病院の二人部屋病室で、荒垣先生がヒカリの腕にワクチンを打ち込んだ。
 ヒカリは打ち込む前から睡眠薬で眠り、静かな吐息を立てて目を閉じている。
 なんでも起床中に薬を投与して、起きた状態で感覚が戻るとショック症状を起こすらしい。だから最初に投与するときは必ず眠らせるとのことだ。
 数時間でワクチンはウイルスの活動を停止させ、目が覚める頃には感覚も戻る。
 ……五年待った。
 大学に入学して四ヶ月目でヒカリと会って、声を失って、それから苦労しながらも学生生活を送って、その間にヒカリのお陰だけで仕事もできて、毎週ヒカリの顔を見て待ち続けた。
 僕も今じゃ二十三だ。
 十年や三十年とならなかっただけいいけど、五年経った僕を見て驚かないかな。
 全てに対してあと数時間で答えが出る。
「起きてから三十分後でいいからナースコール押してね。私も久しぶりにヒカリちゃんに会いたいから」
 三十分と言うことは二人っきりの再会を堪能しろってことだろう。
 稔さんは微笑みかけ、先生の後ろをついていった。
「ヒカリ、がんばったな」
 僕はじっとヒカリの寝顔を見続けた。


 病室内は適度な温度で外よりは涼しく、でも中は涼しいと言うのはいささか嘘だ。
 ヒカリの体は体温調節ができないから空調を利用して調節するしかない。だから僕らが思う涼しいよりは少しだけ高めに設定してあるのだ。夏場の適切温度は冷風で二十八度。そのため冷風で設定されていても少しだけ暑かったりする。
 外では子孫を残そうと蝉が必死に鳴り続けるが、この部屋でする音は置時計の秒針の音と僕とヒカリの吐息しかない。だがそれよりも蝉の音が一段と大きく、時計と僕らの吐息の音をかき消してしまう。
 ぴくんとヒカリの眉が動いた。
 反射的に僕は立ち上がるとパイプ椅子は少し乱暴に地面に倒れ、鉄パイプとタイルの接触音が病室中に響き渡る。
 その音に反応してか、まるで眠りから目覚めるかのようにヒカリは薄い布団の中で衣擦れの音を鳴らしながら動き出した。
 そして、うっすらとヒカリの目が開いた。
「……………………」
 ぼう、と天井だけを見る。
 投与した薬が効いているのなら、今のヒカリには五年ぶりの天井が見えているはずだ。
「ヒカリ」
 五年間がんばってくれた女性に僕は話しかける。
 目を開くこと十数秒。ヒカリは痙攣するかのように一度大きく体を跳ね上げた。
「見える……見える。聞こえる…………うそ、うそ……分かる。全部分かる……いつっ」
 五年間無意識に行う寝返りしか出来ないんだ。体中の関節が固まって痛がって当然だ。
「ヒカリ」
 もう一度呼んでヒカリの視野に顔を入れると、挙動不審の目は僕に向いた。
 目と目が合う。
「…………せ、いじ、さん?」
「お帰り」
 決して大きくはない小声をヒカリに話しかける。
「あれ……音が、蝉の音が小さい」
 小さく聞こえると言う事は、ヒカリへの副作用は聴覚だ。
 僕はすぐにスケッチブックを取り出して文字を書く。
《ヒカリ、薬は出来たんだけど、五感のどれかが使いづらくなるんだ。ヒカリの場合は聴覚》
「私……音は小さくしか聞こえないんですね」
《僕の顔は分かるだろ?》
「もちろんです。あの、ずっと待って?」
《五年待ったよ。約束しただろ》
「そんなに経って……うれしいです。私のために待っててくれて……あ、あれ? 涙が」
 僕はそれを見て自然と綻んだ。五年も耐えて今生きている実感がやっと戻ったんだ。泣かない方がおかしい。
「泣いてるのに、実感がないです」
 ……きっとそれは、五年間心と体が離れていたからまだ繋がりきってなくて実感がないのだろう。その涙は体が喜んで泣いているってことかな。
「ヒカリ」
 僕はそっと動きづらいヒカリの上半身を起こして、壊さないようにヒカリを抱きしめた。
「せ、誠治さん?」
 今まで、内臓発作を恐れてヒカリを抱きしめてあげる事はできなかった。それに抱きしめたところでヒカリは何も分からないんだ。僕が一方的になにかするわけにもいかず、僕はこの五年間ヒカリには触れていない。
 だから僕にとっても、ヒカリにとっても五年ぶりの抱擁だった。
 ヒカリも無理に暴れず、五年ぶりの触覚で僕の体温や温もりをたっぷりと堪能して離れる。
「……あの、お母さんとかは」
 二人部屋の病室を一望して、心は十六の少女は最初に聞きたいことを聞いてきた。
 が、その質問には非常に答えづらい。
 実はあの親の悪態ぶりは家具を捨てる以外にまだしていたのだ。一応義務のためヒカリが二十歳になるまではここの入院費を支払ったのだが、銀行振り込みで名前が『イナバヒカリ』とあって一変した。あの親は、ヒカリの入院費すら払いたくなくて自分自身に払わせていたのだ。元々ヒカリはむやみやたらと使う主義じゃなかったから大金を持っていて、それをあの親たちは利用した。
 そして二十歳になった翌月から支払わなくなり、音信不通となった。
 僕はすぐに家へといったが引越しをしたらしく蛻の殻だった。
 そこまでか、そこまでして稲葉ヒカリという娘は邪魔なのかと強く思った。
 丁度僕はヒカリとの共同でお金がある程度手に入れられていたから、それで入院費はなんとかなったものの、あの親の素行は本当に悪い。むしろ犯罪とも言えるほどの行いぶりだ。
 僕は口でも文字でも言えず、伝わるかは分からないけど目で親のことをヒカリに話す。
「……いないんですね」
 元々親との関係は最悪だったから、僕の目と渋ったのを読み取って理解してくれた。
 五年間暗闇でも思考力は変わらないらしい。
《あと僕の声、実は事故で声が出せないんだ。後でゆっくり話すけど、もう喋れない》
「え、そんな……誠治さんの声聞けないんですか?」
 ヒカリにとって、これから生涯僕の声を聞くことは出来ない。どっちみちヒカリの耳も治りきってないからどうしようもないが、ヒカリにとっては一度も僕の声は聞いたことがないし聞いていない。
 僕は出来れば頷きたくないけど、頷くしかなかった。
《でも悪い事ばかりじゃない》
 と書いた紙をヒカリに渡して、一番メインとなるものをかばんから取り出す。
 それは一冊の文庫本である。
「悪い事ばかりじゃない? それっていった――――」
 取り出して見せた本を見せた瞬間、ヒカリはその本に釘付けとなった。
 その本を膝の上に置くと、ヒカリはすぐに固まって痛みを発する体をゆっくりと動いて、その本を手に取った。
 多分久しぶりに世界を見ることができて次に嬉しいことを今見ている。
「これ私が考えたフォークロア≠ナす。え、なんでここに? 貫之や小百合も出てる。誠治さんこれ……」
《ヒカリが話した内容を録音して、僕が小説に直したんだ》
「うそ……どうして?」
《ヒカリと僕がこれから生きるため、ヒカリが原作を話して代打ちを僕がしたんだ。難病に侵されながらも生きるために考えた作品で、出版社が食いついたんだよ。マンガ化もしてて来年アニメ化する》
「じゃあこれは本当に私の……」
「そうだよ。ヒカリの物語だ」
 ヒカリは僕の唇を読んで、ぎゅ、と本を抱きしめた。
「ありがとうございます。私、だめだなぁ、もう誠治さんがいなきゃ生きていけないですよ」
《じゃあ生きようよ》
「え?」
《ヒカリの帰る家はもうない。でも僕が受け入れる》
「受け入れ……え?」
《今一人暮らししてる。小さなアパートだけど、二人暮らしは出来る。ザ・マシーン一緒に見よう》
「あ……あ……」
 目を覚ましてすぐにこのようなことを話すのは尚早だが、ヒカリは不幸の星の下に生まれたわけじゃないと早く伝えたかった。
 どんなに家族に恵まれなくても、友達に見放されても、病気に侵されても、僕がいる。絶対に裏切らない物語がある。それをいち早く伝えたかった。
 ヒカリはたまたま生まれてから今日まで不幸だっただけで、これ以降不幸ばかりじゃない。そう感じてほしかった。
 僕はヒカリがいたからこそ少しだけ有名になれた。なのにヒカリを不幸になんて絶対にさせられない。
《だめ?》
「だめなわけ、ないじゃないですか。本当に私、誠治さんを頼りますよ。ずっと、ずっとずっとずっと」
 僕はその返事を、再度抱きしめることで返事した。
 ヒカリも、やっと実感できる感触を堪能しながら、弱々しくもしっかりと腕を背中に回して返事をしてきた。
「私は、これからずっとあなたの声≠ノなります」
 窓の外では汗水流しながら働く人々が見え、
 暑さが違う空気は異なる季節の香りを放ち、
 燦々輝く太陽と気温で外の暑さを実感させ、
 今の旬の食べ物を食べれば季節が口で満ち、
 外では子孫繁栄のための蝉の合唱が聞こえ、
 その世界が今確実に夏であることを五感全てで知らせていた。


この作品が気に入っていただけましたら『高得点作品掲載所・人気投票』にて、投票と一言感想をお願いします。
こちらのメールフォームから、作品の批評も募集しております。


●感想
茜有希さんの感想
 龍乃光輝さん、こんばんは。はじめまして。
 作品を拝読しましたので、感想を書かせていただきます。

☆1
 まずは読み終わった感想から……
 全体的に落ち着いた雰囲気が感じられました。主人公の一人称がそうさせたのかも知れませんが、日の当たる静かな部屋という風できれいな感じがしました。
 ラストは少しきれいすぎたかな……とも思いましたが、ヒカリの底の明るいキャラもあってよかったです。
「五感がなくなったら」という想像をすることはありますが、読み進めていて色々と考えさせられるところがありました。

☆2 
 次に、龍乃光輝さんもおっしゃっている文章(文法そのほか)についてですが、文章そのものは簡潔で読みやすかったです。気にされていた「てにをは」も、特に目につく間違いはなかったと思います。
 ただ、多くの文章に句読点が見当たらなかったため、文章の主述や修飾語がどこにかかるのかが分からなくなってしまうことがありました。

>ザ・マシーン≠ヘ地球上の機械が使い物にならなくなって、人の大半が死んでしまう機械をテーマとしては変わった映画。

 上の文章だと、「人の大半が死んでしまう」が「機械」にかかるのか「映画」にかかるのか、一瞬分からなくなってしまいます。
 意味としては、恐らく「人の大半が死んでしまう」「映画」だと思いますので、「死んでしまう」の後に句読点を入れるべきでしょう。
 また文意だけでなく、句読点があると文章のリズム、と言いますか、ずっと読みやすくなるかとも思います。

>これ以上彼女の内部に足を踏み入れる資格は僕にはない。
 僕はこれ以上聞くことなく病院へと戻るのだった。

 短い文章ですが、句読点で区切ってやると文章内の単語それぞれが視覚的に分かれるので、読者もイメージしやすくなると思います。


☆3
 一人称の文体だからでしょうか、主人公の心理や動作の描写が足りないところがあるように感じました。

>「ちょっと会いたくない人がいて」
 ……なるほど。この言動からすると本当に会いたくないのだろう。

 文章だと、微妙な発音や声音などはなかなか見えてきません。たとえば、ヒカリの表情や声の高さなどがあれば、「何となく剣呑」な雰囲気がもっと伝わってくると思います。


>「……井上さん、ヒカリにはなにもしてませんよね?」
 再度稲葉さんに向けて文字を書く。
《君に何もしてないことを言って》

>「この人? この人はたまたま病院で知り合った人だよ」
 ヒカリは僕に向けて指差したのを見たからか、質問を察知して文字にする前に先に答えた。
「喉を怪我してて、文字に書いて喋るの」

 こちらは描写に関係するかは分かりませんが……年頃の男が他人に(一緒にいる女の子とかに)何か言われたら、何らかの気持ちがふっと湧き出るような気がしました。
 ムッとしたり、がっくりきたりすれば、場面ごとの主人公のヒカリに対する思いの変化を暗示できそうです。「別に何にも感じない」のであっても、それはやはり相手に対しての感情のあらわれですので、書いた方がいいかなと。
 ちなみに私はカワイイ子に「ただの知り合い」と言われたら、胸にグサっときます(笑。
 
 また「声が出ない」という今までに経験したことのない状況を、主人公はどう感じているのかという点をもう少し深く読みたかったです。
 声が出せないことを初めて告げられた時のショックや何気ない時にも声が出ない苦痛、どんどん日延びしていく治癒日への思いなど色々あるかと思います。
 ヒカリとのデートなどで筆談している様子を見ると、声の出ないことをあまり気にしていないようにも感じました。気にしていないことがいけないのではなく、どうしてそういう心境の変化があったのか、原因は何か、などが書かれていた方が主人公への共感が強まると思うのです。

☆4
 話のテーマとなる「感覚失調症」ですが、これの説明が少し長かったかなと思いました。
 その後の展開にも関わってくる内容だから重要ですが、たとえば主治医や看護婦との会話にまぜてみたり、後になってテレビや本で調べてみて……など、説明を小出しにしてもよかったかと思います。
 少しずつ病気の全体像を明らかにしていった方が、案外病気のコワさや深刻さがあおられるかもしれません。

 放送禁止用語に関わるかについては、特に問題はないかなと思いました。そういう病気の描写が公募に影響するのかは、ここで論じることではなさそうなのでこのあたりで。

 以上が感想です。
 私自身、まだこちらに載せられるだけのものを書けていないので、偉そうに述べられる身ではないのですが……
 公募への投稿も大変な作業と思います。これからも執筆活動を頑張ってください。


白野 紅葉さんの感想
 こんにちは、拝読しましたので感想です。

■とても感動しました■
 実際病気について何も知らない私ですが、一人称なのに上手いこと心理が伝わってきたように思えます。もちろん十分とは言えませんが、私としては満足できる内容だったと感じております。なんで一次で落ちるか不思議なぐらい良作だったように思えますよ。

■誤字発見■
>>左車輪だけを回して振り返ると、廊下の置くからパジャマ姿の稲葉さんが走ってきていた。

 「置く」ではなくて「奥」ですね。
 公募用ということでそこまで誤字はありませんでしたが、やっぱりあると厳しいと思うのでそこは推敲を何度もして補うしかないですね。

>>高音の悲鳴が狭い病室内で反響し、花瓶が俺の顔面に――――

 「俺」ではなく「僕」では?
 もしかして窮地に立った場合のみ錯乱し「俺」なのか。いや、それだったらすごすぎですけども。

■先読みできてしまう■
>>十一.『奇跡』

 これじゃだめでしょう。一発で読めました。
 あからさまに「ヒカリ復活ッ!」を示唆した題目ですので、あっと驚くオチや、不幸なバッドエンドで終わると考えていた読者の考えを変える貴重なチャンスをタイトルだけで失わせては感動もないかなと。不幸とも幸せとも両方の意味でも考えられる題目にしてみると巧かったかなと思います。まあ初めからヒカリさんの奇跡を教えたかった、とか。別にばれてもよかったというのなら構いません。というか私なんかの意見より、あなた様の考えを尊重いたしますのでどうぞご自由に。ただ一つの意見として。

■最後に■

 前述したとおり感動しました。
 「作家かな?」との会話が出たあたり、鳥肌が立ちました。実際作家になってるんですものね。すごいですね。

>>窓の外では汗水流しながら働く人々が見え、
 暑さが違う空気は異なる季節の香りを放ち、
 燦々輝く太陽と気温で外の暑さを実感させ、
 今の旬の食べ物を食べれば季節が口で満ち、
 外では子孫繁栄のための蝉の合唱が聞こえ、
 その世界が今確実に夏であることを五感全てで知らせていた。

 これにはやられました。巧すぎです。全部五感ですね。
 余韻の残る言い終わらせ方でした。よかったと思います。

 これからも頑張ってくださいね。応援しています。


JJJさんの感想
 拝読させてもらいました。
 それでは感想を書かせていただきます。

【表現について】
 多少気になる部分もありますが、別の方も指摘されているようなので割愛します。


【ストーリーについて】

1.予定調和について
 私としてはワクチンについての描写がもう少しあればいいと思いました。物語の中で、ヒカリがワクチン完成まで生きられるかどうかという点が問題となっていましたが、最終章であっさりとワクチンが登場してしまうのは少しもったいない気がします。完成する気配のなかったワクチンが五年たっていきなり出てきてしまったところにご都合主義を感じてしまい、感動がそがれてしまうように思えます。

 ワクチンはもう少しで完成する。
        ↓
 だけど、ヒカリの症状からすると間に合うかどうか微妙だ。
        ↓
 心配しながらもヒカリの小説を形にしていく主人公。
        ↓
 そしてとうとうワクチン完成。

 これは一例ですが、このようにヒカリが生きているうちにワクチンが完成する可能性を事前に示しておいて欲しかったです。

2.感覚失調症について
 物語中、ヒカリや主人公は感覚が失われることばかり気にしていました。しかし、この病は確実に死に至る病であり、死への恐怖についての描写が感覚を失うことに比べて極端に少ない事が気になりました。感覚を失うというのは勿論恐ろしいことですが、その先にある死を無視することは出来ません。
 もう少し死に対する描写があれば、ヒカリが発作によりICUに入った時の危機感もぐっと上げられると思います。


【その他】
 以上で感想を終わらせていただきます。
 完全リメイクを執筆されているそうですが、投稿された際はまた拝読させていただきます。頑張ってください。


MIDOさんの感想
 初めまして、MIDOと申します。
 先の方の感想で「感動した」とのコメントがありましたので、「わたしも感動させてもらおう♪」と思って読み始めました。読了いたしましたので感想を残しておきます。

 最初にふれたいのはタイトルですね。
 「世界の知りかた」とありましたので、ファンタジーかSFの類かなと思っていたのですが、意外にも現代が舞台の医療の話だったので驚きました。タイトルの効果というものにまず驚かされましたね。


 第一章にはいる前に冒頭部分。
 個人的にこういう入り方は大好きです。堅苦しいかなと感じる方もいらっしゃるかもしれませんが、わたしはこういう真面目な入り方に好感を持つタイプです。というより、わたし自身こういう入り方をよく使うもので。しかもその内容がまた「僕の世界は一変した」というような感じなので、これからの物語がどう展開していくのか、純粋に興味を持つことができました。


 主人公がいきなり交通事故で入院する、という展開。
 他の方が医療に関する諸々の事情をおっしゃってくださっているようですが、わたしはその手の知識をまったく持っていないので、誰かと相部屋になったことにも、主人公と同じ程度の違和感しか感じることなく入っていってしまいました(笑)。わたしは「物語さえおもしろければ、別にそういうリアリティはいらない」と思っているかなり適当な人間ですので、あくまで物語についてだけ感想を述べていきたいと思います。
わたしはこの時点では重病を患うのは主人公のほうだと思っていたので、ヒカリちゃんのほうが重症だと知って「あ、上手い見せ方だ」と思いました。


 「感覚失調症」について。
 これは誠治君、知らなかったほうがよかったんじゃないかな、と思いました。「わたしは感覚失調症なんです」と言われて「なにそれ?」と返していれば、ヒカリちゃんはその病気についてきっと説明したでしょう。「五感がなくなっていくんです」と。相手にそう言われたほうが誠治はもっと申し訳ない気持ちになっただろうし、病気そのものに興味を持ったと思います。このシーンではヒカリに「五感がなくなる」とだけ言わせ、詳しい症状はあとあと担当医に聞いたものを付け加える、というパターンでもいいような気がします。


 入院生活において。
 作品の大半を占めるシーンですね。勉強を教え、遊園地へ連れて行き、ゲーセンで遊ぶ。自分ものすごい怪我してるのによくやるよ、と誠治をちょっと尊敬したシーンです。
 でも彼、結構攻めるタイプですね。ヒカリにも「思い出を作れ」と強要しているし(強要じゃなかったらすいません。わたしにはそう読めてしまいました)、ゲーセンで見つけた馬鹿親に対してもきついことを言っている。
ゲーセンのシーンでは、言っていることは正しいと思うのですが、あれじゃ相手を挑発するだけで、そばにいるヒカリは気が気じゃないと思うのですがどうでしょう。あんな喧嘩腰の物言いをするのではなく、あくまでこちら(誠治のことです)が頭を下げて、向こう(馬鹿親ね)に引き下がってもらうべきだったのではないでしょうか。ああいう親は言えば言うほど言い返してきますから、こちらが折れて、話を穏便に済ましてあげたほうが、そばにいるヒカリちゃんは精神的に楽ではないかな、と思いました。
 五感が閉ざされていくヒカリちゃんは、たぶんその過程で、人間の纏う空気や表情にはひどく敏感になっていると思うんですよね。だからちょっと不機嫌な顔をされただけで、ものすごく怖い思いをしたと思うんです。その彼女にいい思い出を作ってあげたいなら、あの場面は涙を呑んで引くべきだよ誠治君、と思いました。


 触感がなくなったあとのヒカリの行動。
 一回くらいこういうシーンがくるだろうな、と予想していましたが本当にきました。はさみで腕を傷つける。効果的なシーンです。ヒカリ自身が前向きな子なので、ついつい病気自体の恐ろしさを忘れがちになりますが、このシーンによっていきなり読者に病気の恐ろしさが突き刺さってくるんですよね。


 主人公が退院したのちの事件。
 結局喉ダメになるのか、と苦笑いしてしまいました。もっともこの設定は物語の最後で活きてくると思うので悲観できるものではありませんね。誠治と一緒に逮捕された元彼に「ざまあみやがれ、けけけ」と言ってしまいました(恥)。


 順番違っちゃいましたが、キスシーン。
 ああ、ここで入れてきたか…と女性読者のわたしは妙にこのシーンに注目してしまいました。ようやく自覚したのか誠治。ちくしょう主人公っぽくていいじゃねぇか、と思ったシーンです。


 ヒカリの視力が失われ、誠治が再び入院して……
 うーん、ここらへんからどうもつまらなくなってしまった。それまではなかなか楽しめたのですが。
たぶん、原因はヒカリが寝たきりになっちゃったからかな。仕方のない流れとはいえ、誠治とその元カノの話に移ってしまったのもちょっとわたしのツボから外れてしまったところがあります。
 話の流れとしては、ここら辺でたぶん「作家」という言葉が飛び出すんですよね。わたしはこの時点でハッピーエンドとバットエンド、ふたつの結末を頭に描いていたんですが、この「作家」という言葉はバッドエンドのときに活きると思っていました。つまり、わたしはこの作品がヒカリの死という形で閉じると思っていたんです。ヒカリが口にした物語は、ヒカリが死したのちに誠治が完成させた、という形を、ぶっちゃけ言うと望んでいました。すいません。
 しかし結末についてはそれこそ龍乃さんにお任せすべきところですので、こういう形で物語が落ち着いたのなら、それでいいと思います。いいじゃないですかハッピーエンド。バッドエンドを望むわたしの思考こそちょっと問題がある気がしてきました。


 気になったのはワクチンができた、というところの描写ですかね。
 すでにご指摘を受けているようですが、今一度申し上げますと、安易すぎるかな、と思いました。ちょっとここにご都合主義的なものを感じてしまうのです。わたしとしては、ここが作品の評価を下げてしまうひとつの要因だったかな、と考えられました。


 その他、気にしていらした文体について。おかしいと思えるところがあちこちにありました。特に前半ですね。感覚失調症の説明シーンに集中していました。一文を短く切って、声に出して読んだときにリズムがいいようになれば、これらのことは解消できると思います。


 総評としては、よかったですの二十点評価を付けさせていただきました。
 先の感想で述べました、つまらなくなったの手前当たりまでは楽しんで読むことができました。気になったのは誠治の舌鋒の鋭さくらい。ヒカリはいい子でしたし、好感が持てました。後半のハッピーエンドについては、バッドエンドを望んでいたわたしとしてはちょっと残念な結末。いや、いい結末なんですけどね。それが逆にご都合主義的な輝きを帯びてしまったように感じるということです。はい。これはわたしのひねくれた考え方が影響していますので、真に受けないようお願いいたします(じゃあ書くなって話ですよね。すいません)。

 改訂版、というかリメイクを書いていらっしゃるとか。そちらのほう楽しみに待っています。
 今以上に感動させてもらえるだなんて嬉しいお話。一読者として願ってもいないことです。

 では、この辺りで失礼したいと思います。長々と失礼いたしました。


SSIさんの感想
 「世界の知り方」拝読させて頂きました、SSIです。
 あぁ、良かった。ヒカリの視覚が消えたところで終わりかな、と思っていたのですが、ちゃんと治りましたね。ラストについては人によって意見が分かれるでしょうが、僕は良かったと思います。やっぱりハッピーエンドでしょう。
 感覚失調症の説明については、他の方々が言うように少しずつ織り込んでいった方が良かったかな、とは思いましたが、「二段階の症状時期がある」など、しっかりとした設定、説明のお陰でとてもリアルに感じられました。読み終わるまで実在する病気なのかな、なんて思っちゃってたぐらいです。

 しっかりと作りこまれていて、引き込まれる作品でした。リメイク版を投稿された時は必ず読ませて頂きます。


黒鯱さんの感想
 はじめまして。
 最近、小説を書くことにこっていて、どうすればうまく書けるのか、とインターネットをうろついていたらここにたどり着きまして、この小説を読ませていただいたわけですが。

 一言でいってしまうと、とても感動しました!

 正直、今目頭が熱いです。
 半泣き状態です(泣きやすいたちでして

 他の方のようにあまりうまく指摘したりは出来ませんが、目立ったのは誤字脱字でした。
 というか、こんな足元にも及ばない素人が指摘したりすること自体がまちがいですよね・・・。
 病気の設定などは本当に実在するのではないかと思わせるものでしたし、えーっと・・・。

 ・・・言葉にするのが難しいぐらい感動したってことでいいですかね?
 すいません、なんか。

 グダグダな感想しかかけていませんが、応援しています。
 それでは。


千里さんの感想
 難病の女の子が病魔に打ち勝ってめでたしめでたし――お約束の展開は置いといて、ヒロインから人の匂いがしない。五感喪失という生き地獄に蝕まれながら普通に明るいヒカリは、さながら大悟した僧侶。

 己が不運を呪い世のすべてを怨み、やがて諦念の中で生きる気力を失い、返事すらしなくなっていく。それが誠治の全力の介護で復活の意思を宿すならリアルを感じます。
 逆にヒカリが過去に山ほど騙され、時には目を覆いたくなるほどの目に逢いながら常に相手を許してきた超馬鹿善人であるなら頷けます。そしてそれほどの聖者が豹変すれば、病気がもたらす恐怖をより感じられたでしょう。

 たいして辛そうでもないヒロインが、お人よしの主人公と知り合って結ばれて……予定調和から一歩も外れることのなかった展開が、もしかしたら落選の理由なのかもしれません。

 あと気になったのは冗長さ。知り合ってデートして、までおよそ半分近い。ありがちな人間関係があるだけで予想外の展開もなく、ページを進ませる指が前半で遅くなるのは辛いかと。

 そして主人公に最後まで「変化」がない。明るいヒカリは明るいまま発症後も自我を保ち、元のまま復活。ちょいと無茶でお人よしな誠治もそのままで終了。良きにしろ悪きにしろ、主要人物の考え方や生きざまが変わるのが物語なのだと、私は勝手に思っています。

 余談ですが聴覚失っても骨振動は伝わるので、そのへんのやりとりがあるといいかな? 症状的に異常進行性の体幹マヒに近いようなので、触覚失うのは四肢からにして転んだりカップを落す布石があるとそれっぽいかも。

 ――とまぁ読み専の分際で勝手書きましたが、ひっかかからずにすらすら読めますし、作法的にほぼ完成しているんじゃ? これに読み手を裏切る展開がちょいと加われば、どこでも受賞できそうですな。

 では新作を期待しつつ、ここらで失礼。


夏月 歩さんの感想
 夏月です、拝読させていただきました。

 ……私、感動いたしました。大好きです、純情一直線。
 これが、愛ですね。心に染み渡ります。

 これで、一次落ち。なんと暗澹とした世の中なのでしょう↓↓
 ただ、千里さまの仰っていたとおり、少しヒカリが強い子過ぎるのではと思いました。
 確かに、五感が失われるのは生き地獄以上でしょうね。地獄でさえ、苦しみと痛みを味わうことができるのでしょうし……

 後は、本当に二人が一途過ぎることなのでしょうか?
 別に誠治に心変わりして欲しいわけではなく、感情の揺らぎ、なのでしょうか。
 これはヒカリに対してもいえます。
 一度、奇跡が起きたて感覚が一瞬戻った後はいいとして、
 それまでの段階であまりに安定しすぎているのかなと思いました。
 想像しかない永久の闇、時間という概念すら感じることのできない空間、この中でのヒカリの心理描写、
 また、五感が失われていくヒカリの視点などを加えて読みたかったです。

 若輩者が色々とすいません。
 ただ、いえること……私は感動いたしました。これからも頑張ってください。
 それでは、失礼いたしました。


俊さんの感想
 どうも俊です。この作品を読ませてもらったので感想を……。

 以前から思ってはいたのですがストーリーの方はすばらしいですね。物語自体にも一貫性があります。
 きっとプロット通り進行したからじゃないですかね。とても綺麗でした。

 しかしプロット通りと言うのは他に演出が無いわけで……。
ギャグ要素か何か軽い比喩みたいなのが必要かと思われます。比喩はつける事で印象に残りますし軽いジョークにもつながりますから。
 ギャグは雰囲気が重く無い限りたとえ滑ってもそれは和ませる要素になります。いや滑ったらいけないかな?まあ僕が思う限りでは滑っても大丈夫だと思うのでぜひ身に着けてください。

 後指摘するのは他にかかわってきた人をほったらかしにした事ですね。光の元彼や義理の母親であってもテーマ性に沿った悪ではない、ただちょっかいしてくるだけのような存在だったので、その場合はヒカリの現状を見て同情するとかそんな程度でいいので最後に改心する事が大事だと思います。
 テーマ性に沿った悪を絶対に改心させろとは言いません。しかし読者をただ不快にさせるだけであって、超えるべき存在ではないのなら読者の不快を快に変えるため。もしくは悪事の罰を受けるために後日談的なエピソードが必要ではないかなと思います。今回の場合は元彼や元カノ、そしてヒカリの義理の親などあまり関係ない人物が無理やり関係してる気がしました。少なくするか以上の事が必要だと思います。

大して小説も書いて無い野郎が勝手な指摘すみませんでした。これからもすばらしい作品を作り続けてください。
 それでは。


ななさんの感想
 龍乃樣拝見させてもらいました。携帯なので手短に。
 すっごい感動しました。
 他のみなさまがおっしゃっているように起伏はあまりありませんが、それを補う感動ストーリーがあります。
なぜ一次審査で落ちるのか疑問です。
 リメイクがんばってください。ああパソコンがあればもっと書くのに、ないのが悲しいです。
 駄文となりましたがこれで。


一言コメント
 ・久々に泣きました。
 ・ええはなしや……
 ・すごく心に響きました。素晴らしい小説をありがとう。
 ・泣きそうになりました。鳥肌が立つお話でした(´_`。)グスン
 ・難しい題材であるがために、色々と疑問点が生じることは仕方のないことですが、ストーリーは素直に面白かったです。先が気になってしまい、休憩なしで読んでしまいました。
 ・乾いた涙が、溢れた。
 ・尊敬しました。話のまとまり方といいすばらしい作品で感動しました。
 ・すごくいい話でした。このはなしをありがとうございまし。
 ・共感し過ぎた。
 ・今まで読んだ病気ものでは、文句なしの一番です。
 ・アラが多すぎて公募はダメだろうけど、ネット小説としては面白い。
 ・読んでいてすごく続きが気になる作品でした。
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