高得点作品掲載所     ゆーぢさん 著作  | トップへ戻る | 


晴れた日は釣り糸を垂らそう

 一 波間のワルツ

 海から女の水着を釣り上げた。九月初旬、よく晴れた昼のことだ。
「くっそ、いい引きだと思ったのになんだこれ。海水浴客の忘れ物か」
 俺は海水浴シーズンが終わった地元の海辺にいる。日本海の特に目立たない街。
 大学の夏休みはまだ終わらないので、実家に里帰りしているのだ。通っているのは東京の特に良くも悪くもない大学で、もう三年目。
 しかし朝から岩礁に腰を下ろして、ひたすら待っていた末の獲物がこれかよ。
 リベンジの前に昼飯にしよう。そんなことを考えながら俺は獲物を釣り針からはずす。他人のゴミとはいえ、拾ったなら責任を持って廃棄しなくちゃな。綺麗な海を守るためにも。
 それは明るい空色のビキニブラだった。紐の部分はレース地が編みこまれていて、結構可愛い系じゃないか。ううむ、できれば美人の遺物でありますように。持って帰ろうかな。
 そう思った直後、俺は鳥肌が立った。
「まさか、人に引っ掛けちまったのか」
 手ごたえを感じた瞬間、これは紛れもなく魚かなにかだという確信があった。それくらい、重みと動きのあるヒットだったんだ。
 引いている間にその力は弱まり、流れているのか動いているのかの区別はつかなくなったものの、もしそうなら大変なことだ。ここは砂浜から離れているので、泳ぐ奴なんか滅多にいない。最悪、溺れて流されていたのだとしたら……。
「だ、誰かいるのか? 返事しろー! おーい!」
 岩場に打ち付ける波の彼方へ、俺は声を振り絞って叫んだ。思えば無茶な話だ。それでも気が動転している俺には、それくらいしかできることが思いつかなかったんだ。
 血の気が引いていく感覚に襲われながら、俺は周辺の岩場を飛び越えながら叫び続けた。
「……おーい! お、おうわっとっと!」
 そのとき、濡れた岩に足を滑らせ、俺は叫びながら海に落ちた。もうなにがなんだか、わけがわからん。それでも泳ぎには自信がある。すぐさま海面に顔を出して四方を見渡す。打ち付けられたらたまらないので、体をなるべく岩に密着させながら。
 せめて思い過ごしであって欲しい。海水浴客の忘れ物が、今さらになって俺の釣り針に引っ掛かっただけであって欲しい。祈るような気持ちだった。九月の海は予想以上に冷たく、俺の心と体から温度を奪っていく。
「あ……」
 今日の俺は、なにかを願うとどうしても裏切られるらしい。
 岩肌に打ち上げられ、ぐったりしている一人の人間を、俺の両目が捉えた。俺は力の限りに泳いで近寄り、その体を抱き起こした。
 女だった。水着の持ち主だろうか……。
「しっかりしろ! 生きてるか? 今助けてやるからな! 死ぬなよ! 絶対死ぬなよ!」
 火事場の馬鹿力というのは実在するらしい。俺は片手でその女を抱えながら岩場を登りきった。平らなところに女を寝かせ、脈と呼吸を確認する。
 心臓は動いている! しかし安心したのも束の間、呼吸は感じられない。
「え、えっと人工呼吸か。確か左手で鼻をふさいで、右手であごを上げて」
 中高生のころ、毎年一度は人工呼吸の訓練があった。海辺の町だからなのだろう。それでも本番は生まれてはじめてだ。一つ一つの動作を確認しながら、俺は大きく息を吸い込んで顔を近づけた。
 ちょうどそのとき、女の瞳が急に開いて俺の目線とかち合った。
「うわあああああっ! ご、ごめんなさいごめんなさい助けて許して呪わないで」
 俺は驚きのあまり後ろに飛んで逃げた。
「ごほっ、げほ。うぶぶっ」
 その女は上半身を起こして弱々しく咳き込み、口から大量の水を吐いた。その動作が終わると、ゆっくりと俺を見てしきりに瞬きしている。
「だ、大丈夫なのか……?」
 恐る恐るたずね、ふとあることに気づき視線をそらす俺。女の上半身は裸で、形の良い二つの小山がむき出しになっている。そりゃそうだ。俺の釣り針が引っ掛けちまったんだから。
「あ、ごめん、ほんと、なにもしてねえし、ちょっとしか見てないから。って俺なに言ってんだ。いや無事ならよかったマジで。とりあえず、上を、着てくれ。隠してくれ」
 しどろもどろになっている俺に対し、目覚めた女は澄んだ声で返答を放った。
「お気遣いに感謝する、地球の人。ところでなにを謝っているのだ。謝罪が必要な状況とは思えないが」
「いや、あの。年頃の娘さんだし。って、なんだって?」
 今こいつ、俺をなんて呼んだ?
「やはりこの肉体は水中行動に向かない。水を飲んでしまった」

 俺はさっきまで釣りを楽しんでいたポイントに戻った。目の前ではビキニ姿のねーちゃんが猛烈な勢いでサンドイッチを食べている。もちろん胸を水着で隠してもらったし、食われているのは俺の昼飯だ。
「ふごふが。やはり地球人類の肉体を動作させるためには糖分摂取が効率的のようだ。もぐ。この場合は感謝と謝罪のどちらが必要であろう。ごくん。どちらを要求されても相応の対処をしたい。げっぷ」
「わかるように話してくれ。難しい言葉は苦手だ。あと、メシを食いながらしゃべるな」
「きみのカロリー源を私が摂取していることは、きみにとって不利益ではないのか?」
 ……カロリー源って、メシのことか。
「いやべつに、感謝も謝罪もいいけど。腹減ってるんだろ。遠慮なくどうぞ」
「ではこの件は保留するとしよう。言語コミュニケーションにおける若干の障害は、徐々に改善されると思われる。そのためにも、まずは情報が欲しい。ここは地球上の日本国という行政区域に相違ないだろうか」
 俺は軽い頭痛を覚えた。メシの前にも聞かれたことだ。
「……ああ、そうだよ。なあ、俺からも質問だけどさ」
「遠慮なくどうぞ」
「マネすんなっ。あんた、本当に宇宙人なのか」
 この質問をするのには激しい抵抗があった。心理的に。
 もちろん、そんなわけはない、と言って欲しかったからだ。それでも、ああ今日の俺はなにを願ったところで神さまには聞き入れてもらえないのさ。
「いかにも、私はきみたち地球の人から見た宇宙人にあたる。こことは別の惑星から来た。目的は文化交流と相互扶助。この計画が成功することは、我が種族全体の切実な願いである」
 どうか夢でありますように。テレビ番組のドッキリ企画でも可。
「……頭を打ったみたいだな。今、救急車呼んでやるから。自分の名前はわかる? 住んでる場所とか両親とか電話番号は思い出せるか?」
 俺は荷物の中から携帯電話を取り出して、地元の消防署をダイヤルしようとした。少し冷たすぎる対応かなとも思う。それでも溺れかかっていたのは事実だし、念のために病院で診てもらうのが先決だろうと思ったからだ。
「我々の言語で『海底火山から噴き出す極小の気泡』というのが私の個体名だ。オリジナルの発音を伝えることは不可能に近い」
「なげーよ! ってかそれが名前って覚えにくいし呼びにくいにもほどがあるだろ。ハンドルネームかなにかか?」
 ついつい突っ込みを入れてしまった俺を、あくまでも淡々とした目つきで見つめる自称、宇宙人さん。からかったりふざけたり、という雰囲気が微塵もない。
 まったく大変なものを釣り上げてしまった。見た目もある意味で大変だ。ショートカットのスレンダー体型、わずかに釣り目がちの美人でものすごく好みのタイプ。空と同じ色のビキニが似合うったらない。しかも、さっき見てしまった二つのふくらみが……。
 ええい、邪念よ去れっ。それどころじゃないだろ今は。
「無事みたいだけど一応、救急車は呼ぶぞ、いいな?」
 俺は複雑な気分を抱えながらも、意思疎通を諦めて携帯電話の発信ボタンを押す。
 本当に洒落になってないなら、ますます病院や警察で保護してもらわないと。俺のような庶民でどうにかできる問題じゃない。
 しかし、いくら待っても電話は繋がらなかった。
「おっかしいな。アンテナは三本立ってるのに。話し中にもならん」
「それは、きみたちが使う遠隔通信機だな」
「はいはい、そうだよ。携帯電話というすばらしい文明の利器」
「これは謝罪が必要だ。おそらくその機器は私が発した電波によって機能不全を起こした。まことに申し訳ない。どうか許して欲しい。そのために私はなにをするべきだろうか?」
 なにやらわけのわからないことを言われた。俺はそれを無視して、消防署から警察に電話をかけなおそうとする。
 携帯電話の画面を見た俺は、目を疑って何度も瞬きした。さっきまでなんの異常もなかったのに、アドレス帳やメニュー画面のあちこちが文字化けして読めなくなっている。いろいろいじっているうちに、とうとうボタンが利かなくなった。機種を変えてから一年も経っていないはずだぞ。
「……嘘、だよな? 電波がなんだって?」
 あたりにこだまする波の音が、俺の胸でも鳴り響いていた。ざわざわ、ざわわ。 
「我が種族は嘘をつかない。まことに残念だがきみの携帯電話は私が原因で故障した」
 俺は頭を抱え、その場にうなだれた。自称宇宙人は謝り続けている。

 二 太陽のノクターン

「藤原というのが、きみの家名だな。個体名はなんと言う?」
 俺んちの表札を見た宇宙人、海底のナントカさんが聞いてきた。うちは湾岸のすぐ近くにある酒屋で、店の裏手が家になっている。本日は定休日。オカンとオトンは仕入先を回ったり買い物をしたりで、夕方過ぎまで帰っては来ないだろう。
「個体名って下の名前か。章吾だよ。最近の宇宙人は漢字まで読めるのか」
「私は地球人類と交流するための情報を事前に取得している。宿主の脳に残る記憶情報を解析している最中なので、それが完了すれば会話コミュニケーションは今より向上するだろう」
 電波を発していると豪語するだけあって、さっきから電波なことばかり言っている。
 どうしてこんな奴を家に連れて来たかって? 携帯が壊れたから家の電話を使うため、そして水着姿で警察や消防に預けるのもどうかなと思ったからだ。眺めている分には最高だけど。
「ただいま、クロ。お客さんに挨拶しろ。宇宙人だそうだ」
「ワフン」
 裏庭で飼っている雑種犬のクロが、力のない声で俺たちを出迎えた。真っ白い毛並みなのにクロと言う名前をつけた馬鹿は俺の妹だ。同じく大学生で、今年の夏は帰省していない。
「イヌ科の愛玩動物か。衰弱しているようだが、病気ではないのか?」
「どうかな。もう十三歳だし、そろそろお迎えが来るころなんだろ」
 小さいころから一緒に遊んだ相棒だから、死なれるともちろん悲しい。俺がイタズラしてこいつの顔に眉毛を書いたら、近所の別の子や店に来た客まで面白がって眉毛を書いてた。一時期は眉毛の犬がいる酒屋さん、なんて呼ばれていたくらいだ。
 そんな思い出もあることから最期くらいは看取りたい。大学が暇になる時期は頻繁に帰郷してるしな。俺にとって一番古い友人の一人なんだし、それくらいはしないと。
「ショウゴ。彼の体を借り受けたい。保護者であるきみからも交渉の許可を」
「は? 犬が好きなのか。遊びたいなら好きに遊んでやってくれ。元気ないけどな。俺は妹の服でもあさってくるよ。あんたが着れるものもあるだろ。俺も着替えないと……」
 電話もしないといけないし。家族が出かけててよかったぜ、説明のしようがない。
「犬への好悪は特にないが。きみの尽力に対するせめてもの代償になれば幸いだ」
 せっかく可愛いのに、せめて話が通じればなあ。さっきからなにを言ってるんだか、さっぱりわからん。俺は長い長いため息をつきながら、家に入った。
 妹の部屋は半ば物置と化している。里帰りをサボる奴の宿命だ。クローゼットからデニムのパンツとTシャツを探し当て、念のために下着の上下も。
 ……ああ、ふと冷静になっちまった。なんで俺こんな天気のいい夏休みに、真っ昼間から妹の部屋で下着の物色なんてしてるんだろ。オカンが見たら泣くんじゃないか。誰も帰って来ませんように。
 戦利品を手に居間へ。窓から裏庭を見ると、クロが宇宙人女の顔をぺろぺろと舐めている。あいつ、普段はダルそうにしてるくせに美人が来るなり元気になりやがって。羨ましいじゃねえかこの野郎。って、名前からは想像しにくいけど、メスだったなクロは。
 テーブルに置かれていた新聞を手に取る。宇宙人来訪の記事はないので安心。念のためにテレビもつけるけど、当然のようにそんなニュースはどのチャンネルも報じていない。
 居間の電話を操作して、地元警察署の番号が登録されているか確認する。単純に気分の問題で、一一〇番はダイヤルしたくない。今日は穏やかな休日、そんな大事は起こっていないと自分に言い聞かせたいのだ。
 身元不明の女の子が溺れていた。元気だし怪我もないけど、ちょっと記憶や会話が混乱しているようだ。そう伝えればいいかな。ディスプレイに映った警察署の番号を確認し、俺は伝えるべきことを頭の中で整理する。テレビのニュースは全国版から地方版へと変わっていた。
『地域のニュースです。先月三十一日より行方不明となっていた凪浜市在住、佐伯麗子さん十八歳の件に関し、地元警察署は自殺の可能性が高いとして凪浜東海岸一帯の調査を重点的に行うと発表しました。現地では佐伯さんが残したと見られる遺書が発見されており……』
 凪浜ってのは隣の市だ。ここから凪浜東海岸までは十キロも離れていない。
 顔写真が出た。発見した方はただちに最寄りの警察署まで、とテロップが出ている。ショートカットで、ぱっちりとしたつり目の女の子だ。
 一瞬、時が止まって電話の発信ボタンを押そうとする俺の手も止まった。窓の外を見てみると、クロが日向で気持ちよさそうに寝ているだけで、宇宙人女がいない。その直後にドアの開く音がした。
「失礼する。クロ氏の処置が終わった。カロリーを大量に使ったので本日、彼に支給する食事は多めに用意するといいだろう」
 テレビに映る美少女、行方不明の佐伯麗子さんによく似た人がビキニ姿でそこにいる。犬のメシを気遣う台詞なんて吐きながら。
「な、なあ。あんたこのテレビの……」
「これは電波を受信し、映像と音声を出力する端末だな。安心して欲しい、私は自分の電波送受信を遮断しているので、先ほどのようにこれらの機器に悪影響を及ぼすことはない」
「テレビの話が違う! あんた捜索されてるぞ! 早く凪浜の家に帰れよ!」
 俺の慌てぶりをよそにテレビを見て、考え事でもしているように黙りこくる宇宙人、もとい佐伯麗子。
「たった今、この体に記憶されていた情報の解析が終了した。私が持っていた情報、および意識との連結を図る」
 そう言って、女は急にその場に倒れた。
 俺はとっさに手を出し、床にぶつかりそうだったその体を支える。柔らかく滑らかな女の肌を両手に感じて、思わず心臓がどきりとした。
「おい、話の途中で勝手に寝るな! いったいどうなってるのかちゃんと説明しろ!」
「うーん……」
 寝言のようにうめきながら、女が俺の首に腕を回した。そのまま引き寄せられ、顔と顔が密着する。
 そして唐突に唇を奪われた。なんか、すげえ。やわらけえ。
「……んっ、ぷはっ! な、なななななにすんだ! ふざけるのもいい加減に」
「人工呼吸の続きー。サンドイッチありがと、藤原ショウゴくん」
 さっきまでの無表情とうって変わった満面の笑みで、イタズラっぽく舌を出す美少女がそこにいた。
「あ、服も用意してくれたんだ。このTシャツ可愛い。あはは、下着もわざわざ持ってきてくれたの? でもサイズ合うかな」
 俺の腕からするりと抜け出した彼女は、ソファに置かれた妹の衣類を手に取る。
「さあお待ちかね、お着替えターイム。よい子はこっそり見てね。ちゃらららららー」
 ポールモーリア調の怪しげな鼻歌を口ずさみながら、水着の紐を一つずつ解いていく。あ、なんか見えちゃうよ。桃色のがっ。
「って、ここで着替えるのかよ! 奥に行け奥に! 外に誰かいたら見えるだろ!」
 俺は居間のカーテンを閉めながら叫んだ。彼女は水着を脱いで裸になった上半身を、自分の腕で抱くように隠す。その一方で残った最後の一枚、いわゆるおパンツに指を引っ掛ける。
「だって脱がなきゃ着替えれないよ。恥ずかしいけど、ね?」
「ね? ってなんだよおお!」
 靴も履かずに玄関を飛び出して、外に逃げる俺。クロがびっくりしたように跳ね起き、ウォンと吼えた。家の中からは女の爆笑する声が、しばらく鳴り響いていた。

「あー笑った笑った。ショウゴくんって可愛いね」
 すっかり着替え終わった彼女は、引きつった顔の俺を見ながらまだ笑っている。
「えっと、佐伯麗子さん、でいいのか」
「名前はどっちでもいいわよ。海底火山から噴き出す極小の気泡でも。佐伯麗子でも」
 どっちでもなんて選択肢にカウントされないだろ、前者は。
「……なら佐伯さん。あんた、その。行方不明中だろ。早く家に帰らないと親だって」
「いないの。死んじゃったから」
 あまりにも軽く言うので、俺は冗談かと思った。それでも彼女の言葉は続く。
「借金作って自殺したの。あたしもそれから、中学のころはいじめられっぱなしでさ。高校は行かずにバイトしてたんだけど、そこでも先輩にいじめられて、彼氏にも浮気されて、それで自殺しました。あ、新聞に出てる。すごい、あたし有名人!」
 話す口調はあくまでも朗らかだ。それでも、話の細部にいたっては地獄そのものだった。
 親の保険金が降りたものの、その金はたちの悪いガキに恐喝されてほとんどなくなった。誘拐されかけたこともあると言う。佐伯麗子を引き取った親戚も裕福ではなかったため、経済的にはいつもギリギリの生活を送っていたようだ。
 中学校では美人がゆえに男にもてる。そのせいで女子から憎まれ、売春をして生活費を稼いでいると言う噂が立てられる。それ以外にも精神と肉体の両面でいじめは続いた。
 もともと勉強が得意でなかったことに加え、いじめのストレスで受験に失敗した。卒業後は近所の食品工場でバイトを始める。しかしそこの工場長に誘惑され、拒否したら従業員すべてが敵になった。時を同じくしてストーカー被害にも遭った。眠れない日々が続き、バイトを辞めてからも心身は不安定だった。
 数少ない味方だと思っていた彼氏は、どこぞの風俗嬢を妊娠させて結婚してしまった。
「小さいころから海は好きだったし、最期も海かなって思ってね。あ、信じてない顔してるでしょ。宇宙人は嘘つかないんだよ? さっきも言ったじゃない」
「いや、あんた佐伯さんだろうが」
「本体は宇宙人、海底火山から噴き出す極小の気泡よ。佐伯麗子の記憶や行動パターンがオプションとしてくっついてるの。ショウゴくんとコミュニケーションとるために麗子モードを使ってるだけよ。そのほうが気楽でしょ? うりゃっ」
 いきなり指で俺の腹をつついてきた。深刻な話のはずなのに、まったく緊張感がない。
「や、やめろくすぐったい。信じられるわけねえよそんな話。証拠だってどこにも」
「携帯電話を壊しちゃったじゃない。指一本触れないで。あれはほんと、ごめんなさい。お詫びにおっぱい触っていいから。いやあ、宇宙人仲間とテレパシーで連絡を取ろうとしたんだけどさ、地球の電波関係と相性悪いみたい。交流計画もオフラインでやるしかないわねー」
 いきなり壊れた携帯電話。原因不明、見たこともない壊れ方。宇宙人の電波。
 そして、お、おっぱいだと? いや俺の理性は本能に負けたりはしねえ! 人としての尊厳を守るぜ!
「あんなもん、たまたまだ。水でもかぶったんだろ」
 小さめのTシャツに包まれ、形のよさがはっきりわかる胸から目を逸らす。
 誤解がないように言っておく。小さいTシャツしか見つからなかったんだ、マジで。
「疑い深いなあ。クロちゃんの病気だって治したのに。大腸ガンだったけど、健康な細胞を代謝させて患部の細胞と置き換えたから。そのうちガン細胞の塊がウンコになって出てくるよ。くっさいでしょうね。あらやだお下品」
 着替えショーの騒ぎですっかり忘れてた。確かクロのメシがどうとか。
 外でゴロ寝しているクロを見る限り、元気になったかどうかはわからない。最近あいつはめっきり食欲が落ちているようで、若いころの半分も餌を食べることができなくなっていた。
 俺は店の中からビーフジャーキーを取ってきた。酒屋をやっている俺の家は、ジュースやお菓子、酒のつまみ、はたまた米まで売っている。店舗売りよりは、旅館や海の家などの大口配達で稼ぎを得ている観光客頼みの商売。海水浴シーズンを過ぎると割と暇なもんだ。
 クロは俺を見るなり、舌を出して尻尾を振る。牛肉の入った袋の口を破ると、しきりにクーンクーンと切ない声を出し始めた。
「おあずけ」
 鎖の届かないぎりぎりの距離、高さに餌をちらつかせる。クロは飛び掛って来そうな勢いで目の前の好物に前足を伸ばし、半立ちの姿勢でじたばたする。全然おあずけできてねえ。
「ウ、ワン! ワン!」
 ……怒るなよ。飼い主として情けないくらいの馬鹿犬っぷりだ。全盛期のクロが蘇ってる。
「ほれ。餓鬼のようにむさぼり食らいやがれ、犬畜生めが」
 俺はクロの首をわしわしと撫で、持っていたビーフジャーキーを口元に与えた。飼い主の愛撫にまったく見向きもせず、一心不乱にかじりつく、まさに餓鬼。
 ああ、クロの体ってこんなに温かかったんだな。
「いいねー、愛犬と主人の仲むつまじい光景。これぞ幸せな家庭よね」
 冷やかすような口調で佐伯麗子も外に出てきた。
「なあ、本当にクロは病気だったのか? いや、本当にあんたが治してくれたのか? こんな元気なこいつを見るのは……」
「ウチュウジン、ウソツカナイ」
 佐伯麗子はまぶしいくらいに笑っている。その姿がどんどんぼやけていった。元気いっぱいに馬鹿っぷりをさらけ出すクロを、何年かぶりに力いっぱい抱きしめ、俺はいつの間にか泣いていたんだ。肉を食い終わったクロが、俺の頬に流れる涙をひたすら舐めていた。
「それくらい、宇宙人とも仲良くして欲しいわね。元気になったんだから散歩に連れて行ってあげた方がいいわよ。クロちゃん、ショウゴくんのことが大好きみたいだから」 

 三 夕空のソナタ
 
 俺は駐車場にバイクを停め、後ろに乗せていた佐伯麗子を降ろす。背中に当たっていた胸の感触がまだ残る。俺に買われてからはじめて女の尻を乗せた、ホンダCBRもさぞかし喜んでいるだろう。って、そんなことはどうでもいいんだよ!
「あたしたちの種族はね、テレパシーで瞬時に自分たちの意識を同調、情報を分かち合うことができるの。早い話が心の中まで丸見えなのよ。だから嘘つく意味がないってこと」
 佐伯麗子モードが前面に出ていることにより、確かに言葉自体はわかりやすくなった。それでも言っていることの内容は相変わらず。
「で、今は電波だか電磁波だかの影響でそれができないから、仲間に直接会うか、一人で頑張るかしかない、ってことか。それだとあんたは、どうやって事前に地球の情報を知りえたのかって疑問があるけど」
「宇宙空間にいたとき、人工衛星の電波情報を傍受したのよ。ああ安心して、それで壊したりはしてないから。大気圏外だと大丈夫なのよね」
 俺たちは街まで出て県庁に来ていた。地球人佐伯麗子の肉体を借りた、自称宇宙人の名前は長くて忘れた人いわく、行政のトップに会って直接交渉を申し込むのが一番の近道、だからだと。
「とりあえず、近場で一番偉いのって県知事でしょ。そこからコネを作って内閣府へまっしぐらよ。あたしのほかに地球に降りた仲間も、担当した国で似たような手順を踏むと思うわ」
 それ、自爆フラグじゃねえかな。こいつは自分が警察に捜索されてるのがわからねえのか。
 言っておくけど、俺はまだこいつが宇宙人だと完全に信用したわけじゃない。まあでも、犬のこともあるし、もう少し様子を見て協力してもいいかなと心を動かされたわけだ。こいつの物言いじゃないけど、恩は恩だからな。
 テレパシー能力に関しては、半信半疑どころか見ても確認してもいないのでまったく信用ならない。
 俺が気になるのはこいつらの種族が持つほかの特性だ。地球の生物に乗り移って体を操る。そのついでに宿主の体に具合の悪いところがあったら、代謝だか自己治癒の促進だか、はたまた遺伝子情報の書き換えで治してしまえる。
 そんな荒唐無稽な能力を、クロの回復で俺は目の当たりにしてしまった。いや他にもある。俺がこいつを見つけたとき、波は高め、場所も岩の多い地点だった。裸同然のビキニ姿であんなところを泳ぎ、流されて岩礁に漂着したら、打撲あざや擦り傷の一つや二つはあるんじゃないだろうか。俺が見た限りではそんなもの……。
 頭の中に、白くまぶしい肌を持った女の裸体が浮かぶ。これはあくまでも確認作業だ。断じて、柔らかそうなあの部分とか、ほどよくくびれたあの部分とか、適度に丸みと肉感を持ったあの部分とか、そういうのを思い出したいわけじゃない。でもしっかり思い出さなきゃ確認できないかな。いやほんと、困った。困ってるんだよ?
「ねえ、これがうまくいったらさ、しばらくショウゴくんとはお別れかもね」
 妄想にトリップしかけた俺を、その声が現実に呼び戻した。
「そうなるだろな。星間交流なんて大事業に参加するほど、俺は立派なもんじゃないし」
 こいつが嘘を言っている、あるいはちょっとおかしくなっているだけだったとしたら。こいつは保護されて凪浜市に帰るんだろう。それほど遠くもないけど、別の街の赤の他人だ。惜しいとは思うし、自殺だなんだという話を聞いてしまったので心配な気持ちもある。でもこれだけ元気だからなあ。俺も夏休みが終われば東京に戻るし、面倒見切れん。
 場所が県庁なのも良かった。すぐ近くには警察署があり、お役所に消息不明の女の子を届けたことになるから、なんだかんだで無事にことが収まるだろう。凡人の俺にできることは、文字通りここまでだ。
「じゃあ行って来る。この借りは絶対に返すから。卒業して就職がなかったら言ってね。交流親善大使一号に任命するから。そのためにもがっぽりと予算を確保してもらうように交渉だ。あたしがしっかりやらないとショウゴくんがニートになっちゃう」
「うるせー、さっさと行け。あんまり役人さんを困らせんなよ」
 ツカツカとミュールを鳴らし、佐伯麗子は県庁舎に入って行った。服も履物も妹のだけど、この際だからくれてやろう。どうせ俺は困らん。
 俺はその場にとどまり、少し考え事をした。もしあいつが本当に宇宙人で、言葉どおりの能力があるなら。地球人と交流し仲良くしたなら。俺たちは手に手をとり、明るい未来を築いていけるのだろうか。
 麗子モードの言動はまさに天衣無縫。宇宙人モードだと堅苦しく事務的だ。しかし、両者に共通していることがある。とても義理堅く、ギヴアンドテイクが徹底していると言うことだ。感謝の気持ちを行動で表す、受けた恩は必ず返す。そこに一本の芯が通っている。お色気攻撃に関しても、それを俺が喜ぶという計算から来ているなら説明がつく。
 やつらの目的が地球との交流なら、それに協力した場合に大きな見返りを得るだろう。でも人間って汚いからなあ。利用するだけ利用して、自分の欲望を満たすためだけに宇宙人と付き合うかも。そうなると、逆に手痛い報復を食らうんじゃないかね。義理堅いやつってのは、受けた仇まできっちり返してくるもんだからな。仁侠映画を見るとよくわかる。
 嘘をつかない、つく意味がないと言うけど、地球人と付き合っているうちに、嘘をつくようになるかもしれない。それくらいこの社会には嘘があふれてる。清廉で真摯な宇宙人をウソツキに変えちまったら、それはそれで悲しい未来じゃねえか。それも見越しての進化や共存なのかな。
 って、こんなこと無駄に考えてる俺もどうかしてる。無責任に放り出したような別れになって、後悔してるのかもしれない。やっぱり無理矢理にでも警察に連れて行くべきだった。
 悩んで考えても答えは出そうにない。
 街に来たついでに俺は携帯電話のショップに寄り、新品と交換する保証サービスの手続きを取った。データは全部飛んだけどな。やれやれ。
 バイクに跨り、わざと遠回りして凪浜市の湾岸道路から家に帰る。警察が交通整理や検問をしている。岸には捜索隊が出ているのだろう。ごめんなさいお巡りさん。あなたたちが探している女の子とさっきまで一緒にいました。でも元気だし、ちゃんとお役所に届けたから大丈夫です。ヘルメットの中でそう謝りながら。
 俺は、最初に佐伯麗子、もしくは宇宙人ナントカカントカに会った岩場に寄ってから帰ることにした。超ド級の不幸体質で海が好きな美少女。話を聞く限りじゃ、麗子本人が悪くて不幸を背負い込んだわけじゃない。ほとんど周りの人間の悪意、もしくは過失だ。
 最期は好きな海で。そうあいつは言った。それはそれでわかる気がする。この辺の海はボランティアとかも盛んで、地元の人間が誇る程度にはきれいな海だ。死ぬときくらいはきれいなところ、好きなところを選びたい。
 自殺は悲しいことだし、周りに迷惑をかけてるけど、その気持ち自体は普通の感覚だよな。
 それでも佐伯麗子は生きて戻ってきた。いや、宇宙人に体を生かされて操られて、嘘と汚れでいっぱいの陸地を再び歩き始めた。宇宙人は地球の人間と仲良くするために、人間の世の中を捨てて海に還ろうとした佐伯麗子の体や記憶を利用している。今まさに。
 どうなんだろうなあ、それ。麗子自身が、それを望んで受け入れたんだろうか。そうでないのだとしたら、やりきれない。奴隷か道具じゃないかそんなの。
 波は昼に比べてずいぶん穏やかになっていた。海が好きな、自殺する前の佐伯麗子と知り合えなかったことが、無性にさびしく感じた。あんなに明るい子だったんだろうか。それはないかな……。
 馬鹿馬鹿しいにもほどがある。宇宙人だなんだというのも、単なる作り話だろうに。
 そんなことを考え、俺はしばらくその場にいた。岩に当たる波の音が気持ちよかった。

 四 月のラプソディー

「おう、遅かったな。携帯も通じねえし、海にでも落ちたんじゃねえかと心配したぞ」
 家に帰ると、オトンが夕飯を食っていた。オカンは近所の集まりに行ったきり、話し込んでいるらしい。
「わりい、携帯ぶっ壊れたから街まで行ってきた。そう言えばさ、海に飛び込んだ女の子のニュースとかやってた?」
「凪浜のあれかあ。警察いっぱい出てたな。ほれ、テレビでそのことやってるぞ」
 ニュースには夜の海を捜索する警察官の姿が映っている。
 おかしい。麗子を県庁に連れて行ったのは夕方になる前。そこでとっ捕まってるとしたら、身元なんて簡単に割れて捜索も打ち切りだろう。役所は警察じゃないから関知しません、取り逃がしました。なんてことがあるのかな。だとしたら縦割り行政の弊害もいいところだ。堂々と目立つところを歩いてるほうが、逆に見つからないものなんだろうか。なんにしても手際の悪さに呆れる。
 俺とオトンがテレビを見ながらビールを飲んでいると、庭でクロが楽しそうに吼えた。オカンが帰ってきたのかな。
「そうそう、クロがいきなり元気になったんだ。章吾お前、病院にでも連れて行ったのか?」
「え? ああいや、よくわかんねえ。でも元気ならいいじゃん」
 ごめんなオトン。説明すんのめんどい。出かける前に麗子は、健康にしていればあと五年は生きると言っていた。そのころには十八歳か。立派な長寿犬の仲間入りだ。
 玄関の開く音がした。
「こんばんは。ショウゴ、この家で休息をとらせて欲しい。カロリーを消費しすぎた」
 俺は椅子からひっくり返りそうになった。しばらく会えない、いや今生の別れとなるはずだった宇宙人美少女が我が家に乗り込んできた。しかも麗子モードじゃない。
 オトンも驚いて目をまん丸に剥いている。無理はない。って、さっきニュースで、こいつの顔写真が出たばっかりじゃねえか! 
「あああああんた、凪浜の海岸から……」
 俺はやっぱりこの男の息子なんだと感じた。リアクションが似ている。ひとまずなにか言い訳しないと。
「いやいやいや、この子は俺が海で会った子でさ、ニュースに出てたのとは別人だよ」
 やばい。俺はこの場を取り繕うため、適当なことを口にできる。でもこの宇宙人は嘘をつけないんだ。オトンに素性がばれちまうんじゃないか。
「こんばんは、ショウゴの父と思しき地球の人。私は『海底火山から噴き出す極小の気泡』という者である。ショウゴに釣り上げられ、その後も多大な協力を得た。この家庭においてなにか問題を抱えていることはないだろうか。私の力が及ぶなら、解決に尽力したい」
 ええい、しゃべるな。話がややこしくなる。
「……海で、釣り上げられたって。ああそうかい、なるほどねえ」
 オトンは困惑しながらもなにかに納得したのか、バンと俺の背中を叩いて大笑いする。
「い、痛いって!」
「お前にもそんな甲斐性があったかい、どうも女に関しては腰抜けだと思ってたけどよ、はっはっは」
 父上、なにかばっちり誤解されているご様子。でもそのほうが都合いいので釈明せず。
「そういうわけだからさ、とりあえず休むんだっけ? あ、俺の部屋、二階だから」
 俺は彼女を階段に送り、一呼吸入れて食卓に座る。さ、駄目押しでもう一声放ってオトンをさらに納得させないと。とりあえずビールを一口。
「ニュースの女の子によく似てるな。でもやっぱり別人だな」
 オトンもそう言ってビールを飲みなおす。
「そりゃそうだろ、あんな元気に歩いてるわけねえよ本人なら」
「いや、ニュースに出てた写真だとな、右の目じりに小さな傷があったんだ。あの子にはないからな。章吾お前、よくあんな美人に声をかけれたなあ、たいしたもんだ」
「え? あ、傷ね。ニュースのほうはちょっとしか見てないから。そうなんだ……」
 うわごとのように言葉を返し、俺は自分の部屋に入った。
 宇宙人はベッドに乗り、壁に背を預けている。ちょこんと置物のように座って大人しくしているのが、悔しいけど可愛い。
 パンや飲み物を差し出すと、あっという間にそれを平らげた。せっかく美人なのに、がふがふ食っちゃってまあ。
 心臓に悪い。もう一本ビール飲もう。
「どうして戻って来たのかを聞く前に、一つ確認したいことがあるんだけどさ。あんたは本当に佐伯麗子の体を使って動いてる宇宙人なんだな。どうしてそんなに地球と仲良くしたいのかは知らんけど」
「真実だ。きみと父との会話から察するに、眼窩部裂傷痕の有無でそれを確信したのだな。地球との交流計画が浮上したのは、大気中に水分と窒素、酸素が含まれ、巨大な海洋も存在するからだ。水分と窒素や酸素がなくては、我が種族は活動できないからな」
 そう、傷跡。どんな子供でも肌をよく見ると大小さまざまな傷が残るものだ。海で遊ぶのが好き、そう言っていた佐伯麗子ならなおさら。しかしこいつらは乗り移った生物の体をいじれる。傷跡を消すくらいのこともできるんだろう。事実、こいつの体には傷一つ残ってない。
 認めざるを得ないなあ。
 こいつは宇宙人。地球と星間交流が目的で来訪した未知の生物。
 生きるためには空気と水が必要。似た条件を持った別の星を探す必要が出たという説明だった。地球は入植先に選ばれたってわけだな。人間に敵意がないことを示しておかないと、エイリアンだと思われて撃退される可能性が強い。だから自分たちの能力で地球人類に貢献し、共利共生関係を築けるのが最善だ、と。
 こいつらの故郷より、地球のほうが五億年くらい星の寿命が長いそうだよ。
「わかった。で、どうしてうちに戻ってきた。俺はろくに力にもなれないし、礼ならいらないぜ。役所を説得するのは失敗したのか」
「端的に言うと失敗した。知事は予約がないので会談に応じなかった。傘下の部署を順に来訪し、目的や来意を伝えたところ、次第に人が集まって私は別室に通された」
「順にって。役所の部署を全部回ったのか? そりゃ、どう考えても騒ぎになるぜ」
「うむ。どうやら私に害意があって県庁舎を訪れたのだと、彼らは疑念を持っているようだった。弁明も効果を持たず、事態が進展しないことを予測した私はトイレに行くと告げてトイレの窓から県庁舎を脱出した」
「脱出ってえか脱走だな。でもあんた、嘘はつかないはずだろ」
 意地悪く笑って突っ込みを入れる。相手はあくまで冷静だ。
「嘘はついていない。実際にトイレに入ったからな。もっともこのような行動パターンは、佐伯麗子の思考を解析してから獲得した」
 役所に乗り込んだのは麗子モードだった。それくらいの悪知恵は働きそうだ。それが嘘じゃないって言い張るのも、たいしたタマだと思うけど。
 そのとき、こいつがはじめて笑ったように見えた。いや、麗子モードのときは明るくよく笑うやつだったけど、宇宙人モードのときはまったく無表情だったはずだ。
「結果として失敗だったが、次は別の方法を模索する。そこできみに相談と協力を仰ぐため、ここを訪れた。それがかなわないのなら退去する。しかし今までの協力に対しての代償は払いたい」
「だから、礼なんていらねえよ。大したことはしてないだろ。バイクで送ったくらいだ」
「きみとの接触が、すでに交流計画の良好な足がかりになっている。きみは私の話を信用している上で、欲のために私を利用しない。きみと過ごす時間は精神的価値が高い」
 な、なんかちょっと嬉しいこと言ってくれてないか。堅苦しくて色気はないけど、不覚にもドキッとしちまった。
 複雑な気分になっている俺を尻目に、宇宙人はベッド下に手を入れなにやらごそごそ……。
「ちょ、ちょっと待て! なにやってんだ!」
 宇宙人がベッドの下から、秘蔵のエロ漫画を取り出した!
「これは娯楽雑誌だな。男女の性交を軸に作画、印刷編集されたものか。これらのことにきみが娯楽性を感じ、性衝動を自慰行為で発散させ肉体的快感、多幸感を得ているのだろう」
 パラパラーっと、全体を流し読みしながらえげつないことを言っている。
「そのとおりなんだけど、美少女の顔でそんなこと言わないでくれ!」
 かなりのイジメだこれは、どんなプレイだいったい。
「どうだろう、私の操る肉体は幸いにも人間の女性だ。我らの交流を前進させるため、きみに快楽を提供し今までの協力に報いるため、さっそく実践してみよう。まさに一石二鳥だ。きみの視線から察するに、この肉体には少なからぬ興味があるようだからな」
 じ、実践ってなに? そのエロい本に書いてあるような、組んだりほぐれたり上になったり下になったりってこと? しかもチラチラとエロい目で見てたのがばれてるし!
「む、無理無理無理! 俺たち、今日会ったばかりだし! ってそういう問題じゃない!」
 Tシャツを脱ぎながら、相手がにじり寄ってくる。俺はついつい視線を上にやったり横にやったり。見たい、見たくない、でも見ちゃう。あ、とうとう下着姿に! それはまた水着と違ったわびさびが。腰のラインがつるんとしててきれいだなあ。俺しっかりしろ! 
「うむ、会ってからの時間は問題ではないようだ。佐伯麗子の記憶を検証しても、接触した時間の長さが性交渉を結ぶ条件として、さほど重くないことを示している」
 佐伯麗子の記憶。
 浮ついていた俺の体と心が、その言葉を聞いて急激に重く冷える。
 そうだ、目の前にいるこいつの体は、自殺してしまった薄幸の美少女。凪浜市に住む十八歳の佐伯麗子なんだ。しかしそれを動かし操っているのは、どこの星から来たのかわからない、正体不明の宇宙人。俺に迫っているのは、佐伯麗子の意思じゃあないんだ。
「だめだ、あんたらの種族が、どれだけ強い思いで地球に来たのかわからないけど、こればっかりは駄目だ、譲れないし許せない」
 俺は壁際に追い詰められている。手を握られ、まっすぐに見つめられる。二人の距離はないに等しい。でも、どうしてもその先を行かせないために、俺の心は断固として壁を作り、拒否の声を出す。
「わかった。きみを不愉快にさせたのなら謝罪する。すまなかった、ショウゴ。しかしなぜ許せないとまで思うのか、その価値観を教えて欲しい。今後に役立てるためにも」
「だって、だってよ」
 俺は、今ここにいない、消失したと言われた佐伯麗子の自我とやらに思いをはせる。
「かわいそうじゃねえか。みんなにいじめられて、辛い思いをして、世の中が嫌になって、でもせめて好きな海で死のうってまで思って、やっと楽になれると思ったら、その体をわけのわからんものに乗っ取られて、こき使われて、あげくに好きでもない男と……」
 海を見ながらずっと考えていた、考えすぎてまとまらなかったこと。自分で口にしていてもよくわからないと思う。こいつに伝わるのかどうかも。
「いくら大事な目的だからって、そんなことに女の子の体を使っちゃいけないんだ。俺にも、他の男にも、今度またそんなことをしようとしたら、いくら勝手に操れるからって、佐伯麗子って子の体を道具扱いして、そんなものを交流だとか言うんだったら、俺はあんたを絶対に許さないぞ。地球人と宇宙人がどんなに仲良くなったって、俺はあんたらと絶対、仲良くなんてしないからな。だってそんなの、悲しすぎるだろ……」
 俺は悲しかった。佐伯麗子の身の上も。そこまで彼女を追い詰めた世界も。彼女に無関係で無力だった自分も。そんな俺たちと仲良くしようとしている目の前のこいつも。そしてそんな悲しみさえ、時間や死や目的だとかが積み重なって、おそらくなにごともなかったようになってしまう未来も。ただひたすら悲しい。涙すら流れない乾いた空虚さだ。
「……きみの意見はとても難解だ。しかし、理解できるよう努力する。ただ少しだけ、私のほうからも伝えたいことがある。おそらくはきみが持っているであろう誤解を解くために」
「な、なんだよ誤解って」
「私の行動基準には、佐伯麗子の記憶から受け継いだ価値観も大きく影響している。彼女は死の間際、私にこの体を託すにあたり、意識の中で一つの条件を出した」
 俺の体から宇宙人が半歩離れる。
 そして、おそらくは生前の佐伯麗子の口調を模してこう言った。
「どうせ死ぬんだし、こんなあたしでよければ好きに使って。でもせっかくだから優しくて素敵な地球人と仲良くなって、あなたはちゃんと幸せになってね。あたしにはできなかったことだから……」
 見間違いではなく、その頬からとめどなく涙があふれていた。海底火山から噴き出す極小の気泡。そう名乗る自称宇宙人が、歯を食いしばって泣いていた。
「我が種族は、意識を交わすことで全体の目的を画一化できる。しかし地球人類との交流が万が一にも撤回されたなら、私は佐伯麗子との契約を破ることになる。急な性交渉を要求してすまなかった。一刻も早く条件を満たすため、私にはきみしかいなかったのだ。自分と佐伯麗子の価値観を折衷して得られる、優しくて素敵な地球人の具体例が……」
 体の持ち主である佐伯麗子、そして体を借りた宇宙人。
 そのときに課せられた条件を果たせないことへの、悔しさとやりきれなさが言葉の調子からはっきりと見て取れる。
 こいつは自分たちの目的と同じくらい強い思いで、佐伯麗子の思いに殉じようとしていたんだ。彼女の体を借りて行動することへの、最大の恩返しだと感じて。どこまで義理堅いやつなんだ。
 そして自分がなくなるというその瞬間まで、世界を恨まず人を憎まず、幸せな未来だけを託した佐伯麗子の思い。切なすぎるほどの優しさがこいつの中にしっかり残っている。
 俺はその体を軽く抱き、耳元で謝った。
「ごめん、泣くな。確かに誤解してた。佐伯麗子本人の望みだったんだな。でも俺はそんなにいい男じゃないし。あ、あんたみたいないい子、もったいないよ」
「問題ない。きみは実に魅力的な形質を持っている。すでに失われた佐伯麗子の尊厳まで守ろうとするのだから。佐伯麗子の思考をトレースするとそういうことになる。もちろん」
 頬を両手で押さえられる。そのまま優しいキスをされた。
 深く長く、甘く温かいキスだった。全身に電流が走り、溶けてしまうかと錯覚した。
「私の価値観に照らしても、きみ以上の地球人類にはまだ出会っていない。さあ、誤解が解けたようなので続きをしよう。きみはどういうのが好きなのだ?」
「あっあっ、どういうのって、いや俺、はじめてだし、じゃない! まだ心の準備が!」
「安心しろ。私も地球での活動は、未体験のことだらけだ。しかしお互いが協力すればなんとかなる。その可能性を私に教えてくれたのは、ほかならぬきみなのだから」
 あくまでも優しい力でベッドに引きずられる俺。拒めば抜け出せるはずなのに、まったく逆らえない。触れられた場所から、骨が砕けそうに脱力する。

 五 薄明のセレナーデ

 夜中じゅう、いや朝になるまで俺は天国へいざなわれっぱなしだった。
 しかも宇宙人モードと麗子モード、かわるがわるだからたまらない。
 宇宙人モードのほうは、いろいろなことに興味津々で試したがり、積極的だった。
 意外にも麗子モードは普段の快活さと裏腹に受け志向で、それがかえって俺の劣情を無駄に刺激しまくった。彼女が俺の名前を切なそうに呼べば呼ぶほど、俺は激しく体を動かし、そして何度も果てた。
 裸で重なったまま、俺たちは眠りについていた。庭で軽トラのエンジン音が鳴り、その音で目覚めた。オトンが酒の配達に出たんだろう。
 全部、聞こえてただろうなあ。
 すげえ声出しちゃったし。店番をしているオカンに顔を合わせにくい。
 首だけを起こして壁の時計を見る。もう少しで正午だ。俺の胸に顔を預けている麗子も目覚めているようだ。首とか肩とか耳とか、咬まれたり、つねられたり、つつかれたり。イタ気持ちいいからやめれ。
「おはよ、ショウゴくん」
 第一声は麗子モードだった。こいつ、いつから起きてたのかな。ひょっとすると寝てないのかもしれない。
「おはよう。まだ頭がボーっとする。体中の関節が五ミリくらい浮いてる」
 本当にこれでよかったのだろうか。いくら生前の記憶が残っているとしても、いくら佐伯麗子の最期の願いだったとしても。俺は彼女が生きているときに出会っていなかった。もし二人が出会ったのならこんなに深い関係になれたのか。その可能性は永遠に閉ざされている。
 でも、やっちまったものはしょうがないか。
「宇宙人としてのあたしも、すっごい喜んでるよ。地球人はこうやって仲良くなるのか、こうやって幸せになるのか、それがわかったからね」
「こ、これだけじゃねえよ。他にもいろいろあるだろ、仲良くする方法なんて。順番をすっ飛ばしすぎだ」
「ふふ、そうだね。映画を見たり、たくさんおしゃべりしたり。美味しいものを一緒に食べるだけでもね」
 すでに星間交流でもなんでもない話になってる。でもその意見には賛成だ。
「腹減った。メシにしようぜ」
 居間に降りると、オカンが用意してくれたメシがあった。
「ねえショウゴくん、どうせなら外で食べようよ。少し泳ぎたいし水着で行こう?」
「水、冷たいだろう。そっちは平気かも知れんけどよ。そう言えばあんたの水着、うちに置きっぱなしだったな」
 弁当箱にメシを詰めなおし、海岸まで歩くことにする。水着になったのは麗子だけ。薄い布の奥にある柔らかな感触を思い出し、俺の胸がかっと熱くなる。
 はあ、しかしビキニが似合う立ち姿だなあ。裸のこいつを目に焼き付けたあとでも、素直にそう思える。海が好きだからこそ水着が似合うんだろう。どれだけ見ても飽きない。
 青い空と同じ色のビキニ。そのまま、こいつが海と空の中に溶けて行くんじゃないかとすら思った。佐伯麗子は空や海のように清々しい、純粋な女の子だったのかな。
「おうクロ、お前も行くか。元気になって体力有り余ってるだろ」
「ウワンッ!」
 久しぶりの散歩で興奮しまくっている馬鹿犬を連れ、俺たちは岸に降りた。弁当の何割かがクロに奪われた。
「ねえショウゴくん、車とかが近くを通らないか見ていてくれる?」
 食後に軽く泳ぎ、岩場に立った麗子がそう言った。俺たちがはじめて会った場所だ。
「ああ、今は大丈夫みたいだな。どうしたんだ?」
「テレパシーの波長を変えて仲間と交信してみる。近くに通信する機械があると、また狂わせちゃうかもしれないから」
 俺の心がざわついた。こいつの仲間たちは、どんな活動をしているのだろう。その経過しだいでは、地球交流も見直す場合がある。そう聞いたせいだ。
 離れたくない、離したくない。俺は本気でそう思ってしまった。佐伯麗子はきっと魅力的な少女だったんだろう。でもそれ以前に、宇宙人としてのこいつ自身、海底から噴き出す極小の気泡のことを、俺は好きになっちまった。不器用でも義理堅く正直な、愛すべき隣人だと。
「そ、その、仲間と意識を通わせたら、あんたがあんたでなくなっちまうとかないだろうな。パソコンのデータを上書きするみたいに」
「半々かな。私が得た情報や価値観は仲間と共有しながらちゃんと私の中に残る。でも仲間からもそういうのが私の中に流れてくる。行動の目的も考え方も、がらっと変わっちゃうかもしれないし、あんまり変わらないかもしれない。やってみないとわかんないよ」
 嫌だと叫びそうになった。でもこいつらだって、大きな目的があって地球に来たんだ。俺のわがままで文句を言っていいわけはない。
 クロが麗子の足にすがりつく。麗子は目を閉じて静かに立っている。今まさに、仲間と意思を交わしているところなのだろうか。
 しばらくの間そうしていた彼女は、やがてゆっくりと目を開いた。
「やっぱり地球の大気条件だと通信は難しいみたい。でも少しだけど仲間の意思を拾えた」
「それで、なんだって?」
 麗子は寂しそうに笑い、そしてクロの頭を撫でた。
「一度みんなで物理的接触をして、直接に意識のやり取りをしよう。場所は太平洋の指定されたポイント。そこで情報の共有をしてから仕切りなおし。あたしもその辺が落としどころかなって思ってたから。個体によって成果の差がまちまちみたい」
「た、太平洋って。ここは日本海だぞ。その体で泳いで行くのかよ?」
「まさかそんなことはできないよ。あくまでこの体は借り物だから生物的な限界があるし、時間もかかっちゃう。他の生き物の体に移りながら。現実的なところでは鳥か魚でしょうね」
「じゃあ、じゃあその体はどうするんだ! お前が出てったら死んじまうんじゃないのか?」
「……ショウゴくん。佐伯麗子は死んでるんだよ。本やパソコンに記録されているのと同じように、あたしはこの体に残る情報を使っているだけ。でもショウゴくんが納得できないのはわかるよ。だから一つ提案があるの」
 凪いだ海を背に俺に向き合った佐伯麗子が、宇宙人の口調に変わってきっぱりと言った。
「佐伯麗子が私と接触した際の生態状況を可能なまでに再現する。そこから先はどうなるかまったくわからない。すでに彼女が持つ生命としての自我は失われたのだから、身体細胞の活動条件がいくらそろっていても、彼女は死んだままかもしれない」
 言語は明瞭。でも言っている意味はさっぱりわからない。俺の困惑を察したように、説明の言葉は続く。
「端的に表現すると、この体を佐伯麗子に返す。私に体を託すその直前の状態で」
 佐伯麗子が生き返る……? 海に入り、生きる意思を失って宇宙人に体を託したその心身状態で……?
「でもそれだと……」
 せっかく生き返っても、彼女はふたたび自殺するかもしれない。
「私にもその先どうなるかはまったく予測不能だ。自我が失われる前の生命なら、私が出て行ったあとはもとの個体に戻るだけでなんの支障もなく生命活動を再開する。クロ氏のガンを治療したときのように。しかし、今回のケースではどうなるのか」
 海底火山から噴き出す極小の気泡は、クロと俺を順に抱きしめて言った。
「私はきみと会えたことで大きな価値を得た。幸せだったと言っていい。きみは私を拒否しなかった。私の発言を真実だと認めてくれた。そして昨夜、私を力の限り愛してくれた。そんなきみと出会えたことが私の幸せだ。佐伯麗子との契約は今まさに果たされた」
「ば、馬鹿野郎。そんな、これでバイバイみたいなこと言うなよ。俺、俺、あんたのことが」
 ふっ、と逃げるように体を離し、俺に微笑みを向けた。
「仲間が待っている。さようなら、地球の人」
 地球人、佐伯麗子の体から霧のような水色の蒸気が浮かび上がる。
 それらは吹いた霧のようにゆっくりと地面に落ち、岩場の上で海水と混ざり合った。
 この液体のようなものたちが、地球に来た宇宙人、その本体なのだろうか。
 足元から流れ落ちていくしずくを追いかけるように、クロが海に飛び込んだ。俺も気がついたらそうしていた。
 穏やかな波を浴びながら、クロと俺はただ呆然と海原を眺めた。

 六 潮風のアリア

 翌日、俺は街中に出てきて警察署で聞き取りを受けている。刑事ドラマのような取調室ではなく、応接席なのがありがたい。
 もちろんここに来た理由は行方不明中の佐伯麗子、その第一発見者になったからだ。俺はあのあと、悲しんでいる場合じゃないと岩場に戻り、佐伯麗子の身柄を保護してもらうために救急車を呼んだ。
 目じりの傷を含めた身体的特徴から、それは佐伯麗子本人であると確認された。宇宙人は麗子の体を出て行くときに、それらの条件をすべてもとの状態に戻していたんだ。
 傷一つないシルクのような肌は、小さな傷跡が残る人間らしいものへと変わっていた。そして、本当の彼女はもっと日焼けしていたのだ。当然、海遊びが好きならそうなるよな。
「佐伯麗子さんが行方不明だった間、彼女がどこでなにをしていたかの情報がまったく不足しているのです。発見した当時の様子でなにか気がついたことはありませんか?」
「……はあ、いえ、特になにも。持ち物とかも、ありませんでした」
 刑事さんの話を、俺は生返事をしながら聞いていた。事情聴取にはオトンも呼ばれた。女の子が家に来たのは確かだけど、それは佐伯麗子ではないと言い張っていた。昨日までと今日とでは、よく見ると彼女の顔や体に細かい違いがいくつも見られる。オトンが別人だと思うのは無理もない。
 オトンが帰されたあとも、俺は警察署に残っていろいろなことを聞かれた。もちろん宇宙人がどうのなんてことは話さない。そのため、まったく要領を得ない、ちぐはぐなことばかり言ってしまったように思う。よく似た別人が県庁で一騒ぎ起こしたせいで、余計に警察も混乱しているそうだ。その節はいろいろとごめんなさい。
「ちょっと失礼」
 刑事さんはそう言って携帯電話を手に席をはずした。 
 佐伯麗子は今も眠ったままなのだろうか。心肺は機能しているし、検査をする限りでは脳も生きているらしい。しかし意識が戻らないという。
 今はただ、祈るしかない。一度は死を決意した彼女に、再び生きて苦しめと言うのはエゴかもしれない。でも俺は、本当の佐伯麗子を知りたい。どんな女の子だったのか、一目見て一言交わすだけでもいい、十八歳の地球人女性、佐伯麗子に会いたい。
「藤原くん、佐伯麗子さんの意識が戻ったようだ。一緒に来てもらえるかな。事実関係の確認ができるかもしれない」
「え、マジっすか?」
 刑事さんの車で病院に向かう間、俺の心臓は高鳴りっぱなしだった。喜びのあとに不安もやって来る。よく考えたら、今さらどのツラ下げて彼女に会えるんだ俺。いくら宇宙人に操られていたからと言って、その体に欲情をぶつけまくったんだぞ。ああ、会いたいのか会いたくないのか、しっかりしろ、情けない。相手は妹より年下の小娘だ。なにを緊張する。
 病室に入る。ベッドに腰をかけて、警察らしい人にいろいろ聞かれている佐伯麗子の姿があった。
「佐伯さん、あなたはどうしてあんなところで倒れていたんですか? そして、こちらの男性との関係は?」
 刑事さんが俺を指して麗子に問いかける。麗子と俺の眼が合う。
 あどけなさが残る、普通の女の子に見えた。これが地獄を見て自らの命を絶とうとした佐伯麗子、本来の姿なのだろうか。
「ええと、ごめんなさい。その人に見覚えとかはない、です。それにあたし、なにも思い出せなくて。どうしてそんなところにいたのかも」
 周りの刑事さんたちからため息が漏れた。なにを聞いても、覚えてないと返されるばかりだからだ。
「遺書とか自殺とか言われても、そんなことも全然、心当たりがなくて。あたし、自殺するほど嫌なこととかあったのかな? 確かにバイトはやめたし、彼氏とは別れたけど、今さらそんなことどうでもいいって言うか……」
「いや、実際にあなたが海に飛び込んだ形跡があって、発見されたのも海辺なんですよ」
「そりゃ、しょっちゅう海では遊んでますよ。泳ぐの好きだし。でも自殺なんてしません。波にさらわれて溺れちゃったのかなあ……」
 佐伯麗子はなにも覚えていなかった。自殺しようとしたことも、自殺するほどの苦しみすらも。いや、苦しみの原因そのものを克服しきっている物言いだ。
「藤原さんって大学生の人が、凪浜から少し離れたところで助けてくれて、救急車呼んでくれたって聞きました。ひょっとして……」
 目が合った。夜の海より深い色の瞳。その中に星の輝きがあった。
「ああ、俺が藤原だよ。無事でよかった、本当によかった」
「す、すみません本当に、ご迷惑をおかけしました。いつかちゃんとお礼に伺いますから! ……って、あれ?」
 俺の顔を見ながら、麗子がしきりになにかを思い出そうとしている表情をする。
「どうかした?」
「あのあたりで藤原さんって、ひょっとして藤原酒店のお兄さんですか?」
「うちの店を知ってるのか。まあ湾岸道路に看板を立ててるからな」
 佐伯麗子は凪浜の子だから、そう遠くないうちの店を知ってるのも不思議じゃない。
「か、重ね重ねごめんなさい。あたし小さいころ、お店の裏にいる真っ白いワンちゃんに、眉毛とか書いてイタズラしちゃって。お兄さんに見つかったんだけど、怒らないでくれたから」
 俺の記憶が一気にさかのぼる。俺がクロに眉毛を書いたら、妹や近所の友だち、たまに店に来た小さい子供がみんな真似してクロに眉毛を書きはじめた。
 その中に、まだガキだった佐伯麗子がいたのか。俺と麗子は何年も前に会っていたんだ。
 俺は病院の中だということを忘れて、声を上げて爆笑した。
 あの宇宙人め、知ってて黙ってやがったな。

 七 命のカルテット

 いろいろあったあの日から数週間が経った。
 そろそろ九月も終わる。俺も来週からは大学のために東京へ行かなければならない。
 麗子は退院し、自分の暮らしに戻った。
 最終的に麗子は溺れただけ、遺書は誰かのいたずらではないかということになった。もしくは部分的な記憶喪失。事故や怪我の際にはたまにあることだと医者も言っていた。麗子の記憶が戻らない限り、真相は闇の中だ。戻らなくていい。
 なにもかもを知っているやつは、魚にでも乗り移って太平洋を泳いでいるところだろう。海中で魚介類が集まり、異星間交流の会議を開いている様子を想像すると笑える。
 俺は今日も釣り糸をたらし、藻屑やゴミを釣り上げている。傍らにはクロも一緒だ。小魚でも釣れれば食わせてやるんだけどな。ふがいない飼い主ですまん。
 道の脇に原チャリが停まった。クロが元気よくその人物に駆け寄って抱きついた。
「あはは、クロちゃんくすぐったいよ! や、やだそんなところ舐めないで、えっち!」
 クロは、メスなんだけどな。女同士でなにをやってるんだか。
「ショウゴくーん、今日こそは釣れた?」
 麗子は、青空に浮かぶ白い雲を模したアロハシャツを着ている。下は眼前の日本海よりも濃い色のブーツカットデニムだ。
 青や水色がよっぽど好きなんだな。明るいこいつにはよく似合っている。
「全然。宇宙人も美少女も釣れないよ」
 俺は釣りをしたままそっけなく返す。
「なにそれ。ショウゴくんそんなの釣りたいの? まあ、美がつくかどうかは保証しませんけど、少女ならここにおりますわよ、おほほ」
「脂の乗りが足りないからキャッチアンドリリースだ。ところでバイトは決まったか」
 退院してから、麗子は毎日のように店に来る。この数週間で俺たちは急に打ち解けた。なにか恩返しをと、こいつは会うたびにしつこく言う。それをあしらい続けているだけなのに、なぜだか断れば断るほど懐かれている気がする。
「まだ決まらないなー。いっそ犬になって優しい人から餌をもらう生活がしたいよ」
 俺の隣に座った麗子は、クロの腹を撫でながら馬鹿を言っている。
「うちの店、凪浜市内にも品物届けてるから、バイト募集してるところがないかオトンに聞いてもらうよ。お前んちの近くに居酒屋とかあるか」
「え、いやいや、そこまでお世話になると、ますます頭が上がらないって。ただでさえ命の恩人なのに。お礼のしようがないじゃん」
 礼なんかいいって何度も言ってるのに、生き返っても義理堅いやつだな。ひょっとしてまだ宇宙人に操られてるままなんじゃねえのか。
 第一、麗子の命を助けたのは俺じゃない。海の中で意識を失った佐伯麗子は、宇宙人に体を操られていたものの、自分の体で泳いで岸に戻ったんだ。俺はそいつに付き合って不思議な一日を過ごし、最後に救急車を呼んだだけ。
 変に義理堅い宇宙人、海底火山から噴き出す極小の気泡を思い出して俺は寂しくなった。あいつは俺の協力だか交流の成果だかに対し、常になにか恩返しをしたいと言い張っていた。でも俺はあいつと仲良くなれた。心を通い合わせることができた。ほんの少しだけど、あいつの笑顔を見れた。それで十分なんじゃねえのか。人と人との交わりってのは。
「恩を感じてるんだったら、せめて笑顔で元気でいてくれ。あと海には気をつけろ。もう波の高い日に無茶して泳ぐな。俺からはそれくらいだ」
「……ん。そうだね。せっかく助かった命だもん、大事にするよ」
 そう言って麗子はバイト探しに戻った。今日もいくつか面接だからと。アロハ着てバイトの面接に行くのか。そんなんだから落ちるんじゃねえのかとも思う。
 ちょっと冷たすぎるかな、俺。でも正直なところ、どう接していいのか戸惑っているんだ。麗子は覚えてないにしても、俺は彼女の一糸まとわぬ姿を見ちまってるし、その肢体に文字通りありったけをぶちまけちまったわけだから。罪悪感がないといえば嘘になる。
 でも麗子がまた心に傷を負って、悲しい選択をするようなことはあって欲しくない。おそらく彼女が自殺した原因は、不幸を他人のせいにできなかったからだ。だから死の間際でも世界を呪わず、明るい未来だけを望んだんだ。
 誰かが寄り添ってやらない限り、麗子は一人で抱え込む。その支えが俺なのかどうかはわからない。でも俺は俺で、できる限りのことをしたい。あいつを海から釣り上げたのは俺なんだから……。
 そう思うんだけど、照れちまって素直に優しくできないんだよな。
 
 見込みのない釣りをやめて、クロと一緒に家に戻る。
「まったく、お前の恩人はウソツキだなあ、クロ。なにが生前の佐伯麗子を再現するだよ。自殺云々なんてすっかり忘れてるじゃねえか」
 嘘をつかないと言い張っていた宇宙人が残した、ほんのわずかの優しい嘘。それも人間と交流することで得た、あいつらなりの進化や変化なんだろうか。
「それに、死んだ生き物がいくら宇宙パワーを使ったって生き返るわけないだろっての。麗子が死ぬ寸前に体を乗っ取って、自我とやらが失われないように生かし続けてたんじゃないか」
「それはきみの誤解だ。私は嘘をつかない。可能な限り再現したが、一部で記憶の欠損や情緒の変化があっただけのことだ。私が故意に佐伯麗子の脳情報を改竄したわけではない。彼女の自我が復活したのも生命の奇跡と言うほかない」
 突然、目の前の白い犬が人間の言葉をしゃべり始めた。こ、この堅苦しい口調は……!
「あ、あああんた、仲間に会うために太平洋を泳いでるはずじゃないのかよ! まだ一ヶ月も経ってねえぞ!」
「マグロやツバメの体を借りて戻ってきた。しかるのちにクロ氏の体に移動したのが昨夜のことだ。交流計画はなおも続行となったからな。我々の価値観や目的を理解しうる地球人類の協力者と、長期的な視野で交流を持続展開する、そのような方針が決まった」
 マグロとツバメ。そりゃ確かに速いわけだ。海と空のスピードキングだからな。
「な、なんでクロの体にいるんだよ! ってか、なんでここに戻って来てるんだ!」
「クロ氏の体を借り受ける許可は、きみからもクロ氏からも事前に得ている。事情を知っているきみなら交流の協力者として理想的な存在だ。クロ氏の意識と協議した結果、一日のうち昼から夕方まで四時間前後の主導権を私に委譲してくれるそうだ。それ以外の時間は大人しくしているとしよう」
 な、なんてこった。うちの犬が宇宙人憑きになっちまった。四時間って結構長いな!
「これからもよろしく、地球の人。再会を祝し時間いっぱいまで遊ぼうではないか。ところで佐伯麗子とは良好な交友関係を築けそうか? 彼女の古い記憶に少年期のきみがいて、かなりの好感情を持っていたようだからな」
 前に会ったことがある、と麗子が言っていたあれだ。ひょっとして麗子が俺に気安くしているのはそのことがあったからなのか。好感情ってなんか照れる。昔のことなのに。
「う、うるせえ。あんたがあんなことするから、まともに目も合わせられねえっつうのに」
 困ったことに、あの夜のことは毎日のように思い出す。思い出してどうなるか、それは言えない。とにかく大変なんだちくしょう。
 今日もなんか体がだるい。誰かの言葉を借りれば、カロリー使いすぎたってやつだ。
「私もショウゴのことは魅力的な交流相手と認識している。彼女に負けないようにクロ氏の体を借り、多大な寵愛を受けるため最善を尽くすぞ。恋のライバルというやつだな」
 クロの体を借りた宇宙人、海底火山から噴き出す極小の気泡が俺の体に飛び掛り、顔中をめちゃめちゃに舐めまわす。
 俺はそれから日が暮れるまで犬型宇宙人と追いかけっこをする羽目になった。まだ日中は暑いってのに、クロの体で抱きついてくる宇宙人のせいで余計に暑苦しい!
「大学課程を修了したのち、ショウゴは家業を継いでくれ。きみが家にいないと寂しい」
「そ、そりゃ店を継ぐ条件で大学に通わせてもらってるけど。って居候の分際で人の将来に口を出すな!」
 もう、勘弁してくれよほんと。でも犬だか宇宙人だかわからない生き物に、ものすごい勢いでじゃれ付かれながら、俺は自分が笑っていることに気づいた。ああそうだよ、また会えて嬉しいんだ。戻ってくれたこと、これから一緒なことがすげえ、嬉しいんだ!
 俺に乗っかるクロの体温を感じる。その口は宇宙からの来訪者が堅苦しい日本語で、俺への愛を語っている。あたりには潮の香りが満ち、頭上には果てしなく広い空。その下にそびえるコンクリートの森では、佐伯麗子が明日の生きる糧を探している。
 俺の舌が流れ出る涙の味を感じた。
 宇宙人のこいつも、麗子もクロも広い世界で出会った俺の仲間なんだ。
 仲良く寄り添い、支え合って生きよう。きっとその先に明るい未来を拓くことができる。
 俺たちは誰でもその可能性を持っているんだから。
 まずは、しゃべるクロをオトンとオカンにどう紹介したものか考えなきゃ……。









 零 渚のレクイエム

 え、誰?
 ああ、宇宙人さんなの。こんにちは。あたしは麗子。
 でもごめんね。せっかく会えたのに。あたし、もうすぐ死ぬんだ。
 どうしてって? うーん、もう疲れちゃったからかな。いろいろ。
 だから助けてくれなくてもいいよ。でもありがと。最期にいいことあった気分。
 この体を貸して欲しい? なにに使うの? 
 へえ、地球人と仲良くするために。
 どうせ死ぬんだし、こんなあたしでよければ好きに使って。
 あなたも大変だね。どこから来たのかわからないけど。きっと遠くから来たんでしょ。
 お礼? いやいや、そんなのいいよ。もう死ぬし。
 でもせっかくだから優しくて素敵な地球人と仲良くなって。
 あなたはちゃんと幸せになってね。あたしにはできなかったことだから……。
 どこにそんな人がいるのかって言われても。それがわかったら死んでないし、あはは。
 お父さん、お母さん、ごめんなさい。麗子はダメな子でした。
 昔はよく三人で海に来たね。ドライブして途中の酒屋さんでアイス買って食べたよね。
 ごめんね、宇宙人さん。あたしもう行くよ。お別れだね。
 さようなら。頑張ってね。
 生まれ変わったら、あたしも優しくて素敵な人と仲良くなれますように……。


                                      完


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 ・めちゃくちゃ好きです。
 ・読みやすくて面白かったです。ちょっとアレな要素がありましたが←
 ・ハルヒに教えてあげたい。宇宙人なら海で釣れるゾ!
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