高得点作品掲載所     みやびさん 著作  | トップへ戻る | 


この季節が終わるまで


    この季節が終わるまで

                               みやび

     プロローグ


 それはセミたちがにぎやかに鳴き続ける、真夏日和の事だった。
 そろそろ夏休みも残り半分になろうかというある日、図書室で借りた本を返すために登校してきた一人の男子生徒が、下駄箱の前で一冊の大学ノートを拾う。
 始まりは、そんなごくありきたりの出来事だった。
 男子生徒はその中に書かれていたことを実行し、そして――。


 一万円札が百枚、それがテーブルの上に束になって置いてある。公立高校の図書室にはあまりに似つかわしくない代物だった。
 テーブルの上には他にも三つの物が置かれている。
 大きい茶封筒が一つ。
 真新しいB5サイズの大学ノートが一つ。
 丁寧に切り離されたメモ用紙が一つ。
 そしてメモ用紙には、こんな文章が書かれていた。 

『これで私が本気だという事をご理解いただけたと思います。
 このお金は第一の謎を解いたあなたのものです、どうぞご自由に。
 引き続き、第二の謎をお楽しみください』

 ……深く、そして重いため息をつきながら、この現金百万円を発見した男子生徒、進籐和海(しんどうかずみ)はテーブルの上に頬杖をついた。
「なあ、これマジなのかな、いくらなんでも冗談がきついと思わないか」
 和海はテーブルに寄りかかりながら、目の前の女生徒に意見を求めた。
「本気だと、紙にそう書いてあるでしょ」
 テーブルの向かいに座っている女生徒、氷上結衣(ひかみゆい)の返事は、実にそっけないものだった。
「……ああそう、そうだよね」
 彼女の膝元にはもう一冊の大学ノートが開いた状態で置かれている。『第二の謎』とやらが書かれたノートだ。
 結衣は和海のことなど目もくれずに『第二の謎』を興味深そうに眺めていた。彼女が眼鏡のフレームを直すと、レンズが外の光を反射してキラリと冷たく輝く。
「…………」
 その落ち着き払った冷静すぎる態度に、和海はかえっていらだちを覚える。だがそれを直接本人にぶつけるのはひどく格好悪い事のように思えたので、和海は天井に向かってぼやいた。
「ったく、どうなってんだ一体、本当にもらっちまうぞ」
 それに対する返事はない、彼女はノートに夢中だ。
 静まり返った室内にセミの鳴き声が響き渡る。ミーンミンミンと、あるいはジジジジジ……と、セミたちは夏の青空に向かって騒々しく命を燃やし続けていた。
「…………チッ」
 和海は落ち着き無くひざを揺すりながら、目の前にある札束をにらんだ。
 百万円、二人で分けても五十万円ずつ、高校生にはちょっと縁の無い大金である。
 あんな下らない謎解きの賞金がこんな大金だなんて、そんな馬鹿な話はありえない。
 けれどそんなありえないはずの出来事が、なぜか起こってしまったのだから困ってしまう。 現にその百万円がここにあるのだ。本物の札束が、そしてこの金が彼らの物だと保証してくれる手紙が、今ここにあるのだ。
 悩ましい、あまりにも悩ましい、和海は頭を抱えてしまった。
 こんなとんでもない事をして、相手に何の得があるのだろう?
 新手の詐欺か? それとも悪趣味なドッキリゲームか?
 混乱する頭の中に、疑惑がとめどなく湧き上がってくる。だがそれに対する答えなど、当然出てくるわけもない。
 本音を明かせば、喉から手が出るほどこの金は欲しい。けれど本当に受け取っても良いのか、もしかして犯罪がらみの危ない金なのではないか……。
「進藤君」
「は、はい!?」
 物思いにふけっていた和海は、つい余計な大声を出してしまった。
 はっと自分の失態に気付いて顔を赤くする和海。結衣はそんな和海を冷たい視線で見据えながら、淡々と要件を告げた。
「とりあえず、そのお金はしまっておいた方が良いのではないかしら」
「あ、そ、そうだな、うん」
 和海は咳払いをしながら札束を元通り茶封筒に入れ、さらに自分のバッグの中に押し込んだ。と、そこで浮かび上がった新しい疑問を和海は口にする。
「なあ、俺が全部持っていて良いのか、半分ずつとか……」
「今はあなたが持っていて」
 まるで感情らしきものが感じられないその冷めた口調に、和海は顔をしかめた。
「……分かった」
(こいつが友達いないって噂、本当かもしれないな。すげえ感じ悪いし)
 和海は心の中でそうつぶやく。
 だが結衣は和海の表情など気にもとめず、テーブルの上に乗っている方のノート、つまり『第一の謎』のノートを指さして話を続ける。
「もう一度、このノートを拾ったときの様子を聞かせてもらえないかしら。今のままでは情報が少なすぎて」
「ああいいよ、って言っても、本当に下駄箱の前で拾っただけなんだけどな……」
 窓の外からセミたちの騒々しい大合唱が聞こえてくる。
 その騒々しさに紛れ込ませるかのような小声で、和海は今日起こった出来事を語り出したのだった……。


     ● 第一の謎 ● 

 
 S県薪蓙(しんざ)市。人口は十五万人ほど、主産業は印刷・出版。
 地図の上では東京都の真ん中あたりにピタッと隣接していて、都心部から下り電車で三十分弱の距離に存在するという交通の便利さが売りのベッドタウンだ。
 なにげに十万馬力の少年ロボットが名誉市民だったり、波乱万丈な主人公が大胆なロボットで活躍するアニメの舞台になっていたりするのだが、そんな事は知らなかったり興味が無かったりする住民の方が多い。
 要するに、わりとどこにでもある地味な雰囲気の町。進籐和海の生まれ育ったこの薪蓙市は、そういう所だ。
 和海は今、制服姿で自転車をこいでいる。
 時間は午後一時ちょっと過ぎ。目的地は彼が通う県立薪蓙北高校だ。
 彼は学校の図書室で借りた本を返却するべく、大量の汗をかきながら酷暑の中をひた走っているところだった。
 貸し出し中の参考書の返却期限が切れているから至急返却するように、と学校側から電話がかかってきたのがつい先ほどの事。最悪な事に、今日は今年一番の猛暑日であった。
「くっそ……、別に一日や二日遅れたっていいじゃねえかよ……」
 うめき声にも似た愚痴をこぼす和海。吐いた息の代わりに吸い込む空気さえもが熱い。全身を焦げ付かせるかのような熱気に、和海の身体はオーバーヒート寸前だった。
 全身からとめどなく流れ出る汗、汗、汗! このままでは脱水症状で倒れてしまう。可及的速やかに水分補給を行わなくてはならない。
「み、水……」
 水分が欲しい、キンキンに冷えた命の水が。
 和海は飢え死に寸前の野良犬のような顔つきで、フラフラとよろめきながらこの焦熱地獄を走り続けていく。
「死ぬ、マジで死ぬ……」
 と、その時、彼は数メートル先に都会のオアシスを発見した。
 その名も、自動販売機。
「おおお……」
 和海は大急ぎで自転車をこぎ寄せると、ズボンのポケットから財布を取り出す。
「み、水、水!」
 必要以上に興奮しながら財布を開く。そして次の瞬間に彼は絶句し、立ち尽くした。
 財布の中には、六十四円しか入っていなかった。そしてこれが彼の全財産だった。
「…………」
 次の小遣いをもらえるまであと数日、つまり今は給料日前の最も切ない時期なのだ。
「…………」
 絶望的な表情で、彼は目の前の自動販売機を見つめる。一番安いミネラルウォーターでも百十円、半分程度しかもっていない。
「…………」
 このクソ暑い中、命の危機さえ感じるというこの時に。
「…………ち、ち、ち」
 彼は、たかが水を買うだけの財力さえ持ち合わせていなかった。
「ちっくしょおぉぉぉ!」
 和海は大声を上げて猛然と自転車をこぎ出した、己のみじめさから逃げ出すかのように。
 力の限りペダルを踏みながら、彼はグスッと鼻をすすった。
「べ、別に泣いてなんかないんだからねっ!? こんな下らない事で貴重な水分を無駄になんか出来ないんだから! ちくしょう、貧乏なんて大嫌いだーっ!」
 彼は走った、この世の全てから逃げ出すかのような勢いで走り続けた。そのおかげかどうかは分からないが、彼は途中で力尽きることなく彼の通う高校、県立薪蓙北高校までたどり着く事が出来たのだった。
 
     ● ● ●

「ぶっはー、生き返ったあー!」
 玄関前の水飲み場で水道水をがぶ飲みして、和海はやっと一息つくことが出来た。
「うむ、やはり人間には水が一番である。水道水を加工せず、直に飲むことが出来るのは日本の水道局が優秀である事の証ッ! 技術立国ニッポン万歳、水道水万歳!」
 ……そうとでも思っていないと、また己の貧しさに泣いてしまいそうだったから。だからかなり強引に自分にそう言い聞かせながら、和海はもう一口、流れ出る水をすすった。
(金が、欲しいな)
 水道水をすすりながら、かなりシリアスに和海は思った。
 財布の中身を気にしないで済む暮らしというものを、一度くらいは経験してみたい。
 ジュースを飲むにも、アイスを食うにも、漫画を買うにも、ゲームセンターで遊ぶにも。
 自分の欲望を満たすためには、ほぼすべての状況で金が必要である。
《お金で幸せは買えない》と、どこかの偉い人が言ったらしい。
 だがそれに反発した誰かがこう言ったそうだ。
《お金で幸せは買えないが、不幸を避けることは出来る》
 たぶんどちらも正しいのだろう。お金は必要なものである、それも出来るだけ沢山あったほうがいい。
「……どっかに百万円くらい落ちてねえかなあ」
 和海は愚にもつかない絵空事をつぶやいた。
 そんな物がそんじょそこらに落ちているわけが無い。もし仮にあったとしたら、それこそ一大事である。落ちているという事は、それを落とした人間がいるという事なのだから。
「そんなわけないよな」
 面白くもない空想を振り払って、和海は水飲み場を後にした。
 彼は本を返すためにここへ来たのだ、そしてここの図書室にはエアコンがある。苦労してここまで来た以上は、涼みながら新しい本でも物色してやろう。
 そう心に決めて、和海は生徒用の昇降口へと向かった。

     ● ● ●

 時期的に当たり前の事だが、薄暗い昇降口の中には誰一人としていなかった。
 そもそも敷地内に人の気配が少ない、いるのは部活動中の生徒と教師たちくらいのものだ。
 だから校舎内はひっそりと静まり返っていて、ちょっと気味が悪い。
「……考えすぎ、考えすぎ」
 和海は通学用のバッグから上履きを取り出して、それに履き替えようとする。そしてその時、何かが視界の端に引っかかった。
「ん……?」
 下駄箱の周りには、コンクリートの床一面にびっしりとすのこが敷き詰められている。そのすのこの上に、一冊の大学ノートが放置されていた。
「なんだ、落し物か?」
 独り言を言いながら、和海はそのノートを拾い上げた。
 見たところまだ新品のようだ。特に痛んだ様子もなく、適当に開いてみたページは白いままだった。
「……ふぅん」
 和海の心の奥底で、わずかな疑念が芽生えた。状況的に何か不自然な気配を感じたのだ。
 生徒がほとんど来ない夏休み中に、これほど目立つ形で放置された落し物。落とし主はなぜ気がつかなかったのだろうか。しかもそれは新品のノートであり、下駄箱の前でカバンから出し入れするような物ではない。 
 ではなぜ、このノートはここにあったのか?
 それは和海にとって実に小さな疑問ではあった。単なる偶然やうっかりミスである可能性が圧倒的に高い。だがそれでも何か引っかかるものを感じた彼は、さらにページをパラパラとめくり続けた。
 そして何も書かれていない白いページが半分を過ぎ、残りわずかとなったその時。和海は、小さなメモ用紙がしおりの様にはさまれているのを発見したのだった。
 その紙には、黒いインクでこんな文章が書かれていた。

『このノートを拾ったあなたに、ゲームを申し込みます。
 これから提示する謎を、全て解いてみせてください。
 あなたが全ての暗号を解いて私に勝利できたなら、私の全財産を差し上げましょう。
 期限は、この季節が終わるまで』

「……は?」
 突然の事に目を丸くする和海。そのしおり代わりになっていたメモ用紙を取り除くと、そこにも妙な文章が刻み込まれていた。

 第一の謎
 間抜けな狸が米食ってポン
 たこまめとすまぽこのめたんもまいませ

「……何だよこれ、俺をからかっているのか」
 誰かが陰で笑っていたりして、そう思った和海は周囲をキョロキョロと見回した。だが人の気配は全くない。どうやら他人の驚く顔を観て面白がるという種類の冗談ではないらしい。
「ゲーム、って」
 和海は先ほどの疑惑の答えが明かされている事に気付き、そしてその答えの突拍子もなさにあきれた。
 このノートは落し物ではない。拾ってくれた誰かと知恵比べすることを求めて、わざとこの場所に放置された物なのだ。何ともまあ、ふざけた話ではないか。
「たまにいるんだよなあ、こういうヒマな事を考える奴」
 和海は改めて周囲を見回した、やはり辺りに人の気配はない。
 夏休み中だけに今日この昇降口を通る人間は数えるほどしかいない事だろう、つまりこの謎の存在を知る事のできる人間は、ほとんどいないと予測できる。もしかしたら、このまま何日も放ったらかしにされてしまうかもしれない。
 それはちょっと、可哀想なのではなかろうか?
「だったら……、ちょいとこの俺が付き合ってやろうかな」  
 和海はちょっと嬉しそうに笑みを浮かべ、暗号の書かれたノートを抱いて歩き出した。
 どうせしばらく図書室で涼んでいくつもりだったのだ、時間つぶしに謎解きを楽しむというのも悪くない。全財産を差し出すというのはいかにも胡散臭い話だが、そんな事はまあいいのだ。今この時を楽しく過ごせればそれでいい。
 和海はそんな軽いノリで、何者かが企んだこの謎に挑んでみる事にしたのだった。

   ● ● ●

 それから、三十分ほど時は流れた。
「うーむ……?」
 いまだ和海はノートとにらめっこをしてうなっていた。
 教室三つ分ほどの広さがある図書室内にいるのは、一見したところカウンターにいる司書と和海だけ。快適な貸しきり状態だ。
 さっさと借りていた本を返却した和海は、利用者用の長テーブルをひとつ占拠して、第一の謎とやらに取り組みだした。だが時計の分針が半周した今もまだ答えは出ていない、涼みがてらの時間つぶしには実にちょうど良いゲームだった。
「んー」
 首をひねったり天を仰いだりしながらうなる和海、その指先が暗号文をなぞる。

 間抜けな狸が米食ってポン
 たこまめとすまぽこのめたんもまいませ

「やっぱり上の文がヒントで、下が問題文だよなあ」
 パッと見たその瞬間からそんな気がしているのだが、それがどういうヒントなのか、肝心のそこが分からない。
 下の文は意味の分からない言葉ばかりだ。『たこまめ』というのは何となくスナック菓子の名前のようにも思えるが、『すまぽこ』とは何だろう、かまぼこの間違いか。
 そして続く言葉が『めたん』だ、パッと思いつくのはメタンガスだが、たこまめとすまぽこのメタンガス、といわれても何のことやらサッパリ分からない。
 そして最後に来るのが『まいませ』だ。
 ひょっとして、『舞いませ』か? いや踊ってどうする、タイやヒラメの舞踊りならぬ、お菓子とかまぼこの舞い踊りか? 踊りながらメタンガス(おなら)でも出すのか?
「違う、絶対そうじゃないよな……」
 和海は頭をかいて間抜けな妄想を振り払った。
 きっと下の文章そのものに意味はないのだ。上の文章をヒントに何らかの加工をすると答えになるに違いない。 
「って事は、上側の謎をまず解かなきゃいけないわけだよな」
 間抜けな狸が米食ってポン……。
 和海の脳裏によだれを垂らしたアホ面の狸の姿が浮かぶ。
 そいつが茶碗に山盛りにされたご飯をガツガツむさぼって、ゲップをしながら腹を叩く。するとポンという音が鳴って……。
「いや違うだろ違うだろそれは!」
 和海は再び頭をかきむしった。今の妄想では、やはり答えになっていない。
 こんなに短い問題なのだ、きっと簡単な解き方と答えが用意されているはずだ。
 そう、例えばひらがなにして反対側から読むとか……。
「よーし、こうなったらマジだぜ、徹底的にやってやる」
 和海はカバンの中からシャープペンシルを取り出して、ページの余白に思いつく限りのやり方を記入し始めた。
 
 まず右の文をひらがなに直してみた。
 まぬけなたぬきがこめくってぽん

 次に反対側から読んでみる。
 んぽてっくめこがきぬたなけぬま
 せまいまもんためのこぽますとめまこた
 
 試しに一文字おきに消してみる。
 まけたきこくてん 
 たまとまこめんまま

 二文字目から同じ事を試してみる。
 ぬなぬがめっぽ
 こめすぽのたもいせ

「ダメだな」
 どうも的外れな事をしているような気がする。だが和海はなおも諦めず挑戦を続けた。
 右の文には漢字が五個使われているので、左の文から五文字ずつ抜き出してみる。
 とのま

「……とのま?」
 確か漫画のキャラクターにそんな名前の男がいたが、あまり関係はないように思える。
「うーん、一応保留しとくか」
 和海はさらに作業を続けた。
 今度は反対に五文字目を抜いてみる。
 たこまめすまぽこめたんもいませ
 
 ローマ字読みに変える。
 MANUKENATANUK?GAKOMEKUTTEPON
 TAKOMAMETOSUMAPOKONOMETANMOMA?MASE

「うーん、なんかイマイチだな、わかんねぇー」
 そう言いながら背伸びをした瞬間、和海はあやまってテーブルに足をぶつけ、上に置いていたペンケースの中身を床にぶちまけてしまった。
「うわ、やべえ!」
 床のあちこちに自分の文房具が転がっていく。和海は慌ててしゃがみこみ、飛び散った自分の文房具たちを拾い集めた。
 使い古しの汚いペンケースの中に、安物の文房具たちを順番に入れていく。シャープペンシルを数本、シャーペンの芯、赤・黄色・緑・青のラインマーカーを一本ずつ……。
「あれ、消しゴムがねえぞ、どこへ行った?」
 床に手をついて見回す和海。
 その時、ふと彼の前に誰かが立った。
 上履きに黒いソックス、生白い足、学校指定のフレアースカート、どうやら女生徒だ。
 さらに視線を上げていくと、半袖の白いブラウスに包まれた、かなり細身の上半身。
 もうちょっと上に視線を向けると、そこにはシンプルなショートヘアーのメガネっ娘が和海の事を冷たく見下ろしていた。
「ひ、氷上」
「探し物はこれかしら」
 それはまるで、地面にはいつくばる浮浪者に小銭でも恵んでやろうかとでもいう様な、冷ややかで感情のこもらない態度。
「あ、ああ」
 和海の口調はわずかに乱暴なものになっていた。きっと彼女の冷たさに対して防衛本能とかいうものが働いたのであろう。
 立ち上がった和海の手に、彼女は薄汚れた消しゴムを乗せた。ちなみに汚れているのは彼女のせいでもなければ、図書室の掃除が雑だというわけでもない。持ち主である和海の使い方が汚いせいだ。
「どーも」
「…………」
 和海のぎこちない礼に対して、彼女はわずかに眼をふせただけだった。
 氷上結衣、彼女は和海と同じクラスの女生徒である。
 成績は常にトップクラス。そのガリ勉ぶりを証明するかのような痩せ型のメガネっ娘で、愛想のなさと人づき合いの悪さは、生徒はおろか担任教師まで諦めているともっぱらの噂だった。
 そんな彼女につけられたあだ名は『氷結メガネ』。あからさまな悪口だが、その悪口もまんざら言いがかりでもないという事を、和海はたったいま思い知らされていた。
「えーと、お前も本を借りに来たのか、参考書とか?」
「…………」
 彼女は、無言。
 耳が悪いなんて噂は聞いた事がないので、ちゃんと聞こえているはずなのだが。
「あー、今日は超暑いよなー、来る時倒れたりしなかった? ああ倒れちゃったら来れるわけないじゃんね、俺ってバカだなー、あはははは」
 彼女は無言。応答なし。
「あはは、は……」
「…………」
 無言。会話が成立しない。
「………………」
「………………」
 場の空気が、重い。
 和海が友好的なコミュニケーションをとろうとした事を後悔し始めていた、その時。
「あなたは」
 氷結メガネっ娘が、やっと口を開いた。
「へ?」
「あなたは、あんなに真剣になって何をしていたのかしら」
 意外な一言だった。
 孤高を貫く氷結メガネが、親しい間柄でもない和海の行動に興味を示すとは珍しい事があったものである。和海は妙に嬉しくなってしまった。
「これなのです、この暗号を解読していたのですよワタクシめは!」
 嬉しさついでに、和海はちょっと笑いをとりにいった。前髪をかき分けてポーズをつけながら、テーブルの上にあるノートを指さす。
「そうなの」
 彼女はそれだけつぶやいて、暗号文をのぞき込む。
「……そうなのです」
 ナイスジョークのつもりだったキメポーズを完全に無視されて、和海は独り寂しく薄笑いを浮かべるしかなかった。
「………………全財産?」
 無口な彼女が独り言を口走った、やはりその大げさな言葉が心に引っかかったらしい。だがそれっきり彼女は何も喋らなくなった。
「…………」
 沈黙が室内を支配する。彼女はひどく真剣な表情で暗号文をにらんでいた。
 ミーンミンミンミンミー……。
 セミが窓の外で鳴いている。この室内だけが、凍りついたかのように静かだった。
 そして一分ほど沈黙が続いた後、ようやく彼女はその固く閉ざされた口を開いた。
「ま・た・こ・め」
「は?」
「間抜けな言葉、狸の言葉、米食いの言葉、この暗号はその複合形」
「はあ?」
 結衣の言葉が理解できず、首をひねる和海。
 彼女はそんな和海に向かって解説を始めた。
「借りるわね」
 結衣は和海のシャープペンシルをつかむと、隣のページに暗号文の下側を書き写した。

 たこまめとすまぽこのめたんもまいませ

「間抜けな言葉というのは、つまり《ま》を抜けという事」
 そう言うなり彼女は、写した暗号文の中から《ま》の文字を消しゴムで消した。

 たこ めとす ぽこのめたんも い せ
 
「次は狸の言葉」
 結衣はそう言って、今度は《た》の文字を抜き始めた。

  こ めとす ぽこのめ んも い せ

「米食いの言葉」
《こ》と《め》が削られていく。
 
    とす ぽ の  んも い せ

「最後に、狸が変化する時のようにポンと引っくり返す」

 せいもんのぽすと

「おお!」
 和海は歓声を上げた。正門のポスト、これが正解だったのだ。
「すげえ、お前ってさすがに頭の出来が違うぜ!」
「そ、そう」
 結衣は和海の興奮についていけないらしく、目を丸くして驚いていた。
「行ってみようぜ、マジで何か隠されているのかも!」
 和海は愛用のバッグの中に道具類をすべて突っ込んで、慌ただしく図書室のドアを開いた。結衣はその勢いに少し戸惑いながらも、和海の後ろについていく。
 そして彼らはこの高校の正門脇に備え付けられたポストの裏側から、ガムテープで貼り付けられた大きめの茶封筒を発見する。その中に現金百万円の札束と、第二の謎を記したノートが入っていたのだった。

   ● ● ●

「……な、別にヒントなんて何もない話だろ」
 ため息まじりの和海の言葉に、結衣は静かにうなずいた。そして第二の謎が書かれたノートをテーブルの上に乗せる。
「つまり、あらゆる疑問はこの謎を解き明かしていく事でしか解明できない、という事ね」
「そういう事になるんだろうな」
 和海と結衣は、手元にあるわずかな情報源を見ながら意見を交換しあった。
 現在二人の手元にあるわずかばかりの情報だけでは、一連の不可解な出来事を説明する事はまず不可能である。
 現時点での主な疑問点は三つ。
 一体誰がこんな事を行ったのか?
 なぜこんな奇怪な事を実行しようと考えたのか?
 この現金は本当に受け取っても良いのだろうか?
 他にもいつ頃からこのノートは昇降口に置かれていたのか等々、細かい疑問はある。だがそれはあまり重要ではないだろう。誰が、なぜ、そして本気なのか冗談なのか。何よりもまずこの三つの事が気になった。
「警察に届けようか、何かの犯罪がらみだったりしたらヤバイだろ」
「その可能性は低いわ」
 和海の言葉を、結衣は容赦なく否定する。
「この謎を用意した人間が犯罪者だと仮定して、事件がらみの危険な金を不特定多数の他人にさらして何の得があるというの。あまりにもデメリットが多過ぎるでしょう。それにこのお金とゲームが単なる悪ふざけだった場合、私たちも犯人グループの一味だと警察に誤解されかねない、金額が大きいだけに親や学校にも連絡されるでしょうね。痛くもない腹を探られるのは御免だわ」
「そ、そう」
 結衣の冷たくてとげとげしい反論に和海はたじろいだ。温かみのあるコミュニケーションには関心を示さないくせに、こういうキツイ弁論はペラペラ喋れる女らしい。
「じゃ、じゃあどうするんだよ、いっそ元の場所に戻しちまうか?」
「安全性のみを追求するなら、それが一番賢明な判断ね。今なら何も見なかった事に出来る。何もしなければ、何も起こらない」
 その時、まさに氷の彫刻のような冷たい無表情だった彼女の顔が、にわかに曇っていた。
 不満そうな、不愉快そうな、苦虫を噛み潰したような。そんな悪い意味での熱を帯びた、いらだちの表情。
「だから、あなたが手を引くというのなら、好きにすればいい事よ」
 そう言ってそっぽを向く彼女の横顔を見て、和海はようやく彼女の内心を悟った。
 警察に届けるのは反対。
 やめたければやめればいい。
 そして先ほど第二の謎を見つめていた時の真剣な表情。
 それらの態度が示す答えは、一つしかない。
「お前、この謎解きを続けるつもりなのか」
「ええ」
 結衣は、横目で和海の事をにらんだ。
「このままでは気分が悪いもの、この謎は私が解く」
 その強い意志をこめた眼差しに、和海は一瞬喉を詰まらせた。
「……じ、じゃあこの金はどうするんだよ?」
「戻すなり使うなり、あなたの好きにしたらいいわ」
「お前が謎を解いたんだろう!?」
「別にお金が欲しくてやった事ではないもの」
 顔を横に向けたまま、彼女は不機嫌そうに言い放った。
(こいつは、こんなに変な女だったのか)
 和海は心の中でそうつぶやいた。
 金はいらない、でも謎解きは続ける。それは和海にとって思いもよらない発言だった。それこそ何の意味があるのか分からない行為ではないか。
「本気で言っているのか」
「…………」
 一応肯定なのだろう、結衣はむすっと横を向いたまま口を開こうともしない。その態度に和海はあきれた。
 氷上結衣、『氷結メガネ』と影でささやかれている、クソ真面目で人付き合いの悪いクラスメイト。その彼女が今、自分の目の前でふくれっ面をして、よく分からない意地を張っている。今まで抱いていたイメージとの大きな違いに、和海は大きく戸惑っていた。
 どうも和海たち周囲の人間は、彼女について大きな勘違いをしていたらしい。この氷上結衣という女は冷血人間などではない、ちょっとした事に意地を張る子供っぽい人間だ。
 その横顔を見ながら、和海は考えた。出来るだけ冷静に、客観的に状況を分析してみる。
 なぜそこまでむきになっているのか知らないが、彼女はあくまでこの謎に挑み続けるつもりらしい。そしてその結果、ひょっとしたら危険な目にあうかもしれない。それに彼女一人ですべての謎を解けるとも限らない。
 彼女には共に考え、支えあう相棒が必要になるはずだ。そしてそれには、今ここに居合わせた自分がもっとも都合が良いに違いない。
 そして何より和海自身もこの謎解きに興味があった。そして大金が欲しいという下心もあった。何となく不気味だから、というだけの理由でこのチャンスを逃すのは惜しい。 
 と、ここまで考えたところで、彼は結衣の横顔を見つめなおした。
 彼女の気難しさはちょっとした不安材料だが、慣れてくればこちらからの接し方も分かってくるだろうし、彼女の態度も多少は柔らかくなるはずだ。多分、何とかなる。
 
結論:人情と欲望の両面から考えるに、ここで引き下がる手は無い。

「よし、俺も一緒にやるぜ。お前がやるって言うなら、俺も付き合う」
 その言葉がよほど意外だったのだろう、結衣は目を丸くして和海に向き直った。
「先に言っておくが儲けは半々な。何かあった時に私は無関係です、なんて言って逃げるのも無しだぜ。利益は半々、危険も半々だ、いいな?」
 結衣は口を小さく開いた。だが適切な言葉が見つからないらしく、意味も無く閉じたり開いたりしている、そこを和海が強引に付け入った。
「よろしくな、相棒!」
 テーブルの上に右手を差し出して、彼は握手を求めた。
 結衣はというと突き出された右手を見つめて大きく戸惑っていた。胸に手を当てて、そわそわしている。
 和海はそんな彼女に警戒心を抱かせないよう、伸ばした手をそのままで出来るだけ爽やかな笑顔を向けている。その甲斐あってか、彼女は胸を押さえていた手をおずおずと差し出した。
「よろしく!」
「よ、よろしく」
 満面の笑みを浮かべる和海と、露骨に動揺している結衣。
 二人はこうして握手を交わし、謎解きコンビを組む事となった。


     ♭ 第二の謎 ♭


 それから二人は、これからどうするかを具体的に話し合った。
 まず手元にある現金百万円。
 これは和海が責任を持って預かる事となった。新しい銀行口座を作ってそこに預けようかという話も出たのだが、それでは万が一犯罪がらみだった場合に指紋や汗などの貴重な証拠を隠滅する事になる、という意見が出て取りやめになった。
 次に携帯電話の番号の交換。
 結衣は誰もがだらける夏休み中だというのに、律儀に校則を守って携帯電話を持ち込んでいなかった。なので今どき珍しく紙に書いて交換するという方法がとられた。
 そうこうしているうちに小一時間ほど時は流れ、ようやく第二の謎の謎解きが始められたのだった。

 第二の謎が書かれているノートには、表紙の右上に短い斜線が二本、マジックらしき物でチョンチョンと書かれている。和海はまずそこから相談してみる事にした。
「これってさ、ローマ数字の《?》なのかな、二冊目だし」
 結衣は数秒の黙考の後、あいまいな返事をした。
「可能性はあるけれど、一冊目には何も書かれていなかったでしょう、断定は出来ないわ」
「んじゃ二番目の暗号に関係があるのか?」
「…………」
 それが分かれば苦労はしない、とでも言いたげな表情で彼女は沈黙。
「ふーむ」
 分からない事はとりあえず保留ということで、和海は暗号文が書かれているページを探した。   
 一冊目同様、暗号文の書かれたページ以外は白紙だ。たいした金額ではないにせよ、ずいぶんと無駄の多い使い方をしている。
「どうせなら一ページ目に書けばいいのにな。それならいちいち探さなくてすむのに」
 パラパラと白紙のページをめくりながらつぶやく和海に、結衣が口を挟んだ。
「もしかすると、これも意味があってしている事かもしれないわ。そうでなければ何冊も用意したりせず、一冊にすべての謎を書いてしまえば良いはずだもの」
「なるほど」
 うなずきながらも暗号を探し続ける和海。
 目当てのページは、ずいぶんと奥の方に隠されていた。
「あった、これだな」
 そう言って結衣にも見えるようにテーブルに置くと、そこには小学生レベルの算数が書かれていた。

 第二の謎
 46÷7
 2× 5  7× 4  2× 4  1× 4  1× 7  4× 4  7× 1  3× 4  1× 6  1× 1
 
「……何かえらく簡単そうだけど」
「ならやってみたら?」
 気楽な事を言う和海に向かって、結衣は冷たく言い放つ。
「よーし、俺だってまんざら馬鹿じゃねえって所を見せてやるぜ」
 和海はシャープペンシルを握り締めると、さっそく計算を始めた。
 46÷7=6余り4
 2× 5=10
 7× 4=28
 2× 4=8
 1× 4=4
 1× 7=7
 4× 4=16
 7× 1=7
 3× 4=12
 1× 6=6
 1× 1=1
 スラスラと答えを書いていく和海、高校生にとってはあまりに簡単すぎる。
「よし、出来たぜ」
 余裕の笑みを浮かべる和海。だが、その笑顔はほんの数秒で崩れ去った。
「……あれ?」
 結衣はただ静かに和海の様子を眺めている。
「えっと、問題、解いたぞ?」
「…………」
 結衣はどうでも良さげな表情で、和海が書いた答案に視線を移した。
「これでいいんだよな、計算はあっているよな?」
「そうね」
「で、この答えが何だっていうんだ?」
「さあ」
 素っ気無く突き放されて、和海はようやく自分の浅はかさに気付いた。
 先ほど結衣はとても熱心にこの暗号を眺めていた、その時に彼女が計算していないわけがないのである。それなのに彼女がいまだ回答を口にしないという事は、つまりこの数式が見た目どおりの算数では無いという事だった。
「むむむ」
 和海はうなりながら自分で書いた十一個の計算式を見つめた。間違えてはいない、だが意味が分からない。算数としては分かるが、暗号としてはまるで理解できないのだ。
 この問題に、一体どんな答えが用意されているというのだろうか?
「氷上、お前はもう答えが分かっているのか?」
 結衣は首を横に振った。
「そうか、ううむ」
 和海は再びうなった。
 少々甘く見ていたという事を認めざるをえない、早くも和海は手詰まりになってしまった。
 苦い表情で黙り込む和海を見て、結衣はテーブルの上にその白い手を伸ばした。そしてノートをくるりと回転させて、自分の方へと向ける。
「いや待て、もうちょっと待ってくれ」
 和海はしつこく食い下がった。
「この数字に何か意味があるのかもしれない、もう少しやらせてくれ」
 有無を言わせぬ態度で(とはいえもともと結衣は無口だが)、彼は再びノートを引き寄せた。
「きっとこれはな、二重に仕掛けられた暗号なんだよ、この答えを別の文字に変換するんだ。それって謎解きの定番だろ?」
 そう言って彼は十一個の答えを新しいページに書き出してみる。

 6余り4、10、28、8、4、7、16、7、12、6、1

 パッと見、最初の6あまり4が不自然に思えた。
「きっと余らせちゃダメだったんだな、小数点以下までキッチリ割り切らないと……」
「無理」
 まさに一刀両断の鋭さで結衣が言い切った。
「え?」
「46÷7は割り切れない」
 彼女はそう言うと、すごい速さで46÷7の計算を書き始めた。
 
 46÷7=6,5714285714285714285714…………
 
「循環小数になっているの、永久に割り切れないわ」
「そ、そうか、それにしてもお前、計算速いのな」
「そう?」
「しかもお前、書く前に割り切れないって言い切ったよな、まさかこんな長い計算を暗算でやって、しかも循環小数だと気づいた……?」
 結衣はいともあっさりとうなずく。
「……参った」
 和海は今さらながら彼女の頭脳に恐れ入った。人としての性能が違いすぎる。
 ところが結衣は小首をかしげて和海の態度を不思議がっていた。彼女にとっては何でもない普通の事だったらしい。これが天授の才というものだろうか、凡人である自分の能力と比較してかなり理不尽なものを感じたが、ともかく和海はこの才媛と共に推理を続けるのだった。

     ♭ ♭ ♭

「それじゃ何か分かったら連絡をくれよな、絶対だぞ」
「ええ」
 バス停の前で、和海と結衣は別れを告げた。
 和海のバッグの中には現金百万円と第二の謎が書かれたコピーが、そして結衣のバッグの中には二冊のノートが入っている。
 ……第二の謎は結局解けずじまいで、図書室の終了時間を迎えてしまった。だから二人は仕方なく家に持ち帰って謎解きの続きをする事となったのだ。
 和海は自転車、結衣はバスでの通学だったので、二人はろくに話をする間も無くすぐ離れ離れとなった。
 こうして和海は再び一人になり、あかね色の空の下で自転車をこいでいる。その表情はとても活き活きとしていた。
 突如手に入った現金百万円。
 謎が謎を呼ぶミステリー。
 クセは強いが頼りになるパートナー(しかも女!)。
 和海にとってこれは『これでワクワクしなければ男じゃない!』という急展開なのである。
 この道を逆走していた時の自分を思い出すと、つい薄笑いがこみ上げてくる。
 あの時は学校にこんな出会いが待っているなんて思いもよらなかった。人生何が起こるか分からないとはいうが、今日のこの日は間違いなく人生最高に熱い一日だ。
「やってやる、やってやるぞ!」
 和海はとにかく上機嫌でやる気満々だった。まさにあの真っ赤な夕日のように情熱が燃えたぎっている。相変わらずやかましく鳴り続けているセミたちの大合唱も、今では心躍るバックグラウンドミュージックだ。間違いなく地獄の熱帯夜になるであろうこの湿気と熱気でさえも、今の和海の情熱を腐らせる事は出来ない。とにかく彼は有頂天だった。
「和海、おーい、和海ーっ!」
 そんな風に燃えたぎっている彼の背中に声がかかった。かなり低めの女の声だ。
 振り返ったその先にいたのは、自転車にまたがった奇妙な服装の女だった。
 すらりと高い長身、それに合わせたかのように背中まで伸ばした長いポニーテール、顔立ちはなかなか整っていて、その微笑みはまあ魅力的な部類といっていい。
 股下八十センチの長い足でスポーツタイプの自転車を駆る姿は颯爽としている。……が、しかし、その脚線美を讃える者は校内にさほどいない。なぜなら彼女の足は常に学校指定の男性用スラックスで覆われているからだ。
 つまりどういうことかというと、彼女は和海と全く同じ薪蓙北高校の『男子用』制服を着ているのだった。
「やあ和海、夏休み中だというのに学校で何をやっていたんだい?」
 やたらに気取った口調で背中のポニーテールをかき分ける彼女。大いに何かを勘違いしているとしか思えないその格好つけた態度に、和海はげんなりした。
 彼女の名は長峰響子(ながみねきょうこ)。和海と同じ団地内に住んでいる、小学校以来の幼なじみである。
 趣味は男装、好みのタイプは深窓のお嬢様、そして女ばっかり所属している演劇部で毎回男性役を演じている看板役者。
 ある意味、極めて明確な趣味嗜好の持ち主といえよう。
「響(きょう)、お前は部活か?」
 男装の女生徒は、うん、とほがらかにうなずいた。
「文化祭の公演に向けて演劇部(うち)は大忙しさ。で、君は?」
「俺は、図書室に本を返しに行っただけだよ」
 カバンの中に入っている百万円と暗号のコピーの事は言わなかった。こいつにばれでもしたら間違いなく無制限にたかられる、それを嫌ったのだ。
「ふうん、夏休みだっていうのに参考書あさりとは、相変わらずの真面目君だね」
「ほっとけ」
 男装女のからかうような笑顔から和海は顔を背ける。だが響はお構いなしに和海に近づき肩をつかんできた。こういう馴れ馴れしさは、むしろ男同士のノリに近い。
「そんな事よりも聞いて欲しいことがあるんだ、とっても素敵なニュースさ」
「何だよ」
 和海が面倒臭そうに顔を向けると、響はいっそう笑顔を明るくして?サインを作った。
「私な、ついに彼女が出来たんだ!」
 和海は、一瞬頭の中が白くなった。
「か、彼女が出来たのか」
「そうさ、すごいだろう!」
「あ、ああ、すげえな、うん、色々とすげえよ……」
 彼女ができたという彼女は、彼女に対する彼の戸惑いに気付いているのかいないのか、喜色満面で彼女と彼女の彼女が映っている携帯電話の画像を見せ付けてきた。ああややこしい。
「これが愛しのマイハニーさ、どうだい可愛いだろう?」
 そこには身体を密着させて笑っている男と女……もとい女と女の姿。響の新しい彼女とやらは、まだあどけなさの残る大人しそうな子だった。
「お前まさか後輩に手を出したのか」
「フッ、夏とは愛と情熱の季節なのだよ、和海くん」
 気取る響。あきれる和海。
「この若さで人生を棒に振る事も無かろうに……」
 頬の片側を引きつらせながら、和海は画像の女の子に向かってそうつぶやく。
「私たちは幸せだよ? そしてこれからもっともっと幸せになるんだ、末広がりって奴さ」
「お前の価値観に合わせていたら人類は滅亡するしかないだろうが! そういう非生産的な人生観はそろそろ改めないと……」
「おっと、こうしちゃいられない」
 和海が言い終えるよりも早く、響はひらりと自転車にまたがると再び颯爽と走り出した。
「悪いね、二人の未来についてメールで語り合う約束なんだ、だから早く帰らなきゃいけない、またね!」
「おい!」
 言いたいことだけ言ってさっさと行ってしまう、そんな自分勝手に不満を言う暇もないほどの速さで、彼女は夕闇の向こうに消えていった。
「……世の中って広いんだなあ、あいつと相思相愛になれる相手がこの世にいたのか」
 響は男の制服を着て平然と登校してくる本物のド変人である、そのくせ同性の好み(異性はそもそも恋愛対象にならない)にはやたらうるさくて、美人以外には一切興味を示さない。
 そんなあいつに、恋人が出来た。
「夏だから、か? 本当にそういう季節なのか? それともうちの高校がおかしいのか……?」
 何せポストの裏に百万円が貼り付けられていた高校である。百合カップルの一つや二つ誕生したっておかしくない……かもしれない。
 釈然としないものを感じながらも、和海は再び自転車にまたがり家路を急ぐのだった。

     ♭ ♭ ♭

「ただいまー、ってもういないのか」
 鍵を開け鉄扉を開くとそこは、いつも通りの狭い我が家であった。
 市営団地の一角にある古びた一室、ここが和海の家だ。
 家族構成は母一人、子一人。父は幼い頃に病気で死んだ。要するにいまどき珍しくもない母子家庭である。
 和海はとりあえず自室にバッグを放り込むと、台所に向かった。
 冷蔵庫から取り出した麦茶をコップに注ぎ、グイッと一気飲み。キンキンに冷えたさわやかな苦味が食道を駆け抜ける。
「く~っ、この一杯のために生きているって感じだぜ!」
 オヤジくさいことを口走りつつ、和海はイスに座り込んだ。
 何気なく冷蔵庫の扉に目をやると、新聞の折り込みチラシが貼り付けられている。
「ふーん、今日は冷凍食品が全品半額か……」
 試しに冷凍庫を開けてみると、案の定そこには大量の冷凍食品が詰め込まれていた。
 進籐家は質素倹約を家訓としている。明言しているわけではないが、事実上そういうことになっているのだ。平たく言うと、和海の家は比較的貧しい生活を送っていた。
「今日の晩メシは何かな、っと」
 テーブルの上には焼き鮭の切り身、小松菜のおひたし、冷凍食品のコロッケ。おまけに小言が書かれたメモ紙が乗っていた。
『パートに行ってきます。夏休みだからといって遊んでばかりいないように』
「へいへい……」
 和海は生返事をつぶやきながらコップに二杯目の麦茶を注いだ。
「分かっちゃいますけどね」
 誰もいない空間に向かってそうぼやく。一人っ子の方が独り言をいうクセがつきやすいというが、本当の事だろうか。
「こっちも何も考えていないわけじゃないんだよ、っと」
 和海は立ち上がると、麦茶の入ったコップを片手に自室へと歩き出した。
 ――いい大学に行って、いい会社に就職しなさい、それがあんたの為だから。
 母は耳にたこが出来るほどそんな事を繰り返し言ってきた。
 ――お金の事なんてあんたが心配しなくていいから。
 そんな事も何度も言われてきた。
「……嘘つき」
 うちにそんな金は無いだろう、昼も夜も働いて、それでもこの貧乏暮らしじゃないか。
 そう言ってしまいそうになった事が、果たして過去に何度あった事か。
 和海の母は、夜遊びはもちろんアルバイトする事さえ許してくれない。バイトして家計を助けると言っても聞き入れてくれないのだ。
 そんな時、母はこんな事を和海に言う。
 ――そんな時間があるなら勉強しなさい、お母さんは後でうんと楽させてもらうから。
 させられるものなら、もちろんそうさせてやりたい。だがそんな未来が本当にあるのか、和海にはどうも信じられない。
 まあ確かに私立だけが大学じゃなし、国公立に受かればずいぶん金銭的にはましだろう。もっともどちらにせよ奨学金をあてにしなくてはいけない。中には奨学金を返さなくても良いという好条件も存在するそうで、和海の第一希望はそういう方法だ。
 だが道があるからといって楽観はできない。根本的な問題として、和海の成績はそこまで良くなかった。
 努力はしているつもりだ。だがどうしても超えられない壁というものに和海は直面していた。 例えばあの氷上結衣が君臨しているような頂点に、自分は立つことが出来ない。一つや二つの教科で成績上位者に並ぶ事もたまにある、だがそれは本当にまれで、総合的に見ると自分の成績はいつも中の上クラス。楽観どころか悲観するしかない現実がそこにあった。
「あーもう、やめやめ! 暗い暗い!」
 和海は首を振って辛気臭い思考を振り払った。
 つい先ほどまであれほどハッピーな気分だったのいうのに、家に帰った途端にこれである。まったく、現実というものは甘くない。
「だが、だがしかし、だ!」
 通学用のバッグの中から、例の茶封筒を取り出す。その厚さと重みに、頬の筋肉がだらしなくゆるんだ。
 現金百万円、このうち半分が自分の物。我が家の貧乏暮らしが現実であるならば、この札束もまた現実の物体なのだ。
「すげえ、やっぱりすげえよ」
 生まれてはじめて手にした大金にぞくぞくする。第二の、そして第三の謎もあるとしたら、その合計金額は果たしていくらになるのか。きっと大学に通う費用もまかなえるだろう。もしかしたらこんなボロ団地からおさらばできるぐらいの、途方もない大金になるかもしれない。
「やっぱり、やるしかねえよなあ!」
 和海は両手で左右の頬を叩いて気合を入れると、机に向かって再び第二の謎に挑みかかった。

 第二の謎
 46÷7
 2× 5  7× 4  2× 4  1× 4  1× 7  4× 4  7× 1  3× 4  1× 6  1× 1
 
 和海はとりあえず一列目の割り算を保留する事にした。
 こういう謎解きは、意外と出題者の意図とは違う方法で解けてしまう事がある。それに期待したのだ。
「やっぱりこの数字を他の文字に置き換えるんだろうな」
 そうつぶやきながら、彼は二列目の文字をいじりはじめた。 
 まず学校でやっていた時のように掛け算の答えに変えてみよう。

 10  28  8  4  7  16  7  12  6  1

 とりあえずひらがなの五十音順に当てはめてみると……

 こ ふ く え く た き し か あ

 まるで意味不明。
「もしかして掛け算じゃなくて足し算とか? それとも氷上の書いた循環小数がヒントだったとか……?」
 
 46÷7=6.5714285714285714285714…………

 書き出した数字の羅列をじっとみつめていると、だんだん目がチカチカして痛くなってくる。
「んー、6・57142857……、逆さに読むとナゴヤニシイナゴム、名古屋西稲ゴム?」
 いい加減な語呂合わせだったが、和海は念のため電話帳で調べてみた、だが名古屋西稲ゴム、という名は載っていなかった。
「うーん、やっぱり違うな」
 それからも和海はあの手この手で暗号に挑むが、解読の糸口すらつかめない。
 時間だけが無駄に費やされていったその時、悩める和海の背後でドアチャイムの音が鳴った。
 ピンポーン!
「手ごわい……、マジで手ごわいぞこの暗号!」
 ピンポーン、ピンポーン、今度は二回。
「くっそー、この暗号、ちゃんと解けるように出来ているんだろうなあ?」
 ピポピポピポピポピポピポピポピンポーン!
 けたたましく鳴り続けるチャイムの音に、和海はようやく反応した。
「何だようるせえな!」
 和海はイスを引っくり返しそうな勢いで立ち上がると、ドスドスと乱暴な足音を立てながら玄関へと向かう。
 ドアの向こうにいる人物が誰なのかは分かっている。この進籐家を訪れる人物で、ドアチャイムを連射するような非常識な人間は一人しかいない。響だ、響に決まっている。
「はいはい、何ですか!」
 いら立ちを隠そうともしない和海の前に現れたのは……。
 こげ茶色をした、怪獣の顔だった。
「ガオーッ!」
「のわあああっ!?」
 予想外の来客に、和海は仰天して玄関に尻餅をついた。
「あっはっはっは、いやあこうも見事にはまると痛快だねえ」
 響は大笑いしながら顔につけていた怪獣のお面をはずし、許可も得ずに玄関内に侵入すると当然のように靴を脱ぎ始める。
「一人寂しくお留守番をしている和海くんのために、我が家のママンからカレーの差し入れだよ。ありがたく受け取りたまえ」
「あのなあ……」
 勝手知ったる幼なじみの家。彼女は堂々と歩を進め、テーブルの上にカレーの入ったタッパーを乗せた。
「なに、礼にはおよばないよ。私たちは幼なじみじゃあないか」
「その前にお邪魔しますくらい言え、この不法侵入者め」
 そんな精一杯の毒をこめた言葉も、この非常識人には通用しない。
「ああそうか、お邪魔していますよ進籐さん」
 さらりとそう言ってのける響の笑顔は嫌味なほど爽やかだ。いつもの事とはいえ、この傍若無人ぶりにはあきれて物も言えない。
「わざわざどうもありがとうな、けどあいにく今は忙しいんだ、用が済んだなら帰って……」
 ぴろりーぴーりぴっぴっぴっぴろぴろぴーぴろりろー♪
 和海の言葉をさえぎるかのようなタイミングで、響の身体から奇妙なメロディが流れ出した。
「おおっ、きたきたマイハニーからのメールだ!」
 響はジーンズのポケットから携帯電話を取り出すと、何のためらいもなく和海の部屋に向かった。待てと言って止める間も無く、彼女はベッドの上にダイブして恋人からのメールを読み始める。
「おいそこは俺のベッドだ、それともうちょっと大切に扱え、壊れたらどうする気だ」
「細かいことを言うなよ、この家でここが一番落ち着くんだ。緊張して失言メールでも送ったら大変だろ?」
「貴様という奴は……」
 顔を引きつらせる和海。だが響はその表情を知ってか知らずか、ごろりとあお向けに寝転がってメールの返信を打ち込みだした。
「……勝手にしやがれ」
「はいよ」
 気の無い返事に、和海は舌打ちした。
 女が自分のベッドの上で恋人(♀)にメールを送っている、そして自分は黙ってそれを見下ろしている。こんな妙な体験をしたことのある高校生が、他にいるだろうか?
 答えは断じてノーだ。こんな変態女が身近にいるというだけでも相当なレアケースだろう。
 幼なじみの女の子といったら、もっとしっかり者で可愛らしい女の子なのが常識なのではないのか。なぜゆえに自分の幼なじみだけがこうも異常なのだ、少しは世の常識や恥じらいというものをわきまえてもらいたい。
 ……自分だって、男なんだぞ。
 いくら男の服装をしているとはいえ響は、いや響子は明らかに女である。それも皮肉な事に外見だけはかなり上等な部類に属する、いわゆる『いい女』だ。
「…………」
 和海は寝転がっている響の全身を眺めた。
 まず目につくのはそのすらりと伸びた長い脚と、背中まである長い黒髪。携帯を見つめる表情はキラキラと子供のように輝き、まるでプレゼントを待ち焦がれる少女のようだ。
 そして薄手の夏服の中には――これこそ宝の持ち腐れというものだろう――細くくびれたウエストと、意外なほどボリュームのある女性的なふくらみが隠されていた。
 そんな女が自分のベッドの上でこうも無防備な姿をさらしているのだ。落ち着かない気分になってしまうのも仕方ないではないか。
 自分はそこまで無害だと思われているのか。あるいは男だという認識すらないのか。
 それともまさか、さりげなく誘っているのだろうか、日本の伝統文化『据え膳』というやつなのか……!?
 和海の思考回路がそこまで飛躍しかけていた、その時。
 ぴろりーぴーりぴっぴっぴっぴろぴろぴーぴろりろー♪
 響の携帯がまた同じ電子音を鳴らした。恋人が再びメールを送ってきたらしい。響は大喜び&大急ぎで返信を打ち始めた。
「……アホくさ」
 真面目に思い悩む事がなにやら馬鹿馬鹿しくなってきたので、和海は考える事をやめた。
「幸せなのは結構だけどな、夢中になりすぎてヨダレたらしたりするなよ」
「アハッ、そんなわけないだろー、何歳だと思っているのさ」
「十七歳」
「うんそのとーり、そのとーり」
(子供じゃないって言うのなら、大人として気をつける事があるんじゃないのか。いい加減にしねえと揉むぞ、襲うぞこのデカ乳女!)
 口から出かかったその言葉を言ってしまえば、内心の恥までさらす事になる。だから和海は黙るしかない。
 きっと響はその沈黙の意味に気付かない。いや恋人とのメールに夢中になっている今、和海の様子など全く意識していないかもしれない。
 すべては心の闇の中、他人の気持ちなんて分からない事だらけ。人間関係とは案外そんなものかもしれない。
 和海はイスに座り直すと、響を無視して暗号解読を再開する事にした。
 ……が、後ろで鳴り続ける電子音が邪魔で、今ひとつ集中できない。
 ぴろりーぴーりぴっぴっぴっぴろぴろぴーぴろりろー♪
 ぴ・ぽ・ぽ・ぽぴっぽぽぺ……。
 ぴろりーぴーりぴっぴっぴっぴろぴろぴーぴろりろー♪
 ぴぽぴぴぴ・ぴ・ぽぽぴ・ぽ……。
 ぴろりーぴーりぴっぴっぴっぴろぴろぴーぴろりろー♪
「ああああああもう、さっきからうるせえんだよ!」
 ついに我慢しきれなくなって、和海は怒鳴りつけた。
「なんだい、もしかしてうらやましいのか? 男の嫉妬は見苦しいぞ?」
「う・る・せ・えって言ってんだ、音を消せ音を!」
 その剣幕にさすがの響も思うところがあったらしい。素直に携帯をマナーモードに切り替えて騒音を止めた。で、そのまま作業に戻るのかと思いきや、彼女は和海に話しかけてきた。
「なあ、君は何をそんなに夢中になっているんだい」
「……まあ謎解きクイズみたいなもんだよ」
 立ち上がって机の上をのぞき込んでくる響に、和海はそう答える。百万円の事は言わない、たかられるのが嫌だから。
 響は机上のコピーと雑然と書き連ねられた途中経過を見つめて、こう言った。
「何だい、これは」
「だから、謎解きの暗号だよ、これをどうにかしたら答えが分かるんだ」
「ほー、まあいいや」
 彼女はまるで興味がわかなかったようで、またベッドの上に戻ってメールを打ち始める。
 その熱心さを見て、和海は何となく聞いてみたくなった。
「なあ響」
「ん?」
「お前の彼女って、どんな子なんだ」
 響はその言葉を聞いて、顔を少し引き締めた。
「いい子だよ。可愛くって、素直で、真面目で、家族思いで」
「ほお」
 そんなに模範的な女の子が、どうしてまた同性と、しかもこんな変人と付き合おうなどと思ってしまったのだろうか。
「今度紹介するよ、きっと君も気に入ると思う」
「俺が気に入ってもしょうがないだろ」
「より多くの人に祝福してもらいたいじゃないか、ようするに自慢させろって事」
「ああそうかい」
 こうまで露骨にのろけられると、かえって怒る気にもなれない。その時はお望みどおりせいぜい自慢させてやろうかと和海は思った。
「さて、そろそろお暇しようかな」
 ベッドのバネを利用して飛び降りる響。だが口とは裏腹に、彼女は机に向かっている和海の側まで寄ってきた。
「どうした?」
「いや、その謎解きってさ」
 机に手をついて、響はその暗号をのぞき込んだ。
「うん、何か分かったのか? …………ッ!?」
 その距離、わずか十センチメートル。まさに目の前に、響の大きな胸が突き出されていたのだ。うっすらと水色のブラジャーが透けて見えているその光景に、和海の視線は釘付けになった。
(うぅぅおおぉぉッ! この男女、去年の今頃よりもさらに育っている! なんという矛盾、なんという無駄! どうしてこいつにばかりこうも無意味な素質をお与えになるのですか神様ッ!?)
「ふうむ」
「…………!」
 時間にしてどのくらいだったのだろうか。ほんの数秒だったようにも思えるし、たっぷり一分以上そうしていたかも知れない。響がポニーテールをかき分けながら離れるまでの間、和海は顔を真っ赤にしてその豊満な胸を眺め続けていた。
「やっぱり違うか、勘違いだった」
「そ、そそそうか、世の中残念な事とかもったいない事とか、色々あるよな、うん」
 脳みそが煩悩で沸騰している和海は、会話のポイントがずれている事に気付いていない。
「ああ、この46÷7っていうのがね、もしかしてアルファベットを七列並べろって事じゃないかと思ったんだ。似たような代物を聞いた事があったんでね。でも勘違いだった」
「あっそう、アルファベットは二十六文字だもんな。四十六文字のアルファベットなんて存在しねえよな、ナハハハハハ」
 無駄に馬鹿笑いしている和海の事を、響は不審げに見下ろした。
「変な奴だな、笑うような事は何も言っていないだろう」
「い、いいじゃねえか別に。笑いたい時に笑って何が悪い、わっはっは!」
「…………?」
 腕を腰に当ててわざとらしく笑う和海。
 胸をジーッと見つめていたなんて事がバレたら、響は容赦なくグーで顔面を殴ってくる。この際笑って誤魔化してしまうほかなかった。
「わっはっはっは、あーおかしいおかしい、わははは」
 笑い続ける和海。
「いやーはっはっはっは…………あ?」
 ところが、彼は突然顔色を変えて黙り込んでしまった。
「………………」
「和海?」
 和海は、ひどく真剣な顔になって響にたずねた。
「響、お前今なんて言った?」
「うん?」
「だから、俺が笑い出す前に、なんて言った?」
「ええと『変な奴だな』だったか?」
「そこじゃない! ええと、そうだ、お前じゃなくて俺が言ったんだ、そうだよ!」
 和海は一人で何かを納得し、シャープペンシルを猛烈な勢いで動かし始めた。
「あるんだ、四十六文字のアルファベットは……ある!」
 そうして出来上がったその『奇妙な表』を元に、彼は今までと全く違う解読法を試しだした。
「十番目、二十八番目、八番、四……違う、こうじゃない」
 その様子を、響は首をひねりながら眺めていた。
「なあ、一体なにがどうしたっていうのさ」
「ちょっと静かにしてくれ、今すっげー大事な所なんだ! 2の5、7の4、2の4、1の4、1の7、4の4……」
 まるでバラバラだったパズルのピースが一つずつ繋がっていくように、隠されていた言葉がその姿を現していく。
 そして和海は、ついにその正体をつきとめた。
「できた、出来たぞコンチクショー!」
 立ち上がってガッツポーズを作る和海。
「サンキュー響、お前がヒントをくれたおかげだぜ!」
「おいおい、私は何にもしてないって」
 勝利の喜びに興奮していると、まるでそれを見計らったかのようなタイミングで和海の携帯電話が鳴り出した。ディスプレイに表示された相手の名前は《氷上結衣》、グッドタイミングだ。
「もしもし、ちょうど今こっちからもかけようかと思っていた所だ!」
『そちらから?』
「ああ、謎が解けた、第二の謎が分かったんだよ!」
 喜びいっぱいの声で語りかける和海に対して、結衣の声は、異様に冷たかった。
『……いつ?』
「は?」
『あなたは、何時何分に解いたの』
「今だよ、一分くらい前かな」
 反射的に答えながら和海は首をひねった、そんな事がそれほど重要なのだろうか。和海がありのままを答えると、携帯電話の向こうから安堵のため息が聞こえてきた。
『そう、それならいいわ。私は十分ほど前に解いた』
 彼女の声質が少し柔らかくなったように感じる。和海にそういう意識はなかったのだが、どうやら向こうは競争しているつもりだったらしい。
『こちらも謎を解いて再確認を終えたところなの、今から《あの場所》に向かうつもりなのだけれど』
「今から?」
 和海は窓の外を見た、もう日はすっかり沈んで暗くなっている。
「明日にしないか、今日はもう遅いし……」
『なら私だけで行くわ、あなたは連絡を待っていて』
 例によってバッサリと切り捨てるかのような冷たい態度。
(ま~た意地っ張りが始まったよ、本当に無鉄砲な奴だな、あんなヒョロヒョロした女が夜中に一人で出歩いていい訳ないだろうに)
 内心の愚痴をおさえて、和海は態度をあらためた。
「分かった俺も行くよ、二人でやろう。先に着いても一人で動くなよ?」
 危ないから、女だから、などとは言わない。それを言ったら彼女は余計にむきになって単独行動を主張する事だろう。
『……分かったわ、それじゃあ《あの場所》で』
「うん、《あの場所》で」
 それで通話は終わった。続いて和海は後ろに立っていた響に話しかける。
「響、用事が出来た、出かけなくちゃいけないんでお前も家に戻れよ」
「ああ、元々そのつもりだったさ、ところで」
 響は、ニヤニヤといやらしい笑顔を浮かべて和海ににじり寄ってきた。
「今の、女の子の声だったね」
「それがどうしたよ」
「ふうん」
「べ、別にやましい事はしてねえぞ」
「まあね、君にそんな度胸があるとも思えないけどさ」
「…………」
「恋人を紹介するのは、私だけじゃ無いかもね?」
「そんなんじゃねえよ!」
 ふっと鼻で笑いながら響は玄関に向かい、そしてドアを開ける。
「またね和海、良い夜を」
 そう言い残して、男装百合女は出て行った。
「そんなんじゃ、ねえっつうの」
 和海はドアに向かって、一人そうつぶやくのだった。

     ♭ ♭ ♭

 ここ薪蓙市には二つの駅がある。市内の中央北部にあるJR薪蓙駅がその一つだ。
 時間はちょうど帰宅ラッシュの時間帯、汗をふきながら降りてくるサラリーマンの群れの中を、和海は右往左往していた。
「っと、まだ早すぎたか……?」
 大急ぎで自転車を飛ばしてきたものの、肝心の結衣の姿が見つからない。そういえば和海は結衣の家がどこにあるのか知らないのだ、いつ到着するのか聞いておくべきだった。
「電話してみるか、でも電車やバスの中だったりしたら迷惑だろうしなあ」
 そんな事をつぶやきながらキョロキョロしていると、携帯電話が鳴った、結衣からだ。
「もしもし!」
『……もしもし』
「お前、今どこにいるんだ?」
 和海が雑踏に負けないような大声を出しているのに対し、彼女はいつも通りの声色で、静かにこう言った。
『今、あなたの後ろにいるわ』
 子供の頃にそんな怪談を聞かされた記憶が蘇って来て、一瞬背筋がゾクリとした。だが、彼女らしいというか何というか。
『右後方百二十度、約十メートル』
 情緒の欠片も無いその機械的な言い草に、和海はかえって安心した。こんなオバケがいるわけ無い、彼女は間違いなく生きた人間で、それもガチガチの現実主義者だ。
 和海は人ごみの中、ぶつからないよう気を配りながら振り返った。
「右、百二十度……?」
 そこにあったのは鉄筋コンクリートで出来た無骨な太い柱。その根元に、白いノースリーブのワンピースを着た可憐な少女が立っていた。
 その姿を見て、和海はえっと喉を鳴らせたまま動けなくなった。
 人違いかと思った、だが視線をこちらに向け携帯電話を耳に当てている事から、間違いないのだと確信する。私服に着替えた彼女の姿は、それくらい見違えたものだった。
 あえて古臭い表現をするなら、アスファルトの隙間に咲いた一輪の白い花。昼間の制服姿とは打って変わったその可愛らしさに、和海は不覚にも見とれてしまった。
 彼女は和海と目が合った事を確認すると、無言で携帯電話を切り肩から下げていたクリーム色のトートバッグの中にしまう。そして突っ立っている和海に向かって、ゆっくりと歩み寄ってきた。
 そこで和海ははっと我に返り、そしてしまったと思った。
 彼女は可愛らしいワンピース姿、自分は昼間から着続けている汗臭い制服姿。格好がつかないにも程がある。いつも通りのはずの結衣の視線が、自分の薄汚れた服装を責めているように感じられて、和海は恥ずかしくなってしまった。
 そうこうしている間にも結衣は距離を縮め、和海のすぐ側までやって来た。
 向かい合う二人、互いに無言。
(や、やっぱり俺、汗臭いか? まずったな! それにしても氷上ってこんなに可愛かったっけ、意外だ、意外すぎる、今まで俺が見てきた氷上は一体なんだったんだ。この服着て登校したらみんな間違いなくひっくり返るぞ。それにしても、俺かっこ悪すぎだぜチクショウ!)
 自分と相手のひどい格差に、和海の思考回路は混乱を起こしていた。今晩はの一言もなく、ただ結衣の姿をじっと見つめて硬直している。昼間のおしゃべり野郎ぶりとは打って変わったその態度に、彼女は小首を傾げた。
 その仕草がまた、やたらに可愛らしい。清楚な服装と発達の遅れた体格とがあいまって、どこぞの無垢なお嬢様かと思わせるような魅力を醸し出しているではないか。
 思わず、和海の口から熱いため息がこぼれた。
(いかん、いかんぞけしからん! こんなお嬢さんがフラフラ夜の街を遊び歩いているなど、お兄さん許しませんよッ!? ほ、保護だ保護、保護しましょう、人目につかない安全な所に隔離しなくては、お話はそれからね! ああそれにしてもこの胸の奥からとめどなく沸き起こる感情は一体何? まさかこれが萌えか、ギャップ萌えというやつなのか? けしからん、まったくもってけしからんぞぉ!)
 けしからんのは彼の脳みその方であろう、外界に漏れたら通報されかねないレベルだ。だがこれはあくまでも心の声、彼の精神世界でのみ聴くことのできる魂の叫びである。だから結衣は目の前のアホ男が発情しているとはまったく気付かずに、毎度の調子で単独行動を始めた。
「ど、どこへ行く!」
「目的地」
「も、目的地だと、い、いったいどこへ行こうというのかね!?」
 妄想の一部を外界にお漏らしする和海に向かって、結衣が振り返る。
「あなた、ここへ一体何をしに来たの」
 その表情は、いつも以上に冷たかった。
「何って、その、なんだ」
 頭に血が上っていたせいか、うまく言葉が出てこない。
 しどろもどろになっている和海の態度に結衣はますます表情を硬くした。そこに居るのはもはや無垢なお嬢様ではない、他人を寄せ付けない孤高の氷結メガネだった。
「進籐君、あなたは本当に謎を解いたの?」
 生き血も凍るかのような冷たい視線と言葉が和海の胸に突き刺さる。その痛みで、和海はようやく現実世界に帰ってきた。
「も、もちろん、解いたさ」
「その割にはずいぶんとぼんやりしていたみたいだけれど。謎が解けているのならなぜ動こうとしなかったのかしら」
「いや、それは」
 ――それはお前があんまり可愛くて見とれていたから。
 状況的に、口にするのは難しい台詞だった。
「私に張り合おうとして、いい加減な嘘をついたのではなくて?」
 彼女の視線が痛い、かなりの不信感を抱かせてしまったようだ。
「そんな事ないって、マジで答えは分かっているから!」
 和海はようやく自分の馬鹿げた妄想を悔いた。彼女は、上に超の字がつくほど真面目で融通のきかない性格なのだ。この手の人間はルールや優先順位を無視した不真面目さを嫌う。だから彼女は和海の不自然な態度を見てすっかり気分を損ねてしまったのだった。
「だっ、だから、あそこのロッカーだろ、な?」
 和海の指が示した先に、貸しロッカーが設置されていた。そこが和海のたどり着いた第二の謎の回答である。
「……そうね」
 そう言って肯定すると、彼女は再び歩き出した。果たして機嫌を直してくれたのかどうか、それは後ろ姿からは分からない。和海は仕方なくその背中を追いかける。
「肝心なのは、46という数字の意味だった。それさえ分かれば後は簡単な事だったんだ」
 結衣の小さな背中に向かって語りかける。その首筋の透き通るような白さを見て再び悪い虫が騒ぎ始めるが、そこはグッと我慢。
「あの46というのはひらがなの文字数の事、そして÷7は『七つずつ区切れ』という意味だったんだ、そうだよな」
 つまり、こういう事である。

 あいうえお
 かきくけこ
 さしすせそ
 たちつてと
 なにぬねの
 はひふへほ
 まみむめも
 やゆよ
 らりるれろ
 わをん

 このように五文字ずつ区切られた四十六文字を、七文字の列に並び替える。
 
 あいうえおかき
 くけこさしすせ
 そたちつてとな
 にぬねのはひふ
 へほまみむめも
 やゆよらりるれ
 ろわをん

「あとは左の掛け算の意味。あれはそれぞれ横と縦の位置を示していた」
 2× 5ならば横二列目・縦五番目の文字、すなわち《し》。
 7× 4だと《ん》。
 同じようにして全ての数字を当てはめていくと《しんさえきのろつかあ》となる。
 つまり薪蓙駅のロッカー、これが和海の導き出した答え。
「場所の確認もしないで合流できたんだから、お前だって同じ答えになったんだろ、な、な?」
 結衣はため息をついて、ようやく和海に向き直った。
「その通りよ、疑った事は訂正するわ、ごめんなさい」
 表情がいくらか穏やかなものになっている。少しは機嫌を直してくれたようだった。
「やっと分かってくれたか、俺も悪かったな。いやー私服のお前があんまり可愛かったもんで、つい見とれちまったんだよ、はっはっは」
 その瞬間、時が止まった。……かのように和海は錯覚した。
 結衣の身体が石のように硬直して、ピクリとも動かなくなってしまったのだ。
「……氷上?」
 目は大きく開かれたまま瞬きもせず、手は肩から下げたトートバッグを固く握りしめたまま。 氷上結衣は、まるで機能停止したロボットのように動かなくなった。
「ど、どうした」
 自分はまた何か悪い事をしたのだろうか。そんな不安を和海が抱き出した頃、結衣はようやく再起動を果たした。
「……お世辞が上手ね」
「は?」
 一方的にそう言い捨てると、結衣は足早に和海から離れだした。
「それとも何か思惑でもあるのかしら、お金のことなら好きにすれば良いと言ったはずよ」
「な、なに言ってんだお前」
 急いで結衣を追う和海、二人とも人ごみの中を歩くにはちょっと危険なスピードだ。
 そしてそのまま貸しロッカーの前までたどりつくと、結衣は勢いよく振り返り和海をにらみつけてくる。彼女は耳まで真っ赤になっていた。
「だったらどうしてそんな嘘をつくの!」
「嘘なんてついていないぞ、俺は本当に可愛いって……」
「もういい聞きたくないそんな話。あなたは一体何をしに来たの、そんなつまらない与太話をするために来たのではないでしょう、謎を解きに来たのではなかったかしら。目の前にその答えがあるというのにあなたはどうしてそんな関係のない事を口走るの。かっ、可愛いだなんてそんなはずがないでしょう、私は自分を良く知っている、そんな事は断じてない。どうしてそんな事を言うの、何が目的なの、そんな言葉で私が動揺すると思ったら大間違いよ!」
 真っ赤な顔でまくし立てる結衣にたじろぎながら、和海は思った。
(あからさまに動揺しまくっているじゃないか。これはつまりアレか、耐性が無いっていう事なんだろうか。もしかして可愛いって言われたのは生まれて初めてとか、いやまさかね)
 これ以上どのように説明したとしても、彼女はむきになって否定するだけだろう。和海は強引に話題を変えることにした。
「あー、じゃあその話は後にしよう、お前の言う通り先に謎解きをやってしまおう、な?」
 彼女の返答を待たず、和海はロッカーを一ヶ所ずつ探り出した。
「む……」
 後ろからうなり声のようなものが短く聞こえてきたが、和海は聞こえないふりをした。感情的になっている人間を理屈で納得させるのは難しい。ましてやこれ程かたくなに否定しているのだから、なおさらである。
(それにしても、何でほめたのに噛み付かれなけりゃいかんのだ?)
 彼の中にも不満はある、だがそこは黙って飲み込んだ。
 さてそれはさておき、本題の謎解きである。
 ざっと調べたところ鍵のかかっている扉が三つあった。そして開いている扉の中には特に何も入っていない。さらにロッカーの側面と裏側を調べたが、こちらも異常なし。
「となると上か」
 和海は背伸びして、ロッカーの上を右手で探った。汗で湿った手にホコリがべったりとくっついてきて、かなり気持ちが悪い。
「ん、何かあるぞ!」
 指先に触れるガムテープらしき物の感触、この上にだけホコリが積もっていないようだ。それをベリベリとはがすと、その内側にロッカーの鍵が仕込まれていた。
「ビンゴ、だな」
 それはまさしく現在使用されているロッカーの鍵だった。和海がさっそくその鍵で開錠しようとした所、それまで黙って見ていた結衣がストップをかけてきた。
「待って、開けた瞬間に何か起こるかも知れない」
 彼女の顔は、真剣だった。
「何かって、罠でも仕掛けてあるって言うのか」
「可能性は有る、あんな大金を無造作に扱う相手だもの、何を考えているか分からない」
 その言葉に、和海は顔色を変えた。言われてみれば確かにその通りだ、開けた瞬間に爆発したり毒ガスが噴き出してきたりといった、そういう危険な展開も考えられる。自分たちは不可解な異常事態に関わっているのだ、それを忘れてはならない。
 そう悟った瞬間、彼の全身を湿らせていた汗はあっと言う間に冷たいものへと変わった。
「よし、氷上は離れていろ、俺がそっと開けてみる」
 その提案に結衣が口を挟む、だが和海は譲らなかった。
「こういう肉体労働は俺に任せておけって、平気平気!」
 そう言って結衣を下がらせ、和海は扉の右側に身を寄せた。この位置なら中から何が飛び出してきたとしても、とりあえず直撃する事は無い。
「いくぞ」
 近くに人がいない事を確認してから、鍵を差し込み、回す。
 軽い金属音と共にロッカーの封印は解かれた。
「…………」
 とりあえず何事も起こらない、だが油断は禁物。
「よし……、いち、にの、さん!」
 扉が開く。
 ……幸いにして、扉の奥に危険はひそんでいなかった。
「ふーっ、緊張したぜえ」
 和海はうっすら笑顔を浮かべながら、それでも万一の可能性を考えて慎重にロッカーの奥をのぞきこんだ。そこには分厚くふくらんだ茶封筒と、三冊目のノートが入っている。
「よっしゃ、第二の謎クリアだぜ!」
 大喜びで手をふり、結衣を招き寄せる。そして二人肩を並べて茶封筒の中を確認した。
 そこには、札束が二つ。
「キ、キタアアアアアア!」
 和海は大興奮しながら結衣の手をとると、メチャクチャなステップを踏んで踊り出した。
「やった、やった、やったぞヤッホーイ!」
「や、やだ、ちょっと進籐君、人が見ているわ」
 浮かれてはしゃぎまわる和海に振り回されて、結衣は目を白黒させた。
「氷上、手をあげて、手!」
 そう言いながら和海は自分の顔の高さまで両手をあげた。勢いにのまれていた結衣は、言われるままその小さな手をあげる。
 次の瞬間、二人の両手がパチンと乾いた音を立てて打ち付けられた。
「イエェーイ!」
 満面の笑顔を浮かべてはしゃぎまわる和海。結衣はそんな和海と、わずかな痛みの残る両手を交互に見比べていた。まるで不思議な物でも見ているかのような表情で何度も見比べながら、彼女は再び顔を赤く染めて押し黙っていた。


     〠 第三の謎 〠


「……ここ、だよな」
 和海は深刻な表情で目の前の高級住宅を見上げていた。
 まだ真新しい雰囲気の白い洋風建築。
 ドアや窓などの作りはどことなく高級そうで。
 ウネウネとしたいかにもな飾りつけも、前衛的なのか伝統的なのかは知らないがとにかくリッチっぽくて。
 それらを囲う白い鉄柵なんかも、無闇に意匠が凝らしてあってランク高そうで。
 どれだけ安く見積もっても億を下る事は無いだろうと予想される立派なお宅の前に、和海は立っていた。御影石で出来たいかめしい表札に刻まれた苗字の名は『氷上』、……何となく、彼女が百万円の現金にうろたえなかった理由が分かったような気がする。
 それはさておき、間違いなく、絶対に、和海の目的地はここだった。
「やっぱこんな所に来なきゃよかったか……?」
 インターフォンを押す勇気がどうしても湧いてこなくて、無駄に門の前でウロウロする事はや十分。約束の時間はもう過ぎようとしている。
「クソ、何をビビっているのだ俺様は、もう約束の時間だぞ。さあ押せインターフォンを、ただ単にクラスメイトのお宅を訪問するだけではないか! 押せ、押せ!」
 ふるえる指先が、押しボタンに迫る。
(響以外の女子の家なんて、初めてだけど……)
 余計な考えが脳裏に浮かび上がった瞬間、和海は指先を引っ込めた。
「ああ困った、どうしてこんな事になってしまったのだ俺は!」
 人の家の門前で悶えながら、和海はこの家に来る事になった経緯を思い返す。
 きっかけは、和海のミスだった。

     〠 〠 〠

 第二の謎を解いた日から、すでに三日が経っていた。
 第一、第二とたった一日で解いておきながらそれ以降の進展はなく、ずるずるとカレンダーの日付ばかりが進んでいた、そんな冴えない朝。和海は制服姿で薪蓙北高校の校舎内を歩いていた。今日は高校の登校日だ、今日ばかりはさすがに生徒であふれ返っている。
「よう和海!」
「おーっす」
 すれ違う顔見知りたちと数週間ぶりに適当なあいさつを交わしつつも、和海の頭の中は第三の謎と結衣の事で一杯だった。
 第三の謎が書かれたノートには、例によって短い手紙が挟まっていた。

『おめでとうございます。
 第二の謎を解いたあなたに、賞金と第三の謎をさしあげます。
 謎解きもいよいよ佳境、奮ってご参加ください。
 期限は、この季節が終わるまで』

 ――この季節が終わるまで。
 一般的に考えて、この夏休みが終わるまでという意味だろう。まだ時間は数週間も残されている、だがあといくつ謎が残されているのか分からない以上、とても楽観は出来ない。そして何より、あれから三日も経つのに結衣からは何の連絡も無く、和海自身にも第三の謎が解けずにいる。かすかなあせりが、和海の胸を少しずつ焦がし始めていた。
「あいつは、もう来ているのかな」
 あいつとはもちろん結衣の事だ。
 そういえば和海は結衣の登校時間すら知らない、家も知らない、趣味も誕生日も知らない。
 馴れ馴れしく相棒呼ばわりしているくせにその程度の事も把握していないのは問題かもしれないなと、彼は思った。
 他の生徒たちが皆そうしているように、和海もまた結衣とは精神的に遠く距離を置き、必要最低限しか関わろうとしてこなかった。成績が良い、愛想が悪い、身体が細い、今までそれくらいしか彼女の事を知らなかったし、知ろうとも思わなかった。
「俺って今までずいぶんもったいない事をしていたんだなあ、気付いただけ他の連中よりはマシなのか?」
 三日前の晩に見た結衣の姿が脳裏に思い浮かぶ。可愛い、マジで可愛い。あのお嬢様然としたワンピース姿を想うと、先ほどのあせりとは違う意味で胸の奥がざわめいてくる。服装一つで女とはあれほど印象が変わってしまうものなのか。
「んふ、ふっふっふっふ」
 誰も知らないとっておきの秘密を、自分だけが知っている。それが無性に嬉しくて、和海は薄気味の悪い含み笑いを浮かべながら教室に向かうのだった。
「えーっと……」
 和海は自分の教室に到着すると、真っ先に結衣の姿を探した。
 まさか欠席という事は無いだろう。自然と顔を付き合わせる今日が貴重な情報交換の時だという事を、向こうも承知しているはずである。
 となると登校時間が和海よりも早いか遅いかという話だが……。
 居た、普段通り一人静かに自分の席についている。
「よっ」
 声をかけてみると、彼女はゆっくりと顔を上げた。
「……おはよう」
 相変わらず愛想の無いその態度。いや返事をするだけ以前よりましなのだろうか。
「ふむ」
 まじまじと自分を見つめてくる和海のその視線に、結衣は眉をひそめた。
「……何?」
「いやあ、こうして制服姿のお前を見ていると、あの晩の姿がまるで夢か幻のような……」
 瞬間、結衣が右手で机をひっぱたいた。
 バーンと大きな音がして、騒々しくにぎわっていた教室が一瞬にして静まり返る。教室内にいた全員が、一体何事かという表情でこちらを見ていた。
「その話はもうしないで!」
「わ、分かった、分かったから落ち着け」
 怒気をはらんだ鋭い視線から逃れるかのように、和海は両手をあげて背をのけぞらせた。
 どうやらあの時の発言をまだ気にしているらしい、本当にこの話はしない方が良さそうだ。
「じゃ、じゃあ本日もよいお日和で……」
「………………」
 和海はもみ手をしながらこの世で最も当たりさわりの無い話題、天気の話を始める。だが不発、結衣はふくれっ面でプイと横を向いてしまった。
(め、面倒臭ええええ、一体どないせえっちゅうんじゃこの女!)
 和海は心の中で悲鳴を上げた。
 彼はわりと社交的なタイプの人間だ。大抵の相手には話を合わせて良好なコミュニケーションを結ぶ事が出来る。だがしかし、彼女の気難しさは和海の能力をはるかに超越していた。
 彼女が何を考え、何を求めているのか、いまだによく分からない。しかも常に言葉足らずで突然次のような言葉を投げかけてくるのだ、さすがの和海も戸惑ってしまう。
「……それで、どうなの」
「へ?」
 横を向いたまま発せられた謎の言葉に、和海は気の抜けた声で返事をした。その間抜け声を聞いて結衣はさらに機嫌を悪くする。
「だから、そんな無意味な会話よりも優先されてしかるべき話題があるでしょう。どうしてあなたはいつもいつもそうやって無駄な軽口ばかり優先するのかしら……!」
「お、OK、本題に入ろう」
 無理せず彼女の言うことに従っておいたほうがいい。そう判断した和海は手近なイスを拝借すると、速やかに話題をシリアス方面に構築していった。
「色々試してみたんだがな、今ひとつこれといった答えは見つかっていない。と言うより疑わしい部分が多すぎて、正直どこをどういじくったら良いのかハッキリしないんだ」
 結衣は真面目にその言葉に耳を傾けていた。
「よくもまあ佳境とか書いてくれたもんだぜ、出来そうで出来ないっつーか、そんな感じだ」
「そう」
 素っ気無い相槌を打つ結衣に向かって、今度は和海がたずねた。
「そっちはどうだ、まあ連絡してこなかったって事は……」
 語尾を濁したその言葉を肯定するかのように、結衣は小さなため息をつく。
「確定的なことは何も、こちらも解読法方を特定できていないわ」
「了解、ちなみに今日はヒマか?」
 うなずく結衣。
「じゃあホームルームが終わったらまた図書室で、いいか?」
 もう一度結衣はうなずいた。
 とりあえずそこで朝の会話は終了。和海はじゃあ、と軽く手を振り自分の席に移動した。
 机の横にバッグを引っ掛け、何気なく外の景色を見つめる。そこには雲ひとつない青空が広がっていた。今日も暑い一日になりそうだ……などと一人つぶやいていると、後ろから声をかけられた。
「よう、和海っ」
 隣の席の男、高木冬馬(たかぎとうま)が頬杖をついて和海を見上げていた。
「おう高木、ちょっと雰囲気変わったな、お前」
 和海の細かいチェックに、高木は嬉しそうに笑った。彼の髪の毛の色が一学期の頃よりも明るい茶色になっていたのだ。まあこういう軽い変身も夏休みにありがちな展開かもしれない。
「そんな事よりもよぉ和海ぃー、お前にそんな趣味があったとは知らなかったぞぉ」
 妙に粘っこくて気持ちの悪い声色に、和海は顔をしかめた。
「何の話だ?」
「とぼけるんじゃねえよ、アレに決まっているだろーが!」
 高木は人差し指で結衣の背中を指差した。彼女は一人静かにノートを眺めている、おそらく『第三の謎』が書かれたノートを。
「マジで意外だぜ、お前はもっとレベル高い相手を選ぶと思っていたけどな」
「おい……」
 和海は眉をひそめて高木の早とちりを非難した。
「そんなんじゃねえよ、勘違いするなって」
「嘘つけ、ちゃんと聞いていたんだぞ、あの『氷結』といま約束していただろうが。あいつも机を叩いたりしてよ、さっそく喧嘩でもしていたのか? あんたなんかとこれ以上付き合っていたら成績が下がっちゃうー、なんつって」
 この出歯亀妄想野郎、和海は心の中で毒づいた。
「あのな……」
 ――俺たちは別に付き合っているわけではない。
 ――ろくに知りもしないくせにあいつを馬鹿にするな。
 二つの言葉が同時に脳裏をよぎる。
「…………」
 だが、なぜかうまく言葉に出来ず、口を開いたまま和海は黙ってしまった。
 微妙に食い違う二つの感情、それらを同時に言い表す言葉が浮かんでこない。二人の関係と、結衣をかばおうとする気持ち。両方を適切に表現する言葉が、分からない。
 俺たちは恋愛関係なんかじゃない。
 氷上結衣はお前らが思っているよりずっと魅力的な女だ。
 否定と肯定、駆け巡る二つの感情が胸の奥で擦れあって、和海の思考回路が乱れる。
 合理的に考えれば矛盾しないはずの二つの事実、なのになぜか和海の内面ではこの二つはぶつかりあい、反発しあう存在だった。
「あいつは、あいつは……俺の、仲間だ」
 何となく出てきたその言葉を、和海自身が納得していなかった。それなりに聞こえはいいが、どこか薄っぺらい嘘のような気がした。
「仲間? 何の?」
 高木は何の疑いも持っていない顔で疑問を口にする。
「ゲーム、の」
「ゲーム? オンラインゲームでも始めたのか?」
「いや、その」
 和海はまだ少し上の空だった。結衣との事で頭の中が混乱していたのだ。だから、彼はつまらないミスを犯してしまった。
「これなんだよ……」
 適当に誤魔化しておけばいいものを、馬鹿正直に『第三の謎』のコピーを高木に見せてしまったのである。そして不幸にもそれは、高木をはじめ周囲の人間たちの興味を惹いてしまったのだった。高木が暗号を見ながら騒いでいるうちに一人また一人とクラスメイトたちが集まって来て、ちょっとした謎解き大会のようになってしまったのである。
「ハァー? 暗号解読とかって、お前マジでこんな頭痛くなりそうな事してんのー?」
「なになに、『早く助けて下さい、私は此処で叫び続けています』へーっ、本格的じゃん!」
「お、おう、まあな……」
 和海の笑顔には苦いものが混じっていた。自分のうかつさを激しく後悔している、だがもうどうにもならなかった。
「うわー、マジで意味わかんねえ、おもしれーじゃん!」
「前の二つもあるんだろ進籐、見せてみ、見せてみ!」
 日頃は頭脳労働と無縁だったはずの能天気な男どもが、この暗号にはなぜか余計な情熱をたぎらせている。はっきり言って迷惑きわまりない。
 要するに彼らは時間とエネルギーを持て余していたのだ。だらけた夏休みにもだんだん飽きてきて、新しい刺激を欲していたのである。和海のした事は、飢えた猛獣の群れに向かって鮮血したたる肉塊を放り込んだようなものだった。今や猛獣たちは知恵という名の牙をむいて、謎という名の獲物に群がっている。肝心の和海たちの分まで食いつくしかねない勢いだ。
 和海は自分のうっかりが引き起こしてしまった事態に大いに焦りを覚えたが、でもどうしようもなかった。今さら止めろとも言えない、そんな事をしたら絶対に不審に思われる。
 こんな状況で万が一和海たちが持っている三百万円の存在が知れたら、この連中は何を言い出すか分からない。そしてこのクラスメイト達の中から正解にたどり着く者が現れる事もまた問題だ、大騒ぎになることは必至だし、今までに和海たちが得た金も追及されるだろう。
 謎を解かれては困る、だが止めることも出来ない、和海は途方にくれてしまった。
 そんなさなか、ふと視線を感じた和海は教室の正面に向かって振り返った。
 少し離れたそこにも一匹の猛獣がいた。眼鏡をかけた孤高の雌狼が。
 ――いったい何をやっているのあなたは!
 心の声が聞こえた、怒声である。
 雌狼の殺意のこもった視線に貫かれて、和海は泣きそうになった。
 
     〠 〠 〠

 担任教師のおざなりなホームルームはあっと言う間に終わり、夏の野獣たちは再び自由な世界に解き放たれた。
 過去の問題を含めた三問の謎解きを再開するクラスメイト達、それを尻目に和海たちはそそくさと教室から去り、約束どおり図書室で意見交換の場を設けた。
 だが場の状況は当初の目的とは大きく外れ、和海にとって非常に居心地の悪いものと化していた。結衣の冷ややかな視線を浴びて、和海はただひたすらに背中を丸めて小さくなっている。
「あなたはどうも配慮の足りない人のようね」
「そ、そうDEATH(です)ね……」
 なぜか脳裏にDEATH(死)という不吉な言葉が浮かんだ。きっと結衣がとても怖い顔をしているからだろう。決して怒鳴り散らしたりはしないが、結衣は静かに、そして正確に和海の心苦しい部分を攻撃し続けていた。
「あの男子たちが無自覚に関与し続けた場合の可能性を考えなかったのかしら」
「と、いいますと?」
「この『謎』の仕掛け人が悪意ある人物だった場合の危険性の事、あなたと私で散々話し合ったでしょう」
「で、DEATH(です)よね、はい……」
 なぜか和海は丁寧語で返事をしている。結衣の鋭い眼光がそうさせてしまうのだ。
「まったく」
 結衣は言葉を切り、苦虫を噛み潰したような顔になった。
「誰にも負けたくない、あんな人達にも、あなたにも、誰にも……」
 それは短く、だが強い意志を感じさせる言葉だった。
「俺にも?」
 そこで自分の事を言われるのが、和海は心外だった。どうして相棒の自分とまで張り合う必要があるというのか、そんなに自分は信用できない人間なのだろうか……。
 だが結衣はそれ以上自分の内面を語ろうとせず、現実的な方向に話題を変えた。
「それで、どうなの」
「はい?」
 例の言葉足らずな物言いに、和海はまた気の抜けた声を返した。
「あの人達は、謎を解けるだけの気力と能力を持っている人達なのかしら」
「あ、その辺は多分、大丈夫だと思うけど」
 とりあえずやる気だけはあるみたいだったが、頭の良い人間は混じっていなかったように思う。氷上結衣レベルの人間が三日かけても解けないような暗号を、あの連中に解けるとは思えない。そう説明した和海の言葉に、結衣は異を唱えた。
「そうとは限らない」
「何で」
「先に出された二問の解答法を考慮すると、あまり知識は要求されていない気がするの。むしろ挑戦者の閃きに期待しているような、そんな傾向を感じるわ」
「まあ確かに、両方とも複雑な計算とかは要らないものだったけどな」
 またこめ抜きの言葉。
 ひらがなの七列区切り。
 どちらも勘の鋭い人間ならば簡単に解けてしまう問題だろう。
「でも第三の謎もそうだとは限らないし……」
「…………」
 結衣は和海の言葉に沈黙で答えた。そうかもしれない、そうではないかもしれない。そんな事は言うまでもなく分かりきっている。
「状況は、非常に良くないわ」
 あなたのせいでね、彼女の冷たい視線はそう言っていた。
「で、でもきっと大丈夫だって、お前と俺が力を合わせて挑めばきっと、あいつ等なんかよりも早く解決できるって」
 と、その時、和海のそのセリフを待っていたかのようなタイミングで、図書室の扉が開かれた。そこには高木たちクラスメイト数人が一様に喜色を浮かべて立っているではないか、皆を代表する形で、高木が口を開いた。
「おー、探したぜ和海、……と氷上、やっぱり一緒なのか」
 その差別感情を含んだ露骨過ぎる態度に、和海の胸がまたざわめいた。だが肝心の結衣が極めて冷静な表情をしていたので、態度には出さずにおく。でもそれでも悔しくて、心の中でつぶやいた。
(氷上、お前はいつもこんな扱いを受けていて辛くないのか、腹が立たないのか? もしかして全く何も感じないくらいに強い女なのか? 何か言い返してやりたいとか、そういう事を思わないのか?)
 和海の心の問いかけは、もちろん結衣の心に届かない。それがひどくもどかしくて、さらにいら立ちが強まった。
 だが、クラスメイトたちが二人の座っている座席の前までやって来ると、そんな事を考えている余裕は無くなってしまった。
「解けたぜ、謎!」
 高木のその言葉に、和海は凍りついた。
「正門のポスト!」
 誰かが書き写していた紙切れに、その過程と答えが書き記されていた。
 続いて隣の奴が別の紙を見せてくる。
「二番目は薪蓙駅のロッカーだよな、俺たちってマジ天才じゃね?」
「三人寄らばもんじゃの知恵ってやつか?」
「モンジュだろーがボケ、ギャハハハ!」
 満面の笑顔で語りかけてくるクラスメイト達。きっと数日前のあの時には自分も同じ表情をしていたに違いない、だからその喜びのほどはとても理解できる。だが今の和海には彼らと喜びを分かち合い、その健闘を讃える余裕などありはしなかった。
「さ、三番目、は?」
 心臓がとんでもなく激しく暴れているのが自分でも良く分かる。首筋を伝う不快な汗を手の甲でぬぐいながら、和海は再度たずねた。
「どうなんだよ、なあ」
 真剣そのものの和海、それに対して高木は重々しくこう答えた。
「いまだ分からぬ、だからおぬし等に聞きに来たのだぁ、ふははははは!」
 がくりと肩の力が抜けて、和海は安堵のため息をついた。
「あれ、もしかしてマジで焦っちゃった?」
 口元をぬぐう仕草をしながら、和海は不敵な笑みを浮かべた。
「ふっ、なかなかいいパンチだったぜ、だが俺を倒すには至らなかったな……!」
 その軽口を聞いてクラスメイトたちは小さく笑う。
「で、そっちはどうよ、三番目は分かったか?」
「いや、まあ、ぼちぼち」
 何の中身も無い言葉を返す和海。実際問題、この図書室に来てから何も建設的な行動をとっていなかった。
「ふーん、どれどれ……」
 高木はテーブルの上をのぞき込んだ。結衣の真正面に『第三の謎』のノートが置かれていたからだ。彼はそのノート自体が犯人の残した重要な証拠品だとは知らず、ただその紙面に書かれた暗号文をのぞき込もうとする……。
 その時、彼の視線を弾き飛ばすかのような勢いで、ノートが乱暴に閉ざされた。それまでじっと様子をうかがっていた結衣が、あからさまな拒否の意味を込めてノートを閉じたのだ。
「な……」
 絶句する高木、表情を強張らせるクラスメイト達。それまで図書室にはふさわしくないほど騒々しくて楽しそうだった雰囲気が、一瞬で白けたものになった。そこに結衣が追い討ちをかける。
「私はあなた達の参加を歓迎していない、勝手に見ないで」
 その冷たい言い草に、男たちはむっと不機嫌になった。
「あっ、そう」
 面と向かって言われた高木は特に不愉快に思ったらしい。その顔には明らかに怒りの色が浮かんでいた。
「……行こうぜ」
 誰かが言ったその一言を合図に、全員が出口に向かって歩き出した。
「あっ、あの、みんな……」
 慌てて追いすがる和海、だが何を言えばフォローになるのか見当もつかず、ごくありきたりの言葉が自然と口からあふれ出た。
「高木、その、ごめんな。あいつも悪気があってのセリフじゃなくってさ、その……」
「うるせえ、奇麗事いってんじゃねえよ」
「DEATH(です)よね~ッ!」
 必死のギャグで誤魔化そうとするも、彼らはピクリとも笑ってくれない。
「負けねえから」
 自分のギャグセンスの無さに絶望する和海に向かって、硬い口調で高木が宣言してきた。
「そいつの思い通りなんかにさせねえから、全部俺たちで謎を解いてやるよ」
 燃える瞳でそう言い放ち、高木とその一行は図書室から出て行った。
「お、お、お、おまええぇぇぇぇぇ……」
 取り残された和海は涙目になって結衣に詰め寄った。
「焚きつけてどーすんだよ、あいつら滅茶苦茶やる気になっていたじゃないか!」
「…………」
 結衣は和海の視線を避けるように横を向いてしまう、だが和海はその態度を許さなかった。
「目をそらすな、返事をしろ、何考えてんだお前」
 わずかな間の後、彼女は和海を突き上げるようににらみながら、こう言った。
「私は余計な情報を与えまいとしただけよ、彼らがやる気を出したのはただの結果論でしょ」
 さすがの和海も、その無責任な言い草に腹を立てた。
「結果論じゃねえよ、あんな言い方をしたら反発するに決まっているだろ」
「男子の思考回路なんて私に分かるわけないでしょう」
「分かれよ、分かるだろ普通ッ!」
 思わず出してしまった大声。だがそれにひるむほど、結衣は大人しい性格をしていなかった。
「何よ、そもそもあなたが余計な事をしたんじゃない!」
「それはっ、けどこれでお前も同罪だよな、あいつらが本気になったのはお前のせいだよな!」
「……っ」
 さすがの結衣も言葉に詰まった。顔を赤くしたままうつむくと、そのまま黙りこんでしまう。
 その姿を見て、彼の頭に上っていた血は一気に引いていった。
(やべ、言い過ぎたか)
 和海は自分のやり過ぎを後悔した。でもそれでもさらに言わなければいけない事が残っていた。それはこんな時でもなければ伝えられないひと言。
「お前は、不器用すぎるんだよ。なんでそんなに人を突き放すような事ばかり言うんだ……」
 同じ内容の話であっても、相手が受ける印象などこちらの言い方次第で変わってしまうものだ。あんな敵対的な態度で扱われたら、誰だって不機嫌になってしまう、険悪な関係になってしまう。
 それが本当に分からないほど彼女は愚かではないはずだ。それなのになぜあんな風に他人を拒絶するような態度ばかりとってしまうのか、こんな調子ではいつまで経っても孤立する事しか出来ないではないか。
 そう言外に含ませた和海の言葉の数々に対して、彼女はうつむきながらぽつりとつぶやいた。
「そんな事、言われなくても、分かってる」
 彼女はひざの上で両手を握り締めていた。ひどく切なげな拳だった。
 その様子を見下ろしながら、かける言葉もなく和海は立ち尽くしてしまった。彼女のために何をしたら良いのか分からない、自分がどうしたいのかもよく分からない。立ち去る事は論外だろうけれども、声をかければいいのか、他の行動をとればいいのか、それともこうして黙って立っていればいいのか、それすら判断がつかない。
 そもそも、彼女の本心がまるで分からないのだ。一体何を求めているのか、思い描いているのか、彼女の気持ちがまるで見えない。もしかしたら彼女は独りの方が気楽でいいのだろうか。自分の存在も邪魔なだけなのだろうか。分からない、まるで分からない。
 暗い想いに、和海は囚われつつあった。
 彼も特に心の強い男ではない、地図もコンパスも無しで険しい山道を歩かされているかのような現状に、すっかり意気消沈していた。
 それからわずかな静寂の時が流れて、ようやく結衣は重い口を開いた。
「……どうして」
 その声色には怒りが、いや、とてつもなく強い憤懣が宿っていた。
「どうしてみんないつも私の事を下に見るのかしら。あんな計画性のかけらも無く、毎日毎日遊び歩いているような人達が……」
 彼女は心の奥深く潜ませていた感情を語っている、それを直感した和海はひと言も聞き逃すまいと、その小さなつぶやきに耳を澄ませた。
「負けたくないの、私があんないい加減な人達に劣るなんて絶対に言われたくないの。私は勝ち続けてみせる、怠惰なダメ人間の群れになんて混ざらない、あの人たちが私を邪魔者扱いするなら、私だってあんな連中は要らない……!」
 和海は目を見張った。たった今、大きな疑念が一つだけ晴れたのだ。
 深い谷底にまぶしい陽光が差したかのような鮮明さで、彼女の心の奥底が一瞬だけ見えた。
 彼女は確かに強い。周囲の人間たちから有形無形の悪意をぶつけられても屈しないだけの精神力を備えている。孤独の寒さに凍えないだけの強かさを持っている。
 でも、だからといって全く平気なわけではないのだ。だって孤独である事を本当に何とも思わない人間が、感情的になって要らないとか混ざらないとか主張するわけがないではないか。
 彼女は今までずっと苦しみに耐え続けていたのだ。周囲と馴染めない苦しみ、そして自分を理解してもらえない悲しみを、この憤懣という名の暴力的なエネルギーに変換して必死に自分を支えて生きてきたのだ。
 和海はこれまで結衣の外見の冷たさと内面の激しさに、ひどく振り回されてきた。気難しい奴だと思った、面倒臭い奴だとまで思った。
 でも、その正体はあきれるほど単純だった。
 一人の強くて不器用な少女が、人生の荒波に抗おうとする懸命な姿の表れに過ぎなかったのだ。そして今もなお彼女は周囲との摩擦に苦しみ、そして耐えている――。
「ひ、氷上、氷上!」
 和海はなにやら説明のつかない激情に後押しされて動き出した。その行動が理性的であったとは言い難い。ただそうしたい、そうしなくてはならないという衝動が彼を突き動かした。
 彼はなんと唐突に床に片膝をつき、そして両手で結衣の手を取った。そして、もしかして熱でもあるのではないかと疑りたくなるほど情熱的な瞳で結衣を見つめ、口を開く。
「俺は、俺だけはお前の味方だ」
 突拍子も無い言葉に、結衣の目は点になった。
「そうさ俺はお前の相棒なんだ、その意味がようやく分かった、今こそ本当の意味で理解した、俺は絶対にお前を裏切らない、改めて誓う!」
「ちょ、ちょっと進籐君」
 結衣が顔を赤くして和海の手を引きはがそうともがく、だが片手で男の両手を振り払えるわけもない。
「俺がお前の盾になる、場合によってはスピーカーにもなる、お前が苦手なことは俺が代わりにやってやる、お前が周りに伝えられない事を俺が代わりに伝えてやる!」
 なおももがく結衣。だが和海の心は己の情熱にすっかり酔っぱらっていて、彼女の様子を知覚する事すらできていない。
「だから勝とう、絶対に勝とう! あんな奴ら俺たちの敵じゃないさ、二人で力を合わせればどうって事ない、お前を敗者になんて、絶対にさせない!」
 まるで姫君に忠誠を誓う西洋の騎士のように、和海は真っ直ぐに結衣を見つめていた。
 その眼に宿るは情熱の炎、胸に抱くは不退転の決意。これで棘を切り落とした薔薇でも差し出したなら完璧だったろう. 
 結衣は真っ赤になって和海を見下ろしていた。
 顔どころか首筋まで染め、瞳はかすかに潤んでいる。
 彼女は小さく口を開き、ふるえる声でか細くこう言った。
「分かったから、手を離して……」
「へ?」
「周りが、見てる……」
 それを聞いて、和海はようやく我に帰った。そしてあたりを見渡し、彼女が顔を真っ赤にして慌てていた理由に気付く。
 本日は登校日だ、この機会にと図書室で貸し借りを行う利用者は多い。二人がいるのはその図書室内である。
 実に二十人ほどの人間が、和海たちの姿を見つめていた。
「で……」
 ある者は興味津々といった顔で堂々と。
 またある者は本棚の陰からコソコソと。
 ニヤニヤといやらしい薄笑いを浮かべた女教師もいる。
 みんなが、顔を赤くして大騒ぎする二人の事を見つめていた。
「DEATH(です)よね~ッ!?」
 叫ぶ和海を置き去りにして、結衣は図書室を飛び出した。
「あ、ちょっと待って、待ってくれ~!」
 和海は彼女のバッグや謎が書かれたノートを脇に抱え、慌ててその背中を追いかける。
 必死の形相で飛び出していった二人を見て、傍観者たちは無遠慮に爆笑していた。
「氷上、氷上、待ってくれ!」
 廊下を猛然と突き進む結衣、バッグを二つ抱えた不恰好な姿で大声を出しながら追いかける和海、はた目にはドタバタコントか何かに見える。
「悪かった、本当にすまなかった! もうあんな事しないから、本当にごめん!」
 二人はそのまま人ごみの中を突き進み、最奥の行き止まりまでノンストップで駆け抜けた。
 そこで結衣はようやく立ち止まる。彼女ははた目にも分かるほど呼吸を乱していた。
「氷上、あの俺、つい頭に血が上っちまって、その、お前が本当はいつも苦しんでいたんだって気付いたら、黙っていられなくって」
 和海はしどろもどろになりながらも、なお弁解を続けた。
「でも、さっき言った事は本当なんだ、本当に俺はその……」
「分かった! もう分かったから!」
 結衣は壁に顔を向けたまま声をかぶせてきた。
「本当に、分かったから……」
 和海が握っていたその右手で胸をおさえながら、結衣は息を切らせていた。

     〠 〠 〠

 互いの気分と呼吸が落ち着いてきた頃合を見計らって、和海は口を開いた。
「あのさ、これからどうするかなんだけど……」
 少々の間の後、結衣は苦々しくこう答えを返す。
「図書室に戻るのは嫌」
「ご、ごもっともで」
 ついさっきあんな醜態をさらしたばかりなのだ、再び入っていく度胸はない。
「教室に行くのも嫌」
「……だよなあ」
 教室ではきっと高木たちが残って頑張っている事だろう、いま顔を合わせるのは気まずい。
「相談する場所、かあ」
 改めて考えてみると案外都合のよい場所が思い浮かばなかった。天気は本日も晴天、炎天下で長時間の頭脳労働は遠慮したい。ファーストフード店にこもる手もあるが、和海は基本的に貧乏人だ、余計な出費はなるべく控えたい(例の三百万円があるが、気安く使える金ではない)。
「んー、困ったな?」
 和海が天井を見つめながらうなっていると、結衣の方から提案してきた。
「一ヶ所だけ、心当たりがある」
「本当か?」
 結衣はうなずいた。
「二人で相談するくらいのスペースは十分にあるわ。冷房は効いているし、お茶とお菓子も出る。パソコンもあるから、ちょっとした調べ物も出来る」
「すげえじゃん、どこだよそこ」
 そんなに条件のいい場所があるならなぜ今まで黙っていたのか。もっと早く教えてくれればいいのに。目を輝かせながらそう言う和海に向かって、結衣は思いもよらぬその場所を教えてくれた。
「……私の家」
 こうして和海は結衣のお宅へお邪魔する事になったのだった。

     〠 〠 〠

 行く事に決定したのがお昼時だったので、いったん食事休憩のために解散する事になり、訪問時間は午後一時と決まった。
 今まさに、時計の針はその午後一時をさしている。
「よ、よしッ、押すぞ、押すぞ、押すぞぉっ!」
 和海はついに覚悟を決めて氷上家のインターフォンを押した。
 ピンポーン♪
 ありふれた電子音が鳴る、和海はインターフォンのマイクに口を寄せながら祈った。
(家族が相手だったら嫌だなあ、どうか氷上が出てくれますように)
 どちらにせよ挨拶はするのだがそれはそれ、これはこれなのだ、相手がどんな人間なのか分からん状態で言葉を交わすというのは、中々に恐ろしい。まして相手はあの氷上結衣の家族なのだ、きっと厳格な一家に違いない。もし何か機嫌を損ねるような失態を演ずれば、即座に退場を言い渡されてしまうことだろう。
(慎重に、礼儀正しく、丁寧に、真面目に)
 心の中で、そう強く言い聞かせていた。
 和海は油断なくインターフォンの前で待ち続けている。
 五秒経過、まだ応答はない。
 十秒経過、まだまだ応答はない。
 二十秒経過……、まだ、何も反応は返ってこなかった。
「はて?」
 もしかして聞こえなかったのだろうか、そんな疑問を抱いたその時。
 玄関の扉がドガシャーン! と物騒な大音を立てた。
「な、何だ!?」
 予想外の事態にたじろぐ和海。
 見れば扉がわずかに開いている、その隙間から人影と銀色の鎖がのぞいていた。
「い、痛ったぁい……」
 隙間からもれてくる女のうめき声。どうやらドアチェーンの存在に気付かず、そのままドアを開けようとしたらしい。先ほどの大音は鎖に無茶な負担をかけた金属音と、人間がドアに激突した衝突音が混ざり合ったものだったようだ。
「キイィィィ、どうしてこんな邪魔くさいものをいちいちつけなきゃいけないのよ、バカ!」
 扉の向こう側で誰かがサルみたいな鳴き声を出して怒っている、甲高い少女の声だ。
 ガチャガチャガチャ! ガチャガチャガチャ!
 サル娘は鎖を外そうと必死にもがいていた、ドアを半開きにしたままで。
「おのれぇぇぇ! たかが金属片の分際でこのあたしに逆らうつもり? チェーンカッターで細切れにしてやろうか、ああん!?」
 無機物を脅迫する謎のサル、だが鋼鉄の番人は黙して語らず、ただ己の職務を全うするのみだ。……まあ要するに知能の足りないバカ女が一人でキーキー騒ぎ続けている、という事だ。 なおも奇声を上げて暴れている彼女に向かって、和海はおそるおそる話しかけた。
「あ、あの~もしもし?」
「ウキー! ムッキー!」
 だが扉の向こう側にいるサル娘にはまるで聞こえていないようだ、大声で奇声を上げながら鎖と格闘し続ける。だがドアチェーンという物はそもそも侵入者から家を守るために作られた物だからして、非常に頑丈なのである。よほど劣化しているならばともかく、女の力で引き千切れるような代物ではない。案の定彼女はやがて力尽きて、暴れるのを止めた。
「な、中々やるじゃないの、今日はこのぐらいで勘弁してやるわ……」
 荒く息を切らせながら、彼女は扉の向こうでしょうもない捨て台詞を吐いている。
「なあ、ちょっと」
「何よ、さっきからうるさいわねアンタ」
 食って掛かる彼女に向かって、和海はあきれ声で意見を述べた。
「ドアチェーンってさ、ドアを閉めた状態で動かすものじゃないのか。気を落ち着けて、いったん閉めてからやってみろよ」
「…………」
 サル娘は、無言で扉を閉める。そして数秒後、扉の向こうからカチャッと小さな開放の音がしたのを聞いて、和海はため息をついた。
(すぐに気づけよ、そのくらい)
 心の中で突っ込みを入れつつ、和海はドアが開かれるのを待つ。
「お待たせいたしましたっ、いらっしゃいませお嬢様!」
 そこに立っていたのは長い髪をツインテールにした女の子、年のころは中学生くらいか。あれだけ大暴れしていたくせに、白々しいほど満面の笑みを浮かべていた。
「どうもはじめまして、進籐です」
 頬を引きつらせながら和海は頭を下げた。先ほどの醜態は見なかったことにしよう、きっとその方がお互いのためだ。でも『お嬢様』とは何の間違いだろうか、ジョークにしてもあまり面白くない。そんな疑問を感じながら頭を上げると、目の前の少女は目を丸くして和海の事を凝視していた。
「あなたが、シンドウさん?」
「……はい」
「シンドウカズミさん? お兄さんが代理で来たとかじゃなくって?」
「は、はあ、俺が進籐和海ですけど、何か変かな」
「おっ」
「…………?」
「おっ、おっ、おっ、おかっ」
 少女はさらに目を大きく開くと、全身をふるわせながら一歩後ずさりした。
「おかっ、おかっ」
 さらに一歩下がりながら謎の奇声を発する少女。
「ど、どうした、陸(おか)の上では呼吸が出来ないのか、君はエラ呼吸なのか」
 和海が状況を無視したジョークを飛ばした次の瞬間。
 彼女は突然後ろに振り返り、そして悲鳴を上げながら猛然と走りだした。
「おかーさぁあぁぁぁん、おねーちゃんがウチに男連れ込んだ!」
 和海は、己の目と耳を疑った。

     〠 〠 〠

 氷上家は、何もかもが和海の暮らしとはかけ離れていた。
 広すぎて何部屋あるのか見当もつかない間取り。豪華な家具調度品の数々。座っているソファは今まで体験した事が無いほど座り心地が良くて、しかもプロレスラーが寝転がれるくらいに大きい。その豪華なリビングの中央で、和海は女二人にサンドイッチにされて顔を赤くしていた。
 結衣の母、舞衣と妹の芽衣。二人ともなぜか和海に密着するほど接近して座っている。
「そう、平和の海と書いてカズミさんとおっしゃるの、素敵な名前ね」
「は、はあ、恐縮です」
「へーっ、お姉ちゃんと同じクラスなんだ、お姉ちゃんトラブル起こしたりしてない?」
「いや、まあ、結構慣れっこだから……」
「あら優しいのね、やっぱり男の子は大らかでなくっちゃね」
「は、はあ」
「ふーん、カズミンやっさしいんだあ!」
「ど、どうかな、はは」
 広いリビングの真ん中で、和海はまさに『女責めの刑』に遭っていた。二人とも腕や太ももを遠慮なくベタベタ触ってくる。男がコレをやったら痴漢になるのに女は許される。世の中は理不尽だ。
「は、はは、いただきます」
 出された紅茶を一口すすってみた、でも緊張しすぎていて味がまったく分からない。
「あら、緊張しているの?」
「は、はい、ちょっと」
「もっと楽にして。自分の家だと思ってくれていいのよ」
「ど、どうも……」
 和海はちょっと顔を後ろにのけぞらせた。顔が近すぎる、首をのばしたらキスできる距離だ。
「うふふ」
 優雅に微笑む舞衣さん、大人の魅力あふれる結構な美人である。
(この人うちの母さんと同じくらいの歳のはずだよなあ、どうしてこんなに違うのだろう)
 最近特に痩せてきた自分の母と比べて、舞衣さんはいかにも艶やかでふっくらしている。これはやはり貧富の差か、あるいは主婦と勤め人の違いか。それとも和海が母に無理をさせすぎているせいなのか。
「あーっ、カズミンお母さんの事ばかり見てるー、熟女好みなの? 若いツバメなの? お外で働かないで全身マッサージしてお小遣いもらうの?」
 芽衣が背中をドンドン叩きながらそんな事を言うので、和海は顔を赤くした。
「ちょっ、とっ、どこでそんな言葉を習ったんだよ!」
「目の前にいるオバサンに習った」
「こら」
 氷上家のイケナイ教育方針はさておき、今の一言は聞き逃せない。和海は右手を握ると芽衣の頭をコツンと軽く叩いた。
「親に向かっておばさんとは何だ、それにこんな奇麗な人におばさんなんて、失礼じゃないか」
「あら、お上手ね」
 舞衣はさらに笑顔を明るくして、和海に密着してきた。
「そうねえ、和海くんカワイイ顔しているし、私が結衣から奪っちゃおうかなあ」
「い、いいっ!?」
「こんなおばさんは、やっぱり嫌い?」
 そう言いながら舞衣は和海の頬に右手を這わせてきた。
 その柔らかな温もりに、和海の胸が高鳴る。
「い、いや、そんな事は、舞衣さんは、とても奇麗です」
「ワーオ、カズミンたら結構その気じゃん!」
 なぜか芽衣が後ろから抱きついてきた……いや違う、これは羽交い絞めだ。
「なっ何?」
 和海は突然拘束されて顔色を変えた。赤くなったり蒼くなったり、非常に忙しい。
「ふっ、私は知っているのよ、男なんていざとなると平気で逃げ出すヒキョーな生き物だということをね!」
「なんだその悪意と偏見に満ちた怪情報は! しかも意味が違うだろそれ!」
「違わないもん、ジローは私から逃げたもん」
「誰だよジローって」
「私が餌付けしていた公園の野良猫」
「ネコと一緒にするんじゃねえ!」
「ジローったらね、私というものがありながら他の女とベタベタしていたのよ、もう最悪!」
「知らねえよそんなの!」
 背中にしがみついている小娘とよく分からない問答をしている姿を、舞衣は楽しそうに眺めていた。
「ほんと、見れば見るほど思い出すわ、昔のあの人にそっくり……」
 急にしんみりと語り出したので、和海と芽衣はそのまま動けなくなってしまった。
「あなたを見ていると主人を思い出すわ、二年前のあの日を……」
 舞衣の目に、光るものが浮かんでいた。
「あ、もしかして旦那さんは、その……」
「ええ」
 細い指先で涙をぬぐいながら、舞衣さんは悲しそうに言葉をつむいだ。
「二年前にワシントン支局に転勤になって、それっきり年に数回しか帰ってこないの!」
「生きてるんかい!」
 思わず突っ込む和海。
「寂しいのよ、すっっごく寂しいのよ専業主婦って! あなた達は学校に行けば大勢友達がいるじゃない、私は一年中ずーっと一人ぼっちなんだから!」
「むう……」
 言葉に詰まる、そんな事を言われてもどうしようもないのだが。
「だからね、たまにはちょっと悪い事もしてみたくなっちゃうじゃない?」
 そう言って、舞衣は再び和海に迫ってきた。
「え、ちょ、ちょっと!」
 しなやかな指先が和海の首筋をくすぐる。悪い指先はそのまま鎖骨を通り、そして胸のボタンを外し始める……。
「だーっ、ダメです、ダメーッ、実の娘の前で何するんですか!」
 拘束しているのはその娘なのだがそれはそれ、これはこれ。和海は身をくねらせながら抗議した。
「あら、やめて欲しい?」
「やめて欲しいの?」
 前後からのステレオサウンドに、うなずく和海。
「ならキリキリ白状しなさい、包み隠さず答えるまで許さないんだから」
「は、はあ? 何がですか?」
「まあとぼけちゃって」
「往生際が悪いとはこの事よ!」
 身動き取れない和海に向かって、前後から嵐のような質問攻めが開始された。
「結衣とどこまでいっているの?」
「いつから付き合っているの?」
「好きになったきっかけは?」
「キスはした?」
「まさかそれ以上までしちゃった!?」
 二人はどうやら、和海と結衣の関係を誤解しているらしい、まあこの歳で男を自宅に呼べばそうとられても仕方ないかもしれないが。
「ちょ、ちょっと待ってそれは誤解……」
『待てない!』
 大声がキレイにハモった、さすが親子。
「ありえないのよ、あのお姉ちゃんが男を家に呼ぶなんて、絶対にありえないのよ!」
「あの子がうちに友達を招くなんて生まれてはじめてなのよ。シンドウカズミさんていうからやっと女の子の友達ができたのね、良かったわーなんて思っていたらまあ! あの子ったらいつの間に大人の階段上ったのかしら、ねえいつ、いつからなの!」
「いや、だからあの」
 至近距離で大声を出す二人の剣幕に、和海はひたすらにうろたえるばかりだ。
「白状しろカズミン、隠すとためにならんぞ!」
「だっ、だからあ」
「ふーん、あくまでシラをきろうって言うのね、なら!」
「う、うひぃぃっ!?」
 二人はなおも弁解しようとする和海を、ソファの上に押し倒した。その際、阿吽の呼吸で舞衣は場所を移動し、和海の腕を拘束する。そして芽衣は、素早く和海の上に馬乗りになった。
「ちょ、ちょっと何を」
 年下の少女に乗られて、ちょっといけない妄想が脳裏をよぎる。
「決まっているでしょう」
 二人は、サディスティックな笑顔で和海の事を見下ろしていた。
「こうなったら古来より伝わる自白強要法、すなわち拷問よ!」
 妖しくうごめく四つの手が、和海の身体に迫る。
「ま、待て、待て、待て、ま――」
 こちょこちょこちょこちょ……。
「いひ、いひゃはははは、やめて、うひゃははは、やめてとめてやめてとめてぇ!」
 悶え苦しむ和海に対して、なおも容赦の無い責め苦は続けられる。
「あひゃひゃ、ヒイイヒイヒヒヒヒヤハア!」
「さあ、白状する気になったかしら」
「だから、なんも俺はしていなイイイひひひいいィ、やめろぉ、俺は無実だぁ!」
「なかなかいい根性しているわね、さすがお姉ちゃんの見込んだ男ってとこか」
「だって俺まだ何もしてねーもん!」
『本当に?』
「本当に!」
『えーッ、つまんなーい』
 つまらなそうにふくれる二人。ようやく納得してくれたかと安堵したのもつかの間。
「じゃあ次の質問ね」
 舞衣は新たなる責め苦を押し付けてきた。
「それじゃあ和海くんは、結衣の事をどう思っているの?」
 ――え。
 和海の時が止まった。
 女性二人にイタズラされている現実も吹き飛ぶくらいに、頭の中が白くなった。
「どうなの」
「え、と」
(どう、って)
「んー? どうしたカズミン?」
 芽衣が馬乗りの姿勢のまま小首を傾げている、その傾け方が結衣そっくりだった。
「俺は」
 分からない。
「その」
 自分の気持ちなのに、分からない。
「…………」
 和海には、返すべき答えが見つからない。
「な、何をしているのッ!」
 思考の迷宮をさまよう和海を現実に呼び戻したのは、結衣の叫び声だった。
「お母さんこれは一体どういう事!」
 ソファの上で押し倒されているクラスメイト、彼の上にまたがっている実の妹、それを見てはしゃいでいる母親、わけの分からない光景がそこにあった。
「ずいぶん騒々しいと思っていたら……!」
「結衣、ずいぶん遅かったわね、あまりお客様をお待たせするものではなくてよ」
「こんな状況でもっともらしい事を言わないで!」
 鬼の形相でわめきながら、結衣は和海の手を取って引っ張った。和海は無様に床に転がり落ちて、うめきながら立ち上がる。
「行きましょう」
「え、ど、どこに」
「私の部屋!」
 すごい力で引っ張る結衣に、和海は問答無用で引きずられていく。
「わお、お姉ちゃん積極的ぃ!」
 茶化す妹に向かって、結衣の凍てつく視線が放たれた。
「うっひゃーコワーイ」
 ツインテールの小悪魔は、怖がるどころか明らかに楽しんでいる。結衣はもう口をきくのも馬鹿馬鹿しいといった表情で、そのままリビングを飛び出した。
 ちなみに和海はその間一言も喋らず、手を引かれるまま人形のように結衣に付き従っていた。いざという時の行動力に乏しい、情けない男である。

     〠 〠 〠

 二階への階段を上りながら、和海はようやく口を開いた。
「なんかさ、にぎやかな家族だな、はは、ちょっと意外だった」
 結衣は後姿のまま無言。
「あー、でも実際来るの遅かったなお前。何をしていたんだ?」
 ちなみに階段を上っているという状況なので仕方ない事なのだが、目の前に結衣のお尻がある。スカートのすそからチラチラとのぞく白い太ももが目に毒だった。
 見まい、見まいと心に言い聞かせてみても、横や真上を向いて階段を上るわけにはいかない。視界の端にチラチラ映る彼女の下半身を無視する事は、事実上不可能だった。
(黙っておこう、ばれたらどんな目に遭わされるか想像もつかん。階段から蹴り落とされるくらいの事は十分に考えられる)
 規則正しいリズムで結衣の脚が階段を踏む、その度にスカートのすそがヒラヒラと上下する。 まことに結構な……もとい、紳士的態度を要求される光景だった。
「進籐君」
(紳士、紳士、アイアムアジェントルメン!)
「進籐君?」
(見てない見てない見てません、ちょっとだけ白い何かが見えたような気がしましたけど、それはきっとキノセイデース!)
「進籐君!」
「ホワァッツ!?」
 目の前に結衣の顔があった。目つきが再び鋭くなっている。
「何をそんなにぼんやりしているの」
「み、見てません、あなたは純白で私は潔白です!」
 かみ合わない会話に、結衣は首を傾げた。
「何の話なのか分からないけど」
「いやあの、何でもないです、ははは」
 いつの間にやら階段は上り終えていて、二人は同じ高さに立っていた。
「ところで、そっちの話は何だったかな?」
 笑って誤魔化そうとする和海の言葉に、結衣は姿勢を改め、そしてなんと頭を下げた。
「ごめんなさい、まさかあの二人があそこまで非常識だとは思わなくて」
「よ、よせよ、別に気にしてないって」
「本当はあなたが来るまでに準備を整えておくつもりだったのだけれど、掃除と着替えに手間取ってしまって……」
「そうだったのか」
 改めて和海は結衣の姿を見た。半袖のブラウスに薄い水色のスカート、シンプルだがよく似合っている。
 可愛いと言ったらまた怒るのだろう、和海はそう思ったのであえて違う事を言った。
「でもまあ、二人ともいい人達だよ。あんな事を言っているけどさ、お前の事が大好きだから心配しているだけなんだぜ、きっと」
「…………」
 結衣は、何かを訴えるかのような目で和海を見つめている。
「だからさ、あんまり怒らないでやれよ、な?」
「……そうね」
 うなずいているわりに、彼女はどこか不満そうだった。

     〠 〠 〠

「へえー」
 そこはほとんど飾り気の無い、実に彼女らしい雰囲気の部屋だった。
 広さは和海の部屋の二倍以上はあろうか。
 空調は暑すぎず寒すぎず、適温に保たれている。
 ほこりひとつ浮いていないピカピカの床。
 シミひとつ無いベージュ色の壁紙。
 分厚い本が整然と並べられた本棚。
 余計なものが何一つ乗せられていない木製の机。
 机の隣にはパソコンラックがあって、そこには古い型のデスクトップパソコンが。
 そして反対側の壁際には上品なデザインのシングルベッドが置かれている。当然のごとく布団やシーツにはしわひとつ無い。
 部屋の中央には小さめのガラステーブルがあって、その左右に座布団が二つ敷いてあった。
「そこに座って」
「あ、どうも」
 勧められるまま和海は座布団の上にあぐらをかいた。そのフカフカした座り心地のよさに思わずため息が出る、すると今度は心地よい芳香剤の匂いが微かに香ってきて、和海は実に良い気持ちになった。
「さすがって言うべきかな、いい部屋だな」
「そう?」
 返事こそ素っ気無いが、結衣もまんざらでも無さそうな柔らかい表情になっていた。部屋をほめられるのは素直に嬉しいらしい。
「ずいぶん時間を無駄にしてしまったわ、さっそく始めましょう」
 結衣は第三の謎が書かれたノートをテーブルの上に乗せた。
「ああ、そうだな」
 本来ならば和海も第三の謎のコピーを出すところだが、あいにくそれは高木たちに奪われてしまった。今はこのノートだけが頼りだ。
「高木たちは、どうしているだろうな」
「そんな事を考えたところで意味は無いでしょ」
 和海の不安を両断するかのような結衣の冷たい言葉、だがなぜか今回はその冷たさが心地よかった。もう慣れたから? いやそれだけではない、彼女の揺るぎない合理性がとても頼もしく思えたのだ。この相棒は絶対に勝負を諦めない頼れる奴だ、その事だけはためらいなく断言できる。和海が彼女の事をどう思っているのか、それは彼自身にもまだ良く分からない。でも彼女が最も優れた相棒である事に関しては、一点のくもりもなく確信していた。
「そうだな、俺たちは俺たちで全力を尽くそう」
 和海の言葉に結衣は少しだけ微笑んだ。
 そして二人は、ノートに書かれた暗号を覗き込む。

 第三の謎

 どうか早く助けて下さい、私は此処で叫び続けています。
 ここは暗くて湿っています。
 あるよる、わたしはとじこめられました。
 そしてどこかにつれていかれて、暗闇の底に投げ込まれ埋められてしまったのです。
 熱い太陽が恋しい。あの眩しい陽光に照らされて再び美しく輝ける日を待っています。
 私を助けてくれたならわたしは永遠にあなたのもの。

「……ふーむ」
 和海はため息ともうなり声ともつかない音を出しながら、指先で頬をかいた。
「いかにも意味ありげな文章だよな」
《此処》と書いてみたり《ここ》と書いてみたりと、実に不安定な漢字の使い方。
 簡単な漢字すら使っていないひらがなだけの部分。
 どことなく物騒な気配の文章。
 今までのシンプルな問題に比べて、第三の謎はいかにもダークな雰囲気を放っていた。
「一応思いつく限りのやり方は試してみたんだけどさ……」
 和海はこの数日間に試した方法を結衣に説明した。
 毎回行っては無駄に終わっていたアルファベット変換や並び替え、暗号解読における基本中の基本である横読みナナメ読み、果ては文字を入れ替えてみたり読み方を変えてみたりと、様々な方法を試してみたのだが結局分からずじまいだった事。
 結衣は和海の言葉をじっと聞いていたが、やがて立ち上がってこう言った。
「私も同じような事をしたけれど、無意味だったわ」
 そのまま彼女はパソコンの前まで行くとマウスを動かした。
 もう起動は済ませてあったようで、マウスの動きに反応して画面が切り替わった。
「うお!」
 ディスプレイ上に表示されていたのは、膨大な量の分析結果だった。
 全文をひらがなに直したもの、アルファベットに変換したもの。一文字ずつ画数や文字数を数えた表。どういう法則によって並べたのか分からないが、ロシア文字やハングル文字まである。そしてそれら全ての並び順をいちいち変えて確認していった表が多数。
「これ、全部お前が?」
 結衣は事もなげにうなずいた。
「画面上で文章のコピーをたくさん作ってから加工するの、そうすれば見た目ほど手間はかからないわ」
「いやいやいやいや、すげえぞコレ!」
 和海は素直に感心した。確かに手書きよりは楽かも知れないが、その量が尋常ではない。この膨大な文字の羅列がつまり彼女の情熱の表れなのだ。何となく思いついた事を紙に書き殴っていただけの和海は、少し恥ずかしくなった。
「……他にも、インターネットで暗号解読の方法を検索してみたのだけれど」
 慣れた手つきで別のウインドウを開くと、彼女は暗号に関連した様々なページを和海に見せてくれた。シーザー式暗号、ストリーム暗号、ROT13、武田信玄の暗号、踊る人形、ゲマトリアの秘法、エニグマ、ワンタイムパッド、公開鍵暗号、ロゼッタストーン……覚えのあるものから未知のものまで、数々の単語が和海の目に飛び込んでくる。
「うわー、こんなに沢山あるのか」
「今見せたページは全体のほんの一部、検索ツールには二百万件以上引っかかったわ」
「二百万!? まさかそれ全部見たのか!?」
 結衣は細い肩をすくめた。
「まさか、めぼしい所だけよ、それでもかなり参考になった」
「ふえー、便利なもんだな」
 パソコンを持っていない和海が同じだけの情報量を仕入れようとしたら、丸一日かそれ以上の時間を図書室で過ごさなくてはならないだろう。それを彼女はインターネットの力を借りる事で大幅に短縮する事が出来る、圧倒的な強みだ。
「このパソコンは父からお下がりでもらった骨董品レベルの中古だけれど、それでもこれ無しの生活なんて不便すぎて考えられない」
「へえ、そこまで重要なのか」
 結衣は大きくうなずいた。
「話を戻すわね、こうして調べた結果を参考にして色々試してみたけれど、それらしい結果は得られなかったの、どうも発想法が違っているみたい」
「発想法って?」
「第一・第二の謎の難易度は、難しい知識を必要としない程度のレベルでしかない。明らかに『解ける事』を前提に作られているの」
「はあ」
「だからこの第三の謎も一般知識の範囲内で解けるようになっているはず、きっとそれに私たちが気づいていないだけ」
「成る程ね」
 うなずきながら、和海は頭の片隅でちょっと違う事を考えていた。
(こいつさっきからずいぶん喋るよな、どういう心境の変化だ?)
 頭脳労働は自分の得意分野だからか、それとも自分の部屋だから気分が落ち着くのか。あるいは、和海と会話する事にようやく慣れてきてくれたのか。
「どう思う?」
 ほんの数日前は、こうして聞いてくる事もなかった。今日の彼女はやはりどこか違う。
「ご説ごもっとも、要は知力ではなく発想力で勝負って事だな?」
「ええ」
 ニッコリと結衣は笑った。
(か、か、可愛いじゃねえかチクショウ! どうなってんだ一体!?)
「よーし、張り切っていってみようか!」
 和海はのぼせ上がって有頂天になった。
 根は単純な男である。目の前に可愛い女の子がいる、自分に向かって笑っている、ただそれだけで彼のテンションは最高潮まで高まってしまうのだった。
 
     〠 〠 〠

 それから、小一時間ほど時は流れた。
「んー、もしかして言葉通りなのかなあ」
 和海は上半身を伸ばしながらつぶやいた。
「最後の『私を助けてくれたならわたしは永遠にあなたのもの』っていう文章は、お宝が隠されている場所を探り出せっていう風に解釈できるよな」
「……なら『わたしはとじこめられました』という部分は箱か何かに入っていると読めるわね」
 右手の人差し指でメガネのフレームを直しながら、結衣が返す。
「『暗闇の底に投げ込まれ埋められてしまったのです』って事は土の中か。この辺りで土がむき出しになっている場所っていうと……?」
「多すぎて特定できない。川原の土手、公園、畑も無数にあるわ」
「だよなー」
 二人は同時にため息をついた。
「わかんねえなー、どういう意味なんだろ」
 和海は謎の書かれたノートをペラペラとめくりながらつぶやき続ける。
「分からねえって言えばさ、このノートの使い方もそうだよな。何でこんな無駄の多い使い方をしているんだ?」
 例によって第三のノートもほぼ新品、中には第三の謎が書かれているだけだ。
 そして今回の謎は全体のページ数からするとかなり後ろ、裏表紙に近い場所に書かれていた。
「ひょっとしてこのページ数にも意味が隠されていたりして?」
 和海はいったんノートを閉じて、初めからページ数を数え始める。それを結衣が口で制した。
「七十ページ目よ、ちなみにノート自体は四十枚入り全八十ページ」
「……もうチェック済みですか」
「もちろん」
 結衣は三冊のノートを横一列に並べた。
 第一の謎は五十三ページ目に。
 第二の謎は六十九ページ目に。
 第三の謎は七十ページ目にそれぞれ書かれていたそうだ。
 そして第二の謎にのみ、表紙の右上に正体不明の斜線がチョンチョンと書かれている。当初はローマ数字の《?》かと思っていたのだが、第三の謎のノートには何も書かれていないのでどうも違っていたらしい。
「で、何の意味があるんだ?」
「不明、意味があるのかどうかさえ怪しいものね」
「そうか、まあいいや」
「ええ」
 二人ともあっさりしたものである。
 いま求められているのは執着心ではなくて柔軟さなのだ。思いつく限りの事を片っ端から試してみる、いわゆるトライ&エラーの精神こそ肝心であった。
「ちょっと失礼」
 結衣が立ち上がって部屋を出て行った。まあトイレだろうなと和海は当たりをつけて、特に追求はしない。
「ふーむ」
 独りになってしまったところで、ため息を一つ。
「やっぱり、負けたくないよな」
 パソコンの画面をちらりと見ながら和海はつぶやいた。
 結衣は黙々とこんなにも努力をしていた。これが報われないなんて、そんな事は納得できない。何としても高木たちよりも早く謎を解いて、さらに先のステージに進まなくては。
「んーと、ちょっとくらいなら、触ってもいいよな」
 何かヒントがあるかもしれないと考えて、和海は結衣のパソコンに繋がれたマウスを手に取った。細かい操作方法は分からないが、それでもホイールを回して画面をスクロールさせることくらいはできる。コロコロとマウスのホイールを回転させると、画面が上に向かって動き出した。そこには結衣の努力の結晶が事細かに記されている。
「やっぱりすげえな……」
 その圧倒的な量を前にして、和海は感動すら覚えた。
「こんなにすごいんだ、なんか役に立つ情報がきっと……」
「あーっ、エッチ!」
 入り口の方から大声が飛んできたので、和海は慌てて飛び退いた。
「乙女の秘密を勝手にのぞこうなんて天魔鬼畜の所業よ、欲望の渦に飲み込まれて堕落した快楽のみを愛する魔羅の手先になってしまうのよ、いけないわカズミン!」
 そこには一階にいるはずの芽衣が、手にお盆を持って立っていた。
「ど、どっから湧いて来るんだよその電波系なセリフは、俺はただ……」
「そなたの煩悩、焼き払って進ぜよう。ナウマクサンマンダバザラダン、センダマカロシャダソワタヤウン、タラタカンマン!」
「何言ってんだか分かんねーよ」
「もう、ノリ悪いな!」
 芽衣は不満そうに愚痴をこぼしながら部屋の中に入ってきた。お盆の上には麦茶が入ったグラスが二つと、素朴な外見のクッキーが載せられている、どうやら手作りのクッキーらしい。
「粗茶ですが」
「あ、どーぞお構いなく」
 お構いなくと言ったくせに、彼は次の瞬間には出された麦茶に口をつけていた。
「ねーカズミン」
「んー?」
「何でお姉ちゃんを襲わないの?」
 ブッ!
 予想だにしなかった角度からの奇襲攻撃に、和海は麦茶をふき出した。
「うっわー、リアクションベタ過ぎー、それちょっと減点だなぁ」
 そう言いながら、彼女は用意良く持ち込んでいた台布巾でテーブルの上を拭く。
「お前、げほっ、何考えてるんだよ!」
「そのために来たんでしょ?」
「ちげーよっ!」
 和海は大声で否定した。
「もっと高尚な理由でございます! どうも君の発想は偏っているようですね、テレビの見すぎじゃありませんか?」
「そんな事ありませーん、一日四十八時間くらいでーす」
「お前の一日は何時間あるんだよ」
「んーと八千七百六十時間くらい?」
「そりゃ一年分だろうが、お前の家は異次元空間か!」
 思わず突っ込みを入れた和海は、手の甲でとはいえ女の子の胸を触ってしまった事に気付いて内心あわてた。だが芽衣が平然と笑っているのを見てほっと安心する。
「ねー、本当にお姉ちゃんとキスしてないの?」
「してない」
「なんだあ、ふーん」
 ようやく納得したかと安堵する和海、だが次の言葉がその表情を一変させた。
「じゃあさ、他の人とキスした事はあるの?」
「……!」
 硬い表情で沈黙する和海。
「え、あるの、あるんだ!」
「いや、あるっつーか、その」
 和海は口ごもった。過去の切ない思い出が脳裏をよぎる。
「どんな人が相手なの、どんな感触、ホントに柑橘系の味とかするの?」
 遠慮のかけらもない芽衣の追及に、和海は辟易する。
「……感触とか味なんて、考えてる余裕無かったよ」
「へーっ!」
 好奇の視線にさらされているのが辛くて、和海は目をそらした。ちょうど視線の先に茶菓子の自家製クッキーがあったので、それを一つつまむ。
「ん、うまいなコレ」
 口の中に広がるバターの香りと素朴な甘み。少々形がゆがんでいるのはまあご愛嬌か。
「そうでしょうとも、当家自慢の逸品ですから」
「ほー」
 和海がすぐ二枚目に手を伸ばしたのを見て、芽衣はニヤリと意味深に笑う。その時入り口のドアが開かれて、結衣が戻ってきた。
「お待たせ、……ッ!」
 結衣はテーブルの上に乗っている物体を見つけるなり血相を変えた。
「な、な……」
「お帰り、お姉ちゃん」
「なんでそんな物を出すのよ!」
「なんでって、お母さんがこれしかないって言うんだもん」
「嘘よ、他にお菓子くらいいくらでもあったでしょう!」
 芽衣は小悪魔的な笑顔を浮かべた。
「お母さまいわく『和海くんにお出しするのにこれ以上ふさわしい食べ物は我が家にはなくってよ、オーホホホホ!』だそうでございますですよお姉さま」
「…………ッ!」
 怒り心頭の結衣、あまりに感情が高ぶりすぎて言葉も出てこないようだ。その様子を見て、和海は何となく理解する。
「これ、お前が作ったのか?」
 結衣の顔色が変わった。赤みが一瞬で引いて、まるでお化けにおびえる子供のような顔になっている。
「……ええ、まあ」
「美味いよ、お前って本当に何でも出来るのな」
「本当?」
「うん」
「本当に、おいしい?」
「うん!」
 結衣はその一言で、再び顔を赤くして黙ってしまった。
「おお、カズミンすっごーい、お姉ちゃんを手なずけてる」
「お黙り!」
 再び結衣の怒鳴り声を浴びて、芽衣は立ち上がった。
「にゃははは、お邪魔虫はそろそろ退散するねぇ、お二人ともごゆっくりー」
 軽やかなステップでドアの前まで進むと、彼女はその場でクルリと振り返る。
「あのねー、不幸の手紙なんて気にしないほうがいいよ、そんなの単なる迷信だから」
「へ?」
「じゃあね!」
 疑問符を口にする和海を無視して、芽衣は部屋を出て行った。一人で勝手に騒いで勝手に出て行ってしまった、なんともマイペースな少女である。
「なんだかな、まったく」
 そうこぼして、和海はもう一枚クッキーを口に運んだ。
「ごめんなさい、いつも言い聞かせてはいるのだけれど」
 和海は口の中のクッキーを麦茶で飲み下しながら、結衣に向かって手を左右に振った。
「お前のせいじゃないさ、気にすんなって」
 結衣はその言葉に表情を和らげ、再び自分の座布団の上に座った。
「それにしてもあいつ妙な事言っていたよな、どうしていきなり不幸の手紙なんて言葉が出てくるんだ?」
「これの事を誤解したのでしょう」
 結衣はテーブルの上に置かれた第三の謎を指さした。なるほどこの奇妙な文章は、一見おまじないか何かに思えなくもない。
「ああそうか、でもいまどき不幸の手紙なんて出す奴いるのかよ」
「さあ、数年前に送りつけられた事ならあるけれど」
「……あるんだ」
 ふと嫌な想像が浮かび上がってきて和海は顔をしかめた。その不幸の手紙が、彼女一人を対象としたいじめだったのではないかと想像したのだ。
「そのまま捨ててしまったけど、特に何も起こらなかったわ」
「そ、そりゃそうだよな」
 彼女が何も感じていないようだったので、和海は余計な事を言わずにおいた。
「手紙、手紙かあ、まあこの謎もある意味手紙と呼べなくもないよな、送り主不明だけどさ」
 結衣は和海の言葉に耳を傾けながら、静かに麦茶をすすっていた。
「裏側に相手の名前と住所書いていないかな、だったら楽なのにな、はは」
 その時、グラスを置こうとしていた結衣の手が止まった。
「……どうした?」
 その言葉には答えず、彼女は顔をこわばらせてノートを引き寄せた。そしてそのまま恐ろしいほど真剣な表情で第三の謎の文を見つめる。
 和海は何事なのかと声をかけようとしたが、あえてそれをやめた。
 彼女のこの態度に見覚えがあった、第一の謎を解いた時だ。あの日とまったく同じ表情、結衣の知性が最も強く輝く瞬間。和海に邪魔できるはずがない。
 そのまま一分ほどの時が流れ、そして彼女は立ち上がった。愛用のパソコンの前に座り素早くキーボードを叩く。
 後ろから画面をのぞき込むと、そこにはなぜか日本郵便グループ、つまり郵便局のホームページが表示されていた。
「ふふっ」
 結衣が口元をおさえて笑い出した。
「こんな、こんな単純な事だったなんて」
 彼女は何がそんなにおかしいのか、全身をふるわせて笑いだした。
「どういう事だ、答えが分かったのか」
 口元をゆるませたまま、結衣は挑戦的な上目づかいで和海を見上げてくる。
「まだ分からない? ならこの勝負は私の勝ちよ?」
 和海は軽く不快感をあらわにして、パソコンの画面をにらんだ。
 そこには日本全国の郵便番号を示すページが開かれている。和海は画面を真剣に見つめて悩んだ、だが分からない。
「……分からねえ、どういうことだ」
 和海は素直に降参した。その敗北宣言を聞いて結衣の笑顔がいっそう大きくなる。まるで薔薇のつぼみが開花したような華やかさだ。でも和海の心は悔しさでくもっているため、せっかくの笑顔もあまり喜ばしいとは思えない。
「これはね、住所だったのよ」
 結衣は得意顔で謎解きの説明を始めた。

第三の謎

 どうか早く助けて下さい、私は此処で叫び続けています。
 ここは暗くて湿っています。
 あるよる、わたしはとじこめられました。
 そしてどこかにつれていかれて、暗闇の底に投げ込まれ埋められてしまったのです。
 熱い太陽が恋しい。あの眩しい陽光に照らされて再び美しく輝ける日を待っています。
 私を助けてくれたならわたしは永遠にあなたのもの。

「これが……住所?」
「そう」
 と言われても和海にはその意味がまだ分からない。楽しそうに自分を見つめる結衣の視線が心底悔しかった。
「答えは漢字の数。漢字の数がそのまま住所になっているの」
 結衣はパソコンのウインドウを切り替えた。加工された暗号の並ぶ画面に戻り、結衣はマウスを動かして画面をスクロールさせる。
 動かすのを止めたそこには、句読点ごとに漢字の数を数えた表だった。
「一応チェックはしていたのよ、でも今までどう使ったらよいのかが分からなかった」
 
 3 どうか早く助けて下さい
 5 私は此処で叫び続けています
 2 ここは暗くて湿っています
 0 あるよる
 0 わたしはとじこめられました
 0 そしてどこかにつれていかれて
 6 暗闇の底に投げ込まれ埋められてしまったのです
 4 熱い太陽が恋しい
 9 あの眩しい陽光に照らされて再び美しく輝ける日を待っています
 4 私を助けてくれたならわたしは永遠にあなたのもの

 352‐0006 4‐9‐4

「さあこれを見て」
 結衣はマウスカーソルを動かして再び画面を切り替える、今度は郵便局のホームページだ。彼女はカーソルを動かして画面上をなぞった。そこには郵便番号《352‐0006》に該当する地名が示されている。その地名とはS県薪蓙市薪蓙、二人が住んでいるこの市内だ。
「なんてこった、第二の謎の逆か!」
 第二の謎は数字をひらがなに変換する問題だった。今度は日本語を数字に変換する問題だったのだ。
 悔しがる和海の顔を満足するまで見つめていた結衣は、やがて立ち上がった。
「この場所に行きましょう、ここからなら歩いても三十分くらいでつくわ」
「おう、善は急げだな」
 二人は部屋を飛び出した。
「あら、二人でお出かけ?」
「はいっ、お邪魔しました!」
 勢いよくあいさつして和海はいち早く外へ出る。そして自転車の鍵を外し、門の外側へと向きを変えた。
「氷上、お前自転車は?」
 ちょうど玄関から出てきた結衣は、ちょっとばつが悪そうに目をそらした。
「……持っていないわ」
 これだけ裕福な家で『持っていない』という事はつまり『乗れない』という事なのだろう。
「よし、じゃあお前後ろに乗れ!」
 和海は路上まで愛用の自転車を運ぶと、そう言って荷台を叩いた。
「ええっ!?」 
 その言葉を聞いてひどく大げさに驚く結衣。
「早く、もたもたしている時間は無いんだから!」
 結衣はもじもじと両手をもてあそんでいる。
「で、でも、どうやって」
「えっと、スカートだからな……、横座りで適当につかまれ、ほら早く!」
 いらだつ和海に急かされる形で、結衣は自転車の荷台に横座りで乗る。
 そして彼女は、言われた通りにつかまった。
 両腕で、和海の上半身に。
「ちょっ……!?」
 それに驚いたのは和海の方だ。
「行って、早く」
「いや、あ、あのな」
「家族に見られたくない、早く!」
 結衣の腕の力が強くなった、二人の身体がさらに強く密着する。
「うわ、うわあああもういいやっ、出発!」
 煩悩と羞恥心で和海の頭は爆発した。そしてその爆発エネルギーのすべてがペダルに注入されて、二人を乗せた自転車は高速で走り出す。
(違う、違うんだ氷上!)
 和海は自転車をこぎながら、心の中で叫んだ。
(俺は『荷台やフレームに』適当につかまれって言ったんだ、俺に抱きつけとは言ってない!)
 だったら今から訂正すればいいだけの話だが、和海はそれをしなかった。訂正したあとで起こるトラブルを想像すると恐ろしいやら面倒臭いやら、どう転んでもろくな事になりそうもない。そして背中にピッタリと密着している結衣の柔らかさが気持ちよくって、ちょっと離れ難くなってしまったのである。
(痩せているからもっとゴツゴツしているかと思っていたけど……)
 夏服の薄い布地ごしに伝わってくる感触はとても柔らかい。同じ痩せ型でも男ならこんな感触にはならないはずだ。
(これが女の子なんだなあ)
 目的地に向かってペダルをこぎながら、和海は思う。
(なんか俺たち、本当に付き合っているみたいだ)
 自転車で二人乗り、しかも女が男の背中に抱きついている、客観的には間違いなく恋人同士に見えるだろう。
(でも違うんだよ、な)
 そんな事を思うと、和海はちょっと寂しい気分になった。ドキドキして嬉しいはずなのに、なぜか胸の奥が苦しい。
「自転車って、こんなに速いものだったのね」
 背中から声が響いてきた。彼女の肺の振動までがこちらの背に伝わってくる。
「便利ね」
「……うん」
(お前はどんな顔をしてそれを言っているんだ。どんな気持ちでそれを言っているんだ)
 その声色からはどんな感情も感じられなかった。ただ自転車という乗り物を良い意味で評価しただけ。男の背中に抱きついているというのに、それについてはノーコメント。いったい彼女は今どういう気持ちでいるのだろうか、和海はものすごく知りたくなった。
「なあ氷上」
「なに?」
 氷上、と呼んでおいて、次の言葉が出てこなかった。
 ――お前は俺の事をどう思っているんだ。
 ――単なる一時的な協力者でしかないのか、それとも……。
 突然そんな事を言い出すのはひどく格好悪い態度のように思えて、口にするのがためらわれる。そして何より、彼女の本音を聞く事が急に怖くなってしまった。
「いや、何でもない」
「…………?」
 背中に伝わってくる感触で、彼女が首を傾げたのが分かる。
(ダメだな俺って。こんなに弱い人間だったっけ)
 和海は勝手に自己完結してうなだれてしまった。
 それでも二人を乗せた自転車は市内を走り続ける。交通量の多い危険な道は避け、目的地に向かって細い私道をジグザグに走っていくのだった。

     〠 〠 〠

 目的の場所は、ボロボロに朽ちた木造の二階建てアパートだった。
「本当にここなのか?」
 結衣はすぐ側の電柱に付けられた番地を確認、そして大きくうなずいた。
「ええ、間違いないわ」
 二人は並んでそのアパートの全容を見上げた。
 建てられてからいったい何年経つのだろうか。建物全体を囲むブロック塀はところどころ砕けていて、建物自体の古い印象をさらに強調している、鉄柵の塗装は剥げ落ちてボロボロ、周囲には雑草が生い茂り、窓枠や柱の陰には蜘蛛が巣を張っている。その他いたるところにホコリがこびりついていて、人が住むような所にはとても見えなかった。
「あ、おい」
 結衣が先に歩き出してしまったので、和海はあわてて追いかけた。こんな不気味な建物を前にしても、彼女は怖さや気色悪さを感じないのだろうか。相変わらずたいした強靭さである。
「危ないぞ、蛇や野良犬が住み着いているかも……」
 その声を聞いた結衣は、背を向けたままこう答えた。
「そういう時は、盾になって守ってくれるのでしょう?」
「えっ」
 思いがけないその言葉を聞いて、和海は返答に詰まった。
「違うの?」
「い、いや守るよ、俺が、必ず!」
 その言葉を聞いて結衣が微笑む、彼女は再び奥に向かって歩き出した。その後ろ姿を、和海は信じられないといった表情で見つめていた。
 確かに和海は自分が盾になると宣言し、結衣はそれに対して分かったと答えた。でも彼女は気難しい一匹狼だったわけで、そんなにあっさり自分を信用してくれる事は無いだろうと内心では思っていたのだ。
 でもそうじゃなかった。彼女は自分の事を信じ、頼りにしてくれていたのだ。
「……あはっ」
 和海は湧き上がる喜びを抑えきれなくなって笑った。そして先ほどあんなに気落ちしていたのが嘘のような元気さで、結衣の背中を追いかける。
 結衣の存在は、和海にとってまるで燃料のようだ。不足すればみるみる意気消沈するし、与えられればたちまち元気になる。
「おい、盾が後ろにいたんじゃ意味ないだろ、交代交代! 俺が前衛でお前が後衛な!」
 そう言ってなかば強引に入れ替わる、結衣はただ微笑んでいた。
「さて、じゃあどうしますか」
「まずは郵便受けを確認したいわ、第一、第二と似たような場所に保管してあったでしょう。もっとも部屋番号の指定は無かったけれど」
 成る程と和海は了解して、すぐそばにある階段脇の集合ポストに向かった。いたるところが腐食して赤錆が浮いている。試しに一番手近な郵便受けを開いてみると、ギイーと不快な金属音がした。
「んー、やっぱり誰も住んでいないみたいだな」
 どの郵便受けにも名札がない。
 そして中にはポスティングのアルバイトが放り込んだのであろう大量のチラシが突っ込まれていた。チラシの種類と順番がまったく同じだったので、誰も中身をいじくっていないという事が分かる。
 やはりこのアパートは無人なのだ。ちなみに第四の謎や賞金が隠されているという事も無かった。
「どうする、二階に上がってみるか」
「……もう少し、あたりを探してみましょう」
 そう言うと結衣は周辺をキョロキョロと探り出した。放っておくと彼女は一人でどんどん突き進んでしまうので、和海は黙って彼女の横にくっついて行く。
 そうやってアパートの敷地内を歩き続け裏に回った時だった。結衣と和海はほぼ同時にそれを見つけ、そして「うっ」と喉を詰まらせた。
「もしかして、あれ……なのか?」
「さあ」
「でも、それっぽいと言えば、なあ」
「ええ、あれならば第三の謎の文章にも符合する」
 緊張した面持ちで言葉を交わす二人。その視線の先に、明らかに異質のものが存在していた。
「マジかよ……」
 それはまだ真新しい小さな墓だった。土を盛り上げ、その上にホームセンターあたりで売っていそうな板切れをさしただけの簡素な墓。
 その粗末な墓標――板切れには、こう書かれていた。

《ミステリーの墓》と。

「まさかあれを掘り返せってのか」
「……間違いだったら、大変な事になるわね」
 和海の身体を流れる汗が、いつの間にか冷たいものに変わっていた。きっと結衣も同じだっただろう。
 ミステリー、推理小説マニアならペットにそういう名前をつける事も有り得る。最悪の場合、彼らは犬や猫、あるいは小鳥の腐乱死体を掘り返す事になる。
 だが明らかに怪しい事も確かなのだ、人気のない場所のさらに奥、ほとんど人目につく事の無い場所に作られた真新しい墓。宝探しゲームにはピッタリの演出ではないか。
 だがしかし、それでも――。
「よし、お前は下がっていてくれ」
 和海は意を決して歩み出した。
「待って、私も……」
「いや、こういうのは俺の役割さ」
 和海は軽く笑って彼女の申し出を断った。
 誰だって墓荒らしなんてしたくはない、当たり前の事だ。ましてや骸もまだ冷えていないような真新しい墓なんて最悪だ。連日の真夏日和である、これが本当にペットの墓だとしたら、眠っている遺体はかなり腐敗が進んでいる。その光景は凄まじいものだろう。
 だからこそ、結衣に関わらせるわけにはいかなかった。
 結衣の白い手が、先ほど自分に抱きついていたあの手が死体で穢されるなんて、そんな事は断じて認められない。たとえ自分の身体を汚す事になっても、結衣を汚すのは嫌だった。
 和海はまず簡素な墓標を抜き取った。幸い土はまだ固まっておらず、持ち上げたら簡単に引き抜く事が出来た。
「……さて」
 和海は深呼吸をして、そして素手で盛り土を掘り返し始めた。
 むせ返りそうな土の臭い、手にまとわりついてくる湿った感触。それらがまるで死体の養分を吸った結果のように感じられて、和海は吐き気がこみ上げてきた。だがそれでも彼は手を動かすのを止めない。ここで自分がやめたら間違いなく結衣が行動に出るだろう、それだけは嫌なのだ。
 墓標の板をスコップ代わりにしようかとも考えたが、やめておいた。もしこれが本当にミステリーと名付けられたペットの墓だとしたら、自分はミステリーちゃんとその飼い主を二重に冒涜する事になってしまう。同じく罪を背負うにしても、二重に犯すことはない。手が汚れる事と魂が穢れる事を比べれば、手を汚す方が何倍もましだ。心身の苦痛に耐えながら、和海は作業を続けた。
 そうして三十センチ程度穴を掘り進めて行くと、指先に土や小石とは違った手触りを感じた。
 腐肉? 骨? それとも棺桶? 和海の背筋に戦慄が走る。
 だがそのいずれでもなさそうだった。なでるとガサガサ音をたてる、白っぽい物体。
 さらに土をどけるとその正体が明らかになった、それは半透明のゴミ袋だった。そしてその中にはずっしりと重い固形物が入っている。
「こいつは……」
 和海の目に希望の光が宿った。愛しいペットのなきがらをゴミ袋になど入れるわけがない、という事は、つまり。
「ビンゴぉ!」
 和海が叫んだ。不安と緊張から解放された喜びに天を仰ぐ。
 土中から引きずり出されたゴミ袋は、ガムテープで厳重に入り口をふさがれていた。これはきっと雨が降ってきた場合を考慮した防水対策に違いない。
 そして肝心の中身は、有名ブランドのロゴがついた大きなバッグだった。和海はゴミ袋を破って慎重にバッグを取り出す。一応臭いを確かめてみるが、感じられるのは土の臭いばかりで腐敗臭などみじんも無い、やはりこれが第三の謎の正解だったのだ。
「まだ離れていろ、念のためな」
 万が一の可能性を考えて、和海は駆け寄ってくる結衣を手で制した。そしてバッグのファスナーをゆっくりと動かしていく。
「開けた瞬間にドカーンなんてのは、やめてくれ……よっ!」
 本能的に顔をそむけながら、バッグの中身を開く。
 ……中に入っていたのは、大小さまざまな形をした無数の箱だった。試しに一つ開けてみると、中身は何と金のネックレス。もう一つ開けてみると、それには多くの宝石がちりばめられた指輪が収められていた。バッグの中には同じような箱がまだまだ沢山入っている。それはまるで金銀財宝を詰めた宝箱だった。
「すげえ、これ全部そうなのか、見ろよ、すごいぞ!」
 和海はようやく結衣を招き寄せて、手にした財宝を箱ごと手渡した。
「す、すごいわ」
 さすがの結衣も声を上ずらせている。女性の方がその価値を理解できるのだろう、箱を持つその手が小刻みにふるえていた。
「おっ」
 しゃがんだままバッグの中を物色していた和海が声を上げた。
「あったぜ、お約束の物が」
 取り出したそれは一冊のノート。第四の謎が書かれたノートだった。
 和海はわずかに胸を高鳴らせながらノートを開く。そこにはやはり短い手紙の書かれたメモ紙がはさまれていた。

『おめでとうございます。
 第三の謎までお解きになるとは、想像すると悔しいやら嬉しいやら、複雑な心境でございます。
 さて次の、第四の謎が最後の謎になります。
 この謎を解き、私を見つけ出すことが出来たらあなたの勝ちです。
 私が一体何者で、そしてどこに居るのか、見事当ててみせてください。
 期限は、この季節が終わるまで』

 そして、その紙をどけるとそこには最後の謎が。

第四の謎
 与えられし三角の魔法円に入りて万能なるアスタリスクを刻め、その地に最後の秘宝が眠る。
 四つの鍵が重なりし時、汝は全ての真実を知るであろう。

「ほう、ついにクライマックスか、面白れえ」
 不敵に笑う和海。
「見せて」
 結衣は和海の正面にしゃがんでノートとメモを受け取った。
「最後……、いよいよ犯人探しなのね」
 結衣は真剣なまなざしでメモに書かれた文章を見つめている。
「ああ、やってやろうぜ、俺たちの力ならすぐに――」
 だが和海の声が急に止まったので、結衣は顔を上げた。
「どうしたの」
「い、いや」
 和海はなぜか横を向いていた。彼のおかしな態度に首を傾げる結衣。
 その時、ちらりと和海の視線が動いた。向けられた視線の角度を感じ取って、結衣は絶句する。その視線は、しゃがみ込んでいる結衣の下半身に向けられていた。
「…………ッ!」
 声にならない悲鳴をあげながら、結衣はスカートの裾を押さえて立ち上がった。
「あ、いや」
 動揺して意味も無く手を振る和海、その顔を見て、結衣はさらに顔色を変えた。
「純白……、潔白……?」
 その顔は、怒りに燃えていた。
『み、見てません、あなたは純白で私は潔白です!』
 つい先ほどの、あの失言の意味に気付かれてしまったのだ。
「ちょっと待ってくれ、あれもこれも不可抗力……」
「イヤッ!」
 弁解するために立ち上がろうとする和海を、結衣は両手で突き飛ばした。ひっくり返る和海、不幸とは重なるもので、転んだそこには掘り返した穴が。
「うわ、わ、わあああっ!」
 和海はみずから掘った墓穴に、頭から突っ込んだ。


    * 第四の謎 *


「おかえりなさーい、わあカズミンも一緒だー」
 氷上家に戻ってきた二人を玄関で迎えたのは、再び芽衣だった。
「あれ?」
「おや?」
 和海と芽衣はお互いの姿を見て、同時に疑問符をもらした。
『何(何だ)、その格好?』
 和海は墓穴に突っ込んだせいでドロだらけだった。もちろんついたドロは手で払ったが、それで完璧にきれいになるはずもない。全身、特に背中側はひどい有様だった。
 そして芽衣だが、彼女は服装が変わっていたのだ。
 彼女は今、ピンク色の浴衣姿だった。
「えへへへ、可愛いでしょー」
 芽衣はそう言って左右のそでをつかみ、クルリと一回転。赤・黄・薄桃色の花々が、まるでメリーゴーランドのように玄関内で回る。
「うん意外に似合っているぞ」
「もう、意外は余計!」
 芽衣は頬をふくらませて和海の胸を叩いた。
 笑う和海、ふくれる芽衣。結衣は、まだ不機嫌そうだった。
「あらー、和海くんどうしたの、畑で土いじりでもした?」
 廊下の奥から舞衣が出てきた。彼女も藍色地に紫陽花をあしらった華やかな浴衣を着ている。
「いやまあ、似たような事を少々」
 ちらりと結衣の方を見ると、彼女と目が合った。だが彼女はすぐに目をそらしてしまう。和海は思わずため息をついた。
「あらあら、ちょっとこっちにいらっしゃいよ」
 舞衣は廊下の奥を指して和海を招いている。
「いえ、俺はもう帰りますよ、彼女を送ってきただけなんで……」
「そうはいかなくてよ」
 帰ろうとする和海は、腕をつかまれた。
「お客様をドロだらけでお返ししたとあっては当家の名折れです。シャワーでも浴びていきなさいよ」
「ええっ、でも」
「いいから、いいから」
 強引に手を引かれて、うやむやのうちに和海はバスルームに案内されてしまった。
「うわあ……」
 やっぱりというか何というか、氷上家のバスルームは、市営団地の風呂場とは一線を画す豪華設備が揃っていた。
 広い空間、大きな湯船、タイルは水はけの良い新素材が使われている。
 極めつけは空調だ、浴室・脱衣室の両方に暖房機がつけられている。風呂場にわざわざ空調設備をつけるなど、和海にとって考えた事もない発想だった。
「い、いいや、深く考えるのはもうよそう」
 和海はともかくシャワーを浴びてしまう事にした。深く考えたら精神に多大なダメージを負ってしまいそうな予感がする、こういう事はたぶん気にしたら負けだ。この家の住人は、住む世界が違うのだ、比べてはいけない、考えてはいけない。
 服を脱衣かごに脱ぎ捨て、裸になってバスルームに入る。シャワーのスイッチを入れると、シャワーから飛び出す水がわずか数秒でお湯に変わった。待ち時間が和海の家の給湯器より十倍も早い、性能差は明らかだ。というかなぜスイッチなのだ、ハンドルではダメなのか?
「和海くーん」
 脱衣所から舞衣の声。
「この服、汚れがひどいから洗濯しちゃうわね」
「えっ、いやお構いなく!」
「いいから、着替えは置いておくからね」
 そう言って舞衣は和海の服を持っていってしまった。素っ裸で飛び出すわけにもいかず、和海は言いなりになるしかない。
「いい人ではあるんだがなあ」
 顔をしかめながら和海はそうつぶやいた。美人で明るくて親切、だがあの強引さはどうにかならないものか。
「まあ、人の性格をあーだこーだ言ってみても仕方ないよな」
 ともかく和海は、豪華すぎて落ち着かないバスルームで汗と汚れを流すのだった。

     * * *

 シャワーを浴び終え用意された服に着替えた和海は、TVの音が聞こえてくるリビングへと足を運んだ。思ったとおり、そこでは舞衣&芽衣の母子が並んでテレビを見ている。
「おーカズミン決まってるう」
「ど、ども」
 何となく礼を言いながら、和海は先ほどの芽衣と同じポーズをとった。すなわち左右のそでをつかんで、目の前の二人に広げて見せている。
「あの、なんで俺まで浴衣なんですか?」
 和海に用意された着替えとは、うっすらと灰色がかった、落ち着いたデザインの浴衣だった。
「あらいやだ、主人の浴衣、サイズがピッタリじゃない」
 舞衣が和海のそでやすそを引っ張りながらつぶやく。
「まだ成長期なのにねえ、最近の子は本当に大きくなるのね」
「いやだから、なぜ浴衣なんです?」
 マイペースな舞衣さんに向かって、和海は言葉を重ねる。
「まだ分かんない? もしかしてマジで知らないの?」
 話を聞かない母の代わりに、娘の方が疑問に答えてくれた。
「今日は花火大会の日でしょ」
 あっ、と和海は口を大きく開いた。
「そういえばもうそんな時期だったっけ」
 隣の市で行われる年に一度の花火大会。そういえば帰る道すがら、それっぽい服装の人達と何度もすれ違っていたような気もする。和海は結衣から伝わってくるピリピリした空気に戦々恐々としていたので、そんな事はまるで気にしていられなかったのだった。
「あれそういえば、ひ……結衣さん、は?」
 結衣さんという呼び方に違和感を覚えながら、和海は彼女の姿を探した。リビングに彼女の姿は無い、もしかしてまだパンツ見た事を怒っているのだろうか……?
「さあ、あの子ったら何やっているのかしらね」
 舞衣は結衣の様子をうかがいに、リビングを出て行った。
「ねえカズミンも洗濯物が乾くまではどうせ帰れないんだし、一緒に行くでしょ?」
「んー、まあ予定は特に無いしな。一応親に連絡してみるか」
 そう言って和海は、携帯電話を使って自分の家に電話をかけた。
『ええいいわよ、でも遅くならないうちに帰ってきなさいね』
 母の返事は、あっさりOK。
「うん分かっているよ、お土産かって帰るからね、それじゃ」
 携帯電話を切ると、和海は芽衣に向かってVサインを送った。
「やったあ!」
 両手を挙げてソファの上で飛び跳ねている芽衣の姿に、思わず和海の顔がほころんだ。
「何かさ、お前と一緒にいると、俺にも妹とかいたらなーって気がしてくるよ」
「ほほう?」
「お前みたいな妹がいたら毎日退屈しなさそうだ」
 和海の率直な言葉に、なぜか芽衣は真顔になった。
「ふむ、口説き文句としては五十点ってところかな」
「はあ?」
 その言い草に和海はあきれた。
「あのな、俺は別にそういう意味で言ったんじゃなくてだな」
「分かってる、分かってる」
 芽衣は片手をひらひらと振りながら話を続ける。
「カズミンはさ、素直で飾らない良い人だよね」
「そ、そうかな」
 良い人だと言われて悪い気はしない。が、次の言葉がその気分を打ち壊した。
「でも、それだけなんだよね」
「……何だと?」
 芽衣は両ひじをひざの上に乗せて、さらに両手の上に自分のあごをのせた。そのまま上目づかいで和海の事を見つめてくる。こしゃくにも可愛いポーズだ、ピンク色の浴衣がその可愛らしさをより一層引き立てている。
「ただストレートなだけじゃ、女の子は満足できないんだよ。女の子は夢を食べて生きているんだから」
 その言葉が結衣に関する事なのだと、さすがの和海も感じ取った。
「……夢?」
「そう」
 真顔で見つめてくる芽衣の表情が、驚くくらい大人びたものになっている。女の方が男よりも精神年齢が高いという俗説があるが、本当にそうかもしれないと思ってしまいそうなほど、芽衣の態度は様変わりしていた。
「お姉ちゃんはあんな感じの超奥手人間だから、今はカズミンと一緒にいられるだけで楽しいみたいだけれど」
「…………」
「きっとそのうち苦しくなってきちゃうよ、子供みたいに無邪気なだけじゃ嫌なの、もっと先に進みたくなるの」
「先、に……?」
 うん、とうなずくと、芽衣はソファに座ったまま背伸びをした。
「『私の気持ちを察して行動して』って考えるのは女の悪いクセだって言うけど、それでも分かって欲しいって思うのが女の子なのよね」
「ふうん……」
 ため息混じりにつぶやく和海。なにやら奥の深い言葉を聞かされたように思う。真面目にうなずく和海を見て、芽衣は笑い出した。
「ってな事を、テレビの人生相談で言っていました!」
「な、何ィ?」
 思わず和海はずっこけそうになった。
「受け売りかよ!」
「うん、でも何となく参考になったっしょー?」
 無邪気なその笑顔は、今度は年齢以下の幼いものに見える。どうもこの小娘のキャラクターがつかめない、いったいどういうイキモノなのだろう?
「どうせお姉ちゃんの事だからトンチンカンな事ばっかりしているんでしょ。キスしたことも無い男を自分の部屋に呼ぶなんてさ、きっとなーんにも考えないんだろうね」
 その言葉は、微妙にねじ曲がった形で和海の胸に刺さった。
「……そうだな、特に何も、考えていないんだろうな」
「およ? 何気にブロークンハート? 甘酸っぱい季節なの?」
「うるせえ」
 いら立ちを抑えきれずに、和海は語気を荒くした。
「ふーん」
 ふてくされている和海の態度を眺めて、芽衣がささやいた。
「いかにも青い果実って感じですなぁ。でも他の人とキスした事あるんだよね、恋愛経験あるって事だよね? なのにカズミンってばどうしてそんなに初心(うぶ)なのよ?」
「……フン」
 和海はイライラを隠そうともせず、洗髪したばかりの頭をかきむしった。
 芽衣は和海の事を二重三重に勘違いしている。それがとてもわずらわしく、そして説明する事さえもいまいましく思えた。だから彼は黙ってしまう。
 不快な沈黙がリビングを支配したその時、ドアが開かれた。
「ほら早く、和海くんに見てもらいなさいよ」
 浴衣姿の舞衣が戻ってきた。廊下側に向かって腕を伸ばしているところを見ると、そこに結衣が立っていて、そして手を引かれているのだろう。ドアが邪魔をしていて、結衣の姿はまだ見えない。
「で、でも……」
 ドアの陰から、弱々しい結衣の声が聞こえてくる。
「ごめんねー、この子ったらすっかり恥ずかしがっちゃって」
 その言葉に和海は苦笑した。
「ああ、分かりますよその気持ち、実は俺もちょっと恥ずかしいんです」
 これは本当の事だった。着慣れない服装で人前に出るのは、少し気恥ずかしい。
「だからさ、気にする事なんてないぞ、お互い様じゃん」
 ドアの陰に隠れている結衣に向かって、和海はできるだけ優しく語りかけた。
「……笑わない?」
 探りを入れるかのような結衣の声。
「笑わないよ」
「……馬鹿にしない?」
「そんなわけないだろ、まさかキャラクター物の浴衣でも着ているのか?」
「そうじゃないけど」
「だったら入って来いよ、大丈夫だって、俺を信じろ」
「…………うん」
 わずかな間の後で、ドアがゆっくりと、本当にゆっくりと開かれていく。結衣は薄暗い廊下の真ん中で、手をもじもじさせながら立っていた。彼女は顔をうつむかせて、上目がちに和海の事を見つめてくる。
「…………」
 和海はとっさに言葉が出てこなかった。
 あの白い花が、第二の謎の夜に見たあの白い花が、また和海の前に咲いていたのだ。
 白地に大きな水色の牡丹があしらわれた涼しげな浴衣、それが結衣の華奢な体を包んでいる。 薄暗い廊下の中央で、その白さはまるで輝いているかのようだった。
 もしかすると月下美人とはこのような女性に例えられた花なのだろうか。冗談でも皮肉でもなく本気でそう思ってしまうくらいに、今の彼女は奇麗だった。
「…………」
 言葉もない、和海はすっかり見惚れていた。
「和海くん」
 ボーっと立ち尽くしている和海に向かって、舞衣がそっと耳打ちする。
「あのね、心の中で思っているだけじゃ、女の子には伝わらないのよ?」
「あ、え、えっと、すごく……奇麗です……」
 言った和海も言われた結衣も、そろって顔を真っ赤にした。
「さてお披露目も終わった事だし、そろそろ行きましょうか」
「えっ、どこに?」
 気が動転していた和海は本気で聞いてしまった。それを聞いた舞衣と芽衣が同時にぷっと吹き出す。
「お・ま・つ・り。それともこのまま結衣の鑑賞会を続けたい?」
「い、いえ、行きます、行きましょう!」
 無闇に大声を出して騒ぐ和海の態度に、二人はもう一度吹き出すのだった。

    * * *

 ここの花火大会は、かつて米軍キャンプがあった跡地という一風変わった場所で行われる。 広大な敷地内はすでに数え切れないほどの人々であふれかえっていた。老若男女、様々な人達が、夜空に輝く大輪の花々を見上げて瞳を輝かせ、響き渡る重低音に胸を躍らせている。
「おお~今年も大盛況でございますな~」
 和海たちの先頭を歩いていたピンク色の小動物が、妙な言葉使いで興奮している。
「おかーさんおかーさん、かき氷買って! イチゴ味のかき氷を食べなきゃお祭りとは言えんのであります!」
「はいはい」
 芽衣に手を引かれて、舞衣は一緒に人ごみの中に入って行った。手をつないで歩く後ろ姿だけを見ると、ごく一般的な仲良し母子に見えなくもない。知らぬが仏というものであろう。
 二人が人ごみにまぎれて見えなくなったので、和海は結衣に視線を移した。
 彼女は夜空を染める花火をまぶしそうに見上げている。色鮮やかな閃光が彼女の顔や浴衣を照らして、その姿が七色に染まっているかのようだ。
「不思議ね」 
 まばゆい夜空を眺めながら、彼女は口を開いた。
「毎年来ているお祭りなのに、今年は何だか別世界みたい」
「そうか」
「……あなたと、一緒だからかな」
 ドキッとする一言だった。いきなりそんな事を言われて、和海はあからさまに動揺する。
「そっ、それは一体どういう……?」
「だから、その」
 彼女が口ごもっていると、真横から男の大声が飛んできた。
「ゲッ、和海!」
 その下品な声が飛んできた方を向くと、そこには見慣れた男たちのグループが並んで立っているではないか。
「あっ高木、お前たちも来ていたのか」
 それは午前中に図書室で仲違いしたクラスメイトたちだった。彼らもこの花火大会に来ていたのだ。彼らは一様に着古した普段着姿だ、着飾っている和海たちに比べて、その外見はひどくみすぼらしい。
 彼らの中から、チッと舌打ちの音が聞こえてきた。
「何だあ、女連れかよ、愛しの結衣ちゃんはどうしたんだよ、ええ?」
「そうだよ、あの氷結メガネはどこへやった、もう乗り換えたのかよお前」
 お前、と言いながら高木は和海の隣に立っていた女の子の顔をのぞきこんで……。
 そして、彼はそのまま固まってしまった。
「ひ、氷結……?」
 ぼう然とつぶやく高木。その異様な空気は、あっという間に彼ら全員に広まった。
 彼らはようやく気がついたのだ。和海の隣に立っていた可憐な月下美人こそ、彼らが日々口汚くののしっていた氷結メガネ・氷上結衣その人なのだということに。
「嘘ぉ……?」
 誰かが上ずった声でこぼしたその一言をどう解釈したのか、彼女はあわてて和海の陰に身を隠してしまった。
「お、おい、どうした?」
「盾!」
「は?」
「盾になってくれるんでしょ!」
 彼女の声は真剣だった。男たちの視線を本気で恥ずかしがっているらしい。
 ――そういう意味で盾になるって言ったんじゃないんだがな。
 和海がそれを口にする前に、二人の様子をうかがっていた男どもが食って掛かってきた。
「ど、どういうことだオイ」
「なんでそいつがそんな、そんな……なあ!」
「何があった、何をした、まさかナニしたのか貴様!」
「い、いやあ、ナニがナニやら、まあ落ち着けお前ら……」
 とぼけた事を言う和海に向かって、愛に飢えた憐れな男たちが襲い掛かった。
「なんでだ、なんでお前ばっかりいい思いしやがるんだ!」
「チクショー、うまい事やりやがってこいつ!」
 揉みくちゃにされる和海、借り物の浴衣がピンチだ。
「どわっ! やめろお前ら服が破れる、待て待て待て……!」
「やめて!」
 結衣の叫び声が、その見苦しい集団暴行を止めた。
「暴力はやめて! あなたたちには関係ないでしょう!」
 やっかみ半分、悪ふざけ半分の男たちに向かって本気で叫ぶ結衣。その剣幕に彼らはため息をつき、それ以上の行為をやめた。
「あ~あ、何だかなあもう、マジでフラグ確定かよ」
「おい進籐、月のある晩だけだと思うなよ、そのうち天誅が下るからな」
「『やめてー』か、俺もそんな事言われてみてぇなぁ」
「いるだろお前には、二次元の世界にさ、ケケケケ」
 和海の肩や背中を軽く叩きつつ、彼らは二人から離れて歩き出す。そのちょっとつまらなそうな姿に、和海はかえって悪い事をしたような気分になってしまった。
「なあ和海」
 去り際に高木が振り返って話しかけてきた、けっこう真剣な表情だ。
「お前ら、もう第三の謎は解けたのか」
 和海は肩をすくめて、親指で後ろの結衣を指さした。
「こいつが解いたよ、俺はほとんど見ていただけだ」
 高木は深いため息をついた。
「俺たちは完全に引き立て役かよ、嫌んなっちまうぜ」
 彼はそう言い残すと、片手をあげて去っていった。
「私、また余計な事をしてしまったかしら」
 不安そうにつぶやく結衣に、和海は微笑んだ。
「いや、今のはまあOKだろ、ありがとうな」
 その笑顔を見て、結衣はほっと胸をなでおろしていた。

  * * *

「しっかし、あの二人はどこまで行ったんだ」
 人ごみの中で、和海と結衣は立ち尽くしていた。かき氷を買いに行ったきり、いつまで待っていても舞衣&芽衣のハイテンション母子コンビが帰ってこないのである。
「さあ、あの二人は調子に乗ると何をしでかすか分からないから……」
「あ、それなんか分かる気がする」
 二人は顔を見合わせて、そしてクスリと笑った。
「俺たちも別行動をとろうか、このままじっとしているのももったいないし」
「そうね、いざとなれば携帯に連絡が来るでしょう」
 和海と結衣は、あの二人が戻ってくるのを諦めて歩き出した。とりあえず屋台村でリンゴ飴を買って、食べ歩きながら言葉を交わす。提灯と屋台の明かりが照らす砂利道を、仲良く並んで歩く二人。いつの間にか二人きりのデートのようになっている。
 だが当然というか残念というか、結衣の口から出てくる言葉は謎解きに関する話題ばかりだった。
「それにしても、あの人たちよりも早く見つけられて良かったわ」
「ああ、まったくだな」
「一時はどうなる事かと思ったわよ、あなたのせいでね」
「いいっ、まだそれを言う?」
「ふふっ」
 和海はリンゴ飴のはじっこをかじり取った。甘酸っぱい味と香りが口の中に広がる。
「それにしても、こんな事するのは一体何者なんだろうなあ」
 二人の話題は、この謎解きの首謀者についての推理に移っていた。今まで二人で、あるいは一人の時にも色々思案をめぐらせてきたが、結局なにも分からないままである。
「とりあえず分かる事は結構な財産の持ち主であるという事、まず未成年ではありえないでしょうね。そして私たちの通う学校に関係している人物である可能性が高い」
 和海は深くうなずいた。
「でもそれは第一の謎の時から分かっていた事だよな、それ以外は結局何も分かっていない」
「そう、ね」
 結衣はちょっとうなだれた。首謀者が何者で、そして何のためにこんな事をしているのか。この一件の中核であるその部分が、今もって謎に包まれている。
 第一の謎を解いた当初は何らかの事件がらみかと心配していたのだが、どうもそういう気配もない。というのもテレビや新聞などで話題になる事もないし、特別危険な罠が仕掛けられていたわけでもなかったからだ。
「愉快犯なのかなあ、そういう事件がたまにあるだろ」
 竹やぶに大金の詰まったトランクが捨てられていた事件、区役所のトイレに札束とメッセージが放置されていた事件、独居老人の家のポストに札束が投函されていたという事件もあった。
 事実としてそういう珍妙な事件がこの国では過去数回起こっているのだ、まるで現代のねずみ小僧でも気取っているかのように。
「確かにそう考えると自然なようだけれど」
 結衣はいったん言葉を切り、メガネのフレームを指で直した。
「だとしてもずいぶん豪勢な悪ふざけよね、理解に苦しむわ」
「まあな、こんなに無駄づかいして生活とかどうするんだろ」
 現金で三百万、総額いくらになるのか予想もつかない多量の貴金属類。
 首謀者がどれほどの金持ちなのかは知らないが、これほどの大散財が痛手にならないなどという事が有り得るのだろうか。
「まあその辺りの事も、最後の謎を解けば分かるのでしょう」
「……だな」
 結局二人の話はそこにたどり着く。第四の謎を解けば相手が何者なのか分かるらしい、すべてはそれで明らかになるのだ。
「おっ、ちょっと待ってくれ」
 和海の声がトーンを変えた。
 何事かと結衣が首をひねっていると、和海はたこ焼きの屋台に入って二パック注文した。
「二つも食べるの?」
「一個はお土産、うちの母さんはあまりこういう場所に来ないからさ、たまにこういう物を買っていくと喜ぶんだ」
 そう言いつつも和海は、片方のパックを開いて一個目のたこ焼きに串を刺した。
「そうなの」
 何となくうなずいている結衣。ところがそんな結衣に向かって、和海は予想外の行動を始めた。たこ焼きの刺さった串を、結衣の口元ににゅっと突き出したのだ。
「はい、あーん」
 和海は結衣に食べさせようと言うのだ、結衣は面白いくらい激しくうろたえ始めた。
「どうした、ほら口を開けて、あーん」
「で、でも」
 後ずさりする結衣、だが結衣が下がったぶん和海が前に出るので意味がない。
「リンゴ飴が、あるし」
「進籐君が買ったものだし」
「ひ、人が、見ているし……」
 どうにか言い逃れようとする結衣。だが和海はニコニコ笑顔を作ったまま、決してたこ焼きの刺さった串を下げようとしなかった。
「あ……う……」
 結衣はついに観念して、おずおずとその小さな口を開いた。口の中にほどよく温かい球体が詰め込まれる、結衣は口を動かしながら目を白黒させていた。
「美味しい?」
 結衣はしばらく口を動かして、そしてゴクンと飲み込んだ。
「あ、味なんて分かりっこないわ……」
「あれ、そう? じゃあもう一個」
「いい、もういい! あなたが全部食べて!」
 ゆでダコみたいに真っ赤になっている結衣の顔があんまりおかしくて、和海は笑い出す。笑われた結衣はふくれっ面で横を向いてしまった。
「わはは、うん、美味いじゃんコレ……」
 口をモゴモゴ動かしながら喋り続ける和海、その背中を突然誰かが乱暴に叩いた。
「かーずーみーッ!」
 ドスン!
「ふんがっくっく!?」
 噛みかけのたこ焼きをノドにつまらせて、悶え苦しむ和海。
「おいおい大丈夫かい、よく噛んで食べないと身体に悪いぞ?」
 背中を叩いた張本人は、今度はむせる和海の背中をさすり出した。もしかして優しさのつもりなのだろうか。
「て、めえ……」
 和海は胸を押さえながら、背後に立っている女をにらみつけた。
「やあ、今晩は。そんな珍しい格好をして、君もデートかい?」
 背中までたらしたロングポニーテール、気取ったポーズで立っている長身の女。
 和海の幼馴染、長峰響子だった。
「……珍しく今日は女装じゃねえか、どういう風の吹き回しだ?」
 今夜の響は藍色の地に向日葵をあしらった派手な浴衣を着ていた。なぜかは知らないが明らかに女物を着ている。
「うちのママンがやたらに勧めてくるんでね、つい着てしまったんだ。いやー参ったよ、私の浴衣姿を見て両親共に泣き出してしまってさあ、まったく美しいっていうのは罪作りな事だね、アッハッハッハ!」
「……笑う所じゃねえぞ、それ」
 奇麗な浴衣を着たら少しは女らしさに目覚めてくれるのではないか、そんな響の両親の切実な親心を感じて、和海は顔を引きつらせた。
 本当に不思議な事なのだが、この変態百合趣味男装女の両親はごく一般的な普通の人たちなのである。常日頃から娘の奇行を悲しみ、和海に対しても「私たちはどこで育て方を間違えたのかな」などと言って嘆いているのだが……。
「何を言っているのさ、一人娘が立派に成長した姿を見て嬉し涙を流しているんだぞ、大いに喜ぶべき事じゃあないか!」
 そう言って大笑いを続ける響を見て、和海は頭を抱える。
(おじさん、おばさん、こいつ全然分かっていないっす……)
 そんな彼のため息は、彼女の笑い声によってかき消されてしまった。
「やあ氷上さんだよね、最近和海のそばにいる女の子って君の事だったのか」
 辛気臭い和海の態度など、響は一切気にしない。彼女の興味は結衣の方に移っていた。瞬間移動にも等しい速度で結衣に迫り、ジロジロと彼女の全身を見つめる。
「は、はあ」
 好奇の視線にさらされてたじろぐ結衣。再び和海を盾にしようにも、響は結衣と和海の間に入ってしまったのでそれが出来ない。
「見違えたよ、学校で見かける君とは別人みたいだ、素敵な浴衣だね」
「ど、どうも」
 響の笑顔に妙な好色さが見え隠れしているような気がして、和海は落ち着かない気分になった。危険、危険、変態モンスター『キョウ』が護衛対象に向かって急接近中!
「響、お前は一人で来たのかよ、誰かと一緒じゃないのか!」
「ああそれそれ、それは大事な問題だ」
 響が屋台の陰に向かってなにやら手招きすると、そこから古風なあやめ柄の浴衣を着た美少女が出てきた。何となくその顔に見覚えがある、確か響の新しい彼女だ。
「ふ、藤沢ゆかり、です。演劇部で響先輩のお世話になっています」
 藤沢と名乗ったその少女は、かなり緊張した面持ちで頭を下げた。その礼儀正しい態度が、どう見ても響みたいな変わり者の恋人には似つかわしくない。
「進籐先輩ですよね、響先輩から色々お話をうかがっています」
「へえ、どうせろくでもない話ばっかりだろう」
「いえ、そんな!」
 ゆかりは手を振って和海の言葉を否定した。
「とっても優しくて、親切で、人当たりがよくって……」
「ほほう」
 意外だった。面と向かってはとことんバカにしてくるくせに、周囲の人間にはいい噂を伝えていてくれたらしい。和海は響の事を少し見直した。
「それでいてすごくノリが良くって、だからとってもからかいがいがあるんだって……あ!」
 ゆかりは余計な部分まで言ってしまった事に気付き、口を押さえる。だがもう遅い。
 前言撤回、響はやはりどこで何をやっていても響なのだ。和海はそう考え直した。
「あ、あのこちらの方にもご挨拶させてください、はじめまして!」
 ゆかりは表情を険しくした和海からサッと視線をそらすと、結衣に向かって話し始めた。その誤魔化し方が実に白々しい。そういういい加減な所が、いかにも響の後輩である。
「氷上先輩ですよね、いつもテストの成績がトップの、すごいなあ」
「……いつもじゃ、無いけど」
 結衣の表情が硬い、やはり慣れない相手とは話しづらいのだろう。
「それでもすごいですよ、それにこんなに奇麗な人だとは知りませんでした、すごく可愛い浴衣姿ですねー、なんだか憧れちゃうな」
「……そんな事、あなたの方が素敵よ」
「あ、これですか」
 ゆかりは結衣の言葉を聞いて、嬉しそうに頬を染めた。そして自分が着ている浴衣をうっとりとした表情でなでる。
「祖母にわがままを言って譲ってもらったんです、どうしても今日着てみたくって」
「……そう」
 そんな何気ない会話を交わしている二人の横で、和海と響はたこ焼きの奪い合いをしていた。
「あーっ、お前何個食う気だよ、俺の金で買ったんだぞ!」
 そう言ってたこ焼きのパックを取り返す和海。
「いいじゃないか、ケチケチするなよ。もう一パック持っているだろう」
 そう言って響は口を大きく開けた、それを見て和海は嫌そうな顔をする。
「最後、最後の一個、これで終わりにするから」
「ったく、しょうがねえな」
 和海はそう言って響の口にたこ焼きを突っ込んだ。それを幸せそうに咀嚼する響。
 ふと視線を感じたのでそちらを向くと、結衣と目が合った。
 彼女は何か言いたげな顔をしている。
「あ、えっと」
 和海は響を指さして、結衣に紹介する
「こいつ、長峰響子。学校で見たことないか、いつも男の制服着ている変な女」
「変とはひどいな、せめて独特な価値観の持ち主と……」
「知ってる」
 響の言葉が終わるのも待たず、結衣は和海に向かって冷たい言葉を突きつけた。
 和海を見つめるその視線がきつい。知っていると言ったきり口を硬く引き結び、じっと和海の事をにらむように見つめている。何となく、怒っているように見えた。
「え、えっと」
 どうやら無意識のうちに彼女を怒らせるような行動をとってしまっていたらしい。でも自分はそんなにひどい事をいつしたのだろうか、それが分からず和海は困ってしまった。
 そのまま見つめあうこと数秒、先に視線を落としたのは結衣の方だった。
「あっ、カズミンとお姉ちゃん見ぃーつけた!」
 ちょうどそこにキャラクター物のわたあめを持った芽衣が現れた。確かかき氷を食べないとお祭りとはいえないと言っていたはずだが、わたあめも同様なのだろうか。
「ありゃ、女三人に男はカズミン一人……?」
 芽衣はキョロキョロと和海たちを見回した。
 ご機嫌ななめの結衣。
 居心地の悪そうな顔をした和海。
 興味深そうに芽衣を見下ろしている響。
 突然の珍客にうろたえているゆかり。
「……もしかして修羅場? あたいまさかの四人目?」
「なんでやねん!」
 和海の突っ込みを無視して、芽衣は響とゆかりの二人を交互に見比べる。そして響を指さすと、とんでもない爆弾発言を言い放った。
「分かった、カズミンのファーストキスの相手って、あなたでしょ!」
「な――」
 和海はショックで凍りついた。まさに図星だったのである。
 いや、当てられた事よりも、むしろこの状況でばらされた事の方が問題だった。
「当たりでしょ、カズミン美人が大好きだもんねー?」
 その能天気な笑顔を向けられて、和海は思わず芽衣の頭を殴りたくなった。
(この大バカ! よりによってこんな時に!)
 響は彼女連れで、和海は結衣と行動を共にしている、最低最悪のタイミングだ。
 苦りきった表情を浮かべる和海、結衣が目を大きく見開いてその顔を見ている。ゆかりも顔色を変えて響を見上げていた。
 ところが響は、その緊迫した空気の中で大口を開けて笑い出した。
「わ、私が、和海と? アッハッハハハ!」
 あっけにとられる一同、響はなおも笑いながら手を振り上げて、芽衣の肩にポンと置いた。
「お嬢さん、お名前は?」
「氷上芽衣ですよー」
「うむ芽衣ちゃん、良いかい? そこにいる和海はね、君が思っている以上にヘタレの根性なしなのだよ、あいつにこの私が口説けるものかね!」
 そう言って響はなおも笑い続けた。
「あ、あのなあ……」
 和海は抗議しようとして、やめた。『そういう話』にしておいた方が、この場合都合が良さそうだ。
「えーそうなの?」
「そうともさ、こいつが君に何を言ったか知らないけれど、和海は正真正銘、恋愛経験ゼロのチェリーボーイさ!」
 余計な事まで大声で解説するミス非常識コンテスト日本代表。横を通り過ぎていく若い夫婦が和海を見て笑いを噛み殺している。和海は拳を固めてその屈辱に耐えた。
「そっ、そうなんだよぉ、いやあバレちゃったあ、アハハハ」
 心の中で血の涙を流しながら和海は笑った、笑わなければ泣いてしまいそうだった。すると不幸中の幸いか、芽衣は納得した様子を見せた。
「なんだあ、私の勘も鈍っちゃったなー」
「ふっ、まだまだ君は磨かれざる原石さ、一流のレディへの道は長く、そして険しいのだよ」
「はぁい」
 微笑みあう二人、なんだかよく分からない友情が芽生えたようである。
 どうやらうまくいったようだ、一安心して和海は結衣のそばに歩み寄った。
「いやまったく、困ったもんだなアイツ――」
 結衣はうつむいたまま、近づく和海からサッと距離をとった。
「氷上、ど、どうした?」
 思わず手を伸ばす和海、だが結衣はその手を乱暴に払いのける。
「……嘘つき」 
 ゾッとするくらい冷たい目で、彼女はにらんでいた。
 それは謎解きを一緒に始める以前の、いやそれ以上に冷たい拒絶の視線だった。
「嘘つき!」
 もう一度言い放って、彼女は通りの向こうへ走り出した。
「氷上、おい!」
 立ち尽くす和海。
 追いかけなきゃと、そう思うのだが身体がなぜかいう事をきかない。あの冷たい視線に射すくめられて、身動きできなくなってしまった。そうこうしている間にも結衣の姿は雑踏の向こうへと消えてしまう。
(待て、待ってくれ、誤解なんだ!)
 心の中で必死に叫ぶ。だが声が出ない、体が動かない、まるで金縛りにかかったかのようにびくともしなかった。
 その時、誰かが和海の背中を思い切り強く突き飛ばした。
「う、うおわっ!?」
 前のめりによろける和海。倒れそうになるが、かろうじて右足が踏ん張ってくれた……身体が、動いた。
「追え、和海!」
 真後ろから響の声。押したのは彼女だった。
「ぼさっとするな、君以外に誰が行くんだ!」
「え、あ、ああ」
「きっちり誤解を解いて来いよ、おかしな勘違いをされてはこっちだって迷惑だ」
 そう言って響はゆかりの肩にその手を乗せる。
「わ、わかった! 芽衣、これ持っていてくれ、食うなよ!」
 和海はリンゴ飴とたこ焼きを芽衣に押し付けて、人ごみの中を走り出した。
 幸い履物は下駄ではなくスニーカーである、結衣は下駄だった、その気になればすぐに追いつける。
(氷上、氷上、氷上!)
 心の中で叫びながら和海は走った。途中何度も他人とぶつかりそうになったが、それでも和海は走るのをやめない。この時ばかりは非常識な大馬鹿野郎に徹していた。
(……いた!)
 結衣は、下駄を乱暴にガラゴロ鳴らせて走っている。
「きゃあっ、結衣!?」
 結衣は浴衣姿の女性とぶつかりそうな勢いですれ違った。何の因果か、それは結衣の母・舞衣だった。よろめく彼女を和海が受け止め、そして支える。
「和海くん、一体どうしたの?」
 舞衣は、芽衣と同じキャラクター物のわたあめを三本持っていた。彼女と結衣と、そしてきっと和海のぶん。それを見て和海の胸が苦しくなった。
(くそっ、さっきまであんなに楽しんでいたのに!)
 いまさら悔やんでもどうにもならない、妙なごまかし方をした自分が間違っていたのだ。
「舞衣さん、あっち側に芽衣がいます、俺の幼馴染と一緒です」
「え、ちょっとどういう事?」
「すぐ戻ります、二人一緒に戻ってきます、必ず!」
 和海は再び走り出した。
「青春の一ページ、なのかしらねえ……」
 舞衣のそのつぶやきは雑踏にまぎれて、和海の耳には届かなかった。

  * * *

 結衣に追いついたのはその後すぐだった。
 二人はもう屋台村から飛び出して、ちょっとした林の中にいた。樹木からのぞく夜空には、今なお大輪の花火が咲き誇っている。二人は華やかな閃光と重低音の下で、なおも追いかけっこを続けていた。
「待てよ、おい!」
 結衣は息を切らせてようやく立ち止まった、そして和海の姿を見ようともせずに言う。
「ついてこないで! 私なんか放っておきなさいよ!」
「そうはいかねえよ!」
「どうしてよ、私はしょせん一時的な『相棒』、もっと大事な人があなたにはいるのでしょう!」
 和海は既視感を覚えて一瞬言葉に詰まった。同じような事を和海自身も思い悩んでいたのだ。 自分は結衣にとって、しょせん謎解きをするためだけの相棒にすぎないのだ、と。
「盾になるとか、自分だけは味方だとか、可愛いとか奇麗だとか、もっと色々あの人にも言っていたのよね、あなたってそういう人だったのね」
「そんなことない、誤解なんだって」
「馬鹿みたい、自分がこんなに馬鹿だったなんて思いもよらなかった」
 結衣は自分の肩を抱いて叫んだ。
「……勝手に都合よく思い込んで、のぼせ上がってこんな格好までして、本当に馬鹿みたい!」
「待て、勘違いするな」
「何が勘違いなのよ!」
 和海に向かって結衣は大声でわめいた。その目には涙さえ浮かんでいる。
「あんなに仲が良くって、互いに呼び捨てにして、キ、キスまでしたんでしょう、何がどう勘違いだって言うのよ!」
「あいつは幼馴染なんだよ、同じ団地に住んでいて、小・中・高と学校が一緒なんだ。俺たちは腐れ縁の、親友みたいなものなんだよ!」
「じゃああの時の顔は何、芽衣が『ファーストキスの相手はこの人だ』って言った時の、あなたのあの顔はどういう事」
 和海は黙った。過去の嫌な思い出が脳裏をよぎる。
「ほら、言い返せないじゃない!」
 和海は頭をかきむしった。
 ここまで来た以上、言わずに済ます事は出来ない。思い出しただけでイライラして気分が悪くなる苦い思い出を、今ここで言わなければならない。
「ああ分かった言うよ、確かに俺はあいつと一回だけキスしたことがある」
 結衣は顔をゆがめた。今にも泣き叫びそうな顔だ。
「だがそれは十年以上も前の話だ!」
 和海の発言と同時に、特別大きな花火が夜空に炸裂した。これまでで一番の閃光と爆発音が天から降り注ぎ、そして次の瞬間には反対にひと時の暗闇と静寂が訪れる。
 地上で向かい合っていた二人の間には、何ともいえない微妙な沈黙が流れていた。
「……十年以上って、あなた達、何歳の時よ」
「六歳だ、もしかしたらまだ五歳だったかも知れん、そこまでは覚えていない」
 結衣は眉をひそめた。
「……そんなに小さな頃から付き合っていたの?」
「だから違うっつーの、そこでボケるなよ、酷いのはここからなんだから」
 すー、はー、大きく深呼吸してから、和海はひどく奇妙な言葉を口走った。
「コレで和海くんは、わたしのお嫁さんだよ」
 謎の発言に、結衣の目が点になった。
「確か小学校に入ったばかりの時だ、俺たちは同じクラスでさ、毎朝一緒に登校していたんだ。それである朝、俺はあいつに突然抱きつかれてキスされた。そこで言われたのが今のセリフだ」
「……………………え?」
 結衣は今まで以上に大きく首をひねった。ひねりすぎて首の骨がコキッと鳴る。
「お嫁さんって、進籐君は男でしょう」
「ああ」
「女からキスをしたら男女の役割が逆になる風習でもあるの」
「まさか」
「じゃあどうしてお嫁さんになってしまうの」
「俺も長年それが理解できなかった」
 和海はため息をつく。
「どうもな、あのバカは当時放送されていたTVドラマの影響をモロに受けて、真似したくなってしまったらしいんだ。時々はやるだろ、教会で永遠の愛を誓い合ってハッピーエンドって奴さ。中学の時にそのドラマが再放送されて、それを見た俺はようやく理解できたんだよ。あれはテレビの真似事だったんだ、って」
「でも、それでどうしてお嫁さんだなんて……」
 結衣は途中で言葉を切って表情を変えた。気付いたのである、響の、長峰響子の奇妙な性癖。
 すなわち男装および同性愛。
「分かったか、あいつはその頃からすでに脳みそのネジが二、三本ぶっ飛んでいたんだよ。あの頃は相手の性別なんてどうでもよかったんだろうな、だから一番身近だった俺がターゲットに選ばれた。あいつが男役を演じる以上、必然的に俺は女役を押し付けられる事になる。しかもたちが悪い事に男が恋愛の主導権を握っているドラマだったんだよねえ。俺はあいつのドラマごっこに無理やりつき合わされて、ファーストキスを奪われたんだ」
 結衣はガックリと力なくうなだれた。堅物の彼女にとって、こんな奇人変人の話はさぞ精神が疲れることだろう。
「さらに」
「ま、まだあるの」
 動揺する結衣に向かって、和海は不機嫌そうにうなずいた。
「俺が許せないのはな、まさにここからなんだ」
 和海の両目に怒りの炎が宿っていた。十年もの長い年月くすぶり続けていた不完全燃焼の炎である。結衣は思わずたじろいだ。
「あいつな、今ここで俺が説明した事を全部忘れちまっているんだよ。さっき芽衣の言葉を笑い飛ばしていただろう、あれ芝居じゃないんだよ、本当にしていないと思っているんだ」
 えっ、と結衣はのどを詰まらせた。ファーストキスの思い出を忘れるなんて、そんな事があるのだろうか。
「本当だぜ、中学生の時に『旅行先で出会った女子大生とファーストキスしちゃった~!』って大騒ぎしていたからな。被害者の俺が一生忘れられないだろう記憶を、加害者のあいつは何年も昔にキレイサッパリ忘れちまったのさ」
「……わけが分からないわ、どうしてそんな人と友達でいられるの」
「腐れ縁って言っただろ。お前みたいに生真面目な奴があの二人と家族でいられる理由と似たようなものさ」
「……成る程」
 結衣は眼鏡を外して、目元をマッサージし始めた。もしかすると涙をぬぐうのを誤魔化すために、そんなふりをしているのかもしれない。
 和海は空を仰ぐと、何度目か分からないため息をついた。
 いつの間にか空は静まり返り、暗く深い青さを取り戻していた。話に夢中になっているうちに花火大会は終わってしまったようである。
「分かっただろ、あいつは俺の恋人なんかじゃない。今のあいつはあの藤沢って子に夢中さ」
「……ええ」
 まるで消えかけた線香花火のような弱々しさで、彼女は力なくうなずいた。
「じゃあみんなのところに戻ろう、祭りももう終わりだ」
 そう言って右手を差し出す和海、だが結衣はその手をすぐに取ろうとはしなかった。
「で、でも、私……」
 胸に手を当てて、苦しそうな表情をしている。
「あなたに、ずいぶん酷い事を」
「気にしてねえよ、分かってくれたならそれでいい」
「あの人達も、きっと気を悪くしているわ」
「んー、その辺は大丈夫だろ。あの変人とその彼女だぜ、放っておけばいい」
「そんな、いくらなんでも……」
 うじうじと思い悩む結衣、繊細な完璧主義者にありがちな状態だった。
「OK、じゃあ等価交換といこう」
 和海は差し出した手をいったん引っ込めた。
「これから俺の言う条件を飲めるなら、この件の一切を俺が引き受ける。もちろん俺の精神的苦痛もチャラだ。これは取引だからな、気に病む事なんか何も無いぞ」
「……どんな、条件?」
 彼女は上目づかいに和海の顔を見つめる。
「これからは俺の事を和海と呼べ、俺もお前の事を結衣って呼ぶから」
 結衣は思いがけない提案に息を飲んだ。
「ど、どうしてそんな」
「これでもう、俺が響だけを特別扱いしている事にはならねーだろ?」
 結衣は顔を赤くして首と手を左右に振った。
「やだって言うなら全部自分で何とかしろよ? 俺は機嫌を損ねるし、響と藤沢には自分で謝れ。ちなみに響にはサドの気があるからな、お前みたいな女は何を要求されるか分かんねーぞ? お前もあいつとキスするか?」
 あわてて口を隠す彼女。
「い、嫌ッ」
「だったら、どうする?」
 結衣はしばし迷った後、ついに観念した。
「わ、分かったわ、和海……くん」
 その言葉に和海はにっこりと笑って、そしておもむろに結衣の手を取った。
「それじゃ戻ろうぜ、結衣。……やっぱり恥ずかしいな」
 自分から言い出したくせに、和海は頬を染めた。
 会場を去ろうとする群衆の流れをさかのぼって歩く二人。彼らはしっかりと手を繋ぎあっていた。はぐれないように、離れないように、たびたび人の流れにぶつかりながらも、二人はその手を離さなかった。
 互いの身をくっつけあう様にして歩き続ける和海と結衣。二人の心も同じくらい接近してきたのではないかと、そう和海は感じていた。
「あっ、帰ってきた~」
 少し離れた所から芽衣の声。
 そこには芽衣、舞衣、響、ゆかりの四人が律儀に並んで二人の帰りを待っていてくれた。
「あら、お手々つないでお帰りとは見せ付けてくれちゃうわね」
 舞衣にからかわれて、二人はあわてて手を離した。
「遅いぞ和海、レディを四人も待たせるとは何事だ」
「うるせーよ、誰のせいだと思っていやがる」
「……はあ?」
 身に覚えのないことを言われて眉をひそめる響。その手には、本体を失ったリンゴ飴の串が握られていた。はっと気がついた和海が芽衣に目をやると、やはり芽衣は和海のリンゴ飴を持っていなかった。
「お前なぁ、食うなって言っただろうが!」
「君が言ったのは芽衣ちゃんにだけだろ、私たちには言ってないもーん。ね、ゆかり?」
 なぜかゆかりに話をふる響。
「ゆかりが間接キスだー、なんて文句を言うからさ、それじゃあこれでおあいこだよって事で彼女と一緒においしく頂きました、御馳走さまです」
「ご、ごちそうさまです」
 わざとらしく手を合わせて和海を拝む二人、その白々しい態度に和海の目が釣り上がった。
「なぁにが『おあいこ』だ、俺一人が一方的に損しているじゃねえかこの窃盗犯ども!」
「小さい事を言うな、避けられる男よりも構われる男の方が良いだろう、むしろ喜びたまえよ。ハッハッハッハ!」
「貴様はーッ!」
 笑いながら逃げ回る響とゆかり、大声でわめきながら追いかける和海。
 ギャーギャー騒がしい彼らの姿を、結衣は再び面白くなさそうな表情でにらむのだった。

  * * *

 あわただしかった祭りの夜は終わり、翌日の午前中。
 制服姿の和海は、再び薪蓙北高校の図書室を訪れていた。
 室内にいるのは和海達と司書のみ、登校日だった昨日とは違って他に利用者はいない。いつぞやと同じ貸しきり状態である。
 昨日ここでやらかしたドタバタコントを思ってちょっと気後れしていたのだが、幸いにしてあの件の目撃者は誰もいない、和海は安心して結衣の元まで歩み寄る。
「よう、早いな」
「ええ」
 すでに結衣は最奥の席に陣取っていた。
 テーブルの上には四冊のノートが重ねて積んである、準備は万全といったところか。
 和海が手近なイスを引いて結衣の正面に座ろうとしたその時、結衣は思いがけない先制パンチを放ってきた。
「和海くん」
「何だ?」
「私、もう第四の謎を解いてしまったから」
 和海はイスを引いた前傾姿勢のまま、硬直した。
「……な、なにい?」
 あっけにとられたその間抜け顔を見て、結衣は笑い出した。
「と、解いたって昨日のうちにか? 昨日の夕方に見つけたばかりだぞ?」
 両手で口を押さえながら、彼女はうなずく。
「じゃあこのゲームの犯人とその動機も分かったのか?」
 もう一度、結衣はうなずく。
「じゃあなんで連絡しなかった!?」
「分からない?」
「分からねえよ!」
 彼女はまたあの嫌味なほど晴れやかな笑顔になって、こう言った。
「あなたがそうやって驚いたり悔しがったりする顔を、この目で見たかったの」
「んなっ……」
 何ら悪びれる事もなくそんな事を言われて、和海は言葉を失った。
 なんという性格の悪さであろうか。彼女はまるでネズミをいたぶる猫の如く、和海が悩み苦しむ様を見物するためにこの場に来たというのである。
「降参するなら答えを教えてあげるけれど?」
 優越感に浸りきったその笑顔を向けられて、和海の怒りが燃え上がった。
「いらねえよそんなもん! 俺も自力で解いてやらあ!」
 バンと勢い良く机に手をつき、和海は啖呵を切った。それを見て結衣は満足そうにうなずく。
「それではヒントをあげるわ」
 気障りな笑顔をそのままに、彼女は両手を左右に広げた。
「この図書室内にある物だけで、第四の謎は十分に解けるわ。問題はそれにあなたが気付けるかどうか、ただそれだけ」
「ふ、ふうん」
「そうね、制限時間は今日中という事にしましょう。それ以内に解けなかったら私が答えを教えてあげる。あまり無駄に時間をかけたくないの」
「こ、こ、この野郎、上等じゃねえか……!」
 今日の彼女はどこまでも上から目線だ。勝ち誇る氷の女王から突きつけられた挑戦状を心の中で握り締めて、和海は動き出した。
 まずは愛用のバッグから第四の謎のコピーを取り出す。
 
第四の謎
 与えられし三角の魔法円に入りて万能なるアスタリスクを刻め、その地に最後の秘宝が眠る。
 四つの鍵が重なりし時、汝は全ての真実を知るであろう。
 
「ふうむ……」
 林の如く立ち並ぶ本棚の一つに寄りかかりながら、和海は改めて第四の謎を黙読した。
 短いから簡単そうに思える――といったら安易に過ぎるだろうか。だが何となくではあるが、とっつきやすそうな印象を和海は受けた。
 これなら自分にも出来るかもしれない、そんな気がする。
「なあ、このアスタリスクって――」
 何だっけ、と結衣に聞きそうになって、和海は口をつぐんだ。
(いかんいかん、今のこいつは敵だった。敵に情報を求めてどうするんだ俺!)
「なあに?」
「いや、何でもない!」
 和海は彼女に背を向けて、むすっとしたふくれ顔で本棚の列に足を踏み入れていく。その姿を見て結衣はまた笑っているに違いない、目で見ずとも気配でそれを感じる。
 心の中でその笑顔を思い浮かべて、和海はさらに腹を立てるのだった。
「くっそー、見てろよ俺だって」
 気を取り直して、彼は推理を開始する。手始めに本棚から分厚い国語辞典を取り出した。
「えーっと」
 口の中でブツブツつぶやきながら、彼は《あ行》のページを一枚一枚めくっていく。調べようとしていたのは《アスタリスク》という言葉の意味だ。該当する言葉を発見した和海は、その部分を読み始める。

 アスタリスク またはアステリスク asterisk
 星印・スター 【*】の記号。
 コンピューター演算では乗算を示す記号などとして用いられる。
 
「ふむ、なるほど……」
 和海は一人うなずく。
 役に立つかどうかは分からないが、とりあえず覚えておくことにする。
 ついでに《魔法円》という言葉についても調べてみた。
 
 魔法円(まほうえん) magic circle 
 西洋魔術の儀式を行う際、地面に描かれる図形や文字など。
『六芒星の――』

「…………」
 和海は口に手を当てて思案する。
 まさか本当に魔法円とやらを書いて、そこで妖しげな儀式を行えという事では無かろう、そんな行為に意味は無い。だが何となく心に引っ掛かりを覚える。
『与えられし三角の魔法円に入りて万能なるアスタリスクを刻め』という言葉には、何らかの意味があるのではないか。
 しかしだとすると『三角の魔法円』とはどういう意味なのだろう。
「円……、三角……、三……」
 はっと気がつき、和海は顔を上げた。
 それはひどく安易な発想だった。まさかそんな、と言いたくなるほどに簡単な。だがその発想は理にかなう、『三角の魔法円』にも、『アスタリスク』にも適合する。そして何より、これが正解ならばまさしく首謀者の居場所が明らかになるのだ。
「こ、これか、これでいいのか?」
 和海は手に持っていた国語辞典を本棚に押し込み、早足で歩き出した。目指すは《観光》に関する本が納められた棚だ。すぐさまたどり着いた彼は、にらむような表情で無数に並ぶ本の背表紙を見つめる。
「よし、これだ」
 そうやって選び出したのは今年度版のロードマップ関東版だった。和海はページをめくっていき、この薪蓙市の全域が載っているページを開く。
「やっぱり……!」
 何かを確信して和海は興奮をあらわにした。
「すいません、コピーをお願いします!」
 マップをカウンターまで持って行き、司書にコピーをお願いする。ここの図書室には資料作成などの目的でコピー機が用意されているのだ。
 司書がコピー機を操作している合間に、和海はふと視線を感じて振り向いた。そこには結衣が先ほどと変わらぬ姿勢で座っていて、こちらを見ている。
「へんっ!」
 和海はそんな彼女の微笑みを鼻で笑い飛ばした。
「見てろよ、すぐにその腹立つにやけ面を泣きっ面に変えてやる」
 司書からコピーを受け取って、彼は結衣の待つテーブルに大股で近づいていった。
 テーブルの上に乗せられたそのコピーを見つめる結衣。だが彼女は何も言わず、ただ静かに和海の行為を眺めていた。
「ふんっ、そのすまし顔も今のうちだけだからな」
 そう言いながら和海は自分のバッグの中からペンケースを出した。さらにそこからシャープペンシルと定規を取り出す。
「さて、と」
 和海は地図上に三つの丸をつけた。
 この薪蓙北高校と薪蓙駅、そして古びたアパートがあった場所に。
 そして今度はその三つを線で結ぶ、するとほぼ正三角形といっていい形になった。
「へっへっへ、大事なのはここからだぜー?」
 妙にはしゃぎながら、和海は三角形の頂点から真っ直ぐ直線を引いた。すると三角形だった図形は、串に刺さったおでんのコンニャクみたいな図になる。
 和海は紙を回転させて違う角にも一本ずつ線を引いた。するとそこには*印、アスタリスクが出現する。和海は文字通り『三角の魔法円』の上に『アスタリスク』を刻んだのだ。
「どーだ、ここが答えだろ、ここが首謀者の……」
 和海は得意気にアスタリスクの交点を指差し、そこにある建物を確認する。
 そしてその瞬間、彼は表情を一変させた。
 和海がたどり着いた答え、その場所は、彼も良く知っている所だった。
「……そういうことだったのか」
 和海は妙に青ざめた顔でそう言い、力なくイスに座った。そしてそのまま暗い表情で押し黙る。結衣はその極端な変わりぶりに驚いて和海を気遣った。
「あ、あの、和海くん、そんなにショックだった……?」
 テーブルに手をついて彼の表情を見つめる結衣。和海は一度深呼吸をして、そして力なく笑った。
「いや、実はちょっとこの場所に思い出があってさ。その時の事と今回の事がごっちゃになって、ちょっとだけ混乱しちまった、ははは」
 その明らかな作り笑顔に、結衣はかける言葉さえ見つからない様子だった。
「……続けよう、続けなくちゃな」
 和海はテーブルの上に置かれた四冊のノートに手を伸ばした。
「四つの鍵って、これの事だよな?」
 その表情にはいつもの元気がなかったが、その代わり両目には強い意志の光が宿っていた。 結衣がうなずくのも待たず、和海は四冊のノートを順番にめくり始める。そして一通り確認すると、彼は再び口に手を当てて考え始めた。
「和海くん、良かったら私が答えを……」
「いや、それはよしてくれ」
 和海は穏やかに、だがはっきりと結衣の提案を拒んだ。
「これはきっと、一人でも多くの人間が挑戦するべきなんだ。少なくとも俺は挑戦したい、俺の力で解き明かしたい。だから種明かしなんてしないでくれ」
「………………」
 うつむく結衣を見て和海は一瞬申し訳無さそうな表情になったが、それでも推理を中断する事はしなかった。
 なおもノートをいじり続ける和海。
「……ち、にーい、さーん……」
 彼はいつしか声に出してページをめくっていた。
「さんじゅご、さんじゅろく、さんじゅしち」
 第四の謎は、三十七ページ目に書かれていた。
「ふむ……」
 和海は軽くうなりながら、表紙に書かれているこのノートの枚数を確認する。
 四十枚入り、八十ページ。
 和海はもう一度数え始める。そして和海は数え終わると、うんと一回うなずいた。
 続けて残り三冊のノートも声に出して数え出す。
 さほど時間もかからず、作業は終了した。
「……そういうことだったのか」
 和海のセリフは、奇しくも先ほどと同じものだった。
「分かったよ結衣、俺にも全ての答えが分かった」
 その言葉にはいつもの活力が戻っていたので、結衣はほっと胸をなで下ろした。
「それでは、行く?」
「もちろんだ、早い方がいい」
 短い確認の言葉を交わし、二人が立ち上がったその瞬間の事である。
 図書室のドアが開かれ、見慣れた人物と見慣れない人物たちが一緒に入ってきた。
 見慣れた人物とは、この高校の教頭先生。
 そして見慣れない人物とは、背広姿の中年紳士と、制服姿の警察官が二名。
 彼らは和海たちの姿を見つけるなり、一直線にこちらの方へ進んで来る、明らかに和海たちが目当てだ。二人は仰天して顔をこわばらせた。
(なぜ警察が!? 自分たちは何一つ悪い事などしていないぞ!?)
 心当たりがあるとすればたった一つ、謎解きで手に入れた金と貴金属類に関して。
 だがこれらは一応譲り受けたものであり、他人にとやかく言われる筋合いはない。そしてそもそも外部の人間が知るはずのない財産だ。知っているのは和海と結衣、そして事件の首謀者だけのはずだが――。
 まさか首謀者が心変わりして警察に通報したのか。それとも和海と結衣の推理が大幅に間違っていて、これらは危険な金だったのか――。
 緊張と混乱の最中、和海の思考は二転三転する。
 だが明確な答えも対応策も思いつかぬまま、和海たちの前に四人の男たちが並んだ。
「ええと、進籐和海君と氷上結衣さん?」
 教頭先生の言葉に、二人は緊張した面持ちでうなずく。
「ああ、怖がらなくてもいいんですよ。なに、たいした事ではないんです」
 そう言って笑う教頭の顔が、とても白々しい物のように和海には感じられた。
 教頭は後ろに振り返ると、そこに立っていた背広姿の紳士に場所を譲る。紳士は懐から身分証を取り出し、和海たちに見せた。縦開きのそれは、彼もまた警察官である事を示す警察手帳であった。
「横石(よこいし)といいます、はじめまして。実はお二人にお聞きしたい事がありまして……」

  * * *

 横石刑事たちのパトカーで、和海たちは市内の私立病院へと急行した。この病院は、第四の謎の答えとして和海たちが向かおうとしていた場所だ。
 パトカーに制服姿の警官を一人残し、和海たちは院内のエレベーターで上の階に上がる。そしてたどり着いたそこは、入院患者用の病室が並ぶフロアだ。
 スタッフステーション横の休憩所で座っている響の存在を見つけても、和海たちは今さら驚かなかった。
「和海、氷上さん……」
 座っていたイスから、響は力なく立ち上がった。
「すまない、二人の事を警察に話したのは、私なんだ」
 和海は別にいいさ、というニュアンスを込めて手を振った。
「……理由は、聞かないのかい?」
「もう分かってるよ、俺たちはもう第四の謎を解いた、大筋の流れは理解しているつもりだ」
 そうか、とつぶやいて響は視線を落とす。まるで別人のように今の彼女は憔悴していた。
「そんな事より、藤沢さんがいなくなったんだって?」
「うん」
 響は和海の言葉を肯定して、廊下の奥に目をやる。そこにあったのは面会謝絶の札がかけられた一人用の病室。
 扉の横には『ホスピス科 藤沢八重子様』と書かれたプレートが取り付けられていた。
「昨日の深夜に容態が急変したって連絡が来て、私がここに着いた時にはもうゆかりは飛び出した後だった。それっきり、まだ見つかっていないんだ」
「そうか……」
 和海は苦い表情で頭をかいた。
『藤沢ゆかりさんが昨夜遅くに行方不明になりまして、彼女の行き先について何かご存知ありませんでしょうか?』
 図書室で横石刑事にそうたずねられて、和海たちはすぐにこの可能性を察した。そして無理を言ってこの病院まで連れてきてもらったのである。「ダメだと言っても自分たちで行きます」と言い張る和海たち二人を、横石刑事は仕方ないと言ってパトカーに乗せてくれたのだった。
「響、こっちの方には特に連絡は来ていないよ、力になれなくてすまん」
 無言でうなずく響に何と声をかけたらよいのか分からず、和海も沈痛な表情でうなだれる。
 そんな中、結衣は閉ざされた病室の扉を見つめていた。
「八重子さんという方、だいぶ悪いのかしら」
「……とりあえずは持ち直したらしい、でも意識が戻らないんだ、ひょっとしたら、もう」
 もうこのまま、目を覚ます事はないかもしれない。言外に含まれたその言葉を感じ取って、二人は表情を暗くした。
「俺たちは、タイムリミットに間に合わなかったって事か」
「君たちのせいじゃないさ。医者の見立てよりも、八重子さんの具合が悪くなるのが早かったんだ」
「…………」
 重苦しい沈黙が廊下に満ちる。その時、病室の扉が内側から開かれた。面会謝絶の札がかかっていたというのに、なぜか中年の女性が中から出てきた。その後ろから白衣の医者が出てくる、こちらはおそらく八重子さんの主治医だろう。
「おばさん、おばあちゃんは?」
 女性に詰め寄る響。その様子から、中年の女性はゆかりの母親なのだと和海は察した。ゆかりの母は、悲しげに顔を横に振る。
「テレビみたいにうまくはいかないわね、何度声をかけてみても起きてくれないわ……」
「そうですか……、おじさんはどうしたんです?」
「あの人は会社に行かせたわよ、こんな時でもするべき事はしなくちゃ、ね?」
 無理に笑おうとする彼女に対して、周りの人間はかける言葉も無い。
「……そちらの方々は?」
 ゆかりの母にたずねられて、響は和海たち二人を紹介した。
「例の謎解きをしている二人です、もしかしたらゆかりが会いに行っていないかと思って」
「そう、はじめまして、ゆかりの母です」
 向かい合って頭を下げあう三人。
「母とゆかりが考えたお遊びに付き合ってくれていたそうね」
「あ、はい、ええっと、はい……」
 うかつに「もっと早く出来たら良かったのですけど」などと言ったら、とんでもない失言になってしまう。この場合何と答えるのが正解なのか分からず、和海はうろたえるばかりだった。
「ゆかりがどこにいるか、心当たりはありません?」
「いや、その」
 口ごもる和海に向かって、彼女はまた頭を下げた。
「ごめんなさいこんな事に巻き込んでしまって。あの子は本当におばあちゃん子だったから、母の……あんな様子に耐えられなかったようなの」
 和海にはそうですか、と答えることしかできない。横石刑事の話によれば、警察の力で一晩かけても藤沢ゆかりは見つかっていないらしい。きっと響やゆかりのおばさんは、わらにもすがる思いで和海たちの事を警察に話したに違いない。何の役にも立てない自分が、和海は悔しくなった。
 だから半ば無意味とは思いつつ、質問してみる。
「……彼女が一度自宅に帰った様子は?」
「特にそういう様子はなかったわね」
「じゃあ携帯電話に連絡とかは?」
「それがね、あの子の携帯はここにあるの、置きっぱなしで飛び出して行ってしまったの」
 おばさんはポケットから可愛らしいピンク色の携帯電話を取り出して、和海たちに見せた。
「現金とか、持っていました?」
 この質問には響が答えてくれた。
「だいぶ多めに持っていたはずだよ、祭りで遊ぶために銀行で結構おろしていたからね」
「そうか」
 和海は頭を抱えたくなった。
 金を持っていなければその辺をうろつく事しか出来ない。それなら警察が見つけてさっさと保護していたはずだ。だが十分な金を持っている以上、ホテルや漫画喫茶に泊まることが出来る。電車やタクシーではるか遠くまで行くことも出来る。可能性はほとんど無限に広がってしまうのだ。
 ゆかりは大事な家族を失いそうになってパニックを起こしていたらしい。正常な判断力を失った人間の行動なんて、和海には想像もつかない。
「……危険な目に遭っていなければいいけど」
 何気なく口にした結衣の言葉に、一同は顔を引きつらせた。
「ご、ごめんなさい」
 すぐその過ちに気付いて謝る結衣。彼女を非難する者はいなかったが、重くなった空気を軽くする事は誰にも出来なかった。
「あまり過剰に心配なさらないで下さい、我々は全力でお嬢さんを捜索しております」
 家族を安心させようとする横石刑事の言葉も、それほどの効果を発揮したとは思えなかった。
「くそっ」
 和海はいら立ちまぎれに壁を叩いた。謎解きはもう終わったはずなのに、なんでこんなに悩まなくてはいけないのだ。そんならちもない想いが彼の心を苦しめる。
 和海の脳裏には昨夜のゆかりの姿が思い浮かんでいた。
 今にして思えば、あの時彼女は和海たちがどんな人間なのか調べようとしていたのだろう。 ゆかりにとって和海と結衣は、愛する祖母の遺産の一部を手にする人間である。それがどんな人物なのか知りたがるのも無理ないことだろう。
 だから祭りの会場で二人を発見した事を良い機会として、彼女は響に頼んで自分を紹介させたのだろう。あの時の控え目なのか図々しいのか分からない彼女の態度は、和海と結衣の性格を探るためのものだったのだ。
 あの時はまだ、彼女は笑顔のままでいられたのだ。やがて来る祖母との別れを惜しみながらも、祖母の浴衣にそでを通して祭りを楽しむだけの余裕があったのだ。
 彼女はいったい今、どんな気持ちでいるのだろうか……。
「……ん?」
 和海はふと気がついて、結衣の顔を見つめた。
「結衣、ちょっと」
 眉をひそめる結衣を呼び寄せて、彼女の耳元で何事かささやく。
「…………!!」
 結衣の両目が、大きく開かれた。
「どうだこの推理、有りだと思うか?」
 相棒がうなずくのを確認して、和海はゆかりの母に再びたずねた。
「あなた方とおばあさんは、ご一緒に暮らしていたんですか?」
 ゆかりの母は和海の真意をはかりかねながらも、その質問に答えた。
「いいえ、母はここに入院する前までは秩斧の実家で一人暮らしでしたが……?」
 その言葉を聞いて、和海はふっと微笑んだ。
「もう一つお聞きします。昨日の夜ゆかりさんが着ていた浴衣は、おばあさんから譲ってもらった物だそうですが、それは具体的にどこで受け取った物ですか? どこに保管されていた物ですか?」
 その場にいた全員が、表情を一変させた。

  * * *

 横石刑事はすぐさま秩斧警察に連絡を取り、ゆかりの祖母が住んでいた実家とその周辺の捜査を要請した。
 そして待つこと一時間弱、横石刑事は何ともいえない奇妙な表情で和海たちが待つ休息所に戻ってきたのだった。
「……藤沢ゆかりさんは、無事見つかりました。進籐君の推理どおり、八重子さんのお宅に居たそうです」
 それを聞いて、関係者たちからワッと歓声が湧き上がる。
「では、ゆかりは無事保護してくれたんですね!?」
 満面の笑顔で詰め寄る響。だが、横石刑事はちょっと苦い表情になった。
「……ところが、まだ保護まではしていないのですよ」
「は?」
 響だけではなく、他の面々までが目を点にした。
「『進籐和海さんと氷上結衣さんをここに連れてきて欲しい、謎解きが終わるまで自分はここを動かない』と、そう言い張って暴れているそうなのです」
「なんだってーッ!?」
 驚いたのは指名された二人だ、話の展開がメチャクチャである。
「もちろんあちらの警官も説得しようとしたのですが、彼女は自分の首筋に出刃包丁を当てて警官を脅迫したそうです。『邪魔をするならここで死ぬ』と言って」
 和海は横石刑事が妙な顔をしていた理由を理解した。
 大金が絡んだミステリーゲーム。それに挑む高校生カップル。明日をも知れぬ病床の老婆。そして錯乱し失踪した少女。
 こんな三文ドラマみたいな話に自分が巻き込まれてしまった事が腹立たしいやら、馬鹿馬鹿しいやら、どうにも困ってしまったらしい。
 苦笑いを浮かべて和海たちに視線を送る横石刑事。
 だがそれに引き換え、和海たちの態度は彼の予想を超えて柔軟だった。
「では行きましょう」
「うん、しょうがねえな」
 まるで家に帰れとでも言われたかのような、実にあっさりとした口調でうなずき合う和海と結衣。その安直すぎる決定に、横石刑事はかえって戸惑いを覚えた。
「い、良いんですか、こう言っては何ですが、彼女はとても興奮しているのですよ」
「でも今すぐ行っても二時間くらいかかるでしょ、着く頃にはきっと冷静になっていますよ」
「むしろ私たちが行かない方がよほど危険なはず」
「……それは、確かにそうですが、よろしいのですか」
 なおも戸惑う彼に向かって、和海は微笑んだ。
「ここで明かすつもりだった推理を向こうでするだけでしょ? 俺たちはもう四回もあの子たちの妙なゲームに付き合っているんです、場所が変わるくらいどうって事ありませんよ」
 隣に並んでいる結衣も、深くうなずいている。横石刑事はこの若者二名の落ち着きぶりに驚きつつも、協力者に対する謝辞を述べた。
「分かりました、それではお言葉に甘えさせていただきます」
 さっそく出口に向かおうとする三人の前に、響が立ちはだかった。
「待ってくれ、私も行く、ゆかりは私の恋人なんだからね!」
「こっ、恋人!?」
 目の前の少女の問題発言に、思わず絶句する横石刑事。彼に変わって、和海が勝手に返事をした。
「よし、お前も来い、その代わりちゃんと働けよ」
「もちろんさ!」
「別にいいですよね、刑事さん?」
 事後承諾を迫る若者に向かって、中年の刑事はため息をつく他なかった。
「ああ、はいはい、最近の高校生はまったくややこしいですな。分かりました、もう皆さんまとめていらっしゃい!」
『はい!』
 一人の大人と三人の高校生は、一丸となって病院を飛び出し、外で待機していたパトカーに飛び乗った。

  * * *

 誰でも知っている白黒カラーの乗用車が、バイパスをひた走る。
 赤信号もなんのその、サイレンを鳴らしながら突っ切っていくその雄姿をとがめる者などあろうはずもない。こんなにスピードを出してもいいのかしらと無責任な突っ込みを入れたくなるほどに、和海たちを乗せたパトカーは目的地を目指して爆走していた。普通ならば片道二時間はかかるはずの道のりだが、この分なら半分くらいで到着しそうだ。
 そんな白黒の弾丸特急の中で、後部座席の中央に座る和海は一人愚痴をこぼしていた。
「……にしてもビックリしたぜ、よりにもよってあの病院とはな」
 狭い車内でそのつぶやきの意味を理解できたのは、響だけだった。
「ああ、こちらもまさか君を相手にする事になるとは思っていなくてね、嫌な思いをさせてしまったかい?」
「いや、別にいいさ」
 意味深な言葉と視線を交わし、苦笑する二人。
 そんな二人の親密そうな態度がひどく気に入らなかったらしく、結衣が口を挟んできた。
「どういうことかしら」
「ん?」
「あなた、学校でもちょっと様子がおかしかったでしょう」
「ああ、うん……」
 和海の表情に、少し暗いものが混じった。
「お前さ、ホスピスっていう言葉を知っているか?」
「……名前くらいなら。確か八重子さんという方の名札にもその言葉が付けられていた」
「うんそうだったな、ホスピスっていうのはな、もう手術も出来ないくらいに病気が悪化してしまった人にする事でさ、リスクが高くて苦しい治療をやめて、残された人生を少しでも楽に過ごさせてあげよう、苦しみを取り除いてあげよう、っていうスタイルの医療なんだ」
「詳しいのね」
「そりゃそうさ、だって俺の父親もあの病院でホスピスを受けていたからな」
 静かに語られる和海の言葉を聞いて、結衣の表情が硬直した。
「俺が十歳の時だ。末期のがんで、分かった時にはもうどうしようもなかったらしい」
「……ごめんなさい」
「気にすんなよ!」
 そう言って笑う和海の笑顔は、嘘のように明るかった。いつもの冗談ばかり言っている彼よりも明るく見えるくらいだ。
「そりゃ何とも思っていないわけじゃないぞ、でももう何年も昔の事だろ、結構受け入れられるようになるものなんだよ」
「本当に?」
「本当に!」
 その笑顔のおかげで、結衣は救われた様な表情になった。
「だからな、俺は早く藤沢の所に行ってやりたいんだ。今のあいつの気持ちが俺にはよく分かる。そしてその気持ちが将来どんな風に変わっていくかも分かるんだ。あのアンポンタンなお嬢様を救ってやるのは、きっと俺たちの役目だと思う」
「コラ! 私の恋人に向かってアンポンタンとは何だ、取り消せ!」
 耳元で響が騒ぐので、和海はたちまち不機嫌になった。
「アンポンタンがダメならトンチンカンだ! いちいち問題を大きくしやがって、こっちの迷惑も考えろっての!」
「本当に器の小さい男だな、彼女は悩み苦しんでいるんだぞ」
「だったらお前が一緒にいてやれよ、お前の言うスキは隙だらけのスキか?」
 そんな言い草でハイごめんなさいと言えるほど、響は大人しい性格ではない。
「仕方ないだろ! 朝から晩まで抱きしめているわけにもいかないじゃないか!」
「あー、あー、お二人とも車内ではお静かに……」
 横石刑事にたしなめられて、二人はひとまず黙った。
「お願いしますよ、説得する側がいさかいを起こしていたのでは、出来る事も出来なくなってしまいます」
『す、すいません』
 同時に頭を下げる二人を見つめて、結衣はまた目つきを険しくしていた。
「本当に仲のいいこと」
「ど、どうしてそうなるんだよ!?」
 頬をふくらませて窓の外をにらみつけている結衣、彼女に向かって弁解めいた口調で話し続ける和海。助手席に座っていた横石刑事は、うんざりした表情でつぶやいた。
「私が十代の頃は、こんなじゃなかったはずだがなぁ……」
 
  * * *

 そんなこんなでたどり着いたその場所は、ひどく古びた和風のお屋敷だった。
 住む人がいなくなってから、何ヶ月も放置されっぱなしだったのだろう。雑草が伸び放題になっていて、いかにも荒れた雰囲気をかもし出している。
 パトカーから降りた面々は、彼らの到着を待ちわびていた秩斧警察の警官に出迎えられた。
「ゆかりの様子はどうなんですか」
 真剣な表情でせまる響に向かって、いかにも実直そうな大柄の警官は眉間に縦じわを作った。
「……とりあえず、落ち着いてはいるようです」
「何ですかその、落ち着いて『は』いるって」
 真面目そうな警官は、困り顔で視線をそらした。
「……非常に、説明し辛い雰囲気です。いや、怪我などはしておりませんが、その……」
 三人の若者と一人の大人は、要領を得ない会話に同時に首を傾げた。
「ともかく中へ、彼女はずっと待ち続けています」
「そ、そうですね、行こうみんな!」
 先頭を切って突き進む響に従って、一行は屋敷の中に入って行った。
 屋敷の中はいたるところにホコリが浮いていて、いかにも長時間放置されていたという事が見受けられる。そのため床には無数の足跡が浮かび上がっていて、一種の目印になっていた。
「ゆかりーっ、私だ、響だよ、迎えに来たよ!」
 大声で呼びかける響の声に対して、うんと奥の方から返事が返ってきた。
「こっちですセンパ~イ、待ってましたよ~!」
 その異様なまでに能天気な声を聞いて、一行は眉間にしわを寄せた。
「元気だな、腹立つくらいに」
「表面だけかも知れない、油断は禁物」
 和海の発言を結衣がたしなめる。
「心の中は傷ついてボロボロなのかも知れない」
「そうだな、ここは気を抜かずに……」
 会話の途中で、向こう側から次の言葉が飛んできた。
「ちょうどこっちも準備できたところで~す、何だかドキドキしちゃいますね~!」
「……気を抜かずに、いこうな」
「え、ええ」
 顔を引きつらせながら、二人は先を急いだ。
 廊下の角を曲がり、庭に面した一室にたどり着いた一行。
 そこにゆかりは待ち構えていた。
 障子が大きく開け放たれ、二十畳ほどの広い和室がその姿をさらしている。
 その部屋の様子を見た瞬間、一行は言葉を失った。
 障子が開かれた庭向きの一方を除いて、壁や障子一面に何十枚もの和服がかけられていたのである。ひどく古びた子供用から比較的新しい大人用まで、ひと目では数え切れないほどに沢山の和服が、部屋の壁を埋め尽くしていた。
 一番近くにあった一枚を見ると、壁に釘が打ち込まれていて、そこに衣紋掛けが引っ掛けられている。おそらくこの数十枚すべてが同じようにしてあるのだろう。
「どうです、素敵な舞台でしょう?」
 ゆかりは満面の笑みを浮かべて両腕を広げた。
 彼女もまた和服姿だった。濃紺の地に桜の花が咲いている、こんな時でもなければほめて上げたいくらい似合っていた。
 ――ただし、右手に赤錆の浮いた出刃包丁を握り締めていなければ、の話だが。
「どうですかあ、響センパイ?」
「う、うん、とてもいいね」
 さすがの響もこの異様な雰囲気に圧倒されて、声を上ずらせていた。
 奇麗な演出である事は確かだ、ちょっとした呉服屋のようでもある。だが錯乱し失踪していた少女がやった事となると、少し事情が変わってくる。右手の包丁といい、そこはかとなく狂気のニオイが漂っていた。
「ひ、一人でやったのかい、大変だっただろう」
「いいえ、婦警さんにも手伝ってもらいましたから」
 そう言われて初めて、和海は部屋の中にもう一人女性がいることに気がついた。制服姿の婦警が一人、畳の上に座っていたのだ。彼女は少し青白い顔色をしている、心身ともにだいぶ疲労している様子だった。
 きっと彼女は説得役兼見張り役だったのだろう。ゆかりを刺激しないために、言いなりになって働かされていたに違いない。
「この服たちはですね、みんな祖母の物なんですよ。祖母は今風に言うと『捨てられない女』でして、小さい頃からの和服を全部持ち続けているんですよ」
「へえ、そうなんだ」
 和海はなるべく彼女を刺激しないために、笑いながら相づちを打った。だがいつも通りの愛想笑いを浮かべられているかどうか、自信はない。
 そんな和海に向かって、ゆかりは一つ謎かけをしてきた。
「進籐先輩、今ここがどういう場なのか分かりますか?」
「い、いや?」
「ここはね、舞台なんです」
 笑顔を崩さぬまま、ゆかりは楽しそうに説明を続ける。
「私は逃げ出した犯人グループの一人、ここは逃げ込んだ旧家、そして先輩たちは私を追い詰めた名探偵ですよ」
 演劇部所属の彼女は、自分をサスペンスドラマの登場人物になぞらえている様子だった。
「さあ今からクライマックスシーンですよ、追い詰められた私に向かって、最後の謎解きをして見せて下さい、それが先輩たちの役割です」
 ……まったく馬鹿げている、そんな事のためにこれ程の大騒ぎを起こしたのか。
 和海は脱力してしまい、ついうっかり余計なことを口走った。
「なにもこんなに遠くまで来る事は無かっただろう、推理は後にして病院に戻らないか。お母さんが心配している……」
「ダメですッ!!」
 突然の怒鳴り声に、その場にいた全員が金縛りにあったように動けなくなった。
 ゆかりの表情が豹変していた、まるで本当にサスペンスドラマの殺人鬼になったかのようだ。 彼女は包丁を皆に向け、凄みの効いた声で言い放つ。
「この家、もうすぐ潰されてしまうんです、もう古いから、要らないからって壊されちゃうんですよ。この着物も売ったり捨てたりされちゃうんです、お婆ちゃんが死んじゃうから!」
 ゆかりは包丁をこちら側に突きつけ、凄みのある口調で話を続ける。
「仕方がないことだって言うのは分かります、家って受け取るだけでも税金とかかかるんですよね、何とかしなくちゃいけないんですよね、早い方がいいんですよね。でもお婆ちゃんはまだ生きているのに、それなのにコレはあなたの物、アレは私の物、ソレはいらない物、って勝手に決めちゃうなんてヒドイと思いませんか!? この家も着物もまだ使えるんです、ここにあるんです! だから私が使うんですッ!!」
 肩をいからせて怒鳴る彼女の言い分は、あまり論理的なものではなかった。どうやらゆかりは、この家と着物に祖母の姿を重ねているらしい。彼女は祖母が親族から見捨てられたかのように感じ、自分一人がそれをさせまいとして闘っているつもりなのだ。
 彼女の態度はまるで駄々をこねる幼女みたいだ。だが、だからこそと言うべきか、彼女の祖母を想う気持ちの強さは、これでもかというほど伝わってくるのだった。
 彼女の行為はどこまでも馬鹿げている、だが彼女の心は真剣なのだ、本当に命を絶ちかねないくらいの気持ちでこの『舞台』に臨んでいる。それを理解できないほど、和海と結衣は愚かではなかった。
「……分かったわ、なら望み通りにしましょう」
 刃物を握っているゆかりに向かって、結衣が一歩前に出た。
「お、おい」
「たまには、私にもこういう事をさせて」
 落ち着き払った顔でそう言われて、和海は引き下がった。万が一の事を考えて、いつでも結衣の盾になれるようさりげなく身構える。
 準備を終えた二人の態度を見て、ゆかりは満足そうにうなずいた。
「ああ良かった、ここまで来てまだ謎が解けていない、分からないなんて言われたら……どうしようかと、思っちゃいましたよ」
 和海の全身に鳥肌が立った。ゆかりの笑顔が、怖い。どうするつもりだったのかなんて知りたくもない。とてつもなく恐ろしい妄想が脳裏に浮かび上がってきて、彼は震え上がった。
 だが結衣の反応は和海とはまるで逆であった。
「ずいぶん軽く見られたものね、あんな物で私たちを足止めできると本気で思っていたの」
 そこにいたのは冷酷無比の『氷結メガネ』だった。鈍く光る刃物を向けられてもなお、激しく燃え盛る狂気の炎にさらされてもなお、決して融けることの無い氷の視線でゆかりをにらみつけている。
「わざわざこんな舞台なんて必要なかったのに。電話の一本でもかけてくれていたら、私はすぐに答えてあげたのだけれど?」
 それを聞いて和海たちは悲鳴をあげそうになった。何でこの女はいちいち人の神経を逆なでするような事を言うのか。
「お、お前ちょっと待て、なんでそんな刺激するような事を言うんだ!」
 和海の言葉に対して、結衣は不思議そうな顔でこう返してきた。
「……だって、それが彼女の願いでしょう?」
「ちっ、ちがっ、違う、それ違う!」
「…………?」
 やはり彼女の感性はどこかズレている。刃物を持った相手を挑発してどうしようというのか。
 恐る恐るゆかりの様子をうかがうと、彼女は先ほどよりもさらに恐ろしい顔で笑っていた。
「グッド、ベリーグッド! 氷上先輩、良かったら演劇部に入りませんか? セリフもポーズも、ムカつくくらい素敵なんですけど!」
「……考えておくわ」
 ハラハラしながら両者を見守るその他大勢。その顔には『もう嫌だ、早く家に帰りたい!』と書かれている。そんな様子に気付いているのかいないのか、怖い顔でにらみ合う乙女二人。両者は熱い狂気と冷たい敵意をぶつけ合いながら、ようやく第四の謎解きの幕を開けた。
「第四の謎が示した場所は、八重子さんが入院しているあの病院。それは過去の三問とその報酬が隠されていた場所を線で結び、さらにその上にアスタリスクを描く事で判明します」
 結衣はゆかりだけではなく、その部屋にいる全ての人々に向かって話している。それはまさに推理ドラマの探偵役のようであった。
「そして四冊のノートにはあなた方の名字が隠されていました」
 第一の謎は五十三ページ目に。
 第二の謎は六十九ページ目に。
 第三の謎は七十ページ目に。
 第四の謎は三十七ページ目に、それぞれ書かれていた。
「これは逆から数えるべきだったのです。そしてそれをひらがなの順番に当てはめれば良い」
 第一の謎は二十八番目の文字、すなわち《ふ》。
 第二の謎は十二番目、すなわち《し》。
 第三の謎は十一番目、すなわち《さ》。
 第四の謎は四十四番目、すなわち《わ》。
「そして第二の謎の表紙にだけチョンチョンと点がうってありました、これの正体は濁点だったのですね。これで《ふ》《じ》《さ》《わ》、藤沢になります」
 結衣の言葉を聞く者たちは、つばを飲む音さえも控えて静かに聞き耳をたてていた。
 数々の和服で飾られた異様な雰囲気の和室、そこで清流のようによどみなく自らの推理を語る知的な美少女。もしどこかでこの光景をのぞいている人物がいたとしたら、それは本当にミステリードラマのワンシーンかと思ったに違いない。
 ただ明らかに違うのは、その場にいる他の登場人物の内心である。警察官たちはそもそも謎解きがどのような代物であるかを知らず、それ以外の者たちは謎解きの答えをすでに知っている。どれほど本物らしく見えようとも、やはりこれは形だけを真似た儀式的な虚構なのである。そう考えてみると、ゆかりが口にした『舞台』という名称は巡りめぐってふさわしい物なのかもしれなかった。
「つまり第四の謎がしめしている人物は『藤沢八重子さん』であり、彼女に会うために病室を訪れることがエンディングにいたる条件となります。私たちが今までに手にした報酬は、この家と同様、八重子さんの物なのでしょう。あなた方――つまり八重子さん、ゆかりさん、響さんの三人は、余命いくばくも無い八重子さんとの最後の思い出作りのためにこのようなゲームを思いつき、実行するにいたった……。これが私の推理です、いかが?」
 涼やかな視線を投げかけられて、ゆかりは胸に手を当てて、そして深くため息をついた。
「正解です。出来ればそのセリフを、お婆ちゃんと一緒に聞きたかった……」
 彼女の表情から剣呑な雰囲気が消え、穏やかさを取り戻している。それを見て一同も安堵のため息をもらした。
「納得したかい、ゆかり?」
 響の言葉にゆかりがうなずく。
「はい、お婆ちゃんもきっと満足してくれると思います。完璧な推理でした」
「そうだね、それじゃそろそろ戻ろう。病院でお母さんと八重子さんが待っているよ」
「はい」
 事件解決めでたしめでたし、という雰囲気に包まれる一同。さあ後はこの人騒がせなトラブルメーカーを病院に届けて一件落着だ……と誰もが思っていた、その時だった。
「完璧な推理? そいつはちょっと判定が甘すぎるんじゃねえか?」
 その意外な発言は、何と結衣の相棒、和海が発したものだった。
「お婆ちゃんとの大事なゲームなんだろ、だったらそんな妥協をしちゃいけないと思うぜ」
「ど、どういう事」
 結衣の顔色がみるみる青ざめていく。一番の味方であるはずの和海に否定されて、彼女はひどくうろたえていた。
「私も聞き捨てなりませんね、先輩は何を言っているのですか。出題者の私たちが正解だと言っているのに、どうして先輩がケチをつけるんです、何が違うって言うんです」
 せっかくの舞台に泥を塗られて、ゆかりは明らかに不快な顔をしていた。いまだに握っていた出刃包丁を下段に構えて、凄味の効いた目つきで和海をにらむ。
「ま、待て、俺は何も違うとは言っていない、正確じゃないって言っているんだ!」
「…………はあ?」
「落ち着け、話せば分かることなんだって!」
 和海は恐怖に後退りながらも自説を曲げようとしない。その妙にこだわる態度を見て、ゆかりの表情に困惑の色が混じった。
「どういうことです?」
「と、とりあえず包丁を放せ、このゲームに刃物は要らない!」
「嫌です、私は刃物を持っていると気分が落ち着くんです、どうぞお気になさらず」
 そうは言いつつ、ゆかりは包丁を背中に隠した。あくまでも手放す気は無いらしい。和海は顔をしかめていたが、やがてあきらめて自説を語り始めた。
「結衣、俺たちは何を求めてこのゲームに参加したんだっけ?」
「……あなたはお金、私は理解できない謎を突きつけられた不快感を解消するため、かしら」
「まあ、それだけでも無いんだけど、大雑把にいうとそうだよな。で、その謎は解けているのか、『誰が』『何のために』そして『どんな金なのか』をきっちり説明できるのか?」
「それは、だから、三人が協力して……」
「その『協力』というのがどういうものだったのかを、お前は明確に説明できていない、って俺は言っているんだ」
 うっ、と返答に詰まる結衣。和海は向き直って、その場にいる全員に語り始めた。
「さっき藤沢はお婆ちゃんが生きているのに財産を分け合うのはひどい、みたいなことを言っていたよな、俺もそう思うぜ。でも、ということはさ、もうすでに遺産の分配――生前贈与って言うんだっけ? それはもう終わっているって事だよな?」
「……はい、そうです」
 暗い顔で肯定するゆかり、それを見て和海はうなずいた。
「つまりこのゲームに使われた金と宝石類は、もう八重子さんの持ち物じゃなかったんだ。だってそうだろ、分配した後に数百万円分もの財産が残るわけないもんな。これはたぶん君の将来のためにお婆さんが遺そうとした物だ、違うかい?」
「………………」
 沈黙するゆかりの顔は、誰もが肯定と判断できるほど明らかなものだった。
「思わぬ大金を手にした君だけれど、でも実はちっとも嬉しくなかった。早々と財産整理を進める大人たちが許せなかったんだよね。腹が立って、悲しくて、納得できなくて……、だから君は響に相談したんだ」
 皆の視線がポニーテールの男装女に集まる。まさか自分に話がふられるとは思っていなかったらしく、響は驚いて顔を緊張させた。
「響、お前は悩み苦しむ藤沢の様子を見かねたんだろうな。このまんまじゃ彼女の心はダメになってしまうかもしれない、だからお前はこの子を元気付けようとしてこんな馬鹿なゲームを提案したんだ。『どうせ嬉しくもないお金なら、パーッと使ってしまおうよ』なんて言ってな。だいたいこのゲームのイカレ具合ときたら、いかにもお前が考えそうな事だよな。第三の謎なんて全部お前のアイデアだろ、あんな悪趣味な事を考えるのは、お前ぐらいのもんだ」
「……悪趣味は、余計だ」
 苦い顔で肯定する響。当事者二人は、ここまで和海の推理を全て否定せずにいる。
「そしてお前たち二人は病室のお婆ちゃんの所へ行き、この計画を相談しに行った。かなり無茶な話だけれど、最後には納得してくれたんだよな。一生のお願い、とでも言ったのかな」
 ゆかりと響は、苦笑いを浮かべている。
 和海はゆかりに向き直った。
「このゲームをしている時はさ、君は嫌な気持ちを忘れていられたんじゃないか? きっと響は君を笑わせようとして普段の何倍もふざけていたはずだ、響は大切な君がふさぎこんでいるのを見ていられなくて、こんな事を始めたんだよ」
 ゆかりは驚いた顔で響を見た。響は照れくさそうに顔をそむけて前髪をいじっている。
「気付いていなかったのか。まあこいつはご存知の通り、あつかましいド変人だ。性根も曲がっているけど、でも腐っちゃいない。君のためを想って、こいつなりに精一杯の努力をしていたんだよ」
「ほ、誉めるかけなすかどちらかにしろよ、こっちはどうしたら良いか分からないじゃないか! って……え?」
 ゆかりが、包丁を畳の上に放り出して響に抱きついた。そしてそのまま響の胸に額をうずめて、涙を流し始める。
「……センパイ、センパイ、私っ……!」
「いいさ、いいんだ。私は君に笑っていて欲しかっただけなんだからさ」
 抱き合う二人を見て、和海は満足げにうなずいた。
「これが、俺の推理だ」
 首謀者は長峰響子、その動機は恋人である藤沢ゆかりを元気づけるため。
 共犯は藤沢ゆかりと藤沢八重子、その動機は余命いくばくもない八重子と最後の思い出作りをするため。
 そして用意されていた多額の報酬は、ゆかりが八重子から受け継いだ財産。
 和海のすぐそばから、パチパチ……と小さな拍手が聞こえてきた。
「完敗ね」
 結衣が笑っていた。 
「そうでもないって、俺一人じゃ第四の謎までたどり着けなかったし、お前もそのうち気付いていたはずさ」
「そうかしら」
「そうさ、これは俺の勝利じゃない、俺たちの勝利だ」
「……じゃあそういうことにしておくわ」
 結衣が微笑んでいるのを見ていると、突然誰かの携帯電話が鳴り出した。
「あっ、と」
 電話の持ち主は響だった、抱き合っていた身を離し、彼女は携帯を耳に当てる。
「何だって、本当ですか!」
 電話の声に興奮する響。
「ゆかり、お婆ちゃんが意識を取り戻したって!」
 それを聞いた一同は、大急ぎで来た道を戻る事になった。
 
   * * *

 それからゆかりは、もう一生分の涙を流してしまうのではないかというほどに泣きっ放しであった。泣きながらもっとスピードを出せと無茶を言い、泣きながら病院の廊下を駆け抜け、泣きながらお婆ちゃんの横たわっているベッドに突っ伏した。
 様々な医療器具を体中いたる所に取り付けられていた八重子さんは、ひどく息を切らせ苦しそうにしながらも、泣き続けるゆかりの頭を優しい顔でなでている。
 その様子を見ていた和海は、すぐ横に立っていた結衣に大事な相談を持ちかけた。
「なあ結衣、一つ提案なんだけど」
「何?」
「もらった賞金さ、全部返そうと思うんだ。いくらなんでもこりゃ受け取れねえよ」
「……あなたがそれで良いのなら」
 結衣は、なぜか嬉しそうだった。もしかすると彼女も同じ気持ちだったのかもしれない。これ程までに愛し合う家族の財産を赤の他人が使うなんて、許される事ではなかった。
「そう、それを聞いて安心したわ」
 突然後ろから声をかけられて、和海はぎょっと振り返った。
 そこにはなぜか彼の母親が、しかもこれまでの報酬が入っているバッグを持って立っていたのである。
「か、母さん、何でここに?」
「うふふ、君のお母さんだけじゃないわよん?」
 その後ろには結衣の母・舞衣の姿まで。
「いやいや、一応未青年に協力をお願いするわけですから、ご家族の承認を頂かなくてはいけませんのでね。まあちょっとだけ順番が前後してしまいましたが……」
 横石刑事が状況を説明してくれた。彼はあらかじめ和海たちの家に電話をかけ、二人が警察に協力してくれる事をお願いしていたらしい。
「はいこれ。全くもう、あなたの部屋を掃除していたらこんな物が出てくるんだもの、心臓が止まるかと思ったわ」
「いやはははは、俺たちもついさっきまでどんな金なのか分からなくってさ、とりあえず秘密にしていたんだ、ごめん」
 笑って誤魔化しながら、和海はずっしりと重いバッグを受け取った。
「もしこれを返すのが嫌だ、なんて言ったらあなたのお尻を引っ叩いてやらなければいけないところね」
「そりゃひどいな、もっと自分の子を信じて欲しいよ」
 そう言って和海は病室の扉をノックした。普通ならば間違いなく面会謝絶だが、特別な状況である事を大人たちが説明して、ほんのわずかな時間のみ面会を許してもらえたのだ。
 ゆかりに紹介してもらって、二人は八重子さんと少しの時間だけ言葉を交わした。
 こうして和海と結衣の二人は、ようやくゆかりたちのゲームを全うする事が出来たのである。
 
 
     エピローグ


 さて、病室で和海たちが談話している最中に、ちょっとした出来事が起こった。突然和海の携帯電話が鳴り出したのだ、画面を見ると、かけてきた相手は『高木冬馬』。病院の中である、こちらからかけ直すと伝えてすぐに切るつもりだったのだが、相手の剣幕が凄まじくて、それどころではなくなってしまった。
『かああああずううううううみいいいいいいいいッ、第三の謎を解いたぞコラァッ! 次を寄越せ! 今度こそ絶対お前らに勝ああああああっつ!!』
 電話の向こうで他の連中も『死ね!』とか『童貞にあらずんば人にあらず!』とか無茶苦茶な事を言っている。どうやらこの連中、あの後も諦めずに全員で謎解きを続けていたらしい。
 和海は言うべきかどうかちょっと迷ったが、仕方なく正直に話す事にした。
「あのな高木、それと他のみんなも」
『なんだよ!?』
「俺たち、もう全部の謎解きを終わらせちゃったから」
 一瞬の静寂の後、男どもの大合唱が電話越しに轟き渡った。
『な、何だってええええええぇッ!?』
 その声のやかましい事、携帯のスピーカーが壊れそうだ。
「まあそういうわけだから、残念だがこの件はもうこれっきりって事で……」
「待ってください先輩」
 一方的に電話を切ろうとする和海を、ゆかりが止めた。
「他にも謎解きに参加している方がいたんですね。ならその人達にも続けてもらってください」
「え、でも……」
「私たちのゲームは、まだ続けられます、まだ何も終わってなんかいません。お願いします、先輩」
 そう言われて和海は、ちょっとためらいがちにこう返す。
「でもこんな感じでさ、うるさい馬鹿どもだぜ? 迷惑だろ?」
「平気です、あんまりひどいようなら……私が、黙らせますから」
 その瞳の奥に黒いものが渦巻いているような気がして、和海は不吉なものを感じた。
「……分かった、でも条件がある」
「何でしょう?」
「命だけは、見逃してやってくれ。あんな奴らでも俺のクラスメイトなんだ」
 ゆかりはウフフフ……と意味深に笑った。
「分かりました、命だけは見逃してあげます」
 その可愛らしくも恐ろしい笑顔を見て、和海は思う。
 どうして響はこんなおっそろしい子に惚れたのだろうか……?

     ☆ ☆ ☆ 

 母親二人はまだ横石刑事と話す事があるそうで、もう少し病院内にとどまる事となった。
 響はゆかりを待つと言って休憩所から離れようとしない、また引き離す理由も特にない。
 和海と結衣の二人は、近くの公園で高木たちと待ち合わせをして四冊のノートを渡す事となった。これが無いと最後の謎は絶対に解けないので、面倒臭いが仕方ない。幸い高木たちはすぐにやって来て、ノートを受け取るなりさっさと帰ってしまった。彼らは和海に対してまたもや愚痴や冷やかしをこぼしていったが、さすがに三度目ともなると和海の方が慣れてしまって、別にどうとも思わなかった。
 何はともあれノートの受け渡しは無事に終了し、和海と結衣は二人っきりになった。平日とはいえ夏休み中の午後である。公園内には小学生低学年くらいの子供たちが数人、大声を出しながら遊んでいる。
 二人はとりあえず木陰のベンチに腰掛けた。和海は持っていた紙袋を目の前の地面にそっと置く。袋の中には二つの箱が入っている、第四の謎の宝、金無垢の懐中時計と大きなダイヤがはめ込まれたプラチナの指輪だ。
 和海たちが今までに得た財産を返すと申し出たところ、八重子さんとゆかりはそれでは申し訳がたたないと言って受け取ろうとしなかったのである。それじゃあこちらも困る、と言って強引に押し付けようとする和海。それを意地でも拒否しようとするゆかり。
 まるでらちの明かない二人の押し合いを見かねて、八重子さんが間を取る案を出してくれた。彼女いわく、「それでは第四の宝物だけでももらって頂戴」、それがこの紙袋の中身なのだ。
 何でもこの二つは、故人である夫と一緒に海外旅行に行った時に買ってもらった、彼女の宝物であるらしい。そんな大事な物を、と遠慮する和海たちに向かって、八重子さんはこう言って聞かせた。
「受け取ってくれないなら、そのうち化けて出ちゃうわよ?」
 その身体を張ったユーモアについ笑わされてしまって、二人はありがたく受け取る事にしたのだった。
 今、目の前にそのお宝がある。それを眺めていると、今までの事が夢や幻ではなかったのだという実感がわいてくる。
「とうとう終わっちまったな」
「…………」
 結衣の返事は無い。だがちゃんと聞こえているはずだ、和海は言葉を続けた。
「なんかあっと言う間だったな、もっと夏休みギリギリまで時間がかかるかと思ってた」
「…………」
「最後まで出来たのはお前がいてくれたからだな、間違いなく」
 結衣は首を左右に振った。
「何でさ、ほとんどの謎はお前が解いたんじゃないか」
 彼女はさらに首を振る。
「でも、あなたがいなかったら出来なかった。あなたがいてくれたから、私は諦めなかった」
「そうかな?」
「…………」
 結衣の沈黙を、和海は肯定と受け取った。
「じゃあ、そういう事にしておくか」
 和海が黙ると、あたりは急に静かになった。
 同じ公園内で遊んでいる子供たちの声が、妙に遠く離れて聞こえる。バックグラウンドミュージックはセミの鳴き声だ、そういえば第一の謎を見つけた時も、セミの鳴き声がやかましく鳴り響いていたっけ。あの時の事が妙に懐かしく思えて、和海は胸がいっぱいになった。
「そういえばさ、始めたばかりの頃のお前は怖かったなー、いっつも俺の事をにらんでいてさ」
「……だって、あなたが何を考えているのか分からなかったんだもの」
 結衣は恥ずかしそうにうつむく。
「ジロジロ私の事を見ていて、いつも冗談ばかり言っていて、そのくせ妙に格好つけたがってばかりいて……。私だって、怖かった」
「そうか」
 彼女は無言でうなずいていた。
「じゃあ、お互い様だったって事かな」
 和海がいったん言葉を切ると、また辺りは静寂に包まれた。
「……静かだな、ここの所ずっと夢中だったからさ、こんな風にのんびりするのってすごく久しぶりのような気がする」
「そうね」
「一週間くらいか、あっと言う間だったな」
「ええ」
「色々あったけど、楽しかったよな」
「ええ、とても」
「見舞いに行こうな、絶対」
「そうね」
「…………」
 言う事が無くなってしまって、和海は黙った。
 無言のまま、ただ静かに時が流れていく。二人はただ子供たちの姿をながめて、セミの鳴き声を聞いている。こんな風にただじっとしているなんて、コンビを組んで以来はじめての事かも知れなかった。
 終わったのだ、何もかも。
 和海は今までにない虚無感を味わわされていた。一つの目標を達成したという喜びよりも、もう終わってしまったのだという寂しさの方を強く感じる。まさに祭りの後の静けさだった。
 結衣と過ごしたこの数日間は、本当に毎日が充実していたと思う。
 わけも分からず手にした謎、けたはずれの現金、次から次へと起こる思いがけない出来事。 きっとこれ以上に刺激的な出来事なんて、二度と起こらないだろう。一生忘れられない思い出になるはずだ。それもこれも彼女と、結衣と一緒だったから。だからこんなにも貴重なひと夏の思い出を作る事が出来たのだ。
 とても楽しい日々だった。いや、今も楽しいのだ。こうして虚しさを感じている瞬間でさえも、これまでの平凡な日々とは比べられないほどに楽しくて、幸せな気分なのだ。
 それがもう終わりだなんて、そんなのは、嫌だ。
 その時和海は、今というこの時が猛烈に惜しくなった。終わりたくない、離れたくない、ただのクラスメイトに戻るなんて嫌だ。ならばどうすればいい、終わってしまった縁を再び結ぶために、自分はどうすればよい。
 ……答えは、分かりきっていた。
 告白、俺と付き合ってくれ。それしかない、きっとそれが一番いい。
「ゆ、結衣」
 彼女の名を呼んで、そのまま和海は言葉に詰まってしまった。続く言葉が思いつかない、言いたい事は決まっているのに、うまく口にできない。
「あの、さ……」
「何?」
「…………」
「…………?」
(だめだ、言えねえ!)
 和海は己の情けなさにガックリと肩を落とした。まだ何も言っていないというのに、心臓は激しく高鳴り、膝は震え、全身から嫌な汗をたらしている。
 もしこの場に響がいたら、指をさして笑うことだろう。ここまで状況が整っていながら、それでもなお「俺と付き合ってくれ」のひと言が和海には言い出せなかった。 
「どうしたの?」
 何の含みも感じさせない、普段どおりの表情で和海の様子を気づかう結衣。その無垢さがかえって恨めしく思えてしまう。公園のベンチで若い男女が二人っきり、この状況で顔色一つ変えていない彼女。こいつ本当は俺の事を何とも思っていないのではないかと、そんな気がしてくる。今までさんざん気がありそうな言動やそぶりを見せてきたくせに実は……なんて思えてしまう。
 よくある話ではないか。絶対に大丈夫だと思っていざ告白してみたら、あっさり振られてハイ残念、そんな恐ろしい展開が脳裏をよぎる。
「だから、えっと」
「……?」
 結衣は小首を傾げて和海の顔を見つめていた。木漏れ日が彼女の顔や髪を照らしてキラキラと輝いている。奇麗だ、だがこちらの気配をまるで察してくれない、鈍感女の顔でもあった。
(だあああーっ、ダメだ、俺には正攻法は無理! 天よ地よ、神様仏様八百万の神々よ、笑わば笑え。俺はこういう姑息な男だ!)
 和海は真っ向勝負を諦めて戦法を変えた。急がば回れ、彼女が受け入れやすそうな話題で作戦を開始する。
「結衣、お前に頼みがあるんだ」
「……何かしら?」
「俺に勉強を教えてくれないか」
「え?」
 和海は照れくさそうに頭をかいた。
「……私が?」
「うん、今日の事で手に入れた金がパアになっちまっただろ、それでちょっとな」
 先ほどまでまともに口をきけなかったのが嘘のように、和海はぺらぺらと喋り出した。
 自分が進学希望である事、でも奨学金無しでは通えないくらい家計が厳しい事など。
「ぶっちゃけ私大は避けたいんだ、金返すの大変だろ。でもほら俺の成績で国立とか狙うのはちょっとさ。だから良かったらお願いできないかなー、なんて」
「でも、私は人に教えた事なんて」
「その辺は俺が合わせる、必死に努力する、だからお願い神様仏様氷上様!」
 パンパンと拍手を叩いて拝む和海。何でこんな事ばかり簡単に出来てしまうのだろう、和海自身不思議でならない。
「……分かった、私も努力してみる」
「マジ、やった!」
 両手を挙げて喜ぶ和海、彼は調子に乗ってこんな事まで言い出した。
「それでさ、休みの日にはたまにどこかへ遊びに行こう、二人で」
「えっ」
 二人で、と言われてやっと結衣は顔を赤くした。
「勉強、は?」
「たまにはいいだろ、今までだって似たような状況だったんだし」
「私は日課を欠かさなかったけれど」
 真顔でそんな事を言われて、和海は思わずたじろいだ。
「そ、そうなの」
 うなずく結衣、秀才は一日にして成らずという事であろうか。
「でも、いいわ、たまにはね」
「本当に?」
 ちょっと照れくさそうに微笑みながら、結衣はうなずいた。
「よっしゃーっ!」
 大声を出してガッツポーズを作る和海。それがあまりに大げさすぎて、結衣がたしなめた。
「まだ何の結果も出していないのに、喜ぶのは早いでしょう」
「いや、大丈夫さ」
 和海は真顔で断言した。
「好きな子が応援してくれるんだ、大丈夫に決まっている」
 結衣は一瞬全身をふるわせて、そして硬直した。その様子に一度見覚えがあった。あれは第二の謎を解いた夜、初めて結衣に可愛いと言った時の事だ。
「……え?」
 何とかそれだけ口にした結衣に向かって、和海は追い討ちをかけるようにこう言った。
「お前は、俺の事が嫌いか?」
「そ、そんな事ないけど」
 うつむく結衣。
「嫌いじゃないけど……」
 彼女は首まで赤くして。
「す、好きだけど……」
「俺もさ」
 二人は一瞬視線を合わせたが、すぐにそらしてしまった。
 和海も結衣も、これ以上ないほど緊張しきっている。互いの心臓の音まで聞こえてしまいそうなほどの静寂を破ったのは、和海の方だった。
「あのさ、結衣」
「……何」
「お前を抱きしめても、いいかな」
「…………ッ!?」
 熱に浮かされたような表情で、和海は言葉を続けた。
「勝利を讃えあうとか友情の証とかじゃなくて、愛情表現として、俺はお前を抱きしめたい」
「………………はい」
 結衣は意を決してそう答えると、すっと立ち上がる。
「え、立つの?」
 和海の戸惑いに、結衣は何か間違えたのかとおびえた顔になった。
「ち、違うの? 立った方が、し、しやすいかなって……?」
「そ、そうか、そうだな」
 無駄に勢いよく立ち上がる和海。ガチガチに硬直したその態度は、無様にもほどがある。
「じゃ、じゃあ」
「……ええ」
 そしてぎこちない二人は、ぎこちなく抱き締め合った。
 柔らかい木漏れ日と穏やかな涼風が二人を包む。
「もうすぐ秋だな」
「ええ、新学期ね……」
 互いの温もりを感じあいながら、緊張感を誤魔化そうとしてとりとめのない言葉を交わす和海と結衣。
 まもなく夏が終わり、秋がやって来る。
 眩しい成長の季節は過ぎて、いま二人は豊かな実りの季節を迎えようとしていた。                                                     
                                      

                                       (終)
●作者コメント
 昨年はお世話になりました。おかげ様で今年も自己記録を更新する事が出来ました。
 この作品は電撃大賞三次選考落選作になります。
 よろしくご批評お願いいたします


この作品が気に入っていただけましたら『高得点作品掲載所・人気投票』にて、投票と一言感想をお願いします。
こちらのメールフォームから、作品の批評も募集しております。

●感想
REDさんの意見 +20点
 おお、みやびさんの作品ですね。しかも電撃三次とは期待大です。
 ということで早速拝見させていただきました。

 で、読みながら書いているので、後に解決するところがあるかもしれません。ご容赦を。

 ううむ、さすがに掴みからいいですね。これはなかなか。

>「うむ、やはり人間には水が一番である。水道水を加工せず、直に飲むことが出来るのは日本の水道局が優秀である事の証ッ!

 私は水にうるさいので、どうでもいい突っ込みを。これ、本気でどうでもいいので、軽く流してください。つーことで、日本の水道局が優秀なのはたしかですが、直に飲めるのは源水の質がよいからであります。都市の河川でも基本が軟水ですからね。ヨーロッパのどこかの川みたいに、石けんが泡立たないとか、常識知らずの硬水とはワケが違います。 最近はヨーロッパの水道もだいぶ改善して、飲めるようになったそうですが。
 昔は生水が飲めなかったのでアルコール度数が低い飲用ビールとかワインの消費が相当に大きかったそうです。

 さて、ささいな問題ですが、ちょっと気になるところがありました。

>和海の心の奥底で、わずかな疑念が芽生えた。状況的に何か不自然な気配を感じたのだ。

 このあたりの一連の「観察」描写から、私は和海が観察力に優れた、いわゆる探偵の素質がある人物である。と感じました。

 そのため「間抜けな狸が米食ってポン」というのが出たときに、これくらいはアッサリ解決するだろう。と思ったのですが、なにやら間抜けな悩み方をします。
 このあたり、ちょっとちぐはぐな印象が。
 ま抜けとか、た抜きというのは小学生のナゾナゾでも出てくるネタですので、せめてここまでは解いてほしかったのが、初期印象です。
 折衷案として、真ん中までは自力でとける。後半が思い出せなくて悩む。そこへ……というのはいかがでしょう?

>その表情はとても活き活きとしていた。

 ここは視点者なので、表情より気分のほうが適しているような。

 ところで、けっこう時間が戻るシーンがありますね。私はまるで気になりませんでしたが、もしかしたらひっかかる読者もいるかもしれません。

> 適当に誤魔化しておけばいいものを、馬鹿正直に『第三の謎』のコピーを高木に見せてし

 ううむ、見事なシーンです。トラブルを持ってくるタイミングが素晴らしい。読んでいて、このあたりで謎解きそのものに大きな変化が入るか、なにか大きな転機があるか、とにかく話に大きな動きが欲しいと思っていたところです。
 望ましいのは謎解きそのものが大きな動きを見せることですが、トラブルを引き起こすというのもよい手ですね。もし先を越されたらすべてが破綻するだけに、なかなか。

>「……私の家」
> こうして和海は結衣のお宅へお邪魔する事になったのだった。

 うーん、ここはなかなかよいシーンなだけに、先にネタバラシがあるのは正直残念です。驚きが八割減、おおっと思うシーンなのに、むしろ冷静に読めてしまいました。

>第三の謎

 引っ張りましたね~。興味を持続するよい手です。参考にさせていただきます。
 およそ中盤戦、このあたりで同じような謎解きが続けば飽きられるのは必然で、そこをクリアする技術が惜しみなく投入されていると思います。

 ただちょっと、あとから気づいたことが。途中でギャグシーンが挟まっていますよね。これ自体は箸休めみたいで良い効果を発揮しているのですが、同時に高木らに先を越されてはすべてが破綻する。という緊迫感ある条件がすっかりこんと頭から抜けてしまいました。
 このことにあとから気づいて、ありゃ。と思ったりして。どこかで思い出させるシーンを入れたほうがいいの……かも。
 と思ったのですが、結局このネタは流されてましたね。
 うーん、奪い合いとかに発展するかと思って期待したのですが。

>電波系なセリフは
 真なるデンパ系のセリフとは、日本語としてまるで成立していないのに、なんだか意味がわかったような気になる究極の言語体系なのだ。けっこう難しいです。その手の販売サイトとかみると、デンパゆんゆんの強烈なやつがあって、ちょっと感動しました。

>「俺たちは完全に引き立て役かよ、嫌んなっちまうぜ」

 うーん、高木にバレるのは、「おおっこの展開は!」と驚いたシーンだっただけに、これで終結はなんだか肩すかしかも。

>あわただしかった祭りの夜は終わり、翌日の午前中。

 ううううむ、思わず残りの枚数を気にしてしまいます。この段階でかなり長い日常ラブコメシーンの挿入。ヒロインとの関係をきっちり成立させるために必要なシーンとはいえ、残り枚数を考えると展開に不安がむくむくと。

 そして、うぐぐぐぐ。

あれこれ

 いや、なんか凄いですね。
 前作より格段にグレードアップしていますね。キャラが薄かった前作とうってかわって、今回はきっちり立っています。
 そしてリズムのよい文章。これプロ級です。それもよくラノベで見かける、これマジでプロなのか? と疑問が沸き立つようなのではなく、職人技の。
 恐ろしいほどに流れがよい文章ですね。するする入ってきます。
 ただこれ、私には良いか悪いか判断しかねるのですが、先読みさえできるほど流れがよい。という印象も受けました。一文を読むと次に書かれているであろうことが予測できる。つまり意外なことが書かれていない。
 繰り返しになりますが、これが良いのか悪いのか判断しかねます。読みやすさというラノベでは強力な武器になっているのも事実で、これなくしては地の文が非常に多いこの作品はつらいはずです。

 さてさて、この作品を真ん中当たりまで読み進めた印象は、あなたは神ですかぁ? これ落とした電撃なんか無視して、さっさと別のレーベルに突っ込んでデビューしなさいませ。
 でした。とにかく凄い、素晴らしい、傑作。細かいところなんか、どーでもよろしい。ってなもんです。

 しかし、思わせぶりな高木とのトラブルがどこかへ行ってしまったところで、おや? と思い、ラストが近い辺りでけっこう長い日常編が入ることに不安を感じ、そして、このラストの展開に納得できる読者がどれくらいいるでしょうか。
 三次まで進めた原動力は、まちがいなく圧倒的なクオリティと、中盤から終盤近くまでの素晴らしさ。
 そして、そこで落選した理由はまちがいなく、ラストの展開でしょう。
 まてまてまて~! を連発してしまいました。
 なまじ出来が素晴らしい小説だけに、抱いた期待感を満たす風呂敷のたたみ方ができていなかったことで(私にとっては)、不満がどーっと噴き出しました。

 点数ですが、初期の印象は40点、いままでつけたことがない点数です。しかしなんか30点に下がり、かなり微妙なラインで悩んだ末に20点。すみません。トータルで見て30点以上で不思議はないと思うのですが、私はラストに小説の神髄があると考えるタチなもので。

 ラストの展開が中盤までで育った期待感を満たすものだったら、猛烈な傑作になること間違いなしなんですけど、ではどうやったらいいかといえば、私の能力では想像がつきません。役立たずで申し訳ありません。


湊さんの意見 +30点
 どうも、湊です!
 「この季節が終わるまで」読ませていただきましたので、感想をお伝えしようかと思います。


 文章も読みやすく、スラスラと読めました。最初、長編とか読むのめんどくせーと思っていた、僕ですが読み始めていつの間にか読み終わっていた印象があるほどです。
 内容の方も、謎もよかったと思います。謎の方は頭のイイ(自称)の僕でも解けませんでした。何かクオリティー? が高い気がしました。


 よくキャラクターを描けていました。人物に入り込むのもたやすく出来た印象を持てました。


 短くて、拙い感想でした。
 次回も期待しています。


賢一さんの意見 +20点
 初めまして、賢一と申します。
 作品を読み終えましたので感想を残したいと思います。電撃大賞で三次選考まで残ったことは凄いことであると率直に思います。実際に読み進めていく中でも文章に隙が無く、人物同士の掛け合いも軽妙でした。
 ストーリーも、学園ものと謎解きを組み合わせていく、珍しいタイプの物語のように思います。ライトノベルでは多くの場合、ファンタジーにラブコメか、アクションが組み込まれる傾向があるわけですから。そういうものに頼らずにあくまでリアリティを追求した点が評価されたのかもしれません。

 ここから先は自分がこの小説を呼んでいて気になったところや、もったいないな、と思った点を書いていきたいと思います。

 さて登場人物なのですが、まずは主人公の和海。母子家庭という家庭環境が描かれていて、貧しいながらも明るく生きる好感の持てる人物に描かれています。それでも一緒に生きていく母親との間で色々な葛藤があるようですが、そこのところがもう少し物語に上手い具合に絡めてくれたら(女性観や物語の後半、ゆかりとのからみの所で)良かったなと思います。せっかく背景まであっさりとしすぎなのではないか、と感じてしまいました。しかし、これは私の好みですので、気にしないでください。
 次に、当の事件の中心人物であるゆかりについて。おばあちゃん子であるわけですし、決して治る見込みのない病に罹っている祖母が弱っていくのを見なければならない彼女の哀しみは理解できます。そして、その祖母の思い出が残る遺品や住居を護りたい気持ちを持ってもおかしくはないと思います。しかし、いくら何でも包丁はやり過ぎではないだろうか、と感じてしまったわけです。今までのストーリーの流れ、そして作品の雰囲気からはちょっと想像できなかった展開です。彼女の哀しみや心の寂しさを想像していたので拍子抜けしてしまいました。無理にシリアスな要素を最後に挿入しなくても、これまでの展開を踏襲したシーンでも充分に彼女の祖母に対する想いや絆は伝わったのではないでしょうか。そう言うわけで最後の展開がちょっと残念に思います。

 ここまで書いていきましたが、総じて見ても高い完成度をもった小説であると考えます。この調子ならば電撃にこだわらずとも充分にいけるのではないでしょうか。
 最後にお願いになってしまって申し訳ないのですが、同じ公募を目指す者同士、互いに切磋琢磨していく意味もかねて、また同じ電撃大賞に応募した者として、是非ともみやびさんにも、同じ長編の間の自分の作品『哀しみのロザリオ』に感想を書いて欲しく思います。無論、自分は発展途上の身である故、気になったところ、疑問に思ったところ、気に入らないところがありましたら遠慮なくおっしゃってください。お互い、次の公募目指して頑張っていきましょう。
 それではお疲れ様でした。


メビウスさんの意見 +40点
 初めまして、メビウスと申します。
 「この季節が終わるまでに」
 大変楽しく読ませて頂きました。
 キャラクターの一人一人がとても個性的で物語をグイグイ引っ張っていくいく力強さを感じました。
 4つの謎に関しても答えを導き出すまで試行錯誤している姿に、いつこの謎は解けるんだろうとワクワクしながら読んでいました。
 答えが判明したとき、なるほどなあと感心しておりました。

 文章のリズムがとてもうまくて、中断することを忘れ一気に最後まで読んでしまいました。

 富士見のミステリー系の公募がぴたりとはまりそうなジャンルかなと私的には感じました。

 楽しい時間をありがとう御座いました。

 いや、なんか凄いですね。
 前作より格段にグレードアップしていますね。キャラが薄かった前作とうってかわって、今回はきっちり立っています。
 そしてリズムのよい文章。これプロ級です。それもよくラノベで見かける、これマジでプロなのか? と疑問が沸き立つようなのではなく、職人技の。
 恐ろしいほどに流れがよい文章ですね。するする入ってきます。
 ただこれ、私には良いか悪いか判断しかねるのですが、先読みさえできるほど流れがよい。という印象も受けました。一文を読むと次に書かれているであろうことが予測できる。つまり意外なことが書かれていない。
 繰り返しになりますが、これが良いのか悪いのか判断しかねます。読みやすさというラノベでは強力な武器になっているのも事実で、これなくしては地の文が非常に多いこの作品はつらいはずです。

 さてさて、この作品を真ん中当たりまで読み進めた印象は、あなたは神ですかぁ? これ落とした電撃なんか無視して、さっさと別のレーベルに突っ込んでデビューしなさいませ。
 でした。とにかく凄い、素晴らしい、傑作。細かいところなんか、どーでもよろしい。ってなもんです。

 しかし、思わせぶりな高木とのトラブルがどこかへ行ってしまったところで、おや? と思い、ラストが近い辺りでけっこう長い日常編が入ることに不安を感じ、そして、このラストの展開に納得できる読者がどれくらいいるでしょうか。
 三次まで進めた原動力は、まちがいなく圧倒的なクオリティと、中盤から終盤近くまでの素晴らしさ。
 そして、そこで落選した理由はまちがいなく、ラストの展開でしょう。
 まてまてまて~! を連発してしまいました。
 なまじ出来が素晴らしい小説だけに、抱いた期待感を満たす風呂敷のたたみ方ができていなかったことで(私にとっては)、不満がどーっと噴き出しました。

 点数ですが、初期の印象は40点、いままでつけたことがない点数です。しかしなんか30点に下がり、かなり微妙なラインで悩んだ末に20点。すみません。トータルで見て30点以上で不思議はないと思うのですが、私はラストに小説の神髄があると考えるタチなもので。

 ラストの展開が中盤までで育った期待感を満たすものだったら、猛烈な傑作になること間違いなしなんですけど、ではどうやったらいいかといえば、私の能力では想像がつきません。役立たずで申し訳ありません。


うなぎさんの意見 +30点
 読ませてもらいました、うなぎです。

 ぐ……ぐぐ……ぐぐぐ。
 これが三次落選ですか。
 僕は一次落ちでしたが、あなたになら負けても仕方ないと思ってしまいましたよ。
 いやほんとすごいです。
 そして二段階(三次→二次→一次)格下の僕が作品を批評することは、少し恐れ多いような気がしてなりません。
 でもがんばります。

・プロローグ
 第二の謎から入るこのプロローグ、非常に良かったです。
 100万円、そして意味ありげなメッセージ、第二の謎。
 これから何が起こるのかと、興味をかき立ててくれました。
 あくまで個人的な意見ですが、ここは削らないほうが良いと思います。

・第一の謎
 まず始めに思ったのが、『問題簡単すぎじゃね?』ってことです。
 まあ一番初めの問題なので、難しすぎるのは問題あるかもしれませんが、それにしても『た』とか『ま』抜きとは……。
 余裕があるなら再考してみることをお勧めします。

・母子家庭
 ほうほう、母子家庭なのか。
 きっと母親が金に困っているに違いない。
 もしかして……この謎を解いた時にもらえる賞品はそのためのものなのか?
 金に困ってる主人公を見ていられなくなった誰かからの……施しなんじゃないのか?
 だとすると結衣が絡んでくるのは邪魔だから、きっとこの先――
 などと変な妄想を繰り広げていたけど、ほとんど本編と関係ありませんでしたねこの設定。
 ゆかりを説得したときくらい。
 もうちょっと絡めてもいいのでは?

>「コレで和海くんは、わたしのお嫁さんだよ」
 キスをしたけど、向こうは男として見てすらいなかったと。
 これはなかなかうまいと思いました。
 『幼馴染=主人公のことが好き』という固定観念のある僕から見ると、ある意味超展開。

 ここからは全体の感想に入ります。

・ストーリー
 矛盾なく、そして先が気になるストーリーでした。
 非常に良かったです……ラスト以外は。
 まあ他の人の言っているので、このことについてはあまり触れないこととします。
 あと全体的に、煽りというか、謎っぽさというか、緊張感というか、そういうものが足りないと思いました。
 まあ『これは恋愛小説です』といわれてしまったらそれまでですけど、ミステリーというならそういうところが欲しいかなぁと。
 じゃあどうすればいいのか? って聞かれると困ります。
 結構デリケートな問題で、各キャラクターの心情と矛盾しないようにしなければならないですからね。

・文章
 まあさすがに三次落ちでしたら、文章が駄目なはずないでしょう。
 むしろ僕が教えて欲しいほどです。
 本当に……ははっ、一次落ちですから、ははっ……は……は……。

・キャラクター
 時々電波言葉が入る変な主人公――和海。
 普段は暗い、けど時々見せる可憐さ――結衣。
 男の娘の逆? 幼馴染だけど主人公好きじゃない――響。
 妹っていいよね。きっと主人公のこと好きになるんだぜ(僕の妄想です)――芽衣。
 ラストはちょっと――ゆかり。
 一人ひとり個性のある良いキャラでした。
 物語を彩るために最良と言えるでしょう。
 でもゆかりはちょっといただけないと思います。

 なんだかあまり役に立ちそうにない感想ですいません。
 お互い、受賞を目指して頑張っていきましょう。


あざらしさんの意見 +30点
 こんにちは、あざらしと申します。
 長編初めての感想です、よろしくお願い致します。
 プロを目指している方かと思われますので、普段書かないことまで踏み込んで感想を書かせて頂きます。
 ちょっと厳しいことも書くと思いますが、プロを目指されているならば、デビュー後よりはデビュー前の方が後々良いことかと思いますので、一種の愛情だと受取って頂ければ幸いです。
 こういうことを書くと卑怯かとも思いますが、好き放題書く免罪符だと受取られると、ちょい悲しいのもあるのですが^^;
 あと、他の方の感想は先入観を無くすためにも読んでいません。ですので、ダブっている記載、「それはもう 指摘されたよ、しつこい!」というのがあったら、すみません。


 まずは、全体を通して楽しませていただきました。
 御作読ませて頂けたことに感謝致しております。ありがとうございました。

 ちょっと雑談から入ります。
 私は完全に読者の立場ですので、拝読後、さっそく電撃大賞について調べさせて頂きました。
 いや、もちろん存在は知っていますが、賞そのものは結果として発行された作品を読むだけでしたので審査形態そのものは全く知りませんでした。
 最終審査に辿り着くには、四次まであるのですね。
 さすがはトップレーベル。

 おそらくですが、二次までは努力と根性。小説に一定期間真剣に向かい合った方ならば、通過できる可能性があるのかな、と読み取りました。
 最終選考、これについては編集者が付くということですから、デビューそのものができる可能性がある作品だけが残っている。
 四次については、表現が相応しいか不明ですが「この小説に中高生の金銭感覚で600円を出すだろうか?」こう言い換えても良い感じがしました。

 さて、問題は三次通過。
 みやびさんの作品を読んで、これは読了後『作者本人に興味が出るレベル』
 この人でなければ、書けない。
 物語に、ぐいぐいと引きつけられる力がある。
 綺麗にまとまっているよりは、化けそうな可能性。
 誠に勝手ながら、四次の壁はこういった感じではなかろうか、と感じました。(実際は残り○ 作品という数の話しが色濃いのでしょうが、意味合いとしては、そういう感じでは? というイメージを思い浮かべました)

 この四次の壁としてあげさせて頂いた事柄は、逆に言えば、御作を読ませて頂いた不満点でもあります。



 標準以上なのは間違いありません。
 牡丹の色はピンク色、紫紅色であって、水色はちょっと違うのでは? とかそういう『校閲さんがいてれば問題ないだろう』という些細な部分がちらほらとありましたが、全体を通して破綻無く、かつ読みやすかったです。

 ただ、一言でいって「みやびさん以外には書けない」という感じがなかったです。
 『○ ○ の影響』を受けるのは否定しません。仕方ない。
 ただ、紙に書かれた文字の下にうっすらと数名の著者が透けて見える感じが否めない。
 絵画でも写真でも、創作においてこれを排除するには難しいです。
 ただ、影響は受けている、けれどそれを咀嚼し昇華している、自分の世界の構築に成功している、この感 覚まで押し上げる必要を感じました。
 書いて書いて書きまくる、影響を全て飲み尽くす必要を感じました。


 最も残念だったのは、綺麗にまとまりすぎていました。
 『この先、なにかが起こるかも』というドキドキ感の欠如。
 『確かに非日常ではあるが、まず何も起こらない』という安心感。
 何度も乗ったことがあるジェットコースター。
 物語をただ追いかける感覚。
 『これから飛行機に20時間乗る、だが、だからといって何かが起こるとは到底思えない。ゆっくり過ごそう』
 こういう感じでした。

 では、それは何処かとなるのですが。
 ちょっと細かく。
 例えば幼馴染みの(長峰響子)
 レズッ気がある子、というよりは真性のレズです。
 これは私は、女の子というよりは、高校生男子を心の中に飼っている女の子として読みました。
 ありていに言えば、性同一性障害ですよね。
 この時点で、恋愛が重要なポジションを担うストーリーにおいてライバルにはなり得ない。つまりは安心して読めます。
 これはもう、彼女がどう動こうが、何をやろうが『彼女はふたりに絡んでこない』という想像が容易にできました。
 得に強く感じたのは『男子の制服』
 そこまで徹底すると『ひょっとして』という感想が出ない。

 で、読み進めてですが「まさか母親が絡むことはないだろうから、妹かな?」という感じも一瞬したのですが、これもすぐに霧散。
 いや、面白いシーンでしたし、メインのふたりが物静かなだけに、彩りとしても必要なキャラクターだと思います。
 事実、私は妹が出てくるシーンが一番面白く感じました。
 ただ、やはりドキドキ感がない。
 想定通りに動き続けます。

 この『予想通りにキャラクターが動いていく』
 言い換えればこれは、メインふたりを、得に和海を応援したくなる気持ちがわいてこない。
 「頑張れ!」ではなく「頑張ってるね」という傍観者気分。


 ミステリーと恋愛を絡める、という構造。
 目新しいものではありませんが、面白く感じました。
 冒頭のシーン、落ちているノートから物語が動き出す。
 手法は良かったですし、物語全体として破綻もない。
 そして、ここから結衣の登場部分と行動を共にし始めるところまでが、物語に一番引き込まれました。
 ですので、つかみは充分。
 けれど、その肝心のミステリーがナゾナゾであった。
 もちろんミステリーの仕掛け役を考えれば、不思議はありません。
 『超絶に新しく斬新、まさに頭脳プレイが必要』という感じのトリックだと、いやもちろん楽しめますが、同時に仕掛け役に対して不思議にもなったとも思います。

 それよりも問題は、探していく際のトラブルや障害。
 意図せず起こった偶然などもなく、クラスメートぐらいです。
 そしてクラスメートの登場でもドキドキ感がなく、『意外性』もないのが惜しかったです。
 登場した時点で、謎解きのライバルになっていませんでした。


 後半、祭りのシーンが終わった辺りで燃え尽きた感じがしました。
 ここから終りまで、物語としては尤も盛り上がってくるはずの辺り、ここがすらすら読める、だのに心の中に物語が浸透していかない。
 失速感が残念です。
 気になった点ですが、心情の説明がやたら多かったです。
 ドラマや映画でいえば、ナレーション過多。
 あまりにもわかりやすく、わかりやすすぎました。
 これはもう、頭を働かせる必要がないほどに。
 こういった心理的な部分、感情の揺れ動きを台詞や描写、そういったことを総動員して見せて欲しかった。


 勝手なことを書きますが、終盤書きながら悩まれませんでしたか?
 悩んだときは、楽な方と苦しい方、創作に限りませんが手間がかかって苦しい方を選ぶのは、結構最終的には正いことが多いです。
 同時に、より楽しいことを選択するのも後々後悔がなくていい。
 これは「小説を書くことは楽しい」が前提の話しであり、創作において資質の話しでもあります。
 メインふたりに愛情をそそぎ、ラスト爽快感まで持っていって欲しかった。
 キャラクターの産み親であるみやびさんに、我が子を千尋の谷に突き落とす、可愛い子には旅をさせろ、そういう感覚が欲しかった。
 このストーリー構造であると、ハッピーエンドには障害が必要ではないかと思います。

 全体を通してのドキドキ感の演出。
 物語構造はこのままで、追記改稿されるならばですが。
 どうでしょう、あと8ページぐらいかな? という感じを受けました。


 ちょっと長くなりすぎました。
 得点については厳しさ抜き、純粋にどれだけ楽しませて頂けたかを基準にして、26点を四捨五入させて頂きました。
 いずれにせよ、夢に手が届きそうになってきているのは間違いないはずですよね。なんだか我が事のように嬉しく思いました。
 頑張って下さい、応援しております。
 いつの日か、みやびさんの作品を書店で手に取る日を楽しみにしております。


カワセミさんの意見 +40点
 初めまして、カワセミと申します。

 三次落選ということで興味を持ち、読ませていただきました。未熟者ですが感想の方を。

 全編を通して青春という単語がぴったりとはまりそうな物語でした。こんな夏の思い出を過ごすことが出来たら楽しいだろうな、と読んでいて微笑ましい気分になることがとても多かったです。

 個人的にはミステリー小説が好きなのですが、殺人や強盗などの重犯罪系ばかり読んでいたので、こうした軽くてライトな推理劇はとても新鮮でした。軽い、というと語弊があるかもしれませんが、謎の難易度やそれに取り組むキャラクター達を見ていると、ミステリーは敷居が高い、という人にもすんなりと受け入れてもらえるだろうと思いました。

 三次落選ということですので、今さら分かり切ったことなのでしょうけど(笑)

 登場人物も全員が魅力的でした。特に和海と氷上のコンビは最高ですね。氷上のクールなキャラと恋愛に対しての奥手さが絶妙なギャップを放っており、好感の持てるヒロインだったと思います。

 何より秀逸だな、と思ったのは響とゆかりのコンビです。響のインパクトのあるキャラと、登場時にはとても地味だったゆかり。つい引き寄せられてしまう響というキャラの影に隠れるように黒幕が居る、という手法には感嘆させられました。

 読者に対する誘導が人間性だけで行われていたので、激しい実力の差を感じました。ミスリードの技量は半端じゃないと思います。
 
 とても面白い作品でしたが、一つ引っかかったのは視点移動でしょうか。響が和海の部屋を訪れたときに、突然視点が響に変わったので、不自然に感じました。

結末を見てしまえば、これも伏線の一つかな? とも思えるのですが、あの時点では一貫して和海視点でも特に問題はなかったかと思います。

 以上になります。僕もミステリー小説は好きなので、このジャンルにまだまだ開拓の余地があることを痛感させられました。読者に強い印象と影響を与える素晴らしい作品だったと思います。

 僕は公募歴は一度しかないのですが、これが先輩に当たる人の作品か・・・と真剣に読むことが出来ました。それも全ては実力に裏打ちされたものなのでしょうね。

 少しでも近づけるように、僕も頑張りたいと思います。

 それでは、失礼します。またお会いしましょう。


ボギーTさんの意見 +20点
 初めまして。ボギーTです。
 読ませて頂きましたので、少し感想を。
 とは言いましても、さっと読んだ上での感想ですので、読解力の欠けた部分が多々あるかもしれません。ですので、見当違いなことを申し上げるかもしれませんが、その辺りは適当に流してくださいね。

 まず文章は達者ですね。とても流暢で素敵です。書店に並んでいてもおかしくないレベル。正直羨ましいくらいです。ですので僕のような未熟者が指摘するところなぞ特にありません。

 で、肝心の内容ですが、

 いやぁ~出だしからいいですねぇ。冒頭でいきなり100万ですか。インパクト大です。これは一体何なんだろう? と、すっかり引き込まれました。
 そして謎のメッセージとクイズ。うぅ~ん、実にミステリアス。
 タイトルでもある「期限は、この季節が終わるまで」 いやぁ~このセンス、最高にいいです。
 結衣との出会いと言うか共闘する流れもごく自然に感じられますし、いやいや巧い巧い。この辺りは期待感がどんどん増してきます。
 肝心のクイズの難易度はどの程度のものなのか、当方思考する能力ないため、頭を空にしてもっぱら主人公たちの思考に感心しながら読み進めていました。
 で、ここまで自分として思ったことですが、いやぁ、これライトノベルというより、青春ミステリー? だなと。響子という特殊? なキャラはいますが、実写化出来そうな感じだし。映画にしますか? ドラマがいいですか? と妄想したりしてみました。赤川次郎の再来かも? とちょっと思ったりして。
 さて、この先はどういう展開になるのだろう? きっとこれから大事件に巻き込まれていくのかなぁ? とますます期待が高まりました。

 そんなことを考えながら、結衣の家の話まで来るのですが、結衣の母親、妹が出てきて、あぁ……このキャラ設定、やっぱりライトノベルなんだなぁ~と。
 いやいや、ライトノベルとしてライトノベルの賞に送っているのですから当たり前なんですが、個人的にはちょっとガッカリ。三次元から二次元へ戻された気分。いや、いいのですよ。ライトノベルなのですから。全然構いません。それはそれでよく描かれてますし。特に結衣の恥ずかしがる描写なんて巧いですよね。でも僕だけかもしれませんが、テンプレ感が……。
 第三の謎を間にお祭りのシーン。う~ん、長い気が。結衣の嫉妬? はとても可愛いのですが、この話の主題から外れてきてしまっているような……とは僕の勘違いでしょうか?
 
 この話はあくまで謎解きがメイン。恋愛描写なんて二の次三の次なんじゃないかな? と思っていたのですが、読み終わって、他の方へのレスをちらっと見ると、恋愛物にミステリーを加えたと。あぁ、そうでしたか、これは恋愛物だったのですか、と。

 肝心の犯人? 意外と言えば意外。想像もつきませんでした。まぁキャラが限られているとはいえ、どうなんだろ? しかもその動機が何とも……。いや、中高生向きなら、それでいいのかもしれませんが、学生ではない僕には少し「う~ん」て感じでした。
 勿論、お書きになった時点でのもっともベストな選択であるとは思いますし、じゃあどうしろと? と言われても困ってしまいますが、読み始めた当初の期待感には程遠い結末のような気がしました。もっと別に話を転がせなかったのかな? と。

 漠然とした言い方ですが、謎を解くうちにもっと世間を騒がす大事件に巻き込まれていくような展開にしたほうがいいんじゃないか? と。
 謎も最後まで引っ張っていくとか。最後の最後で読者も「エェッ!」と叫んでしまうような大どんでん返しがあるような……まぁ難しいですけどね。
でも序盤読んでいて、作者様は、きっと僕を最後に驚かせるに違いない、とワクワクしていたんですけど。

 それと恋愛物が基本と言うことでアレですが、僕の希望を申しますと、もっとクールな作りがいいかも、と。
主人公とヒロイン。ヒロインの偏った性格が魅力的でもあるので、はっきりとした恋愛関係までいかないほうがいいかもしれない。成就したら話は終わりです。何もかも。勿論、公募するなら話はきっちり終わらせるのは当然です。
 しかし、「BONES」てドラマ知ってますか? あの主人公二人のように、くっつかず離れずといった関係のほうが、受賞してから(捕らぬ狸の何たらではありますが)、続編書くにも充分有利になるのではないかなぁ? と。当然、作者様には、今後も継続的に謎解きのお話を作れる技量のあるお方であるとも思っております。

 といった大雑把な感想で申し訳ありません。それに参考にはならないと思いますので、まぁ馬鹿なことを言っているな、と適当に読み流してください。
 でも、レベルの高いよく出来た作品とも思います。電撃の三次まで行ったということで読ませて頂いて、こちらも大変勉強になりました。ありがとうございます。
 今後も頑張ってください。大いに期待しております。


竜樹さんの意見 +30点
 拝読しました。

 おおっ、電撃二次。大躍進ですね。てことは来年もう一個上へ行って、その次には・・・・。楽しみです。
 覚えていらっしゃらないかもしれませんが以前、一次作品と言うのに惹かれて読んで感想を書かせていただいたことがあります。あれからちょうど一年経ったのか・・・。あの頃よりは批評の腕があがっているといいなと思いつつ以下、いきます。

>一人の男子生徒が、下駄箱の前で一冊の大学ノートを拾う。
 もしかしてパロですか? こう始めて全然違うよう進めて落すという。

>一万円札が百枚、それがテーブルの上に束になって置いてある
 お見事。無駄なくすでに物語が始まっている・・・・。しかもインパクトと謎がある。

>和海は目を見張った。たった今、大きな疑念が一つだけ晴れたのだ。
 ノートの謎と彼女の謎。謎ときの二重構造で、しかもキャラを掘り下げて言っているわけですね。うーん。このやり方だとテーマのブレ、とか言われずにすむのか。学習。

>「どうしてよ、私はしょせん一時的な『相棒』、もっと大事な人があなたにはいるのでしょう!」
 うーん。少年系なのに糖度が高い。すでに謎解きよりこっちがメインになっている。負けた。

 文章は言うことありません。軽く、リズムよく。キャラもそれぞれたっていて。密かに高木がお気に入り。

 総評
 ああっ、なんで人型兵器がでてこないんだっ、というのは置いといて突っ込みどころは。
 
 ラスト、というか、その一つ前の全ての謎が解明されたところですね。
 そこまでの流れが秀逸だっただけに。病院へ行ってからがちょっと。
 そこまでがよいテンポだったのに。じらされじらされ。
 そしてすぱっと短く真犯人、そしてその真意。
 ここが軽いというかなんというか。
 まだ生きている祖母をすでに意識上片付けていることへの反抗、は実は私も中学の時に葬式準備模様替え中のソファで不貞寝したことあるし、なんとなくわかるのですが。なんかすらっと行きすぎなような。
 以前、読ませていただいた鋼鉄のユウキの時も真犯人(?)のクラリスの心境、伏線がすぱっと軽く流されててちょっと突っ込み入れましたが。あれとまるっきり同じです。
 もうちょっとラスボスのどろどろを掘り下げる、伏線入れとく、の必要があるのではないでしょうか。今のままだと、それだけのためにこんなことを? と安っぽく感じてしまうんです。理由は今のままで充分なんですが、納得できるだけの伏線と描写がない。たとえ話とかを思わせぶりに響にちらっと言わすとか、浴衣だけでなく、おばあちゃん子であることをもうちょい出すとか。ちょっと不安定な精神になっているところをちら見させるとか。改稿を求む、です。
 
 その他がテンポよく、また楽しくのめり込めただけに。というか楽しかっただけに愛しさ余って憎さ百倍の心境で。ここは何とかしてほしいですね。
 そのほかの部分は突っ込みどころは有りませんでした。キャラはそれぞれおもしろかったし。謎もよく考えたな、と思ったし。謎を解く過程も楽しく自然。読者自身も参加できるしこの設定はナイスですね。恋愛部分はおおって感じで。この一年、せっせと恋愛修行してきたけど書けないでいる私には眩いばかり。あー、少年系に恋愛で負けたよ・・・。遠い眼。くそっ、リベンジしてやる。と私情をいれたところで。失礼いたします。


しきさんの意見 +30点
 はじめまして。しきと申します。
 読ませて頂きましたので、少し感想など残していきます。
 細かい部分の指摘をする技量がないので、おおざっぱな感想になってしまいますが、よろしくお願いします。

 まずは、文章ですよね!
 もう散々他の方が言ってらっしゃいますが、私も言いたいのでw
 とても素晴らしく、ここまでするすると読みやすいものは初めてかも、というくらいでした。
 プロとしても十分な技術をお持ちではないかと思います。

 登場人物も一人一人キャラが立っていて魅力的でした。
 テンション高めな主人公はどちらかと言えば得意じゃないのですが、この作品の和海は気にならず、むしろ好きでした。
 この性格で何か心に抱えていることがあったりするとさらに私好みに……いえいえ気にしないでください。

 ストーリー展開もダレるようなところはなく、ぐいぐい読めました。
 矛盾なく次の展開に持ち込んでいて、素直に上手いなーって感じです。
 端的にに言ってしまえば面白かったです。はい、かなり。

 ラストは……えっと、それも含めて、なのか分からないですが、読破後に思ったことを書いてみたいと思います。

 読んでるときはすごく面白かったです。本当に。
 完全に一読者として楽しんでおりました。
 で、読み終わってみると、なんというか「中途半端」な印象がちょっとだけ残りました。……すみません。
 その原因を考えてみたのですが、作者様が一番に書きたいことがよく分からなかったからだと思います。
 「謎解き」がメインなのか「ラブコメ」がメインなのか私にはちょっと掴めませんでした。
 なので、面白かったはずなのに、私は何を読んだのだろうという何とも言えない不安感が。

 謎解きが主軸だとすると、ちょっと謎が弱いような気もします。
 ラブコメ路線なら、このくらいでいいのかも。ラブを盛り上げるためのエッセンスとして謎解きを使うのもありかもしれません。
 登場人物にもっと意味ありげな言動をさせて、誰が犯人なんだ→疑心暗鬼、みたいなミステリー風とかもありかと。
 ……うーん、シロウトが好き勝手言ってますね。
 申し訳ないです。まぁ聞き流してください。

 なんだか意味のあることを言えてませんが、このへんで。
 最後になりましたが、大変良い作品ありがとうございました。
 次回作にも期待しています。では。
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