キャラクターとは作者と物語の都合で必須要素以外がすっぽり抜けたあるいは削ぎ落された存在。ただし、都合の上だけであって本来は文章にならない部分でもっと人間性を保有している。
最近はキャラクター記号論が幅を利かせていますから、後半がすっぽ抜けている方が多いですが。
私の視点として、なろう論は売れる理由のひとつにはなりうるが、なろう論が売れる原因たりえない。先の質問にもかぶりますが、いろんな否定論不要論がラノベ界隈を通り過ぎてゆきましたが、結局固定化した概念というものはなろう論にはないんですよ。いわゆる『逆張り』がなろうの根源です。
個人的なつっこみとして、水戸黄門の件。これはデマです。ごく初期は印籠を出してませんでしたというのは別として、出さずに解決した回は存外にあるものです。
うろ覚えですが、おそらくクレームが入ったのは出さなかったからではなく、いつものご老公なら減刑の口添えをするレベルの事件の解決を放棄し将軍だったか譜代大名だったかに丸投げした回だったかと。
また、印籠を出すのは一種の見栄です。見栄というものは本来、インパクトを与えクライマックスや余韻を生むものです。別な言い方をすると空間を支配した瞬間を切り取り印象付けるのが見栄です。
よく言われるパターンやお約束という言葉は簡単ですけれども、見栄の効果について陳腐化させてしまいます。そして、迷妄してしまう。
成長について。
ブレるブレない以前にダメなパターンとして、根拠のない変化があります。
どんな物事にもトリガーがあってその先にそうなるべき事態というものがあるものですが、そのトリガーが存在しなかったりそもそも書いていなかったりすると問題です。
それを念頭に、ドラゴンボールのベジータで考えてみましょう。
理想>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>現実
くらいの差にコンプレックスがあることはしっかり見てきた方ならば知っているかと思います。このため、時々ネタキャラ、負け犬、生身スカウターなどと揶揄する読者もおります。
ですが、最終的にはこのコンプレックスさえ飲み下してしまいます。これは地球で生活する上でライバルと交流したり家族を持ったこと、どうしようもない敗北を重ねつつもやるべき時に勝ち星を得たりするうちに理想と信念が変化していったからです。正しくは理想が変化したのではなく、信念に新しい概念が付与されて大きくなったというべきですか。(邪悪凶悪にして孤高のサイヤ人の王子から、その血を継ぐ家族を守り育むために手段を選ばないサイヤ人系地球人へ)
こうした変化が成長です。
また善人が悪人に、悪人が善人に転化するのも変化や成長でありますが、その原因もベジータのように最終的に理解できる形になっていないとダメです。
キャラのブレとはもっと簡単なもので、天邪鬼やむらっ気のあるキャラは別として、設定忘れて違うことさせちゃダメ程度でよろしいかと。
ベジータですらちゃんと追っていれば変化の理由が理解できるのに、ブレているキャラに挙げられます。読者ってそんなもんです。
そんなところに悩み根本を突き詰めようとするのであれば、それはラノベではなく似非哲学であったり純文の方向に逝ってしまいますよ。