まず『ドラえもん』『水戸黄門』ですが、それは物語の類型が違うんですね。
『ドラえもん』はキャラも魅力的ですが、「ひみつ道具」のアイデアを中心に作られたショート・ストーリーというのが本筋で、キャラはそれを効果的に見せるためのツールとして位置づけられているように思います。
『水戸黄門』の場合、黄門様一行はドラマ論的には実は主人公ではありません。ふらっと立ち寄って事件を解決して去っていくという狂言回し的存在で、各話の事件の当事者ではないからです。
物語にはいくつかの基本形があり、それらのうちの有力なものとして、「失われたものを取り戻す」「欠けているものを獲得する」というパターンがあるのではないかと思います。戦乱という状況で失われたものは「平和」。魔王に拐われた恋人を助けにいく物語なら、失われたものは「恋人」。主人公が引っ込み思案な自分の性格に悩んでいるのなら「勇気」が欠けているわけで、それを手に入れるストーリーは成長の物語ということになります。
肝要なのは、その何かを手に入れるために主人公が主体的に行動することだと思うんですね。それがあれば、正念場で主人公が序盤と性格が変わったような行動をとっても、キャラがブレたという印象は与えないものなんじゃないかと。
類型が違うと最初に書いた『ドラえもん』でさえ、ドラえもんが安心して未来に帰れるように、のび太がジャイアンに立ち向かっていくというエピソードがあったじゃないですか。そういう行動をとった理由と想いがきっちり読者に伝わるように描かれていれば、ご都合主義ともキャラブレとも言われないという好例です。
で、そういうことを分かりやすく読者(視聴者)に伝えるためには、キャラの基本的な性格はシンプルに固定されていた方がいいんですね。これが現実の人間だともっと複雑で、あんなにすっきりと1足す1は2みたいな行動はとりません。だから人の心理は曖昧で分かりにくく、色々誤解が生じたりするわけです。
それが、生身の人間とキャラの違いでしょう。