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タイトル:人の心がわからなくても心を打つ作品は描けますか?の返信 投稿者: 手塚満

スレ主さんは創作者(志望)として、非常に危うい傾向がある恐れがあります。それは、

「欠点を1つでも見つけたら、それが全体の性質だと思って否定的になる」

というものです。スレ主さんとしては、他山の石、そうならないための戒め、みたいに思っておられるかもしれませんが、思考を含めて繰り返し行ったことは否応なく学習し、強化してしまいます。

結果、欠点が見えたら駄目出しする癖が自分にも向けられ、何も作り出せなくなります。例えば、何が面白いかを思う前に、つまらない点が気になってしまうようになると、書いては消しで作品完成にたどり着けません。つまらない点が1つもない作品など、あり得ないからです。

あるいは、書き上げはしたものの、ネガティブな感想に拘ってしまう。その感想に反論するか、貶されないようにちょこっと書き直すとかしてしまう。そういう振り回され方していては、もう自分の創作作品ではありません。

そうなる前に、いい面を真っ先に見る癖をつけたほうがいいでしょう。例えば、面白い点が1つでもあれば、作品足りえます。1人でも「面白かった」と感動しくれたら、たとえ9人が「つまらない」と評しても、作品としては成功です。

そうするためには、繰り返しですが、欠点を真っ先に気にする傾向を下げていかないとマズい。癖が身に着いて習い性になってしまうと、1点で全体を否定する思考が無意識に行われ、癖自体を意識することすらできなくなりますから。

人の心が分からないでは、というお悩みはおそらく表層的なことに過ぎません。おそらくは上述の傾向で創作に行き詰り、合理化として出てきた偽の悩みである可能性が高い。そういうものに拘泥するのは、むしろ害が大きいでしょう。

1.リアルでは臭いものに蓋をすべきでない

常識として善行を心がけるとして、悪行を隠せばいいというもんではないですよね。仰るように、実在児童の児童ポルノはマズい。被害を受けている児童あって成り立ってますから。かつ、児童ポルノ所有は購入したということであり、次の被害を出すための資金源ともなってしまいます。

例えば、「子どもは無条件に守られるべきだ」と言いつつ、児童ポルノを次々と購入していたら、何やってるか分かんないですよね。言行一致させろ、と非難されて当たり前となります。自ら強制わいせつなんかしたら、さらにアウトに決まってます。

少なくとも「表現と行動は一致させろ」となります。それがリアルでの基準でしょう。児童ポルノ所持や強制わいせつを非難するのは現実的に正しい。創作以前の問題です。

2.フィクションは臭いものに蓋をすべきである

フィクションだとどうか。実録的とか伝記とかは別として、ほとんどは想像のみからひねり出されたキャラとドラマです。フィクションの主人公は作者とは別人格、とはよく言われることです。作者が想像してみた人物だけど、作者じゃない。当たり前ですよね。例えば、フィクションの主人公はしばしば、作者にできないことをする。

例えば、異能持ってる作者はいません。しかし異能持ちのキャラはフィクションに目白押しです。超能力で壁をぶち破ったり、他人の心を読んだり、魔法の呪文唱えて炎を出せる作者が、そういう主人公を描いているわけがない。「美味しんぼ」の作者は、自分では「究極のメニュー」を調理できない(できるんなら、料亭やレストランやってるはず)。

主人公の持つ善性や正義、敵役・悪役が持つ悪徳、暴虐等々も同じです。作者が持っているものではない。あくまでも想像してみただけのもの。伝記的なフィクションでも、例えば釈迦を主人公に据えた話ってあるわけです。作者が仏教的な悟りを開いている可能性は極めて低い(というより、あり得ないと考えるべき)。ですが、描けるわけです。悟ることはできなくても、悟った人を想像することはできるから。

(悟りを開いた)ブッダを描くにはどうしたらいいか。臭いものに蓋をするわけです。幸い、大悟後のブッダについて伝承はいろいろある。それをネタとして、後は「悪事をしないブッダ」にしておけばいいわけです。作者が「もし自分がそのシチュにあったら、こうするかも」と試行錯誤で多数想像して話作りはするわけですが、作者の悪徳から出てくるドラマや、いやな感じがする話の流れとかは捨てるわけです。

その結果、理想的な面だけが残ります。聖者キャラなら完璧なくらい理想的にするでしょう。悩みながらも善性に向かうキャラならそれなりに間違い、過ちも混ぜておく(そして悩んだり、反省したり)。

それを描く創作者が善人でないとできない、なんてことはありません。現実を見ればよく分かる。詐欺師はたいてい、うさん臭くない。それどころか、立派で信用に足る人物に見えた、と被害者はよく言います。欲望まみれの悪徳尽くの内面を隠して、善人を演じるのが詐欺師であるわけです。

それが実害にならない事例は役者さんですね。善人に見える、あるいは悪人に見える演技はするけど、本人の性格や信念に基づくわけじゃない。役者本人の内面を表現しているわけじゃない。演技面の技術的なことに過ぎません。

フィクションの作者も同様です。作者とは全く関係ない、実在すらしていないキャラを想像で動かす技術の巧拙があるに過ぎません。正義のヒーローを描くとして、作者本人の正義が本物かどうかは関係ない。正義っぽいものを、それらしく描く技術があるか否かしか問題にはなりません。

3.人の心の機微は分からない

他人を過大評価すると、作者と描かれたキャラを区別できなくなる傾向が出そうです。その前段階として、スレ主さんは「自分以外の大多数(の創作志望者)は他人の心の機微が分かる、読める」と思ってないでしょうか。

そんなことが分かる人はいません。よく「私はエスパーじゃない」と言ったりするのが、それです。例えば、「なんで私が怒ってるか、分かる?」という傲慢な台詞があります。実はそういった本人からして、分かるはずと思ってない。少なくとも確信してない。無理難題と薄々感じるからこそ、相手を苦しめるために言いたくなるわけです。

それでも、他人の気持ち、思考を推測しているということは、よくあることです(推測だからよく外れもしますが)。それって何やってるかと言えば、シミュレーションです。「こういうシチュでは、相手はどう思うか」を、「こういうシチュでは、自分はどう思うか」で推測する。相手との付き合いが長いほど、データの蓄積が多くなり、精度は上がるかもしれません。しかし、依然として「自分はどう思うか」でしかない。

その傍証として、プレゼントを選ぶ傾向の調査事例があります。プレゼントはもちろん、贈る相手を喜ばせるためのものですし、贈る側も相手が喜ぶのは何かを考えています。しかし、しばしば贈ったもの自体については、喜ばれない(贈ってくれた気持ちは喜ぶけれど)。

なぜそうなっているかの調査事例では、「実際には相手の好みではなく、自分の好みで贈答品を選んでいる」ということが明らかにされました。例えば「この柄のハンカチーフを相手は好きなはずだ」と思っても、実際には自分が好きな柄であったりするわけです。

人の心の機微ともなると、もっと難しいわけです。ブッダみたいな、悟り開いて、人間の苦しみの根本まで分かっちゃったような人ならともかく、たいていの人には人の心の機微なんてわかりません。他人なら人の心の機微が分かるんだろう、と思うなら、ありもしないものをやっかんでいます。

4.それでも人の心は分かる

それでも人の心が分かる可能性がない、とは申しません。間違うことはあっても、分かると言えば分かる。なぜなら、他人の心をシミュレートで推測するのが可能なのは、自分に心があるから。

もし、仮にですが、心を持ってない人がいるとしたら、その人は「他人の心が分からない」と言って、間違いとはされないでしょう。しかし、心があるなら、分からないという言い訳は通りません。心の有無の検証は簡単です。何かを面白いと思うなら、心は確実にあります。何かを許せないと思うなら、やはり心はあります。面白いとか許せないと思う他人を推測することも可能となってきます。

くどいようですが、他人の心、気持ち、思考等々を直接読み取ってはいない点が大事です。シミュレーション技術であるわけです。
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