はっきり言ってしまえば、尾田栄一郎さんがそういうタイプの漫画家だってだけ。
感情を込めて描くから自分の感情を高ぶらせる手段の一つとして、「自分が泣けるくらいに」ってことじゃないのかな。
同じことをコメディやバトルシーンに置き換えても同じ話なんだろうけど、でもそうすっと、ドフラミンゴみたいなキャラクターを描くとき作者はあんな感じで他者を見下してたりするんですかね?ってトコで何かおかしな話になってくるんじゃないかな。
例えばワンピには無いと思うけど、猟奇的なシリアルキラーを描く場合は、作者も人を殺したくてたまらなくて殺人の楽しみを理解している、という話になっちゃわない?
でも、個人的にはそれも真実だと思っていて、要するに尾田栄一郎さんはそういうタイプの漫画家だから、彼にはダークな話が書けないと思うのよね。
少年漫画だから人死には描かないと単行本で語ってたけど(エースや白髭は死んだが)、そういう理由もあろうけど、それ以前に、おそらく尾田栄一郎さんは自分に理解できないものは描けないんだと思うよ。
最近訃報によって未完が決定した漫画ベルセルクみたいなダークファンタジーは、彼には逆立ちしても描けないと思う。
どっちが上位とかいうディスじゃなくてタイプの違いの話ね。
だから、尾田栄一郎さんはそうだ、というだけ。
恋愛したことないから恋愛が書けないって言う人たまにいるけど、そういう人はたぶん自分も尾田栄一郎と同じタイプだって誤解しちゃうかもしれんけど、これはあくまで「自分を高ぶらせる手段の一つとして」だから、誤解しちゃう人は書けないものの理由付けにしてるだけね。
だって、そういうタイプの人ならそもそも理解できない恋愛要素を入れようと思わないもの。
とはいえ。
>そうやって、自分の心が動くシチュエーションを小説に書いていってこそ、読者の心を動かしたり笑わせたりするのでしょうか?
そりゃ、基本的に創作って自己表現だから、自分を表現するものよ。
ラノベや漫画はそこにエンタメ性が入るために、自己以外の王道や流行などを考えてるだけであって。
ぶっちゃけ、物語ってある程度のテンプレートがあるから、感動も熱血もある程度形があって、別にゼロから凄いものを生み出さなくてもいいんだよ。
というか、書いても書いても微妙なのしか書けないって人の特徴は、まさに「ゼロから生み出そうとしてる」って人。
まず型として感動を与えやすい物語の形ってのがあって、そこに自分が感動したり心が動いた物事を当てはめて、読者層を考えて整形して、プロットにする。
だから私の場合は、読者と同じ視線になって私の自己表現を理解してもらって共感を与え、その共感が「感動を与えやすい物語の形」によって、私の自己表現に感動したという形に持っていってる。
感動自体は私がどうこうしてるわけじゃなく、一種のシステムかなって思ってますね。
刺さる言葉ってのも結構やりかたがあるんで。そういうセリフにはセンスも必要だろうけど、やり方覚えりゃ、頭ひねって考え抜けば超えられる程度のものですね。
ちなみに笑いの場合は、この「型」が、汎用的な型がほぼほぼ存在しなくて、あっても飽きられ済みな弱いものしかないので、自分で作ることになる。
なので、感動より笑いのほうが難しいです。自分なりのシステムを作らんといかん。