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タイトル:非オタクコンテンツをバカにするオタクについての返信 投稿者: 手塚満

オタクとて、非オタクから常に攻撃を受けてますよ。「アニメ好き?」→「はい」→「ロリペドめ」みたいなことは日常茶飯事です。

少し枠を広げると、メインカルチャーからサブカルへの攻撃です。サブカルは、低俗、非道徳、幼稚、芸術性皆無等々と言われます(自分としては「だからいい」のですけど)。

> アニメを持ち上げるために実写をバカにする
> ライトノベルのために純文学や一般文芸を
> アニソンのためにJポップやクラシックを
> 声優のために俳優やアイドルを

これらは逆方向の非難、罵倒も存在するわけです。そのことは、スレ主さんが「それこそオタクが長年受けてきた仕打ちのはずなんですけどねえ」と仰っているので、ご存じのはずです。

ですので、とりあえずご質問2つに回答しておきます。

> 1、非オタクコンテンツをバカにするオタクをどう思いますか?
→オタクコンテンツをバカにする非オタクと同類。

> 2、(一部の?)オタクがそうした行為に及ぶ理由は何だと思いますか?
→非オタクがそうした行為に及ぶ理由と同じ。

1.分類がおかしくないか?

アニメについて考えてみます。アニメって何でしょうか。絵が動く表現ですよね。実写を対照させるとしたら、写真が動くとしておきましょう。それらで表現される物語内容に、アニメか実写かは有意に影響するんでしょうか。

例えば、小説原作で映画化がされた「君の膵臓がたべたい」は実写版、アニメ版があります。どちらかが原作と違う物語になってたりしますかね。そんなことはないですよね。アニメ「だから」低俗だったり、実写「だから」つまらなかったりしますかね。そんなことあり得ないですよね。

そもそも論で言えば、分類が間違っているのです。アニメだから内容がこうなっているはずとか、実写だからキャラクターがこうなるはずとか、妙なことを思い込んでいる論が散見されます。繰り返しますが、絵が動くか写真が動くかだけの違いです。物語部分のコンテンツを左右するはずがないわけです。

2.すごいもクソも手法では決まらず、個々の作品に生じる好き嫌い

ですので、仰ることのうち例えば、

> 「アニメはすごい。それにひきかえ実写はクソ」

は、善意で考えるなら「アニメ作品ですごいのがあった。それにひきかえ実写作品で面白いものがなかった」という視聴体験と受け取るべきでしょう。動かすのが絵か写真の違いだけで、天下りに「すごい」か「クソ」かなんて決まるわけないですから。

その「すごい」「クソ」も「自分にとって好き」「自分にとって嫌い」でしかありません。もし、例えば興行成績で比べているとしたら、好き/嫌いですらありません。こけおどしか何かです。言ってる本人は何も楽しんでない。

3.批判に客観性や分析はあるか

もし「手法としてのアニメはこういう可能性を秘めており、それは実写にはなく」といったことを言い出す人がいたら、話を聞いてみてもいいでしょう。一応は客観性もある論や考察の可能性があります。例えば「アニメなら日常から広大な宇宙まで、同じ手間で表現できるから」とか「実写では人間そのもので、映像の情報量が半端ないから」とか。

そうでじはなく、例えば「みんなアニメがすごいって言ってるし、見てて興奮したし」みたいな話なら聞き流せばいいのです。単なる個人の感想です。アニメか実写かに関係なく、実のある作品ならその程度の感想で左右されたりしません。ましてや、大雑把な大枠「アニメか実写か」で個々の作品の値打ちが決まったりするわけがない。

4.いくら貶しても作品自体は不変

それどころか、誰が何を言おうが、作品そのものは少しも変わらないわけです。自分が見る/読むとして、他人が何を言ったかは全く作品に反映などされず、作品そのものを楽しむだけでしょう。もし他人の感想で作品が楽しめないとしたら、見る/読む人自身の心の中の雑音のせいでしかない。貶した人のせいですらないわけです。

5.貶す人に出てくる特徴

で、その貶す人なんですけど、強い特徴ありますよね。なんというか、偉そうです。おずおずと遠慮がちに欠点めいたものを指摘するって、ほとんど見ません。もし、そういうのがあったとしても気にならないはずです。

なぜ偉そうなのかと申せば、実際に偉いと思ってるから。(批判、論評等と称して)貶すって、麻薬的な魅力があります。その作品(及びクリエイター)より、自分がすごくなった気がするからです。批判する作品よりすごい論を展開していると思えなければ、なかなか批判を公言できるものではありません。

そして同調を求めてますよね。自分がすごいという確認が欲しい。それって自信がないのが根底にあります。貶してはみたけど、本当に大丈夫だろうか、間違ってないだろうか。公言してみないと分からないし、公言した以上は賛同が欲しい。それが批判対象の作者やファンの悔し気な様子であってもいい。

そうなるとどうしても批判のトーンやテンションも上がってしまいます。自信ありげに見えないと、賛同も得にくいと思うから、ますます尊大にもなるでしょう。自分は絶対無誤謬であり、批判対象こそが間違いだらけ。そういう雰囲気出したいわけです。自信がないから。

6.貶し続ける人に起こる劣化

ところが、そういうことを繰り返す人の言うことって、だんだんつまらなくなります。具体性がなくなっていったり、いつも同じようなことを言っているとしか思えなかったり。しまいには「そもそも作品を実際に見た/読んだのか」と言いたくなるような話しかしなくなったり。

そうなるのも理由がありまして、やったことは好むと好まざるにかかわらず学習してしまうから。つまらないから貶すわけですが、貶すにはつまらないところをよく見ないといけないわけですよね。あるいは嫌いだからよく見ず、「つまらないはずだから、こうなってるはず」の思い込みで考えるとか。

つまり、つまらないところばかり見たり、よく見ないことを繰り返す。結果、つまらないところばかり見る力と癖がついたり、作品が見えなくなって想像したイメージしか見なくなる癖がついてしまうのです。作品を楽しめないよう、自分を訓練してしまっているわけです。

7.スレ主さんも貶す人になってないか

言いにくいことですが、スレ主さんのご質問もそうなってないですか? なぜ貶す人をそんなに気にするんでしょう? 自分が作品を楽しむのに、全く関係ないはずです。しかし作品よりも貶す人に注意が行ってしまってないしょうか。批判が気になって、作品を楽しめなくなっていってないでしょうか。

もしそうなら大変に危険です。批判にかける手間、時間、労力を、是枝裕和監督、黒沢清監督、北野誠監督、園子温監督滝口竜介監督の作品を楽しむほうに使ったほうが楽しくないでしょうか。楽しめなくなるほうに努力するのは損ではないでしょうか。

8.批判へのカウンターで面白さを語れば己も高める

それでももし、どうしても批判に反論したいなら、スレ主さんがどう楽しんだかを述べればいいでしょう。面白くないという意見を封じるのは非効率ですし、下手すると相手の自由を否定します。作家志望者としては表現、言論の自由は重視のはずです。自分の大事にするものを否定しかねません。

ですから、面白さを語る。つまらないという意見に対する、最も有効なカウンターです。第三者として、「これはつまらない」→「いや、そんなはずはない」と、「これはつまらない」 vs 「これはここがこう面白い!」のどちらが刺さるか。後者ですよね。だって、どこがどう面白いか分かるんですもん。それに、面白がる人がいたら、何に面白がってるか興味が湧くのが人情です。口コミで人気が出るって、そういうパターンですよね。

そして何より、面白さを語っていると、面白さを見出す能力が高まります。面白いところに自然に目が行く癖もつきます。もし創作者になりたいなら、とても役立つ能力と癖です。

9.批判精神も必要だが控えめに

それでも、批判精神も大事ではあります。面白がってばかりいて、欠点が見えなくなるのもまずい。ですから、比率としては8:2くらいでしょうか。楽しむ手間暇8に対して、その1/4=2くらいを欠点を分析する手間に振り向ける。それくらいなら害はなく、むしろバランスのいい作品の見方ができるようになると思います。

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