SFやファンタジーにかぎらず純文学・私小説まで含めて、すべての小説は作者の脳内で作り出されたものであり、現実そのものではありません。したがって徹底的にリアリティを追求した小説であっても、作者の「作為」が微塵も入らないということは有り得ません。
また、純文学の作者が実体験や現実社会の事象にもとづいて作品を書いたとしても、そこには作品を通じて何かを読者に伝えたいという「意図」があるはずです。「意図」があれば当然、ストーリーの組み立てを「作為的」に「操作」することになります。
そのような「作為」「意図」「操作」は、あえて悪い言葉に置き換えれば「ご都合主義」に他なりません。作者の意図する方向にストーリーを誘導していることには違いないですから。
昭和のころの純文学作家は「いや、そういう操作をいっさい排除して、ありのままに書くのが真の文学だ」みたいなことを言ってましたけどね。そういう主張に対しては昭和の純文学界の中でさえ「そんなことは不可能。滑稽な思い込みに過ぎない。小説には作為があるのがあたりまえだ」という批判も出ていましたよ。
だいたい太宰治とか芥川龍之介とか、そうとう話を盛る作家じゃないですか。
という認識をふまえるなら、ファンタジーから純文学まで含めて実は「ご都合主義」が小説の本質だと言えます。
ま、これはあくまで私の考えなので異論はみとめますが、仮に上記の認識を前提にすれば、ファンタジー設定の現実との矛盾がどうのなんて議論は根底から崩壊してしまうんですね。
ファンタジーなんだから好きなように書けばよい。ただし、演出としての真実味と、作品世界内の最低限の整合性は必要。
また、異世界の文化や言語を考えるのは、不毛とか不毛じゃないとか議論するのがそもそもナンセンス。そうしたければそうすればよいし、したくないなら別にしなくてもかまわない。
それだけの話です。
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ということで、差し支えなければスレ主様の「フィクションの定義」をまずお聞きしたいところです。