①②③についてのあまくささんの理解は分かりました。
この、『理解』と言うのは『どうとらえるか』の話なので、『俺はこう思ってるけど、あまくささんには別の捉え方があるのね』という事で以降行きます。
④についてですが、これは①②の解釈に置いてあまくささんの仰っているように、動物にあっては『思考』『知性』と呼ぶべきものが存在しない、或いはあったとしても人間とは非常に異なる形で存在しているためです。
あまくささんが事実そうしたように、人間の知性と動物の知性(或いはそれに相当するモノ)を比較する場合、当然ですがどちらか片側を基準に持ってこざるを得ないといけません。
ですが、そうしてしまった場合に『基準』にならなかった側は比較するためにある程度形を変形させ、或いは情報を抜き出して比較せざるを得ず、それが結果として『情報が偏る』という事です。
これについては
>人間の特徴の一つに社会を作るということがあります。
ミツバチやアリも社会を作る生き物ですが、やつらはたぶん思考も学習もしないで本能だけで社会が作れるのだと思います。
>『人類の社会を基準にした時の動物の社会の話をしている』
これはYES。
と、仰られていますが、これを指して言っています。
既に何度も述べてきたように、人間以外の動物が作る社会・群れの構造は、人間とは全く異なったものです。それは、伝達・各個体の思考の形にあってもそうだし、『社会・群れ』そのものが生存面で持っている役割自体も、厳密には違います。
これを人間側をベースに比較することは、『偏って』いないと思いますか?
⑤
>連続性のないものは比較できないと考えるのは、比較して優劣を判定しようとしてるからではないでしょうか?
とのことですが、
単純< >複雑
で分けるという事自体が、優劣をつけていることが分からないあまくささんではないですよね?
いえ、もちろん厳密な定義の『優劣』ではないでしょう。
ですが、比較によって『どっちの方が、より○○である』と言うのであれば、どんな比較方式であれ、連続性が無ければ成り立ちませんよ。
絵に描いた餅と現実の自動車の大きさを比較する時、大体の人は『餅が描かれた紙のサイズ』か『車をそのまま絵にするとしたら、どのようなサイズになるか』を参照して大きさを比較するでしょう。
紙と言う立体を比較基準にする事で『立体』と言う連続性を持たせるか、『車を絵に描くなら』と言う発想を基に『平面』と言う連続性を持たせるかのどちらかのはずです。
ですが俺が言いたいのは、人間社会とハチやアリなどの社会を比較するにあたって、どちらにも平等な連続性を持たせるのは不可能であるし、どちらかに合わせようとすると零れ落ちる情報が発生するために、偏るであろうという話ですよ。
逆に聞きたい。数値的な物以外を含めたとしても、連続性のないもの、或いは『より○○しい』と形容できない物をどう比較するのか。
少なくとも『より○○しい』と表現できるものには。
あまり○○しくない< >より○○しい
という疑似的な連続性が用意できるはずです。
違いますか?
1)優劣をつけるための比較しか考えていないから、比較できないと思い込んでいるだけではないのか?
A.はい、そうです。逆に、比較にあって優劣を付けない事の方が難しいでしょう。
比較、或いは比べるという事は、辞書曰く
『他と対照し、異なっている部分やその差異の程度などを見定めること、という意味で用いられる表現。基本的には名詞だが「比較する」の形で動詞(サ変動詞)としてもよく用いられる。』
だそうです。異なっている部分やその差異、と言うのは『Aは○○ではないがBは○○だ』とか、『BはAより○○だ』という事です。
理屈の上で、『0か1か』なのか『50か100か』の違いはありますが、何らかを比較基準として、連続性のある物として仮定するのが「比較」という行為です。
2)特徴を抽出するための比較は、やや極論すれば、インスピレーションを得るためにやることです。ですから、必ずしも論理的でなくてもかまわないのだと考えます。
これについては、論理的で無くでも構わないのは事実です。
その上で、『構わないがしかし、生物オタクとしては論理的に気になる物がある』と言うのが、そもそものNo29です。何度も言った通り、これは余談です。
ですから、本来の議論にあっては、もちろん『論理的で無くても良い』し『どうでも良い』事です。
ですが、そこに対して俺が『別にどっちでも良いけど、俺の知ってる理屈から外れるなぁ』と言ったからのこのやりとりな訳で、論理的であることを捨てるのであれば、余談を続ける事には意味がありません。
人間の脳の異常発達については、俺のも一つの論に過ぎないです。
奇妙な発達をしていることは、間違いないでしょう。
思考実験の土台として「動物は実はきわめて高度な環境対応をしている」という観察は、きわめて意味があるのも事実です。
そして、人間の異常な発達について考えるためには、『動物の環境適応や生活・生態』と『人間の環境適応や生活・生態』とを最終的に比較する必要があることも分かります。
ですが、
①比較するにしては情報が人間側に寄りすぎているように見える
②比較するのであれば、他にもっと採用されるべき情報があると思うので、現状では不十分だ
③よって、あまくささんの書いたこの思考実験は、その結果をベースにして議論を進めるには、些か足りないように思う
と言う話です。
推定の上での人間の異常発達については異議はありません。
ただしそれは観察の結果であり、『推定するに至る過程』としてはあまくささんの上げた例は間違っている/不十分であると思うという事です。
有意義ではあるでしょうが、意義をなす形まで論理を詰め切れていないのであれば、それは『なんとなくそう思う』のと大差ありません。
No44における人間と動物の比較は、『あまくささんのはなしに則るなら』という事をやったまでです。
つまり、動物の社会側に寄せた標準での人間と動物の比較をすることが出来るし、それをした結果としての動物の能力や知性(らしきもの)の事を考えるのであれば、あまくささんの比較は『偏っている』という話ですよ。
当然ですが、意図的に動物側に偏らせた比較ですし、『俺からはこう見えているよ』と言う表現をするためにあえて比較した訳です。