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タイトル:ちょいと横槍を 投稿者: サタン

>読者と物語の距離感が遠くなりがちという問題点があると考えています。
物理的(?)には「読者とキャラクターの距離」ではないかなと私は思っています。
読者はそのキャラクターに感情移入して物語を体感するため、結果的に物語との距離も離れる。
故に、キャラクターを介さない書き方をする作家やそれに適したジャンルでは問題が起きないか最小限になっていると感じます。

読者と物語をつなぐ最もわかりやすいツールがキャラクターなので、一人称はもとより三人称でも誰かしらに視点を固定したほうが良い。一人に固定するなら一元視点、それを章ごとシーンごとで入れ替えるザッピング方式なら多視点。
しかし、別に「つなぐツール」はキャラクターばかりではないので、ここに「何か」を置くこともできる。
例えば「監視カメラ」とか「動物視点」とか。

ここで f-logさんに対しての指摘になりますが、
>この件について、「三人称なんだから、客観的事実は書いても問題ないでしょう」という考えの人はいないんでしょうか。いれば、意見を伺いたいです。
>子供が視点者で、地の文に大人でないとわからないような記述がある、というのは例外なんでしょうね。
「人称」の問題と「視点」の問題が、一部で混線してるような気がします。
三人称視点は第三者の語りなので、視点主が子供であっても「大人でないとわからない記述」は書けますし、書いても問題なく、例外ではなく一般的な三人称の用法だと思います。
それは、「子供の状況を第三者が代弁してる」ようなものなので、「子供が知らない事を書けない」というわけではないです。
私が書いた「序盤に世界観を説明するタイプの小説」はけっこう意地悪な例でした。他に例が思いつかなかった。
あの例は私の個人的な「視点のこだわり」がだいぶ現れた例で、三人称であっても視点を固定するならその視点から物事を描写すべき、という考えがあります。「大国が戦争をしている」という説明がなされる冒頭であるなら「王子は戦争の歴史について整理していた」という場面でなければならない。
とまあ、私の個人的な構成の美学ですね。ただの美学であってルールではない。

「三人称の視点はキャラクターにこだわらない」という話ですが、
以前私が挙げた例の「長い長い殺人」や「吾輩は猫である」は一人称ですが、一人称は「モノに人格を与えないとモノ視点にできない」のですが、三人称は人格を与えなくてもできます。
なぜなら第三者がそれを代弁してる形に出来るからです。
私は神視点を古いものとして見向きもしていませんでしたが、今回のスレッドにおいてノンフィクションや歴史ものにおいて有効な要素ということに気づけました。
そしてそれを考えると、この両ジャンルは「事実・史実」にスポットを当てている、それを介して読者を物語に引き込んでいるので、キャラクターを介さない神視点が技術として成立すると考えます。
さて。では「長い長い殺人」や「吾輩は猫である」を三人称で書いたらどうなるかと考えると、財布や猫は人語を理解しないため、この地の文は「何者か」を意識させます。
すなわちそれが現代的神視点ではなかろうか。
これら例は「それは猫・財布視点の三人称一元視点・多視点だろ」とすぐにわかりますが、作家としてそれを伏せていたら読者にはわかりません。
特に財布視点だなんてわかるわけもない。何者かの神であるとしか言いようがない。そのうえ、この「モノ視点」を多視点のごとく場面ごと別モノに変えていったら絶対にわからない。
するとこれはパッと見で我々の目には「あたかも視点に無頓着なような書き方、にもかかわらず臨場感をも演出できている」と映るのではなかろうか。
うーん。思いつきに過ぎない考えだろうか……。

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