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返信する!以下は元記事

タイトル:「わかる」前提で話を作ってしまうの返信 投稿者: 手塚満

ご質問の内容は、既に複数の良回答にもあります通り、実によくあることだと思います。

もし、多数の読者(や視聴者)のうち、たった1人とか、ともかく少数が分からないと言い、他の大多数が何も言わない、あるいは分かったと反応しているなら、気にすることはありません。多数が相手の場合、1人たりとも分からないようにもしない、なんてのはほぼ不可能です。そして、分かった人は黙っていることが多いですが、分からなかった人はその事情を伝えたくなるものです。

問題は過半とか、無視できない割合で「分からない」と反応された場合ですね。これは作品・作者側に問題があると判断すべきでしょう。原因はさまざまです。対象読者(視聴者)層を間違えても、分からないという声多数になったりします。作品を発表する場所、アナウンス等の間違いです。作品自体をどうこうする必要はない。

しかし、なろうなどの投稿サイトでラノベだとして発表して、「分からない」が多数派になったら、作品自体に問題が生じている可能性が高いです。分からないという苦情多数の、ほとんどのケースが作品の問題かもしれません。

その多くの場合、作者と読者(以降、文章作品に限った話にします)の情報の非対称性が問題になっているようです。情報の非対称性自体はなくすることはできません。作者はどういう話、シーンを考えてから文章化するわけですし、読者は文章からシーン、ストーリーを理解していくわけです。やっていることが真逆です。

そのため、作者が作品情報的に読者と同じ土俵に立つことは不可能です。それでもやろうとしないと分かる文章は書けません。よく「頭を真っ白にして読み直せ」といったコツが言われますが、読者目線になってみろということかと思います。

一般的にこうすれば問題を回避できるといった手段は思いつきませんので、よく見かけるケースをいくつか挙げてみたいと思います。

1.情報密度が濃すぎる(詰め込み過ぎ)

状況がよく分かっている作者が先導し、読者が付いて行くことになるわけですね。学校の授業ですと、先生が説明し、生徒はまずよく聞いて、聞いた内容を整理し、理解するよう努めます。ですが、しばしば経験することですが、立て板に水とばかりにすらすら述べ立てられたら付いて行けない。どこかで躓いて、以降は分からなくなる。先生は「どこが分からないんだ」と不満を言う。

生徒からしたら、聞くのが未知のことばかりだからです。分かる生徒がいるとしたら、予習で既に分かってしまったか、先生以上に賢い生徒か、でしょう。説明する側は速度を落とさないと、説明される側がついていけない。たとえ、説明自体が完全なものであっても、です。このことは、徒歩での観光ガイドなどでも起こり、先導する者(ガイド)は普段の6割以下の速さで歩かないと、後続(観光客)がついて来れないようです。ガイドがどっちに行くか、事前には知らないからです。

文章でいえば、情報密度が濃かったら、読者はついて来ません。頑張ったらついて来れるようなものでもいけません。楽しみたいんですから、勉強するが如き態度が必要な作品なんか読みたくないですので。

例えば、分厚い世界史年表を渡されても、一読するだけでも普通は嫌でしょう。既に世界史をよく学んでいて興味もあるのなら、読むかもしれません。好きな作品の設定集なら読めるのと同じです。ですが、普通はそうではない。

それでも終わりまで読んでみたとします。しかし、何が何年に起こったか、普通は覚えているわけがありません。何年に何が起こったどころか、出来事の順番も覚えてないでしょうし、出来事として何があったかすら断片的な記憶になるはずです。

理解してもらうには、覚えられるように伝えねばなりません。覚えてもないことは理解できるはずがないですから。大事なポイントは強調したり、繰り返すことが必要です。その一方、理解できないことは覚えられないことも注意が必要です。平易さが大事なゆえんです。

2.作者が感想を言ってしまっている

もしかすると、このパターンが最も多いかもしれません。ちょっと極端な例で説明してみます。決め台詞です。カッコいいと言われ、印象に残るものですよね。だから、作者になってみると主人公に決め台詞を言わせたくなる。作者としては万感の思いを込めて、主人公に(どっかで聞いたような)決め台詞を吐かせる。多数の敵を前に「世界を敵に回してでもヒロインを救うんだ」とかですね。ですが、読者に感動はおろか、感心すらされないことが多い。

もし、ある2人が同じ名作を読んでたら、作中の「世界を敵に回してでもヒロインを救うんだ」はその2人の間では、その台詞を言うだけで2人とも盛り上がれます。ですが、ストーリーからして知らない人にその台詞だけを言っても、きょとんとされるだけなのは明らかです。せいぜい好意的でも「どの作品の話だろう?」と思うくらいでしょうか。

決め台詞って、その台詞を主人公に言わせるために、手間暇かけて段取りするわけですよね。かつ、決め台詞の後は、その台詞が有効に働くよう、フォローもする。そうやって初めて、決め台詞が輝くわけです。

だから、大事なのは決め台詞の前後。だけど、感動した(と思える)のは決め台詞になる。感想としては「決め台詞が実にカッコよかった」ということになります。読者の感想ならそれでいい。作者の工夫とかは関係ない。

ですが作者ならば、読者に未知の物語を提示するわけですよね。作者は物語を構想し、もし読者が読んだらここで感動、とかストーリー、ドラマを設計する。当然、作者だって感動はする。そうでないと読者の気分をトレースできず、物語を設計できない。

しかし、作者の感動が邪魔になるんです。感動したところをつい頑張って書いてしまう。感動した部分を書くために、その前後を端折ったりもする。だって、相対的に地味なんですから。結果、作者が感動したところだけが書かれることになる。下手すると、決め台詞だけ連発されたりする。

それではダメなんです。作者の感動した気持ちだけを読者にぶつけることになってしまう。決め台詞であれば、どうしてその決め台詞がカッコいいかという理由になる部分を丁寧に書かないといけません。決め台詞を聞きたくなる気分にどうしてなったか、決め台詞の後にどうして胸がすくような気がするか。つまり決め台詞の前後であり過程です。

決め台詞自体は割とどういうものでも良かったりします。「世界を敵に回してでも」なら、要は「何が何でも」です。決め台詞前後の状況に沿うものなら、何でもいい。「うるせえ」でもいいし、黙って行動で示してもいい。主人公が読者の期待通り(想定外を含む)の選択をするなら、なんでもいいわけです。

ですが、あるフィクションで感動して、自分も作ってみたいと思った場合、ついつい自分が何に感動したかを強調してしまう。読者は作者の空想の感想を聞かされる気分になってしまう。そういう失敗は割とよくあると思います。

ただ、作者の感想、感慨を作中に書かないというのはほぼ不可能でしょう。ですが、文章量、あるいは印象の強さとしては5パーセント以下に抑えるべきです(0.0何パーセント以下という説もあるらしい)。95パーセント以上は描写であるべき、ということになります。

3.持っている基礎知識の相違

作品を読む読者はいろんな意味で白紙です。作品について知らないのですから当然です。どんなキャラが何をするかすら知らない。読んで理解していく、というのは既に申し上げました。

作者はどんな作品を書くか、自分で選ぶわけですよね。当然、ある程度は自分が知っていることから選ぶ。必要なことが出たら調べもする。自分にある程度の基礎知識があることを調べるんですから、調べたことは比較的容易に分かる。

読者は選べません。だから先に申したように、もし知識が作者程度にあっても、何が出てくるか、何と何をつなげたかは読んでから知るわけですから、作者より理解速度は大幅に低下します。

それ以上に、そもそも作品内の知識体系からして初めであるわけです。「中高の文科省学習指導要領の範囲内で作りました」なんて、そんな作品なら別ですけど、そんなのは教科書以外にはほぼないでしょう。

作者の得手不得手が作品に自由に反映され、読者の得手不得手とはたいてい異なる。それも大幅に。読者は作者が示すものを受け取る以外にない。

しかし読者は勉強のために作品を読むわけではない。ただ単に楽しみたいだけです。余計なことは読まされたくないし、分からないことを読みたくもない。そう堂々と主張する権利が読者にはあります。

エンタメ作品で「そんなことも知らないのか」とは作者としては言うべきでも考えるべきでもありません。平易さが足りなかったか、単純化をミスったか、事前の説明が不足かつまらなかったか、等々の反省材料にすべきものです。伸ばすべきは作者が言いたいことを分かるように書ける能力であって、作者が制御不能な読者の読解力や知識ではありません。

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