以下のように述べられているのがちょっと気になったので、追記させてください。
>環境というのは育った家や周囲の人だけを指すのではなく、遺伝子をはじめ、過去の他人との会話、本人他人含めた一挙一動すべてだと思っています。これは書いてなかったですしそういう解釈ではないほうが多数派だと思うので誤解されても仕方なかったと思います。
>ただ私は自由意思は存在しない派なので、もし同じ考えでなければどこまで話しても平行線になりそうです。
その考え方は、いわゆる決定論ですよね?
人間の自由意志も含めてすべての事象は因果律に支配されており、偶然性の入り込む余地はないという考え方。
人間が主観的に自由に選択して行動していると感じたとしてもそれは錯誤に過ぎず、実はあらかじめ決定しているシナリオの通りに動かされているにすぎない。そういう考え方。
もしガチでこういう考え方を前提にして意見を述べていらっしゃるのだとしたら、本当に平行線になってしまいます。
というか、何を議論しても無意味ということになりかねません。
* * *
一つ、極端な質問をしてみます。
極端すぎるのは論点を明快にするためなので、お許しください。
あなたが街を歩いているときに、凶器をもった暴漢に襲われたとします。どうしますか?
1)逃げる。
2)反撃する。
3)何もしない。
4)その他。
その他も含めれば、あなたは1~4のうち、どれかの行動を選択するものと思います。
それは自由意志ではないのでしょうか?
あるいは本人は自由意志によって選択したと思い込んでいても、それはあらかじめ決められた行動をなぞっているにすぎないのでしょうか? もしそうならば、3を選択してもかまわないことになりますよね? と言うか、仮にあらかじめ3と決まっているのなら3以外は選択できないことになります。
3を選択した場合、高確率であなたは死ぬか大怪我をすると予測されます。
次に、あらかじめ1の行動(逃げる)をとると決まっていたとします。その場合でも、あなたは何もしないでボンヤリしていてもいいことになりませんか? 1に決まっているのなら、それでも結局逃げてしまうわけですから。
私はへんな屁理屈を言っているように聞こえるかもしれません。
しかし、自由意志は存在しないと言い切ってしまうと、そういう「へんなこと」になってしまうんですよ。
ですから私見としては自由意志そのものは存在すると思いますし、人間はそれにもとづく選択もできるのだと考えます。
ただし、選択し行動した結果に対しては必ずしも自由ではない。もしくは、良い結果につながるかどうかは予測不能。
そういうことなんじゃないかと思うんですね。
よろしければ、どうお考えなのかお伺いしたです。